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北国の暖かい方たちとともに

2017年01月21日

(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)

題:(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月11日、甲武鉄道(中央線)、新宿駅~立川駅間が
 開通した。
  この甲武鉄道開通時の錦絵がある。
  それには、甲武鉄道沿線の名所旧跡が紹介されている。
  それには、小金井桜、玉川、高尾山の説明文がある。
  その錦絵には、中央の下に新宿停車場が描かれ、そし
 て、立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
 る。 
  左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり、
  御嶽山の方から流れているのが玉川(多摩川)(中央
 左側)で、羽村からは、玉川上水が東京市街地に向かっ
 て流れている。
  玉川には、立川と日野との間に甲州街道の橋が架けら
 れてる。
  西南戦争の戦費調達等のため、国は膨大な財政支出が
 迫られ、国家財政は窮地に立っていた。
  そこで、民間に任せたほうが望ましい分野は民営化し
 ようという方針の国。
  その様な中で、国は、1881年(明治14年)「私設鉄道」
 を認める方向に転換した。
  約10年間続けた「官設官営鉄道」に終止符を打った。
  そして、甲武鉄道の敷設・・さまざまな反対運動があ
 った。
  甲州街道で栄えていた府中や調布は、商人、宿屋、人
 力車夫などが、客がとられるといって反対した。
  農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害すると、
  火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になると、
  家畜に悪影響が生じるといったいろいろな反対理由が
 叫ばれた。
  また、中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に
 貫いて行くという計画に対して、
  地主や村民等が・・「鉄道は村を衰微せしむ」という
 理由をぶち上げた・・頑強な反対運動を展開した。
  こうした反対運動のために・・、
  甲武鉄道は、やむなく・・計画を大きく変更した。
  そして、えい!やー!・・っと、抵抗の少なかった武
 蔵野の原っぱを・・原野を、現在の東中野あたりから立
 川までを、定規で一直線に引っ張った・・そして、敷設
 した。
  1889年(明治22年)4月11日のこの日、後に中央線とな
 る甲武鉄道が・・、
  内藤新宿駅と立川駅間の27.2kmで開通した。
  内藤新宿より中野・境(武蔵境)・国分寺の3駅を経て、
 立川まで運行された。
  新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時
 間の8時14分に到着した。
  新宿から1時間。
  新宿駅発7時14分~中野駅7時25分~境駅7時48分、国分
 寺駅8時1分、途中の各駅に1分間停車し、終点の立川駅に
 8時14分に到着。
  列車のスピード:平均時速30kmだった。
  北海道の原野の様な中野駅構内に停車している明治39
 年の蒸気機関車が写る写真がある(複線)。
  車両は、イギリスから直輸入したナスミス・ウィルソ
 ン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・
 タンク蒸気機関車(国鉄400形蒸気機関車)
  客車は、「マッチ箱」と呼ばれた箱型客車。
  運行は、午前・午後2本ずつ、1日4往復。
 (内藤新宿駅発、7時9分、10時0分、14時30分、17時30分)、
 (立川発、8時40分、11時40分、16時10分、18時55分)
  運賃は、上等・中等・下等と3段階に分け、運賃の基準
 は、下等は1マイル(約1609m)1銭で、中等は下等の2
 倍、上等は下等の3倍。
  1889年(明治22年)は、もり・かけそばが1銭なので、
 かなり高額。
  立川~八王子間はわずか9.7kmしかないが、鉄道架橋
 が計画した工期以上にかかり遅れた。
  1889年(明治22年)7月に多摩川本橋(約418m)、浅
 川橋(139.5m)が完成。
  この架橋の完成で、立川~八王子間は、新宿~立川の
 開業から4ヶ月遅れの1889年(明治22年)8月11日に開業
 する。 
1889年4月16日、メートル法条約に加盟する(1885年説あり)。
  メートル法条約は、メートル法による度量衡標準の国
 際的統一、および、その完成を目指して、1875年5月20日、
 パリで締結された。
  14ヵ条の本文と 22ヵ条の付則と6ヵ条の過渡規定から
 成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度
 量衡委員会、国際度量衡総会その他を規定している。
  日本は、1885年(明治18年)に加盟手続を終わってい
 たが、公布されたのは翌年・1886年4月16日であった。
  メートル条約が締結されると、フランス政府は、各国
 に対して加盟の呼びかけを行い、日本にも、駐独公使を
 通じて勧誘してきたが、政府の意見は一致せず、
  1884年(明治17年)重ねての勧誘の際、新たにメート
 ル原器とキログラム原器をつくって加盟国に配布する旨
 の通知に接して加盟が定まった。
  日本のメートル法化(にっぽんのメートルほうか)と
 は、1885年のメートル条約加盟と、1891年の度量衡法公
 布により始まった。
  1884年、新たに原器を製作するとの報に接し、これを
 機にメートル条約への加盟が決断された。
  1885年10月9日に加盟手続を終わり、
  翌1886年4月16日にメートル条約(明治19年4月20日勅
 令)として公布された。
  日本の原器は、抽選によりメートル原器はNo.22、キロ
 グラム原器はNo.6とされ、
  1889年に在パリ公使館の大山綱介・書記官が受け取り、
  翌1890年4月に日本に到着した。
1889年4月16日、静岡駅~浜松駅間の鉄道が竣工して開通し、
 開業した。
  ここに初めて東海道全線(官設鉄道)が開通した(7月
 説あり)
  日本は、この様に、国家建設のため地道に努力を積み
 重ねて来た。東海道線も全線開通した。
1889年4月19日、ロンドン・タイムスに大隈重信(外相)条
 約改正案が掲載され、論評が載る。
  以後、反対世論高まり、猛烈な批判を招いた。
  井上馨が努力していた条約改正を引き継いだ大隈外相
 は、各国と交渉を続けていたが、ロンドン・タイムスに
 報道されてしまう。
  井上馨は、妥協した改正案で・・、
  「領事裁判権の撤廃、輸入関税の一部引き上げの代わ
 りに外国人裁判官を任用し、内地雑居を認める」とした。
  大隈重信の改正案は・・、「外国人判事任用を大審院
 に限る」とした。
  そして、比較的理解を示していたアメリカ・ドイツ・
 ロシアと秘密裏に個別に交渉していた、調印する・・が、
 発効せず(メキシコとは対等条約を締結済み・1888年11
 月30日に締結)、
  しかし、イギリスの新聞:ロンドン・タイムスが・・
 大隅改正草案を掲載した。
  そして、既に締結したメキシコとの条約が内地雑居を
 認めるのなら・・イギリスは最恵国待遇なので、同じ様
 に認めるのだねと論評した。
  大隅は、これを、最恵国有条件主義を唱えて拒否した。
  日本国内でも違憲論が起き、話はこじれていく・・、
  大隅がテロに遭い負傷し・・条約改正交渉中止となる。
1889年4月21日、民法財産編を公布した(1890年説あり)
  1890年(明治23年)3月:民法(財産編、財産取得編、
 債権担保編、証拠編)公布
  1890年(明治23年)に、公布された民法典の施行をめ
 ぐって論争が展開された。
  日本における民法典編纂は、ボアソナードの指導のも
 と、フランス民法典を範として進められ、
  1890年公布し、1893年に施行されることになっていた。
  しかし、1889年、イギリス法学系の法学士会が・・、
  「法典編纂ニ関スル意見書」を発表、
  民法典と商法典との不統一などを指摘して慎重論を展
 開すると、法典の実施可否をめぐって激しい論争が繰り
 広げられた。
  特に、延期派の穂積八束が、「民法出テテ忠孝亡フ」
 を著して、日本固有の家族制度を美俗と捉える立場から
 民法実施に反対した。
  これは大きな影響力をもった。
  これに対し、断行派の梅謙次郎や岸本辰雄らは、フラ
 ンス法的市民法原理にもとづいた民法実施の必要性を強
 調した。
  結果的には、1892年の第三議会で、民法・商法を延期
 する法律案が可決されて延期が決定した。
  論争は、固有法と継受法の衝突、イギリス法・フラン
 ス法・ドイツ法の学派的抗争、自然法学と歴史法学の対
 立のほか、立法技術や条約改正をめぐる問題、実業界と
 政界の思惑など複雑な要因が絡み合って展開されたが、
  その後、法典調査会で審議・修正された新民法は、ド
 イツ民法を模範に、戸主権を重視した家中心のものとな
 った」(日本思想史辞典)
  民法典論争は、1890年(明治23年)に公布された民法
 (旧民法)の施行時期をめぐり、延期派と断行派の間で
 行われた論争のことで、不平等条約を撤去する条約改正
 を実現するため、近代的な基本法典の制定を迫られてい
 た明治政府は、フランス人の法学者ボアソナード、G. E
 に民法草案の起草を依頼し、旧民法が公布された。
  しかし、公布の前から、延期派は、その個人主義的な
 性格が日本社会の淳風美俗の根本にある伝統的な家族道
 徳を損なうものとして法典の編纂に反対した。
  その際に発表され世間の注目を集めたのが、延期派の
 中心人物、穂積八束の論文「民法出デテ忠孝亡ブ」(『
 法学新報』第5号)だった。
  激しい論争の末、1892年に、帝国議会で延期が決定さ
 れ、結局旧民法は実施されず、論争は延期派の勝利に終
 わった」。
  (参考-1)
  1887年(明治20年)10月、諸法典編纂の事業を完成す
   るために、法律取調委員会を設置。山田顕義司法大
   臣を委員長とする。
  1887年(明治20年)11月、井上馨失脚に伴い、民法編
   纂、司法局に戻る。
  1888年(明治21年)民法典第一草案成立
  1889年(明治22年)民法典論争(~1892年)
  (参考ー2)
  改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編
 の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草
 させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、
 人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産
 契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は
 特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるというこ
 とから、熊野敏三、磯部四郎などの日本人委員に起草さ
 せた。
  1888年(明治21年)に、ボアソナード担当部分の草案
 が成立し、
  1889年(明治22年)に、元老院の議決を経て
  1890年(明治23年)4月、『民法財産編・財産取得編・
 債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)と
 して公布、
  1890年10月、残部についても、この時に『民法財産取
 得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公
 布され、
  1893年(明治26年)1月1日、双方とも、この時から、
 実施すべきものと定められた。
  この法律28号、第98号が旧民法。
1889年4月25日、宮武外骨(みやけがいこつ)の不敬事件に
 禁錮3年、罰金100円の判決。
  外骨は、控訴した。
1889年4月26日、大阪府警本部が、大阪壮士倶楽部の解散と
 壮士募集広告の取り消しを命令する。
  壮士とは、自由民権運動の活動家の事を言うが・・、
  明治二十二年のこの時、「大阪朝日新聞」などの大阪
 の新聞に奇妙な広告が載る。
  勇悍猛烈の壮士二十名募集す内十七名は散宿せしめ学
 費を給し三名は同居を諾し学費を給す。
  北区天満橋筋一丁目大阪壮士倶楽部取締、菅野道親
  これは何だ?と・・新聞は取り上げた・・そして、記
 した。
  「世に巡査の募集とか生徒の募集とか将(は)た雇人
 の募集とか申すこと屡々あれど壮士の募集とはまた希有
 なるべし」・・と。(明治二十二年四月二十二日)
  そして、これが、「治安に妨害あり」と認められ・・、
  そして、募集差止並に壮士倶楽部解散を命ぜられたる」
 となった。
  しかし、今度は・・
  「温厚篤実の壮士二十名募集す」という広告に切り替
 えられて、再び、募集記事が出た。
  しかしこれも・・、
  「如何なる冠詞を附するも壮士募集は総て治安を妨害
 する趣(おもむき)、内務大臣の訓令なりとて、警察本
 部より差止めら」れた・・
  そこで・・
  「募集を取り消す」という広告まで出された。
1889年4月26日、日本画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
 死去。
  弟子の中に鹿鳴館設計者のコンドルが居た。
  3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師の国芳に入
 門した。
  1831年(天保2年)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋
 記右衛門の次男として誕生した。
  数え年2歳で家族ともども江戸に移り住んだ。
  絵が格別に好きな幼少時代、他の遊びや菓子を食べる
 のも忘れて絵を眺めたという。
  わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門した。
  1839年5月(8歳)梅雨による出水で、神田川に浮かん
 だ生首を写生して、周囲を驚かせたという。
  珍しいもの何でも写生をしたという・・。
  1840年(9歳)国芳の侠気(きょうき、おとこぎ)と品
 行を心配した父は、国芳の元から駿河台の狩野派絵師・
 前村洞和愛徳の門に替えた。
  前村洞和愛徳は、周三郎(暁斎の幼名)の画才を見込
 んで「画鬼」と呼び、可愛がった。
  異例の若さといわれる19歳の1847年(嘉永2年)「洞郁
 陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かって、狩野派
 の修業を終えた。
  幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、
 日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師だった。
  この群を抜いた筆力・写生力で海外でも高く評価され
 ている天才絵師が、この日に没した、享年58歳だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカも・・日本と同じように・・戦争に突入させられて行く・・
    (変な大統領を・・選んだからだ・・)
.
1933年1月30日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代ア
 メリカ大統領になる約1ヶ月前のこの日、ドイツのナチス
 のヒトラーが、首相の座に就いていた。
  ルーズベルトが、何故か? また、愚かにも、演説が
 ヒトラーに似ている事の疑問が・・解けた。
  ヒトラーの首相就任後の約5週間後に、大統領になった
 アメリカ大統領ルーズベルトは、ヒトラーに強く影響さ
 れていた。
  ヒトラーと同じ様な調子で「アジ演説」をアメリカ国
 民の方々へした。
  ヒトラーと同じような調子で、感情的に、アメリカ国
 民の方々を煽(あお)る演説をして、「戦争をする特権
 をくれ」と言っていた。
  そして、ヒトラーが、国家統制経済で産業を効率的に
 して行きたいとしたが、
  ルーズベルトも、同じ考えで、国家復興庁(NRI)
 で産業効率を良くしたいとした。
  ルーズベルトは、ヒトラーと高い類似性がある大統領
 だった。
.
  題:アメリカは・・人格的な欠陥の大きい大統領によって・・戦争に突入して行った・・
.
1940年5月16日、ルーズベルトは、この頃、明らかに戦争を
 する、戦争したいと想定していて、軍備増強をアメリカ
 上下院の合同議会で訴えた。
  議会は、ルーズベルトの戦争思考に反発し、戦争回避
 運動を展開し、反発した。
  また、アメリカ国民の方々も、ルーズベルトの危険な
 戦争思考に反発した。
  多くの様々な団体が、強く反発した。
  また、個人も、例えば「リンドバーグ」らも反発した。
  この頃、陰湿な事だが、ルーズベルトは、陰の世界(
 裏社会)で働く輩を持っていた。
  ルーズベルトの意を受けた大統領首席報道官のスティ
 ーブ・アーリーは、その陰の暗躍者へ連絡を取った・・、
  「大統領のお願いですが、大統領がした軍備増強の演
 説以来、軍備増強に反対する電報が、数多く舞い込んで
 いる。
  その差出人が誰かを掴(つか)んでもらいたい」と。
  このルーズベルトに便利に使われていたのがジェイ・
 エドガー・フーバーだった。
  この男は、アメリカ連邦捜査局(FBI)の前身の司
 法省捜査局長だった。
  ルーズベルトは、この男を『闇の情報屋』という使い
 道を掴んでいた。
  この男とルーズベルトとのつながりは、1933年に、ル
 ーズベルトが政権の座に就(つ)くと、フーバーの方か
 らルーズベルトへ近づき、「地位の継続」を求めた。
  1934年には、ルーズベルトは、アメリカのナチズムの
 信奉者を調べる指示を出している。
  フーバーの過酷なのは、プライバシーの闇の部分に大
 きく踏み込むところだった。
  ルーズベルトは、そこに価値を見出した。
  ルーズベルトは、調査対象をさらに広げた・・、
  政敵も調査させた。
  ルーズベルトを厳しく批判した前大統領(第31代アメ
 リカ大統領ハーバート・フーバー)も調べさせた。
  ルーズベルトは、その様な分厚い調査資料を貰い、喜
 んだ。
  そして、思わず、「こんな価値ある報告書を本当にあ
 りがとう」と言った。
  また、異例な行為である、感謝状まで送ったこともあ
 った。
  ルーズベルトは、卑劣にも、大恐慌や戦争を言い訳に
 して、「違法な捜査を奨励」した。
  危機の時代だからいいのだと・・、まったく自分勝手
 な理由を付けて・・違法行為をさせていた。
  ファシストと共産党も、ルーズベルトは命令を出して、
 監視させた。
  1939年6月26日には、大統領令を出し、スパイ、破壊活
 動防止の権限をFBIと陸海空の情報部へ与えた。
  アメリカは、監視国家となった。
  ルーズベルト大統領夫人エレノアの禁断の密会情事も、
 こんなアメリカの監視社会から分かった。
  FBIは、ルーズベルト大統領の直属の様な汚い情報
 を貢(みつぐ)組織に成り下がっていた。
  「盗聴器を仕掛けること」を命じるハレンチなルーズ
 ベルト大統領だった。
  その記録が残っている。
.
  そして・・、
.
1940年夏、ランドルフ(A・フィリップ・ランドルフ、黒
 人指導者)が、フランクリン・ルーズベルトと会談し、
 「黒人の地位向上」を訴えた。
  この時点で、アメリカ海軍の総人員は、13万9000人だ
 ったが、黒人のアメリカ海軍軍人は皆無、0人だった。
  完全な人種差別状態だった。
  雑役夫と料理係に4000人の黒人の方々が居た。
  日米開戦後、人員不足で、アメリカは、やむを得ず黒
 人の方々を採用したが、
  それでも差別は止まらなかった。
  黒人の方々は、「艦船で、白人の軍人と一緒に戦うこ
 とが禁止されていた」。
  卑劣極まりないアメリカと、日本は戦っていた。
  大半の黒人の方々は、雑役か、港湾での爆弾運びの仕
 事だった・・悲劇が起きた・・
  1944年7月17日、サンフランシスコの軍港で爆弾が爆発
 した。
  大音響が轟いた。
  黒人雑役兵が、爆弾を運んでいた。
  近くの兵舎も吹き飛んだ。
  320人が即死し、390人が重軽傷を負った。
  アメリカの規則で、従事していたのは黒人の方々だけ
 だった。
  故に、犠牲者の大半は、黒人の方々だった。
  黒人の方々は、黒人の方々だけが、危険な仕事に従事
 させられて来たことに反発した。
  当然だった。
  また、この事故後のアメリカの国の対応でさえも、人
 種差別行為をしていた。
  事故後、白人将校達には、この事故を理由に「1ヶ月の
 休暇」が与えられたが、
  黒人の方々・雑役兵に対しては、何の配慮もされず、
 休暇は与えられなかった。
  黒人の方々・雑役兵は、「爆弾運びを拒否した」。
  そして、復帰命令に反発して、現場復帰をしなかった
 50人には、「反逆罪」が課せられた。
  そして、「15年の強制労働」という卑劣な厳罰が下さ
 れた。
  この時から50年を経た後に・・、
  クリントン・アメリカ大統領(第42代大統領)は、こ
 の人種差別の酷(ひど)いアメリカの状況を反省し、
  50年月以上をさかのぼって、この時に厳罰を下された
 一人の黒人兵に、嘆願を受け入れ、
  50年以上さかのぼって恩赦を与えた。
  今・現在の時点でも、アメリカは、人種差別をし、人
 種差別の恩赦を与えるという行為をしなければならない
 『遅れた国の実態』となっている。
  日本の事を内政干渉するべきアメリカという国の状態
 ではない。
  このランドルフ氏は、ワシントン行進を計画(軍需産業
 及び、政府内の雇用における人種差別を禁ずるという大
 統領行政命令8802号を引き出すという功績を残した。
  黒人指導者として頭角を現していたランドルフは、事
 態打開のために、この「ワシントン行進」を提唱し、こ
 の運動が戦時態勢下に実行されることを危惧したルーズ
 べルト大統領から、軍需関連産業における雇用差別を禁
 止する大統領行政命令第8802号を勝ちとるとともに、
  この行政命令の実施状況を監督する機関、公正雇用委
 員会を設立させた。
  A・フィリップ・ランドルフ(1889年~1979年)は、
 労働運動指導者、公民権運動家で、
  フロリダ州クレセント・シティに生まれた。
  ニューヨーク市立大学に学び、仲間と共同で職業紹介
 所を創設した。
  1917年(28歳)には、アフリカ系アメリカ人労働問題
 月刊誌「メッセンジャー」を発刊した。
  1925年(36歳)アフリカ系アメリカ人労働組合の最初
 の成功例、寝台車ポーター友愛会を設立した。
  1940年(51歳)アメリカ大統領と会談して、国人の地
 位向上を訴えた。
  1941年(52歳)大統領行政命令8802号を出させた。
  1944年(55歳)7月、サンフランシスコの軍港で爆弾が
 爆発し、黒人の方々が、大勢、亡くなった。
  1948年(59歳)トルーマン大統領に働きかけて軍隊内
 の人種差別を廃止させた。
  1960年(71歳)黒人アメリカ労働会議を結成した。
  1963年(74歳)公民権を求めるワシントン大行進を指
 揮した。
.
  そして・・、
.
1941年12月9日(アメリカ東部時間12月8日)、日本の真珠
 湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルトは、アメリ
 カ議会へ急いだ。
  日本への宣戦布告を議会に承認してもらうためだった
 (日本の、アメリカへの宣戦布告は、すでに、なされて
 いる)。
  ルーズベルトは、普段は、スピーチライターに演説文
 を書いてもらっているが、この時は、自分で書くとした。
  当初の演説草稿は、「昨日、12月7日は、世界史に残る
 日となるでしょう」で書き始められていたが、
  「世界史」の部分が、「汚辱」に書き換えられた。
  日本の攻撃行為や、攻撃個所などが生々しく書き加え
 られて行った。
  卑劣な演説文となって行った。
  日本を、「だまし討ち攻撃」をしたという印象を持た
 せようとした。
  そして、「汚辱の日を忘れるな」という呼びかけがな
 された。
  このルーズベルトの「汚辱の日」から、アメリカ国民
 の方々は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘
 れるな〉」が生まれ、そして、誓った。
  しかし、こんな話、すべてが、ルーズベルトが仕組んだ
 ことだった。
  この様にして、議会演説書をルーズベルトは作った。
  ルーズベルトは、「劇的な効果を狙いたい」という狙
 いがあったことを、後に、手紙で友人へ書き送っている。
  そして、「大衆心理、あるいは、個人の心理状態を配
 慮した」と言った。
  そこまで考え、「煽(あお)る」ルーズベルトだった。
  ルーズベルトが、演壇に立った時、会場は熱狂に近い
 状態になっていた(ヒトラーの熱狂と同じだった)。
  ルーズベルトが、すぐに、演説を始められないほどだ
 った。
  アメリカ国民の方々は、この熱狂にあおられた。
  火付け役が、ルーズベルトだった。
  ルーズベルトは、「改革十字軍」という言葉を使った。
  「改革十字軍を助けてほしい」と言った。
  「武器をとれ」と言った。
  ヒトラーの『アジ演説』と何ら変わらない状況だった。
  アメリカは、戦争に引きずり込まれて行った。
  (日本が引きずり込まれ・・そして・・アメリカが引
 きずり込まれて行った)
.
  そして・・、
.
1946年、フーバー元大統領が訪日し、マッカーサーと会談
  フーバー元大統領が批判・・「ルーズベルトは狂気の男」
  (産経新聞、2011年12月7日、22:41)
  【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31
  代米大統領(1874年~1964年)が、日本軍が1941年12月
 8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフラ
 ンクリン・ルーズベルト(第32代1882年~1945年)につい
 て、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い
 込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分
 かった。
  米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だ
 ったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM 
 BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
  真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦
 する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。
  ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうと
 した・・などとする「陰謀説」が日米の研究者の間で浮か
 んでは消えてきたが、
  米大統領経験者が、「陰謀説」に言及していたことが判
 明したのは初めて。
  ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領の
 トルーマンの指示で戦後の日本などを視察。
  1946年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)の
 マッカーサー元帥と会談した。
  その際、フーバーは、マッカーサーに対し、日本との戦
 争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』
 の願望だった」と指摘。
  在米日本資産の凍結など1941年7月の経済制裁は「対独
 戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込も
 うとしたものだ」と語ったという。
  マッカーサーも、「ルーズベルトは、1941年夏に、日本
 側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争
 回避の努力をすべきだった」と批判していた。
  著書では、フーバーが、「米国から日本への食糧供給が
 なければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろ
 う」と、マッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたこ
 とも詳細につづられており、
  フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなって
 いる。
  ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされて
 いるルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけに
 なってほしい」と話している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2017年01月18日

(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)

題:(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年3月22日、横浜相生町が大火となり、1600戸が焼失し
 た(1890年3月説あり)
  1889年4月、横浜は、市制を施行した(戸数:26000戸、
 人口:11万6000人)。
  そして、従来の消防を廃止し、新たに横浜警察署に移
 管した。
  そして、ホース絡車の消防隊を編成し、各派出所ごと
 に絡車1台に消防夫3人をもって1分隊とし、取締役1
 人を配置した。
1889年3月23日、北海道で麋鹿(となかい)保護のために、
 鹿猟が禁止となる。
1889年3月23日、土地台帳規則が制定された。
  地券と地券台帳を廃止し、地租は、土地台帳に記載さ
 れた地価を基準として徴収する旨が公布された。
  地券(ちけん)とは、明治初期に土地の所有権を示す
 ために明治政府が発行した証券のこと。
1889年3月31日、佐渡と生野の両鉱山が、帝室(皇室)財産
 に編入されて、宮内庁御料局の所管となり生野支庁と改
 称された。
  フランス人技師フランソア・コワニェ(薩摩藩当時に、
 領内の鉱業振興のために雇用されていた)と共に、生野
 銀山の近代化に取り組んできた朝倉盛明は、
  御料局移管と同時に、御料局理事生野支庁長に昇進し
 た。
1889年3月、由良要塞が起工された。
  由良要塞(ゆらようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞
 の一つ。
  大阪湾防衛の目的で、紀伊半島と淡路島の間の紀淡海
 峡周辺に作られた。
  歴史・・、
  1889年(明治22年)3月、生石山第三砲台を起工、由良
   要塞の建設開始。
  1896年(明治29年)7月、由良要塞司令部開設
  1898年(明治31年)10月8日、司令部は兵庫県津名郡由
   良町に移転[2]。
  1903年(明治36年)5月、鳴門要塞を吸収合併
  1904年(明治37年)2月、動員下令(日露戦争)
  1913年(大正2年)4月、佐瀬川保塁、深山第一砲台、
   深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一
   砲台、成山第二砲台廃止の方針が出た。
1889年4月1日、2府32県で市制・町村制が施行された。
  弘前市、横浜市、久留米市など31都市が選ばれる。
  横浜に市制が施行された(2万5000戸、人口:11万6000
 人)。
  1888年(明治21年)4月25日に市制と町村制が公布され
 この日に、施行された。、
1889年4月7日、大阪北野茶屋に9階建ての凌雲閣が落成した。
  同名の建物が東京の浅草にもあるが、これは、「浅草
 十二階」とも呼ばれた建物で1890年11月11日に開館した。
  そして、この大坂の凌雲閣は、大阪・北野茶屋町の遊
 園地「有楽園」内にたてられていて、9階建て、高さ39メ
 ートルだった。
  この9楼凌雲閣に先立つ1888年には、浪速区日本橋の遊
 園地「有宝地」内に、5階建て、高さ31メートルの眺望閣
 が造られていた。
  「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれ、
  眺望閣は、六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の
 西洋式高層建築といわれ、周囲には露天街もでき、1904
 年に解体されたが、通称としての地名が現在でも残って
 いる。
1889年4月8日、帝国大学文科大学に、中学校教員養成のた
 め、特約生教育学科を開設した。
  東京大学の教育学の教育は、1887年(明治20年)に始
 まった。
  その講義を担当したドイツ人教師が、エミール・ハウ
 スクネヒトだった。
  これが、東京帝国大学文学部教育学科の発祥点である。
  そして、彼の講じた教授理論(ヘルバルト派教授理論)
 が、その後、明治中期から後期にかけての、日本の教育
 学界、及び、教育現場の動向を強く規定していく。
  彼の携えて来た教授理論の影響力の大きさの故に、日
 本の近代教育学史・教育史のうえで、極めて重要な位置
 を、これが占めている。
  彼が、帝国大学に着任したのは1887年(明治20年)1月
 で、その翌々年の1889年(明治22年)2月から、帝国大学
 文科大学に「特約生教育学科」という特別の仮定が置か
 れた。
  そして、1890年(明治23年)には、12名の「特約生」
 が、その課程を卒業して行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:高度な文明国なのか?
.
1933年9月、初秋のニューヨークの大通りが、25万人のデモ
 行進の群衆で埋まった。
  記録的な群衆だった。
  茶色の制服を着て、胸に青鷲(あおわし)の記章を付
 けた人々も居た。
  沿道は150万人の人々が居た。
  「私たちは国(アメリカ)のための役割を果(は)た
 している」と訴えていた。
  フランクリン・ルーズベルト政権へのアッピールと不
 満があった。
  ルーズベルトは、法改正などで強大な権力を得て、ま
 た、次なる権力も得ようとしていた。
  ルーズベルトは、「アメリカ企業をコントロールしよ
 うとしていた」。
  1933年4月12日の記者会見では、「アメリカ企業は、馬
 鹿げた過剰生産をしている」と、ルーズベルトは、不満
 を口にしていた。
  そして、「何とか規制したい」と言っていた。
  ルーズベルトの考え方は、「市場を放任しているから
 シッチャカメッチャカになるんだ」という考え方だった。
  「そんな、市場の放任の考え方は、今や破綻(はたん)
 している」と言った。
  「私は、自分のやり方(市場を放任状態にしない)が
 正しいと確信している」と言った。
  資本主義を救うには、ある程度の規制が必要だという
 考え方だった。
  ルーズベルト批判派は、「ニューディールは、ファシ
 スト運動だ」と批判した。
  しかし、ルーズベルトが、不況の克服の特効薬として
 推進した一連の構想は、1年も経(た)たない内に、次々
 と行き詰って行った。
  ルーズベルトの「ニューディール政策は、うまく行っ
 た」という話は、真っ赤なウソである。
  プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  ルーズベルトが、不況克服のために、戦争需要を得て、
 景気刺激をしたがるのは、この点から発していた。
  その相手をさせられた日本が可哀想だった。
  可哀想を通り越し、それでは済まされない怒りが湧く・・、
  ルーズベルトが進めた「アーサーデール入植」も失敗
 する。
  金をいくら注ぎ込んでも駄目だった。
  内務長官(ハロルド・イッキーズ)は・・、
  「どんどん予算は膨張するし、まるで酒飲みの水兵が
 (酒代に給料のすべてを)注ぎ込むようなものだ」と、
 非難していた。
  こんな具合のものばかりのニューディール政策を・・、
 「成功した」と言いたかったアメリカは、
  経済復興のために戦争をしたと、本当のことを指摘さ
 れたくなかったからだった。
.
  そして・・、
.
1934年9月20日、アメリカにあった革命未遂。
  革命未遂の事は、アメリカのそのクーデター計画が、
 事前に暴露された事から判明された。
  1934年9月20日、計画が暴露された「アメリカ下院の非
 アメリカ特別委員会」は、アメリカ海兵隊の退役軍人ス
 メドレー・バトラー少将を証人として尋問した。
  少将は、明確に証言した、「ファシストによるクーデ
 ター計画が存在する」・・と。
  このバトラーに、ウォール街の債権ブローカーのジェ
 ラルド・マクガイアが接触して来たのは、1933年初秋の
 頃で、この約1年前のことだった。
  マクガイアは説明した、「ルーズベルトのニューディ
 ール政策は、アメリカの企業家精神を蝕(むしば)んで
 いる」・・と。
  そして、アメリカを救うには貴方(バトラーのことを
 将軍と言った)が・・「退役軍人を組織して立ち上がら
 ねばなりません」
  「ルーズベルトを軟禁するのです」
  「新政府を樹立すべきです」・・と。
  特別委員会の委員は、最初は、信じられないという表
 情をした。
  ジョン・マコーマック委員長も信じられないという様
 子だった。
  しかし、話を聞いて行くと・・、
  「バトラーが資金を300万ドル提示された」という話や、
  「有名企業のシンガーミシンの会長ロバート・クラー
 クが、5000万ドルもの軍資金を、すでに用意していた」
 という話や、
  「生活に困っていた退役軍人の兵士が、50万人、動員
 されることになっている」という話や、
  「銃は、レミントン社」が、
  「火薬は、デュポン社がまかなう」など・・、
  具体的な話が続くと委員たちは唖然(あぜん)とした。
  説明は、具体的で詳細だった。
  その基底に、ニューディールの批判を続けていて、強
 めていた「アメリカ自由同盟」の面々が連なっていた。
  マコーマック委員長は、その事実性を強め、心証を強
 めた。
  実際、フランクリン・ルーズベルトは、深刻な不況と
 はいえ、自由の国・アメリカで、「経済の国家統制」と
 いう、当時のファシズムや共産主義のような政策を行な
 っていた。
  この流れの先に・・、この国で初めての「政府転覆」
 という大掛かりな政治暴力がなされようとしていた。
  マコーマック委員長は、記者会見で、「バトラーは、
 証拠を持っている」と言った。
  そして、事件追求に自信を見せた。
  しかし、12月に入ると、不思議な事に、何故か? 公
 聴会は開かれなくなり、
  アメリカ国民の方々をつんぼ桟敷に置き、秘密のベー
 ルが降ろされた。
  そして、不明のうちに、その翌年の1935年2月に・・、
  証拠不十分として、追及は取り止めにするとされた。
  そして、委員会が、追及を中止した直後の1935年3月、
 マクガイアは、急に病死した。
  『反ニューディール勢力』は、以後、強い監視下に置
 かれた。
  「ルーズベルト潰(つぶ)し集団」のレッテルが貼ら
 れた。
.
  そして・・、
.
1936年頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を・・、
  何か?おかしい大統領だと・・アメリカ国内でも、多
 くの方々が、その様に見ていた。
  国益をアメリカにもたらそうとするアメリカ大統領な
 のだが・・、
  共産主義のソ連と、枢軸国側(ドイツ、日本、イタリ
 ア、オーストリー)を共通の敵として戦っている間は、
  こだわりなく・・同じテーブルに座っていた。
  しかし、愚かにも、そのドイツや日本の枢軸国側の敗
 退が見えて来た頃より、
  まだまだ、戦いが続いているというその戦争中に・・、
  次なる敵が・・また、新たに見えてきたという輩たち
 だった。
  昨日まで、同じテーブルに座っていた者たちが、敵に
 見えてきた輩たち。
  連合国側のアメリカ・イギリスに対抗する共産国=ソ
 連が・・その敵対相手だと・・。
  愚かさの極みだった。
  キリスト教の「異端の排除教義」に洗脳され、毒され
 た者たちだった。
  ルーズベルト政権に居たホワイトは、「根っからの共
 産主義ではなく・・むしろ共産主義という理念が・・理
 想に見えた輩だった。
  そして、ソ連へ情報提供するというスパイ活動をした
 輩となった。
  ベンレートが言うように・・ルーズベルト政権には、
 ソ連のスパイたちが「うようよ」と居た。
  アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官が・・、
  1953年11月に、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった
 様に・・。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
  1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要
 (かなめ)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  『1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 ホワイトらの政府内の情報員の活動実態について』証言
 した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それで、何故か? ルーズベルトの政策がおかしかっ
 た。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
  1936年1月24日、モーゲンソー財務長官は、この日の午
 後3時、いつものようにニュースを聞くと、
  「GM(ゼネラル・モーターズ社)が、突然、大量の
 米ドル売りを開始した」。
  米ドルは、英ポンドに対して急落した。
  これは、ルーズベルトへも伝えられた。
  ルーズベルトは怒った・・、
  「祖国の貨幣を貶(おとし)めるとは、これほど非愛
 国的行為を知らない」・・と、鋭い口調で言った。
  ルーズベルトが、これほど怒ったのは、翌日、民主党
 の大物が、反ルーズベルト演説をやる予定だったからだ
 った。
  これに呼応して、ドル売りをしたと・・。
  この演説会は、「アメリカ自由同盟」の主催で・・、
  GMや、デュポン社グループだったからだった。
  また、この頃、ルーズベルトは、大統領選の再選を意
 識していた。
  また、ニューディールを誇らしげに語っていたが・・、
  実際は、経済が好転したわけでもなく、また、失業者
 が減った訳でもなく、
  さらに悪い事に、国家復興庁(NRA)の価格統制が、
 違憲という判断が出て、
  その違憲判断などを受けて、『アメリカの自由を損ね
 ているルーズベルト』という見方や意見が、アメリカ国
 内で広まり、強まっていた。
  民主党のスミスは、米ドル売りの翌日、演説で言った、
  「ニューディールは、マルクスとレーニンの事なので
 す」・・と、
  そして、また、「問題は、ワシントンか?モスクワか
 ?」と、
  また、「星条旗か? それとも、赤旗か? の選択な
 のです」・・と。
.
  そして・・、
.
  題:遅れた国=アメリカの「人種差別から戒厳令まで」・・
.
1943年6月20日~22日、アメリカ合衆国で・・、
  白人の人種差別意識が原因とする『戒厳令も出るとい
 う騒ぎ』が起きた。
  銃撃戦がアメリカ国内で行われた内戦状態だった。
  アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、ど
 うしても黒人の方々を、同じ人間と見れない、同じ人た
 ちと認めたくないという大統領だった。
  奴隷解放したという「リンカーンだって」同じだった。
  リンカーンが奴隷解放したからと言って、黒人の方々
 に対して、差別観のない・・、人間として平等な感情を
 持っているのかと言えば、それは違うと言えた。
  それは、間違いだった。
  そうではなかった。
  このルーズベルトにしたって、黒人の方々に対して、
 人間として平等という『当たり前の感情』を持っていな
 かった。
  ルーズベルトのこの様な人種偏見を持った、差別感を
 持った大統領は、日本人に対しても、その様な感情(有
 色人種蔑視感情)を持った。
  故に、第二次世界大戦が、より悲惨な戦争となった。
  このルーズベルトの「人種差別観」は、キリスト教に
 よって生まれ、醸成された。
  ルーズベルトが、日本へ「無条件降伏」の要求をした
 のも、チャーチル英国首相でさえ、その異常さにびっく
 りしたのだった・・が、
  その「無条件降伏の日本への要求」は、キリスト教の
 「シャローム」の教義から来ていた。
  この卑劣なキリスト教教義は、「すべての殺戮と破壊
 から平和が来る」という教義で・・、
  キリスト教の有色人種蔑視の教義とともに、すべての
 殺戮・破壊が伴った。
  原子爆弾の投下とともに、完全破壊活動の末の「無条
 件降伏の要求」という「卑劣さを極めた」。
  この様なキリスト教のマインド・コントロールされた
 ルーズベルトは・・、
  同じアメリカ国民である黒人の方々へも「差別観をむ
 き出し」にし、差別観を持って対した。
  ルーズベルトの政策の中に「黒人の方々は無かった」。
  ルーズベルトは、民主主義を解きながらも、その民主
 の民には、「黒人の方々は含まれていなかった」。
  この差別観は、あらゆる面で生じていた。
  その差別に耐えて来た黒人の方々は・・、
  1943年6月20日から22日にかけて、やむなく行動を起こ
 した・・爆発した。
  黒人の方々は立ち上がった。
  白人たちは、黒人暴動だと表現した。
  フランス革命に市民の方々が立ち上がったのと同様に
 気高い行動だった。
  黒人の方々の行動は、当然の結果だった。
  立場を守る行動は美しかった。
  その行動は、デトロイトで起きた。
  切っ掛けは、公園で、黒人の方と、人種に対して蔑視
 観を持つ白人と・・その個人的口論から始まった。
  これが、公園にいた周りの人々を巻き込んだ。
  騒ぎは大きくなった。
  それだけ、ルーズベルトの政策をはじめ、白人たちの
 虐(しいた)げが「極限に達していた」。
  そして、双方が入り乱れての騒ぎとなり・・、
  止まることなく広がって行った。
  それだけ、黒人の方々が、ルーズベルトに始まる虐げ
 の中にいた。
  白人の・・黒人の方々への蔑視感があった。
  同じだという平等観から、尊重するという態度や姿勢
 はまったく無かった・・それが原因だった。
  それまでには、例えば・・、白人地区をただ歩いてい
 たというだけで、黒人の方が殴打された、
  そして、死ぬまでの殴打をされた・・この様な事が頻
 発していた。
  この様な差別観から来る差別行為が、この様な騒ぎと
 なった。
  差別観を植え付けたキリスト教の罪だった。
  ルーズベルトは、21日に戒厳令を発令した。
  この様な段階まで問題化した。
  名誉な事ではなかった。
  文明国ではなかった。
  ここまで騒ぎは大きくなった。
  『正規の黒人部隊』が武器庫を襲うという事態も起き
 た。
  革命である。
  アメリカ軍が出動した。
  戦争である。
  銃撃戦が行われた。
  死者35人、重軽傷者700人が出た。
  不名誉な人種差別の末の戦いだった。
  まったく遅れた人種差別の国=アメリカだった。
  この後にも、この様な騒ぎが、度々、起き、
  そして、戒厳令が出されたりするという「アメリカと
 いう遅れた国」だった。
.
  そして・・、
.
2016年、大富豪だが、質素な生活を送っているので尊敬さ
 れている投資家のウォレン・バフェット氏が・・、
  数年前に、2016年の事を予測して言った・・、
  「2016年以降のある時点で、アメリカは、対外債務の
 負担に耐え切れなくなり、深刻な財政危機と、通貨危機
 を引き起こすだろう。
  アメリカの国内政治は、動乱状態になるかもしれない」
 ・・と。
  奇しくも、トランプという大統領が登場した。
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2017年01月15日

(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)

題:(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年3月14日、電信電話線私設条規(明治22年逓信省令
 第004号)が公布された。
  信書の秘密保護を訓諭(逓信省)
1889年3月14日、国税徴収法(こくぜいちょうしゅうほう、
 法律第 9 号国税徴収法)が公布された。
  旧国税徴収法(1897公布)は、1889年に制定された国税
 徴収法と国税滞納処分法とを統合したもの。
  この1889年(明治22年)の新たな国税徴収法・国税滞
 納処分法が制定されたが、
  これは、この年の明治憲法成立、同じく、この年の市
 制・町村制成立とも関連する。
  明治22税徴は、国税徴収に関する市町村の役割を明ら
 かにして、また、国税と一般債権との関係について、納
 税人が一般債権の負債により身代限りの処分を受けた時
 は、徴税令書を発している場合には納期に至らなくとも
 「他の債主に先立ち』税金を徴収すること(第14条)
  及び、その場合に、税金の納期限よりも1箇年前に「質
 入書入」をなしたものがあるときは、物件の売却代金を
 質入書入付き債権に充当してから税金を徴収すること(
 第15条)を既定した。
  さらに、租税の時効についても定めた。
  (獨協大学、小柳春一郎教授の論文などを参考にした)
1889年3月15日、大日本紡績同業連合会が、対罷工規約を制
 定した。
  大阪紡績を始めとする紡績会社の創業が進められるな
 かで、旧来の紡績聯合会も、1888年6月に改組されて、
 「大日本紡績同業聯合会」と改称した。
  その新しい規約第7条には・・、
  「罷工ヲナス等ノ場合」は、「速ニ其職工ノ姓名ヲ同
 盟中ニ通知」し、雇傭停止措置をとることとした。
  大阪天満紡績のストライキに先立つこと6ヵ月であるが、
 この規約は、当時、大阪紡績のストライキ対策に効果が
 あったという。
  (参考)ストライキとは、労働者による争議行為の一
 種で、労働法の争議権の行使として雇用側(使用者)の
 行動などに反対して被雇用側(労働者、あるいは労働組
 合)が労働を行わないで抗議することで、
  日本語では「同盟罷業」(どうめいひぎょう)、ある
 いは、「同盟罷工」と呼ばれ、一般には「スト」と略さ
 れる。
1889年3月16日、薬品営業・薬品取扱規則が公布された。
  薬品営業並薬品取扱規則(やくひんえいぎょうならび
 やくひんとりあつかいきそく、明治22年3月16日法律第10
 号)は、薬品の取り締まりや医薬品販売業に関する日本
 最初の法律で、
  1889年(明治22年)3月16日に公布、1890年3月1日から
 施行された。
  一般には「薬律」と呼ばれていた。
  人間の生活と医薬品は、極めて密接な関係があるので、
 医薬に関する法制(普通これを薬制と言う)も、相当、
 昔からあった。
  現在の薬事法の淵源は、この薬律、更に、それ以前の
 1874年(明治7年)の「医制」にまでさかのぼることが
 できる。
1889年3月22日、後藤象二郎が、逓信大臣に就任し、大同団
 結運動に亀裂が生じる。
  板垣退助らとともに愛国公党を組織し、民撰議院設立
 建白書の提出に参画し、のち、1887年(明治20年)反政
 府の大同団結運動を提唱し、巻き起こしていた。
  そして、機関誌「政論」を刊行するなどしたが
  1889年(明治22年)のこの年、黒田清隆首相に誘われ、
 政府に協力して、逓信相、農商務相などに就任して行く。
  若い時は、土佐藩士で馬廻(うままわり)格。
  義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが、東洋暗殺後
 は逆境にあり、
  藩論一変後の1864年(元治1年)に大監察となり、
  藩主・山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて、土
 佐勤王党を断罪、
  1866年(慶応2年)には、参政として開成館事業を運営し、
 長崎、上海に赴くなどして藩の「富国強兵」につとめた。
  坂本竜馬と相知り、幕府の第2次征長失敗後、
  竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化する
 ことにつとめた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:引っ掛け話・・日本が引っ掛かってしまう話・・
.
1915年1月18日、二十一カ条の要求
  日本は、第一次世界大戦に連合国側として参戦し、
  そして、ドイツと戦い、
  日本は、この戦争の勃発の翌年の1915年1月18日に、
  第一次世界大戦で戦う相手国・ドイツの「中国におけ
 るドイツの権益」を中国へ還付(かんぷ、返すこと)し、
  そして、日本への継承を中国(中華民国)に要求した。
  また、これは、満蒙の権益問題や、そこにいる日本人
 の保護についても話し合われ、決着した。
  日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に二十一カ
 条の要求を示した(五項と二十一条からなる)
  なお、この要求は、第一次世界大戦の終結後の1919年
 6月28日に開かれたベルサイユ条約において、連合国(ア
 メリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー・・
 など)に認められた(ここが大事)。
  第一項:「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継
 承を認めることと、
  芝罘(煙台)と膠済鉄道(青島~済南)をつなぐ新鉄
 道の敷設権を要求。(全4条)
  第二項:「南満州および東部内蒙古(内モンゴル)に
 関するする件」(全七ヵ条)
  その主なものは・・、
  (1)旅順・大連の租借期限を99ヶ年延長すること
  (2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること
  (3)日本人の居住と営業の自由
  (4)鉱山採掘権の承認
  (5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合は
 まず日本政府と協議すること
  (参考)この頃の状況を伝える史料・・、
  1)孫文は、「二十一カ条の要求は、袁世凱(えんせい
 がい)自身によって起草され、要求された策略であり、
 皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払
 った代償である」と述べている。
  因みに、孫文は、辛亥革命のとき、日本に資金援助と
 武器の援助を要求しており、
  そのかわり「満州をやる」と提案している。
  2)この頃、支那は、辛亥革命(1911年)によって、
 共和国が誕生していたが、非常に不安定な政権で、混乱
 が続いていて、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたかっ
 た。
  3)アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告
 書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求が
 はるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」
 とある。
  4)中国は、策謀が錯綜(さくそう)する国で、
  また、権謀術数(けんぼうじゅっすう、人を欺くため
 のはかりごと。種々の計略)の国で、
  日本が、要求をのませたと言われているが・・、
  実際は、この逆であることが明らかになっている。
  日本が要求したとなっているが・・、
  当時の袁世凱・中華民国大総統が、「国民に理解させ
 るために、この様な形で出してもらいたい」と言ってい
 た。
  日本側が、積極的に出したものではなかった。
  袁世凱から、日本側へ頼んでいるのだった。
  しかし、策謀の国・中国の裏の目的は、「中国の引っ
 掛け外交」だった。
  これは、当時の外務大臣の加藤高明の自伝に記述され
 ている。
  また、東郷茂徳外相が、巣鴨プリズンで書いた回顧録
 にも記されている。
  そこには、「日本の武力行使だと見せかけたい」とい
 う中国があった。
  また、日本が、不当な要求を、武力で脅して押して来
 たと、世界に見せたかった、公表したかった。
  事実、国際社会での日本の立場は、中国の思惑通りに、
 急に悪くなった。
  日本は悪者にされた。
  そして、このことから、中国は、次に、成立した条約
 も無効だと言い掛かりを付けた。
  正当に話し合って、国と国が結んだ条約であっても、
 簡単に反故(ほご、無駄に捨てる)にできるの戦略だっ
 た。
.
  そして・・、
.
  (関連)「田中上奏文」:
  日本が、引っ掛かった事件。
  2005年、日本が引っ掛けられていたという事件の無実
 が明らかになった。
  2005年の春、モスクワのロシアのテレビやラジオ放送
 が、「田中上奏文は、ソ連KGBの前身のОGPUが偽
 造したものだ」と放送した。
  80年ぶりに日本の「濡れ衣」が、剥がされた。
  卑怯な事に、東京裁判のアメリカなどは、その事を知
 っていた。
  それで、「田中上奏文は、証拠にも取り上げなかった」。
  日本への有利な「この偽造証拠」は隠された。
  この当時の日本の痛手は甚大だった。
  この事も世界へプロパガンダ(嘘宣伝)されて、世界
 が日本への敵意を強くした。
  ルーズベルトも「日本への敵意を強くした」と言って
 いる。
  日本は、今・現代でも、この様な卑劣なプロパガンダ
 (嘘宣伝)する中国や韓国に対し、必要な資金をしっか
 り使って反駁すべきだ。
  正しい事を、正義を、しっかり世界へ伝え、主張して
 行かねばならない。
  また、今でも、このはっきりした捏造された嘘話を、
 中国は、教科書や辞典などに「事実だ」と記載している。
  嘘教育をしている。
  盧溝橋事件も、中国共産党軍が起こした謀略だったこ
 とが明らかになっている。
  こんな事ばかりだ。
.
  そして・・、
.
1929年~1930年、中国と満州で、日本人叩(たた)きが、
 最高潮に達した。
  中国をアメリカは支援し、「金と武器を、無尽蔵に流
 入させていた」。
  だから、中国は強気だった。
  そして、何故か?この頃、アメリカでも、日本を排除
 する風潮が盛んだった。
  ここに共通するアメリカは、世界も繰っていた。
  中国の日本人たちのそれまでの努力は、無に帰されて
 いた。
  露骨な「日本の追い落とし行為」が行われていた。
  長く続く、アメリカと同じ様な「排日行為」だった。
  日本人たちは、日本総領事館へ訴えるが、まったく無
 駄だった。
  アメリカに繰られた中国は、その様な行動を変えるつ
 もりは無かった。
  満州には、20万人の日本人と、80万人の朝鮮の方々が
 居た。
  この時は、朝鮮は、日本との併合関係にあって、一体
 で満州を開拓しようと努力していた。
  その朝鮮の方々へも危害を加えて来た。
  1931年6月~7月には、中国を正式なピザを持って旅行
 中の日本軍人が、中国軍に捕まり、秘密裏に殺害された。
  これを知って、日本国内で世論は沸き立った。
  アメリカの仕掛けに、中国も、日本も、はまって行っ
 た。
  中国は、日本からの調査依頼を無視した。
  逆に、「日本のデッチアゲだ」と反駁した。
  何か?この後の時代にも、この様な中国の対応があっ
 た。
  中国は、いつもこんな風だ。
  1931年7月には、朝鮮の農民の方々(200名)が、中国
 人に虐殺され、迫害された(万宝山事件)。
  日本の本国政府は、それなりに努力しているが、中国
 の誠意は見られなかった。
  また、日本政府も国際協調・日中(支那)友好を大切
 として、実行の上がらない、空転が続いていた。
  現地の満州は、切羽詰まっていた。
  実効ある対応が、切実に必要な状態にあった。
  陰にアメリカが居る中国は、強気で、止(とど)まる
 ことを知らなかった。
  事が大きくなることを狙った行動が続いていた。
.
  そして・・、
.
1930年代、アメリカは、ソ連のスパイ網が、アメリカの政
 府中枢に張り巡らされて居るという情報を掴んだ。
  それで、アメリカは、アメリカ国内のソ連高官とモス
 クワとの秘密電信を解読する作戦を始めた。
  第二次世界大戦前の日本も、アメリカに傍受されてい
 て、完全に暗号は解読されていて、
  日本が困っていることなど・・すべての状況を手の内
 にして、日本の戦争へ至る道を繰っていた。
  また、ハワイへ向かう日本の連合艦隊の通信なども完
 全に傍受し、
  ハワイへ迫る艦隊の位置情報も知っていた。
  『奇襲攻撃』なんて、アメリカ・ルーズベルトの作り
 ごと。
  アメリカは、国内のソ連高官とモスクワとの秘密電信
 を解読する作戦を始めたが、
  この作戦は、アメリカ陸海軍情報部の通信傍受部隊に
 よってひそかに進められた。
  1943年、また、この年の後半は、特に、盛んとなって
 行った。
  この長い期間に、アメリカ政府内に、何と200人近いソ
 連側への情報提供者が居た。
  そして、政府中枢部のスパイが浮かび上がった。
  (今・現在も、アメリカは、盛んに日本を含む世界中
 に、傍受作業を行なっている、当然に・・、)
  ソ連は、信じられない様なスパイ網をアメリカに作り
 上げていた。
  第二次世界大戦の終了間際は、その頂点に達していた。
  (今・現在も、中国は行なっていて、アメリカの次期
 大統領のトランプは、中国を含むロビーイスト達などを
 含む情報員を、排除する考えを明らかにしている。
  また、日本にも、中国の組織員が多く潜入している事
 が知られている)。
  アメリカは、ソ連のスパイであったアメリカ政府高官
 の名前もつかんだ。
  (日本の今・現在の官僚にも、多く中国と連絡をとり、
 情報提供する官僚が多くいる)。
  大統領補佐官の「ロークリン・カリー」、財務省次官
 の「ホワイト」までがスパイだった。
  (日本も、今・現在、『国防の話』が安心して開けな
 い状態となっている)。
  この組織は、戦後、5年を経て崩壊した・・と言われて
 いる?
  スパイ網の解明に重要な役割を果たしたのが『KGB
 電信』だった。
  (参考)KGB:ソ連国家保安委員会(それんこっか
     ほあんいいんかい、略称:КГБ(カーゲーベ
    ー)は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在
    したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘
    密警察。
     軍の監視や国境警備も担当していた。
     東西冷戦時代にはアメリカの中央情報局(CIA)
    と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊
    と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行し
    た。
     日本での略称は КГБ を翻字した KGBが使わ
    れる。
  このホワイトからの政府高官のスパイへ、アメリカ政
 府内の200人近い者たちが、アメリカの情報を提供する
 『情報提供者』となっていた。
  アメリカの情報が、秘密情報が、大量に流れ出ていた。
  しかし、これでも、アメリカが、秘密流出のスパイ行
 為の裏付けとして解読に成功したのは2900通で、交信全
 体の数パーセントに過ぎず、
  判明した部分は、ほんの僅かとなっている。
  ソ連スパイだったアメリカ政府内にいた不明な高官
 「X」は、1943年5月、ワシントンでの、ルーズベルトと
 チャーチルの米英首脳会議にも加わっていて、
  この両首脳と意見を交換するほどの高官だった。
  アメリカ政府高官のハリー・ホワイトのスパイ発覚が
 明らかになって、急速に、すべての状況が明らかになっ
 て行った。
  アメリカでは、この衝撃が、アメリカを1850年代、極
 端な反共運動(マッカーシズム)へと突き動かした。
  そして、ルーズベルトの半世紀の後までも、まだ、ソ
 連スパイ網が出来ていた。
  (今・現在も、日本において、中国工作員が多くいる
 と判断されるリトマス試験紙が、
  今・現在、こんなに、中国経済がシッチャカメッチャ
 カで、中国崩壊の可能性が大きい時に、同じ言葉で、口
 裏を合わせて、同じ様な論理で、「平気だ、平気だ」と
 同じ様に言う者たち・・)
.
  そして・・、
.
1930年、アメリカ合衆国に「黒シャツ隊」が結成された。
  世界大恐慌の真っ最中のアメリカ社会で、仕事のない
 社会だった。
  この「黒シャツ隊」は、「白人が仕事を得るまでは、
 すべての黒人の職を奪うのだ」という行動目標が掲げら
 れていた。
  また、この頃、黒人の方々は、白人たちから「リンチ」
 を受けていた。
  死者が出るという激しいものだった。
  ルーズベルトは、この様な時、1933年に、アメリカ大
 統領に就任した。
  黒人の方々は、黒人の方々の人権を守るために、「全
 米黒人地位向上協会(NAABC)」を結成した。
  そして、1938年、リンチを取り締まる「連邦法」の成
 立を求めて行動した。
  しかし、ルーズベルトは無視した。
  ルーズベルト政権の支援も得られず、廃案とされた。
  リンカーンが「奴隷解放した」と言うが、リンカーン
 には奴隷解放の意思はなく、
  社会の流れが、長い黒人の方々の虐げの終わりを、さ
 すが、続けていられないという反省・反動の中で、終わ
 る流れの中にあっただけで・・、
  その自由になった黒人の方々を、アメリカは、どうし
 ようと・・そして・・、
  そして、「リベリア」というアフリカの土地を取得し、
  そのアフリカの地を独立させ、自由黒人の方々を棄民
 しようとした。
  そして実行した。
  リンカーンも賛成していた、この政策を推し進めた。
  この様な社会のアメリカのその後も、この1863年のリ
 ンカーンの奴隷解放宣言の後も、黒人の方々は虐げ続け
 ていた。
  何ら立場は改善されずに居た。
  最下層の仕事にしかつけず、与えられずにいた。
  ルーズベルト大統領の世界不況の時は、さらに、黒人
 の方々は虐げられた。
  この頃の黒人の方々の失業率は、5割以上、5割を超え
 た。
  白人優先だった。
  黒人の方々への差別は激化していた。
  そして、アメリカ社会は、黒人の方々の「職を奪う」
 風潮が荒れ狂った。
.
  そして・・、
.
  題:グローバル・スタンダードに合わせるという事で
   戦争への坂を下りて行った・・、
    国際協調一点張りでは無理・・、
.
1931年9月18日、満鉄線爆破事件が起きた。
  この事件が・・満州事変の引き金を引いたとされるが・・、
  国際法で、国家間の懸案を解決をするため「保障占領」
 が認められていて合法だった。
  この事件が起きる直前に、「中国側が、今後も、日本
 側の抗議に応じないなら、奉天の町を軍事占領(保障占
 領)する」と検討されていた。
  それが、日本の総領事館で検討されるほど、中国の行
 動は過激だった。
  また、この事件に至る悲劇だったのは、また、この事
 件の遠因となったのは、日本の経済的不安定を生み出し
 たウォール街を発信源とする世界恐慌だった。
  そして、日本の経済的不安定を生みだした「このウォ
 ール街を原因とする恐慌」に対する索=「金解禁」の政
 策だった。
  浜口雄幸を首相とする浜口内閣の大蔵大臣の井上準之
 助は、「グローバル・スタンダード」に合わせるという
 考え方だった。
  (今・現在も「グローバリズムが良いのだ」というア
 メリカを発信源とする花が咲いているが?)、
  そこで、この井上準之助・大蔵大臣は、前記の様に、
 世界がウォール街を震源とする「株の大暴落の大嵐の中」、
  また、金本位制が、世界で崩れつつあるという中、
  井上大蔵大臣は、グローバルだと、それが良いのだと
 の理想を掲げて、その理想のなせる罪=金解禁を行なっ
 た。
  その結果、日本経済は「めちゃめちゃ」になった。
  奈落のどん底へ突き落とされた。
  やってはいけない、下劣なるグローバル協調路線を突
 き進んでしまっていた。
  日本は、必死に国際協調しよう、しなければとしてい
 たが、日本を潰(つぶ)したいというアメリカの思惑は
 変わらなかった。
  そして、この後、悲劇の「リットン報告書」が出て来
 る。
  グローバル主義には、「日本の伝統の否定」があり、
  また、「日本の文化の否定」があり、
  「日本の天皇制の否定」があった。
  また、この事について、コミンテルンも同調していた。
  そして、国内に同調する大学の教授陣が居り、
  また、取り込まれた官僚と、その上の高級官僚、
  そして、外務省官僚が居て(今・現在と非常に似てい
 た)、
  戦争への坂を、アメリカの頑(かたく)なな方針と共
 に降りて行った。
  「抵抗するものは排除」としながら戦争への坂を降り
 て行った。
  さも、「異教徒は殺せの排除思想」の行動だった。
  (参考)保障占領:ほしょうせんりょう、条約上の一
    定条件の履行を、相手国に間接に強制するために、
    相手国領域の一部 (ときには全部) を占領するこ
    と。
     講和条約が発効し、交戦国間に平時関係が成立
    したのちも、条約上の義務、たとえば、賠償支払
    義務、その他の条約実施を確保するために行われ
    る。
.
  そして・・、
.
1931年9月、フーバー大統領の政権に居た国務長官のスティ
 ムソンは、フーバー大統領へ二つの案を提示した。
  「経済制裁を行なって、日本を圧迫する」という案と、
 「国際世論を喚起して、警告する案」・・だった。
  スティムソンは、フーバー大統領へ、前者の「強行策
 の経済制裁」を勧めるのだった。
  しかし、フーバー大統領は、冷静に、次のように言っ
 た。
  「いかなる国も経済を破壊され、国が飢える様な制裁
 に、素直に応じるとは思えない」、
  「制裁は、銃撃を伴わない戦争行為である」・・と、
  また、フーバー大統領は言った・・、
  「イギリスやフランスも中国に利権を持っていて、日
 本と同じことをしている」、
  「日本に仲間意識も持っている」・・と。
  日本だけを経済制裁をするという『論理の公正さが無
 い』と指摘した。
  フーバー大統領の偉い所は、『自分たちも同じことを
 やっている』と考えた所だった。
  アメリカは、「フィリピンで、甘い汁を吸っていた」。
  そして、フーバー大統領は確かめた。
  「経済制裁の延長線上にある戦争の可能性について、
 真剣に考慮した。
  そして、実際、極秘で、対日参戦の意志を確認した。
  アメリカは、ルーズベルトの前の「フーバー大統領の
 時」でさえ、「日本との一戦の考え方が存在して居た」、
 「日本と戦う」の考えが存在していた。
  このフーバー大統領の後のルーズベルト大統領が、「
 日本に、真珠湾攻撃の奇襲攻撃をされたから、第二次世
 界大戦が起きた」と、急に、戦争に至った様に言うのは、
 『下手な茶番劇』だ。
  下手な演技はするな・・と言いたい。
  フーバー大統領は、この時、「イギリスに、戦争開始
 の意志を確かめた」、そして、否定されている。
  また、フーバー大統領は、「陸海軍長官に、日本に勝
 利することが出来るか?」と、その可能性を確認してい
 た。
  そして、フーバー大統領は、「日本と開戦すれば、ア
 メリカの植民地のフィリピンが占領されるだろう」と予
 測していた。
  また、「イギリスの参戦が望めないと・・参戦否定さ
 れているので、イギリスの参戦が望めないなら、戦争は
 長引き、5年間が戦争期間になるだろう」と予測し、
  「その為の戦争準備が必要である」としている。
  そして、急な開戦は無理として・・、
  「戦争をするのは、問題外」としている。
  スティムソンは、フーバー大統領の考え方に「完全に
 一致した訳ではなかった」・・が、「戦争は、回避しよ
 う」という考えに至った。
  スティムソンの考えは、「経済制裁で戦争に至ること
 はない」「経済制裁で日本の行動を止められる(自分た
 ちだけは、甘い汁は、吸い続ける・・だった)」。
  日本は、「日本から自分たちの資本を持って行って」、
 その資本を投下して、そして、共に豊かになろうという
 方針だった。
.
  そして・・、
.
  題:実質、戦争だという策を、アメリカは採用した。
.
1931年10月、アメリカの国務長官が、二つの提案をした。
  そして、これに始まって・・、
  1941年7月25日、フーバー大統領が、「戦争になるよ」
 と言った経済制裁の、最も強い制裁である制裁が、ルー
 ズベルト大統領によって、日本に加えられた。
  それは、アメリカにある「日本の資産が凍結された」
 のだった。
   第37代大統領であるフランクリン・ルーズベルト大
 統領の前の大統領であるハーバート・フーバー大統領は、
 回顧録に書く・・、
  フーバー大統領の時の国務長官であるスティムソンは、
 1931年10月の段階で、日本の行動を止めるための提案を
 二つした。
  一つが、国際社会による経済制裁であり、
  もう一つが、外交と国際世論による説得だった。
  そして、フーバーは言う・・「私は、もちろん後者を
 望んだ。
  だが、国務長官(スティムソン)は、外交官と言うよ
 りも戦士の様であり、
  『制裁で解決できると信じていた』。
  国務長官(スティムソン)は、制裁が、戦争につなが
 ると考えなかったようだが・・、第一次大戦の経験に照
 らせば・・大国に対する経済制裁は、「実質的な戦争を
 意味していた」。
  スティムソンは、強硬策を主張した。
  そして、このスティムソンの考え方は、ルーズベルト
 に継承された。そして、
  1940年6月、ルーズベルト政権の陸軍長官に、このステ
 ィムソンが迎えられた。
  ルーズベルト大統領の政策が、より一層、日本への強
 い経済制裁へとエスカレートして行った・・そして・・、
  1941年7月25日、アメリカ国内の「日本の資産が凍結さ
 れる」という最強の制裁をアメリカは日本へした。
  アメリカは、常に、強硬策を日本へ加えるという『強
 者の立場』と『強者の論理』の中に居た。
  フーバー大統領ではないが、ルーズベルト大統領は、
 戦争を仕掛け行為をするのに夢中な中にいた。
.
  そして・・、
.
1932年7月2日、ルーズベルトは、民主党の大統領候補の指
 名を受け、シカゴで『ニューディール』の呼びかけを行
 っていた頃、アメリカの首都ワシントンのアメリカ議会
 周辺では、2万人以上の退役軍人らが、居座りテントで埋
 まっていた。
  この人たちは、第一次世界大戦後、帰還しても仕事が
 無く、極貧の生活を送らざるを得ない方々だった。
  不況の最大の犠牲者の方々だった。
  政府が約束した「退役年金のボーナス」を即座に支払
 うようにと求めていた。
  通りや空き地、そして、道路に面したビルなどを占拠
 していた。
  1932年7月28日、朝、群衆の投石で始まった小競り合い
 は、警察側の発砲で退役軍人の2人が即死した。
  これがきっかけで、群衆の5000人以上が、レンガやこ
 ん棒を手に暴れ回って、手が付けられない状態になった。
  午後になって、警察は、フーバー大統領に、軍の出動
 を要請した。
  アメリカ陸軍参謀総長のダグラス・マッカーサー(後
 のGHQ最高司令官)は、直ちに、軍を出動させ、鎮圧
 を命じた。
  6両の戦車も出動して、銃剣を付けた歩兵大隊、そして、
 サーベルを抜刀した6縦列の騎兵隊が出動するという物々
 しい市街戦もどきとなった。
  テントなども焼き払われた。
  内乱の様相だった。
  アメリカ国民の方々は、一層、不安と恐怖に陥(おち
 い)った。
  群衆には革命を起こしたいという意図があったと言わ
 れた。
  作戦に参加したアイゼンハワーやパットンは、英雄と
 祭り上げられて行く。
.
  そして・・、
.
1933年、アメリカの失業者数が、最悪の1400万人に膨れ上
 がった。
  因みに、1929年の4年前は155万人・・で、
  1930年は、434万人だった。
.
  そして・・、
.
1933年2月15日、ルーズベルトが狙撃された。
  アメリカ大統領に就任する約2週間前、ルーズベルトは
 狙撃された。
  アメリカは、この様な社会不安の中にあった。
  破壊的な不況が社会をむしばんでいて、アメリカ国民
 の方々は、恐怖に捉(とら)われていた。
  「社会改革。さもなくば革命を」という事を、初期の
 ルーズベルト政権を支えたアドルフ・バーレは警告した。
  この狙撃された日、ルーズベルトは、友人のヨットで
 カリブ海を周遊していた。
  そして、国民や支持者に顔を見せ、挨拶したいと、マ
 イアミ公園に立ち寄ることになった。
  会場は、新大統領を、一目、見たいと群衆が溢(あふ)
 れた。
  そこに警護官に警護されたルーズベルトのオープンカ
 ーが現れた。
  後部座席のルーズベルトは、群衆の歓声に手を挙げ応
 えた。
  ルーズベルトは、簡単な挨拶ぐらいで立ち去ろうと思
 っていた。
  近くには知人のシカゴ市長のアントン・サーマック氏
 が居た。
  サーマック氏が、ちょうど、ルーズベルトへ話し掛け
 た時、鋭い銃声がした。
  銃弾は、サーマック氏の胸を貫いた。
  ルーズベルトからわずか10数センチの所だった。
  サーマック氏は、これで死亡した。
  群衆の数人も、流れ弾で重傷を負った。
  青年の単独犯行ということで、大きな政治事件になら
 なかった。
  この様な血なまぐさい事件が、この頃、アメリカでは
 頻発していた。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第37代ア
 メリカ大統領就任式に臨んだ。
  ルーズベルト大統領は、大統領就任の時点で、すでに、
 不埒(ふらち、道理が外れていて、けしからぬこと)に
 も、戦争を利用した景気浮揚策が、彼の頭の中にあった。
  アメリカ国民の方々の8割以上が「戦争はしない」とし
 ていて、また、ルーズベルト本人も、大統領選挙期間中
 に、何度も何度も「戦争はしない」と宣言していた。
  しかし、その様に宣言していたのに、ルーズベルトの
 頭の中には、世界恐慌から脱却するためには戦争需要を
 利用しようという考えがあった。
  ルーズベルトの前任の大統領のフーバーは、ルーズベ
 ルトへ、「国際経済を重視すべき」と訴え続けた。
  しかし、ルーズベルトは、フーバーを避け続けた。
  世界経済とともにアメリカ経済も転落の一途をたどり
 続けていた。
  取付け騒ぎが連鎖的に起きていて、銀行は、次々と閉
 鎖状態に追い込まれていた。
  アメリカ経済は、急速な悪化の中にいた。
  フーバーは、1933年2月、退任まであと10日しかない時
 点で、ルーズベルトへ手紙を書いた・・、
  「不況の問題は、人々の心の中に潜んでいる。
  将来への不安な増大し、今や危険点に達している。
  新大統領である貴方(ルーズベルト)の確約こそ人々
 に自信をよみがえらせ、購買欲を引き起こし、景気を回
 復させることが出来るのです」・・と。
  ニューヨークで、風刺劇を観劇中に、この親展の手紙
 を手渡されたルーズベルトは、それを無視しただけでな
 く、2週間も返事さえ書かなかった。
  1933年3月4日、ルーズベルトは、大統領就任式に臨ん
 だ。
  ルーズベルトは演説で言った・・、
  「偉大な国は必ずや復活し、栄える。
  恐るべきは恐慌です。
  必要なのは行動であり、重視すべきなのは失業者を仕
 事に就かせることなのです。
  この危機に直面し、私は、戦争をも想定したような幅
 広い権限を議会に求めるでしょう。
  実際、外国の侵略を受けた時に与えられるであろうほ
 どの強大な権限をです」。
  民衆へ言った。
  当時、急速に普及したラジオで、多くのアメリカ国民
 の方々がこれを聞いた。
  これを聞いたルーズベルトの妻のエレノアは、ルーズ
 ベルトが演説で『戦争を想定した』と言ったとたん、聴
 衆が思わず歓声を上げ、拍手喝采(かっさい)した事に
 「恐ろしい印象を受けました」と語っている。
  まったく、ドイツのヒトラーの民衆を煽(あお)る『
 アジ演説』と同じ、ルーズベルトの演説だった。
  取付け騒ぎ(とりつけさわぎ)とは、特定の金融機関
 や金融制度に対する信用不安などから、預金者が預金・
 貯金・掛け金等を取り戻そうとして(=取り付け)、急
 激に金融機関の店頭に殺到し、混乱をきたす現象のこと。
  アジ演説は、民衆を扇動する演説。
..
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2017年01月13日

(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)

題:(増補版)481E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年2月、全国で憲法発布の祝賀会が行われる。
  理解していない人も多かった。
  1889年2月9日:東京では、11日日の憲法発布をひかえ
 てその準備のため、言語に絶する騒ぎを演じていた。
  至るところで奉祝門(ほうしゅくもん)、イルミネー
 ション(照明)や行列等の祝賀行事が行われた。
  だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容を存じな
 いのだ。
  1889年2月11日(東京)本日、憲法発布。
  天皇陛下の前には、やや左に向かって諸大臣、高官が
 整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなけ
 れば立場をかえて将軍であったはずの徳川(田安)亀之
 助氏(徳川家達氏)や、
  ただ一人(洋服姿でいながら)なお、正真正銘の旧い
 日本のまげをつけているサツマの島津侯(忠義=島津久
 光の長男で、開成所を創設、藩の近代化を進め、また、
 1867年、密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力した)を
 認めた。
  珍妙な光景だ!‥‥残念ながらこの祝日は,忌(い)
 まわしい出来事で気分がそがれてしまった――森文相の
 暗殺である。
  1889年2月16日(東京)日本憲法が発布された。
  新聞が、すべて満足の意を表している。
  東京帝国大学で26年間医学を講義したドイツ人医学者
 ベルツの日記より抜粋した)
1889年2月12日、黒田清隆首相が、地方長官に超然主義の
 方針を訓示した。
  超然主義は、他の動きには関知せず、自分の独自の立
 場から事を行うという主義で・・、
  大日本帝国憲法下で、藩閥官僚政府が、政党の影響を
 受けずに政治を運用しようとした政治姿勢を言った。
  この時の黒田清隆首相が、地方長官を鹿鳴館に集めて
 演説した。
  その中で、「政府は、常に一定の方向を取り、超然と
 して政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず」
 とのべたことから『超然主義』が一つの政治姿勢をあら
 わす言葉として使われるようになった。
  大日本帝国憲法は、政党内閣を制度として認めていな
 い。
  藩閥官僚、とりわけ山県有朋系の官僚内閣に政党政治
 から距離を置く傾向があった。
  (薩長閥の均衡と交代を基調に、組閣や内閣運営を行
 なう体制としたいという意向だった)。
  しかし、政党の政治的力はしだいに強まって行った。
  その後、超然主義を持続することは困難となった。
1889年2月13日、海軍治罪法が公布された(2月15日説あり)
  海軍治罪法は、大日本帝国海軍の軍人を主な対象に施
 行された軍法で、
  1884年(明治17年)に、海軍治罪法(明治17年3月21日
 太政官布告第8号)として制定され、
  1889年(明治22年2月15日法律第5号)に全部改正され
 た。
  1922年(大正11年)に「海軍軍法会議法」(大正10年
 4月26日法律第91号)が制定され、それにより廃止された。
  構成は・・、
  第一章:総則、第二章、軍法会議ノ構成、第三章:軍
 法会議ノ権限、第四章:海軍検察、第五章:審問、第六
 章:判決、第七章:再審、第八章:復権、第九章:特赦
1889年2月15日、秋田新報(秋田日報)をあらためて、秋田
 魁新報(あきたさきがけしんぽう)が創刊された。
  東北地方で最も長い歴史を持つ新聞で、首相になる犬
 養毅が主筆を務めていた時もあった。
1889年2月23日、『女学雑誌』が、皇室典範を批判した。
  女学雑誌は、1885年7月に、「女学新誌(1884年)」の
 後身として創刊された女性向け婦人雑誌で、
  (婦人論が活発になった風潮をみて「女学新誌」を、
 1年で廃刊して「女学雑誌」を創刊した)
  編集のほとんどを明治女学校の校長・巌本善治が担当
 し、
  男女同権論や自由恋愛論など、婦人解放の立場に立っ
 た啓蒙的な活動をしていたが、
  その後は、北村透谷、石橋忍月、山路愛山、内田魯庵
 らを登場させ、明治浪漫主義文芸運動の母体となった 。
  明治20年代(1887年代)のオピニオン・ジャーナリズム
 の一翼を担った。
  1904年(明治37年)2月、526号で廃刊となった。
  (1903年には『文学界』が分離独立していった)
1889年2月、『頓智協会雑誌』が、憲法発布に合わせ、宮武
 骸骨が程度の悪い絵などを使い、
  寓意画入りの「頓智研法発布」論説を掲げ、 不敬罪で
 発禁処分を受けた。
  (同誌創刊者で編集発行人の宮武外骨(みやたけがい
 こつ、20歳)は、3月4日に、収監された)
1889年2月、全国で、憲法発布に関する錦絵出版が盛んにな
 る。
1889年3月2日、東京図書館官制を公布し、東京図書館を文
 部省直轄機関として独立させた。
  東京図書館官制公布によって東京教育博物館から分離
 し、独立の図書館となるが、
  財政や施設が、ともに貧弱であり、国立図書館という
 にはまだまだ不十分でだった。
1889年3月9日、参謀本部条例、海軍参謀本部条例が公布さ
 れた。
  参謀本部は、創設以来、日清戦争に至るまで、制度は
 しばしば改正された。
  外征ができるための機構の改編だった。
  1886年(明治19年)、参謀本部は、陸海軍を統一管掌
 する機関となった。
  そして、参謀本部に陸軍部と海軍部が置かれた。
  1888年(明治21年)に、陸海軍を統一管掌する参謀本
 部を参軍と改めた。
  そして、その下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部を置く
 制度となった。
  機構の充実のための措置だった。
  翌年の1889年に、参軍制は廃止され、参謀本部条例が
 制定されて、陸軍の軍令機関として参謀本部は残り、
  海軍の軍令機関は、海軍大臣に属する海軍参謀本部に
 機構を縮小された。
  1889年5月、陸地測量部条例が公布された。
  参謀本部の一局であった測量局は分離され、本部長直
 属の独立官庁として、陸地測量部となった。
  その主務は、「陸地測量を施行して兵要地図、及び、
 一般の国用に使うべき内国図を製造し、修正して正す業
 務、そして、その他の量地に関する事を行なった」。
  そして、下部組織に三角・地形・製図の三科、および、
 修技所を置いて、測量局の業務を引き継いだ。
  この時の組織改正によって、全国規模で行われる測量
 については、行政上・国防上の見地から、陸地は陸軍に、
 水路は海軍で、それぞれ統括するという方針が組織面か
 ら確立された。
  これは、1945年の終戦まで継続された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのこと・・、
.
1924年7月1日、アメリカは、卑劣にも「排日移民法」を施
 行(しこう、実際に行うこと。政策などを実行すること)
 した。
  アメリカは、日本を、国家として貶(おとし)めた。
  また、アメリカは、日本人を人種として貶めた。
  また、アメリカは、日本の文明を貶めた。
  アメリカは、その様な、あらゆる点で、日本を貶める
 法規を作った。
  日本へ、そして、日本人へ、強い劣等意識を突き付け
 た。
  何ら、その法の根拠はなく、ただ、感情的に差別した。
  根には、キリスト教の有色人種蔑視の教義・考え方が
 あった。
.
  そして・・、
.
1927年(昭和2年)3月、昭和金融恐慌(経済恐慌)が発生
 した(日本経済)。
  因みに、世界大恐慌は1929年に始まった。
.
  そして・・、
.
1928年、アメリカ大統領のフーバーが、「貧困という言葉
 が無くなるだろう」と豪語するくらい、アメリカは好景
 気だった。
  しかし、この時、アメリカ景気は、曲がり角に来てい
 た。
  第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは、大戦への
 輸出によって発展した重工業の投資、
  帰還兵による消費の拡張、
  モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍
 進、
  ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、
  同地域への輸出の増加などによって・・「永遠の繁栄」
 と呼ばれる経済的好況を手に入れた(この後の時代のル
 ーズベルト大統領も第二次世界大戦を引き起こして利用
 した戦争景気)。
  1920年代前半に、既に、農作物を中心に余剰が生まれ
 ていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題
 は発生しなかった。
  しかし、農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの
 復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。
  また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国
 の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市
 場からの離脱などにより、アメリカ国内の他の生産も過
 剰になって行った。
  また、農業不況に加えて、鉄道や石炭産業部門も不振
 になっていた。
  1927年に、ジュネーブで行われた世界経済会議では、
 恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審
 議・採択された。
  商業では、関税引き下げ、
  工業では、コストダウン目的の産業国有化、独占禁止
 と生産調整の国際協定、
  農業では、方法の改良と資金の貸付について議論され
 た。
  しかし、決議そのものは、各国議会から無視されてし
 まっていた。
  3月には昭和金融恐慌が起きた。
  そして、1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズが
 信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
.
  そして・・、
.
1929年7月30日、世界恐慌のきっかけとなるニューヨーク・
 タイムズ紙が信用収縮に直結するような重大事を書いた。
  ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返
 還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。
  他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額
 で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出
 しであった。
  記事によると、請求されている資産のうち、およそ500
 万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また、
 100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命の
 ときから不法に預けられているものであった。
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  そして・・、
.
1929年10月25日、この日のニューヨーク・タイムズ紙が、
 「株式市場は、史上最大の破壊的な落ち込みに襲われた」
 と、大見出しで歴史的大暴落を報じた。
  この約2か月後、アメリカのホワイトハウスが火事に
 なり西棟が焼け落ちた。
  アメリカ国民へ、一層、暗いイメージを与えた。
.
  そして・・、
.
1929年12月24日、クリスマスイブのこの日の夕刻、ホワイ
 トハウスが火事になり、5時間後には瓦礫(がれき)の山
 になり、分厚いコート姿のフーバー大統領は、ただ呆然
 (ぼうぜん)と立ち尽くしていたと記録されている。
  ホワイトハウス西棟が焼け落ちた。
.
  そして・・、
.
1932年11月、ルーズベルトは、前任の大統領のフーバーと
 の大統領選挙に勝った後、11月に、ホワイトハウスに、
 わざわざ、立ち寄った。
  フーバーとルーズベルト、二人が、直接、顔を合わせ
 たのは、この時が初めてだった。
  ルーズベルトは、上機嫌だった。
  フーバーは、足元を見つめ、苦虫を噛み潰したような
 顔をしていた。
  重苦しい雰囲気を破ったのはフーバーだった。
  フーバーは、アメリカの現状や課題などを語りだした。
  約1時間にわたって語り続けた。
  「第一次世界大戦で最大の債権国となったアメリカ」
  「世界が大不況にある今、その債権の借金を取り立て
 ては駄目で、一時的にもあきらめなければならない」
  「不況の悪循環は、避けねばならない」などと。
  同行していたルーズベルトの政策顧問のレイモンド・
 モーレイは、「フーバーが、具体的な数字を含め、完全
 に問題点を理解しており、その緻密(ちみつ)さに圧倒
 された」と証言している。
  その間、ルーズベルトは、まるで素人のような質問を
 繰り返すばかりで、問題点や、論点を理解していなかっ
 たという。
  アメリカは、間違った選択をしたと言える。
  今、2017年、オバマ大統領から、トランプ大統領へと
 バトンが渡されて行くが、この様な間違いのバトンタッ
 チではないことを・・祈る。
  ルーズベルトの様な、「問題点や論点を本当の意味で
 理解していないで、トンチンカンな素人に毛が生えたく
 らいで大統領になった」という・・過去の悪い事例の様
 にならない様にと・・祈る。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代の
 アメリカ大統領に就任した。
  ルーズベルトは就任した際、ヘンリー・モーゲンソウ
 を連邦農業審議会の議長に指名した。
  そして、翌年の1934年に、財務長官のウィリアム・ウ
 ッディンが病気で辞任すると、このモーゲンソウを、後
 任の財務長官に指名した。
  そして、ルーズベルトが、この財務長官のモーゲンソ
 ウに言った言葉が記録されている。
  それは・・、「私〈ルーズベルト)はジャグラー(曲
 芸師)なのだ。
  右手と左手がまったく別々の動きをする。
  例えば、欧州向けに特定の政策があっても、北米や南
 米では、まったく正反対の政策を、平気で実施すること
 が出来る。
  私は、矛盾だらけで、ミスリード(失敗の間違った政
 策〉だってする。
  戦争に勝つためなら・・嘘だってつく」。
  この言葉は、本当に、アメリカの政治を現わしている。
  アメリカの利益になれば、嘘だってつき、弱い者でも
 誰でも暴力をふるう。
  領土や、金を、利益を奪う・・である。
  歴史学者のウォーレン・キンポールが、ルーズベルト
 を軽蔑して「曲芸師(ジャグラー)」と呼ぶ。
.
  そして・・、
.
1945年2月4日少し前、ヤルタ会談が開かれる前の事である。
  アメリカが、地中海方面での会談を望んだ。
  しかし、スターリンは、「長旅が禁じられている」「
 気候の変化がよくない」などと、のらりくらりと会談の
 出席を断り続けた。
  ドイツが敗退し始めると、ソ連の東欧占領が確実にな
 って行った。
  逆に、アメリカのルーズベルトは、そうした状況に焦
 っていた。
  早急に戦後を協議する必要性に迫られていた。
  スターリンは、ソ連軍の進撃があればあるほど、占領
 地域が拡大して行った。
  協議の開催が、遅ければ遅いほどソ連に有利に働いた。
  スターリンも、その様に判断していた。
  ルーズベルトは、この頃、体が、体調が、最悪な状態
 にあった。
  焦るルーズベルトに、イギリスのチャーチルが「最悪
 の場所」と呼んだヤルタに向かうしか選択の道は残され
 ていなかった。
  ヤルタはクリミアの都市で、クリミア半島南端に位置
 し、黒海を臨んでいる地。
  スターリンには近いが、体が弱っているルーズベルト
 には遠かった。
.
  そして・・、
.
1945年2月8日~2月11日、ヤルタ会談が行われた。
  ヤルタは、ソ連領のクリミア半島南端に位置し、黒海
 を臨む地だった。  
  このヤルタ会談は失敗だった。
  ドイツがソ連領から退却し始めて、それで、ソ連は、
 自信を付けたのか? ヤルタ会談以降のソ連は、特に、
 横暴となった。
  ヤルタという遠隔地に赴(おもむ)いたアメリカ大統
 領のルーズベルトには、その出張は重荷だった。
  その様なルーズベルトの印象が、スターリンにその様
 な横暴な態度をとることをさせたのか?
  何しろ、チャーチルが言うように、ヤルタは「最悪の
 場所」だった。
  この事からも、この地が会談場所として選ばれた事は、
 ソ連の勝利の一端が伺(うかが)える。
  ヤルタ会談から2か月後、駐ソ連大使のハリマンは、是
 非、帰国したいと、アメリカ国務省に願い出た。
  すると、国務長官のステティニアスは、「持ち場を離
 れることは許されない」と拒否した。
  サンフランシスコの国連憲章会議に出席するソ連外相
 のモロトフに同行するという名目で、ハリマンは、4月19
 日に、ワシントンに来ることが出来た。
  早速、翌日・1945年4月20日、ハリマンは、ホワイトハ
 ウスを訪れ、新大統領のトルーマンに会った。
  ルーズベルトの葬儀から5日後だった。
  国務長官のステティニアスと国務長官代理のグルーが
 同席した。
  ハリマンは言った、「大統領、今、ヨーロッパでは新
 たな野蛮による侵略が起こりつつあります」・・と。
  「ソ連に対する幻想を捨てなくてはなりません」と。
  ハリマンは、ヤルタ会談以降、ソ連が横暴となり、欧
 州解放宣言にもかかわらずソ連占領地では、傀儡(かい
 らい)政権が樹立され、どんどん共産化が進んでいる・・
 と報告した。
  ハリマンは、1945年5月にも、再度、帰国し政府首脳に
 訴えた。
  「日本をどうするか?」の話を乗り越えた、大きな懸
 念が生まれていた。
  そして、日本を、この様な状態にした行為が正しかっ
 たのか?
  また、良かったのか?
  また、日本を、完全破壊するのか?
  ・・の疑問が・・、
  アメリカ政府首脳の頭に去来していた。
  国務長官代行のグルーは、眠れぬ夜を過ごした。
  この様な時の流れの中で、ルーズベルトが進めてきた、
 20億ドルもの巨費を投じて開発した原子爆弾が完成しよ
 うとしていた。
  新大統領トルーマンと、陸軍長官スティムソンと、ト
 ルーマンに大きな影響力を持つ新国務長官のバーンズら
 3人は、それを、原爆を日本に投下すべきかの国際法違反
 行為の原爆投下の選択をどうするかが迫られていた。
  グルー等は、「日本の国体維持・天皇制維持の承認を
 する」・・それで、「原子爆弾投下は、一種の脅し」で、
 戦争の早期終結を計る・・という考え方にあった。
  そして、その提案をした。
  だが、トルーマンの決断に影響を与えたのは・・バー
 ンズだった。
  トルーマン大統領をはじめ、アメリカの政府首脳たち
 は、このバーンズの強力な原子爆弾投下論に対する意見
 を持っていなかった。
  結局、このバーンズの投下論が、アメリカ政府意見・
 判断となった。
  バーンズは、1945年5月28日に、核融合の研究者で、原
 爆製造計画に携わってきたシカゴ大学のレオ・ジラード
 と会った。
  手にはアルバート・アインシュタインの推薦状を持っ
 ていた。
  サウスカロライナのバーンズの自宅を訪ねていた。
  ジラードは、最初、トルーマン大統領に面談を求めた
 が、トルーマンからは、バーンズに会ってくれと言われ
 ていた。
  ジラードは、15ページもの書類をバーンズへ渡し、原
 爆開発に携わった科学者の総意を記した内容を説明した。
  それは、『ナチズムの終焉のために開発してくれ』と
 言われ、ユダヤの方々の研究者が多く参加し、組織され
 た開発組織によって開発されたのだった。
  日本へ投下すべきとして開発されたのではない。
  「(ドイツが降伏して)戦争終結が間近な今、原爆投
 下の意味はない」。
  「原爆投下は単なる破壊でしかない」。
  「原爆の使用によって、戦後、ソ連などと一層の開発
 競争を強める可能性もあり、使用は、まだ、控えるべき」。
  バーンズは、その話を聞き、信じられないという顔を
 した。
  そして、言った・・、
  「あなた方は何もわかっていない。巨額の開発費に見
 合う結果を出さずに、次の研究への予算が議会を通ると
 でも思うのですか?」・・と反論した。
  バーンズは、結果を、成果を出さないと政治問題化す
 ると言った。
  スティムソンやグルーの脅しに使うという意見に対し
 ても、
  バーンズは、「そんな警告を与えたら、目標地点に捕
 虜の米兵を送り込むだろう」
  「原爆が不発(使わない)で終わったら、原爆が不発
 だったと逆宣伝されるに違いない」・・と。
  そして、ポツダムでの会談へ向かうトルーマンらのア
 メリカ政府首脳たちは、この時には、「京都、広島、新
 潟」の三地点のどこに投下するか?・・の話になってい
 た。
.
  そして・・、
.
  アメリカのやった事。
  アメリカは、国際法で「してはならない」とされた『
 非戦闘員(民間人)の殺戮』をした。
  民間人殺戮を目的とした「原爆投下」や「じゅうたん
 爆撃」など・・、
  そして、負けた国のプライドや、文化や価値観を、土
 足で踏みにじった。
  そして、敗戦国を二度と立ち上がれないようにした。
  明らかに、その様にしようという意思でもって行った。
  未発達の昔でも、非武装の婦女子を大量に、無差別に
 殺戮はしなかった・・という、人類の『最低の掟」を踏
 みにじった。。
  このやってはならない卑怯・卑劣な事を、アメリカは
 行なった。
  アメリカとは、その様な国である。
  アメリカは、自分が正しいのだと、そして、自分こそ
 正義だと、「独善的な考え方」で、事を処理し、そして、
 外交をした。
  自分たちだけに都合の良いイデオロギーや、歴史解釈
 をやった。
  これが正しいのだと、他国に一方的に押し付けた・・
 また、押し付け続けた。
  納得しない者・・国は・・異教徒とされ・・
  「異教徒は殺せ」とキリスト教の考え方となった。
  また、今も・・多分に・・その中にいるアメリカとな
 っている。
  納得できない・・お前が・・悪いのだ・・と・・、
  また、戦争に勝つためなら何をやってもいいのだとい
 う考え方で・・、
  「戦争に勝つためには手段を選ばず」・・と、
  非武装の子供や女性を含む一般人を・・大量に無差別
 に虐殺した。
  そのアメリカの歴史が、累々と積み重なって来ている。
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々は何千万人と・・殺された。
  ベトナムの方々も、卑劣な武器によって殺され・・新
 しい武器を試す・・などという・・卑劣な行為もなされ
 た。
  フィリピンの方々も、ドゥテルテ大統領が怒ったよう
 に・・多くの方々が、フィリピンの方々も殺された。
  ハワイの方々も・・メキシコの方々も・・
  日本も・・日本人は、卑劣な武器である原爆を落とさ
 れ、また、都市という都市を、市民をターゲットにして、
 非戦闘員に対して、無差別に大量の爆弾が落とされた。
  この他、まだまだ数多くの行為がある・・
  また、アメリカは、戦争に勝つと、負けた国を徹底的
 に叩き潰した。
  二度と自主防衛すら出来ないようにしておこうとした。
  こんな事は・・どこの国もやらなかった。
  傲慢でエゴイスティックな鉄血宰相のビスマルクでさ
 え、やらなかった事を・・アメリカはした。
  ビスマルクは、「相手の国に恨みを残すようなことを、
 してはならない」・・と、口癖のように言っていた。
  しかし、野蛮性を持ったアメリカは、戦争に勝つと、
 相手の国に土足で上がり込んで来て・・、
  相手国の人々(国民)へ、「戦争に敗けた国は邪悪な
 国である」というプロパガンダ(嘘宣伝)を吹き込んだ。
  さらに・・敗戦となった国が、二度と独立した外交政
 策や国防政策を実行できないようにするため、
  敗戦国を「不能国家」「去勢国家」に作り替えを行な
 った。
  キリスト教の神が居るから「勝ったのだし」・・その
 様な行為が「許されるという迷信」の下に行われた。
  卑怯・卑劣な独善的な外交アジェンダ(政治・政策的
 な分野で、検討課題、行動計画)を押し付けてくる。
  ケナンや、ウォルツなどが言っている・・、
  「第一次世界大戦の後、アメリカが、あんな無責任外
 交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなかっ
 た」・・と、
  アメリカ外交の二大目標は、「日本とドイツを二度と
 自主防衛できない状態にしておく」とした。
  アメリカは、日本人の歴史解釈まで強制的に変更させ
 た。
  そして、アメリカは、戦争に勝ったのだからと、さも
 権利の如くに、敗戦国をディモナイズ(悪魔化)した。
  また、ディヒューマナイズ(非人間化)した。
  アメリカは、敗戦国の子供や女性を含む一般市民を『
 何百万人も虐殺していること』に対しての「罪悪感」さ
 え感じていない。
  今でも、現代でも、アメリカは、中東で、アフガンで、
 世界中で、ディモナイズし、ディヒューマナイズしてい
 る。
  ディビット・ハルバーズタムは言う・・、
  「アメリカ外交を見ると、本当に『アメリカ人は田舎
 者だ』と思う。
  アメリカ人は、いつまで経っても、国際政治が理解で
 きない田舎者の集団だ。
  だから、ベトナム戦争の様な愚劣な戦争をやって、と
 んでもない破壊行為を実行するのだ」・・と、
  アメリカは、自分たちだけが、世界を支配するんだと
 いう意識しかなかった。
  自分たちがすべての国を押さえつけていないと駄目だ
 ・・と、傲慢に考える。
  ウォルツも言う・・、
  「アメリカ外交というのは、自分たちのやり方を、全
 部、他の国に押し付けようとする。
  過剰な介入主義を実行する。
  それが出来ない場合は、腹を立てる。
  そして、そっぽを向き、引きこもって、孤立主義をや
 る」・・と。
  トランプも・・これなのか・・?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2017年01月12日

(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)

題:(増補版)480E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年2月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年2月6日、横浜正金銀行条例改正。
  横浜正金銀行条例が改正され、6月1日に施行される。
  取締役の就任に、大蔵大臣の許可が必要となる。
  また、大蔵省による、特別監督制度が始まった。
  正金銀行の政府所有株が、家族世襲財産法に該当とな
 る。
  横浜正金銀行の対外金融機関化が進んだ。
  正金銀行の業務は、創設後から海外関係が多く、特に、
 欧米銀行との為替取引がその大半を占めており、国立銀
 行と異なっていた。
  こうした状況下で、1987年(明治20年)7月、政府は、
 「横浜正金銀行条例」(勅令第29号)を制定した。
  この条例は、正金銀行が、創設時の準拠法規である国
 立銀行条例に比べ、外国貿易・為替関係業務を担当する
 特殊銀行の条例として、
  さらに、正金銀行は、政府の保護監督のもと特殊金融
 機関(外為・貿易金融機関、政府在外資金取扱銀行)で
 あることを法的に明確にするものであった。
  この条例によって、正金銀行に対する大蔵省の監督規
 定が明らかとなり、その後の正金銀行の営業活動の規制
 も強化されることになった。
  そして、1888年(明治21年)9月、正金銀行と日本銀行
 は協約を締結し、両行ともに政府の機関であり、
  外国に関する業務(国際金融)は正金銀行が取扱い、
  日本銀行は、その後見役として必要な円資金(年間300
 万円、年3部)を供給し、その返済は正貨で行うことにし
 た。
  しかし、1889年(明治22年)3月、正金銀行は、この間
 の政府資金による御用外国荷為替制度が廃止されて、経
 営の転換を余儀なくされた。
  この制度の廃止により、正金銀行は、外国為替相場の
 変動、為替資金の調達・貸出金利など、外国為替業務に
 おける損益は自行に帰着する事になった。
  正金銀行は、営利採算を考慮した経営を行なうことが
 不可欠となり、こうした条件のもとに外国貿易・為替を
 専門担当して行くことになったが、
  その後においても、正金銀行の経営は依然として政府
 の強い規制(政府出資や大蔵省の管理機構)のもとに置
 かれた。
  また、その間、富田鉄之助日本銀行総裁が、日本銀行
 による外国為替の取り扱いを要求し、大蔵省や正金銀行
 と激しく対立した。
  しかし、1889年6月、松方大蔵大臣は、日本銀行が正金
 銀行に資金を供給して、
  正金銀行に、外国為替の取り扱い、及び、正貨吸収に
 当らせることにした。
  富田は、これを拒否して、日本銀行総裁を辞任したた
 め、松方大蔵大臣は、この後任として、川田小一郎を登
 用する事とした。
  こうして、1889年10月、「準備金」が、紙幣交換基金
 特別会計に移されたが、
  政府は、正金銀行を、国際金融の直接の担当者とする
 方針を堅持し、
  正金銀行は、日本銀行との間に外国為替手形再割引契
 約を締結した(年額1000万円を限度、2分)、
  日本銀行の信用供与、そして、さらに、政府の保護政
 策を背景に、対外進出をすすめ、外国貿易・為替を取扱
 い、日本の対外貿易における商権の回復に努めた。
  しかし、1890年(明治23年)、正金銀行は、凶作に伴
 う金融のひっ迫や、
  同行内部の紛争に加え、
  アメリカのシャーマン銀買上法に伴う銀価の暴騰、
  さらに、ベアリング恐慌の影響のもと、
  再び、経営の危機に直面した。
  (菊池道男氏の論文・その他を参考にした)
1889年2月9日、東京府の指示で、東京在住の俳優・鑑札・
 納税事務の合理化ための東京俳優組合を結成した。
  日本俳優協会の前身、頭取に市川団十郎
  鑑札:かんさつ、ある種の営業や行為に対して役所が
 与える許可証。
1889年2月10日、『風俗画報』が創刊された。
  風俗雑誌で、東陽堂発行。1916年3月に廃刊となった。
  通巻478号。号数外の増刊を含む総冊数は517冊。
  西欧のグラフ雑誌の影響を受け、はじめは主として石
 版画で、後に、写真版が挿入された。
  日本で初めて誌名に「画報」の文字が使われた。
  創刊号は28ページ、定価10銭。
  「画ヲ以テ一ノ私史ヲ編纂スルノ料ヲ作ル」ことを目
 的に、江戸時代風俗の考証、各地に伝わる地方風俗の紹
 介、刊行時における流行風俗の記録を編集方針としたが、
 創刊当初は、復古調の時流を反映して、江戸研究に重点
 が置かれた。
  絵にふりがな付の文章が載った。
1889年2月11日、大日本帝国憲法(欽定憲法・明治憲法)が
 発布した。
  翌年・1890年11月29日に施行された。
  また、同日、皇室典範、衆議院議員選挙法、貴族院令、
 議員法、大赦令、会計法を公布した。
  アジア初の近代的な憲法(立憲君主制) で、国号が大日
 本帝国となった。
  ドイツ・プロシアの立憲君主制を範としたもので、そ
 の制定は、1881年の政変に際して決定されていた。
  天皇主権を原理とする成文憲法で、7章76か条からなる。
  天皇陛下の大権、臣民の権利・義務、帝国議会の組織、
 輔弼(ほひつ)機関、司法、会計などについて規定される。
  伊藤博文を中心に井上毅(いのうえこわし)らが起草し
 た。
  明治維新にあたり、政府は、五ヵ条の誓文、政体書を
 出し政府組織を整えるとともに、版籍奉還、廃藩置県、
 身分制の廃止、徴兵令、地租改正等によって近代国家と
 しての体裁を形成していった。
  しかし、西洋諸国との間の不平等条約を撤廃させるた
 めには、富国強兵政策を推進する一方で、文明国にふさ
 わしい近代法典を整備する必要があった。
  勝海舟、憲法発布記念章授与(氷川清話)
  勝海舟、勲一等に叙せられ瑞宝章を賜う(氷川清話)
  憲法、皇室典範発布(氷川清話)
    内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
    枢密院議長  伯爵 伊藤博文
    外務大臣   伯爵 大隈重信
    海軍大臣   伯爵 西郷従道
    農商務大臣  伯爵 井上馨
    司法大臣   伯爵 山田顕義
    大蔵大臣
    兼内務大臣  伯爵 松方正義
    陸軍大臣   伯爵 大山巌
    文部大臣   子爵 森有礼
    逓信大臣   子爵 榎本武揚
 大日本帝国憲法
  第一章 天皇
  第一条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  第二条:皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之
   ヲ継承ス
  第三条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
  第四条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲
   法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
  第五条:天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
  第六条:天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
  第七条:天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及
   衆議院ノ解散ヲ命ス
  (以下、略)
1889年2月11日、 「皇室典範(こうしつてんぱん)」が公布し
 た。
1889年2月11日、 「議院法」が公布した。
1889年2月11日、 「衆議院議員選挙法」が公布した。
「貴族院令」公布、
「大赦令」公布
1889年2月11日、万歳三唱が始まる。
  天皇陛下が、青山観兵場へ臨幸し、その時、帝大・外
 山正一教授の音頭によって、万歳三唱が始めて行われた。
1889年2月11日、大阪朝日新聞が、憲法全文を東京より電報
 を使って入手し、号外を発表した。
1889年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  社長:陸羯南
1889年2月11日、西郷隆盛へ、正三位が追贈された。
1889年2月11日、文部大臣森有礼、暴漢に襲われ重傷。
  森有礼(もりありのり)、日本の武士(薩摩藩士)、
 外交官、政治家。
  初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社
 会長、東京学士会院初代会員、大日本教育会名誉会員を
 務め、明治六大教育家に数えられた。
  正二位子爵。
  2月11日の大日本帝国憲法発布式典のこの日、
  式典に参加するため、官邸を出た所で国粋主義者・西
 野文太郎に短刀で脇腹を刺された。
  応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去した。
 43歳だった。
  当時の新聞の誤報が原因という話がある(伊勢神宮不
 敬事件)
  文部大臣・森有礼が兇徒に倒れる(氷川清話)
  明治22年には文相・森有礼の暗殺(氷川清話)
1889年2月12日、森有礼が死去した。
  享年:42歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:やむなく、日本は、対米戦争を決意した・・、
.
1941年9月6日、種々いろいろと、戦争を避けようと努力し
 て来た日本だったが・・、やむなく、日本は、対米戦争
 を決意した・・、
  ・・が、このことを、
  アメリカは、暗号解読をして、すでに知っていた。
  アメリカ上下院合同真珠湾調査委員会の報告書によれ
 ば・・、
  アメリカは、1941年(昭和16年)9月6日の日本の御前
 会議の内容を暗号解読機「マジック」によって解読し、
 把握していた。
  日本が対米戦争を決意したことや、12月1日を、対米交
 渉の最終期限などのことまでも・・、
  アメリカは、11月25日までに、既に把握していた。
  ドール米陸軍大佐(元ルーズベルトの娘婿)の証言と
 も符合する。
  ドール大佐は、朝食の場で、ルーズベルトが、「明日
 (12月7日(日本時間:8日))戦争が起きる」と発言し
 てたということを暴露している。
.
  そして・・、
.
1941年、アメリカが、どう言い繕(つくろ)おうが・・、
  何と! アメリカは、第二次世界大戦が、はじまる前
 から日本の交信を傍受し、かつ、その解読に成功してい
 た。
  日本の手の内は、アメリカに、大戦の開始前から筒抜
 けだった。
  しかも、日本は、そのことを知ってか? 知らずか?
  その状態で、戦争末期まで至って行った。
  当然、真珠湾攻撃に至る前の、アメリカの日本大使館
 と日本(本国)の交信内容を、アメリカは把握しており、
  真珠湾攻撃が『奇襲』だと、降って湧いたように「戦
 争が起きた様に言うアメリカの言い方」は・・、
  「ちゃんチャラおかしい『真っ赤なウソ』なのだ」、
  故に、1945年7月頃も・・、
  アメリカ・イギリス・ソ連のポツダム会談が開かれる
 前の頃も・・、、
  日本が、必死に戦争を終結しようと行動している事も、
 すべて筒抜けであった・・、
  日本外務省とモスクワ大使館の秘密交信も筒抜けだっ
 た。
  日ソ中立条約を頼りに、日本は、中立国・ソ連に・・
 「戦争終結の仲立ちをしてもらおうと、必死に行動して
 いた」。
  日に日に増して行く日本のその絶望的な交信量の多い、
 そのすべての交信内容が・・、
  連合国の知るところにあった。
  そして、アメリカの駐ソ連大使のハリマンが、就任直
 後、すぐに感じていたソ連の対応の仕方・・、
  「友好という関係を築くより、現実的な利益を優先す
 る態度」、
  そして、「目的のためには手段を選ばないという態度」、
  この様な、ソ連外交の凄(すさ)まじさは、日本の駐
 ソ連の佐藤大使も、「その凄まじさ」を思い知らされた。
  これは、2016年の安倍首相も、プーチンに感じられた
 ことでしょう・・、
  そして、戦争終結をソ連へ依頼して、交渉を続けてい
 た日本の駐ソ連の大使へ、突如、マ反対のこと、「ソ連
 の対日の宣戦布告」がなされた・・、
  仲立ちの話をしに行ったら、宣戦布告をなされた・・、
 日本の大使も、さぞ、びっくりされたことであろう。
  ソ連は、この様な国なのだ。
  アメリカのルーズベルトがエサを撒(ま)いたとはい
 え・・。
  ソ連とは、今後とも、この様な「スタンス」で対して
 行かなければならない国なのだ。
  アメリカのルーズベルトが、他人(ひと)のもの、中
 国や日本の領土をソ連にやっているときは、
  エサを貰っている時は、「蜜月」だったが・・、
  そのルーズベルトも死に、おいしい土産が途絶えると、
 そのアメリカとソ連の関係はおかしくなり、
  アメリカでは、ソ連に対する強い疑惑が湧き、蜜月も
 終わり、その次にやって来たのは共産主義への激しい怒
 りだった。
  ソ連への反撥があった1950年代前半のアメリカの「マ
 ッカーシズム」という激烈な反共産運動だった。
.
  そして・・、
.
1941年10月頃、昭和天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、ア
 メリカ・イギリスへの攻撃を禁じられていた。
  戦後になって・・、
  アメリカのヘラルド・トリビューン誌が・・、
  「ヒロヒト(昭和天皇)の1941年における平和への呼
 びかけは、彼を救うかもしれない・・連合軍は、彼を皇
 位にとどめるか」・・という論説記事を掲載した。
  アメリカ国務省の公開文書の中に、日本の真珠湾攻撃
 のほぼ2ヶ月前に、天皇陛下が、日本の陸海軍に対し、
 アメリカ・イギリスへの攻撃を禁じていた・・という、
 文書が含まれていた。
.
  そして・・、
.
1941年11月26日、日本の連合艦隊が真珠湾へ出撃した。
  1941年11月23日、大日本帝国海軍第一航空艦隊(機動
 部隊)が、日本の領土・択捉島(えとろふとう)単冠(
 ひとかっぷ)湾に集結し、
  1941年11月26日に、真珠湾攻撃のため、連合艦隊は、
 ハワイへ向けて出港した。
  アメリカは、通信を傍受するなど、この情報を完全に
 掴んでいた。
.
  そして・・、
.
1941年12月1日頃、ハワイの新聞が、「1週間後に、日本が
 攻めて来る」と報道した。
  日本の秘密情報は、アメリカに筒抜けだった。
  アメリカは、そこまで、日本の情報を掴(つか)んで
 いた。
  アメリカ軍内で、「アメリカ艦隊を、ハワイに置いて
 おいてよいのか?」・・ということが、問題となったく
 らいだった。
  航空母艦は隠した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2017年01月10日

(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)

題:(増補版)479E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月20日、大日本水産会の水産伝習所が開所した。
 後の東京水産大学。
  歴史・・、
  1888年(明治21年)11月29日、東京府認可
  1889年(明治22年)1月20日、開所式:仮校舎
   京橋区木挽町(大日本水産会)
   大みくに とまさん道をわたつみの
      波の底まで ひらきつくせよ(小松宮親王)
  1889年(明治22年)7月31日、日本橋区箱崎町3丁目1番
   地
   北海道庁建物へ移転
  1890年(明治23年)5月31日、芝区三田四国町に移転
   教場2棟、現業教場1棟、事務所1棟
  1893年(明治26年)11月3日、新築校舎落成式(52,140
   m2)教室2階建、食堂、寄宿舎(2階建)、事務所等
  1894年(明治27年)8月31日、火災により教室、寄宿舎
   各一棟焼失
  1895年(明治28年)5月15日、教室・現業場竣工
  1897年(明治30年)3月、水産講習所開設に伴い廃校?
  (港区立、港郷土資料館ホームページを参考にした)
1889年1月22日、徴兵令が大改正され、公布された。
  徴兵令の抜本的改正(1月23日説あり)
  徴兵猶予の制度廃止、戸主の徴兵猶予を廃止
  官吏、官立学校生徒、戸主、代人料納入者などの兵役
 を免除する広範な免役条項が存在していたが、
  再三の改正によってしだいに制限されて行き、この年
 に、徴兵令の抜本的改正が行われ、
  従来の徴集猶予制が廃止され、国民皆兵の原則が図ら
 れた。
  この後の徴兵制の基本的骨格が確定された。
1889年1月23日、三池鉱山が、三井組に払い下げられた。
1889年1月24日、官吏の政事上・学術上の演説、叙述を解禁
 する。
1889年1月25日、石川島造船所が、会社組織に改組して発足
 した。
  沿革・・、
  1853年(嘉永6年)石川島造船所が創設された。
  1876年(明治9年)石川島平野造船所が設立された。
  1889年(明治22年)有限責任・石川島造船所が設立さ
   れた。
  1907年(明治40年)播磨船渠(株)設立(後に合併)
  1924年(大正13年)(株)石川島飛行機製作所が設立
   された(後の立飛企業(株)、新立川航空機(株))
  1929年(昭和4年) 自動車部門分離、(株)石川島自
   動車製作所設立(後にいくつかの合併を経て、いす
   ゞ自動車(株)に
   播磨船渠(株)が(株)播磨造船所に改称した。
1889年1月27日、中外物価新報が、中外商業新報と改題した。
  『日本経済新聞』の前身。
  1876年12月2日、三井物産の益田孝(たかし)らが週刊
   で創刊したタブロイド4ページの『中外物価新報』が
   起源。
  1882年7月、三井物産の手を離れた(週3回刊。
  1885年7月、日刊となり、
  1889年1月27日、『中外商業新報』と改題した。
    経済、財政を中心に、政治その他内外の情勢の報道
   にあたったが、日清(にっしん)戦争後の企業勃興(
   ぼっこう)期ごろから紙面も充実、
   わが国財界の発展とともに社業も発展した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株式
   会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1942年(昭和17年)11月1日、政府の新聞統合令により
   「日刊工業」「経済時事」両紙と合併。
   「日本産業経済」と改題、後の「日本経済新聞」
1889年1月31日、憲法修正案の再審会議が終了した。
1889年1月、『国民之友』掲載の裸体が、話題を呼ぶ(発禁、
 裸美人を口絵にした最初)
  民友社発行の雑誌。
  1887年2月、創刊、
  『新日本之青年』 (1887年) で一躍評論家の雄となっ
 た徳富蘇峰が始めた進歩的評論誌で、初め月刊であった
 が月2回、3回、週刊となり、時の藩閥政府の干渉政策に
 対抗、自由と平等の実現を期する急進的平民主義の立場
 をとった。
  後に、国家主義に転じ、
  1898年(明治31年)『国民新聞』に併合されて廃刊し
   た(別説:1899年8月、第 372号で廃刊)
1889年2月1日、みやこ新聞を都新聞と改めた。
  演劇・文芸記事に特色があって下町好みの新聞であっ
 たが、
  1942年、新聞事業令 (1941.12.公布) により『国民新
   聞』と合併、
   夕刊地方紙の『東京新聞』となった。
1889年2月1日、国府津~静岡間の鉄道が開通した。
  東海道線の開通で(国府津~沼津間は後の御殿場線)
  開通に伴い、新橋~静岡間に直通列車上下2本が設定
 されたが、運転当時は片道7時間5分を要した。
1889年2月1日、静岡一番町で大火。1200戸焼失。
  東海道線の開通日たるこの日、1889年2月1日、静岡県
 庁所在地に於ける鉄道開業故に、開通式典、及び、開通
 披露式には、駅前に移転新設された西洋式旅館・大東館
 に於いて盛大に開催する為に、
  前日までに東京から次々と政府高官が来静し待機して
 いた。
  開業当日深更、静岡一番町在の焼芋屋の残火不始末が
 原因で同家から出火し、
  折から駿河湾から吹く冬の季節風に煽られた事から火
 は次々と燃拡がり、
  静岡町中心部13町1100世帯が焼失する明治22年静岡大
 火が発生した。
  この大火の影響で、中心部から離れた静岡停車場や大
 東館は被災焼失外地で無事だったが、
  時の初代静岡縣知事・関口隆吉(せきぐち たかよし)
 は、被災民の心情に配慮し、開通式典会場を静岡駅構内
 ホーム上に変更し、且つ、会場たるホームを幕で囲み簡
 素厳に執行させ、披露式典に於いて出席者に配布する為
 に準備されていた、幕の内弁当、餅、紅白饅頭、酒類は、
 全部被災民への見舞供与に活用された。
  また、当日は、該県内御殿場に於いても大火が発生し、
  県将来の為に期待を抱いていた者達にとって、幸先良
 い日ではなかった。
1889年2月1日、東京美術學校が開校した。
  東京・上野公園に移転した東京美術学校(現=東京芸
 術大学美術部)が開校し、
  絵画科、彫刻科、美術工芸科、漆工科の4科で、74人の
 生徒が入学した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本・・かく戦えり・・、
.
1943年5月12日~5月29日、アッツ島の戦い(アッツとうの
 たたかい)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍
 のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍
 との戦闘。
  山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊
 は、上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉
 砕した。
  太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北
 (玉砕)が発表された戦いであり、
  また、第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた
 地上戦であった。
  1943年7月29日~、キスカ島撤退作戦、
  1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部
 太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊
 撤収作戦。
  キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず、日
 本軍は無傷で守備隊全員の撤収に成功した。
  このことから「奇跡の作戦」と呼ばれている。
  1944年6月15日~7月9日、サイパンの戦い(サイパンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月
 15日~7月9日に行われ、
  アメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島におけ
 る戦闘。
  斎藤義次中将が指揮する第43師団を、主力とした日本
 軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮
 のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団
 が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。
  このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖
 海戦(6月19日〜20日)が戦われた。
  1944年7月24日~8月2日、テニアンの戦い(テニアンの
 たたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年7月
 24日~8月2日に、マリアナ諸島テニアン島において行わ
 れた日本軍とアメリカ軍との戦闘。
  テニアン島では、日本軍守備隊側が、民間人の安全に
 配慮した(角田海軍中将が「軍と共に玉砕する事はない
 のですよ」と説明を行った)
  戦闘開始前に、住民の方々は安全な地へ退避してもら
 い、当然、日本軍人が戦った。
  日本軍:戦死者 約8100名、生存者 313名
  アメリカ軍:戦死者 389名、戦傷者 1816名
  1945年(昭和20年)8月6日の広島、8月9日の長崎への
 原爆投下作戦の B-29 は、ここから発進した。
  1944年9月15日~11月25日、ペリリューの戦い(ペリリ
 ューのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15
 日~11月25日にかけ、ペリリュー島(現在のパラオ共和
 国)で戦われた。
  日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)と、ア
 メリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海
 兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)
 の陸上戦闘。
  アメリカ側の作戦名は、ステールメイトII作戦(「膠
 着」の意味)。
  要塞化した洞窟陣地などを利用し、ゲリラ戦法を用い
 るという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリ
 カ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれた。
  1945年2月19日~1945年3月26日、硫黄島の戦い(いお
 うとうのたたかい、いおうじまのたたかい)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に、東京
 都小笠原諸島の硫黄島において、日本軍とアメリカ軍と
 の間で行われた戦い。
  アメリカ軍側の作戦名は、デタッチメント作戦。
  1945年3月26日~6月23日、沖縄戦(おきなわせん)
  この戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年
 (昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリ
 ス軍を主体とする連合国軍と、日本軍との間で行われた
 戦い。
  連合軍側の作戦名は、アイスバーグ作戦(氷山作戦)。
  アメリカの太平洋の島伝いに北上する飛び石作戦は、
 順調に進んで行ったが、
  アメリカ軍の死傷者の数は、欧州戦線に比べてかなり
 多くなっていた。
  欧州方面での戦死者が13万5000人だったのに対し、太
 平洋方面は17万人を越えていた。
.
  そして、・・
.
1945年(昭和20年)4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦
 艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など二隻、駆逐艦
 三隻が、敵(アメリカ)の空襲を受けて沈没した。
  「現場の海面で、浮遊物につかまり、漂流中の無抵抗
 な乗組員に対して、
  空母を飛び立ったアメリカ軍戦闘機の群が、執拗に来
 襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した」
  (矢矧の原艦長の証言)
  「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、アメリカ軍
 機は、何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に、執拗な
 機銃掃射を加え続けた」(著書「伊藤整一」、大和と運
 命を共にした第二艦隊司令長官)
  同様な残虐行為は、ニューギニア近海でもおこなわれ
 た。
  1943年(昭和18年)3月3日、この日に起きたビスマル
 ク海戦(空襲)の結果、
 陸軍の兵士を乗せた輸送船八隻と駆逐艦四隻が、敵機の
 攻撃により沈められたが、
  沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物に
 つかまり漂流中の千名の兵士達に対して、
  アメリカとオーストラリア軍の飛行機が、低空から機
 銃掃射をおこない、
  機関銃の弾を撃ち尽くすと、基地に戻り弾を補給し、
 映画撮影のカメラマンまで乗せて、何度も、弾の補給に
 往復しては攻撃を続けた。
  「決して男らしいやり方ではなかった」と、第五爆撃
 隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していた。
  「隊員の中には、気分が悪くなる者もいた」。
  救命ボートや、その周辺を、文字どおり血の海に変え
 たその殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが、
 十年ほど前に、オーストラリアのテレビ局から放映され
 て、
  国民に大きなショックを与えた。
  「我々は、フェアーな戦をしたと思っていたのに..
 と」。
  (容赦なき戦い、ジョン・ダワー著)
  ちなみに、ハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨て
 た自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止してい
 る。
  アメリカ海兵隊兵士による蛮行  ルーズベルト大統領
 の息子で、海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加
 わっていたカールソン襲撃隊は、
  戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日
 本兵の口中に詰め込んだ。
  太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、また、
 テレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサ
 ーであるシャーマン・グリンバーグが、
  20年後に、カールソン隊員の一人にその時の模様を(
 テレビで)詳細に語っている。
  その隊員は、戦友たちのやった蛮行を写真に撮ってい
 た。
  (ジョセフ・ハリントン著の「ヤンキー・サムライ」
 から)
  「その二」:マキン島へ救援に赴いた私(谷浦中尉)
 は、戦場で妙なことに気が付いた。
  どういうものか仰向けになった屍体が15~16あり、し
 かもすべて下腹部を露出している。
  死後一週間経っていたため、原形は完全に崩れていて、
 顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
  どうしてこんな格好をしているのだろう。
  被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたの
 か?。
  アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上
 に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種
 の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった
 誰一人として思いつく者はいなかった。
  戦後50年経って、意外な事実を知り、愕然とした。
  それは、マキン襲撃の際に行われた海兵隊の蛮行を物
 語る、翻訳された出版物を読んだからである。
  (マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英
 夫著)
  「その三」:作家・上坂冬子氏の著書によれば、硫黄
 島の洞窟内から、戦後、米兵により持ち去られた日本兵
 の頭蓋骨は1000個にもなる。
  彼等は、それでロウソク立て、灰皿やペン皿を作った
 といわれ、
  また、硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するもの
 が、ロサンゼルスの骨董店で一個25ドルで売られていた。
  (硫黄島いまだ玉砕せず)
  「その四」:リンドバーグが見たもの、1927年(昭和
 2年)に、チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークか
 らパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功
 したが、
  この偉業は、後に、「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」
 の題名で映画化された。
  彼は、1944年昭和19年)に、ニューギニアの米軍基地
 で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、
  その体験を、日記に記して、後に、「第二次大戦日記
 上巻、下巻」として出版した。
  (この本は、私が読んだ後に、どういう理由からか絶版
 になった)
  それによると、彼は、戦場で見たものにショックをう
 けた。
  それは、兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、
 米兵が、日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、そ
 れに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
  たとえ、敵味方に別れて戦い、軍服に違いがあるとし
 ても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命
 は使命として、認めなければならないにもかかわらず、
 太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラも
 ないことを発見した。
  そこでは、士官も、兵士も、日本人に対する人種差別、
 蔑視から、自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単
 なる動物としか見ていなかった。
  1944年(昭和19年)6月21日、この日の日記には、
  日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後
 ろから押さえ、のどを「真一文字にかき切った」という
 のを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将
 軍との会話を要約している。
  残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と「あ
 われみ」をもって軽くあしらわれた。
  6月26日の彼の日記には・・、
  日本兵捕虜の虐殺、および、パラシュート降下中の日
 本航空兵の射殺について述べている。
  降伏し捕らえられた二千数百人という日本兵捕虜のう
 ち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か二百人
 に過ぎなかった。
  残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告さ
 れた。
  「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたと
 いう話が、日本兵に広がれば、投降しようという者など
 まずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。
  つまり、黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な
 手間や面倒がはぶけるという理由からであった。
  7月13日の日記では、
  「われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようと
 する兵士を射殺することをなんとも思わない。
  彼等は、ジャップに対して、動物以下の関心しか示さ
 ない。
  こうした行為が大目にみられているのだ」と記されて
 いた。
  8月30日に、リンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸
 島にあるタラワ環礁を訪ねた。
  そこでは、日米の激戦が行われ、米軍も甚大な死傷者
 が出たのだが、
  日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
 尋問に英語で答えられる者だけを残し、
  あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。
  ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後
 ろ手に縛られた日本人捕虜達を、輸送機に乗せて収容施
 設のある地域に輸送する際に、彼等を、飛行中に突き落
 とす行為がおこなわれた。
  そして、報告書には、捕虜全員が自分から飛び降りた
 と記録された。
  (以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ
 著)
  ニューギニア戦線でのオーストラリア軍や、マッカサ
 ー指揮下の第四十一師団は、
  「捕虜を取らない」、つまり、武器を捨て両手を上に
 挙げて降伏しようとする日本兵や、
  既に、降伏した日本兵を殺するので有名だった。
  軍事歴史家デニス・ウォーナーは、1982年年に出版し
 た日本の特攻隊に関する本の中で、
  ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。
  そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オー
 ストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃
 する。
 「しかし、彼等は、傷つき、おまけに降伏を望んでいま
 す」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦
 場で、部下の大佐が司令官に反論した。
  「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた
 日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)
 は答えた。
  「捕虜はいらない。
  全員射殺してしまえ」。
  そして、彼等は撃たれた。
  日本軍も、負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関
 する情報をつかんでいて、
  戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、
 第四十一師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んで
 いた。
  終戦直後、ある米陸軍大尉が、公表した記事には、第
 四十一師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付け
 られていた。
  この師団が、例外的に、日本兵を捕虜にしたのは、軍
 事情報の収集のために、捕虜が必要な場合だけであった。
  (容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、
 カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著)
  アメリカ軍の日本の病院に対する爆撃  昭和十九年
 (1944年)五月二十四日に、
  ブーゲンビル島ラバウル基地にあった第八海軍病院が、
 米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら千四百
 名が死傷した。
  病院の屋根には、国際法の定めに従い、上空からよく
 見えるように赤十字の標識を大きく塗装していたにもか
 かわらず、それを無視して、病院の建物に対して爆撃や
 銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこな
 った。
  日本兵の遺体を損壊する行為  日本兵を自分達と同じ
 人間とは見なさない連合国兵士による、死体や、死にか
 けた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集
 し、
  戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたこと
 も、
  米国民の間で戦時中からよく知られていた。
  日本軍との戦いを前にして、武勇自慢をし合う若い兵
 士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキ
 スが記録している。
  「ジャップは、金歯をたくさん入れているそうだが、
 それを頂いてネックレスでも作るかな」と一人が言う。
  「おれは、奴らの耳を持って帰るよ」ともう一人が宣
 言する。
  「塩漬けにしてな」。(ガダルカナル日記、1942年)
  戦後出版された水兵の日記の1944年(昭和十九年)
 七月の記述に、すでに、十七個の金歯を集めた海兵隊員
 がいて、
  その最後の金歯は、サイパンで負傷してまだ手を動か
 している日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出し
 て取ったものだ、と事もなげに述べられている。
  (容赦なき戦争、ジョン・ダワー著)
  太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の
 死体から 手を切り取って、戦果のトロフィーとする、
 金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、
 恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活か
 ら、解放してやっただけだ」 と気にも留めない海兵隊員
 の様子を目撃した。
 (E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録)
  「その五」:フィリピンのラグナラ州カランバには、
 日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、
  ここは、フィヒリピンにおける最大規模の収容所であ
 った。
  米軍の発表によれば、収容された捕虜のうち、戦争が
 既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養
 失調で死亡した日本兵捕虜は、一万二千人にものぼった。
  もし、日本側の捕虜収容所が、このような米兵の大量
 死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級
 戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑にな
 ったことは間違いない。
  しかし、ここの米軍責任者は、誰も罪を問われなかっ
 た。
  そこには、「バターンの死の行進」に対する復讐の意
 図から、敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対
 して必要な食糧補給をしなかったからである。
  (孤島の土となるとも、B C 級裁判)
  「その六」:ベトナム戦争においても、かなりの数の
 アメリカ軍兵士が、ベトナム人の頭蓋骨を収集していた
 が、
  アジア人が、アメリカ人兵士の死体に対して、このよ
 うなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるか
 は、考えてみる価値があるだろう。
  (米英にとっての太平洋戦争、下巻)
  太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、
 人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッ
 セル・スーパーは述べています。
  「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮する
 ことに、気がとがめなかった。
  彼らは、太平洋において人種戦争を常に派手に戦って
 きた。
  新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官
 連中は、公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すより
 も悪いことではないと言明した。
  この残虐性は、四ヶ月後に、広島、長崎でその頂点に
 達することになる」
.
  参照:http://soumoukukki.at.webry.info/200802/article_4.html
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


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2017年01月09日

(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)478E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年(明治22年)1月1日、日本標準時が開始された。
  1886年(明治19年)7月13日に、日本の標準時に関して
 初めて制定された法令である「本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件(明治19年勅令第51号)」が公布された。
  そして、この日、適用された。
1889年1月1日、東京~熱海間に、公衆市外電話の通話が開
 始された。
  市外電話創始の地の碑がある・・、
  熱海市役所から北へ200メートルの地点にあるレイホー
 ニューフジヤホテルの敷地内に、この碑はある。
  その碑文の概要は・・、
  温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明
 治の頃、多くの政治家や政府高官が、保養や会談のため
 来遊したので、東京との連絡が非常に多く、
  そのため、東京~熱海間に電話回線が敷かれ、明治22
 年1月1日に開通しました。
  東京の電話交換業務が開始されたのが、それから2年後
 の明治23年12月でした。
  それまで、熱海側は、内務省きゅうき館(熱海電信局)、
 東京側は、木挽町にあった東京電信局で、通話料のほか、
 呼出手数料をとって、公衆電話の取扱いを開始したもの
 です。
  これが、わが国最初の市外通話です。
  きゅうき館のあったのが, この場所でしたので、わが
 国市外通話発祥の地を記念して「市外電話創始の地」の
 碑を立てました。(中略)
  東京で、電話交換業務が始まるより前に、東京~熱海
 の市外電話ができていたとは、当時から、大物政治家や
 有名人が、多数熱海に来ていたことが分かる。
1889年1月1日、高島炭坑で、新規募集坑夫らが、募集係の
 約束不履行に反発して紛争を起こした。
1889年1月3日、朝日新聞が、大阪朝日新聞に改題された。
  大阪本社発行の「朝日新聞」が、「大阪朝日新聞」と
 改題された。
  1940年9月1日には、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題
 号を「朝日新聞」に統一した。
1889年1月7日、英・仏・露・墺・伊の各国駐在公使へ、改
 正条約草案を送付し、条約改正交渉再開を開始した。
1889年1月16日、水戸~小山間の鉄道が開通した(今の水戸
 線)。
  水戸鉄道(みとてつどう)は、現在の東日本旅客鉄道
 (JR東日本)水戸線及び常磐線の一部を建設、運営した
 私設鉄道である。
  1889年に開業し、1891年に日本鉄道に事業譲渡され、
 消滅した。
1889年1月16日、枢密院が、憲法修正案につき再審会議を開
 催した(1月17日説あり)。
  この日、枢密院は、憲法草案の第二審会議を開催し、
 当日の内に、ほぼ原案通り可決した。
  これを受け、伊藤は、1月27日、井上、伊東、金子とと
 もに、枢密院第三審会議に提出する憲法草案を協議した。
  その結果、枢密院第三審会議に提出された憲法草案に
 おいて、質問条項について「両議院ニ於テハ文書ヲ以テ
 政府ニ質問ヲ為スコトヲ得」(第50条)と、
  「両議院」が主語から外され、主語を明記していない
 ものの「議員」と読むのが自然なように修正された。
  この修正について、伊藤は、1月29日の第三審会議で
 「両議院ハト云フトキハ必ス議院ノ名ヲ以テスルヲ要ス
 ルカ如シ故ニ之ヲ改メタリ」と説明した 。
  「十月草案」以来の憲法草案が「議院の質問権という
 思考を維持してきた」にもかかわらず、「その観念を放
 棄するという意味をもった」。
  この修正に対しては、同日の審議で議院全体の名で質
 問がなされるべきとの異議が唱えられた。
  審議は、翌日に持ち越され、逆に「議院法ニ明文アル
 ヲ以テ足レリ」として野村靖枢密顧問官から本条削除の
 提案が出された。
  採決の結果、出席者18名の内、10名が削除に賛成し、
 質問権の条文は削除されてしまった 。
  これにより、質問制度は、帝国憲法に位置づけられた
 質問権から、議院法に位置づけられた議事手続へと後退
 することとなった 。
  そして、帝国憲法は、1889年2月11日に発布され、
  1947年に、日本国憲法が施行されるまで、改正されな
 かった。
  1月31日、議了。
  2月11日、大日本帝国憲法発布。
  また・・、
  (新庄勝美氏論文「1889年帝国憲法の公布:立憲主義
 時代の開幕に向けて)には、以下の様な記述がある。
  枢密院第一審会議は、1888年(明治21年)6月18日から
 はじまり、7月13日に議了している。
  議決された憲法草案は、天皇陛下に奉呈され、天皇陛
 下は、これについて内閣での再検討を命じられた。
  再検討とはいうものの、実際は、伊藤博文が中心とな
 って作業が進められ、
  枢密顧問官を除いて閣僚だけの要人たちによる事実上
 の修正審議だった。
  そこでまとめられた24ヵ条の修正条項は、翌・1889年
 (明治22年)1月初め、閣議で了承された。
  枢密院の再審会議に付すべき憲法・議院法等の修正決
 議案の決定をみたのは同・1月12日だった。
  なお、皇室典範は、この時には除外されていた。
  1889年1月16日に開会した第二審会議に報告されたこれ
 らの修正決議案については、内閣による修正条項に限り
 審議し、第一読会を省いて開かれた第二読会で同日に可
 決された。
  この第二審会議後、伊藤議長は、修正条項に関して内
 閣法律顧問・ロエスレルに意見を求めるとともに、井上、
 伊東、金子を招いて議決事項の再検討を行う機会が設け
 られた。
  その後も見直しがなされ、細かい規定ミスに手が加え
 られ、修正箇所が16ヵ条となった憲法修正原案が、同・
 1月29日~1月31日の3日間にわたり開かれた第三審会議(
 1回の読会で議事決了する方式)において決定された。
  そこでの会議の進め方は、第二審会議の例にならい、
 議長による修正諸条の朗読に続いて、意見提出があって
 も議決で賛成を得られなかった諸条と意見未提出の諸条
 については表決せずに可決とするという手順で進められ
 た。
  このように議決されていった憲法草案を最終確認する
 ために、1889年2月5日に、最後の枢密院会議が招集され、
 字句の対校を行った上で「大日本帝国憲法」(7章76条)
 と題して清書され、
  皇室典範や議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令など
 とともに、天皇陛下に上奏された。
  枢密院会議における憲法審議は、天皇陛下臨御のもと
 に厳粛な雰囲気のもとに進められた。
  「三審会三読会」方式の会議は、日数にすると14日間、
 午前と午後をそれぞれ1回の会議として計算すると24回、
 通算時間数は46時間50分にわたった。
  枢密院での審議経過・会議全体はきわめて効率よく、
 淡々と進められた。
  憲法起草者や枢密院顧問官のそれぞれの矜持の火花を
 散らしての激しい応酬も時にはあった。
  帝国憲法原案の起草作業に心血を注いできた憲法起草
 者にしても、「維新以来文勲武勲中より」選ばれた顧問
 官にしても、近代立憲国家体制づくりという国事に共に
 携わっている以上は、激しい質疑応答のやりとりがあっ
 ても不思議ではなかった。
  自説に固執する顧問官に対して質問・討議の打ち切り
 を宣した議長、
  顧問官の質問・提案への果敢な論駁を試みた起草者、
  説得力ある例証によって顧問官の質問に答えた井上毅
 や伊東己代治らの報告員、
  これら「語り手」たる起草者らに対して「聞き手」の
 立場に甘んずることなく論戦を繰り広げた顧問官。
  これらの会議参加者による議論の応酬の末に、重要な
 条項修正も可能になった例が少なからずあった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教教義「シャローム」から来る無条件降伏の要求
.
1942年11月8日、アメリカとフランスが戦う
  北アフリカのカサブランカ上陸で、アメリカとフラン
 スが戦った。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、完全にアメリカの
 『国益を追求』して、第二次世界大戦まで仕掛けたが、
  それらの史実の一端はすでに示したが・・
  色々の史実で・・そのことが・・分かるが、
  そして、その一つが・・以下・・、
  「ルーズベルトは、フランスのドゴールを嫌った」。
  フランスのドゴールは、イギリスへ逃げ・・「自由フ
 ランス」を掲げ・・名乗っていた。
  そして、「フランスの栄光」という言葉もよく使った。
  そして、誇り高き・・また・・気位の高いドゴールの
 「フランスの栄光」という言葉には、
  アフリカやアジアにある『仏領植民地の復活』を意味
 していた。
  しかし、イギリスも含め、英仏の植民地主義は、アメ
 リカの『国益』にそぐわないと、ルーズベルトは嫌った。
  英仏からの解放をも含む大東亜共栄を目的とする日本
 と路線は一致していた。
  実は、アメリカとフランスは、この第二次世界大戦で
 戦っている。
  カサブランカ会談の前に行われた「北アフリカ上陸作
 戦」で、アメリカとフランスの「初めての軍事衝突」が
 なされた。
  1942年11月8日、アメリカ軍の上陸部隊(アイゼンハワ
 ー将軍)は、4つに分かれて、モロッコのカサブランカや、
 アルジェリアのアルジェなどに上陸した。
  大した抵抗はないとしていたが、そこに居た「フラン
 ス植民地軍が抵抗した」。
  フランス植民地軍は、アメリカに植民地が取られると
 見えた。
  フランス植民地を奪いに来た「侵略軍と解釈した」。
  その抵抗は激しかった。
  まだ、これまで本格的な戦闘経験をしていなかったア
 メリカ軍は、大きな犠牲を出した。
  悲惨な状況となった。
  アメリカ軍の上陸用舟艇が浜辺に着くたびに、フラン
 ス軍から猛烈な砲火を浴びた。
  上陸できない状態が続いた。
  アメリカ軍のアイゼンハワー将軍は、やむなく停戦交
 渉をせざるを得なかった。
  フランス植民地軍の発言力があり、また、本国のビシ
 ー政権の要人ジャン・ダルランと停戦交渉をした。
  因みに、ダルランは、フランスがナチス・ドイツに降
 伏する時、ドイツに協力し、その見返りにビシー政権の
 指導者アンリ・ペタン将軍の後継者に指名されていた。
  そして更に、アイゼンハワー将軍との交渉では、フラ
 ンス領北アフリカ全域の高等弁務官という地位を、アメ
 リカとイギリスに保証させ、そして、停戦に応じた。
  ダルランは、この後、1942年12月24日、フランス人青
 年に撃たれ、その銃弾に倒れている。
  また、アイゼンハワーは、アイゼンハワーで、「ダル
 ラン取引」と言われるこの停戦交渉について、アメリカ
 国内で批判を受けた。
  そして、困ったことが生じた。
  それは、ダルランの地位を保証したため、「フランス
 領の北アフリカが、まるで独立をしたかのような格好と
 なった」。
  そして、最高司令官に任命されたダルランに、連合国
 から武器と弾薬あ提供され、ドイツと戦うダルランが作
 り出された。
  ルーズベルトは、このダルランと、ジローを支援した。
  イギリスが、ドゴールを推している姿勢と違った。
  ちなみに、ジローは、1879年生まれ、1940年にドイツ
 軍の捕虜となったが、
  1942年に逃亡し、アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦に
 合わせて連れて来られていた。
  アメリカは、そりの合わないドゴールに代わって、こ
 のアンリ・ジロー将軍を据えようとしていた。
  この様に、複雑なフランスは、1940年6月、ドイツ機甲
 師団の破竹の進撃に、フランスは、あっさり降伏し、
  それ以来、フランスは、アメリカの味方なのか? 
  それとも・・準敵国なのかさえ、分からなくなってい
 た。
  この様に、ドイツに融和的なビシー政権に抵抗するド
 ゴールを、イギリスは拾い上げた。
  アメリカと違った路線だった。
.
1943年1月14日、カサブランカ会談(~1943年1月23日)
 (~26日説あり)
  アメリカのF・ルーズベルト大統領とイギリスのW・
 チャーチル首相が、モロッコのカサブランカで開いた第
 3回連合国戦争指導会議。
  この時の最終日に、無条件降伏をルーズベルトは示し
 た。
  無条件降伏をルーズベルトが口にした時にチャーチル
 は絶句した。
  チャーチルは、「そこまで要求していいのか?」と反
 問した。
  歴史上にもない「異例」な条件だったからだった。
  その様な例は、今まで無かったからだった。
  それまでの通例の「講和会議」に持ち込んで終戦する
 という通常のやり方ではなかったからだった。
  ある条件における終戦を拒否した「それまでにない常
 軌を逸したルーズベルトの異例さ」があった。
  「日本嫌い」のルーズベルトと・・、
  キリスト教に洗脳された「日本人という蔑視さるべき
 有色人種」に対するルーズベルトの完全絶滅の後に来る
 「キリスト教の『シャローム』の平和」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトがあった。
  日本には、このキリスト教教義により突き付けられた
 「条件の一切を認めない」という事から、とことん戦い
 続けるしか道は残されなかった。
  卑劣な条件を、敗けると分かっている日本に突き付け
 たルーズベルトだった。
  戦争を長引かせることと、この異常さにチャーチルは
 反対したが、ルーズベルトはここを押し切って、ルーズ
 ベルトの思い通りに事は進んで行った。
  この様なマル秘の話は、めったに公にされなかった。
  アメリカとイギリスの首脳だけの会談・・と言うより
 密談だった。
  そして、米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について、
 シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決
 めた。
.
1943年1月21日、アメリカ大統領のルーズベルトは、北アフ
 リカの上陸作戦を成功させた約2万人のアメリカ第5軍兵
 士を慰問していた。
  この時のルーズベルトの心境は・・、
  太平洋でのミッドウェー海戦(1942年6月5日)で、日
 本の機動部隊をほぼ壊滅していて、
  日本との戦争の決着がほぼ見え・・、
  そして、今、アフリカ上陸作戦を成功させて、第二次
 世界大戦の決着が見えて来ていて、
  ルーズベルトは、この時、アメリカ兵たちとともに、
 ジャズバンドの演奏する「チャタヌガ、チューチュー」
 の軽やかなメロディーを聞きながら、アメリカ兵たちは
 笑い声でリズムをとる声をを快(こころよ)く聞いてい
 た。
  昼食が並ぶテーブルがあった。
  北アフリカのカサブランカ会談は、1943年1月14日に始
 まっていた。
  ソ連首相のスターリンは欠席していた。
  また、中国の蒋介石は招待されていなかった。
  故に、結局、米英の首脳会談となっていた。
  ソ連は、この時、ドイツの200個師団(約200万人)と
 壮絶な死闘を繰り広げていた。
  このアフリカの米英が、上陸作戦をした地には、30万
 人のドイツ・イタリア軍が居た。
  1941年6月以降、イギリスは、ドイツとの本格的な交戦
 を避けるようになった。
  それに対して、ソ連の方は、ドイツとの戦いが厳しく、
 スターリンが、カサブランカ会談に欠席するくらいだっ
 た。
  これは、すでにこの時、大戦後の姿を見る戦況の状況
 になっているからだった。
  次なる対抗軸上に居るソ連が見え始めていた。
  ソ連軍を消耗させ、
  さらに、ソ連の国力そのものの減退を招かせようとし
 ていた。
  戦後になって、欧州における「そのソ連の脅威」を阻
 止するためだった。
  だからソ連は、ドイツの軍が、ソ連に集中している現
 状を辛(つら)いと思っていた。
  アメリカ・イギリス軍によるフランス上陸を、今か今
 かと待っていた。
  この第二戦線が、早く出来て、ソ連へのドイツ軍の攻
 勢が弱まってもらいたいと思っていた。
  スターリンは、疑惑を持っていた。
  そして、その疑惑が強くなっていた。
  スターリンは・・、
  「あなた方が約束した第二戦線はどうなったか?
  もうこれ以上、時間を浪費すべきで無い」・・という
 電文をルーズベルトへ送りつけた。
  結局、このスターリンが望む第二戦線が出来るのは、
 ソ連の消耗を進ませようと実行を遅れに遅らせた。
  結局、ソ連が、ドイツを破り、ソ連の勝利が確定した
 後の「ノルマンディー上陸(1944年6月6日)」まで第二
 戦線は形成されなかった。
  「スターリングラードだけでなく、ロシア中央でも、
 ドイツとの戦闘が激しくなっている。
  こんな時に、ロシアを離れられる訳はない(カサブラ
 ンカ会談に出席できるわけはない)」のスターリンだっ
 た。
  ルーズベルトは、「ドイツの戦後を話し合おう」とい
 う状況・心境であった。
.
1943年1月24日、ルーズベルトの無条件降伏の要求宣言が出
 た・・、
  カサブランカ会談の最終日だった。
  アメリカ軍幹部を含め、だれ一人も予想しないものだ
 った。
  イギリス首相・チャーチルは怒り、その怒りで顔が青
 ざめていた。
  そして、「これでは、ドイツ軍の決意を強めるだけだ」
 と批判した。
  誰もが・・日本とドイツが、最後の一兵になるまで戦
 う決意を固めたと思った。
  ルーズベルトは言った・・、
  「皆さんに知ってもらいたい、ドイツと日本の戦争能
 力を、完全に破壊するまで、決して平和はやって来ない
 です。
  我々は、ドイツ、イタリア、日本に対し、無条件降伏
 を突き付けたい」・・と、
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトは、キリス
 ト教の「シャローム」の教義・考え方があった。
  「完全破壊をして平和が来る」という教義で、キリス
 ト教の歴史に、有色人種の絶滅が多いのは、この卑劣な
 教義の影響・・、
  アメリカ国務長官コーデル・ハルは、これを聞いて言
 葉を失った。
  ハルは、「ドイツなど枢軸国などは、冷静な判断を無
 くして絶望的な戦いを繰り広げ、
  結果として、破壊されつくした敵国は、自ら復興でき
 なくなり、最終的に、アメリカがその責任を負わなくて
 はならない」・・と。
  ルーズベルトは、反省したのか? 1943年12月に、「
 無条件降伏は、ドイツ、日本の指導者に求めたものだ」
 と訂正した。
  そして、「無条件降伏は、ドイツ、日本の一般市民に
 求めたのでは無い」・・と否定した。
  故に、日本の歴史教科書にある「日本は、無条件降伏
 をした」という記述は、間違い。
  ルーズベルトの後のトルーマン大統領も、一時は、無
 条件降伏を口にしたが、
  沖縄戦で手ひどい反撃を受け、更なるアメリカ兵の死
 を回避したいアメリカ軍指導部は、即座に、条件受け入
 れを了解した。
  だが、アメリカ政府内に、無条件降伏にこだわる意見
 もあった。
  そして、アメリカは、論議の末に、結局、「天皇、及
 び、日本政府は、占領軍最高司令官に従属する」という
 条件で・・日本の国体維持の『有条件』での日本の降伏
 の形となった。
  しかし、この様ないざこざが終戦を遅らせる最大の原
 因になった。
  日本の子供たちの歴史教科書の『無条件降伏の記述を
 訂正せよ!』。
.
1945年8月14日、日本は、『降伏』をアメリカに通達した。
  戦争が終わった。
  戦争を、その身に痛く感じた方々は、開戦の悪さは言
 わなかったが、終戦の遅さは『悪かった』と言われた。
  卑劣なルーズベルトが、日本の国体まで奪おうとして
 いたことが・・終戦が延び延びになった原因だった。
  アメリカとソ連が、停戦を送らせていた・・、
  ソ連には、日本領土が欲しいという理由があった、そ
 して、日本領土を奪い・・
  そして・・
  アメリカは、無条件降伏という前例のない、そして、
 何ら実のない空論の「シャローム」の観念からくる要求
 があった。
  そして、その「シャローム」の完全破壊の原爆投下と、
 その原爆の威力を知る実験がしたかった。
  戦後に来る、ソ連との対抗軸上にある武器のデーター
 を得たくて、卑劣な非人道的な原爆を投下した・・
  そして・・
  「シャロームの観念上の国体まで奪おうという卑劣さ」
 があった。
..
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2017年01月06日

(増補版)477E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)477E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年、歌・流行・世相:
・「的」の字が大流行
・中村福助人気:薄ねずみ色の襟や、紳士コートが流行。
  中村福助(9代目)は、歌舞伎界を代表する女形として活
 躍した。
・電気時計:アメリカから輸入され正確さが評判
.
1889年、演劇:
・東京・木挽町に歌舞伎座が開場:11月21日、
  歌舞伎の専用劇場を、福地源一郎(桜痴)が、東京市
 京橋区木挽町(今日の東京都中央区銀座)に建設した。
  外観洋風、内部はすべて日本風で、舞台間口 13間(約
 23.63m)、奥行 16間(約 28.96m)、回り舞台直径 9間
 (約 16.29m)と 7間(約 12.67m)の蛇の目回し、本花
 道 5尺(約 1.52m)の機構であった。.
1889年、発明:
・意匠:知的財産権、我が国初の意匠の制度が設けられた。
 この年の出願件数:176件、因みに、1988年(昭和63年)
 は5万1000件。
.
1889年、医・衛生:
・北里柴三郎が、破傷風菌の純粋培養に成功した。
.
1889年、教育:
・水産伝習所(現=東京水産大学)が開所:1月20日、
・東京美術学校開校:2月1日、東京・上野に東京美術学校
 (現=東京芸術大学美術部)が開校。絵画科、彫刻科、
 美術工芸科、漆工科の4科で、74人の生徒が入学した。
・日本法律学校(日本大学)が設立。
・東京仏学校と東京法学校が合併して、和仏法律学校と改
 称(現=法政大学):9月9日、
・東京音楽学校編 「中等唱歌集」(埴生の宿など)
・幻灯機:娯楽から教育教材として利用されるようになる。
.
1889年、災害・防災:
・横浜相生町で大火、焼失1600戸:3月22日
・熊本地震。死者20人(7・28熊本大地震(死傷者94人)。
.
1889年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・「相撲会所」が「東京大角力協会」になる:1月。
 日本相撲協会の前身。
.
1889年、その他:
・ 婦人矯風会:一夫一婦制確立の運動
・公開会議中の野次がきっかけで傍聴規則検討の機運が生
 まれる。
・印刷工同志会結成(氷川清話)
・新聞・雑誌の郵税半額となる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルト大統領が、部下を一喝し・・戦争への道へ・・
.
1939年1月16日、アメリカ大統領のルーズベルトが、部下の
 反対を・・一喝して押さえつけ・・アメリカの法律違反
 のフランスへの爆撃機などを提供する決定を、この日に
 した。
  ルーズベルトは、「戦争をしない」と何回も宣言して
 大統領に当選したが、アメリカ国民の方々の期待を裏切
 る行為を、第二次世界大戦がはじまる前、大分以前から
 行っていた。
  それも、アメリカの法律違反を誤魔化すため、カナダ
 に販売したように装って、その様に見せかける書類を作
 って、フランスへ兵器を提供した。
  この日、ホワイトハウス閣僚室に、ブリット(計画を
 担当させた)、モーゲンソー(財務長官)、ハリー・ウ
 ードリング(陸軍長官)を集めて協議した。
  最新のダグラス爆撃機をそっくりそのまま提供すると、
 ルーズベルトが言い出した時・・、
  「軍の機密が多くある」
  「開発にアメリカ政府の予算が使われている」などの
 反対意見が出た・・しかし・・
  ルーズベルトは、激しい口調で一喝し、悪計の法律違
 反行為が行われることとなった。
  この後、当然、アメリカの議会調査委員会の追及を受
 ける事になったが・・、
  ルーズベルトは、「アメリカ政府の関与はない」と嘘
 を言った。
  また、言い逃れと、言いくるめで、ことは進んだ。
  これの・・どこが・・アメリカの民主主義だと言うの
 か?
  ルーズベルトは、「民主主義のために、全体主義と戦
 う」と言ったが・・? ルーズベルトこそ『総統』とま
 ったく同じだった。
  リンドバーグは激しく抵抗した。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトを信じていた。
  そして、8割以上の方々が戦争反対の世論だった。
  リンドバーグの夫人は、本を出し「民主主義の危機を
 訴えた」「ルーズベルトが良いというが・・果たしてそ
 うなのか?」・・と訴えた。
  この本は、ベストセラーとなった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結された。
.
1939年9月1日早朝 、ポーランド侵攻(中央ヨーロッパ夏
 時間) 、
  ドイツ軍と、その同盟軍であるスロバキア軍とが、ポ
 ーランドへ侵攻した。
.
1939年9月3日、イギリス・フランスが、ドイツに宣戦布告
 をした。
  ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが、
 相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約、ポー
 ランド・フランス相互援助条約)を元に、1939年9月3日に、
 ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
.
1939年9月17日、ソ連が、ポーランドに侵攻した。
  ソビエト連邦軍が、ポーランド領内に侵攻し、ポーラ
 ンド東部を占領した。
  そして、1940年にフィンランドからカレリヤ地方を獲
 得し(ソ連・フィンランド戦争)、バルト3国併合、ルー
 マニアに旧ロシア領ベッサラビアを割譲させた。
  第二次世界大戦の当初は、ポーランドを共に占領して
 いたドイツとソビエト連邦であったが、
  1941年6月22日に、突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、
 戦争状態となった。
  当時のソ連は、国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボ
 ナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼称
 した。
  一方、ドイツ側では、主に東部戦線と表現された。
  アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギ
 ーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の
 戦争であると認識していた。
  1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロ
 ッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。
  日本が関わる「日ソ中立条約」で、1941年、相互の領
 土不可侵を約束した(ソ連は、この後、一方的にこの条
 約を破り、日本に侵入してくる)。
  その様な、この頃の時の流れの中で・・、
  1939年9月1日が、ドイツ軍が、ポーランドへ侵攻し、
 第二次世界大戦の始まりとされている・・が、
  約1週間前の1939年8月23日には・・、
  独ソ不可侵条約が・・秘密条項を持った独ソ不可侵条
 約が締結されていた・・、
  そして、1939年9月1日早朝 (ヨーロッパ時間) ドイツ
 軍がポーランドへ侵攻し、
  1939年9月3日に、イギリス・フランスが、ドイツに宣
 戦布告をした。
  (因みに、独ソ戦は、1941年6月22日から開始された)
  この頃、アメリカ大統領のルーズベルトは、以下の様
 な言葉を言った、
 「ドイツが、第一次世界大戦で負けたにもかかわらず、
 このドイツとイギリスの金融家たちは・・、
  これまで随分と長い間、一緒になって、世界貿易を支
 配し、金もうけをして来た。
  アメリカにとって、これは、非常に宜しくない」と。
  そして、また言った・・、
  「アメリカを、世界貿易から締め出してきたドイツと
 イギリスが戦争を始めた今・・、
  アメリカは、これにどう対応すべきなのか?
  (ドイツの)ナチズムは憎むべきで、アメリカの国益
 も心情も、イギリス側にあるのは間違いない。
  だが、人の良いアメリカとはいえ、いつでも大英帝国
 の救援にかけ付けるとは限らない」・・と。
.
  1939年11月、アメリカは中立法を廃止した。
.
  1940年7月、アメリカが、イギリスへの無制限の援助を
 行なうことを表明した。
.
  1941年2月、アメリカが、「安全水域」をアメリカ沿岸
 部に設定していたが、これを大幅に拡大して、ヨーロッ
 パ近くまで拡張した。
  これは、ドイツ商船の位置を通報するというアメリカ
 の中立精神に反する事でもあり、ドイツに対しての敵対
 的行動を増大させていた。
.
  1941年8月9日~8月12日、大西洋会談
  大西洋上で、ルーズベルトと、イギリス首相のチャー
 チルとの会談(大西洋会談)がなされた。
  その時、イギリス首相チャーチルは、アメリカの参戦
 を促した。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、はっきりしたОKの
 返事は避けた。
  代わりにルーズベルトは言いたい事(異議)があった。
  イギリスのチャーチルには、植民地の権益を守りたい
 という考えがあった。
  そして、ルーズベルトにも、「(大西洋会談による)
 大西洋憲章は、有色人種のためのものではない」という
 発言があり・・、また、次の発言の様に・・
  「ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べ
 たものだ」・・と側近に語っている様に、キリスト教に
 洗脳されたルーズベルトには、有色人種蔑視の精神から、
 公正な、人種差別のない考え方はなされていなかった。
  そして、ルーズベルトには・・、
  「大英帝国に属するインドなど植民地諸国」と、イギ
 リスの間の特恵貿易(オタワ合意)が引っ掛かっていた。
  イギリスは、それまで自由貿易の立場をとって来てい
 たが、
  1931年、一転して特恵貿易の国家となった。
  1932年、カナダのオタワで結ばれたオタワ合意で・・、
  イギリス帝国の植民地とイギリス本国だけの関税特恵
 地域をつくり、外国製品を締め出していた。
  そして、今、大西洋会談となり(カサブランカ会談の
 1年半前の1941年8月3日)、ルーズベルトは、魚釣りと偽
 (いつわ)って、側近と、カナダ・ニューファンドラン
 ド島沖へと出かけた。
  これが、ルーズベルトと、イギリスのチャーチル首相
 との初めての顔合わせの大西洋会談だった。
  ルーズベルトは、この点、植民地を死守して、自分た
 ちだけの利益を得たいという考え方のイギリス・フラン
 ス・オランダとは違っていた、これは、日本と同じ立場
 であった。
  ルーズベルトは、アメリカの参戦によって、戦争に勝
 利して、イギリスやフランスの植民地が復活する事には
 反対だった。
  1943年1月14日~1月23日のカサブランカ会談でも、ル
 ーズベルトは言った、
  「戦争が終われば、植民地諸国は次々と独立する事に
 なるでしょう」・・と。
  カサブランカ会談で、「自由な通商」と「民族自決」
 の2項目が盛り込まれた。
..
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2017年01月03日

(増補版)476E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)476E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年、報道・新聞:
・秋田魁(さきがけ)新報と改題した:2月15日
  秋田魁新報社が1874年2月2日に創刊されている。
  東北地方で最も長い歴史を持つ日刊の新聞。
  首相となる犬養毅が主筆を務めた。
・大阪の「朝日新聞」が「大阪朝日新聞」と改称した。
  1879年1月25日、『朝日新聞』が大阪で創刊された。
  1888年7月10日に、発行元の朝日新聞社が東京へ進出し、
 『東京朝日新聞』を創刊した。
  大阪で発行される新聞の題号はその後もしばらく『朝
 日新聞』だったが、
  1889年1月3日に、『大阪朝日新聞』と改題した。
・『日本』(にっぽん)は、1889年(明治22年)2月11日~
 1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞。
・「ウォール・ストリート・ジャーナル」が創刊された。
  アメリカの経済新聞であり、発行元はダウ・ジョーン
 ズ社。
.
1889年、通信:
・東京電信局と熱海の間で、日本初の公衆用の市外通話が
 行われた:1月1日、
・電信架設:10月23日(旧9月19日)横浜裁判所構内に電信
 機役所が設置され、東京~横浜間に電柱と電線を張る電
 信架設工事が着工された。  
  電話創業:1890年
.
1889年、論・文学・本:
・ 「復古記」(全15巻)
  『復古記』(ふっこき)は、明治政府の編纂した、戊
 辰戦争を中心とした記録をまとめた編年体の史料集で、
 この年に完成した。
  『復古記』の原史料は、未整理のまま東京大学史料編
 纂所に保管されていたが、宮地正人(みやちまさと、歴
 史家、東京大学名誉教授)らによる整理が進められ、
 1991年(平成3年)4月に、一般公開された。
・ 「史學會雑誌」 創刊 、『史学雑誌』創刊(12月)
  史学会は、1889年に創設された、歴史学の学術団体で、
 1889年12月に機関誌『史学会雑誌』を創刊し、まもなく
 「史学雑誌」と改称した。
  1929年、財団法人となり、
  2012年4月からは、公益財団法人。
  本部は、東京大学文学部内に置かれている。
・ 「満洲地誌」 刊行
  陸軍歩兵中佐の守田利遠の編述による、出版社は丸善。
  歴史・地理・民族の情報が記されている。
  朝鮮・満州を精力的に論じた朝鮮及満州社が手がけた
 朝鮮・満州・シベリアの地誌。
・「壬生浪士始末記」 西村兼文(にしむらかねふみ)
  西村兼文は、幕末の京都西本願寺の侍臣(仕える人)
 で、この著者で、「新選組始末記」とも言う。
 『新選組始末記』(しんせんぐみしまつき)は、子母澤
 寛の小説としても存在する。
・「日本紳士録」 交詢社(こうじゅんしゃ)出版局
  紳士録は、1849年のイギリス:A.& C.ブラック社から
 創刊されたものが最初であるが、
  社会的地位のある人々の氏名、住所、経歴、職業、趣
 味、家族関係などについて記載するのが普通で、
  日本では、本著の1889年の「日本紳士録」第1版(交詢
 社)が最も古い。
  福沢諭吉が設立した社交団体「交詢社」は、本著を80
 版を重ねて来た人名録であり、
  中央省庁の局長級以上、上場企業の役員、作家、弁護
 士、医師など10万人の経歴などが記されているが、
  この80版で休刊された。
  報道に於いて、その理由を、2005年の個人情報保護法
 施行以来、削除依頼が相次いだのが理由という・・、
  そして、1903年の「人事興信録」(人事興信所)がそれ
 に次いで古い。
・ 「文学評論しがらみ草紙」 創刊(1889年10月)
  1894年8月終刊、全59冊(月刊誌)
  森鴎外が、弟の三木竹二 (森篤次郎)、妹の小金井喜美
 子(きみこ)、井上通泰(みちやす)、落合直文(なおぶみ)
 らと、西洋文学に立脚する文学論確立のために始めた日
 本で初めての文学評論誌。
  文壇の流れに柵(しがらみ)をかけるという使命感(流
 れを整える)のもと、文学評論や翻訳に大きな役割を果
 たした。
  特に、鴎外が評論で活躍し、石橋忍月(にんげつ)との
 『舞姫』『うたかたの記』論争があり、また、坪内逍遙
 (しょうよう)との没理想論争がある。
  幸田露伴・落合直文らが執筆し、浪漫主義の拠点とな
 り、文芸評論を文壇に確立した。
  没理想論争は、逍遥の没理想(理想や主観を、直接、
 表わさないで、帰納的批評を説いた)に対して、鴎外は
 理想なくして文学なしと応酬した論争。
  (参考)帰納:きのう、推理・思考の手続きの一つ。
      個々の具体的な事柄から、一般的な命題や法
      則を導き出すこと。
・ 「言海(げんかい)」(編:大槻文彦) :近代国家として認
 められたいために・・、
  国語学者の大槻文彦が、明治期に編纂した国語辞典で、
 日本初の近代的国語辞典とされている。
  1875年(明治8年)に、当時、文部省報告課に勤務して
 いた大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に、国語辞典の編
 纂を命ぜられて、編纂を開始した。
  国の辞書があるということは、その国を近代国家とし
 て認めさせる手段の一つだったため、当時のイギリス、
 アメリカ、フランス、ドイツなどでは、国語辞典作りが
 盛んに行われていて、
  明治政府は、「日本が近代国家の仲間入りをするため
 には、日本語という国語を統一する必要があり、そして、
 我が国にも国語辞典が必要だ」と考えた。
  1882年(明治15年)に、初稿を成立させたが、校閲に
 4年をかけ、完成したのは1886年(明治19年)であった。
  元々は文部省自体から刊行される予定であったが、予
 算が無いため出版が立ち消えそうになり、
  結局、1891年(明治24年)に自費出版することになっ
 た。
  最初は、四六倍判の四分冊として出版され、その後、
 一冊本や上下に分かれた二冊本、判型が異なった小型や
 中型のものが刊行されていった。
  大槻の没後に、大幅に改訂がなされた『大言海』も発
 刊された。
・ 「東洋之婦女」(植木枝盛)
  植木枝盛は『東洋之婦女』を書き、女性の参政権を認
 めて男女が政治的に平等になるべきだと主張。
・「風俗画報」(2月10日)
  日本初のグラフィック雑誌:写真や絵を用いて視覚に
 訴える雑誌。
  版元は、東京日本橋葦屋町の東陽堂で、特別号を含め
 全518冊。
  小林永濯・富岡永洗の子弟など、多くの日本画家を起
 用し、写真や絵などを多用し、江戸時代から大正時代に
 かけての世相、風俗、戦争、文学、歴史、地理など視覚
 的に、当時の社会風俗を解説した。
・憲法注釈書が、多数、出版された。
  1888年6月18日~7月13日に、「大日本帝国憲法」の草
 案が、枢密院の第一審会議で審議され、
  1889年1月16日には、再審会議がなされ、
  1889年1月29日~1月31日には、第三審会議がなされ、
  この年・1889年2月11日に、大日本帝国憲法が公布され、
 た。
  そして、この年、「憲法義解」が出版され、英訳本も
 出された。
  「大日本帝国憲法」とその逐条注釈の本も出されたり
 した。
  大日本帝国憲法衍義、伊藤巳代治遺稿(信山社出版)
  伊藤博文著『憲法義解』など・・、
・「陸軍歴史」勝海舟、編纂成る。30巻(陸軍省出版)
 (氷川清話)
  陸軍省の懇嘱(こんしょく)によって、1840年(天保
 11年)高島四郎(長崎町年寄)による洋砲採用の建議に
 端を発し、
  1868年(慶応4年)に至る30年間の幕府陸軍及び国防に
 関する事項を編集したもので、上巻=陸軍改制・砲銃鋳
 造・砲台築造・沿海警備他がある。
・夏目金之助が、子規の『七艸集(しちそうしゅう)』を
 評して、子規に送った文に、初めて「漱石」と署名した
 という、
  一説には、子規から譲られたともいう:5月、
・漱石房総旅行:8月7日~30日、夏目漱石が房総を旅行。
  この年、漱石が23歳の時、友人らと房総を旅し、漢文
 で旅行記「木屑録」を記した。
  鋸南町の保田で海水浴を楽しみ、鋸山に登った。
  そして、その後、東金、銚子を経て帰京した。
  この木屑録に刺激されて、子規は、1891年に市川、船
 橋、佐倉、成田、大多喜、小湊、鋸山を歩き、
  俳句でまとめた紀行文の「かくれみの」を書いた。
  正岡子規に見せるためにつくった木屑録(ぼくせつろ
 く)は、24日間の長旅から帰ると、10日程で、この紀行
 漢詩文集を書き上げ、9月9日に完成した。
  2人は、紀行作品に対する感想を手紙でやりとりして
 友情を深めていった。
  そして、この木屑録は、すべて漢文で、「おそらくは
 明治時代の漢文としてもっともすぐれたものの一つ」と
 言われている(中国文学者の吉川幸次郎)
・『日本人』(にほんじん)は、1888年(明治21年)4月~
 1901年(明治39年)12月まで発行された、政教社の政治
 評論雑誌。
  1902年から、『日本及日本人』になった。
  政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判して、頻繁に発禁処
 分を受けた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:愚かな第二次世界大戦の戦勝国たち・・、
.
1945年4月12日、アメリカ大統領のルーズベルトが死んだ。
  ルーズベルトが、突然の脳出血で死んで、この突然の
 死で、ソ連のスターリンは、アメリカ大統領ルーズベル
 トとヤルタで結んだ密約が、新しいアメリカ大統領の下
 でも実施されるのか?・・を、心配した。
  スターリンの不安は、少しづつ現実のものになった。
  アメリカとソ連の間が、『完全一致』の状態から、離
 れた状態が生まれて行った。
  新しいアメリカ大統領のトルーマンが、ルーズベルト
 のヤルタ密約が、異常と捉(とら)えて、修正しようと
 したのか?
  または、アメリカ大統領の死によって、より自分に有
 利な形にしたいと考えたのか? 
  何しろ、米ソの食い違いが生まれた。
  合意の解釈を巡って・・米ソは対立した。
  そして、悲惨な事に、このルーズベルトが思い付いて
 スターリンを繰ったが如くに見えたヤルタ密約は・・、
  「悲惨な第二次世界大戦が戦われ、多くの血が流され
 たというのに、その大戦後にも・・禍根を残した」。
  浅はかなキリスト者・ルーズベルトの行動の悲惨な結
 果が出て来た。
  1945年8月14日、日本が、降伏を連合国に伝え、日本は
 この日に降伏し、戦争は終結した。
  そして、翌日の8月15日には、日本は、前日に降伏した
 ので、
  この日に、日本国民へ、天皇陛下が、その事を発表さ
 れ、伝えられた。
  国民などへ、その意味を説かれ、忍び難きを偲ぼうと
 諭された。
  この様な時を経て後も、ルーズベルトの「そそのかし」
 は、その禍根を継続し、戦争が終結しているのに、ソ連
 軍が、日本の北方領土などへ侵攻し続けていた。
  また、中国の内戦は激化して行き・・
  また、ソ連と金日成の軍が、朝鮮半島へ侵攻して来て、
 戦乱状態は続き、危機状態が続いた。
  浅はかなルーズベルトの思惑の禍根が続いた。
  ヨーロッパでは、ポーランドが親ソ派となることで、
 内戦の危機となっていた。
  ソ連が、日ソ中立条約を、ルーズベルトのそそのかし
 で破った様に、アメリカもソ連との約束を破り、
  ソ連もアメリカとのヤルタ密約通りに行動しないとい
 う、裏をかいた者が、裏をかかれるという、「シッチャ
 カメッチャカ」の世界だった。
  『愚かな第二次世界大戦の戦勝国たち』だった。
.
  そして、・・
.
1945年4月17日、ソ連のスターリンが、アメリカに要求した
 武器提供は、「マイルポスト合意(1945年4月17日に署名)」
 として成立した(ルーズベルトの置土産的になった)・・、
  この「マイルポスト合意」によって、アメリカは、ソ
 連軍が、3ヶ月間、日本と戦える武器と弾薬の提供を了解
 し、合意し、提供した。
  これが、本当に、愚かな、馬鹿なことになる・・、
  アメリカは、1945年、日本をだますために、日ソ中立
 条約によって中立国となっていたソ連の船を使って、
  アメリカの武器・弾薬を、日本との中立国・ソ連とい
 う偽りの形をとって運んだ。
  日本海を抜けて、何ら支障なく、ソ連のウラジオスト
 クに、80万トン相当の武器や弾薬を運び込み、陸揚げし
 た。
  (日ソ中立条約を悪用して、この様な卑劣な事をした
 アメリカだった。
  この後、ソ連は、この悪用した日ソ中立条約を破棄し
 て日本へ侵攻して来る。
  まったく、卑劣としか言いようがない)。
  このアメリカが援助した武器・弾薬を使って、ソ連は、
 日本へ侵攻して来る。
  まったくの・・ソ連の日ソ中立条約違反の武器の輸送
 行為などである。
  アメリカは、その悪行為の卑劣な片棒担ぎをしている。
  アメリカは、ソ連をそそのかして、ソ連に武器弾薬を
 提供して、日ソ中立条約を破棄させて・・というハレン
 チ行為をしている。
  アメリカの正義も、何も、アリはしない。
  アメリカのルーズベルト大統領のやったことだった。
  本当に不正義な男だった。
  日本は、一旦条約を締結すると誠実に、その条約を守
 るが、ソ連の、そして、アメリカの正義なんてどこにあ
 るというのか?
  アメリカ大統領という地位にあるルーズベルトは言っ
 ている・・、
  「自分が有利になるなら、嘘だってつく」・・と。
  国の信用や信頼を背負っている男が言う言葉ではない、
 軽蔑すべきルーズベルトであり、アメリカだった。
  また、ルーズベルトの嘘をつく体質が現れているのが、
 中国に関する所だった。
  ルーズベルトは、秘密裏に中国に支援をする命令を出
 している、そして、アメリカの正規軍を中国で日本攻撃
 をさせている。
  日本の真珠湾攻撃以前に、日本を攻撃させている。
  秘密裏にである。
  これこそ、アメリカの日本への奇襲攻撃である。
  真珠湾攻撃の日本の攻撃を『奇襲』だなんていう根拠
 はない。
  また、アメリカは、金や武器を中国に支援するという
 事をしている。
  アメリカの大義名分は、日本が、侵略行為をしている」
 だった。
  アメリカだって侵略行為をしているのにである。
  中国の権益をしゃぶって甘い汁を吸っているのにであ
 る。
  日本が満州を得たのは「侵略ではない」。
  日露戦争で、ロシアから移譲(いじょう、権限や権利、
 財産などを譲り移すこと)されたのである。
  侵略なんかではない。
  また、アメリカ・イギリスは、日本に「シベリアに出
 兵してくれ」と依頼して来ている。
  都合のいい時は出兵してくれと、日本と一緒にアメリ
 カも、イギリスも出兵している。
  これを侵略と言うならアメリカも、イギリスも侵略し
 ている。
  この様に、アメリカは、中国のあちこちの権益を得て
 いながら、日本の事を侵略しているという罪を日本にだ
 けにかぶせる。
  そして、ソ連が、中国領を侵攻し、欲しがったら、許
 可している。
  中国に対しては秘密にしておこうと、ソ連へ言って、
 やっている。
  中国へのソ連の主権侵害に、許可を与えているアメリ
 カなのだ。
  中国の大連を「国際港」というごまかしの言い方で、
 実質は、ソ連の港になることを認めているのである。
  南満州鉄道も、同じ様に、「中国と共同管理で」なん
 て言って、実質はソ連のものとして認めている(ソ連の
 侵略行為のアメリカの許可である)。
  アメリカは、悪知恵を働かせて、秘密裏に、ソ連に中
 国主権を侵害し、領土や鉄道などを渡している。
  実質は、アメリカはソ連のものと認めている。
  ルーズベルトは、「中国に知らせると情報が漏れる」
 からと、アメリカは強く秘密にする事をスターリンへ要
 求して卑劣な事をしている。
  この事について、アメリカの国務長官のステティニア
 スに対しても秘密にするという、大統領ルーズベルトの
 卑劣さだった。
  そして、ルーズベルトは、この一連の会談について「
 欲しいものは、すべて手に入れた」と言ったが、
  すべて嘘と秘密で手に入れただけ・・で、
  自分さえよければ良いと、筋の通らないことをしてい
 た。
  こんな時代の流れの中で、何百万の方々が亡くなった。
  (参考)
  武器貸与法(レンドリース法):アメリカのルーズベ
 ルトは、この法律を作って、世界中に厖大な武器を渡し、
 ばら撒いた。
  法律は、1941年3月11日に成立し、開始された。
  この法律は、1941年4月に中国にも適用された。
  アメリカは武器庫の様になり、アメリカの工場はフル
 回転し、景気は回復した。
.
  そして、何と??・・第二次世界大戦後になれば・・??
.
1945年10月初旬、アメリカが、日本に助力を求めて来た。
  日本は、8月14日に、降伏を通達し、降伏した。
  その様な日本へ、その降伏の約2ヶ月後に、日本に助力
 を求めたとは・・?、嘘の様な話であるが、信用できな
 い様な話と思われるでしょうが、本当の話だった。
  まったく馬鹿々々しい、馬鹿な話である。
  その様な・・アメリカであった。
  日本を殲滅(せんめつ、皆殺しにすること)しようと
 したアメリカが、2ヶ月後に、日本に助力を求めたのであ
 る。
  アメリカは、日本を殲滅しようと、国際法違反の日本
 の一般市民をターゲットにした『原爆投下』や、
  日本の大都市など各地の一般市民を、国際法違反のじ
 ゅうたん爆撃で殲滅・殺戮して来たが、
  日本が、8月14日に降伏しての、その約2ヶ月後には、
 その日本に助力を求めて来たのだった。
  それで、アメリカ軍と日本軍は、共に、一緒になって、
 中国の天津で、中国・毛沢東軍に対峙し、戦った。
  このアメリカ軍は、元々は、日本が破れて終戦となっ
 て、日本軍の武装解除の為に、中国に来た軍だった。
  そのアメリカ軍が、日本に助力を求めて来たのであっ
 た。
  アメリカ大統領のルーズベルトの愚かな「ソ連へのそ
 そのかし」で、
  東アジア地域で、そのスターリンの領土欲に火が付い
 て、
  領土・奪い取りに火の付いたソ連は、手がつけられな
 かった。
  それと共に、悪いことを一杯して、裏切りもやってい
 た。
  その端緒となったアメリカの当事者のルーズベルトは
 死んでいて、
  その後を継いで大統領となったトルーマンは、1945年
 8月11日には、見るに見かねて、『秘密指令』を出した。
  日本攻撃の太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカー
 サーと、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミ
 ッツに宛てた「秘密の指令電文」には、
  「中国の大連港と、朝鮮半島の京城(現在のソウル)
 外港を占領せよ」・・とあった。
  ソ連のスターリンの火の付いた領土欲に、慄(おのの)
 いたアメリカ大統領トルーマンは、秘密指令を出したの
 だった。
  ソ連が、「不凍港が手に入るではないかと、ルーズベ
 ルトがそそのかした大連港」を、ソ連が取りに来る前に、
 アメリカ軍が、先に、その大連港へ行って占領してしま
 えという秘密指令だった。
  しかし、勢いのついたソ連の方が、早く・・、
  大連港や満州全域をあっと言う間に、ソ連によって奪
 われてしまった。
  そして、尚かつ、1945年8月14日には、ソ連は、中国・
 蒋介石・国民政府と、条約を結んでいた(中ソ条約〉・・、
  ソ連へ、大連港と満州鉄道の権益(アメリカが欲しが
 って手に入れつつあった権益)を、蒋介石は認めていた。
  この条約の交換条件は、「ソ連が、中国・共産党政権
 (毛沢東)を支援しない」というものだった。
  そして、前記の1945年10月初旬には、天津(北京の南
 東150キロ)の港を毛沢東の軍によって包囲され、激しい
 銃撃にさらされていた。
  戦っていたのが、アメリカと日本の連合軍だった。
  アメリカの海兵隊(第三海兵師団)の5万3000人は、沖
 縄から出兵して来ていて、ここ中国に上陸し、占領して
 いた。
  そして、日本軍と一緒になって、毛沢東の共産軍と戦
 っていた。
  アメリカと日本の連合軍は、天津~北京間の鉄道を守
 っていた。
  日本が敗戦となるとともに、毛沢東の共産軍の勢いが
 強まって来ていたのだった、ソ連も応援していたし・・、
  抜け目のないソ連のスターリンは、中国・蒋介石との
 条約を破って、裏で、中国・毛沢東を支援していた。
  そして、アメリカは、この様な成り行きから、再び、
 中国・蒋介石国民党軍を重視し、支援する。
  ルーズベルトの思惑は、早くもチリジリに崩れ、戦い
 の火は燃え盛(さか)って行った。
  愚かなるルーズベルトの嘘の外交・偽(いつわ)りの
 外交が露と消えて行った。
  ルーズベルトの撒いた禍根は朝鮮戦争まで尾を引いて
 行く・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月30日

(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

題:(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年(明治22年)、出来事:
・憲法発布:2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  天皇陛下が定める欽定憲法。
・内閣総理大臣
 黒田清隆:明治21年4月30日~明治22年10月25日
 三条実美:明治22年10月25日~明治22年12月24日(内大
      臣兼任)
 山県有朋:明治22年12月24日~明治24年5月6日
・森有礼文相暗殺:2月11日、東京・麹町区(現=千代田区)
 永田町の文部大臣官邸で森有礼文相が国粋主義者に刺さ
 れ、2月12日に死亡した。
.
1889年、内閣・行政:
・市の成立:2月、内務省が36の市を告示。
・特別市制:3月23日、東京・京都・大阪を特別市制とする
 ことが公布。
・市制:4月1日、日本に初めて31の市が誕生した。
 江戸御府内を基礎とした15区により東京市が成立。
 年内に計40の市ができた。
・第1次山県有朋内閣(12月24日~)
.
1889年、皇室:
・新宮殿:1月11日、天皇陛下が赤坂の仮皇居から新宮殿に
 移られた。
.
1889年、国際・国際会議:
・エッフェル塔完成:3月31日、[フランス]パリのシャン・
 ド・マルス広場に建設されたエッフェル塔の落成式が行
 われた。
  フランス革命100周年を記念して開催されたパリ万博の
 シンボルとして建てられた。
  高さは312.3mで、当時、世界一高い建造物。  
.
1889年、防衛・軍事:
・徴兵令改正(一年志願兵制度)公布:1月22日。
 1年志願兵の制が始まった。
・憲兵条例を改正公布(憲兵):3月。
・陸軍省 「陸軍歴史」(全30巻)出版
・海軍省 「海軍歴史」(全25巻)出版
.
1889年、経済・金融・貿易:
・日本生命保険会社開業:9月20日、
・ビール工場建設:日本麦酒目黒工場(現恵比寿)完成
  日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)が東京・下
 目黒村(現=渋谷区恵比寿)にビール醸造所を建設。
  煉瓦造りの3階建ての工場を建て、ドイツ人技術者を招
 き、ドイツ産の麦芽を使用してドイツ製醸造機械で生産
 を始めた。  
  1888年、工場地購入
  1890年、恵比寿麦酒発売
  1899年、ビヤホール
・年末、神奈川県、石油貯蔵規則を発布し、石油小売商人
 困難となる。
.
1889年、物価:
・物価:氷、1貫目:8銭。
.
1889年、交通・運輸:
・東海道鉄道全通:
・鉄道一千哩記念祝賀会
・九州鉄道開業
・横須賀線開通
・国府津~静岡間開通:2月1日、東海道線の国府津~静岡
 間が開通。国府津~沼津間は箱根の山の北側を回るルー
 トで現在の御殿場線。
・東海道線の静岡~浜松間が開通し新橋~長浜間が全通し
 た:4月16日。
・中央線開業:4月11日、甲武鉄道の新宿-立川間が開業。
・甲武鉄道の立川~八王子間が開業:8月11日、新宿-八王
 子間は1時間17分。中央線の前身。
・東京乗合馬車会社が開業:5月11日、
・東海道線の車両に便所が設置:5月、
・丸亀~琴平間開通:6月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が
 開通した。
  現在の予讃線・土讃線の一部で、四国の鉄道の始まり。
・横須賀線の大船~横須賀間が全通:6月16日、
・東海道線全通、湖上連絡船廃止:7月1日、馬場(のち=
 大津、現=膳所)~米原~関ヶ原が開通し、新橋~神戸
 間を結ぶ鉄道の東海道本線が全線開通した。
  直通列車は、1日1往復で所要時間は約20時間。
 運賃が改定され、新橋-神戸間は下等で3円73銭。
 長浜~大津間の琵琶湖の湖上連絡船は廃止:初の鉄道連
 絡船(1883年)
・東京湾汽船(現=東海汽船)が開業:11月11日、
・博多~千歳川間開通:12月11日、九州鉄道の博多~千歳
 川(久留米近くの筑後川の右岸にあった)間が開通した。
  現在の鹿児島本線の一部で、九州の鉄道の始まり。
.
1889年、衣:
・警察官・消防官の帯剣が制定された。
・服飾に復古的な傾向強く現れ始め、日本髪用品の売れゆ
 きが良くなる。
.
1889年、食:
・フランスの万国博覧会に上菱ビール出品される。
.
1889年、住:
・凾館水道竣工
・東京石工組合認可
・木挽町に歌舞伎座建つ
・大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、それぞれ開業
・福島県郡山水道会社開業
.
  (今日の言葉)
.
  題:次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様な筋の通
    らない話は変わると考えるが・・
.
1905年、アメリカは、日露戦争によって、アメリカが目指
 した「日本の勝利」「ロシアの敗北」の目標が達成され
 た結果、
  「中国市場を獲得したい」というアメリカの目的や、
  「ロシアの満州支配の強まり除去」(ロシアの市場化
 の動きを除きたい)のアメリカの目的が達成され、そし
 て、そうなると感じた。
  しかし、実際にその様になってみると、そこに、用済
 みとなった日本が居て、今度は、中国(清)のアメリカ
 の市場化の対抗軸に日露戦争に勝利した日本が居た。
  この時点が・・、この日露戦争の後こそが・・、
  「アメリカが、日本を叩きたいとした出発点」だった、
 「日米対立の序曲」だった。
  今までのアメリカの行動の原点には・・「自分たちの
 利益を追求したい」だけがあった・・、
  そこには、常に、戦争を介在していた・・、
  今度は、その日本を除きたいとする・・その様なアメ
 リカが居て・・、
  アメリカは、日本をその様な位置に位置づけた。
  ここに日本の悲劇があった。
  (アメリカは、共に進むかたちを、常に、取ろうとし
 て来なかった)。
  この翌年の1906年、セオドア・ルーズベルト大統領(
 第26代アメリカ大統領、在任期間:1901年9月14日~1909
 年3月4日)は・・、
  「日本との将来の対決を予想した」。
  そして、愚かにも「対日戦争計画(オレンジ計画)」
 の準備を命じた。
  それは、日露戦争における、日本の見事な勝ちっぷり
 にあった。
  日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊に、見事
 な完勝をした。
  それは、「新たなアメリカの脅威」だった。
  アメリカのセオドア・ルーズベルトは、日本の勝利に
 よって満州のアメリカの市場化への道・通商の道が開か
 れると期待した。
  つまり、日本が、ドアボーイの様に演じると思った。
  しかし、日本の一級の軍事力がそこに見えた、見てし
 まった。
  アメリカは、むしろ逆に、「アメリカが、うまい汁と
 吸っているフィリピン」が奪われるという恐怖・脅威を
 感じた。
  そして、さらに日本にとって、日米にとって、悲劇な
 事は、この脅威論を背景に、アメリカ西海岸に広がった
 「黄禍論(黄色人種の日本人が、禍(わざわい)を起こ
 すという論理)」だった。
  (これは、低級なマスメディアによってあおられた)。
  さらにまた、「アメリカ西海岸に、日本が攻めて来る」
 という、まったく根も葉もないことを、アメリカで言い
 ふらされた。
.
  そして、
.
1906年、この年から、卑劣な事だが、アメリカでは、日本
 との『戦争の仮想シミュレーション』が、毎年、なされ
 た。
  セオドア・ルーズベルト大統領(第26代アメリカ大統
 領、在任期間:1901年9月14日~1909年3月4日)が、命じ
 て始められた『対日戦争計画』である。
  「オレンジ計画」と名付けられたこの計画は、具体的
 な戦争シミュレーションで、
  毎年、日本を仮想敵国として実施され、戦争のやり方
 が検討され、見直された。
  もう、日本との「戦争ありき」の、「対日戦はやるの
 だ」の頭しかないアメリカだった。
  戦争回避の話はなされず、回避策が皆無のアメリカだ
 った。
  アメリカ海軍省戦争研究所は、対日戦争に、凝り固ま
 っていた。
  好戦的なアメリカだった。
  真珠湾で日本が攻撃する筋へ持って行かれた。
  真珠湾の日本の奇襲の作り話は、本当に「ちゃんちゃ
 らおかしい作り話」なのだ。
.
  そして、
.
1913年5月19日、排日土地法
  この年に、アメリカのカリフォルニア州は、日本人移
 民の農地所有を禁じる法律を制定した。
  日本政府は、当然、抗議した。
  アメリカは、日本を逆恨みした。
  これを利用した「日本を悪者に貶(おとし)める組織」
 が、ウォー・スケア(戦争騒ぎ)を煽(あお)り、高ま
 らせられた。
  「日本軍が、攻めて来る」のではないかという病的な
 危機感に覆われた。
  海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルト(1933
 年に、第32代アメリカ大統領になる)は、この様なカリ
 フォルニアに、1914年に訪れ、
  元中国軍の顧問だったホーマー・リーが書いた本「サ
 クソンのH」が送られている。
  その本は、「イギリスが、アジア系民族によって亡ぼ
 されそうになる」という予言的に書かれた刺激的内容に
 なっている。
  この様な本を、フランクリン・ルーズベルトは読んで
 いる。
  この元中国軍顧問の男が、中国、もしくは、共産・コ
 ミンテルンの工作員の可能性は否定できない。
  また、今・現在でも、この類の様な工作が、アメリカ
 や日本などの「特に、マスコミや官僚」に、なされてい
 るという可能性が否定が出来ないという。
  それは、マスコミや官僚をターゲットにするのが、「
 効率が良い」からである。
.
  そして、
.
1915年、日本を貶(おとし)める工作がなされた二十一ヵ
 条要求。
  これは、日本がはめられた事件だった。
  今、新事実が、次々に明らかになって来ているが、
 そして、歴史的事項が、あらゆる年代で書き換えられて
 いるが・・、
  この事件でも、新事実がが明らかとなった。
  当時、中華民国大統領の袁世凱(えんせいがい)が、
 中国国民を納得させるために、この二十一ヶ条を、日本
 に書いてくれと、『日本側へ頼んでいた』ということが
 明らかとなった。
  これは、当時の日本の外務大臣である加藤高明の自伝
 にも書かれているが、
  また、東郷茂徳元外相が、巣鴨プリズン(刑務所)に
 入っている時に記した回顧録にも出て来る。
  中国の「引っ掛け外交」だった。
  日本に「エサ」を撒(ま)いて、日本の失策を作ると
 いう作戦だった。
  世界へ、「日本は武力を背景に、不当極まる要求を、
 押し付けて来た」と宣伝された。
  あえて、日本へ「最後通牒」を出してくれと頼んだと
 いうことは、おくびにも出さなかった。
  日本は、完全に嵌(は)められて悪者にされてしまっ
 た。
  これは、中国の狙い通りに展開した。
  以後、日本の立場は急速に悪くなった。
  日本への世界の圧力は、急拡大して行った。
  この様な裏まで知って、そして、判断する国などなか
 った。
  日本は、悪者にされ、「武力で脅されたので無効だ」
 の論理が出てきた。
  正式に交換された条約までが無効という話になった。
  近年も、韓国が、この論調を主張するという臆面ない
 行動をとり、また、不正義な行動をしている。
  信頼などあったもんじゃない状態。
  この頃の話に、「田中上奏文」という日本が、引っ掛
 けにかかった「引っ掛け話」がある。
  これは、日本を引っ掛かけていたという事が、2005年
 に明らかになった。
  「日本の悪玉化」=「ディーモナイゼーション(悪魔
 化論)」で、日本は、どうしようもない「悪玉」にされ
 た。
  今・現代、「靖国神社参拝」が、中国によって「ディ
 ーモナイゼーション」されている。
  そして、アメリカが、中国と同じ論調となっている。
  しかし、次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様
 な筋の通らない話は変わると考えるが・・
..
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2016年12月28日

(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)

題:(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年、アメリカ合衆国のショエリダン将軍が没した。
  この将軍の有名な言葉に、
  「私がこれまであった中で最も良いインディアンは死
 んだインディアンだ」。
  まったく卑劣な人種差別の言葉である。
  アメリカの将軍たちは、インディアンの方たちに対し
 て、この様な人種差別意識を持っていた・・そして・・、
  『病的なまでの憎悪』を持っていて、強力な武器で、
 あまりにも残忍なやり方で、インディアンの方々を殺戮
 して行った。
  「徹底殲滅の姿勢」、この時に、アメリカ政府の指令・
 取らせていた姿勢が・・この「徹底殲滅の姿勢」だった。
  (参考)
  ショエリダン将軍:(1831年~1888年)両親は、アイ
 ルランドのキャバン州からの移民。
  リンカーンが、シェリダンについて言った・・、
  「褐色のがっしりした小男(身長:165cm)、胴長短足
 で、絞首台に吊るすには不十分な短い首、足首がかゆけ
 れば屈むことなく掻くことができる長い腕」・・と。
  リンカーンの人間性も分かる言葉となっている・・、
  陸軍士官学校の時、級友と喧嘩して、銃剣で突き殺そ
 うとした(そして・・1年間の停学)。
  このショエリダンの言葉である「最も良いインディア
 ンは・・死んだインディアンだ」は、アメリカで流行語
 となり、白人アメリカ人に、度々、使われた。
1888年8月31日、イギリスで、「切り裂きジャック」による
 最初の殺人事件が発生した。
  19世紀末のロンドンの売春婦連続殺人犯「切り裂きジ
 ャック」の犯行だった。
  (参考)
  切り裂きジャックは、1888年にイギリスで連続発生し
 た猟奇殺人事件の犯人の通称。
  未解決事件であり、21世紀の現在でも犯人の正体につ
 いてはいくつもの説が唱えられている。
  解剖学的知識があるとされて、ジャックの職業は、医
 師だという説が有力視されているが、近年、肉屋である
 という説も有力とされている。
  また、被害者に抵抗の後がない事から、同性の女性だ
 という説もある。
  被害者数は、5人から20人とする説がある。
1888年9月3日、帝国イギリス東アフリカ会社
  イギリスのビクトリア女王が、東アフリカ会社の勅許
 をウィリアム・マッキノンに与えた。
  帝国イギリス東アフリカ会社は、イギリス王室勅許状
 を受けた特許会社で、
  スコットランド出身の資本家であるマッキノン(1823年
 ~1893年)が創設したイギリス領インド蒸気船海運会社が、
 東アフリカのザンジバルへの航路を1872年に開設した際、
  さらに、内陸への進出を計画したことが端緒となった。
  1885年に、ドイツ東アフリカ会社が、ザンジバルの対
 岸の本土部へ進出すると、
  イギリスは、ザンジバルの首長を通して、東アフリカ
 沿岸を間接的に確保しようとした「それまでの方針」を
 変え、
  マッキノンが以前から主張していた商事会社による内
 陸統治という考えをとるようになった。
  特許会社は、王室から独占特許状を与えられて、貿易
 や生産の独占をしようとして許された会社で、
  ある範囲の行政権限をもって、植民地経営を行なった
 会社で、植民地統治をした組織であった(実質はイギリ
 ス)。
  1895年には、イギリス政府が自ら統治に乗り出し、東
 アフリカ保護領が形成された(イギリス領東アフリカ)。
 イギリスの植民地である(本性が飛び出した)。
  さらに、1920年には、ザンジバルの首長の権益が残っ
 ていた海岸部を合わせて、ケニア植民地、および、保護
 領とした。
  最初は、モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業
 利権をもとに、
  1888年、勅許会社の帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)
 が設立されて・・経営(統治)が開始され、
  1895年に、現在のケニアに相当する部分が保護領とな
 り・・、この保護領は・・
  1920年に、直轄のケニア植民地となる。
1888年、イギリスが、サラワク王国、ブルネイ、北ボルネ
 オを保護国化(実質の植民地)した。
  1841年、ブルネイのスルタンが、イギリス人探検家ブ
   ルックにサラワクを領地として与え、「白人藩王」
   が誕生した。
  1846年、サラワク王国が、ブルネイから独立した。
  1881年、イギリスの北ボルネオ会社が、サバを租借し
   た。
  1888年、サラワク王国と北ボルネオ会社に、領土を侵
   食されたブルネイが、イギリスの保護領となった(
   乗っ取られた)。
  1890年、サラワク王国が、リンバン川流域を併合した。
   テンブロンは、ブルネイ本土から切り離された。
  1963年、サラワクとサバが、マレーシア連邦に参加し
   た。
   ブルネイは、イギリス領のまま残り、テンブロンは、
   その飛び地となった。
  1984年、ブルネイが、イギリスから独立した。
  ボルネオ島の北側にあるブルネイは、古くから中国の
 文献に交易拠点として記載されて、アジアとヨーロッパ
 を結ぶ「海のシルクロード」の中継地として繁栄してい
 た。
  18世紀に、東側にあるサバが、「海賊の島」として有
 名なスールー諸島のスルタンに取られてしまった。
  そして、19世紀には、内乱が起こり、ブルネイのスル
 タンが、1839年に、やって来たイギリス人の探検家ジェ
 ームズ・ブルックに鎮圧を頼んだ。
  そして、鎮圧に成功したブルックに、スルタンはクチ
 ン(現在サラワク州の州都)を領地として与えてラジャ
 (藩王)に任じた。そうしたら・・、
  ブルックは、白人王(ホワイト・ラジャ)に即位して
 サラワク王国を作った(国を乗っ取った)。
  そして、イギリスの保護の下で、次々とブルネイの領
 土を奪って拡大していった(植民地の拡大)。
  1881年、一方のサバも、イギリスが作った北ボルネオ
 会社が、この年・1881年、スールー島のスルタンから租
 借し、ブルネイの領土を侵食しながら拡大して行った。
  こうして、東西から挟み撃ちにされたブルネイは、残
 った領土を保全しようと、
  1888年に、イギリスの保護領になったが、間もなく内
 陸部からも勢力を拡大していたサラワク王国にリンバン
 川流域を奪われて、テンブロンは飛び地になってしまっ
 た。
1888年11月14日、パストゥール科学研究所が設立された(
 1887年説あり)
  L・パスツールの業績を記念して、1888年、パリに設立
 された医学研究所。
  設立にあたっては、フランス内外・世界からの醵金(き
 ょきん)による多くの寄付金が寄せられた。
  また、11月14日の開所式には、フランス大統領が列席
 するなど、この研究所は、当初からフランスにおける、
 伝染病の研究・治療の中心としての役割が期待された。
  そのため、この研究所には、所長のパスツール以下、
 彼の弟子たちを中心に優秀なスタッフが集められた。
  彼らは、狂犬病など伝染病の予防と治療にあたるほか、
 生物化学や細菌学など基礎的研究に取り組んだ。
  創設時の建物は、現在、パスツール博物館となってお
 り、彼が使用した顕微鏡はじめ、各種実験器具類が、完
 全に保存されているほか、
  自然発生説否定のために創案した「ハクチョウの首型
 フラスコ」や、研究発表のための乳酸菌・酵母などの微
 生物形態図、カイコの図なども保存されている。
1888年6月15日、ドイツのヴィルヘルム2世が即位した。
  (~1918)
  独帝フリードリヒ3世死去し、ヴィルヘルム2世即位。
  年に二回皇帝が代わったことから「三皇帝年」と言わ
 れた。
  プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世)と、
 イギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生ま
 れた。
  1888年に、祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世
 が相次いで死去したことにより、29歳でドイツ皇帝・プ
 ロイセン王に即位した。
  祖父の治世において、長きにわたり宰相を務めたオッ
 トー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始
 し、治世前期には、労働者保護など社会政策に力を入れ、
 社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。
  しかし、その後保守化を強め、社会政策にも消極的に
 なっていった。
  1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は、政治的権
 力を大きく落とした。
  一方外交では、一貫して帝国主義政策を推進し、海軍
 力を増強して、新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリ
 スやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、
 最終的に第一次世界大戦を招いた。
  オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブル
 ガリアと同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相
 手に4年以上にわたって消耗戦・総力戦で戦うこととなっ
 た。
  1916年に、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエ
 ーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が
 成立すると、ほとんど実権を喪失した。
  大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなく
 なった国民の間で不満が高まり、ドイツ革命が発生する
 に至った。
  革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を
 行なったが、革命の機運は収まらず、結局オランダへ亡
 命して退位することになった。
  そのままなし崩し的に、ドイツは、共和制(ヴァイマ
 ル共和政)へ移行し、ホーエンツォレルン家は、ドイツ
 皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
  ヴィルヘルム2世自身は、戦後もオランダのドールンで
 悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支
 援した。
  1925年に、ドイツ大統領となったヒンデンブルクは、
 帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政
 復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラ
 ーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性は
 なくなった。
1888年11月2日、咸宜帝(かんぎてい)が仏官憲に引渡され
 た。
  阮朝(グエンちょう)は、1802年~1945年にかけて存
 在したベトナムの王朝。
  咸宜帝(かんぎてい、1872年7月22日~1943年1月14日)
 は、阮朝の第8代皇帝(在位:1884年~1885年)
  1884年に、13歳で即位したが、
  1885年・翌年に、抗仏勤皇大蜂起の檄を発して王都フ
   エを脱出、地方の在地知識人にフランスへの徹底抗
   戦を訴えた。
   フランスは、ただちに兄の同慶帝を立て、咸宜帝に
   帰順を呼び掛けた。
   咸宜帝はこれに従わず、農村を転々として抵抗を続
   けたが、
  1888年、ついに捕らえられてアルジェリアに配流され
   た。
   やがて、現地でフランス人女性と結婚し、3児をもう
   けた。
  1943年、72歳で死去した。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  (北洋海軍創設)
  中国、清末期の新式海軍・主力艦隊。
  李鴻章によってつくられ、『定遠』『鎮遠』など甲鉄
 砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装甲砲艦1隻を中心とした。
  威海衛に基地を置き清国海軍の主力であった。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問して、中
 国海軍の主力として勢威を誇った。
  海軍の戦備が劣っていた日本に衝撃を与えた。
  中国海軍の主力として勢威を誇ったが、日清戦争で惨
 敗し、壊滅した。
1888年5月13日、ブラジルで摂政イザベル皇女が奴隷制廃止
 法案に署名 (米大陸の奴隷制終焉)
  キリスト教は、キリスト教の神が容認した慣行として
 「奴隷制が認められている」。
  キリスト教聖書にも、キリスト教の神が「奴隷にせよ。
 奴隷にせよ」と叫んでいる。
  この様に、キリスト教という「宗教として容認する」
 という形態であったことで、無くなることなく人類の歴
 史に続いて来て、悲しい歴史を刻んだ。
  また、卑劣な事に、その事がキリスト教の聖書にも書
 かれているからこそ、消えることなく、
  奴隷制は人類の歴史の中で無くなることなく続いた。
  日本においても、キリスト教宣教師がからんだ南蛮貿
 易で、日本女性が奴隷(性奴隷)として売られている。
  1582年、天正遣欧少年使節の少年たちも港々に居る売
 られた日本女性を見ているが、そのことは秘密にされ、
 キリスト教によってプロパガンダ(嘘宣伝)された。
  織田信長は、キリスト教宣教師がその様な悪とは知ら
 なかったが、豊臣秀吉は、その情報を得て、臣下に確認
 を行わせ、その事実を知り、政策を一転させた。
  1587年7月、キリスト教の禁教の施策となった(天正
 遣欧少年使節の5年後)。
  1596年、再び、秀吉が禁教令を出す。
  従った宣教師たちは、長崎出島から、ちゃんと出航し
 て行ったが・・、
  問題なのは、違反して、日本に潜伏した宣教師たちだ
 った。
  秀吉が、ちゃんと法を発令したのにもかかわらず、法
 に従わないキリスト教宣教師たちが居た。
  また、その宣教師たちは、日本の一般民衆を惑わした。
  そのため、再び、禁教令が出された。
  取締り行為もせざるを得ず、行なった・・この事を、
 キリスト教は「殉教だ、殉教だ」と騒いだ。
  法律に従わない「お前たちが悪いのだ」。
  法律違反行為者を取り締まるのは当たり前だ。
  その代表例が、キリスト教が「日本二十六聖人」と美
 化している人たちだ(法律違反者たち)。
  法に従わなかった人々、または、地下に潜ったキリス
 ト教聖職者たちに惑わされて法を破った人たちである。
  秀吉は、マニラのキリスト教本部にも「領土的野心を
 持たぬ事」と通達している(キリスト教宣教師は、日本
 の植民地化への先兵となっていた)
  この様な事は、歴史教科書から一切が隠されている。
1888年10月29日、スエズ運河の自由航行に関する条約締結
  1869年に開通したスエズ運河は、1882年以降、イギリ
 スによって軍事占領された。
  これに対し、ヨーロッパ諸国が、運河の自由通航の保
 障を求めたため、この条約が締結された。
  原締約国は、イギリス、ドイツ、オーストリア=ハン
 ガリー帝国、スペイン、フランス、イタリア、オランダ、
 ロシア、オスマン帝国(日本は加入してない)
  この条約は、運河の自由航行を定めているが、戦時に
 は、しばしば、航行が阻害された。
  第二次世界大戦中に、枢軸国の艦船が通航を拒まれた
 のをはじめ、
  1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)では、一時運
 河が封鎖された。また
  1967年の第三次中東戦争による運河の閉鎖は、1975年
 まで続いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ヤルタ会談・・くせものの会談・・密約のある会談・・
    嘘をつく癖のあるキリスト教に洗脳されたルーズベルトも・・同じだった・・
.
1945年2月3日、ヤルタ会談をするため、アメリカ大統領ル
 ーズベルトが、黒海に突き出たソ連領のクリミア半島の
 突端のヤルタに着いた。
  ソ連のスターリンは、まだ着いてない。
  ルーズベルトとスターリンの会談は、翌日・4日、午後
 4時に、スターリンの表敬訪問の形で始まった。
  1943年11月のテヘラン会談以来の約15か月ぶりだった。
  互いに戦果を褒め合い、打ち解けたムードだった。
  フランスを参加させるか?と、その第二次世界大戦の
 終結が見えている状況のこの中で、フランスの功績につ
 いての話になった。
  「フランスに、参加する資格はあると思いますか?」
 とスターリンは言った。
  二人は、すでに、「フランスの功績は無かった」で合
 意していたが、この言葉が出た。
  ルーズベルトは、「あるとすれば、それは親切心から
 ですな」と言い、同席しているソ連外相のモロトフと共
 に、一同は、大声で笑った。
  日本の「に」の字も出ない。
  「日本は、すでに決着している」という一同の認識だ
 った。
  この会談自体が、第二次世界大戦後の勢力圏をどう配
 分するか?に、思惑を巡らす状況だった。
  日本は、「完全に、負けるから」の認識の中にあった。
  世界の勢力圏の話し合い、駆け引きだった。
  すでに、イギリスとソ連の意見が、合わない状況にあ
 った。
  つまり、日本への原爆投下の必要性は、この時点でさ
 え「まったく、無かった」、必要性はないの認識の中に
 あった。
  死に体の日本、原爆投下の必要性なし・・だった。
  キリスト教の「シャローム」の教義=異教徒の完全抹
 殺の後に、平和が訪れるという迷信に洗脳された、キリ
 スト教徒のルーズベルトは、「無条件降伏を要求」して
 たが・・、イギリス首相も驚くという「無条件降伏を日
 本へ要求」していて・・、
  そして、異教徒の完全破壊の教義に洗脳された頭の中
 から、「原爆投下が出てきた」。
.
1945年2月8日、ヤルタ密約
  千島列島は、日本のものです。
  びっくりなさるかもしれませんが、北方四島はもちろ
 んの事・・千島列島も日本のものです。
  ただ、厳しい言い方だが、『ルーズベルトが、馬鹿だ
 った』。
  1945年2月8日、ヤルタ密約の協議が行われた。
  この協議で「ソ連の対日戦争を始めること」について
 話し合われた。
  この協議に参加したアメリカ大統領のルーズベルトは、
 まったく、この協議に関する基礎知識がない状況だった。
  ここが悲しい事だった。
  「有色人種の日本の事だ」と軽く見ていた。
  この様な人間性のルーズベルトだった。
  本当に、キリスト教の有色人種蔑視観というのは多く
 の有色人種の方々へ悪影響を与えている。
  この場のルーズベルトもそうだった。
  まったく、当事者能力が不足しているのであった。
  この協議に同席したアメリカ国務省のソ連専門家・ボ
 ーレンは、戦後に、この場のルーズベルトの交渉が、ま
 ったくお粗末だった事を、「厳しく批判した」。
  最大の、最高の交渉者であるべき、このアメリカ大統
 領のルーズベルトの認識の無さはゼロに等しかった。
  「樺太や千島列島」が、日本領土になっているのは、
 「日露戦争で日本が得た」・・と、間違って認識してい
 た。
  ボーレンは、このソ連との協議のために、「基礎知識
 が書かれた本」を、ルーズベルトへ渡していた。
  しかし、ルーズベルトには、まったく、この基礎知識
 が頭に入っていないという事に、ボーレンは、この協議
 が始まって気づいた。
  ルーズベルトは、この基礎知識の本に、目を通してい
 なかった。
  読んで居なかった。頭に入れていなかった。
  事実関係を、まったく理解していないで、協議に臨(
 のぞ)んでいた。・・オソマツ・・
  ボーレンは、「千島列島は、ソ連へ渡すべきではなか
 った」・・と言っている。
  しかし、悲しいかな・・と言うべきか? 愚かな者た
 ち・・と言うべきか?  この協議を行なうアメリカ側
 に、ほとんどと言って、一人も・・この極東の常識・基
 礎知識を持つものが居なかった。
  アメリカ国務省のこのソ連専門家のボーレンは、つく
 づく、『あれほど簡単に、ソ連のスターリンへ、千島列
 島を渡すべきではなかった」・・と言った。
  このアメリカの『ミス』は・・、例えば、仮の話であ
 るが、立場を代えて話すと・・、日本の代表が、ソ連と
 話し合って・・「今、アメリカの州となっている『アラ
 スカ州は、元は、ロシアのものだったですよね』・・だ
 から、アラスカはソ連のものです」・・と、ソ連へ渡し
 てしまったら・・どう思うか?・・その様なものだ。
  こんな『決定的なミス』が、アメリカによってなされ
 ていたのだった。
  樺太は、ロシア人が来る前から日本人が住み始めてい
 た。
  日本人の領土だった。
  その後、ロシア人も来て・・住み始めた。
  そして、そのうち、ロシア人がどんどん来るようにな
 って、樺太の担当者が幕府へ日本人も樺太に来て住まな
 いと、樺太はロシアのものの様になると言った。
  しかし、日本人は思った様に増えず、そして、幕府は
 ロシアと協議して共同の地とする。
  しかし、その後、樺太・千島列島の交換条約をロシア
 と締結する。
  そして、日露戦争に勝利した日本は、樺太の半分の所
 有権を復活し、南樺太を以前の状態に戻した。
  南樺太が日本の地になった。
  つまり、千島列島は、ソ連へ簡単に渡すような地では
 なかった。
  しかし、アメリカの協議をする面々は、まったく、そ
 の知識がなく、「日露戦争で日本が得たのだ」という間
 違った・大雑把な思い込み、間違い知識しかなく、日本
 の歴史の過程の中で、堂々と日本の固有の領土となって
 いるという理解は無かった。
  薄っぺらな知識と間違った思い込みしかないというア
 メリカの協議をする面々だった。
  協議の最高責任者であるルーズベルトは、「ロシアが、
 戦争で取られたものを取り返すだけのもとだ」と、びっ
 くりするぐらいの、間違いの、薄っぺらな思い込みの中
 で協議をしていた。
  この間違い知識の中で・・ことの処理がなされた。
  だから先に記した逆の話、「アラスカは、ソ連のもの
 だと言ったら、アラスカは、ソ連のものになるのか?」。
  この協議自体が成立していない、「再審ものだ」。
  このヤルタ密約協議が、間違っていると分かっていた
 人が、もう一人いた。
  しかも、この協議の場に、この現場に・・居た。
  それは、駐ソのアメリカ大使・ハリマンで・・、
  ハリマンも、この千島列島についてのアメリカのルー
 ズベルトと、ソ連スターリンの話の中に居て、
  『この話はおかしい』と分かっていた。
  この密約協議で、スターリンは、卑劣にも・・引っ掛
 け発言をしていた。
  スターリンは、しきりに・・「日露戦争で、日本が奪
 った領土を、単に、取り返したいだけだ」・・と、何度
 も、「この引っ掛け発言を」している。
  何度も・・何度も・・この引っ掛け発言をして・・強
 調した。
  基本的に、ルーズベルトに基本的知識が無かったのが
 悲しい事で・・問題なのだが・・、
  その上に、ルーズベルトには、「日本の島など取るに
 足らぬ」の認識があった。
  悲しい事に・・こんな輩が、世界を「不安定にする」
 のだ。
  薄っぺらな知識で、責任だけが大きい輩が・・?
  しかし・・駐ソ大使のハリマンは「偉かった」。
  しっかり・・この点を・・ルーズベルトに「指摘した」。
  ハリマンは、しっかりした知識で、「千島列島は、(
 樺太・千島交換条約で)日本の領土として正式に認めら
 れてます」という知識で、指摘した。
  また、ハリマンは、はっきり、スターリンが、ルーズ
 ベルトをはめている・・欺(あざむ)いていると見てい
 た。
  そして、ルーズベルトに、はっきりと忠告をした。
  しかし、しかし、愚かなるこの大統領は・・言った、
 「ソ連が、日本と戦ってくれるなら、日本の千島列島な
 ど取るに足らぬ、つまらぬ事だ」・・と。
  馬鹿め!
.
  キリスト教は、この宗教が出来た古代の時代に、また、
 この宗教の出来た地である砂漠の地で・・、
  飢えに襲われ、
  そして、どうしようもない時は、
  ナイルの恵まれた流れの地、そして、実りある地に、
 身分をかなぐり棄てて、なりふり構わずに・・逃げ込ん
 だ。
  また、そして、隣国の富を奪いに行ったりして、飢え
 を凌(しの)いだ。
  この様な、自然の厳しさゆえに取ったやむを得ない行
 動でも・・このうしろめたさを・・民は・・、
  キリスト教の神の義があるから・・と、自らを慰(な
 ぐさ)めた。
  そのキリスト教の神の義によって許してもらえるのだ
 と、免罪符と同じ考え方をした。
  戦いとなって他民族を殺す事になっても・・「(キリ
 スト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」と考え
 た。
  飢えているのだから・・と、許しがあると・・その様
 な苦し紛(まぎ)れの宗教を創った・・神を創った。
  赦しを作った・・、
  天からの恵みの少ない砂漠の地の・・「このような赦
 (ゆる)しの形をとった宗教=キリスト教という宗教」。
  しかし、現代の・・「恵まれた時代に生きている時」
 も、
  また、「恵まれた地に生きている時」で・・あっても、
  このキリスト教の赦(ゆる)しの教理に洗脳されて、
  また、この教理が一人歩きをし・・悪さをし始める・・
  自分の利を求めて殺戮に及(およ)んでいる。
  「(キリスト教の)神の義」があるから「正義なのだ」
 と言って、
  そして「自分が強く」、そして「自分が大きく」、そ
 して「自分が恵まれて」いても・・、
  「義がある、正義なのだ」・・と、
  「小さい者を、そして弱い国を」攻め、そしてキリス
 ト教の教義「シャローム」を求める・「無条件降伏」を
 要求する。
  シャロームのキリスト教教義の「完全絶滅」のキリス
 ト教の教理にマインド・コントロールされて「原爆投下
 を実行する」。
  それらすべてを、「キリスト教の正義」だとする。
  「不正義な行為を・・正義だ」とする。
  キリスト教によって、「不正義を・・正義と錯覚する」。
  キリスト教に強い信仰心を持っていたアメリカ大統領
 ルーズベルトは、その行為を正義だとして、「許されな
 い行為」を、「悪の行為のことごとくを」、アメリカと
 いう強力な国家を利用して行った。
  自分の考えを正義だとして、アメリカという豊かな国
 と、国民の方々を、その命を利用した。
  多くの武器・弾薬を、アメリカ国民の方々の多くが「
 戦争反対を叫ぶのにもかかわらず」、自分の考えに合う
 国だけに正義だとして、その豊かさをもって、言葉に尽
 くせぬほどの大量の武器・弾薬を、世界中にばらまいた。
  戦争の、戦いの・・輸出をした。
  悲惨な戦争が広まるのは・・当たり前だった。
  考えの違う者たちを悪として、その様な行動をした。
  キリスト教の法王が行なう公会議が、「考えが違う者
 たちを・・異端として・・殺戮したように」
  「異教徒は殺せと・・キリスト教の教義の行動をした
 ように」、弱者を殺戮し、虐げた。
  ルーズベルトのニューディール政策でも、回復しなか
 った頑固な世界恐慌の悪い景気の影響は・・、
  (ルーズベルトのニューディール政策で、アメリカ景
 気は回復したと言われているのはプロパガンダ・嘘宣伝)、
  アメリカの景気回復は、このルーズベルトがやった「
 戦争景気で回復した」。
  武器・弾薬を、アメリカ国内でどんどん作り、世界中
 にばらまいた。
  「戦争を作って・・回復した」とは言えないので、こ
 こでも嘘をついた。
  嘘で固められた行動だった。
  命を亡くなされた方々が、言葉を尽くせぬほど多いの
 に、ただただ、唖然として、怒りが湧く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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2016年12月26日

(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)

題:(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年12月3日、角藤定憲(すどうさだのり)らが、大阪の
 新町座で、壮士芝居を興業した。
  角藤定憲は、壮士芝居の創始者で、中江兆民の門下、
 また、自由党壮士。
  壮士芝居とは、自由党壮士の芝居の意味で、自由民権
 運動の末期に、政府の言論取締政策のなかで、政治宣伝
 と糊口(ここう、細々と暮らしをたてること)の資を得
 るため演劇改良も兼ねて演じたもの。
  1888年12月、角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民
 の後援を得て大阪で旗揚げしたのが最初。
  そして、1888年12月のこの時、大阪新町座で改良演劇
 として、自作小説を脚色した『耐忍之書生貞操佳人』と
 『勤王美談上野曙』を上演した。
  新演劇の導火線となった。
1888年12月3日、全国を3府43県と改めた(12月4日説あり)
  愛媛県が、香川県から分離して1道3府43県となり、現
 在の47都道府県の区分がほぼ確立した。
1888年、写真印刷業の最初
  アメリカで技術を習得した小川一真が、この年に、日
 本で最初に、写真版印刷業を始めた。
  絵葉書を安価な画像媒体として可能にした背景は、写
 真製版技術の普及である。
  絵葉書で使用されたコロタイプと呼ばれる写真製版技
 術は、1870年代にドイツで開発されたといわれる。
  この方法は、ゼラチンを版面とする写真印刷法で、一
 つの版で、数千枚しか刷れないこと、印刷スピードが遅
 いなどの欠点があるが、高画質なので、書画・水墨画な
 どの美術印刷に適した。
  日本では、アメリカで技術を習得した小川一真が、
 1888年に、写真版印刷業を始めたのが最も早く、
  その後、まもなく、写真版に手彩色をほどこすことも
 行われた。
  横浜では、そうした彩色写真が外国人向けのお土産と
 して作られ、明治20年代にスーベニアル・アートとして
 発達した。
  絵葉書も、その技術と伝統を受け継いでいる。
  横浜の絵葉書作製に携わった会社・個人としては、上
 田写真版合資会社、星野屋、トンボヤ、カール・ルイス
 などがあげられる。
  当時の彩色絵葉書は、写真師が撮影した風景や人物の
 写真を、絵葉書となる紙にコロタイプで墨刷りし、それ
 に一枚一枚手で彩色をほどこすことによって完成した。
  彩色については、まず、プロの画工が絵付けの見本を
 つくり、それにもとづき、内職の女性たちが手彩色の作
 業をおこなった。
  こうした分業により、現在に伝えられる彩色絵葉書が
 つくられた。
  なお、彩色をほどこさないモノクロ絵葉書も多数つく
 られた。
  (横浜開港資料館ホームページを参考にした)
1888年12月6日、第28、第35両国立銀行の合併が許可された。
  1882年、中央銀行である日本銀行が開設され、
  1883年、国立銀行条例の改正、そして、
  1884年、兌換銀行券条例により、紙幣発行は、唯一、
 日本銀行のみが行うようになった。
  そして、この年に、第二十八国立銀行(浜松二十八銀
 行)が、静岡三十五銀行(現在の静岡銀行)に合併した。
1888年12月7日、後藤象二郎が、東海と北陸へ、大同団結
 運動展開のために向かう。
1888年12月8日、牛島謹爾(うすじまきんじ)が、郷里久留
 米を出発、渡米の途に上る(後に、馬鈴薯の栽培に成功
 し「馬鈴薯王」となる)
  牛島謹爾(1864年~1926年) 明治-大正時代の移民。
  1864年(文久4年)1月6日、福岡県久留米で農家の三男
   として生まれた。
  1885年(21歳)上京して、漢学塾二松學舍(現:二松
   學舍大学)に入塾した。
  1888年(明治21年)(24歳)渡米。はじめ、サンフラ
   ンシスコのアメリカ人家庭で働きながら英語を学ぶ。
   のち、カリフォルニア州ストックトンの沼地をひら
   き(苦闘の開拓)、
   良種のジャガイモの大量生産に成功。
   6万エーカーを超す大農園を起こし、「ポテト王」と
   よばれた。
   在米日本人会の初代会長として排日問題の対応にあ
   たった。
  1908年(44歳)結成された在米日本人会の初代会長と
   して、排日運動の緩和につとめるなど、大きな功績
   をあげた。
  1926年(大正15年)3月27日、日本へ帰国する途中、ロ
   サンゼルスで死去。63歳。勲五等双光旭日章。
1888年12月11日、東京美術学校が、上野に設立された。
  東京美術学校が、小石川から上野に移転した。
1888年12月13日、枢密院が、貴族院令の審議を開始する。
1888年12月17日、衆議院議員選挙法と貴族院令の審議が終
 了する。
1888年12月18日、特許条例(明治21年12月18日勅令第84号)
 が公布された。
  1885年(明治18年)4月18日、本格的な特許法である専
   売特許条例(明治18年太政官布告第7号)が公布・施
   行された。
  1888年(明治21年)審査主義を確立した特許条例(明
   治21年12月18日勅令第84号)が公布された。
  第1条
  新規有益ナル工術、機械、製造品及合成物ヲ発明シ又
 ハ工術、機械、製造品及合成物ノ新規有益ナル改良ヲ発
 明シタル者ハ此條例ニ依リ特許ヲ受クルコトヲ得
  特許トハ発明者ニ他人ヲシテ其承諾ヲ経スシテ前項ノ
 発明ヲ製作、使用又ハ販売セシメサル特権ヲ許スコトヲ
 謂フ
1888年12月23日、明石から姫路まで開通。 全通(1901年)
1888年12月27日、陸軍軍医学舎を陸軍軍医学校とあらため
 た。
1888年12月28日、東京府高等女学校(後の東京府立第一高
 等女学校)設置
1888年12月28日、文部省が、学生生徒の健康診断に当たる
 活力検査を開始した。
1888年12月31日、長崎市成立直前の長崎区総町90町、総戸
 数6846戸、人口4万3351人(男2万1517・女2万1843)
 上長崎村・下長崎村の各一部の総戸数1477戸、人口7299
 人
1888年6月23日、フレデリック・ダグラスが、黒人として
 初めてアメリカ大統領候補に指名された。
  フレデリック・ダグラス氏が、『真の黒人奴隷の解放
 者』である。
  この栄誉を、アメリカの白人たちは、黒人の方々の虐
 げ者たちは、リンカーンへ奪うことまでした、そして、
 プロパガンダ(嘘宣伝)までしている。
  そして、フレデリック・ダグラス氏の活躍や歴史を含
 め、
  黒人の方々の解放までの戦いが、アメリカ白人社会に
 よって、封印されて来た。
  卑劣な事である。
  自分たちの汚れた歴史を隠し、蓋(ふた)をしようと
 して来た。
  しかし、最近、黒人の方々の解放運動などの歴史が、
 少しづつ、明らかになって来ている。
1888年11月6日、第26回 アメリカ大統領選挙
.
  (今日の言葉)
.
  題:自由主義陣営と共産主義陣営の・・勢力圏取り合いの話に既に移っていた。
    アメリカの話が、嘘なのだと、作り話なのだと、この様な史実からも・・立証された・・、
.
1944年10月9日、夜9時、イギリス首相のチャーチルは、モ
 スクワのクレムリンで、スターリンに会っていた。
  イギリス外相のイーデンが・・同席していた。
  この頃は、完全に、第二次世界大戦は終わったとして、
 「戦いの後について」の駆け引きが行われていた。
  日本は、完全な「死に体」で、もう「降伏状態」で、
 話題にも上がらなかった。
  そして、戦いの後の有利な形を作りたいとして、ソ連
 は、第二次世界大戦を一緒に戦った仲間という意識から
 完全に違った体制の国・共産圏の国として、違う世界の
 離れた国として存在し、
  大戦の終結後の・・対立する新しい相手として存在し
 ていた。
  日本に・・原爆を投下して、早く戦争を終わらせたい
 と、アメリカは思ったから、広島・長崎に原爆を落とし
 たなどという話は・・その様な感覚はまったく無く・・
 すでに、その様な話は・・通り越し・・そして、終わっ
 た話となっていた。
  つまり、この話は・・アメリカの「後からの作り話だ」
 ということが、この時のイギリスとソ連の話し合いにお
 いても・・はっきりと証明される。
  話は・・自由主義陣営の領土(地域)をいかに広くと
 るか?・・に、あった。
  如何に・・共産圏の占領区域(領土)を狭くするかに
 あった。
  だから、先の話は・・「アメリカの幼稚な嘘」だった。
 「戦争を早く終わらせたかったから、原爆を投下した」
 という話は「嘘で、浮いた話」となっていた。
  この時、チャーチルは、事務的な話し合いの後、頃合
 いを見て、突然、紙と赤鉛筆を取り出した。
  そして、スターリンへ渡した紙には、「ルーマニア:
 ロシア90パーセント、ギリシャ:イギリス90パーセント、
 ロシア10パーセント、ユーゴスラビアとハンガリー:双
 方50パーセントづつ」・・などと、書かれていた。
  スターリンは、すぐに、青鉛筆で、自分の考えを書き、
 突き返した。
  しばらく・・沈黙となった・・、
  そして、反省したのか・・チャーチルが言った・・、
  「数百万人の運命を、こんな風に扱うのは・・いかが
 なものか・・」・・、
  「これは、焼き払う」・・と。
  スターリンは、「いや、保管しておいてくれ」と、平
 然と言った。
  この後も・・当事者を抜いた領土の・・勢力圏の取り
 合いは続いて行った。
  ルーズベルトは、大統領選挙の最中だったので欠席し
 ていた。
  自由主義陣営と共産圏に分断されて行く。
  この様に、武力で勝った者たちには・・、日本が与え
 た「東南アジアの国々の独立の様な事」は、この場には
 無かった。
  勝った者が、「その上に立つという意識」しかなかっ
 た。
  欧州分断だけがあった。
  ルーズベルトがそそのかした東アジアの領土取りで火
 が付けられたスターリンは・・、
  東アジアとともに、東欧の領土欲・制圧・共産圏化に
 向けて圧倒的な行動を起こして行った。
  そして、当のルーズベルトは、東欧の共産圏化に対し
 ても、スターリンの勢いにあっけにとられたのか、気が
 抜けたのか、対抗措置を取らず、取ることをせず、取る
 ことが出来ずにか・・東欧は共産化して行った。
.
  そして、その・・日本は・・、
.
1944年10月24日、戦艦武蔵が撃沈した。
  起工:1938年3月29日
  進水:1940年11月1日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:約3,300名
  兵装:46㎝(45口径)砲3連装3基9門ほか
  搭載機:零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機
      カタパルト2基
  建造所:三菱重工業長崎造船所
  運用者:大日本帝国海軍
  2015年3月2日、シブヤン海海底で発見された。
.
1945年4月7日、戦艦大和が撃沈した。
  起工:1937年11月4日
  進水:1940年8月8日
  就役:1941年12月16日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:3,332名(最終時)
  兵装:45口径46㎝3連装砲塔3基ほか
  搭載機:7機、カタパルト2基
  建造所:日本、呉海軍工廠
  運用者:大日本帝国海軍
  因みに、戦艦武蔵は、大和撃沈にさかのぼること、約
 5ヶ月半前の1944年10月24日に撃沈されていたが・・、
  日本が、真珠湾攻撃をした頃は、航空機・戦闘機で、
 軍艦などの艦船は沈められないと言われていた。
  しかし、日本は、この真珠湾攻撃の時、戦闘機に、魚
 雷を抱かして、海へ投入する攻撃方法を生み出した。
  日本人の叡智が、この攻撃法を生み出した。
  海への投入角度などの研究と訓練を重ね、艦船撃沈の
 効果ある攻撃法だとして確立した。
  それによって、真珠湾攻撃が行なわれ、航空機による
 攻撃が、絶大なる戦果を上げた。
  しかし、戦争末期、不沈艦として戦場に投入された「
 大和」「武蔵」は、
  その建造の秘密情報をすでに知っていたアメリカは、
 その攻撃法を練った。
  結局、やったことは、日本と同じだった(真似)。
  戦闘機に魚雷を抱かせ、訓練を重ね、日本の真珠湾攻
 撃と同じように、戦闘機からの魚雷によって「大和」や
 「武蔵」の戦艦を撃沈した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月24日

(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)

題:(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年11月20日、 「大阪毎日新聞」の発刊
  1876年(明治9年)創刊の「大阪日報」を、1888年(明
 治21年)「大阪毎日新聞」と改題した。
  大阪日報をあらため、大阪毎日新聞が創刊された。
  当初、東海散士主筆のもと、政治色の強い紙面を構成
 したがふるわず、しだいに穏和な論調に。
  1882年、筆禍対策の「身代り紙」として興された「日
 本立憲政党新聞」に事実上受け継がれた。
  1885年、「大阪日報」に題号を戻し、いったん休刊の
 後、
  1888年11月、大阪実業界の支援により「大阪毎日新聞」
 として再発足した。
1888年11月26日、大隈重信(黒田内閣外相)が、大審院外
 国人判事任用の条約改正案を、この日、ドイツ公使に手
 渡し、以後、各国公使にも手渡す。
  大隈は、薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣・黒田清隆に、
 条約改正を任されるという体制にあった。
  大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不
 利であるという認識に立って、
  列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用
 した。
  それにより、1888年11月30日に、駐米公使兼駐メキシ
 コ公使の陸奥宗光が、メキシコとの間に日墨修好通商条
 約を締結することに成功した。
  これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約
 であった。
  これにより、メキシコ合衆国国民は、日本の法権に服
 することを条件に、内地開放の特権が与えられた。
  陸奥は、この後、すぐにアメリカとの交渉に乗り出し
 た。
  この時は、調印に至らなかったが・・、
  以後の流れは・・アメリカと新条約を調印。
  ドイツ・ロシアとも調印(発効せず)
  イギリス誌「タイムズ」が大審院に外国人判事を任用
 する大隈草案を掲載した(1889年)
  この後、日本国内で違憲論が起きた。
  そして、大隈遭難事件が起きる(大隈外相が、玄洋社
 の前社員の爆弾テロで負傷した)
  条約改正交渉は中止となる。
1888年11月26日、枢密院が、衆議院議員選挙法の審議を開
 始した。
  1888年4月に、憲法草案を審議するために枢密院が設け
 られたが、枢密院は、天皇陛下の最高顧問機関だった。
  条約改正交渉で、伊藤首相の退任を要求する声が高く
 なり、伊藤博文は枢密院議長に転出した。
  そして、黒田清隆が首相に就いた。
  そして、この年・1888年6月~翌年・1889年1月まで、
 枢密院での審議が行われて、大日本帝国憲法と、その付
 属法、及び、皇室典範が決められた。
1888年11月26日、東京(築地)に、海軍大学校が開校された。
  日本海軍の上級将校教育機関。
  今・現在、海上自衛隊には、海上自衛隊幹部学校があ
 り、これに相当する。
  1888年7月14日、勅令第55号により海軍大学校官制が
 制定され、
  1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長井上良馨が兼任し、
  1888年11月26日、授業が開始された。
1888年11月30日、日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこう
 つうしょうじょうやく)
  条約改正後、最初の締約である日本・メキシコ間に対
 等条約が成立した。
  はじめての対等の通商条約で、治外法権が無く、関税
 自主権のある、平等条約であり、メキシコにとっては、
 アジアの国と初めて締結した条約であった
  ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ
 公使ロメロとの間で協議された(大隈重信外相)。
  この頃、大隈外相は、大審院に外国人判事を登庸する
 などを骨子とする新通商条約案を各国公使に通告した。
  この頃は、安政の五カ国条約として、アメリカ(日米
 修好通商条約)、オランダ(日蘭修好通商条約)、ロシ
 ア(日露修好通商条約)、イギリス(日英修好通商条約)、
 フランス(日仏修好通商条約)と不平等条約の状態にあ
 り、李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が
 有利)を結んでいて、
  平等条約は、清と結んでいる日清修好条規のみだった。
1888年11月、初の少年雑誌「少年園」が創刊した。
  最初の本格的児童雑誌といわれている。
  文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、
 教育・啓蒙を発刊の主旨とした。
1888年12月2日、東京人造肥料会社が、過燐酸石灰肥料の生
 産を開始した。
  1887年4月 高峰譲吉博士が、イギリス留学中に化学肥
 料製造工場を見学した内容を日本に紹介した。
  これを受けて、渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝
 (当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界の首脳が
 発起人となって前身である東京人造肥料会社を設立した。
  別史料:1887年2月、東京人造肥料会社(のちの東京人
 造肥料株式会社)設立 (日産化学ホームページ)
  別史料:1887年2月、東京人造肥料株式会社の設立準備
 会が発足し、社長に渋沢栄一、技師長兼製造部長に高峰
 譲吉の就任が内定する。
  1887年3月、高峰は、農商務省に在籍したまま人造肥料
 製造機械及び原材料買い付けのため欧米に出張する。
  1887年11月、高峰が帰国し、
  1887年12月、東京人造肥料株式会社が正式に設立され、
  1888年9月から本格的な製造が開始された。
  因みに、同社は、日産化学工業株式会社として現在に
 至っている。
  (参考)に、高峰は、1888年3月、5年間、勤務した農
 商務省を退職し、研究者県起業化としての道を本格的に
 歩むことになる。
  渋沢は、「元来は学者であるけれども、一面において
 事業を処理していく才能を持っている」と、高峰の企業
 家としての能力を高く評価した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:熱烈なキリスト教信徒だった「 ルーズベルトの評価 」
    その行動は、大きくキリスト教的考え方に影響されていた。
.
1945年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった。
  ルーズベルトは、アメリカでも、「戦争を引き起こし
 た張本人」と描く書籍が、今でも、毎年の様に書店に並
 ぶ。
  また、ルーズベルトが、脳出血で倒れ、結局、これが
 原因で亡くなるのだが、
  この時、ルーズベルトの傍らには、ずーっと、愛人が
 いた。
  この事は、20年間、アメリカでは秘密にされた。
  妻への連絡も遅れるという異常な状態だった。
  ルーズベルトは、1945年4月12日、午後1時15分、倒れ、
 その日の午後3時35分に、こと切れた。
  63歳だった。
  約10時間の後、ソ連のアメリカ大使館に伝えられ、
  ソ連のアメリカ大使は、ソ連側へ緊急電話を入れ、そ
 の事情を伝え、スターリンへの会見を申し込んだ。
  その7時間後、クレムリンを訪れたアメリカ大使に会う
 と、スターリンは、自ら出迎える態度を示し、
  わざわざドアまで足を運び、アメリカ大使を驚かせた。
  スターリンは、悲嘆にくれた表情で、アメリカ大使の
 手を30秒以上も握りしめ、お悔やみの言葉も早々にして、
 スターリンは言った・・、
  「新大統領の下でも、アメリカの政策は変わらないの
 でしょうね、私は変わらないと信じる」・・と。
  政策とは・・、ヤルタ合意の事であって・・、
  スターリンが、ルーズベルト大統領から言われている、
 「日ソ中立条約を破棄して、日本へ戦端を開き、日本の
 領土を取る」と促され、そそのかされたことなどの事だ
 った。
  アメリカは、そのソ連の行動を認めるという事だった。
  スターリンは、繰り返し、繰り返し、そのことを確か
 めたのだった。、

1945年4月12日、ルーズベルトは、アメリカのジョージア州
 の静養地で死に至る脳出血に倒れた。
  愛人のラサフォードが付き添っていた。
  妻のエレノアは、大分、時間が経った、その日の深夜
 になって、やっと、そのことを知った。
  エレノアは、従姉妹(いとこ)のローラとは中が悪か
 った。、
  エレノアは、その中の悪い従姉妹のローラに、ルーズ
 ベルトが倒れた時の様子を聞いた。
  ローラは、復讐の意味を込めて、エレノアに、愛人の
 存在を告げた。
  エレノアは表情一つ変えなかった。
  しかし、エレノアの長女・アンナは、父親と愛人の関
 係を、すでに、知っていて、その事もこの時、同時に知
 ったのだが、エレノアは、この長女に裏切られた方に、
 大きなショックを受けた。
  ルーズベルトと言うと「ニューデール政策」が有名だ
 が、この政策の柱になった失業者入植運動「アーサーデ
 ール」は、エレノアの発案だった。
  妻のアイデアを、ルーズベルトは拝借したのだった。
.
  そして、次の話・・
  追い詰められた日本、2ヶ月後に、日本は降伏するが・・
  日本は、その様に追い詰められている日本であったが・・
  アメリカ兵を丁寧に葬るという日本だった。
.
1945年6月12日、静岡空襲、その時の犠牲のアメリカ兵を弔
 う日本人。
  アメリカが、国際法違反の一般市民をターゲットにし
 た。
  静岡市民をターゲットにしての空襲を行なった。
  日本は、真珠湾攻撃の時、一人も、アメリカ国民の
 方々(アメリカ市民)への攻撃や空襲を行っていない。
 殺していない。
  しかし、このアメリカは、本当に、無制限に、日本の
 一般市民を攻撃し、殺戮し続けた。
  この静岡空襲の時、アメリカのB29爆撃機が、静岡上
 空で衝突事故を自軍機同士で起こし、墜落した。
  静岡の優しい日本の国民の方々は、この事故の墜落で
 亡くなったアメリカ兵を賎機山(しずはたやま)に葬り、
 慰霊碑を建立し、1972年(昭和47年)から、毎年、その
 アメリカ兵の霊を慰める慰霊祭を開催している。
  今では、アメリカ軍も参列している。
  また、よく嘘を付くルーズベルトが、「真珠湾攻撃は
 『奇襲』だと嘘を言った」が・・、
  (因みに、ルーズベルトの言葉に、『嘘をついたって
 いいのだ』という言葉がある)
  この事も、おとなしい日本人は、静かにしている。
  奇襲ではない。
  アメリカ国民の方々は、今でも真実が知らされていな
 いで、「真珠湾攻撃は、奇襲だった」と信じている。
  ルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣伝)だと知らない。
  この逆に、日本が、プロパガンダを言うことはない。
  (参考):
  静岡大空襲は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)
 6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29
 爆撃機137機により旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)
 の市街地が受けた空襲。
  マリアナ諸島から飛び発ったアメリカ軍第314航空団の
 空の超要塞と名付けられたB-29大型戦略爆撃機137機は、
 伊豆半島波勝崎付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空
 を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かう
 が、一旦静岡市街上空を通過し、御前崎上空から再び静
 岡市街上空へと向かった。
  3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発、被害
 は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸
 に上った。
  この静岡大空襲を含め、旧静岡市は1944年(昭和19年)
 暮れから終戦迄に合計26回の空襲を受けている。
.
  そして、次の (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、世界を繰る・・
    そして、NHKも「フィクションだ」「作り話だ」「嘘話だ」と言い訳をして、繰る・・
.
1909年、リーという中国系の男に繰られるアメリカ、そし
 て、そのアメリカが、世界を繰る。
  この年、アメリカ社会に恐怖を与える本が出版された。
  この本を書いた男が、ホーマー・リー。
  この男は、アメリカのコロラド州に生まれた作家・冒
 険家・戦略家。
  ロサンゼルスの中国人社会やチャイナタウンで影響を
 受けた。
  ルーズベルト政権支援の中国貿易の代表にもなった。
  (ルーズベルトは、「私の先祖は、中国貿易に従事し
 ていて、私は、中国人に親しみがある」と言い、
  「そんな私が、日本をやっつけようというスティムソ
 ンの提案に同意しないわけがない」と発言していること
 を想起させる)。
  リーは、中国要人が、軍資金が欲しいとアメリカに来
 ると仲介し、便宜を図る事もした。
  中国の孫文の側近として居たこともある人物。
  そして、この男=リーは・・、
  アメリカが、移民した日本人を虐(しいた)げている
 時・・、変な空想小説を書いた。
  (そして、アメリカは、1924年に至り、排日移民法を
 つくり、日本人移民を排除している)
  その本は、「アジア系民族によって滅ぼされるイギリ
 ス」についての空想をデッチアゲた小説をだった。
  日本人へ向けられたアメリカにおける日本人への蔑視
 と虐待があった。
  この様なアメリカの風潮を煽った小説だった。
  しかし、リーは、自分さえ儲かればよいと、書いては
 いけない事まで書いたのが「この本だった」(中国工作
 員だったらしい?)。
  だが、しかし、この男=ホーマー・リーは、この本の
 他にも、1909年にも、日本を貶(おとし)める本を書い
 ていた。
  この本は、ベストセラーとなり、大変、儲けたリーは、
 味を占めた。
  同じことを、第二次世界大戦直前にもした。
  1909年の日露戦争後の時も、アメリカ社会に大きな影
 響を与えていた。
  リーは、第二次世界大戦の直前にも、この様な小説を
 書いた。
  本の題は、「無知の勇気」という。
  結論的に言うと、歴史的事実と何も関係ない作り話の
 本で、
  「日本が、フィリピン、ハワイを占領し、開戦の1ヶ月
 後には、アメリカのロサンゼルスに日本軍は上陸すると
 いう、とてつもなく強い日本軍を描き、
  10ヶ月以内には、ワシントンに向けて進撃して行く」
 という、桁ちがいの嘘話となっている。
  アメリカの方々を、「日本への恐怖に突き落とした」。
  その恐怖からベストセラーとなり、本を売ろうという
 魂胆が見える本だった。
  しかし、これは、こんな個人的な儲け話以上に、問題
 の社会現象を作り上げて行った、日本・・恐ろし。
  この事は、当然、ルーズベルトも知っている事だった。
  これと似た、社会を繰ろうという行為をNHKがやっ
 ている。
  巨大な放送媒体を使って、日本全国の茶の間に入って
 行くNHKが、「日本を、視聴者の方々を繰ろう」とし
 ている。
  気に入らない政権を倒そうとするし、
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の「巧妙な
 る伝道行為」も多くしている。
  今・現在でも、ずーっと、キリスト教に偏するNHK
 は、社会を繰ろうと作り話を放送している。
  例えば1例、(読売新聞、2016年12月15日)でも報じ
 ていた。
  キリスト教に偏するNHKは、視聴率の良い日曜大河
 ドラマで、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」を数多く
 行って来たが、歴史的事実などは無視してやって来たが、
  しかし、NHKは、『歴史的事実は尊重している』と
 言って来た。
  しかし、上記の読売新聞で、それまで言って来たNH
 Kの「論理は崩れた」。
  来年(2017年)放送予定のNHK・日曜大河ドラマ「
 井伊直虎」の、「基本的根拠が崩れる新史料」が見つか
 った・・という、読売新聞の報道だった。
  今まで、時代考証を・・ドラマが、歴史的事実と違っ
 ていないというチェックの考証を・・
  東京大学などの権威ある学者に依頼して、
  「歴史的事実と違わないようにしています」という論
 理だった・・が、崩れてしまった。
  また、視聴者から、NHKに多く寄せられる「史実を
 無視しているではないか」というクレームや、
  「史実と違う」という指摘に対して、
  「時代考証をしっかりしています」と答えて来たNH
 Kだった。
  どうしても違ったという場合は、「ドラマを面白くす
 るために、脚本家が、その様にした」・・と、
  脚本家という「他へ、責任を転嫁」して来たNHKだ
 った。
  しかし、この「井伊直虎」の場合は、これからの・・
 直後の・・放送予定であり・・、
  新史料発見が、放送予定直前というということで、ニ
 ッチモサッチモ行かない時であり、
  しかし、この新史実は、根本的な差異であって、
  ドラマの根底が崩れる去るという大きな問題だった。
  従来、「女性と考えられてきた『井伊直虎』が、男性
 だった」というのである。
  女性と男性という、主人公がまったく違うという根本
 的な重大な差異なのである。
  根本的な違いによって、ドラマ全体の根底が、ひっく
 り返る大問題が、急浮上したのである。
  新しいこのドラマの公開は、1か月未満後に迫っている。
  この時の、NHKの説明は・・、
  「ドラマは、あくまでフィクション(作り話し、嘘話)
 ですから、影響はありません」・・と言った。
  あれほどNHKは、「NHK史観」で、時代を捻じ曲
 げ、キリスト教に有利な話をでっち上げ、
  キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしてきたNHK
 が、「史実ですから」と言ってきたNHKが、
  ここに来て・・「作り話ですから」と言った。
  視聴者の方々は・・今までのNHKの口から出まかせ
 の話に、史実と錯覚して来た。
  事実と錯覚して来た。
  視聴率の高いこのドラマを利用して、この様な事ばか
 りして来た。
  フィクション・作り話・嘘話なら、このドラマの放送
 開始と最後に・・、
  「このドラマはフィクションであり、作り話であり、
 史実に基づいて居りません」とはっきりと視聴者の方々
 へ知らせよ!
  事実ではありません!と、視聴者の方々へ知らせよ!
  NHKは、この他にも多くの問題を抱える問題放送局
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月22日

(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)

題:(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月31日、議員法の審議が終了する。
1888年10月、勝海舟が、正三位に叙せられる(氷川清話)
1888年10月、コンドル設計の宮内省庁舎と、木子清敬設計
 の皇居正殿・豊明殿が完成した。
1888年10月、長崎にコレラ流行する。
  「長崎くんち」の奉納踊りが中止となる。
1888年10月、勝海舟の「海軍歴史」編纂(へんさん)成っ
 た。
  25巻(明治22年海軍省出版)(氷川清話)
1888年11月1日、山陽鉄道の兵庫駅~明石駅間が開通した。
  同時に開業した。
  旅客と貨物の取り扱いを開始。
1888年11月1日、馬場辰猪(ばばたつい)が、アメリカで死
 去した(1850年6月24日~1888年11月1日)
  明治期の自由民権家で、土佐藩(高知県)藩士の馬場来
 八虎の次男として生まれた。
  江戸の藩費留学し、福沢諭吉(慶応義塾)に学び、
  1870年(明治3年)20歳、藩命によりイギリスに2回留
 学(1878年まで・・途中、一時帰国)、英国法(法学な
 ど)を修めた。
  滞英中、小野梓らと日本学生会を組織した。
  帰国後、小野らが結成した文化啓蒙団体(共存同衆会)
 に参加して多数の講演を行った。
  これを「共存雑誌」に発表した。
  1881年、31歳、大石正巳、末広重恭らと国友会を組織
 して、長野、山形、新潟などに遊説し、自由主義思想の
 啓蒙につとめ、
  1881年(明治14年)10月、自由党創立とともに常議員
 に選ばれ、同党の理論的支柱として活躍した。
  しかし、1882年(明治15年)板垣自由党総理の外遊に
 反対し常議員を辞任、
  1883年(明治16年)9月、自由党を脱党した。
  1885年(明治18年)11月、爆発物取締罰則違反容疑で
 逮捕されたが、
  1886年(明治19年)6月、無罪放免となり、まもなくア
 メリカに渡った。
  全米各地で、日本の実態を紹介する講演や明治政府の
 専制ぶりを批判する論説を発表するなど精力的な活動を
 続けたが、
  1888年(明治21年)夏以降、体調をくずしペンシルベ
 ニア大学病院に入院、満38歳で客死した。
  遺著『日本政治の状態』の表紙にみえる「頼むところ
 は天下の輿論、めざす仇は暴虐政府」の言葉は、彼の執
 念を示すものとして有名。
  <著作>『馬場辰猪全集』全4巻
  <参考文献>安永梧郎『馬場辰猪』、西田長寿「馬場辰
 猪」(明治史料研究連絡会編『民権論からナショナリズム
 へ』)、萩原延寿『馬場辰猪』
1888年11月1日、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)
 の浅草文楽座での万国第一等手品が評判となり、60日間、
 興業が行われた。
  奇術師・松旭斎天一は、越前福井藩の陪臣・牧野海平
 と妻音羽の長男として生まれた。本名:服部松旭。
  家断絶により、叔父の唯阿が、住職を勤める阿波国(徳
 島県)西光寺へ移住した。
  同寺で孤児となり仏門に入ったが、宗教の奇跡を自作
 自演して破門にされた。
  大道芸の手品師となる。
  1878年(明治11年)イギリス人・ジョネスと共に上海
 へ渡り、西洋奇術を学ぶ。
  大仕掛けな舞台奇術を志し、
  1888年(明治21年)浅草の文楽座で水芸、大砲芸や宗
 教劇奇術で成功した。
  欧米巡業(1901~05)後は、歌舞伎座をはじめ、全国の
 大劇場に出演した。
  大道芸の手品を近代的な舞台奇術にまで発展させた。
  <参考文献>青園謙三郎『松旭斎天一の生涯』
1888年11月5日、日本画家:狩野芳崖が没した(61歳)
  1828年(文政11年)1月13日、長門(ながと)国(山口県)
   長府藩の御用絵師・狩野派の四代董信(ただのぶ)(
   晴皐)の長男として生まれた。幼名:幸太郎。
   家は、代々、毛利家の御用絵師をつとめていた。
   狩野派の絵師の父に手ほどきを受けていた。
   また、同家の菩提寺である覚苑寺の霖竜和尚に参禅、
   大きな精神的感化を受ける。
   後に、「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は
   法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も、
   霖竜から与えられたものという。
  1841年、(13歳)この頃より、松隣,松林と号した。
  1846年(弘化3年)18歳、江戸に出て、木挽町、狩野勝
   川院雅信(ただのぶ)に入門し、たちまち頭角を現
   した。
  1849年(21歳)この頃、勝海雅道(ただみち)の称を
   許された(師の一字を受けて勝海と号した。
  1849年(21歳)芳崖と同日入門の橋本雅邦(がほう)と
   ともに、その英才を謳(うた)われ、竜虎とうたわ
   れた。
   佐久間象山(しょうざん)にも学んで、進取の気性に
   富み、狩野派の粉本主義に疑問を抱いて、従来の狩
   野派の筆法に西洋画の画法を取り入れた。
   新しい日本画の領域を開拓した。
   独創を試み、危うく破門されるということもあった。
  1850年(22歳)この頃、塾頭となる。
  1852年頃(24歳)師の名から一字を得て雅道と号して
   独立、長府藩の御用絵師となる。
  1855年(安政2年)27歳(30歳ころともいわれる)、帰
   郷、雪舟・幸村らの作品に傾倒し、この頃から、芳
   崖と号した。
  1860年、32歳、ふたたび江戸に出て、江戸城本丸再建
   に際し、大広間天井画を描く。やがて江戸払いとな
   って郷里に戻る。
   幕末は、国事に奔走し,馬関海峡の測量図などを描く。
  1871年(明治4年)43歳、廃藩置県で禄(ろく)を失った。
   そのため、生活に困窮し、他業に転じるなど辛酸を
   なめた。
  1877年、49歳、上京、精工社で輸出用陶器や漆器の下
   絵描(か)きなどに従事したが、貧窮を極めた。
  1879年頃(51歳)「犬追物図」制作のため島津家雇と
   なる。
  1882年、54歳、アーネスト・フェノロサの知遇を得た。
  1884年、56歳、第2回内国絵画共進会に出品した『桜下
   勇駒図』『雪山暮渓』が、フェノロサに認められ、
   フェノロサを介して岡倉天心とも親交を結び、
   鑑画会に加わって新しい日本画の創出に力を注ぐこ
   とになった。
   図画調査会雇となる。
  1885年、57歳、第1回鑑画会大会で「伏竜羅漢図」が3
   等賞となった。
   文部省図画取調掛雇となり、フェノロサや天心と力
   をあわせて東京美術学校の創設に努めた。
  1886年(58歳)第2回鑑画会大会で一等賞を受賞した
   『不動明王図』(重要文化財)は、西洋の絵の具を
   用いた色調が鮮やかで、構図の斬新(ざんしん)さと
   ともに、新しい表現を切り開く強い意志をうかがわ
   せる。
   鑑画会の中心作家として、フェノロサと二人三脚で
   日本画の近代化を進めた。
   代表作は、この晩年の数年間に集中しており、ここ
   に至って、狩野派、室町水墨画、維新後の明清画研
   究に、遠近法や西洋的色彩などの西洋絵画研究が加
   えられ、それらが集大成された。
   「不動明王図」「岩石図」「暁霧山水図」(いずれも
   東京芸大蔵)のほか、絶作「悲母観音図」(東京芸大
   蔵)は、日本画近代化の第一段階における記念碑的作
   品ともなっている。
   フェノロサ、ビゲローらとの関係から、アメリカの
   ボストン美術館、フィラデルフィア美術館、フリア
   美術館にも作品が収蔵されている。
   図画取調掛雇となる。
  1888年(60歳)同校の日本画科主任教授に内定したが、
   1889年の翌年の開校を待たず(開校の3ヶ月前)の
   1888年(明治21年)11月5日、60歳で没した。
   死の直前に完成した『悲母観音』(重要文化財)は、
   近代日本画の代表作の一つとして名高い。
   この他の代表作として「大鷲」
   『河北倫明・高階秀爾他編『日本の名画1 狩野芳崖』
1888年11月15日、天竜川に鉄橋架設が竣工した。
  早川橋梁(出山鉄橋)
1888年11月16日、今日新聞と歌舞伎新報を吸収して、都(
 みやこ)新聞が創刊された。
  1884年9月、小西義敬により夕刊紙「今日新聞」として
   東京で創刊された。
   初代主筆は、仮名垣魯文として、夕刊紙『今日新聞』
   が創刊され、
  1888年11月、黒岩涙香主筆の朝刊紙『みやこ新聞』と
   なり
  1889年2月、『都新聞』と改題(朝刊紙となる)
   小説や歌舞伎・花柳界関係、演劇・文芸記事に特色
   があって下町好みの新聞であったが、
  1892年,改進党の楠本正隆の買収後、政治的には改進
   党寄り,後には、政友会系といわれたが、
   党派色は薄く、日露講和反対運動で,マスコミの大
   勢に従った程度にとどまった。
   内容は、歌舞伎、花柳界などの通俗記事と、小説の
   充実を本領とし、黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園
   の探偵実話、劇評などにより、東京下町を中心に読
   者を集めた。
  1942年、新聞事業令 (1941年12月、公布) により『国
   民新聞』と合併、夕刊地方紙の『東京新聞』となっ
   た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦の原因を作ったスティムソン(アメリカの国務長官)
.
1933年1月9日、この日から約2ヶ月の後に、ルーズベルトが
 大統領に就任(1933年3月4日に、第32代大統領となる)
 するのだが、
  この日に、スティムソン(ルーズベルトの前の大統領
 のフーバー大統領の国務長官)が、ルーズベルト宅に訪
 れた。
  ルーズベルトとスティムソンは、これが、最初の出会
 いだった。
  スティムソンは、自分の考えを伝えた。
  ルーズベルトは、スティムソンの話を聞き、スティム
 ソンの考えに全面的に同意した。
  そして、ルーズベルトは、後悔したように言った・・、「
  もっと早く(日本への経済制裁を)実施させるべきだ
 った」・・と。
  さも、「失敗した」というように舌打ちをした。
  そして、「日本は、いずれ屈服するだろう」と言った
 (スティムソン日記)。
  ルーズベルトは、このスティムソンの考えの継承を、
 アメリカ国内、および、世界に発表した。
  しかし、スティムソンと違ったところは、「スティム
 ソンが、日本への経済制裁をしても、戦争につながらな
 い」と考えていたのに対し、
  ルーズベルトは、「必ずしも、戦争につながらない事
 もない、戦争に至ることもありうる」と考えていた。
  そして、側近のタグウェルから、「戦争の危険」を言
 われると・・、
  「戦争になるなら、早い方がよい」と、戦争を避けよ
 うという意思はないという所を見せた。
  ルーズベルトは、完全にアメリカが強い状況にあるか
 ら、早いうちに「力で屈服させよう」という路線の中に
 あった。
  話し合って、とことん話し合って、「卑劣な武力行使
 である戦争」は、避けようという姿勢ではなかった。
  ルーズベルトのこの軍事優先の考え方に対し、抗議の
 手紙が来た。
  この事について、妻のエレノアへ「日本が悪いと責任
 を転嫁した」。
  その様な捉え方で、話し合いではなく、戦争に至るの
 はやむなしと考える、思考停止しているルーズベルトだ
 った。
  「日本が、誇大妄想に取りつかれているから」と、思
 考展開して、ルーズベルトは、日本を捉えていた。
  その日本に対する「固定的捉え方・固定観念」から、
 ルーズベルト自身は、「戦争行為の実施・・やむなし」
 の考えに取りつかれていた。
  妻のエレノアによると、ルーズベルトは、ウッドロー・
 ウィルソン政権(第28代大統領、1913年3月4日~1921年
 3月4日)の海軍次官補だったころから、
  ルーズベルトは、ハワイやグァム島や太平洋の島々に
 ついての日本に対する脅威や安全に不安を持っていた。
  そして、話し合いで解決するという考え方より、「日
 本を仮想敵国と見て叩く」ルーズベルトが、そこに居た。
.
1933年1月9日、ルーズベルトが大統領になってない、約2ヶ
 月前のルーズベルトの前の大統領であるフーバー大統領
 (第31代大統領)の国務長官であるスティムソンは、ル
 ーズベルトの「ある言葉」を聞いて思った・・、
  「(ルーズベルトは)いわゆる侵略による領土の変更
 を認めないという(前政権の)原則を受け継ぐことを明
 らかにした。
  ‶侵略国〟というあいまいな定義だけで、国際紛争にお
 ける中立の立場を捨て、一方の国に制裁を加えるという
 誤った政策を意味している。
  極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じこと
 だ。
  いずれ米英が、日本に対し戦争を仕掛ける事になるか
 もしれない」・・と。
  スティムソンは、アメリカが、イギリスと共に、日本
 との戦争になると感じた。
  ルーズベルトは、この様に大統領になる前から、日本
 との戦争に至る路線にある大統領だと感じさせた。
  日本が、真珠湾攻撃をしたから第二次世界大戦がはじ
 まったのではなかった。
  ルーズベルトには、日本との戦争を、大統領として行
 う行為として、大統領になる前から意識し、存在させて
 いた。
  これまでのアメリカには、分岐点があった。
  日露戦争までは、日本の支援国であった。
  日本が、精一杯、ロシアと戦っている時、絶妙のころ
 合いに仲介してくれた。
  日本は、ロシアとの戦いに「勝利」という結果を得た。
  満州を、ロシアから日本へ移譲(いじょう、権利が移
 ること)された。
  日本の『侵略ではない』。
  アメリカには、判断の分岐点があった。
  このアメリカが仲介して、ロシアから移譲され、権利
 が、ロシアから日本へ移った満州を、アメリカは承知で、
 戦争の仲介しておきながら・・、
  その後、手のひらを返したごとく『侵略だ』と言い出
 した。
  これは、アメリカが、大義名分を作りたかったからだ
 った。
  だから、この様に言い出したのだった。
  一時、日本を理解し、同じ立場を取ったアメリカだっ
 たが・・、
  しかし、東アジアの小さい国・日本が、侮(あなど)
 れない国という意識が芽生えた。
  日英同盟の破棄するように、アメリカは、動いた。
  日本とイギリスを分断する行動をした。
  1902年に結ばれた日英同盟は、1923年に失効とされた。
  アメリカと共に日本は、イギリスとも、袂(たもと)
 が分かたされた。
  アメリカ・イギリスなどと対峙する立場という「好ま
 ざる立場」に立たされた。
  モーリーは、大統領就任前のルーズベルトを、レック
 ス・ダグウェルと共に訪ね・・、
  国務長官の『スティムソン外交の好戦性』を説き、
  このままでは戦争に至ることを説こうと、ルーズベル
 トを訪れた。
  しかし、ルーズベルトは、数時間におよぶ説得を聞い
 たのち、
  日本との戦争は避けられないと言い、
  避けるより、早い時期に戦った方がよい・・と・・平
 然とルーズベルトは答えた。
  驚いたダグウェルが・・、
  「ですが、日本は、人口増と急激な工業化で、新たな
 市場を必要としている。
  日本の行動が、イギリスと比べて酷いとは思えない(
 イギリスの方が酷い)」・・と言った。
  すると、ルーズベルトは・・、
  「私の先祖は、中国貿易に従事したことがある。
  だから、いつも、私は、中国人には親しみがある。
  そんな私が、日本をやっつけようというスティムソン
 に同意しないわけがないではないか」・・と。
  (「FDRのニューヨーク時代」ケネス・デービス著)
  (参考)
  モーリー(レイモンド・モーリー)は、ルーズベルト
 大統領を支援し、ニューディール政策の策定に当たった。
  だが、1933年9月、モーリーは、連邦政府の権限拡大に
 反対し、国務次官補を辞任した。
..
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2016年12月17日

臨時ブログ:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、

臨時ブログ*:私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて
  来た日本独特の精神文化を思い出しなさい。
   そして、日本に強くありなさい・・という励ましの
  メッセージが込められている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 イスラエルのヘブライ大学にベン=アミー・シロ二ー教
授という方が居られる。
 この方は、日本の勲2等瑞宝章を受けている。
 この方は、杉浦千畝の本当の姿を暴露している。
 以下は、この教授の話を要約し、まとめたものである。
 杉浦千畝と言えば、キリスト教が「日本を貶(おとし)
め、そして、キリスト教徒の杉浦千畝が素晴らしいことを
したとデッチアゲタ話」である。
 キリスト教は、杉浦千畝が、キリスト教徒だったからユ
ダヤの方々を助けたのだと、嘘の話をデッチアゲタ。
 その時、日本は、ユダヤの方々にビザを発給してはいけ
ないとして、ユダヤの方々を虐(しいた)げていたという
嘘の話をデッチアゲてまでして、日本を貶(おとし)めた。
 キリスト教は、本当に嘘ばかり言う宗教である。
 しかし、嘘をついて、日本を貶(おとし)めるところま
でやる行為は、「絶対に、許せない」。
 「自分の宗教・キリスト教を美化したいからと、日本を
貶めることまでするという行為は許せない」。
  この様に、キリスト教は、嘘ばかり言う宗教である。
  また、この様な類いの日本を貶める話を、世界に発信
している宗教である・・本当に始末に負えない許せない宗
教である。
 また、キリスト教に偏するNHKは、この嘘のキリスト
教の話を、そのまま、日本全国に放送している。
 そして、日本の貶め放送を世界へ配信している。
 酷いNHKとなっている。
 そしてまた、最近は、腰ぎんちゃくの様に読売新聞まで
が、この嘘話に乗っかって、間違いの嘘話を記事を書いて
いる。
 ベン=アミー・シロ二ー教授も、ナチスドイツの迫害を
受けている方で、
 日本関係の書籍も、多数、書かれている方である。
 世界に名高い日本研究者で、名誉教授になられている。
 東アジア学科教授となって、毎年、500名を超える学生
に、日本の歴史や文化の講義を続けている。
 ヨーロッパやロシアは、宗教はキリスト教で・・そのキ
リスト教において・・「イエス・キリストを殺したのはユ
ダヤ人だ」と、ユダヤの方々を虐(しいた)げている。
 日本には、当然、昔から、その様なユダヤの方々に対す
る差別はない。
 勿論、虐げ行為もしていない。
 ヨーロッパでの1例・・キリスト教徒のシェイクスピアを
例に言うと(古代から、キリスト教は、ユダヤの方々を虐
げて来た))、
 彼の戯曲でも、ユダヤの方々を、金貸しとして悪どく描
き、金が返せなければ、「人肉で返せ」と言うなどと、
ユダヤの方々を卑劣に描いている。
 この例でも分かる様に、キリスト教は、ユダヤの方々を
卑劣に処遇した。
 スペインというキリスト教国は、どこまでもユダヤの方々
を追いかけて、宗教裁判で殺した。
 コロンプスとその船員たちも・・それから逃れた人々だ
った。
 日本は、明治の時代も、ユダヤの方々を『お雇い外国人』
として日本へ招聘し、教師として尊敬し、多くを学んだ。
 当然、差別なく遇した。
 例えば、アルベルト・モッセは、ドイツ系ユダヤ人の方
だったが、伊藤博文は、明治憲法を作る時は、多くのアド
バイスを戴いた。
 また、日本は、本当にユダヤの方々に感謝しなければな
らないのが、日露戦争の時のことである。
 『ポグロム』という卑劣な行為が、ロシアにおいて、ユ
ダヤの方々に対して行われていた。
 反ユダヤのツアー政府でも行われた・・このポグロムは、
ロシア語で『破壊』とか、『破滅』を意味する言葉である
が、
 ユダヤ人の方々に対して行われる集団的な・・あらゆる
種類の迫害で・・「殺戮」「略奪」「破壊」「差別」など
を言う「卑劣な行為のこと」である。
 その様なロシアという大国を・・小国の日本が「打ちの
めした」のが日露戦争だった・・、
 ユダヤの方々は・・たいへん大喜びし、沸き立った。
 それより、日本が・・ユダヤの方々へ感謝しなければな
らないことは、「日露戦争を戦う資金が全くなかった」の
を救って戴いたことだった。
 アメリカも、イギリスも・・貸そうとはしなかった。
 その様な時、ヤコブ・シフという有名なユダヤ人の銀行
家が、日本へお金を貸してくれたのである。
 「日本は負ける」という世界の見方をかえりみず・・お
金を貸してくれたのだった。
 日本が負けたら返って来ないお金を・・貸してくれたの
だった。
 「返金されないリスク」を背負ってくれたのだった。
 しかも、イスラエルの英雄となっているヤコブ・シフは、
友人の銀行家がたへも協力を求め・・軍資金集めをして戴
いたのだった。
 高橋是清が財務大臣として、軍資金集めに、ヨーロッパ
へ行き・・そして、ロンドンへ赴いて・・会議の場で・・
軍資金を必要とすると訴えたことに対し、
 アメリカ・イギリスは無視したのに・・その呼びかけに
応えて戴いたのだった。
 ヤコブ・シフは、それだけでなく日本赤十字社などに対
しても多額の寄付をして戴いている。
 1905年に、ヤコブ・シフは、日本に招かれ、明治天皇陛
下との謁見も果たし、
 日本は、首相をはじめ、全会議、そして、多くの人々が
感謝の意を示した。
 明治天皇陛下から、勲一等旭日大綬章を授けられた。
 また、イスラエル国歌の「ハティクバ(希望)」を作詞
したナフタリ・インベルも、大変な親日家で、日本ファン
だったが、
 日本の勝利を知って、大いに喜び、その詩を、英語・ヘ
ブライ語・イーディッシュ語で発表し、ニューヨークで出
版し・・そして、明治天皇陛下に捧げた。
 ユダヤ人の方々は、「ユダヤ人の報復を、ユダヤ人に代
わって日本が、ロシアへ行なった」と言い、思った。
 この時のユダヤ人の方々の日本への愛は、熱狂的だった。
 日本の連合艦隊司令長官の東郷平八郎(とうごうへいは
ちろう)、
 ロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎の名前を
付けるユダヤの方々も多くいた。
 その一人が、今、エジプトで有名な映画プロデューサー
となっている。
 そして、トーゴー制作所は「今でも活躍している」。
 ロシアは、ユダヤの方々を、兵士として、多くの方々を
徴兵していた。
 いや応なく、ロシア兵として戦い、ユダヤの方々は亡く
なった。
 そして、日本の捕虜になった方々もいた。
 しかし、勿論、日本は、そのユダヤ人の方々を差別する
ことなく対応した。
 ユダヤの捕虜の方々は、日本で温かいあつかいを受けた。
 収容所の中で、シオニスト・グループさえ作ることが出
来た。
 そして、兵士たちにヘブライ語を教える事も出来るよう
に扱われ、また、自由に手紙を書くことさえも許された。
 この捕虜の方々は、世界中のシオニストグループへ、こ
の収容所から手紙を書いて・・活動さえできた。
 そして、戦後、自由の身になっても、ロシアに戻ること
を拒否した。
 ロシアなんか戻りたくないと、長崎などに住みついたの
だった。
 ロシア革命の時、赤軍を、トロツキーというユダヤ人が
率いていた。
 それ故に、「彼らユダヤ人が、革命を始めた」と決め付
けられた。
 「ユダヤ人が、世界を制覇しようとしている」と嘘宣伝
された。
 反ユダヤ主義が語られた。
 「革命の張本人は、ユダヤ人だ」として、アメリカやイ
ギリスは、日本に、シベリアへ出兵をしてくれと頼んだ。
 アメリカ・イギリスは、他に出兵中で、シベリアには出
兵できず、日本へ「赤軍壊滅」を要請した。
 日本は、この要請に応え、出兵し、南シベリアやウラジ
オストクなどを管理下に置いた。
 『侵略』ではない。
 要請に基づく出兵によってであった。
 日本政府は、また、冷静で、偉かった。
 この時、日本は、「この反ユダヤ主義は本当か?」と、
冷静に考えた。
 そして、2つのグループを、その調査と勉強に送り出した。
 その一人が、安江仙弘という日本人で・・、
 彼は、ユダヤ人指導者たちに会い、また、本なども訳し
たりして事実を知り、
 そして、日本に戻ると・・「ユダヤ人はよくやっている」
と報告した。
 その後、この安江仙弘は、ユダヤの方々が満州へ逃れて
来た時に、満州に定住する事を助けた。
 (この地・満州の軍の最高指揮官の東条英機も、定住の
許可を与えた)
 また、内田康哉(やすや)という外務大臣は、戦後、イ
スラエル国の建国を認めるバルフォア宣言を支持した。
 そして、また、日本人は、ユダヤ人のアインシュタイン
を温かく大変な歓迎をもって迎えた、1922年の事だった。
 この年、ノーベル賞をとったアインシュタインは、妻と
ともに日本を訪れた。
 また、1920年から1930年にかけて、多くのユダヤ人音楽
家が日本へ訪れ(虐げから逃れ)、多くの音楽家が、日本
に留まった。
 この後、大戦中に、同盟関係にあるドイツは、これに憤
慨して、「追放しろ」と日本に迫った。
 (1940年9月27日、日本、ドイツ、イタリアの三国同盟)
 しかし、日本は「きっぱり」これを拒絶した。
 「日本は法治国家だ」「日本は法を重んじる国なのだ」
「彼等は日本に留まれるのだ」と言った。
 「何ら悪いことはしていないからだ」と言った。
 多くのユダヤ人の方々が、日本に留まった。
 ナチスドイツは、この様な事を、日本に要求する政府だ
った。
 (しかし、この事実が明白にあるのに、杉原千畝を、キ
リスト教は、千畝がキリスト教徒だということで嘘のデッ
チアゲをした)
 杉原千畝は領事ではなく、副領事なのだが、リトアニア
のカウナスに赴任された。
 千畝が赴任する以前の1930年代には、既に、日本は、「
ナチスのユダヤ人に対する考え方」に対する方針を明確に
決めていた。
 その結果を先に記せば、「何ら他の外国人と同じである、
同等である」という結論だった。
 「差別の『さ』の字もない当然の結論だった」。
 だから、当然、満州に受け入れ、日本に受け入れ、また、
日本の管理下にあった上海にも受け入れた。
 (当時、上海には、イギリス・オランダなどの管理地な
どがあった)。
 ユダヤ人の方々の事は、すでに、1938年に、近衛内閣で
討議され、何ら、ナチスとの同盟とは、当然、関係なく、
その同盟に左右されなく、ユダヤの方々を、他の外国人と
同様に対応すると決定している。
 日露戦争にも応援して戴いたユダヤの方々でもあった。
 公正・公平な日本の当然の帰結だった。
 恩も忘れない日本だった。
 「日本は、昔から人権を大切にする国」だった。
 女性の方々の人権も、同様に差別をする日本ではないこ
とはよく知られている。
 世界で最初の長編小説を書いた紫式部を考えれば分かる。
 紫式部は、差別なく、高い教育を受け、この様な高い芸
術性のある作品を、
 それも、遠い昔に、世界で最初に書いた女性という輝(
かがや)かしい歴史のある日本だった。
 日本が、ユダヤの方々を差別するわけがない。
 逆に、アメリカやイギリスは、ユダヤの方々を差別した。
 アメリカのニューヨークに、船で逃れて来たユダヤの方々
を、「アメリカは、追い返している」のである。
 戦争の世界を、逃げ惑う方々を、救助すべき方々を、可
哀想に、憤りが湧く・・、
 本当に軽蔑すべきアメリカの行為だった。
 この様な事を隠し、嘘のプロパガンダするアメリカや、
イギリスだった。
 現在のトランプ次期アメリカ大統領が、犯罪者の移民は
送り返すと言っている話とは違う・・、
 トランプ氏の場合は、当然であり、当時の日本にも、こ
の様な基準があった。
 しかし、このことを、キリスト教が、過大に、ひん曲げ
て、何も知らない人を誤魔化して、「日本は虐げ行為をし
ていた」というハレンチな嘘発言をしている。
 犯罪者や麻薬中毒者などの移民の排除は、どこの国でも
やっていることを、あえて、取り上げて、国民などへ嘘を
言い続けるキリスト教やNHKの言い方なのである。
 このユダヤの方々の救済と上記をすり替えている。
 そして、美しく杉浦千畝の話を作り上げるキリスト教や
NHKなのである。
 この当時、外交官だった馬淵睦夫氏も・・、
 「当時の、どこの日本の大使館でも、ユダヤの方々へビ
ザを発給していました。杉原千畝だけではありません。日
本の方針が、そうだったのですから」と言われている。
 キリスト教やNHKは嘘を言わない事・・また、特に、
キリスト教に偏するNHKは嘘放送をしない事、そして、
尻馬に乗って嘘記事を書く読売新聞なども・・反省せよ。
  ヒトラーのドイツが、「ユダヤ人が世界を制圧しよう
としている」と言った時・・、
 日本は、「そんなに頭が良い天才ならば、彼等を大切に
して、彼等の優秀さに協力してもらおう」と、半分、バカ
にして、茶化して言うくらいの日本だった。
 千畝の嘘話は、本当に、怒りが湧く嘘話である。
 アメリカやイギリスは、卑劣な事に、ユダヤの方々の通
過ビザでさえ拒否し、そして、「入国を拒否した」。
 ただの「通過ビザ」ですよ・・と、言われるアメリカ・
イギリスだった。
 そこまで拒否し、ユダヤの方々を虐めるアメリカ・イギ
リスだった。
 ユダヤの方々は、それで、已む無く、アメリカ近くのキ
ュラソー島へ行こうと決めた(また、ここは、ビザが無く
ても入国できるという事を発見したからだった、苦労する
ユダヤの方々だった)
  杉原千畝の居た近くのポーランドが、ドイツとソ連に
分けられた事で、特に、千畝のいる地に逃れて来るユダヤ
の方々が多く居た。
 また、近くの国々も、同様な状況から、ユダヤの難民の
方々が多く出た。
 アメリカとイギリスの公館が、ユダヤの方々へ、卑劣な
行為、上記の様にビザを与えることを拒否したから・・ま
た、日本の公館に集中した、
 (この事を、世界の記憶遺産に申請せよ、登録せよ)
 ユダヤの方々は、ヨーロッパには逃れる所がない事に気
付いた。
 そして、満州や日本などへ逃れて来た。
 日本は、ユダヤの方々の救助地となっていた。
 アメリカやイギリスに問題の原点があった。
 因みに、杉原千畝は、怪しまれる人物像だった。
 その怪しさゆえに、その怪しさによって、ソ連は千畝を
拒否した。
 ソ連で、自分の宗教を棄てて、ロシア正教(キリスト教)
になっているのに・・拒否された。
 行動がおかしかった・・、
 また、ソ連女性を妻にもしたが・・拒否された・・
 已む無く、日本政府は、リトアニア赴任とした。
 ソ連で、危険で信用できない人物とされ、日本へ通報さ
れたのだった。
 日本は、杉原を、ソ連から出さざるを得なかった。
 日本は、逆に、リトアニアから情報を送る役目をさせた。
 杉原は、その様な使い道の人間だった。
 杉原は、この地を探り、地下組織を探りあて突き止めた。
 その仲間たちと連絡も取れるようになった。
 そして、彼らと協力する活動をし始めた。
 彼等のイギリス本部との秘密事項の連絡役をした。
 領事館にも、彼らのメンバーを雇い入れた(杉原を監視
する監視役だったのか?)
 こんな怪しい中の、杉原の所へ、多くのポーランド人が
逃れて来た。
 使われた杉原という立場も見える。
 ここを、キリスト教が美しく仕立てたのだった、嘘も使
って・・。
 キリスト教は、千畝が、多い数のビザを出したとしてい
るが・・?
  それでも、ほかの領事館より少し多いくらいだった(
1割~2割くらい多い程度)、
 つまり、他の領事館も同様な事をしていたのだ(アメリ
カ・イギリスはやらないし・・)。
 ユダヤの方々は、ソ連が通過できるので、(ソ連は、ユ
ダヤの方々へビザを拒否していたが、通過は許していた)
そのルートで逃れた。
 ロシア領事館に1億ドルくらいの金を使ったという話も
ある。
 (アメリカなどに居たユダヤの方々のお金が使われた)
 ユダヤの方々は、ロシア領を通り、満州へ入り、また、
ウラジオストクから船で日本に入国した。
 満州に定住し、また、日本へも入国もした。
 ユダヤの方々は、日本に入国する時に、日本はドイツと
同盟を結んでいる国だから、「強制収容所に叩き込まれる」
のではと心配し、思っていた・・しかし・・しかし・・、
 日本に入国で来たユダヤの方々は、日本で優しく温かく
迎えられた。
 しかも・・日本は、ユダヤの方々の船を出迎える「日本
政府の船」まで出していて、ユダヤの方々は出迎えられた。
 日本政府は、この様に、ドイツに全く影響されていない。
 杉原千畝のキリスト教・NHKの話は、まったくのデッ
チアゲの嘘。
 杉原千畝の出身の町まで、このキリスト教・NHKの嘘
に引っ掛かって、町の方々の税金を使って「杉原記念館」
まで作っているから・・悲劇だ。
 しかも、この避難したユダヤの方々は、ユダヤ教団があ
る神戸に迎えられている。
 そして、ミール・イエシバ(ユダヤ教学校)の宗教活動
もできて、そして、活動もした。
 また、通過ビザは2週間だったが、「2週間が経たから出
て行って下さい」とも言われなかった。
 「みなさん、2週間の期限がきましたよ」なんて言われ
なかった。
 日本は、すべての事情を理解していた。
 その様な思いやりのある日本だった。
 キュラソー島への行き方も知らないユダヤの方々の事情
もあったし、理解する日本だった。
 逆に、「行く先が見つかるまで居て良い」と言われて、
ユダヤ人の方々が「驚いたくらい」だった。
 この様な日本政府の対応の裏には、小辻節三と、その友
人の外務大臣・松岡洋右(ようすけ)が居た。
 また、上海に向かった人たちは、上海で成功し、長年、
住みつき、大変、裕福になった人たちもいた。
 シロ二ー教授は、「広島・長崎に投下された原爆の一考
察」という論文で博士号を取得された。
 アインシュタインやオッペンハイマーらのユダヤ人の頭
脳を利用して、アメリカは原爆を開発したが、
 このユダヤの開発者たちは、「原爆は、ナチスドイツに
対して使うために開発した」と、明確に言っている。
 アインシュタインが、ルーズベルトに、この事を言って
(原爆が開発できる、ドイツに使用する)、この考えが受
け入れられて、開発が開始された。
 そして、開発のための巨大なシステムが、アメリカ政府
によってつくられ、多数のユダヤ人研究者が動員された。
 その一人のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーは、
ユダヤ系の人で、ロスアラモス国立研究所の所長で、原爆
開発のマンハッタン計画を主導した。
 「原爆の父」を言われている。
 「ヒトラーの行動を止めるのだ」と、難民でもあったユ
ダヤの方々は、この開発の目標に向かって競って参加した。
 しかし、皮肉にも・・彼らの愛する日本に投下されてし
まった。
 シロ二ー教授は、「頑張って、ここは言いたい」と言っ
て言う・・、
 「原爆は、日本に投下しようとして作らされたものでは
なかったのです」・・と。
 「日本に落す理由はまったく無かった」と、シロ二ー教
授は言う。
 「日本に落とす」という情報が流れた時、ユダヤ人の方々
は、大反対して、ルーズベルト大統領に嘆願書を出した。
 その時、副大統領だったハリー・トルーマンも、この事
は知っていた訳で、
 ルーズベルトの急死で、大統領となったその副大統領だ
ったトルーマンは、当然、「この事を知っていた」。
 「投下する必要性のない日本」「すでに滅びていた日本」
 「1945年には、日本は滅びていると世界中が見ていた日
本に、投下する必要性は、誰の目にもなかった」
 そこに、キリスト教の「目には目を」の教義に洗脳され
た復讐思想があった。
 二言目には、アメリカは、「真珠湾を奇襲をした」と、
アメリカは言った。
 しかし、ここで、嘘を言うな・・と、言いたい。
 奇襲なんて作られた話だ・・、戦端は、「アメリカへ先
行していた日本の潜水艦」への、『アメリカによる攻撃』
で、既に、開かれていたのだ。また、日本の電信をすべて
解読していたアメリカは、刻々と伝わる・・ハワイへ向か
う日本の連合艦隊の電信を傍受している。またまた、中国
では、極秘で、ルーズベルトが命令を下している。日本と
戦え・・と、中国にいるアメリカ軍が、既に、真珠湾攻撃
以前に、日本へ攻撃を加えている。これこそ、日本へのア
メリカの奇襲である。日本潜水艦への攻撃を、「あれは、
クジラだ、クジラだ」と嘘を言ったって、数多い日本の潜
水艦が未帰還になっているのだ。こんな数多い日本の潜水
艦のすべてがクジラだったと、アメリカは言うのか?嘘を
言うな・・、
 さらに、アメリカは、「軽蔑すべき嘘の言葉」を連ねる。
 「早く戦争を終わらせて、兵士を母国へ返したかった」
など、原爆投下についても・・屁理屈のオンパレードを繰
り広げている・・原爆投下の「後ろめたさを披露」してい
る・・、
 そして、最後のナレーションで、次の言葉が流れる・・、
 ベン=アミー・シロニー博士は、誰よりも日本の皇室の
存在を理解しています。
 日本民族の歴史を見つめ、日本人以上に、日本の良さを
理解し、
 日本精神を心から愛しています。
 そして、ユダヤ人として、独自の視点で、日本と、日本
人に勇気を与えてくれています。
 シロニー教授の鋭く、深く、そして、愛情に満ちた言葉
に、戦後、私たち日本人が、長い歴史の中で持ち続けて来
た日本独特の精神文化を思い出しなさい、そして、日本に
強くありなさいという励ましのメッセージが込められてい
る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2016年12月14日

(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)470E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月13日、帝国大学文科大学哲学科に精神物理学(
 実験心理学)科目が新設された。
  この年、元良、日本人心理学者として初の博士号取得。
  元良帰国。
  帝国大学文科大学哲学科で「精神物理学」を担当した。
  東京大学文学部心理学研究室、初代教授・元良勇次郎
 先生(在任期間:1890年~1912年、在任中に没する)
  また、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部のホ
 ームページには、以下の興味を引く記述がある。
  心理学は、実に多くの領域と境を接している。
  心理学は、人間の心的、知的な機能を探求するそれ自
 体独立した基礎的な学問である。
  また、一方で「こころ」とは何かということを考える
 と哲学と関わらなければならない。
  生物学的な諸領域、医学とも密接に関連している。
  さらに、電子工学、情報工学など人間の使う機械を作
 り、また、人間の機能を代行する機械を作ろうとする領
 域とも関わっている。
  本研究室では、こうした幅広い領域に関わる心理学と
 いう学問を実験という実証的な手法で取り組む学風を持
 っており、知覚・注意・記憶・思考などの心理現象を精
 神物理学的手法・神経科学的手法・認知科学的手法によ
 って研究している。
  また、文化認識や科学方法論などについても研究を行
 っている。
  したがって本研究室出身の研究者は心理学のみならず、
 幅広い隣接分野において活躍しているものも少なくない。
1888年10月14日、自由民権運動の大同団結民権派の385人が、
 大阪で懇談会を開催した。
  1888年、後藤は、大同団結を唱えて地方遊説を行い、
 雑誌『政論』を発行し、地方名望家層の政党への組織化
 を図った。
  しかし、改進党系の多くは、この動きに加わらず、独
 自の組織化に着手したため、旧自由党系中心の運動に転
 化した。
  1889年3月、しかも、後藤自身が逓(てい)相に就任し、
 運動から退くと、直前の恩赦で多くの有力民権家が出獄
 し指導者に迎えられたこともあって、運動は分裂し、
  大同倶楽部と大同協和会が発足した。
  ここに、大同団結運動は完全に終焉した。
  民党連合の基礎をつくった意義はあった。[
  (1886年末~1889年に、民権派による反政府統一運動)
  1889年、後藤象二郎の黒田内閣入閣で挫折した。
1888年10月14日、皇城二重橋の架替が竣工した。
  二ヵ年を要し、鉄橋として架け替えられ竣工した。
  但し、二重橋と名付けられた経緯には、諸説があるの
 で注意を要す。
  因みに、鉄橋の手前に、1887年に完工した石橋(西ノ
 丸大手橋)があり、
  郵政省は切手のデザインにおいて「二重橋(石橋・鉄
 橋)」と記している。
1888年10月21日、井上毅(いのうえこわし)が、憲法にお
 ける軍隊編成権や議会予算議定権の問題をモッセとロエ
 スレルに質問する。
  1881年、明治政府がプロイセン流立憲主義に転換し(
 明治十四年の政変)、
  井上毅が、憲法の草案を作成したが、その草案は、多
 くロエスレルの討議、指導によるものだったとされる。
  彼の提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが受け
 入れられ、大日本帝国憲法となった。
  カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル(1834
 年12月18日~1894年12月2日)は、ドイツの法学者・経済
 学者で、
  明治の日本でお雇い外国人の一人として活動した。
  アルベルト・モッセ(1846年10月1日~1925年5月31日)
 も、ドイツの法律家で、お雇い外国人として日本に招か
 れた一人。
  伊藤博文ら、日本から調査に訪れた代表たちに、1882
 年~1883年にかけて、師のルドルフ・フォン・グナイス
 トと共に講義を行った。
  1886年(明治19年)に訪日し、モッセ以前にヘルマン・
 レースラーが既に招聘されていたが、モッセの憲法制定
 や地方制度の創設への貢献の方がより実質的な影響を与
 え、それ故に、「明治憲法の父」と言われている。
1888年10月27日、皇城を「宮城」と改称した。
  皇城西の丸に、新宮殿全体が落成し、
  「宮城〔きゅうじょう〕」と呼ぶ告示が出された。
  (明治宮殿落成し皇城を宮城と改称)
1888年10月27日、深川骸炭所が操業を開始した。
  古河鉱業会社の深川骸炭所が竣工して、操業を開始し
 た。
  コークスの製造とその品質向上、そして、それに対応
 する優れた高炉に努力した技術者が、技師・福岡健良氏
 (深川骸炭所、コークス製造)と、野呂景義氏(釜石・
 八幡のコークス高炉に成功)だった。
  国が豊かになり、強くなる、富国強兵の元にある鉄・・
 その鉄の品質を左右するのが、還元剤だった。
  木炭に代わって、石炭を乾留したコークスが、高炉に
 おける還元剤として、英国で誕生して約300年が経過し、
  その間にも、高炉も目覚ましい発展を遂げた。
  そして、その発展を支えたのは・・スムースな炉内の
 ガス流れを可能とするコークスの品質であった。
  そして、その大切なポジションを占めていたのが・・
 官営製鉄所の「釜石」「八幡」だった。
  そこを支えたのが、望ましいコークスの生産だった。
  これが無ければ、建物も、工場も、艦船もできない。
  しかし、涙ぐましい失敗と汗があった・・、
  日本人の真面目さと優秀さと『頑張り』があった・・、
  国の基本は、すべてここからスタートした・・、
  公共放送・NHKは、『頑張らない』をキャンペーン
 放送した・・本当に、国を堕落させる放送を、長い期間
 に渡って行なった・・頑張ることを否定した・・
1888年10月28日、四国初の鉄道の伊予鉄道の松山~三津ヵ浜
 間開通
  1887年9月14日に、民営としては日本で2番目の伊予鉄
 道会社が創立された。
  そして、この日・1888年10月28日に、松山(後の外側、
 再び松山)~三津間で、鉄道が開業された。
  因みに、2001年(平成13年) 10月12日から、松山市内
 線で「坊っちゃん列車」レプリカ運行が開始されている。
1888年10月28日、東京音楽学校(旧制)が、5線譜表記の箏
 曲集を出した。
  1887年10月4日、東京音楽学校が、東京府下谷区(現在
 の台東区の西部)に設立され、官立(唯一)の音楽専門
 学校だった。
  (参考:下谷区と浅草区が台東区になった)。
  文部省大臣官房直属の機関であった音楽取調掛の掛長
 であった伊沢修二の他、菊池大麓・外山正一・穂積陳重
 ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ
 付建議」に基づいて、同掛を改称し設置された。
  伊沢が、事実上の初代校長に就任した。
  その後、奏楽堂を含む校舎が新築され(現在は上野公
 園内に移設)、
  1890年5月12日に、開校された。
  日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関
 で、当初、西洋音楽の教育を中心とした。
  修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科、および、
 3年制の専修科)から構成された。
  しかし、翌年・1891年には、早くも、国費節減と関連
 して帝国議会で存廃論議が起こり・・、
  1893年6月、高等師範学校に移管され、附属学校に格下
 げされたが、
  1899年には、伊沢らを中心に再び独立し、
  1900年には、学科を再編成して5科とし、以後、新制
 移行までこの体制が基本的に存続した
  1949年5月、学制改革にともない発足した新制の東京
 芸術大学音楽学部の構成母体となった。
  因みに、奏楽堂は、上記のように東京音楽学校の校舎
 として、1890年(明治23年)に建造され、
  日本における音楽教育の中心的な役割を担って来た。
  2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、
 山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペ
 ラ公演でデビューを飾った。
  創建から80年近く経過した昭和40年代(1965~)に入る
 と、建物の老朽化が目立つようになり、
  校舎を都外へ移設する構想が持ち上がったが、1983年(
 昭和58年)に、台東区が東京藝術大学から譲り受けること
 となった。
  そして、1987年(昭和62年)現在の地(上野公園内)へ
 校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として
 一般への公開を開始した。
  さらに、1988年(昭和63年)には、日本最古の洋式音楽
 ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けた。
ました。
 尚、現在、保存工事のため休館中、再開は平成30年度の
 予定。
1888年10月28日、清国が、日清条約改正交渉の一時中止と
 将来の再開を了承(りょうしょう、承知すること)した。
1888年10月30日、帝国大学(後の東京大学)に、臨時編年
 史編纂掛(史料編纂係)が設置された。
  1793年(寛政5年)、国学者の塙保己一は、幕府の援助
   をうけて和学講談所を開設した。
    そして、明治となり、政府の修史事業は、この事
   業を引き継ぐかたちで始められた。
  1869年(明治2年)3月、和学講談所跡(現:千代田区
   六番町)に史料編輯国史校正局が開設された。
  1869年4月、明治天皇陛下は、三条実美に宸筆の勅書を
   下し、同局の総裁に任じた。
  1872年(明治5年)、太政官正院に歴史課が設けられた。
    ついで、修史局として内務省地誌課を合併し、修
   史館となった。
    内閣制度の成立とともに臨時修史局となった。
  1888年(明治21年)10月、帝国大学に国史科を創設す
   るに際して、修史事業は帝国大学に移管された。
    当初は、臨時編年史編纂掛と呼ばれた。
  1893年(明治26年)、編年史の形の編纂事業は停止さ
   れた。
    代わって、外国人教師ルートヴィヒ・リースの意
   見をいれて、蒐集した史料自体を編纂刊行すること
   となった。
  1895年(明治28年)、帝国大学文科大学に史料編纂掛
   が設置された。
  1901年(明治34年)最初の成果である『大日本史料』
   『大日本古文書』が発刊された。
  1906 年(明治39年)外務省から『幕末外国関係文書』
   編纂の事業を引き継いだ。
  1929年(昭和4年)現在の史料編纂所という名称になっ
   た。
  1949年(昭和24年)文部省から維新史料編纂事業を引
   き継いだ。。
  (東京大学史料編纂所・ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年の話・・、
    TPPについて・・他
   『アジアの成長を取り込む』・・これは『嘘』
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が
 署名された。
  この協定が論議された時、「グローバリズム」の議論
 が花盛りだった。
  これは、結局、大きな国が有利になる論理で、小さな
 国が大きな国に飲み込まれるという大国主義なのである。
  また、超巨大なアメリカの多国籍企業(ポンと大金を
 政治献金する企業)に都合の良い考え方である。
  因みに、巷(ちまた)の話的であるが・・、200億円を
 『好きに使いなさい』と選挙の時にポンと出す、つまり、
 アメリカの政治が、200億円で買える的な話も・・ある。
  国力の大きさに依拠して、その意思を対外的に押し通
 そうとする大国の行動様式なのである。
  その問題点に気付いたアメリカの方々が増えている。
  「拝金的な金の亡者」だけにはなりたくない・・と、
 また、「グローバリズム一点張り」ではないのだ・・と
 気付いたのだった。
  「アイデンティティが破壊されるではないか」・・と
 気付いたのだった。
  アメリカだって、その固有の国民性が崩壊する事に対
 し、当然、そうなって欲しくないと思っているのだと、
  家族を愛し、家族を大切にし、郷土を愛し、郷土を大
 切にし、愛国心を大切に思い、この様なアイデンティテ
 ィを大切にする、本来のナショナリズムを大切にする・
 ・その様な国でもあるのだ・・と、本来のナショナリズ
 ムを大切にする国なのだ・・と、その大切さが語られる
 国なのだ・・と・・、
  極限状態なら、特に、国を思う人たちの国なのだ・・
 と・・、
  日本の真珠湾攻撃を・・「奇襲だ」と嘘の話をでっち
 上げられて・・、
  参戦する事に、国論が急に沸き上がったアメリカのご
 とくだった・・、
  攻められたアメリカを思うアメリカ国民の方々だった。
  グローバリズムは、今までの歴史では・・、
  サイクル的に・・、
  湧きあがったり、低調になったりを・・繰り返して来
 た。
  ・・が、今、グローバリズムは、下り坂を・・下り始
 めている。
  郷土を愛し、国を愛し、家族を愛し、本来のナショナ
 リズムを大切にして行く方向へと・・流れは変わり・・
 流れている・・、
.
2016年2月4日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が、
 署名された。
  日本でよく言われているTPPに加盟した場合、「ア
 ジアの成長を取り込める」というのは・・嘘である。
  参加国は・・、
  (1)アメリカ合衆国(14兆2646億ドル)(58.8%)、
  (2)日本(5兆4589億ドル)(22.5%)、
  (3)カナダ(1兆5109億ドル)(6.2%)、
  (4)メキシコ(1兆881億ドル)(4.5%)、
  (5)オーストラリア(1兆106億ドル)(4.2%)、
  (6)マレーシア(2222億ドル)(0.9%)、
  (7)シンガポール(1819億ドル)(0.7%)、
  (8)チリ(1695億ドル)(0.7%)、
  (9)ニュージーランド(1284億ドル)(0.5%)、
  (10)ペルー(1275億ドル)(0.5%)、
  (11)ベトナム(898億ドル)(0.4%)、
  (12)ブルネイ(145億ドル)(0.1%)、 
    計 24兆2669億ドル(100%)
  ()はGDPで大きい順に記した、単位:億ドル、
  TPPに加盟した場合、TPPがもたらす各国の経済成長率
 への影響には『ばらつきがある』。
  10年間で、経済成長率をどれだけ底上げするかについ
 ては、ラテンアメリカ諸国や東南アジア諸国では、10年
 間で2%以上の押し上げになる。
  (それでも単年度で見れば0.2~0.3%程度の押し上げで
 しかない)
  一方、日本やアメリカでは、何と・・TPPは、経済成長
 にマイナスに作用してしまうと予測されている。
  TPPに加盟してアジアの成長を取り込むという主張があ
 るが、日本やアメリカは、取り込むどころか取り込まれ
 てしまう。
  アメリカは独裁的だ。
  「民主主義を植え付けるのだ」と、戦争を始めた。
  「まったく、民主主義的ではない論理」を掲げて、民
 主主義と見せかけ、誤解させて、戦争を始めた・・、
  民主主義ではない民主主義の陰に隠れて、戦争を始め
 た・・、
  そして、強大な軍事力で、何も罪のない人々を殺戮し
 て行った。
  やっている事は、独裁的だった。
  独裁国家の行為だった。
  「関税が無いことが、良いのだ」という自分の都合の
 良い規則を、さも正しい様に言う(トランプ氏になって
 変わったが・・)
  「関税は、誰もが自由に決められる」という国際規約
 を間違いだという。
  「関税は、自由に決めてはいけないのだ」・・と、「0
 パーセントが良いのだ」と、関税を固定しようと主張し
 ている。
  そして、それを、他国に押し付けている。
  俺が言うのが正しいのだ・・と・・、
  「関税自主権を認めないアメリカ」となっている。
  独裁国家となっている。
  さらに、この独裁国家は、国際的に公表しなければな
 らない事を公表するなと言った。
  だから、国際社会に公表されたTPP資料は、「墨を
 塗りまくった真っ黒の史料だった」。
  結局、秘密だらけで、TPPは決めてしまおうという。
  アメリカという国は、今・現在でも、言いたい放題の
 国、やりたい放題の国・・自国の論理で・・、
  そして、結局、自分の言う事を聞かない国は敵国だと
 来る。
  キリスト教の最高の会議である公会議が、ローマ法王
 の出る公会議が、
  自分の言う事を反対したら「異端だ」と決めつけ、殺
 したり、追放したりしたが・・、
  その迫害と同じことをしている。
  今・現在、アメリカ大統領の二人の候補者の方々は、
 どちらも、「TPPに反対」だという。
  このことからも、甘利さんの頑張りが見えて来る。
  甘利さんの人材を失うは・・惜しい・・、
.
2016年11月20日、オバマ外交、寂しい最後。
  「リマ発」、オバマ米大統領は20日、アジア太平洋経
 済協力会議(APEC)首脳会議の一連の日程を終え、
 任期最後の外遊を締めくくった。(中略)
  「次期大統領に最も伝えたい事は、米国は世界秩序に
 欠くことの出来ない国家であるということだ」・・
  米国が超大国として担う特別な役割を強調した。
  ・・「力の行使」ではなく、「力の抑制」に重点を置
 いたところに特徴がある。
  「世界唯一の超大国が、進んでその力を抑制し、国際
 的に合意された行動規範に従ってこそ、これは従う価値
 のある規則なのだというメッセージを発する事が出来る」
  (中略)
  前任のブッシュ政権が、国際法上の正当性を曖昧にし
 たままイラクで軍事介入に踏み切り、それが国際秩序の
 混乱をもたらしたとの万感が根底にあった。
  (中略)
  トランプ氏の下で外交が内向きになるとの懸念が広が
 る。
  記者会見でオバマ大統領は、「世界の指導者と関われ
 ば国家の厳粛な責任に気付き、考え方の修正を迫られる」
 と願望の入り混じった思いを語った。
  (読売新聞、2016・11・22を参考にした)
.
2016年12月9日、この日の新聞、2題、アメリカ次期大統領
 トランプ氏が、フィリピンのドゥテルテ大統領に理解を
 示した、・・と、イギリス「EU離脱」を下院が動議可
 決した。
  前のトランプ氏の記事は、「麻薬対策を良くやってい
 る。今後も進めるべきだ」と、トランプ氏が、ドゥテル
 テ大統領を褒めた話。
  ドゥテルテ大統領は、「聖人になった気持ちだ」と喜
 んだという。
  そして、トランプ氏は、「関係を修復しよう」とドゥ
 テルテ大統領へ言った(電話会談)。
  後の記事のイギリスの件は、448対75の賛成多数でEU
 離脱を可決した。
  グローバリズムが、アメリカやNHK、キリスト教に
 よって意味なく美化されているが、
  キリスト教国・イタリアも、ポピュリズム(大衆迎合
 主義)の広がりで、経済が破綻(はたん)状況であると
 いう。
  不良債権を処理しないで放置で、根深い悪弊がはびこ
 っている状態だという。
  甘い話ばかりしないで、正業に就いて真面目に働きな
 さい。
  人を繰(く)って、甘い汁を吸おうという行為は止め
 よ。(読売新聞、2016.12.9を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2016年12月12日

(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年10月7日、新皇居(明治宮殿)が完成した。
  1868年(明治元年)から1869年(明治2年)に行われた
 東京奠都によって、旧江戸城西の丸御殿が皇居となった
 が、1873年に失火により西の丸御殿は焼失した。
  直ちに、新宮殿造営が政府により上奏されたものの、
 西南戦争の戦費等の財政負担も大きく、国内整備が先決
 との明治天皇陛下の御意向により、新宮殿造営は見送ら
 れた。
  このため、旧紀州藩江戸藩邸であった青山御所が仮皇
 居となった。
  しかし、青山御所では、儀式典礼に支障をきたすよう
 になったため、ようやく宮殿造営が勅許された。
  新しい宮殿(明治宮殿)は、旧江戸城西の丸に建設さ
 れることとなり、1888年(明治21年)10月7日に落成した。
  この明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(
 現皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大
 戦末期まで、皇室の中心的施設であった。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  北洋艦隊(ほくようかんたい)は、清国の海軍の主力
 艦隊で、李鴻章によって新式海軍が編制された。
  威海衛に基地を置き、
  『定遠』『鎮遠』など甲鉄砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装
 甲砲艦1隻を中心とした。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問し、海軍
 の戦備が劣っていた日本は衝撃を受けた。
  日清戦争において、大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(
 黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊
 滅した。
1888年10月9日、登記印紙規則が公布された。
  登記印紙は、この時・1888年に、発行されたのが最初
 であったが、
  1898年に、収入印紙に統合され、廃止された。
  しかし、登記に関する手数料の歳入が、登記特別会計
 として、1985年に独立したことに伴い、復活した。
  ただし、登記特別会計が、2010年度をもって廃止され、
 一般会計に組み込まれたため、
  2011年4月1日以降は、再び、収入印紙に統合され、新
 規の発行は中止された。
  既に発行された登記印紙は当面有効で、収入印紙と組
 み合わせての使用も可能である。
  登記法:戸長役場の公証は無料であったが、管理が不
 十分な場合があったため、明治政府は、全国的機関であ
 る裁判所が、不動産の公示を担当するのが適切であると
 して、
  1886年(明治19年)に「登記法」(明治19年8月13日法
 律1号)を制定した。
  「登記法」は、ドイツの登記制度を参考にして、物的
 編成主義を採用した。
  即ち、地券台帳に基づき、あらかじめ各筆ごとに用紙
 を準備し、所有権の移転や、担保権の設定がある都度、
 登記簿に記載することとした。
  また、登記をすることによって、直接利益を受ける者
 (登記権利者)と、登記をすることによって不利益を受
 ける者(登記義務者)とが共同してすることを要するも
 のとする共同申請主義を規定した。
  印紙税は、商取引等の背後に担税力(たんぜいりょく、
 課税対象となる個人や法人などが、実際に税負担を受け
 持つことができる能力の事を言う)があると想定し、
  これに関連して作成される文書に印紙を貼らせて課税
 するものであり、流通税(取引税)の一種。
  1873年(明治6年)「受取諸証文印紙貼用心得方規則」
 (明治6年太政官布告56号)により導入された。
  当初の内容は、証書類を金銭その他諸受取の第1類と、
 田地屋敷建屋売渡証文、借用金証文等の第2類に分け、
  後者は、10円以上に対しその金額に応じた段階的な税
 率(概ね1%)を賦課した。
  その後、数次にわたる改正を経て、
  1899年(明治32年)に「印紙税法」(明治32年法律54
 号)が制定され、現行の「印紙税法」(昭和42年5月31日
 法律23号)により全部改正されるまで施行された。
  登録免許税は、登記のための手数料的性格のものでは
 なく、不動産の権利の移転等の背後に担税力があると推
 定して課税する流通税(取引税)の一種。
  1871(明治2)年の地券交付以来、1889(明治22)年に
 廃止されるまで、地券の新規交付、売買による交付、書
 換ごとに地券証印税を課していた。
  1886年、「登記法」(明治19年法律1号)が制定され、
 登記に際して登記税が課せられるようになった。
  その後、日清戦争後の国費膨張に対処するため、同法
 は1896年(明治29年)に「登録税法」(明治29年法律27
 号)に改められ、
  「民法」が、1898年(明治31年)に施行されたのを受
 けて、翌年・1899年に「不動産登記法」(明治32年2月24
 日法律24号)が制定された。
  (明海大学・周藤利一教授の論文などを参考にした)
1888年10月9日、紫溟新報を改題し、九州日日新聞が創刊
 された。
  1882年に、紫溟新報が創刊され、
  1888年に、紫溟新報が、九州日日新聞と改題し、
  1942年(昭和17年)4月1日、第二次世界大戦による政
 府と軍部の「一県一紙令」により、熊本の2大紙「九州
 日日新聞」と「九州新聞」(政友会系)の2紙が合併して
 「熊本日日新聞」が朝夕刊セットで創刊された。
  1954年(昭和29年)8月1日、「猫てんかんで死滅、ネ
 ズミの激増で悲鳴」の見出しで水俣病を初めて報道した。
1888年10月10日、国会議事堂(仮議事堂)の起工式。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下の勅諭に
 よる国会開設の決定以来、議事堂の建築が建議されて来
 た。
  1885年(明治18年)に、内閣制度が発足すると議事堂
 建設の取り組みが始まった。
  1886年に、議事堂本建築の計画は、内閣に臨時建築局
 が設置され、ドイツ帝国から建築家を招聘し、
  官庁集中計画と議事堂の設計が成された(議事堂、お
 よび、中央官衙(かんが)建築に関する準備調査に着手)
  当初、ドイツのエンデ・ベックマン事務所により、本格
 的なネオ・バロック様式で計画されたが、
  1887年に、建築予定敷地を、現在位置(当時の麹町(こ
 うじまち)区永田町1丁目)とすることが閣議により決定
 されたが、
  官庁集中計画には多額の経費が必要であり、帝国議会
 の開設も切迫していたため、この計画による議事堂建築
 は中止された。
  具体的計画の立案は、この財政事情などの理由から大
 幅遅延となった。
  井上馨の失脚(1887年9月)も影響し、実現に至らなか
 った。
  しかし、1890年を期して「國會」(議会)を開く事が
 表明されていて、この第1帝国議会に間に合わせるため、
  1888年10月に、起工された。
  こうして、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が関
 一丁目、現在の経済産業省敷地)に仮議事堂が建設され
 た。
  ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー、および、
 臨時建築局技師・吉井茂則の設計による第一次仮議事堂
 は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24
 日に竣工した。
  1891年(明治24年)年1月20日、竣工の翌年の会期中の
 未明に、漏電により出火し、仮議事堂は全焼した。
  このため、貴族院仮議場として山下町の帝国ホテル食
 堂(当初は華族会館内・旧鹿鳴館)を、
  衆議院仮議場として、虎ノ門(とらのもん)の東京女学
 館(旧工部大学校)を使用し、急場をしのいだ。
  その後、吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェ
 の設計による第二次仮議事堂が、昼夜兼行の作業で再建
 され、
  同年・1891年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は
 11月21日召集)。
  しかしまた、1925年(大正14年)に、二度目の火災に
 遭う、そして、木造の仮議事堂を再建した。
  1894年8月、日清(にっしん)戦争が勃発に際し、広島
 市内に臨時の仮議事堂が突貫工事で建築され、
  同年・1894年10月14日に竣工し、
  翌年・1895年10月15日に召集された第7回(臨時)帝国
 議会が開かれた(東京以外の開会の唯一の事例)
  1897年、本建築化が浮上したが、財政事情などで頓挫
 した。
  1899年、議院建築調査会の設置をはじめ、敷地の調査、
 地盤調査、材料調査等も実施された。
  官民各界における、建築様式、設計方法などの議論も
 活発に行われながらも、
  数次にわたる計画の休止、延伸を繰り返した。
  1906年~1907年、日露戦争後には、仮議事堂の改修、
 および、本格的な議事堂の建設が浮上し、決まったが、
 財政事情と大正政変により、実施は延期された。
  1917年(大正6年)現議事堂への動きが始まった。
  当時の大蔵省に設置された議院建築調査会の発足と、
 それによる18年度からの予算計上により、ようやく設計
 着手の運びとなった。
  設計者については、朝野の多くの議論ののち、「建築
 意匠設計はこれを国内一般の懸賞競技に付する」ことが
 決定された。
  また、第一次、第二次仮議事堂の設計や、当初の本建
 築計画の際は、当時の日本の技術水準、不平等条約改正
 の政略面などから、外国人建築家の協力を受けていたが、
  技術力の充実、国威と国産の充実を図ることなどによ
 り、応募者は日本人のみとし、また、
  材料も、やむをえぬもの以外は国産品に限ることとし
 た。
  このような経過を経て・・、
  1918年(大正7年)9月になって、新議事堂の意匠が一
 般公募されることになった。
  翌年・1919年(大正8年)2月、設計競技による応募作
 品118通中、一次選考・二次選考の二段階方式の競技設計
 を通過した4図案が決定した。
  そして、その中から、宮内省技手の渡辺福三案(実際
 には、宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた。
  当選案の様式が、新旧各層の反発を呼び、
  とくに、下田菊太郎は議会に働きかけて〈帝冠併合式〉
 (欧風の壁体に和風屋根を載せる)の採用を請願し賛意を
 得た。
  結局、その設計案は参考とするにとどめ、
  大蔵省営繕(えいぜん)管財局(当初、臨時議院建築局。
 技師長・矢橋賢吉)の手により実施設計がまとめられ、
 デザインは大幅に変更された。
  1920年1月30日、着工、
  原敬内閣総理大臣などが参列して、現在地である永田
 町の高台において、地鎮祭を挙行、
  新議事堂の建設が始まった。
  1923年(大正12年)に、関東大震災に見舞われたが、
 建設中の新議事堂、および、第二次仮議事堂は無事だっ
 た。
  しかし、1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は、
 改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こし、焼
 失した。
  このため、政府は、第三次仮議事堂設置を決め、新議
 事堂の建設は、さらに遅延することになった。
  同年・1925年12月の開会の通常帝国議会に間に合うよ
 うに、仮議事堂が、9月29日に建設着手し、
  昼夜兼行の突貫工事で、わずか3か月で建設され、
  同年・1925年12月22日に完成した。
  1936年(昭和11年)、新議事堂の完成が近づいた2月26
 日には、二・二六事件が発生、
  陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。
  2月29日早朝に、武力による鎮圧が決定されると、東京
 湾御台場沖に、海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射
 撃の照準を合わせ、反乱軍を威嚇した。
  こうした苦難を経て、新議事堂が、広田弘毅内閣総理
 大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など
 約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、
  着工から実に17年を経た、1936年のことだった。
  1936年(昭和11年)11月7日、帝国議会議事堂として竣
 工し、完成した。
  敷地面積:10万3000平方メートル、建物平面積:1万3358
 平方メートル。
  第二次世界大戦を経て、1955年代・昭和30年代に入り、
 周辺の国有地が衆議院、および、参議院への移管される
 とともに、パレスハイツ(現最高裁判所庁舎)・ジェフ
 ァーソンハイツ(現衆参議長公邸)・リンカーンセンタ
 ー(現国土交通省庁舎)等の米軍接収地も返還が決まっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:冷戦に勝利したアメリカは、その後、本当に勝利したアメリカの道を歩んでいるのか?
.
1991年12月、ソ連が崩壊した。
  この時、ソビエト連邦共産党の解散を受けた各連邦構
 成共和国の主権国家としての独立と、
  ならびに、同年・1991年12月25日のソビエト連邦(ソ
 連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビ
 エト連邦が解体した。
  冷戦が終結した。
  冷戦に勝利したアメリカ。
  アメリカと競り合ったソ連は敗北した。
  しかし、アメリカは、冷戦に勝利しても軍事費を削減
 しなかった。
  他の国々が軍事費を削減している中でも、アメリカだ
 けは軍事費を削減しなかった。
  逆に、新しい兵器の開発をどんどん続けていた。
  ミサイルも、戦闘機も、駆逐艦も、宇宙兵器も、新し
 い世代の兵器を開発していた。
  アメリカの思惑は、『他の国に絶対にアメリカにチャ
 レンジできない国際環境を作ろう』・・という思惑だっ
 た。
  アメリカは、「アメリカだけが、アメリカという一極
 だけが、覇権を握る」だった、
  そして、「アメリカだけが、一極で・・覇権を握って
 いたい」だった。
  しかし、歴史はそう甘いもんじゃなかった・・「そう
 は問屋が卸(おろ)さなかった」。
  他のグループは、その様なアメリカへ・・金をかけて
 開発している兵器が使いずらい方法によって、「アメリ
 カへのチェレンジ」をして来た。
  アメリカの開発した最新兵器も無力化した。
  アメリカへのチャレンジは、「ゲリラ」や「テロ」で
 チャレンジされた。
  そして、また、その様なアメリカの国力は・・、アメ
 リカは、逆に、愚かなことに・・「そのアメリカの高額
 な・・そして、金を食う最新兵器開発費用」によって、
 アメリカ経済は疲弊した。
  この様な歴史は、「繰り返されていた」のである。
  アメリカの「軍事的な支配権を拡(ひろ)げたい」が、
 逆に、「国力消耗」を来たしていた。
  ハプスブルク王朝が、そうだった・・また、オスマン・
 トルコ帝国が、そうだった・・ナポレオンが、そうだっ
 た・・そして、19世紀のイギリスが、そうだった・・
  そして、20世紀後半のソ連が、前記の様にそうだった・・、
  そして、21世紀の今・現在、進行中の中国共産党政権・・
  1980年代後半から、アメリカは、世界一の借金国とな
 った。
  アメリカの紙幣・ドルが、世界の基軸通貨を良い事に、
  アメリカは、ドル紙幣の「紙っぴら」を刷り続けてい
 る。輪転機を廻し続けている。
  こんな事が、いつまでも・・続く訳がない。
  アメリカの真似ばかりをしている中国共産党政権もま
 た、このアメリカと同じことをし続けている。
  アメリカのレーガン大統領の時は、平均貯蓄率は12パ
 ーセントだった、
  しかし、ブッシュ(息子)大統領の時は、マイナス2パ
 ーセントと、マイナス域に入ってしまった。
  金がないのである。
  日本は、貢(みつ)がされているのである。
  日本企業が、ペテンの様な言い掛かりで、金をむしり
 取られているのである。
  アメリカの実質経済規模は世界経済の2割なのに、アメ
 リカの軍事費は、世界全体の軍事支出の5割~6割なので
 ある。
  異常なのである。
  アメリカの次期大統領のトランプ氏は、日本へもっと
 金を出せと言い、「軍事費を負担せよ」と言っている。
  日本が最高に協力しているのにである。
  日本の防衛予算(軍事費)は、今の倍にしないとだめ
 だと言われている。
  国の安全保障は大切だから、しっかり予算化して行か
 なければならない危険な状況にある今なのである。
  甘いことは言っていられない今なのである。
  理想論はその後にしなければならない今なのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年12月11日

(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)

題:(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年9月12日、地方制度編纂委員会が、府県制、郡制の法
 案を提出した(9月17日説あり)
  1884年(明治17年)、区町村会法の改正などにより数町
 村を単位とする連合戸長役場制が導入された。
  村々の連合による行政単位の広域化が図られた。
  しかし、連合村は、過剰な行政負担に相当する財政基
 盤を有しなかった。
  このため、明治政府内部において、新たな地方制度が
 模索された。
  1888年(明治21年)、この市制・町村制の公布に至るこ
 ととなった。
  この法案は、内務卿・山田顕義の命を受けた内務省大
 書記官・村田保が、
  1884年(明治17年)5月、町村法草案を作成したことに
 始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月、内務省内に町村法
 調査委員会が設置された。
  1885年(明治18年)6月、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、1886年(明治19年)7月に提出され、
  御雇外国人・アルベルト・モッセの意見書を契機とし
 て、町村合併による改革が図られることになった。
  1887年(明治20年)2月、地方制度編纂委員会(内閣に設
 置)が、地方制度編纂綱領を策定し、
  翌・1888年3月、地方長官会議の席上において、政府は、
 府県知事に対して「町村合併標準」を提示した。
  この「町村合併標準」では、原則300戸をもって一町村
 とすることや、なるべく、連合戸長役場管轄区域内の町
 村を合併して一町村とすることなどが示された。
  同年・1888年9月17日、市制・町村制法案が、地方制度
 編纂委員会より内閣に提出され、
  最終的には、1888年(明治21年)4月25日、市制・町村
 制が公布された翌年・1889年4月1日、施行されることが
決定した。
 公布された後の同年・1889年6月に、内務大臣訓令第352
 号により、
  300~500戸を標準として合併すること、
  合併に際しては、連合戸長役場の管轄区域をそのまま
 合併して差し支えのないものはそのまま合併することが、
 府県知事に指示されている。
 市制・町村制により、市町村は、地方自治体としての地
 位を確立したが、内務省や府県知事などの監督権が強く、
 自治権は限定されたものだった。
1888年9月12日、駐清公使・塩田三郎が、日清条約改正難航
 のため、一時中止と将来の交渉再開を清国に通告した。
  1886年3月31日に、井上馨外相が 、日清修好条規改正
 を清国政府へ提議するよう、公使・塩田三郎に指示して
 いた。
  日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は・・、
 1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と清
 の間で初めて結ばれた対等条約で・・
  内容には・・、
  ・両国は、互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1
   条)
  ・外交使節の交換、および、双方に領事を駐在させる
   (第4条、第8条)
   ・・など、といった内容であった。
  1886年8月、北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」な
 ど)の長崎来航時の長崎事件、清との交戦の可能性のあ
 った清国海軍兵士による乱暴。
  海軍力で優位にある大国の清が侵攻するかもしれない
 という想定も考えられた。
  清の「定遠」や「鎮遠」は、当時の世界最大級の砲を
 4門そなえ、装甲も厚い東洋一の堅艦で、日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった。
  それに威圧されたのだった・・海軍力増強へ向かう。
  日本の海軍力は、軍艦総トン数、1876年:14300トン
 1893年:50861トンに増加している。
  軍事費(一般会計の歳出決算額に占める軍事費)1876
 年・17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)、1893年:27.0%
 (陸軍17.4%、海軍9.6%)
1888年9月13日、伊藤博文が、西郷従道ら釜山、元山、ウラ
 ジオストクの視察のため出発した。
1888年9月15日、尋常師範学校教員に執務中に制服着用を命
 じた。
  1886年(明治19年)8月、文部大臣・森有禮の西欧的な
 教育政策から、
  東京女子師範学校の生徒が、洋服を制服として着用し
 たことから、
  各師範学校に、この影響が及んで行った。
  同年・1886年、秋田師範学校女子部が、制服を洋服化
 し、
  1888年(明治21年)には、福島の師範学校でも、洋服
 の制服を制定した。
  師範学校の女子教師についてみると・・、
  1888年(明治21年)10月1日の「官報」第1578 号に、
 「埼玉県尋常師範学校、〈中略〉女教員ハ洋服又ハ裳袴
 ヲ着シ」とあり、
  教師には洋服以外に裳袴を認めた例であり、学生より
 は服装規定がゆるやかだった。
1888年9月17日、枢密院が、議員法の審議を開始した。
1888年9月25日、宮内省に臨時全国宝物取調局を設置した。
  宮内省のこの局によって、全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年に、宮内省の所管と
 した。
  日本における博物館の創設は、1867年(慶応3年)に
 フランスのパリで開催された万国博覧会を契機として、
  1871年( 明治4年)に、文部省内に博物局が設けられ、
 湯島聖堂を博物館としたことで、その第一歩が踏み出さ
 れた。
  奈良においては、1874年(明治7年)に、官民合同によ
 る奈良博覧会社が設立され、
  東大寺大仏殿廻廊を会場として、正倉院宝物をはじめ
 貴重な寺宝類が陳列された。
  この博覧会は、1890年(明治23年)まで続けられ、明
 治維新後の廃仏毀釈によって 荒廃・散逸の恐れのあった
 多くの文化財は、この博覧会によって人々に貴重な遺産
 として認識されるようになった。
  ことに奈良は、廃仏毀釈の影響を受けることが著しか
 ったが、
  こうした文化財の保存に対する関心の高まりのなかで、
 政府は、1888年(明治21年)に、宮内省の臨時全国宝物
 取調局を設けて全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年(明治19年)に、宮
 内省の所管とし、
  ついで、1889年(明治22年)、帝国博物館(東京)、
 帝国京都博物館とともに帝国奈良博物館の設置を決定し
 た。
  1895年(明治28年)4月、帝国奈良博物館の開館が実現
 した。
  その後、1900年(明治33年)、宮内省は、官制改正に
 伴い 帝国博物館を帝室博物館に改名し、帝国奈良博物館
 も奈良帝室博物館となった。
 (奈良国立博物館ホームページを参考にした)
1888年9月26日、守田勘弥が、新設予定の歌舞伎座創立に対
 抗して、新富、市村、中村、千歳の4座同盟を結成して、
 興業の調整をしようと提案した。
  この後、新富座は、歌舞伎座と歩調を合わせながら明
 治の歌舞伎黄金時代を築いて行った。
  しかし、新富座は、1910年(明治43年)松竹が買収し
 て、松竹の経営下に移った。
  新富座は、日本の近代劇場化の端緒となったが・・、
 1923年の関東大震災で被災すると、そのまま再建されず
 劇場は廃座となった。
  現在、京橋税務署が建っている。
1888年10月1日、伊藤博文、西郷従道ら帰国した。
1888年10月1日、日本初の火災保険会社の東京火災保険会
 社(現=安田火災)が営業を開始した。
  日本で保険制度が始まったのは、江戸時代の末期と考
 えられている。
  江戸幕府は、1858年(安政5年)、アメリカ、オラン
 ダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで修好通商条
 約を締結し、外国貿易の門戸を開いたが・・、
  これに伴って、外国の保険会社がわが国に進出した。
  この商館を代理店として、主に、海上保険の営業が開
 始された。
  損害保険等の保険制度は、外国で考えられた制度であ
 るが、
  この保険の考え方を紹介したのが福沢諭吉だった。
  1866年(慶応2年)に発刊した『西洋事情』の中で「
 火災請負ひ(火災保険)」、「海上請負ひ(海上損害保
 険)」のことについて解説した。
  また、翌年の1867年(慶応3年)に刊行した『西洋旅案
 内』の中では、
  保険の仕組みを「災難請合の事(イシュアランス)」
 という表現で、次のように述べている。
  「災難請合とは、商人の組合ありて、平生無事の時に
 人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば、組合よ
 り大金出して其損亡を救う仕法なり。
  其趣旨は、一人の災難を大勢に分ち、僅の金を棄て大
 難を遁るる訳にて・・」・・と、
  生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上
 請合(損害保険)の三種の災難請合について説いている。
 (注・イシュアランスは、insuranceの誤読と思われる)
  その後、1869年(明治2年)山東一郎編の『新塾月志』
 の2月号には、「インシュランス」を支那語に訳すと、
 「保険、又は、担保」という文字を当てるという記述が
 ある。
  訳語には、ウケアイというふりがながついていて、他
 にも請負、受合、担保という文字も使われている。
  「保険」という文字が使われるようになったのは、1977
 年・明治10年代に入ってからだった。
  火災保険は、イギリスで、1710年に、「サンフワヤオ
 ヒス」という保険会社が、創設されたのに始まると言わ
 れている。
  日本では、この年・1888年(明治21年)10月1日、東
 京火災保険会社(現・安田火災)が業務を開始したのが
 はじまり。
  日本で火災保険が誕生するまでには、いくつかの経緯
 を経た。
  明治初期に、日本は、外国の新しい制度や技術を導入
 するため、御雇い外国人を招聘し、それぞれの基礎を築
 いた。
  火災保険制度もドイツ人のパウル・マイエット博士に
 よって生まれた。
  マイエットは、1878年(明治11年)4月、「日本家屋保
 険論」という講演を行っている。
  その中で、「火災保険は国民生活の安定、財産の保護、
 産業の発達に多大の効果があり、
  日本には、水火災の被害が、毎年、膨大な額に達する
 にもかかわらず、保険制度が存在しないことは遺憾であ
 り、国営火災保険を早急に実施すべきである」と提言し
 た。
  これは、マイエットの母国・ドイツの「公営強制火災
 保険制度」の影響を強く受けたものだった。
  当時、参議兼大蔵卿であった大隈重信は、この提言に
 共鳴し、
  1879年(明治12年)4月、マイエットを大蔵省顧問に迎
 え、
  同年・1879年5月7日、大蔵省内に火災保険取調掛を新
 設して、各種の家屋の価格や現存する家屋数等の調査を
 開始した。
  1881年7月、調査結果に基づいて作成された「家屋保険
 法案」が太政大臣に提出されたが、
  この法案に対し、当時、イギリス自由主義の旗頭であ
 った田口卯吉は、「火災保険の趣旨には賛成するが、国
 が強制するのは自由の精神に背くもの」と反対意見を述
 べた。
  また、内務卿・松方正義も、「明治10(1877)年の西
 南の役によって、政府の財政は疲弊しており、人民にも
 地方税、備荒儲蓄法等の新たな税負担が相次いでいる時
 に、家屋保険を強制することは受け入れがたい」と反対
 した。
  1882年(明治15年)このことから、参事院は、太政大
 臣に対して、財政難と市民の負担増を理由に「火災保険
 は民営とし、これを保護することが良策である」と上申
 した。
  これを受けて太政大臣は、「家屋保険法案」の廃案を
 決定し、国営保険制度は頓挫した。
  そして、数年が経て後、関連した官立保険局設立計画
 書を参考として、
  有限責任東京火災保険会社(安田火災の前身)が、わ
 が国初の民営火災保険の創設を計画し、この年、1888年
 (明治21年)10月1日、火災保険業務を開始した。
  1891年(明治24年)引き続き、明治火災、
  1892年(明治25年)日本火災が創業した。
  現在、火災保険料は、建物の所在地や建築状態、用途、
 環境などによって、料率の算定が行われているが、スプ
 リンクラーや消火栓設備などの消防用設備を備えること
 によって、保険料が割り引かれている。
  (東京消防庁、ホームページを参考にした)
1888年10月1日、小田原馬車鉄道(後の箱根登山鉄道)の国府
 津~小田原間が開通した。
  東海道本線の開通に先立って、1888年(明治21年)の
 この時、、国府津より小田原を経て、箱根湯本へと、馬
 車鉄道が開業した。
  そして、『鉄道唱歌』に・・、
  「國府津降りれば馬車ありて酒匂小田原遠からじ」と
 歌われた。
  交通の動脈を外れた小田原宿が衰退した。
  110軒もあった旅籠が次々と廃業した。
  小田原は、必死に鉄道誘致を行なった。
  そして、1920年(大正9年)國府津~熱海間に熱海線が
 開業した。
  これによって、東京~横浜~小田原へ列車が通った。
  そして、箱根観光や湯治の拠点として、小田原は回復
 した。
  鉄道開業は、町を挙げて祝った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKの屁理屈論理の放送(広島・長崎に原爆を落とされたのは、
    日本が、中国の重慶の爆撃をしたからだ・・と放送した。
    まったく、根拠のない、嘘の、日本人を洗脳する卑劣な放送だった。
    そして、アメリカは、真珠湾攻撃前に、中国で、隠密裏に、日本を
   奇襲攻撃をしていた。
    アメリカよ!・・謝罪せよ!!
.
1938年12月4日~1943年8月23日、重慶爆撃
  1937年に起きた第二次上海事変の結果、日本軍は、中
 華民国の首都・南京を攻略し占領した。
  これに対して、中国・国民政府は、首都機能を南京か
 ら漢口に移転した。
  しかし、漢口も陥落したため、さらに、内陸である四
 川の重慶への首都の移転をした。
  アメリカは、この年・1937年から、この中国の国民政
 府・蒋介石へ、大量の武器などの軍事物資を「援蒋ルー
 ト」を通じて送り続けた。
  後に、正規のアメリカ軍人(例えば、クレア・リー・
 シェンノートら)を参加させ、
  また、退役軍人だと称したり、義勇軍だと称したりし
 てアメリカ軍をも、秘密裏に対日戦に参戦させた。
  れっきとした大統領のルーズベルトの命令であった。
  日本の真珠湾攻撃以前に、アメリカは、この様な事を
 していた。
  日米の戦端は、日本の真珠湾攻撃以前に開かれていた。
  日本が、「真珠湾攻撃の奇襲をした」何て言われる筋
 合いはない。
  逆に、『アメリカが、隠密裏に、中国で、日本を奇襲
 攻撃をしていた』のだ。
  アメリカよ!・・謝罪せよ!!
  日中戦争が収束しないで、拡大の一方だったのは、日
 本を叩きたいアメリカの思惑だった、方針だった。
  この様な経緯の中で、真珠湾攻撃へ至ることは、アメ
 リカが承知し、れっきとした方針だった。
  この様な、これからの経緯をたどる中で、日本は、こ
 の時、中国の重慶を爆撃した。
  (因みに、第二次上海事変も、「起こされた事変」だ
 った。
  この頃の日本の方針は、穏便に収めたいという方針だ
 った)
  この様な中、中国軍も、ここ重慶へ撤退し、逃げた。
  それ故、日本は重慶を爆撃した。
  しかし、NHKは、日本の公共放送NHKは・・、
  この爆撃が、広島・長崎の原爆投下をした原因になっ
 たのだという論理をNHKは言い出した。
  まったくの言い掛かりである。
  卑劣な、そして、真実を知らない言い掛かりである。
  朝日新聞が、慰安婦問題で、嘘記事・捏造記事を書き
 謝罪をしたが、
  NHKも、この論理・言い掛かりも、この様なもの。
  また、毎日新聞も、朝日新聞と同じ様なことをしよう
 としているから注意を要する。
  ひたすら日本だけの悪い所を言い続け、公平な言い方
 をしていない。
  NHKも同じ事をした。
  その言い方の卑劣な所は、「広島や、長崎に原爆が落
 ちたのは『自業自得だ』的な言い方」のところである。
  NHKは、たちが悪い。
  それは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたからだ」
 の言い方である。
  東京大空襲の無差別爆撃も、大阪の無差別爆撃も、日
 本の各地の都市の無差別爆撃も、皆、この中国のこの爆
 撃行為が原因だのような言い方である。
  そして、アメリカが原爆を投下したのは、だから、正
 しいのだの言い方である。
  正しい訳がない。
  さも、低劣な論理の『町のあんちゃん』が、「お前が、
 先に手を出した」、「俺につっかけたから、刺したんだ」
 という言い掛かりがごとくである。
  こんな言い方が、世の中に通るなら、世の中が、まっ
 たく恐ろしい世の中になってしまう。
  世の中に、常識が通らないこの様な放送を、公共放送
 であるNHKが、全国放送をするから・・恐ろしい。
  NHKは、時々、この様な国民をだまし、そして、洗
 脳する嘘放送をするから恐ろしい、始末が悪い。
  こんな簡単な論理が解らないで、マスメディアを繰り、
 そして、利用できるという立場にNHKは居る。
  常識が、まったく無いと言える。
  NHKは、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送媒体を、我が物の様に使って、まったく自制
 心なく、この様なプロパガンダ(嘘宣伝)放送をしてい
 る。
  スペインは、日本より早く空爆をしている。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教国・スペイ
 ンには、この様な偏見放送はしない。
  スペインが、空爆で、嫌と言うほど爆弾を投下したの
 が、1936年~1939年のスペイン戦争時・・、
  日本の重慶爆撃が、1938年12月4日~1943年8月23日で、
 8年も後の事である。
  完全に、スペインの方が早い。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で、
 既に、行なわれていた。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している。
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手榴
 弾手を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したと言えないくらいだった。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙った。
  NHKよ! 重慶爆撃以前に、こんなに空爆の事例が
 あるのに・・、
  何故?? 重慶爆撃だけが、「原爆投下につながった
 のか?」「広島・長崎の原爆投下につながったのか??」
 ・・説明せよ!!
  説明できなければ、謝罪せよ!!
..
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2016年12月09日

(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)

題:(増補版)467E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年8月~1888年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年8月20日、三池鉱山が三井組へ払い下げられた。
  1876年(明治9年)この年に、旧三井物産が設立された。
  そして、この頃、三池炭鉱は、工部省の直営事業であ
 った。
  幸いなことに、出炭量が増えて、販路の開拓に苦慮し
 ていた。
  1877年(明治10年)工部卿であった伊藤博文は、その
 輸出がひらめいた、そして・・、
  旧三井物産社長の益田孝に、三池炭の輸出を持ちかけ
 た。
  益田は大牟田まで赴き、その石炭の質を確かめるため、
 実際に、七輪で焚いてみた。
  硫黄分が多く、着火しやすい良質な三池炭に感心した
 益田は輸出契約を締結した。
  そして、翌年の1878年には、三池炭輸出の委託販売権
 を獲得した。
  三池炭は、旧三井物産を通して、上海、香港、シンガ
 ポールなどの海外各地へ輸出された、そして同時に、
  旧三井物産も外国に支店を増やした。
  海外展開を大きく拡張して行った。
  明治政府は、官営事業の民間への払下げを打ち出して
 いた。
  民間企業の充実・・そして、拡充・・、
  ・・が、しかし、三池炭鉱は、優良事業として民間払
 下げをせず・・官営を続けていた。
  1888年(明治21年)、しかし、ようやく・・三池炭鉱
 の払下げが決定した、そして、入札が行なわれた。
  政府の指値は、400万円という高額だった・・当時とし
 ては破天荒な金額であった。
  たとえば、三菱に払い下げられた長崎造船所は9万円だ
 った。
  価格に関わらず三池炭鉱を落札しなければならないと
 した益田は、三井銀行を説得し、100万円の融資を取り付
 けた。
  三菱と熾烈な競争が展開された・・、
  その結果、455万5000円で、三井組が三池炭鉱を落札し
 た。
  この時、三池炭鉱と共に三井が手に入れたかったのは
 人材としての鉱山技師・團琢磨(だんたくま)だった。
  黒田藩勘定奉行の養子であった團琢磨は、1871年、岩
 倉使節団とともに渡米し、マサチューセッツ工科大学で
 鉱山学を学んでいた。
  1878年に帰朝し、東京大学助教授などを経て、
  1884年、工部省に採用され、三池鉱山局に勤めていた。
  三井組の三池炭鉱落札の時、團は、三池炭鉱の湧水対
 策を学ぶため、欧米各国の炭鉱を視察中であった。
  ニューヨークで、民間に払い下げられた「その事実」
 を知った。
  職場の払下げにより、失職した。
  行き場を無くした團は、義兄に相談し、義兄のの斡旋
 で、福岡県庁への入庁が内定していた。
  しかし、益田は、これを聞いて驚いた。
  益田は、以前から團の才能を買っていた。
  「三池の落札価格に、團の価値も入っている」と、益
 田は、主張した。
  そして、福岡県庁の2倍の給金で、團を招聘した。
  1889年、旧三井物産は、「三井炭鉱社」を組織した。
  團は、事務長に就任した。
  1893年には、三井鉱山合名会社が設立された。
  専務理事となった團は、最新の排水ポンプによる湧水
 問題の解決をした。
  また、三池築港など鉱山事業などをして・・その手腕
 を発揮した。
  後に、三井合名理事長まで上り詰めた。
  三井の雄となった。
  三井鉱山は、三井のドル箱として・・、
  三井銀行、旧三井物産とともに・・戦後、石炭産業が
 斜陽化するまで「三井の御三家」の一角を担い、三井を
 支えた。、
  三井財閥の発展を支える大切な中核事業として存在し
 た。
  そして、日本を支えた。
  (三井広報委員会のホームページを参考にした)
1888年8月21日、尋常師範学校設備準則を制定した。
  この法律で、我が国初めての『修学旅行』という言葉
 が使われた。
  1886年(明治19年)に、師範学校令が公布され、わが
 国の師範教育制度は、ここにはじめて整備への第一歩を
 踏み出した。
  これ以前から、理知的に進んでいた日本は・・師範教
 育も、すでに、発展して来ていた・・が・・、
  全国的に整備された教員養成制度は、まだ、確立され
 ていなかった。
  この師範教育制度の改革を進めたのが、文部大臣・森
 有礼であった。
  森は、国民教育の根本は「師範教育にあり」とした。
  そして、その重要性を認め、
  師範教育の理念を制度の上において・・実現しようと
 努めた。
  1886年(明治19年)4月10日、「師範学校令」が公布さ
 れた。
  そして、この師範学校令、ならびに、その後、これに
 関連して設けた諸規程によって・・、
  小学校・中学校・帝国大学とは全く別個に、独立させ
 て・・「教員養成のための師範学校制度を確立しよう」
 とした。
  師範学校令・第一条:
  「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但
 生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシムルコトニ注目
 スヘキモノトス」。
  師範学校令に続いて・・、
  1886年(明治19年)5月26日、「尋常師範学校ノ学科
 及其程度」(女生徒については、明治22年10月)、
  1886年5月28日、生徒募集規則、および、卒業生服務規
 則、
  1886年6月4日、尋常師範学校男生徒の学資支給に関す
 る件、
  1888年8月21日、尋常師範学校設備準則・・を定めた。
  高等師範学校については・・、
  1886年(明治19年)10月14日、「高等師範学校ノ学科
 及其程度」、高等師範学校生徒募集規則、および、高等
 師範学校卒業生服務規則・・を定めた。
  尋常師範学校の入学資格は、高等小学校卒業以上の学
 力を有し、年齢17年以上20年以下の者、修業年限は4年と
 した。
  高等師範学校には、男子師範学科と女子師範学科とを
 置き、
  男子師範学科の入学資格は、尋常師範学校を卒業した
 者とし、その修業年限を3年と定め、
  女子師範学科は、尋常師範学校第2学年修了者を入学さ
 せ、修業年限を4年とした。
  1890年(明治23年)3月25日、女子部を分離して、女子
 高等師範学校を創設した。
  (文部科学省のホームページを参考にした)

1888年9月1日、東海道線の浜松駅~大府駅間が開通した。
  愛知県大府市にある大府駅(おおぶえき)が、この時
 のこの開通による官設鉄道線開業により、2線の分岐駅と
 なった。
1888年9月8日、森鴎外が、ドイツから帰国した。
  明治の文豪・森鴎外のこのドイツ留学には、美しいロ
 マンスがあった。
  鴎外の代表作の「舞姫」にもなっているが・・、
  鴎外のドイツの恋人(舞姫ではエリス)は、実際の話
 だった。
  エリスは、鴎外を追って日本へ来た。
  鴎外のこのドイツからの帰国から一週間もたたない頃、
 横浜港に入港した客船のゲネラル・ベーター号から、ひ
 とりのドイツ人女性が降り立った。
  女性の名をエリーゼと言った。
  エリーゼは、現在の銀座五丁目にあった築地精養軒に
 宿泊し、鴎外への気持ちを実現したいとした。
  鴎外と会えることを心待ちにした。
  しかし、このエリーゼの来訪は、海軍中将の娘である
 登志子との縁談が整いつつあった鴎外の周囲を動揺させ
 た。
  鴎外の親戚や友人が、帰国を説得するために精養軒に
 連日通った。
  鴎外自身も数回精養軒を訪れた。
  結局、エリーゼの恋は実現を果たせずに・・来日から
 約1ヶ月後・・ドイツに帰国した。
  しかし、鴎外の心には、生涯エリーゼを忘れることは
 無かった・・と・・言われている。
  鴎外の次女の小堀杏奴の著作に・・、
  「この女性とは、その後、長い間、文通だけは絶えず
 にいて、
  父は、女性の写真と手紙を、全部一纏めにして死ぬ前、
 自分の眼前で、母に焼却させた」・・と、記されている。
  (小堀杏奴「晩年の父」より)
1888年9月11日、高等師範学校附属学校に尋常中学科(現・
 筑波大学附属中学校・高等学校)が設置された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:色々な・・はなし・・
.
紀元前3万年、北アメリカ大陸に最初に住んだ人々は、アジ
 ア系のモンゴロイドであった。
  この人々・インディアンの方々は・・、
  氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、
 凍結したベーリング海などを渡って、
  シベリアからアラスカを経由し、
  広大な南北アメリカ大陸各地入り、そして、分散して
 行った。
  こうした人々・インディアンの方々は、母系社会によ
 る独自の文化を育んだ。
  今、アメリカ合衆国には、そのずーと後に来た白人が
 我が国土の様な顔をして住んでいるが・・、
  この白人たちの論理は・・、
  「この先住の民であるインディアンの方々が国家を形
 成していなかったから」・・なんて、屁理屈を言う、
  「だから、土地を奪ってもよかったのだ」・・という
 筋の通らない屁理屈論理を展開している。
  「部族は形成していたが、国家は形成していなかった」
 という理屈・論理である。
  もし・・ある家が、家庭崩壊していたら・・、
  家庭という状況が崩壊し、家庭が形成されていなかっ
 たら・・第三者は、その家を「乗っ取っても良い」とい
 う論理である。
  その様な論理が、「正義であるわけはない」。
  そして・・、
  近世まで、北米には、中南米に匹敵するインディアン
 文明が存在しないとされていたが、
  近年発掘が進み・・、
  8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化
 の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によ
 って確認された。
  そのうちもっとも大規模なものは・・イリノイ州セン
 トルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、
  最盛期で1万人に達したとされている。
  この超巨大遺跡は・・、
  1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界
 遺産に登録された。
  イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブ
 スは、スペイン女王の承諾を受け、
  大西洋周りによるアジア発見を志したが、
  1492年に、西インド諸島に到達した。
  これに引き続き、1498年、英国人・ジョン・カボット
 が、
  北米大陸の東海岸を探検し、英国がこれを領有(ニュ
 ーイングランド植民地)、
  1534年、フランス人ジャック・カルティエが、セント
 ローレンス川を遡って、これをフランスが領有化(カナ
 ダ植民地)するなどがあった。
  これらのヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の探検
 と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺がはじま
 った。
  16世紀に、ヨーロッパで、キリスト教の宗教改革がな
 され、プロテスタント(新教徒)が生まれた。
  その様な中で、イギリスでは、宗教的な迫害(はくが
 い、弱い立場の人々を追い詰めて、苦しめること)を受
 けたピューリタン(清教徒)が、1620年のメイフラワー
 号で、アメリカへ渡った。
  これをきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次
 いで入植した。
  現在のアメリカ合衆国を作ったと言われるこの人々は、
 アメリカ大陸に渡った最初、厳しい冬期・厳寒期が越え
 られず、餓死者が多く出る・・大変出るという状況だっ
 た。
  餓死者が出るくらいと言うより、ほとんどが死んでし
 まうかという酷(ひど)さだった。
  元のイギリスへ、再び、帰ろうかという状況だった。
  この窮地(きゅうち、追い詰められて逃げ場のない苦
 しい状態や立ち場)を救ってくれたのが、アメリカ・イ
 ンディアンの方々だった。
  アメリカ・インディアンの方々に助けられ、耕作物の
 種類を教えてもらい、
  また、その生育方法なども教えを受けたりと、
  越冬方法なども教えてもらい。
  やっと、力を付け、安住できるようになった。
  すると、今度は、安住ができるようになると・・、
  今度は、アメリカ・インディアンの方々と混住できな
 いと、人種差別の行動に出た。
  キリスト教の「有色人種蔑視の考え方」に洗脳された
 頭に影響され、
  有色人種であるアメリカ・インディアンの方々の追い
 出しに出た。
  恩も義理もないキリスト教の宗教の世界に住む人々の、
 耕作地を拡大したいという欲に敗けた姿も出た。
  そこには、仏教の教える「共生の姿」はなかった。
  アメリカ合衆国は、イギリスとの戦争に勝つと、ミシ
 シッピー河以東の地は、「我が領土だ」と、勝手に奪っ
 た。
  そしてさらに、卑劣なことに、そこに住む本当のその
 地の持ち主であるインディアンの方々の追い出しにかか
 った。
  アメリカ・インディアンの方々は、昔から居て、幸せ
 に暮らしていた、
  当然の生活をしているのに関わらず、
  アメリカは、その手に入れた地から、奪い取った地か
 ら、先に住んでいたアメリカ・インディアンの方々の追
 い出しにかかった。
  ただ、イギリスとの戦争に勝っただけなのに・・であ
 る。
  アメリカ・インディアンの方々に、何ら関係がない事
 なのに・・である。
  まったく関係のないアメリカ・インディアンの方々に、
 初めの恩も何も棄てて、自分だけの利益だけに執着し、
 卑劣な行為をし始めた。
  アメリカ・インディアンの方々は、力で、武力で殺戮
 され、
  そして、ミシシッピー川以東に居る人々のすべてを、
 河の西へ行けとされた。
  生活が出来なくなったインディアンの方々は、ミシシ
 ッピー川以西に追われた。
  殺戮を伴う追い出しに、やむを得ず、逃げて行った。
  この際限ない欲に敗けた者どもの追い出しは、また際
 限なく繰り返された。
  アメリカ合衆国は、その後、追い出したその地から、
 また、さらに、インディアンの方々を追い出し・・、
  その様な卑劣な行為を繰り返し、アメリカ合衆国は出
 来て行った。
  インディアンの方々の土地を奪って行く、西へ西へと
 奪って行く、その地を奪って行く。
  今、アメリカ・インディアンの方々は、人口が激減し、
 絶滅に瀕している。
  そして、キリスト教は、その弱いインディアンの方々
 を殺戮し、土地を奪った行為を賞賛している。
  そして、1620年の移民は、アメリカのプロテスタント
 の間で『偉業として称えられている』。
  「マニフェスト・デスティニー」だと・・???
  当然、インディアンの方々からは、民族虐殺の始まり
 として、『罪なる行為の始まり』として
  「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模
 な抗議が行われている。当然である・・、
.
  そして、次の話・・、
.
1644年、江戸時代の初期のころ、中国では、明朝が滅び
 (1644年)、清朝が成立したばかりだった(1644年)
  明朝の生き残りの勢力の鄭芝龍・鄭成功親子は、台湾
 へ逃れた、
  そして、鄭政権を作った。
  鄭成功は、日本人を母として、日本とも関係の深い政
 権だった。
  この時、清朝の台湾侵略の脅威に脅(おびや)かされ
 ていた。
  その脅威が生じるたびに、鄭成功は、江戸幕府に援軍
 を要請して来た。
  この時、江戸幕府は、鎖国体制だったが、台湾を守ろ
 うと「出兵を決定」した。
  この時の清朝は、「韃靼(だったん)人」による政権
 で(モンゴル)と同じ政権だった。
  鎌倉時代のモンゴル来襲も意識下にあって、出兵の必
 要を感じ、意識し、決意していた。
  老中は、「台湾の安全が、日本の安全に直結する」と
 意識していた。
  今・現代、中国共産党政権が、覇権の拡大路線をとる
 とき、この史実は、よく心しておく必要がある。
  今、完全に北朝鮮は「ロシア離れ」を起こし、中国共
 産党政権の息のかかった中にいる。
  「六か国協議」にしたって、北朝鮮の「核爆弾開発」
 と、「ミサイル開発」の最も大切な「詰めの時期」に、
  北朝鮮が安全に、それなりに、過ごす『時間稼ぎ』に
 使われ、
  結局、北朝鮮の目的が達せられつつある。
  この開発を、裏から応援していたのが、中国共産党政
 権であった。
  中国は、覇権拡大とともに、当然、対抗勢力の分断行
 為をする。
  韓国が、北朝鮮の核開発の進展とともに揺れ出し、38
 度線が、対馬海峡に移ってくる気配も感じられる。
  中国共産党政権の狙いの中に、当然、「日米分断」が
 あり、「太平洋を半分づつ」と、アメリカに言った意識
 もある。
  分断には、まず、「日本を封じ込める」という戦略も
 取る。
  過去に、「ABCD包囲網」で、日本を包囲した記憶
 が消えないのだろう。
  アメリカの覇権に、とって代わりたい中国共産党政権
 がある。
  長期的にも、それを達成したいがある。
  その達成のため、中国共産党政権は、「国際的合意」
 という手を使うだろう。
  簡単に言えば、「クラスのいじめられっ子」状態に、
 そして、「国際的合意だからやれ」と、日本の不利な事
 を押し付けて来るのだろう。
  その発言力を高めるため、「二桁の軍事費」を投入し、
 増大し続けている。
  今までの人類の歴史にない規模の異常な軍事費の急拡
 大を続けている。
  アメリカは、「世界の警察官」の立場はとれないと、
 止めたと、放棄の公言をした。
.
  そして、次の話・・、
.
  題:文明開化の地でパンが作られ始めた・・、
.
1860年、パンの発祥(横浜)
  パンの発祥地という事で、横浜に石碑が建った(2016
 年11月9日報道)
  石碑が建った場所は、横浜の日本大通りで、1860年に
 開業したという。
  記事:
  最初にパン店が出来たとされる横浜市中区日本大通り
 に8日、「近代のパン発祥の地」と書かれた石碑がお目見
 えした。
  パン食文化発祥の説明とともに、開港直後から親しま
 れてきた「イギリス流山型食パン」と丸形の「フランス
 パン」の写真が焼き付けられており、早速、観光客らが
 見入っていた。
  同市総合パン協同組合などによると、最初のパン店が
 開業したとされるのは1860年。
  外国人の日用食品街「お貸し長屋」の一角で、内海兵
 吉という人物が、フランス人にパン製法を習って始めた。
  当初は、良い発酵方法がなく、「焼きまんじゅう」の
 様だったという。
  イギリス流の山型食パンは、イギリス人のパン店で修
 業をした打木彦太郎氏が庶民に広め、今も元町にある「
 ウチキパン」が当時の製法を引き継ぐ。
  こうした伝統を多くの市民に知ってもらおうと、パン
 業者が加盟する同組合などが碑の設置を進めて来た。
                 (読売新聞より)
.
  そして、次の話・・
.
1922年11月17日、アインシュタイン氏が来日した(~12月
 29日までの43日間)
  フランスなどを訪れ、そして、日本への訪問を目的に
 夫婦で客船「北野丸」に乗船し、そして、11月17日に訪
 日した。
  アインシュタイン氏は、大正天皇陛下に謁見ている。
  アインシュタイン氏は、ラフカディオ・ハーンが記し
 た美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、
  科学の世界的連携によって、国際関係を一層親善に導
 くことが訪日の目的である・・と語った。
  そして、アインシュタイン氏は、2人の息子にあてた手
 紙に、
  「私が会った全ての人々の中で、日本人が一番好きだ。
  謙虚で、物分かりや察しがよく、
  技術に対する勘があるから」・・と、訪日した際の感
 想を述べている。
  広島では、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行
 為を行ってしまったと悔やみ、そして、謝罪した。
  また、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏と面会
 した際にも、同様の理由で、涙ながらに謝罪したという。
.
  アインシュタインには、その言葉に、多くある日本を
 賛美する言葉がある。
  以下の文は、1922年に、アインシュタインが日本を訪
 れた時に、
  日本に託した言葉だと云われている。
  アインシュタインは、日本と日本人に対して、敬愛の
 念を持っていた。
  彼が残した色々な文面には、日本を賛美する言葉が数
 多く残されている。
  アインシュタインが日本で最も感銘を受けたのは、建
 築をはじめとする・・、
  日本の伝統的芸術であり、やさしい国民性であったと
 言われている。
  日本の良い歴史や、日本人の素晴らしい精神性を学び、
 アインシュタインがこよなく愛した、よき日本人となり、
  世界平和の発信リーダーとなれる国にしましょう。
.
  アインシュタインの言葉・・
.
  近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
.
  その驚異的発展には、他の国と違ったなにものかがな
 くてはならない。
.
  果たせるかなこの国の歴史がそれである。
.
  この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという
 国体を持っていることが、
.
  それこそ、今日の日本をあらしめたのである。
.
  私はいつもこの広い世界のどこかに、
.
  一ヶ所ぐらいは、このように尊い国がなくてはならな
 いと考えてきた。
.
  なぜならば、世界は進むだけ進んで、その間、幾度も
 戦争を繰り返してきたが、
.
  最後には闘争に疲れる時が来るだろう。
.
  このとき人類は必ず真の平和を求めて
.
  世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いな
 い。
.
  その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、
.
  あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊
 い家柄でなくてはならない。
.
  世界の文化は、アジアに始まってアジアに帰る。
.
  それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。
.
  我々は神に感謝する。
.
  神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたこ
 とである。
  (日本を知る会のホームページを参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


2016年12月05日

(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月~1888年8月)

題:(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月~1888年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年7月21日、枢密院議長の伊藤博文が、書記官長の井上
 毅に憲法草案の内、枢密院で問題になった点についての
 再検討を指示した。
1888年7月29日、朝鮮の志士・金玉均が、小笠原から札幌へ
 移された。
1888年7月30日、辰野金吾(たつのきんご)設計の工科大学
 本館が落成した。
  この建物の敷地は、本郷における工学部発祥の地と言
 える。
  1888年(明治21)年、ここに学部最初の校舎、旧工科
 大学本館が建った。
  建物には時計台のある大きな中庭があり、一種の広場
 のように使われていた。
  設計は、東京駅や日本銀行な設計で有名な辰野金吾教
 授。
  震災後完成した現在の1号館は、1996(平成8)年、建
 築学科の香山壽夫教授によって増改修が行われ、光庭が
 屋内化され「広場」が復活した。
  学生たちの生活の中心であり、卒業式などを行うハレ
 の場にもなっている。
  (東京大学創立130周年記念事業 知のプロムナード 
 ナビゲーション・ブック)より
1888年7月31日、大久保一翁(おおくぼいちおう)が没した。
  幕末~明治時代の武士(幕臣、幕府閣僚)、政治家(
 維新政府の官僚)
  当初の実名は忠寛。名ははじめ忠正、のち忠寛(ただひ
 ろ)。
  通称は金之助、三市郎。号は石泉。
  1818年(文化14年)11月29日、旗本・大久保忠向の子
   に生まれ。 江戸出身。
  1842年(天保13年)24歳、家督相続。
  1854年(安政1年)5月、36歳、(ペリー来航後)目付
   に登用され、海防掛を担当、軍制改正用掛、蕃書調
   所頭取、外国貿易取調掛を兼ねる。
   駿河町奉行を経て、
  1858年(安政5年)5月、40歳、禁裏付を命ぜられ京に
   赴任、
  1859年(安政6年)、41歳、京都町奉行となる。
   安政の大獄で志士捕縛に当たった配下の専横に対し
   て粛正を図り、かえって西ノ丸留守居に左遷され、
   次いで罷免された。
  1861年(文久1年)10月、43歳、復帰して外国奉行、
  1862年、44歳、大目付、次いで側御用取次。
   この頃、大政奉還を前提とした諸侯会議・公議政体
   論を唱え松平慶永、勝海舟らに影響を与えたものの、
   幕府有司の反発を受け罷免、
  1862年11月、44歳、差控に処せられる。
  1864年(元治1年)7月、46歳、勘定奉行に任ぜられた
   が4日後に免職、
  1865年2月、47歳、隠居し一翁と改名。
   この様に、老中・阿部正弘に重用され、大老・井伊
   直弼(なおすけ)にうとまれた。
   井伊没後、外国奉行、大目付などとなり、松平慶永
   (よしなが)らと大政奉還を説いた。
  1868年(明治1年)50歳、鳥羽・伏見の戦で徳川軍が敗
   北してのちの
  1868年1月、会計総裁、次いで若年寄として海舟と共に
   江戸を開城に導き、新当主徳川家達に従い静岡に移
   住した。
  1872年(明治5年)5月、54歳、命により東京府知事と
   なり東京会議所の民会組織への改革を図り挫折、以
   来、教部少輔,元老院議官を歴任したが、新政府とは
   隔たったところに身を置く。
  1887年(明治20年)69歳、子爵。
   「なにひとつ世のためはせでまうつしに のこす姿の
   はずかしきかな」。
   晩年、写真を撮ったときの感慨。
   維新後は、東京府知事、元老院議官。
  1888年(明治21年)7月31日死去。72歳。
  (氷川清話)7月、山岡鉄太郎、大久保一翁逝去
1888年8月1日、東京築地の海軍兵学校が、広島県江田島に
 移った(開校は8月13日)
  海軍兵学校は、大日本帝国海軍の将校たる士官の養成
 を目的とした教育機関。
  そして、海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校
 とともに海軍三校と呼ばれた。
  その規模では、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカ
 の合衆国海軍兵学校とともに、世界三大士官学校の一つ
 に数えられている。 
  英語教育を重視し、総計、1万2433名の卒業生を輩出し
 ている。
  戦後、各界のリーダーとして活躍する卒業生も多い。
  沿革として、1869年に出来た海軍操練所がある。
  因みに、山本五十六元帥は32期の卒業生。
  南雲忠一大将は36期。
  (参考)
  1886年(明治19年)1月に、海軍兵学校次長兼教務総理
 に補せられた伊地知弘一中佐は、英国留学の経験から「
 兵学校を僻地に移転するの理由」なる一文を草して、江
 田島への移転を強く訴えた。
  その理由とするところは・・、
  第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を
   堅実ならしむるに在り。
  第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精
   神勉励の一途に赴かしむるに在り。
  第三、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都
   会を避くるを良策とす」というのであった。
  1886年(明治19年)5月、呉に鎮守府が設置された関係
 もあって、江田.島移転が本決まりとなり、
  1886年6月には、東京から派遣された視察団が、建設用
 地の測量を開始した。
  1886年(明治19年)11月、新校舎建設工事に着工、
  1888年(明治21年)4月、物理、水雷、運用の3講堂と
 重砲台、官舎、文庫等落成。
  1888年同年8月1日をもって、海軍兵学校は、江田島本
 浦の新校舎に移され、東京から回航して江田内に面した
 表桟橋に繋留された東京丸を生徒学習船として・・、
  1888年8月13日から開校された。
1888年8月1日、兌換銀行券条例を改正し、発行限度7000万
 円とする保証準備発行を定め、
  特別の場合は、政府の許可で制限外発行とする保証準
 備屈伸制度が布かれた。
1888年8月1日、内国通運が、貨物早達便を開始した。
1888年8月7日、読売新聞が磐梯山の写真を掲載した。
  新聞の写真掲載の初めとされる。
  福島県の会津磐梯山の大噴火を銅版画で掲載。
  報道写真の元祖とも言える試みだった。
1888年8月16日、東京市区改正条例が公布された。
1888年8月20日、家茂、27年忌、
  家茂の27年忌に、勝海舟が読んだ弔辞
  「旧臣勝安房、昭徳公霊前に口演」という文章は、熱
 のこもった感動的なものだった。
  家茂将軍夫人の皇妹和宮は、未亡人となってからは、
 髪を下して静寛院と称された。
  結婚生活はわずか4年だった、
  しかも、江戸城総攻撃の時は、宮は徳川家と生死を共
 にする覚悟を表明された。
  この宮を救うためにも、勝海舟は、その当時、奔走し
 たのであったが、
  亡き将軍・家茂への恩は、いつまでも勝海舟の胸に消
 えなかったのであろう(氷川清話より)
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人の優秀さを示す、また、一つの事例がある・・、
.
1987年(昭和62年)世界初のエイズ治療薬AZT(アジド
 チミジン)が、日本人の満屋裕明氏が発見・発明し、
  この年に、アメリカで承認され、
  患者の方々は、治療の恩恵を受ける事が出来る様にな
 った。
  満屋裕明氏は、エイズに効果があるという薬の用途を
 立派に発明し、「栄光の発明者」となった。
  しかし、問題が起きた。
  アメリカという、卑劣な地の発明に原因があった。
  この薬の値段を、満屋祐亮氏は聞いて驚いた。
  1年間で、治療費が、約1万ドル(当時のレートで約150
 万円〉と、前例のない様な高額だった。
  まず、アメリカは、日本のような医療保険制度がない
 遅れた国だった。
  アメリカの所得の低い方々には、その薬価の為、その
 薬の恩恵が受けられず、
  次々と、エイズで命を落として行った。
  折角、良い薬が出来たというのに・・、
  薬の開発者の満屋裕明氏は、その姿を見て、胸が痛ん
 だ。
  良い薬を開発したというのに、その恩恵に浴せないア
 メリカの方々が多く居た。
  その状況を解決できない遅れたアメリカ合衆国だった。
  そして、満屋氏が怒りが湧いたところは、その高価な
 薬になる理由だった。
  満屋氏は思った・・「なぜ、こんなに高いのだ、この
 薬は、政府の研究機関で、アメリカの国民の方々の税金
 を使って開発された薬ではないか?」・・と感じた。
  エイズ問題の活動家たちも、抗議行動を起こした。
  濡れ手で粟の利益を享受しているのは製薬会社だけだ
 った。
  この薬が出来た貢献度は、まったくない製薬会社だっ
 た。
  この製薬会社は、この薬が、エイズ治療になるとか、
 ならないとか、まったく分かっておらず・・不明な薬を、
 ただ、エイズへの効果を発見した満屋氏へ、「送っただ
 け」のことしかしなかった会社だった。
  実験なども、この会社は、まったく行わなかった。
  実験などは、製薬会社と、まったく関係ない所で確か
 められたのだった。
  つまり、満屋裕明氏は、特許で認められている「薬の
 有効な用途を、最初に発見・発明した人」だった。
  その特許の「用途発明」をした発明者として、れっき
 と認められる人だった。
  また、実験などは、製薬会社はまったくせず、
  製薬会社と、まったく関係ない所でその薬の効果は確
 かめられた。
  (発明性の確認が製薬会社とまったく別の所で確認さ
 れた)。
  逆に、この製薬会社は、当時、治療薬がなく、そして、
 治療法もなく、危険とされていた「エイズ・ウイルス」
 から遠ざかり(逃げ)・・、
  この製薬会社は、まったく、エイズウイルスを取り扱
 おうともしなかった。
  危険性の高い患者の血液検査も拒んで、研究協力もし
 なかった。
  研究の足を引っ張っていた。
  しかし、しかし、この会社は、発見者・発明者に知ら
 せずに、隠密に、特許を申請し、独占するというハレン
 チな事をした。
  権利は、会社だけが独占した。
  (だから・・発明者の方々は、まず、論文発表などの
 公表をする前に、最速で、特許を申請すること、
  そして、共同で研究している輩たちが、誠実に行動せ
 ず、真の発明者から「大切な特許権」を盗む事例が多い
 ので、注意を要する。
  この事例の場合には、共同研究者でもないのに盗んだ
 という最悪の破廉恥さがある)
  この製薬会社の不正義は、アメリカのメディアも取り
 上げた。
  ニューヨーク・タイムズは、「薬を開発し、リスクの
 多くを負ったのは、(満屋裕明氏らが居る)アメリカ政
 府だ」との論説記事を載せた。
  製薬会社は、別の企業や消費者団体から「特許は無効」
 などの訴訟が起こされた(発明者でもない人を発明者と
 した・・など)。
  満屋氏も、法廷の場に立って発明状況などを証言した。
  製薬会社側の弁護士から、威嚇の様な詰問を、連日、
 受けた。
  莫大な金がからむ、大発明の権利訴訟、満屋氏は、命
 の危険の恐怖に襲われた。
  その様な話もあるアメリカという国の中、「僕も殺さ
 れるのではないか?」と思った。
  暗い駐車場など、怖い思いを多くした。
  医学論文の発表は、勿論、発明者の満屋裕明氏が、世
 界初の発明者として発表しているので(この「初」とい
 う所に特許性がある)、
  世界は、満屋裕明氏を、『エイズ治療薬の初の発明者・
 開発者』として認めている。
  しかし、アメリカの訴訟の不正義が、ここでも起きた。
  満屋氏などの訴えは認められず、敗訴した。
  製薬会社側の勝訴となった。
  製薬会社は、満屋氏へは1円の報酬も支払っていなかっ
 た。
  この訴訟で、アメリカの法律の不備が明らかになった。
  連邦政府管轄の研究所で開発された薬の権利関係を定
 めた技術移転法が整備された。
  満屋氏の次なる研究目標=「安価なエイズ治療薬の開
 発」の意義がここに生まれた。
  人類のために、安価なエイズ治療薬の開発の大きな意
 義が生まれた(人類の皆様が、安心して安価な薬の享受
 が出来なくて、何の意味があるのか・・?)
  もっと安価な治療薬の開発の必要性を感じが満屋氏は、
 その薬の開発に乗り出した。
  満屋氏の本当に凄い所は、その大きな意義を達成して
 しまったところにあった。
  第二・第三のエイズ治療薬を開発してしまったところ
 にあった。
  人類が絶滅するのではと恐れられた「恐怖の病気・エ
 イズ」を克服して戴けたのだった。
  しかし、アメリカは、この例の様な「特許権を奪う行
 為が多発している」。
  アメリカだけのへ理屈理論の「先発明主義」などがあ
 って、日本の大発明は、いくつも盗まれている。
  満屋氏には、「ノーベル賞の授賞資格が、立派にある」
 が、
  このノーベル賞の査定委員会が、また、曲者で、
  この様ないきさつの満屋氏は、有色人種の日本人とい
 うこともあり、特に、不利に働いている。
  残念だが・・。
  (読売新聞、2016年11月22日を参考にした)
.
  そして、次・・、
.
1987年、世界で、初めて、。エイズに効く治療薬が開発さ
 れた。
  開発したのは『日本人』である。
  本当に、人類を滅ぼすと言われたエイズ治療薬を、初
 めて開発した日本人は、本当に、本当に素晴らしい。
  この薬は、日本やアメリカで承認され・・、
  それまで・・「死の病(やまい)と恐れられていた病
 気が克服された」。
  「薬を待ち望んでいた患者の方々へ、恩恵がもたらさ
 れた」。
  薬の名は「AZT]。
  エイズは、それまで、「人類を滅亡させる病(やまい)」
 とまで言われ、そして、恐れられていた。
  この薬を作った人は、開発者ではないが、ジェローム・
 ホーウィック博士。
  アメリカ・ミシガンがん研究所(1919年~2012年)。
  しかし、この薬は、エイズの薬として開発されたので
 はなかったので、世に、この点で埋もれていた。
  エイズに聞くとは分かっていない薬だった。
  つまり、エイズ治療薬としての発明に至っていなかった。
  ジェローム・ホーウィック博士は、だから、エイズ治
 療薬の発明者ではない。
  この薬が、エイズに効くではないかと「偉大な発見を
 したのが、日本人の満屋裕明(みつやひろあき)氏」だ
 った。
  エイズウィルス(HIV)薬の発見者・発明者だ。
  ジェローム博士も満屋裕明氏も、ノーベル賞クラスの
 業績を作ったのである。
  ジェローム博士が、出身大学からAZT合成の功績で
 表彰された時、満屋氏は、博士に会いに行った。
  そして、博士を讃え、お礼を言った。
  博士にとても喜んで戴き、博士は、受賞記念講演で、
 アメリカ詩人・エマーソンの詩を朗読した。
  「成功とは何か。しばしば、そして沢山笑うこと。聡
 明な人々の称賛と、子供たちの愛を勝ち取ること。偽り
 の友の裏切りを許すこと。世界を少しだけ良くして去る
 こと・・」、
  博士は、その詩を書いた紙を「進呈する」と言って手
 渡してくれました。
  うれしかった。
  今でも大切にしています・・と満屋氏は書く。
  ジェローム博士にしてみれば、埋もれた物質(薬)を、
 エイズ治療薬として発明してくれた満屋氏が居られたか
 らこそ、世に注目され・・そして、浮かび上がることが
 できたのだった。
  そういう意味で、ジェローム博士は、満屋氏へ感謝の
 心・感謝の意思を表したのだった。
            (読売新聞を参考にした)
.
  (追伸)
  ☆アメリカの「先発明主義(せんはつめいしゅぎ)」
 の卑劣な所:
  この主義でアメリカは、他国の特許を奪うことをよく
 するのだが、
  アメリカの研究者が、先に発明していたと認定されれ
 ば、例えば、日本人の特許権が奪われるのである。
  例えば、研究者のノートか何かにそれが書いてあって、
 先に発明していると認定されると、特許権を奪えるので
 ある。
  日本の特許は、「先願主義(せんがんしゅぎ)」であ
 って、
  日本の考え方は、先に発明したと気が付いたなら、特
 許庁へ「特許申請の願書」を提出しなさい・・という考
 え方である。
  例え、発明しても、特許庁のその願書と同じことをし
 ていたとしても、それが発明をしたと気が付かなければ、
 「発明したことにはならないのですよ」という考え方で
 ある。
  例えば、風車をいくら作ったとしても、そして、それ
 を大きくして発電機を付けたとしても、『風力発電』を
 発明したと気が付かなければ、
  そして、それを、山や野原に設置して風力で発電する
 のだと、その発明をしたのだと・・気が付かなければ、
 発明したことにはならないのですよ・・という考え方で
 ある。
  「先願発明」を発明としている国が多いが、アメリカ
 だけが「先発明主義」をしているという異常さがある。
  ☆アメリカの特許法の異常さの二つ目は・・、
  サブマリン特許:潜水艦の様に潜っているのである。
  「特許が出願されました」と公開されずに、秘密にさ
 れていて、
  特許権があるとは知らずに、その特許と同じことをし
 ていたら、
  急に、こんな特許が出願されていて特許権を持ってい
 たのだと、急に公開されて、特許権侵害で多額のお金を
 取られるのである。
  アメリカは汚く、この手で、日本の企業から何回も多
 額の金を奪った。
  さも、水面下に隠れていて、急に浮上するからサブマ
 リン特許と言うのである。
  何しろ、アメリカは不正義な国である。
  アン・フェアな国である。
  盗人(ぬすっと)みたいなことばかりしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive