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2018年11月21日

(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

題:(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月20日、威海衛の戦い(~1895年2月12日)
  日清戦争における戦いで、日本の陸海軍が共同で行っ
 た作戦。
  制海権を完全に掌握するため、威海衛に立てこもる中
 国・清の北洋艦隊の残存艦艇の撃滅と海軍基地の制圧を
 行った。
  日本の勝利で終わった。
  1895年1月20日、「八重山」など4艦の艦砲射撃による
 援護のもとに、第1野戦電信隊と海軍陸戦隊が山東半島先
 端の成山角灯台を制圧した。
  そして、電信線を切断した。
  つづいて、第2師団の歩兵第16連隊を先頭に第一次揚陸
 部隊が、栄城湾の東端に上陸し、栄城県城を制圧した。
  1895年1月21日の翌日、第2師団の残りが上陸し・・
  1895年1月22日、第6師団が上陸した。
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着。
  1895年1月26日、第2師団を左縦隊に、第6師団を右縦隊
   に並進した。
  1895年1月30日、第6師団が、百尺崖・摩天嶺での激戦
   をへて威海衛湾の南岸要塞群を制圧した(移動距離
   約60km)。
    また、第6師団の攻撃にあわせて第2師団が、南岸
   要塞群の西側、鳳林集の東南高地を制圧した。
    中国・清軍は、防衛線の一角を破られたこともあ
   り、威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄
   し、撤退。
  1895年2月2日、第2師団が、北岸要塞群などを無抵抗で
   制圧。
    威海衛湾の山東半島側が日本軍に占領された結果、
   湾の出入口にある要衝、劉公島と日島の守備隊、北
   洋艦隊の残存艦艇14隻が孤立することになる。
    また、1月30日、占領した百尺崖砲台にて望遠鏡で
   敵情視察中の歩兵第11旅団長大寺安純少将が敵艦の
   砲撃を受け戦死し、『二六新聞』記者遠藤又市も死
   亡。
    孤立しても、劉公島と日島の守備隊、北洋艦隊の
   主力艦は健在であり、視界に入る日本軍を「定遠」
   の30センチ砲などで砲撃した。
    日本軍は、当初、陸軍が小口径の陸上砲で応戦す
   るが、北洋艦隊の主力艦による艦砲射撃は圧倒的で
   あり、地上からの攻撃による北洋艦隊制圧は難しい
   と判断された。
    海軍(連合艦隊)に応援を要請し、海軍は水雷艇
   部隊を威海衛湾内へ突入させて襲撃する作戦を決行
   した。
  1895年2月5日午前3時20分、2月4日の夜から闇にまぎれ、
   清軍によって仕掛けられていた防材をかわして威海
   衛湾内へ侵入した日本海軍の水雷艇部隊は、予定ど
   おり襲撃を決行した。
    衝突事故を起こしながらも魚雷攻撃を行なった。
    北洋艦隊の旗艦「定遠」が大破、「来遠」「威遠」
   等3隻を撃沈、
  1895年2月9日、明け方、日本軍は水雷艇部隊を威海衛
   湾内へ突入させ、2回目の襲撃を行い「靖遠」を撃沈。
   この攻撃において、日本軍は、水雷艇を突入させる
   だけでなく、日本艦隊の艦砲と制圧した湾対岸にあ
   る砲台の備砲が北洋艦隊の牽制を目的とした支援射
   撃を行った。
    威海衛湾に安全な場所が無くなった清軍の水兵が
   反乱を起こした。
    清軍の陸兵と、清国へ派遣されていた外国人軍事
   顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求める。
  1985年2月11日、降伏を拒否していた丁提督が、李鴻章
   に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
   セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワ
   サル旨」と決別の打電を打ち、後に服毒自決した。
  1985年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
   官も自決。
  抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐
 亨連合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)
 を提出した。
  1895年2月14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放につい
   て両軍が合意し、
  1895年2月15日、調印が行われた。
  1895年2月17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に
   解放された。
    また、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍
   将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を
   乗せて威海衛湾から出航。
    作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持する
   こととし、砲台など軍事施設を爆破した。
    作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦に
   そなえて旅順に移動。
  なお、伊東長官が鹵獲艦船の中から商船「康済号」を
 外して丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、
  また、清の将兵の助命嘆願を容れたことは、当時の世
 界常識として例を見ない厚遇であった。
.
1895年1月、北海道炭砿鉄道が、北海道移民を無賃輸送とし、
 また、その携帯日常品(家具・衣類・農具)も無賃輸送し
 た。
  そして、すべての乗客で60マイル以上の乗客に対して、
 運賃の5割引を実施した。
.
1895年1月、樋口一葉の小説「たけくらべ」が、雑誌「文学
 界」で連載がはじまり、評判となった(~1896年)
  森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に激賞された。
  東京下谷大恩寺前を舞台に、
  遊女となる運命が予定されている大黒屋の美登利と竜
 華寺の跡取りになる内気な少年・信如との淡い恋を中心
 として、
  田中屋の正太郎などを交え、
  酉の市(とりのいち)などの風物も描かれ、
  吉原の花街近くに住んで、思春期にさしかかろうとす
 る少年少女の姿を、
  吉原遊郭周辺と四季の移りかわりを背景にして、抒情
 的に描く・・、
  明治文学の中でも、最も完成度が高い短編と言われる。
.
1895年1月、『小国民』、手旗信号の個所が機密維持法違反
 で告発さた。
  また、後に、治安妨害の理由で発禁に、1895年11月『
 少国民』になる。
  『小國民』の内容は、歴史、地理、理科、修身読み物、
 子どもたちの投稿文から成った。
  科学読物に重点が置かれ、事実に基づいて書くことが、
 基本的姿勢とされた。
  しかし、「海軍の信号」という絵入り手旗信号の記事
 により、海軍の機密維持法違反で告発された。
  さらに、「嗚呼露国」が治安妨害に当たるとして発行
 禁止処分を受けた。
  2ヵ月後、『少國民』と改題し発行を続けた。
  しかし、発行元の学齢館が経営不振に陥り、発行所が
 北隆館に移った。
.
1895年1月、ロシアの暗躍
  日清戦争の当時、西欧米の列強はまったくの門外漢で
 あったかと言えば、当然、中国や朝鮮半島に利権を持っ
 ている西欧や米の列強は、まったくの門外漢であるはず
 はなかった。
  朝鮮自体が、中国の冊封体制により、長らく属邦化政
 策がなされて来ていて・・
  朝鮮は、その中国の政策から抜け出したいとロシアに
 接近していた。
  1885年4月15日には、巨文島事件が起きる。
  イギリス東洋艦隊が朝鮮の巨文島(くもんとう)を占
 拠していた。
  これは、朝鮮に進出しているロシアを阻むために、イ
 ギリスが行なった。
  この様に日清戦争は、単純に日本と中国の清との対立
 という構図で行われたのではなかった・・そして・・
  ロシアが、不凍港が喉から手が出るくらい欲しいとい
 う理由の一つを上げれば・・、
  1895年当時、ロシアのウラディヴォストーク港は、冬
 期の4か月間結氷し、この間、ロシア太平洋艦隊は、日本
 の港湾で過冬していた。
  ロシアが、この状況を解決しようと画策するのはこの
 一例をもってしても分かる・・そして・・
  1895年1月、ロシアは、英仏に対し日本に講和を勧告し、
 かつその条件を開示すべく申し入れることを提議した・・
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に、対日申
 し入れを行った。
  結局、英露協調は、4月初めの下関講和会議において、
 日本が提示した講和条約案(遼東半島割譲を含む)に反
 対しないという決定をイギリス政府が下したことにより、
 崩壊した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた(2008年)
.
1934年初頭、この頃から投入された中国の中央軍、広東軍、
 湖南軍135万に紅軍は耐えられず、この年の1934年11月か
 ら江西中央ソビエト区を放棄して紅軍(中国共産党軍)
 は「長征」を開始した。
  この当時の共産党の実質的最高指導者は毛沢東ではな
 く秦邦憲(しんほうけん)だった。
  (参考)秦邦憲:1931年1月~1935年1月の中国共産党
     の最高指導者の一人だった。
      モスクワに留学している。
      秦邦憲は、コミンテルンより派遣された軍事
     顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提
     言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。
      1934年4月の広昌(こうしょう、江西省撫州市
     に位置する)失陥(しっかん、攻め落とされ失
     うこと)に際して、1万以上の兵力を失うという
     大敗を喫し、瑞金(ずいきん、江西省贛州市に
     位置する県級市)の陥落は避けられない情勢と
     なった。
      1934年7月から、ばらばらと福建省方面などへ
     と脱出する。
      南下を始めた共産党軍は、明確な目的地は無
     く、ただただ逃げ惑う軍団だった。
      1934年12月には、3万余りの兵力に激減してい
     た。
      1935年1月、遵義会議(じゅんぎかいぎ、中国
     共産党中央政治局拡大会議)で指導権を毛沢東
     に奪われた。
  そして、その毛沢東の中国共産党軍が、蒋介石の中国
 国民党軍に大敗して、その存亡が危ぶまれていて、延安
 という中国の奥地の奥地へ逃げ込んでいたその頃・・中
 国国民党の蒋介石は、抗日運動家を逮捕したりして居た。
  抗日する中国国民を捕まえていたのである。
  日本に迎合しようとする蒋介石だった。
  それは、日本に敵対すると中国沿岸部の経済建設が出
 来なくなると考えていたからだった。
  経済建設に「日本の力を借りたい」と考えていた。
  都市部に基盤を置く蒋介石・国民党は、この方針を重
 要と考えていた。
  そして、1936年12月12日、蒋介石が張学良に監禁され
 るという西安事件が起きる・・これが転換点だった。
  そして、中国共産党から「内戦停止」と「一致抗日」
 を迫られる。
  そして、その翌年の1937年9月に、第二次国共合作が成
 立する。
  日本との協調路線の流れが変わる西安事件だった。
  そして、1937年7月7日には、中国側の発砲で盧溝橋事
 件が起きている。
  この事件の時は、日本と国民党軍は戦戦を拡大させな
 い様にとの協定を結び、戦闘も収まっていた。
  しかし、1937年8月、上海で戦いが始まる。
  アメリカに武器を援助された蒋介石の大部隊が、上海
 の「イギリスの租界などもある国際租界」の中の日本租
 界に攻めてくる。
  そして、南京まで戦いは続いて行く。
  中国の泥沼の長い戦争が始まる。
  国際租界がある上海という地域は、世界の関心の集ま
 っていた地域だった。
  蒋介石は、その世界的な注目を集まる状況を利用しよ
 うとした。
  そして、日本を貶(おとし)めるプロパガンダを盛ん
 に行う。
  まったく関係のない中国共産党が(中国国民党が関係
 しているのに)、今・現在に至っても「起きてもいない
 南京事件をでっち上げてプロパガンダしている」。
  また、この当時、今・現在とは違う世界のつながりが
 あった・・ポイントは、イギリスがナンバーワンで、ア
 メリカが育って来ているという状況だった。
  日英と日米・・
  そのナンバーワンのイギリスと日本は日英同盟(1902
 年以来)の関係にあった。
  軍事力も強大化して来たアメリカは、イギリスという
 ナンバーワンの国を「乗り越えたいとする国」だった。
  1922年のワシントン会議(第一次世界大戦後の会議)
 で、アメリカは、この日英同盟の関係を潰したかった。
  そして、この会議で、日英同盟は廃棄させられた。
  日本にとって不利な状況となった。
  日本とイギリスの繋(つな)がりが無くなった。
  そしてまた、これは、これは、アメリカの「イギリス
 の力も削ぐという目的」でもあった(日本の力を削ぐと
 いう目的だけではなかった)
  日英が同盟してくっついていては、アメリカにとって
 都合のよくない不利な状態だった。
  大きな植民地の領土を持つイギリスは、何しろ強大で、
 大き過ぎた。
  イギリスは、この広がり過ぎたイギリス帝国の領土に
 ついて、日本を頼りにしていた。
  中国大陸において、イギリスは日本に統治を頼み、日
 本の軍事力に期待していた。
  そのような関係(日英同盟の関係が深化する関係)を
 アメリカは恐れていた。
  日本とイギリスは、まったく敵対する関係なんていう
 関係ではなかった。
  アメリカはこれを恐れ、ワシントン会議で日英同盟の
 解消に努めた。
  この後の歴史の流れは・・日英同盟が米英同盟の流れ
 になって行く。
  これが、アメリカの戦略だった。
  幕末から世界をリードして来ていたイギリスの国際社
 会が、アメリカの主導となって行く。
  アメリカの軍事力が、イギリスを凌駕(りょうが、他
 の者を越えてそれ以上になること)して行く。
  18世紀は、イギリスの植民地だったアメリカだった。
  それが、20世紀には、アメリカが、イギリスを軍事援
 助した。
  この様な歴史の変遷の中で、アメリカを仰ぎ見る様に
 なったイギリスは、1943年、次のような事を言う・・
  (イギリス首相のウィンストン・チャーチルの言葉)・・
  「イギリス政府は、同盟国(アメリカ)との協力は惜
 しまないが、イギリスの植民地統治はあくまでもイギリ
 ス政府がこれを維持する。
  植民地共同統治のごとき思想には、断じて賛成できな
 い」と。
  アメリカに、イギリスの植民地を盗み取られることを
 恐れたチャーチルの言葉だった。
  アメリカは、イギリスの植民地さえ得たいと思ってい
 た。
.
2008年、中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた。
  札幌医科大学の高田教授が、カザフスタンのデータと
 NEDIPS、RAPSの計算システムにより分析して、
 100万人以上の死傷者、被曝者がでたと推論した。
  (参考)NEDIPS:科学シミュレーション用のデ
     ータフロー計算機・・
      文献、特許などの情報をつなぐことで、異分
     野の知や意外な発見などを支援する新しいサー
     ビス
      データ・フロー・イメージ処理システム(NEDIPS)
     におけるSARデータ処理
  中国の行なう核実験の中でも、「地表核爆発」は、地
 表物質(砂礫など)と混合した核分裂生成核種が大量の
 砂塵となって、周辺および風下へ降下するため・・、
  空中核爆発と比べて核災害の範囲が大きくなる。
   (参考)核分裂生成核種:核分裂によってできた核
      種、またはそのような核種(核分裂片)から
      放射性の崩壊によってできた核種をいう。
  このような危険な実験を、中国は、ウイグル人の居住
 区で行った。
  また、実験場から1000キロ離れたカザフスタン、キル
 ギスタンでも、人体が影響される放射線量となっている。
  核実験は、1996年まで行われ、現在も、東トルキスタ
 ンの人々の健康被害と環境被害とは続いている。
.
2008年4月26日、北京五輪・聖火リレー中の長野県で、中国
 政府に動員された中国工作員や在日中国人留学生などの
 中国勢力が、中国政府による弾圧に抗議するチベットの
 方々へ暴力行為に及んだ。
  国際問題的であったので日本の警察などの公権力も控
 えめであったが、逮捕者も出た(但し、中国人に対して
 は逮捕をしなかった・・逮捕されたのは日本人だけ)。
  中国国旗が何本もはためく長野県の公道は、さも中国
 によって日本が占領された如くであった・・
  その様な中で行なわれたのが、中国勢力によるチベッ
 ト民族の方々への弾圧のごとくの行為で、今・現在、チ
 ベットで起きていることが日本でも起きている様だった。
  中国の公権力の者が私服を着て参加していたと言われ
 ている。
  この状況は、完全なる中国による日本の主権を侵害し
 ている行為だった。
  メディアの調査によると・・中国人参加者2000人とい
 う数字や・・、また、長野駅前だけでも1万人を超える数
 だったともいう。
  また、警察発表では4000人の中国人留学生が長野に集
 まったとされている。
  バスツアーで6万2千人の応募があって、ツアー個人旅
 行を含めて1万人が参加したとの推測もある。
  中国人学生だけでなく、明らかに中国マフィアと思わ
 れる風体の者もいたと言われる・・
  自動車から大きな中国国旗を何本もはためかせて、長
 野県の公道を疾走する中国人の姿・・
  日本を、さも従属国の如くの行為だった・・堂々とし
 た行動という声もあり・・まったく日本を馬鹿にした行
 動だった。
  また、道路交通法違反のハコ乗りで、長野県の公道を
 走り回る中国に、何もしない日本の警察に長野市民から
 の抗議の声が沸いた。
  (参考)ハコ乗り:走行中の乗用車の窓から身を乗り
     出すこと。
      道路交通法の違反行為。
      よく知られたな話として、鈴木宗男氏の箱乗
     り選挙運動が、一時期、問題とされ騒がれた。
  特に、長野駅周辺で危険行為を繰り返す中国人・・そ
 して、無視状態の日本の警察官の大群・・
  街頭で暴力を振るう中国人は、日本の警察官に制止を
 されても無視するという態度の中国人だった・・「日本
 の官憲なんて関係ない」という態度だった・・
  長野駅前のバスロータリーの・・街の中のその高台に、
 中国国旗を何本も立てて・・その何本も旗をはためかさ
 れるという状態は、日本が占領され、占領完了の様であ
 った・・武器こそ持っていないから良いようなものの、
 勝ち誇ったような中国人たちであった・・
  日本のバスなどの交通機関は最徐行・・長野の街には
 大声の中国語が響き、騒いでいた・・
  チベット国旗もはためくが、中国国旗に圧倒されてい
 た・・
  中国人だけが行なう暴力行為に、見ている日本人から
 は、「中国人は中国に帰れ」のシュプレヒコールが沸い
 た・・
  この騒ぎで日本側に19人の負傷者が出た・・
  長野県という日本の主権のある地で、白昼の街中で、
 堂々と中国人による不正(違法行為や暴行)が繰り返さ
 れていた。
  日本の官憲は何もしないで通してしまった・・
  常識ある日本の知識人たちは立ち上がった。
  その一人である「殴る・蹴るをされたジャーナリスト
 の水間正憲氏」は、その不正をテレビで説明した・・
  「フリー、チベット」と言っている人たちへ中国国旗
 で殴りかかって来る中国人・・
  また、直系5cmの金属棒で殴りかかって来る戦闘的な
 中国人・・
  中国のこの類を専門とする集団という風体だった・・
  この輩は、相手に抗議するという事なしに、いきなり
 襲い掛かって来る集団だった・・
  頭という急所を狙って殴りかかる行動だった・・
  頭部挫傷と首の頸椎捻挫の負傷者もいる・・もっとひ
 どく殴られた人も居るという状態・・
  https://www18.atwiki.jp/nihonnkiki/pages/28.html
  日本政府は、中国大使館が招集をかけ、旗や横断幕の
 準備をしたと確認している。
  ここで、優遇される留学生が問題となる・・
  2008年3月25日、参議院文教委員会で谷岡郁子議員が
 質疑した・・
  国費留学生の給付総額223億円
  大学院:17万円(月額、学部:13万4千円(月額)
  ※留学生の大半が中国人という状態
  さらなる優遇策は・・日本政府は、留学生に、この「
 奨学金(返還不要)」を与えている。
  長野の聖火リレーに集結し、この様な状況を起こした
 中国人留学生の多くも、この恩恵を受けているだろう。
  しかし、日本人学生には厳しい日本の政府で・・「奨
 学金」という名のローンを押しつけている。
  また、この事件で、旅行業免許がないのに「不特定多
 数」へ呼かびかける行為をした・・中国人留学生で組織
 する「全日本中国留学生学友会」(李光哲会長)が、26
 日に長野で行われる聖火リレーに向けて2000人を動員し
 て行う大規模ツアーが、旅行業法に抵触する可能性があ
 ることが分かった
  テレビ朝日 2008年4月24日(ワイドスクランブル)で、
 中国人の旅行業法違反の疑いについて報道された。
  NHK総合、2008年2月14日、スピルバーグ氏が、北京
 オリンピックの美術顧問を辞退した・・これに対して、
 中国は遺憾の意を示した。
  映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏が、中国の
 スーダンのダルフール紛争に対する姿勢に対して北京オ
 リンピック開会閉会式の美術顧問を辞退する声明を発表
 した。
  アルピニスト野口健氏は・・
http://megalodon.jp/2010-1010-1035-58/blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/51052593.html
  平成20年3月22日付の「チベット動乱~北京五輪出場へ
 の条件~」 「チョモランマは私にとっての聖地でもあり
 ます。 中国にとってタブー中のタブーであるチベット
 問題について発言を繰り返せば、二度とチベットに入れ
 なくなるかもしれない。
 すでにその手の忠告がないはずもない。ひょっとすると、
 もう二度とチョモランマに帰れないかもしれない。私の
 故郷が一つ奪われてしまうかもしれない。
  極めてデリケートなテーマだけに正直、発言に躊躇も
 したが、しかし、現場を知っている人間は逃げられない。
 そして、語らないことは加担する事と同じだ。
  確かに一登山家に出来る事は限られている。しかし、
 私にも何かが出来るはず。そうせめて声を上げ続けてい
 きたい」
  実際、これ以降、中国政府は、野口健氏へ入山許可を
 出さず、野口健氏を支えていたスポンサーが降りるとこ
 ろも現れた。
  しかし、野口健氏は臆することなく人権侵害への抗議
 の声を挙げ続けている。
  当日のテレビニュースや翌日の朝刊等には、日本側の
 負傷者のことは一切出なかった。
  それどころか、中国側にけが人が出たと伝えた。
  これは、中国が軽いケガでも救急車を呼び、日本側は
 簡単に救急車を呼んではいけないという良識が働いたと
 いう差が出た。
  日本側は、当日、長野中央警察署に2名が被害届を出し
 ているが、けが人の発表は、消防側にあるため日本人は
 ゼロとなった・・中国側の作戦勝ち。
  TBSの取材が来た・・チベットサポーターの1人が、
 「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナ
 ウンサーに聞いた。
  TBSアナウンサーは、「はっ?勝手に叫んでれば?」
 と吐き捨てて消えた。
  (参考)日中記者交換協定には、「日中双方の記者は
     駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を遵守
     する」、
      また、「駐在国が外国新聞記者に与えるのと
     同じ待遇を受けるものとする」。
      付属文書として、「日中両国は、政治の体制
     を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重
     して、相侵さないという原則を確認した」・・
     などとある。
  TBS、2008年4月13日、サンデーモーニングのコメン
 テイター浅井信雄氏の捏造と思われる発言・・
  「聖火リレーは大成功とイギリス新聞は報じた」と。
  (実際の大騒ぎの状況を口にしないで、実情がまった
 く伝わっていないコメント)
  浅井氏のコメントは・・
  「英紙タイムズは、聖火リレーは大成功と書いている。
 つまり、マスコミは騒ぎになったことを繰り返し報道す
 るが、全体としては成功と英国の一流紙が書いている」
 と、この様な発言をした・・
  しかし、実際は全く逆で・・
  以下のような英国各紙の報道となっていて、TBSの
 浅井氏はとんでもない嘘つきコメンテーターとなってい
 る。
  聖火リレーの妨害は「民主主義の勝利」と英各紙は好
 意的に報じた・・
  タイムズ(The Times)は、「中国は今回のデモで、五
 輪を自分たちの都合で捉えることは できないと気づいた
 はずだ」。
  「聖火リレーは、あらゆる権利を象徴するもので、中
 国の栄光を示すためのものではない」。
  「むしろ(ロンドンでの聖火リレーは)チベット問題
 への抗議を浮き彫りにしただけでなく、統制の及ばない
 不穏や混沌を内在するのが寛容な社会の本質だというこ
 とを示す機会となった」との評論を掲載した。
  しかし、日本のテレビの「日本テレビ」は・・、
  チベット人が、中国人にかまれたと言うと笑って去っ
 て・・流血したと騒ぐ中国人の主張を取材し、血をふき
 取ってティッシュを日本テレビのカメラに向け、「みな
 これ見てよ、中国人の血よ」と言う始末。
  NHKは、リレーの途中で妨害が相次いだと報道・・
 抗議ではないと報道した・・また、亡命チベット人をた
 だの台湾人と報道した。
  チベットからの亡命者であることを隠したNHKだっ
 た。
  また、中国人の日本人に対する暴力などは一切報道し
 ないNHKで・・中国寄りのNHKだった。
  日本政府の高村正彦外務大臣は・・、
  「中国人もチベット人も一人も逮捕されてないんです
 よ」と、何もなかったと言いたいような態度だった。
  また、テレビ朝日の報道ステーション(2008年4月18日)
 で・・高村正彦外務大臣は・・、
  「中国側は、アジアの中でチベット問題に注文を付け
 ているのは日本だけだ」と言って、事実と違う、中国寄
 りの代弁者の様な発言だった。
  長野県警は、中国人の暴力行為を多く見ていながら逮
 捕しようとまったくしなかった。
  それは、長野県警の警備の3000人を上回る中国人の数
 に対してその様な態度をとったのか?
  または、「中国国旗を掲げていると逮捕できない」と
 判断したのか?
  集団で暴行を加えていても、旗竿のアルミパイプで暴
 行していてもまったく逮捕せず・・
  日の丸を持っている日本人さえ旗を持っていると攻撃
 対象になった・・日本という国の中であるのに・・
  中国人は、大声で「中国は一つ」と叫んでいた・・そ
 して、「日本を潰せ」という声で叫んでいた・・
  日本人が抗議すると、その抗議された日本の警察官は
 「逮捕すると暴動になるから」と逮捕しない理由を言っ
 た・・だから、長野県警は「日本人だけを逮捕した」。
  中国政府、および、中国大使館は、日本の警察を褒め
 た・・
  日本のマスコミも中国にしばられていて・・、
  また、日本の警察も中国に縛られていて・・
  これが日本かというような・・日本が、中国にがんじ
 がらめにされている・・そして、正義が通らなくなって
 来ている・・
  この様な事が、日本の中心である東京で起きる可能性
 を日本は、この時、知った・・
  「外国人に参政権を与えよ」という陰謀の叫びもある
 日本となっている・・
  この時のこのような事態で、駐日の中国大使館には、
 このような力があることを知らしめ、長野で実証された・・
  青山繁晴氏は、この重大性を知っていて・・「長野聖
 火リレー」と呼ばずに、『長野事件』と呼ぶべきだと言
 った・・「これは事件」という認識・・
  2020年の東京オリンピックの時も、この様な事は起こ
 るだろうと予測される・・
  より発展した形で起きる可能性が大きい・・
  テロ事件が併発することが恐れられている・・
  「暴行を堂々としている中国人を逮捕しなかった長野
 県警」は、悪い先例・先行事例を与えてしまった。
  国家が持っている主権、その主権を行使する警察が、
 怖気(おじけ)づいたという事例となってしまった。
  中国の毒餃子事件の時も、苦しんでいる被害者が居る
 のに・・福田総理は、「中国は前向きにやっているのだ」
 とおべっか発言をした・・この様な日本となっている。
  それに対して、怒りの声を発した大臣・議員・官僚は
 わずかだった・・
  中国の属国化している日本が・・そこにある・・
  逆に、日本の警察は、チベット支援者の行動を法的な
 根拠がないのに制限する行為に出た。
  そして、逆に、同じことを、「中国人たちに許した」
 という筋の通らないことをした・・
  それを指摘する日本人に対し「無視する警察だった」。
  「明らかに、中国人を優先する警察」に怒りの声を上
 げて抗議する日本人たちだった。
  しかし、逆に、その日本人に対して、「脅したりする
 警察」だった。
  自動車から身を乗り出して中国国旗を掲げて走る違反
 行為に何もしない日本の警察だった。
  日本の警察官が、この明らかな道交法違反行為に、「
 何の違反をしているの?」ととぼける始末・・
  中国人も、日本の警察を馬鹿にして、無視し、制止も
 何もあったもんじゃない状態・・
  チベット国旗を掲げただけのオートバイ運転手には国
 旗を降ろすようにと言う警察・・
  中国へのゴマすり警察の姿・・
  式典会場の隅に追いやられたチベット支持者たち・・
 式典が見られないという状況・・
  移動したいと言うと「移動許可」は出してないと言う・・
  中国人たちは、式典会場のそばに陣取っているという
 異常さがあった・・
  日本の警察は、「何があっても中国人を逮捕しない」
 という怪しい話が事前に知られていた模様・・
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2017年、インドには、今でもインドの土地を所有するイギ
 リス人が居る・・
  植民地時代からの収奪者となっている。
  昔、インドの方々を虐(しいた)げ尽くしたイギリス・・
  このイギリス人が・・こんな昔から・・今も・・大き
 な茶園を経営し、所有する大地主におさまって居る(名
 義上での大地主で経営者・・利益収奪者)。
  インドの方々は、皆、お茶を飲む習慣を付けられ、こ
 のイギリス人ブルジョアのフトコロが潤っている。
  そして、このブルジョアイギリス人は、イギリスのグ
 ラスゴーの豪邸に住んでいる。
  インドに住みもしないイギリス人が、金だけはインド
 から巻き上げている。
  遠い昔から、インドの方々のものであるものを収奪し
 て、今なお利益を収奪するイギリス。
  この様な外国人所有の土地には、目から火が出るほど
 の税金をかければ良いのに・・、
  日本も、北海道や沖縄などに・・いざという時に拠点
 にしようとする土地が外国人に買われている・・特に中
 国・・この様な土地には・・べらぼうな税金を掛けよ!
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2018年、日本政府へのお願い文
  題:アイヌは先住民ではありません。
    決議のお願い・・
.
  拝啓
  御公務、ありがとうございます。
  アイヌは先住民ではありません。
  種々の歴史的史実が示す様に・・少し、歴史を調べた
 だけでもその事実が判明します。
  しかし、キリスト教が支援したりして、国連機関など
 はプロパガンダされて、間違った認識を持っています。
  その間違ったアイヌへの認識を持つ国連機関の日本へ
 の働きかけから、日本はその対処に明確な態度を避け、
 不明確な決議などをしております。
  ここで、明確に、「『アイヌは先住民ではない』とい
 う決議」をして戴きたい。
  お願い申し上げます。      敬具
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive