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北国の暖かい方たちとともに

2017年06月22日

(増補版)536E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年5月)

題:(増補版)536E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年4月、内閣会議に速記者。
  国会の速記は、1890年11月29日の帝国議会開設(第1回
 議会)と同時に貴衆両院で採用された。
  このため、日本は、この第1回の国会より完全な会議
 録が残っている。
  この様な先進国はない、
  先進国の中では・・日本だけだという・・
  そして、この年に、田鎖綱紀(たくさりこうき)が、
 速記文字を創案し、習う者多し・・という状況になった。
  これに関係する話:1899年、東京~大阪間に長距離電
 話が開通するやいなや、「東京時事新報」は、いち早く
 電話速記を採用した。
  これは、長文の電報で記事を送るより、電話口で速記
 者が、直接、受けるほうがずっと速くて正確で、かつ、
 安上がりだった。
  間もなく、地方紙、通信社などでも、こぞって破格の
 待遇で速記者を雇用するようになった。
1891年4月、関西鉄道の全客車に、真空制動器を装置をとり
 付けた。
1891年4月、宇野三千三が、沼津駅などで、弁当類の販売を
 開始した。
  沼津駅、三島駅、及び、御殿場駅に於いて、駅弁販売
 を展開する桃中軒(とうちゅうけん)は、
  明治維新の際に、静岡藩に移住させられた旧徳川家の
 幕臣の宇野三千三が、鉄道開業2年後の1891年に、沼津停
 車場構内に於ける弁当販売を行いたいと、鐵道作業局に
 販売許可を求めた。
  そして、同年・1891年4月9日に許可された。
  販売当時は、幕の内弁当13銭、ひとよ寿司8銭、まんじ
 ゅう5銭で販売した。
  戦前の東海道本線利用者は、沼津駅の駅弁が美味い事
 を熟知していて、「東海道に乗ったら飲まず食わずで沼
 津で飯食おう」という言葉があるほどだった。
  戦前は、幕の内弁当以外に、素焼きの丼に入った鰻丼、
  戦後は、鯖の押寿司が評判だった。
  しかし、駿河湾に於ける良質な鯖が不漁で、この入手
 困難から鯖寿司は販売中止となった。
  沼津は、1913年3月3日と、1926年12月10日に、2度の大
 火に見舞われ・・また、1945年7月16には、沼津大空襲で
 大破壊を受けている。
1891年5月1日、日本赤十字社病院が、飯田町より麻布に移
 転し、開院した(毎年5月1日を創立記念日とする)
  1886年11月、博愛社病院が開設された(麹町区飯田町)
  1887年5月、博愛社から日本赤十字社に社名変更し、
   この時、日本赤十字社病院と改称した。
  1891年5月、飯田町4丁目から渋谷区広尾に移転。
  1941年1月、日本赤十字社中央病院と改称
  1972年11月、日本赤十字社産院と統合して、日本赤十
   字社医療センターと改称し、現在に至っている。
1891年5月5日、カーネギー・ホールで開場演奏会。
  アメリカのニューヨーク市マンハッタン区ミッドタウ
 ンにあるコンサートホールで(メイン・ホール:2804席)
  クラシック音楽、ポピュラー音楽などのコンサートが
 頻繁に開催される音楽の殿堂。
  1891年5月5日、指揮者のウォルター・ダムロッシュと
 作曲家のチャイコフスキーのコンサートにより、こけら
 おとしがなされた。
  鉄鋼王のアメリカの実業家・慈善家アンドリュー・カ
 ーネギーにより建てられたが・・、
  1925年に、アンドリュー・カーネギーの未亡人により、
 不動産開発業者に売却され、一時、存続も危ぶまれた。
  ・・が、アイザック・スターン等の運動により、ニュ
 ーヨーク市が買い取り、
  現在は、非営利のカーネギー・ホール・コーポレーシ
 ョンにより運営されている。
1891年5月6日、三国同盟が更新された。
  1882年に、ドイツ・オーストリア・イタリアの3国で
 軍事同盟が結ばれ、以後、4度更新された。
  しかし、この年・1891年8月27日に、露仏同盟が調印
 された・・、
  これは、ドイツ、オーストリア、イタリア3国の攻撃に
 対し、ロシアとフランスが協力して戦うことを目的とし
 ていた。
  この後にはイギリス、フランス、ロシアの「三国協商」
 へと発展して行った・・
  (三国同盟と三国協商の対立の構図)
  これまで、ロシアには、イギリスが、三国同盟に参加
 しようとしているのではないかという、懸念があった。
  1890年初頭には、イギリスとドイツは、諸々のアフリ
 カ領土を交換したりしていた。
  この1891年の三国同盟の更新と、ドイツ皇帝のロンド
 ン訪問がイギリスの新聞の親独感情を促進すると、ロシ
 アの憂慮は高まった。
  極東と中央アジアで対立するイギリスが、今まさに西
 の強力な隣国・ドイツと、
  そしてまた、さらに、バルカン半島でライバルである
 オーストリアと勢力を結集しようとしているかのように、
 ロシアには思われた。
  身に迫るこの脅威に抗(あらが)って、釣り合いを保
 つために、ロシアは、胸中のためらいを脇に追いやって、
 フランスとの合意を公然と追求した。
  ドイツを牽制するのがパリにとっての重要な案件であ
 ったのに対して、ロシアはバルカンにおいてオーストリ
 ア=ハンガリーを封じ込めることの方に関心を抱いてい
 た。
1891年5月6日、第一次松方正義内閣成立(第一次山県内閣
 総辞職)
  松方正義蔵相が首相に就任。
  蔵相は引き続き兼任し、第一次松方内閣が発足した。
1891年5月11日、大津事件
  滋賀県大津において巡査・津田三蔵が、来日中のロシ
 ア皇太子ニコライ親王を斬りつけ負傷させた。
  5月16日、上京を中止して帰国を決定した。
  ニコライは、この時のことを次のように日記に書いて
 いる・・、
  「人力車が、人々が沿道にあふれている通りへ曲がっ
 た時、私は、右耳の上に強い衝撃を感じた。
  振り返ると、胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が、
 両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた。
  とっさに、私は『何をする』と叫んで、道路に飛び降
 りた。
  醜い顔は、私を追いかけてきたが、誰も止めようとし
 ないので、私は、やむなくその場から逃げた。
  群衆の中に紛れこもうと思ったが、日本人たちは、混
 乱して四散してしまったので、それも不可能だった。
  走りながら振り返ると、私を追ってくる巡査の後ろか
 らゲオルギオスが追跡しているのが確認できた。
  更に、60歩走って、もう一度振り返ると、ありがたい
 ことに全て終わっていた。
  ゲオルギオスが、竹の杖の一撃で狂人を倒していたの
 である。
  私がそこへ戻ると、人力車の車夫と警官たちが、狂人
 を取り押さえていた。
  一人が、狂人の胸ぐらを掴んで、奪ったサーベルを喉
 につきつけていた。
  群衆は、誰一人として私を助けようとしなかった。
  なぜ、通りの真ん中に、私とゲオルギオスとあの狂人
 だけが取り残されたのか、私は怪訝に思う」。
  しかし、津田の裁判の際の目撃者たちの証言によると、
 津田を取り押さえた一番の功労者は、ゲオルギオス王子
 ではなく、人力車の車夫だった。
  確かに、最初に、津田に立ち向かったのはゲオルギオ
 ス王子であり、彼は、その日、お土産に買った竹の杖を
 武器にしていた。
  だが、ゲオルギオスの竹の杖は、津田をひるませただ
 けであり、ひるんだところを、人力車の車夫たちが、津
 田に飛びかかり、この時、津田がサーベルを落とし、そ
 れを拾った車夫が、津田の首筋と背中を斬りつけたのだ
 という。
  ニコライも、後に、一応これを認めていたらしく、彼
 を助けた車夫の二人に勲章を送っている。
  大津事件の際に、津田三蔵を取り押さえ、ロシア政府
 から勲章を送られた日本人車夫二人の写真がある。
1891年5月12日、明治天皇陛下が、京都へ御出発された。
  そして、翌日の1891年5月13日、明治天皇陛下は、ロシ
 ア皇太子を京都に見舞った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのミサイル防衛網を無力化する切り札「WU‐14(DF‐ZF)」
.
1271年、元(げん)王朝が、中国を滅ぼして、成立した。
  北方の荒っぽい民族の蒙古人が、中国(民族)を亡(
 ほろ)ぼして、これを支配した。
  この王朝 は、この1271年~1368年まで続いた。
  この蒙古民族の王朝・元は・・、
  1260年、第4代皇帝モンケ (憲宗) の死後、帝位継承争
 いのなかから、チンギス・カンの孫で、モンゴル帝国の
 第5代皇帝にクビライ(フビライ)が即位した。
  そして、このクビライは・・、
  1271年に、モンゴル帝国の国号を大元と改め、成立し
 た。
  そして、この年・1271年、中国の南宋を征服した。
  (参考)元は、政治制度や政治運営の特徴においては
 モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家としてあった。
  行政制度や経済運営だけは、南宋の仕組みをほぼ継承
 した。
  この頃、日本に来た中国のお坊さんは、本国の中国で、
 蒙古の為にひどい目に会っていて、その様なことから、
 逆に、精神的にくじけない、しっかりした強い性格が鍛
 錬されていた方々だった。
  一例として、鎌倉の円覚寺を開いた無学祖元(むがく
 そげん、来日時は鎌倉・建長寺に入った)は、
  日本に来る前には、中国の温州(うんしゅう)の能仁
 寺に居て、元の兵隊がその寺に攻め込んで来た時、ちょ
 うど座禅をしていた。
  そこへ、元の兵隊が刀をもってやって来て、彼を殺そ
 うとした。
  その時、祖元は、平然として、これに一喝を与えた。
  それを聞いて元の兵隊は感悔し、礼を尽くして退いた
 のだった。
  この祖元は、後に(1279年)、日本に乞われ(執権・
 北条時宗に乞われ)、日本に来た。
  この時、日本は、蒙古来襲で国家防衛に励んでいた時
 だった。
  (参考)1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、
 温州の能仁寺にいた無学祖元は、元軍に殺害されそうに
 なったが・・、
  この時、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)
 を詠み、元軍も去ったが・・その臨刃偈は・・、
  乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも
 地なし 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もま
 た空なることを 珍重す、大元三尺の剣 電光、影裏に
 春風を斬らん。
.
2016年10月19日、中国が、宇宙船のドッキングに成功した。
  10月19日未明、上空393キロの軌道上で、10月17日に
 打ち上げた2人乗り宇宙船「神舟11号」と、
  9月に打ち上げた宇宙実験室「天宮2号」を、自動操縦
 でドッキングさせることに成功した。
  景海鵬、陳冬の両飛行士が、神舟11号から天宮2号に乗
 り込む様子が、中国中央テレビで生中継された(以上、
 毎日新聞を参考にした)
  「アメリカが恐れる中共の極超音速滑空体」
http://hiroaki1959.at.webry.info/201610/article_24.html
  「宇宙強国」を目指す中共は、天宮2号で、宇宙ステ
 ーション運営に向けた様々な実験を行い、2022年頃の完
 成を目指す本格的な宇宙ステーションに繋げる計画。
  産経新聞が「宇宙強国 中国の野望」(上・21日付、
 下・22日付)と題した特集記事で伝えた。
  この記事で注目されたのが、中共が、開発中の「極超
 音速滑空体」で・・、
 「2014年1月、中国上空を、最高でマッハ10に達する高
 速で飛行する物体が、アメリカ軍に探知された。
  アメリカのほぼ全土を、射程に入れる大陸間弾道ミサ
 イル(ICBM)の技術を手にした中国が、次世代の戦
 略兵器として開発を進める「極超音速滑空飛翔体」
  完成すれば、国際社会の戦略バランスを大きく変える
 可能性が指摘された。
  極超音速滑空飛翔体は、放物線を描いて落下するので
 はなく、超音速で自由に運動しながら滑空し、高い命中
 精度を有する。
  アメリカの現在のミサイル防衛(MD)では、撃墜が
 不可能とされる。
  中国による2014年1月の実験成功後、アメリカ議会の諮
 問機関である「米中経済安全保障調査委員会」は、中国
 が、2020年までの開発を目指していると警告した」(23
 日付)
  この極超音速滑空飛翔体について、「軍事研究」11月
 号の田中三郎氏の記事「日米ミサイル防衛網を無力化!」
 で以下の通り解説されている。
  ▽中国の新型極超音速滑空体
 「人民日報網」は、中国の新型の極超音速滑空体
 (hypersonic glide vehicle)の7回目の飛行試験が、
 先週(2016年4月17日~23日と推定)、山西省北西部で
 実施され、成功裏に終了したと報じた。
  東風‐ZF(DF‐ZF)滑空体は、マッハ5~10の間
 で飛行できる。
  中国のニュースサイトは、アメリカの情報機関は、北
 京がミサイル防衛網ですら突破可能な核兵器運搬手段と
 してDF‐ZFを使用することを恐れているとの「ワシ
 ントン・フリービーコン」の記事を転電する形で伝えた。
  アメリカ軍は、かつて、同ミサイル(弾頭)を「WU
 ‐14」のコードネームで呼んでいたが、現在はDF‐
 ZFの呼称を用いている。
  「人民日報網」が報じたところでは、中国国防部は、
 2015年3月の自国の極超音速滑空体のミサイル試験を初め
 て認め、この実験は、科学的探究のために進めているも
 ので、第三国を対象としたものでないことを強調した。
  (日本も、科学的探究のため、核抑止の実験を含めた
 研究を進めるべきだ)
  2015年6月7日、中国が、極超音速滑空ミサイルWU‐
 14の4度目の実験を行った模様。
  中国は、2014年1月9日、初めての極超音速滑空実験体
 WU‐14の飛行実験を行っている。
  この時には、WU‐14は、大陸間弾道ミサイルの弾頭
 に搭載して発射され、その後、滑空してニア・スペース
 (準宇宙)をマッハ10で機動したと報じられた。
  2度目の飛行実験は、同年・2014年8月7日に実施してい
 るが、これは失敗に終わっている。
  そして、同年・2014年12月2日に、3度目の実験を行い、
 成功を収めた。
  過去の実験とは異なり、4度目となる今回の実験では
 「極端な機動(extreme maneuvers)」を示して見せたと
 いわれている。
  日米のミサイル防衛網を無力化することを目指してい
 るとされる。
  WU‐14の初期型は、準中距離弾道ミサイルDF‐21
 の弾頭に搭載して発射されたようだが、将来的には射程
 4000kmの中距離弾道ミサイルDF‐26を発射プラットフ
 ォームにする計画があるようだ。
  ▽アメリカが恐れる中国によるWU‐14の開発
  2014年に発表された米中経済安全保障調査委員会の年
 次議会報告書は、中国は、WU‐14を「次世代の精密攻
 撃能力のコア・コンポーネント」と位置づけており、
  2020年までに、高速滑空機を、
  そして、2025年までには、スクラムジェット推進極超
 音速機を配備する計画を持っているとしている。
  また、カーネギー財団のローラ・サールマン氏は、「
 中国の極超音速機の研究計画は、戦略核兵器にも適用さ
 れる技術ではあるが、
  むしろ、より限定された範囲の通常兵器の技術として
 研究されている」と指摘している。
  一方、国家航空宇宙情報センター(NASIC)のリ
 ー・フェーエル氏は、「中国の極超音速滑空兵器は、核
 抑止戦力と関連付けられている」と指摘している。
  そうであれば、中国は、アメリカの通常兵器型即時全
 地球攻撃(CPGS)構想とは別の道を歩んでいるのか
 もしれない。
  今回の試験が、山西省五寨から発射されたと報じられ
 たことを考慮すると、「WU」は、五寨の略である可能
 性が高く、「14」は、五寨で確認された14種目のミサイ
 ルであることを示すのかもしれない。
  外国メディアの報道に対し、中国国防部ニュース事務
 局は、中国が、国境内で計画通りに行なう科研試験は正
 常であり、いかなる国や特定の目標にも照準を合わせた
 ものでもない、と回答している。
  しかし、この件は、アメリカ議会に大きな波紋を引き
 起こした。
  アメリカ上院軍事委員会主席ハワード・マケイン氏は、
 「今回、中国は、我々を追い越したようだ」と語ってい
 る。
  アメリカの専門家の説明によれば、WU‐14は、大陸
 間弾道ミサイルの運搬ロケット内に装備され、地上から
 発射された後、ブースターが弾頭を何十kmかの高空まで
 の推進をアシストした後で、機関を停止、ブースターを
 分離し、
  その後、大気圏に再突入し、無動力高速飛行を行なう。
  その速度は、マッハ10にも達し、弾頭は大気圏外では
 慣性によって飛行し、大気圏内では空力的揚力に頼って
 遠距離跳躍滑空機動飛行を行なう。
  目標上空30km前後に到達した時、誘導弾頭がONにな
 って末端制御誘導を行い、目標まで急降下して攻撃を完
 成させる。
  ある国内の分析者は、アメリカのメディアが作画した
 状況から見て、中国が試験を行った極超音速飛行体は、
 ブースト・滑空式ミサイルに属し、宇宙に近い空間の飛
 行体の一種であるという。
  いわゆる「宇宙に近い空間」が通常指すのは20㎞~100
 kmの高度の空域で、制宇宙、制空、制海、制地の他の新
 たな作戦領域になり得る。
  極超音速武器は、宇宙に近い空間の武器の重要な組成
 部分である。
  それは、弾道ミサイルの発射時の速度の優勢を結合し
 ているし、また、巡航ミサイルの末端制御誘導の優勢を
 も結合している」。
  中共が、アメリカのMDを無力化する切り札として「
 WU‐14(DF‐ZF)」を開発しているのは間違いな
 いだろうが、「中国は、我々を追い越した」との、マケ
 イン上院議員の懸念が正しいか否かは分からない。
  実際には、存在しなかった米ソの「ミサイルギャップ」
 と同様、敵の脅威を実際以上に強調して、予算を獲得す
 る目的で発言している疑いも考えられる。
  因みに、アメリカが、開発中の極超音速滑空機につい
 て、田中氏は次のように書く。
  ▽アメリカの極超音速滑空機の開発
  アメリカ空軍は、実験的スクラムジェット計画の成功
 に基づいて、自国の極超音速滑空機の開発に前進が認め
 られたことを明らかにした。
  2013年、アメリカは、X‐51ウェーブライダーと呼ば
 れる極超音速滑空機の4度目の飛行試験を行った。
  B‐52爆撃機の翼から分離された後、ロケットブース
 ターで加速された極超音速滑空機は、高度6万フィートま
 で上昇、マッハ5.1まで加速、3分半飛行後、燃料切れに
 なる前に太平洋上に突入した。
  時速3400マイル相当のスピードで、ワシントンからア
 トランタまでわずか数分で到着できる。
  アメリカ空軍筋によれば、X‐51計画は、軍が加速可
 能なスクラムジェットを建造し、炭化水素燃料を取り入
 れ、飛行時における冷却を達成することであった。
  在来型エンジンとは異なり、スクラムジェットないし
 は超音速燃焼ラムジェットは、極めて少ない部品と音速
 以上に早く飛行する空気推進システムを必要とするもの
 だった」。
.
2016年、中国の粗鋼生産量が世界一で、8億840万トン、世
 界の生産量の49.6%を占めている。
  日本の新日本製鉄は、明治期を支え、日本を発展させ
 た八幡製鉄が起源の会社で・・日本の伝統の基幹の重要
 な大切な企業である。
  豊かな日本を地道に作り上げて来た。
  しかし、その地道に蓄積してきた日本の製鉄技術は、
 中国へ技術供与された。
  その後は、新幹線の技術が盗まれた時と同じ経緯を持
 っている。
  この新幹線技術の時も、インドネシアの仕事が受注す
 る直前も直前に・・急に・・目の前まで日本が受注する
 ものだったものが・・急に、中国に奪われた。
  日本は、この事態の急変に、大変な驚きとなった。
  ・・が、しかし、後の祭りだった。
  この鉄鋼技術でも・・この新幹線と同じ様な社会現象
 が起きた。
  日本の優秀な技術陣が・・知恵を絞って、苦しんで、
 生みの苦しみをして・・
  そして、やっと生み出した最新技術を・・、
  簡単に・・いとも簡単に・・中国へ流出する・・
  この様な事を繰り返している・・愚かな事である。
  我慢が出来ないのである・・そして、自分の首を絞め
 ている・・、
  この製鉄の最新技術を得た中国は、オーストラリアの
 鉄鉱石を買い漁(あさ)った。
  今までにないボリュームであった。
  一企業が、今まではやって来たが、中国は国として、
 一国として、規模の違う買い漁りをした。
  その鉄鉱石を、中国へ運ぶための海運業界は、にぎわ
 った。
  海運業界は、好景気に沸き返った。
  数年間が、この状態が続くという異常状態だった。
  その後、日本の最先端の技術を持った中国の製鉄所は、
 びっくりするほどの大増産をし続けた。
  そして、やはり来るべきものが来た。
  大量の鉄鋼の過剰生産品が・・中国に滞留した。
  世界もあり余る鉄鋼を、消費しきれなかった。
  中国は、世界の49.6%(2016年)の粗鋼生産量と、飛
 び抜けた第1位の生産国となった。
  第2位が日本の1億400万トン、6.4%(中国の8分の1)
  技術を供与した日本が、お株を奪われた・・、
  しかし、中国は、まだ増産を続けている。
  この大量輸出で、値崩れも激しく起きている。
  新日本製鉄(今は新日鉄住金株式会社、2012年に成立)
 の業績はどうなっているのか?
  「原料炭高騰で利幅一段と悪化」とある。
  そして、「在庫評価改善でも利益続落」とある。
  鉄鋼業界の秩序は、中国に破られ、その状態の嵐が吹
 き荒れて・・続いている。
  新日本製鉄は、当時、中国鉄鋼大手の馬鞍山鋼鉄(ま
 あんさんこうてつ、安徽省・あんきしょう)に、二酸化
 炭素(CO2)の排出量削減につながるという美しい名目
 で、2009年、先進技術を供与した。
  ひどく遅れた中国の製鉄が、その遅れで炭酸ガスがい
 っぱい出て困るからという、そんな製鉄技術しかない国
 に、最先端の技術を与えてしまった結果の「今がある」。
  日本は、「10年位は平気だ」と甘く考えていた。
  甘く見ていた北朝鮮のミサイル技術が、目を見張る進
 歩に、今、戸惑っている日本とアメリカという感じと同
 じ。
  そして、中国へ技術供与したのは、日本に中国のミサ
 イルが飛んでくるのが怖かったからだという説もある。
  日本の国防の不十分さは、こんなところにも現れてい
 る・・、
  加計学園でどうのこうの・・なんて、やっている時間
 なんかない・・今・・なのだ。
.
2017年、今、中国は、徹底した報道統制をして、
  また、インターネット規制をして、
  多くの国民に、「自国の正当性」を刷り込む事に躍起
 (やっき、あせってむきになること)になっている。
  そして、それが、成功しているという。
  そして、中国政府は、「対立は、常に、敵対国の挑発
 から生じる」と論じ、
  敵対国のなすことすべてに「反対する行動」をとって
 いる。
  中国は、自国ばかりではなく、多くの金と人を使って、
 世界の情報機関を繰ろうとしている。
  そして、その操作をしている。
  その意味でも、日本の公共放送・NHKは、中国との
 関係が深すぎる。
  NHKは、1室を中国に与え、使わせている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年06月17日

(増補版)535E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年4月)

題:(増補版)535E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年4月11日、九州鉄道会社が、小倉に工場を開設した。
  九州鉄道社(仮本社は博多)が設立された後・・、
  1891年4月に、門司へ、本社家屋が完成したのを機会に
 移転した。
  そして、九州鉄道株式会社・小倉工場(現:九州旅客
 鉄道株式会社小倉工場)も・・この時・・
  1891年4月、鉄道の急速な発展に対応するため、九州鉄
 道株式会社の車両工場として、ドイツ人技師長ヘルマン・
 ルムシュッテルの指導のもと、小倉工場が開設された。
  設立当時の従業員は63名、
  当時の車両は、輸入品したもので、箱詰めされて来た
 ものを工場で組み立てた。
1891年4月15日、鉄道財産調査規程を制定した。
1891年4月22日、大槻文彦著の国語辞典『言海』全4巻が完
 結した。
  言海は、国語学者の大槻文彦が編纂した国語辞典で、
  1882年(明治15年)に、初稿を成立させたが、校閲に
 4年をかけ、完成したのが1886年(明治19年)だった。
  元々は、文部省自体から刊行される予定であったが、
 予算が無いため、出版が立ち消えそうになり、結局、
 1891年に、自費出版することになった。
1891年4月23日、ユダヤ人のモスクワ追放。
  ユダヤ人が、モスクワとペテルスブルグから追放され
 た。
  この時、モスクワから、1万人以上のユダヤ人の方々が
 追放されている。
  また、この年、ユダヤ人モレヒバが、「シオンを愛す
 る人々」を創立した。
  そして、翌年・1892年、「シオンを愛する人々」の理
 論的指導者ピンスケルが、「自力解放」に共鳴して、パ
 レスチナに、最初のユダヤ人コロニーを成立させた。
  この間において、ロシアでは、1893年からの3年間に、
 非居住境界地域からの大量追放がなされた。
  さかのぼること、1881年には、ロシアで、「ポグロム
 (集団的迫害行為)」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が
 波状的に発生していて、ユダヤ人の方々の十数万人が犠
 牲となっている。
  そして、この頃、ロシアのポグロムは沸点に達してい
 て、1882年には、人種差別法「五月法」が制定された。
  ユダヤ人の方々は、「キリスト教を信じないユダヤ人
 は、豚に等しい」という迷信で差別されていた。
  また、キリスト教は、ユダヤ人の方々を、「主(イエ
 ス)殺し」と蔑(さげす)み、差別した。
  因みに、ローマ法王(教皇)も、教皇領からユダヤ人
 の方々を追放した。
  ロシア系アシュケナージ(虐待のため、キリスト教に
 改宗したユダヤ人の方々)は・・、
  ポグロムの魔の手から逃(のが)れる為に、20万人以
 上が大量に亡命した。
  (参考)ポグロムは、「破滅・破壊」を意味する言葉
     で、加害者の如何を問わず、ユダヤ人の方々に
     対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・
     破壊・差別)をいう。
  また、オーストリアでは、ポグロム当初の1881年~
 1914年までに、35万人以上のユダヤ人が亡命している。
  この様にして、欧州各地で迫害、追放を受けた大量の
 ユダヤ人の方々は、再度、ディアスポラして行く。
  (参考)ディアスポラは、「撒き散らされたもの」と
     いう意味で、元の国家や民族の居住地を離れて
     暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、
     または、その様に離散することを指す。
  離散した先に土着した人々は、ロシアや東欧にも残っ
 た。
  そして、アメリカへも200万人以上のユダヤ人の方々が
 流入した。
  ニューヨーク州のオールバニー市、シラキュース市、
 バッファロー市、ロチェスター市、
  そして、シカゴ(イリノイ州)、デトロイト(ミシガ
 ン州)、クリーヴランド(オハイオ州)、ミルウォーキ
 ー(ウィスコンシン州)に多く定着した。
  ニューヨークに一番大きなユダヤ人共同体が生まれた。
  これに先立って・・先行してディアスポラしていたユ
 ダヤ人の方々の共同体は、新参者のディアスポラの無謀
 な人数を危惧する様になった。
  それは、貧困層が多かったためだった。
  ここに、「新たな反ユダヤ運動」が芽を出した。
  南北戦争終戦後には、すでに、アメリカでは、アンチ・
 セミティズムの兆候が現れ始めている。
  アメリカでは、1876年、ニュージャージーにあるホテ
 ルが「ユダヤ人お断り」の広告を新聞で流したりした。
  (参考)アンチ・セミティズム:字義は反セム人主義
     で、一般には、反ユダヤ主義の意味で用いる。
      特に、19世紀末以降、ドイツ、フランスなど
     の諸国に起こった。
      中世以来の伝統的なユダヤ教徒差別とは性格
     を異にする近代反ユダヤ主義。
1891年4月25日、山陽鉄道会社線の岡山~倉敷間(16km)が開
 業した。
1891年4月27日、ロシア皇太子のニコライ2世が来日。
  ニコライ2世は、シベリア鉄道建設委員長としてウラ
 ジオストクでの起工式に赴く途中のこの日、来日した。
  来日してのニコライは、お忍びで、長崎の町を探索し
 た。
  ニコライは、長崎の印象について、日記の中で・・、
  「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を
 与えてくれる。
  掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの
 家の中に入るのは楽しい。
  日本人は、男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正
 反対だ」・・という、感想を書いている。
  ニコライは、この長崎滞在中に、右腕に竜の入れ墨を
 入れた。
  ロシアのアレクサンドル3世の長子ニコライ2世は、
 軍艦で、東方諸国旅行の最終訪問地として来日・・、
  ニコラス2世の甥・ギリシャのジョージ親王とともに、
 長崎に到着した。
  そして、午前9時頃、ロシア軍艦アゾーワ号が、ナヒモ
 フとモノマフ両艦を従えて、伊王島沖合まで出迎えた日本
 の軍艦・高尾の先導で入港した。
  そして、長崎港内に停泊中の八重山、武蔵の2艦が、
 歓迎の礼砲を撃った。
  そして、ロシアの3艦が、答礼の砲門を撃った。
  皇太子の公式上陸は5月3日・・、
  それまでは、一切がおしのびだった。
  稲佐のお栄が、県当局の依頼で皇太子をもてなした。
  4月28日と4月29日に、ジョージ親王を誘った軽装の皇
 太子は、侍従1人をつれ人力車にゆられた。
  4月28日には、大浦8番館、今魚町の江崎べっ甲店、麹
 屋町の池島骨董店、出島町の香蘭社支店、本籠町の白山
 写真店、大波止や東浜町の勧工場に立ち寄り買い物をし
 た。
  東浜町では、居合わせた12才の少女にカンザシを買い、
 プレゼントした。
  そして、そののち、本籠町の本田漆器店、新大工町の
 上野彦馬写真屋にも寄る。
  買い物は、女性的な嗜好で、愛する妻へのプレゼント?
  4月30日、稲佐悟真寺内のロシア人墓地を訪れた。
  墓地では、迎える人もなく、入口は鍵がかかっていた
 が、垣根をとび越えた。
  丸山芸者と遊び、両腕に龍の刺青を刻印させた。
  5月3日、公式上陸となった。
  大波止から知事官邸までの沿道には、官公庁の代表や
 一般市民、学校生徒が整列した。
  知事官邸で昼食会、交親館で長崎の美術工芸品を観賞
 した。
  その足で、長崎公園丸馬場での市民歓迎会に出席した。
  5月3日の夜は、ロシア士官が部屋借りをする稲佐の福
 田米造家で酒宴を開き、大歓迎された。
  ジョージ親王や士官8人と丸山の芸妓5人を呼んだ。
  おまつとともに、稲佐のお栄は、ロシア語で挨拶をし、
 ジョージ親王とダンスを踊った。
  そして、おまつの店で飲み明かして、帰艦したのは5月
 4日午前4時だった。
  5月5日、長崎を出港した。
  のちに、鹿児島、神戸に入港し、列車で京都へ行く。
  5月11日、琵琶湖見物を終えて、京都の宿舎に帰る途中、
 滋賀県の大津で、警備の巡査・津田三蔵に切りつけられ
 負傷するという大津事件が起きた。
  5月11日の夜、知事あてに政府電報が届いた。
  「国家のため慨嘆に耐えず、朝野とも痛心す、ついて
 は貴地各新聞発行人を呼出し、この電報を示し、
  本件は、実に驚惨の所為なるむねを記載、深く慨嘆の
 意を表すようご注意ありたし」
  5月13日、ロシアの報復をおそれた日本は、明治天皇陛
 下が、御自ら見舞い、ロシア艦内にもおもむいた。
  後に、松方正義首相は、司法部に極刑を申し入れた。
  外相の青木周蔵は、駐日ロシア当局に死刑にすること
 を明言した。
  しかし、大審院長の児島惟謙は、刑法では、謀殺未遂
 罪に死刑の適用はできないとして、被告に無期懲役を宣
 告した。
  児島惟謙は、毅然と政府の干渉を排除し、法規に従い
 司法権の独立を守った。
  海外にも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対
 する信頼を高めた。
1891年4月29日、日本で、初めて飛行機が飛んだ。
  アメリカのライト兄弟が初フライトしたのが、1903年
 12月17日だったので、そのライト兄弟の初飛行より何と
 12年7か月以上も早く、日本人によって飛行機が空を飛ん
 だ(固定翼による飛行原理の発見)
  二宮忠八・初飛行に成功
  ライト兄弟より早く、日本人が空を制したのだった。
  丸亀歩兵第12連隊に所属していた二宮忠八は、この陸
 軍従軍中の1889年に、「飛行器」を考案した。
  そして、この翌年・1890年には、ゴム動力による「模
 型飛行器」を製作した。
  軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二
 度行なうも理解されなかった。
  以後、独自に人間が乗れる実機の開発を目指した。
  しかし、完成には至らなかった。
  そして、推進力は「ゴムひも」とし(陸軍病院勤務で
 あった忠八は聴診器のゴム管を流用した)、それで駆動
 される推進式の四枚羽プロペラ機を作った。
  1891年4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛
 行させた。
  日本初のプロペラ飛行実験を成功させた(世界初の動
 力飛行実験の成功と言える)
  翌日の4月30日には、手投げ発進の後、約36mを飛行さ
 せた。
  「飛行器」は、忠八本人の命名だった。
  そして、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空
 協会は、自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型
 を展示し、
  二宮忠八を、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を
 発見した人」と紹介した。
  その後、軍部は、忠八の研究を評価した。
  そして、1922年、忠八を表彰した。
  また、二宮忠八は、その後も数々の表彰を受け、
  1925年9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、
  1926年5月、帝国飛行協会総裁・久邇宮邦彦王から有功
 章を受章した。
  そして、1927年、勲六等に叙せられた。
  そして、1937年(昭和12年度)から国定教科書に掲載
 された。
  そして、すでに陸軍を退役していた長岡外史は、直接、
 忠八のもとを訪れ、謝罪したのだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:何の痕跡も残さず・・すべてのすべてが・・蒸発した
.
17世紀中頃、捕鯨
  アメリカは、17世紀中頃、マッコウクジラから良質の
 鯨油が採れることがわかり、北米大陸東岸で、セミクジ
 ラと並び、これを捕獲対象とした捕鯨が開始された。
  そして、18世紀には、大型の帆走捕鯨船を本船とした
 アメリカ式捕鯨へと移行し、大量のクジラを捕獲した。
  アメリカは、クジラの肉は捨てるという可哀想なクジ
 ラの利用の仕方だった(クジラのほとんどを捨てた)
  アメリカは、大西洋のクジラを取り切って、太平洋の
 クジラを求めて、取り始めた。
  太平洋全域のクジラをあさる様に獲った。
  1820年代には、日本周辺のクジラも獲り始めた。
  特に、日本周辺は鯨資源が豊富で、さらに大型化した
 捕鯨船団であさる様に獲った。
  大型のカッター船で追い込んで獲るという方法をした。
  19世紀には、最盛期で、イギリスまで盛んに獲った。
  捕獲数はべらぼうに大量であった。
  アフリカから黒人の方々を奴隷にして漁をさせた。
  捕鯨船団の母港となったナンタケットやニュー・ベッ
 ドフォードの町は大いに栄えた。
  このあさる様なアメリカの大量捕獲は、日本の古式の
 捕鯨を衰退させた。
  しかし、この様なアメリカが、現代になってオースト
 ラリアと一緒になって手のひらを返したようなことをや
 り出す・・卑怯な事である・・
  世界各国が、大船団を組み、盛んに捕鯨を行なったの
 にである・・、
  その後、牛の放牧を盛んに行っているアメリカやオー
 ストラリアは、自国の牛肉を日本に買ってもらいたいた
 め、日本の捕鯨に反対を始めた(自分の御都合である)
  また、世界の世論を喚起するため、「キリスト教では、
 クジラは知恵ある動物で、ステージが高い動物だ」とい
 う論理を展開した。
  特に、オーストラリアのグリーンピースという団体は、
 寄付を募って、船団を作って、日本が調査捕鯨を行なっ
 ている船に体当たりするなど、違法行為をしたりした。
  また、日本の古来からクジラ漁をしている方々の所ま
 で出掛けて行って、節操もない嫌がらせを行なった。
  欧米がクジラ漁から撤退したのは、キリスト教の事な
 んかは関係なく、採算が合わなくなったという理由であ
 って、採算さえ合えばクジラ漁をするという輩たちだっ
 た。
  日本は、クジラをとことん有効に生かして使うが、欧
 米のクジラ利用度は低く(鯨油だけを灯油として使うだけ)、
 クジラが可哀想な利用の仕方だった。
  油だけを取ったら捨てるという状況だった。
  まったく可哀想な利用の仕方だった。
  1972年に、アメリカが、国際会議で商業捕鯨の禁止を
 提案した。
  このアメリカの下心も、アメリカ牛肉を日本に買って
 貰いたいだった。
  自分の御都合で「クジラを救え」のキャンペーンまで
 始めた。
  自分は、さんざん捕鯨をやって来たのにである。
  1982年に、商業捕鯨の一時停止が決まってしまった。
  日本のようなクジラを徹底的に生かして利用する国は
 少数で、多数決で決定されてしまった(多数の論理の横
 暴だった)
  1990年までにデータを集めて捕獲できる枠を決めよう
 という約束が果たされず、日本は操業したいのだが、一
 時停止の状態が続いている。
  「アン・フェア」なアメリカなどなのである。
  また、クジラは確実に増えている。
  クジラを食べない国々が、クジラの食文化が古くから
 ある日本、昔からある日本の「食文化」を、多数で奪っ
 ているのである。
  日本の貴重な水産資源のクジラを取り上げるという暴
 力行為となっている。
  1年に10%も、確実に増えているというのに、クジラが
 食べられない状態に置かれている。
  アメリカやオーストラリアが主張する「クジラは特別
 な生き物なのだ」という論理は筋が通らない。
  「その論理が、正論だ」として展開するのなら、「イ
 ンドの方々は、牛を特別な生き物」としている。
  インドの方々の心情を理解して差し上げるのなら、ア
 メリカやオーストラリアの論理どおりなら、牛は食べら
 れなくなる。
.
1843年、2月12日、新島襄が生まれる。
  まだ文明のすべてが未明の明治の頃に、キリスト教の
 何たるかを知らない環境の中で・・、
  ・・というより、キリスト教国でさえ・・キリスト教
 学も未発達な頃の・・昔に・・
  そのキリスト教の本質の分析が不十分で・・、
  且つ、欧米から遠い・・極東の日本で・・
  『キリスト教の本質を見る術(すべ)は、当然、無か
 った』。
  ただ単に、優れた西洋の文明の利器を見て、感嘆し、
 ならば、キリスト教も、西洋のものだと、優れたものな
 のだろうと・・思い込み・・、
  かぶれた人たち、そのキリスト教にかぶれた人々は・・、
  さぞ素晴らしいだろうと夢に描いたキリスト教の国=
 アメリカに渡った・・
  しかし、見たものは・・、日本より劣った人種差別の
 国、酷(ひど)い人種差別状況だった。
  「日本で、話されたことと、大分、違うではないか」
 と、口にさえ出した・・その様な状況だった。
  その見聞した事は、自身に対してもおこった様々な卑
 劣な行為・・自身も受けた人種差別に辟易(へきえき)
 とする。
  この夢のアメリカ・・キリスト教国だからと抱いた夢
 は、完全に破れた。
  そして、後に、日本は、国としても差別を受けて行く、
 卑劣な事に、次々と・・日本への差別法案が作られた。
  そして、キリスト教は、この様な内村鑑三や、新島襄
 の記述や想いを、ひた隠して、美化ばかりする。
  キリスト教に偏するNHKは、美しくドラマ化して放
 送する。
  新島襄は、1843年(天保14年)2月12日に生まれた。
.
1899年、金線サイダーの製造が始まった。
  横浜の秋元巳之助が(金線サイダー)を発売した。
  1904年、これを王冠栓のガラスびん入りにしてからは、
 ほぼ同じ成分の炭酸飲料を玉入りガラスびんに詰めたも
 のをラムネ、王冠栓を用いたものをサイダーと通称する
 ようになった。
.
1945年8月6日午前8時15分、アメリカが、広島に原爆を投下
 した。
  キリスト教国アメリカが、その宗教から判断した結果
 からの行動だった。
  広島の原爆、長崎の原爆、それは、すべてを無にした。
  そこに生活していた方たちは蒸発した。
  それだけではなく、それまで育まれてきた生活のすべ
 てが蒸発した。
  それだけではなく、そこまで刻まれてきた歴史のすべ
 ても蒸発した。
  何もかもが、蒸発し無くなった。
  跡形もなく・・無くなった。
  何もない、蒸発した地には、そこに路地があったのだ
 ろうと思わせたぐらいしか生活を感じさせなかった・・、
  そこに、生活する声があったのだろうとわずかに思わ
 せた。
  その路地にも・・そして、そこの路地にも・・そして、
 そっちの路地にも・・
  路地の一本、一本に、子供の世話を焼くお母さんが居
 て、町で働いていたお父さんが居た。
  そのすべてが蒸発して・・跡形もなくなった。
  台所に母の指輪だけが残っていた・・と言った方が居
 られた。
  (探しに行ったら、母の金属の指輪だけが残っていた
 ・・と)。
  完全に、何もかもが無くなった空間だけが・・残され
 た。
  そこにあった、生まれた歴史も、すべて同時に無くな
 った。
  そこにあった、これから未来を指し示すだろう指針の
 痕跡も無くなった・・そして、夢も希望も・・
  未来の希望も無くなった・・未来の夢も無くなされた。
  すべてこの様に破壊するキリスト教のシャロームの教
 義からこの行為はなされた。
.
1969年1月18日、東大安田講堂事件が起きた(~19日)
  学生の自発的組織である全学共闘会議(全共闘)、お
 よび、新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講
 堂を占拠した事件と、
  大学から依頼を受けた警視庁が、1969年1月18日~1月
 19日に封鎖解除を行った事件・・、
  東大安田講堂攻防戦とも言い、東大の安田講堂に立て
 こもっていた学生たちは、機動隊と2日間にわたる攻防戦
 を繰り広げ、多数の逮捕者が出た。
  医学部の学生ストライキがきっかけだった。
  この年、東大の入試は中止された。
  この事件の背景に暗澹たる殺戮の・・1960年代後半の、
 アメリカが行なっていたベトナム戦争が存在し、悲惨な
 殺戮を世界に見せる、激化の一途をたどっていた。
  また、1970年で期限が切れる日米安全保障条約の自動
 延長をするのか?否か?で・・その阻止・廃棄を目指す
 動きが左派陣営で起きていた。
  これに伴って、学生によって、ベトナム反戦運動・第
 二次反安保闘争が活発化していた。
  学生たちの平和への希求・・追求行動でもあった・・
.
2002年10月15日、北朝鮮によって拉致された被害者の5人が
 帰国した。
  日本政府は、5人の家族の帰国も要求する方針をとった。
  北朝鮮側は、「日本政府に対し約束違反だ」と主張し
 た。
  (独立国・日本の国民を拉致していて何を言うか??)
  この様な北朝鮮政府の抗議により、その後の交渉は、
 北朝鮮政府が日程を決めないなどした為に中断された。
  なのに?? この時、北朝鮮の代弁者の如くの発言を
 する日本の国会議員が多く日本に居た。
  旧社会党やその流れをくむ議員たちだった。
  その1例が、元NHK職員で民進党の畑恵参議院議員で、
 畑恵議員は、救う会の活動を「暴徒と化している集団」
 と呼んでいた。
  また、社民党党首・土井たか子は、「食糧援助と拉致
 疑惑は切り離せ」と主張した・・、
  民主党の鳩山由紀夫も、同じ様な演説をしていた。
.
2003年、イラク戦争が・・、
  この年に、イラク戦争が起きたが、今になって言える
 事は、世界第2位の原油確認埋蔵量を誇っていたイラクの
 石油利権が欲しいという戦争だった。
  最初、アメリカのブッシュ〈子)大統領は、サダム・
 フセインが、原爆などの大量破壊兵器を持っているとか、
 作っているとかと言っていたが・・、
  結局、そんなものは影も形もなく、
  しかし、アメリカは、フセインの命は取ってしまうと
 いう・・国際法も、法律も、あったもんじゃないという
 状態で、
  アメリカが好き勝手をやって、イラクに、シーア派の
 政権を樹立させ、中東を不安定化させ、
  そして、シーア派の政権から追い出されたスンニ派の
 旧政権の勢力が、ISを組織し・・、
  イラクの隣国で暴れ回るという・・こんな理に合わな
 い、破廉恥な事が起きる状態に、アメリカはした。
  「現代の十字軍だ」と叫んだ「がちがちのキリスト教
 徒のブッシュ(子)大統領」はネオコンで・・、
  ブッシュ政権には、ネオコンの者たちがうようよと居
 た・・
  「ディック・チェイニー副大統領」「ドナルド・ラム
 ズフェルト国防長官」「ポール・ウォルフォウィッツ国
 防副長官」「ダグラス・ファイス国防次官」などなど・・
 政権中枢はネオコンだらけだった。
  ネオコンの影響下のアメリカは、これまで、ブッシュ
 (父)大統領も、湾岸戦争をしている。
  また、ヒラリー・クリンドンが「アラブの春」と称す
 る事態引き起こして、中東を混乱に貶(おとし)めてい
 た。
.
2011年、アメリカのグリーンスパン元連邦準備制度理事会
 議長と、バーナンキ議長は・・、
  「アメリカは、財政事情の悪化と、貯蓄不足が引き起
 こす資本不足のため・・、
  今後のアメリカ経済の利子率は、恒常的に高止まりし、
 長期的な経済停滞を引き起こす」と言った。
.
2017年6月6日、アメリカ国防総省は、日本海に展開してい
 た海軍の原子力空母2隻について、合同の 軍事演習が終
 了したとして日本海から去った。
  アメリカ海軍当局者は6日、北朝鮮をけん制するため
 日本海に展開していた原子力空母カール・ビンソンとロ
 ナルド・レーガンの2隻が、3日間の共同訓練を終えて、
 日本海を離れたと明らかにした。
  ロナルド・レーガンは、沖縄東方の海域で、海上自衛
 隊と訓練を続け、カール・ビンソンはアメリカへ帰還す
 る。
  北朝鮮に「最大限の圧力をかける」とするトランプ米
 政権が方針を転換したわけではないと見られているが・・
 日韓と共に警戒態勢は続けるのだろう・・?・・
  トランプ米政権は、日本海に空母2隻を派遣し、海上
 自衛隊と共同訓練を実施したのは・・異例ではあった。
  弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮に圧力をかける
 のだ・・としていた。(共同を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

  


2017年06月14日

(増補版)534E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年4月)

題:(増補版)534E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年3月30日、「乗車切手ハ貴重品ノ取扱ヲナスヘキ件」
 が通達され、
  従来一般の荷物と同じ扱いで輸送していた各駅への乗
 車券の配給を貴重品扱いとした。
1891年3月、山陽鉄道会社線の船坂トンネルが完成した。
  1889年(明治22年):着工
  長さ:1137.5メートル
1891年3月、大阪停車場に錬鉄製の跨線人道橋(15.2km)を増
 設した。
  跨線橋(こせんきょう)は、橋の一種で、鉄道線路を
 またぐもの。
1891年3月、小山~御殿場間の複線化が完成した。
1891年4月1日、郡制の施行開始
  郡制(ぐんせい、明治32年3月16日法律第65号)は、
 日本における府県と町村との間に位置する「郡」を、地
 方自治体として定めた制度で、その制度を規定した法律。
  明治から大正にかけて実施され、最初の法律は・・、
 1890年(明治23年)5月17日に公布された(明治23年5月
 17日法律第36号)
  この日、青森県、秋田県、山形県、福井県、長野県、
 愛知県、徳島県、高知県、大分県の郡制が初めて施行さ
 れた。
  行政区画として、郡役所と郡長(官選)が置かれた。
  この郡に、府県で処理するには小さく、町村で処理す
 るには大きい事務を処理させるため、両者の中間に位置
 する行政・自治団体としての機能を付与した。
  しかし、郡制の存在が、行政の煩雑化をもたらすだけ
 で自治団体の実績に乏しいとして、立憲政友会を中心に
 郡制の廃止を求める意見が早くから上がっていた。
  1906年に、政友会が衆議院に廃止案を提出した。
  この議案は否決されたが・・、1923年(大正12年)4月
 1日に至り、郡制は廃止された。
1891年4月1日、九州鉄道会社線の久留米~高瀬(現:玉名)
 間が開業した(54.9km)
  また、同じく、九州鉄道会社線の黒崎~門司(現:門司
 港)間も開業した(23.3km)
1891年4月9日、幕末勤皇家へ正四位を追贈した。
  橋本佐内、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など27氏。
.
  (今日の言葉)
.
  題:30年くらいで悪くなる訳がない・・そして・・
    総ての社会資本に、建設に命を捧げた方々の名前
   を刻んだ碑を建てるべきなので、その碑を見る事に
   よって、貴重な尊い命と交換で、便利な社会資本を
   享受しているありがたさが分かるだろう・・
.
354年11月13日、アウグスティヌス(キリスト教神学者)が
 生まれた。
  アウグスティヌスは、教父と呼ばれ、キリスト教徒が
 尊敬するなの人だが、「ローマ没落は、異教徒たちの罪だ」
 と、異教徒を罪に落とした。
  この異教徒の『異』について・・考えてみると・・、
  思考の成熟してない未成熟集団に於いて・・、
  例えば、年端(としは)の行かない子たちの学級に於
 いて、
  または、未熟な宗教に於いて、洗脳された集団に於い
 て、
  殊更(ことさら)に、「目の前の現存する違いを指摘
 し、また、指摘される」。
  それは、「いじめともなり」また「いじめ」と言われ、
 「内政干渉」とも言われ・・世に存在する。
  言う方は、「その違いが気になるから、言うのだろう
 が、指摘するのだろうが」・・、
  言われ、指摘された方だって、悪いと思ってやってい
 る訳ではない。
  悪いことを、ことさらする訳はない。
  しかし、適度に指摘する程度で、その話が、行為が、
 終わるなら良いが・・また、善き忠告もあるのだろうが、、
  程度の悪い虐(いじ)めとなるその行為は世の害となる・・
  それは、しつこい虐(いじ)めになり、「異教徒は殺せ」
 とキリスト教の教義の様に、命まで取れと神の指示とな
 り、示唆し、洗脳し・・ここに至れば・・事は重大な事
 になる。
  「いじめ自殺」や「殺戮行為に対する混乱」へ、そして、
 「戦争へ至る」という親展へと行く・・
  発端は・・単なる・・『違い』。
  それを、「容認するか?」「口に出すか?」から始ま
 る。
  人類の歴史で、悲しい、そして、悲惨な、一番の汚点
 が・・「肌の色の違い」を気にしたこと・・、
  キリスト教は、「肌に色を持つ人種」を蔑視した・・
  卑劣な「有色人種へのキリスト教の蔑視感の植え付け
 洗脳行為」だった。
  アウグスティヌスがこれをよくやった。
  この差別に因する大虐殺、戦争などなどが人類の歴史
 に、累々と存在している。
  「個性的だとおおらかに容認することが出来ない宗教
 =キリスト教」・・大罪悪である・・
  そして、「その違いを排除しろと洗脳するキリスト教」
 となっている・・何と多くの方々が抹殺された事か・・嗚呼
  「異教徒は殺せ」「魔女は、生かしておいてはならな
 い」・・このキリスト教の教義が、人類を悲しみの悲惨
 な歴史に残して来た。
  そして、違いを無くすグローバリゼーションを洗脳し
 て・・世界に展開しようとしている・・今がある・・
  多様性の良さを理解できなくて、排除している宗教・・
  自然が、多様性の中に調和し、豊かに成り立って、人
 類へ幸を与えていることが・・理解できない宗教・・ま
 た、その信奉者たち・・
  違いを認め合い、尊重し合う所から・・人類の豊かさ
 と幸せが始まるという事が・・理解できない・・
  遠近(おちこち)に生まれ出(いずる)違いある生物
 ・・万物・・そして、人類の幸せを・・理解しなさい・・
  怖ろしい事に・・劣った宗教・キリスト教は以下のよ
 うに教え、洗脳する・・
  聖書では、以下の1例の様な文言が、聖書のあちこちで、
 繰り返し、繰り返し、キリスト教の神が異物を・・異教
 徒を・・異端を殺せと命じている・・
  (申命記7章1~2節)
  あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを
 導き入れ、
  多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、
 カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、
  すなわち、あなたよりも数多く、また、力のある七つ
 の民を、あなたの前から追い払われる時、
  すなわち、あなたの神、主が彼らをあなたに渡して、
 これを撃たせられる時は、あなたは、彼らを全く滅ぼさ
 なければならない。
  彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれ
 みも示してはならない。
.
1876年、内務省が、「医制」を全国に及ぼし広めた。
  各県は、県規則により医師の開業試験を実施した。
  すでに、1874年に、「医制」公布していた(文部省よ
 り東京・京都・大阪三府に布達)
  国家の試験によって、医師の開業許可制が採用された。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまで、医師といえば、漢方医が主流であったが、
 医術開業試験の導入によって、新規に開業する医師は、
 西洋医学の知識が必須となった。
  医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関
 の卒業者に対しては無試験で与えられた。
.
1942年頃、アメリカが、「日本の皇室をつぶす」とした。
  CIAの前身であるOSS(戦略事務局。第二次世界
 大戦中のアメリカの政府機関)・・、
  (正確には、さらにその前身であるCOI)
  ・・という情報機関の中に設けられた『対日占領政策』
 の基礎を作り上げた組織の文書・・
  (2001年以降、徐々に情報公開されている)
  ・・には、「客観的に見て天皇制は日本民族にとって
 は計り知れない資産だ」としている。
  だから、日本からの将来の脅威を無くすためには、「
 つぶさなければいけない」と・・、
  『占領政策の基本コンセプト論理』を決めている。
  この様に、近年、アメリカで明らかになってきた資料
 によって、
  占領政策が、長期的に「天皇制をつぶす」という目的
 にしていた事が明らかとなった(今も、隠れた形で存在
 する)
  そして、占領軍が去った後も・・、
  日本の放送機関や報道機関などの機関へ資本参入し、
 その行動を続けている。
  放送内容や、報道内容の変更を働きかけ、次第に、そ
 の変質が起きて来ている。
  皇室関係の報道機会の減少から、呼び方の変更など・・
 多岐にわたっている。
  皇室関係の報道も少なく、また、番組もほとんどなく
 なって来ている。
  そのアメリカの「天皇制をつぶす」の方針書には、「
 天皇制を当面利用しよう」という議論も展開され、
  1947年(昭和22年)、新皇室典範の制定と、旧十一宮
 家の臣籍降下の「後継者を徐々になくして行く」につな
 がって行っている。
  日本の公共放送だと言われているNHKの・・日曜大
 河ドラマにおける「皇室の方々への蔑(さげす)み呼称」
 は、大きく世の批判を受けたが、お先棒担ぎ行動である。
  批判に対してNHKは、当然のごとく「蔑んでいない」
 と、強弁したが・・不埒な放送局である。
  このキリスト教に偏するNHKと、その宗教を共にす
 る輩たちが、寄らば大樹だと、節操なくあちこちに「跋
 扈している」。
  (参考)跋扈:ばっこ、「後漢書」崔駰伝から。「跋」
     は越える意、「扈」は竹やな》魚がかごを越え
     て跳ねること。転じて、ほしいままに振る舞う
     こと。また、のさばり、はびこること。
  また、戦後、アメリカの占領政策は、感受性の強い子
 供たちに対し、日本の子供たちの教育から、「天皇・皇
 室に関する教育が、取り外させられた」。
  憲法第一条にある「日本国民の象徴である天皇陛下」
 についての教育も駄目だとされた。
  そして、日本の大切にすべき伝統の破壊攻撃も酷(ひ
 ど)い。
  そして、朝日新聞は、慰安婦問題の虚偽報道で謝罪し
 たが、2005年にもまた、朝日新聞は、天皇制と差別の関
 連で、虚偽報道をして謝罪している。
  同様に、NHKも、酷い番組を放送している。
  この卑劣な放送局・NHKは、天皇陛下を性犯罪の戦
 犯だとして裁くという番組を放送した。
  巨大な放送媒体で、影響力が絶大のNHKでの、まっ
 たく公正さのない放送であった。
  長時間に渡る、一方に偏した放送で、NHKの大罪放
 送だった。
  ・・日本を、アメリカ化したいアメリカがあり・・
 また、日本を、準州化したいアメリカがあるという状態・・
  その為、アメリカは、日本の皇室を潰(つぶ)したい
 とした。
  内政干渉の極みである。
.
1948年、アメリカの卑劣な占領政策の一事例・・
  この年に、日本の大財閥の系列の方が、神奈川県に児
 童養護施設を作った。
  アメリカ兵によって、多くの日本人女性が強姦され、
 また、アメリカ政府の要請で慰安所を作ったが・・、
  この施設の子供たちは、この様な関係から生まれた子
 供たちのための施設だった。
  アメリカは、日本の占領政策が上手(うま)く行った
 と自画自賛する・・が・・
  だが、その占領政策が、良かったなどとは微塵も言え
 ない・・、
  そのことを・・さすが、アメリカは見抜いている・・
  だが・・アメリカは言う・・
  アメリカは、うまく行ったのは、『マッカーサーに、
 カリスマ性があったからだ』と言った。
  これは違う。
  それは、日本人に、「分別をわきまえる高い民度があ
 った」からだ。
  この様な日本の高い民度は、一朝一夕ではできない。
  長い長い歴史の中で育(はぐく)まれたものだ。
  即席で出来る訳がない・・、
  「アメリカに作られた」と、アメリカが言うのは「お
 こがましい(身の程知らずだ、差し出がましい」。
  また、旨く行ったとアメリカが言う事は・・、
 「アメリカ兵の『モラル』が高かったから」と、アメリ
 カが自画自賛した・・が・・これにはびっくりするくら
 いの事実誤認だ。
  日本が、ひたすら、あからさまに表には出さずに来た
 こともあるし・・また・・、
  毎日のアメリカ兵の強姦行為が、あまりに酷いので、
 「新聞報道をするな」と、アメリカは、日本に報道規制
 をした。
  アメリカは、「自分の足元を見る事が出来ない国」。
  事実は、まったく正反対・・、
  アメリカ兵は、パリでも、フィリピンでも、沖縄でも、
 日本本土でも、朝鮮でも、ベトナムでも、世界中で酷(
 ひど)いことをし続けて来た。
  そして、その地で生まれた子供たちの多くを、可哀想
 なことに見捨てた。
  アメリカが感知する事ではないという態度を取った。
  アメリカ人2世の子供たちを見捨てて来た。
  アメリカ政府は、ここを見て見ぬふりをし、個人的な
 事として逃げた・・そして、見捨てた・・最高の卑劣さ
 にあった。
  アメリカ政府は、どこ吹く風と、まったく、手を差し
 伸べなかった・・逃げた・・卑怯だった・・、
  東京で、アメリカ政府は、「アメリカ兵の慰安所を作
 ってくれ」と指示したが・・、
  ならば、生まれた子供の責任も、アメリカ政府は取る
 べきなのだ・・依頼したのなら・・
  アメリカ兵に強姦された世界の女性のかたがた、その
 数知れない事実を知ろうとしない・・知らないふりをす
 るアメリカ政府。
  この文の初めにある民間施設も、アメリカへ何度も訴
 えたが無視された・・
.
1966年10月、アメリカのジョンソン大統領は、「米ソの貿
 易促進をするのだ」という美しい名目で、ソ連へ300億ド
 ルを融資した。
  これが、まったく、怪(あや)しい融資で・・ソ連は、
 この金で、アメリカから「非戦略物資」という名目で、
 また、その名目なら輸入できることになっているという
 「カラクリ」の非戦略物資を輸入した。
  しかし、その非戦略物資は「限りなく怪しいもの」だ
 った。
  それは、航空機部品、レーダー、トラック車輌、コン
 ピューター、石油などで・・、戦争に使うための「戦略
 物資」で、ソ連は、その物資を北ベトナム軍へ、すぐさ
 ま送り込んだ。
  この時、ベトナム戦争が戦われており、アメリカは、
 南ベトナムへも援助していて、大量の戦略物資が南ベト
 ナムへ送り込まれてもいた。
  (北ベトナム軍も、南ベトナム軍も、アメリカの戦略
 物資で戦争をしていた)
  この敵の北ベトナム軍へ、ソ連は、アメリカから融資
 された金で、アメリカから非戦略物資と称する戦争に使
 える物資を輸入し・・、
  アメリカ・南ベトナムの敵の北ベトナムへ送った。
  マッチポンプなのである。
  (参考)マッチポンプ:偽善的な自作自演の手法・行
    為を意味する。マッチを送って火事を起こさせ、
    ポンプを送って、その火事を消させる。
  アメリカは、第二次世界大戦の時も、ソ連へ武器・兵
 器を送り込み、その輸送までしてソ連へ武器・兵器を供
 給し、日本とソ連に中立条約があるのが分かっているの
 にその様な行為をし・・、ソ連はその武器と兵器で、中
 立条約を破棄して、日本へ攻めて来た。
  多くの日本の民間人が戦車に踏みにじられた・・虐殺
 された・・機関銃を乱射され・・虐殺された・・
  ベトナム戦争の場合も、アメリカは、アン・フェアな
 行為をしていた。
  戦争が、続けば儲かるアメリカのエスタブリッシュメ
 ントの輩たちのしでかしたことだった。
.
1999年、日韓併合は条約による併合である(侵略なんかで
 はない)・・韓国の屁理屈が却下される・・
  この年の世界の歴史学会で、韓国は、「日本による日
 韓併合は、侵略である」という従来の主張が、持ち出さ
 れた。
  この時、世界的に問題となり、多くの国際法の権威や
 歴史学者たちが議論を戦わせた。
  その結果、韓国側の主張は退けられ、「日韓併合は条
 約による併合であり、侵略ではない」という結論が出さ
 れた。
  しかし、韓国は同じことを繰り返している。
  その結果、アメリカ・メディアは、「日本による苛酷
 な植民地支配」という言葉が、日本と韓国の関係を現わ
 す枕詞になってしまった。
  しつこい韓国ロビイストによって、事実が曲げられ、
 日本は、悪者にされている。
.
2013年末、ウクライナ危機が起きた。
  また、クリミア危機とも言い、以下の説明がある・・、
  解説その1:クリミア半島の帰属を巡って、ロシアと
 ウクライナの間に生じた政治危機。
  この危機は、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権を崩壊
 させた2014年ウクライナ騒乱の後に生じたものでクリミ
 ア共和国とセヴァストポリ特別市の一方的な独立宣言(
 クリミア共和国の成立)、それらのロシアへの編入の宣
 言に至った。
  解説その2:ウクライナで昨年・2014年2月、親ロシア
 路線に抗議する市民に治安部隊が発砲・・、
  混乱の中、ヤヌコビッチ前大統領が逃亡し、親欧州路
 線の政権が発足した。
  しかし、ロシアは、「欧米が扇動したクーデターだ」
 と反発し、南部クリミア半島を併合した。
  4月からは東部で親ロシア派と軍の戦闘が始まった。
  5月の大統領選で親欧州のポロシェンコ氏が圧勝。
  親ロシア派と9月に停戦合意したにもかかわらず、戦闘
 が続き、
  2015年2月に、再び、停戦合意した。
  これまでに、民間人を含む6000人以上が犠牲になった。
   (2015-04-05 朝日新聞)
  以上が、公(おおやけ)の解説であるが、アメリカに
 媚(こび)を売る解説となっている。
  そもそもクリミア半島は、ロシア帝国の領土だった。
  そして、このクリミア危機は、アメリカの仕掛けであ
 った・・、
  アメリカのネオコンが、ロシアのプーチンを追い落と
 そうと仕掛けた罠(わな)だった。
  ウクライナ危機が起きた発端は、親ロシア路線を選択
 しているビクトル・ヤヌコビッチ政権に抗議デモが起き
 た。
  (このデモに参加する住民・主にウクライナの西側の
 住人に、アメリカやEUは資金的な応援をしていた)
  このデモ隊の中に居た一部が発砲し、国内が大混乱に
 陥(おちい)ることから始まった。
  親ロシア路線を執(と)ったヤヌコビッチ大統領は逃
 亡し、政権は倒れ、反ロシア政権が生まれる。
  しかし、ここにも、アメリカの仕掛けの証拠があった。
  市民だけのデモだと思われていたデモだったが、ネオ
 コンが扇動し、親ロシア政権に揺さぶりがかけられてい
 た。
  このデモの中に、アメリカのビクトリア・ヌーランド
 国務次官補が居て、デモを煽っていた。
  その様子が、テレビの映像にすっぱ抜かれた。
  また、このアメリカの国務次官補は、親ロシア政権が
 倒されてからの後、「どんな政権を新たにつくるか?」
 について、駐ウクライナのアメリカ大使と電話で話し合
 っていて・・この様子もYouTubeにアップされた。
  そして、この時に電話で話されたとおりのヤツェニュ
 ーク首相が暫定政権を樹立した。
  つまり、アメリカは、ウクライナの政府を転覆し、そ
 の後の政権をどうするかまで決めていた。
  この時のアメリカ大統領は、第44代の民主党バラク・
 オバマだった。
  また、程度の悪いのは、アメリカに応援されたこの反
 ロシア政権が、ウクライナ東部のロシア系国民を弾圧し
 始めた。
  また、ロシアの軍港の貸与を中止する行為までした。
  元々、クリミア半島は、ロシアの領土で、ロシアは、
 ズーッとウクライナに対してクリミアの返還を訴えて来
 ていた。
  この様な事実を、アメリカやヨーロッパのメディアは、
 まったく正しく伝えなかった。
  逆に、この正しい話を「逆にして伝えた」。
  日本のメディアも、この欧米メディアに引きずられた。
  ロシアが悪者にされた。
  「ロシアが、領土的野心を持って、ウクライナへ侵略
 をした」と報じた。
  アメリカが、さも正しい様にして「ロシア制裁だ」と
 言っているが・・アメリカが正しくない・・アメリカに
 正義がない。
  因みに、1783年に、クリミア・ハン国が、ロシア帝国
 によって征服され、クリミア半島にロシア人、ウクライ
 ナ人等のスラブ人が入植し始め、旧クリミア・ハン国の
 多数派だったクリミア・タタール人の人口が徐々に減少
 した。
  しかし、20世紀までに、ロシア人は多数派になり切れ
 なかった。
.
2017年6月5日、題:社会資本に対する税金の効率的投入のお願い
  ・・(以下は、某組織に出した手紙)・・
  拝 啓 (平成29年6月5日)
  御公務、ありがとうございます。
  ある企業の新聞広告で表題の事を申し上げたいと思い
 ます。
  是非、御一読を賜わります様、お願い申し上げます。
  安易な、スクラップ・アンド・ビルドを効率化して戴
 きたいと思います。
  税金の効率的な使用にもつながると感じています。
                     敬 具
  (内容)
  NEXCO中日本(中日本高速道路株式会社)が、新
 聞広告で以下の記述をしているが・・おかしいです。
  これは、ただ単に、ある会社の広告がおかしいという
 問題ではないのです・・その記述は・・
  「高速道路、リニューアルプロジェクト、進行中。
  いま、安全・安心を次の世代へ。
  高速道路は誕生から半世紀。
  その約4割が開通から30年を超え、老朽化が進んでい
 ます。
  これからも暮らしや物流を支える安全な道路であるた
 めに。
  現在、最先端の技術を駆使し、機能の向上と長寿命化
 を図る「高速道路リニューアルプロジェクト」を実施し
 ています。云々・・とあるが、おかしい?のです。
  結論を先に言えば・・、
  最適なメンテナンスを、最適時期に、適宜して来てい
 れば、この様な大工事にならないで済んだ。
  お金もかからないで済んだ。
  これを、人間に例えれば、毎年、健康診断を受けて、
 悪くなりそうなところを早期発見をして、早目、早目に、
 適切な処置をして行けば、健康で幸せな人生を歩んで行
 くことが出来る。
  その、やるべき事をやらないで、怠(おこた)って、
 大手術ではないが、手術をしなければならなくなった・・
 という状態です。
  放っておけば・・何でも悪くなる。
  これでは、税金がいくらあっても足りません。
  老巧化は進むものだと、ほったらかしにするところが、
 おかしいのです。
  「開通から30年を超えたから、老巧化した」という固
 定観念が、税金食いの間違った観念。
  日本は、プロパガンダされて、この間違い観念に毒さ
 れています。
  「何でも、壊して、建て替える、作り替える」という
 間違いの固定観念の中にあります。
  30年くらいで壊すなと言いたい。
  大きな経済ロスとなっている。
  また、メンテナンス学の活用を、そして、メンテナン
 ス業界の育成を、そして、社会資本メンテナンス庁の創
 設をして戴きたい。
  「最先端のリニューアル技術で工事をしている」と言
 ったって、手術をせざるを得ない状態にまで悪化させて
 しまったということ。
  日本は、根本から、考え方を変えて行かねばならない。
  本当は、どこが悪くなったからリニューアルをすると
 いう事ではなく・・、
  ただ単に、「30年経ったから、多分、老巧化しただろ
 うから、やり替えよう」ぐらいの事で、貴重な税金を使
 っているのだと言える。
  もったいない事です。
  30年くらいで悪くなる訳がない。
  どんぶり勘定的な判断で、貴重な税金を使わないで戴
 きたい。
  税金を使うなら、地方の橋で、ろくにメンテナンスを
 していない橋に、ちゃんとチェックをし、税金を投じて
 戴きたい。
  また、ダムに、この重要な社会資本の建設に、尊い命
 を捧げた方々の慰霊碑があるが・・、
  どの建設にも、その建設に命を捧げた方々が居られる
 のです。
  この高速道路にも居られる、それ故に、安易に、ただ
 単に、30年経ったからと、この意味からも、安易な社会
 資本の壊す行為は行なうなと言いたい。
  総ての社会資本に、建設に命を捧げた方々の名前を刻
 んだ碑を建てるべきなので、その碑を見る事によって、
 貴重な尊い命と交換で、便利な社会資本を享受している
 ありがたさが分かるだろう・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

  


2017年06月07日

(増補版)533E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年3月)

題:(増補版)533E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年3月24日、度量衡法(どりょうこうほう)公布
  度量衡の単位、度量衡計測機器の構造・検定・事業者
 などについて定めた。
  1875年(明治8年)の度量衡取締条例(明治8年8月5日
 太政官達第135号)を継承し、
  1891年(明治24年)3月24日に公布され、
  1893年(明治26年)1月1日に施行された(明治24年3月
 24日法律第3号)。
  当時、日本は、原則として尺貫法であったが、既に、
 1886年(明治19年)にメートル条約に加盟していたため、
 尺と貫は、メートル原器・キログラム原器から換算する
 方法を採って、メートル法も公認されるという二元的な
 単位体系を取った。
  その後、日本は、第一次世界大戦下の好況を通じて工
 業国として成長し、日本製品をより広く売っていくため
 には単位体系を一元化して、工業品規格の統一を進める
 方針をとった。
  これを受け、1919年(大正8年)圧力・温度・比重単位
 の規定が追加され、
  また、1921年(大正10年)4月11日に、メートル法に
 一本化する改正法(大正10年4月11日法律第71号 度量衡
 法中改正法律)を公布した。
1891年3月25日、板垣退助が、自由党総理となった。
  この年、星亨は、立憲自由党の党指導部の統制力と党
 全体の連帯感を強めるため、急進派の大井憲太郎の反対
 を押し切って党全体を代表する「総理(党首)」を置く
 ことを提唱した。
  また、党名も「立憲自由党」から「自由党」へと改称
 された。
  そして、党大会で、選挙の結果、自由党の総理は、大
 井憲太郎に大差をつけ、板垣退助に決まった。
  自由党の関東派で勢力を二分していた星亨と大井憲太
 郎だったが、未来の政局と日本の産業政策を見通した星
 亨のほうが、次第に、急進的で明確な政策ビジョンのな
 い大井憲太郎を圧倒するようになり、
  大言壮語に基づく『政治情勢の破壊』を得意とした大
 井憲太郎は、実際的な政権担当能力や政策立案能力に乏
 しく、
  1892年には、自由党を脱党して、わずか4人になった同
 志と共に東洋自由党を結成した。
1891年3月25日、駅夫世話役・シグナルメン・ポイントメン・
 駅夫・踏切看手の日給等級を制定した。
1891年3月27日、東京・神田錦町に、電気パノラマ館が開業
 した。
  因みに、上野パノラマ館が、1890年5月7日に開業して
 いる。
  そして、日本パノラマ館が、1890年5月22日に開業し、
  また、国光館パノラマ館は、1902年5圧4日に、今・現
 在の九段会館近くに開館している。
1891年3月28日、第1回ウエイトリフティング世界選手権(
 ロンドン)
  参加国:6、参加者:7
  金メダル獲得数(2013年終了時点)1位:中国、154個、
  2位:ソ連、151個、日本:13位、10個、
1891年3月29日、アレクサンドル3世が、シベリア鉄道建設
 の勅書を出した。
  アレクサンドル3世は、息子ニコライ2世にあてた勅令
 の中でシベリア鉄道着工を宣言した。
  鉄道建設は、この建設を核としてロシアの工業化を図
 りたいと目論んだ。
  アレクサンドル2世が爆弾テロに倒れ、1881年、アレク
 サンドル3世が即位したのだが・・、
  もともとは、アレクサンドル3世の兄ニコライが皇位継
 承者だった。
  しかし、皇帝修行の最後の仕上げのヨーロッパ旅行中
 に結核性髄膜炎に倒れ、不帰の人となった。
  そのため、次男であったアレクサンドル3世が、皇位継
 承者となり、帝位を継いだ。
 アレクサンドル3世は、息子の暗殺を恐れたアレクサン
 ドル2世の計らいで、ロマノフ王朝の離宮ガッチナで厳重
 に警備されて育った。
  歴史家のセルゲイ・ソロヴィヨフ(哲学者のソロヴィ
 ヨフの父)と、当時、ペテルブルク大学法学部教授で、
 後に、宗務院総裁となったコンスタンチン・ポベドノー
 スチェフによって教育された。
  特に、保守のポベドノースチェフからは、専制君主の
 絶対性を叩き込まれた。
  後に、ポベドノースチェフは、アレクサンドル3世の政
 治顧問となり、人事権を握った。
  因みに、ロシアの最初の鉄道は、ニコライ1世の時に始
 まり、試験的にペテルブルクとツァールスコエ・セロー
 を結んだ。
  1848年には、ワルシャワ~ウィーンが結ばれ、そして、
  1851年には、モスクワ~ぺテスブルク間に、鉄道を敷
 設した。
  そして、1857年に至り、鉄道事業に投資する事によっ
 て、鉄道関連の各種事業・・レールを作る鉄鋼業、車両
 の燃料を供給する石炭業などが活発化し、また、各地の
 流通も活発化するという効果があり、この年に、鉄道勅
 令を発した。
  この法令によって、ロシア鉄道中央会社が設立され、
  政府が、株式の利子配当、社債を補償し、
  会社には、4000キロの鉄道建設計画が与えられた。
  その後、発展して、アレクサンドル3世の時代の1883年
 までに、2万4100キロまで線路は布設された。
  ヨーロッパとの幹線も結ばれ、
  政府は、1866年に、鉄道用材の国産化を命じた。
  レールの製造から製鉄業も興った。
  鉄道網は、急速に拡大して行った。
  1883年には、ロシア政府の公債を引き受けた功績で、
 ロスチャイルドのフランス分家が、鉄道の燃料のバニト
 油田を入手した。
  そして、ロシアでの石油ビジネスに乗り出した。
  資本家も工場などの経営をし始め、ブルジョアジーの
 形成がなされて行った。
  重工業への進展もなされ、ロシア通貨のルーブルにも
 国際的信用を与えようと兌換紙幣化もした(金準備高の
 不足で頓挫)
  また、貿易収支の改善を目指して、関税率を徐々に引
 き上げ、輸入商品に20%の関税をかけるところまで行っ
 た。
  しかし、1866年~1885年のロシア政府支出は、陸海軍
 への支出32%、政府負債の総額28%、鉄道建設費用10%
 と70%を占め(その他の予算はないという・・クビの回
 らない財政となった)、
  1885年~1886年のオーストリア・ハンガリーとの軍事
 的緊張で軍事予算が急増し、予算的破綻に至り、ルール
 ルは大暴落した。
  しかし、フランス金融市場で、資金のだぶつくフラン
 ス金融界は、発行されたロシア国債を熱狂的に買い付け
 た。
  1888年には、フランスの金融シンジケート団が、ぺテ
 スブルクを訪れ、5億フランの公債を買い付けることもし
 た。
  また更に、ロスチャイルドのパリ分家が20億フランの
 ロシア公債を引き受けた。
  結果として、ロシア公債の80%をフランスが引き受け
 た。
  これによって、1893年の露仏同盟へとつながって行く。
  ・・が、ロシアは、5%という高配当にしていた。
  ロシアは、徹底的な穀物輸出で外貨を獲得しようとし
 た。
  しかし、カナダやオーストラリアの穀物の台頭で、穀
 物の国際価格が下落する。
  ここで、ロシア政府による農民いじめが始まる。
  そして、外貨流出を抑えるため、高関税策をとる。
  輸入が抑制され、外貨流出も抑えられ、また、鉄道ブ
 ームに乗ってロシアの工業化を推し進めた。
  経常会計は黒字化し、3億金ルーブル分の金準備高を増
 大させることもでき、この黒字財政を背景に、アレクサ
 ンドル3世は、シベリア鉄道の着工を宣言した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:金を出すような国になるのか・・?
.
紀元前27年、ローマ帝国のアウグストゥスが初代皇帝とな
 った。
  古代ローマが、ローマ帝国となったのは、イタリア半
 島を支配する都市国家連合から、「多くの民族や人種や
 宗教を内包しながら、大きな領域を統治する国家」へと
 成長を遂げたからだった。
  しかし、まだ、表面的な帝政だった。
  紀元前27年より、ローマ帝国は、共和政から帝政へと
 移行したが・・、
  この時の初代皇帝となったアウグストゥスは、共和政
 の守護者として振る舞った(プリンキパトゥス:元首政
 という)
  後に、285年になって、、ディオクレティアヌス帝が即
 位し、専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。
  因みに、ローマ帝国の奴隷は、ヨーロッパ人やアジア
 人だった。
.
1857年7月18日、沖縄県先島諸島・多良間(たらま)島沖の
 海底で・・、
  琉球王国末期のこの年に遭難したオランダ商船ファン・
 ボッセ号(665トン)の積荷と見られる陶磁器片や、箱状
 の物体が確認された(2015年12月)
  船体は発見できなかった。
  この事例は、沈没地点と遭難状況を、ほぼ明らかに出
 来た珍しい事例である。
  この地点は、約40件の、この様な沈没があった地点。
  琉球王国の正史「球陽」によると、この船も、上海か
 らシンガポールに向かう途中、大風に遭い、珊瑚(サン
 ゴ)礁の浅瀬に撃破した。
  乗組員27人は自力で島に避難した。
  調査によって、陶磁器片などが、150×300メートルの
 範囲で散乱しているのが確認された。
  水深は28メートル。
   (読売新聞、2015年12月2日)
.
1870年5月19日、西田幾多郎(にしだきたろう)が生まれた。
  哲学者、京都大学教授、
  西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の
 道」と呼ばれ、日本の道百選に選ばれている。
  そして、西田幾多郎に育て上げられた西田哲学系の哲
 学者である三木清(みききよし)は、
  パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが、
  「それを人間は知っているが、天は知らない」と言っ
 た。
  天とはキリスト教の神である。
.
20世紀初頭、イギリス王家は、「サックス・コーバーグ・
 ゴーダ王家」と言った。
  エドワード7世の父が、ドイツの名門貴族ザクセン・コ
 ーブルク・ゴーダー家の出身だったためだった。
  エドワード7世は、即位とともに「ハノーバー王家」を
 改めた・・それは・・、
  1914年に、第一次世界大戦が勃発すると、時のジョー
 ジ五世は、ドイツと戦うのにイギリス王家がドイツ系の
 名前ではまずいと、「ウィンザー王家」に改称したのだ
 った。
  そのとき使われた言葉が「ノブレス・オブリージュ(
 気高さ、勇気、自尊心)」・・で、国家のため戦えでは
 なかった。
  (参考)ノブレス・オブリージュ:直訳すると「高貴
    さは(義務を)強制する」を意味し、
     一般的には、(その恵まれた)財産、権力、社
     会的地位を保持をするには、責任が伴うという
     ことを指した。
  この時は、貴族の二男、三男に向かって言われた言葉
 で・・、
  国民全体に対して義務を果たすというのは第二だった。
  トカゲのしっぽ切りの意味があった(財産争いの二男、
 三男切り)。
  良く言えば、イギリス社会の階級制度を守るため・・
  (参考-2)
  ノブレス・オブリージュの倫理的な議論で・・、
  特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合
 いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー」を要
 約する際に用いられ・・、
  最近では、主に、富裕層、有名人、権力者、高学歴者
 が・・、
  「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社
 会的責任に関して美しく用いられる。
  「ノブレス・オブリージュ」の核心は・・、
  貴族に、「自発的な無私の行動を促す」という明文化
 されない不文律の社会心理であり・・、
  それは、基本的には、心理的な自負・自尊である・・
  ・・が・・、
  それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そ
 して、おそらく法的な)圧力であるとも見なされ・・、
  法的な義務ではないため・・、
  これを為さなかった事による法律上の処罰はないが・・、
  社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われる
 こともある。
  (参考-3)
  モラル・エコノミー(道徳経済)とは、経済的な行為
 や行動を支えている論理の中に、
  人々の道徳的なもの(倫理)がある場合、
  そのような原理で動く経済活動や実践のことをいう。
  しかし・・最近のアメリカは・・、
  モラルの「モ」の字もない・・、
  強くキリスト教を信仰したアメリカ大統領のブッシュ
 (子)の起こした「サブプライム・ローン」などの金融
 トリックは最悪だった(経済的、大破廉恥事件)
.
1901年8月、国産第1号機関車を製作した。
  「汽車会社車両製作回顧」という史料を参考に記す・・
  日本における、民間鉄道車両産業の草分けとして、明
 治29年(1896年)に創立された汽車製造合資会社。
  汽車会社の創立期における日本は、近代重工業国家へ
 向けて、ようやく第一歩を踏出そうとしていた。
  そして、この頃は、高価な輸入車両を、一日も早く日
 本人の手によって作り出そうという願望に燃えていた。
  この頃の日本には、民間で、機関車を製造したメーカ
 ーはなかった。
  しかし、客車等を製造するメーカーは、平岡工場、三
 田製作所、石川島造船所、天野工場が4大メーカーで、
 その他にも、中小メーカーが多く存在した。
  技師長に、外国人を招聘する予定であったが、得られ
 なかった・・、
  そこで、日本鉄道大宮工場の東京帝大機械科卒の長谷
 川正五(1881年~1934年)を引き抜いた。
  1899年(明治32年)の終る頃、当時、最も車輌数の多
 かった1B1形タンク機関車のうち、ダブス社製(後の、
 国鉄500形)の図面を官鉄(現:国鉄)新橋工場から借用
 して、トレースを始めるとともに、材料と部分品をイギ
 リスに発注した。
  第1号機関車の概略は、ジョイ式弁装置、滑り棒は2本
 式、
  台車は、ラジアル式、真空ブレーキと手ブレーキを備
 え、安全弁はラムスボットム式、注水器はノンリフティ
 ング式であった。
  部分品のうち、安全弁は自社製、その他ボイラ用の蒸
 気ドーム・煙室管板・喉板・火室後板などの型曲げ物は、
 イギリスから成形品を購入した。
  動輪は完成品であった。
  このようにして、機関車を製作したとはいうものの、
 実情は、組立作業が大半を占める有様であり、
  第1号機は、明治33年(1900年)7月頃から、第2号機と
 ともに、美濃紙にトレースされた1枚の図面を、各工場で
 持回り、ようやく明治34年(1901年)8月に完成をみた。
  この1号機の受注金額は22,200円で、製作費と荷造費を
 合せて19,510円で完成している。
  1号機完成の頃に、官設鉄道が、寸法や様式などが同形
 でイギリスのスミスウイルソン社から輸入した機関車の
 価格は、24,245円であった。
  この実績からしても、国家経済に寄与した。
  (汽車会社車両製作回顧を参考にした)
.
1917年、アメリカのハリウッドが、映画の脚光を受ける拠
 点として、この頃から、発足した。
  1903年の当時は、農村だったハリウッドは、市制を施
 行するが、
  1910年にロサンゼルス市と合併した。
  20世紀の初めのこの頃、映画の中心地は、ニューヨー
 ク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであ
 った。
  特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作
 者や、映画関連機器製造業者、一般製造業者らを含め9社
 が、
  それぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピ
 クチャー・パテンツ・カンパニーを、1908年に設立した。
  これに参加しない映画関連業者には、カンパニーから
 高額の特許料が請求された。
  参加が認められなかった中小の制作者らは、一斉に、
 これに反発した。
  特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィル
 ムを使って撮影を続行した。
  カンパニー側は、探偵を雇って違反者を片端から摘発
 したため、独立系の制作者は、カンパニーの目のとどか
 ぬ土地に出かけて映画を制作した。
  中でも、ロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影
 には理想的で、クリエイターが集まり始めた。
  また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ
 手がやってくることを察知して国境を越えて逃げること
 ができた。
  1912年に、なお、カンパニーは、この年に、反トラス
 ト法違反であると指摘され、
  1915年には、連邦裁判所で反トラスト法違反であると
 された。
  1917年には、カンパニーは消滅し、これに前後してカ
 ンパニー参加業者らも、次々に、ハリウッドへ拠点を移
 した。
  そして、そのアメリカの映画と言ったって、今・現在、
 『未来をテーマにする映画』にせざるを得ない状況。
  過去のものと言えば、インディアンの先住民の方々の
 殺戮・大虐殺となるアメリカ・・
  それ故、過去の映画は作れないアメリカとなっている。
  日本の時代劇のような映画を撮ろうとしたら、先住民
 のアメリカ・インディアンの方々を殺戮し・大虐殺する
 映画にすべてなってしまう。
  アメリカの過去は、西部のアメリカ・インディアンの
 方々の、その総べての土地を奪う話だけ・・それしかな
 い。
  その総べてが、殺戮話でしかない。
  その、あまりの悲惨さに、アメリカは、その様な過去
 の映画は、撮れなくなり、撮らなくなった。
  西部劇は、過去に撮影された「アーカイブス品」しか
 見ることが出来ないアメリカとなった。
  今、あるのは空想の、浅薄な、あるのか? ないのか?
 分からない、子供だまし映画しかないアメリカとなった。
  あまりにも卑劣な過去の歴史の為である・・、
.
1963年、イランのパーレビ国王は、祖国を近代国家にする
 ために、白色革命と称して、日本の近代化政策を手本と
 して、「西の日本となること」を目指した。
.
2002年9月30日、石破茂議員が防衛大臣となる(~2004年9
 月27日)
  石破茂議員は、国賊だと言われている。
  石破茂氏は、「日本は謝罪し続けよ」と言っていない
 と言っているが、韓国では、石破がそう言ったと報道し
 ている。
  中国に関しては、「日本は、中国に謝罪しろ」と、石
 破議員は言った。
  中国のメディアは、中国共産党の影響を大きく受けて
 いて、その影響下の記事となっているが、その様に報道
 した。
  石破事務所は、「中国の報道の通りだ」と言った。
  石破議員は、防衛大臣である時でさえ、「日本の名誉
 を一生懸命守ろうという意思のない大臣」だった。
.
2017年1月22日、この日のニュースに、「在日米海軍の戦闘
 機部隊、まもなく移駐」とある。
  神奈川県の厚木基地に駐留するアメリカ海軍の戦闘機
 部隊が、2017年中に、岩国基地(山口県)へ移駐する。
  南関東で、唯一、戦闘機が配備された飛行場「アメリ
 カ海軍厚木航空施設」。
  この厚木基地は、第二次世界大戦(大東亜戦争)当時
 は、首都圏の防空の要で、日本海軍の局地戦闘機「雷電」
 が配備されていた。
  そして、GHQ総司令官マッカーサーが、降り立った
 地でもある。
  今・現在、アメリカ海軍の航空部隊「第5空母航空団」
 が駐留している。
  これは、横須賀を母港として来た空母「ミッドウェイ」
 「インディペンデンス」「キティホーク」「ジョージワ
 シントン」・・そして、現在の「ロナルド・レーガン」
 が艦載する部隊で・・、
  その配備は、F/A-18E/F「スーパーホーネット」戦闘機
 そして、F/A-18E/Fの派生型EA-18G「グラウラー」電子戦
 機・・約50機。
  そして、E-2C「ホークアイ」早期警戒管制機・・C-2A
 「グレイハウンド」輸送機・・MH-60R/S「シーホーク」
 哨戒・多用途ヘリコプターなどの大所帯。
  因みに、日本には、戦闘機が配備された自衛隊ないし
 在日米軍の飛行場が、北海道から沖縄まで全国12か所あ
 る(ここを、北朝鮮は攻撃すると言っている)
  そして、今回、受け入れる岩国基地では、その受け入
 れに向けた工事が進んでいて、格納庫などの施設はすで
 に建設済となっている。
  そして、厚木基地には、海上自衛隊のP-3Cや、P-1哨戒
 機、UP-3C試験機、C-130R輸送機などは、そのまま残る。
  そして、岩国基地に配備されていたEP-3電子諜報機、
 OP-3C写真偵察機、UP-3D電子戦機、U-36A多用途機などの
 海上自衛隊機が、逆に、厚木基地へ移駐して来る。
  また、アメリカ海軍としての厚木基地がなくなるわけ
 ではなく、厚木基地にはF/A-18E/Fなどの整備格納庫もあ
 り、移駐後も、厚木で整備などがなされる予定。
  今、北朝鮮のミサイルが急速に発達し、技術を得て来
 ているが・・、
  この様な現状に於いて、歴史的事実から思い起こすと・・
  甲斐の武田氏は・・勇猛な騎馬軍団を持って、周囲を
 睥睨(へいげい、威圧するように、周囲をにらむ)して
 いた。
  しかし、新進気鋭の若武者・織田信長が、当時の最先
 端の武器・鉄砲で軍団を作ることを思い立ち、この最先
 端の武器を持った軍団でもって、武田氏の勇猛な騎馬軍
 団を打ち破った。
  今、アメリカは、最新鋭の戦闘機群を持ち、また、原
 子力空母群を持つ・・、
  しかし、北朝鮮の高高度から飛来する夥(おぼただ)
 しいミサイル群に対処する術(すべ)は持たない。
  当然、日本とて同じ。
  過去、石油という生きるための「肝心な生命線」を絶
 たれた日本は、やむなく戦争に突入した・・この様な歴
 史的事実も、同時に、想念する。
  もう、原子力空母群も、最新鋭・戦闘機群も、過去の
 兵器となったのではないか?・・武田氏の騎馬軍団の様
 に・・、
  そして、日本は、ピストルを突き付けられて、「金を
 出せ」と言われたら・・
  金を出すような国になるのか・・?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

  


2017年06月04日

(増補版)532E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年3月)

題:(増補版)532E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年3月1日、東京手形交換所が設立された。
  手形交換所は、一定の地域内に所在する金融機関が申
 し合わせによって、定時に決まった場所へ約束手形や小
 切手などを持ち寄って、その決済交換を行う。
  その場所を言う・・そして・・、
  1879年12月に、16の銀行が参加した大阪手形交換所が
   日本で最初のものであり、
   以後、手形法制の整備に伴って、
  1880年10月、東京でも為替取組所が創設された。
  1883年9月、東京銀行集会所の機関である手形取引所が
   創設され、
  1887年、東京手形交換所がその下部機関として発足。
  1891年3月、日本銀行も参加してロンドンで行われてい
   た銀行が日本銀行に持つ当座預金を通じた振替決済
   が導入された。
    また、この時東京銀行取引の直属の機関となり、
   東京交換所と改称された。
1891年3月1日、大阪鉄道会社線の王寺~高田間が開業した。
1891年3月2日、衆議院で、予算修正案が可決した。
  妥協策に基づき当初予算から650万円が削減された。
1891年3月6日、徳川育英会、育英黌に農業科を設立した。
  後の東京農業大学。
  (参考)黌:コウ、オウ、まなびや(意読み)
  東京農大の原点「育英黌農業科」は、現在のJR中央線
 飯田橋駅近くにあり、
  創立者は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴
 任した榎本武揚。
  当時の新聞には、「~専ら実際応用的に教授し~」な
 どと、その実学的な教育を報じた。
1891年3月8日、神田ニコライ堂の開堂式
  東京・神田駿河台に日本ハリスト正教会が、宣教師ニ
 コライによって創建され、開堂式が行われた。
1891年3月9日、第1回帝国議会が閉幕した(3月7日説あり)
  大日本帝国憲法の下で、日本が立憲政治の第1歩を踏
 みだす。
  帝国議会は、貴族院と衆議院の2院で構成され、
  貴族院は、公選制ではなく、皇族や華族と国に功績の
 あった人その他の中から天皇陛下が任命する議員で組織。
  定員は251人、そのうち皇族10人、5等爵のうち第1位の
 公爵10人、第2位の侯爵21人、第3位の伯爵14人、第4位の
 子爵70人、第5位の男爵20人、天皇陛下みずからの選定し
 た勅選が61人、多額納税者が45人。
1891年3月18日、ロンドン~パリ間で国際電話が開通した。
  ロンドン・パリ間に海を越えて電話開通し、両市にて
 盛大な開通式が挙行された。
1891年3月18日、山陽鉄道会社線の三石~岡山間が開業した。
1891年3月19日、立憲自由党が自由党と改称して、板垣退助
 を総理に決定した。
  立憲自由党大会が行われ、党名を自由党と改称し、板
 垣退助を総理に選出した。
1891年3月23日、小口の生糸に対しても、200マイル(321.9
 キロメートル)以上運送するものは、すべて4級の運賃に
 割引(鉄二調甲第106号)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国が、破たんすると予測されている。
.
紀元前3世紀頃、朝鮮の紀元前3世紀頃、前漢初期に、衛氏
 朝鮮が中国に冊封されて以来・・、
  1895年に、日清戦争で、日本が清を破り、下関条約に
 よって、朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して
 中国の冊封国であった。
  以上の様に、韓国・朝鮮は、中国に冊封(さくほう)
 され続けて来た。
  また、生き延びるために、冊封されるしかないと判断
 され、冊封された。
  それは、一面、ともに苦しむべき可哀想さを感じるが、
 中国は、冊封者として傲慢に振る舞った。
  韓国・朝鮮が、それに怯(おび)え、卑下(ひげ、自
 分をあえて低い位置に引き下げてへりくだること)する
 態度に、傲慢に振る舞う中国があった。
  韓国・朝鮮は、中国の使節に若い娘を差し出してまで
 して、至れり尽くせりの接待をした。
  また、毎年、数千人の美女を献上したという記録もあ
 る(その様な主従関係下に置かれた)。
  韓国・朝鮮の長い冊封の時代は、その様な主従の関係
 で続いた。
  韓国・朝鮮は、国の誇りを捨ててまでして、生き延び
 ざるを得ない状況下の冊封体制に置かれた。
  中国の冊封は、そこまで要求した。
  (参考)冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章
    などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・
    諸民族の長が取り結ぶ君臣関係(宗属関係/「宗
    主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係。
  中国王朝は、その国力と中華思想を背景に、近隣諸国
 との外交関係樹立において、臣下の礼を求め、そして、
 交易や対外的な権威を相手国へ認めた。
  しかし、当の中国の歴史教科書には、この東アジアの
 外交秩序は、中国を中心とする「冊封体制」で成り立っ
 ていたという説明は、まったくない。
  韓国も、ほんの少しが説明されているだけ。
  また、日中関係で、奴国王、卑弥呼、倭の五王なども、
 別に中国の皇帝から認められる前から王だった。
  中国との対外関係に有利なので、肩書きをもらっただ
 けで継続的な冊封関係ではない。
  故に、日本が、中国に対して対等だったという事は、
 百済に対する日本の支配権を、中国が認めなかったので、
 日本から国交を断絶している。
  また、懐良親王や足利義満の日本国王は、中国側もそ
 の上に天皇陛下が居られることを認識し、そして、承知
 していた上での交流だった。
  日本は、中国とは、気ままに、必要があれば、ときど
 き交流していただけで、朝鮮などと同じ冊封にあったの
 ではない。
  また、明治期に於いても、日清修好条約は、完全な対
 等条約だったし・・、
  さらに、副島種臣は、中国皇帝に三跪九叩頭なしに拝
 謁することを認めさせ、それまで外交使節が皇帝に会え
 なかった西洋諸国も、やっと、この問題から解放された。
  そして、日清戦争の日本の勝利などを経て、朝鮮、琉
 球、ベトナム三か国との冊封関係も、近代国際法におい
 ても解放した。
  (参考)三跪九叩頭礼:さんききゅうこうとうれい、
    臣下が皇帝に対面するときの儀式で、3度ひざま
    ずき、そのたびに3回ずつ頭を床につけて拝礼す
    るもの。
.
1865年4月14日、この日、アメリカ大統領リンカーンが暗殺
 されたが・・、
  この事件を考える上で、南北戦争に於いて、その戦費
 が、どこから調達されたかを見ることが、重要な視点と
 なる。
  アメリカのこの戦争の場合、南部は、イギリスのロス
 チャイルド家から借金をして、戦費を調達した。
  この時、ロスチャイルド家は、30%もの高利率の利息
 を要求し、取った。
  一方、北部はリンカーン大統領で、自国の財務省に通
 貨を発行させ、戦費を賄(まかな)った。
  北部は、金融資本から借金をしないどころか、自ら通
 貨を発行するという行為に出た。
  この様な行為、通貨発行を始めると、ロンドン・シテ
 ィーの国際金融資本にとって大きな痛手となった。
  通貨発行権を握って、ボロ儲(もう)けのパターンが
 崩れたからだった。
  当時の「ロンドン・タイムス」の社説は、以下の様に
 記した・・、
  「アメリカ政府は、通貨をコストをかけずに供給する
 事になる。
  そうするとアメリカ政府は債務を完済し、債務のない
 国になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要な総ての通貨を所
 有する事になり、文明国の中で、市場類のない繁栄を謳
 歌する事になる。
  総ての国も、人材も、富も、アメリカ合衆国に移動し
 てしまう。
  だから、アメリカ政府は、打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は、地上のすべての君主
 国を破壊するだろう」。
  これほど強い危機感を、イギリスは、通貨発行権を失
 って感じていた。
  そして、1865年4月14日、リンカーンは暗殺された。
.
1910年、相次ぐ西欧諸国の干渉は、清朝のチベットの宗主
 権を反故(ほご、約束や決まりなどを取り消したり、破
 ったりする。無効にする。破棄する)にしようとした。
  そこで、四川省西部のチベット、カム地方には、中国
 農民の移住が行われ、東チベットは、1910年、西康省と
 なった。
  北京から帰国の途、清朝の侵略ぶりを見聞したダライ・
 ラマは、1909年に、軍の撤退を要求した・・が、
  翌年・1910年、四川軍がラサに進駐し、ラサ市内で発
 砲する暴挙を行った。
  そこで、ダライ・ラマは、ロシアに避難しようとした
 が、種々の障害によりイギリスの勧告に従いインドに非
 難した。
  こうして、ダライ・ラマは、親露政策を転換してイギ
 リスの武力援助を要請した。
  ところが、1911年に、辛亥革命が起こり、四川軍の勢
 力は衰退していったのを機に、
  翌年・1912年、ダライ・ラマは、ラサへ帰り、残存軍
 を一掃し、チベットの完全独立と漢人の追放を宣言した。
  一方、中華民国の大統領・袁世凱は・・、
  「チベットは中国本土の各省と同等の地位に立つ」と
 の声明を発表した・・が、
  イギリスは、袁世凱に対して、中国のチベットに対す
 る宗主権の『否定』などの要求を通達した。
  ここが、現代のチベット問題の始まりで・・、
  この時、ドルジェフによりモンゴリアとチベットは、
 再接近しようとしていた。
  (参考)モンゴリア:モンゴル族の居住地であるモン
     ゴル国を中心に、中国の内モンゴル自治区やロ
     シア連邦のブリヤート共和国などから成る、シ
     ベリアの南、万里の長城の北に広がる広大な高
     原状の地域。
  そして、両国は、1913年、蒙蔵条約により互いに独立
 を承認しあった。
  その後、この状態の収拾のためシムラ会議といわれる
 イギリス、中国、チベット三者会談が実現した。
  この会議での中国の主張は
  1、 チベットは、中国領土の一部である。
  2、 中国は、駐蔵大臣をラサに駐在させ、従来通りの
   権利を有する。
    かつ、衛兵2600人中1000人はラサ駐在、ほかの1600
   人は各地に分駐させる。
  3、 チベットの外交軍事事務は、中国中央政府の指示
   を受けて行うこと。
    中央政府の許可なしに外国と訂約できない。
  4、 チベット人で中国人のために監禁され、財産没収
   されたものは全て釈放返還のこと。
  5、 中国とチベットの国境は、この文章の附図に示し
   たとおりとする。
  英国の主張は
  1、 中国は、チベットの独立を承認する。
  2、 チベットの国境は、崑崙安定塔以南、甘粛省西部、
   四川省打箭炉及び雲南省阿敦子以西に至る。
    新疆省と青海はそのうちに含めるものとする。
  3、 イギリスは、チベットと単独に通商条約を締結す
   る。
  4、 中国軍隊は、チベットに駐屯してはならない。
  5、 中国は、チベットから強奪した財産は賠償する
   こと。
  チベットの主張は
  1、 チベットの独立承認。
  2、 チベットの領域は、青海、リタン、パタン、打箭
   炉を含む地域とする。
  3、 1893年、及び、1908年の印蔵通商条約は、英蔵両
   国にて改訂する。
  4、 中国は、官員をチベットに置くことはできない。
  5、 中国、蒙古各地寺廟は、ダライ・ラマが教主であ
   ることを認め、ラマを派遣してこれを維持すること。
  6、 中国は、強制徴収した税金、及び、蔵人の受けた
   一切の損失をことごとく賠償すること。
  ・・となっているが、
  英蔵側と中国側の意見には、はなはだしく離れており、
 討議は6ヶ月続いたが、結局、シムラ会談は決裂し、イギ
 リスとチベットのみにより、調印が行われた。
  この結果、現在も、中国側は、宗主権は昔のまま存続
 すると考え、
  チベット側は、ダライ・ラマの独立宣言は、あくまで
 有効であると考えた。
  チベット問題の起因は、1959年に起こったチベット動
 乱よりも以前から始まっていた。
  チベット問題を解決するためには、これらの史実を十
 分に認識した上で、互いの民族が互いの民族を理解しよ
 うとすることが大切。
  互いの理解がないうえで問題を解決しようとしても、
 そこに誤解が生まれ、憎みあう結果になる。
  1959年以降、100万を超えるチベット人が、中国軍に
 よって殺されたり、
  また、政治犯として捕らえられ、そして、その結果、
 死亡したり、
  物価の上昇を起因とする飢餓によって死んでいる。
  互いに互いを理解することが最低条件である。
.
1913年1月、ダライラマ13世は、亡命先の英領シッキムから
 チベットに帰還し、
  1913年2月に、国民に向けて有名な布告文をだした。
  この時のダライラマ13世による『布告』の時点で、チ
 ベットは独立国家であると判断された。
  各主張は・・、
  ①チベットの主張:「チベットは自由な独立国である」、
  ②中国(清末新政期の清朝と中華民国と中華人民共和
   国)の主張:「チベットは中国の主権(sovereignty)
   下にある」・「中国のチベットに対する主権」(チ
   ベットを付庸国・付属国にあたる属国ではなく、中
   国本土の省と同等の属地とする)、
  ③英国と英領インドの主張:「チベットは中国の宗主
   権下にある」・「中国のチベットに対する宗主権と
   チベットの自治(自治権)」である。
.
1945年7月8日、アメリカ国内で、ドイツ人捕虜の殺害事件
 (真夜中の虐殺)が起きた。
  ユタ州サライナの捕虜収容所で、収容されていたドイ
 ツ人捕虜が、機関銃で銃撃され、9人が殺害され、20人
 が負傷した。
  因みに、すでに、2ヶ月前の1945年4月30日に、ヒトラ
 ーは自殺し、ドイツは降伏しており、この事件は、ドイ
 ツ降伏後に起きた。
.
1945年12月31日、アメリカ占領軍組織のGHQは、日本で
 教える「修身」や「日本史」「地理」を教えるなと、「
 停止ニ関スル件」を発令した。
  修身、日本史、地理の授業は中止となり、教科書は回
 収された。
  アメリカの卑劣なやりたい放題の命令だった。
.
1962年、終戦後の1962年に、藤田飛曹長は、オレゴン州ブ
 ルッキングス市から招待を受けアメリカに渡った。
  そして、同市市民から「歴史上唯一、アメリカ本土を
 空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受けた。
  そして、同市の名誉市民の称号が贈られた。
  そして、今日の話・・、
  まったく安易に、キリスト教は、隣国の富を奪いに行
 く・・そして、キリスト教の神の義(正義)があるとす
 る。
  飢餓に襲われ自民族を救うために、その様にして良い
 と教え・・、隣国の富は生きる糧(かて)として奪って
 良いのだと、キリスト教は洗脳し、キリスト教の聖書に
 書き、キリスト教の神の正義まであると思い込ませた。
  キリスト教は、種々の洗脳事項を聖書に書き、洗脳し、
 正義のように錯覚させた。
  今・現代でも、この様な洗脳がなされており、話され
 ており・・そして、その錯覚によって、人類の不幸が多々
 起きている。
  アメリカ大統領のブッシュは、イラクへ近代兵器を使
 って、持ち込んで・・攻め込んだ。
  キリスト教に洗脳されたアメリカ大統領ブッシュは、
 この戦争を、「現代の十字軍だ」と叫んだ。
  アメリカは、この洗脳によって、また、この錯覚によ
 って、本当に多くの国へ、「独りよがりの正義感」で、
 錯覚で、大悪行をした、攻め込んだ。
  今・現代になっても、この恐怖の行為は、北朝鮮を震
 え上がらせ、原爆開発をさせている・・、
  また、大陸間弾道弾・ミサイル開発を、躍起になって
 やる状況となっている。
  キリスト教の思想に端を発した北朝鮮の原爆開発と大
 陸間弾道弾開発となっている。
  人類は、限りなく絶滅の危機の危機に迫っている。
  日本は、第二次世界大戦(大東亜戦争)の時・・、
  潜水艦に飛行機を、戦闘機を載せ、格納し、アメリカ
 まで行って、アメリカ本土を爆撃した。
  その日本の攻撃機は、アメリカのどこにでも、その爆
 弾を投下できたが、その攻撃機は、爆弾を、アメリカの
 山の中に落とした。
  帰還したその攻撃機の兵士・搭乗員は、上官より「山
 林の木の二・三本、焼いただけではないか」と言われた。
  アメリカは、この時、戦争に勝ちに勝っている時なの
 で、まさか、日本の攻撃機が、アメリカ本土へ来て、日
 本の攻撃によって、山が火事になったとは思えず、
  しばらくの間、山火事が発生したと思っていた。
  日本のその兵士は、責任を問われたわけでもなく、戦
 後も生き、長生きをして戴いている。
  まだ、その様な兵器が日本にあると、まったく知られ
 ていない時、
  ホワイトハウスでさえ爆撃できたであろう・・また、
 ニューヨークの人々が、大勢集まる所にも投下できたで
 あろう・・が、日本は、アメリカの山林で良しと・・日
 本は・・その様に判断した。
  この時点で、最適な場所だと判断された。
  一人も、アメリカの方を殺していない。
  日本は、その様な国。
  後日談だが・・、終戦後の1962年に、藤田飛曹長は、
 オレゴン州ブルッキングス市から招待を受けアメリカに
 渡り、同市市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲し
 た敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の
 称号を贈られた。
  また、その時、同市市民から藤田飛曹長が投下した焼
 夷弾の破片を贈られた。
  その破片からは、かすかに火薬の臭いがしたという。
  なお、藤田飛曹長は、戦争中、軍刀として用いた愛刀
 をブルッキングス市に寄贈した。
  この招待は、外務省を通じて伝えられたが、当の本人
 には招待の趣旨が知らされていなかったため、現地に到着
 するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思
 っており、寄贈した軍刀は、戦後も密かに所持していた
 ものを、収監されそうになった時には自決するため、荷
 物に忍ばせて持参したものであった。
  その後、藤田飛曹長は、贖罪の意味を込めて同市に植
 林を行ったり、同市市民を日本に招待するなど、日米友
 好に残りの半生を費やした。
  また、そのような貢献を受けて、後に、ロナルド・レ
 ーガン大統領よりホワイトハウスに掲揚されていた星条
 旗が贈られた。
  なお、かつての爆弾片と星条旗は、茨城県土浦市の「
 まちかど蔵野村」に保存公開されていたが、2015年11月
 現在遺族に返還されている。
  このエピソードは、1995年12月29日放送の「たけし・
 さんまの世界超偉人伝説」(日本テレビ)で取り上げら
 れ、藤田飛曹長本人も出演している。
  しかし、日本では余り知られる事がなかった事もあり、
 ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も、「この話
 は全く知らなかった」と発言している。
.
1965年、アメリカは、男女差別が無いように見えるが、ま
 た、男女差別が無いように見せているが、実際は違う。
  その為に、1965年、ジョンソン大統領は、大統領行政
 命令第11246号を発令した。
  それは、こんにちまで効力を有させている。
  それほど、アメリカには、男女差別がある。
  そのような措置が必要なアメリカ。
.
1968年、日本のトキは絶滅したが、NHKは、このトキの
 絶滅につながる行為をした。
  この年に、NHKが、トキの営巣地である黒滝山上空
 にヘリコプターを飛ばし、空撮を行った。
  その爆音の影響で、その翌年の1969年に、トキが、黒
 滝山の営巣地を放棄した。
  トキは、人里近い両津市へ移動してしまった。
  この様なNHKの常識外れの行為が、番組が放送され
 るまで、その様な空中撮影が行われていると気付く人は
 居なかった。
  しかも、この様な空中撮影は通年に渡って行われてい
 た。
  しかし、番組の責任者は、ヘリコプターを飛ばしたの
 は一度だけと言った。
  そして、営巣期を避けた・・と、
   1981年1月11日~1月23日に、佐渡島に残された最後の
 野生のトキ5羽が、すべてが捕獲された。
  そして、佐渡トキ保護センターにおける、人工飼育下
 に移された。
  しかし、回復は出来ずに、日本の野生トキは絶滅した。
.
2000年、怪しいメディア
  スパイ容疑で北朝鮮に逮捕され、拘留された日本経済
 新聞の元記者の杉島隆という人が居る。
  結局、この年に、1年半の拘留の後に、杉島氏は釈放さ
 れた。
  しかし、この時、TBSが怪しいニュースを報じた。
  TBSは、特ダネの様に・・、
  「現在、北朝鮮に拘留中の杉島氏に死刑判決が出まし
 た」・・と、間違いニュースを報じた。
  実際は、釈放されたのであって、何で、こうなったか?
  これは、北朝鮮からTBSに、偽の間違った情報がリ
 ークされ、流されたのを、TBSは、特ダネ的に放送し
 たのだった。
  TBSは、北朝鮮と、この様なニュースが流れる関係
 を持っているという事を示した。
  また、不思議な事に、この時、北朝鮮の取調官(北朝
 鮮という国の官吏)が、この釈放された日本経済新聞元
 記者の杉原氏に、「日本のメディアは、お前のことをち
 ゃんと報道するからな」と言っていたという。
  TBSと北朝鮮の怪しいつながりがあると言える。
.
2025年、中国が、破たんすると予測されている。
  フランスの経済学者で、ミッテラン大統領の補佐官や、
 欧州復興開発銀行の初代総裁を務めたジャック・アタリ
 氏は、著書「21世紀の歴史、未来の人類から見た世界」
 で・・、
  「2015年には、いずれにせよ中国共産党の76年間にわ
 たる権力に終止符が打たれるであろう」・・と、予測し
 ている。
  中国への投資が無駄になりかねないウォール・ストリ
 ートの連中の中で、目先の効くものは、すでに中国から
 投資を引き上げている。
  また、すでに、ゴールドマン・サックスは、中国から
 撤退している。
  そして、中国の経済成長が止まれば、「世界の工場」
 としての機能の見切り時と、中国のそのステージの終了
 となると予測されている。
  今、中国政府は、中国経済を盛り上げようと、推進し
 ようと、躍起になっている。
  因みに、2017年1月6日、ブルームバーグが報じたとこ
 ろによると、
  ゴールドマン・サックスは、中国人民元は、2017年も、
 2016年と同様に、じりじりと下げるとしている。
  BRICS(ブリックス)から中国(C)を除いた、
 BRIS(ブラジル、ロシア、インド、南アフリカ共和
 国)通貨の上昇にかける取引を「堅持」するよう投資家
 に呼び掛けている。
  ブルームバーグは、中国は、トランプ大統領の保護主
 義的政策などの影響を大きく受けるからとしている。
  また、中国を除いたBRISは、輸出面で、アメリカ
 の労働力と、直接、競合する度合いが小さく、リスクが
 少ないとされている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年05月31日

(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月)

題:(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年2月26日、板垣退助が、立憲自由党を離党した。
  少し振り返る形になるが・・
  大同団結運動の主導者・後藤象二郎が、1889年3月、突
 如、黒田清隆内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反
 対派が激しく対立し、大同団結運動が分裂状態に陥った。
  この時、板垣は、後藤や河野広中に説得されて上京し、
  1890年5月、愛国公党を組織し、大同派の団結を図った。
  1890年9月、板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶
 楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、
 政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、
  板垣は、第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政
 府に買収された責任を感じて離党した。
  1891年3月には復党して党総理となり、
  1895年には、伊藤博文内閣との協力関係を進め、
  1896年4月、内務大臣となる。
  1896年9月、内相を辞し、党活動に専念し、
  1898年、憲政党内閣のもとで、ふたたび内務大臣とな
 ったが・・
  1898年10月、辞職した。
  その後、政治活動から身を引いて社会問題に専心した。
1891年2月27日、帝国議会の衆議院が、中江兆民の辞表を受
 理した。
  中江兆民は、民党を結成しようと奔走し、
  1891年9月、立憲自由党が結党された。
  そして、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党
 土佐派の裏切りによって政府予算案が成立した。
  兆民は、このことに憤り、1891年2月に辞職した。
  その際、「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩
 艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御
 届候也。」という辞表を提出した。
  自身をアルコール中毒と主張する辞職願は、僅差で承
 認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉である
 という批判を受けた。
1891年2月28日、九州鉄道会社線の遠賀川~黒崎間が開業し
 た。
1891年2月、横川~軽井沢間の軽井沢側から着工された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
    且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・
     論議を尽くして行かなければならない。
.
1606年、アメリカの植民地化の勅許状が出た。
  誰がその地に居ようが、「その地をイギリスのものと
 せよ」とのイギリス王の命令書が出た。
  イギリスのジェームス一世は、北アメリカの恒久的な
 イギリスの植民地とする勅許状を出した。
  そして、この年・1606年に設立されたロンドン会社(
 後のヴァージニア会社)が、
  翌年・1607年に、105人の植民者の一団を、新大陸・ア
 メリカへ送り付けた。
  その北アメリカの地の植民地化の命令を出したイギリ
 ス王の名を取って『ジェームズタウン』と名付けた。
  ここが、北アメリカにおける、イギリスの最初の植民
 地であるヴァージニアとなった。
  最初、入植者たちは金銀を求め、漁(あさ)った。
  それは、16世紀に、メキシコやペルーなどの中米南米
 など広大な地で、掠奪や殺戮の限りを尽くし、殺人鬼と
 化していたスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが、金銀を求める姿と同じだった。
  また、儲けの要である東洋への通商路を求めた。
  数年間、探索が試みられた。
  それに、植民者としての新天地のその生活との闘いの
 日々だった。
  1609年~1610年の冬は、特に、厳しい寒さで、「餓死
 の時期」と呼ばれた。
  当時、500人を超える植民者たちが居たが、餓死などで
 60人に減っていた。
  厳しい生存状況の中で、多くの生命が失われた。
  生き残った者たちは、その厳しさに耐えられず、植民
 を断念しようとさえした。
  生きる事がおぼつかない植民者たちの「一攫千金の夢」
 は潰え去っていた。
  この窮地を救ってくれたのが、先住民であるインディ
 アンの方々だった。
  まったく、ここに、厚い厚い恩が生まれているのだが・・?
  インディアンの方々は、命がけで、この厳しい冬期を
 越える事を教えた、そして、危機を救った。
  しかし、しかし、この危機の時期が過ぎ去ると、この
 様な破たん寸前の危機を救って戴いた恩があるのに・・?
  喉元過ぎれば熱さを忘れる・・この植民者たちの恩忘
 れの輩たちだった・・このインディアンの先住民の方々
 を追い出しにかかった・・その土地が欲しい・・だった・・
  そして、インディアンの方々を殺戮して行く。
  1919年には、イギリスは、たくさんの植民者と年季奉
 公人と称する人間を送り込んだ。
  これは、オーストラリアでもやった事と同じように、
 イギリス本国で不要になった人たちを、「物を片付ける
 が如く」に棄民した。
  キリスト教徒は、恩や縁ということを簡単に捨てる・・、
  だからイギリスも、よく、この様に、国民を棄民した。
  (アメリカは、黒人の方々を棄民した・・あのリンカ
 ーンが・・)
  この時も、その棄民をした。
  ロンドンの町の道端に居る極貧者を、連れ出して行き、
 かり集めて、アメリカへ送り込んだ。
  ロンドン市は、その促進のために税金から金を出した・・
 支出した(あたかも人間の・・ロンドン市民の清掃事業
 であった・・卑劣である)。
  また、女性も、「植民地花嫁」として送り込んだ。
  花嫁を得た植民者は、120ポンドの煙草を支払った。
  名目は美しく渡航費と称したが、あたかも女性を買う
 がごとくの行為だった。
  そして、この1619年8月20日には、さらに悪い事をしで
 かしていた。
  人類史上の最悪の大汚点である「アメリカの奴隷貿易」
 が始まった。
  キリスト教の聖書に書かれた「奴隷狩り」の教えの如
 くの行為が行われた。
  オランダ船が、20人のアフリカの方々を奴隷として、
 ジェームズタウンに連れて来た。
  アメリカ人は、卑劣にも、このアフリカの方々を奴隷
 として買った。
  アメリカ人たちは、この行為を『輸入』と称した。
  意識の遅れた者どもだった。
.
1960年代、アメリカは、この頃になって、やっと、黒人か?
 否か?の記入を・・自己申告制にした。
  キリスト教は、有色人種を蔑視して来た。
  キリスト教の歴史は、その最初から、その差別の歴史
 だった。
  そして、人々へ、その教義を刷り込んで来た。
  キリスト教の聖書に書かれている「奴隷狩りの行為」、
 それは、隣国の民を、安易に奴隷にした。
  聖書で、キリスト教の神は、隣国に攻め込み、隣国の
 民を「奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫んだ・・そして、
 その行為を、キリスト教の神の「正義だ」とした。
  キリスト教国のアメリカは、アフリカの黒人の方々を、
 長い期間、奴隷にして来た。
  そして、黒人の方々を虐げてきた。
  WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の白人のキリスト教徒たちは、黒人の方々を奴隷として
 使い、そして、蔑んだ。
  この大汚点の歴史が・・アメリカに残った。
  本当い軽蔑すべき行為だった。
  国勢調査や、色々な人口統計において、アメリカは、
 「白人」「黒人」「その他の人種」と書くことを要求し
 た。
  それは、特に、黒人の方々を差別するためのものだっ
 た。
  「黒人であるか否か」を知るためのものだった。
  この事を端緒にして、黒人の方々は卑劣な差別を受け
 た。
  少しでも黒人の血が入っていれば、「黒人と記せ」と
 要求された。
  決して「白人」とはしなかった。
  国勢調査局は、「黒人の血の割合が、どんなに少なく
 ても黒人として申告しなければならない」と指示した。
  卑劣である。
  1960年以降になって、やっと、黒人の方々にも「自己
 申告制」が採用され、黒人と記すのは本人次第と、やっ
 と、なった。
  しかし、1970年に制定されたルイジアナ州法では、32
 分の1以上の黒人の血が混じっている住民は、「黒人とす
 る」とされた。
  そして、出生、結婚、死亡などの証明書には、その人
 種を記せとされた。
  黒人の詩人であるラングストン・ヒューズは、「アメ
 リカ合衆国では、黒人という言葉は、ともかく血管の中
 に、いくらかでも黒人の血が流れている者には、誰にで
 も適用されるのだ」と嘆き、詠った。
  この事は、「たとえ、白人の血が、いかに多くても、
 黒人の血が一滴でも確認されれば、その人は、「白人」
 ではなくて、れっきとした「黒人」だという事」を意味
 された。
  「白い黒人の悲劇」が生まれた。
  今まで、白人だと誰もが思っていた方が、ある時、何
 かのきっかけで、黒人の血が、一滴でも混じっているこ
 とが判明すると、
  その瞬間から、その人は、黒人として、白人社会から
 黒人社会へと追い返された・・追放された。
.
2005年12月29日、韓国の廬武鉉(ノムヒョン)大統領は、
 「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」、
 別名「親日派糾弾法」を公布した。
  日本が、誠実に朝鮮半島・韓国の国づくりをしたこと
 は顧(かえり)みられなかった。
  日本から朝鮮半島・韓国へ、莫大な資本を持って行っ
 て朝鮮半島を創って行った善意はまったく顧(かえりみ)
 られなかった。
  そして、逆に、その行為を無視し、日本に協力して「
 国造りに励んだ人々」を吊(つ)るし上げた。
  日本の統治時代に、日本に協力した人間は、その子孫
 の財産までも、その全部を、没収するという法律だった。
  恐ろしいまでも事実誤認をして、罪に落とす法律だっ
 た。
  また、これは、過ぎ去った過去を罰するという、やっ
 てはいけない行為となっている。
  国際的にもやってはいけないとされている「非難され
 るべき非常識行為」である。
  例えば、もし、あなたが、以前に酒を飲んだからと、
 今、その行為を罰するという法律(禁酒法)を作って、
  その法律が出来たからと言われ、そして、逮捕された
 ら・・?
  あなたは、どうしますか?
  こんな事、あり得ますか?
  また、今、住んでいるあなたの家が、過去のある時に
 建てたその家が、その時は合法だとされ、建築許可され、
 そして、建築したのに・・、
  今、過去にさかのぼって・・その家は違法だという法
 律ができて、法律違反だとされ、「あなたの家は取り壊
 せ」と、命令が出されたら、あなたは、従いますか?
  どう思いますか?
  国際的にも・・「このような事は出来ない」とされて
 いて、
  また、常識的にも、この様な事を、国家が行なっては
 いけない事となっている。
  しかし、韓国は、この様な事をした・・行った。
  この様な法律を作って、親日家を虐(いじ)め、そし
 て、その人々を潰した。
  そして、韓国国民の方々へ反日感情を煽(あお)った。
  また、この法律で、遡(さかのぼ)って、「李完用(
 りかんよう)」という人を売国奴だとされた。
  その他の人々にも、さかのぼって、日本に協力したと
 した人々をリストアップして、卑劣な糾弾(弾圧、嫌が
 らせ)行為をした。
  朝鮮戦争の英雄の、白善燁 (ペクソンヨプ) 将軍まで
 も糾弾された。
  反日意識が、朝鮮・韓国の国民の方々へ刷り込まれた。
  そして、現在、韓国に在住する、韓国へ行った家族の
 日本人の子弟・子供(仕事などで韓国へ行った日本人子
 弟)に対し、慰安婦を強制連行する様な日本人の子だと、
 虐(いじ)めが行われている。
  変に煽る韓国政府・・異常に煽る韓国政府が、ここに
 ある。
  問題を吹き返している。
  また、日本が統治したと言ったって、そのほとんどが、
 朝鮮の方々によって行政・政治などが行なわれた。
  その8割以上の方々が、多数が、朝鮮の方々だった。
  この事実が、ユーチューブに公表されるや、日本の公
 共放送のNHKは、直ちに、必死に、削除した。
  公正であるべき公共放送のNHKの異常な行動だった。
  韓国の異常行動を糾弾する行為を覆い隠すNHK、「
 事実を隠す行動をするNHK」だった。
  親日であれば、真実を捻じ曲げてまでして監獄へ入れ
 るという韓国の現状を伝えないで、韓国を庇(かば)う
 NHKだった。
  韓国の最高裁までもが、この行政の行動に追従した。
  この裁判で判明したことだが、登記簿謄本までも、書
 き換えるという、考えられないレベルの異常行為がなさ
 韓国だった。
  韓国は、国際的な常識も通じない国となっている・・
 そして、その国政は、シッチャカ、メッチャカとなって
 いる。
  国民の方々が、可哀想な状態である。
.
2010年、韓国系アメリカ人
  2010年のアメリカの国勢調査では、韓国系アメリカ人
 は、約170万人で、アメリカの総人口の約0.6%を構成して
 いる。
  因みに、日系アメリカ人は、2005年の国勢調査におい
 て122万人強で、アメリカ合衆国の総人口の0.4%を占めて
 いる。
  2011年の調査では、アジア系アメリカ人の内訳では、
 中国系、フィリピン系、インド系、ベトナム系、韓国系
 に次いで、日系アメリカ人は6番目となっている。
  そして、この在アメリカの韓国系アメリカ人が、慰安
 婦問題をアメリカで煽っている。
  しかし、北アメリカの日系人は、韓国系アメリカ人や
 中国系アメリカ人などと比べると、民族街に集結したり
 することが少ない。
  特に、アメリカでは、第二次世界大戦において、差別
 的な、そして、違法で異常な強制収容される歴史があり、
  また、アメリカに対する忠誠を誓う日系兵士の奮戦な
 どの努力もあり、
  強制収容されるときは、不動産などの財産を失うとい
 う苦しみもあり、
  その様な歴史から、日系アメリカ人は、あまり民族性
 を出さずに、民族的に集結するようなことも控え、同化
 するように努力していた。
  しかし、韓国系アメリカ人は、この対極の状態に居た。
  アメリカに渡った韓国系アメリカ人は、競合の少ない
 黒人街の貧困地域で商売を始めた。
  ここで、黒人の方々を差別した。
  従業員に、黒人の方々ではなく、ヒスパニック系を雇
 用した。
  そして、民族的にも集結し、閉店後は、「韓国人街」
 へ帰った。
  この様な行動から、黒人の地元住民の方々から、自分
 たちだけでまとまって、「自分達を差別しながら、自分
 達から儲けている連中」と思われた。
  この様な事から、1992年4月29日のロスアンゼルスの
 「黒人暴動」とか、「ロス暴動」と差別的に白人たちが
 呼ぶ、黒人の方々の「差別撤廃を訴える行動」が・・、
 この時、韓国人商店襲撃へと結びついた。
  韓国系アメリカ人は、この様な状況になる様な事を行
 なっている。
  また、韓国系アメリカ人は、ヒスパニック系アメリカ
 人やインド系アメリカ人などとも、色々、トラブルを起
 こしている・・この様な差別的行為が、あまりにもひど
 いので、アメリカ国内で問題となり騒がれた、そして・・
 この様な民族性がある・・少なくとも、温厚な民族性で
 はない。
  氏より育ち・・というが・・同情すべき歴史の中にあ
 った。
  (参考)氏より育ちとは、人間を形成するときに大事
    なのは、家柄よりも教育や環境であるということ。
     日本は、幸いにして、豊かな、そして、様々な
    文化の中に育まれた長い歴史の中にある・・、
.
2012年8月10日、韓国の李明博大統領が、明らかに日本の領
 土である竹島に上陸するという行為をした。
  李明博・韓国大統領は、「日本の右傾化に歯止めをか
 けるため(上陸した)」と発言した。
.
2012年8月14日、韓国が、日本の天皇陛下の謝罪の土下座を
 要求した。
  李明博・韓国大統領の発言、「天皇が足を縛って跪
 (ひざまづ)く土下座をするなら、(日本へ)訪問して
 もいい」だった。
  日本のメディアは、何故か?これを、ほとんど報道し
 なかったが、一部の報道機関だけが、多くを修正して報
 道した。
  日本の天皇陛下が侮辱された発言に対し、日本のメデ
 ィアのほとんどが、韓国を庇(かば)った。
  韓国を糾弾する日本のメディアは、ほとんどなかった。
  報道の中立性が、まったくない日本の報道機関だった。
  この様な暴言を許してしまう日本の報道機関。
  正義を追求し、闘うという姿勢が、まったくない日本
 の報道機関だった。
  常識ある国の状態を逸脱した国であっても、その侮辱
 発言は、常に、正すという姿勢の報道機関であらねばな
 らない。
.
2013年、この年の韓国は異常に感じた(いつもだとの声が
 聞こえるが・・?)
  そこで、以下の事が言いたい・・、
  韓国は、今まで、中国の冊封思想・冊封態勢の意識の
 下にあった。
  遠い昔から、中華の冊封思想の影響下にあった。
  そして、現在、韓国は、アメリカが心配するほど、そ
 の冊封思想の中国に歩み寄った。
  アメリカ離れがあった。
  そして、アメリカと体制を共にする日本からも離れた。
  それ故、韓国は今、特に、李朝時代の冊封体制に入る
 かどうかの瀬戸際にある。
  中華の冊封体制下に入るかどうかの是非が、真剣に韓
 国に問われている。
  重要な課題となっている。
.
2017年、北朝鮮のミサイル開発が急進展している。
  北朝鮮の国民の方々にとっては、アメリカが、北朝鮮
 を「悪の枢軸」と呼び、また、アメリカから、「テロ国
 家」と呼ばれた。
  当時、その様に呼ばれたイラクは、アメリカから攻撃
 され、国もメチャメチャにされ、そして、滅びた。
  この時、北朝鮮の指導者、及び、国民の方々は、本当
 に、戦々恐々とした心境・状況だったと思われる。
  それ故に、『国を、そして、国家を、しっかり守らね
 ばならない』と思っただろう。
  そこで、今やっている様な、核開発をし、また、ミサ
 イル開発もして行く必要性があるのたと・・つくづく感
 じた事だろう。
  今年・2017年の正月、北朝鮮指導者は、テレビで、そ
 の達成率が、「ほとんど完成に近づいた」と放送した。
  そのテレビを見た北朝鮮の国民の方々は、「アメリカ
 からの攻撃の恐怖が、これで薄らいできた」と思っただ
 ろう。
  「将軍様が、北朝鮮に、アメリカが攻めて来られない
 ようにして下さっている・・防衛努力をして、その様に
 して戴いている」・・と、そう思っているだろう・・
  そして、その事を、「有り難く感じている」だろう。
  「将軍様のお蔭で、安心していられる」と思っている
 だろう。
  将軍様のやっていることは、北朝鮮を攻めてくる相手
 に対する攻撃力を強くしているが、これは、攻めて来ら
 れない様にしていることで・・国が、簡単に攻められな
 い様にしている・・防衛力を強くしているのだ・・と思
 っているだろう。
  一方、日本は、北朝鮮から7分でミサイルが届くという
 状況の中にある。
  7分は、「あっ」という間だ。
  最近、北朝鮮は、高高度からミサイル攻撃をする技術
 を手に入れた。
  その高度な技術を手に入れた・・開発した。
  日本には、この『ミサイル攻撃を防ぐ手立てがない』
 という。
  その技術はないという、
  その兵器システムがないという・・、
  『3発が、関東地方に落ちたら、日本は、それでおし
 まいになるでしょう」と軍事専門家は言う。
  日本はおしまいになるでしょう・・と言う。
  日本には・・「アメリカの核の傘」があるという。
  その意味は、「日本には、『アメリカの核抑止力』が
 あるから安心してください」・・という意味だという。
  だから、「日本は、核など持たなくてもいいのだ」と
 アメリカから言われていると言う。
  何か・・??・・こちらに力点があるように思える??
  「だから、日本は、核を持つな」・・と・・
  アメリカには、「日本には核を持たせない」という『
 強い意志』があると専門家は言う。
  日本の核が「両刃の剣になる」ことを恐れている。
  この点は、中国も同じで・・日本の核保有に対し強く
 恐れ、この点についての「米中の密約(秘密条約)」が
 あるという。
  トランプ大統領までは、強くこのことが踏襲されて来
 ていた。
  しかし、トランプ大統領は、「日本は、守るべきは守
 りなさい」と言っていて・・至極、当然の考え方になっ
 てきた。
  「守りたくても守れない日本」から変われる道を開い
 て来た。
  トランプ大統領は、核について、「持つのなら、持ち
 なさい」と言った。
  長らくというか、今まで、アメリカには無かった考え
 方だった。
  そして、アメリカ在住の長い方が、証言的に言う・・、
  「アメリカ政府筋が、日本に核を持たせまいとするの
 は、罪悪感ないし、恐怖心があるからだ」・・と。
  そして、日本の大政治家の中川昭一氏は・・2006年の
 だいぶ以前い言った・・
  2006年に、北朝鮮の核実験があった時に・・理性的に
 核管理ができるかどうか疑わしい国家:北朝鮮が、核保
 有国になろうとしている時に・・
  それでも、核の議論さえしようとしない日本の現状を
 憂えて、そして、その様な状況を皮肉をも込めて・・、
  「わが国には『非核五原則』がある」と・・名言とも
 言うべき言葉だった。
  核を、「作らず、持たず、持ち込ませず」という非核
 三原則が日本にあるが・・それに・・
  「発言させず」、そして、「考えさせず」という空気
 まであって、横行していて・・と嘆いた。
  その心の中で、このままでは『日本民族の滅亡』の姿
 を恐れ、見たのだろう。
  「丸腰である人間は、銃に撃たれない」という常識の
 世界を信じているだけで・・本当に安全なのか??・・
 と・・、
  その様な常識の通じる国家もあるだろうが・・??
  その様な理想論の中に住んでいてよいのだろうか??
  そんな世界観なら・・新聞記事の三面記事は、記事が
 無くなって、真っ白になるだろう。
  そうでないのが世の中・・この方が常識・・
  多くの国民の方々の命がかかっている世界を・・その
 様な常識の世界に・・理想論の世界に置いたままで良い
 のか?・・良い訳は・・『ない』・・
  ここに、無責任な「座して死を待て」という論理がある・・
 その如くの言葉がある。
  石破茂(元防衛大臣〉の言葉・・2009年5月に、北朝鮮
 が地下核実験に成功したときに言った言葉・・、
  「敵基地攻撃論については、私が、防衛庁長官の時に、
 法的には排除されないと行ってきた。
  東京を火の海にするという宣言(北朝鮮の宣言)があ
 って、ミサイルを日本に向けて撃つ段階であれば、そこ
 を叩くのは『理論的にはありうる』。
  ただ、ノドン(北朝鮮ミサイル)が、どこにあるか分
 からないのにどうやって叩くのか。
  (北朝鮮のミサイルが)200基、配備されて居るとして、
 二つ、三つ、潰(つぶ)して、あと全部、(日本の各都
 市に)降ってきたらどうするんだ。誠に現実的ではない」
 (朝日新聞、2009年5月27日、カッコは筆者の記入)
  これは、北朝鮮の肩を持つ言い方・発言となっている、
 ある意味、無責任な裏切り発言となっている。
  「日本の方々の命の重み」に責任を果たしていない。
  その様な発言となっている。
  石破茂氏は、最初から、日本人の方々の命を救うには
 どうするか?・・という、逃げられない、避けられない、
 重大な、大切な思考を・・安易に・・放棄している。
  石破氏は、キリスト教徒であるが、キリスト教徒らし
 い性悪説に因る考え方「ことを成し得ない」という悲観
 論的な発言となっている。
  大切・重大な日本の『防衛論の可能性』の論議を放棄
 している。
  「抑止が大切」と言っておきながら、日本国民の生命
 と財産を守るという「きちんとした体制を作ろう」とい
 う話から逃げている。
  ヨーロッパに・・スイスという永世中立国があるが、
 きちっと国防を国の重要論題として、核も所持し、その
 抑止効果も含めてしっかり存立している。
  きちっとした国を守る体制を確立する事こそが大切な
 のだ。
  ふわふわとした防衛論や理想論では、話が地について
 いないのだ。
  日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
 且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・論議を尽く
 して行かなければならない。
  核保有を含めて・・。
  民進党は、この論議を前向きにとらえ、推進役になる
 くらいの行動を・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

  


2017年05月29日

(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)

題:(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月29日、「旅客甲丙間ニ到ル途中切手紛失シ乙駅
 ニテ賃金徴収方」を通達(鉄二調甲第48号)
1891年2月3日、内村鑑三が、第1高等中学校を辞職した。
1891年2月4日、横川~軽井沢間の路線が、中尾線(アプト式)
 を採用することに決定された。
1891年2月5日、川上音二郎一座が、堺で旗揚げ興業をした。
  川上音二郎(かわかみおとじろう、1864年1月1日~
 1911年11月11日)は、俳優、興行師。
  1878年、14歳のとき故郷を出奔。
  自由党壮士となったが、講釈師、寄席芸人になったり、
 「書生にわか」を試みたりした。
   1891年(27歳)堺で、川上書生芝居を旗揚げし、地方
 巡演ののち、『板垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
1891年2月8日、大阪鉄道会社線が、稲葉山~王寺間を開業
 した。
1891年2月18日、三条実美が逝去した(55歳)
  三条 実美(さんじょう さねとみ、1837年3月13日~
 1891年2月18日)は、幕末・明治の日本の公卿、政治家。
  位階勲等爵位:正一位大勲位公爵。
  右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族
 院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。
 元勲。
  公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で、禄は約469石。
  家臣の尊攘志士・富田織部の訓育を受け、漢学者志士・
 池内大学に学んだ。
  1859年(22歳)大老・井伊直弼の弾圧を受けて、父・
 実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ、次
 第に尊攘思想を強めて行った。
  尊攘派公卿の中心人物となる。
  急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。
  1862年(25歳)14代将軍・徳川家茂に、攘夷督促(とく
 そく)の朝命を伝えるなど、尊攘派公卿の先鋒(せんぽう)
 となり運動したが・・、
  1863年(26歳)八月十八日の政変:会津・薩摩を中心
 とする公武合体派のクーデターにより失脚し、七卿落ち
 の一人として長州へ逃れた・・そして、
  さらに、1865年(28歳)幕長間の紛争に巻き込まれる
 のを避けて、大宰府に移り、王政復古を機に上京した。
  維新後は、明治新政府に重用され、
  1868年1月9日(31歳)、岩倉とともに副総裁に就任し
 た。
  そして、太政大臣・内大臣等を歴任するなど国家建設
 に尽力した。
  1889年(明治22年、52歳)一時、首相を兼任した。
1891年2月20日、土佐派自由党議員の裏切りにより、政府支
 持の動議可決(自由党が分裂)
  この日、予算削減をめぐって紛糾していた衆議院で、
 大成会の提出した「予算削減は政府同意を経て議会で決
 議する」という議案に、立憲自由党土佐派が、議会解散
 を避けるためと、予算削減を行うために妥協し、決議し
 た。
1891年2月21日、中江兆民が、議会の弱腰を批判し、衆議院
 議員の辞表を提出した。
1891年2月24日、立憲自由党が分裂した。
  土佐派など29議員が離党した。
1891年2月25日、三条実美の国葬が行われた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は・・、
    日本の経済援助なしではできなかった。
.
紀元前6年頃、イエス・キリストが生まれる。
  イエスの生誕は、紀元前6年頃ともいわれている、また、
 紀元前4年頃ともいわれている。
  そして、その中間ともいわれている。
  西暦が決められた頃は、西暦0年がイエスの生誕とされ
 ていた。
  しかし、その後、生誕とさられる年数は変転した。
  生誕だけで、この様な状態で、つまり、その存在が不
 確かなのである。
  没したのは、紀元後30年頃とされている。
  「キリスト」という意味は、「膏(あぶら)を注がれ
 た(塗られた)者」「受膏者」という意味のヘブライ語
 で・・、
  故に、イエス・キリストが姓名ではない。
  当時、「イエス」という名を持つ人は何人も居て・・、
  だから、ナザレ生まれのイエス(ナザレのイエス)と
 言われて個人を特定した。
  しかし、このイエス・キリスト(ナザレのイエス)の
 実在は証明されていない。
  初期のキリスト教が、1世紀~2世紀のころ、都合の悪
 い書類を大量に焼却した。
  この事によって実在が証明できなくなった・・または、
 本当に実在していなかったのか?
  いずれにしても、実在証明の出来ない事となっている。
  イエスの活動は、その最晩年の1年か、2年の超短期だ
 った。
  それまでは、父と同じ職業の大工をしていた。
  もしかすると、父の没後、大工を止め、エルサレムで
 予言者を始めたのかとも言われている。
  この頃のエルサレムは、町の娘に売春をさせていたエ
 ルサレム神殿が存在したり、また、戦争も頻発するとい
 う世情の中にあった。。
  巡礼の参拝で来た地方の人たちを相手に、その不特定
 の男たちを相手に、街の娘たちは恥辱の行為を強いられ
 ていた。
  そして、その様なエルサレム神殿の前で、「金持ちの
 豪華な供物より、貧乏人の貧しい供物の方が価値がある
 のだ」などという程度の道徳論を披露するイエス・キリ
 ストだった。
  いつも、決まった少人数のグループと活動していた。
  いつ聖書を読んでも、その人間関係の狭さが気になる。
  イエスは、平均寿命が三十数年という時代の、最晩年
 の1年か、2年の超短期間、エルサレムの広場で、予言者
 稼業をしていた。
  聖書にも記されているが、イエスは、故郷の人たちか
 ら、「予言者とは、うまいことをやっているな」と言わ
 れていた。
  イエスは、故郷の人たちからは、普通の人に見られて
 いた。
  だから、イエス自身も故郷の人たちに対し、「話が、
 そして、暗示がかからない」と嘆いている。
  イエスの子供の頃から、イエスを見ている故郷の人た
 ちには、普通の人と変わらない状態だった・・その様に
 見られていた。
  「あのイエスが、予言者をやっているよ」という状態
 だった。
  だから、イエスに向かって、「予言者業とは、うまい
 事をやっているな」の言葉になった。
  当時、エルサレムには、この様な予言者を仕事とする
 者が大勢いて、その多くが刑場で殺された。
  麦の一粒が落ちたら、その一粒のままにあるという乾
 燥した砂漠地帯の環境の中で育ち・・だから・・、
  天の雨の恵みが豊かに降り注ぐ、その様な豊かな地の、
 価値ある言葉は、想像もできない、また、話すこともで
 きない。
  砂漠の恵みの少ない地、わずかな恵みに群がる人々が
 居るという地・・だから、飢餓と背中合わせの地で・・、
  聖書もある様に・・キリスト教の神が、隣国の民を、
 『奴隷にせよ、奴隷にせよ』と叫び、隣国の民さえ自民
 族の生きる糧とせよという神の叫ぶような地・・その様
 な教え・・、
  豊かな思想・思考は生まれない。
  だから、そこは、奪い取りと殺戮だけとなる。
  そして、無理やりの神殿娼婦にさせられた街の娘は、
 神殿にやってくるお参りの見ず知らずの男の相手をさせ
 られた。
  キリスト教は、この様な環境の世界の宗教。
  男尊女卑の世界であった、その教えであった。
.
1600年、イギリス東インド会社ができた。
  インドの方々を殺戮し虐げた、酷いイギリスの会社が、
 この年に、出来た。
  世界遺産に登録すべき人類の歴史の大汚点だった。
  アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社
 である・・と、表面は美しく説明されている。
  アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行か
 ら貸付を受けながら、
  17世紀~19世紀半ばにかけて、アジア各地の植民地経
 営や交易に従事した(国としての行動)
  アジア貿易と美しく言うが、実態は、植民地で、奴隷
 のようにインドの方々を働かせ・使役し、搾取した。
  イギリスの勅許会社と言う通り、国が勅命で行なう行
 動は、「イギリスという国」なのであって、「イギリス」
 そのものだった。
  会社なんだから、イギリスという国ではないというの
 は「虚言」で『逃げ』だった。
  (イギリスは、この様な言い逃れを言って、世界中で
 悪行為ばかりしていた)
  アジア貿易の独占と言ったって、武力で以って、力で
 従わせて行った。
  従わないインドの方々は殺戮し、また、木に吊るして
 殺した。
  木に吊るして死んでも、そのまま並木道は、その様な
 可哀想なインドの方々が、ずらりと吊るされ、見せしめ
 にされ、インドの方々を恐怖に陥(おとしい)れ、この
 様な力で従わせさせていた。
  こんな事を長い期間(17世紀~19世紀の300年近くも)
 し続けたイギリスだった。
  それだけ、様々な、考え付くすべての悪の酷いことを
 した。
  東インド会社が、酷いことをする故に、イギリスは、
 卑劣な逃げのかたちを作った、隠れ蓑とした。
  それは、東インド株式会社という名で誤魔化した。
  東インド株式会社だけで、あんな卑劣な、大々的な殺
 戮や、戦争が・・出来る訳が無い。
  すべて、イギリスという国家と同時進行・連動だった。
  陰に隠れるイギリス国家は卑劣であり、劣悪・卑劣な
 罪悪漢である。
  こんな卑劣な論理が成り立つならば、国家が、どんな
 悪いことをやっても、「○○という個人がやった」とい
 う言い訳が成立し、それで済まされてしまう。
  国の責任は回避される怖ろしい事である。
.
1867年、旧根岸競馬場
  居留地の外国人の娯楽として競馬が始まった。
  関東大震災で大きな被害を受けた。
  現在でも残る一等馬見所は、7階建て、高さ28.77メー
 トル。
  客席を覆う大きな庇(ひさし)は、市柱が少なく、客
 席からコースを良く見渡せた。
  戦後、米軍に接収された。
  今は、市が管理している。
  しかし、廃墟(はいきょ)同然の様で、壁面は、蔦(
 つた)に覆われている。
.
1869年10月、三菱の前身となる土佐開成商社が成立した。
  岩崎弥太郎は、土佐藩最下級士族の岩崎弥次郎の長男
 として1834年に出生した。
  1855年(21歳)に、江戸へのぼり、安積艮斎の塾に入
 門するも、父の奇禍(父親が酒席で庄屋と喧嘩して投獄
 された)で、帰国し、父に連座して入牢された。
  1859年(25歳)に、土佐藩参政・吉田東洋の門下生と
 なり、後に、藩の下横目の職を得て、長崎に出張するが、
 無断帰国し解職された。
  1866年(32歳)に、再び、土佐商会主任として長崎に
 行き、藩の貿易に従事し、同所閉鎖後は、大坂出張所で
 働く、
  1869年10月(35歳)土佐藩首脳の林有造が、海運業私
 商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立
 ち上げた。
  代表は、海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之
 助で、
  岩崎弥太郎は、事業監督を担当した。
  1870年(36歳)の維新後に、土佐開成商社が九十九商
 会と改称して、船2隻を土佐藩外債を肩代わりする条件で
 入手し、海運業に従事した。
  後に、三川商会と改名した。
  1873年(39歳)に、三菱商会となる。
  1874年(40歳)に、台湾出兵で政府輸入船を託され軍
 事輸送にあたり、
  1875年(41歳)政府の補助金を受けて国内海運を独占
 し、三菱財閥の基礎を築いた。
  1885年(明治18年)51歳で没した。
.
1869年(明治2年)パン、ビスケットを専門に製造する木村
 屋が創業した。
  そして、1874年に、創業者の木村安兵衛とその次男で
 二代目の英三郎が、あんぱんを考案した。
  翌年・1875年に、明治天皇陛下に献上された。
.
1895年、日清戦争によって、日本が、中国(清)に勝った
 ・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよう
 な出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、
  「貢を持って従属すれば良し」の思想である。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制をとり続けて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に従属させられて来
 た。
  朝鮮は、古代から中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティとして来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主である中華(清)を負かした事
 は、だから、驚天動地の事だった。
  朝鮮は、中華(清)から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で、独立した。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」との
 日本の毅然とした対等の独立した立場をとった日本だっ
 た。
  この時、冊封体制の下の体制に入ると思っていた中華
 の煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていたのだっ
 た。
.
1945年8月28日、アメリカ軍の日本進駐。
  アメリカは、卑劣な事に、最初、戦後の日本に進駐す
 る兵士を、黒人兵だけとした。
  それは、日本が、まだ、徹底的に抵抗すると思ってい
 たからだった・・
  ・・レジスタンスを組織したりして・・、
  その為、人種差別的に、その様なことが起きるか否か
 の見定めもあり、白人兵を危険に曝(さら)さないとい
 う方針で、黒人兵だけを組織し、日本へ進駐した。
  因みに、終戦直後の、第二次世界大戦における日本の
 敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの間、
  連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領下に置
 かれた日本であった。
  故に、主権と行政権を留保した。
  日本の降伏に伴い、日本政府が受諾したポツダム宣言
 の文面では、ウィンストン・チャーチル英国首相の提案
 によって、「日本領土」ではなく、「日本領土内の諸地
 点」への「保障占領」となっていた。
  そして、降伏文書の調印まで、日本本土(北海道・本
 州・四国・九州)に先遣隊として到着したアメリカ主導
 で組織された連合国軍は、1945年8月28日から、日本への
 進駐を開始した。
.
1950年6月25日、朝鮮戦争
  この日、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金
 日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が、突然、韓国に侵
 攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
  その2日後の6月27日に、マッカーサーは、朝鮮半島に
 おけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与された。
  ただちに、軍需物資の緊急輸送と、アメリカの民間人
 救出のための船舶、飛行機の手配を行った。
  そして、朝鮮戦争の司令官となったマッカーサーは、
 中国との国境に流れる鴨緑江(おうりょっこう)に架か
 る橋を爆破したいと、アメリカ本土・ワシントンに、そ
 の作戦の許可を求めた。
  その橋を渡って中国軍(中共義勇軍と称した)が、続々
 と渡って来ていた。
  マッカーサーの作戦は、至極、当然の、筋の通った作
 戦だった。
  すぐに行なうべき作戦だった。
  しかし、アメリカ本土・ワシントンからの許可は下り
 なかった、許可は得られなかった。
  武器弾薬と共に中共軍が、ぞくぞくと入って来ていた
 のにである・・、
  この時のアメリカの作戦は・・、
  「アメリカは、戦争に勝ってはならない」。
  「いつまでも戦うのが良いのだ」・・だった。
  マッカーサーは、回顧録で、この時の詳細を記した。
  マッカーサーの作戦のすべてが否定された・・と、
  すべてに「ノー」と言って来た・・と、
  また、おかしなことに、蒋介石の国民党軍が、国連軍
 に加わって参戦し、応援したいと、参戦の意思を強く示
 したが・・、アメリカ本土のワシントンは許可をしなか
 った。
  そして、マッカーサーは、優秀で、頑張りすぎると解
 任されてしまった。
  マッカーサーは、ここに至って初めて気づいた、
  「自分は、アメリカのエスタブリッシュメントのメン
 バーではない」・・と。
  (参考)エスタブリッシュメント:establishment、既
    存体制と訳されることもある。
     イギリスでいわれはじめたもので、社会改革を
    はかろうとする者から攻撃される既成の社会秩序
    の総体をいうが・・、
     通常は・・国家、政府機関、支配階級、特権階
    級などをさす。
  そして、総てを察したマッカーサーは、1951年5月3日、
 アメリカ議会の上院軍事委員会で、第二次世界大戦(大
 東亜戦争)について重要な証言をした・・、
  「日本が戦争に至ったのは、その大部分が安全保障の
 必要に迫られたからだった」・・と、
  日本の存立を否定したアメリカの行為に、やむを得ず
 の戦いを起こしたのだった・・と、
  「日本の大義」を認めた・・そして、そう認識した証
 言を行なった。
  大東亜戦争の真実を証言した。
  さらに、朝鮮戦争には、後日談がある・・、
  国連軍が組織される時、スターリンは、安全保障理事
 国として「拒否権を発動できた」・・しかし・・
  『そうはしなかった』・・、
  国連軍が創設されなければ、スターリンが応援する北
 朝鮮の勝利となる・・
  しかし、スターリンは、拒否権を発動しないで、「そ
 の会議に出席するな」と指令した。
  アメリカとグルになっていたことが事実となって、今、
 知る所となっている。
.
1965年、漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は、日本の経済
 援助なしではできなかった。
  さらに、日本は、韓国を統治していた時代、日本は、
 アメリカやヨーロッパがやったような統治ではなかった。
  アメリカやヨーロッパは、ただただ、植民地から利益
 を奪取しただけだったが、日本は、韓国のインフラを整
 備した。
  また、日本の誠実な統治によって、韓国の民族資本が
 蓄積された。
  これもあったから、日本からの巨額の戦後賠償金も生
 き、見事な「漢江の奇跡」が出来た。
  この日本の性善説の韓国救済行為は、世界へも影響を
 与えた。
  ただ単に、韓国だけに留(とど)まらない行為だった。
  欧米の・・そして、イギリスが・・、インドや、オー
 ストラリアのアボリジニの方々などで行なった性悪説の
 殺戮や略奪行為、
  そして、アメリカの西部地域の殺戮と掠奪、および、
 太平洋地域の掠奪、および、フィリピンをはじめとする
 アジア地域での性悪説の略奪行為・・その様な行為とは、
 まったく違う。
  (参考)1965年、韓国は、日本と日韓基本条約を結ん
    だことにより、無償金3億ドル・有償金2億ドル・
    民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在
    価格では合計4兆5千億円相当)。当時の韓国の国
    家予算は3億5千万ドル程度)の日本からの資金供
    与及び貸付けを得ることとなった。
     国際協力銀行によると、1960年半ばから1990年
    代までにトータル6000億円の円借款が行われ、韓
    国はこうした資金を元手に「漢江の奇跡」の象徴
    とも言われる京釜高速道路をはじめとした各種イ
    ンフラの開発や、浦項総合製鉄をはじめとした企
    業の強化をおこなった。
     インフラ整備後は、日本の民間企業によって大
    規模な投資がおこなわれた。
     しかし、韓国では、日本による多額の経済・技
    術援助が韓国の発展に寄与したことを一般には知
    らされていないため、多くの韓国人は、自国が独
    力で経済成長を達成したと考えていると指摘され
    ている。
     恩を売りたい訳ではないが、人として、助けて
    戴いた日本に対しての礼をしっかり尽くして戴き
    たい。
     決して、恩を仇(あだ)で返すようなことはし
    ないこと。
.
1981年3月30日、レーガン大統領暗殺未遂事件
  アメリカのロナルド・レーガン大統領は、大統領選挙
 の期間中から「FRBに対する疑念」を口にしていた。
  大統領に当選した後、レーガンは、FRB議長に面会
 を申し込んだ。
  FRB議長は断った・・拒否した。
  FRB議長は、アメリカ大統領の面会要請を断われる
 ほど絶大な権力を持っていることを示した。
  レーガン大統領の再三の面会要請によって・・面会が
 行われるが・・その面会で、レーガン大統領は・・、
  「FRBは、何故、必要なのか?」
  「この質問を良く受けるのだが・・」と切り出した。
  その言葉を聞いて、FRB議長は慌てた様子を周囲に
 示した。
  FRBの存在に懐疑的だったレーガンは、大統領に就
 任してわずか2か月後の1981年3月30日に、ワシントンで
 銃撃された。
  緊急手術が行なわれて、幸い、危うい所を助かった。
  アメリカの大統領は、政府が独自に紙幣を発行しよう
 としたり、民間資本の中央銀行を廃止させたり、規制し
 たりすると、暗殺の危機にさらされる。
  これまでのアメリカが、そのことを示している。
.
1991年、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカで、
 1991年に、ソ連が崩壊しロシアとなり、エリツィンが大
 統領になると、アメリカは、ジェフリー・サックスとい
 う国際主義の経済学者をリーダーとするアメリカ人顧問
 団をロシアに送り込んだ。
  そして、価格統制を廃止し、市場経済を導入した。
  そして、さらに、「バウチャー方式」という手法で、
 ロシア国営企業の民営化を推し進めた。
  これは、政府が国民に対し、一定金額のバウチャー(
 民営化証券)を配布し、民営化された企業の株式と交換
 できるようにする方式で、
  表向きの導入理由は、「従業員は、自分が働いている
 会社の株式をバウチャーによって取得して、株主になる
 ので、働くモチベーションが上がる」というものだった。
  しかし、現実には、商才に長(た)けた連中が、この
 株式の意味が分からないロシアの方々から、バウチャー
 を安く買い漁(あさ)って行った。
  そして、買い集めたバウチャーで、国営企業を払い下
 げてもらい、オーナーとなり、新興財閥となった。
  銀行や、自動車販売会社や、石油会社などの・・この
 新興財閥のほとんどが・・ユダヤ系だった。
  エリツィンとアメリカによって、この様な新興財閥が
 次々と誕生した。
  そして、莫大な富を独占した。
  膨大な富を独占したこのグループは、さらに、政治に
 も・・、
  このグループは、エリツィン大統領を全面的に支援し、
 政治にも強い影響力を及ぼした。
  そして、また、1996年の大統領選挙においても、エリ
 ツィンを全面的に支援した・・そして、その功績で・・、
 このグループの一員が、第一副首相に就任した。
  また、さらに、このグループの要員が、ロシア安全保
 障会議副書記や、CIS(独立国家共同体)執行書記と
 なった。
  このグループの新興財閥は、「政商」として富を独占
 した。
  ロシアの方々は、この時点で、そのあまりの酷(ひど)
 さに、激しい批判の声を上げた。
.
2017年5月25日、イギリスのコンサート会場で、爆発テロが
 あり・・22人の方々が無くなった、尊い命が失われた。
  また、この後、死者数は増加した。
  イギリス中部のマンチェスターのコンサート会場で22
 日夜(日本時間23日の朝)に起きた自爆テロで、8歳の
 女児1人を含む22人が亡くなり、また、59人が負傷した。
  イスラム過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出し
 た。
  (イスラムの方々は、このイスラム国はイスラム教で
 はないと言っている)
  イギリスでは、2005年7月に、52人もの人々が亡くなる
 「ロンドン同時テロ」がある。
  イギリス警察当局は、5月23日、実行犯の男をサルマン・
 アベディ容疑者(22歳)と特定したと発表した。
  アベディ容疑者は、リビア系イギリス人。
  イギリス警察当局は、5月24日、「我々の捜査対象は、
 ネットワークだ」と述べ、単独犯ではないとの見方を示
 した。
  ラッド英内相も、5月24日、イギリスBBC放送に対し
 て、アベディ容疑者が、「一人で行動していたのではな
 いかもしれない」と述べた。
  リビアから最近帰国したとの地元紙報道も事実だと認
 めた。
  イギリス紙ザ・タイムズは、容疑者が「3週間前にリビ
 アに行き、数日前に帰って来た」と友人が述べたと伝え
 た。
  コロン仏内相は、フランス・テレビで、5月24日、アベ
 ディ容疑者がシリアに渡航し、イスラム過激派組織「イ
 スラム国」と関係があったとの情報をイギリスとフラン
 スの情報機関が把握していると述べた。
  当然、上記のイスラム国やテロ犯を弁護する訳ではな
 いが、
  また、当然、この様な行為を、憎むが・・
  テロが悪いという事だけに集中するのは良くない。
  その奥にある巨悪が問題なのだ・・
  何故、テロをせざるを得ない状況になっているのか?
  その視点を持たなければ、「テロは無くならない」。
  テロを起こさせる原因の原点を辿(たど)って行くと・・
  自分だけが裕福になり、その様な世界システムを強い
 立場にあるから、金があるから、だから、自分に都合の
 良い社会システムを作ってよいのだ・・という所に居て、
  狡猾に作り出している輩たちが一番悪い輩なのだ。
  自分に都合よいシステム、結局、それは、「社会の歪
 (ひずみ)」を作り出している・・その様な輩たち・・、
  更にその輩たちへ、「これが正義である」と錯乱的に
 思考させるキリスト教の考え方・教義が悪いのだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2017年05月26日

(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月1日、小岩井農場が開設された。
  井上勝らが岩手県に農場を建設され、設立者や支援者
 らの名前を取って小岩井農場と名付けられた。
  以下、小岩井農場のホームページを参考にして・・
  1888年(明治21年)6月12日、盛岡を訪れていた明治政
 府の鉄道庁(当時は鉄道局)長官、井上勝は、眼前に広
 がる岩手山の南麓に広がる風景、木もまばらな不毛の原
 野に目を奪われた。
  奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなかに、ススキ
 や柴、ワラビなどが散在する火山灰地の原野・・、
  井上は、この荒れ果てた土地に、大農場を拓こうとい
 う、かつて、誰も抱いたことのない夢が、頭の中に広が
 って行った・・、。
  この井上勝という人は、「日本の鉄道の父」と言われ
 る人で、
  幕末の動乱期に、イギリスに渡航した伊藤博文、井上
 馨らの5人の長州藩士の一員で、近代土木技術、鉱山学な
 どを学んだ。
  そして、帰国し、1872年、新橋~横浜間の日本最初の
 鉄道敷設をした・・
  また、それだけでなく・・東海道本線、東北本線など、
 数々の鉄道工事の陣頭指揮をし、、日本の鉄道事業の基
 礎を築いた。
  この岩手県盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事を
 視察するためだった。
  井上は、この岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸
 に去来したのは、今まで・・長年、鉄道敷設事業に携わ
 る中で、数多くの日本の「美田良圃(びでんりょうほ:
 美しい田と良い畑)」を潰したことだった。
  やむなく、その様にならざるを得ない行為に対する悔
 恨の念だった。
  岩手の広大な荒野を前に、この様な荒野が、手付かず
 で放置されているのであれば、せめてそれを開墾し、大
 農場を拓きたいと思った。
  美しい田園風景を損なってきたことの、悔恨の情を埋
 め合わせをしたいという気持ちだった。
  そこに、国家公共に報いる・・国家公共のため・・自
 分がなすべき事業と確信した。
  井上は、この構想を、岩崎彌太郎のもとで、三菱を支
 えていた小野義眞に打ち明けた。
  そして、助力を依頼した。
  当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が
 第2代社長に就いていた。
  小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせた。
  井上の理念、「国家公共のため、荒地に農場を拓きた
 い」という井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、
 その場で出資を快諾した。
  こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上が場主と
 なり小岩井農場が開設された。
  名前の由来は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字
 ずつ取って作られたのだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、グローバリズムは、その欠陥を露呈して反発を招いている。
.
1910年、今の韓国(大韓民国)は、この当時、大韓帝国と
 言った。
  当時、この大韓帝国の李完用という政治家を中心にし
 て「一進会」という組織があった。
  この組織が、「韓日合邦建議書」を起草した。
  これは、「日本と大韓帝国が合邦することを要求する」
 という声明書だった。
  そして、100万人の署名活動を行なった。
  大韓帝国の人々は、合邦する事が大歓迎だった。
  そして、日本と大韓帝国は併合に至った。
  日本は、この大韓帝国の人々を「政治に参加させよう」
 と努力した。
  また、教育に努力し、生活を向上させようとした。
  そして、日本は、社会インフラを一生懸命に整備した。
  この豊かにするという考え方・概念は、アメリカやヨ
 ーロッパの植民地支配には、まったく無かった。
  アメリカやヨーロッパは、卑劣にも、ただただ「搾取
 と略奪をするだけ」という植民地経営だった。
  アメリカやヨーロッパは、政策を遂行するため、徹底
 的に自国の言葉を教育した。
  相手国の文化を否定するという「虐(しいた)げ行為」
 だった・・「いじめ行為」だった。
  自国の利益が得られれば良いという、自国の利益を優
 先した・・得るという目的から、観点から行動がなされ
 た。
  やっていることは、まったく人道的ではなかった。
  すべては搾取の為だった。
  植民地の方々は、可哀想な事に自国の言葉が奪われ、
 文化も奪われた。
  アメリカは、フィリピンの植民地を英語化した。
  今でも、フィリピンは英語が公用語になっている。
  また、ベトナムも、フランス語化され、フランス語が
 公用語になっている、
  また、インド(イギリスの植民地〉でも英語化され、
 英語が公用語になっている。
  自分の御都合主義だった。
  何しろ、アメリカのフィリピン、イギリスのインドな
 ど、アメリカやヨーロッパは、武力によって植民地とし
 た。
  台湾は、清(当時の中国)から、「化外(けがい)の
 地だ」と、日本は言われた。
  「化外の地」とは、『国家の統治が及ばない地』とい
 う意味である。
  開拓もされず、ほったらかしのこの台湾を、日本は、
 一生懸命に整備した。
  伝染病が多い地だったが、衛生面に於いても一生懸命
 に努力した。
  学校、ダムなどの社会資本の整備にも一生懸命に努力
 し、築いた・・
  (参考)化外の地(けがいのち、化外之地)とは、中
    華文明に於いて文明の外の地方を表す用語。
     中華思想では、中国の権力・法律が行き届いて
    いない地方のことをいい、また、その地方に住む
    民族を「蛮族」と呼んだ。
     中国の古代では、中原から遠く中華文化の影響
    が薄かった台湾・海南・新疆などのことを呼んだ。
     また、小中華思想のあった朝鮮やベトナムなど
    では、中国文明の行き届かない地域をもそう呼び、
    中原からはるか遠くの占城、真臘の外の地域や、
    北方遊牧民が立てた王朝を化外の地と見做し、朝
    鮮王朝は明の滅亡後に興隆した清を蛮夷とみなし
    ていた。
     宮古島島民遭難事件によると、日本政府は、日
    本人を殺害したこの事件に対し清朝に厳重に抗議
    したが、台湾の原住民は「化外の民」(国家統治
    の及ばない者)であるという清朝からの返事があ
    り、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、
    台湾出兵を行った。
.


  (投稿妨害により・・中略します・・全文は、是非、下記のブログを御覧ください)


ャルリー・エブド」襲撃事件、
  2015年11月のパリ同時多発テロ、
  2016年7月のニースでのトラックテロ・・と、テロの
 連鎖が続いている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2017年05月23日

(増補版)528E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)528E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月1日、日本の総人口4025万人となり、4000万人を
 突破した。
  因みに、2015年の日本の総人口は1億2700万人、そして、
 ロシアは、1億4410万人で、韓国(大韓民国)5062万人。
1891年1月3日、博文館が、「少年文学叢書(そうしょ)」を
 刊行開始した。
  これは、世に好評を博し、日本の近代児童文学の先駆
 けとなった。
  1894年まで、ほぼ毎月刊行された。
1891年1月8日、衆議院予算委員会が、政府提出予算の大幅
 削減案を提出し、政府はこれに同意しなかった。
  政府の作成した予算案が、1890年12月3日、衆議院に
 提出された。
  衆議院は、63名の予算委員を選出し、審査方針の論義
 に入った。
  論義は、立憲自由党内の政府妥協派の抵抗によって難
 航した。
  しかし、結局、7項目からなる審査方針と、これに基づ
 く「官吏俸給表」や、「各局統廃合及人員配当表」「旅
 費定額表」を審査の基準として決定したのち、6科に分か
 れて予算の審議に入った。
  1891年1月8日、衆議院予算委員長の大江卓(立憲自由
 党)は、「民力休養(減税)」と「経費節減(予算削減)」
 を掲げる民党の多数意見を尊重し、軍艦建造費など800万
 円以上を削減する大幅な軍縮予算案を査定し、これを内
 閣へ報告した。
  1月9日、蔵相・松方正義は、衆議院本会議で「この査
 定案に不同意である」と明言した。
  2月5日、蔵相・松方正義は、「歳出の廃除・削減は、
 確定議前に1院(衆議院・貴族院)ごとに政府の同意を
 求めるべきである」と言明した。
  首相・山県有朋も、衆議院で同趣旨の演説をした。
  2月20日、与党の大成会は、「憲法67条にもとづく歳出
 に関し、確定議前に政府の同意を求めるべきだ」との動
 議を提出した。
  憲法67条には・・、
  「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ
 由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナ
 クシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス 」
 ・・という規定がある。
  自由党土佐派など旧愛国公党系の議員28人は、立憲自
 由党を裏切って動議案に賛同したため、わずか2票差で可
 決された。
  2月21日、中江兆民は、「衆議院は腰抜けだ」。「無血
 虫の陳列場だ」と叫んで、辞表を提出した。
  2月24日、林有造・植木枝盛ら土佐派29議員は、立憲自
 由党を脱党した。
  2月26日、板垣退助も脱党し、大成会など政府支持派と
 共に予算成立に協力した。
  3月2日、衆議院は、政府との妥協による予算案を修正
 (歳出削減幅を651万円に縮小)して、可決した。
  3月、脱党していた土佐派の片岡健吉ら25議員は、自由
 倶楽部を結成した。
  立憲自由党は打撃をうけた。
  3月19日、欧米から帰国した星亨は、立憲自由党大会を
 開催し、党名を自由党として再結成し、板垣退助を総理
 に迎えた。
  その後、自由倶楽部を結成していた片岡健吉ら25議員
 も、自由党に復帰した。
  4月、山県有朋は、第一議会終了を機に、勇退を決意し、
 辞表を提出した。
  5月6日、松方正義が、蔵相兼第四代総理大臣に就任し
 た。
1891年1月、インフルエンザが流行した。
  国立感染症研究所・感染症情報センターの記事に・・、
  1889年~1891年に、H3N8によるパンデミックが発生し
 ていたと記されている。
  (参考)パンデミック(英語: pandemic、世界流行)
     は、ある感染症(特に伝染病)が、顕著な感染
     や死亡被害が著しい事態を想定した世界的な感
     染の流行を表す用語。
1891年1月9日、内村鑑三不敬事件
  内村鑑三の教育勅語不敬事件起こる(礼拝拒否)
  東京・本郷の第一高等中学校の嘱託教員をしていた内
 村鑑三は、教育勅語奉読式での敬礼を誠実に行わないで、
 不敬の礼であると同僚や生徒からたしなめられ非難され
 た。
  また、その後、社会的な問題となった。
  内村は、学校を辞任した。
1891年1月12日、東京と大阪の商工会議所の設立が許可され
 た。
  この年、全国の経済の発展と、国際化の進展に伴い、会
 議所制度の強化が必要とされ、条例が施行された。
  また、1878年(明治11年)3月、日本初の「東京商法会
 議所」が設立された(初代会頭・渋沢栄一)
  商工業者の声を、国の政策に反映させるために発足し、
 以来、行政への意見具申は、今日に至るまで最も重要な
 活動となっている。
1891年1月12日、新橋~神戸間の直通旅客列車を2往復運転
 とした。
1891年1月12日、長浜~深谷間線路を貨物線として使用を開
 始した。
1891年1月12日、御殿場~沼津間の複線が完成した。
1891年1月13日、警視総監が、保安条例を発動し、壮士ら
 54名へ東京退去を命じた。
1891年1月14日、鉄道庁第二部長一等技師・松本荘一郎が、
 ボーナルおよび本間英一郎とともに、碓氷の現地を巡視
 したの結果、中尾線が適当である旨を、長官へ報告した。
1891年1月19日、板垣退助が、議員40名と共に立憲自由党を
 起こした。
1891年1月19日、明治火災保険会社(後の東京海上火災保険)
 が、設立された。
1891年1月20日、仮議事堂が全焼した。
  東京・内幸町の帝国議会仮議事堂が全焼した。
  失火原因は漏電だった。  
  1890年に竣工したばかりだった。
  直ちに、再建がはじまった。
1891年1月20日、「旅客切手ノ正当ナラザルトキ取扱」を
 通達した。
  (鉄二調甲第43号、廃札にする乗車券および無改鋏・無
 日付その他取扱上正当でない乗車券についての報告は、
 従来、浜松以東は新橋運輸課長、浜松以西は神戸運輸課
 長あてであったが、駅長から、直接、鉄道庁第二部調査
 係主任あて報告となった)
1891年1月20日、カラカウア、ハワイ王国の第7代国王が死
 亡した。
  この方が、史上初めて、日本を訪れた外国の国家元首
 であった。
  明治天皇陛下と会見し、アメリカによるハワイ王国が
 奪われる動きがあったため、日本からの移民の要請をし、
  また、ハワイ王国存続のために、日本と姻戚関係を結
 びたいとの要望から、カイウラニ王女と山階宮定磨王
 (のちの東伏見宮依仁親王)の結婚を希望した。
  しかし、日本のアメリカに対しての配慮から、実現に
 は至らなかった。
  アメリカは、メキシコからテキサスなどを奪った方法
 と同じ方法で、1887年にクーデターが起こし、
  また、1893年、サンフォード・ドールなどのアメリカ
 からの移民たちが、増加した移民たちの力によって革命
 と称する国の奪取が行われた。
  まったくテキサスなどを奪う方法と同じだった。
  その結果、アメリカ合衆国の名目的な国家となり、結
 局、1898年に、ハワイ準州としてアメリカに併合され、
 ハワイ王国は消えた。
  アメリカは、軍艦を派遣して、軍艦を持たないハワイ
 王国を武力で威嚇し、武力で奪った。
  (史実)1887年6月:「ハワイアン・リーグ」の呼びか
    けで「ホノルル・ライフルズ」(白人市民の義勇
    軍)が協力する集会が開かれ、ここでカラカウア
    王に対し、現首相の退陣と新憲法採択を要求する
    決議案が発表(強制)された。
    (民主的な行為に見せかけた王国の奪取)。
     カラカウア王は、なんら有効な対抗手段を取り
    得ず、上記白人集団を中心とする新内閣の組閣を
    認めざるを得なかった。
     サーストン率いる「13人委員会」は、新憲法を
    起草、7月6日に、24時間以内に承認するようカラ
    アウア王に突きつけた。
     それ故、「ホノルル・ライフルズ」という武力
    のもとに調印させられたこの「1887年憲法」は、
    「ベイオネット(銃剣)憲法」と呼ばれるように
    なった。
     内容は、決定権を持つ選挙権を持つ者は、欧米
    生まれの外国人居住者に限って認めるという「ハ
    ワイ国を奪うことがありありの憲法」だった。
     白人に土地所有者が多かったので、土地を持つ
    ものを条件にしたため、多くのハワイの方々やア
    ジア人には選挙権は得られなかった。
     この様な卑劣なやり方などでハワイは奪われた。
1891年1月25日、小笠原長行が没した(1822年6月29日~1891
 年1月25日、68歳)従四位、
  「夢を夢見た非凡な貴公子」と言われた人。
  肥前国唐津藩主の長男として生まれた。
  幼少から明敏で、江戸に出て、朝川善庵に師事、40歳
 の1862年に若年寄、そして老中格、そして、江戸幕府の
 幕末の老中になった。
  生麦事件の時、事態を早急に終結するのが良いと判断
 し、賠償金10万ポンドをイギリスにポンと支払った。
  しかし、欲が深いイギリスは、薩摩藩から、さらに金
 を得ようと、取ろうとして、薩英戦争に至る。
  武力にものを言わせて金を取るの相だった。
  当時、来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレ
 ット・バラは、アメリカの友人への手紙に、以下の様に
 記した。
  「その日は、江戸から南の領国へ帰るある主君の行列
 が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役
 人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、
  この人たちは、当然、守らなければならないことも、
 幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。
  そして、その大名行列に出会ったとき、端によって道
 をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったの
 です」・・と・・、
  また、日本人の林董(はやしただす、幕臣、明治時代
 の外交官、伯爵)の回顧録に・・
  (事件を起こしたイギリス人の)リチャードソンたち
 は、「今日は、島津三郎通行の通知ありたり。危険多け
 れば見合すべし」と友人から忠告されていたと記されて
 いて、完全に薩摩藩の島津公の行列があることを知って
 いた。
1891年1月29日、ハワイ王国でリリウオカラニ女王が即位。
  しかし、ハワイ王国は奪われる運命に・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ルーズベルトは米国民を裏切り 日本を戦争に引きずり込んだ 。
   アメリカ共和党元党首ハミルトン・フィッシュが暴く日米戦の真相」
   という本が、2017年2月13日に出版された。
.
紀元前2万7000年、沖縄県で、この頃の人骨が発見された。
  沖縄県石垣市の旧石器時代の遺跡から、人の全身の骨
 が見つかり、沖縄県立埋蔵文化財センターなどが分析し
 た結果、
  これまで国内最古とされていた骨よりさらに1000年古
 い、およそ2万7000年前の骨と見られることが分かった。
  遺跡からは複数の骨も見つかり、埋蔵文化財センター
 は、国内で初めての旧石器時代の墓だったと考えられる
 と指摘している。
  沖縄県立埋蔵文化財センターなどは、石垣市にある「
 白保竿根田原洞穴遺跡」で、去年7月までの5年間、発掘
 調査を行い、国内で最も古いおよそ2万6000年前の人の骨
 が見つかっていた。
  この調査では、人の全身の骨も見つかっていて、詳し
 く分析した結果、これまで国内最古とされていた骨より
 さらに1000年古い、およそ2万7000年前の骨と見られるこ
 とが分かった。
  また、遺跡からは、食べ物や道具など生活の痕跡が見
 つからなかった一方で、複数の骨が発掘され、
  このうち1体の骨は、体を折り曲げた状態だったこと
 などから、文化財センターは、国内で初めての旧石器時
 代の墓があったと考えられると指摘している。
  調査に参加した元琉球大学准教授の土肥直美氏は、「
 見つかった全身骨格は、動物にかまれた痕があることか
 ら、遺体を埋葬しない風葬で葬られたと見られ、沖縄で
 は、琉球王国時代には、風葬の風習があったことがわか
 っているのでつながりがあるのか分析したい」と話して
 いる。
  (2017年5月19日、NHKニュースを参考にした)
.
1916年、ウィルソン・アメリカ大統領によって、ルイス・
 ブランダイスが、ユダヤ教徒最初のアメリカ合衆国最高
 裁判所陪席判事に任命された。
  サミュエル・ウンターマイヤー(1858年~1940年)が
 ウィルソン・アメリカ大統領の弱みを握ったことから、
 この話が始まった。
  これは、もともとは、ウィルソンの方から依頼した話
 だった。
  ウィルソンアメリカ大統領は、卑劣な事に、自分の女
 性問題を握られ、それに対しての「ゆすりに負けた」、
 その様なアメリカ大統領だった。
  ウィルソン大統領は、その女性スキャンダルのもみ消
 しを、サミュエル・ウンターマイヤーという弁護士に依
 頼した。
  ウンターマイヤーは、その見返りを求める。
  最高裁判事を指名するときは、「自分が推薦する人間
 を選んでくれ」と・・、
  ウィルソンは、その要求を受け入れた。
  そして、ウンターマイヤーの指定したユダヤ人が、最
 高裁判事となった。
  これが、アメリカの最高裁判事となった最初のユダヤ
 人となった。
  ウィルソンは、この後、個人的弱みを握られて行き、
 意のままに繰られた。
  ウィルソンの側近には、左派のイデオロギーの人物た
 ちで満ちた。
  ウィルソン大統領の言葉に、ロシア革命でロシア共産
 政権が樹立された時、「素晴らしい民主主義国が出来た」
 と言った。
  ウィルソン主義を掲(かか)げたが・・、
  そして、「アメリカ型の自由と民主主義を世界に広げ
 るのだ」としたが、
  結局、したことと言えば、外国の政治に積極的に介入
 し、内政干渉のし放題で・・、
  自分の思うようにいかないとなれば、「戦争もいとわ
 ない」という低劣な行動・態度で、軍事介入を積極的に
 して行くという低劣な国際主義者だった。
  社会主義的で、グローバル主義者だった。
  この様なグローバリズムの国際主義者だった。
  ウィルソンは、国際連盟を創設したが、この様な輩だ
 った。
  そして、国際金融資本が、その持ち前の「金融パワー」
 にものを言わせて、アメリカ支配を強め、
  そして、アメリカ政権内に、「ネオコン」が入り込ん
 で行った。
.
2007年、「グローバリズム」と言って、一見、良い様に聞
 こえるが、
  また、そして、「国際主義なんだ」とも言って、良い
 様に思わせるが、
  その言葉を掲(かか)げて、事を起こしている連中は、
 国際金融資本家たちで、巨大な金融資本を牛耳っている。
  このウォールストリートを拠点にする「超金持ち連中」
 は、
  国際金融資本のメインプレーヤーたちは、世界最大の
 金融財閥を形成している。
  ロスチャイルドを筆頭とするユダヤ系の金融資本家た
 ちで・・、
  グローバリズムとか、国際主義という言葉を冠して、
 事をしているが・・、
  つまるところは、自分の財閥に金が転がり込む仕組み
 を作って、やっている。
  それは、さも正しそうに、そして、美しそうに見せて
 いる。
  その金で・・企業に介入する。
  特に、重点を入れている一つが・・『メディア』、
  メディアは、その国の世論に多大な影響力を持ってい
 る・・そこで、ここに目を付け・・金の力によって、経
 営に大きな発言力を増して行く、
  そして、その報道姿勢について、自分たちの姿勢に則
 (のっと)ったものにして行く。
  日本の世論も、この手で、コントロールされて行って
 いる。
  国民の世論形成に影響力の強い所を押さえて行く。
  そして、国さえが・・コントロールされていく。
  この様な立場にいるロックフェラー(ロックフェラー
 第3代当主デービット・ロックフェラー)は言う、
  「一族と私は国際主義者であり、世界中の仲間たちと
 ともに、より統合的でグローバルな政治経済構造を、い
 うなれば、一つの世界を、構築しようと企んでいる。
  もし、それが罪であるならば、私は有罪であり、それ
 を誇りに思う」(ロックフェラー回顧録、2007年)。
  自分たちに都合の良い社会経済体制を作りたいのイデ
 オロギーで、国家体制さえ解体し、ワン・ワールドを作
 りたいとしている。
.
2016年、ヒラリー・クリントンが・・、
  アメリカの次期大統領になる有力候補と言われていた
 時、
  ヒラリーの気になる弱点として指摘されたのが「メー
 ル問題」だった。
  このヒラリーの「メール問題」というのは、
  2012年9月11日に、リビア東部のベンガジにあるアメリ
 カ領事館と、中央情報局(CIA)の活動拠点が、テロ
 リストに襲撃され、
  クリストファー・スティーブンス大使と、アメリカ人
 職員3人が、殺害される事件が起きた(ベンガジ事件)。
  このスティーブンス大使は、リビア政権転覆計画の責
 任者で、武器と金塊をシリアへ送る任務にあった。
  この武器と金塊は、リビアから引き上げる予定だった。
  このリビアの過激派に襲撃され、殺されたのだった。
  ヒラリーの「メール問題」は・・これに絡んでいた。
  ヒラリーのメールのあて先はこの大使らであり、
  このアメリカの謀略を指示していたのが、当時、国務
 長官だったヒラリーである可能性が極めて高かった。
  当然、この様な非合法な行動は、公(おおやけ)に出
 来ないので、国務長官だったヒラリーは、記録が残る国
 務省のメールではなく、私用のメールを使って指示した、
 指令を出していた。
  しかし、このメール事件を、ジェイムズ・コーミー米
 連邦捜査局(FBI)長官は、2016年7月2日に、「ヒラ
 リーを告訴しない」とした。
  アメリカ・メディアは、一斉に、激しい非難をした。
  まったく臭い話に、蓋されたというアメリカだった。
  ヒラリーの背後に、「ネオコン」が居るとささやかれ
 た。
.
2016年12月2日、アメリカのトランプ大統領は、就任前であ
 ったが、
  この日、台湾総統に、直接、電話をした。
  このアメリカ大統領の公式の電話は、1979年に、米中
 国交正常化に伴う、アメリカの台湾との国交断絶以来、
 初めての事だった。
  中国の主張する「一つの中国」を肯定しない、認めな
 い行為だった、行動だった。
  トランプ大統領は、この中国の主張する原則を破棄し
 たばかりか、台湾の蔡英文氏を「ザ・プレジデント・オ
 ブ・タイワン(台湾大統領)」と呼んだ。
  台湾という国の最高地位の人=台湾大統領と呼んだ。
  そして、電話の中で、「経済、政治、安全保障での緊
 密な関係が、台湾とアメリカの間にある」と、確認し合
 った。
  台湾が、完全な一つの立派な国としての立場にあると
 認めた。
  民主党のヒラリーなら、中国寄りの行動をとるので、
 こうはならなかっただろう。
  民主党のオバマもしかり。
  この同じ日・2016年12月2日に、アメリカの共和党系の
 重鎮であるヘンリー・キッシンジャーが訪中していた。
  中国の習近平国家主席と会っていた。
  1979年の米中間の国交正常化の時も、日本の頭越しに
 動いた人物だった。
  今回の・・この習近平とキッシンジャーとの会談で、
 米中関係の強化が確認されたと大々的に中国のマスコミ
 は報じていた。
  この様に報じられる様に・・習近平は、アメリカとの
 関係が、我が意を得たりと思っていた・・その様な所に、
 トランプ大統領と台湾の蔡英文総統の電話会談があった
 ことを知ると、習近平は激怒したという。
  キッシンジャーは、国際金融資本家のロックフェラー
 の意向を受けて動く人物で、親中の国際主義者。
  国交が開かれた時に動いた彼・キッシンジャーが、こ
 の時、同様に、これからの大きな展開が起きるこの時も、
 動いたのだった。
  しかも、今度は、台湾の立場が、浮上する行為があっ
 たこの時だった。
  今、時代は変わる節目にある。
  反トランプにある日本のマス・メディア(NHKなど)
 を含めた世界のマス・メディアは、この様な事はあまり
 触れない・・報道しない。
  キリスト教に偏するNHKは、特に、親中国で、反ト
 ランプの立場にある・・なんだかんだとトランプ大統領
 の足を引っ張ってばかりいる。
  まゆつばの放送局となっている・・公正でないから注
 意を要する。
.
2017年、アメリカ国民の方々が、一般大衆の方々が、アメ
 リカを支配するエスタブリッシュメントに対して、明ら
 かになったグローバリズムの不都合に、不満や怒りが爆
 発して来ている。
  かつてのアメリカで、アメリカ国民の方々を繰ったル
 ーズベルト大統領は、
  日本に真珠湾攻撃をせざるを得ない状況を作り出し、
 また、事前に、日本の攻撃を十分知っているのに、突然
 の攻撃のようなふりをして、
  「奇襲だ」と言い、アメリカ国民の方々に嘘の印象を
 持たせ、アメリカを戦争に向かわせた。
  この話は、アメリカ国民の方々も知って来ていて、今
 は、確実に、ルーズベルトのアメリカ国民の方々への裏
 切り行為だった事は事実とされている・・が、
  アメリカは、何も、このルーズベルトの破廉恥行為だ
 けでなく、この様な行為は、常になされて来た。
  例えば、ウッドロウ・ウィルソン大統領の時も、そう
 だった。
  ウィルソン大統領の側近で、大統領直属の広報委員会
 を統率していたウォルター・リップマンは・・、
  「アメリカの民主主義は・・幻想である」と言ってい
 る。
  リップマンの下で、対ドイツ戦争推進宣伝工作に従事
 したエドワード・バーネイズは、
  「プロパガンダ」という本(著書)の中で・・、
  「大衆は、あたかも自分の意見を持っているかのよう
 に信じた。
  ・・が、実際は、見えない勢力によってコントロール
 されているだけだった」・・と、言っている。
  「自分たちが、メディアを使って大衆をコントロール
 している」・・と、言った。
  選挙にしたって、金を使って、巨額な金で、候補者の
 言葉を切り貼りして、作られた情報で解説するメディア。
  それに洗脳され・・、
  「自分は、この人物のここが素晴らしいと思って選ん
 だ」となる、
  「信じて投票した」となる。
  メディアによる刷り込みを、自分の意見と勘違いする。
  危険に近づいている事に気付かず、あたかも自分の意
 見のように勘違いする。
  フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、
 すでに、1830年代に、アメリカを見て・・、
  「アメリカの民主政治」という本を書いているが、そ
 の中で・・、
  「アメリカ人は、アメリカの多数の意見を、あたかも
 自分の意見であるように信じて主張する」・・と言って
 いる。
  完全に、アメリカ人は、マインド・コントロールされ
 ている。
  メディアによる「刷り込み社会」。
  アメリカを支配するエスタブリッシュメント層に都合
 の良い『グローバリズム』が・・この様に作られて来た。
  それが、今、崩れて来ている。
  一般大衆が、その様なエスタブリッシュメントに対し
 て、明らかになったグローバリズムの不都合に、不満や
 怒りが爆発して来ている。
  因みに、「ルーズベルトは米国民を裏切り 日本を戦争
 に引きずり込んだ 。アメリカ共和党元党首ハミルトン・
 フィッシュが暴く日米戦の真相」という本が、2017年2月
 13日に出版された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年05月19日

(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年、その他:
・度量衡法が公布された。
  日本は、1875年の度量衡取締条例による近代国家とし
 ての度量衡統一の後、1891年に、度量衡法が制定された。
  制定当時、原則としては尺貫法であったが、既に、日
 本は、1886年(明治19年)に、メートル条約に加盟して
 いたため、尺と貫はメートル原器・キログラム原器から
 換算する方法を採り、メートル法も公認されるという二
 元的な単位体系を取っていた。
  また、この1891年の度量衡法の公布、
  および、1893年の施行、
  1903年の中央度量衡器検定所設立の勅令公布、
  1907年~1931年の田中館愛橘の国際度量衡委員会委員
 就任、
  1909年、および、1921年の度量衡法改正・・などが重
 要。
  因みに、1921年の法改正は、メートル法への統一の方
 向を示すものであって、この公布の日である4月11日は、
 後に、「度量衡記念日」または「メートル記念日」と呼
 ばれるようになった。
・雇人口入営業取締規則が警察令として公布された。
  口入屋(くちいれや、人材斡旋屋、人材派遣屋)など
 の営利を目的とした職業紹介に対する規制は、福井県で
 は、1895年(明治28年)の県令28号「雇人口入営業取締
 規則」で、県内の営業者は営業許可が必要とされた。
  また、営利業者や募集人が、県外から職工を集団的に
 募集する事態に対応して、県外の営業者に対しても、1897
 年(明治30年)の県令72号で、県の営業許可が必要とな
 った。
  この様に、各府県ごとに行われていた規制は、第一次
 世界大戦がもたらした労働力需要のなかで、法的な整備
 をともなって全国的に行われるようになる。
  1919年(大正8年)3月には、救済事業調査会が「失業
 保護ニ関スル施設要綱」を答申し、おりしも、同年・1919
 年に、ワシントンで開かれた第一回「国際労働機関(I
 LO)」総会で、公益職業紹介所施設の増設と営利紹介
 所の全廃を内容とする失業に関する条約・勧告が決定さ
 れたことによって、国際的な労働基準にあわせた政策の
 調整が必要となっていた。
  こうして1921年(大正10年)7月、「職業紹介法」が施
 行された。
  同法では、事業は国の事務であるが、経費は市町村負
 担とされ、職業紹介の無料主義の原則が明らかにされた。
  一方、営利職業紹介は全面的には禁止されず、その営
 業と新規開業を規制した「営利職業紹介事業取締規則」
 が、1927年(昭和2年)から施行された。
  また、各府県の労働者募集取締規則を統一する内務省
 令「労働者募集取締令」が、1925年(大正14年)に施行
 された。
・井上円了が、妖怪研究会を結成した。
  井上 円了(いのうえ えんりょう、1858年3月18日~
 1919年6月6日)は、仏教哲学者、教育者。
  多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学
 館(現:東洋大学)を設立した。
  また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学
 講義』などを著し、一方で「お化け博士」、「妖怪博士」
 などと呼ばれた。
・(氷川清話)保安条例による壮士54名の東京退去。
  1891年1月13日に、保安条例を再び執行し、壮士など
 54名に東京退去をさせた。
  2月11日には、さらに8人が退去をさせられた。
  大同団結運動(1887年10月)で高揚した自由民権運動
 対策のための法律で、秘密の集会・結社を禁じた。
  また、内乱の陰謀・教唆(きょうさ、犯罪を行なおう
 と思う様に他人に仕向けること)、治安の妨害をする恐
 れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規
 定に従って、皇居から3里(約11.8km)以外に退去させら
 れ、3年以内の間、その範囲への出入りや居住を禁止され
 た。
・(氷川清話)勝海舟、孫女千代子誕生(のち、近藤勉武
 を養子に迎う)
・(氷川清話)酒井雄三郎の第二インター(ブリュッセル)
 出席。
  酒井雄三郎(さかいゆうざぶろう)は、1860年、熊本
 県に生まれ、1900年12月9日、パリに没した。
  明治の社会思想家。
  1879年、上京して中江兆民の仏学塾に入り、後に、そ
 の講師、塾長代理などをつとめた。
  1890年、万国博覧会がパリで開催された際、農商務省
 嘱託の事務官としてパリに渡り、万国博覧会の仕事にた
 ずさわる一方、社会問題を研究、ヨーロッパの社会事情、
 社会運動に関する報告を雑誌『国民之友』に寄稿した。
  また、1891年に、ブリュッセルで行われた第2インター
 ナショナル (→社会主義インターナショナル ) 第2回大
 会に日本人として初めて出席した。
  その報告を『国民新聞』に寄稿した。
  1892年、帰国して上野岩太郎、小島龍太郎、佐藤勇作
 らと「社会問題研究会」を創設した。
・(氷川清話)三条内大臣逝去。
・(氷川清話)松平慶永逝去。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1891年11月27日、福沢諭吉が勝海舟を批判する。
  福沢諭吉は、1891年(明治24年)に、「痩我慢の説」
 を書き、その中で、辛辣に勝海舟の批判をした。
  「痩我慢の説」は、1891年11月27日に脱稿され、1901
 年1月1日の「時事新報」紙上に掲載された。
  「勝海舟は、幕臣でありながら一度も戦うことなく、
 江戸城を明け渡し、しかも、敵であった新政府に入って、
 伯爵になるなど、立身出世までしている」・・と・・、
  武士の精神に反し、その進退は、「極めて不透明で不
 愉快だ」というのである。
  同様に、榎本武揚も批判し、福沢は、この両者に原稿
 を送って、公表しても良いかを質した。
  それに対し、榎本は、批判されたのが辛かったのか、
 無言のまま過ごした。
  しかし、勝は、一度は黙殺しようとしたが、返書を送
 った。
  そこには、簡潔に・・、
  「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、
   我に与(あず)からず我に関せずと存候」・・と言
 った。
  訳:自分の出処進退をどうするかは自分が決める。
    その結果について人は批評したりするだろうが、
    それは他人がやること。
    私のあずかり知るところではない。
  これは、自力で歴史を動かした大実行家の胸のすくよ
 うなタンカ(啖呵)である。
  勝の凄さがある。
  福沢の言い分を一言の下に退けた。
  この違いは、勝は、政治的人間であるのに対し、福沢
 は思想家であったから・・、
  福沢は、日本の生んだ最大の啓蒙思想家ではあるが、
 しょせん、口舌の徒。
  福沢には、政治的人間・勝海舟の悲しみと孤独の深さ
 は分らない。
  この二人の関わりは、咸臨丸で米国へ赴いている(300
 トンで40日かかった、1860年)。
  勝は艦長、福沢は、総督である木村摂津守の従者。
  咸臨丸に乗船中の勝は、終始不機嫌で、癇癪を起こし
 てばかりだった。
  体調も悪かったが、実力に比して不当に低い身分に対
 する不満もあった。
  勝は、7歳年下でも身分の上の木村に反抗的な態度をと
 ることが多かった。
  木村の従者の福沢にとって、これが不愉快でないこと
 はなく、二人の不仲の原因はここにあると言える。
  この不仲は、年月が経つほど悪化した。
  米国から帰国後、福沢は、世襲でないデモクラシーを
 感じ、この世襲が政治のバイタリティーを失っていると
 見抜き、「封建制度は親の仇(かたき)でござる」と言
 って、近代国家をしっかり把握している。
  これに対し、勝は、老中から、「その方は、眼光を具
 えているから何か眼を付けた事があろう」と言われ、
  「人間のする事は、古今東西同じで、アメリカとて別
 に変ったところはありません」と答えた。
  老中がなおも、「さようではあるまい、何か変わった
 ところがあろう」と聞く。
  再三再四、聞かれた勝は、「さよう少し眼につきまし
 たのは、アメリカでは、政府も民間も人の上に立つ人は
 みなその地位相応に怜悧(れいり、頭がよく、りこうな
 こと)です。
  この点ばかりは、まったく我が国と反対の様に思いま
 する」と答えた。
  老中は、目を丸くして「この無礼者、控えおろう」と
 叱った。
  この胆力と、一言の多さが勝の特徴である。
  福沢は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪城を
 抜け出して江戸に帰還し、江戸城が上へ下への大騒ぎに
 なった時に、それを見て冷笑し、江戸で戦火が開かれれ
 ば、自分は真っ先に逃げ出すと公言していた。
  上野の彰義隊が攻撃を受けている時に、平然と塾生に
 経済学の勉強をさせていたのも、これも当事者で無いか
 ら出来たことと言える。
  しかし、まさに幕臣の頂点に立っていた勝はそうはい
 かない。
  勝は、大実行家にならざるを得ず、しかも、矛盾した
 事でもやらざるを得なかった。
  その矛盾とは、近代国家を目指しながらも、徳川家の
 名誉だけは守るという事である。
  結果として、勝は、江戸城無血開城(1868年4月)を
 やり遂げた。
  勝は、本来、慶喜が浴びるべき旧幕臣の恨みを、一身
 で受けるつもりで、たった一人で、徳川幕府の幕引きを
 引き受けた。
  組織のたたみ方は・・非の打ちどころない。
  勝は、幕府に、取り立てて、恩義を感じていない。
  忠誠心も無かったであろう。
  忠誠心は新しい日本、近代国家に対してであった。
  勝は確信犯だ。
  勝は、晩年、巌本善治に「忠義という士というものが
 あって、国を潰すのだ」・・と・・、
  「己のような、大不忠、大不義の者が無ければならぬ」
 と言っている。
  無能者や既得権の保持者は、とかく隠れ蓑として、忠
 義の士を気取りたがるもの。
  自分はそうでないから大不忠者と言っている。
  勝が、幕府を見限ったのは、桜田門外の変(1860年3月)。
  この白昼の出来事は、幕府の骨まで腐っているという
 証拠に他ならない。
  勝は、当時、アメリカ滞在中であったが、幕府の寿命
 を実感した。
  ・・そして・・また・・
  勝が、幕府の死に体を、一層、痛感し、見限るように
 なったのは、それから4年後の第一次長州征伐(1864年8
 月)の時、
  幕府は、「井伊の赤備(あかぞなえ)」に代表される
 ような関ヶ原の戦いの当時の武器を持って参戦し、近代
 軍とは、かけ離れた状態だった。
  そんな幕府は、倒すしかないと感じていた。
  だから、神戸の海軍操練兵所で、坂本龍馬に・・、
  「攘夷などは不可能」。
  「国防こそが大事」。
  「その為には、国を統一しなければならない」・・と
 教え諭した。
  また、西郷が、「どうして幕府は本気で長州を滅ぼさ
 ないのか」と迫った時も、
  「もう幕府は、空洞化しているのだから、長州一藩を
 うんぬんするのでなく、諸藩連合で新しい日本を考えて
 行かねばならない」・・と、説いている。
  まさに、倒幕の勧めで・・、
  その結果、薩長同盟(1866年1月)も成立している。
  現在に例えると、一官僚が、官僚全部を解体したに等
 しい。
  勝の凄さであり、実行における孤独さもあった。
  「俺の孤独は、人にはわからん」・・と、勝は言って
 いる。
  福沢とは、実行家である勝とここが違った。
  勝は、また言う・・、
  「維新の頃には、妻子までもが、俺に不平だった」
  「広い天下、俺に賛成する者は一人も居なかった」
  「けれども、山岡鉄舟や大久保には、後から少し分か
 ったようだ」・・と・・
  「俺は、常に、世の中には、道というものがあると思
 って、楽しんで居た」
  また、
  「一事を断行している中途で、俺が死んだら、誰が俺
 に代わる者があるかという事も、随分心配ではあったけ
 れど、
  それに構わず、俺は、ただ行うべきことは行おうと大
 決心して、自分で自分を殺すような事さえ無ければ、そ
 れでよいと確信した」・・と・・、
  実際、勝は、生命を狙われる事が、何回もあった。
  倒幕のリーダーが西郷であったことも大きい。
  西郷は、勝から、「尊王攘夷という考えを捨てなさい」
 という教えを受けてから、勝には頭が上がらなくなって
 いた。
  元治1年、1864年9月11日に、西郷は、勝と初めて対面
 している。
  この会見の後、西郷は、大久保一蔵(利通)に宛てた
 手紙に・・、
  「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候人
 物にて、最初は打ち叩くつもりにて差越し候ところ、と
 んと頭を下げ申し候。
  どれだけ知恵のあるやら知れぬ塩梅に見受け候。
  まづ英雄肌の人にて、佐久間より事の出来候儀は、一
 層も越し候らはん。
  学問と見識とにおいては、佐久間抜群のことに御座候
 へども、現時に望み候ては、この勝先生を、ひどく惚れ
 候」・・と・・、
  勝が、最後の幕臣として主張した事は・・、
  「徳川家を守る」、
  「徳川家臣団に、俸禄を保証してやる」、
  「江戸は徳川の官僚が守る」・・という3点だった。
  そして、慶応4年の1868年3月13日に、西郷との会見に
 臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く・・、
  「当日、俺は、羽織袴で馬に乗って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩屋敷へ出かけた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待っていると、
 西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をは
 ひて、例の熊次郎という忠僕を従へ、平気な顔で出て来
 て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷
 に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えた者とは思われ
 なかった。
  さて、いよいよ談判になると、西郷は、俺にいふ事を
 一々信用してくれ、その間、一点の疑問も挟まなかった。
  「色々むつかしい議論もありませうが、私が一身にか
 けて御引受けします」・・西郷のこの一言で、江戸百万
 の生霊も、その生命と財産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏もその滅亡を免れた。
  この会議は、極めてスムーズに進行した印象を受ける
 が、真実、そうでない。
  勝は、破談になった時のことを考えて、策略を巡らせ
 ていた。
  それは、第一に、西郷に対しナポレオンの教訓を教え
 ている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシアは自
 らモスクワに火を放ち、それによってナポレオンも敗退
 させたという事で、
  いざとなれば、江戸でもそれと同じ焦土作戦をやると
 言って・・西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官アーネスト・サトウを通
 じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしている。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日(1868
 年3月13日)に、パークスは、東海道先鋒総督府参謀の長
 周藩士・木梨誠一郎と会議をしているが、
  パークスは、この時、「横浜が混乱して、貿易に支障
 をきたすと、日本の為にも不利益を生ずることになる」
 と言っている。
  (参考:長周は、長門国および周防国をまとめて呼ぶ
 場合の総称)。
  また、パークスは・・、
  「したがって、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備に
 当っているから、さよう御承知おき戴きたい」・・と、
 発言している。
  これは、官軍が江戸に攻め入るようなら、『英仏両軍
 を敵に回す事になる』という脅しに他ならない。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷にこの情
 報はもたらされていた。
  鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~1868年1月30日)
 では、官軍の近代兵器や、また、整然とした軍律から見
 ても、幕府軍に到底勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上で踊らせ、できる事なら慶喜を水
 戸から江戸に呼び戻したいと考えていた。
  しかし、勝の思惑は外れてしまう。
  倒幕側に世代交代が起こった。
  西郷が退いて、大久保と大村益次郎、江藤新平が登場
 して来た。
  彼らは、西郷と違って、勝から教わった事もなければ、
 啓蒙されたこともない。
  彰義隊討伐は、わずか10時間で鎮圧されてしまった。
  勝は、2・3日は持つと思っていた。
  勝は、海軍の事は強かったが、陸軍の事は疎かった。
  陸軍の近代化をやってのけた大村益次郎の実力を知ら
 なかった。
  そして、実際には、江藤新平の率いる佐賀藩所有のア
 ームストロング砲が威力を発揮した。
  もし、彰義隊が2・3日持ち、耐えていれば、関東一円
 の譜代諸藩も挙兵し、東北列藩もこれに呼応しただろう。
  こうなったら形勢は、どうなっていたか分からない。
  勝も大久保も、共に、政治的人間で短気であったが、
 大事な時に頭に血の上らない人間であった、
  西郷は政治的人間であったが、西南の役(1877年)で
 部下のために情死したようなもので、滅びの美学に酔っ
 た。
  故に、冷静に日本を作ったのは、勝と大久保と言える。
  誕生したばかりの日本を、大久保は一人、渾身の力を
 込めて作ったと言っていい。
  勝の人脈はすごい。
  子分という縦の関係は無いが、横のネットワークは広
 い。
  これが、幕末から維新にかけて武力以上にものを言っ
 た。
  アメリカの国務次官補を務めたジョセフ・ナイは、「
 アメリカが強いのは、単なる軍事力、経済力だけじゃな
 い。ソフトパワーによるものだ」と言っているが、
  彼が言うソフトパワーとは、言葉と知恵の事で・・、
  勝は、このソフトパワーを持っていた。
  これからの時代、ますます、このソフトパワーが大切。
.
  (今日の言葉)
.
  題:過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
.
紀元前6万5500年、メキシコのユカタン半島へ小惑星が衝突
 した。
  これによって恐竜が絶滅した。
  また、2013年2月、ロシア中部に、直径20メートル(推
 定)の小惑星が落下し、1000人を越えるけが人が出た。
  宇宙航空研究開発機構(JAXA)の吉川真准教授による
 と地球に接近する可能性がある小惑星は、これまで約1万
 6000個が確認されている。
  直径数百メートル以上の小惑星が、地球に達する恐れ
 はないと見られている。
  地球に接近する小惑星や彗星(すいせい)を国際協力
 で早めに観測し、衝突を回避しようとする動きが盛んに
 なってきた。
    (読売新聞、2017年5月4日を参考にした)
.
2017年、アメリカを支配するエスタブリッシュメント層が、
 グローバリズムの果実を独占し・・、
  一方、一般のアメリカ国民は、どんどん貧しくなり、
 戦地に駆り出された若者が命を落して来た。
  日本のメディアも、アメリカ・メディアに同調して、
 トランプ大統領を茶化すばかり。
  これまで、メディアは、グローバリズムは正義であり、
 理性であると報道して来た・・そして、一方・・、
  ナショナリズムは、感情であり、愚かであり、排除す
 べきものという主張を・・、延々と、繰り返して来た。
  一般的なアメリカ国民の生活は・・貧しくなるばかり、
 アメリカは、アメリカとは関係のない国の紛争に、アメ
 リカ軍と投入し、介入し・・、
  若者の命と、税金が・・浪費されて来た。
  これから、旧来のエスタブリッシュメント層からの反
 抗が、想像を絶するものとなるだろう。
  トランプ大統領は、就任演説で、すべての国に対し、
 精神面、安全面、経済面で、「自立せよ」と訴えた。
  「中国の冒険主義を挫(くじ)くため、アメリカ海軍
 の軍艦を350隻(現在は276隻)に増強する」。
  「中国の人民元安を止めさせる」。
  「中国からの輸入品には、関税を最大45パーセントま
 で引き上げる」。
  極限まで広がった経済格差を縮小し、アメリカ人の雇
 用と所得を回復させる。
  『反グローバリズム』を公然と掲げた。
  アメリカを陰から支配してきたエスタブリッシュメン
 ト(支配階級)層に、反旗を翻(ひるがえ)す。
  エスタブリッシュメント層とは、具体的に言えば、ウ
 ォールストリート(世界金融の中心の一つ)に巣食う「
 国際金融資本」や、外交・軍事に隠然(いんぜん)たる
 影響力を持つネオコン(ネオコンサバティズム、新保守
 主義)と呼ばれる勢力。
  軍産複合体とも呼ばれる。
  ネオコンが、アメリカ国防総省を握っていた。
  彼らが、アフガニスタン、イラクと、次々に戦争を起
 こし、世界の紛争に介入し、アメリカ軍の若い兵士たち
 を、多数、犠牲にして来た。
  グローバリズムの果実を得たのは・・ほんの一握りの
 富裕層だけ。
  グローバリズムの名の下に、工場は海外移転し、雇用
 は捨て去られ・・、
  わずかに残った工場には、またまた、グローバリズム
 の名の下に「流入した移民」によって、雇用は奪われ、
  労働賃金は・・安く押え込まれる。
  グローバリズムを利用できる「アメリカを支配するエ
 スタブリッシュメント層・経営層」は、どんどん豊かに
 なり、濡れ手で粟の状態で・・、
  一般庶民は、この逆で、どんどん貧しくなり、貧富の
 格差は、またまた一層、拡大するばかり。
  この国際金融投機は公正でもなく、また、健全である
 訳でもなく、ギャンブルに依存する経済のこの様相が、
 豊かな未来を築こうとする社会の姿ではない・・目指す
 べき姿ではない。
  実直に、「ものづくり」をする経済への転換をしなけ
 ればならない。
  かつて、豊かにものづくりに励(はげ)んだ地帯が、
 今、「ラストベルト」と呼ばれている。
  ラスト(rust)は金属の錆〈さび)のこと、「錆び
 付いた工業地帯」を、グローバリズムの名の下の行動で、
 作ってしまった地帯が、化石の様に、苦悩を現わし、残
 っている。
  キリスト教に偏するNHKの元職員・宮崎緑は、NH
 Kの番組で、グローバリズムを連呼していた。
  世界中に、アメリカのほんの一部のエスタブリッシュ
 メント層が、自分たちに都合よく作ったシステム・・、
  何ら、グローバルでも何でもなく・・ただただ・・エ
 スタブリッシュメント層に都合の良いだけのシステム・・、
  グローバリズム、世界をアメリカ企業に、有利で、都
 合のいいグローバル市場にして行く。
  アメリカの1%の、ほんとの一握りの超富裕層、これに
 ゴマをするキリスト教に偏するNHK。
  一部の大金持ちが、超大金持ちになっただけ。
  アメリカのプア・ホワイトの賃金は、拡大どころか、
 低落してきた。
  1973年から1998年にかけて、26%も減少した。
  25年間で、何と! 4分の3に減ってしまった。
  これが・・グローバリズムなのだ。
  一部の金持ちが、より金持ちになっただけ・・
  かつて、アメリカを支えた中流層・中間層は居なくな
 り、貧しくなり、教育に金をかけられなくなり、国は荒
 れた。
  今、若者は、アメリカの若者は、軍に志願して入隊し、
 奨学金を貰って、退役後に大学に入るという道を選んで
 いる。
  アメリカでは、1973年に、徴兵制が廃止され、志願兵
 を採用する制度になっている。
  毎年、15万人の若者を集めるために、大学の奨学金を
 「エサ」に使って、貧困層や、移民の子弟をかき集めて
 いる。
  そして、国際金融資本の意を受けたネオコンによって
 作られたイラク戦争などの無意味な戦争に駆り出される。
  また、アメリカの政治を繰るウォール・ストリートが
 ある。
  ここの金が、アメリカの政治を繰る、そして、それが、
 世界へ波及する。
  また、ここの金に群(むら)がるメディアが居る。
  このアメリカ・メディアに、頭の上がらない日本のメ
 ディアが、アメリカメディアに靡(なび)く、ゴマヲス
 ル。
  ウォールストリートは、軍産複合体とも連なっている。
  今、この陰謀の大山脈に挑む者が表れた。
  古いしがらみ、金、癒着などのカサブタが・・、
  ガサガサのかさぶたが、何層にもこびりついた「旨い
 汁を吸うかさぶた連中」が、一層一層、剥がされていく。
  若者の血を吸って来た者どもが、剥がされていく。
  過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
  また、その無意味な戦争で亡くなられたイラクなどの
 方々、戦争と何ら関係のない亡くなられた方々へも懺悔
 し、悔い改めよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年05月17日

(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年(明治24年)、出来事:
・第3代内閣総理大臣:山県有朋・1889年(明治22年)12月
 24日~1891年(明治24年)5月6日
・第4代内閣総理大臣:松方正義(第1次松方正義内閣)1891
 年(明治24年)5月6日~1892年(明治25年)8月8日
・(氷川清話)松方内閣。
・(氷川清話)第二議会解散。
・予算案を巡って政府と民党との対立は激化し、政府は窮
 地に立った。
・釧路港が、特別輸出港に指定された(1890年説あり)
  港湾に出入りする貨物の量と質は、後背地域の生産と
 消費によって規定される。
  そのため、港湾は後背地との関係で論ぜられることが
 多い。
  釧路は、石炭、水産、製紙を三大基幹産業として成長
 してきた都市。
  釧路港で水揚げされた魚は、飼肥料や食用として国内
 外へ移輸出された。
  製紙工場は、アメリカやカナダからチップや木材を輸
 入し、新聞紙や段ボールとして東京や大阪方面に移出し
 た。
  しかし、貨物取扱量の内、輸出量が極端に低かった。
  1886年(明治19年)、安田善次郎は、硫黄山の硫黄採掘
 権を獲得した。
  そして、その硫黄輸送のために、1892年(明治25年)に、
 硫黄山と標茶を結ぶ鉄道(釧路鉄道)を開通させた。
  それまで、硫黄は、標茶から釧路川河口(現在の港町付
 近)まで釧路川を汽船によって運ばれ、一旦、倉庫に保管
 されていた。
  当時の釧路は、港湾荷役設備がまったくないため、硫
 黄は沖合いに停泊している汽船(日本郵船)へ艀(はしけ)
 によって運ばれ、函館へ、さらに、アメリカやオースト
 ラリアへと運ばれた。
  そして、この年・1890年(明治23年)、釧路港が特別輸
 出港に指定された。
.
1891年、データ:
・1891年1月1日の日本の総人口が4025万人となり、4000万
 人を突破した。
・1891年9月の東京の電話加入者数500。
.
1891年、国際関係:
・露仏同盟が結ばれた(1891年1月4日)
  軍事同盟で、ドイツ・オーストリア・イタリアによっ
 て構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた
 場合、他方の国が軍事的支援を行う。
  1890年、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクの辞任にとも
 ない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。
  これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視す
 る観点から、対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体
 制)、
  この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世は、この
 ことに固執しなかった。
  そして、1887年より継続していた独露再保障条約が更
 新されないことになった。
.
1891年、交通:
・日本鉄道の上野~青森間が全線開通した(東北本線鉄道
 全通)
 毎日、1往復の旅客列車。
 下り:26時間25分、上り:26時間40分。
・日本鉄道、甲乙二種の定期乗合割引切符の発売を始めた。
 甲は、1ヶ月2割(通学は4割)、乙は、2ヶ月2割5分(同
 じく5割)の割引。
・ロシアがシベリア鉄道の工事を始めた。
  世界一長い鉄道で、モスクワ(正確にはチェリャビン
 スク)から日本海岸のウラジオストクまでの7416キロメ
 ートル。
  ロシア号は、約7日間をかけて走破する。
  建設計画は、1850年から始まっていた。
  そして、1891年から建設開始し、露仏同盟を結んでい
 たフランス資本からの資金援助を受けながら工事を進め
 た。
  1524mmの広軌を採用したが、これは、欧州と同じの
 1435mmの標準機を採用すると、ナポレオンの様な侵略
 者に使われると脅威になると考えた。
  全線開通は、日露戦争の最中の1904年9月だった。
.
1891年、衣:
・東京大森の川田父子が、経木真田(きょうぎさなだ)を
 発明した。
  経木真田は、経木を細く切って真田ひものように編ん
 だもの。
  夏帽子などの材料に用いる。
・信玄袋(しんげんぶくろ)が現れた。
  信玄袋は、布製の平底の手提げ袋で、口をひもで締め
 るようにしたもの。
・女持手さげ鞄が現れた。
.
1891年、住:
・長崎市水道が竣工した(給水開始:1891年5月16日)
 日本で3番目の近代水道として始まった。
・熊本電燈会社(火力・直流)、北海道電燈、それぞれが
 開業した。
  1888年8月31日に、長崎電灯会社が設立免許を受け、競
 争する様に熊本電灯会社が、1889年12月17日に設立許可
 を受けた。
  1890年が恐慌で、この影響を受けた。
  また、1891年1月20日の漏電による帝国議事堂焼失事件
 により「電灯危険説」が出た。
  これにより、電灯会社は危機に陥った。
  「電灯危険説」は波及し、宮中の電灯は御休止となっ
 た。
  京都電灯会社についても、新聞が、「開業以来の努力
 も大方水泡に帰し、休灯、廃灯するもの続出し」と報じ
 ている。
  そして、次のようにも報じた・・、
  「国会議事堂焼失の原因、横浜共同電灯会社二号活字
 を以て左の通り広告せり、
  電灯より出火せしに非す、電灯は火事の為めに焼かれ
 たり」。
  九州でも、「一旦申込をなした人々の間に於いても電
 灯の危険なるを疑ひ、事業の前途に不安を抱いて約定金
 を棒に振って脱退する者が出来・・此の為に会社の設立
 も一時危まれ」・・云々。
・ガスの白熱マントルが使用されはじめた。
  ガス灯の火口は、「マントル」という丸い発光材で包
 まれ、この発明によって、青白く進化した炎の色が好ま
 れた。
  これによって、室内のあかりとしても、より一層、使
 われるようになった。
.
1891年、報道・事件:
・イランで、反イギリス運動であるタバコ=ボイコット運
 動が起きた。
  1891年、カージャール朝のイランで起こった民衆の反
 イギリス運動で、
  イランは、19世紀以降、北方からのロシア、そして、
 インド方面からのイギリスの侵出にさらされていた。
  トルコ系征服王朝であるカージャール朝は、外債に依
 存して民衆生活を抑圧する政策を続けていた。
  1890年、カージャール朝の国王ナーセロッディーン=
 シャーは、イギリス人投機家タルボットに、期限50年の
 イランのタバコに関するすべての権利を与えた。
  その独占供与の見返りで、純益の4分の1をシャーが
 受け取ることになっていた。
  このことが、イスタンブルで発効されていたペルシア
 語新聞で暴露され、イラン国内に激しい反対運動が起こ
 った。
  当時、イスタンブルにいたアフガーニーが指導し、
  国内のシーア派の法学者であるウラマー、タバコ商人
 が、先頭に立って、タバコをボイコットする運動に発展
 した。
  この運動は、カージャール朝に大きな打撃を与えた。
  1892年、国王は、事態を沈静化するためイギリスへの
 利権供与を取り消したが、
  多額の違約金を払ったため、その負担は、財政を強く
 圧迫した。
  因みに、イラン人は、イスラーム教徒であるので、酒
 を飲むことはできなかった。
  しかし、タバコは許されていたので、大衆の最も好む
 嗜好品として普及していた。
  それだけにタバコ=ボイコットは、民衆にとっても厳
 しい戦いだった。  
  イランでは、「トゥートゥーン」という紙巻きや、キ
 セル用の葉タバコと、「タンバークー」という水キセル
 用の刻みタバコの二種類があったが、
  イラン人は、特に「タンバークー」の方を好んだ。
・(氷川清話)巡査・津田三蔵のロシア皇太子傷害事件。
  1891年5月11日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレ
 クサンドロビッチへ、巡査が、突然、抜刀し、皇太子は
 斬られ、負傷した(大津事件)。
  来日が、「日本侵略の準備」という噂を信じたためで
 あった。
・(氷川清話)児島大審院長の司法権の独立問題。
  この大津事件の際、児島氏は大審院長として、司法権
 の政治部門からの独立を守り抜いた。
  被告人である津田は、大逆罪により大津地方裁判所に
 起訴された。
  そして、総理大臣・松方正義ら政府首脳が、大逆罪の
 適用を強く主張していたこともあり、
  大審院は事件を自ら処理することとした。
  これに対し、児島は、津田の行為は、大逆罪の構成要
 件に該当しない(罪刑法定主義)との信念のもと、審理
 を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人ひとりを説得
 した。
  結局、大審院は、津田の行為に謀殺未遂罪を適用し、
 無期徒刑を宣告した。
  司法権の独立の維持に貢献した児島は、「護法の神様」
 と日本の世論から高く評価され、
  また、当時の欧米列強からも、日本の近代化の進展ぶ
 りを示すものという好評価を受けた。
・内村鑑三不敬事件
  第一高等中学校で、内村鑑三の不敬事件が起きた。
  内村は、1890年から、嘱託教員となっていた。
  そして、1890年10月30日に、教育勅語が発布された。
  1891年1月9日に、講堂で挙行された教育勅語奉読式に
 おいて、内村の行動は、軽くおじぎをして降壇する状態
 だった。
  このおじぎの程度が問題となった。
  この「おじぎ」のことが、同僚や生徒などによって非
 難された。
  そして、やがて社会問題化した。
  日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝
 は『許される』と主張した。
  しかし、日本基督教会の指導者・植村正久は、これを
 『認めなかった』。
.
1891年、論・文学・本:
・幸田露伴『五重塔』
  腕は抜群だが、愚鈍なため「のっそり」とあだ名され、
 そして、世渡りの才覚のつたない大工・十兵衛が、
  江戸・谷中の感応寺の五重塔建立の仕事を請ける。
  そして、恩義ある親方の川越の源太と争い、辛苦の末、
 また、さまざまな妨害にも屈せず、ついに、みごとに完
 成するまでの屈曲を描いた。
  主人公の十兵衛は、妥協を知らない偏屈な名人気質で、
 義理人情の世界をこえる非情な主我を、独特の名文で描
 き、明治文学の新生面を開拓した。
・大槻文彦編『言海』完成(6月)
  言海(げんかい)は、国語学者の大槻文彦が、明治期
 に編纂した国語辞典。
  日本初の近代的な普通語の辞典だった。
  第4冊(4月22日)
  6月23日、出版祝賀会を東京・芝紅葉館で開催し、総理
 大臣・伊藤博文、勝海舟らが出席した。
  1875年(明治8年)、当時、文部省報告課に勤務してい
 た大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に、国語辞典の編纂
 を命ぜられ、編纂を開始した。
  国の辞書があるということは、その国を近代国家とし
 て認めさせる手段の一つだったため、
  当時のイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどで
 は、国語辞典作りが盛んに行われていた。
  明治政府は、「日本が近代国家の仲間入りをするため
 には、日本語という国語を統一する必要があるから、我
 が国にも国語辞典が必要だ」とした。
・『早稲田文学』創刊(10月)
  前年、新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文
 学科の機関誌として創刊された文芸雑誌。
  第一次早稲田文学は、坪内逍遥が主宰し、創刊した。
  日本初の文芸誌だった。
  第一次早稲田文学は、全156冊、1891年10月~1898年
 10月。
  最初は、講義録風なものであった、そして、逍遥と森
 鴎外との間に没理想論争が展開されたりした。
  そして、次第に、逍遙、島村抱月、綱島梁川らの論文
 がふえ行く。
  文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不倒(ふとう)
 (1858年~1943年)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ち
 ゅうがい)、五十嵐力(ちから)らが、誌面で活躍しはじめ、
 文芸誌としての色彩を強めた。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆した。
  明治文学の嚮導者(きょうどう、先に立って導くこと)
 として果たした役割は大きい。
.
1891年、流行・世相・歌:
・木挽町郵便局が、郵便配達に自転車を使用した。
・川上音二郎の「オッペケぺ-節」が大流行する。
  川上音二郎は、民権思想の新聞記者として「自由童子」
 と名乗った、入獄10数回を数える。
  政治的意見が表明しにくく、言いたいことをオッペケ
 ペーの歌詞の中でズバズバ言った。
  そのため、不満を感じていた民衆に受け、爆発的な人
 気となった。
  権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。
  自由湯をば飲(の)ましたい。オツペケペ。オツペケ
 ペツポー。ペツポーポー。
  堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅ
 ボン」に人力車、意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。
  貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。外部
 (うはべ)の飾(かざり)はよいけれど、政治の思想(
 しそう)が欠乏だ。
  天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由
 の種(たね)を蒔(ま)け。オツペケペ。オツペケペツ
 ポペッポーポー
  米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さい
 みん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす、目深(まぶ
 か)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。金の指輪(
 ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に
 膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(
 ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(ど
 うほう)兄弟見殺(みごろし)か。
  幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。
  餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な、但し冥
 土(めいと)の御土産か。地獄(ぢごく)でゑんまに面
 會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オ
 ツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
  亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。
 ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。
 不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。む
 やみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビ
 ールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食
 を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかで
 へどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。
 ヱラペケペツポ。ペツポーポー。・・(後略)・・
・明治美術会で「裸体画と風紀問題」について議論に。
  その二枚の絵は、いずれも幼い男の子の草刈りと、牛
 にまたがった姿(東京日日新聞)
  黒田清隆の生涯は、裸体画問題と格闘し続けたと言え
 る。
  裸体画を盛んに制作した黒田清輝や、彼が属していた
 白馬会が、論争において裸体画を強く支持した。
  日本における裸体画の嚆矢(かぶらや)は、黒田清輝
 による『朝妝(ちょうしょう)』(明治26年・焼失のた
 め現存せず)だった。
  この作品は、黒田が、ヨーロッパから帰国した後の明
 治27年(1894年)、明治美術会第六回展に出品された。
  この時は、何も問題にはならなかったが・・、
  翌・明治28年(1895年)、京都の岡崎公園で開催され
 た第四回内国勧業博覧会に出品された際、その出展可否
 をめぐって論争が巻き起こった。
  黒田にとって裸体画は、自らが滞欧中に学んだ西洋美
 術の普遍的な美を体現したものだった。
  実際、紀元前5世紀頃、ギリシア人によって描かれて以
 来、裸体画は、肉体と精神を統一した人間の全体性を表
 したものとして、西洋美術の規範に組み込まれて来た。
  (イギリスの美術史家、ケネス・クラークは、その美
 の理想像としての裸体を「nude(ヌード)」として、裸
 の肉体そのものを指す「naked(ネーキッド)」と概念的
 に区別した)。
  それゆえ、「美術」を日本社会に輸入し、定着させる
 ことを目指した黒田にとって、裸体画は、「美術」を社
 会に公認させるための重要な手段だった。
  ところが、近代日本において、裸体画は、風俗を紊乱
 (ぶんらん、乱すこと)する春画の一種とみなされがち
 だった。
  西洋列強に追いつくことに必死だった明治政府にとっ
 て、そもそも裸体は、先進国にふさわしからぬ野蛮な習
 俗であり、
  事実、明治4年(1871年)、東京府知事により「裸体禁
 止令」が発令されると、公の場で裸体になることが処罰
 の対象となった。
  これを徹底させるためにも、裸体画を公共空間で堂々
 と展示されては都合が悪かった。
  結局、同博覧会審査総長の九鬼隆一の判断により『朝
 妝』の展示は継続された。
  続く1897年(明治30年)、黒田は、日本人をモデルに
 した初の裸体画とされる『智・感・情』を、白馬会第二
 回展に出品するが、新聞紙上で論争が起こったものの、
 官憲による取り締まりは、とくに見られなかった。
  だが、明治34年の白馬会第六回展において、警察は本
 格的な取り締まりを実行した。
  黒田が、フランス滞在中、フランス人のモデルを使っ
 て描いた黒田による『裸体婦人像』をはじめ、
  黒田が、フランスから持ち帰ったラファエル・コラン
 の『オデオン座天井画下絵』、湯浅一郎の『画室』など
 が、著しく風紀を紊乱するとして、警察は特別室での鑑
 賞という制限を求めた。
  これに対し、黒田と白馬会は、あくまでも一般観衆へ
 の公開にこだわった。
  その妥協案が、当該作品を額縁ごと布で覆って展示す
 る方法だった。
  これが後に「腰巻き事件」と言われた事件で、
  この作品は、膝を横に折り曲げ、床に腰を下ろした白
 人女性が描かれているが、警察によって「わいせつ」と
 され、女性の胸から下半身までを、額縁ごと布で覆い隠
 された。
  裸体画は、エロティシズムが含まれている点は否めな
 いが、美術作品を鑑賞するという視線を『自立的に確立
 することができる』のではないか・・という・・
  近代日本における裸体画論争の根底には、そのような
 美術の専門的な鑑賞者を育成する意図もあった。
.
1891年、科学:
・ベルンの国際地理会議で、「統一された国際図」の作成
 が提案された。
  今まで、各国政府が独自のルールを設けて、ばらばら
 に地図作りを行なっていたために、いくつもの国にまた
 がる問題を検討しようとするとき、ひどく不便な状態に
 あった。
  1891年、ベルンで開催された第5回国際地理学会議に
 おいて、ドイツの地理学者、アルブレヒト・ペンク(1858
 年~1945年)は、統一された国際図の作成を提案した。
  1913年のパリ国際地理学会議で決められた規格は、『
 国際100万分の1世界図』とよばれ、
  縮尺は1/100万、図法は変更多円錐図法、図幅は経度
 が6度で、緯度が4度として国境線で図葉を区切らない、
 長さの単位はメートル法、地形は等高線による段彩など
 の内容だった。
・三重県の真珠を、広島に移植試験を行なう。
  1893年7月11日に、御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養
 殖に成功したが・・、
  1891年10月、三重県英虞湾(あごわん)の阿古屋貝(
 アコヤがい)を、広島県厳島の海岸に移植した。
・インドネシアのジャワ島のトリニール付近で、ジャワ原
 人(化石人類)の頭蓋骨と大腿骨が発見された。
  オーストラリア先住民などに進化したとする研究者も
 いるが、
  現生人類の直接の祖先は、アフリカのホモ・エレクト
 ス(ホモ・エルガステル)であって、アジアにいた北京
 原人やジャワ原人は、直接の祖先ではないとする意見が
 支配的。
  脳頭骨は小さく、脳容量も900cc程度と推定され、対照
 的に眼窩上隆起は大きく、額は現代人のように丸く膨ら
 まないで低く倒れたように傾斜するなど、原始的な特徴
 が多い。
.
1891年、災害・防災・公害:
・濃尾地方に大地震がおこり、7273人が亡くなった(1891
 年10月28日6時38分50秒)
  マグニチュードは M = 8.4、
  家屋全壊:142,177、半壊:80,324
  震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、は
 げ山になったなどと伝えられる。
  また、岐阜市と周辺では、火災が発生し、被害を大き
 くした。
  名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被
 害は言うまでもなく、
  長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなか
 った橋梁や煉瓦の建築物などが破壊された。
  この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が
 進展する契機となった。
・足尾銅山鉱毒事件
 (氷川清話)田中正造の足尾公害問題
  足尾銅山の廃液が原因となって起きた公害問題で、
  田中正造が、議会で鉱毒問題を取り上げ、追及した。
  栃木県足尾銅山は、1877年、古河市兵衛(ふるかわいち
 べえ)の経営に移ってから、急速に近代化された。
  1884年に、住友の愛媛県別子(べっし)銅山を抜いて全
 国一の銅山となった。
  反面、古河の生産第一主義的な経営は、煙害と製錬用
 薪炭材の乱伐による足尾山林の荒廃を招いた。
  また、その山が荒れたことによる大洪水を頻発させた。
  大量の廃石や鉱滓(こうさい)、有毒重金属を含む酸性
 廃水を垂れ流した。
  そのため、1885年ごろから、鮎(あゆ)の大量死や鮭(さ
 け)の漁獲量の激減など、
  渡良瀬(わたらせ)川の漁業被害が顕在化するとともに、
 流域の広大な農地と、農作物に鉱毒被害が発生した。
  特に、1890年の洪水による鉱毒被害の激化は、農民を
 鉱毒反対運動へと駆り立てた。
  1891年、第2議会において、田中正造(しょうぞう)は、
 政府の鉱山監督行政の怠慢を批判した。
  汚染された渡良瀬川流域の被害農民らの、再三の請願
 や、田中正造の天皇陛下への直訴で、政治・社会問題と
 なったが、政府は弾圧した。
・帝国議事堂火災
  開期中の1891年1月20日未明、衆議院政府委員室から
 出火。
  貴族院にも延焼し、議事堂が全焼した。
  出火原因について、衆議院書記官長が、「衆議院政府
 委員室の電灯管の熱度暴騰し、為めに発火し他の電管に
 移って竟に防火の手段なきに及べり」と、漏電による旨
 を議会に報告し、また、官報号外をもって公示した。
  この頃は、電灯が文明開化の波に乗って、華々しくデ
 ビューした時期だった。
  直流方式の東京電燈会社と、交流方式の大阪電燈会社
 が優劣論争を戦わせながら、市場獲得に躍起になってい
 た矢先でもあった。
 電灯に対する一般人の理解も、ガラス球の中に火を閉じ
 こめた程度のものだった。
  そのため、議事堂が漏電から全焼したと聞くと、たち
 まち点灯休止の申し入れが殺到した。
 この機に、灯油の販売量減少を恐れていた石油販売会社
 は、電灯の罪業を宣伝した。
  当時の新聞に・・、
  「流行物たる電気灯は、実に恐るべき功能を世人に識
 らしめたり、昨年は大阪に於ては人命を奪い、東京にて
 は、当市の飾物たる鹿鳴館を焼かんとし、遂には、今回
 は我神聖なる帝国議事堂を烏有に帰せしめしのみならず、
 緊急欠くべからざる議事をも妨げたり、嗚呼悲しむべし」
 と痛烈な広告を出した。
 せっかく軌道に乗りかけた需要が、一時にドッと減った
 東京電燈会社は、漏電にあらずと主張し、公示の訂正方
 を求めて、衆議院書記官長を告訴した。
  が・・しかし、敗訴するに至り、矢島作郎社長以下の
 全役員が引責辞職する結果となった。
  窮地に追い込まれた電灯会社は、東京、大阪が共同防
 衛体制を整えねばならず、日本電燈協会(現:日本電気
 協会の前身)を明治25年(1892年)5月に設立させた。
 ところが、この協会設立準備中に、再び、帝国議事堂衆
 議院談話室から出火する事件が起こった。
  電灯会社は、大変びっくりしたが、電灯会社には幸い
 な「だんろの火の不始末」が出火原因と分かり、胸をな
 でおろした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年05月13日

(増補版)525E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)

題:(増補版)525E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年12月、博文館が「当用日記」を刊行した(1895年説
 あり)
  博文館は、1887年(明治20年)に、東京・本郷で創業
 した。
  そして、会社沿革には、1895年(明治28年)に、「日
 本で、初めて、広く一般大衆向けに日記を刊行」と記さ
 れている。
1890年12月、帝国大学文科大学に、仏蘭西文学科が設置さ
 れた。
  東京大学の文学部の歴史は・・、
  1856年2月(安政3年)幕府が、洋学所を蕃書調所とし
   て、九段坂下竹本図書頭屋敷に設立した事から始ま
   った。
  1862年5月(文久2年)蕃書調所を、神田一ツ橋門外護
   持院原(一橋通町一番地)へ新築移転し、
   (これ以前、九段坂上表六番地和学講談所、安政6年
   7月には、小川町に移転)、
   洋書調所と改称した。
  1863年(文久3年)洋書調所を、開成所と改称した。
  1868年6月(明治元年)新政府が、旧幕府時代の医学校
   を復興し、昌平坂学問所を復興して、医学校、昌平
   学校設置した。
  1868年9月、新政府が、開成所を復興して開成学校(
   その後、大学南校、第一大学区第一番中学、開成学
   校、東京開成学校と改称)を設置。
  1869年6月、昌平学校を大学校(本校)とし、開成、医
   学両校を大学分局(分校)とした。
  1870年2月、大学規則の制定した。
  1870年7月、大学内部における国漢学派と洋学派の対立
   によって大学本校が閉鎖された。
  1873年6月、開成学校が、神田錦町に新校舎落成。
  1874年4月、東京大学が創設され、文学部に2学科が置
   かれた。
  1878年12月、文部省が、東京大学に学位授与の権限を
   付与する旨を達す。
  1879年4月、東京大学の授与する学士称号を法学士・理
   学士・文学士・医学士・製薬士とした。
  1879年7月、法理文の三学部、初めての学位授与式を
   挙行した。
  1879年9月、文学部2学科のうち「第一史学、哲学及政
   治学科」のうち史学を削り「第一哲学、政治学、理
   財学科(経済学)」とする。
    漢文の作文を重視し、また、卒業論文を課するよ
   うになった。
  1881年9月、文学部に、以下の3学科が置かれた
   第一哲学科、第二政治学及理財学科、第三和漢文学
   科。
    新設課目として、印度及支那哲学、世態学(社会学)、
   審美学(美学)、生理学、日本財政論、行政学、日本
   古今法制等の講義がなされる
  1884年9月、法文校舎が竣工した。
  1885年12月、法学部を法政学部と改称
   (文学部の政治学及理財学科を法政学部に移す)
    それとともに、文学部は以下の3学科となった。
   第一哲学科、第二和文学科、第三漢文学科
  1887年3月、最初の入学宣誓式が行われる(1919年に廃
   止)
  1887年9月、文科大学に、史学科、英文学科、独逸文学
   科を増設し、以下の7学科を置いた
   第一哲学、第二和文学科、第三漢文学科、第四史学
   科、第五博言学科、第六英文学科、第七独逸文学科
  1897年10月、内閣修史局で行われていた修史事業が文
   科大学に移管された。
  1889年6月、文科大学に国史科を増設し、8学科とする
   とともに、和文学科を国文学科とし、漢文学科を漢
   学科とする。
  1890年10月、帝国大学に、地誌編纂掛設置
   (この年9月、内務省地理局の地誌編纂事業を帝国大
   学に移管。史料編纂所の一源流)
  1890年12月、文科大学に、仏蘭西文学科を増設し9学科
   とする。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今が・・ラストの・・チャンスなのだろう・・人類に
 とって・・
.
紀元前20万年~10万年前、人類がアフリカに誕生した。
.
紀元前4万9000年、人類がアフリカから出て移動していく。
.
紀元前4万7000年~紀元前4万2000年、人類が、ヨーロッパ
 に到達した。
.
紀元前4万7000年、人類が、オーストラリアに到達した。
.
紀元前3万8000年、人類が、日本列島に到達した。
.
紀元前3万3000年、人類が、ベーリング海峡のアメリカ大陸
 を望むところへ到達した。
.
紀元前1万5000年、人類が、ベーリング海峡を渡り、アメリ
 カ大陸へ至る。
  白人たちより、大分、早い到達者たちだった・・が・・
 南アメリカ大陸などは、スペインやポルトガルのキリス
 ト教徒とキリスト教聖職者たちによって虐殺され、
  そして、北アメリカ大陸では、イギリスからのピルグ
 リム・ファーザーズなどのキリスト教徒たちによって、
 可哀想な事に虐殺行為を受ける・・先住民たちの権利は、
 キリスト教の有色人種蔑視の洗脳によってまったく顧(
 かえり)みられなかった。
.
1878年12月18日に、ソ連のスターリンが生まれた。
  スターリンの父は、靴職人で評判だったが、アルコー
 ル依存症で、妻や子に、しばしば暴力を振るった。
  家計は次第に傾いて行き、幼少期だけでも9回の転居を
 繰り返す状況だった。
  スターリンは、1888年の10歳の感受性の強い幼少期に、
 キリスト教神学校に通った。
  父は、スターリンを靴職人にしたかったので学業に反
 対した・・そして、父は、スターリンが靴職人になるこ
 とをしきりに口にした。
  このキリスト教で、「異教徒は殺せ」の様な、「考え
 を異とする異教徒たちを、簡単に殺しても良い」という、
 キリスト教の考え方・精神に感化された。
  この幼少期の感化は、人知れず大きな悪行へとつなが
 って行った。
  この毎日のキリスト教聖書による「異教徒の人間の命、
 考えを異にする人間の命を軽く見る・・軽んずる見方に・・
 洗脳されて行った」、
  そして、このソ連のスターリンという男は、自国民を
 2000万人も殺した。
  ロシア革命と共産主義体制下で、スターリンに殺され
 た国民・虐殺者は、あまりにも多かった・・多過ぎた。
  途方もない多数の自国民を、スターリンは虐殺した。
  しかし、アメリカのルーズベルトは、この様なスター
 リンを自粛させるどころか、応援した。
  卑劣な事だった・・卑劣な行為だった。
  やはり、キリスト教に染まったルーズベルトの間違っ
 た歴史感から、この間違いは生まれた。
  (ルーズベルトの広島・長崎の原爆投下は、キリスト
 教のシャロームの完全抹殺の後の平和の達成の教義の洗
 脳から実行された)
  このルーズベルトに、日本と戦争をする大義名分なん
 て、まったく無かった。
  ルーズベルトが、掲(かか)げた日本と戦争をする大
 義名分としたのが、『自由と民主主義を守る』だった。
  やっと、この名目を掲げたルーズベルトの大義名分だ
 が、これだって、まったく的外れだった。
  日本より、スターリンこそが、非民主主義的に、殺戮
 ばかりしている輩だったのにである・・、
  まったく的外れのルーズベルトの大義名分だった。
  アメリカ国民の方々自身も、まったく日本と戦争しな
 ければならないなんて微塵も思っていなかった。
  アメリカ国民の方々は、「戦争をしない」「戦争をし
 たくない」「戦争に介入しない」だった。
  だから、イギリスのチャーチル首相が、すでに戦われ
 ていたヨーロッパ戦線に、アメリカが参戦してくれるこ
 とを要望して来た時に、
  アメリカ大統領のルーズベルトが言ったことは・・、
  「アメリカ国民世論が、まったく、戦争を回避したい
 としている」という事が説明された。
  この世論のままでは、無理に戦争を開始する事は出来
 ない・・だった。
  だから、ルーズベルトの娘婿カーチス・ドールは、本
 「繰られたルーズベルト」で言う・・、
  「彼(ルーズベルト)は、チャーチル首相に、何とか
 して我々の国(アメリカ)を戦争に持ち込もうと約束し
 た」・・と・・、
  つまり、アメリカ国民世論が、戦争回避にあるから、
 何とかして戦争に持ち込もうと約束した・・という(ア
 メリカ国民の方々への裏切り行為)
  そして、さらに・・、
  「彼(ルーズベルト)は、首相〈チャーチル)に『私
 (ルーズベルト)は戦争を作るのだ』と語っている・・、
  ルーズベルトは、戦争をする正当な理由が何もないの
 で、日本に先制攻撃をさせるように誘導した・・、
  そして、「自由と民主主義を守る戦いだ」という漠然
 とした理念を掲げざるを得なかった。
  厭戦(えんせん)気分のアメリカ国民を不意打ちに対
 する怒りで喚起(かんき、呼び起こすこと)させた。
  そして、参戦へ持ち込んだ。
  日本にも、アメリカと戦わなければならない理由なん
 て何も無かった。
  アメリカの強烈な・・強行の・・そして、一方的な石
 油禁輸などの痛烈な経済制裁に・・、
  立ち行かなくなる方策を取ったルーズベルト・・、
  日本に押し付けた強力な圧迫・・日本の生存を脅かす
 制裁に、やむなく、自衛の為に、戦争をせざるを得ない
 窮地に追い込まれた。
  また、アメリカは、率先して、ABCD包囲網を構築
 し、日本を窮地に追い込んで行った。
  「明日、日本が攻めて来る」と、つい、口を滑らせて
 言ったルーズベルトの様に・・、
  アメリカは、日本の暗号を完全に解読していて、日本
 の行動のすべてを、一部始終を、知っていた。
  日本のハワイの真珠湾攻撃は、この様な中で行われた。
  ルーズベルトの間違った歴史認識から、この悲惨な、
 卑劣な戦争は始まった。
.
1930年代末、ユダヤ人の追放、処刑、殺害といったニュー
 スがナチス占領下のポーランドから伝わってきた時・・、
  アメリカは、それでも難民受け入れの意志を見せなか
 った。
  アメリカへ、逃れて来たユダヤ人の方々を、追い返す
 というアメリカだった。
  また、スペインは、40万人のユダヤ人に対して、行先
 国のビザを所有する者に限って通過を許可したが、
  その様なこともせず、アメリカは知らぬ顔をし続けた。
  日本は、ユダヤ人の方々を、最初から、『完全に受け
 入れていた』。
  卑劣な事に、アメリカは、ユダヤ人の入国を拒(こば)
 むことを目的に、1939年6月の「スミス法」で、外国人受
 け入れの取締り強化した・・そして、さらに・・、
  さらに続いて、1941年11月には、「ラッセル法」を制
 定してビザ発行を制限した。
  そして、アメリカは、スイスのアメリカ大使館から、
 ナチスがユダヤ人の方々を大量殺戮していると報告を受
 けても・・
  その残虐行為を知っても・・
  「ユダヤ人の被害妄想的プロパガンダだ」と言って、
 受け入れなかった。
  何しろ、ルーズベルト大統領に、ユダヤ人の方々を受
 け入れる気は、まったく、無かった・・卑劣な大統領で
 ある。
  ランドール女史が、ユダヤ人を救うべきであると訴え
 ても・・『完全無視のアメリカ』=ルーズベルトだった。
  だから、卑劣にも、アメリカへ逃れて来たユダヤ人の
 方々を、アメリカは、ヨーロッパへ追い返した。
  ニューヨークへ入港したユダヤ人の方々を乗せた船を
 追い返したりした。
  そのユダヤ人の大半がナチスに捕まり、その半数が殺
 され・・死んだ。
  日本は、ユダヤ人の方々を、はじめから受け入れる方
 針で、神戸に来たユダヤ人の方々の乗った船を歓迎して
 いる。
  「日本政府の船」が出迎えに出ているくらいだった。
  恩を忘れない日本は、日露戦争で助けて戴いたユダヤ
 人の方々に、恩義も感じていた。
  それを、キリスト教は、杉原千畝をデッチ上げ・・、
  日本が、ユダヤ人の方々の入国を拒否していたと嘘を
 言い、
  また、ビザ発給の「資格のない杉原千畝」が、ビザ発
 給をするという違法行為をする杉原千畝を、キリスト教
 は、美談に仕立てた・・、
  そして、杉原千畝が、キリスト教徒だったからだと嘘
 話で美談に仕立て、プロパガンダ(嘘宣伝)し続ける。
  このキリスト教の嘘話に乗っかって池上彰は、「外務
 省が、君(杉原千畝)の立場ではビザの発給は出来ない」
 と言ったと、誤解するような言い方で、誤認するような
 言い方で、日本を貶(おとし)めた。
  日本が、さも、ユダヤの方々へビザ発給してはいけな
 いと言っているように池上彰は言った。
  杉原へ、『ビザ発給の資格がないから出来ない』と言
 っただけで、日本のどこの大使館でも、ユダヤ人の方々
 へはビザを発給していた。
  杉原千畝だけが、ユダヤ人の方々へビザを発給してい
 たのではない。
  大使資格でない杉原千畝のことを・・まったく、池上
 彰は、キリスト教に偏するNHKの元職員は、嘘つきな
 言い方をする。
  解説をすると言いながら、NHKと同じように、キリ
 スト教に偏する行動をする・・『信用ならない男』。
  この様な事は、当時、大使をされていた馬淵睦夫氏も、
 はっきりと言われている。
.
2014年、隠されている真実:アメリカが、秘かに行なって
 いるiSに対する資金や武器援助。
  アメリカが、これを止めれば、直ちにiSは崩壊する。
  (参考)iS:アイエス、ISIL(アイシル、英:
    Islamic State in Iraq and the Levant:イラク・
    レバントのイスラム国)、ISアイエス、イスラム
    国 、ISISアイシス、ダーイシュはイスラーム過激
    派組織で、イラクとシリアにまたがる地域で活動
    する。
  一般的な解説では・・以下の記述がある・・が・・、
  2014年8月8日、アメリカ軍が、ISILの武装勢力に対し
 て、限定的な空爆、及び、ヤズィーディーなどに対して
 支援物資の供給を開始。
  初日は、クルディスタン地域のアルビル近郊に展開し
 ていた野砲や車列が攻撃対象となった。
  アメリカは、空爆の期限を設けず、今後も空爆を実施
 することを示唆している。
  同年・2014年10月に入って、空爆の作戦名は「生来の
 決意」(Operation Inherent Resolve) と名付けられてい
 ることが明らかになっている。
  ただし、アメリカ軍の空爆は、ISILのイラク支配地域
 に限定されており、ISILの本拠地であるシリアでは実施
 されていないため、空爆の効果を疑問視する人もいた。
  シリア国内のISIL拠点を攻撃しないのは、ISILと対立
 するアサド政権を支援する形になるためと指摘されてい
 る。
  8月22日、アメリカはシリア国内の拠点に対する空爆の
 検討を開始したと発表した。
  この時点で、ISILの支配領域の合計面積は、イギリス
 より広くなっている。
  2014年11月24日、アメリカ政府は、チャック・ヘーゲ
 ル国防長官の辞任を発表した。
  辞任発表の場には、ヘーゲル国防長官も立ち会い、円
 満な辞任であるという形での発表であったが・・、
  ヘーゲルは、オバマ大統領と対ISIL政策が対立したた
 め、辞任に追い込まれた面が強く、事実上の更迭と見ら
 れている。
  ヘーゲル国防長官は、泥沼の中東から、アメリカが足
 抜けするための出口戦略を後押しすることが期待されて
 国防長官に就任した人物であり、
  ISILとの戦争には、消極的で、そのために、再び中東
 への介入を強めるように転換しつつあるオバマ政権と対
 立していたとウォールストリートジャーナルは推測して
 いる。
  一方で、国防総省は、ISILの危険性を早期に認識し地
 上部隊の派遣を具申したものの、あくまで、軍事予算の
 削減により、財政再建を目指し、軍事介入は限定的な空
 爆に留めたいホワイトハウスと対立していたとの見方も
 ある。
  しかし・・上記は、綺麗に繕った言い方で、事実は、
 まったく違うと・・、インターネット上で言われている
 ・・以下のその記述の一例・・、
  (国際金融資本を牛耳る者たち・・ウォールストリー
 トの者たち・・グローバリズムが都合の良い者たち・・
 それとつながりが強い民主党・・ヒラリーやオバマ・・
 ネオコン・・このラインの者たち・・)
  ISISは、アメリカが作り、イスラエルが支援している。
  みんなバレバレで、アメリカは、戦争でドル防衛って
 ことですか?
  プーチン側近が、「ISISはアメリカが作り、イスラエ
 ルが支援している」・・と・・、
  プーチンの側近が、「イスラエルがISISの訓練を行っ
 ている」・・と・・、
  モサドが、ISISのリーダーに「諜報員の経験」を伝授
 し、イスラエル軍部顧問がテロリスト集団を支援してい
 ると、プーチンの側近が話している。
  イスラエルの諜報機関のモサドが、イラクやシリアで
 活動を行っているイスラム国(ISIS)のテロリストの訓
 練を行っている、とロシア大統領ウラジミール・プーチ
 ンの上級側近が非難していることを、プレスTVが伝えて
 いる。
  Alexander Prokhanov氏が、イラン国営放送局に対し、
 モサドは、ISISのリーダーに「スパイ活動」に関する情
 報を伝授し、さらに、イスラエル軍の顧問は、同テロリ
 スト集団を他の方法で支援していると話している。
  プーチンの側近であるProkhanov氏は、ISISは、中東
 における米国の政策による副産物であるとし、「ISISは、
 アメリカ合衆国が作り上げたツール。
  彼らは、ヨーロッパに対し、もしアメリカが介入しな
 ければ、ISISがヨーロッパに被害を出すぞと伝えようと
 しているのです」と話し、
  しかし、本当のところは、イランとロシアこそがISIS
 テロの主なターゲットであると付け加えている。
  「ISISは、ほんの数日前、チェチェンで、ロシアに対
 する最初のテロ攻撃を開始しています」と話し、
  ISISのイデオロジーは、中東のイランや、他の一部の
 イスラム系国家のイスラム教とはまったくの無関係であ
 ることを強調した。
  Prokhanov氏は、また、アメリカおよびイスラエルは、
 ISISのようなテロリスト組織の支援に関しては、一つで
 あり、同類であるとも述べている。
  9月、シリア北部にあるシリアの最後の軍事基地を征服
 したばかりのISISテロリスト集団は、シリアの独裁者バ
 シャール・アサド氏、および、彼と主要同盟関係にある
 プーチン氏に対し、「特別なメッセージ」を送りつけた。
  ・・その他・・多数あるが省略・・
.
2017年4月30日、北朝鮮のミサイル発射(実験)が失敗した
 と(読売新聞、2017年4月30日)が報じた。
  北朝鮮は、今年に入り6回のミサイル発射を行なってい
 るが、その4回が失敗となっている。
  67%の失敗率と・・非常に高い失敗率となっている。
  巷の噂では『サイバー攻撃』によるこの失敗の事態と
 いう話がある。
  同じく読売新聞の翌日・2017年5月1日の記事に、アメ
 リカの国防次官補、ハーバード大ケネディスクールの学
 長を歴任された有名な国際政治学者ジョセフ・ナイ氏の
 記事がある。
  この記事で、サイバー攻撃によって『イラン核施設の
 ウラン濃縮用遠心分離器を稼働不能に陥れた』とある。
  また、2015年には、「ウクライナの電力システムを錯
 乱された」とある。
  サイバー攻撃は、この他にもいろいろなされている。
  北朝鮮のミサイル発射失敗のサイバー攻撃によって飛
 翔せずに、北朝鮮領内に落下したという事もありうる。
  この様な状況にあるミサイルを、実戦時に多数発射し
 たとしても、その多くが、今年の確率は67%であるが、
 失敗する。
  今回の様に、自国の北朝鮮領内にその多くが落下する。
  そのいくつかが、北朝鮮領内で爆発する。
  攻撃用兵器が制御不能となり、逆に、自国・北朝鮮へ
 の攻撃兵器となる(中国へ向かうかもしれない)
  自国兵器が、近距離で、自国への攻撃兵器となるので、
 その防御は不能となる。
  結果は、悲惨な事となる。
  この様な事が、起き得るのである。
  北朝鮮の方々が、この様な結果になることを喜ぶわけ
 では、勿論ないが、
  他国を攻撃しようとした北朝鮮の核兵器が、自国領土
 内の人々へ悲惨な結果を起こす。
  その様なことが、起き得る技術の時代なのだ。
  これと関連したことが、「LoT機器」へのサイバー
 攻撃である。
  同じく(読売新聞、2017年5月1日)に、サイバー攻撃
 が盛んに行われる時代になったことに関連して、消費者
 が被害を受けないかが問題とされている。
  これが、家電レベルでなく、核攻撃兵器となると、事
 態は深刻だ。
  国の頂点に居る者が『ボタンを押したら、自分の頭の
 上に降って来る確率が零〈0パーセント)では無いのであ
 る』。
  攻撃する意志が100%であるからと、安心して『核攻撃
 命令のボタンを押しても』、確実にそのことが、なされ
 得ない時代になったのである。
  つまり、北朝鮮の必死の核開発とミサイル開発は、そ
 の威力が増せば増すほど、戦争抑止へ働く。
  核戦争の出来ない時代になったのである。
.
2017年、しかし、核兵器は、近代的な政治体制を持って判
 断がなされる国家において、到底、使うに至る決断を出
 来かねる兵器となっている・・そのあまりにも絶大なる
 破壊力は、かつての核爆弾とは違うレベルのもの、強大
 なものとなっている・・
  だから故に、正常な政治体制のある下での使用の判断
 は下せないという・・使えない兵器となった・・が・・
  しかし・・ここに・・テロ集団や・・この類の国らし
 き集団や・・独裁的な個人の権力が絶大なる集団におい
 ては・・前記の考え方は出来ないのである・・逆に、イ
 チかバチかで使ってしまえという判断が、ちらっとひら
 めくような独裁者には持たせてはならない兵器となって
 いる・・
  そして・・今・現在・・
  北朝鮮は、アメリカが攻めて来たら、日本を攻撃する、
 日本を沈没させると言った・・が・・
  以前は、ソウルが火の海になると言った・・が・・
  今、韓国で、新たに大統領となった人物は、北朝鮮の
 息のかかった、繋がりの強い関係にある人と、情報は伝
 えているが・・
  そして、先の北朝鮮の発言の「日本を攻撃する」が、
 アメリカの攻撃の抑止力になると考えたのだろう北朝鮮
 は・・、また、それが、違う情報も示唆した事にもなっ
 ている・・、
  つまり、「今の段階では、アメリカを攻撃する手段は、
 北朝鮮は、持っていません」という情報となっている。
  だから、「届く日本を攻撃する事にした」という情報
 となっている。
  つまり、アメリカは、アメリカへ届く前の『今が』攻
 撃するチャンスとなっている・・という情報を与えたこ
 とになっている。
  アメリカに届く前に、攻撃しておかなくてはならない
 という・・決断を促した情報となっている。
  中国が技術支援し、そして、資金提供して、ここまで
 来たと言われる北朝鮮の核攻撃力・・それが・・両刃の
 剣とならないか・・??
  だから、今は、「中国さん、ありがとう」と言ってい
 るだろうが・・後々、永久に・・破壊力のある攻撃兵器
 を持った暁の北朝鮮は、どこまでも射程の届く兵器を持
 った北朝鮮は、中国と北朝鮮の関係が、今までの様な関
 係のままで・・永続するとは限らない・・
  その様にある・・永続にあると・・完全に言えないこ
 とは・・完全に予想ができる・・、
  中国が・・読みが・・甘かったと、その時に分かると
 いう事になるとも限らない・・
  また、今は、ヨーロッパには届きませんが・・
  ただただ日本だけの問題なのではない・・そのレベル
 の集団なのだ・・
  国家と言えない極小の集団が、この様な兵器を持つと
 いう事は・・テロの一部集団が、核兵器という絶大な兵
 器を持つのと同じ状態で・・何らそこには、集団コント
 ロールの効かない組織に、大量殺戮システムを、核を持
 たせる状況となる・・これは、あってはならない状況・・
  ある30代の一人の人間が・・独裁の一人の人間が、世
 界の人々へ、世界の方々の命を云々する手段を持つ・・
 左右するシステムを持つ・・
  この様な状況に至ることは・・止めねばならない・・
  遅ければ遅くなるほど、その兵器の殺傷力は増すばか
 りとなる・・
  今が・・ラストの・・チャンスなのだろう・・人類に
 とって・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年05月07日

(増補版)524E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)

題:(増補版)524E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年12月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.

  
  (投稿拒否を受けております・・全文は、是非。下記のブログを御覧ください)

.
 .
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2017年05月01日

(増補版)523E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年11月~1890年12月)

題:(増補版)523E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年11月~1890年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年11月11日、東京で、最初の書籍大糶市(せりいち)
 が開かれた。
1890年11月13日、我国最初のエレベータが運転開始した。
そして、浅草に、凌雲閣が開業する。
  1890年11月10日、東京・浅草の凌雲閣に、藤岡市助が
 設計した日本初の直流電動機式のエレベーターが設置さ
 れた。
  エレベーターは、地階に据え付けた7.5馬力のモーター
 1基に対し、M字状にロープで連結したかご2機を同時に運
 転し、1階か8階だけに止る独自の構造をしていた。
  故障が多く、のちに撤去された。
1890年11月20日、帝国ホテルが開業した(11月7日説あり)
  東京・丸の内内山下町に、帝国ホテルが落成し、開業
 した。
  ルネッサンス式木骨煉瓦造3階建、70室(約60説あり)
1890年11月22日、國學院が開院した。
  1882年(明治15年)11月に創設された皇典講究所、お
 よび、皇典講究所内に設置された神職養成教学機関であ
 る國學院を起源とする。
1890年11月24日、帝国議会議事堂が竣工した。
  1886年(明治19年)2月、内閣に臨時建築局が設立され、
 ドイツ帝国から建築家を招聘し、官庁集中計画と議事堂
 の設計が成された。
  建設場所は、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が
 関一丁目、現在の経済産業省敷地)に、この仮議事堂は
 建設された。
  ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー、および、
 臨時建築局技師・吉井茂則の設計による第一次仮議事堂。
  竣工は11月24日で、11月29日に貴族院議場で開院式が
 行われた。
  翌年・1891年1月20日、漏電から出火し、全焼した。
1890年11月25日、第1回帝国議会が召集された。
  議長に中島信行、副議長に津田真道を選出した。
1890年11月29日、第一回帝国議会の開院式
  山形有朋内閣の時、大日本帝国憲法の下で、第1回帝国
 議会の開院式が、天皇陛下の親臨のもと行われた。
  1891年3月9日に、この第1回帝国議会は閉幕した。
  ここに、日本は、立憲政治の第一歩を踏みだした。
  帝国議会は、貴族院と衆議院の二院で構成され、
  貴族院は、皇族方、華族、国に功績のあった人、その
 他の中から、天皇陛下が御任命された議員で構成された。
  定員は251人だった。
  内訳:皇族10人、5等爵のうち公爵10人、侯爵21人、伯
 爵14人、子爵70人、男爵20人、天皇陛下みずから選定さ
 れた勅選61人、多額納税者が45人。
  衆議院の議員には、植木枝盛など自由民権運動で活躍
 した人たちもいた。
  立憲自由党130名、立憲改進党40名、大成会79名、国民
 自由党5名、無所属42名、欠員4名。
1890年11月、少年の間に喫煙の風が起きた。
  1890年代から、小中学校の喫煙が問題視され始めた。
  1894年に至り、文部省が、小学生の喫煙を禁じる訓令
 を出している。
  根本正衆院議員(ねもとしょう、1851年~1933年)が、
 議員立法で禁煙に取り組み、法制化を実現した。
  また、根本氏は、未成年者飲酒禁止法の法制化にも取
 り組んでいて、「禁煙・禁酒運動の祖」として知られて
 いる。
  根本氏の主張・・
  (1)小学生の喫煙が増えている。このまま放置すれば
    帝国人民の元気を消滅させ、中国のような国にし
    てしまう。子どもの禁煙は国是である。
  (2)喫煙禁止は、多くの文明国で実施済みである。
  (3)国庫の補助を受けている生徒がタバコを嗜むこと
    は望ましくなく、公的な干渉は当然である。
1890年11月、英国でスコットランドヤード(ロンドン警視庁)
 が新庁舎(ヴィクトリア・エンバンクメント)に移転した。
  ロンドン警視庁は、イギリスの警察組織の一つで、
  首都ロンドン一円を管轄する首都警察であると同時に、
 国家全体の警備公安警察や王族・政府要人警護といった
 特別な任務も担っている。
1890年12月4日、北里柴三郎が、ジフテリア、破傷風の血清
 療法を発見した。
  北里 柴三郎(1853年1月29日~1931年6月13日)は、日
 本の医学者・細菌学者(従二位・勲一等旭日大綬章・男
 爵・医学博士)
  「日本の細菌学の父」と言われている。
  1853年、肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇
 郡小国町)に生まれた。
  同郷で、東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生
 局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいによって、
  1885年(明治18年)(32歳)より、ドイツベルリン大
 学へ留学した。
  コッホに師事し業績をあげた。
  日本の優秀な医学生に、コッホの期待は大きかった。
  1889年(明治22年)(36歳)に、世界で初めて破傷風
 菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功した。
  1890年(明治23年)(37歳)に、破傷風菌抗毒素を発
 見し世界の医学界を驚嘆させた。
  さらに、血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射
 しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発し
 た(ノーベル賞的大発見)。
  1890年(明治23年)(37歳)血清療法をジフテリアに
 応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけ
 るジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という
 論文を発表した。
  第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が
 挙がったが、
  結果は、抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎
 でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した(有色
 人種蔑視)。
  柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名
 でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、
  ノーベル賞委員会や(選考に当たった)カロリンスカ
 研究所が、柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清
 療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なし
 たこと(作為)、賞創設直後の選考でのちのような共同
 授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげ
 られてはいる・・が・・、また・・、
  柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみ
 つかっていないが、白人優位・白人優遇(有色人種への
 差別)は明確に存在している。
  論文がきっかけで、欧米各国の研究所、大学から多く
 の招きを受けるが、国費留学の目的は、日本の脆弱な医
 療体制の改善と伝染病の脅威から『国家国民を救うこと』
 であると、柴三郎は、これらを固辞(こじ、かたく辞退
 しつづけること)して、
  1892年(明治25年)(39歳)に帰国した。
  1931年6月13日、脳溢血のため東京・麻布の自宅で、偉
 大な日本の医学者・細菌学者は逝去された。
  78歳だった。
  その大きな、そして、偉大な功績によって、救われた
 人々はあまりにも多く、偉大な業績だった。
1890年12月16日、電話の創業(電話交換業務を開始)
  日本で初めて東京・横浜の両市で、市内及び市間の電
 話交換業務が開始された。
  加入者は、東京179、横浜45(東京155名、横浜42名の
 説もある)
  東京千代田区内に、電話交換局が設置されて、業務は
 開始された。
  (東京滝ノ口と横浜居留地に電話局が設置された)
  (参考)龍ノ口:たつのくち、東京都千代田区丸の内
    1-4、日本工業倶楽部ビルが建つ地の旧名で、江戸
    城大手門外に位置し、伝奏屋敷があった。
    →伝奏屋敷は、江戸時代に、武家伝奏、または、
    勅使の宿所として江戸に設けられた邸宅のこと。
  使われた電話機は、ベルギー製の単線式単式交換機で、
 加入者からの通話表示があると、交換手は、そのジャッ
 クにプラグを差し込み、加入者の告げた通話相手のジャ
 ックにもう一方のプラグを差し込んで接続するという方
 法だった。
  因みに、日本初の電話は、1877年(明治10年)に、政
 府内で試験通話が行われている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:社会は疲弊し、分断されている・・、
    歴史的に繰り返すグローバリズムの流行は・・、今、
   その終焉に差し掛かっている。
.
1945年8月14日、終戦となった。
  軍部の戦争継続の主張を、昭和天皇陛下が、『二度に
 わたっての御聖断』で抑え込まれた末のことだった。
.
1945年8月27日、アメリカの指示・依頼により、占領軍
 向けの慰安施設の第1号が開業した(小町園、東京大森)
.
1945年9月5日、マレー・シンガポールにイギリス軍上陸し、
 再占領して、再度の植民地化を行なう。
.
1945年10月8日、インドネシア共和国軍とイギリス・オラン
 ダ軍が戦闘状態へ突入、独立を目指した内戦状態へ。
  この戦線に、アジア解放を目指していた日本兵が、イ
 ンドネシア独立派と共に、解放・独立を目指して戦った。
.
1945年11月10日、インドネシア独立戦争: スラバヤで激し
 い戦闘となる(Hari Pahlawan)
  日本兵が、戦後となっていたが、日本に帰国しないで、
 このインドネシアの独立派の方々と一緒になって戦い、
 助け、独立を勝ち取った。
  このインドネシア以外でも、ベトナムなどでも、この
 様な行為は起きた。
  日本は、「アジア解放」を、我が事の様に、達成すべ
 き理念としていた。
.
1945年11月20日、ドイツで戦犯を裁くニュルンベルク裁判
 が開廷した。
.
1945年12月7日、マニラの連合国軍軍事裁判で山下奉文陸軍
 大将に死刑宣告。
.
1945年12月7日、ソ連は、完全に戦争が終わっているのに
 日本人を捕まえて、シベリアへ連れて行って、重労働を
 させた。
  抑留と言うが、この行為は、『拉致』である。
  ロシアの謝罪がない、また、補償もない。
  (読売新聞、2017年4月23日)に以下の記述がある・・、
  第二次世界大戦後、ソ連が占領した南樺太(からふと、
 現ロシア・サハリン州)で逮捕、シベリアに抑留された
 大津敏男・樺太庁長官の取り調べ記録を、同州で入手し
 ていた全国樺太連盟が本紙に明らかにした。
  日本政府の記録から数千人に上ると推計されるソ連占
 領下での、日本人逮捕者の捜査記録は、治安機関のロシ
 ア連邦保安局が機密扱いを続けている。
  住民を日本本土に逃すなどした行政措置をソ連刑法の
 『反革命罪』とした捜査過程が分かる。
  取り調べ記録のうち、ソ連内務人民委員部の1945年12
 月7日の逮捕・拘禁決定書によると、スターリン政権で国
 内の粛正に用いた刑法58条の反革命罪を大津長官に適用。
  地下蜂起部隊の本部を組織、ソ連軍の行動を本土に連
 絡する情報員を任命したとして2項(武装蜂起)、6項(
 スパイ行為)を主な容疑とした。
  だが、1946年1月12日の起訴決定書の罪状は、
  (1)降伏後も本土へ6万3000人を避難させた。
  (2)役所の文書を焼却させた。
  (3)樺太の情報を日本政府に電報で伝えた・・など。
  敗戦国の行政官としての行為を『反革命罪』とし、日
 本の官僚に罪を問いやすい4項(ブルジョア活動ほう助)
 に切り替えた。
  部下ら8人も共謀で逮捕、起訴後、シベリアに抑留。
  1人が抑留先で死亡した。
  樺太庁は、日本領有下の南樺太を管轄した政府直轄の
 地方行政官庁。
  南樺太出身者らでつくる樺太連盟やサハリン州の公文
 書担当者らによると、記録は1998年、連盟役員(故人)
 の要請で当時の州公文書管理局長(同)が連邦保安局州
 支部から仮借り、役員が尋問調書など約300ページの写し
 を持ち帰った。
  連盟はこれまで写しを公表しておらず、入手当時に日
 本語訳を外務省や旧厚生省など関係先に配布したと連盟
 の記録にあるが、外務、厚生労働省とも「該当資料は見
 当たらない」としている。
  ソ連は終戦後、樺太や満州(現中国東北部〉などで日
 本軍幹部のほか、官僚や経済人らを反革命罪などで逮捕
 してシベリアに抑留。
  厚労省が、1997年から連邦保安局に記録の提供を求め
 てきたが、届いたのは、約400人の判決内容などの抜粋資
 料にとどまっている。
  大津長官の取り調べ記録を見た孫の大津岩夫さん(73
 歳)(東京都大田区)は、
  「祖父は生涯、抑留の経緯を口にしなかった。
  行政のトップとして自国民を逃した事がなぜ罪になる
 のか。理不尽だ」と語った。
  (参考〉大津敏男・樺太庁長官(1893年~1958年)
    内務官僚で戦時中の1943年7月、埼玉県知事から就
    任。
    抑留後、1950年4月帰国した。
  日本人抑留に詳しい加藤聖文(きよふみ)・国文学研
 究資料館準教授の話、「ソ連崩壊後の一時期、情報統制
 が緩み、入手できたのでは。
  罪を仕立てた捜査が見える」。
.
1960年(昭和35年)2月1日、コーヒー・パーティ事件
  キリスト教に悪い所を指摘すると、「それは、旧約聖
 書だ」と逃げる。
  因みに、キリスト教は、「新約聖書」と「旧約聖書」
 を拠り所としている聖典としている。
  しかし、前記した様な言葉で逃げる・・、
  「どちらも、君たちの聖典ではないか」と言いたい。
  ユダヤ教と同じ聖典の「旧約聖書」ではなく、最後の
 逃げ場を、イエスのことを記した「新約聖書」へ逃げて
 いるのである。
  アメリカも、同様な論法で、「それは南部だ」と、「
 南部が悪いのだという論法で逃げる」。
  北部アメリカは、黒人の方々を、南部と一緒になって
 黒人の方々を虐げているが、何も知らない人たちを言い
 くるめ、そして、誤魔化している。
  アメリカは、「キリスト教の有色人種の蔑視教義」に
 洗脳され、また、キリスト教の神が、聖書で叫ぶがごと
 く「黒人の方々を奴隷として虐げてきている」が、
  この様なアメリカに、反旗を翻した黒人の方々の行動
 の最初が、1960年1月31日に起きた。
  4人の黒人の若者たちが行動を起こした。
  アメリカのノースカロライナ農工大学の学生たちだっ
 た。
  昼間、町のバス・ターミナルの軽食堂で、例によって
 「黒人の注文お断り」の扱いを受けて、可哀想なことに
 とうとう堪忍袋の緒を切らしたのだった。
  卑劣なアメリカだった。
  この日の夜、学生寮で、日頃の人種差別・蔑視行為に
 ついて真剣に話し合った。
  深夜に及ぶ長時間の討議だった。
  そして、ある行動を起こす事となった。
  この翌日の1960年2月1日に、その行動が起こされた。
  この日の午後4時半頃、4人の黒人学生たちは、歯磨き
 その他の日用品を買うと、すぐに、「黒人禁制のカウン
 ター」で、コーヒーとドーナッツを注文した。
  長年にわたって行なわれて来た人種差別行為に挑戦し
 たのだった。
  これは、白人優越=黒人蔑視のアメリカで行われてい
 る軽蔑すべき行為への挑戦だった。
  案の定、予期していた通りの反応が、たちまちに起き
 た。
  白人・店長が駆けつけて来た。
  店長と学生とのやり取りが、そして、まわりは黒山の
 様な人だかりに囲まれた。
  そして、ありとあらゆる罵詈雑言が飛び交った。
  唾(つば)が吐きかけられた。
  暴行も加えられた。
  しかし、暴行などに、彼等は、じっと、それらに耐え
 た。
  閉店まで、そこに座り込んだ。
  終止、非暴力の抵抗がなされた。
  翌日の2月2日には、彼らの他に、農工大学の学生たち
 23人と、ベネット大学の女子学生4人が加わった。
  同じ抗議行動を続けた。
  その翌日も・・、
  さらにその翌日もした・・、他大学からの学生も加わ
 り、この抗議行動の輪は拡大した。
  座り込みの場所も、同様行為をする蔑(さげす)むべ
 き他の店のランチ・カウンターなどでも行われた。
  この間、だれ一人、1杯のコーヒーのサービズを受ける
 ことはなかったが、彼らは、ただひたすら座り続けた。
  そして、2月7日の夜に開かれた抗議集会には、1600人
 もの大勢の学生が参集した。
  この行動は、1960年代の「黒人革命」の前哨戦として
 歴史に残る『人権を回復の戦い』として輝いている。
  グリーンズボロの「コーヒー・パーティ事件」として、
 アメリカ白人社会の低劣な人種差別事件として歴史に刻
 まれ、後世の歴史的役割を果たして行くことになった。
  低劣な、そして、遅れたアメリカは、この様な事件が、
 嫌というほど一杯ある。
.
1963年8月28日、自由への行進(ワシントン大行進)
  ワシントンで、公民権法案を望む約25万人の大行進が
 行われた。
  マーティン・ルーサー・キング氏の言葉:「私には夢
 がある。
  何時の日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かっての
 奴隷の子孫と奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブ
 ルに着くという夢である」・・と・・、
  1950年代に入って発生した「モンゴメリー・バス・ボ
 イコット事件」や、「リトルロック高校事件」以降、キ
 ング氏などの活動家の指導の下に、黒人の方々の公民権
 (参政権など)獲得を求める運動が盛り上がりを見せた。
  この黒人の方々の努力が実って、少しづつ、アメリカ
 連邦政府も、公民権法の制定に大きく動き始めて行く。
  黒人の方々が行けないキリスト教会・・そして、黒人
 の方々が作ったキリスト教会・・その黒人の方々のキリ
 スト教会が火を付けられ、黒人の子供たちが焼け死ぬと
 いう悲惨な事件・・
  リチャード・ドーキンス(イギリス人、カルフォルニ
 ア大学、オックスフォード大学)は、本で、
  「アメリカ社会は、キリスト教徒でないと『うさん臭
 い目で見られる』・・、
  アメリカのほとんどのエリートは、そのため、義理で
 キリスト教会へ行く」・・と記している。
.
2017年4月25日、読売新聞に「フランス大統領選」は、社会
 の疲弊と分断を露呈した・・とある。
  (この根底には、グローバリズム的発想で出来たEU
 の問題点が露呈している)。
  全世界の富の約半分が、1%程の富裕層(スーパーリッ
 チ)に独占されている。
  超富裕層の1%が、どんどん金持ちになって行き、中流
 層がどんどん減っていく現状にある。
  スーパーリッチ80人の内・・35人はアメリカ人だとい
 う。
  この偏(かたよ)りを反対から見ると・・、
  貧困層側に居る方々を・・世界の80パーセントの方々
 に集まってもらって、そして、その方々の資産を寄せ集
 めても・・世界の富の5.5パーセントにしかならないと
 いう。
  今、世界は・・まったく不公平な中にある(これを、
 アメリカが作った)。
  この超富裕層が、グローバリズムで、世界を相手にし
 て、大儲けしている・・、
  このグローバリズムだと言ったって、何もグローバ
 ルではなく、「アメリカン・システム」で、金が集まる
 システムで儲けまくっているから、この様な偏りが生じ
 る。
  グローバリズムという『音頭取り』は、「だから、止
 められない」のである。
  そのグローバリズムは、アメリカのやり方と同義であ
 るから、アメリカの金持ちが多いのであり・・そして、
 アメリカは、「それが正義なのだ」と言うから・・その
 独りよがりを「押し付けるから始末が悪い」。
  そして、それに、ゴマする輩も多いから・・おこぼれ
 頂戴で・・。
  こんな世の中・・で・・一方、ギリシャの様に、ギリ
 シャ正教のキリスト教の国で、他人の金を当てにする国・
 頼りにする国が、EUというしがらみから・・この様な
 国に金を渡さなければならない羽目にある現状。
  際限なくぶら下がり国家へ、際限なく金が流出する姿
 は・・公正ではない・・どこが、公正なのだ。
  その渡す金と言ったって民の税金。
  そんな美味い打ち出の小槌(こづち)なんてない、血
 のにじむ中流層の方々の金。
  その税金と言ったって超金持ち層の金よりも、中流層
 の金が・・どんどん自国以外の、こんなぶら下がりの国
 に渡さなければならない羽目に陥っている・・
  貢(みつ)ぐ奴隷のように稼がなければならない中流
 層の金が流れる。
  過去には・・あんなに豊かに居た、そして、多く居た
 中流層の方々が、変なグローバリズムの旗振りと、そし
 て、鐘の鳴る下で支払わされて、中流層は激減し、消滅
 した・・記念碑的な存在の人々となっている。
  「受益者負担ではないが・・自助努力し、自己努力が、
 自己の生活水準に、公正に反映する社会であるべきだ」。
  (読売新聞、2017年4月25日)の社説「フランス大統領
 選」で、「社会は疲弊している・・社会は分断されてい
 る」と指摘している・・
  以下は、その記述(抜粋)・・、
  長引く経済低迷に疲弊し、繰り返されるテロの傷痕は
 深刻だ。
  そんな厳しいフランス社会の状況が浮き彫りになった。
  フランス大統領選の第1回投票が行われ、中道で無所属
 のマクロン前経済相が首位に立った。
  極右・国民戦線のルペン党首は僅差で2位につけた・・
 (中略)・・今回の選挙は、フランス政治の重要な転換
 点と言えよう。
  ・・欧州連合(EU)の要であるフランスで、「反E
 U」対「EU」が争点となった。
  EU統合推進の是非を巡って国民の分断が進行してい
 ることの表れだろう。
  ルペン氏と、急進左派のメランション氏は、EUが、
 低所得層を中心に国民生活を圧迫しているという主張で
 は軌を一にし、離脱の是非を問う国民投票を提唱した。
  半世紀以上、EUの屋台骨を支えてきた既成政党の凋
 落(ちょうらく)の背景には、近年、フランスが直面す
 る険しい現実がある。
  ギリシャに端を発した欧州財政・金融危機で、EU主
 導の緊縮財政を強いられ、失業率は10パーセント前後で
 高止まりしている。
  2015年のパリでの大規模テロ以来、非常事態宣言が出
 されたままだ。
  イスラム過激派の暴力は根絶できていない。
  (本当のイスラムの方々は、この組織は、イスラムで
 はないと言っている)。
  投票日直前には、首都のシャンゼリゼ通りで警察官射
 殺事件が発生した。
  テロ犯は、フランスなどで育った移民系の若者が多い。
  2015年には、中東から欧州へ大量の難民が流入した。
  移民や難民が治安を悪化させたという国民の不満が、
 排外主義の台頭を招いたのは明白だ。
  (排外主義と決めつけて、悪いと決め付けるのは論理
 の短絡言説だ)。・・後略・・
  (歴史的に繰り返すグローバリズムの流行は、今、そ
 の終焉に差し掛かっている。
  そして、その甘い汁を吸っている者たちが、それを、
 また、以前の様に、どうにかしたいと活動し、暗躍して
 いる。
  しかし、この時代の流れを押しとどめる事は出来ない)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年04月29日

(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)

題:(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月、長瀬商店が花王石鹸を発売した。
  花王(株)創業者の長瀬富郎は、舶来のブランド石鹸
 に負けない国産ブランド石鹸の創製を決意し、て、石鹸
 職人の村田亀太郎や、薬剤師の瀬戸末吉らの協力を得て、
 この時、桐箱入3個で35銭の花王石鹸を発売した。
  この名前は、顔も洗える高品質を訴求して「顔」に通
 じる「花王」とした。
  また、発売当初から、中国大陸等への輸出も考慮に入
 れて、東洋第一の石鹸にしようと、桜ではなく牡丹をあ
 しらった包装紙とした。
  また、花王石鹸発売当時の原料調合ノートには、石鹸
 だけではなく、
  その後に発売された歯磨・香水・クリームなどの原料
 調合も記載されているて・・、
  長瀬富郎は、花王石鹸製造にあたって、自身で、薬剤
 師・瀬戸末吉から必要な化学知識を習得し、香料・色素
 など薬剤の調合技術を吸収していた。
  また、翌年の1891年に発売された粉歯磨「寿考散」は、
 長瀬商店の第2弾の発売商品だった。
  袋入り3銭で、外袋は、赤で輪郭をとった落ち着いた
 デザインとなっていて、背景には「まがたま」が二つ、
 組み合わせてある。
  寿は長寿を祝い、考は老でもあり古来歯の保全が人間
 の寿命に重大な関係があるものとして名づけられた。
  因みに、散は粉のこと・・、
  (産業技術史史料情報センターのホームページを参考
 にした)
1890年11月1日、日本鉄道の秋葉原~上野間が開通した。
  旅客や貨物が増加していて、貨物線を延長し、秋葉原
 貨物取扱所として、上野駅のひっ迫解消のため、開業に
 至った。
  また、上野駅周辺道路が狭隘で、同駅へ向かう旅客や
 貨物を乗せた馬車が、渋滞を起こす状態になっていた。
  このため、旅客と貨物の分離が計画された。
  当初は、上野駅からのこの貨物線を「秋葉原線」と呼
 び、秋葉原は「秋葉原貨物取扱所」と呼ばれていた。
1890年11月1日、盛岡まで延長した。
  この日、一の関~盛岡間が完成して、仙台~盛岡間が
 全通した。
  そしてまた、この日、盛岡駅が開業した。
  また、この盛岡駅前と盛岡の中心部を結ぶ開運橋が、
 この盛岡駅の開業に伴い完成した。
  この橋が尊いところは、当時の岩手県知事の石井省一
 が私費で完成させたところだった。
  温かい心の盛岡の方たちの人柄・土地柄と共に、誇れ
 る歴史的事項となっている。
  この橋は、翌年、市が買収し、その後、県に編入され
 た。
1890年11月1日、盲人教育に点字が採用された。
  点字について、日本での最初の記述は、1865年(慶応
 1年)幕府の外国奉行・柴田日向守剛中に随行した岡田摂
 倉が、パリの訓盲院を尋ねた時の日記にある。
  そして、1879年(明治12年)2月、文部省発行の教育雑
 誌第89号に掲載された在アメリカ留学生監督の目賀田種
 太郎の「パーキンス盲学校視察報告書」にある。
  現:筑波大学付属盲学校の前進である「楽善会訓盲院」
 の教師であった小西信八と石川倉次は、共に仮名文字論
 者だった。
  小西は、仮名文字、及び、漢字を凸書した教科書での
 教育の困難を見るにつけ、読むにも書くにも自由になる
 文字を工夫しなければならないと感じた。
  そして、教育博物館にあった、イギリス制点字板と、
 盲人教育に関する資料を借りて研究した。
  1887年(明治20年)に、生徒の小林新吉に教えた。
  小林は、2週間で、自由に読み書きができるようにな
 った。
  他の生徒に及ぼす影響も大きかった。
  しかし、これが、ローマ字形式での表記であったので
 小西は、同年・1887年の末、わが国の仮名に合うような
 点字の改良を、教員や生徒に依頼した。
  石川倉次は、初め6点では全文字を表すのは不可能だ
 と考え、8点点字を考えた。
  これは1・4の点の間と、3・6の点の間に1点ずつ
 加えたもので、3点四方の8点点字で濁音も含まれてい
 る。
  この8点用の点字板を製造し、生徒に使わせてみたと
 ころ「ローマ字よりも使いやすい」ということで、大変、
 喜ばれた。
  石川は、この8点に満足せずブライユの6点でよい工
 夫ができないものかと考えた。
  小西もまた、ブライユの6点で仮名を表出したいとい
 う意見であった。
  そして、再び、教員や生徒全員あげての点字翻案の業
 に努力した。
  7点・8点・9点など、多くの案が出たが、やがて、
 その中から三つに絞られ・・なおかつ・・
  1890年(明治23年)9月27日から、点字制定会が開かれ、
 この3案について、種々の角度から審議した。
  また、実験を重ねた。
  1890年の同年11月1日、の第4回制定委員会において、
 石川案の採用が決議された。
1890年11月3日、帝国ホテルが落成し、7日に開業(創業)
 した。
  東京の鹿鳴館のとなりに、帝国ホテルが、総建坪1300
 余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層、
  設計:渡辺譲、総工費:26万円、客室数:約60。
  ビリヤード台、ダンスホールを備え・・、
  室料:最下等50銭、2食付き2円50銭・・、
  1912年(明治45年)に、総支配人の林愛作が、旧知の
 アメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに新館の
 設計を依頼した。
  フランク・ロイド・ライトは、アメリカの建築家で、
 20世紀建築界の大巨匠。
  1919年(大正8年)失火から全焼した。
  新館の早期完成は経営上の急務になった。
  この後、設計変更を繰り返すライトと、経営陣との衝
 突は避けられなくはなった。
  そして、当初の建設予算の150万円が・・6倍の900万円
 に膨れ上がった。
  林は、総支配人を引責辞任した。
  ライト精魂注いだホテルの完成を見ることなく離日し
 た。
  1923年(大正12年)8月末、ホテルの隣接地に新館(
 ライト館)が全館落成した。
  鉄筋コンクリート、および、煉瓦コンクリート構造、
 地上5階・地下1階、延床面積1万535坪、客室数270室
  皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは、総面積3万
 4千平方米余の大建築となった。
  中心軸上に、玄関、大食堂、劇場などの公共部分が
 列ねられ、左右に客室棟が配された。
  全体計画から個々の客室に到るまで、ライトのセンス
 で、最高傑作のきわめて多様な秀れた空間で構成された。
  鷲が翼を広げたような、巨大なホテルは、小部分がい
 くつも繋ぎ合わされた連結構造で・・、
  建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊が
 あっても全体には累を及ぼさない仕組みも設計された。
  また、大規模ホテルとしては、世界で初めて、全館に
 スチーム暖房が採用され、
  耐震防火に配慮した画期的な設計となっている。
  1923年9月1日、新館落成記念披露宴の準備中に、何と、
 関東大震災発生した。
  しかし、ホテルは、小規模な損傷はあったものの、ほ
 とんど無傷であった。
  変わらぬ勇姿を見せた。
  しかし、残念なことに・・その後、この名建築は取り
 壊され、
  その一部が、明治村に保存され、名建築を偲ばせてい
 る・・人類の偉大な資産で、惜しい状況となっている。
1890年11月4日、アレクサンドル・ボロディンの歌劇「イー
 ゴリ公」が初演された(マリインスキー劇場)
  アレクサンドル・ボロディンは、帝政ロシアの作曲家、
 化学者、医師。
  マリインスキー劇場 は、ロシアのサンクトペテルブ
 ルクにあるオペラとバレエ専用の劇場。
  歌劇「イーゴリ公」は、オペラで、中世ロシアの叙事
 詩『イーゴリ軍記』を題材に、1185年、キエフ大公国の
 公、イーゴリ・スヴャトスラヴィチによる、遊牧民族ポ
 ロヴェツ人(韃靼人)に対する遠征を描いた。
  序幕付き4幕からなる。
  あらすじは・・序幕:プチーヴリ市内。
  イーゴリ公は、自分の土地であるルーシの町へのポロ
 ヴェツ人のコンチャークからの侵攻を防ぐため、妻ヤロ
 スラーヴナの懇願と日食という悪い前兆を心配する人々
 の反対を押し切って遠征を始める。
  第1幕・第1場:プチーヴリ市内のガーリチ公の館の中
 庭。
  イーゴリのいなくなったプチーヴリでは、ガーリチ公
 の思うがままになっていた。
  ある時、若い女性の集団が公がさらった娘を返すよう
 に請願してきたのに対し、彼と彼の取り巻きは請願にき
 た彼女たちを怯えさせ、追い返す。・・以下略・・
1890年11月7日、帝国ホテルが開業した。
1890年•11月10日、浅草十二階が竣工した。
  東京・千束町(現=台東区浅草2丁目14)に遊覧所「凌
 雲閣(りょううんかく)」が竣工し、落成式が行われた。
  八角形レンガ造りの10階の上に木造建築の2階があり、
 「浅草十二階」と呼ばれた。
  最高高さ65mで、関東大震災で消滅した(1923年)
1890年11月11日、凌雲閣(浅草十二階)が開業した。
  東京・浅草に、12階建ての塔「凌雲閣」が開業した。
  名称は、「雲を凌ぐほど高い」ことを意味し、浅草十
 二階、浅草凌雲閣とも・・
  発案は、写真家で東京市議会議員の江崎礼二、設計者:
 ウィリアム・K・バルトン
  東京の高層建築物の先駆けとして建築された。
  展望室からは、東京界隈はもとより、関八州の山々ま
 で見渡せた。
  高さ173尺(約52米) 、建坪37坪(122.31平方米)。
  構造10階まで煉瓦造り、11、12階は木造。
  入場料:大人8銭、子供4銭
  1階は入口階、2~7階は、諸外国の物品販売店(計
 46店舗)、8階は休憩室、10~12階は展望室。
  1階~8階にかけて、日本初のエレベータが設置され
 た。
  12階の展望室には、望遠鏡が設置され、見料は1銭。
  1891年(明治24年)5月、開業当日よりエレベータの故
 障が頻発し、使用中止になった。
  1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により、建物
 の8階部分より上が崩壊した。
  地震発生時、頂上展望台付近に、12~3人の見物者が居
 た。
  福助足袋の看板に引っかかり助かった1人を除き、全員
 が崩壊に巻き込まれ即死した。
  1923年9月23日、経営難から復旧が困難であったため陸
 軍赤羽工兵隊の手で爆破解体された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:グローバリズム推進派は、一部の私腹を肥やす勢力に加担している・・
    その「おこぼれ」にあずかりたいと・・
.
1872年、海洋生物学が起きた。
  1872年~1876年の『チャレンジャー (6世) 号』の世界
 周航により・・、
  海岸から外洋、そして、表層から深層にわたって、
  動物の水平的分布と垂直的分布の調査が行われ、
  これが、海洋生物学の基礎となった。
  最古の海洋生物研究機関であるイタリア・ナポリ海洋
 生物学研究所は、1872年に設立され、そして、1874年に
 オープンした。
  1888年には、イギリス海洋生物学会が創立され、そし
 て、プリマス海洋研究所もできた。
  1888年には、アメリカでも、ウッズホール海洋生物研
 究所が創立された・・など・・、
  これ等の研究所は、今でも、世界で活躍している海洋
 生物研究センターで・・、
  特に、ウッズホール海洋生物学研究所の研究は、海洋
 生物学の発展に、重要な役割を果たした。
.
1906年4月18日、アメリカのサンフランシスコで、地震と火
 災が同時に発生するという、アメリカ史上、最悪の大参
 事が起きた。
  この参事がきっかけに、日本人やアジア人系移民の多
 くが、略奪にあい、また、暴力を受けた。
  日本人移民は、明治以来、移民が行われていて、カリ
 フォルニアに集中していた。
  また、この時、アメリカ白人に、人種差別の「黄禍論」
 が始まっていた。
  暴力事件は、この様な人種差別から生まれていた。
  1906年、サンフランシスコ市(学務局)は、日本人の
 児童の「隔離教育」を決めた。
  この様な「酷(ひど)い人種偏見」に対し、当然、日
 本政府は、強い抗議をした。
  これは、深刻な外交問題へと発展して行った。
  この2年後の1908年、この問題に、アメリカ連邦政府
 も介入して来て、日本は、移民が出来ない状態にされた。
  そして、この日本の当然の人種上の抗議を・・、
  アメリカは、日本が圧力をかけて来たとして・・、
  そして、『日本を脅威する』というセンセーショナル
 な「異常な反応」をした。
  そこには、すでに、日本に、「悪意を持って対応する
 というアメリカ」があった。
.
1941年、ランドフル・フィリップ(アメリカの黒人運動家)
 が、この年、黒人の公正雇用を要求するワシントン大行
 進を組織し、成果を収めた。
  因みに、ランドルフは、1963年の戦後でも、アメリカ
 史上最大規模のワシントン大行進を指揮するなど公民権
 運動の重要な人だった。
.
1944年、アメリカのヘンリー・モーゲンソーが、ドイツの
 非軍事化、非工業化を図り、原始的な牧畜農業国家にす
 るという戦後処理計画「モーゲンソー案」を立案した。
.
1947年3月31日、GHQの戦後の占領政策に於いて、憲法の
 施行に先駆けて、教育の基本であり、且つ、「教育の憲
 法」と呼ばれた「教育基本法」と、「学校教育法」が、
 同時に成立した。
  形式的には日本の国会で可決されたが、中身は、憲法
 と同じくGHQの指導によって作られたものだった。
  この教育基本法のなかで、戦後、常に問題となり続け
 たのが「教育権」とは、一体、誰のものなのかという点
 だった。
  旧文部省(現文科省)など国や政治家は、「教育権は
 国」が持つと主張した。
  一方、日教組は、「教育権は教育現場(日教組)が持
 っている」とした。
  民法820条で、両親が「子の監護および教育をする権利
 を有し、義務を負う」と書かれている。
  「教師」と「国」と「地方公共団体」、そして、「親」
 が、「教育権とは一体誰のものか」という論点で、対立
 さざるを得ない構図が作られていた。
  このことで、「国(文部省)」と日教組は、戦後、こ
 とごとく対立した。
  この決着は、昭和50年代に至って、文部省と日教組と
 で「歴史的和解」がなされた。
  何も生み出さない、日本人同士の不毛の戦いだった。
  その最大の原因は、GHQが、「教育権」という権利
 について「誰が持っているのか」という内容を明示せず、
 あいまいにした点にあった。
.
1969年、日米繊維交渉(~1971年)
  日米繊維交渉で、日本の繊維産業が潰された。
  この様に、潰された日本の産業は多いが、この逆はな
 い。
  日本の産業のために、アメリカの業界を潰したことは
 ない。
  そして、この日米繊維交渉は、日本の毛・化合繊製品
 の対米輸出規制をめぐる交渉で、1969年~1971年に渡る
 交渉だった。
  この毛・化合繊製品をめぐる交渉は、政治問題化し、
 紛糾した。
  第2次世界大戦以後の日米関係において「最悪の危機的
 状態をもたらした」と言われている。
  この問題は、1968年のアメリカ共和党大統領候補ニク
 ソンの選挙公約に端を発し、
  1969年春、ニクソン新政権下に出された日本に対する
 厳しい自主規制要求に始まった。
.
2003年11月、中国の胡錦濤国家主席が、「特定の大国が、
 中国に不利益をもたらそうとして、海峡をコントロール
 しようとしている」と・・暗にアメリカを非難した。
  「中国を、外国の支配から守るための新戦略を策定す
 るように」・・と、人民解放軍に要請した。
  中国は、『マラッカ海峡を封鎖されること』を恐れて
 いる。
  石油を初め、中国の死命を制する物品が、この海峡を
 通過しなければならないからで・・、
  また、中国には、過去、アメリカが、日本に対して行
 った石油禁輸措置のトラウマがある。
  (シーレーンの大切さ、重要さは、日本も十分認識し
 ているが・・)
  第二次世界大戦の開戦の重大原因となった当時、アメ
 リカは、日本を悪者に仕立てて・・、
  日本と戦争に至ること必然だという事を承知して・・
  (戦争をしたいとしたルーズベルト・アメリカ大統領
 が)石油、ガソリン、および、その他の重要な資源の対
 日禁輸措置を・・、
  それも・・石油需要の80パーセントを、アメリカに依
 存していた日本に対して実施し・・大打撃を与えた。
  その上、まだ、これでもかという悪意で、日本の船舶
 に対する『パナマ運河の通過の禁止』(パナマ運河閉鎖)、
  及び、アメリカにおける日本資産の凍結など行なった。
  世界史上、最悪の「悪名高い先制攻撃」を日本にした。
  世界は、「アメリカの先制攻撃と認識している」と言
 われている。
  中国は、これを、「歴史的教訓」として、恐れている。
.
2017年3月2日、アメリカのトランプ大統領が言った・・、
  「移民が、安全に家に帰れるよう努力したい」・・と、
  グローバル競争とは、コスト競争であり・・、
  労働力コストをどれだけ下げるかが『基本』で、
  国内から海外の発展途上国へ工場を移せば、『非常に
 安い賃金で労働力が得られる』・・、
  これがしたいと考えた『グローバリスト』たち・・、
  また、アメリカ国内であっても、メキシコなどから流
 入する不法移民を雇えば、低賃金な労働力が得られ・・、
 また、劣悪な環境下でも、好きなだけ働かせる事ができ
 る。
  不法移民を使えば、国内で超安価な生産が実現できる。
  不法な流入は・・だから、ある面・・意図的に・・こ
 の様な理由から・・意図的に行われる面もあった・・不
 法なのだが・・不正なのだが・・。
  超富裕層の利益享受の実現の為の・・やり方だった。
  しかし、この様な点には・・まったく触れずに、グロ
 ーバリズムが美しく謳(うた)われ、讃美されている。
  このグローバリズムを讃美するグループに入っている
 NHKは・・、
  グローバリズム推進派のNHKイデオロギーは、
  また、キリスト教に偏するNHKは・・巧妙に・・こ
 の点を放送した・・そして、言った・・
  「(不法移民だって)税金を払って、アメリカを支え
 ている」・・と・・、
  「その(不法)移民のどこが悪い」・・と・・、
  よくも・・国民を感情的な、センセーショナルな、薄
 っぺらい論理で、言葉だけで・・騙(だま)すものだ。
  この様な国民の洗脳を目論(もくろ)んだNHKは、
 「トランプおろしのグループに入っている」・・、
  「トランプ政治の批判をした」・・、
  NHKの巧妙なる言い方・・錯覚を起こさせる言い方
 で・・また、ごまかしの放送だった。
  アメリカで・・労働コストが破壊され、低所得者層が
 さらに拡大しているアメリカ。
  儲かるのは1%の・・ほんのわずかな超富裕層。
  その格差は拡大する一方の・・アメリカ。
  この様な事にはまったく触れないNHK。
  1%の超富裕層にゴマをすり・・1%のお金持ちが喜ぶ
 グローバリズムを讃美しているNHK。
  NHKは、「グローバリズム讃美の放送ばかりをやっ
 ている」・・、
  NHK出身の千葉商科大学教授の宮崎緑氏を出演させ
 て、何度も何度も発言させている・・「グローバリズム
 は素晴らしい」と・・何ら『脈絡なく』発言している。
  ただただ意味ないグローバリズム讃美のオンパレード
 の話だった。
  マス・メディアと一緒になって、情報を、正しく伝え
 ないで・・ただただ、トランプおろしに躍起になってや
 っている。
  トランプ大統領だって、正規な移民の就労を否定して
 いる訳ではない。
  正規の移民が、正規にアメリカで就労し、税金を払っ
 て「アメリカを支えていること」は、当然、勿論、否定
 なんかしていない。
  ここの錯覚を訂正しないで、わざと「誇大に」「悪印
 象だけを持たせている」・・印象放送で、国民を繰って
 いるNHK。
  不法に・・大量に・・アメリカへ流入し、アメリカの
 労働市場を破壊し・・混乱させている・・不法移民が問
 題なのだ・・
  そして、その利益は・・わずか1%の超富裕層のふとこ
 ろへ流入し、格差がどんどん拡大する事に対して・・ト
 ランプ大統領は、何とかしたいと言っているのだ・・
  こんなことは・・ちょっぴりとも放送しない。
  トランプ大統領は、「正論なのである」。
  移民の方々、正規の方々を・・虐げている訳ではない。
  ここを、NHKは誤魔化すから、はっきり説明しない
 で逃げているから「不公正なNHK」なのだ。
  キリスト教が、教義を誤魔化す言い方とまったく同じ
 で、ごまかし、誤認混同させるNHKとなっている。
  しかも、それを、センセーショナルな言い方で放送す
 るから始末が悪い・・まったく公正でない、公共放送と
 して失格のNHKである。
  NHKはこんな事ばかりしている。
  アメリカを本当に支えた中流層は・・1%の超富裕者層
 に食われて・・居なくなった。
  日本も・・中流層が崩れている。
  他山の石ではない。
  高い給料を貰って居るNHK職員は安泰(あんたい)
 なのだろうが・・?
  アメリカは、この様なことを、南北戦争の後でもやっ
 た。
  悪いのは「アメリカ南部だ」と言いながら・・アメリ
 カ北部の工場経営者たちは、南部のプランテーションの
 経営者と一緒になって・・組んで・・奴隷解放前の状態
 に戻したいと・・戻そうと、黒人の方々を虐げた。
  安い労働力をアメリカ北部の工場で使いたいというハ
 レンチな行動をした。
  何が、北部だけが、奴隷解放したと言うのか?
  南部の方々だけを悪者にして・・?
  トランプ大統領は、メキシコからの不法移民が麻薬を
 持って来ることにも苦慮している・・このことに、NH
 Kは触れない・・。
  トランプ大統領が言った、「アメリカが法を維持し、
 国境を守らなかったために、雇用や収入(を失った)、
 そして、愛する人を失ったアメリカの家族に対して、
  あなたはどう言うのですか?」・・と・・
..
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2017年04月25日

(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

題:(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月24日、貴族院初代議長に伊藤博文が就任した。
  貴族院の議長は、内閣の輔弼(ほひつ、天皇陛下への
 御進言をすること)により天皇陛下から勅任されること
 となっていた。
  任期は7年。
  1947年(昭和22年)5月2日まで続いた。
  因みに、
  2代:蜂須賀茂韶  (1891年 7月~1896年10月)
  3代:近衛篤麿   (1896年10月~1903年12月)
  4代~8代:徳川家達(1903年12月~1933年 6月)
  9代:近衛文麿   (1933年 6月~1937年 6月)
  10代~11代:松平頼寿(1937年6月~1944年9月)
  12代:徳川圀順  (1944年10月~1946年 6月)
  13代:徳川家正  (1946年 6月~1947年 5月)
1890年10月27日、日本初のエレベータが、浅草に登場した。
  幕末の水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた好文
 亭という図書館のような建物内に、本を運ぶためのリフ
 トのようなエレベーターがあったという・・、
  日本初の電動式エレベーターは、写真家で、また、東
 京市議会議員であった江崎礼二氏の発案で、
  文明開化で、外国に追いつき追い越せと努力する日本
 の東京での高層建築物(浅草の凌雲閣・りょううんかく)
 12階建ての建物に設置された。
1890年10月30日、教育勅語を発布
  『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)が発布された。
  (氷川清話)教育勅語が出来る。
  「忠」と「孝」が基本思想。
  この日、議会の招集に先立ち、「教育に関する勅語(
 教育勅語)」が発布された。
  抜粋・・、
  「国民は、父母に孝行し、兄弟は親しみ合い、
  夫婦は仲むつまじく、友人は信じ合い、
  つつしみ深く、高ぶらず、
  民衆に広く愛をおよぼし、
  学問を修(おさ)め、技術を学び、
  かくして知能を向上させ、人格を完成し、
  進んで国家・社会の利益を拡大し、(中略)
  国家や社会に危急のことが起こった時は、進んで公共
 のために尽(つく)くさなければならない」。
  教育ニ関スル勅語は、明治天皇陛下が、山縣有朋内閣
 総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与え
 た勅語。
  この教育勅語は、アジアの国で取り入れられている。
  この教育勅語は、戦後のGHQの思想の変革方針によ
 って廃止された。
  (1948年・昭和23年6月19日、国会決議により廃止、
  形は民主的な形で、そして、日本が自主的な判断をし
 た形にしている)
  メディア・ネット情報などは、当然、アメリカを美し
 くたてている。
  そして、戦前のものはすべて悪いという言い方になっ
 ている。
  アメリカは良くて、日本については悪い事しか言わな
 いメディアの状況となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:シベリア抑留は不適切である・・拉致である・・
.
紀元前8000年頃、縄文早期
紀元前3500年頃、縄文後期
  日本の縄文時代が見直されている。
  日本の縄文時代は、思ったよりも進んだ社会だった。
  思った以上に凄かった。
  縄文時代は、農耕以前の時代で・・、
  「貧しいながらも、平等な社会だ」という以前のイメ
 ージが、変わって来ている。
  1996年~2003年に、東京都東村山市の下宅部(しもや
 けべ)遺跡を発掘・調査すると・・、
  大量の漆製品や木製品、そして、未完成の丸木舟など
 工業的に進んだ製品が出土した。
  この良質な保存状態は・・この地の豊かな地下水のた
 めに・・良好な保存状態が保たれていた。
  また、この遺跡では、縄文後期(紀元前3500年頃)の
 「編みかご」が50点以上も出土した。
  この「かご」は、カシ類などの木の実を水につけるた
 めに使ったと見られている。
  ここ数年で、縄文のかご類の研究は、飛躍的に進んで
 来ていて、かごの素材の特定や、編み方の解明が進んだ。
  そして、潰れたかごの状態から、元の形状が復元でき
 る様にまでなった。
  この遺跡のかごの素材は、「アズマネザサ」と推定さ
 れ、上部がくびれ、土器に似た姿と解明された。
  また、佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡では、縄文
 早期(紀元前8000年)のかごが、700点以上も出土した。
  編み方に、様々な装飾技法が用いられていて・・、
  縄文人が、早い段階から知的な完成度の高いかごを作
 っていたことが分かった。
  また、縄文中期は、華やかな装飾の土器が作られ、三
 内丸山遺跡(青森市)のような大集落が営まれて、縄文
 文化は、高度に華やかに繁栄していた。
  縄文時代の後期や晩期は、遺跡が小規模化した。
  数も減り、土偶や祭祀具(さいしぐ)が発達した。
  そして、動植物や古人骨の研究も相まって研究された。
  その結果・・、
  集落は、小規模化しながら、食料や土器、貝製装飾品
 などの生産が集落ごとに分業化され、『集落間でのやり
 とりが活発に行われていた』。
  土器や石器などの生活道具、食料の『生産』や『流通』
 が活発に行われていた。
  この事を見ても、後期や晩期に、文化が衰退した根拠
 はない。
  寒冷化にはあったが、危機を分散することで、資源が
 絶えないようにして、『高い回復力を持つ社会を築いて
 いた』と考えられる。
  日本の縄文時代は、地域で文化の違いのある各々が特
 徴を持った時代だった。
  (読売新聞、2017年4月5日を参考にした)
.
1552年1月29日、キリスト教宣教師のザビエルは、日本人の
 優秀さにびっくりし、
  また、その日本人の優秀さの故に、キリスト教の宣教
 に、大分、苦労した。
  日本の各地を、ザビエルが布教するとき、日本人の多
 くが、ザビエルに質問したことは・・、
  「そんなにありがたい教えが、なぜ、今まで、日本に
 来なかったのか?」だった・・そして・・
  「そのありがたい教えを聞かなかった私たちの祖先が、
 今、どこで、どうしているのか?」・・だった。
  つまり、「自分たちは救われると言うが・・そして、
 救われたとしても、ご先祖様の方たちはどうなるのか?」
 ・・と・・、
  この思いやりのある優しい日本人の質問、そして、疑問・・、
  それは、キリスト教への最大の「理屈に合わない弱点」
 への疑問だった。
  キリスト教は、キリスト教徒になれば天国へ行けると
 説いているので、ザビエルは、その様に答えた。
  つまり・・結局、ザビエルの答えは、ご先祖の方たち
 は救われない・・故に、天国で会えない・・となった。
  そして、また、キリスト教の説く・・ご先祖の方たち
 は地獄となる・・と知った日本人は、さらに・・
  「すると、あなたの信じている(キリスト教の)神様
 というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないか」・・
 と、
  「全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救
 ってくれてもいいではないか」・・と、
  ザビエルは・・答えに窮した・・
  ザビエルは困り、そして、本国への手紙で・・
  「日本人は、文化水準が高く、よほど、立派な宣教師
 でないと、日本の布教は苦労します」・・と・・、
  この当時、ザビエルは、中国でも、韓国でも、インド
 シナでも、こうしたキリスト教の急所を突く質問を受け
 たことはなかった。
  1552年1月29日のザビエルの手紙(インドのコーチンか
 らローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父へ宛てた手紙)
  「(日本人の)質問に答えるために、学識のある宣教
 師が必要です。
  特に、哲学がよくでき、弁証法に優れた人で・・、
  (僧侶との討論で)明らかになる矛盾をすぐにとらえ
 ることができる人が必要です。
  ボンズ(宣教師)は、矛盾を指摘され、答えに窮する
 ので、いたく恥じ入ります。
  (日本では)さまざまな苦労に(耐えてゆかねばなら
 ない)ので、年老いた人に適した土地ではありません。
  また、(実社会で)大いに経験を積んだ者でない限り、
 若い人にも不向きです。
  なぜなら、他の人びとの霊的な助けとなる代わりに、
 自分自身が滅びてしまうからです。
  日本の地には、さまざまな乗り越えるべき事柄があり、
 それに陥る危険があります。
  (日本人の行為を)とがめる(宣教師を)日本人は、
 よく観察しています。
  それ故、(宣教師の)ごくわずかな(欠点)がつまず
 きとなります。
  私は、これらのことについてシモン神父、もしも彼が
 不在の時には、コインブラの院長にあてて詳しく書きま
 す・・中略・・
  日本の地は、(宣教のために)どんなに苦労をしても
 報いられます。
  それで、あなたが聖なる徳を備えた人物を、日本へ派
 遣してくださるよう、心から望んでおります。
 ・・(後略)・・
  因みに、ザビエルは、日本語が話せなくて、インドに
 来ていた日本人を、日本へ連れ戻して行って、日本での
 話の時は、その日本人に話させていた。
  その時、ザビエルはは、脇に、ただ立っているだけで、
 無言だったという(ぼーっと立っていただけだという)。
.
1863年11月19日、リンカーンが演説で、「government of
 the people, by the people, for the people 」・・
 「人民が、人民のために、人民を統治すること」と演説
 した。
  リンカーン・アメリカ大統領が、「人民による、人民
 への政治」と言った。
  しかし、この・・「リンカーンの『人民』の中」には、
 黒人の方々は、入って無かった。
  黒人の方々を、まったく入れる気の無いリンカーンだ
 った。
  『人種差別主義者のリンカーン』は、卑劣にも、黒人
 の方々をアフリカへ棄てたいとしていた・・そして、ア
 フリカのリベリアへ棄てた・・棄民した。
  また、リンカーンは、幼い時に、目の前でお爺さんが
 インディアンに殺されたことから、インディアンの方々
 に対して「非常に強い復讐心を持っていた」。
  大きくなって・・その行為が現れる・・
  リンカーンは、青年期に、弁護士になって、この復讐
 を果たそうと、インディアンの方々の土地を取り上げる
 事に奔走した。
  今、その書類の多くが残っている。
  法律に疎遠なインディアンの方々に対し、赤子の手を
 ねじるが如くに、インディアンの方々のものである土地
 を取り上げて行った。
  また、大統領になってからも、インディアンの方々の
 掃討を命じ、虐殺行為がなされている。
  また、厳寒期の厳しい寒さの時期に、わざわざ、イン
 ディアンの方々の「居留地を移動をする」ことを命じた。
  「遠くの道のりを歩かせる移動を命じた」。
  体の弱い方々、インディアンの御老人や赤ん坊の多く
 が亡くなった。
  こんな人物を、北部アメリカは、記念堂を造って、奉
 っている。
  北部アメリカ政治が・・プロパガンダしている。
.
1883年、工業所有権の保護に関するパリ条約が締結された。
  特許などの工業所有権に関する国際的な基本原則が定
 められた。
  (参考)工業所有権は、特許権、実用新案権、意匠権、
     商標権・・などをいう・・
  人間の富の形態の一つである知的行動の産物・・
  この人間の富、ここにも・・他人の富を奪ってまでし
 もて、自分さえよければ良いと説くキリスト教の影響が
 働いた・・、
  キリスト教国・アメリカが、日本の「光ファイバーの
 大発明」などを奪った。
  世界のどこの国もが、おかしいと言っているのにもか
 かわらず・・
  『先発明主義』という珍奇な考え方を持ち出して奪っ
 た。
.
1944年9月20日、アメリカで、戦後のドイツの取り扱いを決
 める会議が開かれた。
  アメリカの・・卑劣な「国レベル」での復讐案だった。
  懲罰的色彩の強い「眼には目を」の復讐案がアメリカ
 で練られた。
  ドイツの国は、「北ドイツ」と、「南ドイツ」と、「
 国際監視域」の三分割とされた。
  「ドイツは、二度と工業力を与えてはならない」だっ
 た。
  ドイツには、牧草だけが生える「原始的な牧畜・農業
 国家」だけが許される・・という案だった。
  アメリでも、その過激さに、言葉を失う者も居たとい
 う・・その様な案の異常さだった。
  アメリカの・・戦後のドイツの扱いを検討する特別閣
 僚委員会だった。
  アメリカの国務長官・ハルは、怒りで顔を真っ赤にし
 ていた。
  1944年9月20日の事だった。
  案の提案者・主導者は、ルーズベルトの親しい友人だ
 という財務長官のヘンリー・モーゲンソーだった。
  内容は、あまりにも過激だった。
  しかし、モーゲンソー案は、ルーズベルトとチャーチ
 ルが承認を与えていた。
  カナダ・ケベックの米英首脳会談で、承認されていた。
  モーゲンソーは、「OK、ルーズベルト、チャーチル」
 の承認サインを見せた。
  誰も、反論は・・出来なかった。
  「二度とドイツに工業力を与えない」という嫌悪感を
 感じさせる強い懲罰案だった。
  ドイツの工業地帯を徹底的に破壊するというキリスト
 教の『完全破壊のシャローム』の案だった。
  「すべてを破壊して、そして、平和に至らす」という
 全アメリカ大陸のインディオ絶滅の前例の如くの迷信教
 義に影響されていた。
  ドイツ人のすべてが、農業・牧畜に従事するという案。
  またこれで、第三次世界大戦が起きるという案だった。
  国務長官・ハルは、ずばり・・
  「復讐と言うほかない」・・と言った。
  復讐の鬼と化したアメリカの意識が反映した『モーゲ
 ンソー案』だった。
  モーゲンソーは書いた・・、
  「ドイツ人は、総べて敗者であると認識するべきだ。
  餓死させないぐらいの軍のキャンプのスープを、日に
 三度、与えるだけで十分」・・とまで表現した。
  アメリカ国民の方々は、びっくりした・・この過激な
 案を知って・・そして、承認したルーズベルトに、非難
 を集中させた。
  当時、ルーズベルトは、4期目を目指す大統領選挙キャ
 ンペーン中だった。
  ルーズベルトは、モーゲンソー案を承認してから2週間
 後に、記者会見をして・・『申し開き』をした。
  そして、正式に、「ドイツの戦後案を白紙に戻す」と
 言明した。
  ルーズベルトは、撤回後、卑劣な言い訳をした・・
  「モーゲンソー案の内容を知らないまま承認してしま
 った」。
  モーゲンソーの『へま』にやられた・・と言い訳を
 言った。
  卑劣な嘘で・・モーゲンソーに失敗を擦(なす)り付
 ける言い訳だった。
  また、アメリカ国民の方々を『誤魔化す言い訳』だっ
 た。
  日本の真珠湾攻撃という偽りの「卑劣な汚名」を作り
 出した嘘つきのルーズベルトの人間性を表わす、これも
 その一例となった。
  実際、モーゲンソー案は、ルーズベルトの強い支持を
 受けていたのは「動かしがたい事実」だった。
.
1945年7月14日、釜石の艦砲射撃で773人が死亡した。
  アメリカなど連合国軍が、3隻の戦艦を主力とした9隻
 の艦隊が、日本製鉄釜石製鉄所を主目標として、艦砲射
 撃を行った。
  一般市民の423人の方々が死亡した。
  日本側は、釜石湾で、第221号海防艦と第48号駆潜艇が
 応戦した。
  第48号駆潜艇は、アメリカ艦載機の攻撃を受け、湾内
 の千鳥島付近で沈没した。
  また、1945年8月9日に、二度目の攻撃があった。
  攻撃したのは1回目と同じ艦隊で、一般市民の271人の
 方々が亡くなった。
  この時は、最初、山側に射撃し、平地へ逃げて来た一
 般市民の人たちが、今度は、艦載機の機銃掃射で殺され
 た。
  これは、完全に、一般市民を目標とした攻撃だった。
  翌日の8月10日も、また、艦載機の攻撃を受けた。
  一般市民の犠牲:694人、軍人軍属:30人、捕虜:32人、
 合計756人の記録がある。
  攻撃艦隊は、アメリカ14隻、イギリス5隻、合計19隻の
 記録がある。
.
1945年8月2日、戦後ベルリンの学校改革(~1948年)
  連合国によるドイツ占領軍政は、軍事的保障占領を基
 礎としつつも、一定の政治目的を実現するための軍政と
 して行なわれた。
  その逮合国の占領ドイツにおいて達成しようとする政
 治目的は、1945年8月2日に、連合国間で合意に達したポ
 ツダム協定に明らかである。
  アメリカは、ドイツが、二度と復讐を思いつかない様
 にという名目で、教育改革をした。
  「ドイツの復讐を思いつかないようにする新教育制度
 をつくる」などと傲慢なことをするアメリカだった。
  これこそアメリカの復讐だった。
  ドイツの一部の組織(軍など)の責任を、ドイツの人々
 の全員に転嫁したアメリカの「間違った受け取り方」だ
 った。
  その様な解釈をするのなら、その様なドイツにしたヨ
 ーロッパ、そして、アメリカにも責任がある。
  1946年8月下旬~9月上旬にかけて、ドイツの「アメリ
 カ占領地区」の教育事情を視察した対独アメリカ教育使
 節団の報告書には、次のような報告がみられる・・、
  「すべての教員の半数以上が非ナチ化によって解雇さ
 れた。
  解雇される状態が、現在より軽減されたとしても、教
 員の補充は準備がととのっていない。(中略)
  初等教育機関の教員の補充の必要性が非常に大きい。
  従って、現在、緊急の養成計画が最も重要である。
  占領地区各州は、それぞれこれらの緊急の養成計画を
 立案している。
  1年次は大学、2年次は教育実習、3年次は再び大学での
 学習を要求している。
  一つの計画は、緊急の必要に充分まにあうように思わ
 れる」。
  これらは、問題点をすべて相手(ドイツ側)へ転嫁し、
 ナチスというレッテルを貼って、だからすべて悪いとし、
 自分のお好みに作り代えるという「立ち入った強行策」
 が行われた。
  強いアメリカは、腕力で相手をやっつけ、腕力で従わ
 せたら、戦争原因でないことまで、なんだかんだと言っ
 て、相手を自分のお好みに変えた。
  国レベルの『ガキ大将』行為という状況だった。
.
1993年10月、ロシアのエリツィン大統領が、シベリア抑留
 について、謝罪の意を表明した。
  この不法行為が、シベリア抑留と記され、そして、言
 われているが『適切な言葉ではない』。
  抑留とは、「強制的にその場所に抑え留める事」とあ
 るが・・、
  しかし、この日本人を連れて行ったソ連の行為は、『
 日本人の拉致行為』である。
  拉致:らち、無理に引き連れてゆくこと・・とあるが、
 これである。
  犯罪行為である。
  ソ連の正当性は、まったくない。
  「日本軍捕虜だ」とソ連は言ったって、戦争が終わっ
 た後、戦後になって、攻めて来たのだから・・、
  戦争は終わっている状況の中で、攻めて来た・・故に、
 ソ連の言い訳は『成立しない』。
  捕虜ではない。
  また、戦闘行為をしていない民間人も連れて行ってい
 るのだから『拉致』であり、犯罪行為である。
  『隷属的な強制労働の目的』のために連れて行った犯
 罪である。
  ソ連は、日本へ『戦後補償する必要がある』。
  この問題が未解決である。
  この件についての・・話を付けよ!
  シベリア開発をさせようという魂胆で、日本人を強制
 的に拘禁して、
  (拘禁、こうきん:捕らえて、その者の身体を継続的
 に拘束すること)・・この拘禁なのである。
  57万5000人もの方々を、シベリアへ連れて行った。
  この非人道的な行為を、筋の通らない行為をソ連は行
 なった。
  劣悪な環境下で、5万5000人もの日本人の方々が亡くな
 った。
  この様な悪行為を、アメリカも、イギリスも、正そう
 とはしなかった。
  見過ごして・・見て見ぬふりをした。
  逆に、アメリカは、ソ連へ武器を渡した・・供給した。
  中立状態のソ連へ、武器を渡して『そそのかした』。
  そのアメリカの卑劣な行為によって、日本人は攻めら
 れ・・日本人たちは拘束されて行った。
  杉原千畝の嘘話どころではない、55万人以上の話なの
 である。
  卑劣な、そしてまた、攻める武器を渡す行為などをす
 る同罪のアメリカ・イギリスなどだった。
  卑劣な連合国の諸国だった。
  この悪行為で5万5000人もの日本人が殺され、また、亡
 くなった・・
  この行為に対して、はっきりしたソ連の謝罪はない。
  ソ連の手を逃れた日本人は、無事に、日本へ帰って来
 れているのだ。
  ソ連は、戦争が終わったので、逆に、『保護をすべき
 立場だった』のだ・・ソ連の保護行為はまったく無い。
  また、ソ連は、連れて行った、拉致して行った日本の
 方々を、中々、解放しなかった・・
  長期に使役した。
  釈放せず、捕まえたままで、連れて行ったシベリアで、
 長々、不法に捕まえた日本人を、劣悪な環境下で、重労
 働をさせた
  鉄道建設などの重労働で死んで行った日本人たちは、
 どれほど痛ましかったか・・、
  この不法な拉致期間は、最長で11年にも及んだ・・11
 年間も重労働をさせた。
  日本人の一般人に対して、ソ連の犯罪性は、はっきり
 している。
  また、この行為は・・武装解除した日本兵について、
 ソ連がしたこの様な行為は、「ポツダム宣言に反してい
 る」。
  ポツダム宣言は、「復帰を保証している」ではないか・・、
  1993年10月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は、
 「非人間的な行為」と謝罪の意を表明したが、
  『はっきりとした謝罪と、その補償を要求する』。
..
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2017年04月20日

(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

題:(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月9日、フランスのクレマン・アデールが、20馬力
 の蒸気機関を装備した単葉機「エオル号」を製作した。
  アデールは、フランスの軍人であり、電気技術者でも
 あった。
  アデールのこの飛行機は、地面から浮き上がり、飛行
 距離は50メートル・・と・・主張した。
  しかし、実際は50メートル走っただけのようで、「初
 飛行」とは認められなかった。
  また、アデールは、1892年に2号機、1897年に3号機を
 作って、飛行に挑戦したが、うまくいかなかったようだ。
  有人飛行機の初飛行は、13年後の1903年12月17日のラ
 イト兄弟まで待たなければならない。
1890年10月12日、イギリス人のスペンサーが、横浜で落下
 傘を実演した。
  これは、軽気球実演で、横浜公園で、イギリス人のパ
 ーシバル・スペンサーが、風船(軽気球)に乗り、落下
 傘で降下する実演を行った。
  飛行は、午後2時と予告されていて・・、
  観覧場は、有料席が設けら、料金は、一人50銭〜2円。
  少し高額の入場料のため、売上は芳しくなかった。
  それでも・・800円の売上があった。
  音楽隊の演奏がされて、その音楽が流れる中、直径28
 尺(約9m)あまりの気球にガスが入れられた。
  ガスの充填の間、獅子、虎、象、亀、魚の形が描かれ
 た紙製のミニ気球が打ち上げられ、客を飽きさせない様
 になされた。
  ガス充填が完了して、4時48分、気球は一気に上昇し、
  あっという間に上空(約1,000メートル)に到達した。
  そして、気球で上昇したスペンサーは、パラシュート
 で飛び降り、「太田水道貯水地近傍」に降り立った。
  そして、すぐさま横浜公園の会場に帰り、観衆の前に
 現れ大喝采を受けた。
  この男は、ロンドンに生まれ、祖父から軽気球の製造
 を引き継いだ。
  そして、シンガポール、バタビヤ、香港など、当時の
 イギリス植民地を中心に、軽気球ショー巡業をしていて、
  そのショーの途中、来日し、横浜を手始めに8回実施し
 た。
  日本政府に対して、飛行計画をちゃんと申請して行っ
 た。
  巡業日程は、1890年10月12日(日)横浜公園
  10月19日(日)横浜公園(第二回)
  11月 1日(土)神戸居留地
  11月12日(水)天覧(二重橋外)
  11月24日(月)上野公園
  11月30日(日)大阪今宮眺望閣東
  12月14日(日)京都御所博物会場前
  日時不明・・・長崎
1890年10月20日、元老院が廃止された。
  1875年(明治8年)4月14日のいわゆる「立憲政体を立
 つるの詔(漸次立憲政体を立てるとの詔勅)」に基づい
 て、、
  それまでの太政官左院に代って立法機関として設立さ
 れた。
  (1875年1月の大阪会議で、立憲政体への移行の合意が
 成立していた)
  同時に、地方官会議や、
  右院に代って司法機関として大審院(だいしんいん)
 がおかれ、残置された正院とともに三権分立の形式がと
 られた。
  立法機関としては、法典編纂を主とした左院があった
 が、これが廃止されるとともに、欧米諸国の議会の上院
 になぞらえて元老院が設けられていた。
  元老院は、議長、副議長および議官からなり、書記官、
 書記生が事務を分掌し・・、
  新法の制定と、旧法の改正を議定することを基本的権
 能としたが、
  議案は、内閣から下付され、急を要する場合は、便宜
 布告後、検視に付する(事後承認を求める)など、立法
 権はきわめて弱かった。
  1890年10月20日、帝国議会が開設されるため廃止され
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:誠実なれ!!・・あまりにも、不誠実ではないか (`(エ)´) 
.
1597年2月5日、キリスト教教会は、殉教者を、神と人間を
 仲介できる存在、聖人と位置づけて祈りの対象とした。
  この間違い教義によって、多くの方々が、多くのキリ
 スト教信徒が自死した・・自殺した。
  まったく可哀想なことである。
  キリスト教は、死ぬことを美化した。
  まったく卑劣である。
  このキリスト教の間違った「思い込ませ」で、何人の
 若者たちが、信徒の方がたが、自ら命を絶ったことか?
  キリスト教は、死後を美化する、そこで若者が死を選
 ぶ。
  これからの人生を絶つ。
  厳しく糾弾されるべき「キリスト教の悪行為の一つと
 なっている」。
  キリスト教は、幼少期の子供たちの童話として「フラ
 ンダースの犬」を推奨しているが、読むことを説いてい
 るが、
  この様な子供たちへも「死を美化した話で洗脳してい
 る」。
  この話は、キリスト教のイエス像の絵の前で死ぬ主人
 公と犬が、ともに天国へ行くと美化して終わる話となっ
 ている。
  いたいけな子供たちが・・幼児の時から死ぬ行為を美
 化された話で洗脳され、聞かされて来る・・洗脳された
 長い期間・・それを繰り返し・・死を美化されて・・死
 に憧れるマインド・コンロロールをキリスト教は行なう。
  この死への憧れは、キリスト教は、昔からやって来た。
  日本では、キリスト教の渡来から・・そして、豊臣秀
 吉のころから・・、
  日本を植民地化しようというキリスト教の影の企みを
 知った秀吉は、キリスト教を禁教にする。
  秀吉の指示の通り「国外退去に応じれば」、何も起こ
 らない優しい日本であったが、
  その指示に背(そむ)いて、違反し・・日本に潜伏し・・
 指示に従わないで日本に潜伏した宣教師たちは、日本の
 法を犯して、法違反者となって宣教する。
  弾圧なのではない・・法に違反する者たちを「取り締
 まった」のである。
  キリスト教は弾圧だというが、法に従わなかったキリ
 スト教が悪いのである。
  長崎の二十六聖人(1597年2月5日)なんて「法違反者
 なのである」。
  その取締りの中で・・卑劣にも・・キリスト教は、殉
 教をマインド・コントロールする。
  キリスト教宣教師たちは、卑劣にも、日本の信徒へ殉
 教する事を勧める。
  だから、故に、何と! 子供を連れて出頭して来る日本
 人のキリスト教徒まで現れるという始末だった。
  キリスト教は、この様に、死後に憧れさせて、自死す
 ること・自殺することを美化した。
  殉教だという美辞麗句を刷り込んだ。
  そのようなキリスト教の悪行が、今・現代も行なわれ
 ていて、天国への道に美があると洗脳し、信仰する目的
 があると洗脳し、マインド・コントロールする。
  この事によって、自死するキリスト教徒の若者の多い
 ことを憂える。
  自死する宗教となっているキリスト教。
  自死させる宗教となっているキリスト教。
.
1809年2月12日、リンカーンが生まれた。
  リンカーンは、大きくなって、弁護士になり、白人だ
 けに都合の良い法律を盾(たて)にとって・・
  白人の法律なんて何も知らない先住民のインディアン
 の方々へ・・、
  また、白人の法律なんて何も関係のない先住民のイン
 ディアンの方々へ・・その方たちの土地を取り上げて行
 った。
  『これが正義なのだ』・・と・・キリスト教とまった
 く同じ考え方で・・キリスト教の神の正義なのだと・・
 キリスト教徒が、隣国の富を奪うがごとくに・・この様
 なやり方で・・、
  弁護士となったリンカーンは・・あたかも、自分だけ
 が銃を持ったものの様に・・法律を振りかざして・・イ
 ンディアンの方々の土地を取り上げて行った・・
  リンカーンの子供の頃に・・目の前で殺されたお爺じ
 いさんの仇(かたき)を取って行った。
  この様な事を・・アメリカ資本に乗っ取られた日本の
 テレビは・・そして、メディアは・・まったく触れない・・
 隠す・・
  卑劣な事である・・日本の方々を・・それで洗脳する・・
  キリスト教徒の芸人が・・面白、おかしく話をする。
  経営者がキリスト教だということで・・この芸人集団
 は・・キリスト教に偏する行為を、テレビを利用してよ
 く行う・・
  そして、キリスト教に偏するNHKに・・かわいがら
 れる・・良く出演させてもらえる・・
  この行為は・・アメリカでは「巧妙なるキリスト教の
 伝道行為」と言われ・・裁判となっている事例が多いと
 いう行為で・・温厚な日本を馬鹿にしている・・、
  このリンカーンという男が・・何人の黒人の方々を、
 アフリカに送って・・棄民をしたかも・・まったく触れ
 ない・・
  そして、インディアンの掃討を命じたり・・
  厳寒期に、死者が多数出ると分かっている命令・・イ
 ンディアンの方々へ、居留地の移動を命じたり・・こん
 な事には・・まったく触れない・・
  そして、南北戦争は、奴隷を解放しようとする北部と、
 奴隷を解放しないとする南部との戦いだという嘘で美化
 する。
  これは、アメリカの政治を牛耳る北部を「美しく仕立
 てすぎているアメリカ北部美化路線」・・これに、まっ
 たく乗っかっている。
  これは、何故、リンカーンが暗殺されたかを見ればわ
 かる。
  まだまだ、アメリカは、イギリスの従属国的であった。
  リンカーンは、金を自国で発行しようとした。
  つまり、イギリス金融資本家が、もうからない様な政
 策を取ろうとした。
  暗殺の理由だった。
  南北戦争の時も・・アメリカへ・・戦費が、イギリス
 金融資本から流入した。
  このところが・・南北戦争が起きた原因だった。
  まだまだ、可哀想に・・黒人の方々は、奴隷という地
 位に虐(しいた)げられていた。
  この時、奴隷解放という政治的宣言をする段階にあっ
 た。
  黒人の方々の「活動や努力」でその様な段階にあった
 のだ・・
  そこに、リンカーンが居ただけで・・リンカーンの政
 治的な理念からではなかった。
  だからと言って・・その宣言がなされたからっと言っ
 て、その路線にすんなり行ったわけではなかった。
  北部の工業資本家も・・安い労働力が欲しく・・そし
 て、安い労働力の黒人の方々を欲していた・・
  何も、南部のプランターの経営者だけが、悪者ではな
 かった。
  アメリカ北部も南部も、黒人の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  だから・・南北戦争後になっても、北部の工業資本家
 と、南部のプランターの経営者たちが・・手を握って・・
 奴隷解放路線の揺り戻し・寄り戻しの行動を・・共同し
 て取った・・このことが何よりの証拠である。
  こんなことを、今・現在、アメリカ資本に牛耳られて
 いる者ども・メディアは、少しも触れない。
  従来の嘘つき路線、プロパガンダ路線で、日本の方々
 を洗脳しようとしている日本のマス・メディアである。
.
1842年11月4日、リンカーンの結婚式の日(リンカーン33歳)
  リンカーンは、「結婚をしようとも思っても居ない相
 手」に、その相手の女性に、積極的に結婚を求められて、
 結婚する事にした。
  しかし、結婚式の直前、逃げ出す、姿をくらます。
  数年間という長い期間、逃げ回っていた。
  しかし、ある日、偶然にその女性に出会わす。
  そして、その数日の後に結婚する。
  ここには、まったく、リンカーンにはイニシアティブ
 が無い、リンカーンの意志はない。
  リンカーンの奴隷解放宣言も、まったく、「これと同
 じ」。
  しかし、今、リンカーンは、美しく祭り上げられてい
 る。
  最後の階段を登らねばならない状況において、その階
 段を昇ったら、「奴隷解放宣言だった」という状況だっ
 た。
  そのような事実は、すべて、まったく、隠されている。
  アメリカ北部の政治主導のシンボルとして祭り上げら
 れ、プロパガンダ(嘘宣伝)されている。
  リンカーンの配偶者の名前は、メアリー・トッド・リ
 ンカーン。
  1842年、メアリ・トッドは、自分の家族・親戚にも、
 11月4日の結婚式の当日の朝まで、リンカーンとの結婚の
 ことは口にしなかった。
  ウイッグ党の機関紙「サンガモ・ジャーナル」の編集
 長の妻サイメオン・フランシスの勧めで、秘密裏に交際
 を再開した二人だったが・・、
  11月4日の朝に、結婚の話を聞かされたメアリの妹エリ
 ザベスとその夫、ニニアン・エドワードは・・
  「もうこうなったらしょうがない。
  式をあげるのなら、やっぱりこの家しかないでしょう」
 と言い、自分たちの家で、式をあげさせた。
  その夜、二人は、週4ドルのホテル「グローブタバーン」
 に移り、そこに2年間住んだ。
  駅馬車の駅兼宿屋だった。
  2階にある家具つきの部屋で寝て、食事は、階下の共同
 食堂でとった。
  夜になると、リンカーンは、よく食堂で、誰かれとな
 く話しこんだ。
  すると、階上から・・リンカーンを呼ぶメアリの咳払
 いの声が聞えて来た。
  ある日は、夜中まで聞えて来ることもあった・・つま
 り、リンカーンは、新妻をほったらかしにして、夜中ま
 で話しこんでいた。
  ある朝は、怒ったメアリが、食堂でリンカーンの顔に
 熱いコーヒーをぶっかけた。
  そばにいた間借り人が、リンカーンの顔を拭(ふ)い
 て、、やけどの手当てをしたという。
  鬼嫁だった・・すれ違い夫婦だからやむを得ないか・・?
.
1882年4月19日、ダーウィンが没した(73歳)
  チャールズ・ダーウィン(1809・2・12~1882・4・19)
  神を乗り越えた「ダーウィン」。
  「種の起源」を書いたダーウィン。
  彼の頭には「ある想い」があった。
  彼の父親は、キリスト教聖職者だった。
  彼の想いを気付き、研究時間を持ちたい息子に、父は
 言った、「キリスト教聖職者になりなさい」・・と。
  それは、親として息子に、自分の職業を継がせたいと
 いう事ではなく、息子が研究にいそしむ姿を見て、その
 息子が欲しいであろう「研究のための時間」が得られる
 というのが、ダーウィンの父の考え・思いだった。
  父は、ダーウィンへ言った、「キリスト教聖職者にな
 れば好きな研究のための時間がいっぱい得られる」と。
  ダーウィンは、キリスト教聖職者になった。
  そして、キリスト教教会の中庭に、研究のための畑を
 造ったりした。
  ダーウィンの想いは、「生物の種は神の創造だという
 当時の常識を打ち破らんとした」。
  それは、彼の著「種の起源」の書きぶりを見て、また、
 読めば・・明らかだ。
  彼の凄さは、大陸が移動するという「プレートテクト
 ニクス理論」が、まだ知られていない時代に、
  また、「DNA理論」も知られぬ時代に、
  種の分化や自然淘汰の原理、大陸や海洋の歴史と種の
 地理的分布の関係などを、当時の知識で正しく見通して
 いた。
  空恐ろしいまでの凄さで、進化論を認めないのは、万
 有引力の法則を認めないのと同じだと言っている。
  また、天動説を認めないのと同じだと言っている。
  ダーウィンは、19世紀に、非科学と戦った。
  そこには、キリスト教を例外とせず、キリスト教も入
 っていた。
  今や、彼の主張するところは、動かしがたい事実とな
 っている。
  彼・ダーウィンは、最初の意気込み通り、「キリスト
 教の神を乗り越えた」のだった、
  「キリスト教の神の創造思想」を乗り越えた。
  「種の起源」の生命は、尽きることない真実を示し続
 けている。
  キリスト教の神が作ったもの、創造したものは不完全
 で・・
  だから、故に、進化するのだという、当時では認めが
 たい真実が、正しい科学的な事柄なのだと、
  キリスト教の神の創造説を、キリスト教の教義の大根
 源から崩れることを・・証明したのだった・・
  キリスト教の根源の教理を・・覆し、否定したのだっ
 た。
.
1903年12月17日、ライト兄弟が、ノースカロライナ州キテ
 ィホーク近郊にあるキルデビルヒルズにて、12馬力のエ
 ンジンを搭載したライトフライヤー号によって、有人動
 力飛行に成功した。
  ライト兄弟が、初飛行に成功した時の写真は、2人に
 撮影を頼まれた観客の一人、地元の海難救助所員のジョ
 ン・T・ダニエルズが撮ったもので、合計4回の飛行が試
 みられた。
  1回目: 12秒、(36.5m)
  2回目: 12秒、(53.3m)
  3回目: 15秒、(60.9m)
  4回目: 59秒、(259.6m)
  この飛行は、強風が吹く中で、風に向かって飛んだ。
  故に、実際は、もっと飛行距離は長くなると見られる。
  兄弟は、あてずっぽうに実験したのではなく、風洞実
 験をしたりして、一歩一歩、科学的に、また、工学的に
 成功への道を詰めて行った。
  グライダー試作機を作ったり、滑空飛行を繰り返し、
 操縦技術の習得など・・着実に・・そして、改良し・・
 研究して行った。
  また、安定した強風が吹く場所の選定など、研究室・・
 大学教授などの・・知的な情報も得た。
  この時も、日本の大発明が潰され、奪われた様に・・
 ライト兄弟の特許を無効にしようという動きがあった。
  民間のライト兄弟の栄光を潰そうとした勢力のグルー
 プが、有名なスミソニアンの、スミソニアン協会のグル
 ープだった。
  スミソニアンの強力な圧力は、ワシントン国立博物館
 の展示でさえ、スミソニアンの押す飛行機となり、世界
 初飛行に成功したのは、ライト兄弟ではなく、ラングレ
 ーだと思わせられる時代が続いた・・その様なアメリカ
 だった。
  ライト兄弟の特許は活用もされず、世界初の飛行機を
 製作した技術者はまったく活かされず・・不遇に過ごし
 た。
  今、飛行機の活躍を見ると、アメリカという社会によ
 って、不遇に泣き、陰に置かれた大発明家が、ここにも
 居るということを想え・・、
  アメリカという国は、まったく不正な、無謀な、不公
 正な、不誠実な事をやる社会なのである。
  偉業をたたえられず、失意と、法廷闘争に疲れた大発
 明家が・・そこに居た。
  1912年、初飛行から9年後、兄のウィルバー・ライトが、
 腸チフスで死に(45歳)、そして、その4年後に弟のオー
 ヴィル・ライトは、飛行機製造から身を引いた。
.
1941年8月1日、フランクリン・ルーズベルト、アメリカ大
 統領は、日本に対する石油輸出禁止の強化を発令した。
  8割を超える石油を輸入していた日本は、それまでの禁
 輸措置と共に、完全に石油の輸入が停止された。
  ルーズベルトを良く知る「ルーズベルトの娘の夫(娘婿)」
 のカーチス・ドールは自著で書く・・
  「ルーズベルト大統領(国際金融勢力の代理人)が、
 アメリカ人をいかに操縦して、第二次世界大戦に入らせ
 たかについての真相は、最大の重要性を持っている」と。
  そして、さらに・・、
  「両国(日本とアメリカ)の普通の人たちが、この戦
 争と、その原因の恐るべき教訓を理解することが、もっ
 とも重要なことです」・・と。
  ルーズベルトを繰っていた国際主義者ら・・
  この国際主義者らは共産化をしようともくろんでいて、
 ソ連が誕生しただけでは満足せず・・、
  次に、中国を共産化するため、ソ連に南下させようと
 した。
  しかし、そこに立ちはだかったのが日本だった。
  そこで、国民党の蒋介石を日本と戦わせて・・疲弊さ
 せ・・そして、その後・・中国共産党に、政権を握らせ
 るという計略を練った。
  そして、アメリカが日本と開戦し、日本を敗戦に至ら
 せる・・だった。
  その路線の中で・・アメリカは、「不戦条約違反の『
 日本への石油の輸出の完全に停止』をして、日本に対す
 る事実上の宣戦布告をした」。
.
1950年代末、戦争花嫁
  この頃まで、アメリカに渡った日本人戦争花嫁は、
 40000人~50000人に達すると言われている。
  アメリカ兵の夜の相手をした女性もいたが、
  教養ある日本女性がアメリカ兵に嫁ぐ、そして、アメ
 リカに渡ったが・・
  2年後から、その女性が日本に帰って来る。
  アメリカでの文化の違いから嫁姑問題、そして、近所
 の人種差別(日本人は有色人種として扱われる)
  人種差別が壮烈なアメリカ、義理の兄弟からも虐(し
 いた)げられ、虐(いじ)められ・・そして、地域から
 も出ていけの嫌がらせ・・自殺する日本女性も多かった。
  また、日本へ戻る帰りの船から海へ飛び込むという悲
 惨さだった。
  ワーブライド(war bride、戦争花嫁)とアメリカ社会
 からいじめられた。
  アメリカは、伝統の無い国で、卑怯な事に、アメリカ
 兵の性の問題から逃げた。
  パリ市長が泣きを入れた様に、アメリカ兵の性につい
 て、行く先々で破廉恥な問題が多発した。
  まるで、他人に・・女性の方たちへ・・害を与える者
 を町に放(はな)って・・、
  あとは、『勝手にやってくれ』は・・無責任なアメリ
 カだった。
  アメリカが言う、「軍の統制下なら管理する」は、無
 責任きわまる発言で、前記の様なパリでの様相に日本で
 もなった。
  日本での数々の蛮行の中に・・病院に集団で、銃を持
 って乱入し、看護婦から、妊婦の入院女性にまで、やり
 たいことをやった。
  この様な事が多発し、毎日、毎日、新聞にその悪辣ぶ
 りが記される続けると、占領行政という腕力をふるって、
 新聞の記事にすることを規制し、記事にしてはならない
 とした・・卑劣なアメリカである・・
  そして、相変わらず・・街で女性と何をしようが、ア
 メリカ軍とは関係ないという態度を取った。
  性の問題が・・相変わらず・・多発し・・起きた。
  指導する責任を放棄したアメリカの結果だった。
  まるで管理すべき猛獣を、『関係ないのだ』と、管理
 なしの状態で、街に放(はな)ったような状態だった。
  アメリカは、まったく・・だらしなかった。
  町では、アメリカ兵に強姦される日本女性が急増し続
 けた。
  この様な事は、ベトナム戦争の時にも、アメリカはや
 った・・多くの混血の方々が生まれた。
  まったく節度が無かった。
  アメリカの責任放棄の結果だった。
.
21世紀、アメリカ南部地域は、北部の植民地へ?
  アメリカ南部のその重要な産業は、そのほとんどを北
 部の資本に、押さえられている。
  南部人たちは、無益だと知りながら、北部への抵抗を
 執拗に繰り返す。
  それが、単なる北部への反感や、単なる感傷や復讐心
 からではない。
  アメリカ南部の農本主義、家族主義、家長制整など、
 この地の風土は、まだ、根強く残っているが、それらは、
 南部の人たちの精神構造の中に、深く染み込み、南部の
 人たちを形造っている。
  大切にしなければならないところである。
  しかし、それを、北部が侵食し、そして、破壊して行
 った。
  今、アメリカ資本が、日本の文化や、もろもろを・・
 破壊し・・工作しているのと同じ様に・・、
  大切なものが壊されている。
  日本も、この南部と同じ状況下にあって、日本の残し
 ておきたいものが失われて行っている。
  世界は、日本ブームにあるが・・、
  また、南部には・・北部にない独特の文化があるのは、
 南部は南部で、直接、イギリスの文化の影響を受けてい
 るからで・・、
  18世紀のイギリス文化の影響を受け、北部にはない南
 部の独自性が出来ている・・
.
2002年、アーミテージは、辞任した後、政権の座を降りた。
 その後に・・
  「アメリカ国務省は、2002年頃から、北朝鮮が核兵器
 を放棄することはない・・と判断して居た」という真相
 を明かした。
  これは、アメリカ政権(ホワイトハウスと国務省)の
 本音だった。
  しかし、この本音は、日本の耳に入って来なかった。
  日本は願っていた・・六か国協議で何とかしたいと・・
 と、
  しかし、アメリカと中国の両政府の共謀で、日本には
 黙っていよう、そして、日本を騙しておこうという状況
 で・・時間は・・歴史は過ぎて行った・・
.
2015年、訪日客が増えている。
  日本政府観光局の2015年11月18日発表、
  日本を10月に訪れた外国人旅行者数は、前年同月の43.8
 パーセント増。
  182万人。好調は続いている。
  パリ同時テロが影響はしている、
  10月まで1631万人。
  内訳:
  中国24%(約2倍、44万人)
  韓国20%(49パーセント増、37万人)
  台湾19%(32パーセント増、34万人)
  香港7%、
  米国5%、
  英国1%、フランス1%、ドイツ1%、その他。
  欧州客は、長期宿泊する傾向、
  中長期的には増加傾向、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年04月17日

(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)

題:(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年9月21日、日本法律学校が開校した。
  日本法律学校(日本大学の前身)が開校式をした。
  この学校は、日本の法律を研究し、国運の増進をはか
 ること目的として設置された私立の法律学校で・・、
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援し、設立された。
1890年9月29日、逓信省が、女性電話交換手を募集した。
  応募資格は、小学校高等科修了。
  応募資格に於いて・・、
  品行方正・言語明瞭・・さらに、
  「夫ナク家事ニ関係ヲ有セザルモノ」、
  「日常ノ算筆ヲ能クスルモノ」・・という条件も付い
 ていた。
  採用されたのは、14歳~25歳までの9人の「教養ある
 良家の子女」だった。
  この頃の女性の仕事といえば、女工か看護婦という、
 ごくわずかなものしかなく、
  電話交換手は、女性に開かれた数少ない仕事の一つだ
 った。
  この電話交換手には、男性もいたようで、電話創業に
 備えて・・女性を募集したものだった。
  当時、使われていたのは、ベルギー製の単線式単式交
 換機だった。
  加入者からの通話表示があると、交換手は、そのジャ
 ックにプラグを差し込み、加入者の告げた通話相手のジ
 ャックに、もう一方のプラグを差し込んで接続するとい
 うものだった。
  こうした交換機は、1979年の全国完全自動即時化まで、
 農村や山村の小さな局で使われていた。
  日本では、東京と横浜の間で、市外電話の通話試験を
 行って成功したのが1885年(明治18年)で、この年に、
 逓信省が創設された。
  初代大臣は榎本武揚、取り扱う業務は、電信事業・郵
 便事業、そして、灯台業務だった。
  この時から5年もかかって、電話事業がはじめられたの
 は、国営にするか、民営にするかで、政府内部で意見が
 大きく割れ、
  民営を強く主張する実業界も加わり、その調整に時間
 がかかった。
  逓信省は、試験をかねて、東京~熱海間に電話線を一
 回線引いて、1889年(明治22年)1月1日から1年間、一
 般公衆の通話を取り扱った。
  この試験通話は成功したが、用件のために電話すると
 いうより、好奇心から利用した人が多かったという。
1890年10月7日、岡倉天心が、東京美術学校の校長に就任し
 た。
  副校長はフェノロサが務めた。
  1886年~1887年に、文部省図画取調掛委員として岡倉
 覚三(天心)とフェノロサは、欧米の調査旅行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 ものだった。
  そして、2人の報告に基いて、1887年10月、勅令によっ
 て図画取調掛、および、工部大学校内「工部美術部」を
 統合・改編し、東京美術学校が設立された。
  開校は、1889年2月。
1890年10月7日、民法財産取得編を公布した。
  明治23年法律28号 (財産編、財産取得編〈非相続〉、
 債権担保編、証拠編) 、同年法律 98号 (財産取得編〈相
 続〉、人事編) 。
  民法典(旧民法)が公布された。
  明治政府が、フランスから招いたG・ボアソナードが、
 中心となって編纂した。
  1893年1月1日に、施行される予定になっていたが、日
 本の習慣を顧慮していないということなどから、その施
 行について、断行論者と、施行延期論者との間に、激烈
 な論争が行われた (→民法典論争 ) 。
  (ボアソナードを主任としてフランス民法を範として
 作られていたため、日本になじめないところがあった)
  結局、延期派が勝って、1892年の帝国議会で、修正の
 ため、1896年まで、その施行が延期された。
  また、法典調査会によって新たな体系による民法典 (
 →民法) の編纂が進められて、1898年に施行された。
  この1896年に公布された民法(総則・物権・債権の3編)と、
 1898年に公布された民法(親族・相続の2編)によって、そ
 の公布とともに廃止となった。
  そのため、旧民法はついに実施されずに終った。
  旧民法は、全体としてフランス民法に近く、ボアソナ
 ードが関与しなかったといわれる親族相続に関する部分
 も原案は進歩的であったが、法律取調委員会、および、
 元老院の審議の過程で改正されていった。
1890年10月7日、刑事訴訟法が公布された。
  (明治23年法律第96号)
  この年に、フランス法にならって制定された日本初の
 近代的刑事訴訟法典は、治罪法と呼ばれたが、
  1890年に、それが改正され、刑事訴訟法と称されるよ
 うになった。
   1922年になって制定された刑事訴訟法 (旧刑事訴訟法)
 は,ドイツ法の影響を強く受けたものになった。
1890年10月9日、初めての電話帳である「電話加入者人名表」
 が発行された。たった1枚の紙だった。
  電話交換業務が始まった時点で、開通していた東京と
 横浜の加入者は、197名だった。
  そして、この電話帳は、1番が東京府庁で、番号順に縦
 書きに記され、
  官公庁や新聞社、銀行に交じって渋沢栄一や大隈重信
 などだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本の大発明・・ノーベル賞ものの光ファイバー大発明は・・奪われた・・
    こんなことは・・まだまだ・・ある・・
.
1894年、日清戦争の始まる直前に、日英通商航海条約が調
 印された。
  江戸期からの悲願の差別の条約が、やっと、改正され
 たのである。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという卑劣なアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカが、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から40年の月日が経っていた。
.
1905年、日本は、この年、日露戦争に戦勝した。
  日本はこの時まで、日本の危機の時代をくぐり抜けて
 来た。
  この時まで・・、1853年のアメリカの来航をはじめ、
 列強各国が、日本の植民地化をうかがっていた時代・・
 それをくぐり抜けて来たのだった。
  また、遠く・・キリスト教宣教師が・・衣の下に隠し
 ていた・・日本植民地化の尖兵役の暗躍を・・アジア各
 国と同じ様にならないで来た・・そして・・
  1853年に、アメリカのペリーが来航し・・アメリカ・
 ヨーロッパの列強各国が日本へ殺到して来たが、
  日本の江戸幕府は、やむなく開国し、その各国と国交
 を開いたが、
  まだまだ、未熟な日本は、何らその防備はなく、
  その列強各国は、その機会・・植民地にする餌食の
 機会をうかがっていた。
  日本だけが・・例外であったのではなく・・
  日本は、常に、外国勢力が、ある日、突然上陸して、
 自分たちの主義や独立を脅かすかもしれない危機に曝(
 さら)されていた。
  アジア各国がされたように、日本の植民地化への思惑
 は、列強各国は、当然のように持ち、狙われていた。
  明治政府が、必死に、「富国強兵策」に邁進したのは、
 明治の賢明な諸士が、そのことのアジア各国の状況を十
 分すぎるほど理解していたからだった。
  のほほんと平和の夢を貪(むさぼ)っていたのではな
 かった・・現代の様に・・、
.
1926年9月12日、光ファイバーの大発明をした西澤潤一氏が
 生誕された。
  西澤氏の著書の一端・・
  ・『闘う独創技術』日刊工業新聞社、1981年5月
  ・『愚直一徹-私の履歴書-』日本経済新聞社、1985年
    10月
  ・『独創は闘いにあり』プレジデント社、1986年2月/
    新潮社(新潮文庫)、1989年2月
  ・『西澤潤一の独自開発論』工業調査会、1986年3月
  ・『「技術大国・日本」の未来を読む』PHP研究所、
    1989年9月
  ・『私のロマンと科学』中央公論社(中公新書)、
    1990年3月
  ・『独創教育が日本を救う』PHP研究所、1991年8月
  ・『人類は滅亡に向かっている』潮出版社、1993年
    12月
  ・『東北の時代―もはや一極集中の時代ではない』
    潮出版社、1995年4月
  ・『教育の目的再考』岩波書店、1996年4月
  ・『新学問のすすめ-21世紀をどう生きるか』本の森、
    1997年9月
  ・『背筋を伸ばせ日本人』PHP研究所、1999年6月
  ・『人類は80年で滅亡する』東洋経済新報社、2000年
    2月
  ・『教育亡国を救う』本の森、2000年8月
  ・『赤の発見 青の発見』白日社、2001年5月
  ・『日本人よロマンを』本の森、2002年10月
  ・『戦略的独創開発』工業調査会、2006年4月
  ・『生み出す力』PHP研究所(PHP新書)、2010年8月
  ・『わたしが探究について語るなら』ポプラ社、
    2010年12月
.
1932年10月2日、リットン報告書が出た。
  アメリカのやり方・・立ち回り方・・
  アメリカは、イギリスやフランスなどが、アジアの国々
 を植民地にしても、何も言わず、
  俺も植民地を取りたい・・と、フィリピンなどを植民
 地にしたりしていた。
  英国人記者HS・ストークス氏が言うように、白人様の
 植民地に進攻するのは侵略となる・・有色人種の日本が、
 その様な白人様のマネをしてはいけないと・・
  たとえば、中国を一番侵略していたのがイギリスで、
 それも、北京などの中枢の中心地域を含む広大な土地を、
 地方を、広くイギリスは侵略し、そして、占領していた。
  そのイギリスへ、アメリカは、「酷(ひど)いではな
 いか」などと一度も言ったこともない。
  グル(一味)だったのである。
  こんな不公正なアメリカが、日本にとやかく言う権利
 はないのだが・・?
  さも、公平さを演じて、日本へとやかく言うのは、ア
 メリカとグルになっているイギリスの利益となる行動を
 していた・・、
  影の当事者のアメリカに・・発言権はないのである。
  1932年10月2日に出された「リットン報告書」は、日本
 の満州の権益は『 認めた 』。
  侵略だなんて言ってない・・当然だ・・日露戦争で、
 日本は、ロシアに勝利して、満州を移譲されていたのだ
 から・・
  国連(国際連盟〉調査団さえ日本の権益を『認めたの
 だ』。
  国際社会が認めたのだ。
  ただ、おかしなところは・・日本は侵略したとした。
  ならば、北京などの中国の中枢地域を侵略していたイ
 ギリスは、どうなるのだ?
  まったく有色人種は、白人のやるような行為はしては
 いけないの、有色人種(日本人)は侵略になるの・・と
 言っている行為になっている。
  「権益を認めて、侵略とする」日本への断定。
  「権益を認めて、侵略としない」イギリスへの見解・・
 まったく理屈の合わない状況だ・・どこがどの様に違う
 のだ?
  好き勝手に、右だ左だと、自分の都合の良い振る舞い
 をするアメリカがあった。
  漢民族の中国が、満州族(女真族)の地・北支を支配
 下においていて、そこへ日本が入った。
  イギリスは、漢民族の地・北京などの広い地域に入っ
 た。
  アメリカも権益を得ようと画策する北支や中国・・
  この状況で、何が言えるのか?
  要は、白人様が、今までやってきた。
  そこへ新参者の有色人種(日本)がやって来た、
  白人様がやっていることと同じ事をやるなの話なのだ。
  白人権益。白人秩序に挑戦するな・・なのだ。
.
1940年、日本工作のために、後に、アメリカの国務省の次
 官補代理になるボブ・バーネットが日本に来た。
  ボブは、アメリカのジョンソン大統領の時(1963年~
 1969年)、アメリカ国務省の次官補代理としてアジア政
 策を担当していた。
  ボブ・バーネットは、キリスト教宣教師の父を持ち、
 中国で生まれで、上海で育った。
  オクスフォード大学などを出た。
  このボブは、1940年~1941年、アメリカのスパイとし
 て日本に来た。
  そして、この頃、キリスト教宣教師が、日本とアメリ
 カを戦争に至らせようとする行動に暗躍していた。
  酷い話だ・・
.
1964年、通信には、今や、光ファイバーが無ければ文明が
 破壊するほど、「基本中の基本技術』となっているが・・
  今から50年以上も前に、日本の西澤潤一氏、佐々木市
 右衛門氏は、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心
 から周辺に向かって連続的に低くなるように変化させ、
 入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束
 型光ファイバー(今日にいうGI型光ファイバー)の概念を
 特許出願した。
  物凄い着眼で、素晴らしい発明だった・・
  自己集束型光ファイバーによる光通信の可能性につい
 て発明したのだった・・
  しかし、この大発明を、日本の特許庁は、意味がわか
 らないと不受理にした??
  アメリカの圧力があったと関係者の中で指摘された。
  昭和39年・・1964年の話だった・・
  また、1970年、アメリカのコーニング社が、通信用光
 ファイバーを実用化したと発表した。
  光ファイバーの製造法とカオ論文に示された光ファイ
 バーの構造を始めとする基本特許(米国特許第三六五九
 九一五号)を得た・・
  基本特許の大発明だった・・、
  コーニングの光ファイバーは非常にもろく、まだ、実
 用化にはほど遠いものであったが、カオの理論通りに20
 dB/kmの損失を達成した。
  しかし、何と! 日本の特許庁は、それが、日本の西
 澤氏が先発明していることを、つまり、先に出願してい
 ることを、そして、西澤氏の発明とと類似するものであ
 ると知りながらも・・口をつぐんだ。
  まったく・・ひどい行為をした・・
  このアメリカの特許出願が、特許になったということ
 は、西澤博士の特許出願も特許になりうる発明であった
 ということ・・である・・
  そして、先に出願している西澤博士の特許の方が、当
 然、先の出願であるので、特許の範囲が広くなり、基本
 発明となる。
  莫大な国益となった・・訳だ・・
  しかし、西澤博士の特許出願が、例え、特許とならな
 いのならば、アメリカの特許出願も、特許にならないと
 いうことになければならない。
  西澤博士の特許出願が先になされたということによっ
 て、アメリカの特許出願は、特許になる要件を満たして
 いないからで・・、
  それは・・何ら新規性が無いと言えるからで・・
  この「新規性を喪失している」から不特許となる・・
  この光ファイバーの大発明は・・まったく、おかしな
 展開となった・・
  関係者の不満・指摘は、最高度に達した・・この様な
 ことは、まだまだある・・
  西澤博士の大発明は・・奪われてしまったとしか言え
 ない状況となった。
.
1972年、日本に対する、米中の『共同封じ込め戦略』が始
 まる。
  ニクソン大統領とキッシンジャーは、中国の毛沢東と
 周恩来(首相期間:1949年~1976年)に、うまく乗せら
 れてしまった。
  その合意は、「アメリカと中国が協力して、日本をカ
 ウンターバランスする」というものだった。
  そして、この結果、1972年から、「ジョイント・コン
 ティメント・ストラテジー(日本に対する共同封じ込め
 戦略)」が始まる。
  こんなこと「近・現代史」では教えない。
  この要点は・・、
  (1)日本には、絶対に核を持たせない。
  (2)日本の自立的独立を阻止する。
    その為、アメリカ軍は日本駐留を続ける。
  (3)朝鮮半島と台湾の問題に、日本へ発言権を与えな
    い。
  この話し合いは、1971年秋、周恩来とキッシンジャー
 の間で話し合われ、
  1972年2月、アメリカのニクソン大統領が、訪中をして、
 北京へ行ったときに、米中首脳間で合意がなされた。
  この事は、明確に・・アメリカ政府の公開された外交
 史料に記載されている。
  当時の密約は、今、公開資料となっている。
  アメリカは、緊密な日米関係を口にするが、この様な
 事を、日本に何も相談しないで、日本の『頭越し』で、
 平気でしている。
  裏切る様な国なのだ。
  2003年以降のブッシュ政権も、手のひらを返した。
  アジア政策を「中国重視、日本蔑視」にした。
  あんなに、「ジョージとジュンイチロー」と言って、
 小泉純一郎首相とブッシュ大統領は、緊密で、親日的だ
 ったのに、アメリカは裏切った。
  日本も、必死に、イラク戦争に大金を出したり、郵政
 を民営化したりして、アメリカ企業を儲けさせていたの
 にである。
  また、特に、キッシンジャーは曲者で、注意を要する。
  『親中嫌日』の男なのだ。
  最近も、中国へ行った。
  日米基軸なんて、砂上の楼閣・・、アメリカは、どう
 でもよいとしている。
  調子の良い時は、基軸だとするが・・??
.
2006年秋、北朝鮮が核実験をした。
  反対を押し切った強行実験だった。
  この時、日本の中川昭一議員(自民党政調会長)は、
 「核を持たずに北朝鮮にどういう対抗措置をとれるのか、
 真剣に議論しよう」と言い・・また・・
  「憲法でも核保有は禁止されていないのだから、核の
 議論はあってしかるべきだ」・・と言った。
  この時、アメリカのライス国務長官が、急遽、東京に
 飛んで来て・・、
  「あらゆる抑止力を使って、日本に対する安全保障を
 約束する」と明言し・・そして・・帰った。
  このあらゆる抑止力を使って日本の安全保障・守ると
 いうその手段の中に、
  アメリカが、核戦争を実行するということについて、
 種々の見方がある・・
  懐疑的に・・、アメリカが、核戦争を、自国ではなく
 日本を守るために、「核戦争を始める訳はない」という
 見方である。
  この見方は、ハンティントンや、キッシンジャーや、
 ターナー元CIA長官らが、明確に・・
  「アメリカは、同盟国のために核戦争などやらない」
 と言う。
  アメリカ国務省のボブ・バーネットも・・、
  「アメリカが、日本を守るために核戦争するなんて、
 そんな事は絶対にありえない。
  アメリカは、単に、同盟国をだましているだけ・・」
 ・・と。
  中川議員に端を発した「日本の核議論」に、何故、ア
 メリカの国務長官が、すっ飛んで来たのか? また、「
 安心しろ」と言ったのか?
  「日本が、これを端緒にして、核を持つに至ることの
 ないようにと言うことが、ただ、それだけが・・すっ飛
 んで来る重要使命だった、重要任務だった」。
  ここに、「日本にだけは・・核を持たせるな」の、「
 米中密約の存在」を強く裏付けられる・・公然の存在の
 密約が・・、
  「日本の『核の傘の保障』は、その様なもの」。
  東北の東日本大震災、この時、各国の救援隊が駆け付
 けて戴いた。
  しかし、原発事故が発生し、本当に厳しい状況になっ
 た時、各国救援隊は居なくなった。
  最後まで任務を果たして戴いたのは、自衛隊の方々だ
 けだった。
  夜、その日の任務が終わって、宿舎に帰った隊員の方
 たちは、昼の任務中に見た悲惨な状況に、涙ぐんでいた
 という、泣いていたという。
  この最終的な・・奥の・・そして・・次のステージに
 臨んだ際に、どの様な行動がとれるのか?・・である。
  アメリカは、この中川議員発言の後、日本へ、陰で・・
 相当な圧力を掛けていると・・みられる。
  この類の話をすることが、「アメリカが怖くで出来な
 くなっている」という話が・・頻(しき)りになされる。
  アメリカは、結局、北朝鮮を、「テロ支援国家」から
 外した。
.
2013年3月16日、アメリカが、やっと、特許の先願主義へ移
 行した。
  アメリカは卑怯だった・・ずるかった・・先発明主義
 を、長い間、金科玉条にした・・
  「先発明主義」と聞くと・・かっこよく聞こえるが・・??
  発明をしたとしても・・、
  その行為が・・発明をしている行為であっても・・
  その発明があったとしても、その発明者が・・「発明
 をしたのだ」と気が付かなければ・・認識しなければ、
 当然のこととして、発明したことにはならない・・、
  当たり前である・・たまたま、同じことをやっただけ
 ではないか・・
  この様に説明しても・・アメリカは分かろうとしなか
 った。
  この論理をアメリカは、ズーッと理解できなかった・・
 理解できないとして来た・・卑劣である。
  立派に、発明したと認識したのなら・・願書に書いて・・
 発明したと・・公(おおやけ)に公表せよ!・・届出よ!
  この論理を、アメリカは無視してきた・・長い、長い
 期間を・・まったく、卑怯な、卑劣なアメリカだった・・
  偶然に、無意識に、『大発明と同じことをしていただ
 けではないか?』という指摘には答える事の出来ないア
 メリカだった。
  ネットにはアメリカを庇った言い方もあるが、無理筋
 の説明である。
  公(おおやけ)に発明したと主張できないのは、発明
 したと認識してないからだ・・これは、断定できる真実
 なのだ。
  しかし、アメリカは、汚い事に、先発明主義という特
 許法を、長い期間、取って・・
  そして、アメリカは、先に発明したのだからと、先願
 主義の特許を奪って来た。
  それも・・ただ・・似たようなことをやっただけなの
 に・・である・・
  先願主義で特許を・・発明したと認識し、その理由を
 はっきり理論立てて説明し・・書いた願書を、そして、
 その願書を・・特許庁へ提出しているという行動を起こ
 している発明を、アメリカは奪った。
  たまたま、ノートに・・自分の「発明ノート」に書い
 てあるという類(たぐい)ではない・・
  「だから、発明しているのだよ」と明確に発明を立証
 している、願書で説明し、主張している人の特許を、ア
 メリカは、それ以前に、アメリカ人の某が、先に発明し
 ていたよと、先願主義で先に主張していた人の特許を、
 アメリカは奪っていた。
  また、卑劣な事に、こんな事を主張しているのはアメ
 リカだけで、どこの国も、こんな筋の通らないことを言
 っていなかった(皆、先願主義の国)・・
  言うのはアメリカだけ・・先発明主義をとっていたの
 はアメリカだけ!!
  また、だから、この様な不正義な、犯罪的な言い掛か
 りで特許を奪っていたのはアメリカだけ・・だった。
  世界中から、「おかしいではないか?」という声を、
 アメリカは無視して来た。
  しかし、この先願主義の『正義の言い分』がやっと通
 って、2013年になって、やっと、この日に、アメリカは
 先願主義に移行した。
  日本の素晴らしい特許も、この被害を、大分、受けて、
 特許を奪われ、大発明が奪われ・・日本の国益・・大き
 な国益の損失をきたして来ていた。
  優秀な日本は、こんな形でも、アメリカに貢がされて
 来ていた。
  アメリカの従属国=日本の残念な姿だった。
  アメリカは、こんな事を、まだまだ、やっている・・
.
2015年12月10日、この日の(読売新聞、2015・12・10)の
 週刊新潮の広告に、「舟と遺体が次々漂着!北朝鮮で何
 が起こっているのか」・・とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年04月13日

(増補版)518E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)

題:*(増補版)518E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年9月20日、フランスより、初めて輪転印刷機が輸入
 された(東京着)
  1890年、印刷局と朝日新聞社が、マリノニ輪転印刷機
 を輸入した。
  翌年・1891年、東京朝日新聞社が、民間で日本初の輪
 転印刷を開始した。
  印刷能力はそれまでの約20倍と、大幅に向上した。
  (別史料)マリノニが製造した輪転機が、日本に輸入
 されたのは1890年であり、
  帝国議会の開設に合わせて官報印刷用に導入した内閣
 官報局と、朝日新聞社に導入された。
  このマリノニ輪転機は、8ページ建ての新聞を1時間に
 3万部印刷することが可能であり、従前の旧型機の20倍に
 相当する効率であった]。
  その後、20世紀に入ると、マリノニ輪転機を参考に製
 造された国産の輪転機が普及するようになり、「マリノ
 ニ型輪転機」などと称され、ほぼ半世紀にわたって日本
 の新聞印刷機の主流となった。
  (別史料)マリノニ型印刷機の日本への到来は・・、
  (1)1890年、マリノニ社から巻取活版輪転機4台購
 入。(毎時4頁新聞15,000枚)、印刷局2台、東京朝日
 新聞1台。日本新聞1台。
  (2)『大蔵省印刷局百年史』:高橋局長は、このマリ
 ノニ式印刷機二台を製造させ、1890年9月20日に帰朝した
 が、これがわが国における輪転印刷機の初め。
  (3)『朝日新聞社史』:1890年9月27日、東朝が、わ
 が国新聞界最初のマリノニ輪転機設置を社告、11月22日、
 大朝も社告。
  (4)共同印刷株式会社『共同印刷90年史』:マリノニ
 社活版輪転機、1890年9月、フランスから輸入。
  当時の大蔵省印刷局、東京朝日新聞社、日本新聞社に
 設置。
.
  (今日の言葉)
.
  題:かつて、多くの日本の大発明は・・奪われ、そして、潰された・・
    そして、今も・・か・・?
.
1908年、「この年に、アメリカで、黒人大暴動が起きた」
 と・・この事が、歴史的事実だとして、書籍に書かれて
 いるが・・また、教科書にも書かれているが・・まった
 く違う。
  これは、白人の、そして、キリスト教徒のプロパガン
 ダ(嘘宣伝)だ。
  人種がからむ、この様な、歴史的事実は・・まったく・・
 これの逆なのだ・・アメリカは、特に、この様な悪行為
 をする国となっているから・・卑劣だ。
  『白人の悪行為が、カモフラージュされている』。
  『黒人の方々が、悪者にされている』。
  この様な事が、よくなされるから・・なおさら、ひど
 い人種差別が感じられる・・
  この事件は、白人が、黒人の方々へ、ひどい暴挙を働
 いていた・・これが隠されている・・『まったく隠され
 る』という人種偏見行為の、数多くあるサンプルとなっ
 ている。
  さんざんやって来た白人の悪行為の次ぎに、やむを得
 ず起きた事件がが「歴史的な事件だとした嘘が・・記さ
 れている」。
  アメリカの白人の悪さが・・隠されている。
  事件が起きた場所は、アメリカのイリノイ州のスプリ
 ングフィールド。
  黒人の方々は、「いつも、虐げられていた」。
  あまりの酷さの中にあったが、この時は違った。
  黒人の方々は、ファイトバック(抵抗行動)をした。
  黒人の方々は、今までの卑劣な白人たちの虐げに、こ
 の時は、激しい抵抗を試みた。
  アメリカの白人たち(WASP、白人・アングロサク
 ソン・キリスト教プロテスタント、)は、それでなくて
 も、黒人の方々を「殺したり」「リンチをしたり」「人
 権を無視し、人権を奪う行為をしたり」していた。
  あるジャーナリストが、この卑劣さを公正に伝えた。
  そして、黒人の方々の当然の権利の「政治的公正さ」
 「市民的自由の保障」をすべきだと記した。
  この事などは、当然なことなのだが・・、
 非民主主義の国・アメリカは、『黒人の方々への民主主
 義は除外した』。
  最低レベルのアメリカには、この事実を書く必要があ
 るという「レベル程度の低いアメリカ」だった(今もで
 ある・・)。
  この非民主主義的行為・非人道的行為を、アメリカは、
 恥じよ!
  奴隷制度で、あれほど虐げたのに、まだ、こんな事を
 やっている。
  黒人の方々は、これを契機に、『全米黒人地位向上協
 会』を結成した(1909年2月12日)・・
  ウィリアム・E・ウォーリングのメディア活動があっ
 た。
  歴史的記述をみる時、白人の見方や、キリスト教の見
 方で、事実が逆転しているから注意をする必要がある。
  この場合も、白人の「黒人の方々への暴挙」がなされ
 たから起きたのであって、
  何もないのに、急に、黒人の方々が大暴動を起こした
 のではない。
  アメリカが、ハワイで、日本の潜水艦を5隻も、アメリ
 カが先に日本の潜水艦を攻撃して沈没させていながら、
 アメリカの発した言葉は、『日本が先に攻撃した、奇襲
 した』という『まったくの嘘の言葉』だという始末だか
 ら注意を要する。
  電信などなど完全に傍受し、日本の連合艦隊の動きを
 完全に知っていた・・「『奇襲だ』なんていう嘘が良く
 言えたものだ」の状態だった・・また・・、
  ルーズベルト大統領は『明日、日本が攻めて来るよ』
 と口を滑らせたくらいだった。
.
1920年、カリフォルニア州で、新たな排日土地法が成立し
 た。
  (1913年の土地法は、「日本人移民」の土地所有を禁
 止するものだったが・・、
  今度のこの法律では、「日本人移民の子供=いわゆる
 二世」までもが、土地所有を禁じられることになった)
.
1924年、「絶対的排日移民法」が成立した。
  この法律が破廉恥なことは、これまでの排日法が州法
 であったが、この法律は「連邦法」で、アメリカは、国
 家として、日本からの移民を排斥することにした。
  この当時のアメリカ大統領は、「遺憾に思う」と表明
 した。
  アメリカ大統領は、この法律に反対だった。
  昭和天皇陛下も『失望』を表明されている。
  何しろ、何が悪いと言ったって、『人種』として日本
 が嫌いだという、理由ではない理由で、国としてアメリ
 カは日本を排斥した。
  まったく軽蔑すべき人種差別、人種蔑視の行為をした。
  これが、第二次世界大戦への、戦争への遠因の一つと
 なった。
.
1943年2月、アメリカの極東専門家の第一人者のラティモア
 が、「アジアにおける解決」を発表し、
  その中で、天皇陛下とその一族の『中国監禁』を主張
 した。
  また、ラティモアが、時々、執筆した左翼系アジア専
 門誌「アメラジア」は、天皇陛下の戦争犯罪説をキャン
 ペーンした。
  このラティモア・オーエンは、アメリカのアジア研究
 家であるが、子供のころ、父親と共に中国に渡り、12歳
 までの幼少期は中国で育った。
  1941年、蒋介石の特別顧問となり
  1943年~1944年には、アメリカの戦時情報局(OWI)
 の極東部主任となり、戦後の対日政策をまとめた「アジ
 アにおける解釈」をまとめ、天皇陛下とその一族は中国
 へ送還せよと主張した。
  1950年に、ラティモア・オーエンンは、ジョセフ・マ
 ッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップだ」と
 告発された。
  そして、下院非米活動委員会などの喚問を受け、職を
 去った。
.
2016年4月1日、日本のノーベル賞受賞者が、最近でこそ、
 毎年、受賞者のある状況となっているが・・、
  過去に於いて、いく人もの『日本人の大発明』が、ア
 メリカに奪われ、また、アメリカに潰されたことか・・、
  その隠れた日本人の大発明家は、偉業を表彰され、そ
 の功績を讃えられ、労をねぎらわれる行為すらなされて
 いない。
  埋もれてしまっている・・悲しむべき大発明家たち・・、
  白人・キリスト教徒のノーベル賞委員会は、お手盛り
 でやっている・・この日本の隠れた大発明家の方々を、
 当然の如く無視している。
  そこで・・アメリカが絡(から)んでいるSTAP細
 胞の件であるが、果たして、STAP細胞は大発明だっ
 たのだろうか?
  この日の日付で、上田眞実氏の文がある・・それが、
 以下である・・、
  表題:STAP現象、理研で再現されていたことが発覚…
    若山教授、不当に実験成果物を大量持ち出し
  文=上田眞実/ジャーナリスト
  http://biz-journal.jp/2016/04/post_14498.html
  1月に発売された小保方晴子氏(32歳)の告白本『あの
 日』(講談社)は、3月に入ってすぐ5刷りされ、販売26
 万部を超えるベストセラーとなっている。
  講談社担当者は、「読者からは多数の共感と応援を頂
 いております」といい、これからも売れ行きは伸びるも
 よう。
  本書をめぐっては、賛否両論が渦巻いているが、重要
 な点は、本書の内容が本当なのかどうかという点であろ
 う。
  そこで、本稿では、小保方氏が所属していた理化学研
 究所が開示した書類等を参照しながら、時系列で検証し
 てみたい。
  2014年3月10日、小保方氏の共同研究者であった若山照
 彦博士(山梨大学教授)が論文を撤回し、STAP細胞問題
 が表面化した。
  同年・2014年12月25日に公表された「研究論文に関す
 る不正調査委員会」(委員長・桂勳氏)の「研究論文に
 関する調査報告」(P.13)では、
  STAP細胞の研究成果は、「ES細胞の混入である可能性
 が高い」とされている。
  また、理研は、2015年3月20日に、「運営・改革モニタ
 リング委員会による評価について」のP.85で、STAP細胞
 論文は「ほぼ事実ではなかった」と宣言しており、
  STAP細胞は、その存在を完全に否定されたかに見える。
  しかし、STAP細胞が発表された直後、若山氏は、2014
 年4月17日付「日経Bizアカデミー」記事『「その時マウ
 スは緑色に光った!」若山教授が語った幻のSTAP細胞誕
 生秘話』内で、STAP細胞実験の成功秘話を克明に語って
 いるのだ。
  これには、多くの疑問の声が上がっている。
  さらに、アメリカの研究者グループが、STAP現象と同
 じ実験結果から多能性細胞をつくることに成功している。
  実は、STAP細胞論文への疑惑が取り沙汰された後に、
 理研が行った再現実験で、『STAP現象は確認されており』、
 それは『あの日』(P.220)にも書かれている。
.
2016年5月20日、また、キリスト教に偏し、アメリカになび
 くNHKの動きに、以下の事がある・・
  STAP問題、小保方氏犯人説を否定する検察判断…嘘広
 めたNHKと告発者の責任問われる
  2016年05月20日 06:13、Business Journal
  http://biz-journal.jp/2016/05/post_15165.html
  STAP細胞をめぐる問題で、理化学研究所の研究室から
 何者かが、ES細胞を盗んだ疑いがあるとして、2015年5月
 14日、元理研研究者である石川智久氏が、刑事告発して
 いた。
  しかし、1年あまりの捜査の結果、今月18日、神戸地方
 検察庁は「窃盗事件の発生自体が疑わしく、犯罪の嫌疑
 が不十分だ」として不起訴にした。
  地方検察庁が、「窃盗事件の発生自体が疑わしい」と
 いう声明を出すのは異例だが、この騒動は一体なんだっ
 たのだろうか。
  告発者の石川氏は、当時メディアに対して次のように
 発言していた。
  「私の調査から、小保方晴子氏が、若山照彦教授の研
 究室(以下、若山研)からES細胞を盗み出したと確信し
 た。
  (告発しなければ)さもないと日本の科学の信頼は地
 に落ちたままである」
  さらに石川氏は、独自に入手したという小保方氏の研
 究室(以下、小保方研)のフリーザーに残されていたサ
 ンプルボックス(細胞サンプルが入った容器)の写真を
 マスコミに提供し、
  そこにあるES細胞が動かぬ証拠だと主張していた。
  しかし、その後、ジャーナリスト上田眞実氏の調査に
 より、このサンプルボックスは、若山研が理研から引っ
 越す際にそのまま残していった、いわゆるジャンク細胞
 (使い道のない細胞)であったことがわかった。
  理研では、細胞などの試料を外部へ移動させる際には、
 MTA(試料提供契約)を必ず提出しなければならないこと
 になっている。
  だが、上田氏の取材で、証拠として示したサンプルボ
 ックスに関しては、若山研からMTAが出されていなかった
 ことが明らかになった。
  さらに、理研に対し若山研から盗難届も出されていな
 かったことも判明した。
  理研関係者に取材したところ、若山研に限らず、研究
 室が引っ越しする際に使わない試料をそのまま置いてい
 くことが多かったという。
  残されたジャンク細胞の処分問題に理研も苦慮してい
 た。
  小保方研にあったサンプルボックスも、そのひとつだ
 ったのだ。
  このサンプルボックスは、若山研が、2013年に、理研
 から山梨大学へ引っ越す際に残したものだが、その時点
 では、STAP細胞の主要な実験は終わっており、英科学誌
 「ネイチャー」向けの論文作成が佳境に入っている時期
 だった。
  石川氏の主張が正しいなら、小保方氏は、実験終了後
 にES細胞を盗み、過去にタイムトラベルをしてES細胞を
 混入させたSTAP細胞を若山氏に渡したことになる。
  このような非現実的な主張を、当時のマスコミは裏も
 取らずに大々的に取り上げ、小保方氏をES細胞窃盗犯の
 ように報道していた。
  つくられた小保方氏犯人説
  さらにこの告発には伏線があった。
  2014年7月27日に放送されたテレビ番組、『NHKスペシ
 ャル 調査報告 STAP細胞 不正の深層』である。
  同番組内では、若山研にいた留学生と名乗る人物(後
 に、Chong Li博士と判明)が登場し、小保方氏の研究室
 にあったサンプルボックスについて次のように証言して
 いた。
  「びっくりしました。
  保存しているのは全部ES細胞ですので、なぜか、STAP
 細胞に関係があるところに見つかったのは本当にびっく
 りしましたね。
  (小保方氏に)それを直接私が渡したことはないです」
 (Li博士)
  この発言を受けて、番組では次のようなナレーション
 を流していた。
  「なぜ、このES細胞が、小保方氏の研究室が使う冷凍
 庫から見つかったのか、私たちは、小保方氏にこうした
 疑問に答えてほしいと考えている」
  Li博士に対しては、石川氏も取材したといい、Li博士
 は、「(若山研では、続きの実験が計画されていたので、
 実験を)山梨大で続けるつもりだったが、ES細胞を紛失
 したことで、それを断念した」と語ったと証言している
 (「フライデー」<講談社/15年2月6日号>より)。
  そもそも、Li博士のES細胞は、STAP研究とはまったく
 関係のない種類のES細胞であることは、石川氏の告発状
 が出される時点で判明していた。
  それにもかかわらず、『NHKスペシャル』と同様に石川
 氏は、あたかも、Li博士のES細胞がSTAP研究に混入され
 たとされるES細胞と同一であるかのような告発状を作成
 し、マスコミに配布していた。
  石川氏の告発内容が、のちに虚偽であったことが判明
 したが、マスコミは、その告発状の論旨をベースに国民
 をミスリードさせていった。
  また、若山研では、ES細胞を紛失したため、実験が続
 けられなくなったと報道されたにもかかわらず、若山研
 から理研に対し紛失届が出されていない。
  本当に必要なサンプルだったのならば、実験を断念せ
 ず、理研に紛失届を出すのが自然だろう。
  それを出さずに、マスコミに「盗まれたかもしれない」
 とリークする目的はなんだったのだろうか。
  NHKや毎日新聞がそうであったように、石川氏も、若山
 研を情報源とするものが多いが、何か理由があるのだろ
 うか。
  同番組放送後、世間は、一気に「小保方氏犯人説」に
 傾いていく。
  その影響は、今なお色濃く残っている。
  NHKは、十分な取材をしたと主張しているが、なぜ、
 MTAを確認するという基本的な裏取りをせずに、このよう
 ないい加減な放送をしたのか疑問である。
  同番組は、昨年8月からBPO(放送倫理・番組向上機構)
 の審理に入っている。
  今年4月26日、BPO臨時委員会が行われ小保方氏からヒ
 アリングを行っている。
  同日出席するはずだったNHK番組関係者は、熊本地震の
 取材を理由に全員欠席した。
  NHKスペシャル、そして、石川氏による刑事告発によっ
 て、小保方氏の名誉は著しく毀損した。
  一人の研究者であり、ひとりの人間である小保方氏の
 人生を破壊しかねないこの事案に対して、今後、どのよ
 うな責任を取るのだろうか。
  そして、野次馬のように小保方犯人説に便乗し、個人
 攻撃を徹底的に続けてきた無数の人物に問いたい。
  「あなたは、あなたの無神経な批判の刃の先に倒れた
 ひとりの人間の人生を想像することができるのか」と。
  (文=大宅健一郎/ジャーナリスト)
.
2017年02月21日、そして、今年になって、やっと、その陰
 の陰謀的行為をしたNHKが糾弾される。
  STAP細胞を発明したかもしれないという・・
  大発明家かもしれないという小保方晴子氏を扱ったN
 HKスペシャルが、「人権侵害をしている」とBPOか
 ら判断された。
  その記事が・・以下である。
  表題:小保方氏のNスペでBPO「人権侵害あり」勧告 
     委員の主観で判断できるのか
  2017年02月21日 11:30dot.
  https://dot.asahi.com/aera/2017022000088.html
  会見するBPO放送人権委員会の坂井眞委員長。
  BPOは、放送倫理や放送による人権侵害などを検証
 する、民間の放送局やNHKが設立した第三者機関。
  人権侵害に基づく勧告は、BPOの判断としては最も
 重い=2月10日、東京都千代田区 (c)朝日新聞社
  疑義のあるSTAP細胞の報道をめぐり、BPOは「人権侵害
 あり」の勧告をした。
  委員の主観に頼らざるを得ない判断が、調査報道の萎
 縮につながりはしないか。
  放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会は、
 2月10日、小保方晴子氏に対する名誉毀損による人権侵害
 があったとして、再発防止を求める勧告をした。
  この勧告は、発表資料だけに頼らない報道の今後の在
 り方を問うものだ。
  問題の番組は、2014年7月27日放送のSTAPスペシャル
 「調査報告 STAP細胞 不正の深層」。
  放送の半年前に、作製が容易な新しい万能細胞として
 大々的に発表されたSTAP細胞をめぐる調査報道だ。
  何が問題となったのか・・、
  名誉毀損の判断は、「一般視聴者がどう受けとったか」
 を基準とする。
  委員会は、番組前半の「STAP細胞は存在するのか?」
 から、視聴者は次の四つを「事実」ととらえたと判断し
 た。
(1)STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高い。
(2)細胞の解析によれば、小保方氏のつくったSTAP細胞は
  精子が緑色に光る遺伝子が入ったアクロシンGFPマウス
  に由来するES細胞である可能性がある。
(3)STAP細胞は、元留学生がつくり、小保方氏の冷凍庫に
  保管されていたES細胞に由来する可能性がある。
(4)小保方氏には、元留学生のES細胞を不正な方法で入手
  し、混入してSTAP細胞をつくった疑惑がある。
  番組で示されたこれらの事柄(摘示事実)が、小保方
 氏の社会的評価を下げたことは明らかだ。
  だが、公共性・公益性の認められる調査報道では、真
 実(真実性)か、真実と信じる相当の理由がある(相当
 性)ならば、名誉毀損にはならないとされる。
  委員会は(1)と(2)には真実性があるが、(3)では
 認められないとした。
  (3)で示された元留学生のES細胞は(2)のアクロシ
 ンGFPの入ったES細胞ではなく、そうだと見なせる相当性
 もないからだ。
  (3)が認められない以上、前提となる(4)にも真実
 性・相当性はないとし、名誉毀損による人権侵害があっ
 たと結論づけた。
  2人は「人権侵害なし」
  ただし、9人の委員のうち2人は意見が異なる。
  奧武則委員は、アクロシンGFPの入ったES細胞と元留学
 生のES細胞のエピソードは別の話として視聴者は見るだ
 ろうとし、(4)にも相当性があるので「人権侵害があっ
 たとまでは言えない」。
  もう一人の市川正司委員も、「名誉毀損があったとは
 考えない」が、奧委員とは理由が違う。
  小保方氏の冷凍庫にあった複数のES細胞のうち、どれ
 かがSTAP細胞の正体となった疑いがあるとの考えには相
 当性があり、名誉毀損とはいえないとした。
  ただし、複数のES細胞の中で、元留学生のものに焦点
 を当てたことには相当性がなく、不正確で勇み足だと断
 じた。
  つまり、小保方氏の冷凍庫内の複数のES細胞を全て映
 していれば、問題はなかったという判断だ。
  このパートについて、坂井眞委員長は、「取材が不十
 分だったのではなく、編集上の問題。
  アクロシンGFPのES細胞の話と元留学生のES細胞の話を
 分けて示せばよかった」と話す。
  だが、小保方氏の冷凍庫に、元留学生のES細胞があっ
 た点は真実性がある。
  元留学生の証言から、これを、小保方氏が不正に入手
 した疑惑には相当性がある。
  これが、アクロシンES細胞ではないことが明示された
 としても、視聴者は結びつけてしまうのではないだろう
 か。
  坂井委員長は、「その表現を見てからでないと判断で
 きない」と話す。
  小保方氏の冷凍庫には、ほかにも複数のES細胞があり、
 そのうちの一つが、STAP細胞の正体だったことがのちに
 わかっている。
  市川委員の意見のように、これらを全て映していれば、
 元留学生のES細胞は、入手方法の不明さを示すあくまで
 一例となり、問題にはならなかったのか。
  ここの線引きもよくわからない。
  「一般視聴者がどうとらえたか」は、委員の主観的な
 判断に頼らざるを得ない。
  委員会は、調査報道が萎縮することがあってはならな
 いと強調したが、主観に左右される「一般視聴者のとら
 え方」を相手に、どこまで疑惑に踏み込んだ報道ができ
 るのかには疑問が残る。
  (科学ライター・詫摩雅子)
  ※AERA 2017年2月27日号
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

  


2017年04月11日

(増補版)517E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)

題:(増補版)517E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年~20世紀初頭、アメリカは、1862年の奴隷解放の反
 動の中にあり、黒人の方々を、再び、虐(しいた)げ始
 めた。
  アメリカの「この人種差別のDNAは、なかなか抜け
 ない」。
  アメリカは、良い子になっている。
 アメリカと言っても、その底には「北部の・・」という
 意識が根強くある・・その様なアメリカなのである。
  南部と北部が戦った南北戦争の意識が、今・現代でも、
 その根底に残り・・そして、流れている。
  戦勝した北部は、あからさまに口には出さないが、「
 戦勝した北部という意識」で、南部に対する優越の意識
 下の中にある。
  北部軍の最高位に居る「リンカーン大統領は、記念堂
 に飾られ、奉られている」。
  何で、リンカーンだけなのだ・・??
  その様なアメリカであるが、キリスト教の宗教観から、
 有色人種への蔑視感が強い。
  この蔑視観は、「アメリカの南北の差別観」より強く
 存在し、このキリスト教が根付かせた黒人の方々への差
 別観は、今なおぬぐえぬ『アメリカの大汚点』としてあ
 る。
  この差別観・蔑視観は、アメリカ北部にもあり、また、
 南部もあり、その差はなくアメリカに存在する。
  それなのに、アメリカ北部は、黒人の解放は、アメリ
 カ北部の理念で、「アメリカ北部が成し遂げた」と言う
 が(その逆に、アメリカ南部の方々を、そして、その地
 方を悪者にしている)、
  だから、その象徴としてリンカーン大統領を「祭り上
 げている」が・・?
  これは、アメリカのイニシアチブをとるアメリカ北部
 のプロパガンダ(嘘宣伝)である。
  アメリカ北部は、何ら黒人の方々を積極的に解放しよ
 うという行動なんかとっていない。
  リンカーン大統領にしたって、黒人の方々への差別観
 は酷(ひど)いものだった。
  アメリカ北部が行なう、プロパガンダ(嘘宣伝)で、
 その事実・真実は隠され、大きく捻じ曲げられているが、
 リンカーンは、黒人の方々を棄てたいとまで考え、そし
 て、実行した大統領だった。
  だから・・実際、アフリカのリベリアへ「黒人の方々
 を棄てた」、棄民した。
  1890年、アメリカ北部の独占資本家と、アメリカ南部
 の大農園経営者のプランターは、手を握って、連合勢力
 を作って、黒人の方々を虐(しいた)げた。
  それは、協同して黒人の方々を、都合よく処理したい
 という卑劣な考えのためだった。
  黒人の方々の地位をより低くとどめたいと、そして、
 奴隷解放以前の状況を作ろうとするものだった。
  黒人の方々の運動を押しつぶすのだった。
  黒人の方々への支配力を強くしたいという行為だった。
  そうする事によってよって、多くの利潤を搾出(さく
 しゅつ、しぼりだす)しようとした。
  そして、1890年~20世紀初頭にかけて、黒人の方々の
 選挙権を剥奪した。
  憲法に触れることを回避する方法が取られるという「
 卑劣なやり方」だった。
  その様な法律を作った。
  選挙権の事実上の剥奪である。
  「読み書きテスト」をして、字の掛けない黒人の方々
 や、字の読めない黒人の方々の選挙権を剥奪(はくだつ)
 した。
  その様な事を理由として、黒人の方々へ、選挙権を与
 えなかった。
  また、「人頭税」という法律を作って、その税金を払
 えない黒人の方々への選挙権をはく奪した。
  こんな国家=アメリカ合衆国が、民主主義の国家だな
 んて言えるはずがない。
  この根本には、キリスト教による「有色人種への蔑視
 観」があった。
  そのキリスト教の教義に洗脳された者たちの悪行為だ
 った。
  キリスト教のヒエラルキー・・序列の支配する宗教=
 キリスト教は、その序列観から、何から何までの差別観
 を与えた。
  白人を・・黒人の方々や・・有色人種の・・序列を上
 とした。
  この様な差別観を与えるという・・程度の悪い宗教=
 キリスト教だった。
  ここから、有色人種の大量殺戮が生まれ、戦争が生ま
 れて行った。
1890年9月11日、川上音二郎が、東京で初の壮士芝居を行っ
 た。
  この年・1890年、、大阪俄(にわか)を改良した「書
 生仁輪加(にわか)」の一座を組織して横浜、東京で公
 演した。
  翌・1891年に、堺の卯の日座に「書生芝居」の一座を
 旗揚げし、
  同年・1891年、東京・浅草鳥越の中村座に「板垣君遭
 難実記」やオッペケペ節を演じて喝采をあびた。
  河上音二郎(かわかみおとじろう)は、1878年(14歳)
 のとき、故郷を出奔し、自由民権運動に身を投じ、自由
 党壮士となった。
  浮世亭〇〇(まるまる)と名のって自由民権論を鼓吹す
 る。
  闘争をする中で、講釈師、寄席芸人になったり、「書
 生にわか」を試みたりした。
  1891年、堺で川上書生芝居(新派劇の前身)を旗揚げ、
 地方巡演ののち『板垣君遭難実記』で東京公演に成功。
  その年・1891年、貞奴 (→川上貞奴 ) と結婚。
  『意外』『又意外』などホットニュースの上演や、日
 清戦争をあてこんだ戦争劇の連続上演で新演劇の基礎を
 確立、
  1895年に、歌舞伎座に進出するまでになった。
   世相を風刺した「オッペケペー節」は大流行し、
  1900年のパリ万博など欧米公演でも喝采を浴びた。
  1903年~1906年、正劇と称して、シェークスピアの『
 オセロ』など西欧戯曲の翻案物を上演し、西洋演劇を日
 本に紹介し、明治新演劇運動の先駆者となった。
  4度にわたる渡欧で海外巡演もし、川上座、大阪帝国座
 など劇場を建設したり、妻と帝国女優養成所を開いたり、
 時代の機をみるに敏で、事業欲に富む波乱の一生で、
  1911年、舞台で倒れ、47歳で亡くなった。
1890年9月15日、愛国公党、自由党などが統合して立憲自由
 党が結成された(8月25日説あり)
  大同団結運動において、東京・芝に、板垣退助、河野
 広中、大井憲太郎らが参集した。
  そして、旧自由党系の愛国公党・再興自由党・大同倶
 楽部の3派に、主導する立場の九州同志会を加え、そして、
  第1回総選挙後のこの日・1890年9月15日に結成された。
  「皇室尊栄」「民権拡張」「内政簡略」「対等条約」
 「政党内閣実現」・・を、掲げた。
  党首をおかず、党指導部は、幹事5名で構成された。
  第1議会では、改進党と民党連合を形成した。
  そして、予算案をめぐって藩閥政府と対決したが、い
 わゆる、土佐派の裏切りによって、民党側は敗北を喫し
 た。
  党の統制は乱れた。
  このため 、1891年の党大会で・・、総理1名をおくこ
 と、役員は総理の指名とすることなど・・、組織改革を
 断行した。
  総理に、板垣退助が選出された。
  党名も、立憲の2文字を削り、自由党と改称した。
  これまでの動きをは・・、
  三大事件建白運動の高揚した3年前の1887年10月・・、
 後藤象二郎(しょうじろう)は、丁亥倶楽部(ていがいくら
 ぶ)を設立し・・大同団結運動を提唱した。
  運動は、その直後の保安条例の発布によって、一時停
 滞したが、
  1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の際の大赦令によ
 って、
  福島事件・大阪事件関係の河野広中(こうのひろなか)、
 大井憲太郎(けんたろう)らが出獄し・・盛り上がった。
  しかし、同年・1889年3月の後藤の逓信(ていしん)大臣
 の入閣を機に、運動は、河野らの政社派と、大井らの非
 政社派に分裂した。
  1889年5月、政社派は大同倶楽部、非政社派は大同協和
 会を結成した。
  板垣退助(たいすけ)は、第1回総選挙を目前にして両派
 の合同を策したが実らず。
  大同協和会は、翌年・1890年1月、同会を解散して自由
 党を再興結党した。
  板垣も、1890年5月、愛国公党を組織した。
  しかし、この間、次第に、合同の気運が生まれ、
  1890年6月、自由党、大同倶楽部、愛国公党は連合し、
 庚寅(こういん)倶楽部を結成した。
  1890年7月の総選挙での民権派の圧勝を受け、
  1890年8月、三派はそれぞれ正式に解散した。
  そして、さらに、九州連合同志会も解散して、これに
 加わり、立憲自由党が結成された。
1890年9月16日、エルトゥールル号遭難事件
  木造フリゲート艦のオスマン帝国軍艦が、台風によっ
 て、和歌山県串本沖で遭難した。
  この日の夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトル
 コ)の軍艦・エルトゥールル号が、
  現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東
 方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した。
  この事件は、1887年に行われた日本の皇族・小松宮彰
 仁親王の御夫妻のイスタンブール御訪問に応えることを
 目的に、
  オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて、日本へ派遣さ
 れることになったオスマントルコ帝国の使節団が来日し
 た折に起きた。
  この使節団は、1890年6月7日に横浜に入港し、
  1890年6月13日に、皇帝親書を、明治天皇陛下へ奉呈し、
 天皇陛下に拝謁した後に、帰国の途に就いたが、
  和歌山県串本町沖で、同号は、台風に遭い、座礁し、
 沈没した。
  この遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、明治天皇
 陛下へ伝えられ、言上された。
  天皇陛下は、可能な限りの援助を行なうよう指示し、
 また、直ちに、医者、看護婦の派遣をなされた。
  乗員650名の内、残念なことに581名が亡くなった。
  串本町大島の住人の方々は、台風の嵐の中、総出で必
 死の救助にあたって、69名を救出したのだった。
  そして、救出された生存者の方々を、樫野の寺や学校、
 そして、灯台に収容し、介抱に当った。
  助かった方々も、58名が負傷していて、内38名が重傷
 という大惨事だった。
  住民の方々は、食糧の貯えもわずかだったにもかかわ
 らず、タマゴやサツマイモ、それに非常用のニワトリす
 ら供出するなどして、献身的に、生存者の方々の救護に
 努めた。
  また、浴衣などの衣類も供出し救護に努めた。
  この遭難を、各新聞は、衝撃的なニュースとして伝え、
 これを知った日本の方々からも。義援金・弔慰金が、多
 数、寄せられた。
  その後、エルトゥールル号の乗組員は、神戸で順調に
 回復し、
  その後、日本海軍の巡洋艦・比叡と金剛で、トルコま
 で丁重に送り、
  1891年1月2日、オスマン帝国の首都・イスタンブール
 へと送り届けた。
  因みに、この送還した船に、秋山真之(あきやまさね
 ゆき)が乗船し、従事している。
  この報は、新聞を通じて、大島村民による救助活動や、
 日本政府の尽力が伝えられ、
  当時、トルコの方々は、遠い異国である日本と日本人
 に対して、その誠意に感謝して戴いた。
  そして、この遭難で亡くなられたトルコの方々を悼ん
 で、大きな碑「エルトゥールル号殉難将士慰霊碑」が、
 和歌山県串本町に建立された。
  現在、和歌山県串本町とトルコのヤカケント町、メル
 スィン市は、姉妹都市となっていて、この慰霊碑の他に
 もトルコ記念館も建っていて、
  町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごと
 に行われている。
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  (今日の言葉)
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  題:アラモの砦は最初から砦のつもりで造った・・
    日本は国力が出来てやっと独り立ちしたが、だが、
   列強に「がめつくしゃぶられた」。
    アメリカに卑劣な私刑が・・そして、私の殺人集団が横行する
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1836年2月23日、アラモの戦い、(~3月6日)
  アメリカのテキサス州は、アメリカがメキシコから奪
 った領土である。
  今のアメリカのテキサス州は、メキシコの「コアウイ
 ラ・イ・テハス州」だった。
  この地の奪い取りのために、アメリカは、アラバマ州、
 サウスカロライナ州、ノースカロライナ州、ルイジアナ
 州、ミシシッピ州、テネシー州、バージニア州などから
 兵を募って奪い取った。
  「アラモの戦い」は、この時の戦い。
  事の始まりは・・
  領土の欲しいアメリカは、初めは、調子よかった
  アメリカは、メキシコに言った・・、
  「メキシコさん、大変でしょうからテキサスを開拓し
 て差し上げましょうか?」・・と・・、
  「入植して差し上げましょうか?」・・と・・、
  メキシコの偉いところは、当時、メキシコは、「奴隷
 制をすでに禁止していた」・・、
  (アメリカの奴隷解放は、1862年だから、この年から
 まだ30年くらい経たないと、アメリカは奴隷を解放しな
 い))・・
  それ故、アメリカの様な奴隷制での開拓は、メキシコ
 は行わなかった・・、
  その様な経過で入って来たアメリカの入植者たち・・、
  トランプさんが嫌がる「移民である・・これが、その
 うちメキシコの土地を奪ってしまうのである」・・、
  やっぱり・・これきっかけとして、メキシコの領土が
 奪われて「テキサスとなってしまう地」に、アメリカの
 開拓民が入って来た。
  それも・・メキシコが、「奴隷を連れて来ては駄目だ
 よ」と言っているのに・・、アメリカは、奴隷にした人々
 まで連れて来て・・、
  アメリカからの人間の数を増やした・・移民を増やし
 た。
  そのうち・・、テキサスのメキシコ人が1万人の所に、
 アメリカからの人間が・・3万人となった頃に・・、
  アメリカ人たちは・・(元アメリカ人というのか??)
 「我々は独立します」・・と言った。
  アメリカは、最初からこの予定だった・・(国は前面
 に出ていないが・・後ろに隠れているが・・)
  そして、「アラモの砦」まで築いて、メキシコの土地
 を取ってしまった。
  この砦だって・・最初は、キリスト教会だよと・・言
 っていた・・最初から・・砦にする予定だったのだろう。
  今、アメリカの地で。「ニュー」と名前の付くところ
 は、ほとんどが、この様な卑劣なやり方で・・アメリカ
 が、奪った土地・・
  『ニューメキシコ』とか、『ニュージャージー』とか・・
 とか・・、
  アメリカの卑劣な所は・・この様なことを・・アメリ
 カの歴史を、学校で教えない・・
  だから・・「アメリカ人は、この様な事は知らない」・・
 卑劣な事である・・
  アメリカは、戦争をしてまでして「民主主義を教える
 のだ」と言って戦争をするが・・
  先ず、自国の子供たちに「この様な道徳」を教えよ・・
  「嘘ついて、他国の土地を奪っては駄目だ」と教えよ・・
  そして、正しい自国の歴史を教えよ・・
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1894年、日清戦争の始まる直前に、日英通商航海条約が調
 印された。
  差別の条約・・不平等の条約が、改正されたのである。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も・・治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという卑劣なアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカが、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から40年の月日が経っていた。
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1894年、朝鮮南部で、農民暴動が起きた。
  「甲午(こうご)農民暴動」と呼ばれた。
  農民の暴動の原因は、「腐敗した役人の追放要求」と、
 「外国人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせにより出兵した。
  結果、日清両国の衝突が起きた。
  このぶつかり合いが、拡大して行き、日清戦争の原因
 となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点は、
 陸戦でも海戦でも、清国を圧倒した。
  日本は、「新兵器を装備していた」、
  また、「軍隊の訓練・規律に優っていた」、
  「日本人全体の意識が、国民として一つにまとまって
 いた」。
  ちなみに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する
 ときには、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという
 条約を結んでいた。
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1895年、下関条約が結ばれた、そして、出る杭は打たれる
 となって行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからって、アメリカやヨー
 ロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」とい
 う利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思って、「清は、朝鮮の独立を認
 める」という条項を約させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという形にした。
  アメリカだって、『アラスカを、金出して領有しただ
 ろう』・・それと同じ。
  日本は・・奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという『
 大金を、清へ支払った』・・忘れないでくれ!
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪っていたが、『日本は、その様な事はしなかった』。
  賠償金3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本に、清は敗けた。
  清が、日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロ
 ッパ諸国が、えげつなく、俺も俺もと「がつがつと食い
 はじめ」、清は餌食となった。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも、日本の立場は、まだ、アメリカ・
 ヨーロッパ列強の諸国から・・軽んじられていた。
  何と! 戦勝国の日本に、清国から得ていた遼東半島
 の返還の圧力がかかって来た。
  三国干渉が起きた。
  ドイツとフランスを誘ってロシアが、日本へ圧力をか
 けて来た。
  その強力な軍事力をちらつかせた。
  やることは『町のあんちゃん』の様なやり方である。
  日本は、清と一対一で対決した。
  武士の世界である。
  卑怯なグル(悪事を企てる仲間)に「つるむ」ような
 ことはしない。
  しかし、東アジアが欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉を日本にした。
  日本は、やむを得ず、遼東半島を清へ渡した。
  清は、一定額を日本へ返還した、当然である。
  そして、これから・・列強諸国は、清を蝕(むしば)
 む様な事をして行く。
  ロシアの領土欲は・・強烈だった。
  朝鮮も危なくなっていく。
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に転換し、拡大
 していく。
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1895年の後、三国干渉
  日本が、日清戦争に勝って、下関条約を結ぶと、列強
 各国は黙っていなかった。
  必死に努力して国を富ませ、米欧に追い着けとやって
 きた日本。
  種々の事情から日清戦争となったが、
  この間まで、アジアの遅れた小国・日本が、
  この様な事態になると、
  東アジアで美味しい汁を吸いたい列強諸国は・・黙っ
 ていなかった。
  強力な軍事力で、日本を脅しながら、
  また、卑怯な事にグルとなって、日本へ「いちゃもん
 を付けてきた」。
  ロシア・ドイツ・フランスの三国だった(三国干渉)。「
  「遼東半島まで清国から得る」のはおかしいじゃない
 か?という言い分だった。
  「清国へ返しなさい」と言った。
  アメリカを含めて、弱い者に対して、好きに言いたい
 事を言う国々いだった。
  有色人種の日本が、『白人のマネはするな』の気持ち
 だった。
  大いにキリスト教の「有色人種蔑視」のマインド・コ
 ントロールがあった。
  アメリカは、今・現在も、「日本の皇室の皇統につい
 て」無礼な内政干渉している。
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1947年、アメリカで、リンチ禁止法が制定された。
  リンチは、私刑(しけい)であり、
  国家ないし公権力の法と刑罰権に関係なく、
  個人、または、特定集団により行われる私的な制裁で
 ある。
  アメリカは、まったく遅れている、この法が、やっと、
 1947年になって制定された。
  リンチによって、アフリカ系アメリカ人の何人が殺さ
 れたというのか、まったく、憤りに堪えない。
  今でも、KKK(クー・クラックス・クラン)という
 黒人の方々をターゲットとして殺す『白人組織』がアメ
 リカにはある
  また、奴隷にされた黒人の方々が、素行が悪いとか、
 共同体の規範を乱(みだ)すとかの言い掛かりで、虫け
 らの様に殺された。
  この法律の出来る背景に、1946年に、黒人の方々に対
 するリンチが多発するアメリカだった。
  あまりの酷さに・・アメリカ大統領は、調査を目的に、
 公民権委員会を任命したのだった。
  アフリカ系アメリカ人を、「二級市民」だと差別する
 実態などが・・「公的に認知されるという、おぞましさ
 だった」。
  (参考)おぞましい:接する状態に恐怖・嫌悪を覚え、
    そこから逃れたい、嫌な感情の状態。
  また、この頃、ソ連との冷戦で、アフリカ・アジアで、
 共産主義政策を採用するの発展途上国が急増していた。
  オランダやフランスやイギリスは、日本に解放された
 アジアの植民地諸国を奪い返す為に、軍隊を派遣し、酷
 い事に数百万人の独立派を弾圧した。
  第二次世界大戦で、散々、酷(むご)い戦争をしてき
 たのにである。
  日本兵の多くも、アジアの国々の独立を勝ち取ろうと、
 独立を助けようと・・日本へ帰国せずに残った。
  アメリカ大統領のトルーマンは、ソ連と情報戦に負け
 ない情報機関を作りたいと・・OSSを中心に諜報機関
を統合して、『CIA』を創設した。
  情報戦は、「人間不信であるの原則」から、二重スパ
 イを警戒した。
  それ故、CIAの暴走を監視する為に、「FBI」、
 「陸・海・空軍における別個の諜報機関」など・・「数
 多くの組織」を設置して敵対させた。
  現在、NSC(国家安産保障会議)には、15の情報機
 関のトップが出席している。
  CIAの情報収集担当者は、5,000人以上も居て、その
 下に事務員を含めて30,000人前後の専用職員がいる。
  そして、世界中の工作員を含めれば、50,000人以上と
 なっている。
  そして、機密費を含め、莫大な予算が組まれている。
  敵の機密情報を得る為には、相手を味方に引き込む事
 が最善の方法として、マネー(M)と、イデオロギー(
 I)と、コンプロマイズ(C、強制的服従)と、エゴ(
 E、欲)を最大限に利用している。
  諜報工作員の大原則は、日本人が最も嫌う、家族・友
 人・同僚までも疑う「人間不信」で、
  国家機密情報を守る為には、他人はおろか家族友人で
 も殺害する「冷血な非情さ」で・・、
  その様な様相からか・・? 日本の政治家は、情報機
 関はおろか諜報機関も作らない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive