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北国の暖かい方たちとともに

2019年01月21日

(増補版)629E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年10月~1895年10月)

題:(増補版)629E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年10月~1895年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年10月15日、東京の大丸呉服店で、大売出しが行われ
 た(10月19日説あり)
  大丸呉服店は東京駅の上にあり、これは日本初の大売
 り出しだった(冬物のバーゲン)
.
1895年10月16日、房総鉄道会社が、建設区間を大網駅~一
 ノ宮駅間、大網駅~成東駅間、千葉駅~蘇我駅間として
 出願した。
.
1895年10月17日、大阪鉄道の玉造駅~梅田駅間が開通した。
  先に開通していた天王寺駅~玉造駅間に続いてこの玉
 造駅~梅田駅間が開通して大阪鉄道城東線が形成された。
.
1895年10月20日、山陽鉄道会社線の京都駅~広島駅間に直
 通旅客列車が運転された。
  山陽鉄道という国鉄山陽本線の前身にあたる私有鉄道
 会社が山陽線を造っていく。
  1886年、兵庫県の石田寛之助、小西新左衛門や灘の酒
   造業者が、神戸駅~姫路駅間の鉄道建設を計画した。
   そして、児島湾干拓の藤田伝三郎らの16人で願書を
   出した。
    明治政府は、これを政治・軍事上の幹線として下
   関までの延長を指導して許可した。
  1888年、三菱の岩崎久弥らの三菱系と、大阪資本から
   なる山陽鉄道(株)が発足した
   そして、また、この年1888年、兵庫駅~姫路駅間が
   開通した。
  1890年船坂トンネルが、、難工事で工事が遅れ・・
  1891年3月、三石駅~岡山駅間が開通し・・、
  1891年9月、岡山駅~福山駅間が開通し・・、
  1891年11月、福山駅~尾道駅間が開通し・・、
  1894年6月、広島までが開通した。
   2軸横扉の客車と荷物車の混成7両列車が1日15本、
   昼間だけの単線運行を行った。
  岡山県内ルートでは、西大寺、玉島の港町などで鉄道
 通過反対運動があり、やむなくこれらの市街地をはずし、
 北よりのルートに鉄道を敷設した。
  結果的に西大寺や玉島は時代の波から取り残されて行
 った。
  広島まで開通の直後に日清戦争があり、山陽鉄道は重
 要な役割を果たした。
  1894年、全国最初の急行列車(神戸駅~広島駅間8時
   間56分)を走らせた。
   炭水車つきテンダー機関車を導入して、列車編成お
   よび走行距離を大きくした。
  1895年10月20日、山陽鉄道会社線の京都駅~広島駅間
   に直通旅客列車が運転し、(1897年説あり)
  1898年、車内電灯がつけられ、
  1899年、官営鉄道に先駆けて食堂車増結などのサービ
   スが行われた。
   これは、阪神駅~岡山駅~高松駅間の航路、および、
   官営鉄道に対抗する競争だった。
  1901年、下関までの全線が開通した。
  1905年、営業キロ数は565キロメートルとなり、輸送旅
   客数が、年間1246万人となった。
  日清戦争後の不況で、私鉄の経営難が生じた。
  この時、山陽鉄道は、讃岐鉄道など2社を合併した。
  そして、さらに、四国連絡航路を設け、宇野線建設計
 画も立てた・・が・・
  1906年、「鉄道国有法」が制定され、国に買収され、
   国営鉄道となった。
.
1895年10月21日、乙未戦争が集結した。
  清国の外交的な動きの中で生まれていた台湾の不穏な
 動きが終結した。
  終結している日清の戦争状態の再発を恐れた李鴻章も
 平穏化を望んでいた。
  6月2日は、清国側との台湾授受手続きも完了させてい
 た。
  不穏な動きにあった一部の清国人の割譲阻止活動は失
 敗していた。
  しかし、この日に、その組織的活動は終わった。
  劉永福が中国に逃亡し、台南、安平が平穏化した。
  (参考)劉永福:りゅうえいふく、1837年、中国広東
     生まれの中国軍人。
      貧農出身で、1867年、ベトナムに入り、農民
     を主体とする黒旗軍を編成し、トンキンに入り
     フランスと、10数年間、戦った。
      台湾での騒動の前歴の持ち主。
      清国政府から台湾へ派遣されていた。
      この様な働きをした劉永福だったが、1885年、
     ベトナムから帰国しても清国政府から冷遇され
     た。
.
1895年10月21日、奥羽北線の弘前駅~碇ヶ関駅間が開通し
 た。
.
1895年10月22日、パリ・モンパルナス駅で列車がブレーキ
 故障のため減速しないまま駅に進入し、車止めを乗り越
 えて駅舎を突き破るという事故が起きた。
  この事故は、鉄道史に刻まれる衝撃的な事故と言われ
 ている。
  機関車は車止めを乗り越えた後、駅舎を突き破り、先
 端が約10m下のレンヌ広場の路面電車停留所に落下した。
  駅前で新聞を売っていた女性が駅舎の破片に当たり死
 亡した。
  また、乗客2名、消防士1名、鉄道員2名の計5名が重傷
 を負った。
  事故の際に連結器が外れたため、客車はすべて駅内部
 にとどまっていた。
  事故現場を撮影した写真の2枚が、衝撃的な写真として
 世界に公開された。
  ロックバンド・Mr.Bigは、1991年に発表したアルバム
 『リーン・イントゥ・イット』のジャケットにこの写真
 を使用した。
.
1895年10月26日、広州蜂起(恵州事件)
  孫文らの興中会が、広東省恵州で反清の武装蜂起を起
 こした。
  失敗に終わる。
  広東省出身で、貧しい農家の次男として生まれた(1866
 年)孫文は、初め医者であったが、革命を志し革命運動
 に入る・・略歴は以下・・
  1887年(21歳)~1892年(26歳)香港の西医書院に在
   学中に革命を志す・・
  1892年(26歳)マカオ、広州で開業し、同時に、反清
   運動に入る・・
  1894年(28歳)ハワイへ出稼ぎで成功した長兄の所へ
   行く・・
   帰国後、広州・香港で医学を学び、開業したが、秘
   密結社・興中会を華僑や会党と組織・・
  1895年(29歳)10月、最初の蜂起である、興中会が広
   州で蜂起する・・清朝打倒、民主主義国家樹立を目
   指す(共産国家ではない)・・失敗し日本へ亡命へ・・
  1897年(31歳)アメリカを経て日本へ
   宮崎滔天(みやざきとうてん)らと交わり、康有為(こ
   うゆうい)らとの提携や、フィリピン独立援助を試み
   たが、ともに、失敗・・
  1900年(34歳)恵州蜂起
   宮崎滔天(とうてん、熊本県の人、1897年に、来日中
   の孫文と知り合う)らの援助を受け恵州で挙兵・・
   失敗
  1905年(39歳)東京で中国革命同盟会を結成し、三民
   主義を主唱し、綱領とした。
  1906年(40歳)東京で開催された「民報」記念会で五
   権憲法を初めて公表する・・後に、国民党などの憲
   法の基礎となる。
  1911年(45歳)10月10日、武昌蜂起を切っ掛けに、中
   国各地で革命派が蜂起した(辛亥革命)
   この時、アメリカにいた孫文は、辛亥革命の勃発を
   知り、軍資金の募集をしていた。
  1912年1月(46歳)南京に孫文を大総統とする臨時政府
   が樹立された。
  1912年2月(46歳)清帝が退位し、中華民国が成立した。
   しかし、まもなく清朝軍閥の袁世凱が大総統に就任
   した(孫文は、袁世凱に譲った)
   しかし、その独裁化に抗して第二革命を開始・・
   袁一派・軍閥派に反対し、広東を地盤に臨時政府を
   組織し、また、三民主義の実現に努力し国民党の基
   礎を固めた・・
   しかし、失敗し日本に亡命・・
  1914年(48歳)中華革命党を組織した。
  1915年(49歳)日本に亡命中、宋慶齢と結婚。
  1917年(51歳)広東政府を樹立。
  1919年(53歳)中華革命党を中国国民党と改組。
  1924年(58歳)第一次国共合作を実現し総理に就任し
   た。
  1925年3月12日、北京で病死する。60歳。
  中国革命の象徴、国父として敬愛され続けている。
.
  (今日の言葉)
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  題:漢民族は強制的な民族大移動をした。
    手強い民族には、民族の総べての全部を、他へ移住させ「洗国」した。
    強いものは奥地へ追いやった。
    近世になっても、毛沢東が、盛んにやった。
    沖縄や北海道の人たちが、この様にならない様に・・
.
1368年、中国に明が建国された。
  朱元璋(しゅげんしょう)は中国・明朝の初代皇帝。
  1328年、元朝末期に安徽省(あんきしょう)に貧民の
 子として生まれた。
  20歳代に起きた農民反乱の紅巾の乱に参加し、頭角を
 現した。
  自らの軍閥を率いて、1356年に、南京を占領し、南方
 の雄として勢力を拡大する。
  1368年に、皇帝を名のり(洪武帝・こうぶてい)、明
 王朝をひらいた。
  その後、北の元王朝をモンゴルに退け、中国をほぼ統
 一した。
  晩年は、建国の功臣たちの主要な部下とその一族への
 粛正を繰り返した・・大量の犠牲者を生む。
  1398年、死去した。
  16世紀後半に入ると、豊臣秀吉の朝鮮出兵への対応な
 どで戦争出費がかさんだうえに、朝廷内の政治闘争が続
 き、さらには、増税も行われたことで、明国内で立て続
 けに反乱が起こった。
  そして・・
  1644年に、明は滅んだ。
  朱元璋が生まれた安徽省は、黄河と長江との間にあり、
 淮河(わいが)が流れている・・
  そして、この地域は洪水もあり干ばつもあり、「10年
 に9年は凶作」という貧しい地帯だった。
  どん底の貧農の生活が当たり前という地域の4男とし
 て生まれた。
  1344年には、飢饉と疫病が猛威をふるう不幸の年とな
 った。
  この時、朱元璋は両親と兄を亡くした・・ペストだっ
 た・・
  生き残った兄弟とも離散のバラバラとなった。
  この時のことを記した石碑には・・、
  「我が身には技能もなく、天を仰いで呆然とするばか
 り、己の影のみを道連れに、朝もやを突いて出かければ
 暮れれば古寺に投ずるあてどなき流浪の日々・・
  3年の浮雲の生活を経て年は20歳余りとなった。
  ときに淮河流域の盗賊が蜂起し、民は不安を増した」。
  この民衆の蜂起は、紅巾(こうきん)の乱という大き
 な動きとなり、モンゴルの元朝を弱体化させた。
  朱元璋は、この紅巾賊の一勢力を率いて、頭角を現し
 た。
  朱元璋と共闘する武将の多くが、無学の土豪たちの武
 闘集団だった。
  この様な野武士たちの棟梁から脱皮する朱元璋は、儒
 教の素養を持つ知識人を登用した。
  ただ武を振り回すだけでは駄目な事を朱元璋へ言う賢
 者も居た。
  戦いに勝って領土を得て行って、おごり高ぶる武将も
 居たが・・、
  朱元璋は、武だけ大事が成し遂げられなという事も知
 っていた。
  朱元璋は、武を誇る武将たちを諌め、略奪した婦女を
 捜し出し、家に送り返させることまでした。
  この頃の中国は、武を誇り、群雄が割拠し・・
  婦女を手に入れ、宝石や絹織物など民衆の物を奪うこ
 とに血道をあげる輩たちの時代だった。
  だから、朱元璋のやることは、ひときわ輝いていた。
  民衆から、「民衆を救う武将」として噂となった。
  戦いでも、降伏者が出て来て、攻防が少なく済んだ。
  朱元璋は、群雄を制圧して、1368年、明を建国した。
  首都を南京にして、年号を洪武とした。
  16年前は、ただの乞食の僧だった朱元璋が、洪武帝の
 皇帝となった。
  この年・1368年、大都(現:北京)を占領する・・
  そして、元朝のモンゴルをモンゴル高原に駆逐した。
  農民を保護をしたりして、配慮したりして、種々の改
 革をし、社会秩序を回復させていった。
  しかし、力を得て行くにつれ、組織統制が成り立って
 行くにつれ、洪武帝は、側近集団が気になる様になって
 行った。
  かつては、ともに苦労して戦った同輩の武将たちが、
 皇帝の座を狙うのではということが気になりだした。
  武将だけではなく、教養のある学者たちが、成りあが
 りの洪武帝を、心の底では蔑視しているのではと思い始
 めた。
  洪武帝は、猜疑心の塊となって行った。
  やがて、功臣たちが次々を粛清され、恐怖政治が生ま
 れた。
  晩年の漢民族の洪武帝は「孤独だった」。
  今、現在、漢民族の共産中国政権は、チベット民族、
 ウイグル民族、内モンゴル民族などに、洪武帝と同じよ
 うな事をしている。
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1895年5月26日、李氏朝鮮の行政区画の改編、道、県、都護
 府を廃止して、観察府と郡にした。
  それまでの朝鮮八道制を廃し、全国を23の府と337の郡
 に再編した。
  従来の府、大都護府、牧、都護府、県といった下部行
 政区画の名称を廃して「郡」に一本化・・府の長官は観
 察使、郡の長官は郡守とした。
.
1910年代、中国のキリスト教会の自立は進展を見せたもの
 の、アメリカの目論見通りにはいかなかった。
  アメリカは、中国に、数千万元の金を使って、数千人
 のキリスト教宣教師を送って、中国をキリスト教化しよ
 うとした。
  戦後、日本をキリスト教化しようとしたアメリカは、
 中国でもやっていた。
  そして、数千のキリスト教会を、中国の支郡各地に造
 った。
  そして、蒋介石が、キリスト教の信者になったという
 が・・、
  彼が、信者になったのは「アメリカの歓心を買うため」
 ということが分かっている。
  1918年、外国人宣教師の全体に占める割合・・アメリ
 カから派遣されたが、このアメリカの宣教師の比率は60
 %に達した。
  しかし、1922年から、学生を中心に、非キリスト教運
 動が展開されて行った。
  資本主義国家の「経済侵略の前衛部隊だ」として厳し
 く批判された。
  1924年、「キリスト教系学校の教育権」を返還させる
 運動が始まり、より一層の非キリスト教運動が激しくな
 った。
  外国による中国に対する「文化侵略だ」として中国国
 民は受け取った。
  1925年の5・30事件によって、キリスト教界とその教
 育事業への批判が激化した。
  北伐が始まるとキリスト教会事業への破壊運動も始ま
 った・・それは破壊活動と共に掠奪行為も伴った。
  蒋介石政権の国民政府も国権回復運動を展開した。
  第二次世界大戦後、中華人民共和国を樹立した中国共
 産党は、国内に外国の勢力の影響を受けた宗教団体の存
 在を否定した。
  キリスト教は、政府主導で三自愛国教会を組織した。
  そして、外国人聖職者を中国国内から退去させた。
  ヒラリー・クリントンは、「中国に宗教が無い。この
 国は、半世紀後に最貧国になる」と言った。
.
1930年代、中国のプロパガンダに踊らされたアメリカ・・
  2019年の今・現代は、世界は、中国のプロパガンダに
 気付き、今・現在、中国がズーッとやって来たプロパガ
 ンダ手法が効かなくなっているが・・
  それは、近年の情報技術の進展にある・・
  中国のプロパガンダは、すぐに「嘘だ」と見破られて
 しまう現代になっている。
  今までの日本は、この中国のプロパガンダの打撃の大
 きさに気付かずに来た。
  戦前においても、この様な事が大いに仕組まれ、起き
 ていた。
  例えば・・、
  1930年代について、ジョン・アントワープ・マクマリ
 ーは、本「平和はいかにして失われていったか・・大戦
 前の米中日関係、もう一つの選択」の中で言っている。
  「日本が、アジアを戦争に投げ込むドラマの悪役であ
 る」と、アメリカに信じさせていた・・しかし・・、
  1930年代の日本の政策は、一方的な侵略とか、軍国主
 義のウイルスに侵された結果などではなかった。
  それより、それに先立つ時期のアメリカを含む(中国
 などの)諸国の行為がもたらしていた・・と指摘した。
  そして、アメリカは、(中国のプロパガンダで騙され
 て)中国を優先し、正当な理由なく、日本を退けた・・
 と・・アメリカとイギリスの政策の非を指摘した。
  しかし、この1930年代の当時、このマクマリーの明晰
 な分析は、まったく受け入れられなかった。
  種々の史実を知ることができる現代・・、
  このマクマリーの指摘は、まったく正しいと分かる。
  しかし、1921年のワシントン軍縮会議は、アメリカが、
 あからさまに中国に肩入れを始めた会議でもあった・・
  この流れは変わらなかった。
  そんな事を知らない日本は、世界の平和を願って「日
 本、一国だけが、忠実にひたすら、このワシントン軍縮
 会議の条文を守った」。
  中国は、このワシントン体制を、馬鹿にし、無視し、
 知ってか知らずか、まったく自制する中国ではなかった。
  それを、はっきりと中国へ要請すべきアメリカやイギ
 リスの立場だった。
  特に、アメリカは、その様な行動をしなかった。
  逆に、アメリカのルーズベルトは、蒋介石の中国を引
 き立て、イギリスやロシアにも認めさせた。
  そして、中国を、世界のメンバーという立ち位置に置
 いた。
  そして、日本排斥の流れを作った。
  そして、アメリカは、中国の広西省に空軍基地さえ持
 った。
  そして、桂林や蘇州にも空軍基地を持とうとした。
  そして、日本を、その基地から隠密裏に爆撃さえしよ
 うとした。
  真珠湾のことを言えるアメリカではない。
  また、日本を騙して、アメリカ軍のフライング・タイ
 ガーが、真珠湾攻撃前に、日本を攻撃してさえした。
  アメリカが、日本を奇襲をしていた。
  中国以上の嘘つきのアメリカだった。
  さらに、「戦争を作った」と言ったアメリカのルーズ
 ベルトは、この中国を含めた「米、英、中国、ソ連」の
 4カ国の構想は、大戦争という馬鹿げた殺戮の道を進み、
 その大戦の後に、大いなる悲劇だけが残った。
  そして、アメリカが応援した中国の蒋介石・国民党は、
 現在、共産党中国の政権となってしまっている。
  そして、ルーズベルトが、そそのかしてやらせたソ連
 の侵略の結果、日本領の樺太・千島列島・北方四島も、
 「共産・ソ連」に奪われ・・、
  ロシアになっても奪われたままとなっている・・不法
 占拠が続けられている。
.
1950年代、この時の中国の対日プロパガンダ工作は、実に、
 激しく多彩を極めていた。
  日本学術会議は、中国に完全に飲み込まれた。
  これは、今・現代でも続いている。
  中国はしつこく洗脳して行く。
  日本学術会議のメンバーという優秀な人々でも、中国
 の洗脳にはまって行く。
.
2010年7月1日、中国の国防動員法が施行された。
  中国がやって来た「洗国」
  中国以外の国はした事が無いこの「洗国」は、中国は
 常にやって来た・・洗国の歴史だった。
  中国の南にある広東(かんとん)や広西(こうせい)
 などは、元々は苗(みゃお)族の地だった。
  苗族は、日本人に近い民族と言われていて、古代に日
 本に渡来した人たちではとも言われている。
  紀元前3世紀~紀元前4世紀、この中国の戦国時代に、
 苗族は、楚(そ)の支配下に入った。
  そして、秦の時代になると、苗族は、秦の企(くわだ)
 てにより、移民をを大々的にさせられた。
  そして、流民50万人を移して苗族を攻略した。
  そして、漢の時代になると、苗族は、揚子江の北岸に
 移させられた。
  そして、その後に、漢民族を入れて雑居させた。
  この様にして、漢族の地ではなかった中国の南方諸地
 域が、漢民族の地になって行った。
  これを「洗国」と言った。
  放牧をする民族は、従来から移動をするので、中国人
 は、「牧畜民族は容易に駆逐した」。
  しかし、農耕民族は、土着性が強いので前記したよう
 な非常手段をしょっちゅう用い、常套(じょうとう)し、
 民族大移動の様な整理を常套して行って駆逐した。
  苗族は、土着性の強い農耕民であった。
  漢民族は強制的な民族大移動をした。
  手強い民族には、民族の総べての全部を、他へ移住さ
 せ「洗国」した。
  強いものは奥地へ追いやった。
  近世になっても、毛沢東が、盛んにやった。
  満州民族は、あちこちの中国内に散らされ、虐殺され、
 今はどこに居るか不明状態。
  朝鮮民族は、カザフスタンへ住まわされた。
  韓国は、小学校で、満州地域に朝鮮人が多く居るので
 朝鮮の地だと教えているが・・今はクエスチョン・・、
  中国は、この様な事をやり続けている。
  今、日本に、大勢の中国人が、入って来ているが、こ
 の一端か?
  中国は、2010年7月1日から「国防動員法」を施行した。
  これは、日本などの中国以外にいる者にも、中国の指
 令で国防活動をしなければならないとなっている。
  日本やアメリカなどに居る中国人が、長野の事件の様
 に常に活動する事があるという状況になっている。
  長野の時は、中国の軍人的な者もいたという。
.
2016年1月29日、犯罪の多NHK・・NHKのさいたま放送
 局が・・「埼玉県警察の記者クラブに所属する記者3人が、
 1年余りに渡り、業務用タクシーチケットを友人との会食
 など私的な移動に使用していた」として・・、
  31歳の記者を諭旨免職(約36万円分)、
  23歳の記者を停職1ヶ月(約12万円分)、
  29歳の記者を出勤停止5日(6,850円分)としたほか、
 管理・監督責任のある放送局長や放送部副部長など、上
 司5人も3日から14日の出勤停止とした。
.
2016年5月4日、フジテレビの番組名「直撃LIVE]で、
 韓国で加湿器の殺菌剤で146人が死んだと放送した。
  そして、子供が多く死んでいるという。
  現認した放送時間:午後13時50分。
.
2018年12月26日、今、世界は不安定要素に満ちている・・
  そして、竹中平蔵、政権にゴマすりの政商となり、う
 まい汁を吸っている。
【桜便り】株安は戦争勃発への道程 / 政商・パソナ・竹中
     平蔵氏はこれでいいのか[桜H30/12/26]
    https://www.youtube.com/watch?v=YYmaL0H6BDs
  アメリカの経済はピークアウトした、最高値に行って
 しまった・・下がるしかない。
  アメリカは株安になって来る。
  経済恐慌の恐れもある。
  日本の消費税も実施しないという状況が生まれる可能
 性が大きい。
  アメリカのマチス国防長官が辞め、戦争が起きる可能
 性が増している。
  アフガンは息を吹き返して来る。
  サウジアラビアの王家を3分割しようという動きが暗
 躍している。
  サウジアラビアが不安定化している・・その様に仕向
 けられている。
  石油の値段も上昇するだろう。
  石油の値段が、安値安定していることが都合が悪いと
 いう流れになって来ている。
  ドイツ銀行は、底知れない負債を抱えている銀行。
  イギリスが、EUを離脱をするときにこの問題が噴出
 する。
  今、中国も株安で、これ等の影響をもろにさらに受け
 る。
  そして、朝鮮の韓国政権の不安定化リスクが高い。
  そして、韓国の後ろにいる中国が、韓国が問題化すれ
 ば震え上がる。
  中国・北朝鮮より、韓国が問題化の中心になる。
  そして、経済の見た目以上の不安定化が進んでいる。
  2019年には、動乱と呼ぶべきものが起きる可能性が高
 い。
  この様な荒れた世界の動きに、日本の自民党は適切に
 対応して行けるか?
  アメリカが助けてくれるという神話はもう止めよ!
  そして、竹中平蔵について・・
  大学教授だという表札ではなく、パソナの会長をして
 いる立場で私腹を肥やしている。
  本「日本が売られる」著者:堤未果氏。
  経済諮問会議で得た地位・情報などを私的に流用して
 いる。
  竹中氏は、パソナ会長として受注に優位な位置をつか
 って、政府からの発注を受けている。
  平成29年度を、ざっと言っても・・、
  厚生労働省から受注(2億8400万円)、同(1億8900万
 円)、同(500万円)、同(1900万円)、同(8830万円)、
 同(4870万円)、同(550万円)、同(250万円)、同
 (1億9000万円)、農水省(1600万円)、同(1500万円)、
 オリンピック関連(契約金非公開)、女性活躍(2億8000
 万円)、経産省(2億5000万円)、中企業支援(9億800万
 円)、経産省(1億7000万円)、同(4億7200万円)、同
 (3億4300万円)、などなどなど・・切りがないほど。
  竹中氏が委員をやって利益誘導している。
  この竹中は、アメリカ政府の言い分に立って「日本政
 府にものを言う」という(アメリカのゴマすり役)も
 している。
  戦後、GHQは、日本を監視するための人間(スパイ)
 を、大勢、日本に送り込んだ。
  GHQにゴマをすったものが大勢いた・・この様な人
 間が、日本のテレビ局を造った人として、今、君臨して
 いる。
  また、財団などに君臨して、戦後の利得者として存在
 している。
  高額所得者・大金持ちとして存在している・・
  これと同じことを竹中がやっている・・
  美味しい情報も、皆、自分のものとして利用している。
.
2018年12月28日、地に落ちた毛沢東
  一時は神格化された毛沢東が怪しくなっている・・
  この日の読売新聞に・・「毛沢東信奉、中国が警戒」
 との表題で記している・・
  以下はその抜粋・・
  中国建国の父、毛沢東の誕生から125年の26日、信奉者
 らによる自発的な記念活動が毛の故郷の湖南省韶山(し
 ょうざん)市などで行われた。
  香港紙・信報などは、記念活動の規模は例年より控え
 めだったと報じた。
  信奉者は貧富の差の拡大など現状に不満を持っている
 傾向が強い事から、当局が警戒感を強めているとみられ
 る。
  工場労働者らを支援する大学生らの組織によると、記
 念活動を企画していた北京大学マルクス主義学会会長の
 男子学生は26日午前に校門から車に押し込まれて連れ去
 られ、27日朝まで北京市の公安当局に拘束された。
  学生は全国の仲間に、北京で記念活動を行う事を呼び
 掛けていたが、大学当局は中止を求めていた。
  格差拡大を問題視し、マルクス主義や毛沢東思想を信
 奉する学生らの一部が今夏から、深圳の工場の労働争議
 で拘束された労働者らを支援する活動を行なっている。
  これに対し、学生と労働者が共闘する動きを警戒する
 当局は、関係する学生らを拘束するなど、締め付けを強
 めている。
  信報は、学生以外の信奉者らも、当局の圧力を受け、
 今年は大規模な誕生記念行事を行わなかったと報じた。
  (中略)
  習近平国家主席も毛を度々賞賛し、強権的手法を模倣
 しているとされる。
  ただ、習氏は毛信奉者を社会の安定を乱す存在と捉え、
 活動を制限したとみられる。
  (追伸)スパイ摘発などを担当している国家安全省の
     馬建・元次官は、逃亡先のアメリカで習近平政
     権を批判している実業家に便宜を図ったと認定
     され・・中国遼寧省の大連市中級人民法院は27
     日、収賄罪などで無期懲役の判決を下した。
      便宜を図ってもらったとする郭文貴氏は、ア
     メリカを拠点に、習近平政権の実力者、王岐山
     (おうきざん)国家副主席の不正疑惑を暴露し
     ている。
.
2019年1月13日、中国はハワイ攻撃を計画している。
  この日付けの読売新聞によると・・
  中国の新兵器の一つ「H(轟)20」。
  これは核兵器が搭載できる戦略爆撃機。
  アメリカ軍の拠点であるハワイを標的に開発された。
  西太平洋の覇権をアメリカから奪うのが目的。
  中国による「真珠湾攻撃が計画されている」。
  その為の核兵器の搭載できる戦略爆撃機が出来上がっ
 たという。
  この「H(轟)20」は、2019年10月1日に、北京で行わ
 れる予定の軍事パレードで公開される。
 これは最新鋭のステルス機。
.
2019年、日本の一般紙は、中国に進出した日本企業が、ど
 んなに悲惨な目に会っているかの報道を「タブー」とし
 て・・報道の一切をしない。
  絶対と言っていいほど報道しない。
  中国べったりのNHKも同様という状況。
  中国企業に貸した金が返済されない事が多発した。
  日本の銀行は困って、当然の行為である返済を求める
 が返済がされない。
  そのため取り戻そうと裁判を起こそうとしたら、「裁
 判を起こす事が禁止された」。
  中国のやることはこんなこと・・。、
  WTOに加盟している中国なら、この様な事は出来な
 いのだが、中国はお構いなしで、無視してこの様な事を
 した。
  しかし、日本の新聞やNHKは、この様なことを一切
 報道しない・・裏切りのメディアとなっている・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive  


2019年01月14日

(増補版)628E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年8月~1895年10月)

題:(増補版)628E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年8月~1895年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年8月25日、臨時台湾鉄道隊が設置された。
  台湾の鉄道輸送に携わった。
  それまでは、1891年10月に台北駅~基隆駅間の28.6キ
 ロメートルの鉄道しかなかった。
  それも、1日に1往復であった。
  そして、1893年10月、新竹駅まで延長され、総延長は
 約100キロメートルとなった。
  この後に、日本が台湾の鉄道を整備して行く。
  1899年には、総督府鉄道部官制が公布されて、本数も
 4往復へ増発された・・そして、鉄道敷設も本格化して行
 く。
  1908年4月、幹線となる元隆駅~高雄駅間404.2キロメ
 ートルの台湾縦貫鉄道が全通させた。
  この間、その他にも、台東線や、阿里山森林鉄路など
 を敷設し、台湾の近代化を進める大きな役割を持つ鉄道
 も敷設した。
  この後も、着々と台湾鉄道を整備し、充実して行った。
.
1895年8月、鳥居龍蔵が、東京人類学会の依頼で、満洲地方
 (遼東半島一帯)を約5ヶ月間滞在し、考古学的に調査
 した。
  鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)1870年4月4日~1953年
 1月14日、考古学者、人類学者。
  徳島市に生まれ、
  正規の学生ではかなったが、東京大学の坪井正五郎に
 師事し、人類学その他を学んだ・・
  東京帝国大学人類学教室の標本整理係となる。
  その後、東京大学助教授、国学院大学教授、上智大学
 教授などを歴任した。
  日本だけではなく、海外の諸民族を精力的に調査をし
 た・・周辺諸民族の実態調査の先駆者。
  その実態調査の地域は広範で、台湾、北千島、樺太、
 蒙古、満州、東シベリア、朝鮮、中国南西部など・・
  考古学的調査だけでなく民俗学的方面にも広く観察は
 及んだ・・民具の収集も行ない、物質文化研究の開拓者
 となった。
  因みに、中国語では、先住民は「今は存在しない」と
 いう意味がある・・存在するのなら「原住民」を用いる。
.
1895年8月、神田小川町にローラースケート場(車滑り場)、
 現れる。
  1877年頃、日本にローラースケートが紹介され・・
  1895年頃から普及し始めた。
.
1895年9月5日、奈良鉄道の七條(京都)駅~伏見駅間が開
 通した。
  奈良鉄道(ならてつどう)は、現在の奈良線全線、桜
 井線の過半などを建設、運営していた日本の私鉄で・・、
  伏見駅は、奈良鉄道の開業当社の南の終着駅として開
 設された。
.
1895年9月7日、三菱合資会社銀行部が設立された。
  第百十九国立銀行の業務を継承して設立された。
  そして、1919年に分離して独立の(株)三菱銀行が設立
 される。
  1880年、郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から分
 離独立した 三菱為換店 が始まり。
  この三菱為換店は、一度閉鎖されるが、間もなく第百
 十九国立銀行の経営を承継する。
.
1895年9月18日、住友銀行が設立された。
  この年に、住友吉左衛門によって個人経営の銀行とし
 て創業された。
  1875年、金融事業は並合業(自己資金による物品抵当
   の金融事業)として再開された。
   並合業は、年々業容を拡大していった。
  1890年、銀行条令が発布されたのを機に・・、
  1895年5月、広島県尾道市で行われた住友家の重役会議
   で本格的な銀行業への進出が決定した。
  1895年11月1日、住友本店銀行部として、住友吉左衛門
   の個人経営による資本金100万円の住友銀行(本店は
   大阪市中之島)が開業した。
.
1895年10月1日、野中至・千代子夫妻、気象予報の研究のた
 め、富士山頂で観測を開始する。
  野中到(のなかいたる)は、「天気予報が当たらない
 のは、高層気象観測所がないからだ」・・と考えた。
  天気は高い空から変わってくる。
  富士山の山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、
 気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。
  しかし、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建
 てることは国としては決定できない。
  誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をし、実証しな
 いかぎり、実現は不可能だと、常日頃、言っていた。
  1895年2月16日、富士山冬季初登頂を果たし、富士山頂
   での越冬が可能であることを確信した。
  1895年8月30日、富士山頂に私財を投じて日本最初の富
   士気象観測所を建設。
    測候用の小屋は、約6坪で、これを、剣ヶ峰 (富士
   山)に新設、中央気象台の技師らも合流した。
    剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多
   いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と
   語っている。
  1895年9月末、食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、
   閉山後の10月に再び登頂した・・薪炭や食料、観測
   機器を設置して・・、
  1895年10月1日、妻:千代子と共に気象観測を開始した。
   観測は2時間毎に行った。
  1895年10月12日、過酷な条件のもと夫妻は体調を崩す。
  1895年12月22日、越年観測を、病気で断念し下山・・、
  1896年1月12日、東京へ帰る・・、
  この当時、富士山より高いところにある観測所は南米
 のエル・ミスチー山とフランスのモンブラン山だったが、
 いずれも夏期しか観測していなかった。
  富士山での冬期観測は世界記録だった。
  この夫妻の記録の37年後の1932年、国際協同極地観測
 のため・・中央気象台は、富士山頂に測候所を設置した。
   そして、通年の観測を開始した。
  1932年8月、野中到は、65歳の高齢をもって、娘と息子
   を伴い山頂を極めた。
   かつて、共に死線をさまよった妻の千代子はすでに
   他界し、写真を抱いての登頂だった。
  そして・・
  1955年2月28日、野中到が没する(88歳)
  その10年後・・
  1965年、富士山山頂にレーダーが設置された。
   気象衛星が稼働し、南海上の台風観測に威力を発揮
   し始めた・・、
.
1895年10月6日、瀬木博尚が、広告業の博報堂を神田区鍋町
 (現:日本橋近く)に、創業者一人という体制で創業し
 た。
  博報堂の創立して広告業を始め、『太陽』などの雑誌
 広告で成功した。
  博報堂(はくほうどう)は、電通に次ぐ日本第2の広
 告会社。
  創業時から教育雑誌の広告取次店・雑誌広告取次所と
 してスタートし、電通より早く、日本の近代広告業の創
 成期から活動した。
.
1895年10月8日、乙未事変(いつみじへん)
  朝鮮王朝の状況は乱れていた・・
  日清戦争の結果の下関条約で、清の宋主権が否定され
 たが・・そして、朝鮮は、正式に独立を確定できたが、
 朝鮮李朝内での権力闘争は激しかった・・、
  今度はロシアがからんで来ていた・・
  ロシアは、フランス・ドイツを味方につけ、武力をち
 らつかせて、三国干渉を日本に認めさせた。
  この三国干渉により、日本の威信が落ちたことによっ
 て・・朝鮮王朝内の閔妃派はロシアに接近した、そして・・
  ロシアの工作と結んで、日本を排撃しようとした。
  ロシア軍の武力を利用し、閔妃派はクーデターを成功
 させた。
  このため、日本に好意的だった朝鮮李朝・大院君派と
 の軋轢が高じて行き・・また、クーデターということに
 なっていく・・
  ロシアと日本は、この様に乱れた朝鮮の・・閔妃派と
 大院君派との内紛に巻き込まれていた・・
  この事変は、事変と言われる様に異常な状況であった。
  朝鮮訓錬隊(日本の指導下で設立された朝鮮の軍隊)
 がからんだ・・また、朝鮮警務使(王城を守る警察)が
 からんだ・・そして、開化派(李氏朝鮮の政治グループ)
 がからみ・・そこに大院君派などが居た。
  そして、真霊君(ちるりょんぐん、実在した巫女)と
 いう占い的な者の言葉に心酔するということも影響した。
  この様な中に、日本官憲も動ごいてしまった。
  この様な勢力が、ソウルの朝鮮漢城・景福宮に乱入し、
 親露派(反日派)の中心と目された高宗の妃の閔妃を殺
 害するという事変が起きた。
  李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃は、
 大院君の貯めた国庫を浪費するなど不届きな行為もあっ
 て、また、閔妃の国政壟断(ろうだん、利益・権利を一
 人じめにする)に不満を持つ朝鮮人たちも多く居た。
  閔妃は、その様な人・禹範善(うぼむそん、朝鮮人武
 官)に暗殺されたのだった。
  また、この後の閔妃の死後にも、朝鮮王朝内は平穏に
 ならなかった・・親族や相手派を暗殺し合うなど対立し
 ていた興宣大院君(こうせんだいいんくん、李氏朝鮮の
 王族、高宗の実父)によって、大院君は弾劾され、平民
 に降格された。
  この時までにも、朝鮮は混乱に混乱を重ねていた・・
  1894年3月28日、閔氏政権によって、開化派の中心人物
 の金玉均(きんぎょくきん、日本に遊学し、福沢諭吉の
 指導を受け、そして、朝鮮を、日本の明治維新の様に発
 展させ、改革したいとしていた親日派)が、閔妃の刺客
 である洪鐘宇の回転式拳銃で暗殺されていた。
  また、1894年5月31日には、閔氏政権に不満をもつ農民
 が蜂起し、甲午農民戦争が勃発したりもした。
  農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政
 権は中国・清に軍の出動を要請し、事態は一層混乱して
 行く・・
  三国干渉の時は、日本が後退すると、その甲午改革に
 よって政権を追われていた閔妃とその一族は、ロシア公
 使のカール・イバノビッチ・ヴェーバーと、ロシア軍の
 力を借りて、クーデターを引き起こした・・そして、
  1895年7月6日、政権を奪った。
  このことが大原因で、朝鮮李朝内の対立を決定的な
 ものにしていた。
  これ等の素地の下にこの事変は起きていた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:それを阻止したのが日本だった・・日本は大きな戦争をした・・
    その戦いの後、アジア諸国は独立して行った。
    今、その諸国=ASEAN(東南アジア諸国連合)は、
   次の世界の繁栄の中心になろうとしている。
.
1591年閏3月21日、日本とベトナムの通交文書の最古と見な
 される文書が存在する・・今、九州国立博物館に所蔵さ
 れている。
  記載内容は・・、
  日本国王(豊臣秀吉とされる)が、牡象を好むとある。
  それを、日本の使者から聞いた阮氏が、一頭の牡象を
 日本へ送ろうとした・・しかし・・
  日本からの使者の船が小さく、象が乗せられなかった。
  やむなく、象牙などの別の贈り物を贈った・・と。
  日本とベトナムとは、この頃から友好関係にあった。
.
1602年と1728年、ベトナムから、ベトナム象が日本に運ば
 れた。
    ・
    ・
1881年、能楽社の設立
  能楽保護のため、「能楽社」が華族の方々を中心に組
 織された。
  一時衰退していた能・狂言の復興に尽くした。
  能界は、幕府や藩からの保護を受けて成り立っていた。
  それが、明治維新になって、存続の危機に立たされる
 こととなった。
  この時期に、多くの役者が廃業・転業を余儀なくされ、
 また、残念なことであるが多くの流儀が消滅した。
  しかし、維新直後の混乱が落ち着くと、宮中や旧大名
 に代表される華族の方々が、能・狂言の保護に向け動き
 出された。
  1878年には、能を好んだ英照皇太后のため、青山御所
 に能舞台が建てられた。
  ことに、岩倉具視は、欧米外遊の際、各国が芸術保護
 を厚く行っていることを実見した。
  1878年頃から、華族の方々による能・狂言の後援団体
 の設立に向けての動きが活発化していた。
  そして、計画が進んでいた組織は、発起人に加わって
 いた前田斉泰と世話人の重野安繹の発案によって「能楽
 社」として設立されることとなった。
  能楽社の名について・・
  「前田斉泰ノ意見ニテ、猿楽ノ名称字面穏当ナラサル
 ヲ以テ、能楽ト改称シ、因リテ能楽社ト名付ケ・・云々」
 とある。
  これが、現在の「能楽」という言葉の起こりとなった。
  (参考)前田斉泰:まえだなりやす、幕末の加賀(金
     沢)藩主。
  1881年4月16日、能舞台の落成を受けて「能楽社」が正
 式に設立された。
  発起人は、九条道孝、前田斉泰、池田茂政、藤堂高潔、
 坊城俊政、前田利鬯・・だった・・
  そして、この日、英照皇太后の行啓を仰いで、舞台開
 きが催された。
  宝生九郎が、「翁」「高砂」(ワキ・宝生新朔)を、
  観世清孝が、「田村」、
  梅若実が、「桜川」、
  金剛唯一が、「鞍馬天狗」、そして・・
  櫻間伴馬が、半能「加茂」を舞った。
  また、1881年4月17日には、華族の方々を対象に、
  そして、1881年4月18日には、一般への公開能が開かれ
 700人あまりの観客が集まった。
  当初のこの頃、この舞台は単に「能舞台」と称されて
 いたが・・、
  1881年6月、宝生九郎が出した新聞広告に「芝公園内
 楓山能楽堂」という語がある。
  1882年には、能楽社関係者の中でも「能楽堂」の称が
 用いられている。
  1882年頃からは、「芝能楽堂」ともなり・・
  後に、この呼称が一般的となった。
  ちなみに・・前田斉泰のエピソードに・・、
  1854年、アメリカからもたらされた「アッフル(りん
 ご)」が、加賀藩下屋敷(巣鴨近隣の板橋宿)にて栽培
 された。
  そして、この翌年・1855年、実をつけたために食用と
 され、近習ら藩士にも配られた。
  このことが、当時の加賀藩士の記録に残っていて・・、
  藩主の斉泰から、「小さな餅に塗って食べるように」
 と言われたという・・
  近習らはそのようにしていることから、ジャムにして
 食したものと言われている。
     ・
     ・
1945年8月10日、この日の午後8時、日本政府が、ポツダム
 宣言受諾を『連合軍に通知した』との短波放送を行った。
  1945年8月12日、午前0時頃、サンフランシスコ放送は、
 連合国の回答を放送した。
  この時に、日本の降伏の意思が確定していた。
  (完全にソ連の行為は違反行為・・日本領土侵略は成
 立しない)
  この情報は世界各地で受信していた。
  例えば、ラジオで情報を得たホーチミンは、日本の降
 伏を革命のチャンスとみた。
  ホーチミンは、フランス軍が、再度、進駐して来るよ
 り前に自国領のベトナムに実権を確立しようと計画を始
 めた。
.
1945年、戦後の日本の女性の方々は、これからの日本の復
 興の必要性を肌で感じた。
  女性の方々の鋭い直感で感じたのだった・・
  日本のこの今の危機を救うという・・
  そして、この後、多くの子供たちが生まれ・・育てら
 れた。
  爆発的な状況で増えた子供たちは『団塊の世代』と呼
 ばれた。
  そして、この子供たちが、輝かしい日本の戦後の復興
 に加わって行った。
  日本は、『奇跡的と言われる復興の姿』を世界に見せ
 て行った。
  今、ASEANが輝かしい発展を遂げているが、戦後
 日本の輝かしい復興の姿が、また、発展の姿が、このA
 SEANの方々へ復興・発展への勇気を差し上げている。
  それは、日本の女性の方々が作ったと言ってもよい日
 本の復興の姿だった。
  マレーシアのマハティール氏の「ルックイースト」と
 いう言葉があるが(1981年12月15日)・・これは、日本
 を見習えという意味であり・・
  ルックイースト政策ともなり、マレーシアの発展の理
 念ともなっている。
.
1946年4月4日、卑劣な事に・・200人~300人の武器を持っ
 たアメリカ兵が、強姦目的で大森の中村病院に乱入した。
  そして、約100人の妊婦や看護婦らを強姦した。
  生まれたばかりの子供も殺害された。
.
1946年4月、ベトナムで独立を目指すベトミンが、残留して
 いた日本兵に戦い方の指導を受けるための軍士官学校を
 設立した。
  それは、ベトナム中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校
 だった・・
  教官は、元日本軍の士官や下士官であった。
  残留した日本兵は、「新ベトナム人」と呼ばれた。
  日本軍インドシナ駐屯軍参謀・井川省少佐は、ベトナ
 ム名のレ・チ・ゴと名乗った。
  そして、ベトミンに、武器や壕の掘り方、戦闘指揮の
 方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを教えた。
  また、井川参謀の部下の青年将校の中原光信は、ベト
 ナム名のヴェト・ミン・ゴックを名乗り、第二大隊教官
 としてベトミンに協力して独立戦争を戦った。
  この他にも、石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、
 猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)
 らがいた。
  この様に日本敗戦後、ベトミンに協力してベトナム独
 立戦争でフランス軍と戦ったインドシナ残留日本兵は
 766人にのぼる。
  また、武器の多くが日本軍からのもので、38式小銃な
 どが多かった。
  ベトナムを、再度、植民地にしようと考えたフランス
 のえげつなさがこの様な事態を引き起こしていた。
.
1946年5月3日~1948年11月12日、極東国際軍事裁判(東京
 裁判)が行なわれたが、この時、横田喜三郎・東京大学
 教授は、この裁判の翻訳責任者を務めた。
  しかし、卑劣なこの男・学者の人生が、この時から始
 まる・・
  横田喜三郎は国際法の教授であるが、この立場から、
 東京裁判の明らかなる違法性を指摘する立場にあるのに
 東京裁判を擁護した。
  横田喜三郎は、マルクス主義の読書会(ベルリン社会
 科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者とし
 て知られていた(左派系学者)
  1930年、東京大学の国際法の教授となり・・
  1945年、日本が戦争に負けると豹変した。
  1947年~1949年、3冊の本を書くが、GHQにすり寄り、
 進行中の東京裁判を擁護した。
  「事後法で裁いてはならない」という大原則でさえ擁
 護した(この学者の法理は弁解の出来ない「しっちゃか
 めっちゃか」状態だった・・自分さえ良くなればよいと
 いう行動をした)
  この近代法の根幹の原則に対して、「そんなものは大
 して考慮する必要はない(取り立てて言うほどでは無い)
 とまで、この男は言った。
  『裁判は正当なのだ』と力説した。
  法律家が、絶対に言ってはいけないということまで言
 うという状況だった。
  (参考)法理:ほうり、法律の(哲学的な)原理
  また、この様な類いの輩が多いという東京大学だった。
  今・現在でも、日本を売る輩が多く居る大学である。
  近隣諸国と問題となるネタを与えるという行動をする
 輩さえ居る(朝日新聞だけではない)
  1960年、この横田喜三郎は、最高裁判所長官となり、
 文化功労者として表彰された・・
  また、文化勲章も貰い、勲一等旭日大綬章まで貰った。
  左翼から豹変し、GHQが日本を牛耳っている時には、
 GHQにすり寄り、その時の都合に合わせて言うという
 男だった。
  そして、日本政府にすり寄って栄達する時は・・、
  過去に書いた本が邪魔になるので、東京中の本屋へ弟
 子を走らせ、自分の本を隠す目的で買占めをさせるとい
 う男だった。
  この話は、この頃、誰でもが知る有名な話となった。
  笑い話的な事は、この時、この為に、この本の価格が
 値上がったという。
  国は、表彰などをして報いたが、この男は、最後に書
 いた回想録で先祖返り(せんぞがえり)をして、日本を
 裏切った。
  ちゃらちゃらと豹変する男のする様な事だった。
  中国のハニートラップに引っ掛かって、日本を裏切る
 政治家が居るが、日本の中枢の学者もよく日本を裏切り、
 日本を売る・・。
.
1961年5月、アメリカのベトナム戦争介入
  アメリカが、正規軍の特殊作戦部隊600人をベトナムに
 派遣し、軍事物資とともに本格的介入を、この時、始め
 た。
  南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で、クラス
 ター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始し
 た。
  ケネディ政権は、就任直後に、東南アジアにおけるド
 ミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会
 を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢について
 の提言を求めた。
  特別委員会と統合参謀本部は、ともに、ソ連や中華人
 民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナム
 による軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南
 ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。
  ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキュ
 ーバ危機、ベルリン危機など世界各地で緊張の度を増し
 ていたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激す
 るとして行わなかったものの・・、
  「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行につ
 いての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務
 次官と、W・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を
 却下した。
  「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」
 との名目で、1961年5月に、アメリカ軍の正規軍から構成
 された「軍事顧問団」という名目の、実際は、ゲリラに
 対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事
 物資の支援を増強することを決定した。
  そして、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で、
 クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃が
 開始された。
  日本は、第二次世界大戦の後、「平和に対する罪があ
 る」とされて裁かれ、多くの日本の軍人が殺されたが・・
  しかし、アメリカの、このベトナム戦争の侵略戦争を
 遂行したことは、「平和に対する罪がある」。
  この裁きが、まだ行われていない。
  また、同様に、アメリカは、「グレナダ侵攻」でも同
 様な罪がある。
  また、「パナマ侵攻」でも、「リビア空襲」でも、ア
 メリカには、「平和に対する罪がある」。
  そして、中国も、数々の侵略戦争を遂行していて、中
 国にも多くの「平和に対する罪」がある。
  中国には、「朝鮮戦争」「チベット侵攻」「中印紛争」
 「中ソ国境紛争」「中越紛争」などなど・・、
  また、アメリカは、ジェノサイド(大虐殺)を、ベト
 ナム戦争で行っていて、「人道に対する罪」がある。
  また、中国も、ジェノサイド(大虐殺)を、度々、行
 なっている。
  「人道に対する罪」を免(まぬが)れられない、「毛
 沢東による大躍進・文化大革命」「天安門事件」「チベ
 ット人弾圧」など・・
  本「共産主義国書」(ステファス・クルトワ・ニコラ・
 ヴェルト著)には、国別の残虐行為・蛮行を仔細に分析
 されている。
  それによると、中国が断然多数の非道な殺戮を行なっ
 ている。
  その数は、何と! 6500万人となっている。
  虐殺国家=中国となっている。
  こんなに虐殺を行なっている国は、他にはない。
  この事柄だけでも「共産主義国家=中国の存在理由は
 無い」・・
  中国の存在は否定されなければならない。
.
1998年、中国の江沢民総書記が、日本を訪問する直前、中
 国共産党が「21世紀の中日関係の展望」をまとめた。
  それに、「日本人をコントロールするために、日本へ
 歴史問題を突き付ける。そして、日本人を後退させる」
 と書かれている。
  そして、この中に、「日本国内に孔子学院を設立する」
 という事も書かれている。
  孔子学院は、中国語の教育機関とされている、その様
 な触れ込みであるが・・、
  アメリカやドイツなどでも問題となっているように、
 完全に中国のプロパガンダ機関・・中国の洗脳機関で、
 コントロールの為の機関となっている。
  20年を経て、この様な中国の目論見・本音が露呈して
 いる。
  中国から金を貰っているのか? キリスト教系大学の
 桜美林大学や、また、早稲田大学などに設立されている。
.
2018年12月26日、NHKの小会社整理
  この日の読売新聞に、NHKの2子会社が経営統合す
 ると報道された。
  NHKには、NHKの豊満で放漫な金に群がって、N
 HK職員の天下り先でもある子会社が数限りなくある。
  それにしても、この統合をNHKは2020年の春にする
 とした。
  いつもの・・そして、総べてのやることがNHKは、
 この様な状況だ・・遅い・・まったく遅い・・民間会社
 だったら半年でやってしまうことを・・ちんたらやる。
  NHKは、やることの総べてに、厳しさがない。
  再来年(さらいねん)の2020年の統合だという甘いと
 ころがNHKのだらしなさを象徴している。
  NHKは、長い期間、「頑張るな!」という番組をキ
 ャンペーンとしてやって来たが、その様なNHK体質が
 この小会社統合にも現れている。
  「再来年と言われて・・いつまでチンタラやるのだ!」
 と喝(かつ)を入れたい・・
  NHKは、この統合を半年で民間の様に終わらせ、ど
 んどん業務を整理統合し、合理化して行け!
  そして、NHKは受信料を半分する目標を掲げよ!
.
2019年1月8日、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)が中国
 を電撃訪問・・
  この2日前の2019年1月7日には、アメリカが軍艦を南シ
 ナ海に入れ、「航行の自由作戦」を実施している。
  この南シナ海は、今では、中国は世界へ嘘をついて、
 完全な軍事基地・要塞と化している・・
  『軍事基地化はしない』などと言っていた中国である
 が、この海の多くの島々は、今は、各種の軍事の諸設備
 および兵器・戦闘機・ミサイル・レーダーなどが置かれ
 た要塞となっている。
  もう、アメリカは、この地を叩くことはできないであ
 ろう・・
  確実な中国の軍事拠点として確立されてしまっている・・
  北朝鮮の金正恩にしても、ほぼ対等に何度も会ってく
 れる中国のこの状況などから、核保有国になったからだ
 との表にあらわせない気持ちもあって、今後の核放棄は
 『まずあり得ない状況になってしまった』・・
  この段階でやれることと言ったら、アメリカの核の日
 本国内の核展開・・
  日本をやるのなら、中国も北朝鮮も一瞬にして蒸発す
 るぞという対抗措置しかない・・
  これによって、日本への手出しもできにくくなると同
 時に、アメリカへの手出しもできにくくなる・・
  そして、国連には、「国連という虎の威を借る狐」が
 居る。
  アメリカのジョン・ロバート・ボルトン(国家安全保
 障問題担当大統領補佐官、元米国国連大使)が、「国連
 の上の10階を取ってしまえ」と言ったという・・
  これは、国連が何もしてない組織であり、取ってしま
 ってもよい様な何も役に立たない機関なのだという意味
 だという・・
  その様な国連の状況で、国連は捉らえられ方をしてい
 る組織となっている。
  国連という場に万国が会し、意見を出し合い、討論を
 する。
  まったく理想的な、合理的な機関の様に見える国連。
  しかし、それは、全体会合がなされる本会議の情景で
 あって、
  そして、この場面が報道機関・メディアによく報道さ
 れ、流れるから、国連はこの様な事をする「理想的な機
 関だ」なんて見え、思えるが・・、
  この全体会合がなされる本会議以外の国連の場は、少
 数の者が意思を決定するという、「少数意見が横暴に決
 定される、独裁的に決定がなされる場」となっている。
  まったく一握りの少数の者の独断の場となっている。
  この様な決定が、国連の場の決定という事で「さも公
 正の様にに行われた」と世界に誤解を与えている。
  そして、まちがった認識・・誤認を与える結果となっ
 ている。
  その少数の者達の弾圧が、国連という虎の威を借りて
 行なわれる。
  この不合理な事を知る不埒なキリスト教は、この国連
 機関の少数の者たちへ働きかけ・・そして、洗脳などを
 行ない・・キリスト教の意見を世界の意見の様にしてい
 る。
  「アイヌが日本の先住民だ」と、科学的にまったく間
 違ったことを国連決議をしている。
  クジラが食べられなくなったのも、やはり、このキリ
 スト教の働きかけ・運動の仕業(しわざ)。
  遠い昔から食べて来た日本の食べ物を奪った・・食文
 化を消し去られた。
  キリスト教の教義による「クジラは食べてはいけない
 という事を日本は押し付けられた」。
  ならば、キリスト教よ!「七面鳥を食べることを止め
 よ」「牛を食べることを止めなさい!」・・できますか?
  キリスト教は、仲間を集めて多数を形成し、クジラを
 食べる少数のマイノリティ意見を握りつぶした。
  キリスト教という宗教的取り決め・決定であるため、
 何ら説明しても聞く耳を持たなかった。
  議論の場があっても、その議論の場での正常な意見の
 交換は出来なかった。
  宗教裁判所状態であった。
  「最初から結論ありき」だった。
  何度、説明しても、その意見を受け入れるそぶりも無
 かった。
  何度、説明しても受け入れられない「ガリレオの地動
 説」の如く、宗教タブーに触れた話だった。
  この件もガリレオの地動説の如く、ローマ法王が何百
 年かの後に「悔い改めのミサ」をやり、ガリレオに謝っ
 たが如くになるだろう。
  聞く耳を持たない宗教裁判の如きの場から日本は脱退
 した。
  これから中世ヨーロッパで、キリスト教が卑劣な弾圧
 をやり続けたが、日本もこの様な卑劣な弾圧を受け続け
 ることになるのだろう。
  そして、北朝鮮の金正恩が電撃訪中した時・・
  北朝鮮の金正恩がアメリカの真似をして、アメリカに
 届くかどうかはわからないが、そのミサイルの発射装置
 をもって中国へ出かけた。
  そのミサイルの方向は、日本・アメリカは勿論、その
 北京へも向いているのだろう。
  北京がそそのかして技術援助をした結果が今なのであ
 るが・・そのミサイルが北京へ向くということもあり得
 る状況にある。
  北朝鮮は、自国が生き残りのために作ったミサイル。
  自分以外に対しては、北朝鮮の生き残り目的の・・生
 き残るためにはそのミサイルの数には差があるだろうが・・
 北朝鮮のリスク回避のため、皆無状態にしている訳はな
 い・・当然、中国にも向けている・・
  当然、韓国にも向いている。
  ゴマを磨っているから韓国には向いてないと、韓国は
 思いたいのだろうが?
  この男は、近距離のミサイルも持っているが、これは
 韓国用だ。
  危ないと思えば伯父さんだって除外する者・・そして、
 兄だって・・誰だってやる様な男なのだ・・
  こんな事を書きたくないが、これが現実・・
  この愚かな領域を人類は乗り越えられるか?
  一旦、最低状態を経験しなければ、人類は立ち直れな
 いのだろうか・・
.
2019年1月9日、この日の読売新聞で、イギリス人の政治学
 者のエリック・カウフマン氏が言う・・、
  全紙を使った堂々たる寄稿であった・・が・・
  カウフマン氏は書く・・
  「白人としてのアイデンティティーを抑圧し、過去の
 歴史への罪悪感を煽ることは、白人を追い込み、ポピュ
 リズム的な不満を掻き立て、テロに発展する恐れすらあ
 る」・・と・・
  確かに、歴史の過去に、白人たちのやって来た事は極
 悪で・・卑劣だった。
  それを、ひたすら指摘し、煽らないでくれという書き
 出しだった。
  そう・・イギリス人は、特に、世界のあちこちで極悪
 な事をした。
  オーストラリアへ行けば、先住民のアボリジニの方々
 を、動物の如くに、狩りをする様に、殺戮した。
  タスマニア島のアボリジニの方々は、可哀想に全滅し
 てしまった。
  インドでも、様々な極悪行為をしたが・・
  その一つを書けば・・インドの方々を並木道の木々へ
 吊るして、殺した・・高い木の上に、インドの方々は吊
 るされたままに居た・・
  何日もそのままにして晒(さら)されて・・インドの
 方々を威圧した・・
  インドの方々は、それを、道を通るときに見ざるを得
 ない状態にされ、抑圧された・・恐怖された・・
  この様なイギリス人のやった例は、書き切れないほど
 ある。
  スペイン人も、キリスト教の最高権威者のローマ法王
 (教皇)から、問い合わせた返事に、「現地人のインデ
 ィオの方々を『人と見なすな』という返事」で・・
 これを切っ掛けに1000万人以上という殺戮が始まった。
  60年に渡って、南北アメリカ大陸の先住民の方々を殺
 戮し続けた。
  キリスト教の「有色人種蔑視」の教え・教義にこの根
 本原因があった。
  ローマ法王(教皇)は、この非を数百年後に認め、
 「悔い改めの謝罪のミサを行った」。
  しかし、キリスト教が、また、白人が、悔い改めの謝
 罪のミサをすべきところは、まだまだある。
  白人が、多数の人種という位置にいたから起きた横暴
 でもあった。
  その位置から・・白人が多数の人種の位置から降りる
 今・・白人に虐げられて来た少数民族の悲哀さを身をも
 って感じる事が出来るだろう今・現在、標記の様な事を
 言い出す。
  キリスト教の一神教は、その宗教性から多様性を否定
 した。
  我がキリスト教の神のみが「唯一の神だ」と、他を認
 めず、他を異端とし、異教徒とした。
  その異教徒を・・キリスト教の教義は「異教徒を殺せ」
 と指示し、教義とした。
  そして、異教徒を虫けらのように進んだ武器でもって
 劣った有色人種を殺戮した。
  その様にして来た白人が、その論理を取って返して、
 「白人文化の罪悪感を煽るな」と言う。
  今まで散々自分たちがやって来た事々を棚の上にあげ
 て、免罪符が欲しいと言うが如くに論理展開する。
  今になって、やっと、悲痛な人々の声を、やっと発す
 ることができる・・今まで虐げられてきた人々なのだ・・
 その様な段階になって来たところの今なのだ。
  この段階は、この悲痛な虐げを受けた人々の声がやっ
 と白人たちへ届く時代となって来たところなのだ。
  また、カウフマン氏は、「西側社会は総じて、多文化、
 多様性の受け入れを重視しますが、東アジアでは、国際
 主義的なリベラリズムを遠ざける傾向が強い」と言う。
  そして、この見方を根幹の基本として、この後の論理
 展開をするが・・、
  この根幹の基本的考え方の捉え方は大間違いだ。
  キリスト教の教義に洗脳された白人・ヨーロッパ人は、
 一例をあげれば、キリスト教カトリックが、キリスト教
 プロテスタントを異端だとして、受け入れられないとし
 て・・、
  また、この反対に、キリスト教プロテスタントもキリ
 スト教カトリックを、異端だとして受け入れられないと
 した。
  お互いの考え方の違いを、キリスト教の教義の如く異
 端として見て、愚かにも30年間もの長い間、卑劣な30年
 戦争を戦い、殺し合った。
  ヨーロッパの白人の人口の3分の1が死んだという卑劣
 な歴史である。
  カウフマン氏が美しく言う「西側社会は総じて、多文
 化、多様性を受け入れを重視する」・・と・・これは大
 間違いだ・・話が逆だ。
  日本を例にして言えば・・日本には、アメリカが建国
 されるズーット以前・・また、イギリスが、まだ国とし
 て成り立っていないという以前の遠い昔に、平等院が日
 本にある如く、差別なく、すべてを平等に受け入れる社
 会は、すでになされていた。
  また、世界一古い長編小説の著者が、日本女性である
 如く、男女の差別も無く、教養ある女性方たちが活躍し
 ていた。
  カウフマン氏よ! 貴方には、有色人種の東アジアの
 人々を蔑視するキリスト教の洗脳があるのではないです
 か?
  東アジアをもっと冷静に見直しをして下さい。
  キリスト教には、「他民族へ、娘を嫁になるな」など
 の律があるなど、この様な差別的な閉鎖的な社会規律が
 一杯ある。
  この宗教の考え方の下に貴方たちは居る・・
  この様な点を見ないで、無視して論理展開をしないで
 下さい。
  東アジアは、「自民族同士の結婚が多いから悪い」と
 いう言い方も偏頗ではありませんか?
  この考え方も偏見に満ちています。
  結婚は、各人の自由意思の下に自由に行われるだけで、
 自民族同士が多いから悪いとか・・とやかく批判し・・
 どうのこうのと言うべきものではない・・
  カウフマンさん、貴方には、「白人がやっていること
 が最高なんだ」という「白人優越の意識」が垣間見えま
 す。
  白人は、これから、未体験のマイノリティの人々とな
 って行く。
  大多数の時にした黒人奴隷の歴史のごとき歴史が待っ
 てない様にと祈ります。
  白人の方々こそ、自分たちが何をやって来たかをよく
 見定めて・・
  自分たちの行く先に、その虐(しいた)げたマイノリ
 ティの人々と同じ様な姿が無きようにと・・
  問題なく歴史を紡いで行けるようにと、沈思し、行動
 を思い描きなさい。
  「白人の罪悪感を煽らないこと」と、自分をさておい
 て・・他の人々の対応だけを求めることの愚かさに気付
 きなさい。
  お互いがやるべき事であって、一方にだけ求めるなど、
 片手落ちであってはいけません。
  (追伸)上記の浅はかな論理展開したエリック・カウ
     フマンの略歴:48歳、ロンドン大学バークベッ
     ク・カレッジ教授。
      香港に生まれ、幼少期の8年間、東京で育つ。
      カナダで大学卒業後、ロンドン・スクール・
     オブ・エコノミクスで博士号。
      専門は、民族、宗教、ナショナリズムなど。
      近著「ホワイトシフトーーポピュリズム、移
     民、白人多数社会の将来」を2018年10月に刊行、
     イギリス内外の言論界で高い注目を集めた。
.
2019年、専守防衛なんて絵に描いた餅。
  中国が、核弾頭ミサイルを300発から600発持っている
 というが・・、
  これが、日本に飛んで来たら、日本は「ひとたまりも
 ない」。
  そのすべてを撃ち落とす事は出来ない・・
  撃ち落とせると思っているのだったら・・悲惨な事実
 から目を背(そむ)けたい・・だから、撃ち落とせると
 思っているのだ・・ということになる・・
  中国の核弾頭ミサイルは、日本のほとんどの都市に照
 準を合わせている・・中国はその様に言っている。
  第二次世界大戦の時は、アメリカが、何万発という爆
 弾を・・日本中の都市に落したが・・そして、壊滅した
 が・・、
  今・現代、その核弾頭ミサイルは、一発でも落された
 ら、それで終わりだ。
  投下された都市の「すべてが、蒸発してしまう」。
  専守防衛は「おとぎ話」なのだ。
  防衛が不可能なのに「専守防衛する」と言う・・
  この論理は成立しない。
  生半可な防衛力を放棄して、「殺すんなら殺せ」と言
 った庶民の心になるか?である・・
  生半可な防衛力があるから攻めて来るとも言える・・
  だから・・はっきりと・・無責任な行為は止めて・・
  専守防衛を止めて「専守攻撃」に変えなければ「専守
 防衛」は出来ない。
  もし、あなたの国が、日本を攻撃するのでしたら、「
 日本は、あらゆる日本の攻撃手段を使って、あなたの国
 を攻撃します」という『専守攻撃宣言』をしなければな
 らない。
  これでなければ、専守防衛なんてできない。
  迎撃ミサイルは、単なる、「精神安定剤」。
  日本中に、そして、広い広い日本の領海中に、中国・
 北朝鮮・ロシアを殲滅できる核弾頭ミサイルを展開しな
 ければならない。
  「恐ろしくて日本なんて攻撃できない」という気持ち
 を起こさせなければならない。
  この「専守攻撃」の核弾頭ミサイルの展開は、アメリ
 カと協議し、早期に実現しなければならないという今・
 現在となっている。
  この様な現状にある今・現在を、冷静に見れば、日本
 国憲法の前文の記述が、あまりにもかけ離れた夢の世界
 の中に浮いていることが分かる。
  日本国憲法の前文は、現実の実情にそぐわない状態に
 なっている。
  日本は立派な国であるから、日本以外の国々の公正と
 信義に信頼してと、それを信じて、まったく理想的な憲
 法を掲げてやって来たが・・??・・今までは・・
  今・現在、その現状は、その様な状況ではまったくな
 いという状態になってしまっている。
  近隣の諸国は、陰で日本の憲法をうすら笑っているだ
 ろう・・都合が良いと思っているだろう。
  日本国民の方々は、お人好しだから、日本国憲法が現
 状とはまったくかけ離れて・・現状にそぐわないと思っ
 ていても・・我慢し、耐えている。
  しかし、これからの子供たちの為には・・
  「もうこのような我慢をさせる事は酷である」。
  子供を産みたくなる様な憲法にしなくてはならない・・
  今・現在の現状に沿う憲法を「未来へ残さなければな
 らない」。
  それが出来て日本の戦後は終わる。
  それにしても、ベトナムの方々もよく戦った。
  不合理なものへ対して、その戦いが必要な時には、強
 い相手であっても「毅然と戦わねばならない」として戦
 った。
  今、平和憲法なんて・・自画自賛の状況となっている。
  その憲法が、現状に於いて「何の役にも立たない」と
 いう状況が、戦後の経過の中で生まれ・・そして、証明
 された。
.
2019年、中国は、日本の中国研究者が、中国について批判
 的な研究結果を公表すると、とたんに、睨(にら)み・・
  そして、研究行為について不利な扱いをする。
  中国への入国は拒否される。
  研究のための中国入国の拒否だからたまらない。
  また、入国が出来たとしても、史料の閲覧の拒否を受
 ける。
  研究の材料を得られなくなるという事は致命的だ。
  中国は、この様な卑劣な事をする。
  だから、中国へゴマをする研究者ばかりになる。
  こんなことは誰でも知っている事で、だから、若い研
 究者は、中国の反応を怖がる。
  中国からのプレッシャーの中で研究している。
  だからなのか、中国べったりという方針にしたのか・・
 その様な中国べったりの研究者が居る。
  大学もその様な「いざこざ」が起きないことを願って
 いる。
  この様な大学の姿勢からのプレッシャーも研究者へ与
 えられている。
  また、大学へ来る研究者についても、中国とトラブル
 を起こしそうな研究者に対し、「わが大学にだけは来な
 いで欲しい」という態度をとる。
  研究者だけでなく、ジャーナリストへもこの様な戦略
 が中国にとられ、この戦略にはまってしまう。
  また、招聘(しょうへい)する人などについても、中
 国に不利な人の招聘の場合、中国は嫌がらせをする。
  何もかもが中国に寄り添う行動になるというプレッシ
 ャーの中での研究などの行動となる。
  この様に、きめの細かい情報を本国へ伝える工作員が
 存在しているということが分かる。
  その存在はものすごく厚い・・
.
2019年、中国の地の覇者は、以前からズーット漢民族であ
 ったのではない。
  色々な民族が、入れ代わり立ち代わり中国の歴史をつ
 ないで来たのだった。
  漢民族の現政権は、「中国、5000年の歴史」と言って
 いるが、中国の文明の発祥からの歴史の事を言っている
 のであって、現政権の漢民族の歴史が、さも、5000年間、
 続いたように言うのは大間違いで・・錯覚させている。
  中国の漢民族の現政権の歴史は『数十年』である。
  「つい、この間」という歴史である。
  漢民族の現政権の歴史は、新参者の新興なのである。
  現政権の漢民族中国政権は、この様な錯覚を「この他
 にも、色々、行なって」いて、世界を錯覚させ、その様
 に思わせている・・
  色々な事で、事実の誤認を起こさせているから注意を
 要する。
  「中国人民解放軍」と言わせられているが、その実態
 は『中国人民侵略軍』である。
  この中国共産党軍は、中国に接する近隣諸国の侵略ば
 かりをしている。
  解放とは程遠い事ばかりをしている。
  近隣諸民族の殺戮と弾圧である。
  チベット、ウイグル、内モンゴルなどは、とうとう、
 中国の国の様にされてしまっている。
  この他にも、ベトナムなどは、何度も、共産中国軍(
 中国人民侵略軍)の侵略を受けたか知れないという悲惨
 な歴史となっている。
  そして、今、ネパールやブータンが怪しい・・
  また、「中国東北部」と呼ばされている地域は・・『
 満州族の地域』であった・・
  そして、今は、その民族が、満州族が、まったくこの
 地域に居ないという事である・・
  殺されたのか? 追放されたのか? 不明であるが?? 
  だが本来は、まったく中国とは関係のない地域で・・、
 「中国東北部」ではなく、『満州族部』とでも呼ぶべき
 地域だった・・強いていうのなら「中国東北侵略部」。
  万里の長城のはるか北にあるこの地を、なんで中国と
 呼ぶのか?・・である・・その様な地ではない。
  万里の長城のはるか北のこの地を、中国と呼ぶのは『
 不適切である』。
  中国は、この万里の長城の北の「外の地」を、まった
 く関係ないという意味の『化外の地』として・・中国の
 力の及ばない他民族の地としていた・・
  だから、その中国と関係のない民族が、中国の地に入
 って来ない様にと「万里の長城を築いた」のだった。
  中国は、この様な地を『中国東北部』と呼はさせて、
 世界を錯覚に陥(おちい)らせようとしている。
  満州族の地の痕跡を消そうとしている。
  「中国東北侵略部」なのである。
  「チベット」も「ウイグル」も「内モンゴル」も、皆、
 同じ『中国侵略部』である。
  チベット民族は、隣国のインドに、チベット亡命政府
 を樹立している。
  1959年から、ダラムサラに、中国の侵略・軍事制圧か
 ら逃れた人々が建設を始めた。
  1953年3月、インド政府は、チベット本国を追われたダ
 ライラマ14世に対し、この地を提供し・・
  1960年、チベット亡命政府は発足した。
  そして、各種の官庁も築かれた。
  この様に、国際法無視の行動をする中国は、グローバ
 ル化が進むと「都合が良いと考えている」。
  自らは漢民族の世界にしようとしているが・・それ以
 外の民族性を薄めたいと、グローバル化が都合よいと考
 えている。
  中国は、南シナ海も、近隣諸国の領地を奪い軍事基地
 化した・・
  これはアメリカの真似をしている・・
  それを阻止したのが日本だった・・日本は大きな戦争
 をした・・その戦いの後、アジア諸国は独立して行った。
  今、その諸国=ASEAN(東南アジア諸国連合)は、
 次の世界の繁栄の中心になろうとしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive  


2019年01月07日

(増補版)627E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年8月)

題:(増補版)627E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年5月21日、台湾総督府仮条例が制定され、総督府に
 民政局、陸軍局、海軍局が設置された。
.
1895年5月28日、大阪鉄道の天王寺駅~玉造駅間が開通した。
  (参考)初代大阪鉄道は、1888年から1900年まで存在
     した日本の鉄道事業者(私鉄)
.
1895年5月29日、日本軍が、台湾北部に上陸した。
  1895年4月17日、日清両国は、下関条約によって日清戦
 争が終結させた。
  そして、日本は、清国から正式に台湾の割譲(かつじ
 ょう、国家間の合意によって領土主権の全部、または、
 一部を譲渡すること)を受け、両国間に平和が回復した。
  しかし、台湾割譲に反対する清国の文武官は、列強の
 干渉を呼び込むために、イギリスやフランスに台湾を貸
 与する計画や陰謀などの割譲阻止工作を実行した。
  これを起因として台湾問題が発生した。
.
1895年6月1日、凱旋門見学
  樋口一葉は、凱旋門が取り壊される当日、慌てて見学
 に行った。
  しかし、たまたま天皇陛下の還御の行列に当たり、よ
 うやくたどり着いた。
  「やがて凱旋門ちかく成れば、もはや取崩しに取かか
 れりとおぼしく、取りおろしたる杉の葉などここかしこ
 に山とつまれぬ」
    (日記『水の上』1895年6月1日)
  天皇陛下、還御(氷川清話)
  (参考)還御:かんぎょ、天皇陛下、・三后、将軍、
     公卿(こうけい)が出先からお帰りになること。
  (参考)三后:さんこう、后位(こうい)は、日本の
     朝廷において天皇陛下の配偶者や母・祖母等に
     与えられた太皇太后・皇太后・皇后の地位の総
     称で、三宮(さんぐう)・三后(さんごう)と
     も言う。
.
1895年6月4日、閣議で「将来の対韓政略は成るべく干渉を
 やめ、朝鮮を自立せしむるの方針をとるべし、故に他動
 の方針をとるべきことに決す」と決議した。
.
1895年6月7日、日本軍が、台北を制圧し・・
  6月17日に、台北で総督府始政式を行なった。
.
1895年6月10日、台湾鉄道線司令部が設けられ、陸軍が台湾
 の鉄道の運営に当たり、基隆駅~台北駅間の運転が開始
 された。
.
1895年6月17日、台湾都督府で始政式が行なわれた。
  初代総督に樺山資紀海軍大将が就任した。
  台湾総督府開庁は、この日を台湾始政記念日とした。
.
1895年6月18日、仮設呉兵器製造所が設立された。
.
1895年7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで自転車
 競技が行なわれた。
.
1895年7月6日、露仏両国による対清借款が成立した。
  4億フランが成立した。
  日清戦争の後、イギリス・フランス・ロシア・日本・
 ドイツの帝国主義諸国は、租借地の獲得や鉄道敷設権・
 鉱山採掘権などの利権という形態で中国の国土を分割支
 配して行く・・その手始めの借款だった・・ロシア・フ
 ランスなど列強に対して外債を発行し、借款した(外国
 から資金を借りた)
  列強は、この借款を通じて鉄道敷設権を獲得したり、
 鉱山採掘権を獲得して行った・・
  列強は、この借款という形で清朝政府から租借という
 形で奪って行った・・
  19世紀のこの頃、中国は、事実上、反植民地状態とな
 った・・
.
1895年7月13日、夏目漱石:愛媛県尋常中学校(松山中学)
 の英語教師を勤める漱石(28歳)
  日清戦争に出征していた松山連隊の凱旋を迎えるため、
 生徒を引率して、フロックコートに山高帽というハイカ
 ラな正装で、松山市郊外の八丁畷(なわて)へ出向いた。
  この式から帰る途中、師範学校の生徒と松山中学の生
 徒との間で乱闘騒ぎが起きた。
  教師にもそのとばっちりがおよび、田んぼの中に押し
 込まれたりした。
  漱石の小説「坊ちゃん」にも書かれている。
  「喧嘩は今が真最中である。
  師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割
 方多い。(中略)
  入り乱れて組んず、ほぐれつ戦っているから、どこか
 ら、どう手をつけて引き分けていいか分らない。
  山嵐は困ったなという風で、しばらくこの乱雑なあり
 さまを眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。
  巡査がくると面倒だ。
  飛び込んで分けようと、おれの方を見ていうから、お
 れは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈しそうな
 ところへ躍り込んだ」
  大騒ぎしているところへ巡査が駆け付けて来て、生徒
 たちは逃げ去り、坊ちゃんと山嵐だけが警察に引っ張ら
 れる。
  翌日の新聞には、生徒たちを扇動して騒ぎを起こした
 と書き立てられる。
  我軍凱旋(氷川清話)
.
1895年7月25日、山陽鉄道の尾道駅~糸崎駅間で軍用列車が
 脱線転覆した(死者11人、重軽傷98人)
.
1895年7月、ラベンナ号事件の日本政府とピーオー汽船との
 損害賠償請求裁判で、イギリス上院の判決が出され、ピ
 ーオー汽船の訴えを退けた。
  賠償金は、1万ポンドでの和解成立となった。
.
1895年7月、北海道全道の鉄道調査が終了した。
.
1895年7月、三国干渉の影響で朝鮮が親露政権となった。
.
1895年8月5日、日清戦争論功行賞が行われ、伊藤博文、山
 県有朋、大山巌、西郷従道が侯爵となった。
.
1895年8月6日、台湾総督府条例が制定された(陸達第70号)
  総督幕僚、陸軍局、海軍局が置かれた。
 ・総督幕僚 参謀部
       副官部:第一課(文書関係)第二課(人事
           関係)第三課(用度関係)
 ・陸軍局  砲兵部 工兵部 憲兵部 監督部 軍医部 
       法官部 電信部 郵便部
 ・海軍局
.
1895年8月15日、豊州鉄道の行橋駅~伊田駅間が開通した。
.
1895年8月17日、三浦梧桜を朝鮮駐在公使に任命した。
  (参考)三浦梧桜:みうらごろう、政治家・陸軍中将・
     子爵。
      山口の生まれ、長州藩の尊攘運動に参加した。
      広島鎮台司令長官として萩の乱を鎮圧した。
      王事に尽瘁(じんすい、自分の労苦を顧みる
     ことなく、全力を尽くすこと)する。
      枢密顧問官。
      1926年、没、81才。
.
1895年8月22日、下総鉄道が、社名を成田鉄道会社と改称し
 た。
.
1895年8月22日、浪速鉄道の片町駅~四条畷駅間が開業した。
  運転時分38分、1日19往復の列車を50分間隔で等間隔運
 転。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、共産独裁国家に包囲されている。
    もう、韓国は共産国家だと考えてよい。
    アジアにおける「第二次世界大戦の勝者」は、アメリカではない。
    勝者は共産国家である・・
    「共産・中国」「共産・ソ連(現:ロシア)」である。
.
1896年、イギリス人で首相になったチャーチルは、若いこ
 ろ、ますます苦しくなっていた家計のために更なる従軍
 経験と新聞特派員としての原稿料を得たいと渇望した。
  そして、オスマン=トルコ帝国の支配に抗して蜂起し
 たクレタ島へ赴く事を希望した。
  また、ジェームソン侵入事件が発生した南アフリカな
 どに特派員として赴く事を希望した。
  結局、これらは、実現しなかった・・が・・
  1896年冬、第4女王所有軽騎兵連隊とともに、チャーチ
 ル(22歳)は、イギリス領インド帝国に転勤することに
 なった。
  インド駐留のイギリス軍将校は、まるで王侯のように
 暮らした。
  日常生活をすべてインド人召使に任せた。
  チャーチルもそのような生活を送った。
  インド人召使をかなり安い給料で雇うことができた。
  インドでチャーチルはよく読書をした。
  そして、このインド勤務時代、実戦に参加した。
  1897年夏、インド西北の国境付近で発生したパシュト
 ゥーン人の反乱を鎮圧した。
  この反乱が発生するとチャーチルは、マラカンド野戦
 軍に入隊を希望した。
  はじめは新聞の特派員として、
  また、将校に欠員が生じた後には、その後任として、
 戦闘に参加した。
  チャーチルは、勲章が得たいと焦った。
  その為、しばしば独断で無謀な行動に出た。
  そのため、チャーチルは、帰隊を命じられた。
  後になって、チャーチルは、「歴史に学べ」という言
 葉を繰り返し言った。
  (参考)パシュトゥーン人:アフガニスタンの中部・
     南部、および、パキスタン北西部のカイバル・
     パクトゥンクワ州・辺境部族自治区に各1千数百
     万人が居住している。
      アフガニスタン人口の45%とパキスタン人口の
     11%を占めている。
      インド・ヨーロッパ語族イラン語派のパシュ
     トー語を話し、多くの部族集団に分かれて伝統
     的には山岳地帯で遊牧などを行って暮らしてき
     た。
      強固な部族の紐帯を維持しており、パシュト
     ゥーンワーリと呼ばれる慣習法を持ち、男子は
     誇りを重んじている。
.
1927年、リンドバーグが、初めて単独で大西洋を無着陸横
 断飛行を成功させた(約33時間30分)
  この頃、アメリカは、すでに、イギリス、ドイツ、フ
 ランスの三国を、はるかに抜くという世界最大の工業国
 になっていた。
  そして、間もなく、その頃より一世紀、100年を越えよ
 うとしている今・現在・・
  その主役(アメリカ)の座が、今までの歴史の様に、
 「変わろうとしている」。
  イギリスもしかりだった。
  イギリスからアメリカへの変遷の様に、今・現在、ア
 メリカから次なる主役・中国へ「バトンタッチ」されよ
 うとしている。
.
1937年11月、日本を貶める嘘情報の本「what war means」
 が、イギリスで出版された。
  第二次世界大戦中、中国・国民党(この頃、中国・共
 産党は壊滅の憂き目にあっていた、そして、中国の奥地
 に潜んでいた)の国際宣伝処長は、日本への嘘の宣伝工
 作・プロパガンダが、あまりにもうまく行ったと言って
 いる。
  この嘘つきの男が牛耳っていた国民党から発信される
 作り話の嘘情報が、英訳され、世界を駆け巡った。
  日本は、この作り話で酷く貶(おとし)められた。
  その一つが、1937年11月、イギリスで出版されたティ
 ンパーリーの「what war means」。
  実に手際よく、中国国民党から発信され、英訳され、
 国際社会に喧伝(けんでん、盛んに言いふらし、宣伝す
 ること)され、広まった。
  その中国・国民党国際宣伝処長の曽虚白は、回想録で
 そのあまりにも巧(うま)く行き過ぎたことを驚きと共
 に記している。
  これで、南京事件がでっち上げられた。
  そして、このデッチ上げられた南京事件で、日本の無
 実の軍人たちが、アメリカがデッチ上げた東京裁判で有
 罪だとされ、殺された。
.
1945年9月15日、鳩山一郎の『正義の発言』・・発行媒体は
 停止処分を受ける・・アメリカの卑劣な口封じ行為。
  GHQは、「パージ」をして、GHQを批判しそうな
 記者を追放した。
  そして、GHQを気にする報道陣にさせられた。
  また、ゴマを刷る記事にされた。
  しかし、その様な中で・・、
  1945年9月15日、鳩山一郎は言った・・、
  「〝正義は力なり〟を標榜する米国である以上、原子
 爆弾の使用や無辜(むこ、何の罪もないこと)の国民殺
 傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争
 犯罪であることを否む(いなむ、嫌だと言って拒む)こ
 とは出来ぬであろう。
  極力、米人をして(広島・長崎の)罹災地の惨状を視
 察せしめ、彼ら自身彼らの行為に対する報償(ほうしょ
 う、損失のつぐない)の念と復興の責任とを自覚せしめ
 ること(略)」と・・
  まったく当たり前のアメリカに対する正義の発言をし
 た。
  アメリカは、これに対して「発行停止」の命令をする
 という卑劣な行為をした。
  日本の新聞は、この様なアメリカの卑劣な弾圧に屈し
 てしまった。
  東京裁判など、国際法違反の裁判などに迎合した報道
 をする。
  GHQの報道担当(インボーデン少佐)が、非常に威
 圧的で強権を行使していた。
  「追放処分」や「発行停止処分」の強権を使った。
  新聞社は、これにひれ伏した。
  「アメリカ占領軍に従わなかったら新聞が出せない」
 という悲鳴の声を発した。
  国民の情報源の重要部分にあったこの頃の新聞は、こ
 の様な牛耳られた状態だった。
  (参考)口封じ:くちふうじ、その事が外部に漏れな
     いように、強権で口止めをすること。
  (参考)パージ:purge、追放。公職などから締め出す
     こと。
.
1950年10月7日、中国のチベット侵略
  この日の深夜、中国人民解放軍は、張国華将軍を指揮
 官として、ラサの東方100kmの位置まで侵攻した。
  中国人民解放軍の兵力は4万人・・これに対してのチ
 ベットの義勇兵はわずかな8000人だった。
  中国人民解放軍は、東チベットを3方から同時に侵略し
 た。
  8000人のチベット軍が阻止を試みた。
  チベット軍は応戦をするも、多勢に無勢で、チベット
 兵は各地で全滅した。
  進んだ兵器を持つ中国軍は強力で、チベット各地を駆
 け巡った。
  チベット兵は、また、各地で孤立した。
  翌10月8日、中国人民解放軍は、波状攻撃を仕掛けた。
  チベット軍も善戦し、阻止することに成功する状況も
 あったが、交戦不可能なまでに戦力を失った。
  その夜、チベット部隊は組織を維持できない状態まで
 追い込まれた。
  10月16日に至り、チベットの知事ンガプー・ンガワン・
 ジクメ(アボ)が、潜伏していたチャムド付近の寺院で
 発見された。
  チベット指揮官ダポンは、ンガプーに対して戦力を集
 中し抵抗したが・・
  翌日の10月17日に、中国人民解放軍に投降した。
  10日間の抵抗の戦いは終わった。
  1950年10月24日、中国人民解放軍は、チャムドを占領
 した。
  チベットという国は、7世紀に、ソンツェン・ガムポト
 ウ王が建国した立派な独立国だった。
  ソンツェン・ガムポトウ王は、ヒマラヤ山脈の北部に
 広がる高原地帯を平定してチベット国を建国していた。
  この様なチベット民族の国が、何も関係のない漢民族
 の中国共産党軍(中国人民解放軍と呼ばれるが・・本当
 は、中国人民侵略軍)によって、この年・1951年、不本
 意な侵略を受けた。
  突然の侵攻で大虐殺を受け、併合されてしまった。
  そして、チベット民族の伝統的な文化が否定された。
  (日本も、第二次世界大戦の後に、アメリカによって、
 日本文化・神楽などの破壊の経験を持っている)・・
  チベット民族は、漢民族の毛沢東の思想教育・・洗脳
 教育を始められた。
  チベット人は600万人だったが・・中国は、漢民族の自
 国民を、720万人という多くの漢民族をチベットへ流入
 させた。
  チベットへ流入させた漢民族によって、チベットの地
 は、漢民族が大多数を形成するという地となった。
  チベットがチベットの国から漢民族の国になった。
  漢民族の中国は、この様なやり方で、チベットという
 国を乗っ取り、奪った。
  そして、強烈な「エスニック・クレンジング(民族浄
 化作戦)」を行なった。
  チベット民族の方々への弾圧も凄(すさ)まじかった。
  チベット民族の方々は、堪(たま)らず、1959年3月10
 日、チベット民族の方々は立ち上がり、蜂起した。
  漢民族の中国は、この時とばかり、大部隊を送る戦争
 が・・本職の軍隊を多数投入して、チベット民族の方々
 を、11万人以上もの方々を虐殺してしまった。
  この後も何度も、最悪の弾圧に起ち上がるチベット民
 族の方々は殺され続けた・・犠牲者数は120万人以上に
 達した。
  もし、その様なことが、あなたの国で起きたら・・あ
 なたはどうしますか?・・どう思いますか?
  胡錦濤は、この時の担当であった・・
  チベットでのこの卑劣な酷い弾圧が、功績だとされ・・
 中国国家主席にまでなった。
  (参考)胡錦濤:こきんとう、1942年12月、上海で生
     まれる。
     1964年(22歳)中国共産党に入党
     1965年(23歳)清華大学卒業。専門の水利学を
      生かし甘粛省水利部門などに技師として勤務。
      当時、甘粛省党委員会書記だった宋平・元政
      治局常務委員に見出される。
     1982年(40歳)中国共産主義青年団 (共青団)
      甘粛省委員会書記に就任し、党活動専任に転
      じた。
     1984年(42歳)共産主義青年団中央書記局第1書
      記
     1985年(43歳)貴州省党委員会書記
     1988年(46歳)チベット自治区党委員会書記を
      歴任。
     1992年(50歳)第 14回中国共産党全国代表大会
       (党大会) 後に中央政治局常務委員に抜擢さ
      れる。
     1993年(51歳)以降、中国共産党中央党校の校
      長
     1998年(56歳)第9期全国人民代表大会 (全人代)
       第1回会議で国家副主席
     1999年(57歳)以降、中国共産党中央軍事委員
      会副主席を務める。
     2002年(60歳)第16回党大会後に党中央委員会
      総書記
     2003年(61歳)第10期全人代第1回会議で国家主
      席に選出され、中国の党機関と国家機関のトッ
      プに就任した。
.
1959年~1962年、中国の大飢饉
  この飢饉で、最小でも4500万人が死んだ。
  そして、最近になって閲覧できるようになった中国共
 産党の古文書では・・、
  毛沢東が、全体主義的権力の構築と、その強化のため
 には、極度の暴力を用いるしかないと決断したことを明
 らかにしている。
  だから、毛沢東は、この真逆のことを実行した。
  残酷なだけの、まったく意味のない行為を組織的に遂
 行した。
  歴史学者のフランク・ディケーターは、「人民解放戦
 争」「大躍進政策」「文化大革命」の三つで、毛沢東は、
 5500万人、そして、それ以上の人々を虐殺したと言った。
  共産主義国家は、何処も独裁国家で、情報統制をする。
  都合の悪い情報は隠して、実態を分からなくしている。
  数々の残虐行為をしているにもかかわらず、その実態
 がなかなか出て来ない。
  逆に、美しくプロパガンダされ、多くの人々が騙(だ
 ま)されている。
  だから、多くの知識人が共産圏に「正義」を抱いてい
 る。
  しかし、今・現在は、その実態が分かられて来ていて、
 その卑劣さも白日の下にさらされて来ている。
  だから、共産主義国家は、反体制の人々を厳しく監視
 する監視社会となっている。
  家族や友人の間にまでスパイを潜(もぐ)り込ませて
 いる。
  共産社会の人権抑圧は卑劣なものとなっている。
  共産圏では、その一握りの者による政治の実権の奪取
 の体制により、その不埒な体制維持のため、人類の最悪
 の行為=ジェノサイド(大虐殺)がよく行われる。
  その実態が分かって来て、共産主義社会の幻想の実態
 が目の当たりに感じられるようになった。
  日教組も共産主義に傾倒している組織であるが、その
 共産主義の実態が、さすがに分かって来たのではないだ
 ろうか。
  朝日新聞も馬鹿な新聞なのだが、共産圏国家の大虐殺
 を最初は否定した。
  今は、その何度も行われた大虐殺を否定できなくなっ
 ている。
.
1970年代以降、中国が、日本の領土である尖閣諸島を、「
 中国の領土だ」と急に言い出した。
  尖閣諸島は、「中国の古文書にも、日本の領土と認め
 ている記述がある」。
  その様な史実を無視して、中国は、「言いたいことを
 言い出した」。
  日本は、日清戦争以前から尖閣諸島をどの国も支配し
 ていないことを10年間も確認した後、国際法の要件を満
 たして、1895年に、領土に編入した。
  中国が領有権を言い出したのは、1970年代以降、東シ
 ナ海に石油埋蔵の可能性が指摘された後のことだった。
  中国の李克強首相は、「尖閣諸島は、日清戦争のどさ
 くさに日本が盗んだ」と、欧州旅行で言って歩いた。
  何を言っているんだと言いたい・・
  この日清戦争の頃の中国の認識は「尖閣諸島は、日本
 の領土だ」だった。
  1970年代以降に、「石油が埋蔵されている」とされて
 から、尖閣諸島を盗もう・奪(うば)おうとしているの
 は中国の方だ。
  中国は、最近になって、自国の領土だとして奪う行為
 を南シナ海でもやっている。
  南シナ海に存在するベトナムや台湾やフィリピンの領
 土まで奪おうとしている。
  国際司法裁判所でも、「中国の領土ではない」とはっ
 きり判決が下りた・・それなのに、中国は不法な占拠を
 続けている。
  そして、最初、「軍事基地化はしない」と言っていた
 が、今では、強引に軍事基地化をしている・・ミサイル
 配備までもしている。
  中国こそ、窃盗行為をしている。
  この様な悪評判は、昔から、中国にはある。
  よくやったからと車賃を多くあげると、感謝するので
 はなく、「こいつは金持ちだ、もっと催促してやれ」と
 いう発想を中国人はする・・そして、「多額な金を要求
 する」。
  この様な事例・・アメリカ人夫妻が、強盗に変わった
 中国人に殺された。
  道にいた中国人の乞食に、1円銀貨をあげた。
  1円といえば、1ヶ月間、食べられる金額だった。
  早速、仲間と共に、先回りして、この夫妻を殺してし
 まった。
  だから、中国へ金を与えるのは、よほど、注意しなく
 てはならない。
  金を貰っている間は良い顔をしているが・・それが、
 終わった時の反動が、中国独特の反動となって、予測不
 可能状態となる。
  今・現在、北海道の帯広の広大な土地が、中国に買わ
 れてしまっている。
  この行為は、この後、留まることなく続けられるだろ
 う。
  中国は、輪転機を廻せばいくらでも人民元が刷れる国。
  その様な人民元で、次々と北海道の土地が買われる。
  チベット、ウイグル、内モンゴルの如くになる。
  今・現在、満州の地に居た満州人の方々は、満州の地
 には居ないという状態となっている。
  北海道の地に、北海道の人たちが居なくなることが無
 いようにしなければならない・・
.
1995年、この頃より、中国は「日本軍に殺された中国人は
 3500万人だ」と言い出した。
  嘘やデッチ上げばかりを言う中国共産党政権というこ
 とは分かっているが、この嘘も酷い嘘だとすぐ分かる。
  この当時、日本軍は35万人が居た。
  中国共産党政権の言う通りだったら、一人が100人を殺
 したことになってしまう。
  野戦病院に居た軍医や看護婦さんまでが100人殺したこ
 とになってしまう。
  この様な嘘を言う中国共産党政権は、自身が、自国民
 の中国の国民の方たちを6500万人も虐殺したことを隠し
 ている。
  また、因みに、ドイツのナチスが、ユダヤの方々に対
 する虐殺は400万人と言われていた。
  しかし、この人数に関し、冷戦の終結後、研究者の方
 たちが正確な数を検証した結果、約150万人だとなった。
  この数字が広く、今は、認知されている。
  何故? 400万人という数字になったかというと・・
 ソ連が、ナチスの罪を過大にしていた・・それは、自身
 が起こした「カチンの森」などの大虐殺の罪を薄めたい
 としてやったことだった。
  共産国家はこの様な安易な嘘をよく言う・・
.
2003年2月25日、韓国の第16代大統領に蘆武鉉(ノムヒョン)
 大統領がなった(~2008年2月24日)
  日本と韓国は、誠実に向き合い、1965年、日韓基本条
 約を締結し、それまでのすべての日韓間の問題や懸案事
 項をすべて解決した。
  もう、残る問題はないという状態にした。
  しかし、卑劣な事に、この韓国が、今までよくやって
 来たように、後になって、韓国の蘆武鉉(ノムヒョン)
 大統領は、言い出した・・「屈辱的な条約だった」と・・
 そして、「あの時は自分たちの認識が低くて、もっと(
 金を)貰うべきだった」とか、「個人補償はまだだ」な
 んて言っている。
  これは、韓国の方々へ真実を言っていない。
  それまで、韓国は、1965年の日韓基本条約の議事録を
 韓国国民の方々が見ることができない様にしていた。
  まったく卑劣である。
  また、個人補償は、韓国政府が「個人補償は、我々・
 韓国政府がやるから、その分の金は我々(韓国政府)に
 支払ってくれ」と・・、我々・韓国政府がやるからと言
 った。
  日本は、その通りに巨額な金を韓国へ支払った。
.
2006年10月24日、韓国で一心会事件が起きた。
  日本は、共産独裁国家に包囲されている。
  もう、韓国は共産国家だと考えてよい。
  アジアにおける「第二次世界大戦の勝者」は、アメリ
 カではない。
  勝者は共産国家である、「共産・中国」「共産・ソ連
 (現:ロシア)」である。
  アメリカに残ったのは「台湾」だけである。
  この台湾にしたって「軍事大国となった共産・中国の
 猛烈な圧力が加えられている」。
  台湾の自立も危(あや)うい。
  北朝鮮は、核保有国となった。
  ロシアも、プーチンの独裁資源大国として復活してい
 る。
  韓国は、国家の中枢まで共産勢力が浸透している国家
 となってしまっている。
  どこもかしこも共産化している。
  冷戦に自由主義陣営が勝利したなんて「思い込みであ
 る」。
  以上の実態から見た通り・・共産主義国家の勝利とな
 っている。
  「冷戦に勝利した」なんて日本は信じ、楽観的に言っ
 ているが・・冷静にアジアを見れば、そんな構図はどこ
 からも見えない・・
  それとは真逆な共産国家ばかりが見えて来る。
  2006年10月24日、「一心会事件」が韓国に起きた。
  この事件で韓国の政界の奥深くにまで共産スパイ組織
 が潜り込んでいる実態が世界に明らかになった。
  韓国は、この様な状態になっている。
  様々な大事な機密情報が・・北朝鮮へ漏れていた。
  また、韓国内の反米集会をやらせ、繰って、デモを扇
 動している。
  韓国の米軍情報をスパイしたり、韓国国会議員・政治
 家たちの思想傾向を分析したデーターを入手し、また、
 政治関係者にまで調べ上げ、総選挙や地方選挙などの機
 密情報まで北朝鮮へ渡していた。
  韓国と北朝鮮は、以前からかなり親密な関係になって
 いた。
  その様なことから、韓国は、PSI(大量破壊兵器拡
 散防止構想)に不参加を表明した。
  北朝鮮の核が・・我が物になる姿が見えていた。
  対北朝鮮制裁事項などにも馬耳東風で、北朝鮮観光を
 したり、工業団地事業をしていた。
  2007年には、1250億円という額となっている。
  もう、今・現在は、共産・北朝鮮と一体化が目の前状
 態となっている。
  2005年9月には、アメリカの韓国における戦時作戦統帥
 権を全面的に返還してくれと韓国は言い・・、
  2009年に、アメリカの統帥権は無くなった。
  北朝鮮への接近状態となった。
  韓国政権中枢部の心臓部には「熱烈に北朝鮮を支持す
 る者が大量に入り込んでいることが判明した」。
  過去に、韓国政府の転覆を目論(もくろ)んだ者たち
 まで入り込んでいた。
  だから、アメリカや日本が何を言おうが、まったく駄
 目な状態の政権が作られていた。
  今・現在の日本もその様な事になっていないか?
  その様な恐れはないのか?
  韓国は、野党まで反米反日になって北朝鮮路線は、変
 わりようがない状態にある。
  そんな韓国は、メディアを牛耳ろうと行動した。
  熾烈なメディア弾圧をした。
  言論統制をした。
  逆に、政権に好意的な記事を書く新聞には「新聞発展
 資金」を作って金を渡し、資金援助をした。
  広告も入れたりして応援した。
  気に入らないメディアには、非常に厳しい税務調査を
 行なったりして叩いた。
  また、役員の身柄拘束を、なんだかんだと言って行っ
 た。
  自殺をする経営者が居たほどだった。
  そして、偏った報道しかなされない韓国となった。
  韓国の国民の方々は、真実を知ることができない状況
 にされた。
  韓国大統領が、大金を北朝鮮へ渡したり、国会内は親
 北朝鮮が一杯状態。
  真実を知らされない韓国国民の方々となっている。
  共産・北朝鮮の独裁国家が良いと思い込まされている。
  ここに、情報戦に敗けた自由主義陣営がある。
  必ずしも、正義が勝つわけではない。
  一握りが牛耳る独裁国家が選択されている。
.
2012年9月15日、中国で官製と言われる反日デモが起きた。
  このデモに参加した人たちは、中国で虐げられている
 農民工で・・この方たちの不満が利用された。
  (参考)農民工は、広義と狭義の2種類があり、広義で
     は農村に定着しながら地元の郷鎮企業で働く者
     と、地元農村を離れいくつもの地方都市で複数
     の企業を渡り歩く者とを含み、それら以外の者
     が、狭義の農民工。
      中国国家統計局の発表によると、2011年の時
     点で全人口のほぼ2割に相当する2億5278万人の
     農民工がいるとされる。
      農民工は「世界の工場」を支える労働力であ
     り、進む都市化の中でインフラ建設を支える重
     要な人的資源として、工業化の進展のために不
     可欠な存在となっている。
      農民工の安い労働力が得られてこそ中国の
     「世界の工場」が成立する条件となっている。
      反日デモが収束したのは、その農民工の不満
     の先が、共産党へ向けられたので、政府が慌て
     て止めさせた。
  中国の実態を言えば、中国は、「金の力」と「軍事の
 力」が、ものを言うという国。
  だから、アメリカの政策は、大間違いだった。
  力を得たいと「ルールなんて無視して、中国は、日本
 の新幹線技術を盗んだ」・・
  また、中国は、「日本のとっておきの製鉄技術も手に
 入れた」。
  新幹線技術で、中国は、世界で手広く商売をしている。
  また、製鉄技術で鉄を大生産して、世界の鉄を牛耳っ
 ている。
  その様なことをしても、平然と盗んでも悪びれる風も
 無いという低劣な中国となっている。
  恩義ある日本にやることと言ったら、2012年に、煽っ
 て反日デモをさせた。
  中国に進出している日本資本の商店やマーケットを襲
 って破壊した。
  弁済補償もしようともしない中国となっている。
  そして、「日本が悪い」「日本が悪い」とだけ言う。
  まったく南京事件をデッチ上げたやり方と同じ。
  中国が出した南京事件の証拠だという写真は、嘘のデ
 ッチ上げと、今ではすべてが立証されている。
  また、事実を調べれば、南京へ迫る日本軍の恐ろしさ
 に、中国の最高司令部が真っ先に南京から逃げ出し・・
  中国兵の下っ端に至るまで、逃げ出すばかりの中国兵。
  その様な中国軍のだらしない混乱の中で、日本軍と戦
 えと、中国軍が、中国軍の自国の兵士へ銃を撃つという
 事態も起きた・・
  また、逃げるための川の舟の取り合いで自国民同士が
 殺し合うという事も起きた。
  中国には「ルールなんてない」「道義なんて無い」・・
 そんな国。
  日本と無電の契約を結んで30年間の独占権を与えても、
 すぐに、そんな事があったかと、アメリカに同じ権利の
 独占権を与え、10年間OKと許可を平気で言う国。
  また、満州の鉄道敷設の日本と契約した権利を無視し
 て、他国に同様な事をさせる・・まったく約束が意味の
 無い状況になっても・・平然と行なっている中国。
  嘘ばかりつき、約束も守らない中国。
  だから、結局、「金の力」と「軍事の力」を持つもの
 だけが牛耳る国となる。
  皆が、ここにゴマを刷り集まるという状況の国。
.
2016年8月3日、ネパールに浸透する中国
  ネパールでは、毛沢東主義者のテロが猛威をふるって
 いた。
  ネパール新首相に毛沢東主義派のダハル氏・・中印の
 外交に変化・・
  産経ニュースが報じるところによると・・
  ネパール議会は3日、議会第3党、ネパール共産党毛
 沢東主義派のダハル(別名プラチャンダ)書記長を新首
 相に選んだ。
  首相就任は2回目。
  第2党、統一共産党のオリ議長が先月、毛沢東派の連
 立離脱で首相辞任に追い込まれていた。
  オリ氏は、昨年10月に首相に就任したが、内戦時の
 戦争犯罪の扱いなどをめぐり毛沢東派が不満を表明し、
 連立を解消していた。
  オリ氏は、新憲法に反発する親インド住民によるイン
 ドとの国境封鎖への対応で中国に接近していたものの、
 新政権では、インドとの関係が深い第1党のネパール会
 議派が連立与党に復帰。
  近隣国外交の振り子がインド側にやや戻りそうだ。
  かつて王制打倒を掲げ、反政府武力闘争を展開した毛
 沢東派は、2006年に政府と包括和平協定に調印し、
 内戦が終結。
  2008年に、ギャネンドラ国王が王位を剥奪され、
 ダハル氏はこの年から翌年まで首相を務めた。
.
2019年、大いなる策士であり、巨大な策士であるルーズベ
 ルト・アメリカ大統領・・
  そのルーズベルト」が残したものは、「卑劣な原爆投
 下国としてのアメリカの汚名」・・と、
 「巨大な共産国の二つ・・ソ連と中国」だった。
  ルーズベルトによって、アメリカ国民の方々は、その
 巨大な二つの共産国によって、巨額な対応費を支払う羽
 目になった。
  そして、今・現在でも、その一つの中国と、これから
 長い対峙の時代に入る・・「新冷戦と言われる時代」に・・、
.
2019年、日本は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」
 で、アメリカに裁かれた・・が・・
  そのアメリカは、また、その同じ基準で裁かれなくて
 はならない。
  しかし、ベトナム戦争の時もしかり、その様なことは
 おくびにも出さないで、この国は逃げ回り、とぼけてい
 る・・。
  そして、この様な日本の裁かれ方は、「この時だけ」
 で、この後に・・この日本の様な「なされ方」の実施例
 は皆無・・まったくない。
  つまり・・この事からも、この時に、日本にやったア
 メリカは異質で、そして、やるべき事ではないことをし
 ていたということが分かる・・
  第二次世界大戦の終結からの長い年月が証明している・・
  アメリカの間違いが証明されている。
.
2019年1月2日、「台湾に一国二制度」習主席演説、アメリ
 カをけん制・・読売オンラインは伝える・・
  中国の 習近平国家主席は2日、北京で台湾政策に関す
 る包括的な演説を初めて行い、平和統一の実現や、一つ
 の国家に異なる制度の存在を認める「一国二制度」の導
 入など5項目の対台湾方針を示した。
  習氏は、一方で「武力行使を放棄することは承諾しな
 い」とも明言し、台湾との関係強化に動く米国を念頭に
 「外部勢力の干渉」を拒否する姿勢を鮮明にした。
  演説は、中国が台湾に平和統一を呼びかけた「台湾同
 胞に告げる書」発表から40年に合わせて行われた。
  習氏の5項目の方針は、平和統一の実現と一国二制度
 適用のほか、「一つの中国」原則の堅持、中台の融合・
 発展、統一意識の増進だ。
  習氏は、香港などに「高度な自治」を保障した一国二
 制度を台湾の実情を踏まえて適用する考えを示し、将来
 の中台関係に関して台湾の政党や各界の代表者との政治
 協議を呼びかけた。
  中台融和による台湾への経済的利益にも触れた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive  


2019年01月02日

(増補版)626E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年5月)

題:(増補版)626E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年5月1日、康有為らが、日清講和条約を拒絶し、都を
 奥地に移し、行政制度を変えろと上書した。
  (参考)上書:じょうしょ、意見を述べるため官・主
     君・貴人に書面を差し出すこと。
  (参考)康有為:こうゆうい、日清戦争の敗北に衝撃
     を受け、政治と社会の革新の必要を光緒帝に建
     言し、採用されて1898年の戊戌の変法の中心人
     物となった。
      しかし、西太后ら保守派のクーデター(戊戌
     の政変)によって失脚、日本に亡命した。
  (参考)戊戌の変法:ぼじゅつのへんぽう、清王朝時
     代の中国において、1898年6月11日から9月21日
     にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士
     大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法
     派によって行われた政治改革運動。
  (参考)戊戌の政変:ぼじゅつのせいへん、中国、清
     朝末期の1898年に、光緒帝が康有為を登用して
     始めた変法自強運動に対して、西太后を中心と
     する保守派が反撃・弾圧した事件。
      光緒帝は幽閉され、反動政治が復活した
  (参考)変法自強運動:へんぽうじきょううんどう、
      日本の明治維新に範を取って上からの改革に
     よって清朝を強国にするという変法自強運動の
     集大成。
      あまりに短い改革の日数をとって「百日維新」
     ともいう。
      これに先立って、1861年から30年以上洋務運
     動が行われ清朝の国勢は一時的に回復したが、
     旧体制を変えずに西洋技術のみを取り入れる洋
     務運動は日清戦争敗北により限界を露呈した。
  (参考)洋務運動:ようむうんどう、中国・清朝の漢
     人官僚によって推進された近代化政策。
      西洋軍事技術の導入、官営軍事工場の設立な
     どによって、清朝の衰退の回復を図った。
  (参考)光緒帝:こうちょうてい、中国、清朝の第11
     代皇帝 (在位 1875~1908)
  (参考)西太后:せいたいこう、中国、清朝、咸豊帝
     の側室で、同治帝の生母である慈禧 (じき) 皇
     太后のこと。
  (参考)咸豊帝:かんぽうてい、 中国、清の第九代皇
     帝(在位1850~1861)。
  (参考)同治帝:どうちてい、中国、清朝の第10代皇
     帝 (在位 1861~75)
  1895年、李鴻章が下関で日本と講和条約を結ぶ。
  遼東半島と台湾とを日本に割譲する内容となった。
  この頃、北京に会試(科挙の中央での試験)を受ける
 ために上京していた康有為は、集まっていた各省の挙人
 (科挙の地方試験に合格し中央試験を受験する資格を持
 つ人)によびかけ、千三百人と連名で講和に反対し、抗
 戦するため、奥地に都をうつし、科挙制度を始め清朝の
 旧い行政組織を改革すべきだという書簡を書いた。
  康有為は、進士に合格し、工部参事に任命されたが、
 光緒帝は、康有為の上書を読み、同感し、改革を行うつ
 もりだった・・しかし、事態が変わる・・康有為は、日
 本に亡命する。
.
1895年5月4日、御前会議で遼東半島の放棄を決定した。
  三国干渉を受けて、日本は、遼東半島を清へ返還した。
  遼東半島還付の詔勅が出され、国民の間に不満が噴出
 した。
  臥薪嘗胆の言葉が流行した。
  3000万両(4500万円)と引き換えに、遼東半島を清に
 返還した。
  三国干渉遼東還付(氷川清話)
  (参考)臥薪嘗胆:がしんしょうたん、薪(たきぎ)の
     上に臥(ふ)し、苦い胆(きも)を嘗(な)める意で、
     復讐(ふくしゅう)の志を忘れず、長い間、艱難
     辛苦(かんなんしんく)すること、
      また、将来の成功を期して、報われないまま
     に長い間苦労することをいう。
      中国春秋時代、越(えつ)王勾践(こうせん)に
     敗れて死んだ呉(ご)王闔呂(こうりょ)の子夫差
     (ふさ)は、薪の上に寝て父の仇(あだ)を忘れぬ
     ように努力し、ついに会稽(かいけい)山に勾践
     を破って降参させた。
      勾践はのち許されて帰国したが、以来、つね
     に苦い胆を部屋に掛けておき、それを嘗めては
     自ら復讐心をあおり、とうとう夫差を滅ぼして
     「会稽の恥」を雪(すす)いだ、と伝える『史記』
     「越世家」の故事による。
.
1895年5月5日、九州鉄道の佐賀駅~柄崎駅間が開通した。
.
1895年5月8日、日清講和条約の批准書を交換した。
  講和条約の批准書交換は、清国側の延期要請を拒否し
 て、この日(5月8日)芝罘(チーフー、中国山東省の都市
 で、煙台(えんたい)の古称)で行われた。
  そして、10月28日に発効する。
.
1895年5月10日、遼東半島還付に関する詔勅が出された。
  (参考)詔勅:しょうちょく、天皇陛下の御意志を伝
     える詔書(しょうしょ、天皇陛下の発する公文
     書)、勅書(ちょくしょ、)、勅語(ちょくご)
     の総称。
      古くは臨時の大事大権施行に関する勅旨は詔
     書で出され、尋常の 小事は勅書をもって出され
     た。
  (参考)勅書:ちょくしょ、(1)天皇陛下の勅命を
     下達する文書。
      勅旨と同じ意味で用いられる。
      (2)明治憲法下の公式令で、皇室および国
     家の事務に関する天皇陛下の御意思の表示で特
     定人または特定機関に発せられた文書。
  (参考)勅語:ちょくご、(1)天子の御言葉。みこ
     とのり。
      (2)明治憲法下で、天皇陛下が大権に基づ
     き、国務大臣の副署を要さないで、直接国民に
     対して発した御意思の表示。
      (3)教育勅語のこと。
.
1895年5月10日、台湾総督に海軍大将・樺山資紀を任命した。
  (参考)樺山資紀:かばやますけのり、1837年~1922
     年2月8日、
      1837年、薩摩国(鹿児島県鹿児島市)に、薩摩
       藩士・橋口与三次兼器の三男に生まれる。
      1867年(30歳)戊辰戦争に鳥羽、伏見、次い
       で東北を転戦。
      1871年(34歳)陸軍少佐、
      1872年(35歳)南清に出張。
      1874年(37歳)台湾出兵に、西郷従道に従っ
       て出征、中佐に昇進。
      1877年(40歳)西南戦争では、熊本鎮台司令
       長官・谷干城少将の下、参謀長として熊本
       城を死守した。
      1878年(41歳)大佐、近衛参謀長、
      1881年(44歳)警視総監を兼ね少将。
      1883年(46歳)海軍に転じ海軍大輔になる。
      1884年(47歳)海軍少将、
      1885年(48歳)海軍中将、
      1886年(49歳)海軍次官になる。
      1890年(53歳)第1次山県内閣の海軍大臣、
       第1次松方内閣でも留任。
      1894年(57歳)日清戦争では現役に復し、海
       軍軍令部長となり、黄海海戦に会した。
      1895年(58歳)海軍大将、初代台湾総督とな
       った。
      1895年(58歳)伯爵、枢密顧問官、
      1896年(59歳)第2次松方内閣内務大臣。
       改正条約発効の準備のための改正条約施行
       準備委員会委員長に就任。
      1898年(61歳)第2次山県内閣文相を務める。
      1903年(66歳)元帥となる。
      1905年(68歳)後備役(予備役等)になる。
      1910年(73歳)退役する。
      1922年(85歳)薨去。染井霊園。
       受賞大勲位菊花大綬章
  逸話として・・日清戦争中、「西京丸」に乗艦した(
 連合艦隊司令長官の伊東祐亨が慎重な性格であることを
 案じて督戦に行ったとされる)が、商船を改造した急ご
 しらえの艦船のため、他の艦船より取り残され、清の艦
 隊に狙い撃ちをされそうになった。
  その時、敵の旗艦へ突込み、敵船が砲撃し難いように
 し反転して逃げ切った(いわゆる「前退戦法」)。
  鹿児島・薩摩藩は関ヶ原の戦いのとき、この様な『捨
 て奸(すてがまり)』をした。
.
1895年5月11日、日本鉄道、官設鉄道・甲武鉄道・川越鉄道
 との間に4線連絡運輸を開始した。
.
1895年5月21日、日本の凱旋門が造られた。
  日清戦争の勝利の凱旋門が日比谷に作られた。
  長さ110m、中央の高さ30m、基礎は木造で、全体が杉
 の葉で覆われていた。
  東京日日新聞に、この日の日付で凱旋門の記事がある。
  「東京市有志奉迎会の依托により、
  清水組の技師・田島格造、岡本金太郎の両学士が考案
 になりたる設計にして、
  長さ一町に余り、央に高100尺以上の高塔を設け、前後
 に貫通門幅27尺のアーチを備え、
  高さ40尺、幅33尺の廻廊をもって連続す。
  けだし、設計者は、欧米にも前例なき斬新なるTriumph
 Archade(勝利のアーケード)の仮設工事をなす考案なり
 という。
  また、工学博士・辰野金吾氏は、凱旋門建築につき、
 大学において種々研究中なるをもって、奉迎会の依托を
 受け、設計上につき相談にあずかることを承諾せられし
 という。
  前後貫通門の上正面には、草花をもって「聖駕奉迎」
 の4大字を造出せし大額面を製し、
  その上には大国旗を交叉し、その左右に菊花の御紋章
 を造り、
  門の両側は左に「東京市商人」、右に「有志奉迎会」
 とこれまた草花をもって書き出し、
  高塔及び前後貫通門の天井は、いずれも草花をもって
 八角に組み合わす計画なり」
.
1895年5月23日、中国・清が台湾を日本に売ったが、その事
 に不満の一部の住民が台湾民主国の樹立を宣言した。
  台湾人の邱逢甲(きゆうほうこう)と、台湾巡撫・唐
 景崧(とうけいすう)らが樹立し、総統に唐景崧が就任
 し、副総統兼義勇統領に邱が就任した。
  これは清国の外交的工作の中で生まれた。
  清国は、三国干渉をしたロシア、ドイツ、フランス、
 イギリスが、もっと台湾民主国を承認したりして応援す
 ると思っていた。
  しかし、三国干渉をした国々は、日本の対応に満足し、
 清国が期待する様には動かなかった。
  (参考)台湾巡撫:たいわんじゅんぶ、最高地方統治
     官。
  この様な状況で生まれた台湾民主国は、国際的承認も
 受けられずに・・
  1895年5月29日、日本の近衛師団の上陸に、台湾民主国
 の首脳陣の逃亡が相次ぎ、平定された。
  (1895年5月24日の翌日に、出発していた)
  清国側も、再度、日本との戦争が再発されることを恐
 れ、日本の予定通り、要求通り事は進すみ・・
  1895年6月2日、樺山資紀・初代台湾総督と清国との間
 で台湾授受手続きが終了した。
.
1895年5月24日、日本台湾総督軍部隊が宇品港を出発した。
.
1895年5月24日、関西鉄道が、名古屋駅~前ヶ須駅(現:弥
 富)間が開通した。
.
1895年5月25日、台湾民主国の成立宣言。
  台湾島民の反乱(氷川清話)
  台湾が、本格的に開発されたのは日本統治時代になっ
 てからであるが・・、
  1895年5月25日、日本への割譲反対を唱える漢人によっ
 て台湾民主国の建国の騒動が起きた。
  進駐した日本軍との乙未戦争に発展した。
  (参考)乙未戦争:いつびせんそう、下関条約によっ
     て、日本への台湾割譲が決まり、上陸した日本
     軍に対して清国の残兵や一部の台湾住民が抵抗
     し戦闘となった。
.
1895年5月26日、ウィリアム・ラムゼー卿がヘリウムの単離
 に成功した。
  (参考)ウィリアム・ラムゼー:1852年10月2日~1916
     年7月23日、スコットランド出身の化学者。
      1904年、空気中の希ガスの発見によりノーベ
     ル化学賞を受賞。
  1894年4月19日の夜、ラムゼーは、レイリー卿の講演に
 参加した。
  1892年、レイリー卿は、空気から酸素を取り除いて得
 た窒素の密度は化合物を分解して得られる窒素のそれよ
 りも大きい、という事実を「ネイチャー」誌に報告して
 いた。
  これは、空気中には酸素、窒素以外のものが含まれて
 いるという事を暗示していた。
  ラムゼーとレイリーは、講演後に話し合い、これを追
 究することにした。
  当時、アンモニアの合成を研究していたラムゼーは、
 高温でマグネシウムと化合させて窒化マグネシウムとし
 て窒素を取り除くことにより、空気中の不活性な重い気
 体を取り出すことに成功した。
  ラムゼーは、これを、同年1892年8月に、レイリーに知
 らせている。
  これをアルゴンと名付け・・、
  1895年に、レイリーと共に発表した。
  (参考)レイリー:第3代レイリ―男爵ジョン・ウィリ
     アム・ストラット、1842年12月13日~1919年6月
     30日)、イギリスの物理学者。レイリー卿。
      光の散乱の研究から空が青くなる理由を示す
     (レイリー散乱)、
      地震の表面波(レイリー波)の発見、
      ラムゼーとの共同研究によるアルゴンの発見、
      熱放射を古典的に扱ったレイリー・ジーンズ
     の法則の導出などを行う。
      このほか流体力学(レイリー数)や毛細管現
     象の研究など、古典物理学の広範な分野に業績
     がある。
      「気体の密度に関する研究、および、この研
     究により成されたアルゴンの発見」により、
      1904年のノーベル物理学賞を受賞した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国・人民元は・・通貨覇権を狙っている。
    アメリカ・ドルへの挑戦を始めた。
    しかし、実態は・・ただの紙切れ。
    その裏付けを保証するものは何もない。
    それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応の
   振る舞い。
.
1921年3月3日、昭和天皇陛下が皇太子であられた時、6ヶ月
 間のヨーロッパ各国の歴訪がなされた(~1921年9月3日)
  1921年6月13日、第1次大戦のベルギーの激戦地イーペ
 ル(イープル)を訪問された。
  ここでイギリス国王に電報を送っている。
  「目前ノ風景ハ、(中略)『イープル戦場ノ流血凄惨
 (せいさん)』ノ語ヲ痛切ニ想起セシメ、予ヲシテ感激・
 敬虔(けいけん)ノ念、無量ナラシム」
  1921年6月25日、やはりフランスの激戦地ヴェルダンを
 視察なされた。
  「到るところに弾痕を留(とど)め、砲弾の破片、防
 毒マスク等がなお地上に残存する。
  付近に戦死者の遺族と思われる一婦人が、僧侶と共に
 柩(ひつぎ)を携え遺骨を収集する様子も一行の目に入
 る。(中略)
  皇太子殿下は、戦跡御視察中、戦争というものは実に
 悲惨なものだ、との感想を漏らされた。
  1921年7月7日には、現地紙にこんな談話を寄せられて
 います。
  「破壊せられたる諸都市、荒廃したる諸森林、蹂躙(
 じゅうりん)せられたる田野の景は、戦争を讃美(さん
 び)し、暴力を謳歌(おうか)する者の眼には如何(い
 か)に映ず可(べ)きか」
  ・・このご視察の時から、特に、後の、昭和天皇陛下
 は平和主義者となられた。
.
2004年7月、NHKの紅白歌合戦チーフプロデューサーが、
 制作費約2億円を横領し、実刑5年の判決を受けた。
.
2004年8月、NHKのソウル支局長が、不適切な経理処理で
 約4000万円を着服した。
.
2004年9月、NHKの岡山局放送部長が、架空の飲食費名目
 で約90万円を着服した。
.
2004年9月、NHKの編成局エグゼクティブプロデューサー
 とチーフプロデューサーが、カラ出張を繰り返し、約300
 万円を着服した。
.
2004年9月、NHKの京都放送局営業職員が、約208万円を
 着服した。
  NHKは、「異常」と言えるほど犯罪が多い。
  上記は、ほんの一部である。
  考えられるその理由は、「給料がべらぼうに多いこと」
 そして、「働く時間が本当に少ないこと(自由な半拘束
 時間ばかりの勤務状態)」・・
  NHKに異常に犯罪が多いのは、「ここに原因がある」。
  金があって、時間がある・・という状態。
  NHKは、もっと「自らを律せよ!」・・
  放漫給料をお手盛り状態から正せ!
  余裕のあり過ぎる人員体制を正せ!
  NHKは、身を引き締める努力をせよ!
.
2018年、中国・・人権を無視する国。
  「改革・開放」と美しく聞こえ、また、美しく見える
 表題を掲げてはいるが・・、
  やっていることは、個人の自由を認めないとか、差別
 の行為するなどなど・・だ・・、
  中国の資金を回すために、「計画だと称して無計画に」
 マンションをあちこちに建てている。
  資金回転の為だけで、「売れる見込みはまったく無い」。
  空室が、どんどん増えているのが現状。
  ものの見かたをそこで止めるのではなく、さらに奥深
 く見てみると・・
  誰も住まないマンションが建てられたその地で、平和
 に暮らしていた中国の民の方々が、そこに居たのだとい
 う事を思わなければならない。
  その為に、そこを追い出された人々は、流浪の民とな
 っている。
  政府の開発事業という「錦の御旗」で立ち退きをさせ
 られた人々は、僅かな補償で貧困層に転落する。
  持っていた農地も無くなる。
  ガラ捨て場で「売れるものを探す」人々となる。
  再度、移転を強いられる人々もいて、移転のたびごと
 に暮らしは悪くなる。
  移転させられ住んでいた所が、「違法だ」という烙印
 を押されると、頼りの補償もまったくもらえない。
  働く場を求めてその土地へ行くと、「所得が低い」と
 その都市から追い出される。
  この様に、仕事を求めて流入する人々が多いため、都
 市への流入・・都市の人口膨張が酷(ひど)くなる。
  都市への流入に、「大学卒で無いから駄目」などと差
 別的な事も行なわれる中国となっている。
  何が、「万民が公平な共産主義だ」なんだ??
  2014年には、2億5300万人が人口移動したと中国政府が
 発表した。
  農村も「再開発だ」と、農民の生活環境を改善すると
 いう名目は美しいが、その開発熱が皮肉にも農民に農地
 を失わせる・・「失地農民」と呼ばれる「かつて農民だ
 ったという人々が増えている」。
  北京郊外の大興区でも・・一つの村が消えた。
  2017年11月に、簡易宿泊所が火災になり19人が焼死し
 た時など・・中国政府は違法建築を壊し始めた。
  その様な場所は・・低所得の階層の方々の住む場所で、
 すべてが壊され、更地となった。
  密集し、肩よせ合って生活していた方々の住む場所が
 奪われた。
  その奪った場所は・・高さ2メートルの塀で囲われ、二
 度と家が建てられないようにされた。
  「流浪の民になるしかない」と元住民は語った。
  違法建築だからと「補償も無く追い出された」のだっ
 た。
  確かに、こんな政治が原因してて、都会へ流れるしか
 ない中国の民なのだが・・その貧困に苦しむ人たちが多
 く、北京の人口も2000万人を超えている。
  北京は水不足となり、交通渋滞となり、大気汚染も甚
 だしい。
  医療機関も機能マヒに陥(おちい)るという患者の殺
 到状態。
  北京に住むためには「多いポイント」が無ければ住め
 ないとして、「住む自由を取り上げた」。
  政府は、締め出しに躍起になっている。
  そして、政府は、あっちへ行け、こっちへ行けと、人々
 の住む自由を剥奪して指図している。
  知者は・・、
  「都市とは、その魅力にひかれ、人が自然と集まる場
 だ。
  人工的な人口分散が成功した例は国際的にもほとんど
 ない」・・と、政府のやることに批判的。
  また、中国の卑劣な事は、人口移動した人々に対し
 「教育の権利のはく奪をしている」。
.
2018年12月24日、中国が「技術移転」の強要を禁止した。
  この日に発行された読売新聞によると・・
  中国政府は23日、中国に進出した外国企業に対する技
 術移転の強要の禁止を明文化した「外商投資法」の草案
 を明らかにした。
  アメリカのトランプ政権の要求に応じて、法整備を進
 める姿勢を示し、貿易摩擦を早急に解消する狙いがある。
  23日から北京で始まった全国人民代表大会(全人代=
 国会)常務委員会に、政府が草案を説明した。
  国営新華社通信などによると・・、
  草案は、外国企業と中国企業の技術協力の条件につい
 て、「関係者が協議して決定するものであり、
  行政機関や職員が、行政手段を用いて強制的に技術移
 転させることはできない」と規定した。
  法にのっとって、外国企業の知的財産権を保護するほ
 か、
  外国の投資者が、中国で得た利益などは自由に国外に
 持ち出せるとしている。
  中国に進出した外国企業は、合弁先企業や地方政府か
 ら技術移転を強要されるケースがあるとされる。
  今月1日の米中首脳会談では、米国が今後の交渉項目の
 筆頭に掲げ、改善を求めた。
  日欧もこれまで批判を繰り返してきたが、中国は強要
 の存在自体を認めて来なかった。
  中国が、技術移転の強要禁止を法制化しても、実効性
 があるかどうか、見極める必要がある(下略)
.
2018年、中国は、日本を反面教師として・・
  日本は、第二次世界大戦で、情報戦で完全に、アメリ
 カに敗けていた。
  今・現代、中国は、それを教訓とするかのように、情
 報の戦略的優位を築こうとしている・・アメリカを駆逐
 しようとしている。
  そしてまた、かつてのアメリカのルーズベルト大統領
 の非情さと、狡知(こうち、わるがしこい知恵)さまで
 真似しようとしている。
  南シナ海を、屁理屈で埋めて、とうとう中国の軍事基
 地化してしまったのが良い例だ。
  かつては、日本も、そこに隙があった・・その様な日
 本を、中国は反面教師としている。
  第二次世界大戦を終わらせたいとする日本が、ソ連を
 和平の仲介者としてかなわぬ努力している日本に、その
 哀れささえある。
  情報が欠如しているから、日本は、ここまでされられ
 た。
  そして、悲劇な展開を、アメリカにされる。
  原爆の実験台にまでされるという日本となる。
  これに関連する記事が、2018年12月28日の読売新聞に
 記載されていた・・
  以下が・・その記事・・
  中国政府は、米国のGPS(全地球測位システム))
 に対抗して、独自開発を進めてきた衛星測位システム「
 北斗」が27日、全世界に向けたサービスを開始したと発
 表した。
  中国通信機器大手「華為技術」(ファーウェイ)など
 による次世代通信規格「5G]の技術覇権争いに続き、
 測位システムでも米国の優位さに挑む狙いがあるとみら
 れる。
  中国は、2012年から、アジア・太平洋地域を中心とし
 た約90ヶ国に北斗のサービスを提供してきた。
  全世界向けサービスはこれまで、20年までに開始する
 計画だったが、前倒しした。(中略)
  全世界にサービスを提供している測位システムは、米
 国の国防総省が31基体制で運用するGPSのほか、
  ロシアの「グロナス」や、欧州の「ガリレオ」があり、
 GPSが圧倒的な影響力を誇っているとされる。
  習近平政権は、中国とブラジル、ロシア、インド、南
 アフリカで作る新興5か国の枠組みで、北斗を利用した
 ビックデータの運用などにおける協力体制を提唱するな
 ど、北斗システムの普及を急ぎ、国際的な影響力拡大に
 利用する構え。
 ☆中国、データ集積加速・・米、警戒強める・・
  中国の測位システム「北斗」が、世界向けサービスを
 開始したことは、習近平政権の最先端技術開発に警戒を
 強める米トランプ政権が、対中強硬姿勢をさらに強める
 きっかけとなる可能性がある。
  米国の全地球測位システム(GPS)が先行して来た
 が、中国は軍事活動での米GPSへの依存から脱却する
 ために北斗の開発を進めた。
  一方、中国国内では、すでに、主要36都市の路線バ
 ス8万台、海上の管制設備2960基などが北斗を導入
 している。
  国内で販売されているスマートフォンの大部分も位置
 情報機能などで北斗を活用しており、民間への普及も進
 んでいる。
  測位システムは、位置情報を提供する一方、システム
 を運用する側も、システムを活用する機器の位置や移動
 に関する情報を収集する事が可能とされている。
  習政権は、国家ビッグデータ戦略を推進しており、携
 帯電話による電子決済などを通じ、国民の行動データを
 集積している。
  測位システムの情報も、こうした政府に利用されてい
 るとみられる。
  北斗を利用した製品はすでに、ロシアやインドネシア、
 アルジェリアなどの国で普及しつつある。
  今回の全世界向けサービスの開始を受け、中国は、北
 斗のさらなる市場拡大を見込む(全世界の情報を集め得
 る中国)
  さらに、将来的には、中国上空を飛行する国外の航空
 会社や、中国に輸出する外国企業の製品に対しても、北
 斗への対応が義務付けられるとの見方も出ている。
  今後、北斗のサービス拡大に伴い、国際的な懸念も呼
 びそう(ますます、中国だけにデーターが集積されてし
 まう)
 ☆ そして、2018年12月26日の読売新聞の「米国はどこ
 へ」の記事において・・
  ロバート・ケーガン氏(米政治史家、種々の大統領の
 下で要職を担った)は、以下の事を言っている(抜粋)・・
  「対中国、協調でなく競争」・・
  国際システムの自然な状態は、実は混乱と対立である。
  人間性の本質は、必ずしも民主主義の繁栄を導くもの
 ではなく、独裁国家に至ることもある。
  私は、その様な自然な状態を『ジャングル』と呼んで
 いる・・
  中国では、習近平国家主席に皇帝のように「全ての権
 力が集中している」。
  ロシアのプーチン大統領もそうだ。
  ドイツでは右翼が台頭している。
  もし、米国や民主主義国家が、彼らを押し返さなけれ
 ば・・彼らは成長し、増殖を続けるだろう・・
  米国もいつかは正気を取り戻すと思う。
  しかし問題なのは、その時には、世界を元に戻すには
 手遅れになっているかもしれないという事だ。・・
  米中は今や、競争関係にある。
  私たちは米中が協調に向かっていくという考えを「止
 めなければならない」。
  中国の野望と米国の目標は両立しない。
  中国は、地域の派遣国になることを望んでおり、日本
 を含む地域の国々に中国の支配的立場を受け入れさせた
 いのだ。
  米国は、中国がその目標を達成する障害となる。
  それが現実だ。
  したがって、どのようにその競争を管理するのかとい
 うことが課題となる。・・
  その際には、二つの点が重要だ。
  一つは、経済的に中国を締め付けようとするのではな
 く、彼らに成功する機会を与えなければならない。
  第二に、軍事的な選択肢を選べば彼らは敗けて、指導
 部が崩壊し、悪い結果になるということをはっきりと分
 からせなければならない。
  米国と日本は、軍事的な優位を維持し、中国が軍事行
 動に出る誘惑を持たないように努める必要がある。
.
2019年、中国・人民元は通貨覇権を狙っている。
  アメリカ・ドルへの挑戦を始めた。
  しかし、実態はただの紙切れ。
  その裏付けを保証するものは何もない。
  それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応の振る
 舞い。
  何故? こんな大間違いが起きたのか?
  その中国・人民元の振る舞いの初めには、ウォール街
 の行なった間違いがあった。
  ウォール街は、中国を一時的に大いに助け、そして、
 援助し、そして、ウォールも大いに儲けた。
  アメリカの歴代政権も、「それはウィンウィンだ」と
 勘違いして、大いに進めた。
  そして、アジア・・
  アジアに大きな経済的影響力を持つ華僑・・
  この華僑と中国を刺戟させ、心身を興奮させないよう
 にという政策がとられ、固執し、続けられた。
  しかし、今、この間違いがとんでもないことになると、
 看過できない、見過ごせないと、何とかしなければとい
 う行動が・・とられ始めて来た。
  トランプ・アメリカ大統領は、中国・習近平のアキレ
 ス腱を撞く(つく)行動をとり始めた。
  その目標は、当然、「紙きれの中国・人民元に通貨覇
 権を絶対に握らせない」というところにある。
  高関税に始まり、金融戦争が始まる。
  例え、通商が犠牲になっても「国家の安全保障が大切
 だ」という理念がある。
  中国を甘やかせた最大のポイントは、人民元が変動相
 場制が通常なのに、その状態になっていない。
  中国・人民元は変動相場制に移行させるべき・・
  (日本は、堂々と、変動相場制に移行したが)・・こ
 の図体ばかり大きい中国は、変動相場制が恐怖なので、
 逃げ回ってばかりいた・・
  アメリカの保護下に居た・・そのアメリカを、身分不
 相応に食い始めた。
  今、中国は、ドルが枯渇している・・外貨準備も激減
 している・・資金が中国から逃げ、ますます、余計に、
 中国・人民元の裏付けが無くなっている・・
  それに、不動産バブルが崩壊・・空室ばかり・・株安
 も起きるという災禍・わざわいの中国となっている。
  直接投資が激減するだろう・・貿易も赤字となるだろ
 う・・もう中国の時代は終わった・・ASEANだ。
  異常な二桁の軍拡で作られた景気・・そして、人民元
 増発でも景気を煽るという嘘・・
  知的財産権無視で次世代技術を盗取し、軍事などへ転
 用している。
  アメリカのトランプ政権は、ファーウェイやZTEを
 阻止し、スパイ摘発をしている・・
  また、企業買収を止めさせ、拠点買収を阻止している。
  もう中国は、変動相場制へ移行させねばならない・・
 そんな最恵国待遇の特待席には、いつまでも置いておけ
 ない。
  有頂天でやっている「一帯一路」はしぼんで行く。
  世界の工場と言われた中国の生産拠点も「存在意義が
 無くなった」・・獅子身中の虫に成り下がった。
  中国の政治形態が変わり、真からの自由な経済社会に
 ならないのなら・・消えゆくのみ・・
  AIの熾烈な戦いが繰り広げられる戦国時代の後に、
 その様な社会が来る。
  少数の者が牛耳る監視社会が、多くの奴隷的農民層を
 使うという一時代前の形態の中国社会が生き残れるはず
 がない・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive  


2018年12月29日

(増補版)625E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年5月)

題:(増補版)625E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年4月24日、御前会議が開かれ、ロシア帝国、ドイツ帝
 国、フランスの三国の行なった干渉に対する処置方法に
 関し、討議がなされた・・、
  拒否案、列国会議検討案、妥協案の3つについて検討
 がなされた。
  要求された翌日のこの日、大本営の置かれていた広島
 で、急ぎ、御前会議が開かれた。
  伊藤博文総理大臣はが提議したのは・・
  (1)勧告を拒絶して戦うか、
  (2)列国会議を開いて遼東半島問題をその会議で処理す
   るか、
  (3)勧告を受け入れて恩恵的に清国に還付するか・・、
 の3案を提案した。
  討議の結果、第二案を採択した。
  しかし、舞子(神戸市)で、病気療養中の陸奥宗光外
 務大臣は・・、
  列国会議は、新たな干渉を誘発する危険もあるとして
 反対した。
  下関条約は、あくまで批准して、交換し、日本の面目
 と威厳を保つ・・、
  それとは別に、遼東半島の還付を考えるべきことを提
 案した。
  これに、伊藤も賛成し、天皇陛下の御裁可を得た。
  陸奥は、三国への回答を引き延ばすかたわら・・、
  イギリス、アメリカ、イタリアなどをして、ロシアら
 三国を牽制させる方策をとった・・そして・・、
  金州庁(遼寧省大連市に位置する)を除く遼東半島の放
 棄や、開港場の自由港化などの打開策を打診したが、も
 っとも頼りにしたイギリスが動かなかった。
  万策がつきて・・、
  1895年5月4日、日本政府は、遼東半島の放棄を決定し
 た。
  翌1895年5月5日、三国に通告し、
  1895年5月10日、天皇陛下が詔勅で、その旨を国民に告
 げた。
  1895年11月8日、日清両国は、遼東半島還付条約に調印
 し・・、
  日本は、還付の代償として庫平銀(こへいぎん)3000万
 両(テール)(邦貨4500万円)を受け取った。
  この様な遼東半島についての動きは、それまで、中国
 の周辺部分の侵略にとどまっていた列強の領土欲を刺激
 した。
  列強諸国は、中国の分割を、一気に、中国の中央部に
 まで広げた。
  三国による干渉は、中国を分割して奪い取る列強の公
 然たる争いの第一歩を始めさせた。
  日本は、三国干渉後、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」
 の声のもと、卑劣な対ロシアに備える必要を強く感じさ
 せた。
.
1895年4月28日、三宅米吉、小杉榲邨、下村三四吉らが考古
 学会を設立し、発会式が執り行われた。
  帝室博物館(現:東京国立博物館)を母体にして、当
 時、東京師範教授であった三宅米吉を中心とするもので、
  三宅起草の設立趣意書に・・
  「本会は、同志相集まり本邦考古学の研究に従事する
 ものにして、其の目的は、本邦歴世の風俗・利度・文物・
 技能を明らかにするにあり」とあった。
  当時、人類学会(東京帝国大学人類学教室が母体)が
 石器時代の考古学分野まで担っていた。
  考古学会は、弥生・古墳時代を中心とした。
  1896年、機関誌『考古学会雑誌』が発刊され、28冊を
      刊行し・・
  1900年、機関誌が3篇4号で終刊した。
      そして、機関誌は『考古』と改題されて1-7号
      を刊行した。
  1901年、機関誌が『考古界』と改題され、96冊を出し
      て8篇12号で1910年に一旦終刊した。
  1910年9月25日、『考古学雑誌』が創刊され、現在に
   至る。
  1941年1月、日本考古学会と改名。
      日本考古学会は、現在も、東京国立博物館に
      事務所を置き、雑誌発行を続けている。
.
1895年4月30日、閣議が、三国干渉の部分的受け入れを決議
 した。
.
1895年4月、北極点の到達
  ノルウェーの海洋探検家、及び、政治家のナンセンが、
 北極点に到達した(北緯86度14分)・・、
  1861年10月10日、オスロ郊外の農家の家に生まれた。
  1879年(18歳)スケートのスピード世界記録を破り、
   スキーも名手となる。
    オスロ大学で生物学を修める。
  1882年(21歳)ナンセンは、クリスチャニア大学で動
   物学を専攻し、この年、オットセイ猟船でグリーン
   ランド海に動物生態学調査を試みた。
    グリーンランド東海岸と西海岸を探検し、「エス
   キモーの生活」を著述した。
  1888年(27歳)北緯64度を越えて、スキーでグリーン
   ランドの横断に成功した。
    ゴットホープで越冬し、エスキモーの生活を研究
   した。
  1893年6月(32歳)特殊構造の船を造って、氷に凍結さ
   れたまま北極海を横断するという大胆な計画を立て、
   この年、実行に移した。
    13人の隊員を乗せたフラム号はオスロから出航し、
  1893年9月(32歳)シベリア北岸に沿いにノボシビルス
   ク諸島北方から氷に囲まれ、氷盤に乗って漂流を開
   始した。
  1895年3月14日(34歳)船の北進が止まった北緯83度59
   分から、
    ナンセンは、途中、F・ヨハンセンを伴って下船
   し、犬ぞりとカヤックで、北極探検に向かい、群氷
   に乗り上げたが、そりによって・・
  1895年4月8日(34歳)当時、前人未到の最北到達点の
   北緯86度14分に達し、北極地方が海洋であることを
   立証した。
  1896年8月(35歳)ノルウェーの帰国した。
  その後、学究生活に入り、オスロ大学動物学教授、海
 洋学教授を歴任、ロンドン駐在公使を務め・・
  第一次世界大戦中の捕虜送還、難民救済や戦後の平和
 処理や軍縮問題の解決などに貢献した。
  1922年(61歳)ノーベル平和賞を受賞した。
  1930年5月13日、没した(69歳)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国と共に、日本経済が崩壊しないようにしなければならない・・
    まったく、のほほんとしている日本人・・
    心構えも、準備も、まったくしていない・・
    他の国々は、皆、必死に生き抜こうとしているのに、
    日本は心配だ・・
.
1945年6月22日、昭和天皇陛下は、常に戦争に否定的なお立
 場であられた。
  昭和天皇陛下が、この日、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳
 外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相らの最高戦争指導会
 議の6名の構成員を前に、「時局の収束(戦争を終わら
 せる)ように・・」と求めた。
  しかし、この時、アメリカは、「原爆を試したい」と
 いう思惑から、日本の降伏条件を「なかなか示さないで
 いた」。
  ドイツが降伏しても、アメリカは、日本の降伏条件を
 示さなかった。
  さらに、沖縄戦が終息しても、一向に降伏条件を示さ
 ず・・、
  そして、1945年7月になって、やっと、アメリカは対日
 宣言をした。
  しかし、アメリカは卑劣だった。
  アメリカの態度はあいまいだった。
  正式な外交文書という形では示さず・・あいまいな発
 表の形をとった。
  だから、「日本が、正式に対応できない」というやり
 方だった。
  原爆の完成の時間稼ぎだった。
  アメリカは、日本が、完全に受け入れなければならな
 いという状況にあることを知っていて、その様な推移を
 させた。
  日本が受け入れに「動けない様な」入念な細工を行な
 った。
  それを示す一つが、アメリカの陸軍長官のスティムソ
 ンの原案には、天皇の地位保全があったが、その条項を
 削って宣言をした。
  そしてさらに、日本に、その宣言が正式の外交文書だ
 と思わせないように作成した。
.
1945年8月1日、アメリカの原爆投下の準備が完了する予定
 日が8月1日だった・・
  カルフォルニア大学教授の長谷川毅氏の本「暗闘。ス
 ターリン、トルーマンと日本降伏」で、原爆を投下した
 から日本が降伏したのではない・・、
  ソ連の参戦こそが、日本の降伏の決定的要因だ・・と、
 指摘している。
  アメリカの「100万人の兵士が、死なないで済んだ」
 というあり得ない「デッチ上げのプロパガンダ」を嘘話
 としている。
  「新兵器の効果を試す」という「悪魔の行為」を、ア
 メリカは、やったのだった。
  ソ連が参戦すれば、日本が降伏するという事を知って
 いたアメリカは、だから、しきりに、ソ連の参戦の日が
 知りたかった。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、卑怯にも、ソ連と
 日本に中立条約があって、交戦しない取り決めが出来て
 いたのを、それを知りながら、ソ連をそそのかして、そ
 の条約を破棄して、「日本の領土を奪ってしまえ」とそ
 そのかした。
  それで、ソ連は、そのアメリカのそそのかしに、領土
 欲の強いスターリンは乗っかって、アメリカ言う通りに
 参戦するとアメリカに返事をした。
  そのようなソ連だった。
  しかし、そのソ連が、対日参戦をすると、日本が降伏
 すると知っていたアメリアは、その参戦の行なわれる日
 を知りたかった。
  日本が降伏する前に、原爆を完成させて、日本で試し
 たいからだった。
  1945年5月下旬、ルーズベルトは、個人特使のハリー・
 ホプキンスをモスクワへ派遣した。
  ソ連の対日参戦の「正確な日」を探るためだった。
  アメリカの原爆投下の準備完了予定日は、1945年8月1
 日だった。
  それ以前に、ソ連の大規模な機甲部隊が、一方的に条
 約を破って侵攻が始められたらまずい事になるからだっ
 た。
  アメリカは、アメリカ国民の方々の目を誤魔化して、
 原爆開発を進めていた。
  莫大な原爆製造のための支出をレスリー・グローブス
 管轄下の工兵団の予算の中に隠していた。
  アメリカ議会も承認しないで進められていた。
  その卑劣なやり方も、大問題化してしまう。
  巨額な資金を投入していた。
  アメリカ国民の方々は、当然、納得などしない卑劣な
 行為となってしまう。
  そして、アメリカは、ソ連参戦日を1945年8月8日だと
 知る。
  そして、広島の原爆投下を、その前日の1945年8月7日
 とした。
,
1945年8月15日、日本降伏の玉音放送がなされた。
  日本国民に向けてのに玉音放送に対し、支那派遣軍と
 南方軍は、これに抗議した・・
  連合国軍は攻撃を停止した・・
  しかし、アメリカ軍は、この日まで攻撃を続けていた・・
  日本国内では、鈴木貫太郎内閣が総辞職をした。
.
1945年8月28日、アメリカ軍のテンチ陸軍大佐以下150名が
 横浜に初上陸した。
  そして、横浜に、連合国軍本部を設置した。
  以後、全国で人員と物資の上陸が相次ぎ、進駐軍兵力
 は最大で43万人となった。
  特殊慰安施設協会が設立され、各所に慰安所が設置さ
 れた。
  多くの日本女性が慰安婦にされた。
  そして、占領政策をする進駐したアメリカ軍の政策の
 一つが・・
  日本の主要鉄道網を支配下に置いた。
  東京、横浜方面の国電の先頭車両をRTO(進駐軍鉄
 道事務所)の文字と、白線を塗らせて、専用車両とし、
 日本人を乗せなかった。
.
1945年9月11日、GHQのマッカーサーが、東條英機らの
 A級だと勝手にランク決めをした戦犯容疑者の40人に逮
 捕命令を出した。
  東條英機、東郷茂徳、嶋田繁太郎、賀屋興宣、
  鈴木貞一、岸信介、岩村通世、小泉親彦、橋田邦彦、
  井野碩哉、村田省蔵、寺島健、上田良武、本間雅晴、
  黒田重徳、長浜彰、太田清一、鈴木薫二、徳田久吉、
  飛田時雄、長内茂、三浦宗一、竹内寛、
  ジェームズ・W・佐々木/佐々木薫一
  また、この日、外国人戦犯(15人)にも逮捕命令を出
 した。
  テイモン:日本占領中の駐日ビルマ国大使。
  アウンサン:ビルマ大使館付陸軍武官、ビルマ独立軍
   組織者。
  ホセ・ラウレル:日本占領下で独立したフィリピン大
   統領・・アメリカの卑劣さが出ている。
  ベニグノ・アキノ・シニア:フィリピン国民会議議長。
  ホルヘ・バルガス:駐日フィリピン大使。
  ワカタン・ウィチット:駐日タイ大使。
  マーヘンドラ・プラタップ:インド独立運動家、アリ
   アン義勇軍指導者。
  ハインリヒ・スターマー:駐日ドイツ国大使。
  アルフレート・クレッチマー:ドイツ大使館付武官・
   陸軍中将。
  ヨーゼフ・マイジンガー:ドイツ大使館付警察武官、
   逮捕後ポーランドに移送された。
  ジョシアス・パンディユンスト:ラジオ東京・オラン
   ダ語放送員。
  リリー・アベック:ラジオ東京・ドイツ人放送員。
  チャールズ・カスンズ:ラジオ東京・オーストラリア
   人放送員。
  ストリーター:東京ラジオ放送原稿係・アメリカ人。
  ジョン・ポーランド:上海ラジオ・オーストラリア人
   放送員。
  日本が、アメリカから解放したフィリピンの要職の方々
 が多く逮捕された(仕返し)。
.
1945年9月15日、東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、D
 Nタワー21、第一・農中ビル)が接収された。
  占領軍の民間検閲支隊長が、同盟通信社の海外放送を
 禁止させた。
  そして、100%の検閲を実施すると表明した。
  (参考)民間検閲支隊:又は民間検閲局、もしくは、
     民間検閲部隊は、日本の占領期間に検閲を実行
     した機関。
      連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)配下の
     参謀第二部(G-2)所管下の機関。
.
1945年9月17日、マッカーサーが、東京の本部に入って、日
 本進駐が順調に行われたことから・・
  「進駐兵力は20万人に削減できる」と声明した。
  しかし、この発言は、アメリカの許可無く発言をして
 いて、トルーマン大統領の疑念を招いた。
.
1945年9月18日、鳩山一郎談話などをを掲載した『朝日新聞』
 が、GHQから発行停止命令を食らった(SCAPIN-34)。
  2日間の発行停止処分。
.
1945年9月21日、東京飛行場(羽田)を接収すると、GHQが
 命令した。
  それに伴い、GHQは、海老取川以東の住民に、48
 時間以内に立ち退けと「強制立退きを命令した」。
  3000名、1200世帯の緊急の強制立ち退きとなった。
.
1945年9月21日、GHQが、戦犯だとして2名を逮捕した。
  土肥原賢二、阿部信行
.
1945年9月22日、GHQが、放送規則を発令した。
  日本放送遵則 (Radio Code for Japan) を発令。
  放送に対する検閲命令。
  ラジオコード(SCAPIN-43)の指令。
  また、この日、アメリカ政府が、「降伏後ニ於ケルア
 メリカノ初期ノ對日方針」を発表した。
.
1945年9月24日、GHQが、「新聞界の政府からの分離」を
 命令した(SCAPIN-51)
.
1945年10月1日、GHQが、「連合国、中立国、敵国の定義
 に関する覚書」を通達した。
  朝鮮・台湾などが日本ではなくなった(日本国籍から
 の離脱)
.
1945年10月1日、アメリカで戦略諜報局(Office of Strategic
 Services)が解散した。
  (参考)戦略諜報局:1942年6月13日~1945年9月20日
     第二次世界大戦中のアメリカ軍の特務機関で、
     諜報機関。
      戦略諜報局、戦略情報局、戦時情報機関や特
     殊戦略部隊、戦略事務局、戦略任務局など多数。
      1941年7月に設立された情報調査局(COI)
     の後身で、後の中央情報局(CIA)の前身。
      ウィリアム・ドノバン少将によって設立され
     た。
.
1945年10月8日、GHQが、「自由の指令」をした。
  思想・言論規制法規の廃止、内務大臣らを罷免、特高
 の廃止、政治犯の釈放等・・思想・言論規制法規の廃止。

.
1945年10月9日、GHQが、新聞の検閲を始めた。
  GHQ(進駐軍)が、朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、
 日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して、事前検閲
 を開始した。
.
1945年10月11日、GHQが、五大改革と憲法改正を指令し
 た。
  女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と
 児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思
 想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指
 示。
.
1945年10月22日、GHQが、「日本教育制度ニ対スル管理
 政策」を発令した(SCAPIN-178)
.
1945年10月22日、GHQが、戦犯だとして1名を逮捕した。
  安倍源基
.
1945年10月30日、GHQが、「教育及ビ教育関係官ノ調査、
 除外、認可ニ関スル件」を発令した(SCAPIN-212)
.
1945年10月31日、GHQが、軍国主義を唱える教員の追放、
 および、同盟通信社の解体を指令した。
  (参考)同盟通信社: 1936年1月に創立された。
     第二次世界大戦の終結時まで日本の最有力通信
     社であった。
      それまでは新聞聯合社と日本電報通信社(電通)とい
     う二大通信社が対立競争していたが、海外宣伝
     を重視した政府はその統合による有力通信社の
     設立を念願し、両社を統合、国内有力新聞200社
     と日本放送協会(NHK)を会員として設立し
     た民間の社団法人。
      このからみもあって、NHKは、戦争の加担
     放送に協力した。
      1945年9月14日、GHQは同社に即時業務停止
     を命令した。
      1945年10月31日、解散し共同通信社と時事通
     信社に分離した。
.
1945年11月6日、GHQが、財閥解体を指令した。
  戦争の経済的基盤になったとされる財閥を解体するこ
 とで、日本の経済支配体制の壊滅を目的として行われた。
  この政策よって、三井、住友、三菱、安田、富士の大
 財閥を解体すべきと指定した第一次財閥解体から・・、
  財閥参加の持ち株会社を解体した第五次財閥解体まで
 財閥の指定、そして、解体が行なわれた。
  合計およそ80以上の財閥が解体された。
  アメリカは、アメリカに無い日本の財閥の制度的特質
 を軍国的温床となったと見なし、持株会社の解体、財閥
 家族所有の株式の買い上げ、財閥家族の役員就任の禁止、
 商号使用禁止、企業規模の制限などを行った。
  財閥家族を社員とする持株会社を頂点として、傘下企
 業に対する株式所有、および、役員兼任の組合せによっ
 て形成される状態が気になって行った措置。
.
1945年11月19日、GHQが、戦争犯罪人だとして逮捕を指
 令した。
  これによって、松岡洋右・小磯国昭ら主要な大臣や軍
 上層部など11人が逮捕された。
  荒木貞夫、小磯国昭、松岡洋右、松井石根、南次郎、
 白鳥敏夫、本庄繁、鹿子木員信、久原房之助、葛生能久、
 真崎甚三郎
.
1945年12月2日、GHQが、戦争犯罪人だとして59名を逮捕
 した。
  軍の高官だけでなく、政界、財界など広く逮捕者が出
 た。
 畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、大川周明、
 佐藤賢了、鮎川義介、天羽英二、安藤紀三郎、青木一男、
 有馬頼寧、藤原銀次郎、古野伊之助、郷古潔、後藤文夫、
 秦彦三郎、本多熊太郎、井田磐楠、池田成彬、上砂勝七、
 池崎忠孝(赤木桁平)、石田乙五郎、石原広一郎、
 河辺正三、菊池武夫、木下栄市、小林順一郎、小林躋造、
 児玉誉士夫、松阪広政、水野錬太郎、牟田口廉也、
 長友次男、中島知久平、中村明人、梨本宮守正王、
 西尾寿造、納見敏郎、岡部長景、大倉邦彦、大野広一、
 太田耕造、太田正孝、桜井兵五郎、笹川良一、下村宏、
 進藤一馬、塩野季彦、四王天延孝、正力松太郎、多田駿、
 高橋三吉、高地茂都、谷正之、徳富猪一郎(徳富蘇峰)、
 豊田副武、津田信吾、後宮淳、横山雄偉
.
1945年12月6日、GHQが、民間人を戦争犯罪人だとして
 逮捕した。
  近衛文麿や木戸幸一など民間人9人に逮捕命令を出した。
 木戸幸一、大島浩、近衛文麿、酒井忠正、大河内正敏、
 緒方竹虎、大達茂雄、伍堂卓雄、須磨弥吉郎
.
1946年3月16日、GHQが、戦争犯罪人だとして1名を逮捕
 した。永野修身
.
1946年4月7日、GHQが、戦争犯罪人だとして1名を逮捕し
 た。岡敬純
.
1946年4月29日 GHQが、天皇誕生日のこの日を選んでA
 級とランク付けした戦犯と称せられた人々29名を起訴し
 た。
  また、この日、GHQは、戦争犯罪人だとして2名を逮
 捕した。梅津美治郎、重光葵
.
1946年5月3日、板垣 征四郎(いたがき せいしろう)陸軍
 大将が、第7方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎
 え、イギリス軍に身柄を拘束された。
  その後、連合国によりA級戦犯だと指定され、極東国
 際軍事裁判開廷初日の1946年5月3日に、空路で東京へ移
 送された。
  裁判において、確定訴因10項目の内8項目を挙げられ、
  訴因1では「1928年~1945年に於ける戦争に対する共通
 の計画謀議」を、
  訴因29、31、32ではアメリカ・イギリス・オランダに
 対する太平洋戦争の遂行を、
  他に、中国、ソ連、シンガポールにおける罪を問われ
 た。
  (これらは、国際法では罪にできないが、無実の罪に
 された)、
  そして、死刑判決を受けた。
  1948年12月23日、絞首刑が執行された。
.
1948年12月23日、木村兵太郎陸軍大将が、東京裁判の判決
 によって絞首刑が執行された。
  辞世の句は・・、
  「現身はとはの平和の人柱 七たび生まれ国に報いむ」
  「平和なる国の弥栄祈るかな 嬉しき便り待たん浄土に」
  「うつし世はあとひとときのわれながら 生死を越えし
   法のみ光り」
  死刑判決の下されが理由・・
  第3次近衛内閣・東条内閣で、東条陸軍大臣の下で次
 官を務めていたこと・・
  (この部署にいただけで権力を握っていたと見られて
 しまった)
  連合国は、日本の陸軍次官職について、自分の国の様
 に考えてしまい、欧米並みの政治的権限を持つと見てし
 まった。
  実際以上に、その権限を過大評価されて、死刑にする
 理由が薄弱であるのに、無実の罪にされてしまった。
  また、この日、武藤章陸軍中将が巣鴨プリズンで絞首
 刑が執行された。
  東条英機と対立して皇道派の山下奉文大将の部下に転
 じるくらいの人だったが、死刑にされてしまった。
  1944年10月に、第14方面軍(フィリピン)の参謀長に
 就任し、これは、第14方面軍司令官に任命された山下奉
 文の希望によるものだった・・その経緯で、フィリピン
 の地で終戦を迎えていた。
  東条英機氏は、武藤氏に「巻き添えにしてすまない。
 君が死刑になるとは思わなかった」と言ったという。
.
1951年4月28日、サンフランシスコ講和条約が、この日に、
 署名されたが・・?
  日本は、当然ながら主権を持った国家である。
  国際法は、主権を持った国家は・・、
  自分自身で『正義を決める体系を持つことができる』
  自分自身で『正義を決めることを認められている』と
 ある・・当たり前である。
  当然である。
  「これが正義だ」なんて、他国から押し付けられたら、
 たまらない・・、
  主権を持った国家が、どこの国からでも、他の国から、
 「それは駄目ではないか、止めなさい」・・なんて言わ
 れたらたまらない・・
  国際社会、当然、その様に言われることはない・・
  当然、他の国も、第三国へ押し付ける事も出来ない・・
  この様に、国際法は決めている・・、
  また、逆に・・、
  「これが良いのだから、正義だから・・やりなさい」・・
 などとは言われない・・
  この様な事が・・国際法には認められている。
  主権を持った国家は、自国の考えで・・自主的に、自
 分で良いと思えることを、正義と思えることを決める事
 が出来る。
  当然の当然である。
  サンフランシスコ講和条約の時、この条約の11条に、
 「日本は東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決を受諾し」
 という一文がある・・、
  そして、この文が言わんとした事は・・、
  この文の後に・・「刑を執行する」とある。
  この時に、刑に服していた人に関する判決の執行方法
 についてのみ、日本は受け入れるという意味である。
  (因みに・・、
  東京裁判で、死刑判決を受けた日本人のうちの一人・
 東条英機氏の刑が執行されたのは、1948年(昭和23年)
 12月23日)だった・・そして・・、
  サンフランシスコ講和条約は、1951年4月28日の署名で
 あるから・・
  つまり、アメリカは、主権国家の日本の「承諾なし」
 に、日本人・東条英機氏の死刑を執行してしまっていた・・
  日本の国家としての主権を犯す条約文となっている・・
  国際法上、要求してはいけない条文である・・
  英文の条約文でも、その様になっている。
  東京裁判による「その時代の解釈のすべて」「その正
 義」を受け入れよとは、なっていない。
  その様なところまでは、主権を持った日本へ押し付け
 る事は出来ない。
  国際法に則(のっと)った「東京裁判の判決を受諾し、
 刑を執行する」という「刑の執行」の受諾なのである。
  刑の執行を「するかしないか」は、独立した後の日本
 の判断で行なうべきなのである。
  条約の『正規』の文である英語文の条約文は、その様
 になっている。
  必ずしも、刑に処せられなくてもよい方々が、刑を執
 行されてしまった。
.
2018年12月22日、【討論】中国経済は本当に崩壊するのか?
  [桜H30/12/22]
  https://www.youtube.com/watch?v=wySjAIDCTg4
  パネリスト:
  川島博之(東京大学大学院農学生命科学研究科准教授)
  澁谷司(拓殖大学海外事情研究所教授)
  田村秀男(産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員)
  福島香織(ジャーナリスト)
  松田学(東京大学大学院客員教授・元衆議院議員)
  宮崎正弘(作家・評論家)
  渡邉哲也(経済評論家)
  司会:水島総
  内容・・
 ・来年(2019年)リーマンショック以上の中国発の経済
  ショックが起きる。
 ・中国に通信分野の覇権を握らせない・・どうすればよ
  いか?
 ・通信利権の取り合いが始まる。
 ・5Gはハーウェイが握っている。
 ・アフリカが中国に牛耳られるのを、ヨーロッパは許さ
  ないだろう。
 ・中国の方たちは、共産党権力とつながりを「持つか」
  「否か」で人生が決まってしまう。
  しかし、だから、皆がつながりを持つかというと・・
  事をよく知る方々は、だからこそ、繋がりを持たない
  という方々もいる・・
  その様な権力なのだと見る人たちもいる。
 ・中国で、東大留学が重く見られなくなっている。
  雲の様な幻想の状態になっている。
 ・AI監視社会となっている中国。
 ・日本は、中国人留学生を優遇し、呼ぼうとしているが、
  アメリカは逆である・・1年の許可年限と短くした・・
  そのため、中国人留学生が卒業もできなくなっている。
  (スパイもどきと見られているから?)
 ・だから、一旦、中国に帰国したら、再入国をさせない
  ようにしているアメリカとなっている・・それは、ス
  パイとなっての再入国の可能性が高いと見ているから・・
 ・北海道の帯広に、広大な土地を中国は買った・・中国
  への輸出用の野菜作りをし始めている。
  あたかも、中国の植民地の様な状態となっている・・
  行けども行けども中国の土地という状態となっている・・
  そして、何故か? その中国の土地が、自衛隊基地の
  周りが・・その様な状態になっている。
 ・理系の中国人留学生は、そのほとんどがスパイと言わ
  れている。
 ・遣唐使は、皆、日本に帰って来た・・しかし、唐から
  の遣日使は、中国には帰らなかった・・日本が素晴ら
  しいから住み付いてしまった・・遠い昔から、日本は
  その様な国だった。
 ・ウイグル学生が留学しにくくなっている・・されてい
  る。
  また、日本に来たウイグル留学生は・・中国へ帰国す
  ると拘束される・・
  そのため、帰国しにくい状態になっている・・帰国し
  たくないという状態になっている。
  その様な時に、親が「スパイになれ」と言って来る。
  「親に圧力がかかっている」ということを、必死に訴
  えて来る。
 ・東京大学の学生の1割が、中国留学生となっている。
 ・ITの優秀教授が特に狙われている。
 ・足跡を掴まれない様に、行動を掴まれない様にするた
  めにパスポートは何通も出している・・所持している。
 ・NHKは、何の経緯(いきさつ)があるのか?・・何
  か中国に借りがあるのか?・・国会の審議の総べてを、
  委員会の審議の動画を(放送されない分も含めて・・
  すべての物を)を中国へ渡している。
  中国の日本の政治家への圧力が強いと言われているが、
  この様なデーターがあるからと考えられる。
  日本の政治家が、中国寄りになっている原因の根本に、
  この様なNHKの行為が存在している。
  NHKのスパイ行為である。
  国益を損なう行為をしているNHK。
 ・次世代5G技術の争奪戦が熾烈化している。
  いずれ世界はAIで二分割する。
  アメリカと中国は、それぞれが別個のAIスペースを
  形成する。
 ・中国は、技術をアメリカから盗んでいるが、潰れたド
  イツの会社を買ったりもしている。
  台湾系の技術も盗んでいる。
  5倍の給料で引き抜くこともしている。
  これで、ほとんどの優秀な技術者が中国へ行った。
  その様な金のない日本企業・・それができない日本。
  デジタル・エコノミーは完全に日本は追いつけなくな
  ったという・・
  「完敗しました」という日本の状態だという。
  しかし、状況の流れは、中国はまずい状況を作ってい
  る・・その戦いはアメリカが勝つだろう。
  鄧小平の時は夢があった・・しかし、習近平の今は夢
  が持てない・・
  今、アメリカは、徹底的なぶっ潰しにかかっている。
 ・人民元は、ドルで補償がなされ、そして、できた・・
  しかし、今は、その状況が崩れてきている・・
  中国は、悪性インフレとなる・・そして、クラッシュ
  が起きる
 ・それを、日本は座視できない・・日本が一番影響を受
  ける。
 ・中国はバブルが崩壊すると言われて来たが、いよいよ
  始まる状態・・
  また、社会に不満が蓄積されている・・習近平の権威
  が低下してきている・・
 ・事実上崩壊している多くの中国・国有企業に人民元が
  大量に融資されている・・崩壊隠しがなされている・・
 ・不動産が売れないので、資金が回らなくなっている・・
  市場も縮小されて来ている・・
 ・データー覇権の争いが起きている・・
  暗号通貨を作ろうとしている中国・・
  ドルの通貨経済圏を乗り越えるための行動なのだ・・
  その時、日本はどうするのか?
  今、これの、水面下の争いが起きている・・
 ・アメリカは、台湾の防衛シフトを敷いている・・海兵
  隊も入っている・・台湾の方々は、これで中国の武力
  侵攻が無くなったという話も出ている・・
 ・人民解放軍(300万人)と武装警察が強い中国。
  しかし、この組織の天下り先の国営企業が景気が良く
  ないので、退役軍人(5700万人)のデモが起きている。
  ものすごいデモだった・・
  デモができるまでに支援したグループも存在している・・
  習近平は人民解放軍を掌握していない・・
  退役軍人の行き先が無い・・30歳代で退役しても良い
  働き場所が無い・・その不満が蓄積している。
 ・中国の外貨準備は減っている。
  そして、チャイナ・プレミアムが付けられる状況にな
  っている。
  中国株式はどんどん下がっている。
  来年(2019年)、世界にグローバル不安が増す。
  輸出主導型経済の日本は打撃が大きい。
 ・ゴーン・ショック・・
  事件の背後にある国家戦略と世界経済の行方・・
  ファーウェイ問題も米中対立・・
  英EU離脱も全部つながっている!
 ・現在の米中対立いざこざによって、グローバリズムの
  基礎要件が完全に壊れた。
 ・中国の国際法を守らない行動によって、世界的な、グ
  ローバルな行動がとれなくなっている。
  世界は二分化されていく・・陣営作りが始まる・・そ
  こに痛みが生じる・・
  一方、巧妙な脱税集団が問題化されて来て、暴(あば)
  かれて来ている。
  今までの、この世界の、グローバルな動きの中で巧妙
  に稼いで来たのが中国・華僑・・そして、レバノン人、
  印僑・・ユダヤ・・
 ・ソフトバンクも怪しい・・有利子負債が18兆円・・利
  払いはソフトバンクに頼っている・・
  ファーウェイ問題で、そのビジネスモデルが怪しくな
  っている・・
  ファーウェイ問題で、ファーウェイ製品を全部外すと
  孫さんが言わざるを得なくなっている・・日本人達よ!
  損をする可能性が出て来ている・・
 ・今、最先端の5Gの考え方に、日本の政治家たちが付
  いて行けなくなっている・・
  これから来る未来に、付いて行けない恐怖感が存在す
  る・・
  中国は一つのポジションを占めている・・日本はどう
  するのか?・・それは緊急に考えなくてはいけない課
  題・・世界的トレンドのブロックチェーン革命に、日
  本の存在を示せ・・
 ・アメリカ・ドルの裏付けは石油と穀物・・
  その様な裏付けのない中国の人民元・・ただの紙切れ
  状態・・金本位制が破綻したのは、金の量の上限があ
  るから・・
  中国が、仮想通貨で延命できるかは怪しい?・・
 ・日本がやるべき大切なことは、日本にある個人情報を
  持って行かれないようにすること・・
  日本は、決裁システムに中国系のアリババなどを入れ
  ないで、日本独自のものにするべき・・
  白物家電で、日本が失敗したように、日本の最先端技
  術はファーウェイなどへ持って行かれない様にする・・
  だから、中国で物を作る様な事をしない・・
  「技術内容を明らかにせよ」という中国は駄目だ・・
  また、「中国から資本を持ち出せない」という問題点
  のため、中国の日本企業に、内部留保の金が溜まって
  いる。
  日本は、これを打開する仕組みづくりをするべき・・
  これをしないと、近々迫る中国のはじけた時に、今ま
  での努力が水の泡となる・・
  はじけるのは秒読み段階?・・中国で一番はじける心
  配な所は、上海、深圳、広州、北京あたりで一斉には
  じける・・
  中国政府は、一斉にはじけさせないという検討をして
  いるくらいの状況・・
 ・だから、輸出主導型の日本経済を進めて来て、消費税
  を上げるというのが一番まずいこと・・
  やれば、最大の失敗になるだろう・・
  日本側で出来る事は、この消費税の問題だけ・・
  できたら、逆に、消費税のパーセントを低くして行け!・・
  財政赤字の嘘をもう言うな!・・
  リーマンショックの時に、日本が一番打撃を受けたが、
  その二の舞となる・・
 ・中国がガタガタになると、世界の貿易が縮小する・・
  そして、日本が打撃を受ける・・
  中国・人民元の大暴落が起きて収束するしかない・・
  裏付けのない人民元が元に戻る・・紙切れ状態に・・
 ・日本は減税策を検討して行け!
 ・中国が、かなりやばい所に来ているのは真実・・今ま
  での歴史の様に、急に変わる中国となる可能性がある・・
  それに、的確に対応することが日本の課題・・対応を
  誤らないのが日本の課題・・
 ・中国は、資金を国外に出せない様にしているが、それ
  をしなかったら、一斉に資金が引き上げられて、中国
  の息の根が止まる・・
  その様な状況に、今はある・・
 ・中国には、ゾンビ企業と言われている企業が2000社あ
  る・・
  ゾンビ企業(ゾンビきぎょう)とは、経営が破綻して
  いるにもかかわらず、銀行や政府機関の支援によって
  存続している企業・会社のこと・・
  中国・国有企業ととすると1社あたり5万人、2000社な
  ので1億人、その家族を考えると4億人・・この人たち
  のために中国は、人民元を刷らなければならないとい
  う中国の今がある・・中国のアキレスけんとなってい
  る・・
 ・今、日本は、日本の技術で「独自の情報技術を作るの
  だ」という決意を固めなければならない時だ・・
  ブロックチェーン化も進める・・
  アメリカや中国がどう出ようが、この道を進めて行く
  べき・・
 ・日本のリスクは、政治家や経営者に中国が見抜けてい
  ないところ・・そして、判断が後手に回っていること・・
 ・中国に居る企業は、早く逃げるにかぎる・・
 ・中国の、ある程度の地位のある人は、7つ8つのパス
  ポートを持っている・・それは、いざという時に、動
  けなくなるリスクを回避するためにそのようにしてい
  る・・
  この様にしているのは、中国のスパイだけではない・・
  中国では当たり前のこととなっている・・
  長年、中国でやって来た日本の企業の人たちも、その
  事を知っていて、複数のパスポートを持っている・・
  その様な日本人が、いっぱいいるという常識・・
  来年(2019年)は、クエスチョンの年になるのか?・・
 ・中国と共に、日本経済が崩壊しないようにしなければ
  ならない・・
  まったく、のほほんとしている日本人・・
  心構えも準備も、まったくしていない・・
  他の国々は、皆、必死に生き抜こうとしているのに、
  日本は心配だ・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2018年12月25日

(増補版)624E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年4月)

題:(増補版)624E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1895年4月17日、日清講和条約が調印された。
  日清戦争での日本勝利を受け、下関条約が締結された。
  日清戦争は終結した。
  日清戦争動員兵力:12万人、
  戦病死:17,000人、
  軍事費:2億3000万円。
  清大使・李鴻章馬関に来たり講和成る(氷川清話)
  勝海舟は、遼東新領土に対する画策をたてて、一、二、
 意見を示す。
  後三国干渉のこと起る、物議騒然(氷川清話)
  下関条約の内容・・
  一、清国は、朝鮮が独立国であることを認め、承認す
   る。
  二、遼東半島・台湾・澎湖島を譲り渡す。
  三、清国は賠償金として二億両(約三億円一千万円)
   を日本に支払う。
  四、沙市・重慶・蘇州・杭州の港を開き、開市し、日
   本が自由に産業活動に携わる事が出来ることを認め
   る。
  台湾を譲り受けた日本、当然、台湾は、清朝から日本
 の統治下に入り、台湾には台湾総督府が置かれた。
  そして、政策として、台湾製糖が設置されたりして、
  また、民間から、大日本製糖などの製糖会社ができ、
 日清汽船(大阪商船)などの水運会社が、上海航路を結
 んだりして、台湾は、経済的に潤って行く。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカや
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本は金を支払って譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金を出して領有した」様に・・、
 奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」。
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還の圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツとフランスを誘って、日本へ圧力を
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉の圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
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1895年4月17日、播但鉄道(ばんたんてつどう)が、長谷駅~
 生野駅間、および、姫路駅~飾磨駅(現:飾磨港)間を開
 通し、生野駅~飾磨駅間が全通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)播但
 線の大部分、飾磨(のち飾磨港)~新井を建設、運営し
 た日本の私設鉄道であった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れたが、山陽鉄道に路線及び附属物件が譲渡され、山陽
 鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
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1895年4月23日、三国干渉
  ロシア帝国、ドイツ帝国、フランスの三国が、東洋艦
 隊の武力を背景にして、遼東半島の返還を要求するとい
 う対日干渉をした。
  まったくの内政干渉の仕業(しわざ)。
  遼東半島は戦略的にも重要な位置を占めていた。
  三国の大義名分は、アジアの平和を危うくするだった。
  いつも列強は、この様な表面的に美しいだけの言いた
 い放題を言う。
  本当は、ロシアが中国に地歩を固めたい、遼東半島は
 ロシアが欲しい、不凍港が欲しいのだ・・だった・・
  遼東半島を日本が占めたなら・・日本が「目の上のた
 ん瘤」になる・・だった。
  そして、日本が遼東半島を返還したら、案の定(あん
 のじょう、思った通り)、ロシアは遼東半島を中国に要
 求し、ドイツは山東半島を要求するというあさましい(
 ひどく嘆かわしい状態のこと)ことを行なった。
  ドイツ・フランス・ロシアの公使が、アジアの安定を
 乱すとして、遼東半島の清国への変換を要求し、当時、
 満州への鉄道建設を目指していたロシア政府は、遼東半
 島(リヤオトン)領有の放棄を日本に言い・・、ロシア
 との同盟関係にあったフランス、ロシアの進出方向を極
 東にそらすことをねらっていたドイツもこれにならった。
  さらに、ドイツは、ロシアとイギリスとフランスの協
 調に取り残されることを恐れて共同行動をとった。
  日本の国力では、この3国に対抗できないので、同1895
 年5月5日、これを受諾した。
  その結果、日清間に遼東半島還付条約が締結され、日
 本は譲渡取得をしていたので、返金がなされた。
  必死に努力をして国を富ませ、米欧に追い着きたいと
 やってきた日本・・日清戦争となったが・・、
  この間まで、アジアの遅れた小国・日本が、この様な
 事態になると・・、
  東アジアで美味しい汁を吸いたいという列強諸国は、
 黙っていなかった。
  強力な軍事力で、日本を脅しながら、また、卑怯な事
 にグルとなって、日本へ「いちゃもんを付けてきた」。
  ロシア・ドイツ・フランスの三国の言い分は・・、
  「遼東半島まで清国から得る」のはおかしいじゃない
 か?という言い方だった・・「清国へ返しなさい」と・・
  弱い者に対して、好きに言いたい事を言う国々いだっ
 た。
  有色人種の日本が、『白人のマネはするな』の気持ち
 だった。
  そこに、キリスト教の「有色人種蔑視」のマインド・
 コントロールがあった。
  列強に、日本を馬鹿にする視点が残っていた。
  そして、なんと、その2年後に、遼東半島のその地を
 ロシアは手に入れた・・日本にとって屈辱的な事だった。
  弱小国の悲哀を味わう日本だった。
  当時の日本国民の方々も、この屈辱に歯ぎしりしてい
 た。
  日本は、幕末以来、中国や朝鮮に、欧米列強の諸国の
 侵略に共同して対処しようと言って来ていた。
  急速に力を付けた日本・・日清戦争の、まさかの日本
 の勝利だと世界は思っていた・・
  自分たちがおいしい汁を吸っている中国の領分に入っ
 て来た新参者にいちゃもんを付けた。
  条約をきちんと、日本と清の間で結び、合意された下
 関条約・・その条約に基いて・・約定(やくじょう、約
 束して定めること)して・・日本に渡った遼東半島を・・
  おい!それはよせと・・くちばしを入れた・・
  ロシアの思惑があった・・ロシアは大きな欲をかいた。
  ロシアは、満洲と中国北部の支配権を拡張したいと目
 論んでいた。
  また、それと並行して、欲張って、朝鮮へも影響力を
 拡大したいと思っていた。
  ロシアの言い分は・・筋が通らないが・・朝鮮は、ロ
 シアのウラジオストクに近いため、ここを他の列強に抑
 えられると、ロシアが圧迫されて怖いのだ・・という理
 屈・・そして、その可能性を防ぎたいと・・
  また、ロシアは・・日本という国が、朝鮮と対馬の両
 岸を抑える事態になれば、中国の旅順港とロシアのウラ
 ジオストク港を結ぶシーレーンが危機に晒されるという
 ロシアの言い分があった。
  中国のおいしい汁を安心して運べないのだよ・・と、
  しかし、朝鮮半島をロシアが占領すれば、圧迫される
 のは日本も同じだった。
  そして、日本の恩を受けた朝鮮が、なんと、この三国
 干渉の影響から、『反日となり』また『親露となった』・・
 その様な勢力が台頭して来た。
  そして、また、朝鮮国王の高宗が、ロシア軍の朝鮮進
 駐を希望するようになった・・
  そして、1896年2月には、ロシア大使館へ駆け込んだ。
  この状況を解決するために努力がなされた。
  日本とロシアの間で、『山縣・ロバノフ協定』が締結
 された。
  日本とロシアは、対等の関係で朝鮮に接して行こうと
 いう合意がなされた。
  しかし、ロシアは強硬策に出た・・
  1897年、ロシアは、旅順・大連を占領した。
  当然、日本は、強硬行動をとるロシアが、この様な行
 道を、朝鮮半島でも行なうだろうと恐れた。
  実際、ロシアには、朝鮮半島への進出を本格化する恐
 れがあった。
  日本は提案した・・「朝鮮半島を日本が管轄し、満洲
 をロシアが管轄する」・・と・・
  しかし、ロシアからは相手にされなかった(すでに、
 満州はロシア軍だらけだった)
  この頃、朝鮮半島に接する鴨緑江沿岸(朝鮮と満州の
 境を流れる川)では、アレクサンドル・ベゾブラーゾフ
 らのロシア貴族が・・、
  朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で、伐採事
 業を開始していた。
  (朝鮮戦争の時も、共産中国軍は、朝鮮半島に流れ込
 もうとこの地域・鴨緑江沿岸に大部隊を集結した様に)
  ベゾブラーゾフは、ロシアは偉大な大国であるので、
 強硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意
 気を言われる筋合いはないという信念を持っており・・、
  蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いし・・、
  「大臣たちは、皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛
 下に自分たちの考えを押し付けている」と批判した。
  これは、ニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だっ
 た。
  ニコライ2世は、このベゾブラーゾフを強く信頼するよ
 うになり、対日強硬姿勢を強めて行った。
  因みに、ベラーゾフは、この翌年の1896年に、日本と
 の開戦の必要性を唱える嘆願書を、ロシア皇帝ニコライ
 2世へ提出している・・この様な人だった・・、
  また、ニコライ2世は、「黄色い猿」と日本を侮蔑する
 ような皇帝で・・、
  ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、「日本に、ロ
 シアと戦争する勇気などあるばずがない」としていた。
  また、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦争
 にはならない」と考えていた。
  また、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日本が旅順か
 ら撤退した1895年を思い出す」などとも言ったり、
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」などとも言った。
  ベラーゾフは、強硬派で、イギリスの東インド会社の
 ような組織を設立して、『朝鮮半島と満州における権益』
 を確保して、それらを強制的に征服すべしとした。
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  (今日の言葉)
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  題:問題は、アメリカが、戦略核戦力の対中劣勢にある。
   (アメリカの空母も容易に接近できず)
    米中の貿易摩擦は・・だから、貿易問題ではなく・・
    アメリカの存亡の危機の安全保障上の問題。
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1932年10月2日、リットン報告書が公表された。
  正式書名は、「国際連盟日支紛争調査委員会報告書」
  調査団は、イギリスのヴィクター・ブルワー=リット
 ン伯爵を調査団長とした。
  内容は、中国の最近の発達の概観、つまり、清の没落
から書き起こし、共和国の出現、その後の内乱、国民党の
結成、共産党の跋扈を詳述し・・
  次に、満洲国について述べている・・すなわち、中国
 が満洲に無関心であり、満洲の今日の発展は日本の努力
 による旨が述べられ・・
  張作霖、および、張学良時代の政情からロシアと中国
 の紛争等におよんで述べられ・・
  日本と中国の両国間の満洲に関する諸論点・・すなわ
 ち、日本の特殊性を認識して、日本の満洲における権利
 を説明したりしている。
  リットン報告書は、満州は、中国(漢民族)のもので
 はないという立脚点に立っている。
  そして、「満州を、中国本体から切り離す」という意
 味が書いてある。
  そして、満州域を、中国から離れた国際的なものにせ
 よと言っている。
  (日本の掲げた理念が五族協和)
  そして、その状態の中で、「日本の満州での努力を認
 めている点」から「日本の主導権を認め」、また、日本
 の権益も認め、「日本の権益も十分に守られるべきだ」
 と記している。
  日本は、この「リットン報告書を受け入れても良かっ
 た」と言える。
  受け入れていれば、また違う世界史が展開しただろう。
  共産化した満州域ではなかっただろう。
  結局、満州国の存在を、「日本が侵略して奪ったもの
 だなんて微塵も言ってない」。
  結局、そして、今・現在、満州は無くなり、この時の
 リットン報告書の見解で否定された中国(漢民族)のも
 のとなってしまっている。
  「トンビに油揚げをさらわれた」という状態となって
 いる。
  そして、約70年を経て、その満州の方々は、今・現在、
 その地には居なくされている。
  何処かへ消え去ってしまった。
  国なんてこのような経過をたどるものなのだ。
  国と共に、民族の運命など、この様になるものなのだ。
  今後、日本の国も、この様にならない様に・・
  中国は、尖閣諸島が欲しいと言っている・・その次は、
 沖縄だと言っている・・
  国の安全保障に無関心でいてはいけないのだ。
  各人が、真剣に考えていなければいけない事なのだ。
  「あなた任せにしておいては・・いけない事なのだ」。
,
1942年、中国が、嘘のプロパガンダでも、何でもやって、
 その結果が、中国に有利になるなら、その様な行動をし
 た者は「能力のある者」と中国は見る・・
  中国は、「卑劣な行為」でも、何でもよいという国で
 ある。
  だから、中国の国内内戦は、騙し合いが酷い戦争で、
 騙し、騙される陰湿な行為が頻繁に行われた。
  この様な騙しの世界の国・中国は、日常茶飯に騙しが
 行われた。
  日本への工作も陰湿を極めた。
  それは、政治や戦闘に限らず、あらゆる場面において
 行われた。
  中国の新聞も、その真偽を確かめずに報道するという
 出鱈目(でたらめ)さだった。
  例えば、1942年頃、「昨夜、日本人が、果物屋の店先
 にあるスイカに毒を注射して歩いていた」・・なんてい
 う嘘の記事が、でかでかと中国の新聞に書かれた。
  また、女子学生に、中国人企業家が金を渡し、「『日
 本の森永ミルク・キャラメル』には、毒が入っているか
 ら買うな」と言わせた。
  これは、中国の会社が、森永に似せた菓子を作り、自
 社の製品を買わせようとして行った事だった。
  本「支那三十年」を参照。
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1945年12月、沖縄が、1945年12月のこの時から、本土復帰
 をする1972年まで、アメリカ兵によるレイプ(強姦)犯
 罪は500件以上となった(隠れた犯罪は数限りなくある)。
  本「沖縄アンダーグラウンド」には、目をそむけたく
 なる様な卑劣なその状況の記載が続く。
  その卑劣な行為の多くで、アメリカ兵は庇(かば)わ
 れた。
  「容疑者不明」で処理された。
  でも、ここまで来るのもほんの一握りだった。
  闇に葬られ、泣き寝入りとなった。
  アメリカ兵の人権無視のあまりに卑劣な行為、あまり
 の酷さに、沖縄は苦汁の日々が続いた。
  そして、仕方なく・・地元・沖縄は、「アメリカ兵相
 手の売春区域を作ろう」との苦渋(くじゅう、事が解決
 されず、苦しむ悩むこと)の案の声となった。
  そして、やむを得ず売春街が、アメリカ兵の卑劣な行
 為を無くしたいとの願いから出来た。
  フランスのパリに侵攻したアメリカ軍は、この街でも、
 パリジェンヌを、パリの女性方たちを・・犯した。
  昼間でもなんでも、場所もわきまえずに・・、
  その乱れたアメリカ兵の行為は、人目をも憚(はばか)
 られずに行われた。
  あまりの酷さに、パリ市長は、アメリカ軍へ泣きを入
 れた・・その愚行を指摘した。
  また、アメリカ軍は、ベルリンへ侵攻した時も、数限
 りないベルリン女性を犯す行為を行なっている。
  砲弾が飛びかう中、ベルリンの女性方は、地下などに
 潜(ひそ)んでいた。
  男性のほとんどが居ないベルリンで、ベルリン女性は、
 アメリカ兵に強姦され犯された。
  その数は、とんでもなく多くの女性方の数となった。
  戦後の日本でも、毎日、あちこちで、アメリカ兵によ
 る強姦が行われ、その卑劣な行為を新聞は報じた。
  病院の看護婦が、ピストルを持ったアメリカ兵たちに
 犯された・・また、妊婦の方々さえ犯された。
  学校へ行く小学生まで乱暴をされた。
  新聞報道は、そのすべてを報じなかったが、それでも、
 あまりの酷さに、アメリカ軍・GHQは、「そのような
 報道をするな」と命令した・・
  アメリカ兵の卑劣な行為は、その様な命令によって隠
 されてしまった。
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2005年7月、NHKの福井放送局チーフカメラマンが取材費
 でビ-ル券を購入し約350万円分を着服した。
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2011年8月、NHKの番組制作局チーフプロデューサーが
 女性のスカート内を携帯カメラで盗撮して逮捕された。
  NHKは、「異常」と言えるほど犯罪が多い。
  考えられるその理由は、「給料がべらぼうに多いこと」
 そして、「働く時間が本当に少ないこと(自由な半拘束
 時間ばかりの勤務状態)」・・
  NHKに異常に犯罪が多いのは、「ここに原因がある」。
  金があって、時間がある・・という状態。
  NHKは、もっと「自らを律せよ!」・・
  放漫給料をお手盛り状態から正せ!
  余裕のあり過ぎる人員体制を正せ!
  NHKは、身を引き締める努力をせよ!
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2016年8月18日、この日のNHKニュース7で、子どもの貧
 困問題をテーマとした神奈川県主催の講演会、および、
 登壇した女子高校生への取材を報道したところ・・、
  インターネット上で、捏造疑惑が浮上した・・、
  女子高校生が2万円相当の画材を所有する様子が映っ
 ているなどとバッシングが発生した。
  片山さつき参議院議員が、NHKに説明を求めるなど
 を精力的に行った。
  NHKは、メディアに対し、「本人や家族、行政機関
 などに取材し、経済的に厳しい環境で生活する高校生だ
 と判断しています」、「食べるものもないというレベル
 の貧困ではなくても、経済的困窮によって、高校生が希
 望する進路をあきらめざるをえない現実があることを伝
 えるもの・・放送内容は、すべて事実に基づくものです」
 と捏造疑惑を否定した。
  講演会を主催した神奈川県の担当者は、講演会につい
 て、「食べるものや着るものがあるとしても、修学旅行
 や部活の遠征に行けなかったり、進学をあきらめたりす
 る『相対的貧困』の見えにくさを考えようというイベン
 トだった」、
  騒動について、「食べ物や着る物がないなど目に見え
 る『絶対的な貧困』と・・、
  親の経済的な事情で進学を諦めざるを得ないなど目に
 見えない『相対的な貧困』を混同して起きてしまったの
 ではないか」とコメントした。
  この騒動にまつわり、サイゾーが運営するニュースサ
 イト「ビジネスジャーナル」は、NHKなどへの取材を
 行わず架空のコメントや、やらせや捏造の存在を印象づ
 ける表現を含む記事を発信し、後に、取材が不十分であ
 ったとして訂正および謝罪、関係者の処分を発表した。
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2018年12月8日、中国はもう正せなくなっているのか?
  叩けなくなっているのか?
  一番、のんべんだらりとしているのが日本。
  中国もロシアも、日本に接近してきているのは、日本
 の国防力が伸びないで、昔のままになっていて、組みし
 易いからと指摘されている。
  そして、アメリカが、戦略核戦略が中国に劣っている
 ところが問題である。
  【討論】米中戦争の行方と新世界秩序[桜H30/12/8]
  https://www.youtube.com/watch?v=PMQjywlngxM
  パネリスト:
   鍛治俊樹(軍事ジャーナリスト)
   河添恵子(ノンフィクション作家)
   石平(評論家)
   福島香織(ジャーナリスト)
   矢野一樹(元海上自衛隊潜水艦隊司令官 海将)
   矢野義昭(元陸上自衛隊小平学校副校長 陸将補)
   湯浅博(国家基本問題研究所主任研究員)
  司会:水島総
  核抑止は万全か?
 1、米中の戦略核バランス
   中国が先制攻撃すれば、アメリカは4千万~5千万人
  の損害、中国は2600万人の損害となる。
   アメリカが戦制攻撃すれば、中国は最大1億人の損害、
  アメリカも数千万人の損害か?
   アメリカおよび中国は、核戦争にエスカレートする
  恐れのある軍事挑発はできない。
 2、米中の通常戦力バランス
   アメリカの海・空の技術的優位は明らか。
   特に、戦闘機と潜水艦、空母が優位。
   中国大陸での本格的地上戦はアメリカでも不可能。
 3、問題は、アメリカが、戦略核戦力の対中劣勢にある。
   (アメリカの空母も容易に接近できず)
   ロシアの核戦力も4分の1程度は極東に向いている。
   そして、中露接近は当面続いて行く。
   北朝鮮の弾道ミサイル脅威も数的には中国並み。
  (参考)中国の戦略核は400から600ある。
      北朝鮮も、中国並みになって来ている(400か
     ら600)
      アメリカ一国だけで、中・露・北朝鮮には対
     抗できない
      中国は、原子力推進の超超長距離を飛べる巡
     航ミサイルを保持したと発表したが、この事で
     発生する問題が・・
      アメリカのミサイル防衛網がすべて北極海を
     向いている。
      中国は、その裏を攻めることができる・・こ
     のため、アメリカの防御が大変な事になってい
     る。
      アメリカが、それに対抗するためには、韓国
     からも、また、日本からも、アメリカの軍事力
     を引き上げて・・アメリカ本土防衛に集中して
     固めなければならない。
      軍事バランス的に、ここ10年間は、中国が台
     湾を取りに行っても、アメリカはそれに対応で
     きる状況にない。
      日本も、この様な状況に、どう対応するのか?
     ということになっている。
      日本は、アメリカをあてに出来なくなってい
     る。
      アメリカは、アメリカ本土を守るのに手いっ
     ぱい。
      20兆ドルを超える赤字のアメリカ、財政的に
     も非常に厳しい状況。
      米中の貿易摩擦は・・だから、貿易問題では
     なく・・アメリカの存亡の危機の安全保障上の
     問題。
      中国は、技術的にも急速にアメリカに追いつ
     いて来ている。
      中国の技術的追い上げは厳しい。
      中国は、軍事基地を地下化して耐力が上がっ
     ている。
  米国の対応
 1、トランプ政権は、核戦力の増強、近代化推進方針を
  明示した。
 2、核戦力の整備に最優先で予算配分する、配分は可能
  と保証
 3、核戦力の3本柱(ICBM、SLBM、戦略爆撃機)
  を更新。
 4、核弾頭の新型開発(戦力化は約10年後)、その間、
  寿命延長
 5、ロシアに対抗して低出力核を増強
 6、核インフラの整備
 7、核関連の人材養成、施設の整備更新
 8、アメリカの核抑止力強化と同盟国への核の傘の信頼
  確保。
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2018年12月8日、痛い目に会わなければ分からないのか??
  のほほんとしている日本・・
  【討論】米中戦争の行方と新世界秩序[桜H30/12/8]
  https://www.youtube.com/watch?v=PMQjywlngxM
  ・釧路の広大な土地が中国に買われている。
  ・10万人が人質になっている・・自由に中国から出国
   できなくなっている。
  ・資金も中国から引き上げられなくなっている。
  ・これからは多極化する・・防衛も多面的になる。
  ・ロシアは、シベリアなどの広大な地を守り切れてい
   ない。
  ・パンダ債・・日本が一帯一路を応援しているのか?
   中国内では、「日本が一帯一路を応援している」と
   言われている。
  ・アジア諸国から日本の本心が疑われている。
  ・「日米同盟強化」と言われているが、言葉だけで、
   実態はそうなっていない・・南西諸島などをどう守
   るか?
  ・日米安保を改定して、双務性(そうむせい)を強化
   するなどしなければならない・・日本の対中の力は
   落ちている・・双務性は絵に描いた餅になる方向に
   ある。
  ・アメリカの共和党は、「日本の核武装を進めるべき」
   と言っている・・アメリカは、米本土に退くという
   方向なので、日本は核武装して自分を守れの論理。
  ・相互防衛条約に安保を持って行くべき。
  ・X‐35を100機買う。
  ・財務省は、「今、日本に金があって、有効な防衛が
   できる状況」なのに、嘘でそのことを抑えている。
  ・アメリカの「核の日本国内展開」をさせるのが、
   「急ぐべき日本の現状の対応策」。
  ・中国共産党は、日本のコントロールに成功している・・
   日本の政治家は中国寄りになっていて、自由な発言
   が出来なくなっている。
  ・中国が明らかに脅威であるのに、「仮想敵国だ」と
   言えない日本・・だから、その対応策が取れない日
   本となっている・・やりたい放題にされる日本にな
   っている・・
  ・統一朝鮮が、これからの、その後の脅威となり、仮
   想敵国となる・・
  ・超音速滑空体に中国は成功している・・これに核が
   搭載される・・世界で唯一成功している状態・・
  ・大国は、都合のよい時は国際法を守る、都合が悪く
   なると兵を送る・・この様な国が、今、日本の周り
   を取り囲んでいる・・
  ・日本は、痛い目に会わなければわからないのか??
.
2018年12月19日、中国人のハッカー集団を、アメリカは起
 訴する方針とした。
  (参考)ハッカー:コンピューター内へ入り、その相
     手の情報を盗んだり、コンピューター・システ
     ムを麻痺(まひ)させたりする者。
  アメリカの司法省が、中国の情報機関にあたる中国国
 家安全省と関係のある「複数の中国人ハッカー」を起訴
 する方針・・と報じられた。
  アメリカ紙のウォール・ストリート・ジャーナルなど
 によると・・、
  アメリカ司法省が、起訴する可能性があるのは、中国
 国家安全省とつながりがあり、「APT10」と呼ばれる
 ハッカーグループとみられている。
  アメリカのネットワークに侵入するため、複数年に渡
 ってITサービス企業に高度なサイバー攻撃を仕掛けた
 疑いがある。
.
2018年12月20日、韓国の元徴用工らが、韓国政府を提訴し
 た・・この日の読売新聞が伝えている。
  これが正しいのだ。
  韓国の元徴用工の方々も、やっと正しい道・本筋が見
 えたようだ。
  日本が、「元徴用工の方々の補償を行ないます」と韓
 国政府に言ったら、「そのお金は韓国政府へ渡してくれ」
 と韓国政府が言った。
  「韓国政府から元徴用工へ補償をしますから」と・・
  その様なことが、話し合いで決まって、日本は、韓国
 政府へ莫大な金を支払った。
  韓国政府は、この様な経緯(いきさつ)・事態を韓国
 国民へ徹底して説明しないから、この様な問題が発生し
 ている。
  元徴用工の人々が、韓国政府を提訴したのは、そのこ
 とが分かったから・・、
  読売新聞は、以下のように伝えている・・
  第二次世界大戦中に、日本企業に徴用されたとする
 韓国人や遺族ら約1100人が20日、韓国政府を相手取り、
 1人当たり1億ウォン(約1000万円)の補償金を求める訴
 訟をソウル中央地裁に起こした。
  元徴用工らを支援する市民団体が、ソウルで記者会見
 を開き、明らかにした。
  元徴用工らの訴訟を巡っては、韓国大法院(最高裁)
 が10月に、新日鉄住金に対し、賠償を命じる判決を初め
 て確定させた。
  今回の原告らは、1965年の日韓請求権・経済協力協定
 で日本から無償3億ドルを受け取った韓国政府にも補償
 する責任があると主張し、日本企業でなく、韓国政府を
 訴えた。
  韓国内では、この団体が主導した同様の訴訟が、他に
 3件進行している。
  元徴用工への韓国政府の補償を巡っては、朴正煕(ぱ
 くちょんひ)政権が、1975年~1977年に、日韓請求権協
 定で日本から受け取った資金を活用し、遺族らに補償を
 行なった。
  2008年以降にも、慰労金を追加支給し、慰労金の総額
 は2015年末で、計約6184億ウォン(約617億円)に上った。
  今回の訴訟の原告らは、過去の未申告などを理由に、
 韓国政府の補償を受けたことがないという。
..
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2018年12月21日

(増補版)623E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年4月)

題:(増補版)623E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1895年3月30日、逓信省官制公布(勅令第27号、4月1日施行)
  郵便及電信局官制中改正ノ件
  職員の増員
.
1895年3月、朝鮮国(李朝)が、朝鮮東学党の代表・全琫準
 (ゼンホウジュン)を処刑する。
  井上馨日本公使は、全琫準の人格に共感し、朝鮮政府
 に処刑しないように要請していたが、朝鮮政府は井上が
 日本に帰国している間に、処刑を執行した。
.
1895年3月、日本鉄道の赤羽駅~川口駅間の複線開通により
 上野駅~大宮駅間の複線が完成した。
.
1895年4月1日、第4回内国勧業博覧会が開催された。
  内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)
 は、明治政府の殖産興業政策の一つとして開かれた内国
 物産、美術・工芸品の博覧会で・・、
  第4回は、京都で開催された。
  この時、裸体画論争が起きる。
  黒田清輝の「朝粧(ちょうしょう)」が芸術か?、風
 俗を紊乱(びんらん、道徳・秩序を乱すこと)する春画
 の一種か?の問題だった。
  西洋列強に追いつくことに必死だった明治政府にとっ
 て、そもそも裸体は先進国にふさわしからぬ野蛮な習俗
 であると捉え・・、
  公共空間で堂々と展示すべきものではないと判断した。
  この時、警察の取締りは行われなかった。
  後の1901年の白馬会第六回展においては、警察は、特
 別室での鑑賞の形を求めた。
.
1895年4月1日、九州鉄道の小倉駅~行事駅(現:行橋駅)間
 が開通した。
.
1895年4月3日、甲武鉄道の飯田町駅~八王子駅間が開通し
 た。
.
1895年4月3日、甲武鉄道市街線の牛込駅~飯田町駅間が開
 通した。
.
1895年4月5日、日本初の1千トン級の貨客船「須磨丸」が
 竣工した。
  三菱合資会社三菱造船所、三菱第65番船
  1563トン(1536トン?)、835馬力。
  日本初の二重底をもった船(それまでは単底)
  日本初の台湾航路として開設された大阪~台湾航路に
 就航させる目的だった。
  1896年、台湾総督府の依頼で、大阪商船によって開設
 され、須磨丸などの3隻の汽船が 大阪~基隆を結んだ。
  また、この年1896年、陸軍省の航路として、日本郵船
 も神戸~基隆間を開設し・・、
  翌1897年、台湾総督府の航路となった。
  使用船は「山城丸 2852t」と「弘済丸 2635t」・・、
  1898年、大きさで劣った大阪商船は、新造船の台北丸
 (1897年進水,、3300トン) 、台中丸(1897年進水、3213ト
 ン) を投入して競走した。
  日本郵船は、続いて「西京丸」(1906年)、「信濃丸」、
 「備後丸」(1907年)、「因幡丸」(1915年)を投入して船
 舶の大型化をはかった。
.
1895年4月5日、筑豊鉄道の飯塚駅~臼井駅間が開通した。
.
1895年4月6日、甲武鉄道が、お花見列車を運行した。
.
1895年4月8日、ロシアが、列強各国へ、日本に対する共同
 干渉をすること提案した。
  日清戦争の講和条約である下関条約で認められた、日
 本の遼東(リヤオトン) 半島領有に反対するロシアが、
 フランスとドイツと共同干渉しようとした。
  下関条約の調印の6日後の1895年4月23日、当時、満州
 への鉄道建設を目指していたロシアは、遼東半島の領有
 の放棄を日本に勧告した。
  ロシアと同盟関係にあったフランス、ロシアの進出方
 向を極東にそらすことをねらっていたドイツもこれにな
 らった。
  当然、束になって日本に圧力をかけた列強各国に対抗
 出来ない日本・・
  日本の国力では3国に対抗できないので、1895年5月5日、
 これを受諾した。
  日本は、遼東半島を清国に還付することとした。
  (日本は、遼東半島を買っていたので、当然、清国は、
 日本に返金した)
  以後、ロシアは、満州に鉄道敷設権を獲得し、遼東半
 島を租借地とした。
  これを見ていたフランス、ドイツ、イギリスも争って
 租借地を要求した。
  日本では「臥薪嘗胆(がしんしょうたん、仇を討とう
 として苦心・苦労を重ねること)」のスローガンで、対
 ロシア報復の国民感情が大きくなった。
  外交面で、対英接近が進められて行く。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の「シャープパワー」に対抗せよ。
.
1885年、伊藤博文は、この年に、内閣制度を創設して、自
 ら初代の内閣総理大臣に就任した。
.
1935年、イランという国号が採用された。
  イラン人は、自ら「イーラーン(アーリア人の国)」
 と称していた。
  そして、「アーリア」とは、「高貴な」をいう意味で、
  故に、ヨーロッパからの圧迫を脱却し、民族の誇りを
 回復する意味から、1935年に、イランという国号を採用
 した。
  キリスト教徒のヨーロッパ人からの精神的圧迫から脱
 却を計った。
.
1951年4月28日、サンフランシスコ講和条約が結ばれた。
  日本は独立した。
  アメリカの主導する占領から解放された。
  国際社会に、独立国として堂々と復帰した。
  しかし、この時、締結した「サンフランシスコ講和条
 約の条項」に、卑劣にも書かれた条項を、日本は守らな
 くてはならなくなった。
  それは、「日本は、東京裁判(極東国際軍事裁判)の
 判決を受託し・・刑を執行する・・」「裁判によって言
 い渡された判決」を受け入れる・・という条文だった。
  日本の軍人を・・日本の兵士を(日本と共に戦った韓
 国の兵士も判決を受けていた)東京裁判で判決し、殺し
 たりしたが、それを受け入れよというものだった。
  東京裁判で死刑判決になった人は28名いた。
  これも、まったく卑劣に決められた。
  日本が負けると分かっていた頃、裁判以前のこの時に、
 すでに、連合国は、「誰を死刑にするか」を決めていた。
  「公正な裁判の結果、死刑になった」という様に、世
 界には見せかけた。
  アメリカなどの連合国は演技した・・卑劣である。
  アメリカは、「東条英機を死刑にしたい」と打ち合わ
 せで言った。
  中国国民政府(今の中国共産党政権では無い、この中
 国共産党政権とは日本は戦争をしていない)は、「板垣、
 土肥原、松井・・」と言い、
  ソ連は、「広田弘毅・・」と言い・・、
  各国が、好き勝手に、また裁判の判決も無いのに言い
 たい放題だった。
  リンチ(私刑)の見本の様な下劣な事をやっていた。
  そして、東京裁判の演技の「作られた裁判」が行われ
 て、日本の軍人(兵士)達は責任を取って殺された。
  これ等の事が、サンフランシスコ講和条約に「受け入
 れろ」と書かれていた。
  しかし、東京の他の地でも・・
  その他の地域の世界中でも、裁判が行われていて、日
 本軍人が、東京裁判を真似た裁判で・・殺された。
  連合国は、それらを止めること無く、出先の勝手な裁
 判で、「やりたい放題」をさせていた。
  死ななくてよい日本軍人(兵士)が命を取られたりし
 た、また、刑に服す虐(しいた)げに会った。
  ユネスコの記憶遺産にして、長くこの卑劣行為を記憶
 に止めよ。
  まったく卑劣に、連合国の国際的取引のまな板の上で、
 日本人兵士の命はやり取りされていた。
.
1968年4月13日。映画「猿の惑星」が、日本で公開された。
  アメリカ映画が、中国資本に乗っ取られ、中国のプロ
 パガンダ(嘘宣伝)に使われていた。
  猿の惑星のサルは、日本人の暴動で、中国軍とアメリ
 カ軍の共同作戦で殲滅するというストーリーだという。
  この様な影響力の強い映画に、中国は、ありあまる「
 あぶく銭」を投入し、この様な方法で、日本の貶(おと
 し)め行為を相変わらずしている。
  (参考)猿の惑星(さるのわくせい)は、1968年のア
     メリカ合衆国の映画。
      ピエール・ブールによるSF小説『猿の惑星』
     を原作とする『猿の惑星』シリーズ全5作の第1
     作。
.
2017年1月、NHK横浜放送局営業部に所属していた40代の
 男性職員が、受信料数十万円を着服していた疑いがある
 と発表した。
  職員は、NHKが調査を進めていた2016年10月中旬に
 死亡したという。
  NHKによると、職員は、2015年~2016年、受信契約
 に関する架空の伝票を複数回にわたって作成。
  受信料を先払いしている受信契約者らの個人情報を悪
 用して、契約を解除したように装うなどして、払戻金を
 着服していたとみられる。
  NHK広報部は、個人情報を悪用された契約者への影
 響は「ない」とした。
  NHKは、今後も調査を続け、被害額を確定させた上
 で、遺族らに弁済を求める方針。
  「誠に遺憾であり、再発防止に努める」としたが・・
.
2017年12年20日、中国の「シャープパワー」に対抗せよ。
  日本経済新聞が標記の表題の記事を書いた。
  (これは、イギリスの雑誌「エコノミスト」12月14日
 号の記事の翻訳)
  シャープパワー:
  米ワシントンのシンクタンク「全米民主主義基金(N
 ED)」は、中国による一連の動きを「シャープパワー」
 と命名した。
  「ソフトパワー」は、その国の文化や価値観の魅力に
 よる強みを指すが・・、
  「シャープパワー」は、独裁国家が、外国に自国の方
 針をのませようと強引な手段に出たり、海外の世論を操
 作したりするためのもの・・、
  相手国の社会制度や文化伝統などを鋭利な、すなわち
 シャープな刃物で切り裂くように分断し、自国に有利な
 状態を作る戦略のこと・・、
  2010年のノーベル平和賞が、中国の人権運動の活動家
 で何度も投獄され、当時も獄中にあった劉暁波氏に贈ら
 れた。
  そして、ノルウェーのノーベル委員会が、劉氏の釈放
 を中国に求めた。
  中国は「内政干渉は許さない」とか「ノーベル平和賞
 は西側の利益の政治的な道具である」などと強硬に反発
 した。
  また、ノルウェーから輸入していた養殖サーモンの輸
 入制限などの経済制裁を実施した。
  ノルウェーは、ソルベルグ首相が、外務大臣と貿易産
 業大臣を伴って、2017年4月、中国を訪問し、習近平国家
 主席に面会し、「今後、中国の核となる問題については
 批判しない」という声明に署名した。
  ノルウェーと中国の関係は修復された。
  エコノミックパワーを利用し、自国の制度や文化を押
 し通し、相手国の制度や文化を切断したシャープパワー
 だった。
  韓国も同じ様に・・北朝鮮の弾道ミサイルの発射を早
 期に探知し、迎撃するために、2017年、アメリカが高高
 度ミサイル防衛システム(THAAD)の機器を韓国の
 ゴルフ場の敷地に搬入した。
  北朝鮮はもちろん、中国も反発した。
  韓国商品の輸入規制など報復措置を実施した。
  また、設置したゴルフ場が、ロッテ商事の土地であっ
 たため、中国はロッテグループを非難し、ロッテの商品
 の不買運動も行なった。
  そして、韓国の輸出の26%が中国向けだったため、大
 変な打撃を受けた。
  そして、さらに、韓国への中国団体観光旅行が禁止さ
 れたため、2017年11月末までの中国人観光客が、前年比
 で42%も減少した。
  このような背景から、2017年12月、国賓として中国を
 訪問した韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領に対し、
 中国高官との食事は昼食会2回のみで冷遇した。
  また、文大統領は、北京大学で、「中国の夢が全人類
 と共に見る夢になることを期待する」というゴマすりの
 講演を行った。
  中国のエコノミックパワーを駆使して、自国の主張を
 押し付けた結果だった。
.
2018年、今、中国は、100万人のウイグル民族の方々を幽閉
 している・・
  アメリカ議会は、これを問題にする方向。
..
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2018年12月18日

(増補版)622E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年3月)

題:(増補版)622E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1895年3月16日、参議総長の小松宮彰仁親王を征清大総督に
 任命した。
.
1895年3月16日、孫文らが興中会を組織し、清朝打倒運動を
 開始した、そして、広東攻撃を計画した。
  その後、広州で蜂起を計画したが失敗し、孫文は、日
 本に亡命した。
  興中会は、孫文が中心となって、ハワイの華僑らと、
 1894年に結成した革命的秘密政治結社だった。
  宣言で、清朝打倒、中華の回復、共和政体樹立(合衆
 政府の創立)を掲げた。
  1895年には、香港に本部を移し、拡大改組し、広東で
 武装蜂起を試みたが、計画が密告され失敗に終わった。
.
1895年3月20日、下関の春帆楼で日清講和会議が始まった。
  日本は伊藤・陸奥の両全権で、中国・清は李鴻章で、
 第1回会談が開かれた。
  前回は、清国が、講和のために交渉するには国書では
 なく、全権委任状が不可欠であることを理解していなか
 った・・そのため会議が成立しなかった。
  講和の会談前には、本国の元首、または、政府が授け
 るこの証書があって、その身分が代表であり権限がある
 ことを証明することと、それを確認することは必然なこ
 とであった。
  後日、この不備を、清国の全権講和使節だった二人は
 認めている。
  この不備は、アメリカ駐清公使に要請して書いた「西
 洋方式による国書の原稿を下書き委託した」ところにあ
 った。
  そして、特別な権限を授ける証明も欠如していた。
.
1895年3月23日、澎湖島の上陸
  台湾の西方約50kmにある澎湖島に、日本陸軍が上陸し
 た。
  大本営は、1月中から澎湖島への軍隊派遣の準備を進め、
 海軍の連合艦隊と共に、2月1日に、そのための混成枝隊
 (支隊)が編制された。
  混成枝隊の主力部隊は、3月8日に、広島の宇品港を出
 発し・・、
  翌3月9日に、下関で残りの部隊と合流し、佐世保港で
 海軍連合艦隊司令長官・伊東祐亨海軍中将の指揮下に入
 り、艦隊と共に台湾方面に向った。
  3月20日、澎湖島の沖合に到達し、上陸地点を島の東南
 部に決定し、
  3月23日、連合艦隊の沿岸砲台への攻撃と、陸軍部隊の
 上陸作戦を開始した。
  そして、澎湖島の中心地の馬公方面に向かう・・これ
 に対し、清国守備隊も迎撃し、激しい戦闘となる。
  3月24日、艦隊による援護の砲撃を受けながら、馬公攻
 撃を開始。
  深夜、清国軍は降伏を申し出て馬公が陥落した。
.
1895年3月24日、清国の全権大使の李鴻章が狙撃された。
  3月24日午後3時、李鴻章と日本の内閣総理大臣・伊藤
 博文、外務大臣・陸奥宗光が3回目の会談を行った。
  そして、会談を終えた李鴻章が、旅館への帰る途中、
 日本の暴徒(自由党員の小山豊太郎)に狙撃された。
  講和交渉に訪れた使節団の代表が銃撃されるという不
 祥事、国際的非難が日本に集まった。
  その後の講和交渉でも日本側は譲歩を余儀なくされた。
  幸いなことに、李鴻章の怪我けがは命にかかわるもの
 でなく、引接寺内に留まったまま治療を続けた結果、傷
 は快方に向かったため、講和交渉が決裂するといった最
 悪の事態は回避された。
  下関市民から李鴻章へのお見舞いとして、大きなガラ
 ス水槽に海水を満たし、魚や蛸(たこ)を入れて引接寺
 の病室に搬入したという話が伝わっている。
  この裏道が今も残る「李鴻章道」で・・、
  交渉は順調に進み、1895年4月17日、下関条約が調印さ
 れた。
  李鴻章狙撃事件(氷川清話)
.
1895年3月28日、鉄道局判任以下宿直及徹夜食料支給方を制
 定(公達第133号)
.
1895年3月30日、日清休戦条約が調印された。
  3月24日の第3回会談の帰途、李鴻章が狙撃され負傷す
 る事件が起ったため、日本側は休戦に応じ・・
  3月30日、休戦条約が締結された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:38°線が無くなる・・対岸に北朝鮮の核が来る・・
   そして、日本を裏切るNHK・・中国に利する放送をするNHK・・
.
紀元前2万数千年、ネアンデルタール人が絶滅した。
  そして、我々=現生人類(ホモ・サピエンス)の時代
 となる。
  ホモ・サピエンスは、現生人類が属する種の学名で・・
  ヒト属で現存する唯一の種(ネアンデルタール人など
 すでに絶滅した多くの旧人類も含む)
  そして、このホモ・サピエンスは絶滅危惧種なのか?
  核保有国が次々と増えて、今後の生存可能性は低下し
 ている。
  この我々=ホモ・サピエンスの祖先が、生まれた地=
 アフリカの地を出て、世界へ広く分布し、生息するよう
 になったが・・、
  この我々のホモ・サピエンス(現生人類)の前に、ア
 フリカを出た人類は・・多く居た。
  その我々のホモ・サピエンスの直前にアフリカを出た
 人類が、「ネアンデルタール人」・・
  最近、科学の進歩で、このネアンデルタール人の遺伝
 子が、我々のホモ・サピエンスの血の中にあることが分
 かった。
  絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が・・
  現世に生きるのは「我々=ホモサピエンス(現生人類)
 だけか」と思われていたが、ネアンデルタール人と我々
 =ホモ・サピエンスは交雑し、結婚していた。
  「ネアンデルタール人は、絶滅していなかった」ので
 ある。
  我々の血の中に、その血は受け継がれ・・生存してい
 たのである。
  近代科学、遺伝子研究の発達が、そのことを知らしめ
 た。
  (参考)ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、
     2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種
     と説明されている。
      新しい学説では、4万年前に絶滅したという説
     もある・・が・・
      遺骨(化石)から得られたミトコンドリアD
     NAの解析結果に基づき・・、
      ネアンデルタール人は、我々の直系先祖では
     なく別系統の人類であるとする見方が有力であ
     り・・
      両者の遺伝子の差異は、他の動物種ならば別
     種と認定されるレベルであり・・、
      ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは混
     血できなかったとする考え方が有力であった・・
      しかし・・、
      2010年5月7日のサイエンスに、われわれホモ・
     サピエンスのゲノムに、ネアンデルタール人の
     遺伝子が数%混入しているとの説が発表された。
     ・
     ・
     ・
354年11月13日、アウグスティヌスが生まれた(~430年8月
 28日、76歳)
  アウグスティヌスは、キリスト教が「教父」と呼ぶ、
  また、「聖」を付けて「聖アウグスティヌス」と尊称
 で呼ぶ・・その様な人である・・が・・
  アウグスティヌスには、次の言葉がある・・、
  「人間の性欲こそ、悪を制して善を選べない良い例で
 はないか・・」。
  放蕩生活をしていたアウグスティヌスだからこの様な
 ことを言うという言葉となっている・・
  この言葉は、キリスト教の根本教義である「アダムが、
 禁断のリンゴを食べて以来、人間に原罪が生じ、人間は
 罪を犯す様に生まれた」というキリスト教の根本教義を
 説明する時に、彼の口から出た・・のだが・・
  論拠の乏しいこの様なキリスト教の言葉は・・アダム
 のリンゴの「あり得ない話=神話」を信徒に正しい様に
 思わせ、洗脳し、マインド・コントロールし、原罪があ
 るからと、物事を悪い方向にばかり思い至らせている・・
 積極的・前向きには考えられないように仕向けている。
  アウグスティヌスでさえも、「性欲・・悪を制して善
 を行なう事は出来ない」と言う始末となる。
  この「聖」が付くほどのアウグスティヌスも、若い時
 の自堕落な経験が交って・・さらに、キリスト教の洗脳
 された頭から出てしまった言葉だった。
  若い時に、何人もの女性を泣かせ、たぶらかし、手籠
 め(てごめ)にする様な生活だった。
  男性と女性が、お互いに思いやり、尊敬し、尊敬され・・
  尊敬し合って愛し結婚に至り、幸せな家庭を築いて行
 くという前向きなプロセスを想像することのできない頭
 とされている。
  キリスト教の性悪説にマインド・コントロールされ・・
  アウグスティヌスでさえ、こような言葉となる・・考
 えとなる・・
  キリスト教の性悪説には感化されない様に・・
   ・
   ・
1837年、大英帝国の絶頂期(1837年~1901年)を代表する
 首相ベンジャミン・ディズレーリは・・、
  「世界は、舞台裏を知らない人には想像もつかない人々
 によって支配されている」と述べている。
  その人たちのことを、キグリー教授は、「国際銀行家」
 と特定している。
  (参考)キグリー教授:キャロル・キグリー(1910年
     11月9日~1977年1月3日)は、アメリカの歴史学
     者、文明進化の研究者。
      ジョージタウン大学の教授を務めた。
      多数の本を出版し、秘密結社なども研究した。
  その銀行と言っても、庶民が貯蓄や商業活動用の口座
 を開く民間銀行とは違う銀行で・・、
  イギリスでは「マーチャントバンカー」、
  フランスでは「プライベートバンカー」、
  アメリカでは「投資銀行家」と呼ばれ、企業に資金を
 提供する。
  産業革命発祥の地であるイギリス金融界を牛耳るのは・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社、
  ベアリング・ブラザーズ、
  J・ヘンリー・シュローダー、
  モルガン・グレンフェル、
  ハンブロス、
  ラザード・ブラザーズなど・・17社。
  これらの企業が本社を置くのは、ロンドンの中心部の
 約2キロメートル四方ほどの自治体を形成するシティ・オ
 ブ・ロンドン・・、
  ここに、ロンドン証券取引所、イングランド銀行(理
 事の多くは17のマーチャントバンカー)、ロイズ本社な
 どがある・・
  そして・・
  19世紀から現在まで続く金融センターとして、ニュー
 ヨークのウォール街とともに世界経済を牛耳り、手玉に
 取っている。
  そして、日々、変化する金(ゴールド)価格を決める
 のが、5人のマーチャントバンカー達・・、
  1919年9月に設立されたThe London Gold Market Fixing
 Ltdでの値段がゴールドの世界基準価格となる・・
  ここの値段は・・、
  サミュエル・モンタギュー商会、
  シャープス・ピクスレイ、
  ジョンソン・マセソン、
  モカッタ・ゴールドシュミットが、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社に集まり・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社が議長になり・・、
  午前10時半と午後3時の2回、値決めする。
  (参考)金の固定:ロンドンの金の固定は、専用の会
     議回線を通じて行われる金価格の設定・・、
      これは、以前はLondon Gold Market Fixing
      LtdのメンバーによってNathan Mayer Rothschild
     &Sonsの前で開催され・・
      ベンチマークは、 ロンドンの地金市場の各営
     業日の2回決定される。
      これは、ロンドン地金市場のメンバー間の契
     約を解決するための価格を固定するように設計
     されている。
  これら5人の銀行家は、17のロンドンのマーチャントバ
 ンカーのメンバー・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社は、イギリス・ロ
 スチャイルド本家で・・、
  ほかの4社は、ロスチャイルドの遠戚。
  長い間、世界のゴールド価格を左右して来たN・M・
 ロスチャイルド&サンズ社が、2004年に、金価格設定業
 務から撤退した。
  この時、他のメンバーも交代し、現在、ゴールド価格
 を決定しているのは・・
  スコシア・モカッタ(レバスコシア銀行の小会社)、
  バークレイズ・キャピタル、
  香港上海銀行USAロンドン支店、
  ソシエテ・ジェネラル(フランスの大手金融機関、ロ
 スチャイルド系)、
  ドイツ銀行の5社。
  議長は、1年ごとの交代制になり、1か所に集まらず、
 電話を使って・・アメリカ・ドル、イギリス・ポンド、
 ユーロの三つの通貨で値決めされる。
  ゴールドの価格は・・、
  「市場の需要と供給で決定されるのではない」。
  (参照)https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1060689-84/
.
1924年頃、毛沢東は、プロパガンダ(嘘宣伝)に洗脳され
 ていた。
  毛沢東は、若い時(31歳、1924年頃)、中国・国民党
 に入ってプロパガンダの宣伝戦をやらされて居た。
  この時、毛沢東は、共産党から追放処分を受けていた。
  この時、孫文の後継者と言われた汪精衛に目を付けら
 れ、中国・国民党の中央宣伝部長代理の地位を与えられ
 た。
  そして、国民党の雑誌である「政治週報」の編集長の
 役まで昇進した。
  毛沢東が、日本に対して「あること、無いこと、嘘ば
 かりの嘘宣伝をやる」ことになるが、その様な性癖は、
 この時、身につけた。
  日本は、これに、大分(だいぶ)、してやられ、苦し
 められた。
  南京事件を、様々な欧米のジャーナリストを使って
 「さも、あったように作り上げた」
  その様な嘘作りの国民党宣伝部に、毛沢東は、鍛(き
 た)えられた。
  (参考)汪兆銘(汪精衛):おうちょうめい、1883年
     5月4日~1944年11月10日、中華民国の政治家・
     革命家。
     (中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的)
.
1950年代前半、毛沢東は、アメリカによる日本への原子爆
 弾投下に魅了された。
  そして、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  毛沢東は、1950年代前半を通じて、すべての会議にお
 いて、「中国による原爆所有」について言及していた。
  しかし、毛沢東は、外交的配慮から、それを誤魔化す
 ため・・対外的には原爆への渇望を隠蔽し・・、
 「原爆など不要、人民に頼るべき」と発言していた。
  1946年には、「張り子の虎」発言を行っている。
   スターリンは、中国への技術供与を了承しなかった。
  1949年8月29日、ソ連最初の核実験が成功した。
   この成功により、アメリカによる「核兵器独占」は
   終わった。
  1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる(~1953年7月27日)
  1953年2月2日、アメリカ合衆国大統領アイゼンハワー
   が、一般教書演説において、中国への原爆投下の可
   能性について言及し、中国に対して核使用による脅
   迫を行った。
    そのため、毛沢東には、スターリンに対して、原
   子爆弾の技術提供を要求する口実ができた。
    毛沢東は、中国の核物理学者の銭三強を、モスク
   ワへ派遣するが、ソ連はこれを拒絶した。
    しかし、銭三強は、以降も、ソ連の核研究施設に
   入れてもらうよう交渉を三ヶ月も続けた。
    1950年の中ソ友好同盟相互援助条約には核兵器に
   関する協定は含まれていなかった。
    スターリンは、中国に核兵器を持たせたくなかっ
   た。
  1953年3月5日、スターリンが心臓発作で死去する。
    スターリンの死後、ソ連指導部は、西側諸国との
   緊張緩和を目指し、中国へも停戦に協力するよう説
   得を始めた。
    しかし、毛沢東は、原爆を渇望するあまり、朝鮮
   戦争の継続に固執した。
    アメリカ軍が、細菌兵器を使用したというプロパ
   ガンダを巡って、ソ連政府は、中国政府を威嚇して、
   毛沢東は、1953年5月に、ようやく朝鮮戦争の停戦に
   応じた。
    毛沢東が、朝鮮戦争の終結に同意したため、ソ連
   新クレムリンは、中国に大型工業計画を売却する。
  1953年6月15日、これを受けて、この日、毛沢東は、
   軍事大国を目指した第一次五ヵ年計画を提起した。
  1954年7月、中国は、台湾侵攻を開始した。
   これは、再びアメリカとの対立を作ることで、ソ連
   に原爆製造技術を要請するためにしたことであった。
  1954年9月3日、金門島へ砲撃を開始した。
  1954年10月1日、ソ連代表ニキータ・フルシチョフが、
   訪中した(スターリン時代には考えられないこと)
    フルシチョフは、15企業の売却と5億2000万ルー
   ブルの借款を約束した。
    原爆については、毛沢東が強く交渉し、ソ連側は、
   中国の原子炉建設援助を不承不承承諾した。
  毛沢東は、核技術をソ連から買うために、「なけなし
 の資金」を投げ出した。
  その為、中国農民たちが飢餓状態になるという「飢餓
 輸出」が冷酷に行なわれた。
  中国を崇拝する日本の中国研究者の加々美光行でさえ・・、
  「毛沢東の大躍進や文化大革命は、毛沢東の決定的な
 誤りによる大失政である事は誰も疑わない」と言う如く
 であった。
  多くの中国国民の方々の人間性が破壊されるばかりの
 施策が行なわれた。
  毛沢東は、都合が悪ければ「中国国民党に行くような
 人間」で、また、粛清もするような人物である。
  この毛沢東の中国共産党は、スパイを多用した。
  その酷い例が・・、
  中国国民党に送り込まれた中国共産党のスパイは、出
 世をし、中国共産党軍との戦いで、わざと敗けてばかり
 していた。
  (参考)胡宗南:こそうなん、中華民国の軍人、国民
     政府に属した・・それまで軍功を上げていたが・・
      1930年11月、第1軍第1師師長に事実上任命さ
     れ・・その後、長征中の中国共産党(紅軍)
     討伐のため、胡宗南は陝西省南部でこれを
     迎撃したが、大損害を被って突破を許してしま
     う。
  胡宗南が敗北を続けたのは、中国共産党の周恩来によ
 って中国国民党に送り込まれた中国共産党のスパイとし
 て胡宗南の機密秘書となった熊が、何年にもわたって、
 胡宗南の作戦をすべて中国共産党側へ知らせていたから
 だった。
.
2000年、「GRU帝国第一巻」(コルパキジ、プロホロフ
 共著)が、モスクワで出版された。
  GRUは、ソ連軍諜報本部情報総局のことで、張作霖
 爆殺はソ連が実行したもので、日本がやったように見せ
 かけた・・と書かれている。
  その記述・・、
  「『グリーシカ』機関の実行したいくつかの工作の中
 でも、一番世間を騒がせたのは、1928年6月の張作霖爆殺
 だった。
  張作霖は、北京政権を牛耳り、露骨な反ソ連姿勢をと
 っていた。
  特別列車が爆破された時、張作霖の乗っていた車両の
 隣の客車にはイワン・ヴィナロフ(ティンゴンの部下)
 が乗車しており、事件現場の写真を撮った。
  謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったよ
 うに見せかけた」。
  張作霖が、ソ連にかなり恨(うら)まれていたのは事
 実で・・、
  張作霖は、1927年4月、北京のソ連大使館に踏み込み、
 中国国民党とソ連が組んでいることを示す証拠を押収し
 たうえ、中国語に翻訳して大部の冊子として公表してば
 らしていた。
  また、1920年代、1930年代のソ連は、暗殺をするのが
 日常茶飯事だった。
  ソ連諜報部には、その様なことをする組織がたくさん
 あった。
  また、この様なやり方が、まったく一致している。
  この関連情報には、まだ未公開部分(公表不許可の
 部分)がある。
  ソ連の諜報やプロパガンダは盛んに行なわれていた。
  日本は、「世界制覇の野望がある」と偽装された事件
 さえある。
  その様なことが書かれている「田中上奏文」があると
 でっち上げられた。
  この「田中上奏文」も、ソ連のKGBの前身のOGP
 U(国家合同警察本部)が偽造した文書だと判明してい
 る。
  この「田中上奏文は、偽造文書とはっきりした」が、
 残念なことに、東京裁判の時は、前記の様な事が、まだ、
 不明で・・、
  この「田中上奏文」は重要視されてしまった。
  因みに、「田中上奏文」に、どんなことが書かれてい
 たかというと・・、
  日本が共同謀議して、「支那を征服せんと欲せば、ま
 ず満州・蒙古を征せざるべからず。
  世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざる
 べからず」・・と書かれていて、
  この文書を天皇陛下へ上奏されたとでっち上げられた。
.
2018年1月10日、38度線が無くなる・・韓国が北朝鮮に飲み
 込まれる可能性が大きい・・
  https://www.youtube.com/watch?v=B5vMbIJewV4
  韓国が無くなってしまう!
  藤井厳喜氏が語る。
  (参考)藤井 厳喜:ふじい げんき、1952年8月5日~
     日本の国際問題アナリスト、評論家、シンクタ
     ンク経営者。
  韓国が無くなる可能性が大きくなった。
  南北の朝鮮統一は、韓国が無くなる形となる。
  文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領が、それを望ん
 でいる・・
  表面は、朝鮮民族統一と美しく言っているが・・
  北朝鮮に「取り込まれてよい」としている・・
  一国二制度の方式がとられる・・
  高麗民主連邦共和国(金日成が提唱した南北朝鮮の統
 一方法)による・・
  一民族・一国家・二制度・二政府の下で連邦制による
 統一・・
  軍事は統一・・
  トップは、とりあえず北と南に居るが、アメリカ軍を
 韓国から追い出す事を目的とする・・
  統一されて北朝鮮の脅威がなくなれば、アメリカ軍の
 居る理由が無いというのが、その理屈で論理で行われる・・
  過去に、アメリカ軍が、朝鮮戦争で血を流して韓国を
 守ったという貢献・意義の話は・・雲散霧消している・・
  雲散霧消(雲や霧が消えてしまうように、物事が一度
 に消えてなくなる事・・
  朴槿恵(パク・クネ)は、北京に尻尾を振って行き、
 天安門の上から閲兵までするという親中国のそぶり・・
  これに、アメリカは、大変びっくりした・・
  ここまでするか?・・の状態・・
  韓国は、日本の共産圏との緩衝地帯という状況ではな
 くなった・・
  そして、アメリカ軍が、韓国から出るとなると・・
  韓国にある核兵器から何までも、持って出るアメリカ
 軍となる・・韓国から引き上げるアメリカ軍となる・・
  THAADミサイル(弾道弾迎撃ミサイル・システム)
 も持って帰る・・
  設置に大反対していた中国は・・にっこり・・
  こうなったら朝鮮戦争で亡くなったアメリカ兵の4万人
 の流した血=韓国を守った血は何だったのかになる・・
  大侮辱状態となる・・
  しかし、だらだら続けるわけにも行かない・・
  韓国は、アメリカの植民地と言って良い状況だったが、
 その韓国にナショナリズムの核(心棒)が無くなってい
 る・・
  核(心棒)が無くなった国=韓国を助ける事は出来な
 い・・
  経済援助・軍事援助も、結局、無駄になる・・
  南ベトナムも、それ(国家の核・心棒)が無かったか
 ら・・滅びた・・
  韓国も、今、国軍が腐敗している・・
  軍備も不備が多い・・
  手榴弾も正常に働かない・・
  自走砲も機能しない・・
  弾が逆に発射する状況・・
  危険な所に行く場合、親の許可を得ることがなされる
 事が慣習化しているという状態・・
  携帯で許可を得る兵に、上官がその携帯電話に出て説
 明するという状態・・
  軍ではない状態・・
  マティス国防長官も、この様な状況を見ている・・
  かつては、立派な軍人も居た韓国・・
  その様な軍人は、パージ(追放、公職から締め出すこ
 と)され、居なくなった・・
  残ったのは、利権あさりをする様な輩の状態・・
  売春斡旋や保険詐欺をする状態・・
  国民の信頼も失われている・・
  国の心棒の軍が、このありさまの韓国・・
  アメリカは、軍人が社会で尊敬されている・・
  韓国の愛国心が失われている今日(こんにち)になっ
 てしまった・・
  今、韓国の核(心棒)が無くなっている・・
  北朝鮮は悪いが、金というアイデンティティ(帰属意
 識)はある・・
  その点、何も無い韓国は、止めた元大統領を打ちのめ
 す様な国になってしまった・・
  韓国は、漂流状態・・
  北朝鮮は、核兵器は放棄しない、そのポーズはしてい
 るが・・
  文在寅韓国大統領は、アメリカとはまったく何も合わ
 ないという大統領・・
  選挙の時から親北朝鮮を表明していた・・
  だんだん親北朝鮮の方向へ進んで来た韓国・・
  財閥が叩きのめされている・・
  庶民に、財閥に対する怨嗟の声が満ちている・・
  サムスン財閥解体が取りざたされている・・
  文在寅韓国大統領も、財閥に否定的・・
  庶民の声に乗って動いている状態・・
  財閥が無くなったら韓国経済は終わる・・
  韓国の求心力も無くなる・・
  その財閥も、ほとんどが外国資本となっている・・
  サムスンも、ほとんどが外国人株主・・
  サムスンが儲けても、韓国の儲けにならない状態・・
  韓国の恨みの文化が、爆発する・・
  韓国GDPの2割を稼いで来た財閥がこの状態・・
  これが無くなったら後に何が残るの?という状態・・
  この最悪事態が起きれば、外国資本が総引き上げとな
 る・・
  韓国経済が、大変な状態となる・・
  今、輸出先が、中国で支えられている・・
  自由貿易を謳う中国は嘘・・
  意図的貿易をしている中国・・
  意図:目論見や目的や考えをもって「わざとするさま」・・
  WTO違反の中国・・
  中国に頼る韓国・・
  だから、言うべきことも言えない韓国・・
  昔の中国の冊封体制が思い出される状態・・
  サムスンの投資も空回り・・
  日本憎しをやることだけで韓国がまとまるという国状・・
  昔のまとまる「反共産の手」は使えなくなっている・・
  残されたのは反日だけ・・
  反共産をしなければ、北の核兵器の脅威もなくなる・・
  北朝鮮がやって来た「対南工作」が功を奏し始めてい
 る・・
  マスコミ、教育界(特に大学)、労働組合が、じわー
 っと親中国・親北朝鮮になった(日本もか?)・・
  韓国の一番の保守系新聞の朝鮮日報でさえ、親中国・
 親北朝鮮・・
  「親アメリカは、ほとんど無い」という状態・・
  大量の工作員がやって来た事が、この様な状況を作っ
 た・・
  日本のマスコミもこの状態・・
  日本以上が韓国・・
  言論の自由だと言ったって親中国・親北朝鮮になるた
 めの発言・・
  国防上で、アメリカや日本と連携する意思も無くなっ
 ている・・
  1976年、カーター大統領も引き上げる発言をしている・・
  韓国は、同盟国の名に値するか?・・
  信頼できるか?・・
  同盟の価値があるのか?・・
  一国二制度の道へ進むだろう・・
  これは、現政権の文在寅韓国大統領の公約・・
  国民へ、一国二制度でやると公約した・・
  38度線は、対馬と朝鮮半島の間に来る・・
  北朝鮮のテポドンやノドン・ミサイルは、この対馬の
 対岸まで来る・・
  竹島にも配備されるのか?・・
  日本の防衛構想は、それを前提にしなければならなく
 なっている・・
  対馬海峡の防衛強化・・
  緩衝地帯のない状態を、日本はこれから経験する・・
  北朝鮮の核兵器が、ここまで来る可能性が生じる・・
  アメリカにとっての緩衝地帯の喪失ともなっている・・
  南ベトナムと同様に進む韓国のこの先・・
  アメリカの兵士の血でタイの共産化が防げた・・
  シンガポールの先まで共産化しただろう・・
  ASEAN(東南アジア諸国連合)を守った血だった・・
  日本の赤化も守った・・
  今、ひしひしとその波が押し寄せる日本だが・・
  民主党~民進党の政権が続いたら(実際は、3年で終わ
 ったが)、とうなっていたか?、赤化していたのでは?・・
  そして、日米安保は解消されていただろう・・
.
2018年12月、起きてもいない南京事件を、「あった、あっ
 た」と言いたい中国政府
  2018年12月のニュースを見ていたら、中国政府が、中
 国国民に、「その日に車のクラクションを鳴らせ」とか、
 「黙とうせよ」とかの命令「法律を作って、無理にやら
 せようとする中国政府となっている」。
  中国国民の声も放送されて居たが・・「法律を作って
 無理に強制するのは意味が無い」と言っている映像が放
 送されていた。
  中国政府は、南京事件が「あった、あった」とは言う
 が・・中国政府は、「このようにして南京事件が起こっ
 た」とは言わない。
  起きてないことが、「言えるわけがない」。
  無理に言おうとすると・・
  「自国軍の中国軍が、日本軍を恐れて逃げて来る中国
 軍の自国軍を、逃げないようにと、日本軍と戦わせよう
 と、中国軍が、自国軍を銃撃して殺す」という話ばかり
 が出て来る。
  だから、中国政府は、「あった、あった」とだけを言
 うばかりとなる。
  中国は、スパイをあちこちに行かせるが・・、
  こんなスパイから「南京事件がでっち上げられて行く」。
  中国国民政府の宣伝部が、中国共産党に繰られていた。
  南京戦の時、邵力子(しょうりきし)は、中国共産党
 勢力から中国国民政府の蒋介石政権へ送り込まれ、中央
 宣伝部の部長になる。
  そして、プロパガンダ工作を盛んにする・・南京事件
 もでっち上げる。
  (参考)邵力子:しょうりきし、1881年~1967年、中
     国の政治家。
      上海の震旦(しんたん)書院を卒業。
      1908年、中国革命同盟会に入り,
      1910年、『民主報』創刊。
      1916年、上海の『民国日報』の編集長兼発行
       人となり、同時に大学で教えた。
      1919年、国民党加入。
       中国共産党創立時の党員であったが脱党し、
       国民革命期には国民革命軍総司令部秘書長
        (1927~31) 、黄埔軍官学校秘書長となり、
       蒋介石の信頼が厚かった。
      1928年、国民党中央政治会議委員
      1932年、甘粛省政府主席、
      1933年~1937年、陝西省政府主席に選ばれ、
       抗日戦争中は国民党宣伝部長、
      1940年、ソ連駐在大使。
       国民参政会秘書長を歴任。
      1948年、国民党革命委員会に参加して国共和
       平を主張
      1949年、人民政治協商会議に出席。
       国民党革命委員会常務委員、
      1954年、全国人民代表大会常務委員会委員(
       広東省代表)、人民政治協商会議全国委員
       会常務委員などの要職にあった。
.
2018年12月12日、まったくおかしいNHKの番組
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教が「日本を
 貶(おとし)める」ように、NHKも日本を貶める行為
 を年がら年中している。
  キリスト教は、「日本の国歌・君が代の斉唱に反対」
 したり、「日本の国旗の日の丸の掲揚に反対」したりし
 ているが・・、
  NHKも、あらゆるNHKの放送する番組で、日本を
 貶める行為や工作をしている。
  その一例が、「クローズアップ現代」である。
  2018年12月12日(22:00~22:25)のこの「クローズ
 アップ現代(辺野古移設)」について申し上げれば、
  この番組の80%の時間が「反対論の主張」に割(さ)
 かれているという大変不公正な異常状態。
  このNHKの番組のほとんどの放送の時間が、反対に
 ついて放送しているという状況・・
  「反対する市民の発言」が次々と続くという状況で、
 その反対論がほとんどと言って良い番組の放送状態・・、
 市民の賛成論は「まったくない」という不公正な放送番
 組の作り方であった。
  ただ、政府が説明している状態だけという「偏頗なN
 HKの番組の作り方」で、「賛成論がまったく無い」「
 賛成論を欠如した」という番組だった。
  普天間の危険性を無くすために、沖縄県の方々の基地
 負担を無くすために、この様な行動をしているという視
 点の放送が「ほとんど聞こえて来ない」というNHKの
 番組の作り方であった・・
  市民の賛成論を「削った」「まったく無くした」とい
 う番組だった。
  NHKの2人の解説員までが反対論で、また、NHKア
 ナウンサーまでが反対論で・・放送できる状態が成立し
 ない不公正な番組だった。
  日本国民を片寄った偏頗な方向に洗脳しようとする番
 組の作り方であった。
  完全に「放送法違反の番組」だった。
  日本を裏切るNHK・・結局、中国に利する放送だっ
 た・・
  (参考)偏頗:へんぱ、片寄って不公平なこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2018年12月11日

(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年3月)

題:*(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月23日、全国の官設鉄道の線路名称を統一した。
  創業以来はじめて東海道線・信越線・奥羽線・北陸線
 の線路名称を定めた(鉄第366号、28年度から施行)
.
1895年2月24日、キューバ革命
  民衆が、ハバナで蜂起した。
  アメリカ・スペイン戦争・・スペイン領キューバの独
 立戦争に、1898年、アメリカ合衆国が介入した。
  そして、スペインを破って、スペインの植民地を奪っ
 た。
  アメリカの「帝国主義戦争」だった。
  1895年2月、キューバでホセ・マルティ指導の第二
次独立戦争が始まった。
  革命軍は、島の東半分を解放した。
  1897年秋には、革命政府を樹立した。
  スペインは、大軍を派遣し、残虐な鎮圧作戦を行なっ
 た。
  長い間つづいた戦いのため、島は荒廃した。
  一方・・、
  同じくスペイン領のフィリピンでも、独立の機運が高
 まっていた・・
  しかし、『民族自決の原則』は何のその・・アメリカ
 とスペインの帝国主義の乱暴行為が、ここでも始まった。
  1896年8月、独立革命が勃発(ぼっぱつ)した。
   その後、一時は挫折(ざせつ)したものの・・
  1898年に入って、また、再燃した。
  アメリカは、キューバに約5000万ドルの投資と、年
 間1億ドルを超える貿易の利益を持っていた・・
  また、ラテンアメリカ市場と、中米の地峡運河地域へ
 のルートの要所を押さえるのに好適な『カリブ海の要衝』
 として、キューバへの『戦略的関心』をアメリカは抱い
 ていた。
  キューバの動乱は、このアメリカの利益を脅(おびや)
 かした。
  アメリカ政府のマッキンリー大統領は、革命軍を承認
 しなかった・・そして・・利益確保のため、武力行使・・
  1898年初めに、アメリカの一方的介入だった・・武力
   行使行動が始まった・・
  1898年2月、デローメ事件と、メイン号爆沈事件が起
   きた・・うさん臭い動きだった。
  これらの事を利用した「イエロー新聞」の扇動によっ
 てアメリカ世論は激高させられた・・そして・・
  アメリカ経済界の主流が・・戦争支持への転換などが
 あり・・政府も同意を固めさせ・・政府はこの様な世論
 に動かされた・・
  (この様なイエロー新聞などの動きには、日本も被害
 を受けている・・このイエロー新聞に、南京事件がでっ
 ち上げられて、日本も濡れ衣を着せられた・・起きても
 居ない南京事件が「あったとされた」)
  こうして段取りを整えられた状況の中で・・
  1898年4月11日、アメリカのマッキンリー大統領は、
   議会に開戦教書を送った。
   開戦の大義名分が整ったとした。
   これは、キューバ共和国を支援するためではなく・・
   この様な美名のものではなく・・『アメリカ自身の
  利益』を守るために干渉する意図が明らかにされてい
  た・・本音が現れていた。
  議会での激論のすえ、平和回復後、キューバを独立さ
 せるという「自分を納得させる」条件付きで戦争介入が
 承認された。
  1898年4月25日、アメリカが正式に宣戦布告した。
   最初の戦闘は、フィリピン戦線でのアメリカのデュ
   ーイ提督麾下(きか)のアジア艦隊によるマニラ湾急
   襲と、スペイン艦隊撃破であった(1898年5月1日)。
  (参考)ジョージ・デューイ (1837年12月26日~
1917年1月16日) 、アメリカ海軍の軍人。
      この米西戦争のマニラ湾海戦で英雄となり、
     アメリカ海軍史上でただ一人、海軍大元帥(海
     軍主席提督)の地位を与えられている。
  デューイは、その後、フィリピン人の独立闘志アギナ
 ルドのフィリピン革命軍を『利用して』マニラを包囲し
 た。
  そして、この後に到着したアメリカ地上軍が、1898
 年8月13日、マニラを侵略した。
  しかし、フィリピンの独立軍であるアギナルド軍は、
 可哀想に『利用されただけだった』。
  アギナルド軍は、、マニラから排除され、マロロスへ
 退去させられた。
  一方、カリブ海戦線では、キューバのサンティアゴ攻
 略が主目標とされた・・
  1898年6月末、アメリカ陸軍1万6000が、キュー
バ革命軍を援助するという『名目』のもとに上陸した。
  また、アメリカ海軍も、サンティアゴ港脱出を図った
 スペイン艦隊を撃破した。
  最後に、アメリカ軍と革命軍は、サンティアゴを攻撃
 し・・、
  1898年7月16日、陥落させた・・が・・、
  革命軍は、降伏条約の調印参加を拒否された・・
  ここでも、『革命軍は利用されただけだった』。
  こうして戦闘は4か月で終わった。
  1898年8月12日、休戦協定がなり・・舞台はパリ
講和会議へ移った。
  フィリピンとキューバの代表を『ここでも排除した』・・、
  1898年12月10日、アメリカとスペインだけの間で
結ばれた講和条約は、スペインがキューバを放棄し、フ
ィリピン、グアム、プエルト・リコをアメリカに割譲し、
アメリカはスペインに2000万ドル支払うことを約した。
  主役に居ない『演技となった』・・
  このアメリカ・スペインの勝手な舞台劇の末に、アメ
 リカは、戦争中に併合したハワイをも含めて『一大植民
 地帝国』を実現した。
  アメリカは、この様にして世界強国としての帝国主義
 の道に乗り出した。
  しかし、キューバとフィリピンの『本来の所有者であ
 る革命軍』は、アメリカ軍政下で押しつぶされた。
  そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
 されてしまった。
.
1895年2月26日、「私設鉄道株式会社ニ関スル件」(法
律第4号)を公布した。
  第一条:私設鉄道株式会社ハ各株式二付十分ノ一以上
   ノ払込ヲ為レタルトキハ其ノ登記ヲ受クルコトヲ得
.
1895年3月1日、京浜および京阪神区間の定期運賃を改
正した。
  学生下等定期乗車券を発売、定期乗車券購求者心得を
 制定、定期乗車券発行規約改正
.
1895年3月4日、流星雨が出現し、愛媛県に隕石が落下
した。
  重さ約71kg。
.
1895年3月6日、鉄道敷設法改正、
  北陸線に舞鶴から小浜を経て敦賀に至る鉄道追加(法律
 第11号)
  羽越線および岩越線として新発田から米沢に至る鉄道
 および新津から若松を経て白河本宮付近に至る鉄道追加
 (法律第12号)
.
1895年3月15日、平安遷都1100年紀念祭
  平安神宮創建鎮座式が行われた。
  有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひとしんの
 う・・後に、小松宮(こまつのみや)彰仁親王(あきひ
 としんのう)と交替)を総裁にむかえて行われた。
  会長に近衛篤麿、副会長に佐野常民が就任した。
  平安遷都千百年紀念祭協賛会を設立し、国務大臣も関
 与する国家的な行事となった。
  平安宮朝堂院正殿の大極殿(だいごくでん)を模した神
 殿などが岡崎(現:左京区)の地に造営された。
  桓武天皇を奉祀する平安神宮が1895年3月に完成し
た。
  官幣大社に列せられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
   されてしまった。 
    そして、アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
   「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
   のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダである。
.
紀元前15万年、日本は大陸とつながっていた。
  この頃のリス氷期末期、日本は樺太ともつながり、ま
 た、朝鮮半島や中国とも繋(つな)がっていた。
.
紀元前15万年~紀元前7万年、対馬海峡ができる。
  対馬と朝鮮半島の間の対馬海峡ができた。
.
紀元前4万年、アフリカを発したホモ・サピエンスが、日
 本列島に到達した。
  この中にアイヌが居る訳はない・・
  アイヌを日本列島の先住民にしたいキリスト教勢力は、
 この中にアイヌが居たことを証明しなさい!
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4万年前〜3.5万年前と考えられていて・・
  紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、
約3万5000年前に始まり、縄文時代へと移行する
約1万5000年前までの約2万年間という長い長い
期間、続いていた。
    この長い期間の間、日本に到達したホモ・サピエ
   ンスは日本列島中を移動し、交雑し、結婚した。
  紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初
   期現代型新人の特徴に一致する。
   歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万
   年以上前の土層(地層)から、日本国内最古の調理
   場跡が発見されている。
  紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
   日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
  紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在よ
   り120メートルも低下していた。
   本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続
   きで、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
    縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸
   から歩いて日本にやって来た。
  紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メー
   トル以上も低下していた。
  紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
   日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
   大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」
  紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
   中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土
   器
   また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1
   万6500年前)や・・
   太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町):日本最古とされ
   る約1万6500年前の土器が出土した集落遺跡
   愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射
   性炭素年代測定により14,500年前と測定された。
   人骨が発掘された。
.
紀元前1万年、対馬と九州との間の対馬海峡ができた。
.
紀元前3200年、縄文人は日本中くまなく居て、当然、北
 海道にも住み、その縄文遺跡の一つ・大船遺跡は・・
  遠いアフリカから、はるばる日本に人類が来たように、
 古くて、そして、長い年月をもつ縄文人時代の歴史にお
 いて、縄文人は日本中を移動していた。
  北海道の中にも、当然、その縄文人の遺跡があり・・
 その一つが、この大船遺跡で・・
  アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
 「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
 のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダであ
 る。
  大船遺跡は、太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄
 文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前
2,000年頃)の大規模な集落遺跡。
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な
 盛土遺構があり、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓
 群が確認される。
  北海道・北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道・北東北に位置し、
  縄文時代の各時期(草創期、早期、前期、中期、後期、
 晩期)における、人々の生活跡の実態を示す遺跡となって
 いる。
  (集落跡、貝塚、低湿地遺跡)や、祭祀や精神的活動の
 実態を示す記念物(環状列石、周堤墓)で構成された17遺
 跡からなる考古学的遺跡群となっている。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くある。
  また、周囲のガイダンス施設や資料館では、発掘調査
 の状況や、縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺
 物が数多く展示されている。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚(伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚(洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡(青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
  9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚(七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石(鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚(青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
     ・
      ・
      ・
1877年、インドで飢饉が起き、500万人が死んだ。
  この原因は、イギリスが、インドの方々へ食料を作ら
 せなかったからだった(イギリスが儲かる綿花を作らせ
 た)
  ヨーロッパの列強諸国は、アジアの都市・沿岸地方に
 おける貿易で利潤を得るのが目的であった・・
  18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製
 品の市場として広範囲な植民地を直接支配する。
  土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、
 白人の資本の投下によるプランティションで行われたが、
 それはタダに近い土地で、低廉な労働力を使い、莫大な
 収益をあげた。
  マレーのゴム、インドの綿花というように・・、
 特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を植民地
 へ輸入させるという経済構造に変質したため、従来の自
 給型農業が壊滅し、決定的な変化を被った。
  その結果、水田の減少や、失業者の増加により、飢饉
 に際して、多くの犠牲者を出すようになった。
  ジャワでは、なんと人口33万の町が12万に減少した。
  インドでは、イギリスの支配の後に、明らかに飢饉が
 増加し・・
  1877年の南インドの飢饉では500万人が死亡した。
  1943年での犠牲者は、ベンガル地方だけで340万に
も達した。・・イギリスの罪悪は極悪だった・・
  また、大規模農業の急速な開発によって、大量の労働
 者を必要とした列強の宗主国は、大量の移民政策をとっ
  た。
  インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が・・1860
 年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加した。
  マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者
 にインド・タミール人が大量に移入させられた。
  これらの移入させられたアジア人は、現地社会と融合
 せず、固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会がで
 きあがってしまった。
  また、植民統治では、この移入させたアジア人を金融
 と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、次に
 華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い
 現地民が最下層の地位におかれるという階層社会が造ら
 れた。
  この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、
 マレー人52%、華僑39%、インド人12%という複合
民族国家となってしまった・・複合社会が形成された・・、
  戦後も、深刻な民族対立の原因となった。
  ヨーロッパ列強諸国は、植民地支配への反乱について
 は、きびしい虐殺と弾圧でのぞんだ・・救いを待つアジ
 アの方々だった。
  イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱の様に、
 徹底的な弾圧を加えるという対応をした。
  当時のイギリスの『タイムズ』紙は報じた・・
  「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院
 をたたきこわせ」。
  「白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴
 徒を死刑にせよ」・・と報じ、報復を訴えた。
  事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃殺撃
 や焼き殺しなど、珂責ない虐殺や弾圧を行った。
  フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始
 まった。
  1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人の
ベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多
くの囚人が殺され、死亡した。
  1945年に、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣
 言には、その怒りが込められている。
  「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国
 者を殺害し、蜂起の民を血の川に溺れさせた・・」
  アメリカとて例外ではなかった。
  米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕
 掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を強制的に制
 圧した。
  また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発し
 たイスラム系住民の反乱の時は、アメリカ軍は住民らの
 砦を包囲して、戦闘員から女子供をも含めて600人全員
 を皆殺しにしてしまった。
  列強のアジア支配の例として、オランダの350年間に
 わたるインドネシアの卑劣な支配の特徴を、ASEAN
 センターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。
  ①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民
   を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使っ
   て間接統治した。
    徹底した愚民政策を強(し)いた。
  ②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人
   を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官
   や軍人として登用した。
    そして、女性を性奴隷的にして、オランダ人とイ
   ンドネシア人の混血児を作り、中間階級として使っ
   た、また、民族の分断を画策した。
  ③社会の流通経済を華僑にやらせ、経済搾取によるイ
   ンドネシア国民の憤慨と憎悪を華僑に集まるよう仕
   向けた。
  ④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行
   動を禁止した。
    3人のインドネシア人が立ち話することすら許さ
   ず、禁を犯せば反乱罪で処罰した。
  ⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域
   で用いられていた320の種族語をそのままにして、
   一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。
.
1898年、この年の頃から、アメリカは、日本を警戒し始め
 た。
  日露戦争の時までは、アメリカは、日本寄りにいた・・
  日露戦争の終結は、アメリカによってできた。
  いつからアメリカは、「日本潰しのアメリカ」になっ
 たのか?
  櫻井よしこ氏は、「日清戦争と日露戦争の中間で、
 1898年の米西戦争の後だ」と言われる。
  「アメリカのその様な気持ちが、日露戦争の日本勝利
 で、一層強まった」と言われる。
  ルーズベルト大統領は、ロシアを破った日本を小さい
 ながら注意しなければならない国だと思いはじめた。
.
1900年、アメリカはハワイを得たいと、それまで行われて
 来ていた日本人移民に難癖をつけた。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900
 年から著しく増加した。
  日本政府は、差別的法律が制定されるのを防ぐため、
 1907年、1908年、日米紳士協約を結び、自主的に移
民を制限した。
  しかし、アメリカ人移民によるハワイのアメリカ化は
 酷い状況にあった。
  その様な状況で、日本人移民の移民問題は解決されな
 かった。
  日米通商航海条約の、旧条約の終了と同時に有効とな
 る新条約を結び、留保条項を削除し、関税自主権を完全
 に回復した。
  日本政府は、同時に紳士協約の維持宣言をアメリカ政
 府に伝えたが、アメリカは、1924年、排日移民法によ
 り紳士協約を一方的に廃棄した。
  1939年7月26日、アメリカは、自国の行為は沈黙
して、日本の中国での行動だけに抗議し、条約の廃棄を
通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みた。
  しかし、成功せず、1940年1月26日失効した。
.
1919年、この年に、K・ハラ―が、ミュンヘンで結成した
 ドイツ労働党を、ヒトラーが、民族主義と社会主義を巧
 みに接合させて・・、
  1920年に、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名
   した。
  1921年、ヒトラーが党首となり・・
   1923年、ミュンヘン一揆を企てて投獄され、党は解
   散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党として
   再出発した。
  1925年の党員数はわずか2万7000人に過ぎなかっ
たが、
   その後、群小右翼団体を吸収して・・膨張した。
  1929年には、党員数が17万6000人、
  1930年9月、ヒトラーは力を付けて来て、総選挙で
18.3%を獲得し・・第2党となる。
  1931年には、党員数が80万6000人
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て、第1党に躍
進した。
   軍部や財界と取引を行ない・・膨張する。
  1933年には、党員数が390万人とふくれあがり・・
  1933年1月、政権を獲得した・・卑劣な行為をして
行く・・そして・・
  「ヒトラーのモデルはアメリカだった」という書評が、
 読売新聞(2018年12月9日)に掲載された。
  本の著者は、ジェイムズ・Q・ウィットマン、
  書評の著者は、藤原辰史氏(京都大学准教授、農業史
 研究者)
  以下は・・その抜書き・・
  ナチスがヨーロッパ各地で振るった壮絶な暴力は、遠
 い国の遠い過去の事で、自分には関係ない、と思いがち
 だ。
  そもそも子供たちの前で親を殺したり、子供を拷問に
 かけたり、収容所に送ったり、ガスで殺したり、沼に投
 げ捨てたりというようなナチスの残虐は確かに普段の暮
 らしからは想像しがたい領域にある。
  本書は、こうしたナチスの暴力の根拠となった人種主
 義のアイディアの最大の源泉がアメリカであると主張す
 る。
  私たちがいまなお政治、経済、軍事的に強く依存し、
 その文化を存分に味わっている、好感度の高い国である。
  ヒトラーは、「数百万人ものインディアンを銃で撃ち
 殺して数十万人まで減らした」としてアメリカへの讃美
 を惜しまなかった。
  ナチスは、人種法を制定するにあたって、アメリカの
 移民法や異人種間の結婚に重罰を与える法律、黒人の選
 挙権、移動の自由、職業の選択を制限する制度を学び、
 それを人種法構築に応用したのだった。
  ナチスの著述家たちは、アメリカを「移民立法を通じ
 てその血を蘇(よみがえ)らせようとしている」と褒(
 ほ)めたり、
  「自身の至上性を維持」しそれを未来永劫(えいごう)
 確保するために「外国人種分子の流入を防ぐ」ことに共
 感を示したりする。
  アメリカ白人至上主義が無ければ、ナチスはこれほど
 までにエスカレートしなかったかもしれない・・云々・・
.
1931年、強い対日経済制裁を唱えた対日強硬論者のアメリ
 カのスタンレー・ホーンベックが大きな影響を与えた。
  彼は、日本の真珠湾攻撃直前にあっても、「日本には
 アメリカを攻撃する能力はない」という主張を繰り返し
 た。
  そして、また、彼は、極東問題の専門家として、ルー
 ズベルト大統領に助言したほか、、コーデル・ハル国務
 長官に対しても大きな影響を与えた。
.
1937年8月13日、第二次上海事変が始まる。
  この日の前日・1837年8月12日未明、アメリカに
大規模に支援された中国正規軍本隊が上海まで前進した。
  中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師な
どの約3万人が、国際共同租界の日本人区域を包囲した。
  この様な奇襲を受けるとは予想してなかった日本軍は、
 上海陸戦隊が2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦
 隊が300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊が1200、
出雲の陸戦隊が200、他320の計4000人あまりであっ
た。
  昭和天皇陛下は、常に話し合いを重視され、妥協を促
 される方だった。
  そして、「平和論も出しなさい」と言われる方だった。
  この第二次上海事変の時も、この様に行動なされた。
  第一次上海事変でも、日本軍は過激な行動に至らぬよ
 うにと、事前に、軍に言われて居られた。
  実際、日本軍は自制していて、白川義則大将は、上海
 派遣軍を率いて十九露軍(中国・国民党軍)を撃退した
 が、深追いはしなかった。
  そして、停戦に至っていた。
  これも、昭和天皇陛下のお言葉に依る行動自制だった
 ことは明らかで・・これは、国際連盟でも評価された。
  しかし、この様な停戦の中、膨大な「金と武器」の支
 援が、アメリカによって中国・国民党へなされて・・支
 援されて・・
  そして、この支援に支えられた中国・国民党軍は、膨
 大な日本包囲網を構築して、攻撃を仕掛けた・・、西安
 事件(1936年12月)後の活動など・・暗躍した。
  そして、この度、大々的な攻勢を日本に仕掛けたが・・
 あたかも、完全に、アメリカの代理戦争の様相だった。
.
1942年3月3日、日本海軍が、生死の危うい危険水域で
決死のイギリス兵救助を行なう。
  https://www.youtube.com/watch?v=waT94w434vM
  2018/02/05 に公開
  「正論」2008年10月号掲載 ジャーナリスト・恵
隆之介氏の論文:「敵兵を救助せよ」のそれから/わが
武士道精神の光輝と英国人元兵士の報恩の物語。
  日英両国に咲いた高貴な友情を語る・・から引用
  私は、2003年(平成15年)6月13日、朝7時30
分のNHKラジオ、ロンドン発ワールド・リポートを聞
いて驚嘆した。
  それまで昭和の全ての軍人を批判的に論じた司馬史観
 に傾倒していた私は強い衝撃を受けた。
  このレポートは次の内容であった・・
  大東亜戦争中、ジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪
 連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域
 からの脱出をはかった。
  1942年(昭和17年)3月2日午後2時頃、2隻の
イギリス海軍艦艇は、インド洋への脱出を試みてジャワ
海北西海域において日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈さ
れた。
  両艦の乗員合計約450人は、脱出し漂流を開始するが、
 約20時間近く経過した翌1942年3月3日、午前10
時頃には、生存の限界に達していた。
  赤道下の強烈な太陽光、欠乏する水分、サメ襲来の恐
 怖で、現代の日本人では理解できないほど極限状態に達
 していた。
  一部将兵は、自決のため劇薬を飲もうとしていたまさ
 にその時、単艦で哨戒行動中の日本海軍駆逐艦「雷」(
 艦長・工藤俊作中佐)に偶然発見された。
  サー・フォールは、いよいよ機銃掃射を受けて最期を
 迎えると覚悟したところ、「雷」は救難活動中の国際信
 号旗を掲げて直ちに救助活動に入ったのだった。
  甲板に引き揚げられたイギリス海軍将兵を感激させた
 のは、汚物と沈没艦艇の重油で真っ黒になったイギリス
 海軍将兵を、小柄な日本海軍「雷」の乗員達が嫌悪する
 ことなく、両脇から真水とガソリンで一人一人を丁寧に
 洗浄する光景であった。
  220名乗務の駆逐艦が、敵将兵450人を救助した。
  通常なら反乱を恐れてここまでは救助しない、しかも
 この海面は敵潜水艦の攻撃・跳梁が激しかった。
  まさに、決死の敵兵救出劇だった。
  さらに、「雷」は、潮流に流され四散しているイギリ
 ス海軍将兵を一日中・・終日をかけて救助した。
  たとえ1人でも発見すると「雷」は必ず艦を停止し、
 総員で救助した。
  中には艦から投下された縄ばしごに自力で上がれない
 将兵もいたため、日本海軍「雷」の乗員が飛び込んで救
 助する光景もあった。
  「雷」乗員は、敵将兵に供与する艦載の被服が底をつ
 くと、自らの分まで進んで提供した。
  サー・フォールは、この光景に「自分は夢を見ている
 のではないか」と何度も腕をつねったと言う。
  それだけではない、救助活動が終了した頃、日本海軍
 「雷」の艦長は、イギリス海軍士官だけを前甲板に集め
 た。
  そして、こう英語でスピーチした・・
  「自分は、イギリス王立海軍を尊敬している。
  今回、貴官らは勇敢に戦った。
  貴官たちは、今日は日本海軍のゲストである」
  そして、彼らに、士官室の使用を許し、友軍以上の処
 遇をした。
  ラジオのNHKのリポーターは、興奮を抑えながらも、
 なぜこのような美談が、戦後の日本に伝わらなかったの
 か不思議でならないと発言して中継を終えた。
  さらに、彼は、サー・フォールが、「これこそ日本武
 士道の実践」と発言したことをも付言した。
  この様な行為を、アメリカやイギリスが行なった例が
 あるのか・・??
  敗けが決まっている国に原爆を落とすという卑怯な行
 為はしても、この様な行為はした事はないであろう。
.
1945年8月17日、インドネシア独立戦争(~1949年12
月27日)
  独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず
 再植民地化したいと侵略を始めたオランダとの間で戦争
 が発生した。
  1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争
で、80万人が犠牲になった。
  オランダは、これは「警察行動」だと屁理屈を言った。
  また、イギリスも侵略をし、この戦争に加わった。
  日本の正義の兵士たちは、大東亜戦争(第二次世界大
 戦)が終わった後もインドネシアに残り、再びインドネ
 シアの国を植民地にして甘い汁を吸いたいと蹂躙する目
 的でやってきたオランダ軍と戦った。
  インドネシアの独立軍に加わって、大東亜の地=イン
 ドネシアの地を、欧米列強の収奪から救おうと、命を投
 げ出して戦った。
  この時、日本軍の残した兵器が大いに役立ち、インド
 ネシアは独立を勝ち得た。
  このインドネシア独立軍と共に戦って戦死した日本兵
 たちは、今、インドネシアの英雄墓地に祀(まつ)られ
 眠っている。
  (参考)1949円12月にインドネシア連邦共和国が
成立し・・、
      さらに、連邦構成国が、インドネシア共和国
     に合流して・・、
      1950年8月15日に、単一のインドネシア
共和国が誕生した。
  敗北して去って行ったオランダは、その後、日本を恨
 んだ。
  インドネシアの方々へ酷いことをして来たキリスト教
 国のオランダは、その後、インドネシアへ謝罪の一切を
 していない。
  逆に、インドネシアの独立を助けた日本の悪口を石碑
 にして、インドネシアに立てたりしている。
  恥の上塗り行為をしている。
  まったく韓国と同じ下劣な行為をしている。
  (参考)恥の上塗り:はじのうわぬり、恥をかいた上
     に、また、恥をかくこと。
.
1978年12月、中国の改革開放政策
  中国の新たな指導者となった鄧小平(とうしょうへい)
 は、1978年12月に、体制転換の政策を打ち出した。
  それまでの計画経済と社会主義を二本の柱とする体制
 から、実質的な市場経済と資本主義を柱とした体制へ、
 中国は転換を図った。
  それまでの中国は、頑(かたく)なに「米国駆逐」を
 口にしていた・・、
  ・・が、しかし、その表現は消えて・・経済発展路線
 に主軸を移した。
  「豊かになれる者から豊かになれ」、そして、「他を
 牽引(けんいん)せよ」となった。
  「米国駆逐」の旗が降ろされ、日欧米の資本を積極的
 に導入したい、また、、資本確保や国外からの技術移転
 など成し遂げたいとなった。
  アメリカを駆逐する敵だという看板を下ろしたが・・
  しかし、今、中国が、以前、持っていた「アメリカと
 いう国を駆逐し、乗り越える国」と見ていた方針は、取
 り下げたという意思表示は無く過ぎて来たが・・、
  その点を自由主義陣営もはっきりと確認することなく、
 自由主義陣営も「中国も豊かになれは、その方針は変わ
 るだろう」と、自分に都合よく期待をしていた・・
  相手に勝手に期待をかけていた。
  しかし、経済発展を遂げた・・経済発展の果実を得た
 中国は、以前の方針が・・アメリカを乗り越えようとす
 る現実の姿・世界が見えて来た。
  自由主義陣営に、中国の社会システムを、また、政治
 システムを同調する様な行動は一切なく・・、
  中国の今までの政治システムが良かったから良くなっ
 たのだぐらいのことを国民にプロパガンダしている。
  「我が方針は間違っていなかった」という自信ととも
 に、「中国は、アメリカの地政学的優位性に挑戦し、中
 国にとって有利な国際秩序を作ろう」という「挑戦し、
 変えようとする姿」が、はっきりして来た。
  アメリカに対抗する姿となって来た。
  「米中新冷戦」の時代に入ったと言われている。
  中国は、中国に都合の良いように変えたい・・、
 そして、アメリカが構築してきた国際秩序を塗り替えよ
 うとしている。
  また、安全保障の面でも、中国の空海軍力の近代化で、
 また、長く続いて来た多大な軍事費の投資で、伝統的戦
 闘空間では、アメリカの一方的な優位性は脅(おびや)
 かされるという状況になった。
  過去の話とは今は違うという状況となった。
  新しい戦闘域である「潜水艦を中心とする水中戦の領
 域」、また、電子線の領域、宇宙戦領域、サイバー戦領
 域、無人兵器戦領域、指向性エネルギー兵器戦領域、そ
 の組み合わせの戦争領域・・それらの新しい米中の競争・・
 その冷戦の時代に入った。
  そして、中国の経済が大きくなって、今、この様な多
 大な投資ができる中国となって・・台頭して来ている。
  しかし、中国の不自然な国家資本主義はそのままで・・
 塗り替えずにいる・・
  アメリカは、その状況を許したことに反省をしている。
  南シナ海の中国の軍事基地の構築の様に、「国際秩序
 の無視の行動」も許さざる行為であるが・・はっきりと
 追及する必要性が明確に存在するが・・不透明な世界と
 なっている。
  この地域は、中国の構築した軍事施設の完全撤去の後
 に、完全に元の環境へ戻したことにより終了し、
  そして、それによって、中国の世界の立場が受け入れ
 られるのであるが・・
  また、世界は中途半端な状況で済ますのだろうか?
  今まで「逃げポーズだったアメリカ」が、ことの重大
 さに気付いて来ている。
.
1994年、中国の毛沢東の「化けの皮が剥がされる結果と
 なった本=毛沢東の私生活」が世界各国で同時出版され
た。
  毛沢東の化(ば)けの皮が剥がされて来ている。
  李志綏(りしすい)が書いた『毛沢東の私生活』を読
 めばよく分かる。
  (参考)李志綏:りしすい、中華人民共和国の医師。
      1954年から1976年の毛沢東の死去まで個
人医師を務めた。
      毛沢東の親友だという。
      アメリカへ移民の後、毛沢東の伝記である「
     毛沢東の私生活」を書いた。   
      中国国内では出版禁止となっている。
      曾祖父は清朝の御医(皇帝の主治医)
      「毛沢東の私生活」の本には中国のプロパガ
     ンダの凄(すさ)まじさが書かれている。
      また、この本の元となった膨大な日記は、迫
     害を恐れて文化大革命の最中に、自ら焼却炉で
     処分したと述べている。
      中国は、この本の内容を打ち消そうとしてい
     るが、毛沢東と李志綏との親しげに一緒の写真
     が多数発見され、中国の打ち消しにとって分の
     悪い状況となっている。
  毛沢東の独裁者ぶり、如何に汚いか、嫌な人物で唾棄
 すべき男かと・・、満州事変、支那事変など、日本軍と
 中国・国民政府軍を戦わせようとしたか、その消耗戦を
 拡大させるため、コミンテルンの謀略や策略を一緒にや
 って戦争を拡大させたか・・「二十世紀最悪の独裁者」
 と言われる。
  ユン・チアン氏の著作の「マオ」でも毛沢東の神話は
 完全に崩されている。
  「古い文化や風習を一掃するのだ」と美しく始められ
 た文化大革命も大失敗で、国民の多くが殺され、毛沢東
 の権力が劉少奇や鄧小平に移りつつあった状況を取り返
 そうとしたための行動だった。
  そして、この男は、戦勝国でも何でもないのに戦勝国
 に居座った。
.
1995年、原爆が投下されて50年、この年、原爆投下につ
 いての世論調査がなされている。
  質問文は、「アメリカが広島・長崎に原爆を投下した
 ことは、その当時のアメリカとしては正しい選択だった
 と思いますか、それとも間違った選択だったと思います
 か」である。
  以下は、その結果・・(NHKの調査)
       正しい選択・・まちがった選択
  日本・・・・8.2%・・・・・57.8%
  アメリカ・ 62.3%・・・・・25.7%
  韓国・・・ 60.5%・・・・・19.1%
  ドイツ・・・4.3%・・・・・66.2%
  これは、マスコミの報道姿勢に影響されているとコメ
 ントされている。
  特に、アメリカは、原爆投下を批判する言論が高まる
 ことを恐れ、大戦後に原爆投下の正当性を擁護する政府
 の公式見解が、積極的に流布され、洗脳され、世論操作
 がなされた。
  そして、日本の言論や教育が偏向していると批判する
 記事が掲載された。
  そして、その矛先が、日本の政治家や歴史家に向けら
 れ、操作されていると批判した。
  そして・・
  2005年に同様な調査が行われた・・(NHKの調査)
  質問文は、「太平洋戦争の末期に、アメリカが、広島
 と長崎に原爆を落としたのは、正しい判断だと思います
 か。それとも間違った判断をしたと思いますか」である。
  その結果・・
                日本・・アメリカ
  明らかに正しい判断だった・・ 0.9%・・22.3%
  たぶん正しい判断だった・・・14.6%・・34.3%
  たぶん間違った判断だった・・33.4%・・21.5%
  明らかに間違った判断だった・38.5%・・14.7%
  わからない、無回答・・・・・12.7%・・ 7.2%
  そして・・
  2015年に、アメリカのビュー・リサーチセンターが
調査した・・
  質問文は、「ご存じかと思いますが、アメリカは1945
 年8月、第二次世界大戦の終結間際に日本の都市である
 広島と長崎に原爆を投下しました。ふり返って見ると、
 あなたは1945年に日本の都市に原爆を使用したことを
正当だったと思いますか。それとも正当ではなかったと
思いますか」である。
  その結果・・
             日本・・アメリカ
  正当だった・・・・・・14%・・・56%
  正当ではなかった・・・79%・・・34%
  わからない、無回答・・ 7%・・・10%
  そして・・
  参考までに・・
  1945年8月10日から8月15日にかけて、ギャラッ
プ社が世論調査をしている。
  質問は、「あなたは新しい原子爆弾を日本の諸都市に
 対して使用したことに賛成しますか、賛成しませんか」
 である。
  その結果・・
  支持する:85%・・支持しない:10%・・わからない
 5%だった。
  まだ戦争も集結していない敵国・日本の状態であった。
  そして、原爆の本当の恐ろしさも実感できなくて、知
 らない状況で、アメリカの正当化の洗脳も受けていない
 という時期だった。
.
2005年~2006年、「マオ、誰も知らなかった毛沢東」と
 いう本が、世界各国でほぼ同時に出版された。
  この本は、中国はもとより、旧ソ連、東方諸国などの
 多彩な史料、そして、存命する関係者への取材資料など、
 詳細に調べ上げ、徹底的に何年何月何日という日時まで
 詰めに詰めたことによって、毛沢東の人物像を明確に浮
 かび上がらせた。
  ここまでされれば、反駁のしようのない毛沢東の実像
 が描かれ、この本によって毛沢東の人物像は大きく崩さ
 れ、変わった。
  大人風に見える周恩来にしても、ただただ毛沢東の権
 力の前に膝まづくだけの人物でしかなく・・、
  毛沢東だけでなく、その周辺の人物像も同時に崩れ去
 った。
  また同時に、中国の悪政ぶりの数々もあぶりだされた。
  神格化した毛沢東は、「過去の偶像」と成り下がった。
  日本にいる左派やマスコミの毛沢東崇拝者たちが、た
 くさん居るが、その馬脚を表わし「似非(えせ)者」と
 なった。
  ムキになって本書を批判しているが、空虚なその必死
 の批判が、かえって、この本の痛撃が、当を得ているこ
 とを証明している。
  また、粛清(しゅくせい)の嵐に怯(おび)える中国
 国民の悲惨な現実が詳細に書かれ、中国共産党の支配が、
 如何に苛酷かも分かる。
  中国の国際的な諜報活動が、中国側の資料だけでなく、
 ロシアの公文書や回想録も多用し、ソ連・コミンテルン
 の陰謀にも踏み込んでいる。
  毛沢東の虚像の数々をデッチ上げて来た日本のマスコ
 ミや左派専門家の化けの皮が剥がされた。
  共産主義の苛酷さがバレ、人民が圧迫され搾取されて
 いる実態が暴かれた。
  毛沢東や中国共産党は、結局、苛酷な農民支配の独裁
 集団でしかなく、また、内部抗争の渦巻く集団でしかな
 い。
.
2011年、中国から1万8000人が国外逃亡・・? 
  汚職マネーが流出する。
  東洋経済誌が報じる・・
  2000年末から2011年までの間に、中国の検察当局
は国外逃亡した職務犯罪(汚職や背任など)の容疑者を
1万8487人検挙した。
  また、最高人民検察院(最高検)によると、5年間(
 2005年、2007年、2009年~2011年)で、不正に蓄
財された財産は541億9000万元(約7000億円)に達
した。
  しかし、国外逃亡した汚職官僚(国有企業職員を含む)
 は少なく見積もっても1万~2万人はおり、持ち出され
 た資金は1兆元(約13兆円)を下らないという見方が
ある。
  逃亡犯のあまりの多さに、国民は「逃げ得」ではない
 かと感じている。
  昨年(2011年)、中国人民銀行(中央銀行)の「腐
 敗資産の国外持ち出しに関する調査報告書」が社会に衝
 撃を与えた。
  報告書には、中国社会科学院の調査資料として、
 「1990年代半ば以降、汚職官僚や国有企業幹部の国外
 逃亡数は1万6000~1万8000人。
  持ち出された額は8000億元(約10兆円)」という
数字があった。
  後に、別の政府機関から「データが間違っている」と
 指摘があり、共産党中央紀律検査委員会の関係者も「
 8000億元という金額は正確ではない」とするが、この
 数字は実にショッキングだった。
  北京大学「廉政建設研究センター」主任の李成言氏は、
 「国外逃亡官僚は少なく見積もって1万人近くいて、持
 ち出し金額は約1兆元(約13兆円)」と推計する。
  李氏は「1人平均1億元で試算した。国外で国内より
 いい生活を送るには十分な資金が必要になる。1人で数
 億元を持ち出した汚職官僚も多い」と話した。(以上)
  また、別の史料では・・
  中国共産党幹部が、海外へ不正に持ち出した金が20兆
 円以上だという。
  汚職によって得た金を自国の中国ではなく海外へ持ち
 出し逃亡を図っている。
  昔から汚職は、この国では花盛りの伝統の文化とはい
 え、今・現代もなお、盛んに行われている。
  また、今までこの様な中国経済に群がって、利益を得
 よう、利益が得たいと必死になっている諸外国も居た。
  必死に、その中国自体も、自国の存続を図りたいと巨
 大な、そして、莫大な軍事費を使って来ている。
  この様な金が何処から生まれているのか?
  中国は、必死に人民元を刷り、その金が世界のどこか
 の国で蓄積させようとしているが、その帳尻には3800
 兆円以上の借金となっているという。
  日本は、約1000兆円の借金があると言うが、それ以
 上に日本国民が蓄積して来た資産があり、その収支はマ
 イナスとはなっていない。
  しかし、中国は問題である。
  どの様にバランスしているのか?
  アメリカも「借金大国」であるが、アメリカは、せっ
 せとアメリカ国債を刷って、その帳尻をゼロにしようと
 している。
  そして、そのアメリカ国債をせっせと買って、アメリ
 カを支えてあげているのが日本となっている。
  日本は、この様にアメリカ国債を買える状況にある。
  しかし、この様に、アメリカは、借金国債を刷って明
 確に帳尻を合わせている事を世界に明確に示しているが、
 曲者(くせもの)は中国である。
  はっきりしないのである。
  中国で儲けようと、また、儲けたいと諸外国の企業が
 中国に乗りこみ、金を流入させているから、悪い中国の
 帳尻を緩和させているが・・、
  その中国の怪しい状況に、今・現在、資金を中国から
 引き上げ始めている。
  しかし、中国は、とぼけて相変わらず軍事力強化をせ
 っせとして「金をつぎ込んでいる」。
  輪転機を廻して人民元を刷って帳尻りを合わせている。
  一握りの共産党員の支配階級、その汚職と富の一人占
 め、その結果が、20万件もの民衆の暴動の発生が1年
 間で起きている。
  しかし、中国は、その様な実態は、ひた隠しにして世
 界へ平然と振る舞っている。
  チベット民族や、ウイグル民族や、内モンゴル民族の
 事はネットにも記せない状況として「ひた隠している」。
  かつて、この様な状況にあった共産・ソ連が、ある日、
 突然と崩壊したように、この共産国・中国も、突然と崩
 壊する可能性がある。
  その時、中国へ持って行った種々の企業や人々の資産
 も、取り戻せなくなる可能性が存在している。
  だから、不正をして得た中国共産党幹部は、せっせと、
 今、海外へ不正に金を持ち出している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
--
  


2018年12月03日

(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年2月)

題:(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月1日、第一次講和会議
  経過は・・
  1894年11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を
   開始する。
  1894年12月4日、伊藤博文内閣は、「威海衛を衝(つ)
   き台湾を略すべき方略」を大本営に提出する。
  1895年1月31日、清国使節の張蔭桓と邵友濂が講和のた
   めに広島に到着した。
  1895年2月1日、陸奥宗光は、この日の会談において、
   清国使節の両者の持っている書簡は『全権委任状で
   はない』、さらに、『地位についても不十分な状態』
   で、これでは講和会議を開催する事は出来ず、また、
   講和を結ぶことができないとした。
    伊藤博文は、清国使節団の随員・伍廷芳に、李鴻
   章か恭親王を全権大使として求めた。
  結局、日清講和会議が広島で始まるが、清国側の信任
 状不備が理由で、会議は進まなかった。
,
1895年2月2日、日清戦争における威海衛制圧。
  威海衛の戦いは、1895年1月12日から始まっていたが、
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着し、
  1895年1月26日、さっそく、第2師団を左縦隊(内陸側)
   にし、また、第6師団を右縦隊(海岸線)に並進する
   作戦を開始した。。
  1895年1月30日、第6師団は、百尺崖・摩天嶺での激戦
   を行ない・・威海衛湾の南岸要塞群を攻略した、移
   動する距離、約60km。
  1895年1月30日の同日、第6師団の攻撃にあわせて、第
   2師団は、南岸要塞群の西側、鳳林集の東南高地を攻
   略する。
    清国軍は、防衛線の一角を破られたこともあって、
   威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄した。
   そして、撤退を始めた。
  1895年2月2日、第2師団は、清国軍撤退で無抵抗状態に
   なった北岸要塞群などを制圧した。
    この威海衛湾の山東半島側を、日本軍が制圧した
   結果・・、
    湾の出入口にある要衝が制圧され、劉公島と日島
   の守備隊や、北洋艦隊の残存艦艇14隻は孤立するこ
   とになった。
.
1895年2月5日、この日の午前3時20分、前日の2月4日の夜か
 ら闇にまぎれて、清軍によって仕掛けられていた防材を
  かわし、威海衛湾内へ入ることが出来た日本海軍の水
 雷艇部隊は、北洋艦隊の砲撃をものともせず予定してい
 た通り、攻撃を開始した。
  その魚雷攻撃は至近距離から効果的に行ない・・北洋
 艦隊の旗艦「定遠」を大破させた。
  危険状態となった清国兵は反乱状態となる。
  北洋艦隊へ軍事顧問となっていた外国人顧問は、清国
 北洋艦隊の丁提督に降伏を求めた。
  また、「来遠」「威遠」等の3隻を撃沈させ、
  1895年2月9日の明け方にも、日本軍は、水雷艇部隊を
 威海衛湾内へ入れて、2回目の襲撃を行った・・
  そして「靖遠」を撃沈した。
  1895年2月11日、降伏を拒否していた丁汝昌提督は、李
 鴻章に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
 セシモ、衆心ハ乱レ今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワサ
 ル旨と決別の打電を行った。
  そして、その後に、服毒自決した。
  1895年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
 官も自決した。
.
1895年2月12日、清国の北洋艦隊が降伏した。
  長崎で、その威容で日本に圧力をかけ、また、長崎市
 内で日本を馬鹿にして暴れ回った清国の北洋艦隊は、こ
 の日に、降伏した。
.
1895年2月19日、清国が、李鴻章を講和全権に任命した。
.
1895年2月22日、べースボールが野球と翻訳される。
  中馬庚(ちゅうま かのえ、1870年~1932年)野球選
 手・教育者。鹿児島の生まれ。旧姓、今藤。
  第1高等学校野球部で二塁手として活躍した中馬庚は、
 1895年発行の「第一高等学校野球部史」で、「ベースボ
 ール」を「野球」と訳した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
    かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
.
12世紀、満州民族が存在した。
  満州は・・、
  渤海(ぼっかい)・金朝・後金・清朝を建国した満洲
 民族や・・、
  夫余(ふよ)・高句麗を建国した濊貊(わいはく)族、
 鮮卑(せんぴ)・烏桓(うがん)・契丹(きったん)・
 奚(けい)などモンゴル民族・・の地である。
  現在の中国の漢民族には関係のない地である。
  尚、現在の中国は、地域名称として「満洲」を使うこ
 とを禁止している・・かわりに「中国東北部」を使うよ
 うにせよとしている・・必死に自国領との印象付けをし
 ている・・これは、歴史を無視したプロパガンダ政策で
 ある・・
  満州の地を、太古から不可分の中国人(漢民族)の固
 有の地としたいからである・・まったく歴史的事実を無
 視している。
  また、満州語は、中国・清朝では公用語であった。
  しかし、現在に至り、中国政府の同化政策によって、
 話す人が極めて少なくなっている・・話す人を消してい
 るからである・・消滅の危機となっている言語である。
  どんな同化政策が行われたのか??
  今・現在、」ウイグルを同化させようとしているが、
 虐殺と監禁である・・そして、ウイグル語を話せなくす
 る教育である・・
  そもそも、この満州の地は、もともと、中国(漢民族)
 が目もくれない「不毛の地であった」「化外の地であっ
 た」。
  太古(たいこ、おおむかし)の時代、紀元前1046年~
 紀元前256年には、今の中国の地には周(しゅう)が存
 在した・・
  その頃には、粛慎(しゅくしん、満州に住むツングー
 ス民族)が遊牧していた・・漢民族なんか「まったく関
 係ない」・・
  (参考)鮮卑:せんぴ、紀元前3世紀から6世紀にかけ
     て中国北部に存在した遊牧騎馬民族。
      五胡十六国時代、南北朝時代には南下して北
     魏などの王朝を建てた。
  (参考)烏桓:うがん、紀元前1世紀から紀元後3世紀
     にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)
     に存在していた民族。
      「三国志」などでは烏丸と表記された。
  (参考)契丹:きったん、4世紀から14世紀にかけて、
     満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧
     の民族。
      10世紀初頭に、現在の中国の北部に帝国を建
     国し、国号を遼(りょう)と号した。
      しかし、12世紀に入り次第に勢力を強める女
     真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に
     滅ぼされた。
      契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中
     央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建て
     た。
  (参考)奚:けい、4世紀から10世紀頃までモンゴル高
     原東部から中国東北部にあるラオハムレン(老
     哈河)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に
     存在していた遊牧民族。
      初めは庫莫奚(しゃまくけい)と呼ばれてい
     た。
  以上の様に、漢民族の「かの字もでない」という地で
 あって・・中国が主張する様な領土ではない。
  満州という地は、「中国とまったく関係のない地」で
 あることは明らか・・、
  万里の長城のはるか北方に位置していて、中国自身が
 「化外の地(けがいのち)だ」として・・
  「化外の地」は、中華思想では、中国の権力・法律が
 行き届いていない地方だと言った。
  さらに言うが・・今・現在の中国の漢民族が、領有権
 を主張できるような地ではない。
  だから・・その様な地であるから、中国は、万里の長
 城を築いたのであった・・ここを国境としたのであった。
  また、朝鮮・韓国では、この地に朝鮮族が居たという
 ので、小学校では、この満州を「我が領土だ」と教えて
 いる。
  日本は、この地を「五族協和」として、一番多い満州
 族の建国を助けた。
  今・現在、漢民族の中国が「我が領土だ」としている
 が、まったく、その根拠がないからだった・・
  リットン調査団も、中国の地だなんて言わなかった。
  日本の行為を認めていた・・
  領土欲を持つロシアが、南下政策をとって・・ここの
 権益を奪い、まったく関係ない中国と関係を持ったのが
 問題の発端だった。
  そして、領土欲あるロシアは、大連などの不凍港が欲
 しいと利権を漁った。
.
1789年、この年のベトナムの書によると・・、
  ベトナムのタイソン(今のビンディン)で一揆を起こ
 し、ベトナムに侵略していた中国の清に打撃を与え、駆
 逐した将軍・グェン・フェ(玩恵将軍)・・、
  また、ベトナムの南部と北部に分裂していた状態を終
 わらせて統一したグェン・フェ(玩恵将軍)・・
  この将軍は、象を調教し、有力な戦闘武器として確立
 した。
  そして、その象兵が、重要な戦闘力を持つ軍団で、象
 を有力な武器として活用した。
  中国の清軍と戦う時、百頭ほどの牡(おす)象を先陣
 に配置した。
  この様な象軍団を見慣れていない清軍の騎兵隊侵略軍は、大
 いに、驚ろき、恐れた。
  清軍の戦陣は、混乱状態に陥(おちい)った。
  象は、戦時の勝敗を決める重要な部隊であった。
  1頭の象の背中に180㎏ほどの大砲を載せたりもした・・
 また、60㎏の大砲を2丁乗せる場合もあった。
  象使い2人が、象の背中に乗って、その大砲を撃ち放
 った。
  敵の規模に応じて、象の数を数十頭の場合もあれば、
 数百頭の場合もあった。
  象の調教師は重んじられた。
.
1930年代、この頃の中国共産党は、中国農民の方々のお蔭
 で存続していた・・存亡の危機でもあった・・
  例えば、占領した中央ソビエト区(江西省と福建省の
 南部境界域)では、10万人以上の紅軍兵士と、多数のソ
 ビエト政府の人員を養うには食糧が不足した。
  その為、農民たちへ、中国共産党は、苛酷な国民政府
 時代以上の税をかけた・・中国農民方々は苦しめられた。
  この中国共産党軍の取った作戦といえば・・「敵が進
 んでくれば・・我退く」だった。
  格好良く言えば「遊撃戦術」であるが・・敵が強いと
 なると、その世話になっている農民方などの「保護すべ
 き住民」を捨て去り、置き去りにして、サッサと逃げ、
 退却し、逃げ去って行った・・まったく無責任な軍隊だ
 った。
  南京の場合も、南京の住民を置き去りにして逃げ去っ
 た(この場合、中国国民党軍)。
  プロパガンダされている事・・共産主義だから科学的
 であって、住民を大切にする共産党だ・・なんて、まっ
 たくのプロパガンダ(嘘宣伝)で・・、
  洗脳され、頭に詰め込まれた思いで・・、
  こんな中国共産党軍が、延安の中国の奥地の奥地に隠
 れていた。
  日本軍とまともに戦ったことのない中国共産党軍だっ
 た。
  格好良く「日本軍と中国国民党軍の消耗を待っていた」
 と言うが、「これも嘘」、兵が激減して戦える状態では
 なかった。
.
1933年3月4日、ルーズベルトが、アメリカ大統領になった。
  ・・が、この大統領は、非常に中国贔屓(ひいき)の
 大統領だった。
  ルーズベルトの家系は、中国貿易に従事し、儲けて来
 ていた・・その様な環境に生まれた大統領だった・・当
 然、ルーズベルトの家庭環境は『親中国』だった。
  ルーズヘルトは、母親から何度も、快速線「クリッパ
 ー号」に乗って香港を訪れたことを、幼い頃より何度も
 聞かされていた(幼いルーズベルトは、親中国の洗脳頭
 となった)。
  そして、ルーズベルトは、海軍省に居た時、日本を仮
 想敵とする『オレンジ・プラン』の立案にかかわった。
  大統領就任後の初閣議で、「対日戦争は、一つの可能
 性だ」という表現を使った・・アジアの情勢を語った。
  中国の蒋介石夫人の宋美齢は、アメリカの反日世論を
 煽(おあ)りまくった。
  また、戦争のきっかけとなったハル・ノート文案作成
 に積極的に関与したアメリカ人のハリーホワイトは・・
 ソ連のスパイだった。
  ルーズベルト大統領のアメリカは、中国と、がっちり
 結びついていた。
.
1930年代、日本の満州経営は下降線をたどった。
  アメリカは、「中国に遅れてやってきた国」だった。
  アメリカは、「中国を開放せよ」と言った。
  これは、「アメリカにとって」、中国は開放されてい
 ないと叫んでいるようなもので・・
  遅れてしまったので、アメリカには開かれてないと言
 っているようなものだった・・
  遅れて来て、中国のうまい汁が吸えないという叫びだ
 った。。
  アメリカは、必死に中国とのつながりを持とうとした。
  満州の鉄道利権を狙った。
  満州での鉄道を含む各種の権益の租借権は、もともと
 中国の清国が、ロシアに対して与えたものだった。
  そして、日露戦争で戦勝した日本は、賠償金の代わり
 に、ロシアの持つ満州の権益の租借権を得た。
  侵略で奪ったというのは、日本を貶(おとし)めるプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)で、この様な満州の鉄道利権を日
 本から奪おうとするのがアメリカで・・アメリカは、日
 本の利権を狙った。
  その様なアメリカと関係を持った中国は、様々な形で、
 日本の権益行使を妨げようとした。
  そして、変な・・馬鹿々々しい屁理屈を言った。
  例えば、鉱山の採掘権を持つ日本に、「ある鉱物の採
 取権は確かに日本に与えたが、その他の鉱物は採っては
 いけない」・・と・・
  この様な採掘ができる訳は無い。
  採掘する鉱石には、様々な鉱物が含んでいるのは常識・・
  例えば、鉄鉱石を採掘しても良いが、同時に出る「イ
 オウ」などは採ってはいけないという様な理屈であって・・、
  「ベニスの商人」で、「肉を切り取ってもいいが、血
 は一滴も流してはいけない」というようなもの。
  また、アメリカが、日本の満州鉄道の路線を敷いてい
 るのと並行して、アメリカが線路を敷くのを許可した。
  常識でも、この様な事をしてはいけないが・・
  日本は、ちゃんと中国と話し合って、条約で、この様
 な行為はしてはいけないと・・条約で契約していたので・・、
 中国がアメリカに許可した行為は、日本との条約違反行
 為だと抗議した・・「止めさせることは出来た」が・・
 この様な不法な妨害をするという状況だった。
  しかし、日本の満鉄の輸送に対抗する新しい鉄道網を
 建設し始めるという状況だった。
  1930年代には、満鉄を核とする日本の満州経営は下降
 して行く。
  後から来たアメリカは、先行して美味しい汁を、すで
 に吸っているイギリスやドイツの権益を狙うという事が
 できずに、日本の権益を狙うという姿だった。
  また、日本は、国際社会への説明が下手で、不十分だ
 った。
  中国やアメリカなどの宣伝に対し、不器用な日本だっ
 た。
  日本は、中国のプロパガンダにもやられたが・・アメ
 リカは、自国民に「日本を悪役に仕立て、その悪訳ぶり
 をいやというほど吹き込んだ(アン・フェアなアメリカ)
  これが、第二次世界大戦の素因の一つとなった。
.
1937年11月28日、南京事件を捏造(ねつぞう)する中国
  この日に、20万人の人が、南京に居ることが発表され
 ている。
  日本軍が南京を攻めて、南京に入るのが1937年12月13
 日であるから、その半月くらい前の南京の人口である。
  この人口数は、中国人の警察庁長官の王固磐が、開か
 れた記者会見で発表した人口数であった。
  また、日本軍の南京入城の5日後の1937年12月18日には、
 南京国際委員会という「南京の住民が集まっていた安全
 区を管轄する委員会」が、「南京の人口は、20万人」と
 発表している。
  (中国は、今・現在、日本軍が、南京で30万人殺した
 と言っている・・これは、嘘だとはっきりしている)
  また、日本軍が入城した1週間くらいの後の1837年12月
 21日には、南京外国人会が、「南京の20万市民」と言及
 している。
  そして、1938年1月14日には、国際委員会が南京の人口
 を25万人に増えたと公表している。
  日本軍が、食糧を配ったり、種々の住民のための行為
 をしているので、住民が戻って来たのだった。
  日本軍は、南京の方々へ、食料を配ったりして、大変、
 配慮をしている。
  上智大学教授の渡部昇一氏も、南京陥落から1ヶ月後に
 日本軍は、約25万人の住民に食糧をを配ったという記録
 があると言われている。
  また、占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵(便
 衣兵:べんいへい、一般市民を盾にして隠れる卑怯な兵)
 と本当の民間人を区別するため、ひとりひとりと面接を
 したうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発
 行している(1937年12月から1938年1月)。
  60歳以上の老人や10歳以下の子どもは兵士ではないか
 ら、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数
 が16万人に達した。
  南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・
 スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤
 泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口
 は25万~27万人程度だろう」と書いている。
  この様に南京入城後、南京の人口が増えたりしていて、
 良好な、そして、安定した状況だとすぐわかる・・
  この様な状況の中で、中国の言う「南京虐殺が起きる
 訳がない」。
  中国は、それも30万人だと、勝手、気ままに大きく増
 やした嘘の人数を世界に言いふらしている。
  南京事件があったという発端は・・「作られた嘘だ」
 とはっきりしている・・
  イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」の
 中国特派員の記者ティンパーリーは、「最悪の嘘つき記
 者」だった。
  ティンパーリーは、中立的立場の欧米人ジャーナリス
 トを装っていた。
  この男の実態は、蒋介石の国民党に雇われた『工作記
 事を書く記者』だった。
  南京事件をでっち上げた。
  最初に書いたのもこの記者だった。
  国民党は、ティンパーリーへ書くための情報(嘘の捏
 造情報)を与えた。
  この様な記事が世界へ流れて行き、南京事件は捏造さ
 れた。
  ティンパーリーでさえ、国民党へ行く前は、この様な
 虐殺記事は書いていない。
  そして、ティンパーリーは、国民党から与えられた情
 報で二冊の南京事件の本を書いた。
  そして、その中でも書いた向井、野田両少尉の百人斬
 りの記事(東京日日新聞の記事)を、東京の英字紙であ
 るジャパン・アドバタイザーが転載し、世界へ広まった。
  日本が酷いことをしているという印象を与えた。
  向井・野田の二人は、この記事を証拠とされ戦犯とし
 て死刑となった。
  しかし、これは、ジャパン・アドバタイザーでも「一
 対一の刀の斬り合い」と書いている・・百人斬りではな
 い・・この様に、これは、普通の戦闘行為だった・・ね
 つ造された・・
  ティンパーリーが、「殺人競走」というタイトルを付
 けた・・嘘記事を書いた。
  この事から「普通の戦闘行為」とは受け取られ無い、
 酷(むご)い行為が行われているという事になって行っ
 た・・
  あたかも戦闘以外で、民間人を殺戮して行ったという
 様に受け取られる・・嘘記事が事実の様になってしまっ
 た。
.
1945年8月8日、日本とソ連との間には日ソ中立条約が締結
 されていた(1941年4月)・・しかし、ソ連はその条約を
 一方的に破った。
  そして、1945年8月8日に満州や南樺太(現:サハリン
 南部)などに攻めて来た。
  この時、6歳11ヶ月のなかにし礼氏は満州にいた。
  その時のことを、読売新聞(2018年11月5日)に記して
 いる・・以下はその文・・
  その日はやって来ました。
  1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が満州に進撃。
  2日後、牡丹江に編隊を組んだ無数の飛行機が来襲しま
 した。
  耳をつんざく大音響とともに、わが家の向かいの陸軍
 の兵舎から火花と黒煙が上がりました。
  家の前で遊んでいた私は慌てて家の中に逃げ、母の胸
 に飛び込んだのです。
  夜になると、北の空が真っ赤になっていました。
  ソ連の戦車部隊が迫っていたのです。
  運悪くこの時、父は新京(現:長春)に出張中。
  しかし、「逃げる」と決断した母は、つてを頼り、軍
 人やその家族を退避させる軍用列車に乗せてもらう手は
 ずを整えました。
  母はしんを抜いた帯に札束を詰め込み、何重にも私の
 体に巻き付けました。
  6歳の子供が大金を持っているとは誰も思わないという
 計算からでした。
  避難列車を待つ日本人でごった返す牡丹江駅前通りを
 抜け、人目を避け離れた場所に止まる列車に母と姉、使
 用人たちと共に乗り込みました。
  「これは遠足みたいなもので、またここに帰って来る
 んだ」。
  まだ、そう思っていました。
  翌朝、列車は突然止まり、誰かが「敵機来襲」と叫び
 ました。
  皆われ先に外へ飛び出し、身体の小さな私はとっさに
 座席の下にもぐりました。
  ソ連機は列車に向けて機銃掃射を繰り返しました。
  それが終わり、我に返ると、目の前には頭を射抜かれ
 血を流している軍服姿の男が倒れていました。
  あと数十センチ銃弾がすれていたら、私が死んでいた
 のです。
  おびただしい死体は、生き残った者によって外に放り
 出されました。
  それにすがって泣きわめく家族・・。
  死体が原野に落ちると、現地人が集まり、服や金歯な
 どをはぎ取る。
  天国だった満州はわずか1日で地獄に変わったのです。
  しばらく進むと、ソ連機の再度の襲撃で列車は動かな
 くなり、代わりに用意された無蓋の貨車に乗り換えまし
 た。
  おそらく先行した軍用列車も同じ目に遭ったのでしょ
 う。
  線路脇には行けども行けども丸裸の死体がころがって
 いました。
  中国人の運転士はたびたび列車を止め、先に進むのに
 金品を要求しました。
  目的地のハルピンに到着したのは、15日昼ごろでした。
  しかし、私たちはなかなか列車から降ろしてもらえま
 せん。
  突如、銃声が激しく鳴り響き、馬にまたがった満州兵
 たちがホームに押し寄せ、何かを叫びました。
  それを聞いた日本の軍人が立ち上がり、「皆さん、日
 本が戦争に敗けました」と言ったのです。
  「私は中国語が少しわかりますが、今から満州軍が日
 本人を支配すると言っています」。
  貨車の中にはすすり泣きの声が広がりました。
  母も姉も泣いていました。
.
1945年8月28日 中華民国で、中国国民党の蒋介石らと、中
 国共産党の毛沢東とが会談した。
  重慶で会談が始まって・・
  1945年10月10日、双十協定が成立したが・・
  会談は事実上決裂し、国民党と共産党は内戦に突入し
 た・・
  この両者には、とうてい理解しえない国の将来に対す
 る基本的考え方の違いがあった。
  各地で小競り合いの戦いが起こり・・
  1946年7月には、本格的な内戦へと突入した。
.
1958年8月、ご都合主義の中国。
  中国は、自分に都合が良いことを一部の人間が決める
 という国である。
  憲法があったって、自分の憲法だけれども無視した。
  憲法だろうが、法律だろうが、そんなものあったって
 「糞、くらえ」となっていた。
  1958年8月、毛沢東が、北載河で、各省の共産党書記を
 集めて演説を行った・・それには・・
  「法律に依拠して多くの人を治める事は出来ない」と・・
  中国憲法軽視の発言をはっきりとする・・
  「憲法は、私が参加して制定したものだ。しかし、私
 は記憶していない」と・・(心には、はっきり、知るも
 のかの心がある)
  それでは、何によって統治するのか?・・というと・・
  毛沢東は言う・・
  「我々の毎回の決議が総べて法律なのだ」と・・また・・
  「会議も法律だ」と・・だからと言う・・
  「我々の各種の憲章に基づく制度は、大部分、90%は
 関係当局が作ったものだ・・我々は、基本的にはこれら
 に依拠しない」と・・
  「依拠するのは決議と会議の結果だ」・・そして言う・・
  「我々は、我々のものに依拠する」と。
  まったく呆(あき)れる・・その日に思ったことが憲
 法だの発言となっている・・
  「我々が決めた憲法や法律に依拠する」とすべきだ。
  この様に、中国は、一握りの者たちの胸三寸で決める
 国である。
  格好良く「人治主義だ」なんて言うが、中国は、その
 日の風向きによって右にも左にも行く一握りの王様の国
 なのである。
  「全国人民代表大会(略称:全人代)」なんて、格好
 良く、大勢集まっているが・・顔見せで、既に、決定さ
 れたことを「シャンシャン総会」の様に党員の手帳を決
 議の時に上げるだけの会議・・
  (参考)全人代は、共産党を中心とする大会主席団、
     全人代常務委員会、国務院などが提出した議案
     や予算を審議する。
      議案や予算の「否決に至った例はない」と説
     明されている。
  反対をしようものなら、今後がどうなるか?・・非常
 に怖いことになる。
  結局、一部の者たちに都合のよい統治となる。  
  憲法無視を公言する国=中国。
  1944年に、中国は、臨時憲法と言える「共同綱領」を
 決めるが・・有名無実・・
  ここには、「表現の自由」があり・・「デモ行進の自
 由」があるが、こんなことは、中国で事実無根・・
  やられているのは・・官製のごますり行為ばかり・・
  「言論の自由」があっても・・「表現の自由の保障」
 があっても・・絵に描いた餅となっている・・
  そんなことを自由にやったら、当局による逮捕が待っ
 ている。
  近代国家ではない・・人民は虐(しいた)げられてい
 る・・
.
1958年、第二次五ヵ年計画開始の頃から、毛沢東は、「大
 躍進」と称する工業・農業の大規模な集団化による大増
 産政策を進めた。 
  1958年、人民公社が設立された。
  数億の中国の農民たちは、土地を放棄させられた。
  人民公社に集団化させられ 、農民たちの生産意欲は低
 下した。 
  農民たちには無理なノルマが課された。
  (参考)ノルマ:基準、特に、各個人・工場等に割り
     当てられた、労働の基準量。
  ノルマを達成でき なかった現場指導者たちは水増しし
 た嘘の報告をした。
  その報告を受け取った毛沢東は、実態を把握しないま
 ま、更なる増産を命令した。
  中国は、その様な悪循環に陥(おちい)って行った。 
  毛沢東は 、数年間で経済的にアメリカやイギリスを追
 い越すのだと、夢見て実施させていた。
  しかし、結果は、数字だけの達成で・・事実は、推計
 で2000万人から5000万人の餓死者が出るという大惨事の
 大失敗に終わった。 
.
1959年4月27日、毛沢東の大躍進政策が失敗に終わり、この
 日に、責任をとった形で毛沢東は退き、代わり中国の第
 2代国家主席に劉少奇(りゅう・しょうき、~1968年10月
 31日)がなった。
.
1961年、毛沢東が、訪中した日本の議員団へ御礼を言った。
  その御礼は、「日本の資本家や日本軍は、良いことを
 してくれました。もし感謝するのなら、私は、むしろ、
 日本の軍閥に感謝したいです」と言った。
  これは、毛沢東の中国共産党軍が、中国国民党軍に大
 敗北し、30万人近い勢力だったのが、その10分の1の3万
 人くらいになり、消滅寸前であった時・・、
  そして、中国奥地へと逃げ、またさらに、奥地へと逃
 げていた時、日本と戦ったことも無い毛沢東の軍は、コ
 ミンテルンの指令で息を吹き返した。
  抗日運動も高まる。
  コミンテルンは、「日本軍と戦う国民党軍と共同して
 民族統一戦線を作れ」と、中国共産党へ命令する。
  この命令に従った中国共産党は、劣勢でもあった。
  中国国民党軍と、その劣勢の内戦を中止でき、階級闘
 争も止め、これによって中国国民の支持も集めることも
 できた。
  そして、中国国政に参加する道も見い出せた。
  第二次国共合作は、毛沢東の起死回生となった。
  後押しした形になった日本軍だった。
  「日本軍に助けてもらった」状況から、毛沢東の感謝
 の言葉となった。
.
1966年~1976年、中国の文化大革命。
  多くの知識人が迫害され、また、中国国民の方々が大
 虐殺された。
  この時、湖南省の零陵地区内の十県で1万人が、直接、
 殺害された。
  この様な事が中国のあちこちで起きていた。
  1980年代、初期の文化大革命は終了するが、この様な
 虐殺が非常に多く行われていたことが分かった。
  共産党の内部調査によると、地方の人々の2000万人以
 上の人々が、殺害されていた。
  中国には、2200の県があるが、中国の行なった文化大
 革命は、国民を多数を殺害していた。
  葉剣英副主席は、「文化大革命では2000万人が死に、
 1億人が酷(ひど)い目にあった」と言った。
  アメリカの著名な中国専門の研究所で、中国人留学生
 たちは、皆、バリバリの共産党員で、日本批判ばかりを
 展開していた。
  南京事件について、その嘘の反論主張ができない日本
 人留学生たちだった。
  そのアメリカ人の教授は、中国人留学生たちへ言った・・
 「そうは言うが、君たちの国・中国では、大躍進や文化
 大革命で1000万人単位で人が死んだ。
  何故、君たちは、それについて何も話さないのだ。
  南京で死んだという30万人の事を、本当だ、嘘だと言
 うつもりはないが、1000万人に比べたら非常に少ないで
 はないか」と。
  バリバリの共産党員の中国留学生たちは、一同、黙っ
 てしまった。
.
1976年1月8日、周恩来が没した。
  周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転した。
  清明節の1976年4月4日から5日未明にかけて、江青らの
 四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われ
 ていた周恩来追悼デモを弾圧した・・すなわち第一次天
 安門事件。
  この事件において、周恩来追悼デモは反革命動乱とさ
 れ、鄧小平は、このデモの首謀者とされて、再び失脚し
 た。
  鄧小平は、すべての職務を剥奪された。
  しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世
 友に庇護された。
  1976年9月に、毛沢東が死去すると・・後継者の華国鋒
   を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後・・、
  1977年に、鄧小平は、三度目の復活を果たした。
  1978年、日中平和友好条約を結び・・、
  1978年10月、日本を訪れた鄧小平は、新幹線への乗車
   で日本の経済と技術力に圧倒された。
  1978年11月、シンガポールの外資誘致の実態を見学。
   これらの海外視察から帰国した鄧小平は、第11期3中
   全会(1978年12月)において、それまでの階級闘争
   路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」と
   いう政策を打ち出した。
  その代表的な経済政策のひとつが、「改革・開放」政
 策の一環である経済特区の設置で、一部地域に限り外資
 の導入を許可・促進することで経済成長を目指すという
 この政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。
  しかし、政治面では共産主義による中国共産党の指導
 と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経
 済政策を取った。
  生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ
 黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言った。
  1984年3月、訪中した当時の中曽根康弘首相は、鄧小平
   ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や、中
   日友好病院、日中青年交流センター設置などで一致
   し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ、沿海部の
   経済特区指定も重なり、これ以降、日本の対中直接
   投資は本格化した。
    このお蔭で今の中国がある。
.
1981年、中国の胡耀邦総書記は、大躍進政策によって「中
 国の全国で2200万人が、非正常な死亡をした」と言った。
  中国は、この頃、農民に今までにない重税を課した。
  清朝もやらない、また、国民党時代でもやらなかった
 重税を農民に課した。
  農民から収奪して工業化を進めようという思惑だった
 が、共産主義という民主性を欠いた政治システムだった
 為、悲惨な死者が現出した。
  本「マオ」では、この死亡者数を「劉少奇は、3800万
 人近い人数を確認している」と記している。
  卑劣にも、この時、農村から奪った食料は、都市部へ
 供給されていた。
  農村の方々の生産意欲は激減した。
.
1990年代から、中国は、各地方の独立採算制を実施した。
  中国の地方の下部組織に、「行政の人事」「事務」「
 財政の権限」などを委(ゆだ)ねた。
  その結果、「行政部門が肥大化」し、その費用を「農
 民たちへの恣意的な課税(自分勝手な課税)」をして対
 処した。
  農民たちへ尻拭い(しりぬぐい)をかぶせた。
  また、この地方の役人たちは、「自分の身内をどんど
 ん地方政治組織の官職に就けた」。
  これは、中央の「国家の命令を無視」して行われた。
  また、この給料をまかなうため、「人頭税という法律
 に無い税金を勝手に作り、その費用まで農民から巻き上
 げた」。
  この様な暴挙に耐えかねた莫大な人数の農民が暴動を
 起こした。
  また、村を捨てて都市へ逃げ、流出した。
  この様な町へ逃げた農民の方々が、「安い労働者とな
 った」。
  この安価な労働者を求めて、アメリカや日本などの先
 進諸国の投資が、活発に行われた。
  この先進国の活発な投資は、中国の製造業の繁栄をも
 たらし、支え続けた。
  あまりにも多い地方からの安価な労働力の供給は、何
 時までも続く「低賃金の厳しい労働環境で雇用できる」
 という雇用者側に都合のよい状況を作った。
  労働者は、不満を言うものなら、すぐに新たな労働者
 が雇用された。
  権力を握る役人天国が現出した。
  自分の身内にまで、その立場の優位さを享受させられ
 たし、また、資本家から賄賂が流れて来て結託した。
  しかし、中国には「これらを正す法が無く」、整備さ
 れてなかった。
  一部の権力者へ、富が、どんどん集中した。
  まったく封建時代そのままの中国だった。
  この様な中国の地方の腐敗・・資本主義などと呼べる
 代物ではまったくなかった。
.
2018年11月19日、中国が必死にGPSの衛星を打ち上げて
 いる。
  この日の発表では、四川省の衛星発射センターから、
 独自開発の衛星測位システム「北斗」を構築する18、19
 基目の衛星を搭載したロケット「長征3号乙」を打ち上げ
 た。
  北斗は、アメリカのGPS(全地球測位システム)に
 対抗する中国独自のシステムとして構築が進められて来
 た。
  何故? 中国独自のシステムが必要なのか?
  仮の話・・中国の大陸間弾道弾の正確な飛行にはGP
 Sとのデーターのやり取りが必要・・その時、その部分
 をアメリカのシステムに頼っていたらどうなるか?
  中国は、独自のシステムが必要と判断したのだろう。
  例えば、中国の大陸間弾道弾が、自国に落下でもする
 ようなことを予測したのか?
  何発も発射した大陸間弾道弾の一発でも、自国へ落下
 となったら大変だと考えたのか?
  肝心な飛行にかかわる所である。
  いざとなったら何が起きるか分からない。
  その総てが、中国へ落下という事も起きるかもしれな
 い。
  大陸間弾道弾を持たなくても、この技術分野の技術を
 持っていれば、問題回避ができるとも言える。
  急速に進む現代の技術・・予測不能な部分である。
.
2018年11月19日、日本の江崎グリコが、液体ミルクの製品
 化に成功した。
  2019年の春に、国内販売が開始される見通し。
  これは、乳幼児液体ミルクが、災害時の救援物資とも
 なる。
  日本栄養士会の作る組織は、災害時の救援物資として
 備蓄する取り組みを進めるとし、2018年11月19日に発表
 した。
.
2018年11月19日、日本は、ブルキナファソに対し、食糧支
 援を決めた。
  資金返還を求めない無償の資金協力・食糧援助である。
  安倍首相は、この日、ブルキナファソのロシュ・カボ
 レ大統領と首相官邸で会談をして、決定した。
  大雨や干ばつなどの天変地異で、食料不足が深刻化し
 ている状況の救済を決定した。
  また、共同声明で、今後、インフラ(社会資本)整備
 の支援も日本は行っていくとしたと発表した。
.
2018年、中国の失敗。
  結果を見れば「中国の社会主義革命は失敗と言える」。
  「経済的不平等が存在」し、また、「人権抑圧が存在
 する」。
  社会主義で経済的平等と人間性の回復を目指したが、
 目指す過程で、その逆の「経済的不平等」と「人間抑圧」
 が、皮肉にも発生した。
  目的こそ崇高であったが、その遂行で「2000万人の死
 者が出た文化大革命」が出現した。
  あまりにも悲惨な経過を経なければ、実現されないと
 され、多くの犠牲者を出した。
  もう、この大参事で失敗だとして中止すべきであった・・
 が、しかし、社会主義化は続けられ、現在でもその「極
 端な格差社会は無残」としか言いようは無い。
  そこには、まず、中国共産党の支配を正当化するため
 の「卑劣な嘘」の存在と、その嘘を隠す嘘の行動が、さ
 らに、結果を悲惨なものにした。
  「建国神話」からその嘘は、すでに始まっていた。
  「中国共産党が日本軍を打ち破った」と言う嘘、そし
 て、「中国国民を守った」という嘘。
  「中国共産党が土地改革をした」という嘘。
  「中国農民を解放した」という嘘。
  ことごとくが嘘となっている。
  中国共産党ではなく、「中国国民党だった」。
  そして、「生産構造は、実は、まったく変わっていな
 い」。
  「中国の社会制度は、今も昔も封建的な地主制度的支
 配関係を基盤としている」。
  「社会主義革命が起きたと思い込まされて来ただけ」。
  「中国研究者でさえ『封建残余だ』と言っている」。
  「『残余』などではなく『根幹だ』とさえ言われてい
 る」。
  「社会主義の衣を着た封建王朝だとさえ自嘲的に言わ
 れている」。
  「中国の人口の0.01%のほんのわずかな中国共産党員
 が支配し、選挙もない」。
  「そのわずかな者たちが、極めて大きな特権を独占し
 ている」。
  「その奴らが蓄財している」。
  1950年に、「中華人民共和国土地改革法を公布したで
 はないか?と反論するかもしれないが、これは、内容通
 りに受け取ったら大間違い。
  確かに「地主階級の法権的搾取の土地所有制を廃止し、
 農民的土地所有制を実施」するとされているが、これで、
 「農民が地主から解放された」と評価するのは大きな誤
 り。
  ここに、「共同農業経営」という美名の元に出現した
 のが「中国・共産党国家」という「超巨大地主」だった。
  「農民へ土地を渡すというのも嘘」。
  実際は、「中国共産党官僚が、徹底的に管理し、利益
 を吸い上げた」。
  実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
  かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
  「共同経営だと言ったって、農民の人たちが収穫の中
 から自分の分の分け前を取り分けられないようにされた」。
  日本では、「その様な実体が分からないから喝采して
 いた」。
  「実態は、体よく、効率よく、搾取されるシステムの
 土地改革だった」。
  しかも、「農民は、住居移転や移動の自由を禁止され、
 奪われた」。
  「ただ働き、搾取される奴隷だった」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2018年11月21日

(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

題:(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月20日、威海衛の戦い(~1895年2月12日)
  日清戦争における戦いで、日本の陸海軍が共同で行っ
 た作戦。
  制海権を完全に掌握するため、威海衛に立てこもる中
 国・清の北洋艦隊の残存艦艇の撃滅と海軍基地の制圧を
 行った。
  日本の勝利で終わった。
  1895年1月20日、「八重山」など4艦の艦砲射撃による
 援護のもとに、第1野戦電信隊と海軍陸戦隊が山東半島先
 端の成山角灯台を制圧した。
  そして、電信線を切断した。
  つづいて、第2師団の歩兵第16連隊を先頭に第一次揚陸
 部隊が、栄城湾の東端に上陸し、栄城県城を制圧した。
  1895年1月21日の翌日、第2師団の残りが上陸し・・
  1895年1月22日、第6師団が上陸した。
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着。
  1895年1月26日、第2師団を左縦隊に、第6師団を右縦隊
   に並進した。
  1895年1月30日、第6師団が、百尺崖・摩天嶺での激戦
   をへて威海衛湾の南岸要塞群を制圧した(移動距離
   約60km)。
    また、第6師団の攻撃にあわせて第2師団が、南岸
   要塞群の西側、鳳林集の東南高地を制圧した。
    中国・清軍は、防衛線の一角を破られたこともあ
   り、威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄
   し、撤退。
  1895年2月2日、第2師団が、北岸要塞群などを無抵抗で
   制圧。
    威海衛湾の山東半島側が日本軍に占領された結果、
   湾の出入口にある要衝、劉公島と日島の守備隊、北
   洋艦隊の残存艦艇14隻が孤立することになる。
    また、1月30日、占領した百尺崖砲台にて望遠鏡で
   敵情視察中の歩兵第11旅団長大寺安純少将が敵艦の
   砲撃を受け戦死し、『二六新聞』記者遠藤又市も死
   亡。
    孤立しても、劉公島と日島の守備隊、北洋艦隊の
   主力艦は健在であり、視界に入る日本軍を「定遠」
   の30センチ砲などで砲撃した。
    日本軍は、当初、陸軍が小口径の陸上砲で応戦す
   るが、北洋艦隊の主力艦による艦砲射撃は圧倒的で
   あり、地上からの攻撃による北洋艦隊制圧は難しい
   と判断された。
    海軍(連合艦隊)に応援を要請し、海軍は水雷艇
   部隊を威海衛湾内へ突入させて襲撃する作戦を決行
   した。
  1895年2月5日午前3時20分、2月4日の夜から闇にまぎれ、
   清軍によって仕掛けられていた防材をかわして威海
   衛湾内へ侵入した日本海軍の水雷艇部隊は、予定ど
   おり襲撃を決行した。
    衝突事故を起こしながらも魚雷攻撃を行なった。
    北洋艦隊の旗艦「定遠」が大破、「来遠」「威遠」
   等3隻を撃沈、
  1895年2月9日、明け方、日本軍は水雷艇部隊を威海衛
   湾内へ突入させ、2回目の襲撃を行い「靖遠」を撃沈。
   この攻撃において、日本軍は、水雷艇を突入させる
   だけでなく、日本艦隊の艦砲と制圧した湾対岸にあ
   る砲台の備砲が北洋艦隊の牽制を目的とした支援射
   撃を行った。
    威海衛湾に安全な場所が無くなった清軍の水兵が
   反乱を起こした。
    清軍の陸兵と、清国へ派遣されていた外国人軍事
   顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求める。
  1985年2月11日、降伏を拒否していた丁提督が、李鴻章
   に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
   セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワ
   サル旨」と決別の打電を打ち、後に服毒自決した。
  1985年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
   官も自決。
  抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐
 亨連合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)
 を提出した。
  1895年2月14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放につい
   て両軍が合意し、
  1895年2月15日、調印が行われた。
  1895年2月17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に
   解放された。
    また、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍
   将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を
   乗せて威海衛湾から出航。
    作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持する
   こととし、砲台など軍事施設を爆破した。
    作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦に
   そなえて旅順に移動。
  なお、伊東長官が鹵獲艦船の中から商船「康済号」を
 外して丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、
  また、清の将兵の助命嘆願を容れたことは、当時の世
 界常識として例を見ない厚遇であった。
.
1895年1月、北海道炭砿鉄道が、北海道移民を無賃輸送とし、
 また、その携帯日常品(家具・衣類・農具)も無賃輸送し
 た。
  そして、すべての乗客で60マイル以上の乗客に対して、
 運賃の5割引を実施した。
.
1895年1月、樋口一葉の小説「たけくらべ」が、雑誌「文学
 界」で連載がはじまり、評判となった(~1896年)
  森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に激賞された。
  東京下谷大恩寺前を舞台に、
  遊女となる運命が予定されている大黒屋の美登利と竜
 華寺の跡取りになる内気な少年・信如との淡い恋を中心
 として、
  田中屋の正太郎などを交え、
  酉の市(とりのいち)などの風物も描かれ、
  吉原の花街近くに住んで、思春期にさしかかろうとす
 る少年少女の姿を、
  吉原遊郭周辺と四季の移りかわりを背景にして、抒情
 的に描く・・、
  明治文学の中でも、最も完成度が高い短編と言われる。
.
1895年1月、『小国民』、手旗信号の個所が機密維持法違反
 で告発さた。
  また、後に、治安妨害の理由で発禁に、1895年11月『
 少国民』になる。
  『小國民』の内容は、歴史、地理、理科、修身読み物、
 子どもたちの投稿文から成った。
  科学読物に重点が置かれ、事実に基づいて書くことが、
 基本的姿勢とされた。
  しかし、「海軍の信号」という絵入り手旗信号の記事
 により、海軍の機密維持法違反で告発された。
  さらに、「嗚呼露国」が治安妨害に当たるとして発行
 禁止処分を受けた。
  2ヵ月後、『少國民』と改題し発行を続けた。
  しかし、発行元の学齢館が経営不振に陥り、発行所が
 北隆館に移った。
.
1895年1月、ロシアの暗躍
  日清戦争の当時、西欧米の列強はまったくの門外漢で
 あったかと言えば、当然、中国や朝鮮半島に利権を持っ
 ている西欧や米の列強は、まったくの門外漢であるはず
 はなかった。
  朝鮮自体が、中国の冊封体制により、長らく属邦化政
 策がなされて来ていて・・
  朝鮮は、その中国の政策から抜け出したいとロシアに
 接近していた。
  1885年4月15日には、巨文島事件が起きる。
  イギリス東洋艦隊が朝鮮の巨文島(くもんとう)を占
 拠していた。
  これは、朝鮮に進出しているロシアを阻むために、イ
 ギリスが行なった。
  この様に日清戦争は、単純に日本と中国の清との対立
 という構図で行われたのではなかった・・そして・・
  ロシアが、不凍港が喉から手が出るくらい欲しいとい
 う理由の一つを上げれば・・、
  1895年当時、ロシアのウラディヴォストーク港は、冬
 期の4か月間結氷し、この間、ロシア太平洋艦隊は、日本
 の港湾で過冬していた。
  ロシアが、この状況を解決しようと画策するのはこの
 一例をもってしても分かる・・そして・・
  1895年1月、ロシアは、英仏に対し日本に講和を勧告し、
 かつその条件を開示すべく申し入れることを提議した・・
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に、対日申
 し入れを行った。
  結局、英露協調は、4月初めの下関講和会議において、
 日本が提示した講和条約案(遼東半島割譲を含む)に反
 対しないという決定をイギリス政府が下したことにより、
 崩壊した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた(2008年)
.
1934年初頭、この頃から投入された中国の中央軍、広東軍、
 湖南軍135万に紅軍は耐えられず、この年の1934年11月か
 ら江西中央ソビエト区を放棄して紅軍(中国共産党軍)
 は「長征」を開始した。
  この当時の共産党の実質的最高指導者は毛沢東ではな
 く秦邦憲(しんほうけん)だった。
  (参考)秦邦憲:1931年1月~1935年1月の中国共産党
     の最高指導者の一人だった。
      モスクワに留学している。
      秦邦憲は、コミンテルンより派遣された軍事
     顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提
     言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。
      1934年4月の広昌(こうしょう、江西省撫州市
     に位置する)失陥(しっかん、攻め落とされ失
     うこと)に際して、1万以上の兵力を失うという
     大敗を喫し、瑞金(ずいきん、江西省贛州市に
     位置する県級市)の陥落は避けられない情勢と
     なった。
      1934年7月から、ばらばらと福建省方面などへ
     と脱出する。
      南下を始めた共産党軍は、明確な目的地は無
     く、ただただ逃げ惑う軍団だった。
      1934年12月には、3万余りの兵力に激減してい
     た。
      1935年1月、遵義会議(じゅんぎかいぎ、中国
     共産党中央政治局拡大会議)で指導権を毛沢東
     に奪われた。
  そして、その毛沢東の中国共産党軍が、蒋介石の中国
 国民党軍に大敗して、その存亡が危ぶまれていて、延安
 という中国の奥地の奥地へ逃げ込んでいたその頃・・中
 国国民党の蒋介石は、抗日運動家を逮捕したりして居た。
  抗日する中国国民を捕まえていたのである。
  日本に迎合しようとする蒋介石だった。
  それは、日本に敵対すると中国沿岸部の経済建設が出
 来なくなると考えていたからだった。
  経済建設に「日本の力を借りたい」と考えていた。
  都市部に基盤を置く蒋介石・国民党は、この方針を重
 要と考えていた。
  そして、1936年12月12日、蒋介石が張学良に監禁され
 るという西安事件が起きる・・これが転換点だった。
  そして、中国共産党から「内戦停止」と「一致抗日」
 を迫られる。
  そして、その翌年の1937年9月に、第二次国共合作が成
 立する。
  日本との協調路線の流れが変わる西安事件だった。
  そして、1937年7月7日には、中国側の発砲で盧溝橋事
 件が起きている。
  この事件の時は、日本と国民党軍は戦戦を拡大させな
 い様にとの協定を結び、戦闘も収まっていた。
  しかし、1937年8月、上海で戦いが始まる。
  アメリカに武器を援助された蒋介石の大部隊が、上海
 の「イギリスの租界などもある国際租界」の中の日本租
 界に攻めてくる。
  そして、南京まで戦いは続いて行く。
  中国の泥沼の長い戦争が始まる。
  国際租界がある上海という地域は、世界の関心の集ま
 っていた地域だった。
  蒋介石は、その世界的な注目を集まる状況を利用しよ
 うとした。
  そして、日本を貶(おとし)めるプロパガンダを盛ん
 に行う。
  まったく関係のない中国共産党が(中国国民党が関係
 しているのに)、今・現在に至っても「起きてもいない
 南京事件をでっち上げてプロパガンダしている」。
  また、この当時、今・現在とは違う世界のつながりが
 あった・・ポイントは、イギリスがナンバーワンで、ア
 メリカが育って来ているという状況だった。
  日英と日米・・
  そのナンバーワンのイギリスと日本は日英同盟(1902
 年以来)の関係にあった。
  軍事力も強大化して来たアメリカは、イギリスという
 ナンバーワンの国を「乗り越えたいとする国」だった。
  1922年のワシントン会議(第一次世界大戦後の会議)
 で、アメリカは、この日英同盟の関係を潰したかった。
  そして、この会議で、日英同盟は廃棄させられた。
  日本にとって不利な状況となった。
  日本とイギリスの繋(つな)がりが無くなった。
  そしてまた、これは、これは、アメリカの「イギリス
 の力も削ぐという目的」でもあった(日本の力を削ぐと
 いう目的だけではなかった)
  日英が同盟してくっついていては、アメリカにとって
 都合のよくない不利な状態だった。
  大きな植民地の領土を持つイギリスは、何しろ強大で、
 大き過ぎた。
  イギリスは、この広がり過ぎたイギリス帝国の領土に
 ついて、日本を頼りにしていた。
  中国大陸において、イギリスは日本に統治を頼み、日
 本の軍事力に期待していた。
  そのような関係(日英同盟の関係が深化する関係)を
 アメリカは恐れていた。
  日本とイギリスは、まったく敵対する関係なんていう
 関係ではなかった。
  アメリカはこれを恐れ、ワシントン会議で日英同盟の
 解消に努めた。
  この後の歴史の流れは・・日英同盟が米英同盟の流れ
 になって行く。
  これが、アメリカの戦略だった。
  幕末から世界をリードして来ていたイギリスの国際社
 会が、アメリカの主導となって行く。
  アメリカの軍事力が、イギリスを凌駕(りょうが、他
 の者を越えてそれ以上になること)して行く。
  18世紀は、イギリスの植民地だったアメリカだった。
  それが、20世紀には、アメリカが、イギリスを軍事援
 助した。
  この様な歴史の変遷の中で、アメリカを仰ぎ見る様に
 なったイギリスは、1943年、次のような事を言う・・
  (イギリス首相のウィンストン・チャーチルの言葉)・・
  「イギリス政府は、同盟国(アメリカ)との協力は惜
 しまないが、イギリスの植民地統治はあくまでもイギリ
 ス政府がこれを維持する。
  植民地共同統治のごとき思想には、断じて賛成できな
 い」と。
  アメリカに、イギリスの植民地を盗み取られることを
 恐れたチャーチルの言葉だった。
  アメリカは、イギリスの植民地さえ得たいと思ってい
 た。
.
2008年、中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた。
  札幌医科大学の高田教授が、カザフスタンのデータと
 NEDIPS、RAPSの計算システムにより分析して、
 100万人以上の死傷者、被曝者がでたと推論した。
  (参考)NEDIPS:科学シミュレーション用のデ
     ータフロー計算機・・
      文献、特許などの情報をつなぐことで、異分
     野の知や意外な発見などを支援する新しいサー
     ビス
      データ・フロー・イメージ処理システム(NEDIPS)
     におけるSARデータ処理
  中国の行なう核実験の中でも、「地表核爆発」は、地
 表物質(砂礫など)と混合した核分裂生成核種が大量の
 砂塵となって、周辺および風下へ降下するため・・、
  空中核爆発と比べて核災害の範囲が大きくなる。
   (参考)核分裂生成核種:核分裂によってできた核
      種、またはそのような核種(核分裂片)から
      放射性の崩壊によってできた核種をいう。
  このような危険な実験を、中国は、ウイグル人の居住
 区で行った。
  また、実験場から1000キロ離れたカザフスタン、キル
 ギスタンでも、人体が影響される放射線量となっている。
  核実験は、1996年まで行われ、現在も、東トルキスタ
 ンの人々の健康被害と環境被害とは続いている。
.
2008年4月26日、北京五輪・聖火リレー中の長野県で、中国
 政府に動員された中国工作員や在日中国人留学生などの
 中国勢力が、中国政府による弾圧に抗議するチベットの
 方々へ暴力行為に及んだ。
  国際問題的であったので日本の警察などの公権力も控
 えめであったが、逮捕者も出た(但し、中国人に対して
 は逮捕をしなかった・・逮捕されたのは日本人だけ)。
  中国国旗が何本もはためく長野県の公道は、さも中国
 によって日本が占領された如くであった・・
  その様な中で行なわれたのが、中国勢力によるチベッ
 ト民族の方々への弾圧のごとくの行為で、今・現在、チ
 ベットで起きていることが日本でも起きている様だった。
  中国の公権力の者が私服を着て参加していたと言われ
 ている。
  この状況は、完全なる中国による日本の主権を侵害し
 ている行為だった。
  メディアの調査によると・・中国人参加者2000人とい
 う数字や・・、また、長野駅前だけでも1万人を超える数
 だったともいう。
  また、警察発表では4000人の中国人留学生が長野に集
 まったとされている。
  バスツアーで6万2千人の応募があって、ツアー個人旅
 行を含めて1万人が参加したとの推測もある。
  中国人学生だけでなく、明らかに中国マフィアと思わ
 れる風体の者もいたと言われる・・
  自動車から大きな中国国旗を何本もはためかせて、長
 野県の公道を疾走する中国人の姿・・
  日本を、さも従属国の如くの行為だった・・堂々とし
 た行動という声もあり・・まったく日本を馬鹿にした行
 動だった。
  また、道路交通法違反のハコ乗りで、長野県の公道を
 走り回る中国に、何もしない日本の警察に長野市民から
 の抗議の声が沸いた。
  (参考)ハコ乗り:走行中の乗用車の窓から身を乗り
     出すこと。
      道路交通法の違反行為。
      よく知られたな話として、鈴木宗男氏の箱乗
     り選挙運動が、一時期、問題とされ騒がれた。
  特に、長野駅周辺で危険行為を繰り返す中国人・・そ
 して、無視状態の日本の警察官の大群・・
  街頭で暴力を振るう中国人は、日本の警察官に制止を
 されても無視するという態度の中国人だった・・「日本
 の官憲なんて関係ない」という態度だった・・
  長野駅前のバスロータリーの・・街の中のその高台に、
 中国国旗を何本も立てて・・その何本も旗をはためかさ
 れるという状態は、日本が占領され、占領完了の様であ
 った・・武器こそ持っていないから良いようなものの、
 勝ち誇ったような中国人たちであった・・
  日本のバスなどの交通機関は最徐行・・長野の街には
 大声の中国語が響き、騒いでいた・・
  チベット国旗もはためくが、中国国旗に圧倒されてい
 た・・
  中国人だけが行なう暴力行為に、見ている日本人から
 は、「中国人は中国に帰れ」のシュプレヒコールが沸い
 た・・
  この騒ぎで日本側に19人の負傷者が出た・・
  長野県という日本の主権のある地で、白昼の街中で、
 堂々と中国人による不正(違法行為や暴行)が繰り返さ
 れていた。
  日本の官憲は何もしないで通してしまった・・
  常識ある日本の知識人たちは立ち上がった。
  その一人である「殴る・蹴るをされたジャーナリスト
 の水間正憲氏」は、その不正をテレビで説明した・・
  「フリー、チベット」と言っている人たちへ中国国旗
 で殴りかかって来る中国人・・
  また、直系5cmの金属棒で殴りかかって来る戦闘的な
 中国人・・
  中国のこの類を専門とする集団という風体だった・・
  この輩は、相手に抗議するという事なしに、いきなり
 襲い掛かって来る集団だった・・
  頭という急所を狙って殴りかかる行動だった・・
  頭部挫傷と首の頸椎捻挫の負傷者もいる・・もっとひ
 どく殴られた人も居るという状態・・
  https://www18.atwiki.jp/nihonnkiki/pages/28.html
  日本政府は、中国大使館が招集をかけ、旗や横断幕の
 準備をしたと確認している。
  ここで、優遇される留学生が問題となる・・
  2008年3月25日、参議院文教委員会で谷岡郁子議員が
 質疑した・・
  国費留学生の給付総額223億円
  大学院:17万円(月額、学部:13万4千円(月額)
  ※留学生の大半が中国人という状態
  さらなる優遇策は・・日本政府は、留学生に、この「
 奨学金(返還不要)」を与えている。
  長野の聖火リレーに集結し、この様な状況を起こした
 中国人留学生の多くも、この恩恵を受けているだろう。
  しかし、日本人学生には厳しい日本の政府で・・「奨
 学金」という名のローンを押しつけている。
  また、この事件で、旅行業免許がないのに「不特定多
 数」へ呼かびかける行為をした・・中国人留学生で組織
 する「全日本中国留学生学友会」(李光哲会長)が、26
 日に長野で行われる聖火リレーに向けて2000人を動員し
 て行う大規模ツアーが、旅行業法に抵触する可能性があ
 ることが分かった
  テレビ朝日 2008年4月24日(ワイドスクランブル)で、
 中国人の旅行業法違反の疑いについて報道された。
  NHK総合、2008年2月14日、スピルバーグ氏が、北京
 オリンピックの美術顧問を辞退した・・これに対して、
 中国は遺憾の意を示した。
  映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏が、中国の
 スーダンのダルフール紛争に対する姿勢に対して北京オ
 リンピック開会閉会式の美術顧問を辞退する声明を発表
 した。
  アルピニスト野口健氏は・・
http://megalodon.jp/2010-1010-1035-58/blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/51052593.html
  平成20年3月22日付の「チベット動乱~北京五輪出場へ
 の条件~」 「チョモランマは私にとっての聖地でもあり
 ます。 中国にとってタブー中のタブーであるチベット
 問題について発言を繰り返せば、二度とチベットに入れ
 なくなるかもしれない。
 すでにその手の忠告がないはずもない。ひょっとすると、
 もう二度とチョモランマに帰れないかもしれない。私の
 故郷が一つ奪われてしまうかもしれない。
  極めてデリケートなテーマだけに正直、発言に躊躇も
 したが、しかし、現場を知っている人間は逃げられない。
 そして、語らないことは加担する事と同じだ。
  確かに一登山家に出来る事は限られている。しかし、
 私にも何かが出来るはず。そうせめて声を上げ続けてい
 きたい」
  実際、これ以降、中国政府は、野口健氏へ入山許可を
 出さず、野口健氏を支えていたスポンサーが降りるとこ
 ろも現れた。
  しかし、野口健氏は臆することなく人権侵害への抗議
 の声を挙げ続けている。
  当日のテレビニュースや翌日の朝刊等には、日本側の
 負傷者のことは一切出なかった。
  それどころか、中国側にけが人が出たと伝えた。
  これは、中国が軽いケガでも救急車を呼び、日本側は
 簡単に救急車を呼んではいけないという良識が働いたと
 いう差が出た。
  日本側は、当日、長野中央警察署に2名が被害届を出し
 ているが、けが人の発表は、消防側にあるため日本人は
 ゼロとなった・・中国側の作戦勝ち。
  TBSの取材が来た・・チベットサポーターの1人が、
 「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナ
 ウンサーに聞いた。
  TBSアナウンサーは、「はっ?勝手に叫んでれば?」
 と吐き捨てて消えた。
  (参考)日中記者交換協定には、「日中双方の記者は
     駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を遵守
     する」、
      また、「駐在国が外国新聞記者に与えるのと
     同じ待遇を受けるものとする」。
      付属文書として、「日中両国は、政治の体制
     を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重
     して、相侵さないという原則を確認した」・・
     などとある。
  TBS、2008年4月13日、サンデーモーニングのコメン
 テイター浅井信雄氏の捏造と思われる発言・・
  「聖火リレーは大成功とイギリス新聞は報じた」と。
  (実際の大騒ぎの状況を口にしないで、実情がまった
 く伝わっていないコメント)
  浅井氏のコメントは・・
  「英紙タイムズは、聖火リレーは大成功と書いている。
 つまり、マスコミは騒ぎになったことを繰り返し報道す
 るが、全体としては成功と英国の一流紙が書いている」
 と、この様な発言をした・・
  しかし、実際は全く逆で・・
  以下のような英国各紙の報道となっていて、TBSの
 浅井氏はとんでもない嘘つきコメンテーターとなってい
 る。
  聖火リレーの妨害は「民主主義の勝利」と英各紙は好
 意的に報じた・・
  タイムズ(The Times)は、「中国は今回のデモで、五
 輪を自分たちの都合で捉えることは できないと気づいた
 はずだ」。
  「聖火リレーは、あらゆる権利を象徴するもので、中
 国の栄光を示すためのものではない」。
  「むしろ(ロンドンでの聖火リレーは)チベット問題
 への抗議を浮き彫りにしただけでなく、統制の及ばない
 不穏や混沌を内在するのが寛容な社会の本質だというこ
 とを示す機会となった」との評論を掲載した。
  しかし、日本のテレビの「日本テレビ」は・・、
  チベット人が、中国人にかまれたと言うと笑って去っ
 て・・流血したと騒ぐ中国人の主張を取材し、血をふき
 取ってティッシュを日本テレビのカメラに向け、「みな
 これ見てよ、中国人の血よ」と言う始末。
  NHKは、リレーの途中で妨害が相次いだと報道・・
 抗議ではないと報道した・・また、亡命チベット人をた
 だの台湾人と報道した。
  チベットからの亡命者であることを隠したNHKだっ
 た。
  また、中国人の日本人に対する暴力などは一切報道し
 ないNHKで・・中国寄りのNHKだった。
  日本政府の高村正彦外務大臣は・・、
  「中国人もチベット人も一人も逮捕されてないんです
 よ」と、何もなかったと言いたいような態度だった。
  また、テレビ朝日の報道ステーション(2008年4月18日)
 で・・高村正彦外務大臣は・・、
  「中国側は、アジアの中でチベット問題に注文を付け
 ているのは日本だけだ」と言って、事実と違う、中国寄
 りの代弁者の様な発言だった。
  長野県警は、中国人の暴力行為を多く見ていながら逮
 捕しようとまったくしなかった。
  それは、長野県警の警備の3000人を上回る中国人の数
 に対してその様な態度をとったのか?
  または、「中国国旗を掲げていると逮捕できない」と
 判断したのか?
  集団で暴行を加えていても、旗竿のアルミパイプで暴
 行していてもまったく逮捕せず・・
  日の丸を持っている日本人さえ旗を持っていると攻撃
 対象になった・・日本という国の中であるのに・・
  中国人は、大声で「中国は一つ」と叫んでいた・・そ
 して、「日本を潰せ」という声で叫んでいた・・
  日本人が抗議すると、その抗議された日本の警察官は
 「逮捕すると暴動になるから」と逮捕しない理由を言っ
 た・・だから、長野県警は「日本人だけを逮捕した」。
  中国政府、および、中国大使館は、日本の警察を褒め
 た・・
  日本のマスコミも中国にしばられていて・・、
  また、日本の警察も中国に縛られていて・・
  これが日本かというような・・日本が、中国にがんじ
 がらめにされている・・そして、正義が通らなくなって
 来ている・・
  この様な事が、日本の中心である東京で起きる可能性
 を日本は、この時、知った・・
  「外国人に参政権を与えよ」という陰謀の叫びもある
 日本となっている・・
  この時のこのような事態で、駐日の中国大使館には、
 このような力があることを知らしめ、長野で実証された・・
  青山繁晴氏は、この重大性を知っていて・・「長野聖
 火リレー」と呼ばずに、『長野事件』と呼ぶべきだと言
 った・・「これは事件」という認識・・
  2020年の東京オリンピックの時も、この様な事は起こ
 るだろうと予測される・・
  より発展した形で起きる可能性が大きい・・
  テロ事件が併発することが恐れられている・・
  「暴行を堂々としている中国人を逮捕しなかった長野
 県警」は、悪い先例・先行事例を与えてしまった。
  国家が持っている主権、その主権を行使する警察が、
 怖気(おじけ)づいたという事例となってしまった。
  中国の毒餃子事件の時も、苦しんでいる被害者が居る
 のに・・福田総理は、「中国は前向きにやっているのだ」
 とおべっか発言をした・・この様な日本となっている。
  それに対して、怒りの声を発した大臣・議員・官僚は
 わずかだった・・
  中国の属国化している日本が・・そこにある・・
  逆に、日本の警察は、チベット支援者の行動を法的な
 根拠がないのに制限する行為に出た。
  そして、逆に、同じことを、「中国人たちに許した」
 という筋の通らないことをした・・
  それを指摘する日本人に対し「無視する警察だった」。
  「明らかに、中国人を優先する警察」に怒りの声を上
 げて抗議する日本人たちだった。
  しかし、逆に、その日本人に対して、「脅したりする
 警察」だった。
  自動車から身を乗り出して中国国旗を掲げて走る違反
 行為に何もしない日本の警察だった。
  日本の警察官が、この明らかな道交法違反行為に、「
 何の違反をしているの?」ととぼける始末・・
  中国人も、日本の警察を馬鹿にして、無視し、制止も
 何もあったもんじゃない状態・・
  チベット国旗を掲げただけのオートバイ運転手には国
 旗を降ろすようにと言う警察・・
  中国へのゴマすり警察の姿・・
  式典会場の隅に追いやられたチベット支持者たち・・
 式典が見られないという状況・・
  移動したいと言うと「移動許可」は出してないと言う・・
  中国人たちは、式典会場のそばに陣取っているという
 異常さがあった・・
  日本の警察は、「何があっても中国人を逮捕しない」
 という怪しい話が事前に知られていた模様・・
.
2017年、インドには、今でもインドの土地を所有するイギ
 リス人が居る・・
  植民地時代からの収奪者となっている。
  昔、インドの方々を虐(しいた)げ尽くしたイギリス・・
  このイギリス人が・・こんな昔から・・今も・・大き
 な茶園を経営し、所有する大地主におさまって居る(名
 義上での大地主で経営者・・利益収奪者)。
  インドの方々は、皆、お茶を飲む習慣を付けられ、こ
 のイギリス人ブルジョアのフトコロが潤っている。
  そして、このブルジョアイギリス人は、イギリスのグ
 ラスゴーの豪邸に住んでいる。
  インドに住みもしないイギリス人が、金だけはインド
 から巻き上げている。
  遠い昔から、インドの方々のものであるものを収奪し
 て、今なお利益を収奪するイギリス。
  この様な外国人所有の土地には、目から火が出るほど
 の税金をかければ良いのに・・、
  日本も、北海道や沖縄などに・・いざという時に拠点
 にしようとする土地が外国人に買われている・・特に中
 国・・この様な土地には・・べらぼうな税金を掛けよ!
.
2018年、日本政府へのお願い文
  題:アイヌは先住民ではありません。
    決議のお願い・・
.
  拝啓
  御公務、ありがとうございます。
  アイヌは先住民ではありません。
  種々の歴史的史実が示す様に・・少し、歴史を調べた
 だけでもその事実が判明します。
  しかし、キリスト教が支援したりして、国連機関など
 はプロパガンダされて、間違った認識を持っています。
  その間違ったアイヌへの認識を持つ国連機関の日本へ
 の働きかけから、日本はその対処に明確な態度を避け、
 不明確な決議などをしております。
  ここで、明確に、「『アイヌは先住民ではない』とい
 う決議」をして戴きたい。
  お願い申し上げます。      敬具
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive  


2018年11月15日

(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

題:(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月14日、日本領の尖閣諸島を編入した。
  尖閣諸島は、閣議決定で沖縄県に編入された日本固有
 の領土で、周辺海域に石油資源などが埋蔵されている可
 能性が指摘された1970年代になって、急に、中国が領有
 権を主張するようになった・・主張すればいいというな
 ら誰でも何でも言える・・この逆のことだって言える。
  古来から日本領だった尖閣諸島は、現在、日本が有効
 に支配しており、領土問題は存在していない。
.
1895年1月15日、有栖川宮熾仁親王が薨去、61才。
  有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんの
 う、1835年2月19日~1895年1月15日)有栖川宮9代親王。
  有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。
  1851年(嘉永4年)(16歳)仁孝天皇皇女・和宮親子内
   親王と婚約したが、和宮内親王が将軍・徳川家茂に
   降嫁のため沙汰止みとなった。
  1858年(23歳)日米修好通商条約の調印に反対して尊
   王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持し主張した・・
  1864年(29歳)国事御用掛に任ぜられたが・・攘夷(じ
   ょうい)論を主張・・以来国事に奔走。
  1864年8月26日(29歳)禁門の変で長州藩士に荷担した
   ゆえをもって謹慎を命ぜられた。
   この後、国事御用掛を罷免され謹慎の身となる朝譴
    (ちょうけん、おとがめ) を受けた・・が・・、
  1867年12月(32歳)王政復古とともに新政府の総裁職
   に就任した。
  1868年1月27日(33歳)鳥羽・伏見の戦い(~1868年1
   月30日)・・
  1868年2月(33歳)戊辰戦争では、征東大総督として官
   軍を率いて東下、江戸に入り・・鎮定に功を立てた。
   のち兵部卿、福岡藩知事、元老院議長・参謀総長等
   を歴任した。
  1877年(42歳)西南戦争では征討総督となり、
   戦後、陸軍大将となる。
  1889年(54歳)参謀総長に進み、
  1894年7月25日(59歳)日清戦争(1895年4月17日)に
   は広島大本営に軍務をとったが・・、
  1895年(61歳)病を得て没した。
   陵墓は東京都文京区大塚5丁目豊島岡墓地。
.
1895年1月15日、播但鉄道(ばんたんてつどう)の寺前駅~
 長谷駅間が開通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)
  播但線の大部分が私設鉄道だった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れた。
  山陽鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
  1876年、現在の姫路市飾磨と生野銀山の間には生野鉱
   山寮馬車道が整備された。
  1887年、内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄
   道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、「生野ヨリ(中略)
   飾磨港ニ達スル」経路で鉱山と港を連絡する意図で
   将来は蒸気鉄道にする計画だった。
.
1895年1月16日、ハワイ人王政派が武装蜂起した
  アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住
 し、ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起
 した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた。
  この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が
 逮捕され・・幽閉された。
  原住民の大虐殺の後、ハワイを完全に乗っ取った。
  1865年5月9日、アメリカで南北戦争が終わる布告が出
 された。
  この南北戦争が終わった頃から、アメリカ本土では肉
 や砂糖価格が急騰した。
  このためサトウキビの栽培に適したアメリカ周辺の島
 がアメリカの餌食となる。
  アメリカの砂糖商人たちは、襲いかかるようにその島々
 の土地を買った。
  そして、すさまじい勢いで開発されていった。
  1860年代で、アメリカの白人たちは、すでにハワイ全
 土の4分の3の土地を取得した。
  そして、その土地をサトウキビのプランテーションに
 して行った。
  南のキューバ島と、西のハワイ島が欲しいアメリカ。
  その島々が餌食となり、砂糖商人たちの儲けの金庫と
 なった。
  今(2018年)、日本の北海道が同様に中国に買われて
 いる。
.
1895年1月20日、日本軍が、山東半島に上陸した。
  清国艦隊の北洋艦隊の拠点である威海衛の攻撃を行う
 ために海から山東半島へ進み、栄城湾からの上陸を行っ
 た。
  軍艦からボートに乗り換えて上陸を行った。
  この作戦が行われる2日前の1月18日に、連合艦隊司令
 長官の伊東祐亨海軍中将が本国の大本営に送った電文で
 は・・
  「翌日(1895年1月19日))の午後1時に、陸軍の運送
 船を護送して栄城湾に向かって出発する」ことが伝えら
 れている。
  また、作戦が行われた4日後の1895年1月24日の大本営
 が陸軍次官の児玉源太郎陸軍少将へ送った電文では・・、
  栄城湾からの山東半島上陸作戦に参加した薩摩丸から
 の報告内容として・・この作戦において、陸軍部隊の揚
 陸に先行して、海軍の陸戦隊が上陸したことや・・、
  この時に清国軍からの攻撃があったこと、戦闘の後に、
 順次運送船が到着し、陸軍部隊の揚陸が進められたこと
 が伝えられている。
.
1895年1月22日、ハワイ王国が滅亡した。
  リリウオカラニ女王が廃位させられて、ハワイ王国が
 滅亡した。
.
1895年1月28日、九州鉄道の川尻駅~松橋駅間が開通した。
  その後、熊本方面と天草・島原との連絡のために、1899
 年12月25日に、宇土駅から三角駅までが開通して、宇土
 駅が分岐駅となった。
.
1895年1月28日、関西鉄道の柘植駅~奈良駅間の建設免許状
 が下付された。
  奈良鉄道によって京都駅~木津駅~奈良駅間が開通し
 た。
  関西鉄道奈良線と名付けられているが全区間が京都府
 内にある。
.
1895年1月29日、高等女学校規程が公布された。
  文部省令第一号 (明治28年文部省令第1号)
  高等女学校規程ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十八年一月二十九日文部大臣 侯爵西園寺公望
  高等女学校規程
  第一条 高等女学校ノ学科目ハ修身、国語、外国語、
      歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、
      図画、音楽、体操トス又随意科目トシテ教育、
      漢文、手芸ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルコ
      トヲ得
      外国語、図画、音楽ハ府県立学校ニ就キテハ
      文部大臣ノ許可ヲ受ケ其ノ他ノ学校ニ就キテ
      ハ地方長官ノ許可ヲ受ケテ之ヲ欠クコトヲ得
      又生徒ノ志望ニ依リ之ヲ課セサルコトヲ得
  第二条 高等女学校ノ修業年限ハ六箇年トス但土地ノ
      情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
  第三条 高等女学校ノ第一年級ニ入ルヘキ者ハ修業年
      限四箇年ノ尋常小学校ノ卒業生若クハ之ト同
      等ノ学力ヲ有スル者トス (以下略)
.
1895年1月31日、京都で、わが国最初の路面電車が開業した
 (電気鉄道のはじめ)(2月1日説あり)
  京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)~伏
 見下油掛(京橋)間を開業した。
  当初は、停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗
 降扱いを行なった。
  この市街路面電車の歴史は、1978年9月30日(昭和53年)
 までの83年間だった。
  民営の京都電気鉄道会社(京電・きょうでん)が、東洞
 院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停
 車場(しちじょうていしゃじょう、京都駅)と伏見町(ふし
 みちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始し、当
 時、先走りの少年が居た。
  開業の6か月後の1895年8月、雑踏や街角、そして、橋
 上では、電車の先五間(約9メートル)以内を先行して、昼
 は旗、夜は提灯をもち、「電車がきまっせえ。あぶのお
 っせえ」と叫びながら、線路を走る告知人がいた。
  告知人は、12歳から15歳の少年で、先走りと呼ばれた。
  この告知人制度は、府令第六十七号電気鉄道取締規制
 によるもので・・
  仕事は、危険な上に、汗とほこりにまみれての重労働
 で、少年が電車にひかれる事故が相次いだ。
  そのため、告知人制度は廃止に至った。
  また、動力の電気は、琵琶湖疏水(びわこそすい)の水
 力発電によって電力が供給されていた。
  そのため、疏水の流れが止まると、京電も休業となっ
 た・・疏水止まれば電車も止まる・・
  この京都の路面電車(京電)は、1912年6月、京都市営
 電車の営業が開始され、激しい客取り合戦が繰り広げら
 れる様になった。
  1918年7月(大正7年)京都市が京電を買収し、競合区
 間の路線が統一された。
  そして、大正中期から昭和初期まで、市電の黄金時代
 が続いた。
  そして、また、1959年~1964年から、市電と競合する
 市バスや会社バスが増加した。
  更に、自動車も多くなりはじめ、路線の自由がきかな
 い市電の経営は行き詰まりを見せた。
  1970年3月31日、日本最古の路面電車路線だった伏見線
 (塩小路高倉・しおこうじたかくら)と中書島・ちゅうし
 ょじま)間と、稲荷線(勧進橋・かんじんばし)と稲荷間
 が廃止されたのを皮切りに・・路線が次々と廃止され・・
  1978)年9月30日、残る外郭線(北大路・西大路・九条・
 東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止された。
.
1895年1月、博文館が「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」
 を創刊。
  太陽は月刊の総合雑誌で、定価15銭だった。
  内容は、論説、史伝、地理、小説、雑録のほか、政治、
 法律、文学、科学、商業、農業、社会など・・
  執筆陣は各分野の知名人を網羅した。
  「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負
 けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を
 発表し、その翌月「太陽」を創刊した。
  太陽の名が示す様に「国運隆昌(りゅうしょう)」を表
 わし、「公平不偏を以(もっ)て立つ」とした。
  しかし、大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、対応し
 きれず、「中央公論」などにその地位を奪われて、廃刊
 に追い込まれた。
  文学作品は・・、
  斎藤緑雨:『雨蛙』(1895.5)樋口一葉:『ゆく雲』
 (1897.5)泉鏡花:『海城発電』(1896.1)斎藤緑雨:
 『おぼえ帳』(1897.4 - 12)二葉亭四迷訳:ツルゲネフ
 の『うき草』(1897.5)広津柳浪:『畜生腹』(1897.10)
 国木田独歩:『郊外』(1900.10)泉鏡花:『鷺の灯』
 (1903.9)正宗白鳥訳:チェーホフの『不運くらべ』
 (1904.6)永井荷風:『酔美人』(1905.6)、『夜半の
 酒場』(1906.12)、『旧恨』(1907.1)、『春と秋』
 (1907.10)、田山花袋:『少女病』(1907.5)永井荷風:
 『カルチェー、ラタンの一夜』(1909.1)(『おもかげ』
 と改題し『ふらんす物語』に収録)正宗白鳥:玉突屋
 (1908.4)森鴎外訳:リルケの『家常茶飯』(1909.10)
 久保田万太郎:『雪』(1912.5)・・など
.
  (今日の言葉)
.
  題:北海道には大変多くの縄文遺跡がある(紀元前3200年)
    それから4400年の後に、アイヌ文化は作られた(1200年頃)
    当然、アイヌは先住民族ではない。
.
紀元前3200年、北海道には大変多くの縄文遺跡がある。
  その一つ・・大船遺跡(函館市)
  太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代前期後
 半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)の大
 規模な集落遺跡で・・、
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛
 土遺構があり・・、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群
 が確認されている。
  北海道や北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道および北東北に位置し、縄文時代の各時
 期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)における、
 人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺
 跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、
 周堤墓)で構成された17遺跡からなる考古学的遺跡群であ
 る。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くあり・・、
  縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺物が数多
 く発掘されている。
  それらは、長く北海道で生きて来た縄文人の生活を彷
 彿(ほうふつ)とさせる。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚(伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚(洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡(青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
   9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚(七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石(鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚(青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
      ・
      ・
      ・
      ・
1200年頃、アイヌ文化が作られた。
  アイヌ文化が、今から800年ほど前(1200年頃、本州は
 鎌倉時代)に成立した。
  この文化は、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、
 さらに、本州やサハリン以北の地域の人々との交流で形
 作られた。
  (参考)擦文文化:北海道、東北地方北部に分布し、
     北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器
     (はじき)を伴う文化が接触してできた。
      アイヌ文化に先行する文化。
      おもな生業(なりわい)は漁労で、方形の竪
     穴住居にはかまどがあり、粟、ひえ、そばなど
     が出土する。
  (参考)続縄文文化:北海道、東北地方北部の弥生・
     古墳文化に並行する時代の文化。  
      寒冷の為、稲作は行わなかった。
      石器、骨角器を利用する縄文土器の影響を強
     く残す狩猟、漁労の文化。
  中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から
 450年前)のアイヌ文化の遺跡は、上ノ国町や松前町など
 の道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されて
 いる。
.
1599年、北海道の松前藩は、豊臣秀吉に直接臣従していた。
  しかし、1599年のこの年、徳川家康に服して蝦夷地の
 支配権を認められた。
  始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏、若狭武田氏の
 子孫)で、上国守護に任ぜられ、北海道の渡島半島に地
 位を築く。
  (参考)渡島半島:おしまはんとう、北海道南西部に
     ある半島。
  アイヌの首長のチコモタインやハシタインとも和睦し、
 豊臣秀吉に直接臣従した。
  1599年には、徳川家康に服して蝦夷地の支配権を認め
 られ・・、
  また、徳川家康は、蝦夷地の交易独占権を認めた。
  アイヌの人々も、この松前藩だけとの交易だけではな
 く、本州に出かけて交易を普通に行っていた。
  5代将軍・徳川綱吉(在任、1860年~1709年)の時、旗
 本待遇となる。
  1719年、1万石格の大名に列席する。
  江戸時代の1833年までには、松前は、人口が1万人を超
 える都市となっていて、繁栄した。
.
1673年、北海道の江差に檜山奉行を置いた。
  檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯
 であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜
 山とされた。
  檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し・・、
  1673年2月に、樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また、野
 火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた。
  また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物とし
 て活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩か
 らも山師が訪れるようになった。
  こうした山師による伐採の運上金は、松前藩の財政の
 一端を担った。
  しかし、1695年4月、檜山で山火事が発生し、過半数の
 樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を
 請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、
 池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけ
 るエゾマツの伐採が許可された。
  山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下
 って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその
 材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。
.
1756年、弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁
 業に従事していたアイヌに対し、同化政策を実施した。
  以後、本州からアイヌ文化が急速に失われた。
  (参考)乳井貢:にゅういみつぎ、1712年~1792年。
      陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩(青森県)藩士。
      1753年、勘定奉行となり、貸借証文の破棄、
     貯米の実行など藩の財政再建につとめる。
      宝暦5年の大飢饉の際は、果敢に対応して領内
     から餓死者を出さなかった。
      和算、儒学、農学など諸学に通じた。
      著作に「志学幼弁」「初学算法」など。
.
18世紀後半、マレーシアが、イギリスの侵略に屈服し、直
 接統治される。
  さかのぼること15世紀、マレーシアのマラッカ王国が、
 ポルトガルに屈服して支配されていた。
  17世紀には、今度は、オランダの支配を受けた。
  18世紀後半に入るとイギリスが侵略し・・、
  イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡
 植民地として一帯を直接統治した・・、
  さらに、北ボルネオ・マライ半島へも侵略して支配し、
 イギリス植民地は強化された・・
  1895年、マライ連邦となる。
.
19世紀、タイが、イギリスに侵略され、また、フランスに
 も侵略される。
  13世紀のタイは、最初、スコータイ王朝が、民族統一
 国家をつくった。
  14世紀からは、アユタヤ王朝となり400年間続いた。
  1782年、今日のバンコク王朝が創設された。
  19世紀~20世紀、イギリスとフランスからの侵略を受
 けた。
  そして、ラオス・カンボジア・マレーにある領土を取
 られた。
  しかし、インドシナ半島のイギリス・フランス両国の
 緩衝国家として独立は保った。
.
1868年~1869年、亘理伊達氏(わたりだてし)が北海道へ
 移住した。
  陸奥国伊達郡(宮城県亘理郡亘理町)が出身地・・、
  1603年2月、亘理郡亘理城主になったのが始まり・・、  
  江戸時代には、2万4000石以上を領した。
  しかし、第14代当主の時、戊辰戦争に敗れ(1868年~
 1869年)所領を100分の1に減封された。
  数百名の家臣と共に北海道伊達市に移住し・・、
  家臣と共に伊達市を開拓した。
  1892年、その功が認められ、男爵位を授けられた。
  亘理伊達家の北海道への開拓移住に際して、アイヌの
 人々の手助けがあった・・あい和した開拓だった。
  当主であった伊達邦成は、家臣たちに対して、「アイ
 ヌの人々を尊重すべき」の内容の規則を作ったりて、尊
 重し、良好な関係を築いていた。
.
1875年5月7日、樺太・千島交換条約の後、物資の補給と防
 衛上の理由から、千島のアイヌの方々は、そのほとんど
 が当地を領有して領土だった日本政府によって、日本領・
 色丹島(しゃこたんとう、今・現在、ロシアが不法占拠
 している、また、日本領・千島も不法占拠している)へ
 移住して、安全に守られた。
.
1899年、清水港が開港した。
  「お茶場唄」あるいは「お茶場節」と呼ばれる古謡が
 ある。
  これは、横浜から盛んに日本茶が輸出されていた19世
 紀後半に誕生した。
  しかし、1899年に、全国最大の茶の産地の静岡県の清
 水港が開港して、横浜の製茶貿易が衰微した。
  しかし、歌は、その後も、長く歌い継がれた。
.
1937年12月、この時、南京事件が起きたとされている。
  中国は、南京事件の主張において殺された人数をだん
 だん増やしてきた。
  世界へ、日本を貶(おとし)めるために言う人数は、
 より多い方が都合が良いとして増やし、とうとう30万人
 だと言い出した。
  南京に居る人数より多い人数を言い出したので、中国
 は、「当時、南京には50万人が居た」と言い出した。
  そして、「30万人が殺されたので20万人になってしま
 った」と言った。
  まったく馬鹿々々しい言い方をする中国で、この様な
 言い方で思い出すのが「小学校の算数の問題」。
  これは、半分、笑い話なのだが・・、
  「木に鳥が10匹、とまっていました。狩人が1匹、撃ち
 落としました。残りは何匹ですか?」という問題で・・、
  算数の問題として答えるならば、10-1=9で9匹と答え
 るところを、ある子供が0と答えた。
  残りの鳥は、銃声で「すべて逃げた」と答えた・・と
 いう話である。
  つまり、中国の作り話も、これで・・、
  南京に50万人の人が居ました・・この人たちよりはる
 かに少人数の日本兵に・・木の鳥のように逃げもしない
 で、30万人が殺された・・だから、南京の人たちが20万
 人になってしまいました・・と、中国は馬鹿々々しいプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  まったく馬鹿々々しい中国のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  そして、中国のおかしな所は、当時の南京の自治委員
 会の記録を秘密にしている。
  この資料や記録を見れば、当時の南京に居た人数が分
 かるが、中国は公開しない。
  中国という国は、今まで公開していた資料でも、都合
 の悪い所が出て来ると非公開にしてしまう。
  そのような卑怯な卑劣な国である。
  まったく信用の出来ないアン・フェア(不公正)な国
 である。
  そして、最近は、私的な会話や、インターネット上で、
 中国の研究者の中に「南京の大虐殺は事実でない」とい
 う人が出て来ている。
  「南京事件は事実ではないので、その様なことを言い
 つのるのは日中友好にマイナスになる」と言う人が出て
 来ている。
  しかし、世界は、中国が必死にプロパガンダすること
 が事実だと思っている。
  英語版で出版された「ザ・レイプ・オブ・ナンキン(
 アイリス・チャン著)」などを事実と思われされている。
  特に、アメリカでは、このプロパガンダ本が真実と思
 い込まされている。
  この本の嘘が日本の研究者によって「嘘であると立証
 されている」。
  日本の研究者によって真実が示されている。
  日本の研究者は、一つ一つその真実を発掘して行った。
  今、世界は、中国が、この様な嘘行為をする、「嘘の
 プロパガンダばかりする国だ」と知り始めている。
.
1941年12月8日、大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まり、
 東亜(とうあ)永遠の平和を確立を期す(きす、心に誓
 う)
  太平洋戦争開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
.
  天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇
 ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
  朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全
 力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ
  勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆
 一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ
  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定
 ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル
  皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措
 カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ
  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナ
 リ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル
  洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國
 政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ
  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラ
 シメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ
  帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶
 ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ
  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ
 禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
  逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ
 增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナ
 ル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
  セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ
 精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
  益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメ
 ムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
  帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危
 殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇
 宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ
  遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確
 立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
  御 名 御 璽
   平成十六年十二月八日
 ・・現代語、読み下し文・・
  天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ば
 んせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日
 本帝国天皇は、昭(あきらか)に 忠誠(ちゅうせい)勇
 武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に
 示(しめ)す。
  朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対
 して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海
 将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って
 交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆ
 うし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、
 朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)
 其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一
 心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せい
 せん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんこと
 を期(き)せよ。
  抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(か
 くほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕
 顕(ひけん、大いに明らかなこと)なる皇祖考(こうそ
 こう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述
 (さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう、遠い将来まで考え
 たこと)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)
 かざる所(ところ)。
  而(しか)して列国との交誼(こうぎ、心が通い合っ
 た交際)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょう
 えい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(
 これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ、重要な
 意義)と為(な)す所(ところ)なり。
  今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開く
 に至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)
 ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざ
 し)ならんや。
  中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)
 せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和
 を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(
 かんか、武器一般)を執(と)るに至(いた)らしめ、
 茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国
 民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜん
 りん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけ
 い)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残
 存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん、援助)
 を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(い
 ま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)
 めず。
  米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の
 禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(
 びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)
 の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あ
 まつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺
 に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、
 更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)
 を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(
 せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。
  朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡
 (うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しき
 に弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう、きわめてわずか)
 も交譲(こうじょう、譲り合う)の精神なく、徒(いた
 づら)に時局の解決を遷延(せんえん、はかどらぜず伸
 ばす)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(
 ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、
 以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。
  斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東
 亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)
 の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、
 帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きた
 い)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)
 に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、
 蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうが
 い)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。
  皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上
 (かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、
 有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に
 信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かい
 こう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せ
 んじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以
 って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
  天皇の署名と印
   昭和十六年十二月八日
.
1945年7月12日、日本の交信を完全に傍受していたアメリカ、
 また、暗号を完全に解読していたアメリカ。
  その様な中で、1945年7月12日午後8時50分、日本の外
 相は、モスクワの駐ソ大使あてへ至急電報を打った。
  「ソ連へ依頼している『停戦への仲介』に対して何の
 反応も無いこと、天皇陛下が犠牲者の増加について御心
 配をなされ、早急な停戦を望まれて居られること」、
  そして・・、
 「大東亜戦争(第二次世界大戦)で、米英があくまで無
 条件降伏を主張する限り、我が国の名誉と生残(せいざ
 ん、生き残り)をかけて最後まで戦うしかない。
  だが、天皇陛下は、人類の幸福を思う気持ちを伝える
 ために近衛文麿公を特使としてソ連に派遣する事をお決
 めになった」。
  この時、アメリカのルーズベルト大統領が行なったソ
 連への対日本参戦をそそのかす行動、また、煽る行動・・
  『日本の領土(南樺太、千島列島、満州、北方4島)を
 盗ってしまえば・・」と、
  そして、「旅順や大連をソ連の不凍港にしたら・・」
 という誘い・・アメリカのルーズベルトのそそのかしに
 完全に乗っかっているソ連だった。
  その様なソ連には・・、「日本とアメリカの間で仲介
 をしようという気持ちは、まったく無かった」。
  日本の領土を手に入れたいというソ連が、そこに居た。
  「私は、戦争を作った」と言ったアメリカのルーズベ
 ルト大統領の、更なる罪だった。
  この後の日本の外相と、ソ連大使(佐藤大使〉との交
 信は、さすがに佐藤大使の「ソ連の見方は、正しく」て、
 その後の長い交信(2時間30分におよぶ駐モスクワ日本大
 使館と日本本国との交信)において、ソ連の対日本への
 参戦の可能性が高いことを指摘していた。
  ソ連の仲介は不可解とまで言っていた。
  ルーズベルトの不埒な言葉が完全に効(き)いていた。
  今だに、戦後70年以上経過した2018年でも、この問題
 が解決できなくて、もめている。
  卑劣な米ソだった。
  日本の「なりふり構わない仲介の要請」を体よくあし
 らい、また、無視し続けたソ連と、頭を地に付けんばか
 りの日本の仲介要請が良い展開へ動かず、膠着状況にあ
 った・・それが作戦で、引っ掛けであった。
  戦場は、戦争の終末期であり、毎日、多くの人々が亡
 くなる状況であった
  そして、日本の必死の米英との和平停戦仲介の外交努
 力・・そして、その結果において、最後に、ソ連から言
 われた事は・・、
  「ソ連政府は、明日、8月9日、日本に対し戦争状態に
 入る」。
  「ご了承ください」・・だった。
  日本の佐藤大使は、ソ連外相のモロトフから、無表情
 に・・そのことを言われた。
.
2009年12月、「アイヌの方々は先住民族ではない」が、キ
 リスト教の支援を受けて、アイヌ民族を先住民とする運
 動が行われている。
  2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団
 体・個人署名の要請」が行われた。
  また、中国は、自国の民族弾圧問題(チベット民族問
 題、ウイグル民族問題、内モンゴル民族問題など)もあ
 って、「日本にも民族問題があるとしたい」として、こ
 のアイヌの方々の先住民とする運動の陰で暗躍している。
  日本には、4万年以上の5万年前から、アフリカの地を
 発したホモ・サピエンスの先住民が、日本の地へ、あち
 こちから移住して来ていた。
  北方から・・南方から・・海からと、あらゆる方向か
 ら移住して来ていた。
  今、紀元2018年であるが、その20倍から25倍の長い長
 い遠い昔からの期間、アフリカの地から日本へ来たホモ・
 サピエンスが移動して来たが・・その様に、日本に来た
 先住民たちは、日本中を歩き回っていた・・そして、通
 婚し、交雑し、その長い長い期間の間、日本人が形成さ
 れて来た・・それは、アイヌではないのは明白・・アフ
 リカからのその到達した人種がアイヌであるはずがない。
  今まで・・、
  2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利
 に関する国際連合宣言を踏まえて・・、
  2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを
 政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決さ
 れたが・・
  (あくまで「求める決議」で、「認めた」ということ
 ではない・・当然)
  しかし、北海道アイヌ協会が、北海道の区域外に居住
 するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合
 せに基づき活動している。
  その際、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料と
 している・・また・・
  2008年5月12日に、鈴木宗男が国会に提出した「先住民
 族の定義、及び、アイヌ民族の先住民族としての権利確
 立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に
 対し、
  2008年5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわ
 ゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分
 け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、
 独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持してい
 ること等から、少数民族であると認識している」と答弁
 している。
  (ただし「先住民族」との認識ではない)
  2008年6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民
 族を先住民族とすることを求める決議」がなされた。
  (ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)
  また、法的にも・・
  1997年、アイヌ文化振興法施行によって、北海道旧土
 人保護法は廃止された。
  しかし、このアイヌ文化振興法では、アイヌを先住民
 族と認定されなかった。
  また、アイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の
 返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われた
 が、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
.
2018年10月28日、世界は、だんだん中国化するのか?
  この日の日付けの読売新聞に・・表題:「終わり見え
 ぬ『忍耐宣言』」として・・現在の台湾の苦悩がしめさ
 れていた・・以下、抜書き・・
  台湾の蔡英文総統が、10日の「双十節」(建国記念日
 に相当)に行った演説は、過去2回とはやや趣が違ってい
 た。
  中国の圧力による危機感をあらわにしていた。
  台湾は、今後も対立をエスカレートさせないし、圧力
 にも屈しないという決意だった。
  蔡英文総統は、2016年の総統選で「現状維持」を掲げ
 て、中国に急接近した国民党に圧勝した。
  この2年余り、中国は対話に応じず、統一への動きを強
 めた。
  台湾を5か国との断交に追い込んだ・・そして、台湾周
 辺で軍事訓練を繰り返し、中国に住む台湾人を社会保障
 などで中国人と同等に扱う政策も発表した。
  台湾では、「現状」が次々崩されても有効な手だてが
 打てない蔡政権への不満が広がっている。
  特に、民進党の支持基盤である独立派の失望は深く、
 抗議集会が開かれた。
  トランプ米政権は、台湾との関係強化に積極的だが、
 米国の基本政策は変わっていない。
  台湾が独立に向かい、中国との間で緊張が高まること
 は望んでいない。
  過去、2000年の台湾政権は独立に傾斜し、米国に失望
 され、国際的な孤立に陥った。
  問題は、台湾がいつまで耐えられるか、ということ。
  蔡政権の求心力が回復する兆しは見えない。
  2020年の総統選では、中台関係が最大の争点になる。
  中国は、今後も圧力をかけ、揺さぶり続けるだろう。
  残された時間は、決して長くはない。
.
2018年、ドイツは、第二次大戦の時、国民の半分がナチス
 党員だった。
  このナチス党員たちが、組織的にユダヤ人の方々を強
 制収容叙へ送った。
  ユダヤ人の方々のホロコースト(大虐殺)は、この様
 にして行われた。
  しかし、戦争が集結し、戦争の幕が下ろされても、こ
 のナチス党員たちの犯罪は問われることが無く、目がつ
 むられた。
  巨大な犯罪行為が厳然と存在しているが、罪を問う行
 為は行なわれること無く今日まで来ている。
  そして、ドイツでは、「ナチスが悪かったからだ」の
 大合唱をしている。
  「あなたたちが、ナチス党員だったのですよ」と、世
 界は言うだろう。
  本当に、この罪を逃れたナチス党員たちは、反省をし
 ているのだろうか?
  「あくまでもナチスの罪を問う」としたドイツは、都
 合のよいナチス党員たちだけの罪を追求する行為だけで
 済ませて来ている。
.
2018年、世界の脅威となっている中国
  戦後、中国で偶像的に崇拝され、今は廃(すた)れて
 いる毛沢東・・
  その毛沢東が、「日本資本の中国進出」に感謝した。
  その様な言葉を、訪中した日本の議員団に言った。
  また、毛沢東は、「日本の軍が中国へ行ったことさえ
 感謝した」。
  その様な日本の行動の結果で、今の中国があり、毛沢
 東の地位があるということを感じ、感謝した意思表示だ
 った。
  しかし、ソビエトのコミンテルンが、アメリカなどで
 暗躍し、様々なスパイ活動や謀略工作が功を奏し、美し
 く手を握った米ソの「ヤルタ・ポツダム体制」。
  (参考)ヤルタ・ポツダム体制:戦後(第二次世界大
     戦後)の世界秩序(戦後レジーム)を言い、Y
     P体制とも言う。
      戦後の世界秩序は、いわゆる「ヤルタ会談」
     によって決定づけられ、東西冷戦の対立構造で、
     米ソ二大国による覇権体制ができた。
      これによって、各民族が当然に持つべき権利
     である民族自決の権利が侵害される。
  しかし、その「米ソ同盟」が形成されるかに見えたの
 も『一瞬のあだ花だった』。
  戦争も終わらないうちに、アメリカの次なる敵として
 のソビエト連邦が見えて来た。
  そのソ連を威嚇するために、日本は、アメリカによっ
 て、二発の原爆を投下された。
  また、標記の毛沢東の日本への感謝の言葉の如く、中
 国共産党の対日工作も、功を奏し、毛沢東の感謝の言葉
 となった。
  そして、ソ連は、1970年代には「軍拡に邁進した」。
  そして、近年、そのソ連の軍拡と同じ行動をする中国
 の姿となった。
  中国の膨大な軍事費は、年々増加し、台湾や東シナ海
 への領土拡大に邁進している。
  新たな脅威が形成されている・・「アメリカ、日本、
 オーストラリア、アジア各国などを含めた世界の脅威」
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2018年11月05日

(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

題:(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年、出来事:
・第2次伊藤内閣(1892年8月8日~1896年9月18日)
・第9議会召集(1895年12月25日)
・日清休戦条約が調印された(1895年3月30日)
・第4回内国勧業博覧会が開催された(1895年4月1日)
・尖閣諸島を日本領土に編入した(1895年1月14日)
・アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住し、
 ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた(1895年1月16日)
  そして、ハワイ王国は滅亡した(1895年1月22日)、
 リリウオカラニ女王は廃位させられた。
.
1895年、世界情勢
  1895年のこの頃、日本が、清国と戦争をする頃、ドイ
 ツやロシアも、中国の利権あさりを必死に行っていた。
  すでに、美味しい汁を吸っているイギリスをはじめヨ
 ーロッパ列強諸国・・、
  そして、アジア各地で利権を得ている列強の版図は、
 塗り替えられる可能性が出てきた。
  その一つが、フィリピンを得ようとしているアメリカ
 だった・・アメリカには、アジアの利権も美味しく見え
 て来ていた。
.
1895年、世界情勢
  この1895年から約20年前の1875年頃、ヨーロッパのキ
 リスト教諸国が収奪し、所有したアフリカの土地は、ア
 フリカ全土の十分の一(10%)に過ぎなかった。
  (10%でも酷い行為だが・・)
  しかし、それが、20年経た「この1895年頃」になると、
 実に、アフリカ全土の十分の九(90%)にまで、ヨーロ
 ッパのキリスト教諸国は、我が物顔にアフリカを自分の
 ものとしていた。
  この時期に、独立を認められていた国は、わずかに「
 エチオピア」と「リベリア」の少数の国だった。
  このリベリアにしても、アメリカの黒人の方々を、体
 よく放逐した形の棄民政策を、アメリカのリンカーン大
 統領が推し進め、リベリアを建国するという経緯(いき
 さつ)があって独立した国だった。
  力による争奪戦が、ヨーロッパのキリスト教諸国によ
 って非人道的に繰り広げられていた。
  「槍(やり)」でしか戦うすべを知らないアフリカの
 方々を、卑劣にも殺戮し、そのすべてを手に入れて行っ
 た。
  まったく赤子の手をひねるがごとき非人道的やり方を、
 好き勝手にしていた。
  この戦争を、『スポーツのような戦争だ』と言ったヨ
 ーロッパの指導者が居た。
  対等な国同士の間のヨーロッパの地の戦争とは「ほど
 遠い」、あたかも盗むがごとき卑劣な略奪と殺戮だった。
  そして、それから、そこに住むアフリカの方々を家畜
 同然に使って、アフリカの方々の生活のための作物栽培
 を止めさせ、自分たちに利を生む作物だけを作らせる行
 為などの蹂躙を行なった。
  自分たちだけに利があればよいのだというキリスト教
 の教義そのもの・・キリスト教が教えるやり方で、利益
 の収奪が行われた。
.
1895年、世界情勢
  アメリカの軍隊(海軍・海兵隊)がパナマ(コロンビ
 ア州)に上陸した。
  そして、サンティアゴ陥落の知らせに、アメリカのボ
 ストンからサンフランシスコまで、アメリカ内各地で、
 人々は警笛を鳴らし、旗を振って祝うというアメリカだ
 ったが・・、
  そして、ハワイは、宣教という名目で宣教師を派遣し、
 また、貿易商を派遣し、これを手始めに、結局は、この
 様な移民が続々とハワイ王国へ入国し、最終的にハワイ
 を乗っ取って行き、アメリカ領土としてしまった。
  そして、パナマ・・運河の構想がこの地を得たいとい
 う切っ掛けとなった。
  運河は、海洋貿易面で大きな利益をもたらす・・また、
 軍事的にも大きな戦略性を与えるということが明らかだ
 った。
  そして、この地域に勢力圏を得て行ったアメリカは、
 この運河に好適なコロンビア国の北部のこの地が、国家
 に反抗していることを利用した。
  1880年、この地のラファエル・ヌニェスが大統領に就
   任した。
  1890年、アメリカの海軍大学教官マハンが、「海上覇
   権論」でカリブ海の運河を着目させた。
  1894年、ラファエル・ヌニェスが死去する。
  1895年、アメリカ軍のコロンビア州への上陸・・
  1903年、コロンビア議会は、屈辱的なアメリカの高圧
   的態度に、アメリカの運河へ携わることを拒否する。
   これに怒ったアメリカは、パナマ地方の住民を扇動
   して、この地方を独立させようとする。
  アメリカは、軍艦を出動させ、コロンビア西部に圧力
 を掛け、この独立運動が成功する様に支援した。
  そして、パナマの独立を認めさせた。
  アメリカは、独立したパナマ政府から、運河建設のた
 めの租借権・工業権を得て・・、
  1904年に着工し、  
  1914年に開通させた。
  アメリカは、運河の完成後もパナマ内政へ介入した。
  海兵隊の上陸などの軍事介入も度々行った。
.
1895年、世界情勢
  1895年4月17日、日清戦争での日本勝利を受け、下関条
 約が締結された。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカや
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金出して領有した」様に・・、
  奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還の圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツとフランスを誘って、日本へ圧力を
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉の圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
.
1895年、世界情勢
  1895年、日本は、下関条約で清国から台湾の領有権を
 得たが、その後、烏山頭ダムを建設し、水政策の展開を
 行ったり、各種の社会資本投資をした。
  その効もあり、数年で日本の投資分も回収する事が出
 き、台湾にも良いし、日本にも良いという結果となった。
  インフラを投資してその資金を回収し、なお親日国と
 なっている台湾、
  一方、同様に、資金を投下したものの、その回収は出
 来ず、むしろ反日国として日本を貶(おとし)めようと
 する韓国。
.
1895年、世界情勢
  1895年、日清戦争によって、日本が、中国・清に勝っ
 た・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよ
 うな出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、「貢(みつぎ)を持って従属すれば良し」
 の思想で・・朝鮮はこの思想の体制に蹂躙されていた。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制がとり続けられて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に隷従させられ、従
 属させられて来ていた歴史だった・・朝鮮の2000年の歴
 史は、この思想の元での歴史とも言える。
  朝鮮は、古代から、中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティ(清への帰属意識)
 として来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主(あるじ)である中華・清を敗
 北させ、負かした事は、朝鮮にとって驚天動地のことだ
 った。
  そして、朝鮮は、中華・清から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で「独立した」。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」の遠
 い昔からの「日本の毅然とした対等の独立した立場」を
 とった日本だった。
  この時、冊封体制下の体制に入ると思っていた中華の
 煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていた。
.
1895年、世界情勢
  1895年、孫文が日本へ亡命し、逃れて来た。
  清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き・・、
  1894年1月、孫文が、ハワイで興中会を組織した。
  1895年の翌年、日清戦争の終結後に、広州での武装蜂
   起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡
   命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体・玄洋社の
   頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京
   での活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
    長い間、清朝の満州民族の植民地にされていた漢
   民族。
    その漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もや
   めたい(満州族の風習)」と言ってきた。
  1897年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、
   光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成した。
    ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
    清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が蜂起して
   大動乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
   蜂起(ぶしょうほうき)が中国で起きた・・各省が、
   これに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。
    当時、孫文はアメリカにいた。
    独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命
   政府をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを
   誰にするかで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
   はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  1912年1月1日、翌年になって・・孫文を臨時大総統と
   する中華民国が南京に成立した。
    孫文を大総統に推戴(すいたい、おしいただくこ
   と)する臨時政府が、南京に樹立されて、国号を中
   華民国と改め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
    しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱(
   えんせいがい)が、共和政体を宣言するに至ったの
   で、孫文は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位
   を譲った。
    だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わ
   せる時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文の民主革
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に、再度、逃れ、中華革命党を組織
 した。
  1914年(大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年~1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、
  イギリスは、長江流域に、
  ロシアは、東三省(とうさんしょう、中国東北部)、
  フランスは、広東、広西(こうせい、広西チワン族自
 治区)、雲南など・・
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。
.
1895年、世界情勢
・キューバの対スペイン反乱・・アメリカは、強力なアメ
 リカ軍を利用して、巨大な植民地帝国となって行く・・
 力による収奪。
.
1895年、産業:
・自動車の大量生産が始まった。
 ガソリンの需要が増加へ
・日本初の1千トン級貨客船「須磨丸」が竣工した(1895
 年4月5日)
・東京の大丸呉服店で、大売出しが行われた(1895年10月
 15日)
・東京電灯・浅草発電所の操業が開始された。
 このとき使用したドイツAEG製の発電機が50ヘルツで
 あったので、東日本が50ヘルツとなった。
・八王子電灯が設立された。
・ハーストが、各地の新聞を買収した。
・コダック社が、小型カメラを発売した。
・ケロッグが、コーンフレークを製造した。
・アメリカのニューヨークに、ピザの店が出現した。
・ジレットが、かみそりの薄刃を製造した。
.
1895年、交通:
・京都で、わが国最初の市電・路面電車(京都電気鉄道)
 が開業した(1895年1月31日)
・政府が、官設鉄道における輸送力増加に対処するため、
 新たに既成各線の改良と、車両の整備を骨子とする改良
 計画を立て・・、
  また、同時に、東京市区改正事業に伴う市街高架線(新
 銭座・永楽町間)、および、中央停車場の建設を改良計画
 の中に入れ政府の事業として行なうことに決定した。
・鉄道技師・古川晴一が、「輾圧工形桁」の設計を完了し
 た。
・北海道炭砿鉄道が、自社の手宮工場で1C形テンダ機関車
 (大勝号、のちの7150形)を製作した。
・富山商業会議所が、官設鉄道信越線の運賃引下げを要求
 した。
.
1895年、論・文学・本:
・樋口一葉の「たけくらべ」ができた。
・小栗風葉『寝白粉』(博文館「文芸倶楽部」)、兄妹の
 近親相姦、部落問題に立ち入ったため発禁となった。
.
1895年、歌・流行・世相:
・男のイガグリ頭が流行し、バリカンが売れた。
・玩具:空気ラッパの製作
・鉄砲玩具の連発銃が発明された。
・屈辱外交を批判の演説会が開かれ、どの弁士の発言も中
 止を命じられた。
 詔勅を読みはじめても中止となった。
・かつては、岩倉様など敬称をつけたが、この頃は、首相
 を呼び捨てにする(経済雑誌)
.
1895年、発明:
・リュミエール兄弟が、シネマトグラフという動画撮影・
 再生装置を公開し、映画の歴史が始まった。
・ドイツ人物理学者のレントゲンが、エックス線を発見し
 た(1895年11月8日)
.
1895年、科学・建築:
・野中至・千代子夫妻が、気象予報の研究のため、富士山
 頂で観測を開始した(1895年10月1日)
・帝国京都博物館が完成した(1895年10月31日)
.
1895年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・第1高等学校のベースボール選手だった中馬庚が、ベー
 スボールを「野球」と翻訳した(1895年2月22日)
・神田小川町にローラースケート場(車滑り場)が現れる
 (1895年8月)
.
1895年、その他:
・西洋音楽家で幸田露伴の妹・幸田延が留学から帰国した
 (1895年11月5日)
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2018年10月30日

(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月)

題:(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1894年12月9日、総武鉄道の本所駅(錦糸町駅)~市川駅間
 が開通することにより、本所駅~佐倉駅間が全通した。
  総武鉄道(総武線)は、1894年7月に、市川駅~佐倉駅
 間が開通していた。
  駅は、本所、亀戸、市川、船橋、幕張、千葉、四街道、
 佐倉の8駅だった。
  江戸川区域には駅が無く、1899年4月に、平井駅ができ
 た。
  蒸気機関車が黒い煙を吐いて運行されていたが・・、
  電化は、1932年6月、両国駅~お茶の水駅間が電化され
 た。
  そして、1933年3月、両国駅~市川駅間が電化し・・、
  1933年9月、市川駅~船橋駅間の電化・・
  1935年7月、千葉駅までの電化が完了した。
.
1894年12月17日、朝鮮で、第二次金弘集(きんこうしゅう)
 政権が成立した。
  朴泳孝と連立した。
  金弘集は、朝鮮王朝(李朝)末期の政治家で、1880年
 に、来日(訪問)している。
  明治維新後の日本の発展の様子を視察して、朝鮮を開
 化するのだの思い・意欲を深めた。
  この時、持ち帰った清国の外交官の著書「朝鮮策略」。
  持ち帰って国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機
 とした。
  穏健的開化派としての彼は、常に、外交の前面に立ち、
 欧米諸国などとの修好通商条約の改正を目指した。
  1882年、壬午の軍乱の後、全権副官として、日本との
 済物浦(さいもっぽ)条約の交渉にあたった。
  また、甲午農民戦争以後、1884年、領議政 (初代総理
 大臣) となり親日的であった。
  そして、急進的な改革を行なった。
  しかし、最後は親露派に殺された。
  生涯に渡って終始、国家の非常の難局に当たった悲劇
 の政治家だった。
  (参考)朝鮮策略:ちょうせんさくりゃく、
      東京の中国公使館にいた黄遵憲が書いたもの
     で・・、
      朝鮮は、自強のため中国との関係を深め、日
     本と提携し、さらに、アメリカと国交を開くよ
     うに主張した。
      金弘集で知った朝鮮国王は、これを採用した。
      そして、2年後にアメリカと条約を結び、国内
     改革を始めた。
.
1894年12月20日、中国の清国が、張蔭桓(ちょういんかん)
 らを、日清戦争の終結のための本格的講和全権使節に任
 命し、その事を、日本に通告して来た。
  日本も、直ちに伊藤首相、陸奥外相を全権に任命して
 講和交渉を開くことを承認した。
.
1894年12月21日、筑豊鉄道の折尾駅~中間駅間が複線化さ
 れ、また、、筑前植木駅~直方駅間も複線して開通した。
.
1894年12月22日、第8回帝国議会が召集された。
  1894年12月24日~1895年3月23日、通常会が開催された。
.
1894年12月22日、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後
 への前奏曲」がパリの国民音楽協会に於いて初演された。
  指揮はギュスターブ・ドレ。
  初演から好評で、二度のアンコールがあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=Zw1OYRjpvFY
.
1894年12月28日、筑豊鉄道の小竹駅~幸袋(こうぶくろ)
 駅間が開通した。
  石炭輸送全盛時代にあった。
  多数の側線が作られた。
  日本の鉄道は、1890年代から1900年代にかけて、めざ
 ましい発展をとげた。
  この約15年間に、営業キロは約2.5倍となる。
  特に、貨物輸送力は9.5倍に増加した。
  この頃は、紡績部門を中心として、日本の産業革命が
 進行した。
  そして、さらに、製鉄、製鋼部門を基軸とする重工業
 へと転換して行った。
  日本社会に資本主義経済体制が根付き、さらに、急速
 な発展をし、それが、鉄道の発達をうながした。
  また、その鉄道の発達が、さらなる資本主義の発展を
 促進するという展開となった。
  経済体制の発展と、鉄道の発展とが相互に相関的な発
 達となっていた。
  鉄道が、日本の輸送には欠くことのできない主座を占
 めて行った。
  1906年には、「鉄道国有法」が公布された。
  そして、幹線を構成していた私設鉄道17社が、1907年
 までに、すべてが国有化され、「国有鉄道」が成立した。
  そして、その鉄道の技術も「自立」して行った。
  日本の経済のさらなる発展には、日本の「技術の自立」
 が必要不可欠だった。
  そして、その為の法制化、規格化が進んだ。
  日本の重工業の発展とともに、その車輌、機械類の自
 給体制も確立さ、完成させて行く。
  1894年、「鉄道局隧道定規」、および、「橋梁、鋼鈑
 桁ノ定規」を制定する。
  また、神戸商業会議所は、官設鉄道運賃低減を提案す
 る。
.
1894年12月31日、三菱第1号館の完成
  イギリス・ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンド
 ル(お雇い外国人)によって・・
  イギリス・クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建
 築物として設計され・・、
  また、建設工事は、曽禰達蔵現場主任があたり、直営
 工事による施工で完成した。
  丸の内ビル街の先駆で・・、
  その後、次々とオフィスビルが完成し、「一丁倫敦(
 いっちょうろんどん)」と呼ばれるオフィスビル街とな
 って行った。
.
1894年12月、フランスでドレフュス事件が発生した。
  フランス第三共和政を揺がした政治危機で、1894年~
 1906年、フランス社会の根底に横たわる社会的・政治的
 緊張を露呈した。
  共和国の存続そのものを危険にさらした。
  1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイツ
 に情報を売っていた。
  そして、終身流刑に処せられた。
  ユダヤ系のドレフュス大尉への「差別がある」として
 再審を求める派と、判決を支持する派でフランス国論が
 二分された。
  フランス軍部内では、別に真犯人のいることが分かっ
 たが、軍の威信と反ユダヤ感情などのため事件を糊塗し
 ようとした。
  最初は、家族と知人を中心とした再審要求運動であっ
 たが、上院副議長 A.シューレル・ケストネル、後の首相
  G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。
  1898年、文人 É.ゾラが『オーロール』紙上で「私は弾
 劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するなど、
 世論は高まり、単に、個人の有罪、無罪の論議をこえて、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なキリスト教カトリ
 ック、反ユダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする
 「反ドレフュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  1898年、H.アンリ大佐が、文書の一部偽造を告白して
 自殺したため、再審は確実となり・・、
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・、
  1906年7月、民事の破毀院は、レンヌの判決を全面的に
 破棄、議会も復権法案を可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスも正式に復権した。
      (出典 ブリタニカ国際大百科事典)
.
1894年12月、夏目漱石が、漱石ゆかりの地・鎌倉・円覚寺
 で参禅する・・、
  29歳の漱石は、同寺塔頭の帰源院で坐禅を組んだ。
  優秀な成績で、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学、
 現・東京大学)を卒業していた漱石・・、
  そして、英語教師として東京高等師範学校の教壇にも
 立っていた漱石・・、
  しかし、自分の中にどうしてもしっくり来ないものが
 あった(漱石の記述)
  「卒業したときには、是でも学士かと思ふ様な馬鹿が
 出来上つた。
  それでも点数がよかつたので、人は存外信用してくれ
 た。
  自分も世間へ対しては多少得意であつた。
  たゞ、自分が自分に対すると甚だ気の毒であつた」
             (処女作追懐談)
.
1894年、中国の軍閥
  1912年1月1日の中華民国成立の前後、私設の軍隊を背
 景に中国各地に並び立った勢力があった。
  特に、日清戦争後、北洋陸軍を私兵化した袁世凱の北
 洋軍閥が最大のもので、辛亥革命後、北京に軍閥政権を
 樹立した。
  死後、安微派、直隷派に分裂し、さらに、奉天派など
 も交えて抗争を続けていた。
.
1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル~仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル~仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  (両班・りゃんばんは、特権階級で朝鮮庶民から収奪
 する階層だった)
  往復で5日~6日の所要時間は、2時間~3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル~釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル~新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は「莫大なものであった」。
  もしも、1896年~1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧~清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年~1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基~潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮~吉州)142キロ、
  満浦線(順天~満浦)286キロ、
  東海線(安辺~浦項・釜山~浦項)549キロ、
  慶全線(晋州~全州・院村~漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州~兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江~勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌~鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里~博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山~唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里~群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里~全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里~漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山~会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂~川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城~清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧~鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青~新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山~遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興~鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦~新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸~慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧~潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基~訓戒狭)
  その後、新倉~高腹間の平元線146.8キロ、吉州~恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天~満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮~蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年~1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。(以上)
  今・現在、中国及びその手先は、『日本は、軍隊を運
 ぶために朝鮮・韓国の鉄道を作ったのだ」と日本の努力
 を無にすることを言うが・・
  その為だけならば、この様に朝鮮の国土を縦横無尽に
 張り巡らす様に鉄道を造る必要はない。
  日本は、心から朝鮮の日本並みの発展を願っていたの
 だ。
  朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
  その日本の恩を無にする言動をする韓国となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
.
683年(天武12年)鏡王女(かがみのおうきみ)が、この日、
 薨去(こうきょ)したが・・、
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
  万葉集に・・
  玉櫛笥(たまくしげ)覆(おお)ふを易(やす)み
  明(あ)けて去(い)なば 君が名はあれど
  我が名し惜(お)しも
              鏡王女
  訳:箱に蓋をすると中のものが見えなくなるように、
    私たちのことを覆い隠すのは簡単だとお思いに
    なって、夜が明けてからお帰りになれば、
    あなたの名はともかく、わたくしの名が惜しうご
   ざいます。
  藤原鎌足が鏡王女と婚をなすために訪れた夜の明け方、
 なかなか帰ろうとしない鎌足に王女が贈った歌です。
  歌の背景には妻問い婚(つまどいこん)が普通であっ
 た当時、男性が夜明けまで女性の家に居て帰ろうとしな
 いと、ご近所の噂がひどかった、という事情がありまし
 た。
  鏡王女は天智天皇の異母妹で、若き日の天智天皇の妃
 (きさき)となり、その後、鎌足の正室となった女性で
 す。
  古代国家の基礎を築きつつある天智天皇にとって、鎌
 足は無くてなならぬ人物でした。
  加えて鎌足は、とかくギクシャクしがちな天智天皇の
 実弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)
 と天智天皇との関係を、取り持つことができる唯一の人
 物でもあったのです。
  天智天皇の妃であった鏡王女がなぜ鎌足と結婚したか、
 その詳細は不明ですが、王女は愛する夫にして異母兄・
 天智天皇と鎌足の絆を不動のものにするために、天智天
 皇の願いを受けて再婚したのだと思います。
  天智天皇の愛が薄れて再婚したのではなく、わたくし
 はそこに、天智天皇の王女への深い信頼と愛を読み取る
 のです。
  藤原鎌足、天智天皇に先立たれ、壬申の乱(じんしん
 のらん)にも遭遇するという激動の古代を生きた王女は、
 晩年、懐古(かいこ)の鳥とされている呼子鳥(よぶこ
 どり)の声に、そんなに鳴かないでおくれ、昔を恋い慕
 う心を募るばかりだから、と深く嘆じました。
  神奈備(かむなび)の 磐瀬の杜(いわせのもり)の
  呼子鳥 いたくな鳴きそ 我(あ)が恋(こい)増(
  ま)さる
  683年(天武12年)王女薨去(こうきょ)。
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
         (国文学者・石丸昌子氏の名文です)
.
1147年、第二回十字軍(~1148年)・・北方十字軍
  この12世紀の西欧諸国におけるカトリック教会の権威
 確立を目的とした第二回十字軍の壊滅的な敗退は、返っ
 てカトリック教会の権威を失墜させる危機に陥れた。
  クレルヴォー修道院長ベルナールは、これを打開する
 ため新たな十字軍を提唱した。
  西欧諸国からはドラクリア(竜の地)、東欧諸国では
 ディアボロシア(悪魔の地)と呼ばれ、現地の人々から
 はウェリ・クン・ナーラ(天神に祝されし国々)と総称
 される、カグレア、シルリア、ペグゼリア、タンムリア、
 カラキアにおける異教異民族への十字軍だった。
  この十字軍は、「最も成果の無かった十字軍」と呼ば
 れ、実態は敗北だった。
  ただただ、スラブ人を殺す十字軍という状況だった。
  後に、これは北方十字軍と呼ばれる。
  北方十字軍は、受け継ぐ封土を持たぬ封建諸侯の子弟
 達(この憤懣のガス抜きの十字軍)、そして、相次ぐ戦
 乱と飢饉で家屋や土地を失った貧民達から構成されてい
 た。
  そして、「フロンティアが獲得できる」という夢を吹
 き込み、それを目的としたので大いに受け入れられた。
  厳しく戦った事例としては、北方十字軍の攻撃を受け
 たカグレア人・・この民族は、かねてから国境付近でザ
 クセン公国と対立を深めていた。
  (参考)気高きグレアを意味するカグレア・・しかし、
     その地は過酷な地であった。
      凍てつく北方に位置するこの大地は、地味が
     乏しく、作物も実らず、狩るべく鳥獣や漁る魚
     貝も少なく・・その上、海の彼方からは、絶え
     ずユグラドラシスの異民族の襲撃を受け、その
     王国・バレア王国との紛争に明け暮れた。
      僅かな食糧と、その食糧を得る為の領土を奪
     い合う、殺し合う・・生き延びる事の困難なこ
     の地の人々は、戦いが多く、そのため強かった。
  ウェリ・クン・ナーラでも、勇猛な戦闘部族で知られ
 ていたカグレア人は、 スペル・ユニオル族族長レーベル
 クを中心に、前九年・後三年と、合わせて十二年に渡り
 激しく抵抗した。
  一時は、カグレアの地よりドイツ諸勢力を一掃し、逆
 に、ザクセンに侵入し、ヴァグリアを征服するにまで至
 った。
  しかし、カグレア諸部族に服属していたシルリア人が、
 突如、自らキリスト教を受け入れ、北方十字軍と手を結
 んでカグレアの背後をつくと、一気に形成は逆転した。
  カグレア諸部族は総崩れとなり、北方十字軍に征服さ
 れた。
.
13世紀、北方十字軍
  「異民族のキリスト教化」という名目上の目標を掲げ
 て、バルト海沿岸地域へ進出した「北方十字軍」は・・、
 遠征の当初から本来の宗教的な目的を失っていた。
  その実際の実態は、「北方諸国の植民地化」だった。
  ローマ教皇からお墨付きをもらって・・、
  世俗の最高権力者である神聖ローマ皇帝の思惑とも重
 なって、キリスト教による征服事業の拡大を続けた。
  その先鋭に立ったのが「ドイツ騎士団」だった。
  13世紀、ハンガリー王国から追放されたドイツ騎士団
 だった。
  その武力集団は、異教徒征伐の命を受けてプロイセン
 の地(現在のカリーニングラード〜ポーランド北部)に
 活動拠点を移した。
  そして、その武力の威力によって、先住民であるプロ
 イセン人の殺戮を尽くして制圧した・・そして、その地
 のすべてを掠奪・収奪した。
  その後も・・略奪と搾取を重ねながら、莫大な富を築
 き、「ドイツ騎士団領」という軍事国家まで作った。
  しかし、乱逆なこのキリスト教集団は、周辺諸国の貴
 族を集めて「人間狩りツアーを開催する」など、その残
 虐きわまりない性質と傍若無人ぶりだった。
  ドイツ騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア西部
 からエストニア南部)を征服していたリヴォニア帯剣騎
 士団を吸収した。
  そして、さらに、現在のリトアニアの地へと侵攻した。
  それに対して、ミンダウカス王の元に諸部族が結集し
 てリトアニア大公国が誕生する。
  そして、強大な戦力を形成し、ドイツ騎士団を押し返
 した。
  その後、お互いが侵略行為を重ねる。
  拮抗した戦争状態が続く・・
  同じ様にドイツ騎士団と領土問題で対立を深めるポー
 ランドとの同盟関係を成立させる。
  1385年、ついにリトアニアはキリスト教を受け入れ(
 当初は形式的なものだった)、両国は連合国となってド
 イツ騎士団と対立する。
  キリスト教の教義でもある「異教徒は殺せ」の異教徒
 との戦いという大義名分を失ったドイツ騎士団は激高し
 て、互いの存亡をかけた激烈な総力戦へなる。
  そして、ポーランド・リトアニア連合は、1410年の「
 グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い」で勝利し、
 ドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与える。
  ドイツ騎士団は、徐々に衰退し、やがて消滅した。
  ポーランド・リトアニア連合国は、ヨーロッパ最大領
 土の国へと発展する。
  そして、その後、200年に渡る黄金時代を築く。
.
16世紀半ば~17世紀初頭、南蛮貿易が行われた。
  1543年に、種子島にポルトガル船が漂着したが・・、
  南蛮貿易は、ポルトガル及びスペインとの間で貿易が
 行われた。
  中国・明のマカオが拠点で、特に、ポルトガル人が中
 心に営まれ、日本の銀が流出した。
  中国とは生糸が取引された。
  16世紀の前半から灰吹法によって銀の産出量が増えて
 いた。
  (参考)灰吹法:はいふきほう、鉱石からいったん鉛
     に溶け出させて産出する方法。
  キリスト教イエズス会は、プログラドールという貿易
 や財務を担当する役職を作って貿易を指揮し、担当し、
 交易し、利益を得た。
  長崎のこのキリスト教のプロクラドールは、岬に建設
 されたキリスト教会内のカーザ(建物・倉)に貿易品を
 貯蔵し、取り引きを行ったので、キリスト教会が商館の
 ように機能した。
  このプラグドールは、キリスト教宣教師のザビエルの
 提案したことから実現した。
  せっせと南蛮貿易に精を出すキリスト教だった。
  そして創設されたパウロ学院には金庫が置かれていて、
 貿易の利益のほか、貿易に税を掛けて金を取り、この教
 会内の金庫に金がうなる様にあった。
  このキリスト教会の主動する南蛮貿易の卑劣なところ
 は、日本の若い女性を売るという人身売買をしていた所
 だった。
  「70万人の日本女性を売った」という記載が、ポルト
 ガルの文書にある。
     ・
     ・
1910年8月26日、キリスト教徒のマザー・テレサが生まれた。
  マザー・テレサは、キリスト教の神は死んだと言った。
  マザーテレサさんは・・インドで・・ヒンズー教徒の
 方々が行っている・・『弱者救済の運動とその行動』の
 中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・弱者救済活動を行なっ
 た。
  その行為が、そのことが・・素晴らしい業績となって
 いますが・・、
  (注):
  世間には、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)だけ
 が・・あまりにも声高に叫ばれているため・・真実が、
 隠されています。
  初めて、上記の文を読まれた方は・・驚かれたと思い
 ますが・・「真実は、上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・
 脚光を浴びた事を知り・・マザーテレサさんに着目し・・、
 キリスト教の「広告塔」にしました。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に、なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを国葬に
 して・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」と、表明されたことでし
 た。
  マザーテレサさんは、キリスト教の神の存在に悩んで
 いました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに、長い期間、悩みを打ち明け
 続け・・そして、相談をし続けていました。
  その事実は、隠されていました・・が・・、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』『真実』が公表されました・・キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・今、ア
 メリカに、「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは、キリスト教の『神の不存在を主張」し・・
 成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分やっ
 て行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違うと主張
 する方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
 その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、そう
 考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が、人類にとってよくないこと・・よくないもの』と・・、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・こ
 の様な、行動が取られたのだと言えます。
  (参考)神の死の神学:ニーチェの言葉である「神は死
 んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・現代社会において神は・・、
 人間に・・『リアルな存在ではない』という意味で・・、
 「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニア
 ンは・・『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァニハンは、その中で・・無神論を、『アメリカの
 大衆の生き方である』と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
 エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・異
 なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で、人間の主体性が、
 そして、自律性が・・とりもどされ・・、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・
          (参考:wikipedia)
.
1920年、南洋諸島のパラオは、日本の統治となった(~1945
 年)
  この頃の首都はコロール。
  パラオには、スペイン南洋庁が置かれていた。
  日本からの移住者も多かった。
  パラオは、スペイン→ドイツと統治がされて来た。
  しかし、パラオの方たちは、日本の統治時代を非常に
 懐かしみ、「日本の統治は良かった」と言う。
  パラオ共和国の国旗も、日本の国旗に似せている。
.
1932年2月、リットン報告書が出された。
  満州が、リットン報告書などでアメリカからの策動(
 さくどう、秘かに計略を巡らして行動すること)を受け
 ていた頃・・、
  この当時、日本国内には、ソ連から指令を受けた、コ
 ミンテルンの命令下にある共産主義者が大勢いた。
  いつでも日本国内で、国家転覆をしようという者たち
 だった。
  そして、その様な手が打たれている日本でもあった。
  いつ、その者たちの活動が活発化するかの可能性も高
 かった。
  実際、その様なソ連の指令を受けた日本人も加わって
 いた。
  尾崎秀美(ほつみ)がその一人で、ゾルゲと連絡を取
 り暗躍していた。
  (参考)尾崎秀美:日本の評論家、ジャーナリスト(
     朝日新聞記者)、共産主義者。
      近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論
     界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を
     持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(
     大東亜戦争)開戦直前まで、政治の最上層部・
     中枢と接触し、策動し、国政に影響を与えた。
  (参考)リヒャルト・ゾルゲ:ソビエト連邦のスパイ、
     1933年~1941年にかけてゾルゲ諜報団を組織し、
     日本で諜報活動を行ない、ソルゲ事件の首謀者
     だった。
      ゾルゲは、コミンテルン本部の指令で1933年
     9月に来日し、上海で旧知の尾崎らと接すること
     で軍、政府上層部から得た日独両国の機密情報
     をソ連に流したり、二・二六事件、三国同盟、
     関東軍特別大演習など日本の対ソ情報を入手し
     通諜していた。
      ドイツの新聞社特派員として駐日ドイツ大使
     の信任を得ていたゾルゲ(ソ連共産党第4本部
     所属)は、コミンテルンの命令を受けていた。
  (参考)日中戦争:実際は、アメリカが極秘に参戦し
     ていて、アメリカ大統領は「ボランティアだ」
     と言い逃れしたが、大統領署名の命令書が存在
     し、また、アメリカという国が膨大な米機を中
     国へ与え、パイロットも派遣していた・・日米
     中の戦争状態だった。
  その活動の一つが「日中戦争(実際は、日中米戦争)
 へ日本を導く」という活動だった。
  結局、実際に、日本は、日中米戦争へはまっていく。
  今・現在も、共産・中国(中共)の活動家が、日本で
 活動している。
  この当時の状況の様に・・、
  または、それ以上の人数の居る日本の状況となってい
 る。
  今、日本は、簡単に移民ができる様になっている。
  アメリカの圧力でなったのだが、日本は、今、「移民
 天国」の状態で、スパイ天国の様相となった。
  長野の冬季オリンピックの時、指令によって、長野に
 集まった共産圏・中国の活動家が、謀議し、手に手に種々
 な武器を持って暴れた。
  長野県のこの中国工作員の暴動行動は、怒号と騒乱状
 態に陥(おちい)った。
  これは国際問題の騒乱(共産中国とチベット国)であ
 ったため、日本の警察は、周りを取り囲み、手を出さな
 かった。
  この様にして、日本の国内においても、共産圏・中国
 の国家指令の活動が行なわれている。
  チベット国が、共産中国に蹂躙されていることを、日
 本国内で訴えようとした行動を・・中国の工作員・活動
 家が、武力行使して、そのチベット国の方々の行動を封
 じ込めようとした。
  共産圏・中国の本国から指令を受けた大勢の活動家に
 よる暴挙だった・・今、日本には、この様な輩が、うよ
 うよといる。
  普段は、普通に日本で生活している。
  あなたは、その中国活動家の普段の生活は、何ら違和
 感は持たないだろうが、いざとなるとこの長野の様な事
 を起こすのだ。
  普段は、「いい人だ」くらいに思っているがである。
  帰化して、それも本当に簡略化された手続きで(アメ
 リカの内政干渉でこうなった)簡単に日本人に帰化した
 元・共産圏・中国のこの様な活動家が・・、
  「普段の、いい人だ」の印象だけから、「この人たち
 は日本人になってくれたのに選挙権が無いのは、おかし
 い」となる・・外国人の選挙権問題が起きる。
  この行き過ぎた事例がドイツにある。
  ある自治体の地方自治権が奪われた。
  れっきとして「ドイツ人の票決の結果」と公表されて
 いるが、移民の自治体と化している。
  また、オーストラリアのタスマニア島(日本の佐渡島
 くらいの大きな島)が、正統な経済活動だと言われてい
 るが、共産圏・中国の手中に入った。
  (参考)2016年4月、オーストラリアのタスマニア州の
     村落・タラリアが中国に売却への動き
      2016年4月、ギリシャ最大の港を中国企業が爆
     買い、総支出額は約1850億円
      2015年10月、オーストラリアで、韓国1つ分に
     相当する面積を中国企業が爆買い
  今、日本は、盛んに北海道が中国に買われている。
  北海道経済が、潤っている(息が付ける)というが?・・
  こんな「たわごと」で済むのか??
.
1937年12月、この時、「南京事件が起きたという嘘」がデ
 ッチ上げられている。
  今、種々の新史料が公開され、この南京事件が、さら
 によく見えて来た。
  南京事件の実態は、当時の中国の様々な情報工作によ
 って作られていて、「真実」は隠蔽されている・・
  不当で不条理な罪が、日本に押し付けられている・・
  その様な『事実』も判明して来た。
  今・現代、中国が南京事件をとやかく言うのは「もは
 や陳腐化している」。
.
2005年、全世界の金融資産が、2005年には140兆ドル(約
 1万7200兆円=1京7200兆円)で世界GDPの316%とな
 った。
  これは、1980年の109%、1995年の218%から飛躍して
 増大した。
  アメリカは、1995年303%から2005年405%と急増した。
  資本市場の機能は、金融システム間のM&A金融など
 仲介業務に比重を置くようになった。
  そして、規制がさらに撤廃され(自由が良いのだの大
 合唱)、リスクを伴う冒険的な大規模投資も合法的に可
 能となった。
  国際証券資本市場における支配力も強大となった。
  アメリカ産業史上初の業界の枠を越え、且つ、国境を
 越える超大型合併の波は、ユーロ圏を巻き込み、さらに、
 第三世界ロシア、中国、ブラジルのBRICs諸国の巨
 大資本をも引き込み・・
  世界は、国境を越え、M&Aの壮大な展開という新し
 い経験の試みの場と化した。
  故に、ネオリベラル・グローバリゼーションのダイナ
 ミックな主役は、巨大M&Aを業界の垣根と国境を越え
 て、グローバル企業帝国を築くビックビジネスの様相。
  (参考)ネオリベラル・グローバリゼーションにおけ
     るアメリカ「帝国」の覇権(上)、奥村皓一 著
      抄録:21世紀に入り・・、
     「冷戦」が終わって・・10年以上過ぎたという
     のに・・「帝国」「帝国主義」が、世界人類の
     当面、最大課題となり始めた。
      ソ連邦が崩壊し・・、
      旧社会主義陣営の国々が、資本主義市場経済
     を受け入れ始める一方で、資本主義大国間のグ
     ローバル競争が激化し始めた。
      加えて中国、ロシア、ブラジル、インドとい
     った新興の市場経済大国は、興隆をはたすなか
     で経済超大国をも目指し始めた。
      唯一、超大国のアメリカは、経済力の相対的
     な地盤沈下のなか、圧倒的な軍事力を活用して、
     全世界を制覇し・・、
      米国のビッグビジネス(メジャーズ)を、スー
     パーメジャーズに編成して、先進国世界のみな
     らず、GAPと呼ばれる第三世界、開発途上諸
     国、旧社会主義国のすべてをその勢力下に組み
     込もうとするようになった。
      米国国際石油資本をはじめとする米国の多国
     籍企業は・・、
      グローバルに展開できるスーパー・メジャー
     として、全地球的に展開し始めた。
      国際競争力が相対低下して・・アメリカのビ
     ッグビジネスは、アメリカの軍事力を活用した
     セオドア・ルーズベルト型の「軍事帝国主義」
     を背景に「自由とデモクラシー」の旗を掲げた
     ウィルソン型の「理想主義的帝国主義」を前面
     に全地球的展開を開始した。
      その典型は、ネオコンサーバティブの主導す
     るイラク単独進攻と占領である。
      世界で、石油埋蔵量第2位の、イラクの石油開
     発、生産を独り占めにし・・、
      イラクの「民主化」による親米政権の樹立と
     イラクの軍事基地化によって、中東と北アフリ
     カ、中央アジア(中東)の油田地帯に、アメリカ
     の石油秩序を確立しようとしている。
      さらに、アメリカは、南西アフリカ、南アジ
     ア、ラテンアメリカへと、「帝国」を広げよう
     としており、米国の軍事関与は、百数カ国に及
     び、冷戦下では実現できなかった戦線の拡張に
     ある。
      だが、資本展開の膨張に、米軍事力は無限に
     応ずることはできず、米国の単独主義の行きつ
     くところは自己破産・・軌道修正を迫られる。
.
2011年7月28日、高倉蒼甫(たかおかそうすけ)というタレ
 ントが、フジテレビで、「フジテレビは韓国のテレビ局
 か?」と発言したら、事務所(スターダストプロモーシ
 ョン)が解雇した。
  (cf)高岡奏輔(たかおかそうすけ)ウィキペディ
      ア
  (cf)2011年のフジテレビ騒動、高岡蒼甫のツイー
      ト:ウィキペディア
.
2018年、現在、世界全体で・・2800万人を数える華僑。
  その90%が、アジアに居る。
  インドネシア650万人(23%)
  タイ・・・・610万人(22%)
  マレーシア・520万人(19%)
  シンガポール209万人( 7%)
  フィリピン・120万人( 4%)
  ベトナム・・100万人( 4%)
  他・・・・・591万人(21%)
  輩出するところは・・
  広東省・・ 1500万人(54%)
  福建省・・・700万人(25%)
  海南省・・・170万人( 6%)
  他・・・・・430万人(15%)
  福建省は、僑郷(華僑のふるさと)として、広東省に
 次いで多くの華僑を送り出している。
  強力な経済力とネットワークで知られる華僑。
  アヘン戦争から逃れ最高潮となる・・100万人に達した。
  海外に中華街ができると、そこが足場にできるので、
 急増した。
  中国政府の圧政に農民が反乱(太平天国の乱など)を
 起こすとともに海外へ、その様な中国から逃れ出ようと
 農民も増加した。
  太平天国の乱に敗れた人々も・・海外へ逃れた。
  1933年には、800万人となった・・この内訳に於いて、
 福建省出身はその40%(320万人)となった。
  帰国して中国ナショナリズムを高揚させたりした。
  華僑の模範、そして、民族の輝きだとして毛沢東は、
 陳嘉庚を賞賛した・・
  彼は、シンガポール(マレーシア)でゴム大王として成
 功した。
  華僑は、常に、新天地の政府に対して用心深かった。
  そして、沖縄県は、2016年(平成28年)、沖縄県と福
 建省の友好親善に貢献するためだとして、奨学金を支給
 する奨学生を福建省へ送ることにした・・
  学費や宿泊費、そして、食費は・・中国側が負担する・・
 国際交流・協力の推進だとする美しい名目がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive  


2018年10月22日

(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年12月)

題:(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月22日、日米通商航海条約に調印した。
  江戸時代に結ばれた日米修好通商条約の不平等条項を
 改正したのだが、まだ、関税自主権は完全には回復でき
 なかった。
  (当然の権利である治外法権は回復した)
  しかし、自国益をしつこく握るアメリカに、まだ牛耳
 られる日本だった。
  関税自主権の回復は、1911年を待たねばならない。
  しかし、この時の改正でも、まだまだ日本は、色々な
 譲歩を要求された。
.
1894年11月24日、宮内省式部職付属音楽学校、奏音堂(上
 野奏楽堂)で、歌劇「ファウスト」が上演された。
  これは、日本における初めてのオペラ上演だった。
  宮内省式部職付属音楽学校・奏音堂(上野奏楽堂)は、
 東京音楽学校(現:東京藝術大学)の奏楽堂のこと。
  この演奏会は、日清戦争の義捐(きえん、慈善や公益
 のための寄付)のための音楽会で、演目はグノー作曲の
 「ファウスト」第1幕だけの部分上演だった。
  指揮は、音楽学校教授のフランツ・エッケルト、
  オーケストラ伴奏は、宮内省楽部、
  合唱は、音楽学校の生徒
  ファウストは、ブラッチャリーニ、メフィスト
  フェレスは、クーデンホーフ伯爵、
  マルグリートはヴァルナムが務めた。
  ゲーテの原作はドイツ語だが、オペラはフランス語。
.
1894年11月26日、慶応義塾大学の学生が、旅順口の陥落を
 祝って初めてカンテラ(油用灯火具)行列を行なった。
  このカンテラ行列は、慶應義塾大学の独特の祝賀行進
 だったが、この時以来、国家的な祝祭の時にも挙行され
 るようになった。
.
1984年11月28日、アメリカ紙が、デッチ上げニュースであ
 る旅順虐殺を報道した(まったくのプロパガンダ嘘報道)
  「ニューヨーク・ワールド」に、「日本は文明の皮膚
 を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣なり」とする記事が掲
 載された・・
  これは、新聞の部数販売を拡張しようとした、この頃、
 流行っていた煽情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)
 だった。
  特に、この記事を書いたクリールマンは、この時の日
 本以外にも嘘で煽る記事を書いていて、その嘘が世界か
 ら指摘されている。
  1888年の米西戦争の時も、クリールマンは、この様な
 報道をして、世界を惑わせ、世論を誘導する前科のある
 悪名高き記者だった。
  この米西戦争の時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」
 と疑義が出された。
  そしてまた、この旅順口の嘘記事である・・「虐殺は
 ない」の訂正を要求する証言も多く・・このクリールマ
 ンの報道を耳にしたベルギー公使が、現地にいたフラン
 スの武官に尋ねたところ・・、
  「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいただけ」と否定した。
  また、旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド紙の
 特派員であるアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンが報道するような虐殺は発生していないと証言してい
 る。
  さらにまた、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 でも「虐殺は捏造されたものであった」と論じている。
  そして、欧米でのジャーナリズム史の研究でも、旅順
 の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載した新聞・
 ニューヨークワールド紙が、ライバル紙と競い合って扇
 情主義報道を行っていたことは常識で定説となっている。
.
1894年11月29日、天皇陛下が、第1軍司令官・山縣有朋の召
 還を御命令。
  1894年7月から始まった日清戦争で、56歳にもかかわら
 ず第一軍司令官として自ら戦地に赴き、作戦の指揮をと
 った山縣有朋。
  「敵国は極めて残忍の性(さが、自分ではどうしよう
 もない生まれつき。性質)を有す。
  生擒(せいきん、生きたまま捕らえること)となるよ
 りむしろ潔く(いさぎよく)一死を遂(と)ぐべし」と
 訓示している。
  配下の野津道貫が率いる第5師団が、9月の平壌の戦い
 で平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自
 身は体調を崩した・・
  この事をお気遣いされた天皇陛下は、この月の11月に、
 「病気療養をするように」という勅命を出されて、戦線
 から呼び返された。
  そして、山縣は、12月に、帰国した。
  無念の帰国を余儀なくされた山縣であったが、伊藤・
 井上らが、山縣の今後について打合わせ、天皇陛下も体
 面をお気遣いされ、山県に第一軍司令官と枢密院議長を
 免じる代わりに監軍に据え、2回目の元勲優遇の詔勅を
 下すなど、山縣を少しでも慰めようと御配慮された。
  その甲斐あってか、帰国後、山縣は体調を回復し、戦
 後の1895年8月5日に、第二軍司令官だった大山、西郷従
 道海軍大臣と共に、日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬
 章、功二級金鵄勲章を授与され、伯爵から侯爵に昇叙さ
 れた。
.
1894年11月、伊藤内閣、自由党との提携趣意書を発表した。
.
1894年12月1日 奥羽北線(おううほくせん)青森~弘前間
 が開通した。
  官設鉄道の青森~弘前間と、日本鉄道会社線との連絡
 運輸が開始された。
.
1894年12月9日、上野の不忍池畔で、戦勝祝賀会が東京市民
 有志の手によって開かれた。
  第2回も開く予定であった。
  市民も「公明正大なる戦争」とし、その戦争の連戦連
 勝を喜んでいた。
  参加は満15歳以上で、50銭の会費を払って会員となり
 会券、会章、昼餐券を受け取った。
  朝の7時半に日比谷練兵場に集合し、桜田門から宮城前
 広場で万歳三唱し、丸の内から日本橋、そして、上野公
 園へ歩いた。
  旗や幟(のぼり、細長いきれの一端を竿の先に付けて
 立てるもの)を立て、山車を曳いた。
  9時頃、上野公園に到着した。
  10時から儀式を行なう。
  東京市長の祝文朗読や、東京市会議員らの挨拶、靖国
 神社の宮司の戦捷(せんしょう、戦勝)祝祭の執行、万
 歳三唱で終わった。
  その後、種々の余興見物となる。
  「川上音二郎戦地見聞日記」の野外劇が上演され、野
 戦病院の体験、陸海軍の手踊りなどが行なわれた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
   計画の中心に居た。
    それだけではなく、戦争のすべてに、ルーズベルトは
   関わっていた・・戦争政治家そのものだった。
.
1521年、アステカ王国が滅亡した。
  そして、1533年には、インカ帝国が滅亡した。
  その他の地域においても、ひどい殺戮行為が続けられ
 各地で全滅が相次いだ。
  メキシコ以南の北米・中米・南米、そして、その離島
 のインディオの方々は、スペイン・キリスト教徒とキリ
 スト教聖職者たちに虐殺され、全滅していた。
  未曾有の人類史上最悪の極悪行為だった。
  この行為が行われる最初、現地に着いた殺戮者たちは、
 現地の人たちの取り扱いについて「どうするか?」と、
 バチカンのローマ法王(教皇)へ質問した・・
  回答は・・「人ではない」だった・・
  ここから大虐殺が50年に渡って行われた。
  この事について、あまりにも卑劣な行為をして来たキ
 リスト教聖職者のラス・カサスが、このままでは天国へ
 召されないと、行かれないと、本国のスペイン王へ報告
 した。
  50年もの殺戮の歳月が流れた後だった。
  その報告を聞いていたスペイン王とその側近の面々は、
 そのすべてを聞くことに耐えられず、「本に記せ」と言
 った。
  その本が、「インディアスの破壊についての簡潔な報
 告」である。
  当然、この本には、キリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが行なった史上最悪の蛮行(南北アメリカ大陸など
 の卑劣な殺戮)が記されている。
  その記述の1例・・49頁~・・
  キリスト教徒等に、300人のインディオが分配され渡さ
 れて、3ヶ月のうちに、そのうちの270人が鉱山労働で死
 んでしまい、
  生き残ったのは30人に過ぎなかった。
  3ヶ月か、4ヶ月の間に、約7000人以上の子供が餓死し
 た。 
  両親が鉱山へ連れ去られてしまったからである。
  また、
  私(キリスト教聖職者)は、このほかにも数々の身の
 毛がよだつような出来事を目撃した。
  (この聖職者らは、何ら、インディオの方々を助けよ
 うとはしなかった・・その様な悪漢である)
  その後、また、インディオ達を狩り出しに行くことに
 なった。
  結局、キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。
  総督は、無慈悲で無分別で、
  (今さら、インディオたちが死んでしまった後、こん
 なことを言ったって、この聖職者たちは殺すがままにさ
 せていた悪漢)
  彼らの行った忌まわしい行為は、それまでのものをこ
 とごとく凌(しの)いでいた
 (他人に悪さを転嫁するな、誰も居なくなった荒れ地に
 キリスト教会を建てただろう)。
  金(きん)も非常に豊かであった。
  それまでは、地上にそんなにも多くの金があろうとは
 思いつかなかった。
  金の在所(ありか)を白状させ、
  数々の新しい虐待や拷問の方法を考え出した。
  (止めろとも言わなかったキリスト教聖職者たち、今
 頃、弁解したって死んでしまったではないか)
  その聖なる使命をいつもないがしろにしていた。
 (君たち、キリスト教聖職者たちが聖ではないのだ)
  全世界に行ってすべての人々に福音を述べ伝えよ。
 (福音ではないよ、殺しに行っただけではないか、総
 べて殺して)
  さもなくば、妻子ともども生命をも失なうことになる
 であろう。
  盗賊と変わらない行為をする部下たちを先に派遣し、
 われらは神とローマ教皇、それに、この地の君主である
 カスティーリャノ国王についてお前たちに知らせにやっ
 てきた・・云々。
  さもなければ、われらが即刻、戦さを仕掛け、お前た
 ちを殺したり捕えたりすることになると心得よ。
  夜の明けそめる頃、大半が藁造りのインディオ達の家
 に火を放った。
  (キリスト教聖職者たちは止めもしない)、
  殺戮をほしいままにし、彼らに奴隷の焼印を押した。
  火勢が弱まるか、火が消えると、彼らは焼け落ちた家
 の中にある金を探しに出かけた。
  官吏たちとて例外ではなかった。
  キリスト教の司教も、その御利益にあずかろうと側近
 の者たちを派遣した。
  (ほら見ろ、キリスト教聖職者たちも欲にまみれた悪
 漢だったのだ)
  数人の無法者の総督が引き続きその地へ赴いた。
  生きのびたインディオ達を暴虐的な奴隷状態へ陥れ、
 挙句の果てに殺害した。
  また、彼らは部下たちが同じように振る舞うのを認め
 ていた。 
  (キリスト教聖職者も同罪・・キリスト教は、世界の
 あちこちでこんな事ばかりしている)
.
1581年、ポルトガルのアビス王朝が倒され、1581年以来、
 スペイン国王へりーぺ2世の支配を受ける屈辱のポルトガ
 ルの歴史が始まる、時代に入る。
  スペインは統一を完成し、まっとうして、中南米へと
 進出して行く・・そして、ここで悪名高い卑劣な虐殺を
 行なう・・1000万人以上というインディオの方々の殺戮
 の限りを行なう・・
  そのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、先住民
 のインディオの方々の殺戮の限りをし尽くし、50年とい
 う長年に渡る卑劣な行為を行なう・・そして、その悪に
 染まった殺戮者たちは太平洋へ出て来る・・
  ルソンへ進出する・・そして、ここを本拠とし・・
  日本と接触を始める。
  日本は信長・秀吉の時代だった。
  そして、日本を中米・南米などのアメリカ大陸と同様
 な植民地にしようという魂胆でやって来る・・その任務
 を秘めたキリスト教宣教師たち・・
  しかし、その魂胆が見破られ・・また、許可を得て始
 めた南蛮貿易での悪行・・若い日本の女性を海外へ連れ
 去る人身売買の悪行が見破られ・・陰で悪行の限りをす
 るキリスト教宣教師たちは「国外対処処分にされる」。
  おとなしく言われるように日本を去ったものは何事も
 無かったが・・命令に反して潜伏したキリスト教宣教師
 たちが悪の根源だった・・
  今・現在、キリスト教は、「禁教だ」「禁教だ」と叫
 ぶが、キリスト教側が命令に従わない事から、何事も話
 が始まるのだ・・身から出た錆、キリスト教の悪行から
 発しているのだ。
  「長崎の26聖人」なんて言っているが、命令違反の潜
 伏キリスト教宣教師たちにたぶらかされた犠牲者たちだ。
  そして、豊臣秀吉は、1598年に没する。
  時代は徳川家康の手に移って行く・・そして・・
  1600年を参照・・
.
1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後(大分県)に来た。
  それに先立つ12年前の1588年、スペインは、世界に君
 臨していた無敵艦隊を壊滅させられた。
  極悪のスペインの命運はここまでだった。
  海上権を失ったスペインの悪行もここまでだった。
  スペインからの独立戦争を戦っていたオランダと、そ
 のオランダを支援していたイギリスに、その主導権は移
 る・・、
  スペインは政治的にも、また、経済的にも後退して行
 った。
  オランダ・イギリスは、1595年以来、国を挙げて東洋
 航路を開拓していた。
  オランダは、1598年、5隻の艦隊をマゼラン海峡を回る
 航路で東洋へ向かわせた。
  そして、その1隻が、僚船を失いながらも、1600年に、
 日本の豊後に至ったのだった・・その船がリーフデ号。
  徳川家康は、その船の航海長のイギリス人ウィリアム・
 アダムスを大阪に呼びつけ、オランダとイギリスとの貿
 易を許した。
  オランダは、すぐに応じて、ジャワを根拠地とした。
  そして、1609年、平戸に商館を建てた。
  イギリスも、1613年に、平戸に商館を建てた。
  そして、徳川家康から自由貿易の朱印状を得て、盛ん
 に貿易を始めた・・日本は開かれていた。
  ポルトガルは、独占的な対日貿易権を失った。
  それと同時に、ポルトガル系の日本イエズス会にも大
 きな打撃が与えられた。
  はじめポルトガルが、日本のキリスト教の布教を始め
 ていた。
  1585年1月には、ローマ法王(教皇)の「日本布教は、
 ポルトガル(イエズス会)がせよ」という命令も出てい
 た。
  しかし、その様な命令も無視され、スペイン系フラン
 シスコ会が日本に来て布教を始めた。
  この様な事で、キリスト教の会派同士の確執と争いが
 生まれた。
  この様な事からローマ法王(教皇)は、1600年12月、
 前言を取り消して、再度、命令を出した・・
  「諸会派が日本で布教しても良い」・・と。
  ここに「ポルトガルイエズス会」の日本布教の独占権
 は破棄された。
  そこで、1602年、スペイン系の諸会派が、日本布教を
 始めた(ドミニコ会、アウグスティノ隠修士会)
  そして、1608年6月、また再び、ローマ法王(教皇)は
 命令を出し・・
  「日本の布教は、完全に自由だ・・みんな勝手にやり
 なさい」・・と。
  誰がやっても良いぞーという中で、ポルトガルのキリ
 スト教会派とスペイン系の会派は、日本で陰湿な争いを
 始めた。
  この両国は、国民感情も対立していて、キリスト教会
 派も対立が激しかった。
  いがみあいは、特に、イエズス会は、各会派から集中
 的に激しい論難が加えられていた。
  この対立は根深く、陰湿で、対立解消には至らなかっ
 た。
  家康は、キリスト教が素晴らしい宗教だから布教を許
 したなどという事では、当然、無く・・
  家康の目的は、貿易を独占的に行うことと、新しい西
 洋の技術を得ることにあった。
  1599年には、早くも家康は、江戸における布教を許し
 ていた。
  そして、浦賀を開港していた。
  そして、鉱山採掘技師を連れて来させたりしていた。
  1602年には、江戸及びその周辺の布教に拡大した。
  キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、日本の状況
 が陰湿な状況へ捻じ曲げられているが・・キリスト教が
 悪いことをしなければ、日本は、大変、開明的だったの
 です。
  (参考)開明的:かいめいてき、優れた洞察に基づい
     て、新たな分野に積極的に取り組むさま。
     ・
     ・
1941年、アメリカは、日本を煽(あお)るため、アメリカ
 軍艦に日本領海侵犯航行をさせた(今の中国みたいなも
 のだ)
  策士・ルーズベルトは、何としても最初の一発を日本
 に撃たせたかった。
  また、日本が、先に、撃った事にしたかった。
  アメリカの国民の方々は、8割以上が戦争反対だった。
  ルーズベルトは、その世論を無視して、日本を煽(あ
 お)るために、1941年に、アメリカ巡洋艦を日本領海内
 に侵入させた。
  そして、日本と「衝突事件を引き起こそう」と不埒(
 ふらち)な事をさせていた。
  また、日本への石油の輸出を止めた。
  今・現代でもそうだが「石油が止まったら、国の息の
 根は止まる」・・ルーズベルトは、この様な戦争が起き
 かねない重大な事をした。
  そして、ルーズベルトがした事は、「ハル・ノート」
 だった。
.
1941年4月、本当の日米開戦
  日本へ隠密に奇襲攻撃をするアメリカだった。
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた史実・事実・
 真実となっている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲の悪名
 は、この史実から・・『ない』と言える。
  既に、アメリカの奇襲による先制攻撃で、日本とアメ
 リカは交戦状態にあった。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで奇襲した・・
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦していた。
  れっきとした日米の戦争状態で、アメリカは言い逃れ
 できない。
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯で卑劣な事をするアメリカであるが・・、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳をした・・、
  そして、真珠湾では・・
  日本が真珠湾の攻撃をする前に、アメリカ軍が、航行
 速度が遅い日本の潜水艦は、先行して真珠湾に達してい
 て、この先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃の前に、アメリカが日本の軍艦を攻
 撃して、戦端を開いていたのだった。
  この時、アメリカは『あれはクジラだった』と、また
 また、アメリカは苦しい言い訳をした・・が・・、
  5隻の日本の潜水艦が未帰還になった。
  この5隻のすべてを、アメリカは「クジラだと言いたい
 のか?」。
  また、1隻に2人の搭乗員が居て、9名は戦死したが、1
 名の日本の搭乗員をアメリカは救助した。
  クジラから出て来た日本の潜水艦の搭乗員である。
  アメリカは、言い訳ができないのである。
  そして、また、この中国でのアメリカの日本への先制
 攻撃を、最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与え
 る』という命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしていた
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である・・交戦である・・戦争状態
 に入る事である。
  れっきとしたアメリカの宣戦布告なしの開戦である。
  アメリカの奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に、この動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカは、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いう事実をアメリカは国民に公表せよ・・、
.
1941年11月27日、戦争へ向けて暗躍するルーズベルト大統領
  第二次世界大戦の重要史料である「モンゴメリー・ハ
 イド文書」などが、100年後の2041年まで秘密にされた。
  都合が悪いから、秘密にする期間を延ばした。
  都合がよければ、逆に、どんどん公開するわけだ。
  本・『操られたルーズベルト』より
  ・・・
  ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃の舞台回しをして、
 (日本軍の)来襲があることを知っていたことの最も反
 論できない証拠は、H・モンゴメリー・ハイド『3603号室、
 イギリス諜報機関の話』に出ている。
  この本は、ロックフェラーセンターの36階3603号室で
 執務していた、イギリス秘密機関長ウィリアム・ステフ
 ェンソンが、日本をアメリカとの戦争に引き込み、従っ
 て枢軸国との戦争へアメリカを引き込むことを、ルーズ
 ベルト大統領や他のアメリカ高官と謀議したその詳細を
 記述している。
  モンゴメリー・ハイドは、さらに詳細に述べている(
 以下、同書より引用)
  「ステフェンソンはイギリス籍で、日本で50年過ごし
 たエージェント(工作員)を、栗栖使節団に潜入させる
 ことにある程度成功した。
  このエージェントは、栗栖使節団のユキという人物に
 接触し、あらかじめ会話を盗聴する仕掛の設備をしたワ
 シントンのアパートで幾回か会った。
  この記録から得られた情報は、文書化され、そのコピ
 ーはステフェンソンによって、毎日、ルーズベルト大統
 領に届けられた。
  これは、当時、暫く前から傍受解読されていた東京と
 ワシントン間の外交電報を補強するものであった。
  1941年11月27日、ルーズベルト大統領は、彼の息子ジ
 ェームズ・ルーズベルトに、特別のメッセージを持たせ
 てステフェンソンのところへ送ったが、その意図は、イ
 ギリス外務省もワシントンのイギリス大使館もまだ分か
 っていなかった。
  その同じ日に、ステフェンソンは、それをロンドンに
 送った。
  彼の電報は、次のようなものだった。
  『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  私は繰り返します。
  電報は、『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  想像されるように、この電報は、ロンドンに巨大な激
 動を与えた。
  そこで、ワシントンにいたハリファックス卿(訳注・
 駐米イギリス大使)に、直ちに、電報してその確認を求
 めた。
  他の至急報がロンドンから、今度は、ステフェンソン
 宛てに出されたが、それは、首相と閣僚が彼の情報源を
 知りたいというものであった。
  ステフェンソンは簡単に返電した。
  『(情報源は)アメリカ大統領(ルーズベルト)』
  2日後の11月29日に、コーデル・ハルは、ハリファッ
 クス大使に会い、そのニュースを公式に伝えた。
  その際、コーデル・ハルはこう言った。
  『日本との外交関係は事実上終わった。
  仕事は、既に、陸海軍の手に渡った。
  日本は、今や突然に動き、それも完全な奇襲の要素を
 持つであろう』」
  ヒルダーとルーズベルトの娘婿のドール大佐とのやり
 取り
  ◆ヒルダー:私は、丁度、1971年3月26日付ロサンゼル
 ス・ヘラルド・エキザミナーの「秘密報告」と題する記
 事を見ました。
  ジョン・チェンバレンは、そのコラムで、他の一人の
 CFRのメンバー、故トム・デューイ元ニューヨーク州
 知事、共和党から大統領候補として出たデューイはパー
 ルハーバーの真相を知っていた、と書いています。
  この記事でチェンバレンはデューイ知事に個人的にイ
 ンタビューしたと述べています。
  「1944年になってデューイは、『パールハーバーのし
 ばらく前、最高機密の日本の暗号が破られ、次の日に、
 太平洋の何処かで攻撃が始まることを、ホワイトハウス
 は15時間以上前に知っていたことが分かった』と言って
 いた。
  正確な位置は指摘できなかったにしろ、太平洋のあら
 ゆる我々の基地は警報されるべきであったのです」
  ◆ドール:12月7日のその日曜日の朝9時、奇襲攻撃の
 約4時間前に、スターク提督は、彼の部屋で14項目の日本
 の返事を受け取り、一緒にいたマーシャル将軍に向かっ
 て叫んだ。
  「大変だ!これは戦争だ」。
  「直ぐキンメルに知らせなくちゃ」
  ヒルダー:もし彼が電話でキンメル将軍に通報してい
 たとすれば、奇襲は避けられたでしょうか。
  ドール:はい、私はそう思います。
  ロバート・A・セオボールド提督は、『真珠湾最後の秘
 密』の中に、電話連絡はされなかったという事実を書い
 ています。
  今でも、アメリカの大衆に「完全には明かされていな
 い」、
  何らかの強い力、あるいは圧力が、キンメル提督に適
 切、迅速に警報することを止めたのです。
  キンメル自身が私にこう語りました。
  「スタークは、『我々はキンメルに無電を打って、警
 戒させなければならん』とマーシャルに言いましたが、
 彼はそれを止め『それはやめよう、そうすると日本人に
 気付かれ、事態を複雑にする。
  私は後から彼に電報しよう』。
  彼は、確かに、商業通信線を使う普通電報で私に知ら
 せたのです。
  至急便ではなく、普通便扱いで。(その結果)すべて
 の爆弾が落ちてしまって約2時間後、確かに、私は、マー
 シャルの電報を受け取ったよ」
  ヒルダー:マーシャルもCFRのメンバーですか。
  ドール:確かにそうでしょう。
  ヒルダー:マーシャルの行動はとても理屈に合いませ
 んね。
  日本人に探知されると事態を複雑にするから、キンメ
 ルへの通報を止めさせるというのは、大変不思議ではあ
 りませんか。
  ドール:もちろん非常に不思議です。
  (参考)
  12月8日を記憶せよ!
  「私は決して宣戦はしない。私は戦争を造るのだ。」
  カーチス・B・ドール著『操られたルーズベルト』
.
1953年6月19日、この日の夜、ローゼンバーグ夫妻の死刑
 執行がアメリカ合衆国でなされた。
  ソ連のスパイとして、核機密を、ソ連へ漏洩したロー
 ゼンバーグ夫妻だった。
  日本で、この夫妻の無実を訴えて、救済運動に関わっ
 た共産主義者が多かった。
  そして、近年、夫妻が、本当に有罪だったことが確認
 された。
  それでも、「しらばくれる日本の共産・左翼の知識人
 たち」だった。
  反論すると墓穴を掘ると思うから、議論をしないとい
 う卑劣な態度をとった。
  この様な事は、キリスト教の神学者や聖職者たちにも
 言える。
  最近、「ヴェノナ文書」が公開されて、ローゼンバー
 グ夫妻が、実際に、スパイ活動を行なっていたことが明
 らかになった。
  刑の執行は、ニューヨーク州シンシン刑務所で、同じ
 電気椅子で、最初に、夫ジュリアスが午後7時6分に執行
 され、次に、妻エセルが午後7時16分に執行されるという
 やり方で、それぞれ処刑された。
.
1960年代の半ば、エドガー・スノーは、中国のプロパガン
 ダに心酔し、中国共産党にべったりという状態になる。
  1960年代の半ば頃、そのあまりにもおかしいスノーに、
 ジャーナリストとして客観性を欠いていると批判が出る。
  そして、スノーもさすが自分が毛沢東に騙(だま)さ
 れていると、中国に対して懐疑的になった。
  「今日の赤い中国」で有名になるが、大躍進による大
 飢饉(中国国民の4000万人が死んだと言われている)を
 否定する。
  (そんなことは起きていない・・と)など、
  しかし、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批
 判され、スノー自身も、「後に自らの無知を認めている」。
  1970年~1971年、エドガー・スノーは、妻を伴った最
 後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領
 は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述
 べている。
  ホワイトハウスは、このスノーの訪問に興味を示した
 が、スノーを信頼していなかった。
  しかし、この時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、
 スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇
 帝崇拝の伝統がある」と言った)や・・、
  革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・
 拷問された(周恩来の介入で、スノーは生還できた)こ
 となどにより・・、
  中国共産党率いる中華人民共和国に対して、幻滅の感
 を持つに至った。
  そして、中国へのゴマすり小説の『中国の赤い星』を
 書いたことを後悔していると妻へ語った。
  ユン・チアンとジョン・ハリディは、「マオ(誰も知
 らなかった毛沢東)」で、スノーを、毛沢東のスポーク
 スマンで、毛沢東の神話化に加担した、そして、共産党
 をロマンチックに描写していると批判した。
  また、ジョナサン・ミルスキーも、スノーは、周恩来
 や毛沢東からの信頼を得ていることに満足していたため、
 大躍進の(巨大な中国国民の死)の被害を見ることもで
 きなかったと述べている。
  しかし、それでも中国は、「スメドレー・ストロング・
 スノー協会」を組織し、プロパガンダ(嘘宣伝)映画も
 作り、せっせと世界を誤魔化している。
  2006年、ロイス・ホイラー・スノー夫人は、インタビ
 ューで、「彼は、今日の中国の姿を、決して是認しなか
 ったでしょう」と語り、中国の何事に対して、不誠実な
 姿を批判している。
.
1972年、中国の「第二期対日解放工作要領」
  中国は、情報工作を必死にやって来た。
  「32年テーゼ」がある。
  (参考)32年テーゼ:1932年5月に、コミンテルンで決
     定された『日本における情勢と日本共産党の任
     務に関するテーゼ』のこと。
      日本から片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参
     加し、討議している。
  また、強く日本へ影響を与えた1972年に出された「第
 二期対日解放工作要領」がある。
  この中には『日本をまるまる中国共産党の為に利用す
 るには、日本国民を心理的に取り込む必要がある」と書
 かれている。
  そして、1998年の「21世紀の中日関係の展望」でも「
 日本は、もはや政治大国になれないのだから、中国の為
 に日本の力、特に、その経済力や技術力を活用しなけれ
 ばならない。
  日本人をコントロールするため、日本人に歴史問題を
 突き付けて、日本人を後退させる」と書かれている。
  そして、日本国内の大学のあちこちに孔子学院を作っ
 ている。
  ドイツのメルケル首相が「儒教でも教えるのかと思っ
 たら、中国のプロパガンダ(中国思想の洗脳機関)だっ
 た」と嘆いたごとくだった。
  今、世界が、中国の嘘宣伝工作に気付いて来た。
  アメリカは、「孔子学院の閉鎖の大統領令が出された。
 アメリカでは、孔子学院が次々と閉鎖されている。
  しかし、中国の陰湿なしつこさは、「各大学に中国研
 究センターの類いを作らせてところだ」。
  非常に重層的に、中国は、世界の工作網を作っている。
  中国のプロパガンダの歴史は、非常に長い歴史がある。
  中国にとってこのようなレベルは、お手のものなのだ。
  日本では、「日本学術会議が取り込まれている」。
  日本学術会議は、「戦争反対を美しい名目にして、日
 本の防衛に必要不可欠な研究成果を使わせない」として
 いる。
  中国が喜ぶだけだ。
  日本学術会議が、中国に取り込まれる歴史は、非常に
 古い。
  その1例、1955年6月、日本学術会議は、多くの面々が
 顔を連ねて、東大総長を団長として、中国へご機嫌うか
 がいの北京訪問をする。
  そして、工作員上がりの郭沫若と会う。
  そして、挨拶で、「中国のお役に立てる研究者たちを
 連れて来ました。
  それが、何よりも一番の中国のお役に立つお土産にな
 ると思いまして」と挨拶する。
  日本の技術を欲しがっている中国の要望に応じるとい
 う日本学術会議となっている。
  公然たる「日本裏切り団」となっている。
  「産業スパイ団」となっている。
  また、これは、「チンコム(対中輸出統制〉違反」と
 なっている(1957年まで実施)。
  そして、この時、郭沫若は、繰り返し繰り返し強烈な
 毛沢東讃美演説をしている。
  日本学術会議の面々は、この様な中国共産主義思想の
 洗脳を受け、そして、タイコモチ化した日本学術会議の
 面々が日本に帰って来た。
  この様な、中国のしつこい行為の繰り返しがなされて
 いた。
  1940年代の延安に逃げて、隠れていた中共は、ここで、
 中共が何をやっていたかを知っているはずの日本学術会
 議団なのに、洗脳されて、有り難がって日本に帰って来
 た。
  延安の中共が、中国国民の方々を、大勢、殺すという
 大粛清をしていることも知っていて・・、
  そして、目の前に居る人たちが、その様な虐殺行為を
 していることも知っているのに、まったく思い出せない
 という洗脳の輩状態となっている。
  そして、その後に、日本への裏切り行為をする。
  折角の研究成果を、日本に使わせないという、中国が
 喜ぶ行為をする。
.
1979年、古田博司氏(筑波大学教授)は、若い時、共産主
 義にかぶれ、共産主義の本質がまだ見れていなかった。
  26歳の時、憧(あこが)れ続けていたソ連へついに旅
 立った。
  社会主義国の素晴らしさが見たかった。
  ソ連では監視員が付き、自由に見ることを拘束された。
  古田氏は、監視員をまいて、自由の身になって、裏町
 を見るのが好きだったので、勝手に歩き回った。
  すると、ソ連の街中では、失業者の群れに出くわした。
  社会主義国には、失業者は居ないと教えられていたの
 にと・・言われている事と実際がまったく違うという現
 実を見た。
  町の建物の壁には、「旋盤工を求む」とか、「ミシン
 工を求」とか、求人の貼り紙が張ってあるし、平等に皆
 に仕事があると聞いている話とまったく違った。
  食糧は、集団農場で、毎年、増産されているという話
 もデッチアゲで、野菜売り場には巨大な瓜があるだけと
 いう貧弱さ。
  色々と見て、今まで話に聞いていたことは、まったく
 のプロパガンダ(嘘宣伝)であるという事がすぐに分か
 った。
  共産主義国は、この様な話が満ちていた。
  ソ連は、その後、破綻するが・・、
  共産・中国は、今なお、中国共産主義独裁政権が政治
 を牛耳っている。
  ・・が、このソ連の例が、この国にも当てはまる様相
 になりそうだ。
  虚偽によって「世界をだぶらかせている」。
.
1991年1月、橋本龍太郎蔵相が訪中した。
  この行動が罪作りで最低だったのは、中国が天安門事
 件で、中国の自国民を戦車で轢(ひ)き殺し、また、中
 国人民解放軍が(解放軍なんて呼べないような行為をし
 た軍)、自国民へ向かって銃を乱射した。
  大勢の中国の方々が亡くなった。
  100万人の規模で集まった中国の現政権への不満を持っ
 た人々・・この様な天安門前の中国の民を卑劣なやり方
 で殺し、抑え込んだ。
  当然、全世界から非難の嵐となった。
  この様な残忍で凶暴な「人権弾圧への非難の嵐」の中
 国へ、国際社会が強く抗議し、制裁している中国へ、こ
 の馬鹿な日本の蔵相の橋本龍太郎は、最低にも、ゴマす
 り訪中をした。
  最初の先進諸国のトップ級の恥ずかしい訪問劇となっ
 た。
.
2005年、中国の毛沢東の伝記「マオ(誰も知らなかった毛
 沢東)」(講談社)が出版された(著者:ユン・チアン
 氏)。
  この中で、毛沢東が、大躍進政策で約4000万人もの中
 国国民を死に追いやったと記されている。
  中国は、きちんとした説明はしていない。
.
2006年10月、チベットの仏教僧侶が亡命しようとしたとこ
 ろ、中国の人民解放軍が銃撃して殺した。
  この映像が珍しくネットに流れた。
  しかし、この事件に対して、日本のNHKはじめメデ
 ィアは、まったく「ホッカムリ」して報道しなかった。
  報道したのは、僅(わず)かに「産経新聞」と「週刊
 新潮」だけだった。
  NHKはじめ日本のメディアは、中国を怖(こわ)が
 って報道しなかった。
  アメリカのオバマ大統領も北朝鮮の核が怖くて、しっ
 かりした対応ができなかった・・その結果、とうとう北
 朝鮮は、核を持ってしまった。
  だから今、トランプ大統領が大変な苦労をしている。
  正義をかざして闘う姿勢を示さない「NHKはじめ日
 本のメディア」の腰抜け状態。
  日本国民の方々は、まったく気づかずに置かれる状態
 になっている。
  NHKという放送局は、日本国内の殺人事件ばかり報
 道して、海外を報道しない傾向にある。
  「殺人事件好き(すき)」のNHKとなっている。
.
2007年6月27日、アメリカ下院で、「慰安婦問題に関する
 対日謝罪要求決議」がなされた。
  日本は、アメリカのこの「2007年6月27日の『対日非難
 決議(アメリカ下院外交委員会)』を可決」は問題だっ
 たと「取り消し決議を要求するべきだ」。
  この決議案には間違いがあまりにも多い。
  多くの史実において間違いが存在する。
  また、卑劣な多くの史実の歪曲がある、そして、悪意
 ある捏造に満ちている。
  日米首脳会談の折の話し合いの議題の一つとすべきで
 ある。
  この様な決議が、アメリカ下院の外交委員会で可決さ
 れてしまう根本には「長年にわたる中国のプロパガンダ
 がある」。
  今・現代も続く、この様な中国の卑劣なプロパガンダ
 の存在を「アメリカに認識させる意味」でも、この様な
 「間違った決議を訂正させる行為は、重要なのだ」。
  「ただ単に、過ぎ去った過去の間違い決議の名誉回復
 のために『訂正を要求するという話』とは違うのである」。
  中国が捏造して、長年、行って来た中国の嘘の歴史の
 植え付けの洗脳行為を気付かせる行為は、『重要な外交
 会談の議題』なのだ。
  この重要性を、また、必要性を、御感じ戴きたい。
  アメリカの議会には、何度も事実に基づかない話が上
 程(じょうてい、議案を会議に欠けること)されている。
  日本を貶(おとし)める「中国のアメリカへの働きか
 け」は、しつこいのだ。
  この様な捏造の作り話に、日本は丁寧に、その総べて
 に反駁する必要がある。
  この様な日本を失墜させる行為には、必ず、事実を説
 明する必要が当然ある。
  馬鹿々々しい話が、黙っていることによって「本当な
 のだ」の話に代わって行くのである。
  例えば1例・・、
  「慰安婦の中には13歳という若さの少女や、自分の子
 供から引き離された女性も含まれ、彼女らは、自宅から
 拉致されたりした。
  さらには、多くの慰安婦は最終的に殺害されたり、交
 戦状態が終了した際には自殺に追い込まれた。
  その結果、歴史家は、20万人もの女性が奴隷化され、
 その内わずかしか今日まで生存していないと結論付けて
 いるという」と記されている。
  これは、まったくあり得ない・・完全な作り話である。
  この様な事を見過ごす日本外交は、あり得ない。
  これらの一つ一つに丁寧に反駁していくことが、『日
 本外交の最重要課題である』。
  他に最重要課題があるからと、この様な日本の一番大
 切な「日本の立ち位置を覆(くつがえ)されている状態
 を放置する事が無いようにせよ」。
  その一つ・・、20万人なんてまったくあり得ない嘘で
 ある。
  20万人と言えば、1945年3月10日、アメリカが、大規模
 で東京を大空襲した。
  この時、大勢の方々が焼き殺されたが、その犠牲者の
 倍である。
  広島の原爆の犠牲者よりさらに多い。
  その様な大虐殺を日本軍が、終戦時に行ったというの
 ならば、その史実的根拠を示せ!
  その責任は、『アメリカにはある』。
  ただ、中国から言われたから、プロパガンダされたか
 らでは済まない。
  アメリカは、その総べてについて根拠を示せ!
  そのことが出来ないなら、『アメリカは、訂正決議を
 せよ!』。
  過去の決議を破棄し、日本へ謝罪せよ!
  事実・史実・真実を先に言うのならば「事実無根であ
 る」。
  中国のプロパガンダの『そのままである』。
  また、日本の議会は、このアメリカの決議の『非難決
 議をせよ!』。
  国際司法裁判所へ「アメリカの名誉棄損を訴えよ!」。
.
2016年、日本企業の海外進出ランキング
 1.中国--------- 32,313(55.1%)▲1,077(▲3.2%)
  2.アメリカ----- 8,422(14.4%) 573( 7.3%)
 3.インド------- 4.590( 7.8%) 275( 6.4%)
 4.ドイツ------- 1,811( 3.1%) 34( 1.9%)
 5.インドネシア-- 1,810( 3.1%) 113( 6.7%)
 6.タイ---------- 1.783( 3.0%) 58( 3.4%)
  7.ベトナム------ 1,687( 2.9%) 109( 6.9%)
  8.フィリピン---- 1,440( 2.5%)▲ 8(▲0.6%)
  9.マレーシア---- 1,362( 2.3%)▲ 21(▲1.5%)
 10.台湾---------- 1,152( 2.0%) 27( 2.4%)
 11.シンガポール-- 1,141( 1.9%) 25( 2.2%)
  12.メキシコ------ 1.111( 1.9%) 154( 16.1%)
  計 58,622(100 %)
  2016年の進出企業数、その%、前年比増減、伸び率
  中国への進出企業数が55%と圧倒的の多が、3%の減と
 撤退傾向にある。
  次に撤退傾向にあるのはマレーシア、フィリピンと続
 く。
  進出企業数の伸び率が高いのはメキシコで16%増。
  次がアメリカで7%増、
  その次が、ベトナム、インドネシア、インドの6%台。
  そして、日本のNHKはじめマス・メディアなど一般
 紙も、中国に進出した日本企業が、どんなに悲惨な目に
 遭(あ)っているか、まったく報道しない。
  中国に進出した日本の銀行が、中国企業に貸した金が、
 次々に不良債権となり、金が回収できない。
  そこで、それを取り戻そうと裁判を起こそうとするが、
 卑劣な事に、「その裁判を起こそうとする事が禁止され
 る」。
  中国では、法も正義もあったものではないことが起き
 ている。
  中国の有利なように、何でもくるくる変えられてしま
 う。
  WTOに加盟した中国は、そのWTOの規約も何もあ
 ったものではない国と化している。
  しかし、日本のNHKや新聞は、これを報道しない。
  この様な事に限らず、中国共産党の熾烈(しれつ)な
 権力闘争も、まったく報道しないし、中国の本当の経済
 状態も報道しない。
  日本国民をまったくつんぼ桟敷に置いている。
.
2018年、アメリカでは、ルーズベルトの評価が割れている。
  アメリカ経済をニューディール政策で復活させた聡明
 な大統領だと評価するグループ。
  しかし、その見方は浅い。
  ルーズベルトを評価しないグループの方々は、もっと
 深い見方をする。
  道路やダムなどの公共土木事業だけで経済を復活させ、
 人々の賃金を上げ、生活苦の人々を援助できる復活は無
 理だったと指摘する。
  しかも、その時は、史上まれに見る大不況・恐慌に見
 舞われていたのである。
  聡明なルーズベルト派もそのことを知っていて、且つ、
 ルーズベルトは、それまでの職歴から、戦争による経済
 回復の実例を良く知っていた。
  ルーズベルトは、確信的に戦争を起こしたいと思って
 いた。
  本格的にアメリカ経済を回復させるには、戦争による
 浪費と、それに伴う大がかりな生産能力の拡大と、経済
 の拡大しかないと・・。
  ルーズベルトは、ニューヨーク州の知事を勤めたが、
 それ以前は、海軍次官としてアメリカ海軍の増強に全力
 を挙げた。
  その時に、日本との戦争計画に密接に関わった。
  ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
 計画(こんな計画がアメリカにあった)の中心に居た。
  それだけではなく、ヨーロッパへの参戦を含めて、戦
 争のすべてに、ルーズベルトは関われていた。
  戦争政治家そのものだった。
  そして、戦争によって、歴史が示しているように、景
 気の拡大は明らかにもたらされた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive  


2018年10月17日

(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年11月)

題:(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月2日、日本鉄道会社に対し、土浦・隅田川・磐城
 の3線の免許状を下付する。
  日本鉄道は日本初の私鉄。
  現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日
 本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営して
 いた会社だった。
  1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参
 加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定した。
  西南戦争などの出費で、国の財政が困窮していたこと
 もあり、鉄道建設は国が行なうべきという意見も強かっ
 たが、民間資本を取り入れて、早急に鉄道敷設をして行
 こうとの方針となった。
  1882年、川口~熊谷間から建設を開始、当初は貿易港
 がある品川、横浜と直結する計画であったが、山手の起
 伏が大きく建設費はより高額となることが見込まれたた
 め、まずは東京下町の山下町(現:台東区上野)を起点
 として建設が進んだ。
  1883年7月28日、第一区線の上野~熊谷間を開業、その
 後、第一区線の高崎、下前橋(内藤分停車場)への延伸
 (利根川手前)、赤羽~品川間の品川線(現在の赤羽線
 赤羽~池袋間と山手線池袋~品川間、1885年3月1日開業)、
 第二区線(大宮~白河間)、第三区線(白河~仙台間)、
 第四区線(仙台~盛岡間)、第五区線(盛岡~青森間)
 と順次建設して行った。
  1889年12月、第一区線を両毛鉄道(現:両毛線)の前
 橋まで延伸、
  1890年8月1日、日光線(宇都宮~日光)を全通。
  1891年9月1日、現在の東北本線全線(上野~青森間)
 が開業。
  この1891年には、水戸鉄道(現:水戸線小山~水戸間)
 を買収、途中駅である友部を分岐点として1895年11月4日
 に友部~土浦間の土浦線(現:常磐線)北部区間を開業。
  1896年12月25日、土浦~田端間の同南部区間を開業。
  1897年、両毛鉄道を買収し、
  1898年8月23日、水戸~岩沼間の磐城線(常磐線、日本
 鉄道での路線名は海岸線)を全通させた。
.
1894年11月5日、京都鉄道に対し、京都~宮津間、綾部~和
 田山間、舞鶴~余部間の建設免許状を下付した。
  京都鉄道は、1893年に設立された民営鉄道。
  舞鶴市までの鉄王敷設が課題となっていた。
  断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所
 を越える保津峡の難工事があった。
  1900年に、京都~園部間が開業するが、園部以北へは
 資金難のため工事が遅々として進まなかった。
  政府は、舞鶴鎮守府開庁に続き、京都から舞鶴へ通じ
 る鉄道の建設は国策遂行上必須として・・、
  1902年4月、政府自らの手で、京都から舞鶴へ通じる鉄
 道の建設を開始した。
.
1894年11月6日、金州城を攻略した。
  遼東半島に上陸し、清国軍の重要拠点であった金州城
 を攻略した(詳細は前記を参照)
.
1894年11月8日、仮名垣魯文が死去した。
  (1829年2月9日~1894年11月8日、享年65歳)草双紙、
 滑稽本作者、戯作者(ゲサクシャ)、新聞記者。
  (参考)草双紙:くさぞうし、江戸時代、大衆を対象
     に書かれた絵入りの小説本。文章は平仮名が多
     く、赤本や青本、黒本、黄表紙、合巻物などが
     あった。
  江戸京橋の魚屋というまったくの庶民の生まれで・・
  幼少から奉公に出て、その先の大通人である細木(津
 国屋)香以の愛顧を受けて戯作好きとなって行った。
  そこで花笠文京の門に弟子入りし、戯作者の道に入っ
 た。
  ヒット作は、1860年の「滑稽富士詣」で、十辺舎一九
 の「東海道中膝栗毛」に倣って書く・・
  そして、瓦版や流行歌などを書いた。
  滑稽本『滑稽富士詣』 (1860年~1861年) で戯作者と
 して認められ・・明治に入って『西洋道中膝栗毛』 (1870
 年~1876年) 、『安愚楽鍋 (あぐらなべ) 』などの開化
 風俗を描く滑稽本があたり、流行作家の代表作家となっ
 た。
  1874年から、「横浜毎日新聞」の雑報記者となる。
   1875年『仮名読新聞』 (『かなよみ』) を自ら編集者
 として創刊し・・「鳥追阿松海上新話」(久保田彦作著)
 などの新聞連載小説を始め、やがて明治式合巻として刊
 行し、「仮名垣派」の明治戯作全盛時代を迎える。
 「いろは新聞」「魯文珍報」などで、雑報記事、続き物、
 劇評などに筆をふるった。
  また、合巻「高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃ
 ものがたり)の当たり作を刊行し評判となった。
  教科書などにも活躍し、常に時流を見極め、多くの新
 聞に関係し、新聞小説の土台を築いた。
.
1894年11月19日、青梅電気鉄道の立川~青梅間が開通して
 営業開始された。
  中央本線の立川駅を起点にして、多摩川に沿って北上、
 奥多摩駅に至る37.2kmのJR東日本の営業線。
  1920年~1929年、日向和田―御嶽(みたけ)間を延長し
   て開業され、
  1923年電化して、
  1929年社名を青梅電気鉄道と改める。
  1944年、御嶽~氷川(ひかわ)(現:奥多摩)間は、奥
   多摩電気鉄道として全通し・・
  同年・1944年、国有化された。
  当初は、石灰石の積出し線であった。
.
1894年11月20日~21日、井上馨公使が、朝鮮内政の改革要
 領20ヶ条を朝鮮国王に上奏し、提出した。
  清国が、朝鮮は「独立の一国」であるのに、「朝鮮を
 もって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉」していた。
  日本は、ただ言うだけではなく、朝鮮の改革が成功す
 るように導く努力する義務をも負う覚悟であった。
  (この後の、日本の鉄道敷設や、大学など小中学校な
 ども建設に励んだ、また、病院や街道などの社会資本充
 実に貢献した・・などなど・・この事などが、この日本
 の本物の誠意を示している)
.
1894年11月21日、日清戦争: 旅順口(りょじゅんこう)の
 戦い
  旅順要塞が陥落した。
  中国・清国の遼東半島の先端に位置する旅順は・・、
  対岸の威海衛(いかいえい)とならんで清国・北洋海
 軍(李鴻章が率いる)の重要な拠点・基地となっていた。
  日本をさんざん威圧し、脅(おど)して来た巨艦を持
 つ清国・北洋艦隊の基地だった。
  また、中国・清国の海上輸送の要(かなめ)の地だっ
 た。
  この為、日本は、この重要拠点の地を攻めた。
  この旅順の攻略にあたったのが、大山巌(おおやまい
 わお、西郷隆盛のいとこ)が率いる第二軍だった。
  1894年11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、
 秋山好古(あきやまよしふる)少佐の騎兵第一大隊が清
 軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強
 いられた。
  しかし、3日後の1894年11月21日の攻撃では、旅順の大
 部分を占拠し、旅順要塞は陥落した。
  日本は、明治維新から富国強兵で国力の強化に努めて
 来たが、欧米諸国は、まだまだ、日本がアジア第一の強
 国・清国にこの様な目ざましい戦いをするとは思っても
 いなかった。
  どの国も日本が敗北するだろうと見ていた。
  欧米列強諸国は、清国の最強の「東洋のジブラルタル」
 といわれた旅順を見事な迅速さで攻略した日本に目を見
 張った。
  特に、攻略戦の迅速さは見事だった。
  この第二軍には、教科書にもよく出る著名人が参加し
 ていた・・軍医として派遣された森鴎外(作家)、記者
 として国木田独歩(作家)、西洋画家の浅井忠など・・、
  日本の勝因は、動員・兵站・指揮のシステムなどが近
 代軍として清軍に対して優れていて・・
  近代化された日本軍は、基本的に、終始、優勢に戦局
 を進めた・・そして、遼東半島を制覇した。
  この戦いを振り返ると・・、
  1894年10月24日、大山巌大将が率いる第二軍が金州に
   上陸。
  1894年11月6日、金州城を制覇。
  1894年11月21日、日本軍1万5千は、清国軍1万3千に対
   して攻勢をかける。
    清国軍の士気は極めて低い状況・・堅固な旅順要
   塞が僅か1日で陥落する。
    日本側損害:戦死40名、戦傷241名、行方不明7名、
    清国損害:戦死4500名、捕虜600名・・で敗退・・
    旅順の攻略戦は、大変な困難を極めるだろうとい
   う欧米諸国の予想を裏切る迅速さだった。
    また、日本は、非常に厳しい軍律でこの戦いに臨
   んだ・・
    大山巌は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由(
   よ)って戦ふものなり」という訓令を発している。
  この戦いの後、いつもの様に中国の清国軍は卑劣な行
 動をとった・・中国はいつもこの卑劣な行為をする・・
  軍服を脱いで中国市民の中に隠れた・・
  これでは一般の中国市民に災禍が及んでしまう。
  この隠れた卑劣な中国兵の掃討を日本軍は行った。
  そして、南京事件と同じ様な嘘宣伝を始める・・
  中国に居る日本軍が行なっていない行為を、「した」
 とプロパガンダ(嘘宣伝)を始めた・・
  日本軍が一般市民を虐殺したという嘘を言いふらした・・
  この結論を先に言うと・・世界各国は、『これは中国
 のデッチアゲの嘘発言』と了解し、解った。
  日本軍は、市街の掃討をするときには・・、
  市民の中から日本軍を狙う清国兵、「市民の中に隠れ
 た清国兵」「軍服を脱ぎ捨てた中国兵」を掃討する時に
 は・・、
  例えば、日本の第二軍司令部は・・各人・各家の安全
 を保証する措置を講じ、安心するようにと言った・・
  紙あるいは布に、「此者殺すべからず、何々隊」とか、
 「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文を中国
 の人たちに渡した。
  そして、人々に、民衆に、落ち着きを取り戻せるよう
 に配慮した。
  ほとんどの中国兵はすでに逃げていた・・
  1894年11月26日早朝に、九連城に入ると、すでに清国
 軍は逃げて、居ない状態となっていた・・無血入城とな
 った。
  嘘をでっち上げて日本を貶(おとし)める中国は・・、
  旅順陥落後の民間人や、戦闘を放棄した者の死傷者数
 について「18000名」と言っている(この後、2万名弱と
 言う)
  戦争は、巻き添えになる一般市民の方々も居るものだ
 が・・市街戦が行われば・・その様な方々の数について、
 外国などの報道機関は以下の数を公表している・・
  『タイムズ』(1894.11.28):200名
  『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20):2000名
  フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年):
 1500名
  日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍
 司令官への報告:1600名
  しかし、中国と裏でつながっているのか・・1894年12
 月12日になって・・『ニューヨーク・ワールド』の新聞
 (クリールマン記者の記事)は、旅順虐殺の嘘の捏造(
 ねつぞう)記事を、センセーショナルな書き方で報じた。
  初めは、きょとんとしていた他の新聞各社だったが、
 その後、各社はこれに追随した。
  この頃の新聞各社は、「販売部数を拡大しよう」とセ
 ンセーショナル記事を書いて競い合う状況にあった。
  その嘘つきの口火をきった『タイムズ』の報道に対し
 て、正直な『セントラル・ニュース』は、12月29日付け
 の新聞で、『正当な戦闘以外での殺傷はなかった』と報
 道した。
  また、ゲルヴィルによる証言:旅順陥落を目撃したニ
 ューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲル
 ヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンの報道するような虐殺は発生していないと証言した。
  また、さらに、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 で「虐殺は捏造されたものであった」と論じた。
  そして、また、ダネタン報告:ベルギー公使のアルベ
 ール・ダネタンの本国への報告調査では・・、
  事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多
 分(たぶん、量や程度が過大なこと)に誇張されたもの」
 と報告した。
  また、フランス武官ラブリ子爵は、「殺された者は軍
 服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されて
 いないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難
 しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
 と述べた。
  日本政府は、世界への説明書を書いて、はっきり反駁
 した。
  伊藤博文は、政府として正式な説明をした・・
  議会は、以下の通りと決定した。
  1.清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2.旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を
   脱いだ兵士であった。
  3.住民は交戦前に逃亡していた。
  4.逃亡しなかった者は、清国から交戦するよう命令さ
   れていた。
  5.日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、
   それを見知った者が激高した。
  6.日本側は軍紀を守っていた。
  7.クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容
   に驚いている。
  8.旅順が陥落した際、捕らえた清兵の捕虜355名は丁重
   に扱われ、二・三日のうちに東京へ連れてこられる
   ことになっている。
  この伊藤らが作成した説明書は、第七項を省いたもの
 が12月17日と、12月18日の両日に、アメリカの各新聞に
 掲載された。
  また、陸奥が、直接、アメリカの新聞社に説明すると
 いうやり方が、アメリカ側から好感された。
  そして、欧米諸国で、「虐殺は無い」として認められ
 た。
  欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」
 を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨー
 クワールド紙が・・ライバル紙と競い合って・・、
  イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を
 行っていたことが常識であり、定説となっている。
  ニューヨークワールド紙は、ニューヨーク・ジャーナ
 ル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇
 情主義報道で競争し・・、
  この他、世界でも、病的な好奇心だけを沸かす扇情的
 な記事で競い合っていた。
  虐殺は無いの証言も多く・・クリールマンの報道を耳
 にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ね
 たところ、「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいた」と否定した。
  ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で、日本への
 誹謗に反論していることから、扇動報道だったと結論付
 けられた。
  中国は、南京事件もそうだが、よく嘘をつく国だ・・
  この様な事をして『相手を惑わせる者が、能力のある
 者」と評価される中国の状況で、また、判断基準で・・、
  中国社会では、この様な事が「日常茶飯」として、歴
 史上で行われて来た。
  今・現代も、中国は世界中で、「多くの工作員」と「
 多額な資金」を使って盛んにこの類の工作を行っている。
  扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)の災禍を受
 けた日本だった。
  この火付け役のクールマンは、この時だけでなく、1888
 年の米西戦争の時も、この様な報道をして、世界を惑わ
 せ、世論を誘導している。
  この時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」と疑義が
 出されている・・美味しい書き方は止められないという
 ところだった・・
  それにしても、中国は、韓国と一緒になって、「南京
 事件だ」「慰安婦問題だ」と、今だに世界を惑わせ、ま
 た、自国民を惑わせている。
  中国、及び、その手先が言う下記の言葉はまったくの
 嘘のプロパガンダと世界は決定している・・
  「虐殺事件をおこし婦女子・幼児を含む非戦闘員6万人
 を虐殺」・・この数字も嘘つく中国は増やして行くだろ
 う・・こんな事ばかりしている国・中国なのだ。
  この様に平気で嘘を言ってばかりいる国・中国は、世
 界から制裁を加えられるべきだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:昔からプロパガンダばかりする中国・・平気で嘘
   を言ってばかりいる国・中国は、世界から制裁を加
   えられるべきだ。
.
紀元前1万6500年、日本で世界最古級の縄文土器が作られた。
  日本の古代史も世界に誇る状況にある。
  中国湖南省で発掘された約1万8000年前の土器がある。
  日本では・・大平山元(おおだいやまもと)I遺跡の縄
 文土器(約1万6500年前)・・放射性炭素年代測定から推
 定された。
  これらのことから、多くの研究者は、遅くとも1万5千
 年前には、日本列島で土器が使われていたとしている。
  他地域の最古の土器をみると、南アジア、西アジア、
 アフリカが約9000年前・・、
  ヨーロッパは、アジアより約1万年も遅い約8500年前・・、
  学校で教えられた「四大文明」の地と比較しても、日
 本は飛び抜けて古い・・、
  (参考)メソポタミア文明:紀元前3500年頃~
      エジプト文明:紀元前3000年頃~
      インダス文明:紀元前2600年~
      黄河文明:紀元前7000年?~
  ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5000年前
 と考えられる土器が発見されている・・、
  日本だけが古いと言うより、東アジア全体で古い時期
 に土器が生まれたと言える。
  ロシアでは、防寒や調理に使う「魚油」をとるために、
 魚を土器で煮ていた可能性が指摘された。
  この様に、土器使用の始まりには、漁撈(ぎょろう)
 も大きくかかわっていると推定されている・・古代オリ
 エント博物館研究部長の石田恵子氏(西アジア考古学)
  生まれた理由も様々・・
  中央大准教授の小林謙一氏(日本考古学)は・・、
  「土器の誕生は、当時の環境の変化と深いかかわりが
 あると考えられる」と説明・・、
  日本では・・氷河期が終わりに近づいた約1万6000年前
 ~1万5000年前、気温上昇にともない、亜寒帯的な森林か
 ら落葉樹も交じる森林へと変化した。
  その結果、ドングリなどの植物質の食料が入手しやす
 くなり、それらを食べるためのアク抜きに必要な容器と
 して、土器が生まれたのではないかと推定されている。
  国内最古と考えられている土器は、模様のない「無文
 土器」で、主に、東日本で出土している。
  しかし、約1万4500年前頃、粘土ひもをはり付けた「隆
 線文土器」と呼ばれる土器が生まれ、日本全国へと広が
 った。
  「堅果類であるコナラ、カシ、シイなどの分布が広が
 ったことで、土器も普及した」と推定されている(小林
 氏)
  日本列島では「最古級の土器は東日本に多いが、遅く
 とも約1万3000年前頃には、鹿児島でも無文土器が使われ
 ていた。
  北と南で、別個に土器が生まれ、それらが広がったと
 考えた方が良い」(南九州縄文研究会代表:新東晃一氏)
  また、シベリアで発掘された土器(約1万4000年前)も
 世界最古クラス・・
  縄・紐は、フランスにあるラスコー洞窟の最奥部で発
 見された約1万2000年前以前のものが現存する最古の縄。
    ・
    ・
    ・
1955年、新疆ウイグル自治区が設立された。
  中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分
 が置かれていた。
  国防力の弱さから蹂躙され続けた国だった・・そして・・
  新疆ウイグル自治区(国)という形をとって安定する
 のかと思えば、これが「すごろくの上り」ではなく・・
  結局は、この地域は、共産・中国の漢族の国家となっ
 て「上がりとする」という道を進まされている。
  国盗り状態である。
  かつて、満州族(女真族)の国家の建国を、日本が助
 けたが・・
  満州族(女真族)の方々が多く居たのでその建国を助
 けたのだが・・
  まだ、その時から1世紀も経ってない今(2018年)、そ
 の満州族の方々は、この満州の地には、跡形もなく居な
 くなってしまった。
  殺されたのか?・・追放されたのか?
  国家が消え去るという事は、この例の様に、あっけな
 いのである。
  日本の沖縄も、中国には「中国の領土だ」という声が
 ある。
  このスケジュールに入っているという・・。
  そして、すでに、それへの活動がなされている。
  金と人によってである
  この様に、日本人は、よほどしっかりしないといけな
 い「今・現在なのである」。
  ユダヤの方々が経験されたディアスポラが、日本人に
 も・・日本の地から追い出されるという事も起き得る・・
  意識をしっかりしないとその様なことが起きてしまう。
  (参考)ディアスポラ:(植物の種などの)「撒き散
     らされたもの」という意味のギリシャ語に由来
     する言葉。
      パレスチナ以外の地に移り住まされたユダヤ
     人、及び、そのコミュニティ(追放され、追い
     出された)
  長い歴史を刻んできた日本だが・・だから安心なんて
 言う論理は成立しない・・
  「今世紀中で、日本はなくなる」と言った共産・中国
 の指導者が居る。
  オーストラリアへ訪問したこの指導者は、オーストラ
 リアの首脳へそのことを言った。
  その時は、今世紀よりもっと早い時期をはっきり明示
 して、「日本は無くなる」と発言している。
  はっきり言える事は、共産・中国には、「日本という
 国家の存在が無くなる時がある」という「認識がある」
 という事である。
  時は進んでいるが、日本消滅への道を、共産・中国の
 指導者は、同時に進めているという認識の中にいる。
  かつてのアメリカが持った認識(アメリカインディア
 ンの消滅)の下で、悲惨な殺戮がなされたが、その様な
 状況にある・・
  日本人が認識してなくても、それは、かつてのアメリ
 カの例が示している。
  日本に無いから安心何て言う論理は、成立しない。
  また、共産・中国の様に独裁の政治形態は、常識以上
 の異常な事をするのは、歴史上、あまたある。
  何事も狭い面々・領域で決定され、チェックする機構
 が無く、その様な働きが無いからだ。
  システム的に政治機構として劣っているからだ。
  (参考)1988年、中国の李鵬首相が、オーストラリア
     訪問をした際、オーストラリアのキーティング
     首相へ「日本という国は20年も経てば地球上か
     ら消えて無くなる」と言った。
      中国に日本自治区構想があるのか・・
  (参考)第二列島線:中国の第二列島線の中に入って
     飲み込まれる日本となっている。
      中国の海域における軍事的防衛ラインの一つ。
      伊豆・小笠原諸島からグアム・サイパンを含
     むマリアナ諸島群などを結ぶ線。
      中国海軍は、1980年代半ばに提唱された「近
     海積極防衛戦略」などに基づいて軍事力を増強
     し、それまでの沿岸防衛から近海・外洋へと展
     開している。
      この軍事戦略において外洋の範囲を示す目標
     ラインとされる。
      中国は、2020年の運用を目標に通常型空母建
     設に着手しているほか、原子力空母建設構想な
     ど海軍力の整備・増強を表明しており、同国の
     軍拡に飲み込まれる日本となっている。
.
1999年4月、世界最古級の土器が、日本で発見された。
  世界最先端の技術を持っていた縄文人の人たち・・
  日本の古代は、非常に文明が進んでいたという事が分
 かって来た。
  稲作も・・朝鮮半島から伝わったのではなく、日本か
 ら朝鮮半島に伝わったらしいという事が次第に分かって
 来た。
  韓国では、激しく反発しているが・・、
.
  https://www.youtube.com/watch?v=9zMJN3YNUY8
  世界最古級の土器が日本で出土した。
  1万6500年前のもの・・、
  1999年4月、青森県蟹田町で出土した土器の炭素14分析
 を行なった・・その結果で報告された。
  土器は、2万年前~1万8000年前の最終氷期最盛期後半
 に中国南部に於いて出現したとされている。
  1万年を遡る土器や、遺跡が、日本にはいくつかある。
  その一方、かつては、農業の起源地とされていた中近
 東や北アフリカを含めヨーロッパにおいても・・
  1万年前をしめす遺跡は無く・・、
  縄文人は、土器製作について、世界最先端の技術を持
 っていたことが分かる。
  稲作は、日本から朝鮮半島へ伝播したことが判明。
  稲作文化は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して
 日本にもたらされたとの説が覆された。
  炭素14年代測定法で、かなり古いことが分かって来た。
  日本の稲作開始は縄文時代で、従来の弥生時代という
 学説がひるがえされた・・。
  陸稲栽培で・・6700年程度前まで・・、
  水稲栽培で・・3200年程度前まで・・遡ることが判明
 している。
  これに対して、朝鮮半島では、水稲栽培は無去洞玉峴
 (ムアラファト)遺跡の2500年前~2800年程度前までし
 か遡れない・・、
  そして、九州北部と栽培法が酷似していることから・・
  また、遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米
 の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、
  水稲は、日本から朝鮮半島へ・・、
  陸稲は、満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明し
 た。
  中国政府の研究機関でも調査が進み、間違いないとい
 う結論が出ている。
  この点で、日本に対して優越意識を持っている韓国・・
 その韓国の学会は、激しく反発している。
  また、韓国では日本式の前方後円墳が大量に発見され
 ている事実もある。
.
2006年12月、NHKオンライン内に解説委員室の公式サイ
 トが解説された・・が・・、
  無資格のNHK職員が、NHKという影響力が極大な
 放送媒体で、解説と称した「NHKの言いたい放題を放
 送している」・・
  この公式サイトに、この様な投書・クレームを含め、
 無差別に公表せよ・・そして、NHK解説委員室の公式
 回答を公開する様にせよ!
  本当は、NHKには解説者は必要ない・・無資格者が
 放送媒体を使って政治を繰っている・・
  NHKは、解説者を無くして「経費を節減せよ!」、
 そして、NHK受信料を値下げせよ!
  また、問題なのが、このNHKの解説者なる者の中に、
 「片寄った政治解説をする者がいる」・・中国寄りの者
 もウヨウヨ居る・・
  しかし、この者たちは、「国民の選挙の洗礼を受けて
 いない『ただの者だ』」。
  放送媒体のNHKに、ただ採用されただけの者だ・・、
  だが、影響力が抜群に強大なNHKの放送機能を使っ
 て、日本全国、ましてや世界へ、自分の勝手な意見を、
 自分だけの意見を・・発信している。
  世界へ日本を貶める番組まで送っている輩たちだ・・
  こんな強大な権利は「君にはない訳だ」・・、
  こんな権利を君たちには与えたくないのだ・・
  こんな、「民主主義のルールを踏みにじったやり方」
 で・・横暴な行為で・・NHKは放送行為をし続けてい
 る。
  広い、公正な意見を国民へ提供すべき立場のNHKが、
 こんな専制君主的な・・特定の一個人に、輩に・・この
 NHKだけの意見を作って・・放送媒体を使用させてい
 る。
  大学教授や、評論家の方々にも、また、日本国民の方々
 へ・・広く意見を求めて行くべきなのが君のやるべきこ
 とだ・・
  これが、NHKの役目なのだ・・ただそれだけなのだ。
  NHKの、君の意見なんて・・公正な民の選択・選挙
 も受けてない・・君だけの、NHKだけの意見なんて、
 勝手に放送をするな!
  NHKは、「なんだ、かんだ」と組織を大きくしてい
 る・・こんな「無用な解説室」も設けている。
  NHKには縮小すべきものが多い・・無くすべきもの
 が多い・・NHKは、無駄を縮小せよ!・・
  そして、受信料を値下げせよ!
  結託している電通を批判せよ・・
.
2018年、巨悪の根源・・電通
  電通が韓国を潤す・・
  日本から巨額な金が韓国へどんどん流れる。
  韓国では、日本の映像は放送できない様にされている・・
 が、しかし・・逆に、韓国の映像は放送するばかりだら
 けの日本のテレビとなっている・・NHKも必死に放送
 している・・何故なんだ・・?
  この様な問題の中心に黒幕の電通が居る・・そして・・
  NHKが、何故、反日なのか?
  NHKは、電通に牛耳られている・・
  だから、反日となっている。
  そして、NHKは、受信料でかき集めた日本国民の「
 巨額な金を電通へ渡す」・・そして、電通から・・
  (参考)電通:投資家が見る会社四季報によると・・
      広告代理店国内首位。世界大手。
      連結事業:国内41%、海外59%。
      費用増で、国内は人件費やシステム費増やし
     業務改革優先。土地売却益ない。
      海外は、米州が前期獲得案件軸に牽引だが業
     務豹有価コスト重く伸び鈍い。営業減益。
      カカクコム株売却益、買収関連評価損。
      従業員:連結63143名、単独6937名。
      平均年齢:40.1歳。
      平均年収:1272万円。
      外国人株主:20.8%。
      株式時価総額:1兆4997億円。
      総資産:3兆3250億円。
      自己資本比率:31.9%。
      分析評価:企業規模100点、成長性10点、割安
     性20点、財務健全性20点、市場トレンド10点。
.
  日本を動かしてきた「電通」の正体:「過労死問題」
 は落日の始まりなのか・・
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50138?page=3
  当事者たちが明かす生々しい「実像」
  8億円の「ロビー活動費」
  「原発広告」といえば、電力各社や電気事業連合会な
 どの業界団体が「原発は安全」「原発はクリーン」と謳
 う広告に巨額を投じ、国民に「原発神話」を信じ込ませ
 てきた。
  原発推進広告には、タレントから文化人までが笑顔で
 登場し、原発の安全性を語ってきた(本間氏談)
  「電力9社がこうした広告に1970年代から3・11までの
 約40年間に費やした広告費は、約2兆4000億円に及ぶ(
 この金が電通に入っている)
  特に、バブル崩壊後に、大手企業の広告出稿が激減す
 る中、電力会社は安定出稿したためにメディアはこれに
 飛びついた。
  一度、この広告費を受ければ『麻薬』のように次から
 は断れなくなり、おのずと反原発報道で電力会社の機嫌
 を損ねることを(各メディアに)自粛する空気が生まれ
 て、日本全体に『安全神話』が刷り込まれ続けた。
  そうしたメディアの特性をよく理解したうえで、電力
 会社とメディアの間に入って動いていたのが『電通や博
 報堂』を頂点とする広告会社だった。
  中でも『電通』は、原子力推進の立場にある社団法人
 『日本原子力産業協会』の会員に以前から名前を連ね、
 東京電力についてはメイン担当として仕切っていた。
  メディア、原発……電通が仕切ってきたものをあげれ
 ばきりがないが、大きなところでいえばオリンピックも
 その一つである。
  国際的プロモーターとして知られる康芳夫氏は、オリ
 ンピックの権利獲得をめぐって電通と闘った「内幕」を
 明かす。
  「初の民間運営方式で開催されたロス五輪で、私はテ
 レビ朝日と組んで独占的放映権を取ろうと動いていまし
 た。
  私はオリンピック組織委員長だったピーター・ユベロ
 ス氏に接触して色よい返事までもらっていたのですが、
 ここで対抗馬としてNHK・民放連合が出てきて、そこ
 に「電通がついた」のです。
  電通もまた独自にユベロス氏と接触し、攪乱工作を仕
 掛けてきた。
  ユベロス氏は最終的に電通と喧嘩をするのはまずいと
 判断したようで、私たちに『君たちとは契約できない』
 と言ってきた」。
  このロスオリンピックで大儲けしたあたりから、スポ
 ーツイベントにおける「仕切り役」としての「電通は一
 挙に花開いていく」。
  『電通とFIFA』などの著書があるノンフィクショ
 ン作家の田崎健太氏が言う。
  「電通のスポーツビジネスを切り開いてきたのは元専
 務の高橋治之氏で、本物のネゴシエイターといえるでし
 ょう。
  高橋氏はFIFA(国際サッカー連盟)がスポンサーを
 集めて商業化を進める過程において、当時のジョアン・
 アベランジェ会長らに大きく力を貸しました。
  そして、電通は、世界のサッカービジネスに深く関与
 していったのです。
  2002年のサッカーワールドカップ招致の際には、電通
 はスイスのマーケティング会社ISLに対して、同社の
 株式売却益の一部である約8億円を『ロビー活動費』とし
 て渡しています。
  国際的ロビー活動に弱い日本にあっては珍しく、高橋
 氏はこうした交渉を得意としていた。
  彼が電通に、スポーツビジネスという広告以外の収益
 の柱を作り上げたと言える」
  どんなところにも食い込んでいき、気付いた時には「
 仕切り屋」として舞台を裏で回している――『電通』は
 そうして「日本を動かす中心」として君臨するようにな
 っていったのである。
  「1990年代に、NHKが電通から米大リーグの放映権
 を買う際、ひと悶着があって、NHKは安値で電通から
 買えたことがありました。
  この時、赤字になりかねなかった電通は、NHKが中
 継するMLBの映像に実際にはない日本企業の広告を合
 成して入れ込むことの了解を取り付けてきた。
  すぐにスポンサーも集めてきて、その手腕には脱帽し
 ました」(元NHK職員の立花孝志氏)
  電通の手にかかれば「こうした差配もお手の物なわけ
 だ」が、実はここ数年はそんな電通の権勢にも陰りが出
 てきたと関係者たちは口を揃える。
.
 (参照)NHKが反日放送している理由は『電通』に
     乗っ取られているから
    https://www.youtube.com/watch?v=Y6Hu4mx0Zl0
 (参照)ワールドカップサッカーとNHKと電通の黒い
     関係
    https://www.youtube.com/watch?v=Etv1Om8nsMg
.
2018年、そして、電通は・・うまい汁を吸いたいと・・今、
 地方自治体の横浜市に食いついている。
  既に、電通は、今まで・・この様な事をして「味をし
 めて来ている」・・
  そして、今度も、横浜市をうまい汁を吸う対象にして
 いる・・食い物にしている。
  横浜市は、本来、横浜市がやらなければならないこと
 に電通を加えて・・特権を与えて、電通と事業をしてい
 る形にして、電通に旨味を与えている。
  そして、今度も、横浜市民の財産である横浜市庁舎の
 建つ土地と建物について、市庁舎が古くなったという名
 目で、どこかへ移転させて、電通を儲けさせる事業をや
 ろうとしている。
  完全に横浜市民の財産を利用した一私企業の事業だ。
  この様な筋書きの既成事実づくりに「公開のシンポジ
 ウム」を開くという演技をした・・
  しかし、電通という素人の悲しさ、まったく中味の無
 い「作った話だけ」の時間の無駄話だった。
  「市庁舎を移転させて、その跡地で儲けよう」という
 「見え見えのお話だけが決まっている」という代物だっ
 た。
  そして、その儲け話に加わるのが「電通」と、既に、
 決まっているがごとくに、「電通がメイン・主役の状態」
 で出ている・・その様なシンポジウムで、何を話すかと
 言えば、漫画の絵を見せて、「これだ」と言うだけ・・
  まったく馬鹿にした話だ。
  説明も何もない。
  下手なことは言えないとして、黙っていたのか?・・
  まったく馬鹿にした話だった。
  「感じろ」と言ったって、漫画の題は「愛と誠」だ。
  こんな話なら、誰もが何を示してでもやれる話だ。
  そして、何も説明せずに黙っていればいいのだから・・
  市庁舎の跡地利用が「愛と誠なのかよ」・・という感
 じの子供だましの話しかできない電通・・
  そして、これ以前に横浜市とやった事業に「電通は、
 100億円を出した」と言い出した。
  言わなくてもいい様なことを言い出して、「世間には
 言わないでくれ」と言う。
  言っていけない事なら「言うな」と言いたい。
  口の軽いこの電通氏は、さらに、この金を電通が出し
 たということを「言い続けて」、シンポジウム出席者に
 「50億円ぐらいに言ってくれ」と言う。
  もう、まったく「市庁舎の跡地利用」の「都市計画の
 話なんかではない」・・素人話の連続。
  まったくの素人が、壇上に上がって、関係ない話に口
 を開いている。
  貴重な時間の空費が続くシンポジウム。
  本来、加わってはいけない電通の素人が、前の横浜市
 との仕事で関係した「舞台と客席の話をした」。
  まったく、この話も跡地利用と関係ないが、「こんな
 話も持ち出す」。
  しかし、初歩の初歩の話で、「舞台を真ん中に持って
 きたのは、素晴らしい独自の事なのだ」と誇った。
  こんなことなら、遠い昔から「大相撲だってやってい
 ること」。
  まったく馬鹿々々しい話が続く・・。
  こんな電通が、メイン・スピーカー(主役)となって
 いる都市計画のシンポジウム。
  一民間企業の電通を儲けさせる仕掛けが動き出したと
 いう感じだった。
  そして、おかしいのが・・この電通と「まったく同じ
 ように」、この儲け話に加わっている「キリスト教系の
 大学」・・
  このキリスト教大学は、前から電通と一緒に利益の転
 がり込む話に加わっている。
  二匹目か三匹目か、何匹目かのドジョウを狙っている。
  この組み合わせのコンビがやはりまた動いている。
  何度も、同じ面々が、横浜市民の財産をいじくり回し
 て、利益が転がり込む話をまた始めている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2018年10月05日

(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)

題:(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月29日、ハワイ共和国で第1回選挙(差別選挙だっ
 た)
  ハワイ王国は、立派に存在したハワイの先住民の政府
 だったが、1893年に、サンフォード・ドールなどのアメ
 リカ移民による革命で、アメリカ合衆国の傀儡国家とし
 て名目上共和制のハワイ共和国となった。
  これは、最初からアメリカの侵略の意思の下に行われ
 たストーリーの中でのことだった。
  日本は、ハワイ王の日本の皇室との姻戚関係を結びた
 いなどの希望などを聞いていた。
  この様なハワイ王の行動は、アメリカの無謀な乗っ取
 りからの救済を求めている意思からの行動であった。
  日本は、正義の観点から、ハワイへ日本軍艦などを派
 遣し、抗議の行動をしている。
  この時から遡ること7年前の1887年、武力でもってハワ
 イは乗っ取られ銃剣憲法を押し付けられていた。
  選挙権の行使による決定が正義だという民主的行為を
 表面上は見せるハワイの乗っ取り行動がなされた。
  当時、多くいた移民の日本人などのアジア系の人々に
 は、一切、選挙権は与えられず・・また、肝心のハワイ
 の事実上の持ち主である先住ハワイ人の方々にも、収入
 や資産などで制限がなされて選挙権は与えられていなか
 った・・こんな事で「どこが民主的なのだ」というイン
 チキだった。
  この様な押し付け憲法で、ハワイの王室と大多数のハ
 ワイ人の方々は政治力を失って、アメリカ系の乗っ取り
 移民の事実上のハワイとなった。
  結局、これを真似をして、今・現代、中国がチベット
 やウイグルや内モンゴルへ、漢民族を流入させて、この
 3国の乗っ取りを謀っている。
.
1894年10月、東学党が、再度、蜂起した。
  朝鮮政府の厳しい政治に不満を持った全羅北道の全琫
 準の指導する農民と東学の信者の蜂起が、1894年1月に起
 きた・・
  朝鮮政府の重税政策、朝鮮支配勢力の両班たちの賄賂
 と不正収奪の横行で民衆は苦しんでいた。
  この時の朝鮮政府の暴政に対する朝鮮国内に広く伝え
 られた朝鮮民衆の言葉・・
  金樽美酒千人血:金の樽に入った美酒は、千人の血か
          らできており
  玉椀佳魚萬姓膏:玉椀にある美味い魚は、人民の油で
          できている
  燭涙落時民涙落:ろうそくから蝋が滴るとき、人々の
          涙も滴り
  歌舞高處怨聲高:歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々
          の怨嗟の声も高くとどろく
  この時の蜂起には、朝鮮政府軍は、農民軍を抑えるこ
 とが出来た。
  しかし、朝鮮政府の改革は全くなされなかった。
  民衆の不満は継続し、高まった・・
  朝鮮には、すでに宗主国としての清国が存在し、そし
 てこの頃、1860年代から、ヨーロッパ諸国の列強やアメ
 リカが朝鮮に存在し、そして、後から加わった日本・・
 朝鮮は次の時代への模索の中に不安定な状態にあった。
  そして、1894年4月、また、全琫準が中心となって、朝
 鮮政府の政治に対する不満の反封建に対して蜂起し、ま
 た、朝鮮を抑える外国勢力に不満を持って蜂起した・・
 そして、全州城の占拠を目指した。
  この時は、二度に渡って農民軍は朝鮮政府軍に勝利し
 た。
  1894年5月、農民軍は、目的の全州城を占領した。
  驚いた朝鮮は、清国に軍の派遣を要請した・・日本も、
 条約上、朝鮮へ軍を派遣した。
  そして、和解が成立した(全州和解)・・
  朝鮮政府は政治の改革を行ない、農民軍は、全州城か
 ら退去し、解散する。
  そして、朝鮮の地において、この東学党の乱(甲午農
 民戦争)の処理を巡って、日本と清国の対立が激化した。
  また、日本の提案(日本と清国は一緒になって朝鮮の
 改革を手助けして行こう)にも清国は反発した・・そし
 て、1894年8月1日、日清両国が宣戦を布告し、日清戦争
 となった・・
  この様な状況から、1894年10月に至り、朝鮮に居る外
 国人の排斥と、朝鮮政府の打倒を目指して東学党が、再
 度、蜂起した。
  全琫準は、1894年7月頃より、蜂起の準備をしていた。
  東学党は蜂起に反対で、平和的解決を望んでいた。
  この全琫準の蜂起は失敗し、1895年に捕らえられる。
  井上馨日本公使は、全琫準の人格に共感し、朝鮮政府
 に処刑しないように要請していた・・
  しかし、朝鮮政府は、井上が日本に帰国している間に、
 全琫準を処刑してしまった。
  そして、新たに発見された史料から、この1894年10月
 と1894年11月の蜂起は、日本に助けを求めていた大院君
 が、日本放逐の蜂起の呼び掛けを秘かにして、また、忠
 清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた
 ものから起きたと判明した。
  そして、この事を知った日本へ、大院君はこれを認め
 謝罪している。
  中国は、そして、この手先は、この第二次蜂起を日本
 を貶める材料としているが、真実は以上である・・この
 時、日本は農民を虐殺したと南京事件の様な嘘を言い出
 している。
.
1894年10月、秀英舎の印刷工場(鉄骨造)が完成する。
  日本で初めての鉄骨造の建物。
  フランスのリヨンは、石炭の採掘によって地盤が沈下
 する「不等沈下が起きる地域」となってしまっていた。
  この為、鉄骨造の建物となって行った。
  1890年に、フランスを旅した細谷安太郎はこの状況を
 見た。
  秀英舎と関係のあった細谷は、フランスの経験を話し
 鉄骨構造の工場増築が決まる・・鋼材はフランスから購
 入した。
  建築地:東京府京橋区西紺屋町(東京銀座の数寄屋橋
     近く)
  設計:若山鉉吉(横須賀造船所構内学舎で造船学を学
     び、後にフランスに留学した海軍の造船技師
  建築規模:地上3階、地下1階、
  基準階:52.5坪(170.1㎡)
  建物高さ:36尺(10.9m)
  屋根:スレート葺き
  1階:印刷機械8台、2階:植字場、3階:文選場
  中央に螺旋階段があり、屋上に登れる。
  この年に竣工した建物:東京府庁舎、三菱煉瓦街1号
    館、横浜大桟橋、奈良帝室博物館
  秀英舎は、先進国である英国より秀でる会社になると
 いう願いで勝海舟によって名付けられ、今の大日本印刷。
.
1894年10月、京城~釜山間、および、京城~仁川間の鉄道
 建設が決定した。
  甲午改革において、日本は、李氏朝鮮に対して京城か
 ら開港場までの鉄道敷設を提案した。
  1894年8月20日、日本と朝鮮は、「日韓暫定合同条款」
 を締結した。
  そして、その条款に基いて、日本は、鷺梁津(漢江西
 岸)~済物浦間の鉄道を、1899年に開通させた。
  日本の朝鮮改革の鉄道敷設は、これに始まった。
  これは、後に、京仁線となった。
  1905年、京釜線が全通し、
  1906年、京義線が全通した。
  朝鮮は、軍隊の輸送のために勝手に作った様に言って、
 まったくありたがっていない(中国とその手先の工作も
 あって)
  しかし、それまでは、あぜ道のような道であった朝鮮
 の道を行く人々は、すべての荷運びは人の背の人力だっ
 た。
  何日もかかった移動で、少量だったが、この鉄道の開
 通は、そのすべてを大変化させた・・すべて朝鮮の人た
 ちを格段に潤わせた。
  これを契機に、朝鮮の経済は大きく発展して行く。
  国造りには、何よりも街道と鉄道の整備が大切なのだ。
  これを、日本が朝鮮にした。
  何しろ日本の基本姿勢は、他の欧米列強諸国と違って、
 この鉄道にしろ、学校にしろ、病院にしろ、日本の内地
 と格差なく、逆に、朝鮮の大学の方が立派なくらいの大
 学を造る様に・・日本は朝鮮の国造りをした・・改革を
 した。
.
1894年10月、日本初の長距離急行列車の運転開始
  山陽鉄道の神戸駅~広島駅間の直通列車1本を、途中、
 主要駅にだけしか停車しない急行列車に格上げした。
  日本で初めての急行列車となった。  
  日本の人の移動の改善がなされていく。
.
1894年10月、「金鵄勲章受合い」「日本兵」など流行語に
 なる。
  金鵄勲章(きんしくんしょう)は、武功抜群の陸海軍
 の軍人・軍属に与えられた勲章で、功一級から功七級ま
 であった。
  1890年に制定された。
.
1894年11月1日、ニコライ2世がロシア皇帝となる。
  ロシア皇帝アレクサンドル3世逝去し、ニコライ2世が
 即位した。
  ニコライ2世は、1868年~1918年、享年50歳、
  帝政ロシア最後の皇帝(在位:1894年〜1917年)で・・、
  1891年、皇太子として日本を訪れ、大津事件にあった。
  父・アレクサンドル3世の専制護持の教育を受けて、外
 交政策を継承し、フランスとの同盟を強化する。
  極東への進出を図って、日露戦争を起こし敗北した。
  1905年、革命で「十月宣言」を発布するが、革命が終
 息するとストルイピンを用いて革命運動を弾圧した。
  第一次大戦中に退位を余儀なくされ、ボリシェビキが
 政権を掌握すると、1918年、シベリアに幽閉され、後に
 射殺された。

.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が素晴らしかったのは・・この会議で、世界
   で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
.
4世紀、キリスト教聖職者が女性蔑視から殺害行為をする。
  キリスト教修道士が、女性蔑視のキリスト教教義に洗
 脳されて、その蔑視観から女性を殺害した。
  酷(ひど)い殺し方だった。
  キリスト教の聖書に記述される「テモテへの第一の手
 紙(2・11・13)」には・・、
  「婦人が教えたり(してはいけい)、男の上に立った
 りするのを私(キリスト教の神)は許さない」・・と記
 されているが・・、
  この1例の様に、キリスト教の聖書には、女性を蔑(さ
 げす)む記述に満ちている・・、
  4世紀のこの時、このキリスト教修道士は、牡蠣(かき)
 の貝殻で、男に教える行為をした、教えを授けたという
 女性を・・「キリスト教の神の命令に背いた邪悪の女だ」
 として、この女性をめった切りにした。
     ・
     ・
1684年2月21日、この日から貞享(じょうきょう)年間とな
 るが(~1688年9月30日)・・
  この貞享年間以降は、完全にキリスト教に入信する者
 はほとんど居なかった・・だから、衰退するだけのキリ
 スト教という状態だった・・
  キリスト教は、日本が弾圧したとか、だから、「隠れ
 キリシタンだ」なんて言うが、これは、まったくのオー
 バーな言い方・・自分たちを有利に言いたい嘘話・・
  日本は、まったく温厚で、まったく取締りもしていな
 い・・
  また、キリシタンと言っても、仏教や神社の信徒や氏
 子となってしまって「隠れキリシタンだ」なんて言える
 様な代物(しろもの)ではない・・
  たとえ居たとしても、各地の大名など、見て見ぬふり
 をするという状況・・気にする状況ではなかった・・
  日本は、まったくの温厚な優しい民族で、ヨーロッパ
 の様に「あちこちで焼かれる焚刑の魔女で、曇り空の様
 だった」などと言われていることとほど遠い状況だった。
  ヨーロッパの様に「全滅した村がある」などとの状況
 とはまったく違う・・
  その様な日本の状況を、キリスト教は、ヨーロッパと
 同様な状況の様にオーバーに言って日本を貶(おとし)
 める・・今回、世界遺産となったが・・まったくの作り
 話しとなっている・・
  キリスト教の言う「何番崩れ」などというたまにある
 話でも、せいぜい十手(じって)を持った岡っ引き(目
 明かし)が捕まえる5・6人程度・・ヨーロッパの村の全
 滅と同列なように印象付ける言い方は間違い・・
  キリスト教は、この点で、必死に耐え抜いたとオーバ
 ーな言い方をしている・・
  そもそもキリスト教が禁教にされたのも、キリスト教
 が悪いことをするからだった・・
  「日本を植民地化する」という「陰の役目」を持った
 キリスト教宣教師たち・・
  そのことを知った豊臣秀吉が、部下に確認させ、それ
 を確認したから禁教にしたのであって・・
  また、キリスト教は、日本の若い女性を海外へ売って
 いた・・この様な事も、秀吉は知ったのだった・・
  (何も知らない信長は宣教を許していたが・・)
  江戸時代が厳しいというが・・幕府は「大体、目的を
 達した」とみていて、厳しい事はしていない。
  歴史の教科書で、宗門改帳(しゅうもんあらためちょ
 う)があったと勉強するが、熱心に行われてはいない。
  「潜伏キリシタンだ」とキリスト教が言ったって、キ
 リスト教が作った勝手なイメージ・・実態からかけ離れ
 ている・・仏教・神道と習合して、それなりに信仰生活
 をしていた・・潜伏などというイメージはまったく無い。
  天草四郎も、かつて、天草に居たキリスト教宣教師が
 話した架空の少年の話で・・実際は存在していない。
  また、この島原の乱でキリシタンが抵抗したという話
 もデッチアゲ・・宗教的な戦いとはまったく違う・・
  これは百姓一揆である・・
  少数のキリスト教徒は居たとしても、宗教の抵抗とは
 まったく違う・・
  キリスト教宣教師は、国外追放にされて、ほとんどの
 宣教師は日本国外へ出たが、一部が、不法に日本に潜伏
 した。
  しかし、潜伏したと言ったって、日本の風土の良さか
 ら「その宣教師のすべてが棄教している」。
  遠藤周作が「沈黙」でそれを書いた。
  しかし、それでは、あまりにも惨(みじ)めなので、
 映画の「沈黙」では、史実とまったく違う・・また、原
 作の遠藤周作とはまったく違う映画にしている・・作り
 話にしている。
  「沈黙」と名付けられない・・「沈黙」ではない・・
  日本の穏(おだ)やかな優(やさ)しさが「すべてを
 飲み込んで行った」のだ・・
  今・現代でもキリスト教は1%・・
  この様な嘘をつく宗教で、また、人を殺してばかりい
 た宗教で、一旦は信じたとしても、魅力を感じる点はま
 ったく無い・・
.
1867年、赤松小三郎が暗殺された。
  「建白七策」を建言した人(1831年5月15日~1867年9
 月30日、37歳)
  幕末の信州上田藩士で、洋学者、兵法家。
  信州上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれる。
  藩校の明倫堂に学ぶ。
  1848年(17歳)江戸に出て、幕臣の数学者・内田弥太
   郎に学ぶ。
  1852年(21歳)西洋兵学者・下曽根金三郎に師事する。
   江戸で、数学、天文、測量、暦学、蘭学、砲術を学
   ぶ。
  1855年(24歳)再び江戸に遊学し、勝海舟の塾で兵学
   を修得する。
    次いで、勝海舟の従者として長崎へ赴き、海軍伝
   習所で、航海術などを学ぶ・・オランダ人より語学、
   航海、測量、騎兵学などを学ぶ・・この頃、英国兵
   書の翻訳を志す。
  1858年(27歳)オランダの兵書「矢ごろのかね 小銃
   彀率(こくりつ)」を翻訳して出版した。
  1859年(28歳)4月、長崎海軍伝習所の閉鎖によって江
   戸にもどる。
    咸臨丸への乗船を希望したが選ばれなかった。
  1862年(31歳)上田で調練調方御用掛となる。
  1863年(32歳)上田で砲術道具製作御掛となる。
  1864年(33歳)9月、第一次長州征伐で、公務として江
   戸に出る。
  1864年(33歳)11月、横浜に駐屯するイギリス騎兵士
   官・アプリン大尉から英語や騎兵術の英国兵法など
   を習う。
  1865年(34歳)4月、第二次長州征伐で大阪に布陣する。
   陣中で英国陸軍の兵書の翻訳を進める。
  1866年(35歳)3月、翻訳した「英国歩兵練法」を出版
   する・・広く洋式兵法家としてその名が知られる様
   になる。
  1866年(35歳)8月、「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申
   上候口上書」を幕府に提出する。
  1866年(35歳)9月、藩主の松平忠礼に、藩内の身分制
   度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出する。
  1866(35歳)10月、薩摩藩から英国兵学の教官として
   スカウトされる。
    その後、京都へ出て私塾を開く。
    薩摩藩邸・会津藩邸で、英国式歩兵術など洋式兵
   学を教えた。
    諸藩より学ぶ門下生の数、800余名。
    その中には、東郷平八郎元帥、上村彦之丞大将な
   ど日清、日露戦争で活躍した諸将が含まれている。
  1867年(36歳)薩摩藩・島津久光侯の委嘱により、「
   英国歩兵練法」を改訂し、新しい翻訳で出版する。
  1867年(36歳)5月、前政事総裁職(前福井藩主)松平
   春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」を
   提出する。
    島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白
   書(建白七策)を建言した。
  この「建白七策」は、我が国の近代化に向けての国家
 のグランドデザインを描いたもので、政治史の中で燦然
 (さんぜん)と輝いている。
  公武合体論を主張し、天幕一和(天皇家と幕府の合体)、
 諸藩一和のもと、上局と下局の二局の議政局により、内
 憂外患のこの時期を、平和的に乗り切る方策を模索した。
  そして、西郷隆盛や徳川慶喜への働きかけるなどした。
  最後まで東奔西走していたが・・
  明治維新直前の1867年9月30日、藩命に接し、上田への
 帰藩途上の京都において、桐野利秋などの薩摩藩士によ
 り暗殺された。享年37歳。
  薩摩藩は、才能のある赤松小三郎が、幕府側に利用さ
 れるのを惜しんだためと言われている。
  上田市(上田城跡公園内)に赤松小三郎記念館がある。
  訳書に「英国歩兵練法」「新銃射放論」。
.
1931年11月7日、この日の朝日新聞の戦争を煽る記事
  「砲火の下に嫩江激戦を観る。新聞記者の一番乗り。
 決死・前線へ進む。不意打ちに我軍の苦戦。
  忽(たちま)ち鮮血の河!」。
  (参考)嫩江:のんこう、黒竜江省黒河市に位置する。
  朝日新聞は、特派員などの記事で勇ましく報道し、戦
 争を煽り立て続けた。
  「暴戻なる支那兵。日本の権益侵害」と書き・・
  「敢然として自衛のために起ち上がった」と煽った。
  (参考)暴戻:ぼうれい、荒々しく、道理に反する行
     ないをすること。
  朝日新聞の記者・荒垣秀雄が有名になった。
  そして、朝日新聞は、非常に多くの号外を出し、煽り
 立てた。
  1931年9月から1932年1月まで、131回もの号外を出した。
  満州事変も煽った、朝日新聞の販売部数は飛躍的に増
 大した。
  販売成績も同時に飛躍的に増大する中に、戦争を煽る
 朝日新聞があった。
.
1945年9月11日、東条英機が拳銃自殺を図った。
  銃声が聞こえた直後、救急車などと共に、世田谷区用
 賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心
 とした連合国軍のMP(軍警察)たちが一斉に踏み込み
 救急処置を行った。
  銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れて
 いて、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処
 置が施され・・、
  マッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野
 戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術
 と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得た。
  新聞では、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太
 刀(じんたち、太刀の拵)送る」などの病状が報道され
 た。
  また、入院中、ロバート・アイケルバーガー中将はじ
 め多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れた。
  その様なアメリカ側と対照的に日本人は、家族以外、
 訪問者は少なく、その様な状況に東條英機は大きく落胆
 したという。
.
1948年11月12日、東京裁判が、25人に有罪の判決を下した。
  そのうち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條
 英機、広田弘毅、武藤章、松井石根の各氏が死刑となっ
 た。
  ポツダム会談で、既に、誰を死刑にするかは話し合わ
 れていた・・東京裁判はその茶番劇だった・・
.
1948年12月23日、東条英機らの7人に死刑が執行された。
  無実の罪だった。
  この判決を下した東京裁判自体が「卑劣な行為」だっ
 た。
  「アメリカなどの連合国が卑劣だ」という理由は、そ
 もそも、この裁判が成立しない状態にある・・それ故、
 アメリカは、「日本を裁く罪状が無い」ため、日本の罪
 状づくりという卑劣な行為をした。
  裁くための新しい法律を事後法で作った・・卑怯な行
 為である。
  そして、ドイツのヒトラーが行なったユダヤ人の方々
 を虐殺したと同じ様な南京虐殺があったとデッチ上げた。
  ある訳がない南京事件をデッチアゲテ・・2万人を虐殺
 したとした(今では、中国が30万人だと言う始末になっ
 ている)
  まったくの濡れ衣(ぬれぎぬ、無実の罪。根も葉もな
 い嘘)である。
  日本は、ドイツのユダヤ人虐殺の様なジェノサイドは
 絶対に行っていない。
  東京裁判のすべてが、アメリカなどの連合国の作り上
 げた筋書きで進められた。
  ドイツは、開戦の何年も前から、ヒトラーなどのナチ
 ス幹部たちが、「共同謀議をして」、悪計を謀(はか)
 って、そして、戦争を始めたのであって、それが裁かれ
 るのは当然なのだが・・日本はその様な行為は一切して
 いない・・
  逆に、アメリカによる引っ掛け行為によって戦争が開
 始されている・・このアメリカの行為こそ裁かれるべき
 なのだ・・。
  これ等の理由の様に、東京裁判の日本への起訴状は空
 理空論なのである・・成立しないのである・・
  「勝てば官軍」で、アメリカは何でも言いつのった。
  また、卑劣な事後法を作って、日本を罪に落とした。
  それが、真実の実態なのである・・
  A級戦犯などの多くの人々を、あたかも裁いた様にし
 て殺したが、罪は成立してないのである。
  唯一の東京裁判の国際法の専門家だったパール判事が
 「全員無罪とした」のが正しいのである。
  死刑にすることが出来ない人たちを、死刑にしたのが
 東京裁判だったのである。
  日本という国に、および、その国の通常の公務に従事
 していただけに過ぎない人たちを、この様な通常の無実
 の人たちを裁き得ないことが明白なのに・・被告とした
 のである。
  東京裁判は茶番と言われる所以(ゆえん)である。
  また、この様な論理を通したいのならば・・ベトナム
 戦争の戦勝国・ベトナム国の国の裁きを、敗戦国のアメ
 リカは受けなければならない。
  アメリカのあらゆる新しい兵器を、日本の原爆の様に
 テスト使用して、ベトナムの方々を、大勢、虐殺した。
  この卑劣な行為は、「人道に対する罪」である。
  または、東京裁判の再審請求を成立させて、公正な裁
 判を、再度、行ない、「全員無罪としなさい」・・
  そして、国連憲章の敵国条項を削除しなさい。
  もう、陳腐な戦後体制の論理は終わっている時代なの
 である。
.
1965年6月22日、日韓基本条約が締結された。
  この条約の正式名称は、「日本国と大韓民国との間の
 基本関係に関する条約」という。
  日韓国交樹立、日本の韓国に対する約11億ドルの経済
 協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それら
 に基づく関係正常化などが取り決められた。
  これで、両国間のすべての懸案が解決した。
  しかし、この隣国の韓国・朝鮮は、江戸時代も、そう
 であった様に、遠い昔から「国際的な考え方も無視する
 様な国だった」。
  国際法では、いったん合意されたものは、蒸し返して
 問題にできないとされているが・・韓国政府は、この様
 な合意はおかしいと、後になって、繰り返し繰り返し蒸
 し返して、すでに合意していることをしつこく言った。
  約束という行為が、まったく無視される状態だった。
  この国とは何の約束もできる様な状態ではないと言え
 る。
  例えば一例を言えば、「個人への補償が終わってない」
 と韓国は言い出した。
  この件は、日韓間の交渉段階で、「日本が、個別に個
 人と話し合って補償します」と言った。
  すると、韓国政府は、「韓国政府へ一括して支払って
 もらいたい」と要望した。
  そして、日本は、韓国政府の要望を入れて、大変大き
 なお金を韓国政府へ支払った。
  しかし、前記したように、後になって、韓国政府は、
 個人への支払いが終わってないと蒸し返し発言を始めた。
  この国は、この様な事ばかりしている・・ところが・・
  2005年1月17日、韓国において、韓国側の議事録が公開
 されると・・、日本と韓国間の個人賠償請求について当
 該諸条約の本文に・・
  「完全かつ最終的に解決した」と、「1945年8月15日以
 前に生じたいかなる請求権も主張もすることができない
 ものとする。」の文言が明記されている事が韓国国内に
 広く知られるようになった。
  韓国内では大騒ぎになった・・
  日本の言う通りだった・・
.
2018年、孔子学院と言って中国の工作員が入っているとい
 う事で有名な組織がある大学
  中国共産党のプロパガンダ組織だという・・
  その為、アメリカの孔子学院の閉鎖が相次いでいると
 いう・・
  大統領令も出て中止という事になった・・
  中国語を無料で教えるという名目・・
  ヨーロッパもこの事に気付いた・・
  ドイツのメルケル首相が、「中国の儒教でも教えると
 思ったら、まったく違って、中国共産党の宣伝機関だっ
 た」と言ったという・・
  以下は、今、日本の孔子学院を開いている大学・・
  ・桜美林大学孔子学院(神奈川県)、、
  ・北陸大学孔子学院(石川県)、
  ・札幌大学孔子学院(北海道)、
  ・立命館アジア太平洋大学孔子学院(大分県)、
  ・関西外国語大学孔子学院(大阪府)
  ・大阪産業大学孔子学院(大阪府)
  ・立命館孔子学院(京都府)、
  ・兵庫医科大学中医薬孔子学院(兵庫県)
  ・岡山商科大学孔子学院(岡山県)、
  ・福山大学孔子学院(広島県)、
  ・愛知大学孔子学院(愛知県)、
  ・武蔵野大学孔子学院(東京都)
  ・早稲田大学孔子学院(東京都)
  ・工学院大学孔子学院(東京都)
.
2018年9月11日、『ニュース女子』 #174(大東亜会議・文
 部科学省・温暖化)
  https://www.youtube.com/watch?v=jdxKF6EJSZ4
  以下は、放送された内容・・
・1943年11月5日、大東亜会議(~1943年11月6日)
  アジア初の国際会議が開かれた。
  会議の目的:植民地支配からアジアを解放する。
  参加国:日本、タイ、フィリピン、インド(自由イン
 ド仮政府)、中華民国(南京国民政府)、ビルマ、満州
 国
  大東亜共同宣言が採択された・・アジアの欧米諸国に
 よる植民地支配からの解放を目指す。
  大東亜を建設して世界平和の確立に寄与する。
  1、共存共栄
  2、自主独立と互助敦睦(友好の推進)
  3、伝統の尊重
  4、経済発展
  5、人種差別撤廃と資源解放
・しかし、東京裁判で、この大東亜共栄圏の考え方が否定
 された。
  連合国基準・・連合国の戦勝国の定義に反するとして
 否定された。
  この東京裁判で、その様な戦勝国の定義から敗戦国側
 の28人がA級戦犯とされてしまった。
  罪名:平和に対する罪、
  東条英機らの7人が死刑(絞首刑)とされた。
  国際法にも存在しない基準によって殺すと判断された。
  日本を裁くためだけに作られた基準だった。
  この様なやり方なら、誰でもが、後から罪に落されて
 しまうというやり方だった。
・日本の今の女子の考え方
  1、戦没者は日本の英雄です・・核兵器のない世の中
    にします!・・戦没者の方々、どうぞ安らかに(
    靖国に眠る英霊の皆様への一言)・・
  2、日本のため、家族のために、ありがとう・・戦争、
    紛争が無くなっていなくて、ごめんなさい・・
    皆様は平和を目指していた・・
  3、本当に、お疲れさまでした・・あの時の戦いの存
    在があってこそ、今のアメリカとの友好関係があ
    る・・
  4、あなた方が戦って下さったことは、決して無駄で
    はありませんでした・・アジアに旅行した時に、
    そのアジアの方々から聞く声で、「あの時、日本
    が来てくれて有り難かった」という声だった・・
    日本のすべてが悪いと否定することではない・・
    日本の戦いは決して無駄ではなかった・・
・欧米列強諸国に支配されていた地域を、大東亜共栄圏で
 皆が豊かに栄える状態に変える構想・・
  その領域:アメリカ領フィリピン、イギリス領ビルマ、
 イギリス領マレー、インド、オランダ領東インド、イギ
 リス領ボルネオ、アメリカ領フィリピン、フランス領イ
 ンドシナ、中華民国、満州国、オーストラリア、ニュー
 ジーランド
・1886年(明治19年)、帝国大学令に基づいて「帝国大学」
 と改称され、帝国大学が整備された・・
  この時、大鳥圭介が言った・・
  「アジアに6億人が居て、ヨーロッパには3億人、この
 様に人口の多いアジアが、何故、ヨーロッパの植民地に
 ならなければならないのか?
  その為に、智慧の不足をアジア人は補って持とう」・・
 基本的な、底流にある考え方「アジア人は知恵と共に強
 くなろう」・・(その考えのもとで、日本は、日本の資
 金を投入して、朝鮮や台湾で大学など学校を作った)
  この様な考えもあって、大東亜会議は開催された・・
・1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  第一次世界大戦後の世界秩序を決める会議だった。
  日本は、主要五大国として参加した・・
  そして、日本が素晴らしかったのは・・この会議で、
 世界で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
  会議の現場では多くの賛同を集めた・・決議される勢
 いだった・・
  しかし、この流れを恐れた国があった・・賛成国が多
 く、決議される流れの中にあったが・・アメリカとイギ
 リスが反対した・・
  この反対で、特に、アメリカの議長決裁という少数者
 側に居たアメリカの議長権限で否決された。
  「民族が平等なのは当たり前なのだ」という民族の平
 等という人道的な当然の日本の訴えを退けてしまったア
 メリカだった・・
  そして、この考え方の流れは、大東亜会議へとつなが
 って行く・・強い国が弱い国を攻めて蹂躙してはいけな
 いという、これも、当然の訴えだった・・
  「力による支配を否定する」は当たり前の訴えだった・・
  この当たり前を・・採択されるような包容力のある列
 強ではなかった・・
  採択するような国であれば、当然、核を持つような行
 動も無かったのだが・・
  ヨーロッパに存在する「人種差別観」と「強いものが
 弱いものを蹂躙してよいという差別観」から発していた・・
 この二つが根源的な問題だった・・
・1929年、世界恐慌となった・・この経済が行き詰ったこ
 の時・・ブロック経済圏を作った・・
  ドル経済圏・・
  アメリカなどのドル経済圏が、他の経済社会に需要が
 流れて行かない様な行動をとった・・
  自分たちだけの社会の中で、経済が回る様な行動をし
 た・・(自分たちさえよければ良い・・だった)・・)
  その経済圏の外にいた日本は、自主独立の道を進む道
 を止む無くとった・・そして、日本だけではなく、アジ
 アの共栄圏の道を作ろうという行動をとった・・そして、
 共に経済成長して行こうとした(大東亜共栄圏)・・
・この当時、日本とタイという二国のみが独立の状態だっ
 た・・この二国の例外を除けば、すべてのアジアの国々
 は、「植民地という自由を束縛された経済社会」の中に
 あえいでいた・・
  蹂躙されていた国は以下・・1979年頃のアジア諸国・・
  フィリピン(アメリカ領)、
  ビルマ(ミャンマー、英国領)、インド(英国領)、
  シンガポール(英国領)、バングラデシュ(英国領)
  スリランカ(英国領)、マレーシア(英国領)、
  パキスタン(英国領)、
  ラオス(フランス領)、ベトナム(フランス領)、
  カンボジア(フランス領)、
  インドネシア(オランダ領)、
・戦後のアメリカの介入した教育などで、日本は侵略国だ
 というイメージが押し付けられ、洗脳され、作られて行
 った・・
 (戦後、アメリカの占領政策下で、NHKは盛んに洗脳
 放送をした)
・苛烈(かれつ、むごいほど厳しく激しいさま)を極めた
 欧米列強の植民地支配は、隠されがちだった・・
  生活穀物で・・植民地の人々は、自分たちの生活に必
 要な穀物さえ栽培できないように強制された・・
  そして、欧米列強が儲かる都合のよい商品作物の栽培
 に変えさせられた・・そして、利益の収奪がされた・・
  オーストラリアはイギリスから囚人を入れたが、
 アボリジニのアジア人を30万人殺した・・この様な話ば
 かり
  マレーシアもこれで、ほとんどの国がこの様に列強諸
 国に収奪された・・
  中国も、イギリスにアヘンの麻薬を強引に流入された
 (麻薬貿易)・・強引に麻薬が売付けられ・・中国の富
 が召し上げられた・・
  インドネシアも、オランダに酷いことをされている・・
・この様な虐(しいた)げられていたアジアの国々を回っ
 た時、それらの国々の国民感情は、日本に対する恨みは
 まったく無い状態だった・・
  日本軍が行った時、「解放軍だ」と思った・・と・・
 喜んで日本軍を迎えた・・特に、インドネシアは、350年
 間、オランダの植民地下で虐げ続けられて来ていた・・
  生活習慣まで変えさせられた(足をすって、にじり寄
 る様なしぐさを押し付けられたりした)・・
  御主人様には、その様にするのだとされた・・オラン
 ダは文明を教えてやったという視点だった・・
  この底流には、「白人以外は人間ではない」という人
 間観があった・・
  日本人は、日露戦争後は名誉白人とされた(日本が要
 求した訳ではない)・・
  アメリカの黒人差別は目を覆うばかりだった・・ホテ
 ル・レストランなど、黒人が入れない所があちこちに作
 られていた・・白人はそれが当たり前だとした・・
  大東亜会議は、その様な虐げられていた有色人種だけ
 で開催された・・白人には、差別のキリスト教中心の価
 値観があった・・が、しかし・・大東亜会議は平等な宗
 教観の中で開催された・・
・戦後、アメリカの占領政策の中では、これ等の『大東亜
 構想』をNGワードとされた・・No Good Word・使って
 はいけない言葉とされた・・
  大東亜共同宣言のすべては、国連憲章と同じで当たり
 前の事なのに・・この時、白人は、今現在、植民地とし
 て支配下に置いているのに・・「自主独立とは何だ」と
 白人国は反発した・・
・日本が、ずーっと持っていたこの考え方の会議を、アジ
 アの虐げられた人々を集めて戦争前にしていればという
 事があり、残念だった・・もう少し早く、白人たちへ行
 動していたかった・・
  戦勝国は、この点をずけずけと言った・・しかし、大
 東亜構想の理念では当たり前な事なので、その点では言
 う事は出来なかった・・
・日本が、明治維新を行なった原点には、「日本が欧米列
 強の植民地にされないように・・」という事でった・・
  だから、朝鮮へも、開国して近代化するようにと言っ
 た・・西郷隆盛の主張にも、その理念があった・・
  アジアの国々と結束したいという理念はズーットあっ
 た日本だった・・
  大東亜会議は、すべての虐げられたアジアの国々を呼
 ぼうとしたが、イギリスの蹂躙下にあったインドや、ア
 メリカの蹂躙下にあったフィリピンも呼べない状況にあ
 るように、呼べない国々があった・・
・日露戦争までのアジアの国々の人々は、「白人に勝てな
 い」というそれまでの独立戦争のことごとくで、痛い目
 に会っていて、反抗心が抑え付けられていた・・
  日本の日露戦争の勝利で、アジアの方々へ希望を与え
 た・・
  今・現在、日本の女子が、アジアに旅行した時、同世
 代のアジアの青年たちも、上の世代の方たちから、「日
 本によって解放されたのだ」と聞かされたという話をな
 された・・
  今の若い世代でも、その様な会話がなされている・・
 病院や学校や道路などを作ってくれたとも言い・・「日
 本人に感謝してます」との言葉も出る・・と・・
・白人の欧米列強の植民地政策は、滅茶苦茶に収奪だけの
 行為だったが、日本は違った・・日本は教育をしたり、
 道路を造ったり、鉄道を引いたり、ダムを造ったり・・
 と・・
・ガタルカナル島やソロモン諸島の国で、パプアニューギ
 ニアのラバウルで聞くと、日本が、あの時、もし勝って
 いたらもっと私たちは違う良い国になっているという話
 も出ている・・
・アメリカは、原爆を落とし、最大の虐殺をしたという負
 い目があった・・それを消すのに必死だった・・
  日本を悪くする象徴として、東京裁判の7人のA級戦犯、
 16人の終身禁錮刑、2人の禁錮刑などを作った・・
・東京裁判の最大の愚かさは、国際法の専門家が一人しか
 いなかった・・その人が、インドのパール判事だった・・
  このパール判事が「全員無罪とした」・・
・この戦争を煽ったのは朝日新聞・・朝日新聞は戦争を煽
 りまくった・・
・戦争を止めるには軍人でなければだめだとして登場した
 のが東条英機首相だった・・戦争にならざるを得なくな
 った時に東条英機首相は官邸で泣いていたという・・
・2013年、「大東亜会議70周年の会」が開かれた・・600人
 くらいの人たちが集まった・・
・インドネシアで、戦後、日本に帰還しないで、日本の2000
 人の将兵が残り、インドネシアの独立戦争に加わって熾
 烈(しれつ、燃え上がる様な盛んで激しい様子)な独立
 戦争を行なった・・1000人の日本将兵が戦死した。
  インドネシアの国立名誉墓地に、一杯、この日本将兵
 が葬られている・・この様なことは、ベトナムでもなさ
 れ、約750人の日本将兵が戦死している(フランスが、再
 度、植民地にしようと、ベトナムを取りに来たとき、日
 本の将兵が共に戦った)・・
  ウイグルのリーダーのラビア・カーデル氏は、他の国
 で、日本の将兵が戦ってくれた様に、ウイグルにも来て
 もらいたかったと言った・・と・・
  この地は、中国の領土ではないと言った・・日本の将
 兵が戦った地は皆独立していることを見ても残念だと、
 何回も言った・・
.
2018年9月27日、中国に敗けたキリスト教のバチカン
  「中国様」と言わんばかりのバチカンのローマ法王(
 教皇)の状態。
  過去の暗黒のキリスト教の歴史にも、「叙任権」の争
 いで多くの血が陰湿にも流されたが・・その様なことが
 現在も起きている。
  中国がキリスト教の司教を独自に決めた・・すると、
 その司教をバチカンは破門にした。
  こんな「おしくらまんじゅう」をしていた。
  この日の読売新聞によると、バチカンは中国に敗けて、
 司教任命権を渡すような状態になった・・しかし、この
 様な法王の言動に批判があいついだため、ローマ法王の
 発言が微妙になった。
  ローマ法王フランシスコは、ローマ法王庁(バチカン)
 が中国との間で暫定合意した中国カトリック教会の司教
 任命について、「最終的に任命を行なうのは法王だ」と
 述べた。
  法王が22日、中国が独自に選びバチカンが破門にして
 いた司教7人の妥当性を認めたことに批判が出ていること
 を踏まえ、中国側には妥協はしていないと強調する狙い
 があるとみられる。・・(中略)・・
  今後は、中国側が選んだ司教候補を、法王が実際に任
 命するかどうかが焦点となっている。
  中国側が司教候補を提示することは、法王が絶対的な
 権限を持つ司教任命権を実質的に中国側に渡すことにな
 り、中国政府の圧力にキリスト教カトリック教会が屈し
 たとの見方もある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

  


2018年09月26日

(増補版)612E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)

題:(増補版)612E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月10日、東学参礼集会、再蜂起を論争。
  全琫準(ぜんほうじゅん)は、第一次の蜂起の時、全
 州和約を結んで政府と和したが・・、
  (参考)全州和約:1894年6月10日、朝鮮政府と甲午農
     民戦争の指導者・全琫準の間で結んだ和約(わ
     やく、平和条約)
  全琫準は、参禮集会を主導して全羅道農民軍を集め、
 つづいて忠清道と慶尚道地域に基盤を置いた教団指導部
 と連合した。
  1894年11月17日、南接・北接連合軍が、論山(のんさ
 ん、大韓民国忠清南道の都市)に集結した・・約20000人、
 そして、全国に蜂起が拡大した。
  1894年11月19日~1894年11月22日、公州攻防戦(第1次)
  1894年12月4日~1894年12月11日、公州攻防戦(第2次)
   最大の激戦が牛金峙の戦闘だった。
   全琫準は、多数の犠牲者を出し、論山に後退した。
   朝鮮政府軍に日本軍が支援し追撃した。
    全琫準は、本拠地・院坪、泰仁で最後の抵抗をし、
   決定的な敗北をし、軍は解体された。
  1894年12月28日、全琫準が逮捕された。
  1895年1月、この時まで、全羅道掃討作戦が行われ、そ
   の他の地域も順次鎮圧された。
  1895年4月23日、全琫準が死刑となった。
.
1894年10月15日、内相・井上馨が、朝鮮駐在公使に任命さ
 れた。
  日本と比べ、朝鮮は、はるかに自給自足的で、商品経
 済の発達もまだ未発達の遅れた状況だった。
  この様な朝鮮へ、経済のよく分かる井上が任命された。
  日本の朝鮮経済発展への助力の姿勢だった。
  経歴豊富な井上は、大蔵・外務・農商務・内務の各大
 臣を歴任して来ていて・・特に、大蔵・外務の両分野に
 は精通し、豊富な知識を持っていた・・
  この井上が、朝鮮の内政改革を助成し、朝鮮官僚へ働
 きかけた。
  井上馨は、朝鮮国王に上奏した種々の提案のうち、借
 款供与によって海関、国内税、地方事務を掌握する方策
 は、イギリスがエジプトでおこなった例にならったもの
 と、井上自身が説明している。
  財政破たんの状況にあった朝鮮は、その様なことから
 国内の政情も不安定だった。
  朝鮮は、この時、国内からの税収は落ち込んでいて、
 商品生産がまったくの未発達状態で経済力は小さかった。
  内政改革と財政再建は喫緊(きっきん、さしせまって
 大切なこと)の課題だった。
  (参考)海関:かいかん、中国の清朝が海港に設けた
     税関・・関税を徴収した。
.
1894年10月15日、ドレフュス事件
  アルフレド・ドレフュス仏陸軍大尉が反逆罪で逮捕さ
 れた(冤罪)
  フランスで起きた事件で、フランス陸軍参謀本部勤務
 の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがス
 パイ容疑で逮捕された事件。
  フランスは、普仏戦争に敗れた結果、鉄鉱石と石炭の
 豊富なアルザス=ロレーヌを奪われ、失った。
  (参考)普仏戦争:1870年7月19日~1871年5月10日、
      ドイツ統一をめざすプロイセンと、これを阻
     もうとするフランスとの間で行われた戦争。
      スペイン王位継承問題をきっかけに、プロイ
     センの挑発に乗ったフランス側から開戦したが、
     プロイセンが圧勝、統一を完成してドイツ帝国
     の成立が宣言された。
      敗れたフランスは、アルザス‐ロレーヌを割
     譲し、第二帝政が崩壊して第三共和制が成立し
     た。
  そして、莫大な賠償金をフランスは課せられた。
  その為、フランス経済は大きな困難に直面した。
  フランス国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向
 けられた。
  ロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本が国民の零
 細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへの投資
 をおこなって行った。
  1882年に、金融恐慌が発生した。
  多くの投資銀行が破産に追いやられた。
  その結果、貯蓄をなくした人々は、金融界を牛耳るユ
 ダヤ人への憎悪を昂(たかぶ)らせ、反ユダヤ主義が高
 まった。
  一方、フランスの保守派と軍部は、ドイツに対する報
 復と、熱狂的な愛国主義を煽(あお)り・・、
  1880年代後半には、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジ
 ェ将軍が右翼・軍部の支持の下に独裁政権の樹立を図る
 事件を起こし・・失敗していた(ブーランジェ事件)
  ドレフュス事件は、このような第三共和政の不安定な
 状況の中で起きた。
   1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイ
 ツに情報を売ったとして終身流刑に処せられた。
  軍部内では、別に真犯人がいることをわかっていたが、
 軍の威信と反ユダヤ感情などのために、事件を糊塗(こ
 と、あいまいに取り繕っておく)しようとした。
  最初、家族や知人を中心とした再審要求運動であった
 が・・上院副議長 A.シューレル・ケストネルや、後の首
 相のG.クレマンソーらの支持を得て、再審要求運動は拡
 大した。
  1898年、文人 É.ゾラが、『オーロール』紙上で「私は
 弾劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するな
 ど、世論は高まり、単に個人の有罪、無罪の論議をこえ
 て・・、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」・・、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なカトリック、反ユ
 ダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする「反ドレフ
 ュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  (参考)反教権主義:はんきょうけんしゅぎ、宗教上
     の権威、特に、キリスト教のローマ・カトリッ
     ク教会、または、ローマ法王・教皇の権威・権
     力(=教権)を否定する考えを意味する。
      広い意味では、聖職者、あるいは宗教自体が、
     政治や市民の日常生活など、精神世界以外の世
     俗分野に介入することなど・・全般に反対する
     立場を意味する。
  1898年、H.アンリ大佐が文書の一部偽造を告白して自
 殺したため、再審が確実となり・・
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・
  1906年7月、民事の破毀院(上級裁判所が原判決を取り
 消す)は、レンヌの判決を全面的に破棄し、議会でも復
 権法案が可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスは正式に復権した。
.
1894年10月15日、第7回臨時帝国議会が召集された。
  大本営のある広島で、第7臨時議会が、広島臨時仮議事
 堂で開催された。
  当時の日本の兵站拠点の一つが宇品港(現・広島港)
 だった。
  この議会で、日清戦争に関連する1億5000万円余の軍事
 予算案、および、戦争関連法案が審議され、全会一致で
 可決された。
  これまで対立が激しかった政局は、日清戦争を転機に
 一転して挙国一致体制となった。
.
1894年10月17日、東海道線の時刻改正がなされた。
  新橋駅~大阪駅間の発着列車を神戸まで延長した。
  そして、山陽鉄道会社線の神戸駅~広島駅間列車に接
 続した。
  この年は、4月16日・5月5日・5月7日・6月10日・10月
 17日と、段階的に東海道線の時刻が改正され・・、
  東京駅~神戸駅直通の列車は3往復へ増発された。
  所要時間も約30分~1時間短縮された。
  これ以外にも、多くの長距離列車が設定されるように
 なった。
.
1894年10月18日、大日本帝国議会の臨時会で、第七回帝国
 議会が開会された。
  1億5千万円の臨時軍事予算と、軍事公債案を全会一致
 で可決された。
  この議会は、日本の憲政史上で唯一の東京以外の場所
 で開かれた国会。
  1894年9月15日に、大元帥である明治天皇陛下がこの地
 に行幸され、滞在された。
  第4回総選挙結果をうけた帝国議会だった。
 ・広島において第七議会(氷川清話)
.
1894年10月22日、庄内地震
  山形県庄内地方(庄内平野)での大地震だった。
  マグニチュード:7.3、死者:739人、家屋倒壊:4488
 戸。
  土地の隆起沈下、山崩れなど多数。
  別データ:死者726人、全壊3858戸、半壊2397戸、全焼
 2148戸。
.
1894年10月24日、臨時軍事費予算1億5000万円が公布される。
.
1894年10月24日、日清戦争: 鴨緑江作戦(~1894年10月25日)
  朝鮮と中国の教会を流れる鴨緑江(おうりょくこう)・・
  1894年10月25日午前6時10分ころ、山縣有朋率いる第1
 軍主力が、渡河作戦を開始した。
  左岸の砲兵隊が援護射撃する・・その中を清国軍の各
 堡塁や砲台への攻撃を行なった。
  清国軍は部隊を虎山方面へ進軍させ、一進一退の攻防
 戦となった。
  日本軍は前進を阻まれるが・・架橋で渡河した増援部
 隊が野砲の援護を受けて攻勢に転じた。
  清国軍は九連城へと退却を始めると、日本は一斉に攻
 勢に出た・・
  清国軍はその波状攻撃を受け、軍勢は崩れ、日本軍の
 勢いに恐れをなした状況で逃走した。
  虎山に着いた山形有朋大将は、翌日の九連城への総攻
 撃を命じる・・しかし、清国軍は、その夜のうちに退却
 し・・10月26日、九連城は無血で制圧し・・入城した。
  日本の工兵の練達した技術による架橋により、砲兵隊
 や軍馬が短期間で送り込めた所にあった・・
  清国軍は、外国人将校の軍事指導を受けていたが、日
 本軍はそれを上回った。
  日本の国産の小銃(ライフル)の村田銃が功を奏した。
  世界は、この時、日本軍は近代的な装備を持った軍隊
 だと意識させ、印象付けた。
  その差は、下記の損害の差に表れている・・
  指揮官:日本・山形有朋、清国・宋慶
  戦力:日本・約10,000、清国・約15,000
  損害:日本・死者4、清国・死者約2,000
.
1894年10月27日、志賀重昂(しげたか)『日本風景論』が
 刊行・・ロングセラーとなった。
  志賀重昂は、東南アジア諸国を見て歩き、そのつぶさ
 に見た「西欧の列強のアジア諸国の植民地収奪に怒りが
 湧き、その非人道的行為を、激しく批判した」・・
  増訂が重ねられ、ロングセラーとなり、1903年には、
 第15版が出版された・・
  日本人は、この本を愛読した。
  また、この本は、日本の自然と民族の特性を結びつけ
 た近代的風景論の先駆けとなった名著だった。
  従来の殻を破って、理知的な科学的な観察と、文学的・
 絵画的叙述とを、みごとに融合させた風景論が書かれた・・、
  日本の山水美は、世界的にみても優れている・・その
 理由を・・、
  その気候、海流の多変多様なこと、水蒸気の多量なこ
 と、火山の多いこと、流水の浸食が激烈な急流状態など
 と・・多様な基本的要因をあげ・・、
  さらに、著者自身の内外における実地の観察に基づい
 て比較考察し・・
  古今東西にわたる叙景詩文なども適切な引用し・・、
 魅力的な筆致とし・・多数の挿絵も使い・・、
  科学的スケッチや図表(例えば、日本同温線、風向、天
 気図、日本の花の分類)などによって多面的・立体的に説
 明などを加えた・・
  志賀重昂は、地理学者で評論家・・
   1884年、札幌農学校を卒業、
  地理学の実地研究を志し、南洋各地を旅行し、『南洋
 事情』を執筆・・
  その南進論と国家主義的立場から西欧帝国主義による
 植民地収奪を激しく論難した。
  後に、三宅雪嶺らと雑誌『日本人』を刊行し、指導的
 役割を果して行った。
  また、農商務省、外務省などの要職に就き・・
  晩年は衆議院議員ともなった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、中国に、ハゲタカ・ファンドが入っている・・
    これが最後の段階・・
   だから、これらが引き始めたら「中国不都合の露呈の始まり」・・
    中国は・・時限爆弾状態・・
.
1642年、イギリスの清教徒革命
  清教徒革命(または、ピューリタン革命)は・・、
  1642年から1649年にかけて、イングランド・スコット
 ランド・アイルランドで起きた内戦・革命であって・・、
  1638年の主教戦争から・・1660年の王政復古までを含
 む・・、
  イギリス王国は、国教会による王の絶対主義によって
 維持されていた・・が・・
  しかし、富を獲得して羽振りが良くなる者と、その反
 対に没落する者とが・・錯綜していた。
  王室と議会の対立の源となった社会矛盾・・この確執
 の多い不安定な社会だった。
  イギリスは、キリスト教のカトリックとプロテスタン
 トが、果てしなく飽くなき状態で戦った三十年戦争で有
 利になろうと・・、
  1624年に、フランスの呼びかけに応じて、デンマーク・=
 ノルウェーを、「対ハプスブルク同盟」へ引き込む為、
 資金を提供した。
  この結果、イギリス王室は財政難に苦しむこととなっ
 た。
  しかし、1625年に王位を継承したチャールズ1世は、こ
 の様な変化に対応できなかった。
  キリスト教の教義による王権神授説にもとづいて、議
 会と対立した。
  その結果、大陸の戦火がイギリスにも及ぶ様にになっ
 た。
  1641年のイングランド内戦で、アイルランドのキリス
 ト教カトリックが蜂起した。
  アイルランド・カトリック同盟政権を樹立し・・アイ
 ルランド革命が始まった。
  1642年には、イギリスでも、王と議会の対立から第一
 次イングランド内戦が始まった(1642年~1646年)
  スコットランドでも、二次にわたる主教戦争を経て・・
  1644年、盟約派と国王派の間でスコットランド内戦が
 始まった。
  (参考)主教戦争:しゅきょうせんそう、イングラン
     ド・スコットランドにおいて、キリスト教問題
     が原因で起こった戦争。
      チャールズ1世が、イングランド国教会の形式
     にもとづく祈祷書をスコットランドに強制した。
     1639年と1640年の二度起きる。
  イングランドは、ピューリタニズムの影響を受けて民
 衆運動にもなった・・
  次第に過激化し、また、大規模化して行った。
  (参考)ピューリタニズム:16世紀の後半から始まり・・
      イギリス国教会内部から生じたキリスト教プ
     ロテスタントの一派のピューリタン(清教徒)
     の思想で・・
      宗教改革を徹底することによって、国教会の
     浄化ができるとした・・
.
1649年1月30日、イギリス王室のチャールズ1世が処刑され
 る。
  この時から、イギリスは、王政が途絶え・・共和制が
 布かれた・・、
  「イングランド共和国」となった。
  イギリス王統は、この様にして途絶えた。
  このイギリスの王室の上に君臨するデンマーク王室が
 存在した。
  この二つの王室が、ヨーロッパでは、王室と言える様
 な存在なのだが・・男子を優先としている。
  イングランド共和国は、以上の様に、清教徒革命(イ
 ングランド内戦)の1649年~1660年の間、イングランド
 王国と、後に、アイルランド王国・スコットランド王国
 を支配した共和制の政治体制・・
  1649年1月30日、チャールズ1世が処刑されて・・
  1649年3月19日、ランプ議会によって、はじめてその樹
 立が宣言された。
  1653年~1658年の間、オリバー・クロムウェル、そし
 て、その死後、息子のリチャード・クロムウェルによる
 2代にわたっての護国卿による独裁制も敷かれた・・
  護国卿時代(プロテクトレート)と呼ばれる。
  イングランド共和国は、1649年~1660年までの間の政
 治体制だった。
  ランプ議会は、ニューモデル軍と独立派が結託した1648
 年12月6日のクーデターによって、長期議会の中の長老派
 を閉め出して作られた・・
  1649年1月30日、チャールズ1世処刑の前後、ランプ議
 会は、共和制の法的基盤を固める数条の法律を可決させ・・
  それには、王政を廃止し、また、枢密院・上院も廃止
 となっていた・・
  枢密院の代替として作られたのが国務会議で・・王の
 行政権のほとんどを引き継いだ。
.
1649年8月、イギリスのクロムウェルが、アイルランドを侵
 略(~1653年4月)
  1641年のアイルランド革命以来、アイルランドは、キ
 リスト教アイルランド・カトリック同盟の統治下にあっ
 た。
  このアイルランド・カトリック同盟は、イングランド
 内戦において敗北した王党派(国王派)と、1649年に、
 同盟を結んでいた・・
  クロムウェルはこれを攻めた・・
  そして、アイルランドを占領した。
  アイルランドの人々の大多数が、キリスト教ローマ・
 カトリックだった・・
  クロムウェルは、刑罰法を可決させて、この人たちか
 ら大量の土地を奪った。
  クロムウェル占領軍は、残忍を極めた・・
  その為、現在でも、クロムウェルは、アイルランドで
 嫌われている。
  戦いは、クロムウェルの軍の30,000と・・、
  このクロムウェルに加担したアイルランド・キリスト
 教プロテスタント・・
  この連合軍に対して、20,000人のゲリラを含む60,000
 のアイルランド軍・・
  この戦いによる戦死者:クロムウェル軍の8,000と加担
した現地軍の7,000・・
  アイルランド軍の15,000~20,000、
  そして、アイルランド市民の200,000以上(戦争とその
 関連の飢餓の死者)・・
  12,000以上が、奴隷とされて連行され、国外へ連れ出
 された。
  キリスト教聖書で教える奴隷思想による行為・・
     ・
     ・
     ・
1940年10月、日本を戦争に「はめ込んで行くアメリカ」
  第二次世界大戦の始まる14か月前・・、
  アメリカは、日本を戦争にはめ込む「対日開戦促進計
 画(マッカラム覚書)」を策定した。
  日本を戦争へ「はめ込みたいとする計画書」である・・
  完全に日本を戦争にはめ込もうとしている「アメリカ
 の陰謀の計画書」だった。
  そして、また、アメリカは、その13か月後の開戦1ヶ月
 前の開戦直前には・・また、策謀の「真空の海(バキュ
 ーム・シー)」命令を発令した。
  これは、日本を誘い込んで、「日本に攻撃させる海域
 (真空の海)」を作るという命令だった。
  日本の連合艦隊の大部隊が、アメリカに見つからずに
 スムースにハワイの真珠湾に行けたことを不思議に思わ
 なければならない。
  アメリカのルーズベルト大統領は、「真空の様な海域」
 を作れと・・命令した。
  何事も起きずに、日本の連合艦隊がハワイの目的地へ
 と行ったのは・・おとぎ話だった・・
  日本の暗号を完全に解読していたアメリカは、アメリ
 カの日本大使館と、日本本国とのやり取りの暗号文のす
 べてを理解していた・・すべての事の成り行きを知って
 いた・・。
  そして、また、千島列島の単冠湾(ひとかっぷわん)
 に集結した日本の連合艦隊は、その逐一を、アメリカに
 探知されながら・・ハワイへと向かって行った。
  ルーズベルトが命令した真空の海域を行ったのだった・・
  アメリカは、この様に日本を戦争へ誘い込んだ策を取
 り続け、戦争に誘い込んで行った。
  このすべてを指揮していたのが、アメリカのルーズベ
 ルト大統領・・
  陰湿な引っ掛けに「はめられた日本」は、戦争に引き
 づり込まれ・・そして、日本は戦争に敗けた・・
  そして・・日本を占領したそのアメリカの戦勝国は、
 日本に憲法案を作成し、押し付けた。
  その条文には・・
  「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存
 を保持しようと決意し」と・・案に書いた・・
  まったく白々しい条文を書いて・・与えた・・
  そのアメリカ自体こそ、「公正でもなく」「信義に信
 頼する相手でもない」という状況の中で・・
  そして、そんな状況の中で・・「我らの安全と生存を
 保持できる」・・と・・日本はその憲法を保持した・・
  その様な状況では『まったくない』という実際の事態
 だった。
  (参考)マッカラムの戦争挑発行動八項目覚書:
      ロバート・B・スティネット『真珠湾の真実』
     所収 。
      1940年10月7日付アーサー・マッカラム少佐の
     覚書(ダドリー・ノックス大佐の承認を含む)
      著者は、1995年1月24日、アメリカの第二公文
     書館の軍事関係部門の記録グループ38(RG38)
     の特別米軍収納箱6号で、アーサー・マッカラ
     ム少佐作成の、日本を挑発して米国に対し明白
     な戦争行為に至らさせるための、八項目の行動
     提案書を発見した。
      記述のすべてが、まったく、アメリカに都合
 よく書かれている書である・・
  海軍情報部長あて覚書
  海軍情報部極東課長
  一九四〇年十月七日
  標題:太平洋地域の情勢見積及び米国の取るべき行動
  1、アメリカ合衆国は今日、欧州では敵対的なドイツ
 及びイタリアと対決しており、また東洋では敵対的な日
 本とも同様な状態にある。
  これら二つの敵対的グループの間に介在する大陸国家
 ロシアは現時点では中立だが、あらゆる可能性から考え
 て枢軸国に味方するだろう。
  これら枢軸国に対するロシアの好意的な態度が、欧州
 戦争での枢軸国の勝利の見込みを直接高めることとなる
 と期待されるかもしれない。
  独伊は欧州大陸で勝利を収めていると見られており、
 そして欧州全域が枢軸国の軍事的統制下におかれるか、
 またはその隷属を強制されていると見られている。
  唯一、英帝国が独伊及びその衛星諸国による世界支配
 の増大を阻止するための戦いを、積極的に戦っているに
 すぎない。(P451-P452)
  2、アメリカ合衆国は最初、欧州戦争には干渉しない
 態度をとっており、また独伊は力の及ぶ範囲内で、欧州
 戦争の結果に米国が無関心な態度をとり続けるよう、あ
 らゆる手段を尽くしてきたとの見方を支持する相当な証
 拠がある。
  逆説的ではあるが独伊軍が勝利を収めるたびに、米国
 内の英国政府に対する同情と物的援助は増大して、戦争
 以外の、あらゆる援助の手を差しのべる政策を、英国政
 府に約束する立場に立っている。
  情勢が急激に変化しているので、米国政府はきわめて
 近い将来、英帝国の全面的な同盟国となるだろう。
  アメリカ合衆国を無関心な傍観者の立場に維持せんと
 する独伊の外交政策が遂に失敗に帰した結果、独伊は(
 欧州以外の)他の地域で米国の安全保障に脅威を与える
 政策を採用せざるを得なくなった。
  それは、特に中南米地域における枢軸国に支配された
 グループによる革命の脅威や、極東での日本による侵略
 と脅威を増大させるための激励である。
  それは、独伊がこうした手段により、米国の考え方や
 米国自体の身近の安全保障に大混乱を生じさせ、純然た
 る防御準備にきわめて神経質にさせ、米国のいかなる形
 式の対英援助をも事実上、禁止させようと希望している
 からである。
  この政策が採用された結果、独伊は米国を対象とした、
 日本との軍事同盟を締結した。
  この条約について報道された条件及び日独伊指導者た
 ちの、とげとげしい言葉が信ずるに足り、かつ、それら
 を疑う理由もないように思えるので、米国が対英援助に
 踏み切ったり、または米国が東洋における日本の目標遂
 行に力ずくで介入する場合には、 これら全体主義三カ国
 は米国との戦争に同意している。
  そのうえ、独伊は戦争に至らない、米国の対英援助が
 開戦の理由となりうるか否かを決定する権利、または彼
 らが英国を破った後ではそれが対米戦の理由とはならな
 いと決定する権利を、はっきり留保している。
  換言すれば、英国が敵国により処分された後で、直ち
 に対米戦争に進むか否かを決定するだろうと言うのであ
 る。
  地理的条件からドイツもイタリアも日本には、いかな
 る物的援助をも提供できる位置にはない。
  反対に日本は、英国の自治領及びオーストラリア、イ
 ンド、蘭領東インドからの物資補給ルートに脅威を与え、
 恐らく補給ルートを攻撃することにより、 独伊両国に対
 して、大きな援助を提供することができる。
  かくして、欧州において枢軸国に反対する英国の立場
 を実質的に弱体化させることになる。
  この援助と交換に日本は、米国が日本に対し積極的な
 行動に出るのを阻止するため、米国の注意を引きつける
 べく、独伊は全力を尽くすだろうとの追加約束を得て、
 日本は奪取可能と考えるアジアのすべてを占領するため
 のフリーハンドを獲得している。(P452-P454)
  われわれはここで再び枢軸国と日本との-米国の力を
 発揮不能とし、かつ、脅迫と警告とにより、米国民の考
 え方を混乱させて、行動するか、しないか、いずれの分
 野でも米国の迅速な決定的行動を阻止せんとする-外交
 的駆け引きの実例を見た。
  欧州の枢軸国または極東の日本が、最も望んでいない
 ことは、いずれの戦域においても米国による挑戦的な行
 動であるということは、いかに強く強調しても、強調し
 すぎることはない。
  3、欧州の現状を検討すると、英国を援助するため、
 われわれがまだ実施していなくて、現在直ちに実施可能
 なものはほとんどないとの結論に到達する。
  われわれは英国を援助するために派遣すべき訓練され
 た軍隊を保有していない-少なくともあと一年間は保有
 しないだろう。
  われわれは現在、対英援助物資の流れを増大して、あ
 らゆる実施可能な方法で英国の防衛を支持するよう努力
 している。
  そして、この援助が増加されることは疑いない。
  一方、英国が戦争を継続し、英海軍が大西洋の制海権
 を維持しているかぎり、ドイツまたはイタリアが米国に
 対抗できる可能性はほとんどない。
  われわれの立場にとっての一つの危険は、英帝国が早
 期に降伏し、英国艦隊が手つかずのまま枢軸国の手に入
 ることである。
  このような事態が生起する可能性は、われわれが実際
 に英国と同盟しているなら、実質的には少なくなってい
 るか、もしくは英国にかかっている圧力を、行動の別の
 分野で軽減するため積極的手段をとるならば、最小限に
 抑えることができる。
  要約すると、英国海軍が大西洋の制海権を保持し、米
 国と友好関係にあるかぎり、大西洋における、米国の安
 全保障に対する脅威は小さい。
  4、太平洋では、日本は独伊との同盟のおかげで、英
 帝国の安全保障にとって決定的な脅威であり、いったん
 英帝国が消滅すると、日本-独伊の戦力は米国と対抗す
 ることになる。
  シンガポールに対する日本の脅威または攻撃を伴った、
 また、バルカン半島及び北アフリカ経由のスエズ運河に
 対する独伊軍による強力な陸上攻撃は、英帝国にとって
 きわめて深刻な結果をもたらすことだろう。
  日本を牽制もしくは中立化させることが出来たなら、
 枢軸国がたとえスエズ運河攻撃に成功したとしても、イ
 ンド洋から英国の海軍力を排除することによってもたら
 されるのと同じ位の利益―つまり、日本にとって欧州補
 給ルートを開き、 東洋の原料補給海上ルートを独伊まで
 伸ばす―を日本にもたらすことにはならないだろう。
 (P454-P455)
  従って、英米が欧州を海上封鎖し、かつ多分日本が部
 分的にせよ(東アジアで)活動している場合には、日本
 は牽制されなければならない。
  5、第3項で指摘したように、米国が欧州の情勢を救
 うため直ちに実施可能なことはほとんどない一方、米国
 は日本の侵略的行動を効果的に取り止めさせることが可
 能で、しかも米国の対英物的援助を減ずることなく実施
 できる。
  6、米国と対立している日本の現状を分析すると、次
 のことが言える。
  有利な点
  (1)日本列島は地理的に強力な優位性を持っている。
  (2)きわめて中央集権化された強力な政府である。
  (3)厳格に管理された戦時経済体制をとっている。
  (4)国民は苦労と戦争に慣れている。
  (5)強力な陸軍を有する。
  (6)米海軍の約三分の二の兵力からなる熟練した海
    軍を有する。
  (7)ある程度の天然資源の備蓄がある。
  (8)四月までは天候により、日本近海での作戦行動
    が困難である。
  不利な点
  (1)アジア大陸での消耗戦に百五十万人が役人され
    ている。
  (2)国内経済と食糧配給が厳しく制限されている。
  (3)戦争に必要な天然資源が大幅に不足している。
    特に石油、鉄及び棉花が不足している。
  (4)欧州から資源を人手することが不可能になって
    いる。
  (5)必需物資を遠い海上交通路に依存している。
  (6)合衆国と欧州の市場に頼ることなく、軍事機材
    の生産と補給を増加させることができない。
  (7)主要都市と工業地域は空襲を受けやすい立地条
    件にある。
  7、太平洋において、アメリカ合衆国は防衛上きわめ
 て有利な立場にあり、海軍及び海軍航空隊は現在、この
 地域で長距離進攻作戦を実施する能力がある。
  われわれは、次の点でもきわめて有利である。
  すなわち、
  (A)フィリピン諸島は今もなおアメリカ合衆国が領
    有している。
  (B)友好的で多分連合側に加わる国家の政府が、蘭
    領東インドを支配している。
  (C)われわれと友好関係にある英帝国が、香港とシ
    ンガポールを領有している。
  (D)中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている。
  (E)日本の南方補給ルートに対し、重大な脅威を与
    えることのできる、米海軍の部隊がすでにその
    作戦海域にいる。(P455-P456)
  (F)米国と同盟を結んだら貴重となる、オランダ海
    軍の相当規模の兵力が東洋に駐在している。
  8、前述したところから、次の結論を引き出すことが
   できる。
  米海軍が日本に対して速かに進攻作戦を実施すれば、
 日本は独伊のイギリス攻撃を支援できなくなるだろうし、
 日本は最も不利な情況で戦わざる得なくなるか、もしく
 は海上封鎖部隊により、 かなり早い時期に国家が崩壊す
 る状態に直面することになるだろう。
  英国及び和蘭と適切な協定を結んだ後で、機敏かつ早
 期に対日宣戦を布告すれば、独伊が米国を効果的に攻撃
 する前に日本を早期に崩壊させ、太平洋から敵を排除で
 きるだろう。
  さらに、日本を排除することは、独伊と対決している
 英国の立場を確かに強化するに違いない。
  さらに、そのような行動はわれわれと友好的関係を望
 んでいる、すべての国家の信頼と支援を増大させること
 だろう。
  9、現在の世論の情況からは、さらにより多くの騒動
 が発生しないかぎり、米国政府が対日宣戦布告を出来る
 とは思えない。
  われわれの積極的な動きにより、日本が態度を変更す
 ることはほとんどない。
  従って、次の施策八項目を提案する。
  (A)太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用に
    ついて英国との協定締結。
  (B)蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地
    施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダ
    との協定締結。
  (C)蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。
  (D)遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東
    洋、フィリピンまたはシンガポールヘ派遣するこ
    と。
  (E)潜水戦隊二隊の東洋派遣。
  (F)現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持する
    こと。
  (G)日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要
    求をオランダが拒否するよう主張すること。
  (H)英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して
    行われる、日本との全面的な通商禁止。
  10、これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴
 えさせることが出来るだろう。
  そうなれば、益々結構なことだ。
  いずれにしても、戦争の脅威に対応するため、われわ
 れは十分に準備を整えておかなければならない。
                A・H・マッカラム
  CC-Op-16 Op-16-F ファイル
  一九四〇年十月七日 Op16-F-2 0NI(P456)
.
1941年4月14日、日米交渉(~1941年11月)
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦直前、戦争の回
 避のための交渉が行われた・・
  日本側から働きかける必死の戦争回避のための会談だ
 った。
  第1回の野村・ハル会談は・・1941年4月14日に行われ・・
 会談は、何度も何度も重ねられて来ていた・・が・・
 しかし・・アメリカは「戦争ありき」のかたくなさの中
 にあった・・そして、8月に至った・・
  1941年8月7日、豊田外相が、野村吉三郎駐米大使に「
   近衛・ルーズベルト会談」の開催の要請を訓令した。
    野村大使は、「交渉打ち切りのほか無し」とする
   アメリカ側の態度を報告した・・しかし・・日本は、
   粘り強い戦争回避会談を要望した・・
  1941年8月9日、野村・ハル会談が行われた。
    アメリカのハル国務長官は、「日米交渉の打ち切
   り」を示唆した・・しかし・・
  1941年8月14日、野村・ハル会談。
  1941年8月16日、野村・ハル会談。
  1941年8月17日、野村・ルーズベルト会談。
    ルーズベルトは、日米首脳の会談の前提には日本
   の譲歩が必要だと要求した。
  1941年8月24日、野村・ハル会談。
  1941年8月26日、ルーズベルト大統領への近衛首相のメ
   ッセージが作成された。
  1941年8月28日、野村・ハル会談。
    近衛首相のメッセージを手交し、手渡した。
  1941年8月29日、第5回野村・ルーズベルト会談。
  1941年8月30日、ドイツ大使が、日米交渉の打ち切りを
   日本に勧告した・・ドイツ大使は知っていた・・見
   通していた・・
  1941年9月2日、野村・ハル会談。
  1941年9月3日、豊田外相が、野村大使へ日米首脳会談
   の9月中の開催を要請するようにと訓令した。
  1941年9月4日、豊田外相が、日本側の提案を訓令し、
   野村・ハル会談が開催された。
  1941年9月6日、野村・ハル会談・・日本側提案を手交
   した・・この様に粘り強く戦争回避会談を要求する
   日本から、日本は戦争を望んでいないという事は明
   らかだった・・
  1941年9月8日、野村大使が日本へ調査結果を報告する。
    アメリカの軍需生産が、昨年の4倍から5倍になっ
   ている・・すでに戦いありきのアメリカだった・・
    また、アメリカの世論の70%が、「日本の発展を
   阻止するためには・・戦争をしても良い」となって
   来ている・・と・・世論誘導もなされていた・・
  1941年9月17日、日本側の提案だけでは合意は不可能
   (さらなる譲歩を)と野村大使が日本本国へ伝える。
  1941年9月20日、野村・ハル会談。
  1941年9月23日、野村・ハル会談、日米首脳会談を督促
   した。
  1941年9月28日、日本の了解案(譲歩案)をアメリカ側
   へ手交する。
  1941年9月29日、野村・ハル会談。
  1941年10月2日、野村・ハル会談、アメリカから日米首
   脳会談の開催を拒否される・・戦争回避の首脳会談
   をやる必要なしとするアメリカ・・
  1941年10月4日、野村・ハル会談。
  1941年10月6日、豊田外相が、野村大使にアメリカの案
   に基本的に同意すると(日本の譲歩を)伝える。
  1941年10月9日、野村・ハル会談。
  1941年10月10日、野村大使が、日本のさらなる譲歩が
   ない限り日米首脳会談はないと日本本国へ伝える・・
   いくら譲歩をしても無駄という状況にある・・その
   様なアメリカ・・
  1941年10月16日、戦争回避に努力していた近衛内閣が
   総辞職した。
  1941年10月18日、東条英機首相が就任する。
  1941年10月21日、新しい内閣の外相が、再度、アメリ
   カ側への粘り強い交渉を始める・・が・・
  アメリカのルーズベルト大統領は、蒋介石を中国の代
 表として確立し、東アジアのアメリカの利益代表にした
 いと思っていた。
  そして、アメリカは、「勝つ戦いだ」と思っていた・・
  当然、日本には、「戦争維持もできない」という報告
 が、すでに、ある様に、しっかりした現状分析は日本も
 できていた・・
  そして、ついに戦争は始まるのだが・・
  ルーズベルトが恐れていたのは・・、
  日本が敗北した後に、支援している蒋介石ではなく、
 毛沢東の共産党勢力が、「中国を支配できる」からと、
 また、「中国の自国を支配下に置ける」からと、蒋介石
 との戦いに必ず勝てるからと、蒋介石の国民党との戦い
 に踏み切る事だった・・事実、その様になってしまった・・
  そして、ルーズベルトは、終戦の前の年の1944年5月、
 ジョセフ・グルーを国務省極東問題局長に起用して政策
 転換した。
  ジョセフ・グルーは、それまで長らく駐日大使を務め
 ていた。
  ジョセフ・グルーは、1932年6月から1942年6月までの
 10年間、東京に居て、駐日大使を務めていた。
  グルーは、日本に対する「経済封鎖策に反対だった」。
  また、戦争の開戦を回避するための「近衛・ルーズベ
 ルト会談の実現」を強く望んでいた・・、
  戦争が始まってからも、日本の天皇制度こそが戦後の
 日本を安定させると説いて回っていた。
  それは、それまでの前任者のスタンレー・ホーンベッ
 クとはまったく違っていた。
  ホーンベックは、日本嫌いで、日本を戦争に追い込む
 「絶対的な手である=日本を経済封鎖する」を強く主張
 していた。
  また、戦争回避のための会談である「近衛・ルーズベ
 ルトの日米首脳会談」に強く反対した。
  グルーは、ルーズベルトとは古くからの友人だった。
  ボストンの私立寄宿舎学校の校友で、また、ハーバー
 ド大学の同窓でもあった。
  ホーンベックは、中国国民政府を依怙贔屓(えこひい
 き)していた。
.
1941年4月、悪化した日米関係を打開するため、日米交渉
 が、ワシントンで始まったが・・、
  交渉はまとまらなかった。
  それも、そのはずだった・・
  アジアで台頭する有色人種国家・日本の「出る杭」は
 打つだった。
  アメリカは、アジアにおいて、そのアジア人の、アジ
 アに属する日本が台頭して、アジアのイニシアティブを
 とられることを、抑えたかった。
  そのために「日本をたたくチャンス」を作って来てい
 た。
  日本は、必死に会談を重ねたり動いたが・・戦争回避
 への方向へ、しかし、最初から動く訳はなかった。
.
1941年11月23日、アメリカは、アメリカの日本大使館と日
 本本国との通信を傍受し、その暗号を解読し、第二次世
 界大戦の大戦前の状況の一部始終を知り、把握していた。
  1941年11月23日、日本の機動部隊が日本領の択捉島の
 単冠湾(ひとかっぷわん)に集結し、1941年11月26日に
 出撃したのも、当然と言いたいくらいに、アメリカは、
 その動きを、逐一、把握していた。
  嘘をつくアメリカは、それを・・「まったく知らなか
 った」と言った。
  敵の最大の攻撃破壊力を持つ部隊の行動を・・まった
 く知らなかったなどと言えるはずは無く・・日本も、ア
 メリカの機動部隊が、ハワイの真珠湾に集結しているこ
 とを知っていた如(ごと)く、アメリカも、日本の機動
 部隊の、集結、出撃など、逐一、知っていた。
  「アメリカは、まったく知らなかった・・日本の奇襲
 だ」と言うのは、まったくおかしい大嘘のアメリカとな
 っている。
.
  そして・・現在・・
2018年、それにしても、アメリカは、怖(こわ)い国だ。
  アメリカの子供たちに、広島・長崎の原爆投下を「正
 義だったのだ」と教えている。
  その様に思わせ、信じ込ませるために、「20万人~30
 万人のアメリカ人の兵士が死にそうだった」から、「先
 に、20万人~30万人の日本人の一般市民を殺したのだ」
 と教えている。
  その様にマインド・コントロールしている。
  「それは、正義だったのだ」と教え、洗脳している、
  マインド・コントロールされたこの子たちは、大きく
 なって、大人になって、同じ様な状況になった時・・、
 『原爆を投下するような、アメリカ人の大人に育ってい
 るだろう』・・
  正義なら非人道的兵器あろうと使って良いのだ・・と・・。
  同じ過ちを繰り返す「愚かなアメリカ人」に育ってい
 るだろう・・
  そして、同じ過ち(あやまち)を繰り返す・・反省し
 ない国・アメリカになっているだろう・・
  同じ過ちを繰り返す愚かさ・・
  「原爆を投下するアメリカの姿が続く」という繰り返
 す愚かな国となっているだろう・・
  だから、我々は、広島の石碑に・・
  「過ちは繰り返しませぬから」と悲惨な状況の中に死
 んだ方々への「鎮魂のために刻(きざ)んだ」・・
  我々は、全人類の為にも、「アメリカのこの様な過ち」
 は「絶対、繰り返すような愚かな行為は致しませんから・・」
 ・・と祈って、石碑に刻んだ・・、
  しかし、最近、アメリカは、子供たちに100万人が死ぬ
 ところだったと、死ぬ人数をより大きく過大にして、子
 供たちを洗脳し、教えている。
  まったく、あり得ない数字をあげて、批判もできない
 年齢の子供たちを洗脳している。
  アメリカよ、同じ過ちは繰り返すな!
.
2018年、アメリカは、銃に関しても屁理屈をこねている・・
 原爆と同じな屁理屈をこねている。
  屁理屈をこねる国・アメリカとなっている。
  20人もの小学生の子供たちが、撃ち殺された事件が起
 きた。
  そして、アメリカは言う・・「銃で撃つ犯罪行為が悪
 いので、銃が自由に手に入れることが出来る事は悪くな
 い」と・・屁理屈をこねている。
  「小学校に、防弾の盾が無いのが悪いのだ」と批判の
 行先を変えさせている。
  「ホワイト・ボードに防弾性能が無かったから悪いの
 だ」と批判の方向を変えさせている。
  子供の誕生日のお祝いに銃を親が送ることは正義なの
 だ・・と・・、
  銃の無くならないアメリカは・・何ら反省することを
 しない国となっている・・
  悲惨な銃の乱射事件が繰り返されるアメリカとなって
 いる・・
  オバマ大統領が「銃を無くそう」と言ったことは化石
 の如くとなっている。
.
2018年、グローバリゼーションの時代こそ、「国単位で考
 え、よりよい社会を構築する大切さを認識する」ことが、
 より差し迫って求められる。
  地球温暖化防止会議・・
  この問題が、解決する枠組みが、グローバルにできる
 訳はなく、「国単位」でしかやりようがない。
  だからその様に決められた・・
  しかし、それが不満なアメリカは・・何と!アメリカ
 は、京都議定書から、「国益」にあわないと下りてしま
 った・・脱退してしまった。
  アメリカは、もう二度とグローバリゼーションを口に
 しないこと・・
  また、アメリカは、情報を盗み取り、自国企業の競争
 力を支えるというハレンチ行為をした。
  自国の利益追求の利己的行為をした。
  「エシュロン」など卑劣極まりない事をしている。
  アメリカの自国企業は、この甘い汁を吸った。
  アメリカという国から離れられない人々だった。
  どこがグローバリゼーションなのだ。
  都合のよいつまみ食い論理だ。
  この様な状況で、グローバルになれる訳はない。
  グローバリゼーションのマインド・コントロールは、
 もはや終焉した。
.
2018年、木造が劣化するという議論は嘘
  木質は、年数と共に強度が増すという事を知らない。
  NHKは、いつも、「年と共に劣化する」・・だから
 弱くなると放送する・・それは間違い。
  軽率な論議となっている。
  木質を、「乾湿繰り返し」の環境に置けば、木材腐朽
 菌(ふきゅうきん)によって腐ることは、誰でも知って
 いる。
  しかし、出雲大社が、遠い昔、天にも届く高い高い神
 殿だったという話は、半分、伝説の様に伝わっていた。
  その話に決着がつくことがあった。
  出雲大社を発掘すると、その高い大神殿を支えた木の
 杭が出土した。
  実際、我々・日本人の祖先は、この様な木造の大建築
 を、遠い昔、すでに作っていた。
  その杭は、この様に劣化せずに出土した。
  腐朽菌が無い状態ならば、木質はこの様な長い年月を
 存在している。
  NHKの放送は間違いで嘘となった。
  キリスト教に偏するNHKは、仏教を蔑視するが・・、
  以前、仏教寺院の世界遺産の法隆寺の保存が話題にな
 った時・・、
  「法隆寺は木造だが、木造だと、(腐って)何時、壊
 れるかわからないから、いっそコンクリートで建て替え
 るべきだ」の暴論を言うNHKという始末だった。
  今、法隆寺は、世界遺産となって、日本のみならず、
 世界の遺産となって人類の資産となっているが・・、
  NHKは、この様な貴重な資産を、不勉強極まりない
 暴論で抹殺しようとした。
  調査や研究もせず、安易な素人の思い込み放送で、影
 響力の超巨大な放送媒体で、間違い放送する罪がNHK
 にある。
  また、意図的に仏教蔑視を繰るNHKとなっている。
  NHKは、一時、「コンクリートは、40年でダメにな
 る」という放送を意図的に何度も放送した。
  こんなことなら・・上野の世界遺産になった美術館が、
 コンクリートであるが、世界遺産になるわけはない。
  乾燥して行く木材は、強度が上昇するとさえ言われて
 いる・・
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その4)
・日本は危機管理力が鈍感だ・・
・アメリカは、アメリカ高官が台湾へ行けなかったが、今、
 高い階級の高官が行くようになっている・・
・中国は、軍事拠点にしないと言っていた南シナ海を「完
 全に軍事拠点化」し、それも3ヶ所も、そして、「中国版
 の海兵隊(侵略部隊)を3倍に2020年までにしようとして
 いる」・・
  この様に、中国は「この地域で動くぞ」と明確に表明
 している・・
  これは、先手を取って、中国に動かれる前に抑えるべ
 きだ・・
・太平島(たいへいとう、現在、中華民国が実効支配して
 いる南沙諸島の島)を中国は盗ろうとしている・・ここ
 が狙われている・・(この次が台湾)・・
・今、すでに、中国は、海賊対処という名目で、軍艦に海
 兵隊を乗務させている・・
・台湾の軍は国民党軍であるから、台湾住民を弾圧する恐
 れも考えられる・・
  また、台湾の国民党は、偽の事件を台湾内で起こして、
 中国に援助を求める偽装工作をする恐れがある・・
  中国軍の台湾へ入る口実作りをする恐れがある・・
・尖閣諸島周辺の台湾の漁民は、ほとんどがこの国民党系
 の漁船・・
・中国は、危なくなると戦争を起こす恐れが大きい・・
・台湾には、半導体の高い技術力がある・・軍事転用でき
 るものばっかり・・
  また、台湾は、アメリカに留学した技術者の技術が
 たくさん持っている・・これが中国に渡る心配がある。
  アメリカは台湾を手放したくない・・
・習近平と台湾国民党は、非常に近い親密な関係にある・・
・中国の国内問題が危ない・・
  反習近平派が黙認した習近平政治・・
  これはいざという時に習近平に総て責任と取らせる心・・
  南シナ海の軍事基地化もすべて習近平の仕業(しわざ)
 だと出来る・・
・アメリカが本気を出した・・
  (この様なアメリカをキリスト教大学の教授が必死に
 批判していた・・青山学院大学の教授がトランプ大統領
 の批判を猛烈にする・・)
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その5)
・今、中国の国内には反習近平勢力がいっぱい居る・・
  習近平を、今のような状況の地位に就かせようとしな
 かった抵抗した人たちが大勢いる・・
  そして、その様な人たちが、世界中に広がっている・・
  その様な中国系の人たちは、江沢民派などの反習近平
 派で・・
  この人たちは、いざという時になったら親中というよ
 り西欧社会と連携するようになる・・
  中国国内で冷や飯を食って来ている「世界へ出た中国
 系の人たち」は、今まで自分たちが築いて来た今の現状・
 状況・状態を大事にして優先する・・
・4年前に、習近平が政権に就いた最初の時は、国民はみん
 な習近平が好きだった・・しかし、だんだん嫌いになっ
 て来た・・
  ワクチン問題が起きている・・
  (参考)不正混合ワクチン大量流通、子供が数十万人
     が接種(SankeiBiz)2018.7.25
      中国で国の販売基準に適合しない予防効果不
     明の混合ワクチンが大量に流通、数十万人の子
     供らが接種していたことが発覚し、衝撃が広が
     っている。
      中国では、違法薬品が市場に出回る事案が後
     を絶たない。
      今回は、子供の命に関わりかねないため、親
     らの怒りが爆発。
      国の管理責任も取り沙汰され、指導部は世論
     の沈静化に躍起になっている。
      事態を深刻視した習近平国家主席は23日、
     外遊先のアフリカから「徹底調査せよ」と指示。
      李克強首相も22日「道徳的に許せる最低ラ
     インを越えた」と関係者を批判した。
      しかし、李氏は、2016年に、ワクチンの違法
     販売事件が判明した際も「レッドライン(許容
     できない一線)だ」として再発防止を指示して
     いただけに、国民の怒りの火に油を注いでいる。
      中国メディアによると、問題視されているの
     は、吉林省長春市と湖北省武漢市の製造会社が
     販売した百日ぜき、ジフテリア、破傷風の混合
     ワクチン。
      山東省、河北省、重慶市を中心に65万本余
     りが流通し、判明しているだけで36万人近く
     の子供らが接種した。
      内部告発により問題が発覚。
      当局が長春市の会社への処分を公表したこと
     から注目が集まった。
      健康への影響は不明だが、北京大の専門家は
     中国メディアに「殺人行為だ」と指摘した。
      中国では、2013年に、B型肝炎ワクチンを接
     種した多数の乳幼児が死亡するなど、ワクチン
     をめぐる問題が頻発。
      中国紙記者は、「指導者は毎回、地方や企業
     の幹部を拘束して幕引きを図り、有効な管理シ
     ステムを構築してこなかった」と指摘した。
  この問題を起こした犯人を逮捕するかは不明・・報道
 もなされない・・
  中国で豚インフルエンザも出て来た・・
  (参考)豚は、鳥・ヒトインフルエンザウイルスの両
     方に感染するため、豚が交雑宿主となって遺伝
     子再集合により新たなウイルスを排出する可能
     性がある。
      現在、世界的には、豚の間で様々な遺伝的背
     景を持つA(H1N1)、A(H1N2)、A(H3N2)ウイ
     ルスが循環しており、これまでにも散発的に豚
     からヒトへの感染例が確認されて来た。
      鳥インフルエンザの場合・・NAがN1以外のA/H5
     亜型の高病原性鳥インフルエンザウイルスのう
     ち、ヒトへの感染事例が確認されているのはA(H5N6)
     ウイルスのみで,、2014年以降は14例のヒト感染
     例が確認されており,、そのうち10例が死亡例
     で,、全例が中国からの報告。
  中国には、今、2億匹の豚が居るが、その飼料の大豆が
 米中貿易戦争で中国へ入りずらい状態になっている・・
  中国の豚飼育では、抗菌剤が、一杯、飼料の中に入れ
 られている・・中国の子供たちへの影響が心配されてい
 る・・
  また、中国は、豚の飼育期間を短くして早く売ろうと
 する傾向になっていて・・、
  豚を売る時に、売りやすくするために、豚の肌が白く
 なって、つやつやとするからと、売る3か月前に、ヒ素を
 飼料に混ぜる事がなされている・・
  その禁止令が出て、豚が売れなくなった・・豚飼育者
 は、その豚を河へ投棄した・・それが、上海まで流れて
 行き、問題となった・・
  また、中国はクローン豚が多い・・
・今、66ヶ国が中国の一帯一路に関係しているが、信用が
 がた減りの状況となっている・・
  また、毛沢東崇拝も完全に消えた・・
  元軍人の不満も大きく、デモも起きている・・10数人
 の死者(殺された者)が出る騒ぎとなった・・
  元軍人がどの様に連絡を取り合ったのか? 一晩で2万
 人が集まった・・電話・メールを使った形跡はない・・
  当局がまったく把握できない連絡で、大規模な行動が
 起こされるかも・・という恐怖が生まれている・・
  顔認識データーも元軍人は漏れていた・・
  今、元軍人が、中国に8500万人居る・・
・例え、習近平の後の政権になっても、今の中国のやり方
 は変わらないだろう・・
  そして、今、習近平が、日本に来る予定になっている・・
  中国の権益となったスリランカの港は、軍事転用させ
 ない様にしなければならない・・シーレーン、エネルギ
 ーの大切な道である・・
・今、中国には、長老という修正・調整集団が居なくなっ
 ている・・
  最初の頃は、米中貿易戦争に至らならない様にと導く
 人も居たが・・今は、習近平に責任を取ってもらおうと
 いう状況になっている・・
・インドは、今、ロシア製の兵器と、西側の兵器の混在と
 なっている・・
  ロシア製兵器が中心の潜水艦は、完全にロシアのコン
 トロール下にある・・
  経済的に、中国に頼っている面がある・・
  「インド・太平洋構想で対抗しよう」という構想の大
 きな壁になっている・・
・中国の目的が「世界制覇」にあるところが問題だ・・
  日本外務省は、(中国を気にして)チベットのダライ・
 ラマ法王にも会おうとしない・・
  日本は、ウイグル問題にも、あまり関わろうとしてい
 ない・・知ろうともしていない・・
・新興諸国の財務状況が、今、深刻極まりない状況となっ
 ている・・
  対外債務が・・
  1、モンゴル・・対GDP比・215%
  2、キルギス・・・111%
  3、ラオス・・・・ 84%
  4、タジキスタン・ 67%
  5、マレーシア・・ 63%
  6、トルコ・・・・ 55%
  7、南アフリカ・・ 53%
  8、アルゼンチン・ 40%
  9、メキシコ・・・ 40%
  10、ロシア・・・・ 34%
  11、タイ・・・・・ 34%
  12、ブラジル・・・ 33%
  13、パキスタン・・ 24%
  14、フィリピン・・ 23%
  15、インド・・・・ 20%
  このほとんどが、中国が貸している金・・
  9位のメキシコ、10位のロシア、15位のインドは別・・
  そして、この債務のほとんどが、不良債権化している・・
  中国国内にも、今、人の住まない超高層住宅が林立す
 るゴーストタウンがあるが・・今、中国は、世界中にも
 この様な「焦げ付き不良債権の山」を築いている・・
  この金額が・・2兆米ドル(225兆円)規模・・
  今、中国が持っている総債務は・・3700兆円・・中国
 のGDPの370%・・
  対米の貿易黒字で、中国の資金サイクルは回って来た
 が・・これからは、このサイクルが回らなくなる・・
  不動産暴落から始まる・・中国の不都合の露呈・・
  リーマン・ショックも世界経済に大打撃を与えたが・・
 この中国経済の不都合は・・この10倍規模になる・・
  このショックは・・計り知れないことを起こす・・
  日本は・・果たして・・その備えをしているのか???
  今まで、さんざん中国で儲けて来たアメリカの金融機
 関は・・今、中国から手を引いている・・
  今、ハゲタカ・ファンドが入っている・・これが最後・・
 だから、これらが引き始めたら「中国不都合露呈の始ま
 り」・・時限爆弾状態・・
・中国のほほえみ外交に変わった時は、特に、注意を要す
 る・・大丈夫だではなく、日本は、しっかり島嶼(とう
 しょ、島々)防衛をすべき・・シーレーンの確保・・国
 土を蹂躙されないための土地の売買制度などの再考・・
・今、中国は、カナダで反日宣伝博物館を作ろうとしてい
 る・・慰安婦、南京、真珠湾などなど・・中国政府の施
 策としてやっている・・
・声紋のデジタル統制・・人権無視、顔認証・・ウイグル
 民族浄化・・ムスリム弾圧強化・・AI全体主義の弱点
 は国際非難・・

【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2018年09月15日

(増補版)611E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)

題:(増補版)611E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月5日、広島市と港のある宇品(うじな、広島市南
 区)を「臨戦地境」に指定し、戒厳令を宣告した。
  (参考)戒厳(かいげん):戦時や自然災害、暴動等
     の緊急事態において、兵力をもって国内外の一
     地域、あるいは、全国を警備する場合に、国民
     の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停
     止し、行政権・司法権の一部ないし全部を、軍
     部の指揮下に移行することをいう。
      軍事法規のひとつであり、戒厳について規定
     した法令を戒厳令という。
      戒厳は、臨戦地境と合囲地境にと二種に分け
     られ、「合囲地境は敵の合囲若しくは攻撃其の
     他の事変に差し警戒すべき地方を区画して合囲
     の地域と為す者なり」つまり敵の囲い込み若し
     くは戒厳地域の囲い込みを意味する。
.
1894年10月5日、初の定期時刻表である「汽車汽船旅行案内」
 が発売された。
  月刊の時刻表定期刊行の始まり(第1号)
  庚寅新誌社(こういんしんししゃ)が、各駅最寄りの
 名所旧跡案内や、紀行文も掲載して発売した。
.
1894年10月6日、イギリスが、共同干渉を提議した。
  イギリスとロシアの協調は、不安定ながらも日清戦争
 中は継続していた。
  日本の戦いにおける優勢が決定的となったこの1894年
 10月、イギリスが、対日和平勧告を行う事を、ロシア・
 ドイツ・フランス・アメリカに提議すると・・ロシアは、
 列国中、最も好意的な対応を示した。
  また、この翌年の1895年1月に、ロシアが、英仏に対し、
 日本に講和を勧告し、かつ、その条件を開示すべく申し
 入れることを提議した。
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に対日申し
 入れを行った。
  結局、イギリスとロシアの協調の崩壊は、1895年4月初
 め、下関講和会議において、日本が提示した講和条約案
 (遼東半島割譲を含む)に反対しないという決定をイギ
 リス政府が下したことによって崩壊した。
  ロシア政府は、日清の開戦に至るまでは、極東問題と
 は何よりも朝鮮問題であって、ロシアは、清国の朝鮮に
 おける優勢さに対抗しなければならないと考えていた。
.
1894年10月9日、甲武鉄道市街線が開業した・・後の中央線。
  (新宿駅~牛込駅間が開通)
  線は、新宿駅から信濃町駅、四ツ谷駅を経て、牛込駅
 (市ヶ谷と飯田橋駅の中間地点)までだった。
  経緯・・
  1870年に開業したものの、2年後に廃止された玉川上水
   の船運の代わりに、その堤防沿いに新宿~羽村間に
   馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設を企画したことに
   はじまる。
    発起人は服部九一、岩田作兵衛、井関盛艮(元神
   奈川県知事)で、堤防沿いは認可を得られず経路を
   変更・・
  1886年11月、新宿駅~八王子駅間の敷設免許を得る。
    しかし、岩谷松平らによる蒸気鉄道、さらに川崎
   駅~八王子駅間の武蔵鉄道の出願があったため、直
   ちに動力を蒸気に変更して出願し、競願者を退けた。
    そして、資本金を30万円から60万円に増資する必
   要から大隈重信へ協力を求めた・・そして、平沼専
   蔵らから出資を得ることができ・・、
  1888年3月、免許状が下付された。
    しかし、その後、井関らと大隈派で対立を生じ、
   大隈派は株を売却、甲信鉄道へ投資してしまった。
    この時、登場した雨宮敬次郎は、安田善次郎らか
   ら資金提供を受け、暴落した甲武鉄道株を買いあさ
   り、資本金60万円のうち38万円相当の株を獲得し、
   経営の実権を握った。
  1888年5月2日、株主総会において役員を選出・・
  (社長)奈良原繁、(常議員)雨宮敬次郎、(常議員)
   井関盛艮、(常議員)指田茂十郎、(監査役)安田
   善次郎、(監査役)岩田作兵衛・・そして・・
  1888年6月9日、副社長となった大久保利和が10月31日
   の株主総会において社長に就任し、奈良原は常議員。
  1889年4月、内藤新宿駅~立川駅間が開業(27.2キロ)・・
    これは、内藤新宿から中野駅、境駅(武蔵境)、
   国分寺駅の3駅を経て、立川駅まで運行され・・
    新宿を午前7時14分に出発した列車は、1時間かか
   って立川駅に予定時間の8時14分に到着した。
    各駅の停車は1分間、列車スピードは、平均時速30
   キロだった。
    客車をけん引した蒸気機関車は、イギリスから直
   輸入したナスミス・ウィルソン社製の軸配置1B1型
   (先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)、タンク蒸気機関車
   (国鉄400形蒸気機関車)・・通称:「マッチ箱」が
   箱型客車を引っ張った。
    午前と午後2本づつの1日4往復した・・
    内藤新宿駅発:7時9分、10時0分、14時30分、17時
   30分・・運賃は、もり・かけそば1銭の時、1マイ
   ル(1.6キロ)1銭だった。
  1889年7月、多摩川本橋(約418m)、浅川橋(139.5m)
   が完成した・・難工事で、開業を4ヶ月遅れさせた。
  1889年8月11日、立川駅~八王子駅間が開業(9.7キロ)・・
    新宿から東京市内への路線延長は、当初は、甲州
   街道沿いが計画されたが、青山練兵場や三崎町の工
   廠の後押しもあって・・
  1889年5月、申請、
  1889年7月、仮免状が下付された・・
    この頃の甲武鉄道沿線の名所旧跡を紹介している
   錦絵には、小金井桜、玉川、高山が描かれ、説明文
   もあり・・そして、真ん中に新宿停車場が描かれ、
   立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
   る。 
    左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり・・
    そして、御嶽山から流れ出る玉川(多摩川)と
    左に、羽村から玉川上水が東京市街地に向かって
   流れ・・その玉川に、立川と日野との間の甲州街道
   の橋が架けられている。
  1894年10月9日、新宿駅~牛込駅間が開業・・
  1895年4月3日、牛込駅~飯田町駅(飯田橋駅と水道橋
   駅の中間地点)間が開業(0.8キロ)・・これで、営
   業区間が八王子駅~飯田町駅間(41キロ)となる。
    そして、更なる延長が計画され・・1890年、飯田
   町駅~万世橋駅間を出願・・
  189612月、八王子から西の山梨方面への鉄道敷設を国
   が工事に着手。
  1903年6月11日、新宿駅~甲府駅間が完成・・そして、
   中央線と命名した・・
  1904年12月、御茶ノ水までの延長が完成・・と続く・・
    しかし、この甲武鉄道の敷設に際し、様々な反対
   運動があった。
    街道筋が栄えているこの時代・・甲州街道で栄え
   ていた府中や調布の商人、宿屋、人力車夫などが、
   客がとられると反対した・・また・・
    農家も汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害し、火の
   粉がわら葺き屋根にかかって火事になると・・
    家畜に悪影響が生じると・・
    いろいろな方面から色々な理由で反対された・・
    中野方面でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西
   に貫く計画に、地主・村民等が反対した・・
   「鉄道は村を衰微せしむ」・・と・・
    頑強な反対運動に、甲武鉄道は、計画を大きく変
   更・・
    抵抗の少ない武蔵野原野を、現在の東中野あたり
   から立川まで一直線に計画した・・日本第二の直線
   区間となって敷設した。
  1906年、公布された鉄道国有法により、1906年10月1日、
   国有化され、中央本線の一部となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:トランプ大統領は、キッシンジャーと会って、
    『一つの中国の原則にこだわらない』と明言した・・
    韓国の在韓米軍が台湾へ移ると良い・・
.
紀元前4世紀~紀元前3世紀、法句経(ほっくきょう)が編
 纂される。
  一人静かな心を味わい・・
  安らぎの味を知ったら・・
  恐れもなく、過ちもなくなる。
        (法句経205)
  法句経は、パーリ語経典『ダンマパダ』 Dhammapada
 の訳名。
  仏陀の言葉をなまの形で伝える文献の一つ。
  古来広く愛読され、仏教徒の思想と実践の指針となっ
 てきた。
  全編 26章、423の詩句集で・・、
  パーリ上座部系統に属するもののほかに、
  大衆部が伝えたガンダーラ語のもの、
  説一切有部系統の『ウダーナバルガ』の題名で伝えら
 れたもの、
  その系統のチベット訳や
  漢訳の『法句経』 (2巻) 、『法句譬喩経』 (4巻) 、
 『出曜経』 (30巻) 、『法集要頌経』 (4巻) などもある。
  パーリ語原典は、南伝上座部の(小部経典)の一つで
 あるが・・、
  他に、ガンダーラ語、サンスクリット《ウダーナ品》、
  漢訳(《法句経》《出曜経》など)、
  チベット語訳、および、中央アジア諸語による断片も
 あり、きわめて広く普及していたことが知られる。
  本経は、短い詩句の集成で、初期仏教教団で伝持され
 ていたものが、後に、編集されたと考えられ(紀元前4世
 紀~紀元前3世紀)、初期仏典中でも最も古いものの一つ。
     ・
     ・
1220年代のはじめ、ルーシ(キエフ大公国)の公たちは、
 まず、キプチャク草原の遊牧民族クマン人の戦士たちか
 ら、モンゴルの到来を知らされた・・ここからモンゴル
 の征服が始まった。
.
1223年、モンゴルのルーシ侵略(カルカ河畔の戦い)
  モンゴルのロシア侵略は、カルカ河畔の戦いで始まり、
  この年のこの戦いは、ジェベ、スブタイ両将軍率いる
 モンゴル軍と、ポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行わ
 れた。
  連合軍は、数で上回っていたにもかかわらずモンゴル
 軍に惨敗した。
  モンゴルのロシア征服は、1236年~1242年のバトゥの
 西征で本格化した。
  (ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争)
  (参考)ルーシ:中世時代におけるキエフ大公国の正
     式な国号で、キエフ・ルーシとも言われ・・
      キエフ大公国のもとで誕生したキエフ大公国・
     チェルニーヒウ公国・ペレヤースラウ公国を中
     心とするリューリク朝の三国。
      広義では・・ハールィチ・ヴォルィーニ大公
     国、ヴラジーミル大公国、ノヴゴロド共和国な
     どの東欧の諸国を含む場合がある。
      ルーシ・カガン国は、8世紀後半から9世紀の
     半ばにかけて、現在のロシア北西部にあったと
     される国家、または、都市国家群(仮説)。
      また、ロシア帝国・ロシア連邦の通称。
.
1237年になって、モンゴル軍は、15万の大軍を編成し、ロ
 シア中心部に侵入し、リャザン、モスクワ、ウラジーミ
 ルを次々と陥落させた。
  13世紀前半、タタールのくびき
  (参考)くびき:車を引く牛馬の頸(くび)の後ろに
     かける横木のことであるが・・自由を束縛する
     もの・・の意味がある。
  13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻と、それ
 につづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルー
 シ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を言
 い・・、
  現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル
 =タタールへの臣従(しんじゅう、臣下として従うこと)
 をいう。
.
1240年、キエフの戦い
  ルーシの首都キエフの支配をめぐって、ルーシとモン
 ゴル帝国の間に行われた戦い。
  1240年9月5日、バトゥが率いるモンゴル軍は、キエフ
 を包囲し、キエフの明け渡しを求めた。
  キエフ軍を引率するドミトロー大将とキエフの市民が
 降伏を却下して防衛に備えた。
  モンゴル軍のバトゥは、32の投石機を集めて、キエフ
 の防衛線で弱点だったポーランド門を攻撃し、市内へ乱
 入した。
  キエフの市民は攻撃を防いだが、多勢に敵わずして石
 造りの什一聖堂へ撤退し、教会を最後の砦とした。
  1240年12月6日、モンゴル軍は、投石機を取り寄せて聖
 堂を破壊させ、キエフを制覇した。
  ドミトロー大将は捕虜となったが、勇敢に戦ったため、
 バトゥによって解放された。
  モンゴル軍は、聖ソフィア聖堂をはじめキエフの教会
 と貴族の屋敷を略奪し・・、
  合戦後、5万人だったキエフの人口は2千人まで減少し
 た。
  キエフの陥落によりルーシは滅(ほろ)んだ。
  これ以降に存続したキエフ公国は、14世紀半ばにかけ
 てモンゴル帝国の属国であった。
  一方、キエフは大きく衰退し、山の手だった古キエフ
 は荒地となり、都市の中心地は下町のポジールへ移った。
.
1453年、モスクワ大公が、皇帝を意味するツアーリの称号
 を用いた。
  イヴァン3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、
  モスクワ大公が、1453年、オスマン帝国によって滅ぼ
 された東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地
 位を自認する端緒をつくった。
  ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン
 3世のとき初めて使われた。
.
1547年、イヴァン3世の孫、イヴァン4世(イヴァン雷帝)
 は、この年に、ツアーリの称号を正式に用いた。
  ロシアの正教会の間では、モスクワは、ローマ、コン
 スタンティノポリスに続く第三のローマであり、ツアー
 リは、ローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれた。
  モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味
 する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたの
 も、イヴァン4世の頃の16世紀だった。
  また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハ
 ン・ハン国を滅ぼし、初めてキプチャク・ハン国の一部
 を併合し、シベリアに向かって東方への拡大を開始した。
.
1780年、光格天皇が天皇になった(在位1780年~1817年)
  光格天皇は、たいへん衰弱していた皇室の祭祀(さい
 し)の復活に努められた(1771年~1840年)
  そういう皇室の動きが淵源(えんげん、物事の起こり
 基づくところ、根源)となり、尊皇思想というものが茫
 洋(ぼうよう、広々として限りないさま)として沸き上
 がり、武士階級を中心に庶民の一部にまで浸透して行く。
  この過程で、皇室をめぐる文明的エネルギーは見事に
 立ち直った。
  光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇の三代が、皇室伝統の
 衰微と危機に立ち向かわれた。
.
2005年11月17日、耐震偽装事件、そして、NHKの罪
  国土交通省が、この日、千葉県の構造計算事務所の耐
 震偽装を公表した。
  しかし、日本の公共放送・NHKも似た様なことをし
 ている・・放送している。
  NHKは、「がさネタ放送局」だ。
  建物の耐力は鉄筋量で決まる。
  (1)建物の耐力は鉄筋量で決まる。
  姉歯事件は、この鉄筋量を誤魔化したから問題となっ
 た。
  建物耐力は、鉄筋量の計算をして決めている。
  鉄筋の引張力は十分に耐えるのか?否か?の問題なの
 である。
  コンクリートの劣化は中性化で起きる。
  鉄筋コンクリート構造物の耐力減退は、何で起きるか?
 と言えば、
  1、コンクリートの中性化、
  2、コンクリートの中性化による鉄筋の錆びによる断面
   欠損、
  3、コンクリートのひび割れによる耐力低下(今、巷の
   公共構造物でこれを無視しているのか?ほとんど補
   修をするべきを補修をしていない)、
  4、コンクリートが、ひび割れて、中の鉄筋が錆びて、
   そして、その鉄筋の錆びの膨張で、コンクリートが
   押し出されて、コンクリートが剥落する。
   (たまに見られるのだが、世間では構造体が、ここ
   まで来ても何ら補修をしてない)。
  この様な劣化因子があるのだが、鉄筋コンクリート構
 造物が、耐力を低下することを問題にするのなら、コン
 クリートの中性化が進んで行って、肝心の鉄筋が錆び始
 めて、鉄筋の断面欠損が生じ始めて、そして、鉄筋コン
 クリート構造物の耐力の低下が始まるところを問題とす
 べきだ。
  (だから、鉄筋コンクリート構造物の中性化を補修し
 ていれば、鉄筋の劣化は起きるはずが無く、だから、超・
 長期的にその構造体は使用可能なのだ)。
  (メンテナンス・補修如何にかかっていることを知る
 べきだ・・ただただ、何年、経ったから駄目になったと
 考える事は「勿体ない行動につながる」)。
  NHKは、世間にある様な素人的な想像で予想し、そ
 れがあたかも正しい事の様に放送した・・いいふらした。
  だから、まだ耐力が低下していない鉄筋コンクリート
 構造物が、ただただ時が経たから耐力がなくなったと、
 単純な、間違った放送をし続けた。
  大きな間違い情報を言い続けた。
  その間違い情報に洗脳された人々は、まったく無駄な、
 勿体ないことを始めた。
  まだまだ使える建物を壊し始めた。
  『NHKのこの罪は・・非常に大きい』。
  貴重な公共構造物を、この様なセンスで壊していたら・・
 税金がいくらあっても足りなくなる。
  また、NHKは、渋谷の放送センターを建て替えたい
 ため、これを理由にした・・
  そして、お手前の放送媒体を使って、盛んに全国放送
 をした。
  『NHKの渋谷の放送センターは、年月が経ったので
 劣化したので建て替えます』と・・
  嘘で間違った放送を盛んにした。
  そしてまた、渋谷の「子供の城」も年月が経ったので
 壊して建て替えますと、ニュースにもならないニュース
 を自分の建て替えを行ないたいため・・放送した。
  NHKの目の前の渋谷公会堂も、年月が経ったので壊
 して建て替えますと、またまた、ニュースにならないニ
 ュースを、自分のために放送した。
  こんな放送ばかりを繰り返し繰り返し放送していた・・
 その建て替えのお金は視聴者へ返還すべき金だった・・
 だから、NHK予算委員会でその様に決定している金を、
 NHKはまだ視聴者に返還していない。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その2)
・中国はあらゆる層の人間を使って、「政治を盗むグルー
 プ」や「科学技術を盗むグループ」・・などを作ってい
 る・・
  これを束ねているのが、中国共産党中央の統一戦線・・
 世界に散らばした工作員のネットワークを束ねている・・
  アメリカのFBI(連邦捜査局)や、CIA(中央情
 報局)は、すでに、そのやり方・組織を把握している・・
  今、それをストップし、潰す方向へ動き始めた段階と
 なった・・それによって中国の状況がここで変わった・・
 ピンチに陥っている・・
・アメリカのFBIは、アメリカの55州のすべてに中国の
 スパイが入っていると発表した・・取締りを厳しくして
 いる。
  アメリカに帰化した中国人は、総てが工作員(日本も
 そうだろう)・・
  カナダでも、それと同様な中国の動きが発覚し、860人
 の学生などの工作員が捕まって強制送還された(数が半
 端ではない)・・
  留学生・華僑・華人がこれを構成している・・
  孔子学院もこの状態(日本の桜美林大学にもある)・・
 親中反日にして行く行動をしている・・
  この孔子学院をコントロールしているのがやはり中国
 の政権内にある王滬寧(おうこねい)・・
  アメリカは、この王滬寧をターゲットにしている(情
 報戦)・・
  この王滬寧が、失脚の可能性高い・・アメリカへの亡
 命か?・・という状況になっている・・
・クーデターを心配している習近平・・
  習近平が、アフリカに行った時にもその心配が出てい
 た・・心配で、娘をアフリカへ連れて行った・・
・AFP通信の記者が書く、習近平はおかしいと・・
  習近平は、眠れない状態が続いて睡眠不足で、国連や
 国際的な大物に会っている時も、うとうとと居眠りをし
 ている・・
  また、習近平は肩書も間違えた・・
  また、9回、毒殺を仕掛けられたとの報道がある・・
  6月、人民大会堂で、習近平を迎えに来た車が、習近平
 が出て来た時に爆発したことがあった・・
  人民大会堂は、一般人が入れないエリアで、この様な
 事が起きた・・
  その爆弾を分析したら人民解放軍の使っている爆弾だ
 と判明した・・
  内部に習近平を爆殺しようとしたものが居ることは明
 らか・・
  これが起きた後、習近平は人民解放軍病院に入院した・・
 そこでも危うく毒の注射を打たれそうになった・・
  中国の政権の行方が不透明になって来ている・・
・北朝鮮も、中国の人民解放軍が、自国領に入って来るこ
 とを恐れている・・
  中国の北京や上海を狙うミサイルも保持しているとい
 う見方もでている・・
  この点からも、核やミサイルは、簡単に手放せない状
 況があると考えられている・・
・イランに、北朝鮮から核が渡されたら世界は大変なこと
 になる。
  イスラエルは黙っていない。
・アメリカ政権内にも、中国共産党と強くつながっている
 者が居る事も忘れてはならない・・
  中国の外貨準備は3兆2千億ドル・・米国債は1兆2千億
 ドル・・
  故に2兆ドルが自由になる・・これがアメリカ内の工作
 や投資などに使われている・・また、金融機関のモルガ
 ンなどへ・・
  あまり追い詰めるなというアメリカ内の勢力もある・・
  しかし、これは皆、中国内にないお金・・アメリカに
 あるお金・・アメリカは、いざとなったら、トランプ大
 統領が、決断一つでこの中国の在米資産を抑えることが
 できる・・凍結する・・
  ウイグルを弾圧し、虐殺した中国高官(陳全国・ちん
 ぜんこく)も資産凍結された・・
・中国は強い時は危険だが・・中国は弱い時も危険・・
  日本は、過去にも、中国が弱い時に、中国を助けて痛
 い目にあった・・この時、天皇陛下が訪中をせざるを得
 ない状況に置された・・
・日本でも、日本の議員で中国のインターシップを持って
 いる者が居る・・
  (オーストラリアは、中国関連のスパイ活動を防ぐ一
 環から議員インターンシッププログラムを除外するとし
 た)
・アメリカの女性上院議員が、秘書を首にした・・その理
 由が「事務所の情報のすべてを中国へ渡していた」・・
  この女性議員は、外交の委員長をしていたから狙われ
 た・・
  この秘書が、アメリカに立てられる慰安婦像のすべて
 を指導していた・・韓国が表向き慰安婦像を立てるよう
 に見せかけられていて、本当は中国がやっていると判明
 した・・
  台湾に慰安婦像を建てたのも中国と国民党・・
  台湾のマスコミは、中国共産党と中国系の台湾の国民
 党がすべてを抑えている・・
  中国の金が動いてカナダで慰安婦記念館が建てられる
 ことになっている・・
  慰安婦像設置や博物館建設も裏で中国政府が金を出し
 ている。
・台湾の国民党と中国共産党の関係は双子状態・・裏では
 まったく一緒。
  中国に利用されている台湾国民党・・
  中国政権の統一戦線が、アメリカの工作員を動かして
 いる・・
・中国は、欧米企業をどんどん買収し、中国は、その情報
 を盗んでいる。
・中国が、日本を何とかしよう、てなづけようという動き
 が、また、始まっている・・
  スパイとスパイ協力者がいる・・
  民間の学者などが利用されている・・
・中国の木材輸入量の70%は日本から出ている・・
  この様な儲け話のやり方から言いなりになる人間を、
 中国は、作ろうとしている・・
  李克強が日本に来て、北海道のバイオチップの話を付
 けた・・この様な中国の動きもある・・
  また、北海道・苫小牧の広大な土地を中国は購入(中
 国向け野菜)、表向きは日本法人だが、苫小牧の農地を
 買い占めて、中国への野菜輸出をしている・・
  しかし、北海道にはまったく金が落ちない・・
  地方経済活性化に、少しも役に立っていない・・
  北海道の政治家よ!目覚めよ!
  中国寄りの政治家の多い北海道となっているが・・ま
 ったく、中国に裏をかかれている・・
  この様な中国経営の法人に・・日本政府から補助金な
 どの金が出ている・・我々はその税金を支払されている・・
・日本の政治家の秘書にも中国の工作員が、相当、入って
 いる・・
  農業特区制度が悪用されている・・
  中国から金を貰っている日本の政治家も多い・・
  革新系だけでなく、保守系と言えども金を貰う議員が
 居るという状況になっている・・
  政治家の秘書にも、相当、入っている・・
・今、中国は、先端技術を盗むためのスパイを送り込む事
 より、企業の最先端の技術者を抱き込むことをしている。
  中国の工作員を入れるより、日本人を抱き込むことに
 力を注いでいる。
  情報が盗まれる「見落としがちな穴」は通訳・・
  通訳を抱き込んで、情報を得ることもしている・・
  技術だけでなく政治の分野でも・・
・優秀な技術者を夏休みに中国に招待することもしている。
  この時に、「退職後も、引き受けますよ」と、高額な
 給料の誘いと共に退職後の話もつける・・
・日本の大学で、中国の国費留学生の居ない所は無い・・
  また、パソコンの入力の手伝いと称して、めぼしい技
 術を開発している大学教授の助手になる・・
  そして、研究所の大切な情報が抜かれる。
  国益を軽く考える者も多い・・
  パソコンデーターは、簡単に持ち出せる機器も発達し
 ている・・
  技術者に国益を守るという意識を付ける事も大切。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その3)
・中国が、スリランカの港を、99年間の租借(そしゃく、
 外国の領土の中のある地域を借りて、一定の期間、統治
 すること)とした・・
  スリランカが、中国から借りた金を返済できないから
 取り上げるのだ・・というのが中国の理屈・・
・中国が、すでに、ジプチ(中東の紅海の入口の国)に拠
 点を作ってしまっている。
  もう中国の軍艦が存在している。
  中国軍艦が、すでに、スエズ運河あたりまで哨戒(し
 ょうかい、敵襲に対して見張りをして警戒すること)行
 動をしている・・
  中東の要(かなめ)、中東の門番のように抑えている。
・イランの石油を、アメリカとイランの関係が、どの様な
 状況になっても、中国は買う、金を支払うという事に、
 中国はしている。
  故に、今、潤沢な金がイランに入っていて、イランの
 軍拡が行われ、戦費調達がなされている・・中国の金が、
 この様な動きをしている・・
  故に、イエメンの反政府組織に、武器を与えているイ
 ランの行動も支援していることになっている・・
  中国が、この様に中東への橋頭保を築いて、中東情勢
 に、中国が、深くからんで行くという世界情勢となって
 来ている・・
  これは、アメリカの軍事力をアジアから中東へ向けよ
 うとする中国の策略である・・
  (中国寄りのNHKは、こんなことは、まったく放送
 しない)
・これに、トルコ問題も絡んで来ている。
  今、トルコが、急足に中国べったりになって来ている。
  「敵の敵は味方」の考え方になっている。
・イランと日本は関係が良い。
  イランと関係が良い西側国は日本だけ。
・イスラエルが核を持っている状況で、中東に、新たに核
 を持つ国ができると大変・・
・また、ロシアと中国がくっつくと大変。
・中国は、習近平になって初めて韓国へ行った・・「南か
 ら盗るぞ」の意思表示となっている・・
・北朝鮮をめぐる対立が本格的に成りつつある・・
  ロシアは、北朝鮮の金正恩を呼ぼうとした・・中国は、
 行かせまいと阻止した・・
・今、日本海に1000隻を超える中国漁船が居る・・この後
 に中国の艦艇が入って来る・・もう日本の海上保安庁で
 は対応できない状況となる・・
・日中両国が、通貨スワップの再開の検討に入るのはおか
 しい・・
  3兆円規模で始める・・
  (参考)スワップ取引:金融において、あらかじめ決
     められた条件に基づいて、将来の一定期間にわ
     たり、キャッシュフローを交換する取引。
  今、価値のない人民元の状況・・中国が刷れば使える
 というだけの通貨・・
  それを、万一の時には、日本が、世界に対して保証す
 る形になるのは「おかしい」・・
  日本の同盟国のアメリカの米ドルの足を引っ張る形に
 もなる・・
  中国の知的財産権の侵害もアメリカは何とかしようと
 している。
  そして、新たにアメリカは、人権問題(チベットやウ
 イグルや内モンゴル)も何とかしようとしている・・そ
 の足を引っ張る形になっている日本・・
  中国のこれらの根本的問題を何とかしようとしている
 アメリカの足を引っ張る日本となっている・・
  外貨準備などで、中国が打撃を受けているところを、
 日本が助けるという形になっている・・中国の日本への
 工作の影響・・日本の省庁への働きかけ・工作が功を奏
 している・・
・トヨタと日産が、中国の工場規模を30%を増やす事にし
 ている・・
  資金持ち出しを禁止している中国・・儲けた金を持ち
 出すことが出来ないことにしている中国もおかしいが・・
  その様な資金を、日本に持って来れないので、仕方な
 く中国にその資金を投下する事にしている。
  トヨタの大もとが増やせば、その系列・すそ野の広い
 系列の会社などの会社も増やさざるを得ないことになっ
 ている・・
  日本の経団連の親中国の動きも問題・・習近平系列の
 会社べったりになったりしている・・
  日本の優秀な軍事転用可能技術の流出が心配・・これ
 らが盗られる様になったら終りだ・・
・軍事転用できる技術が取られるようなリスクが高まって
 いる・・
  「メイド・イン・チャイナ2025」を実現しようとして
 いる中国・・
  (参考)メイド・イン・チャイナ2025:「製造強国」
     を目指すべく、中国政府(国務院)は、2015年
     5月19日に、今後10年における製造業の発展のロ
     ードマップを示した「メイド・イン・チャイナ
     2025」(中国語は「中国製造2025」)計画を発
     表した。
      その中には、製造業のイノベーション能力の
     向上や情報化と工業化の高度な融合の推進をは
     じめとする九つの戦略任務と、次世代情報技術、
     高度なデジタル制御の工作機械とロボット、航
     空・宇宙設備などからなる十の重点分野が盛り
     込まれている。
  (参考)西側諸国の懸念:メイド・イン・チャイナ2025
     などの中国の動きへの懸念・・
      米紙・ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)
     6日付によると、米通商代表部などの政府高官は、
     中国当局主導の振興策は公正な競争を損なうと
     批判。
      米政府関係者は、中国当局は国内企業に補助
     金を給付するほか、外国企業に対して技術移転
     を強いる可能性が高いとの認識を示した。
      トランプ政権は、2017年から、中国による知
     的財産侵害の疑いで調査を行っている。
      調査結果によっては、米政府が今後、関税引
     き上げや輸入制限を含む対中制裁を強化すると
     みられる。
      米シンクタンク、戦略国際問題研究所のスコ
     ット・ケネディ副所長はWSJに対して、「ハイテ
     ク強国との目標を達するために、中国当局は歳
     入拡大や市場アクセス制限、技術を移転するよ
     う企業に圧力をかけている」と指摘し、「米は
     中国の行動に注視している」と述べた。
      在中国の欧州連合(EU)商工会議所が2017
     年、「中国製造2025」について、「極めて問題」
     があり、海外企業の差別につながりかねないと
     の報告書をまとめた。
      「海外企業の間では、中国市場に参入する条
     件として、技術の譲渡を迫られるのではないか
     との懸念が浮上している」と指摘した。
・この様な西側諸国の動きであるのに、日本だけが、中国
 トラップ・工作に「はまっている」・・
・近々の情報でも・・日本の優秀な技術である「急速充電
 技術」を、中国は盗もうとしている。
  日本と中国は、提携することを決めた。
  日本は、中国のシェアが90%だという所に目がくらん
 でいる。
  中国のパイの大きさに目がくらんでいる。
  レーザー兵器にも転用できるこの技術を盗もうとして
 いる。
  アメリカも、真から、喉から手が出るほど、この日本
 の技術を欲しがっている。
  日中の話の節電は名目で、節電ではなく、本当は、レ
 ーザー兵器・レールガン兵器の技術開発に持って行かれ
 る。
・中国は、海外企業に対して、役員に中国人民(共産党員)
 を入れなければならないとしている・・
  この様な話は、中国寄りのNHKは、ニュースにもし
 ない・・
  NHKは、「NHKは、中国に信頼されている」と変
 な自画自賛まで放送している・・
・韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領も軍事技術を共
 に持とうなどととんでもない話を中国にしている・・
  「非核化のためだ」と、脈絡の付かないことを理由に
 している・・
・アメリカは、中国企業のファーウェイを追い出すことに
 している。
  「中国のファーウェイは使わない」という通達が出た・・
  (参考)ファーウェイ:華為技術有限公司、中華人民
     共和国の通信機器メーカー、
      現在ファーウェイは、300近い通信事業者に製
     品・ソリューションを提供しており、世界トッ
     プ50事業者のうち45社がファーウェイの製品・
     ソリューションを使用している。
      2008年に国際特許出願件数世界1位になる。
      戦略的にあえて非上場を貫いている。
      超巨額な利益を上げており、また、超巨額な
     研究開発投資をしていて、研究者も厖大。
 (参考)ファーウェイへの疑念:CNBC(アメリカの
    ニュース専門放送局)の報道によると・・、
     FBI長官が、「ファーウェイが、アメリカの
    情報通信ネットワークの中で力を得ていることに
    懸念」「ファーウェイの端末は、情報を盗む機能
    を持っている」と述べた。
     以前、ファーウェイの端末に、「ユーザーの
    個人情報を勝手に収集し、許可なく中国のサーバ
    に送信する機能」が搭載されていたことが明らか
    になっている。
     アメリカ政府は現在、政府職員がファーウェイ
    /ZTE製スマホの使用を禁ずる法案も検討してい
    る。
     ZTE(中興通訊、中国メーカー)も同じよう
    な事をしていると指摘されている。
  (参考)2018年2月16日、ハフポスト(HuffPost、アメ
    リカのオンラインメディア)
     中国企業のファーウェイとZTEのスマートフ
    ォンを使わないように、アメリカの情報機関の高
    官が国民に呼びかけた。
     CNBCによると2月13日の上院情報委員会で、
    中央情報局(CIA)や、連邦捜査局(FBI)、
    国家安全保障局(NSA)などの高官6人が出席。
     アメリカの消費者は、この2社の製品を使うべき
    でないという考えを示した。
     ZDnet(法人向けのITニュースを配信するサイ
    ト、CBSインタラクティブ社が運営するニュース・
    サイト)によると、この席でFBIのクリストファ
    ー・レイ長官は以下のように話したという。
     「価値観の違う外国政府に借りがある企業・組
    織が、国内の通信ネットワークで影響力を持つリ
    スクを深く懸念している」
     「私たちの通信インフラに、プレッシャーをか
    けたり、影響を及ぼす能力を与えてしまう」
     「悪意を持って、情報を改ざんしたり、盗んだ
    りできる。スパイ行為だってできるだろう」
     ロイターによると、共和党のトム・コットン上
    院議員とマルコ・ルビオ上院議員は7日に、ファー
    ウェイとZTEの通信機器について、アメリカ政
    府の購入やリースを禁じる法案を提出した。
     アメリカ当局者へのスパイ行為に対する懸念を
    理由としている。
・この様な動きの中で、日本は、中国に甘い。
  技術や情報を盗むシステムがはめ込まれているという
  見方となっている・・
・ホイールにエンジンを組み込む「ホイールエンジン」の
 技術が・・盗まれるリスクがある。
  軍事技術に非常に大切な技術。
  熱感知しにくいシステム・・見つかりにくいシステム・・
 この技術を持っている日本が、世に役立つならと甘い考
 えに居る・・自分が開発したから、「どうするのも自分
 の自由」なんて、お人好しに考えている日本の技術者。
  空気清浄化システムが、「潜水艦に転用できる」なん
 て考えてもいない・・
  戦闘機のエンジンを冷やすシステムに転用できる冷却
 設備の技術も・・こんな事を考えていない日本・・
  この点、日産が偉かったのは、ミサイル技術を持った
 ところは分離して、他企業に売却してから、ルノーと提
 携した・・
  日本の経済界は、この様な危機管理意識が欠如してい
 る・・
・日本の一番進んでいる技術・・電気自動車の次に来る水
 素エンジン技術も、中国が盗もうとしている。
  石油メカニズムのシステム系から脱却できる大切な将
 来技術・・
  トヨタが、その工場を見せたりしている。
  新幹線技術が盗まれたことを忘れている。
・水素を簡単に作れる日本の技術を持った会社がすぐに中
 国に買収された。
  経済的問題でつまづいているだけの企業が盗まれる・・
 技術は優秀で、その技術の行き詰まりではなく、会社経
 営問題だけで中国に盗まれた・・優秀な技術者が盗まれ
 る・・
・この様な政府の指導が甘い。
・ドイツが中国とべったりをして来た・・一帯一路の東の
 要衝(ようしょう、交通・軍事・通商の上で、大切な地
 点)にはドイツがあるという考えにあった・・このドイ
 ツが、少しづつ変わって来ている。
  中国べったりのフォルクスワーゲンも叩かれている。
  世界から圧力を受けたドイツも・・中国の本質が分か
 って来ている・・一帯一路のおかしさが分かって来てい
 る・・
・「モンテネグロの大借金もおかしい」とEUは分かって
 来ている・・小さな国のモンテネグロが、中国の大借金
 を返済できるのか??・・と・・(ギリシャの二の舞?)
  同じような話があちこちに・・ブルガリア、ルーマニ
 ア、ハンガリーなど・・中国は手広くやっているが・・
  アフリカでも中国はやっている・・
・メルケルは、東ドイツ出身なので、共産圏諸国に甘い・・
 その様な考え方が、体に染み込んでいる人・・
  警戒心が無いから、ドイツは、1週間で何十社もどん
 どん中国に買収されたという調子・・
  やっとストップがかかる様にはなって来た・・
  イギリスは、その様にはならないという法律を作った・・
  アメリカも法関係を整備し始めた・・
・中国が狙っている一つが「ロボット兵士」・・
  殺人兵器が量産される中国・・国連はそれを止めよう
 としているが・・その様な中で・・ロボット戦争に邁進
 している・・日本には、それにつながるロボット技術を
 持っていないと世界は知った。
・中国のロボット兵士に入力される行動システムは、「怪
 しければすべて撃て」と教える・・怪しいという判断だ
 けで行動を起こす・・怪しいのはすべて撃ち殺せになる・・
  西側諸国のシステム入力は、その様には出来ない・・
  ロボット兵士が前に出て、人間の兵士はバックに下が
 る形の戦いになる・・その時、中国のワンサイドの戦い
 になる・・
  鳥に似せたドローンのロボット兵士が、実際に、実験
 飛行している・・
  (自衛隊は、そんなことはできないことになっている・・)
  (自衛隊は、先に撃ち殺されてしまう・・)
・ロボットの市街戦・・一般住民が殺される・・
・中国の論文には・・中国は人口が多いので2億人~3億人
 が死んでも大丈夫なんて平気で書かれている。
・中国は、人口を半分減らそうとしている・・老人を減ら
 し、精神病患者を減らし・・しかし、来年、3人の子供を
 産んでもよいとしている・・中国は病院が少ない・・汚
 染も酷い・・河川汚染、土壌汚染、空気の汚染、海の汚
 染・・など
  16年経つと、この人たちが、中国軍の兵士となる・・
 中国は、兵士となって戦って死んでも、遺族は金を貰え
 ない・・
・台湾に対して中国がやっている恐喝に日本は敏感になる
 べき・・
・アメリカと日本は、これ以上、中国軍が強くなる前に台
 湾を国として承認すべき・・世界は、ドミノ現象的にこ
 れにならう・・
  台湾の蔡英文(さいえいぶん)総統が、アメリカに立
 ち寄った・・中国は「出来ない」としていた・・蔡英文
 氏は、「台湾は、中国に屈しません」と明言している・・
・トランプ大統領は、キッシンジャーと会って、『一つの
 中国の原則にこだわらない』と明言した・・
  韓国の在韓米軍が台湾へ移ると良い・・
.
【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2018年09月09日

(増補版)610E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年9月~1894年10月)

題:(増補版)610E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年9月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年9月16日、平壌の戦い
  日清戦争における最初の本格的な陸戦(9月15日説あり)
  混成第9旅団長・大島義昌少将は、入韓直後から清国の
 大軍が平壌に集中するとの情報を得ていた。
  騎兵斥候を平壌に派遣し、駐留させていた。
  7月下旬になって、清国軍が、義州を経由し平壌に進軍
 して来た。
  1894年8月10日、黄州から中和に偵察に出た時、強力
 な清国軍と遭遇した・・指揮官の町口中尉・竹内少尉な
 どの幹部が戦死する。
  1894年8月19日、第5師団の長野津道貫は、ソウルに到
 着した。
  この頃、韓廷の首班の大院君は、清国兵が次々と南下
 して来る報に接して怯え、動揺していた。
  清国の李鴻章は、7月上旬から順次、軍事力を動員し、
 諸部隊の体制完成を目ざし、その諸部隊には平壌に集結
 することを命令していた。
  1894年9月13日、李鴻章から指揮を任された葉志超は、
 諸処から来る日本軍をみて、その包囲を避けるため撤退
 を決断した・・それを各将にはかった・・しかし、奉天
 軍総兵の左宝貴は、それを聞いて憤然とした・・そして、
 自己の親兵をもって葉志超を監禁してしまった。
  清国軍に司令官が存在しない状態となった・・、
  清国軍の各将は、指揮命令が無く、自分の判断で戦う
 ことになった。
  第5師団の長野津道貫は、軍の包囲の完成をみて、9月
 15日に総攻撃と決定した。
  1894年9月15日、午前6時ごろ、攻撃は激烈となった。
  6時20分頃、歩兵第21連隊の突撃が行われた・・
  この攻撃は失敗する・・しかし、7時までに、敵を牡丹
 台方面へ敗走させた。
  この様な状況で始められた戦いだが・・14時半、朔寧
 支隊に、現在地に止まって夜営準備が命令された。
  16時半ごろ、前面城壁と乙密台の清国軍は射撃を停止
 し、白旗を翻した。
  17時頃、軍使をおくる準備をしていた頃、突然雷雨と
 なった。
  清国軍は、雷雨を口実として、開門は翌朝と要望した。
  しかし、 21時、雨がようやく収ったころ、多数の清国
 兵は甑山の方向へと逃走し始めた。
  1894年9月16日の翌日、1時10分、歩兵第12連隊は、暗
 門から城内に突入した・・
  場内は、道に迷うわずかな清国兵のみで、もぬけの殻
 だった・・平壌の陥落。
  日本軍の戦死者は180人、負傷者は506人・・
  清国軍の戦死者は2000人以上といわれる。
  清国軍の指揮官は、戦死した左宝貴以外はいずれも脱
 出に成功した。
  指揮官:日本:野津道貫、桂太郎・・
      清国:葉志超、左宝貴
  戦力:日本:約10000人
     清国:約13000~15000人
  損害:日本:死者180人、負傷者506人
     清国:死者2000人、負傷者約4000人
.
1894年9月17日、黄海海戦
  この日、日本海軍が、黄海大孤山港沖で清国艦隊と遭
 遇し交戦となる・・
  日本は勝利し、黄海の制海権を握った。
  日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊主力との交戦だった。
  これまで、清国は、海軍力を日本に見せつけ、日本を
 威圧して来た・・
  その威圧行動で長崎港に来た北洋艦隊の清国兵士が、
 日本を馬鹿にして暴れる事件を起こしたりなどもしてい
 た。
  日本は、凶作などもあり予算措置ができず、これまで
 海軍増強もままならなかった・・が、経済回復とともに、
 目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)は、
 清国と日本の所有する軍艦は共に3隻であったが・・、
  清国は大型艦を持ち、日本の艦艇は貧弱そのものだっ
 た。
  そしてまた、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力優位となった。
  (2018年現在の中国と日本との軍事力の差の様に・・)
  日本も、中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)か
 ら、艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清の増強の
 方が目覚ましく、清国に追い着くことは、しばらく出来
 なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くことができた。
  この様な・・まだ劣勢の日本の状況の中で・・、
  1894年9月17日に、黄海海戦を、日清両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦した。
  また、平城近くでも戦った。
  日本は、九州や沖縄から出撃した。
  この黄海海戦は、『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われ
 た世界史上初の大規模な海戦』だった。
  日本は勝利をおさめ・・清国海軍は、大幅に戦力を低
 下させ、黄海と渤海の制海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所:黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煙を確認。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取り急接近する。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻・・第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・
  速射砲で猛烈な砲火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く・・、
  30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災を発生。
  この様な戦いが延々と続く・・、
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊は集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・
  2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
  他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追
 撃態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結する信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始・・、
  命中度が高く、艦首から沈没。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を始める。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗・・、
  大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁・・放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進させたが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、『威海衛の戦い』をする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈・・、
  4隻は鹵獲(ろかく、戦いで得る・ぶんどる)し、日本
 海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は消滅。
.
1894年9月、絵草紙屋の店先に戦争の画が並ぶ。
  玩具屋には、サーベル・兵隊帽・ラッパなどが並べられ
 た。
.
1894年9月、絵草紙も、新聞紙や書籍同様に検閲を受けるこ
 とになった。
  8月17日付けの都新聞に、絵双紙に夢中になってる人が
 多く、スリが横行していると記している。
  歌人の斎藤茂吉も、日清戦争の錦絵を見たと書いてい
 るが、庶民がそれだけ熱中するほど、戦争報道は盛り上
 がっていた。
  因みに、10年後の日露戦争は写真報道に沸く。
.
1894年10月1日、東京商品取引所が開業。
  蛎殻町で誕生したが、営業不振に陥り、1908年に、東
 京米穀取引所に吸収合併される。
  砂糖・塩・綿糸・綿花・木綿・油・肥料・金属・雑穀
 の9品を取り扱った。
  そして、第2次東京商品取引所が、1951年2月に設立さ
 れた(旧・東京繊維取引所の設立日、東京工業品取引所
 としての設立は1984年11月1日)
  この時、東京ゴム取引所、東京金取引所が統合された。
.
1894年10月1日、日本鉄道の八戸線八戸駅~湊駅間の開通に
 より尻内駅~湊駅間が全通した。
  日本鉄道によって、1891年に開業した本線(後の東北
 本線)は、駅が海沿いの八戸市街から離れた尻内に設置
 された。
  このことから、1894年に、尻内駅(現・八戸駅)から
 分岐して八ノ戸(現・本八戸駅)を結ぶ支線を敷設した
 のが始まりで・・、
  1894年の同年中に、八ノ戸から湊へ延伸された。
  この状態で、日本鉄道は、1906年に公布された鉄道国
 有法により1907年11月1日に買収されて官設鉄道に編入さ
 れた。
  この後、1909年に八ノ戸線と命名され、1924年に八戸
 線と改称された。
.
1894年10月3日、西園寺公望が、第2次伊藤内閣の文部大臣
 となる・・これが初入閣で、外務大臣を兼任した。
  病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣だった。
  西園寺公望は、行き過ぎた日本中心主義を否定し、女
 子教育発展をもとめるなど、日本を西洋諸国のように開
 明進歩させる教育を唱えた。
  また、翌年の1895年には、親友の陸奥宗光外相が病気
 のため、外務大臣臨時代理をつとめた。
  1896年5月に、陸奥が外相を辞任すると、西園寺は正式
 な外相となり、文部大臣と兼任したが・・
  1896年8月に、伊藤内閣が倒れ、第2次松方内閣で数日
 間大臣を務めた後、両大臣を辞任した
  1896年11月には、法典調査会副総裁も辞任し、フラン
 スへと旅立った。
  西園寺は、フランスで教育制度や軍の内閣による統制
 などを研究するつもりだった
  西園寺公望は日本の公家、政治家、教育者。
  位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。
.
1894年10月3日、大本営が、第2軍を編成した(9月25日説
 あり)
  司令官は大山巌大将。
  参謀長:井上光大佐
  砲兵部長:黒瀬義門砲兵大佐
  工兵部長:勝田四方蔵工兵大佐
.
  (今日の言葉)
.
  題:まず、「賄賂トラップ」と「ハニートラップ」にかけ・・
   その後、「債務トラップ」にかけて、
   国を借金まみれに陥(おとしい)れ、政治をコントロールし、
   港湾など戦略的軍事拠点を奪取する・・
.
905年、古今和歌集が完成し、天皇陛下に奏上された。
  古今和歌集は、平安時代前期の最初の勅撰和歌集(天
 皇陛下や上皇の勅宣によって編纂された公的な歌集)で、
 後醍醐天皇の命により、紀友則 (きのとものり) 、紀貫
 之 (つらゆき) 、凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) 、
 壬生忠岑 (みぶのただみね) が撰集にあたった。
  大和歌は、人の心を種として、萬(よろず)の言の葉
 とぞなれりける。
  世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思
 うことを、見るもの、聞くものにつけて、言い出せるな
 り。
  花に鳴く鶯(うぐいす)、水に住む蛙(かわず)の声
 を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌を詠(よ)
 まざりける。
  力をも入れずして、雨土(あめつち)を動かし、目に
 見えぬ鬼神をも、哀(あわ)れと思わせ、男(おとこ)
 女の中をも和(やわ)らげ、猛(たけ)き武士(ものの
 ふ)の心をも、慰(なぐさ)むるは歌なり。
             (「古今和歌集」仮名序)
  「古事記」「日本書紀」は漢字(真仮名)で書かれて
 いた。
  「土佐日記」「古今和歌集」から仮名文学が始まった。
  因みに、古今和歌集は、905年に勅命を受けて、913年
 ~914年頃に完成したという説。
.
1870年(明治3年)、兵部大輔の前原一誠は、太政官への建
 白で、阿片戦争におけるイギリスやアロー号事件におけ
 る英仏連合軍による北京占領を指摘して、その危険性を
 警告した。
  1887年、また、井上馨は、条約改正問題の意見書で、
 欧州各国は、「其力を殖民拓地の政略に専ら」用い・・、
 アジアやアフリカは「逐鹿(ちくろく、利権を得る競争)
 の場」になると見た。
  以上のように、世界の弱小国を好きに従属させている
 欧米列強の行動は、さながら、日本もその脅威の中で生
 きているという日本の指導者層の脅威・恐怖の認識で、
 その中で、最も恐るべき脅威と考えられたのは北方のロ
 シアだった。
  1887年のこの年、外務権大丞・柳原前光は、ロシアは
 「満州東北を蚕食し、其勢往々朝鮮を呑」む勢いであり、
 元来「虎狼の国柄」、ヨーロッパの動乱の隙を窺(うか
 が)い、いずれ矛先をアジアに向けると認識していた。
  1873年、大久保利通は、この年の「征韓論に関する意
 見書」で、日本にとって最も恐るべき国はイギリスとロ
 シアであるとした。
  大久保がイギリスを恐れたのは、日本が外債をイギリ
 スに大きく頼っていたことにもあった。
.
1934年、中国の共産党軍が、中国奥地に隠れる。
  この年から1936年まで、毛沢東の率いる共産党の中国
 軍は、1万2000キロメートルも中国の奥地・延安へと逃げ、
 そして、隠れた。
  共産党中国軍は激減し、消滅の憂き目にあった。
  そしてまた、中国・国民党軍と日本とを戦わせて消耗
 することを中国奥地で願っていた・・、
  それを・・美しく「長征」と言っている。
  この様な共産主義国の中国が、国民党軍と日本との戦
 いで『南京事件が起きた』とした・・起きてもいない南
 京事件を、「起きた」とデッチ上げた・・そして、世界
 にプロパガンダ(嘘宣伝)して日本を貶(おとし)めた。
  また、同様に、起きてもいない慰安婦問題を起きた様
 に仕組んで、韓国を陰で操(あやつ)り、さも韓国が行
 動している様に見せかけ、慰安婦像を立てさせたりして、
 世界へ嘘のプロパガンダをしている。
  その様な陰湿な共産中国のプロパガンダ(嘘宣伝)行
 動が判明して来ている・・共産中国の工作員が世界中で
 うごめいている。
  こんなことを、共産党中国は、昔からやって来た。
  世界は、昔から騙されて来ていた。
  延安に隠れた毛沢東が、そして、この地での事が美し
 く語られた・・が・・これが、まったくの嘘。
  「八路軍は、糸一本、針一本、住民から略奪しない」
 とか、
  「共産中国には、ハエが一匹も居ない」とか・・
  清潔の極みなのだとか、まったくあり得ない嘘八百を、
 世界に発信し続けた。
  「住民は、皆、民主主義を信じている」とか、
  「共産党は独裁を避けている」とか・・「多党化しよ
 うと議席の3分の1しか取らない」とかと・・
  今の共産党の中国政権だって嘘八百だ・・「集団指導
 体制だ」と言っているが? 『一握りの者たちの独裁』
 ではないか・・、
  延安の毛沢東のやることは「素晴らしいモラルの世界
 だ」とか・・と・・、
  フリーダ・アトリーという女性のイギリス人ジャーナ
 リストは、ロシア人の共産党員と結婚した。
  そのこともあって、共産党に染まり、コミンテルンの
 メンバーになった。
  そして、スターリンの大粛清を見る、また、体感する。
  夫が捕まり、強制収容所へ送られてしまう。
  止む無くイギリスへ帰る。
  そして、アメリカのコミンテルン工作員のラティモア
 やスメドレーと知り合う。
  そして、新聞記者として中国へ渡る。
  彼女は、この様な経緯をとって共産党の内部の細かい
 ところを知る・・、
  ロシアと中国の実態を、自ら内部に存在する者として
 体感する。
  そして、彼女は、ここに至って破綻する。
  ソ連の共産主義に「完全に幻滅した」ことを表明する。
  「共産主義は本質的に偽善である」と言う。
  「ナチズムは悪であるが、悪い事をして、それを善に
 見せかける共産主義の方が、ナチズムよりも救い難い悪
 である」と言う。
  そして、中国の共産主義から、最初、美しい中国共産
 党の国を見せられ・・「ソ連よりましだ」と思わせられ
 る・・が、結局、長期に見ていて・・その実態を、その
 実際を知って行くと・・
  「ロシアよりも、中国共産党の方が、はるかに恐ろし
 い」と書く・・、
  そして、「我々は、認識を惑わされている、中国共産
 党は魔物だ」・・と批判する。
  ソ連とともに、中国共産党国家の大規模な偽装工作の
 徹底ぶりは凄(すさ)まじかった。
  中国共産党は、延安で麻薬栽培までしていた。
  (中国寄りのNHKは、こんなことは放送しない・・
 中国の讃美放送しか放送しない・・)
  アメリカの外交官やジャーナリストが、延安に訪れ、
 視察をすると・・ケシ畑は絶対に見せないようにした。
  農民たちにも、「毛沢東様を支持します」と言わせ、
 「八路軍によって、お陰さまで地主から解放されました、
 幸せです」・・と言わせた。
  その視察団が通るコースに沿って、徹底的に工作した。
  その工作範囲が、何と! 「幅3キロ、長さ150キロ」
 と言うから、その凄まじさは想像を絶した。
  「共産党に対する自然な支持が広がっていると確信し
 た」とさえ、外交官やジャーナリストたちは思わせられ・・
 そして、その事が、間違った認識が・・世界に発信され
 た。
  こんなことは、ロシアもやっている・・
  例えば、強制収容された日本人施設の例・・
  海外からの視察が来るとなると、病人はすべて収容所
 の外に運び出し、他の場所に移され、そして、元気な人
 間だけが集められ、並ばされた。
  近所の村から果物や野菜やらをかき集めて山盛りに積
 み・・机を全部シーツで包み、清潔に見せかけた・・
  こんな例は、書けばきりがない。
.
1945年8月23日、シベリア抑留(唾棄すべき拉致行為))
  ソ連による国際法違反のシベリア抑留が始まる。
  シベリア抑留は、ソビエト連邦(ソ連)によって、第
 二次世界大戦の終戦の後に、すでに、武装解除されてい
 る日本軍兵士や、無実の開拓民などの日本人の一般人ら
 を、主に、シベリアなどへ労働力として拉致して、移送
 し、そして、隔離し、長期にわたって抑留生活を強いて、
 奴隷的強制労働により多数の死者や人的被害が生じた。
  ソ連のこの行為は、武装解除した日本兵や、何ら罪の
 ない一般の日本人らの家庭への復帰を保証したポツダム
 宣言に反する国際法違反の行為であった。
  日本は、すでに、1945年8月14日に、中立国を通して降
 伏を声明している。
  1993年10月、ロシアのエリツィン大統領は訪日した際、
 「この行為は非人間的な行為だ」として謝罪の意を表し
 た・・(補償の話は未解決)
  しかし、まだ、ロシア側には、依然、日本軍将兵は戦
 闘継続中に合法的に拘束した「捕虜だ」と、まったくあ
 り得ない話を主張し・・また、日本人の一般人に対して
 の不法行為に対しては、まったく反論できない状況とな
 っている。
  ロシアは、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者と
 は違う」と筋の通らない、そして、成立しない話を主張
 している。
  また、シベリアに連行された日本人は200万人以上で、
 死者は40万人以上であるが・・
  抑留された日本人を57万5000人とし、厳寒の環境下で
 満足な食事も与えず、休養も与えず、苛烈な労働を強要
 されて死んだ人の数を5万5000人としている。
  最近の研究成果がロシア側から明らかにされた。
  ロシア人のアルハンゲリスキーの著作にその数が記さ
 れているが・・抑留者200万人以上、死者数40万人以上と。
  KGB(ソ連国家保安委員会)は、60万人の抑留で、
 約6万人の死者数としている。
  このソ連の不法行為は、連合国のポツダム会談に於い
 て、アメリカのルーズベルト大統領にそそのかされたス
 ターリンが、「日本領土への侵攻・侵略を実施した」こ
 とによって発生した。
  ソ連は、シベリア開拓の労働力を「喉から手が出るほ
 ど欲しかった」。
  1945年8月16日、スターリンは、日本人を捕虜として用
 いないという命令を内務人民委員のラヴレンチー・ベリ
 ヤに下していたが・・、
  1945年8月23日、これを翻した。
  「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づいて、日本軍
 をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命
 令を下した・・しかし、一般の日本人までをもシベリア
 へ拉致した。
  ソ連は、 満州国境にも174万人ものソ連極東軍を終結
 させ、不法な侵略を開始した。
  この一帯で地獄図が描き出された・・日本の満蒙開拓
 団の人々は、ソ連軍戦車の機関銃にに銃撃され、また、
 戦車に轢(ひ)き殺された・・
  この様な混乱状態の中で、中国も、日本人に対して卑
 劣な行為を行なった・・
  中国国内や満州国内で、終戦の後なのに殺したり、捕
 まえて収容所に入れ、飢餓状態にして命を奪った。
  また、病気になっても放置され、命を失った。
  この様な日本人は、日本兵の軍人に限らず、民間人も
 被害を受けた。
  中国は、この事について口をつぐんで謝罪の意思さえ
 見せない。
  特に、満蒙開拓団の状況が酷く、このことが明らかに
 されない事情の中に、中国側だけの問題だけではなく、
 日本側の官僚が、「外交をうまくやるためには、この様
 な事は言わない方が良い」という表現のしようのない怒
 りしか湧かない「売国奴的態度を取っている」ところに
 ある。
  中国の息のかかった工作員としか思えない輩である。
.
1950年代、マッカーシズム
  1950年代に、アメリカ合衆国で発生した反共産主義に
 基づく社会運動、政治的運動。
  アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッ
 カーシーによる告発をきっかけとして「共産主義者であ
 る」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、マ
 スメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。
  アメリカの第32代大統領のフランクリン・ルーズベル
 トの側近から官僚、そして、その他の広い範囲に共産圏
 の工作員がうようよといた・・工作員だらけだった。
 その為、日本との戦争にまで至ってしまった。
  その様な反動もあって、1950年代に、アメリカはマッ
 カーシズムが起きた。
  今・現在の日本も、中国の工作員がうようよと居て、
 スパイ天国となっている。
  このアメリカのマッカーシー旋風は、アメリカの情報
 機関が、ソ連の暗号を解読していることを惑(まど)わ
 し、隠すためにも行った。
  ソ連のスパイの情報をリークして議会で追及している
 という形にした。
  ホワイトや、カリーや、アルジャー・ヒスは、アメリ
 カでの最も高位についたソ連のスパイだった。
  これは、「ヴェノナ文書」にも記されている。
.
2017年12月6日、ウイグルを弾圧し続ける中国
  この日のウイグル放送の記事によれば・・、
  新疆ウイグル地区の中国公安当局は、微信(WeChat)
 などのソーシャルメディアで、国外留学中のウイグル人
 学生に連絡を取り、「帰国しなければ母親を強制収容所
 に送る」などと脅迫している。
  以下は、トルコ在住のウイグル人留学生に対する、公
 安当局の脅しの一部・・、
  「私は収容所の者だ。母親が大切ならこのアカウント
 を追加せよ」
  「トルコで暮らし、留学しているウイグル人の家族や
 親戚を収容所に収監し、強制的に『再教育』するように
 との上層機関からの命令がある」
  「おまえがトルコ留学中だから、母親がおまえの代わ
 りに『再教育』をされる」
  「トルコ国内にいる全てのウイグル人家族が、代償を
 支払うことになる」
  これだけのウイグル人の人々が拘束されていたら、当
 然ながら産業や経済は崩壊して行く。
  2017年10月18日の放送の記事では、南新疆ホタン市で
 大勢の商人が収容所送りとなったため、市内最大のバザ
 ールで店の3割が閉鎖され、顧客も半分程度に落ち込んで
 いる。
  同じく南新疆カシュガルのベシケリム村では、2000万
 平方メートルのブドウ畑のブドウが腐り始め、村民の暮
 らしを直撃している。
  取引をするウイグル人商人のほとんどが収容所送りと
 なり、買い手がなくて市場に出回らなくなった。
  一方、「商売敵(しょうばいがたき)がいなくなって、
 取引がうまくいっている」と喜ぶ漢人商人のインタビュ
 ーも紹介されている。
.
2018年7月12日、インターシップ制度を利用してスパイ活動
 をする中国
  オーストラリア上院は、2018年7月12日、議員インター
 ンシッププログラムが、今後、外国人留学生を募集対象
 から外すと発表した。
  この決定は、豪政府が中国のスパイ活動を防ぐ一環だ
 とみられる。
  同国議会では、これまで、議員は外国人留学生をイン
 ターン生として採用することができた。
  インターンシップ期間は3カ月と定められていた。
  期間中、留学生らは議会の「機密文書の閲覧も可能」。
  議会は、機密情報漏えいの対策として、インターン生
 に機密文書についてメモを取らないよう要求することに
 とどまっていた。
  上院のスコット・ライアン報道官は12日、「今後議会
 がインターン生を募集する際、豪国籍の国民のみに限定
 する」と述べた。
  昨年・2017年12月、ターンブル豪首相は、中国共産党
 政権に近い中国人富豪らが政治献金を通じて、同国の政
 策策定に強い影響力を行使したと批判した。
  また、中国の影響力の排除に向けて、「オーストラリ
 ア人民は立ち上がった」と中国語で発言した。
  英紙フィナンシャルタイムズは、昨年・2017年9月、ニ
 ュージーランド国籍中国系議員の楊健氏が、1994年、オ
 ーストラリア留学中に、同国上院の外務委員会でインタ
 ーンシップを経験した、と報道した。
  楊氏は、留学の前、中国軍のスパイ養成学校で英語教
 師として勤めていた。
  オーストラリアでは、昨年・2017年以降、中国当局の
 内政干渉やスパイ活動に対する警戒が強まった。
  豪連邦議会は、2018年6月末、外国政府からの内政干渉
 やスパイ活動を阻止するための法案を可決した。
  法案では、外国政府や企業の代理人が議会でロビー活
 動を行う際、事前登録を義務付けた。
  また、代理人らが活動内容を隠ぺいし、秘密工作やス
 パイ行為の事実があった場合、10年以上の懲役刑を下す
 とした。
.
2018年、諜報の国・ロシア
  ロシアには、以下のようなモンゴルとの関わりがある。
  ロシアには、モンゴルに約200年間にわたり占領され、
 支配された経緯がある。
  そして、そのモンゴルは、世界の諜報・謀略機関の元
 祖と言われるほど凄(すさ)まじかった。
  ロシアは、このモンゴルに占領を受けている間、現在
 の諜報大国の素地を受け継いだ。
  そして、拷問や粛正のモンゴル帝国当時の手法にまで
 染まってしまった。
  中国も朝鮮も、100年間、このロシアと同様に、このモ
 ンゴルの元に支配された。
  日本は、この元を撃退した。
  また、中国は、ユーラシア大陸での地続きという状況
 から、種々の民族が侵入し帝国を築いた。
  その中国の歴史の2000年間は、その種々の民族の錯綜
 する時代だったと言える・・それは、諜報と謀略の世だ
 った。
  その様なことは、「孫子」にも明らかで、裏をかき、
 また、その裏をかくという騙しの世界だった。
  (参考)裏をかく:相手が予想したのとは反対のこと
     をして相手を出し抜く。
  今・現在、中国が、金と人を膨大につぎ込み、プロパ
 ガンダ(嘘宣伝)に精を出し、世界を惑わしているのは、
 今・現在、始まった事ではない。
  情報をきちんと評価して、政策に反映させるシステム
 を構築することは重要な事であるが・・、
  中国の様に、それを悪用し、他を惑わし、それに長(
 た)けているのが優秀だと、他国を節操なく貶(おとし)
 めていることが・・、
  今・2018年、中国に逆風となって、中国批判の世界の
 状況となっていて、中国へ吹き付ける批判の嵐となって
 いる。
  (参考)モンゴルとロシアの関係・・
  1223年、モンゴルのルーシ侵略(カルカ河畔の戦い)
  モンゴルのロシア侵略は、カルカ河畔の戦いで始まり、
 この年のこの戦いは、ジェベ、スブタイ両将軍率いるモ
 ンゴル軍と、ポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行われ
 た戦い。
  連合軍は、数で上回っていたにもかかわらずモンゴル
 軍に惨敗した。
  モンゴルのロシア征服は、1236年~1242年のバトゥの
 西征で本格化した。
  (ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争)
  (参考)ルーシ:中世時代におけるキエフ大公国の正
     式な国号で、キエフ・ルーシとも言われ・・
      キエフ大公国のもとで誕生したキエフ大公国・
     チェルニーヒウ公国・ペレヤースラウ公国を中
     心とするリューリク朝の三国。
      広義では・・ハールィチ・ヴォルィーニ大公
     国、ヴラジーミル大公国、ノヴゴロド共和国な
     どの東欧の諸国を含む場合がある。
      ルーシ・カガン国は、8世紀後半から9世紀の
     半ばにかけて、現在のロシア北西部にあったと
     される国家、または、都市国家群(仮説)。
      また、ロシア帝国・ロシア連邦の通称。
  1220年代のはじめに、ルーシの公たちは、まず、キプ
 チャク草原の遊牧民族クマン人の戦士たちから、モンゴ
 ルの到来を知らされた・・ここからモンゴルの征服が始
 まる。
  1237年になって、モンゴル軍は、15万の大軍を編成し、
 ロシア中心部に侵入し、リャザン、モスクワ、ウラジー
 ミルを次々と陥落させた。
.
  13世紀前半、タタールのくびき
  (参考)くびき:車を引く牛馬の頸(くび)の後ろに
     かける横木のことであるが・・自由を束縛する
     もの・・の意味がある。
  13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻と、それ
 につづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルー
 シ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を言
 い・・、
  現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル
 =タタールへの臣従(しんじゅう、臣下として従うこと)
 をいう。
.
  1240年、キエフの戦い
  ルーシの首都キエフの支配をめぐって、ルーシとモン
 ゴル帝国の間に行われた戦い。
  1240年9月5日、バトゥが率いるモンゴル軍は、キエフ
 を包囲し、キエフの明け渡しを求めた。
  キエフ軍を引率するドミトロー大将とキエフの市民が
 降伏を却下して防衛に備えた。
  モンゴル軍のバトゥは、32の投石機を集めて、キエフ
 の防衛線で弱点だったポーランド門を攻撃し、市内へ乱
 入した。
  キエフの市民は攻撃を防いだが、多勢に敵わずして石
 造りの什一聖堂へ撤退し、教会を最後の砦とした。
  1240年12月6日、モンゴル軍は、投石機を取り寄せて聖
 堂を破壊させ、キエフを制覇した。
  ドミトロー大将は捕虜となったが、勇敢に戦ったため、
 バトゥによって解放された。
  モンゴル軍は、聖ソフィア聖堂をはじめキエフの教会
 と貴族の屋敷を略奪し・・、
  合戦後、5万人だったキエフの人口は2千人まで減少し
 た。
  キエフの陥落によりルーシは滅(ほろ)んだ。
  これ以降に存続したキエフ公国は、14世紀半ばにかけ
 てモンゴル帝国の属国であった。
  一方、キエフは大きく衰退し、山の手だった古キエフ
 は荒地となり、都市の中心地は下町のポジールへ移った。
,
  1453年、モスクワ大公が皇帝を意味するツアーリの称
 号を用いた。
  イヴァン3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、
  モスクワ大公が、1453年、オスマン帝国によって滅ぼ
 された東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地
 位を自認する端緒をつくった。
  ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン
 3世のとき初めて使われた。
.
  1547年、イヴァン3世の孫、イヴァン4世(イヴァン雷
 帝)は、この年に、ツアーリの称号を正式に用い、ロシ
 アの正教会の間では、モスクワは、ローマ、コンスタン
 ティノポリスに続く第三のローマであり、ツアーリは、
 ローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれた。
  モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味
 する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたの
 も、イヴァン4世の頃の16世紀だった。
  また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハ
 ン・ハン国を滅ぼし、初めてキプチャク・ハン国の一部
 を併合し、シベリアに向かって東方への拡大を開始した。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その1)
・アメリカのトランプ大統領の対中政策が回転し始めた。
  トランプの対中政策によって・・世界に孤立する中国
 となっている・・習近平は四面楚歌になっている・・
  トランプ大統領の「貿易戦争」は序の口で、その次の「
 金融戦争」となって行く・・、
  アメリカの議会も、メディアも、「反中」となってい
 る・・
  アメリカの狙いは「パックスアメリカーナ」か?
  (参考)パックスアメリカーナ:超大国である米国の
     存在により世界平和が維持されていること・・
・いま、中国の社会的な難題が深化している・・
  富と貧困の格差が拡大し・・社会には怨念が鬱積(う
 っせき、不平や不満が張らされずに、次々と、心に一杯
 たまる)している・・
  困窮化する「低端階級」の悲哀は凄まじい・・、
  海外に不正資産を蓄財する幹部が「愛国者」なのか?
・「革命、革革命、革革革命、革革・・」(魯迅の言葉)
  「革命、反革命、不革命」。
  革命者は反革命者に殺される・・反革命者は革命者に
 殺される・・不革命は革命者とされて反革命者に殺され
 るか、反革命者とされて革命者に殺されるか、あるいは
 また何でもないものとされて革命者か反革命者に殺され
 る・・
・いま、中国には外交的難題が山積みしている・・
  強引すぎた中華圏拡大に軋(きし)みが出ている・・
  BRI(一帯一路)、各地での蹉跌(さてつ、事が見
 込みと食い違って、うまく進まない失敗の状態になるこ
 と)・・
  西側諸国が、インド太平洋戦略へ舵取りを始めた・・
  「一帯一路」は、末路へ?
・中国の内政問題の矛盾が・・??
  習近平の全体主義の弱点は国際非難・・
  ウイグルの民族浄化の弾圧を強化している・・
  ムスリムへの弾圧を強化している・・
  人権を無視する政策を進めている・・、
  顔認識、声紋のデジタル統制を強化している・・
  香港に独立の動き・・そして、台湾、チベット、内モ
 ンゴルの連帯の動き・・
・無理をして来た中国の経済・・その爆発が近い・・
  中国の持つ債務は3800兆円・・これは時限爆弾だ・・
  金融難民(P2P)は抑えたが??
  (参考)P2P:Peer to Peer、ピア・ツー・ピアの
     こと・・複数の端末間で通信を行う際のアーキ
     テクチャのひとつ・・対等の者同士が通信をす
     ることを特徴とする通信方式、通信モデル、あ
     るいは通信技術。
  軍、警察OBの抗議行動が燃えている・・
  不動産暴落で・・反乱がおきる・・
・習近平王朝は黄昏(たそがれ、薄暗くなった夕方。夕ぐ
 れ。比喩的に、盛りを過ぎ、勢いが衰えるころの意にも
 使う)
  知識人、学生の不気味な沈黙・・
  宣伝部の静かな抵抗・・
  スケープゴート(集団内の不平や憎悪を他にそらすた
 め、罪や責任をかぶせられ迫害される人)を捜すという
 中国社会になって来ている・・
  その日は突然やって来るのだ・・
・中国は、今はドラゴンだが・・そこから猫に陥落・・
  IMF(国際通貨基金)のSDR(特別引き出し権)
 となった・・米中の確執・・アメリカは、中国へ為替政
 策の自由化を推し進めよと厳しい姿勢で言っている・・
 中国は、これに対抗してAIIB(アジアインフラ投資
 銀行)を作った・・アメリカと日本は参加していないが、
 ヨーロッパ諸国はこぞって参加した・・しかし、その「
 高利貸し的なあくどさ」がある所が問題となっていて、
 その実態が明らかになって来ている・・
  人民元の信用度・・SDRを得て中国の通貨が「国際
 通貨」となったかというと、「そうは問屋が卸さない」・・
  結論を先に言うと「人民元は形だけの国際通貨」・・
 それは、AIIBの活動をするときに「中国の信用度が
 低い」から・・それは、中国が一党独裁の政治体制が信
 用されてないという根を持っている・・
  AIIBや、BRICSは何処に行くのか?
  国連でも孤立し始めた中国・・、
  独英仏でも、中国批判が出始めた・・
  軍事力は張子の虎ではないのか・・と言われている・・
・しかし、中国の「サイバー・奇襲」に警戒している・・
  ダン・コーツNSA(国家安全情報局)長官は、「赤
 信号の危険信号が灯った」と発言した・・
  デジタルの一撃で世界が麻痺し・・米軍の初動が致命
 的に遅れると?・・??・・
  隙に乗じて台湾や、尖閣が攻撃されるという危惧(き
 ぐ、悪い結果になりはしないかと心配し恐れること)
・マレーシアのマハティール氏が、中国へ行って「今まで
 のことはない事にしてくれ」と言った。
・パキスタンが、IMFに救済を申し入れようとしたら、
 中国が「待て」と言った。
  IMFに言われたら、中国はまずい事ばかりだから・・
 急に20億ドルをパキスタンに融資した。
  この様な・・おかしい事が起きている・・
・オバマ大統領の失敗は、「ここまで中国と北朝鮮を増長
 させたこと」・・オバマ氏に大きな責任がある。
  その是正をしているのがトランプ大統領・・
  国防権限法・・80兆円・・国防費を大幅に増強した・・
  台湾旅行法を成立させた・・これに反対がなく、全米
 の超党派で成立した・・
  アメリカと台湾の閣僚などが・・重要な政治レベルで
 の交流ができる様にした・・
  アメリカ議会も、「中国に反対し、親台湾」で一致し
 ている・・
  しかし、この逆の日米のメディアは、NHKは、この
 様な重要な動きを「完全に伝えない態度」を取っている・・
  アメリカは、ロシアと中国を仮想敵としてはっきりと
 明文化している・・
  アメリカは、中国のIT分野を潰しにかかっている・・
 既に大きなダメージを中国に与えている・・
・米中の貿易摩擦は・・結果的に、中国に、アメリカの食
 糧が入らなくなる・・
  そしてまた、結果的に、中国の国内騒動は食糧不足か
 ら起きて来るが・・中国はこのリスクが増す道を歩いて
 いる・・
  一帯一路は、やってみたがうまく行かないという状況・・
  マハティール氏のマレーシアが、下りたことは、かな
 りの中国のダメージとなっている・・
  マハティール氏の世界に公言した言い方は、マレーシ
 アの進み方を「はっきりと明示した」・・マレーシアは
 ASEAN第二の経済大国である・・
  今、台湾はかなり緊迫した状況にある・・軍事的に、
 中国に締め付けられて来ている・・
  台湾は、南シナ海について、かなりしっかりしたデー
 ターを元に行動しようとしている(アメリカの支援)・・
  ただ、中国の台湾へのかかわり方は、かなり緊迫性の
 ある行動となっている・・
  中国の台湾への軍事的圧力が極まっている・・
  国民党の動き方も、中国の指示か?大変いやらしくな
 っている・・
  擬制(ぎせい、実質は違うのに、そうみせかける)の
 国民党の中国本土への救済要請が出されるかもしれない
 という恐れの存在・・?
  イランと中国の利害関係が一致してしまう状況と危機・・
  中国は、イランの石油を一番買っている・・
  潤沢な資金を得たイランは、軍備増強をしている?・・
  イエメンでは、イランとサウジアラビアの代理戦争が
 行われている・・
  中国が、イラン側に入って油を注ぐ状況となっている・・
  中東が本格的な戦乱になる恐れが生じている・・
  これを中国は経済復興のきっかけにしようとしている
 のではないか?・・
  中国を経済的に封鎖している効果も無くなる・・
  インド洋の真珠の首飾りと言われる中国の戦争拠点も
 強化される可能性がある・・
  (NHKは、こんなことを報道しない、国民をつんぼ
 桟敷に置いている)・・
  マレーシアの行動も無になる恐れ・・マラッカ海峡は
 しっかりしているが・・日本の自衛隊も貢献している・・
  シーレーン確保は大切・・日本が生きる大切なルート・・
 ここをしっかりして行くべき・・世界の安全を守る事に
 もなる・・しっかりと日本のアイデンティティを世界に
 示すべき・・
  (参考)アイデンティティ:identity、主体性、同一
     性、らしさ、独自性、自己認識・・など・・
      英語は、「雑な言語」なので色々な意味を持
     っている・・その一例の単語・・繊細な日本語
     の素晴らしいしさを感じさせる事例・・安易に
     日本語英語を使う御仁の程度の低さを示す事例・・
・マハティール氏は、当選するとすぐ日本に行くと発言し
 た・・
  マレーシア内に現存する中国人脈の善処(ぜんしょ、
 適切に処置すること)に取り掛かる動きも・・金脈と人
 脈の洗い直し・・
  6月10日、氏が来日した・・早い時期の打ち合わせを
 マレーシア側が望んだ・・TPPを「日本と東南アジア」
 でイニシアチブをとる形にしたいマハティール氏・・
・中国で、習近平の写真に墨をかける行動があった・・
  そして、人民日報から習近平の文字が消えた・・一行
 も習近平と書かれていない・・
  次々に、トランプ大統領は、中国輸入品に関税をかけ
 ると表明をしている・・