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2018年01月25日

(増補版)575E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年2月)

題:(増補版)575E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年1月22日、2世、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が
 死去した(78歳)、歌舞伎脚本作者
  江戸歌舞伎を大成し、近代の劇への橋渡しをした人。
  世話物を得意とし、散切(ざんぎり)物・活歴(かつれ
 き)物も試みた。
  「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」「三
 人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」「天
 衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」などを
 書いた。
  (参考)散切物:明治維新以降の風俗を世話物として
     取り入れた歌舞伎の演目。
  (参考)活歴物:活歴は活 (い) きた歴史の意味で、
     明治初頭から明治20年代にかけて、9世市川団
     十郎によって上演された史実尊重の時代狂言。
1893年1月23日、アプト式機関車が試運転された。
  貨車2両を連結して推進運転を行った。
  横川~熊ノ平間に40分を要し、熊ノ平~軽井沢間に30
 分を要した。
  しかし、故障がおきて試運転は中止された。
  翌日以降、故障箇所を修理して、また、試運転を続行
 した。
  しかし、牽引が40トンを超えて連続運転すると缶圧が
 下がって、途中で停止してしまった。
  これは、指導したイギリス人が、アプト式の蒸気機関
 車の運転経験が無く、運転の操作方法を間違ったことに
 よった。
  この様な失敗を繰り返しながら、日々、工夫を重ね、
 練習運転を重ねた。
  3月末に至って、やっと営業運転のめどが立った。
  この様な経緯の中、この試運転の苦労が一般に伝わり、
 1893年2月、衆議院で、この碓氷線が、鉄道輸送の任に堪
 えられるか否か等について議会質問がなされた。
  井上鉄道局長官の答弁は・・、
  「アプト式は、近年の発明であるため、雇外国人に経
 験者がおらず、1月より、日々、試運転を行っている。
  現時点では、当初の目的に達していないが、鉄道とし
 ての効能を失うことは絶対に無い」・・と答弁している。
1893年1月31日、島崎藤村や北村透谷らが参加して、ロマン
 主義の月刊文芸雑誌「文学界」を創刊した。
  巌本善治の『女学雑誌』から派生し独立した同人雑誌。
  1893年1月~1898年1月まで58冊が発行された。
  島崎藤村、北村透谷、平田禿木、樋口一葉、上田敏、
 田山花袋らが書いた。
  1949年3月から、文芸春秋新社(後の文芸春秋)の発行
 する商業文芸雑誌へとつながっている。
1893年1月31日、日比谷公園が開園した。
  16万1636平方メートル(東京ドームの12.4倍)の都立
 公園。
  元の大日本帝国陸軍近衛師団練兵場である。
  付属として、日比谷公会堂、大音楽堂、小音楽堂、陳
 列場、日比谷図書文化館、テニスコート、児童遊園、軽
 飲食店、資料館、緑と水の市民カレッジ、松本楼など・・、
  震災時に清廉な水道水が無償で給水することが出来る
 災害用給水槽(水量:1500㎥)が設置もされている。
  ここに、幕末の時点、北側に御用屋敷・萩藩毛利家・
 佐賀藩鍋島家、南側に三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福
 知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩
 北条家の各上屋敷があった。
  明治になると、大名屋敷が廃され更地となって日比谷
 ヶ原と呼ばれた。
  1871年に、陸軍操練所が設置された(1885年、日比谷
 練兵場と改称)
  1893年、東京市が軍から払い下げを受け、日比谷公園
 と命名された。
  1901年、公園の設計が、種々なされたのち、ドイツ留
 学を終えたばかりの本田静六の案で決定され、
  1902年4月、着工・・
  1903年6月1日、仮開園した。
1893年1月、衆議院で軍艦建造費が否決された。
  第4議会が、軍艦建造費支出をめぐって政府と民党が対
 立した(~2月)
  この頃の世界は、アメリカ・ヨーロッパによる植民地
 化の真っ盛りであった。
  このような時、日本は軍艦建造費で対立し、否決され
 ていた。
  8年前の1885年、日本は内閣制度を発足させ、伊藤博文
 が初代の内閣総理大臣になっていた。
  憲法発布は、この4年前の1889年だった。
  幕藩体制が壊れ、やっと近代国家ができて来たという
 この時だった。
  中国の清は、どんどん大艦(大型軍艦)を建造してい
 た。
  政党も未発達な双葉マークの議会だった。
  この翌年、清と対決する日本が、この時、あった。
  1890年の第一議会から、日清戦争が始まる1894年の第
 六議会まで、議会と政府は、毎回、激しい対立を繰り返
 していた。
  第一議会の1890年は日本は凶作で米騒動が起き、産業
 界も恐慌で綿紡績業の操業短縮があると状況。
  世界も恐慌で生糸の輸出も駄目という時だった。
  第二議会の1891年は、景気は少し良くなったものの銀
 価格の低落で経済は波乱含み、生糸の輸出も少し好転し
 たがまだ不十分の状態、その中、政府と民党とは激しく
 対立し、伊藤博文の政治も足を引っ張られ、挙国一致で
 はなかった。
  1892年の第三特別議会は、選挙の大干渉でもめ・・、
 選挙戦で殺されるものが多数出るという状態。
  それでも、民党が多数当選し、政府側が敗れるという
 状態だった。
  議会は、当然のごとく、選挙戦での政府の激しい干渉
 が問題化して、もめ、激しい対立となった。
  政府は、軍艦建造費、製鉄所設立費、鉄道関係法案を
 提出するが、ことごとく否決されていた。
  しかし、中国の「膨大な軍事費による軍拡は見えてい
 る」という日本だった・・まさしく今・2017年~2018年
 頃の日本の状況とまったく同じだった・・
  もし、日本が、中国・清に敗れていたら、韓国・朝鮮
 の様に、日本も冊封されて・・属国の様になり・・卑劣
 な接待でも、何でもやって、女性方には可哀想だが、ご
 機嫌を取らなければならない属国になっていただろう。
  そのような時、日本の議会は、まだ、未発達で、もめ
 ていた。
  その様にならずに済んだ方々の働きが、どれだけあり
 がたかったか・・である。
  ただ、戦争反対と天の神に祈っているだけでは駄目な
 のである。
1893年1月、鉄道小包郵便取扱手続が制定された。
  この明治時代から、長年、郵便小包とともに小口荷物
 輸送の一翼を担っていた。
  鉄道小荷物輸送は、旧国鉄だけでなく地方や、大都市
 圏の一部の私鉄でも行われていた。
  国鉄の小荷物営業に関連して、駅構内での荷物積み下
 ろし業務や、トラックによる駅からの荷物集配業務等を
 受託する国鉄の関連企業があり、「鉄道荷物会社」と呼
 ばれていた。
  日本全国で21社存在したが、鉄道小荷物営業廃止の影
 響を受け、転廃業する社も生じた。
  存続している企業には「ジェイアール東日本物流(旧・
 東京鉄道荷物)」「ジェイアール西日本マルニックス(
 旧・大阪鉄道荷物)」等がある。
  しかし、1927年、鉄道省と運送業者が始めた集荷・配
 達を行う特別小口扱(宅扱)が日本最古の宅配便にあた
 るとされている。
  1976年(昭和51年)1月20日、大和運輸(現在のヤマト
 ホールディングス・ヤマト運輸)が「宅急便」のサービ
 ス名で行ったのが、宅配便のサービスの始まり。
  最初は関東地方のみで、1日目の取扱量は11個だった。
  通販へつながった経済効果は絶大。
  偉業(いぎょう、偉大な事業、優れた仕事)のスター
 トだった。
1893年2月1日、御真影・教育勅語の奉置方を各区郡役所、
 および、学校に布達した。
  学校への「御真影」下付の最初は、1874年5月だった。
  天皇陛下の巡行で、徳川将軍家に代わる新しい時代を
 民衆に知らせた。
  また、一般民衆も「参拝」「謹拝」をした。
  また、「県庁正殿二玉座ヲ設ケ県官順序ヲ遂フテ拝賀
 ス 但シ四日ヲ期シテ全管ノ衆庶二参庁参拝ヲ許ス」
 〔1874 (明治7 )年1 月, 筑摩県〕の史料の様に、御
 真影参拝がすでに行われていた。
1893年2月1日、プッチーニの歌劇「マノン・レスコー」が
 イタリアのトリノのレージョ劇場で初演された。
  当時、広く知られた恋愛小説の原作のオペラ化とあっ
 て好意的に受け入れられた。
  そして、これによって、、プッチーニは、「新進気鋭
 の作曲家」として高い評価を得た。
  フランスの小説家アベ・プレボーの代表作で、 1731年
 に、半自伝的小説『ある隠遁した貴族の回想と冒険』 (
 7巻) の最終巻として出版された。
  正式題名は、『シュバリエ・デ・グリューとマノン・
 レスコーの物語』・・、
  華美と贅沢を好み、愛と本能のままに生きる美少女へ
 の愛のために一切を捨て、破滅する聖職者志望の名門出
 の青年の悲恋物語。
  心理描写にすぐれ、この時代の代表的恋愛小説だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この様な失敗を繰り返しながら、日々、工夫を重ね・・
   そして、震災時に清廉な水道水を無償で給水する
   そして、もし、日本が、中国・清に敗れていたら、韓国・朝鮮の様に、日本も冊封されて・・属国の様になり・・
       卑劣な接待でも、何でもやって、女性方には可哀想だが、ご機嫌を取らなければならない属国になっていただろう。
   そして、ただ、戦争反対と天の神に祈っているだけでは駄目なのである。
   そして、討究し、奥深さが、育まれていた。
   そして、人々は安心して生活の向上を目指した、働いた。
   そして、日本は、世界から「極東の憲兵」という言われ方をした。
   そして、その国が歴史と言葉を失う時に、その国は滅びる。
   そして、まだ、あの憲法なの・・?
   そして、NHKが、中国寄りの放送態度をする。
   そして、どの国も、その様に「力づくで流入を防いでいる」。
   そして、日本は・・ここが狙われている・・
.
427年、インドのナーランダに佛教大学が建てられた。
  インドのビハール州、ナーランダ中部にある世界最古
 の大学の一つ。
  ナーランダの佛教大学の遺跡は、予想をはるかに超え
 る広さを持っている・・広大で深遠なものだった。
  その大規模さは、日本の国立大学の比ではない。
  その遺構の規模は、縦5キロ、横11キロにおよぶ・・、
  1600年も前に、よくも造ったものと感嘆する・・、
  その遺構内には、赤レンガの大講堂から会議場、僧坊、
 教場、研究室、礼拝場などが見事な配置をもって建ち並
 ぶ・・、
  そして、そこで、数千人の学僧が集まって哲学や芸術、
 そして、医学や数学を討究(とうきゅう、深くつっこん
 で研究すること)していた。
  仏教の奥深さは、この様にして育まれた。
  インド政府が苦しい財政にもかかわらず、これを土中
 から1000年ぶりに完全に発掘した・・、
  偉大な事業だった。
  この事は、インド国民の方々に、どれほど強い誇りを
 抱かせたことか・・
  また、人智の奥深さを極める行為がなされた史実が明
 らかにされたことに、世界は感謝して、感嘆した。
  如何に古代インドが、先進的で素晴らしい文化の国で
 あったかを、哲学の王国であったかを、再び、目の前に
 立証された。
  この地に立つと、あらためてその偉大さに実感する。
  玄奘法師のような中国の学僧たちが、何故、あれほど
 までに危険を冒して、インドに行くことを望んだかが納
 得される・・
  世界最高の真理探究の地であった。
  憧憬と期待が・・真理を求める学僧たちの心を揺さぶ
 ったインドだった。
  この地は、ゴータマ・ブッダが訪れ、マンゴーの木立
 の下で説法をした。
  ここは、居住型の学校で、10,000人の生徒と、1500人
 の教員が、理想的な環境の中で思索し、探求の世界に居
 た。
  チベットの記録によると、インドの仏僧・竜樹(150年
 ~250年頃)が講義を行なったとされている。
  645年の唐の時代には、唯識派のシーラパドラが、玄奘
 三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部におよぶ経典を中国に持
 ち帰った・・しかし・・、
  1193年、イスラム人の侵略によって大学は破壊された。
  (参考)竜樹:りゅうじゅ、インド仏教中観(ちゅうが
     ん)派の祖・・仏教を大成した。
      南インド出身・・若くして一切の学問に通じ、
     欲望は苦の原因であると悟り、出家した・・、
      出家して仏教を学び、後、ヒマラヤ山中で老
     比丘(びく)より大乗経典を与えられ、大乗仏
     教の基盤をなすことになる・・「
      「空(くう)」の思想を哲学的に基礎づけ、
     後世の仏教思想の全般に大きな決定的影響を与
     えた。
      一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の
     注釈書を多数著して宣揚した。
      著作:「中論頌(ちゅうろんじゅ)」「大智度
     論」「十住毘婆沙論」など。
      サンスクリット名:ナーガールジュナ
.
1671年、菱川師宣は、町人の風俗を描いた浮世絵を始めた。
  (参考)菱川師宣:ひしかわもろのぶ、1618年~1694
     年、浮世絵を確立した最初の浮世絵師
      それまでは、絵入本の単なる挿絵でしかなか
     った浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一
     枚の絵画作品にまで高めるという「重要な役割」
     を果たした。
      初めは、無記名で、版本の挿絵を描いており、
     初作は、1671年に刊行された噺本「私可多咄(
     しかたばなし)」であるとされている・・、
      翌年・1672年に、墨摺絵本「武家百人一首」
     (千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師:
     菱川吉兵衛)を明らかにした。
      その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・
     絵本を数多く手がけた。
      「浮世百人美女」(1682年)刊「浮世続」(
     国立国会図書館所蔵)、(1683年)刊「美人絵
     づくし」(ボストン美術館所蔵)などに、市井
     の女たちを描写し、評判高く、生涯において100
     種以上の絵本や、50種以上の好色本に筆をとっ
     た。
  江戸の町、世は、戦いのない平和な社会だった。
  武士や庶民の間には学問が発達した。
  武家の社会では、儒学が時代を安定にして、平和な社
 会の構築に役立つとして、奨励された。
  朱子学の林羅山、陽明学の中江藤樹、
  「農業全書」を著(あら)わして農学を集大成した宮
 崎安貞、
  方程式の解法や円周率を発見したりし、数学(和算)
 を確立した関孝和など・・数限りない偉人が輩出される
 社会だった。
.
1700年頃、江戸の社会になって・・平和な社会が到来した。
  人々は安心して生活の向上を目指した・・働いた。
  江戸幕府の中央政府も、また、各藩の地方政府も農地
 の拡大に努めた。
  干潟や河川敷などで、新田が、どんどん活発に開発さ
 れた。
  また、大規模な新田開発が各地で行われた。
  江戸幕府が開かれてから100年の間に、全国の農地は
 2倍となった。
  また、農機具の改良・開発も行われた・・
  深く耕すことができる「備中鍬(びっちゅうくわ)」
 や、脱穀が能率よく素早くできる「千歯こき(せんばこ
 き)」などができ、農作業の能率が向上した。
  干鰯(ほしか)や油粕(あぶらかす)の肥料も用いら
 れるようになった。
  また、染料の原材料である藍(あい)や紅花(べにば
 な)、
  そして、麻布の麻や、綿布(めんぷ)の綿(わた)、
  菜種油(なたねあぶら)の菜種などの商品作物の栽培
 も広まった。
  また、養蚕(ようさん)も盛んになった。
  この様な農業の発展を受けて、他の産業も発展した。
  各地の城下町の建設も進み、家屋の建築も盛んで、木
 材需要も高まり・・林業が盛んになった。
  肥料の干鰯需要も活発で、その大量生産のため房総(
 今の千葉県)での網による漁業が盛んになったり、
  土佐(今の高知県)のカツオ漁やクジラ漁、
  そして、北海道のニシン漁やコンブ漁、
  瀬戸内海の塩田の製塩業も発展した。
  日本中が大開発の時代だった。
  また、産業の発展に付随して必要な交通も発達し、道
 路も拡充して行った。
.
1900年7月13日、アムール川(黒竜江)事件
  義和団の乱(1900年)が発生した時、義和団員の一部
 が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(現:ロシア・
 アムール州州都)を占領した。
  かねてから、満洲全域への進出を計画していたロシア
 は、義和団と欧米列強を相手にしている清国側が、満洲
 に関わる余裕はないと見た・・考えた。
  そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル号は、
 河上より銃撃を開始した・・そこで戦端は開かれた。
  何事も強引なロシアだった。
  1900年7月16日、ロシアは、ブラゴヴェシチェンスク事
 件で、混住する清国人約3,000名を、同地から排除するた
 めに虐殺した。
  さらに、1900年8月2日~8月3日にかけて、黒龍江・
 璦琿(あいぐん)事件では、義和団に対する報復として
 派兵されたロシア兵約2,000名が、黒河鎮に渡河上陸して、
 またまた、清国人を虐殺した・・この様な事を繰り返す
 ロシアだった・・、
  その結果、この時期に、清国人の約25,000名が、ロシ
 ア兵に虐殺された。
  死体は、アムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のよう
 に川を下って行ったと言われている。
  これらの事件によって、江東六十四屯から清国人居留
 民は一掃された・・清の支配は失われた。
  (参考)江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん):
     アムール川(黒竜江)の左岸(東側)に広がっ
     ていた広い地で中国人居留区。
      ロシアの都市ブラゴヴェシチェンスクの南側
     (ゼヤ川より東)の一帯に64ヶ所の村落があっ
     たためこう呼ばれた。
  これらの事件と、これに続くロシアの東三省の中国東
 北部の、ロシアによる荒っぽい占領・・そして・・
  都合のよい時には日本に助けを求め、また、都合の悪
 い時は干渉するというヨーロッパ・アメリカの列強の干
 渉・三国干渉以来、高まっていた日本での対ロシア警戒
 感が、特に、一層、高められた。
  当時、世界最大のロシア陸軍と言われていた・・、
  この軍隊でもってロシアは、さらに、アムール川から
 南下をして行こうと、その機会を狙っていた。
  日本は緊張し・・世論も緊張した、そして、反ロシア
 大集会が、日本各地で開かれた。
  ロシアは、次に、朝鮮を狙い、そして、朝鮮を蹂躙す
 ると見られた・・
  シベリアを東へ東へと領土を拡張して来たロシアの領
 土欲は・・留まることを知らなかった・・止まりそうも
 なかった。
  そして、かつての「元の襲来」の様に、その次は日本
 へ侵略して来るに違いないと見られた・・その様な恐怖
 の世論の見方だった。
  そして、ロシアの行動が、日本の安全保障上「非常に
 危険な状況」となり、やむなく日露がぶつかり合う事に
 なって行く。
  中国の各派は、一致して、「ロシアの江東六十四屯占
 領の合法性を認めなかった」。
  第二次世界大戦後の、1991年以降・・
  中国とロシアが、長年の領土紛争に終止符を打つべく
 アムール川沿いの国境画定を行った際、
  江沢民総書記とボリス・エリツィン大統領による条約
 の中で、中華人民共和国は、正式にこの地に対する主権
 を放棄すると承認した。
  なお、中華民国(台湾国民政府)は、法律上は江東六
 十四屯に対する主権を「まだ放棄していない」。
  中華民国の政府が認める地図の中には、この場所は今
 でも「中国領」として表示されている。
.
1900年8月4日、北清事件(北清事変)・・天津を出発し、籠
 城者の救出へ向かった。
  列強各国が、日本に助けを求めて来た(ある意味、利
 用しようとした)
  本「誰のために」(石光真清の手記 4・中公文庫)に、
 以下の記述がある・・、
  明治33年(1900年)の中国市民の(ロシア軍による)
 大虐殺につぐ侵攻以来、大スラブ帝国の三色旗を翻し、
 君臨していたロシア軍が、木綿服で着ぶくれたみすぼら
 しい中国軍に武装を解かれて、国境のかなたに追われ行
 く姿を眺めた時、私は、歴史の変転の激しさと無情さを、
 眼と耳と胸にしみじみ感じた。
  (注意)北清事件と義和団事件とは違う・・、
     義和団事件(1899年~1900年)は、ヨーロッパ・
     ロシア・アメリカなどの列強の国々が、中国の
     領土を分割して、その土地を支配するという植
     民地化したいと、また、租借したりと中国に進
     出した。
      この事に対して、義和団という信仰集団が団
     結して反乱を起こし反抗した。
      義和団は、「扶清滅洋」という言葉を掲げた。
      扶清滅洋(ふしんめつよう)は、清朝を助け
     て、ヨーロッパ・ロシア・アメリカなどの列強
     を討ち滅ぼすの意味。
  北清事件(北清事変)は、1900年に起きたが・・、
  イギリスが、何度も、日本軍の参加を要請した・・
  そして、列強各国もこぞって日本の参加に賛成して、
  日本は、その様な状態のなかで、第五師団を派兵した。
  義和団の力が強く、手をこまねいていたからだった。
  義和団兵と清国兵に囲まれた籠城者を救出したかった。
  日本を主力とする列強各国の連合軍は、天津城を完全
 に占拠した。
  そして、ここで師団主力の集結をし、その集結を待っ
 て・・、
  1900年8月4日に、天津を出発した・・北京籠城組の救
 出の途についた。
  連合軍の総兵力は、22,000人だった。
  義和団・清国軍は、この数より多く、まさっていて、
 士気は高く、頑強に抵抗した。
  新聞記者だった菊池寛は以下のように書いた・・
  「真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破
 して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を敗北させ、
 屍を踏んでわが公使館に達していく、いかにも日本軍ら
 しい、やり方であったと思う」と。
  「救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。
  殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け
 出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。
  60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであっ
 た」。
  日本は、この時の救出に大きな貢献をした。
  この時から、日本は、世界から「極東の憲兵」という
 言われ方をした。
.
1945年秋以降、GHQ(連合国総司令部)が、言論統制を
 行なった。
  新聞、雑誌、図書を含む出版物、通信、放送、映画、
 演劇、郵便などの検閲を始めた
  そして、GHQは、1928年1月1日から1945年9月に至る
 まで、刊行される図書の没収を指令した。
  卑劣な言論統制と思想統制を、日本に対して行なおう
 として、この様な事を始めた。
  アメリカは、『言論の自由の国』というが、まったく
 の嘘・・日本へは、この様な卑劣な事を行なった。
  自由に書籍などに日本人が触れるという事は出来なく
 された。
  日本全国の図書館や書店、そして、流通経路から没収
 がなされて行った。
  「言論の自由で、民主主義を達成するのだ」と言って
 いるアメリカが、この様な「野蛮な事をした」。
  没収されて読むことが得出来なくされた本は、7000種
 に及んだ・・「GHQ焚書図書」
  世紀の最大の歴史学者アーノルド・トゥインビーは言
 う・・、
  「その国が歴史と言葉を失う時に、その国は滅びる」
 と。
  アメリカは、フィリピンを植民地にして、卑劣にも、
 その言葉を奪った。
  フィリピンを英語化した。
  フィリピンの言葉を奪うという卑劣な事を行なった。
  今、アメリカは、日本を英語化しようとしている。
  まさに、日本の歴史と言葉を、アメリカは奪い、トゥ
 インビーが言うように、日本を滅ぼそうとしている。
  没収されたこの時の出版物は、アメリカに送られ、メ
 リーランド大学へ譲渡された(プランゲ文庫)
  原稿やゲラ、そして、検閲の為の調書類も含まれてい
 た。
  図書とパンフレット(71000タイトル)
  新聞(18047タイトル)、雑誌(13799タイトル)
  報道写真(約10000枚)、ポスター(90枚)
  地図(640枚)、検閲関連文書(600,000枚)
  1945年9月~1948年7月:事前検閲
  1948年8月~1949年10月:事後検閲
  日本人も雇われて検閲を行なった・・1947年のピーク
 時には8,100人居た(高給だった)
  アメリカ人軍属や将兵も加わり、総勢8,700人によって
 検閲が行われた。
  出版社は出頭を命じられた。
  占領軍への批判は厳しくチェックされた。
  (司令部に対する批判、憲法の想起行為、検閲制度、
 アメリカ合衆国への批判、英国に対する批判、極東軍事
 裁判批判、連合国に対する批判、第三次世界大戦への言
 及、大東亜共栄圏、戦争犯罪人の擁護、占領軍兵士と日
 本女性との交渉、抑えられた報道の公表などなど、口を
 閉ざされたタブーが一杯あった)
  そして、戦争肯定の内容や武士道に関するものは没収
 となった。
  戦前・戦中のものも没収された(5万冊以上がアメリカ
 へ送られ、アメリカ議会図書館と国立公文書館へ持って
 行かれた)
  日本側も原爆への記述を自主規制して気を使った・・
 これを「日本人の自己検閲」と言われた。
  研究書である「ドイツ戦争心理学」「航空心理」「国
 防心理学要論」なども没収された。
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1947年5月3日、日本国憲法が施行された。
  日本は、アメリカの占領下であり、この様な体制下で
 行われた行為は「違法」という論理がある。
  憲法無効論は、日本国憲法の制憲過程に重大な瑕疵が
 あり、無効であるとするもので・・、
  また、日本の平和条約締結にともなって自動失効して
 いるとの論もある。
  憲法無効・失効論の述べるところは、憲法失効にとも
 ない、大日本帝国憲法を唯一の法源とすべしというもの
 があり・・、
  これは、あくまで、手続き上の議会主義的正統性に関
 するもので・・、
  旧憲法の改正手続きに則り、速やかに新たな自主憲法
 を策定すべしという論(石原慎太郎等)、
  ないしは、憲法の正当性を確保するべく日本国憲法を
 改正すべし(小沢一郎等)との論。
  アメリカ占領軍が、急遽(きゅうきょ)作って、成立
 はさせた現行憲法という成立に後ろめたさがある。
  この現行憲法の成立に携わった老齢となったアメリカ
 人は、「まだ、あの憲法なの・・?」と言ったという・・、
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1960年、全国の映画館数が、7457館とピークに達する。
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1988年、参議院の法務委員会で梶山静六国家公安委員長が、
 「(新潟の)アベック失踪事件は北朝鮮のものたちの疑
 いが濃厚」と答弁した。
  それまで、日本は、この拉致事件を隠ぺいする体制に
 あった。
  そして、この拉致行為は、2002年に、小泉首相が北朝
 鮮へ訪朝した際に、国防委員会委員長・金正日は、北朝
 鮮が拉致したと初めて認め、謝罪した。
  また、「死亡」したとされる8人に関する「死亡診断書」
 などの情報を提出したが、これらはすべて捏造であった
 ことを日朝実務者協議(2004年11月)で認めた。
  日朝平壌宣言では「国交正常化の後」、「経済協力を
 実施」することとなっているが、日本政府は「拉致問題
 の解決なくして国交正常化はありえない」と繰返し述べ
 た。
  その後の交渉で、北朝鮮が生存していたとした5人の拉
 致被害生存者について、一時帰国を条件に、2002年10月
 15日に、帰国が実現した。
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1992年10月17日、アメリカのルイジアナ州で、ハロウィン
 の仮装をして、訪問する家を間違って訪ねた日本人留学
 生の青年が射殺された。
  16歳の高校2年生という未来ある青年だった。
  英語教師の母親の影響で、夢のアメリカ留学だった。
  ハロウィン特有の変なメーキャップなどはしていない
 という状態であるのに、
  また、間違えた家自体もハロウィンの装飾がしてある
 というハロウィン一色の状況の中で、
  また、日本人留学生は、異常な行動を示したという事
 でもなく、ちゃんとドアのベルを鳴らして訪問したとい
 う普通の行動と意思を示し、行動していたのにである。
  そして、間違えて行ったその家の相手に、「パーティ
 に来ました」と、はっきりと来た理由を示し、挨拶して
 いるのに・・、
  この男は、この日本人留学生の心臓を狙って撃った。
  威嚇射撃や、足元をを狙うなどの行動は一切せずに、
 心臓を撃った。
  殺意があるとしか言えないアメリカ人だった。
  しかし、アメリカの更に卑劣なことは、この卑劣な行
 為に対して、全員一致で無罪判決を下した。
  屋内に侵入した者への発砲は、この州の法律でも発砲
 はやむを得ないとされているが、この日本人留学生は、
 屋内に入ってもいないのに無罪とされた・・人種差別の
 なにものでもない・・アメリカは、この様な人種差別判
 決がいくらでもある。
  また、その卑劣さは、近距離(2メートル前後、弾が外
 れることはないという近距離)から心臓を狙うという、
 「殺人の意思しか持たないという行為」をされて未来あ
 る人生を閉じた日本人留学生の高校2年生だった。
  この様な有色人種蔑視判決は、黒人の方々が、特に、
 多く受け、そして、泣いている・・「卑劣なアメリカ」
 となっている。
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2013年3月11日、東日本大震災二周年追悼式において、NH
 Kが、中国寄りの放送態度をする。
  NHKは、完全に中国に牛耳られている。
  公共放送の立場であるのに「もってのほかである」。
  NHKは、NHKの建物内に、中国だけに「中国のた
 めの特別スペース」を与えている。
  国民の受信料で成り立っている公正であるべき放送局
 のNHKが、「何故?中国だけに、この様な特別待遇を
 与えているのか?」
  また、NHKは、放送態度においても、中国寄りの放
 送をする。
  例えば1例、「東日本大震災」の「二周年追悼式典」の
 中継をしていた時、式典を主宰していた日本政府は、台
 湾を国賓として招待していた。
  しかし、この様な立場の「台湾代表が、献花するシー
 ンをカットして放送を中断した」。
  中国の力が働いていたと言われている。
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2015年8月、移民や難民と称してEUに流入する人々・・、
 そのすべてが、本当の移民や難民なのか?
  EUへの数限りのないその流入は、まず、ハンガリー
 を経由していた。
  はじめのうちは「人道が叫ばれた」。
  しかし、とめどない、その多すぎる流入に対し、最初
 に悲鳴を上げたのが、このハンガリーだった。
  ハンガリーは、2015年8月から、国境線にその流入を防
 ぐ鉄条網の塀を築き始めた。
  EUは、初め、そのハンガリーの行為を非人道的と非
 難した。
  その声が、一番、大きかったのがドイツだった。
  しかし、1年も経つと、その声を上げるEUの国は、
 まったく無くなった。
  そして、塀を作っているEUの国は、ハンガリーだけ
 ではなくなった。
  多くのEUの国が、国境に軍隊を動員して、国境警備
 をして・・流入を防いでいるという「今となっている」。
  どの国も、その様に「力づくで流入を防いでいる」。
  そして、EUには、その行為を非難する声は、最早(
 もはや)、「まったく、ない」。
  ドイツでさえ、流入する人々の受け入れを規制し始め
 た。
  このドイツの、この規制以上に、他のEU諸国は、ド
 イツへ流入した人々を戻されるのではないかと恐れてい
 る。
  この様な事から、EUの「内政が乱れる」という懸念
 が強くなっている。
  超過剰に流入する人々によって、EUの形は揺らぐ。
  国柄が壊されていくEU諸国。
  以前のドイツ文明が、フランスの国柄が、オーストリ
 ーの雰囲気が・・無くなって行く、壊されて行く。
  グローバリズムで起きた状況が・・この様な結果の状
 況となっている。
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2017年、日本は・・ここが狙われている・・
  日本の要石(かなめいし)を・・、
  だから、工作員はここを狙っている・・、
  ☆ 政治機構に潜り込む・・政党などへも・・
  ☆ 官僚機構に潜り込む・・特に、外交などの外務省
  ☆ 要な場所・土地・地域・ゾーン・・
  ☆ 教育の現場に潜り込む・・日教組を支配する。
  ☆ 放送媒体を牛耳る・・特に巨大放送媒体のNHK
  ☆ 国旗・国歌を否定する・・シンボルの否定
  ☆ 伝統的儀式の破壊と、考え方・道徳の破壊
  ☆ 日本の古来からの伝統の破壊
  ☆ 日本の要(かなめ)技術を奪う
  ☆ 人間関係・家族・家系の破壊
  ☆ 宗教を牛耳る・・などなど・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive