さぽろぐ

日記・一般  |札幌市豊平区

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2020年02月27日

(増補版)680E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年11月~1897年11月)

題:(増補版)680E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年11月~1897年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
.
1897年11月8日、兵員学校生徒乗車賃金割引規程を制定した。
.
1897年11月10日、隅田川の永代橋(えいたいばし)が完成
 した。
  徳川家康が江戸に入府してからの江戸時代に隅田川に
 架けられた橋は5つあるが、その4番目の橋。
  5代将軍・徳川綱吉の50歳を祝う記念事業として、関東
 郡代の伊奈忠順が指導して実施された(1698年8月説あり)
  「永代橋」という名は、対岸にあった中洲「永代島」
 (現:江東区富岡)に因み・・
  俗説として、江戸時代が末永く続く様にと願って名付
 けられたという・・
  因みに、赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、この永代橋を
 渡って、泉岳寺へ向かっている。
  永代橋に絡む話として・・財政が窮乏した江戸幕府は
 1719年に、永代橋の維持管理を諦めて廃橋を決定した・・
  しかし、町方衆の嘆願によって、橋維持に伴う諸経費
 を町方がすべて負担するという条件で存続を許された。
  町方衆は、橋の通行料を取って、また、橋詰に市場を
 開いて収益を上げ費用を工面した・・そして、維持に努
 めた。
.
1897年11月10日、日本鉄道磐城線の岩沼駅~中村駅(現:相
 馬)間が開通した。
  日本鉄道は日本で初めての私鉄。
  そして、磐城線は水戸駅~岩沼駅間の路線。
  1898年8月23日には、金山隧道(かなやまずいどう)を
 開通させる。
  このトンネルは全長1656メートルで日本最長トンネル
 の座にしばらくあった。
  このトンネルは、1963年(昭和38年)に廃線とともに
 使われなくなった・・現在、土木学会選定の土木遺産A
 ランクの指定を受けている。
.
1897年11月11日、参宮鉄道の宮川駅~宇治山田駅間が開通
 した。
  1891年に、関西鉄道によって開業した亀山駅~津駅間
   を延長して、
  1893年12月31日に、津駅~相可駅(現:多気駅)~宮
   川駅が開業し、
  1897年11月11日に、宮川駅~山田駅(現:伊勢市駅)
   が開業し、
  1893年~1911年に、伊勢神宮の参詣路線として建設さ
   れ・・1911年7月21日に全通した。
.
1897年11月11日、関西鉄道の上野駅(現:伊賀上野駅)~
 加茂駅間が開通した。
.
1897年11月14日、ドイツ軍が、膠州湾を占領する。
  ドイツは、19世紀以来、帝国主義が拡大した。
  他のヨーロッパ列強の侵略行為の様に、植民地を獲得
 しようという意識が高まった・・これが、中国に植民地
 を建設するとという占領意識となった。
  この行為によって経済を支えようという事で行動が起
 こされる。
  中国の多くの人口と広大な領土の巨大な市場にも、他
 のヨーロッパ列強諸国などの欧米諸国と同様に目を付け
 た。
  マックス・ヴェ―バーなどの学者の植民地政策採用の
 思想にも影響を受けた。
  当時、欧米列強にとって中国は最重要の市場だった。
  植民地経営による収奪思想にあった欧米列強と同様に
 ドイツも、世界に軍事的影響力の拡大に努めた・・海軍
 基地網を構築した・・この様な背景からなされた膠州湾
 の占領であった。
  経緯・・
  1860年、プロイセン王国の遠征艦隊がアジアを訪問し、
   この際膠州湾周辺地域も調査された。
  1861年、プロイセンと清の貿易協定が調印された。
  1868年、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェ
   ンは、1868年から1871年の中国探検の後、膠州湾を
   理想の艦隊基地として推薦した。
  1896年、ドイツ東洋艦隊の司令官だったアルフレート・
   フォン・ティルピッツ提督は、この地域を個人的に
   調査し・・ドイツは、三国干渉でともに清に対して
   恩を売ったロシア帝国やフランスに比べて中国での
   足場を築くのが遅れ、まだ、他の欧米列強の手のつ
   いていない地域を物色し、最終的に山東半島に目を
   つけた。
  1897年11月1日、山東省西部の巨野県(きょやけん、現:
   菏沢市)で、ドイツ人宣教師二人が殺される事件が
   起こる。
   この「鉅野事件」は、「ドイツ人宣教師の保護」と
   いう侵略の口実を与えた。
  1897年11月7日、上海にいたドイツ東洋艦隊司令官オッ
   トー・フォン・ディーデリヒスが、膠州湾占領作戦
   開始の命令を受ける。
   (彼は、1898年3月7日まで、軍総督の地位に就く)
  1897年11月14日、ドイツ海兵隊が、長期航海途中の上
   陸と陸上訓練とを口実に膠州湾に上陸、戦闘なしで
   膠澳の総兵衙門にいた清国兵たち1,000人以上に退去
   を命じて、湾岸全域を占領を行なった。
   清国側が、この部隊を撤退させようとした。
  1897年11月20日、清独交渉が始まったが・・
  1898年1月15日、宣教師事件の和解だけという結果で終
   わる・・不埒な染料行為は続く・・
.
1897年11月15日頃、ロシア軍が、遼東半島を占領した。
  ロシアは、三国干渉により遼東半島を日本から清朝に
 返還させることに成功し・・さらに・・
  1896年、東清鉄道の敷設権を得て、遼東半島に進出し
   た。
  1898年、25年間を期限として、遼東半島南部の旅順・
   大連を租借した。
   旅順(軍港)には極東艦隊を配置し、それに隣接す
   る大連(商業港)とともにアジア進出の拠点とした。
  しかし、後に、ロシアは、日露戦争に敗れた結果、ポ
 ーツマス条約によってその租借権を日本に譲渡した。
  その詳細は・・
  ロシアは、シベリアを濡れ手で粟の状態で領有した・・
 そして、シベリア鉄道を開通させ、その領有を確固とし
 た状態にした・・
  そうなると、ロシアは、太平洋側に不凍港が欲しくな
 った。
  そして、できれば要塞が完備できればよいと考えてい
 た。
  1896年5月、ロシア皇帝の隣席の下に、ベターな港とし
 てウラジオストクが選ばれた・・が・・ただ、この決定
 の後、喫緊の課題として不凍港の獲得が浮上した。
  ウラジオストクは冬季に氷結した。
  この頃、ロシアの太平洋艦隊は、冬季に長崎で越冬す
 ることを慣例としていた・・しかし・・
  1895年4月の三国干渉によって、日本の不利益な事をし
 たことで、日本の港湾の利用は何もなく実施できるとい
 う状態ではなかった。
  そして、越冬場所は膠州湾へ移っていた。
  しかし、その膠州湾・・ドイツの東アジアの艦隊が膠
 州湾を占領した・・
  そのため、冬季の迫る時期であったため、早急に、新
 たな場所が必要となった。
  釜山も最適と考えられていたが、日本の戦略重要地で
 あることから、大連港が候補として浮かんだ。
  ロシアの外務大臣・ムラヴィヨフは、「不凍港である
 ばかりでなく、朝鮮の港より戦略的利点がある」とした。
  1897年11月14日、ニコライ2世皇帝の召集で、大臣たち
   が集まった御前会議で、ムラヴィヨフは、大連湾だ
   けでなく旅順の占領も提案した。
   しかし、出席した海軍大臣、陸軍大臣、大蔵大臣な
   どに各自の案があった・・
   会議の決着は見られなかった。
  1897年11月28日、ニコライ2世が、旅順の占領を許可し
   た。
   ムラヴィヨフは功を焦っていた。
   彼は、イギリス艦隊が、遼東半島近海を航行して抑
   えていると皇帝の耳に入れ、煽った。
   この前日の11月27日には、ムラヴィヨフは「他の国
   家」に占領されない様に、旅順と大連湾にロシア艦
   隊を送るようにと提案していた。
   他の大臣や太平洋艦隊司令長官も、ドイツの膠州湾
   の占領に触発されて旅順の占領を上奏していた。
  この頃、この様なロシアを、イギリスも警戒していた。
  1897年11月25日には、イギリスの首相・ソールズベリ
 ーは、仁川に、ロシア軍艦が9隻集結中と知らされ、イギ
 リス艦隊も仁川へ派遣する様に指令した。
  ロシアはロシアで、駐清ロシア外交官が、イギリス艦
 隊が旅順へ派遣準備中という噂をペテルブルグへ打電し
 た。
  ロシアは、各地に停泊中のロシア艦隊を終結させ・・
  1897年12月4日、旅順に入港させた。
   この日に、ロシア艦隊を追って、イギリスの小型軍
   艦も旅順に入港した。
  1897年12月8日、ロシア艦隊は、大連湾へも入港し、イ
   ギリス艦隊を牽制した。
  1897年12月末、この時、清の軍艦3隻も、大連湾へ入
   港して三ヶ国が対峙することとなった。
  ロシアには、1896年に、中東鉄道敷設権を要求し、ま
 た、黄海への支線を要求している。
  不凍港への鉄道路線敷設の要求である。
  この様な点から、英露の大連湾をめぐる闘争となって
 いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は、何から何までもアメリカの真似をする。
    この様な中国の流れに、アメリカが対抗できるかは、まったく不透明。
    益々、日本を含む東アジアの危機は深まって行く。
.
紀元前3万6000年、日本に人類(ホモ・サピエンス)が到達
 した。
  日本に人類の遺跡が登場するのは、約3万8000年前。
  日本にやって来たホモ・サピエンス。
  ホモ・サピエンスは、約30万~20万年前にアフリカに
 誕生し・・
  5万年前以降にアフリカを出たホモ・サピエンスは、ヨ
 ーロッパ、アジア、シベリア、オセアニア、そして、ア
 メリカ大陸へと『大きな人類の移動のうねり』と共に大
 拡散して行った。
  そして、東アジアに到達したホモ・サピエンスは、陸
 続きだった日本にも、当然、到達した。
  また、そのホモ・サピエンスの別のグループは、やは
 り陸続きだったベーリング海峡を渡りアメリカ大陸へと
 渡って行ったが・・
  その東アジアに到達したホモ・サピエンスのモンゴロ
 イドは・・南アメリカの最南端にまで到達した。
  アフリカを出たホモ・サピエンス、その人の移動の大
 きなうねりは、地球上の至るところにまでおよんだ。
  アメリカ大陸の先住民が、モンゴロイドだという訳は
 この様な人類の移動の大きなうねりがあった。
  日本も、当然、その途中の段階で、その大きな人のう
 ねりの中に飲み込まれた。
  北から南から大陸からモンゴロイドの人々は日本に来
 た・・北海道の北のはしから、そしてその島々、そして、
 南の沖縄の島々を人類移動の『大きなうねり』が日本中
 をなめつくした。
  何万年の時の流れの中は「その様な時代だった」。
  最初は無土器だった。
  石器だけの時もあり、その石器さえないという時代も
 あった。
  あるのは長い長い時間の流れだった。
  日本中がその時間の中でなめ尽くす様に、人々はあち
 こちに移動し交雑し混血した。
  そして、縄文時代も形成され、その遺跡も北海道に多
 くある。
  この人々が「日本人の祖先(先住民)」となった。
  アイヌは、その後、紀元後になって、紀元後1280年代
 の日本へ襲来する元寇の前(10年くらい前)アムール
 川沿岸や樺太への「北の元寇」の時、その元に追われて、
 アムール川沿岸や樺太に住んでいたアイヌは日本に来た。
  この史実はモンゴルの文献に残っている。
  つまり、紀元後の何千年も経て日本に来たアイヌが、
 紀元前の何万年も前に日本に来た日本人の祖先を差しお
 いて「先住民だと主張した」。
  そして、政府へ圧力をかけて「法律に先住民と書かせ
 た」。
  「まったく恥ずかしい行為(史実に無い嘘の行為)」
 をアイヌの人々はした。
  この法律を、正しい史実に改正する運動をアイヌの方々
 は始めなさい。
  そして、「間違っていました」と謝罪しなさい。
  「もう二度としませんと宣言しなさい」。
  アイヌの歴史に汚点を残したことを悔いなさい。
  日本の若者に嘘のプロパガンダをすることを止めなさ
 い。
  こういう行為を影で支援するキリスト教団体は悔い改
 めて、この様な行為は止めなさい。
  NHKもこの様なキリスト教を支援をしないこと。
     ・
     ・
65年、この頃、パウロが亡くなる。
  初期キリスト教の使徒である。
  このパウロと協力者のソステネからコリントの教会の
 共同体へ宛てられた手紙に「コリントの信徒への手紙」
 がある。
  この「コリントの信徒への手紙(11章2節~16節)」で、
 「女が頭に『かぶり物』をしなくてはならない」とされ
 ている。
  パウロも、その様にかぶり物をするのが良いのだと考
 えていた。
  女が、何も被らないと娼婦に間違われるからだと弁護
 するキリスト教学者もいるが・・
  このコリント地域は、売春が盛んに行われる「売春の
 中心地」と言われる地だった・・その為、売春婦の多い
 港町だった。
  このかぶり物は、イスラム教のムスリムの女性の方々
 が被る布・・ヒジャブ(スカーフ)と同じようなもの・・
  今、ヒジャブ・・オシャレということで凄いことにな
 っているという。
  そして、ブルカ(イスラム教徒の女性が頭からかぶっ
 て全身を覆うように着る衣服)を禁止する「ブルカ禁止
 法」が、キリスト教国のフランスで作られた・・2011年
 4月11日に施行された。
  卑劣な事である・・宗教差別である・・
  国連は、SDGsで「ジェンダーの差別をなくそう」
 という活動をしているが・・キリスト教国のフランスの
 このブルカ禁止法は、同列に位置する「軽蔑すべき宗教
 差別」となっている。
  フランスは、ブルカやニカブを着用することを禁じ、
 違反すると罰金150ユーロ(1万8000円)を取ることにし
 ている・・
  そして、それを強制した父親や夫も、最高で金庫1年
 か、罰金30,000ユーロ(363万円)が科される。
  フランスの言い分は・・
  女性が強いられて着せられているという「逆の変な屁
 理屈」で、この法律の正当性を主張している・・
  この様な逆の言い方をすれば、「何でもすべてがおか
 しくなる」・・そのことが分からないのだろうか・・
  ・・であるならば、公平に、キリスト教徒にも禁止項
 目を作るべきだ・・
  例えば、公共の場で、一般の人々が見えるように十字
 架を付けたら罰金だ・・とかと・・
  因みに、ブルカ禁止法は、フランスの他に、ベルギー、
 オランダ、デンマークで成立しているという卑劣な状況
 になっている・・(スペインは検討中)・・
  ならば、「ビキニ禁止法」も同時に作りなさいという
 声もある・・
  何を着ようが、美しさや、信条を表現しているだけで
 ・・公権は介入しないこと・・
  アメリカでは、コーランを焚書にする計画がある・・
  また、モスクの建設を止めさせる計画もあるという・・
  公平そうに見え、そして、装っている国連のSDGs
 の「ジェンダー平等」の目標も、すり替わっていて・・
  イスラムの方々への批判だけとなって、偏(かたよ)
 っていることが多い・・
  キリスト教側からだけ見ていて、逆に、差別的な、卑
 劣なすり替えが行われいる・・
     ・
     ・
1284年、アイヌは日本の先住民ではない・・
  アムール川沿岸や樺太に居たアイヌは、1284年および
 1289年に二度の元寇が日本にあったが・・
  その元寇と同じ様な元寇が、そのアムール川沿岸や樺
 太に居るアイヌの人々にあった・・それを「北の元寇」
 と言うが、その「北の元寇」に追われてアイヌの人々は
 日本に来た・・来たのは13世紀の末だった。
  アイヌ協会の会長が、アイヌは「北海道の先住民だ」
 と言うが、北海道にはアイヌが通った道と同じ道の北か
 らのルートで、とっくの昔に、日本に渡って来ていた人々
 がいた(縄文の人たち)。
  アイヌが来た13世紀の末より何万年も前の人々がいた。
  日本に来た南ルートの人々や、朝鮮半島ルートの人々
 や、海からのルートの人々など、その何万年間、北海道
 から沖縄まで、日本中を往き来して、暮らし、交雑し、
 生活していた。
  その遺跡は北海道から沖縄まで数多く残っている。
  アイヌの人々を「北海道の先住民」とするのは間違い・・
 事実ではない。。
  故に、「アイヌを先住民と記述した法律文は科学的に、
 また、歴史的に間違いが記載されている」。
  「この法律は改正されなくてはならない」。
  また、この様な記載をする行為は他の日本に住む人々
 に対する差別である・・逆の差別となっている。
  本当に先住民であるべき人々に対する差別であり・・
 犯罪的でさえある・・
  法律は、正しい記述に改正されねばならない。
     ・
     ・
1777年、日本が、韓国・朝鮮へ改善して差し上げた行為が
 功を奏した・・それが人口で分かる・・
  韓国・朝鮮の人口の変化
  1777年、1804万人
  1877年、1689万人(李朝の酷さで人口が減っている)
  1910年、1313万人(李朝の酷さにここまで人口が減っ
   ていた)。
    この様な酷さから抜け出したいとする韓国・朝鮮
   の人たちであった。
    そして、この年、日韓併合がなされた・・韓国・
   朝鮮の人たちは、日本の様な一流国になりたいと言
   った。
  1942年、2553万人(日本が、日本からお金を持って行
   って、韓国・朝鮮へ資金を投入して、衛生面も改善
   され、社会資本も構築して充実し、韓国・朝鮮は、
   見違えるように良くなると、人口も倍増した)
.
1874年5月〜6月、大久保利通・・初代の内務卿(勧業・警察・
 土木など広範な権限を管掌する内務省の長官)
  その大久保利通が、「殖産興業に関する建議書」を建
 議した。
  「国の強弱は人民の貧富にかかっており、人民の貧富
 は物産の多寡に関係している・・
  そして、その物産の多寡は、ひとえに、政府が人民の
 工業を奨励するかどうかにかかっている」・・と述べ、
 政府の強力な指導による産業化で「富国」を達成すると
 した。
  政府奨励下の産業の発展や、大衆の政治参加への動き
 で近代化を達成しようとした。
  1880年代に、欧米で盛んに討議されていたナショナル・
 インタレスト(国家利益)の知見を日本も盛んに取り入れ
 た。
  自由放任の政策下での経済発展が、必ずしもナショナ
 ル・インタレスト(国家利益)を保護するものではないと
 した。
  (市場はキリスト教の神の自由の采配に任せるとした
 理屈があるが、これを否定した)
  むしろ国家を総合的にとらえ、国策論を展開するのが
 良いのだとした。
  この頃の福沢諭吉の論は・・
  政府が知者で人民が愚者と見てしまって、知者の政府
 が愚者の人民へ政治を行ってもうまく行かない・・
  それよりも、人民も政府も知者となってこそ政治はう
 まく行く・・と説いた。
  人民の知力が不十分なら民権の意識も伸長しない・・
 とした。
  政府が圧政をするからではない・・と・・
  対立と競争でもって双方が発展できるとした。
.
1875年4月、西郷隆盛に従って東京を離れた鹿児島の旧士族
 派がつくった士族民権雑誌「評論新聞」は、次の様な論
 陣をはった・・
  「法律は、公議與論で決められるべきであるのに、実
 際の政治は二、三の有司によって専制的に運営されてい
 る・・
  よって、国会を開設して、立法の大権を人民の手に掌
 握して、法律を本当の法律にしなければならない」・・
 と・・
  こんな早い時期から、まったく正論を主張していた。
.
1880年3月24日、この日の「東京横浜毎日新聞」の紙面は欧
 米列強諸国が迫る危機感を伝えている。
  「僅かに独立の位置を存し、欧州強国に力を抗せんと
 するの勢ある者は、支那・朝鮮・日本あるのみ。
  面して朝鮮とても版図狭隘人心振はず、若し廓羅(ロシ
 アのこと)一たび南向の志を起さば、朝鮮の独立も一朝の
 間にして覆滅するなる可し。
  故に東方諸国中、支那・日本を除かば、他に独立国な
 しと云ふも可なる者あり。
  欧州強国が東方辺海を横行するも、偶然にあらずと云
 ふ可し」。
.
1880年代から、ヨーロッパ列強諸国が、帝国主義的な行動
 をし始める。
  フランスがチュニジアへ軍事介入をし、また、イギリ
 スがエジプトへの軍事介入をした。
  そして、これらを契機に「アフリカの再分割が始まっ
 た」。
  世界の列強は、帝国主義の覇権を競い出した。
  これらの傾向は、第一次世界大戦まで続いた。
  アメリカを含む、ヨーロッパ列強各国は強大な兵力を
 保持しようと懸命になっていた。
  例えば、フランスやプロイセンは、兵力量を増やすた
 め徴兵制度の服役年限を長期化した。
.
1888年10月7日、後藤象二郎の演説・・
  千葉県千葉町の信之館で250名ほどの聴衆へ向かってな
 された。
  これが自由党系の新聞「東海新聞」に報じられている。
  「聞くところによれば、フランスの婦女子は、ドイツ
 のために奪われたアルザス・ロレーヌの二州を回復しよ
 うとして、非常にその問題を憂慮しているということで
 ある。
  婦女子においてさえそうであるならば、フランスの男
 子にとって、その問題はいかばかりであろうか。
  日本も治外法権によって実は独立を失っており、今や
 国民相共に一致団結して「一国独立の策」を講ずること
 が急務である。
  隣国のロシア皇帝は、アジア全州を併呑しようとして
 いるという。
  また、シベリア鉄道も着工されるのであれば、「今日
 我国の独立策を講ずること是れ実に焦眉の急務」である・・
  ロシアの南下の危機とともに語った。
.
1913年、日本が、中華民国を中国の正統政府として承認し
 た。
  (参考)中華民国:辛亥革命の結果、清朝に代って中
     国に成立した共和国の国号。
      1912年1月に、孫文を臨時大総統として成立し
     たが、次いで袁世凱が大総統となり、以後軍閥
     戦争が繰返された。
      孫文の指導する国民党は、1924年、中国共産
     党と提携、反封建の目的を果すため「北伐」、
     すなわち北方軍閥の討伐に乗出した。
      しかし、孫文の没後、蒋介石を中心とする国
     民党右派は、帝国主義諸国と結んで上海クーデ
     ターにより、1928年、正式に国民政府を樹立し、
     中国を統一した。
      国民政府は共産党を弾圧したが、その後、日
     本の動きが激化すると、1938年3月、「抗戦建国
     綱領」を制定し、第2次国共合作が成立した。
      しかし、依然として国共の対立は続き、1945
     年8月の日中戦争終了ののち内戦が激化、1949年
     10月、北京に中華人民共和国が成立すると国民
     党政府は台湾に渡り、今日まで中華民国と称し
     ている。
.
1914年7月28日、第一次世界大戦(~1918年11月11日)
  第一次世界大戦は、今までの戦争と違い「総力戦の様
 相を現した」。
  これからの戦争は、軍事だけではなく、経済や思想、
 情報操作・諜報などの情報戦など国家のあらゆる力を動
 員した激烈な総合戦を見せ、予想させた。
  そして、戦争しない人々の巨大な犠牲を交戦国、およ
 び、交戦国以外の人々にも強いるという戦争が予想され
 た。
  この情報戦において、中国は、種々の民族が入れ替わ
 り立ち代わり戦いが繰り広げられて来た地だった。
  中国は、この点から、単に武力で戦う以外の騙し合い、
 そして、諜報戦が凄まじく行われて来た。
  今・現在も、金と人(人口の多さ)を使って、中国は、
 世界へ工作員を送り、諜報戦を展開しているが、これは、
 今始まったことではない。
.
1914年10月31日、青島の戦い(~11月7日)
  日本とイギリスの連合軍は、第一次世界大戦中のこの
 時、ドイツ帝国の東アジアの拠点である青島を攻撃し、
 攻略した。
  この戦闘で、日本は、初めて航空機を投入し、空中戦
 や爆弾投下などがなされた。
  また、高射砲も用いられた。
  ドイツ要塞を近代的な戦術を用いて攻略した。
  優秀で強力な火力を持つドイツ要塞に対し、それを上
 回る質と量の火砲の破壊力と、十分な兵站に支えられて
 準備した弾薬を用いて粉砕した。
  大量の装備の陸揚げや、輸送路確保、輸送に時間をか
 けたが、砲撃開始後1週間で勝利を手にした。
  メディアは「遅い」と批判をしたが、最良な作戦だっ
 た。
  この戦争で、日本は満洲~大連~芝罘間の通信線の所
 有と運用権を譲り受けた。
  因みに、ドイツは、1897年以来、中国・清より青島を
 含む膠州湾一帯を租借し、青島に要塞を建設し、ドイツ
 東洋艦隊を配備していた。
  このドイツ東洋艦隊は、日本による海上封鎖を予期・
 推測して、開戦前に青島から出ていた・・
  しかし、ドイツへ向かう途中、フォークランド沖海戦
 で壊滅させられた。
  (参考)芝罘:しふう、中国の山東省煙台市にある市
     轄区。
  (参考)フォークランド沖開戦:1914年12月8日、第一
     次世界大戦で、イギリスとドイツが、アルゼン
     チン近くのフォークランド諸島沖で海戦を行な
     った。
      結果は、イギリスの勝利だった。
      イギリス海軍:指揮官:ダブトン・スターデ
       ィ-将軍
      戦力:巡洋艦2、装甲巡洋艦3、軽巡洋艦1
      沈没船:なし
      ドイツ海軍:指揮官:マクシミリアン・フォ
       ン・シュペー中将
      戦力:装甲巡洋艦2、防護巡洋艦3
      沈没:装甲巡洋艦2、防護巡洋艦2
.
1920年3月、尼港事件(にこうじけん)
  シベリア出兵中の1920年3月から5月にかけて、ロシア
 のトリャピーチンが率いるロシアと中国の共産パルチザ
 ン(遊撃隊)によって・・
  黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク
 港(尼港)の日本の陸軍守備隊、及び、日本人居留民が
 無差別に虐殺された。
  パルチザンに対して一旦降伏した後、日本陸軍が、再
 度、反撃したが敗北した。
  生き残った日本人は、無差別に軍人であるか民間人で
 あるかを問わず捕虜にされた。
  そして、5月に、日本陸軍が、ニコライエフスクへ援軍
 を送ると・・パルチザンは、すべての捕虜を殺害した。
  そして、逃亡した。
  また、日本人以外の市民も殺害した。
  その上、町も焼き払った。
  後に、このパルチザンの責任者は、ソビエト連邦政府
 により死刑にされた。
  この事件による日本人犠牲者は約700名に上った。
  その半数は民間人であったため、国内世論は憤激の声
 が渦巻き、反共機運が強まった。
  後々まで尾を引くことになった。
  日本陸軍が、シベリア出兵を延長したのは、この事件
 による。
  この過激派軍は、赤軍系パルチザンと韓人教師朴エル
 リアが組織した「サハリン部隊」とが連合したものだっ
 た。
.
1921年、ワシントン海軍軍縮条約
  海軍軍縮とは名ばかり・・
  日本だけが、軍縮するという片寄った軍縮会議だった。
  この条約は、未曾有の大成功と、アメリカは、上下を
 あげて喜んだ。
  逆に、日本は、中国の、特に、満蒙における特殊権益
 を剥奪され・・
  また、太平洋に於ける日本の力を劣勢にさせられた。
  そして、日本は、東亜における日本の行動が拘束され
 たと感じた。
  しかし、アメリカは、これだけで満足しなかった。
  条約になかった戦艦以外も、日本に枠をはめようとし
 た。
  その目的で、「ジュネーブ会議」と「ロンドン会議」
 が、アメリカ主導で召集された。
  この会議でも、日本は、アメリカに屈服した。
  平和裏に終了させたい日本だった。
  アメリカは、力を誇示しての会議だった。
  軍縮会議と言うが・・「ごまかし」で、日本の戦艦比
 率を低くし、アメリカが優位に立ちたいという会議だっ
 た。
  その先には、アメリカの東洋を抑え込みたい、制覇し
 たいの野望があった。
  自分の力を誇示し、半分脅しで、無理に納得させたと
 いう状況だった・・これでは、ことは収まらない。
  逆に、きな臭くなるだけだった。
  会議のアメリカ代表は、会議の成果を意気揚々と報告
 した・・
  「わが国(アメリカ)が、軍艦拡大が終わるまで、日
 本は現勢力のまま待つという状態にさせ得た」と言った。
  また、「我が国(アメリカ)の巡洋艦が倍加するまで、
 日本はわずか2千トン(2パーセント)しか拡張できない」
 と、アメリカだけに利があることを誇った。
  また、「日本国内に海軍拡張の必要を説く声が大きい
 中を、日本の会議の代表は、困難な仕事をした」と、日
 本代表を褒める余裕もあった。
  まったく、公平さのない会議だった。
  その後の戦争の遠因となった。
.
1922年~1943年、イギリスの蛮行・・ビルマの王家の悲劇・・
  ビルマには王家血統の国主や君主が居た。
  しかし、イギリスは、その王家の男をすべて殺した。
 そして、女性はすべてインドへ連れて行き、引き渡した。
.
1923年8月17日、日英同盟が失効した。
  アメリカは、日英同盟を破棄させて、日本を国際的に
 孤立させることに成功した。
  そしてまた、軍縮会議という「軍縮」という言葉に、
 日本はマインド・コントロールされ、会議が終わってみ
 れば軍縮したのは日本だけという、アメリカは何ら軍縮
 になっていないという結果だった。
  アメリカの交渉団に、日本が褒め称えられる始末だっ
 た。
  アメリカは言った、「敵(自分の事、アメリカ)が、
 自分(日本)よりも優勢なる艦隊を建造するまで、自分
 (日本)の手を縛られる様な条約に(日本は)調印した」
 と言って日本を褒めた。
  1920年代後半から1930年代にかけて、アメリカは帝国
 主義的政策を露骨に進めて行った・・
  アメリカは、国際連盟に加盟していなかった・・
  にもかかわらず、アメリカは、アメリカの言う事を聞
 く国を使って、満州国について、国際連盟の場で日本に
 圧力を掛けた。
  国際連盟は、アメリカのウィルソン大統領の提唱で生
 まれたのだが、アメリカは加盟しなかった。
  1933年2月24日、国際連盟は、満州国の不承認を決議し
 た。
  また、アメリカは、「不戦の条約だ」と宣伝し締結し
 ながら、世界一の海軍力構築を目指した。
  そしてまた、アメリカは門戸開放が正しいのだと言っ
 て、東アジアの門戸開放を要求し、固執しているが、ラ
 テン・アメリカは、モンロー主義だと、門戸を閉鎖した。
  日本が、メキシコのマグダレナ湾に土地を租借しよう
 とした時、モンロー主義に反するとアメリカ上院で議決
 し通過させ、日本潰しをした。
  この様なアメリカの言う通り、日本がアメリカ路線で
 行ったなら、明らかに日本は、徐々に、アメリカへの従
 属性を強め、植民地にはならずとも、保護国のような状
 態になる状況だった。
  そして今・現在も、アメリカは、徐々に、日本の属国
 度を増している、この時代の再現の様な状況の下にある。
.
1941年12月、日本のハワイ真珠湾攻撃の連合艦隊より先行
 した日本の潜水艦・・
  (潜水艦は速力が遅いので連合艦隊より先行し・・そし
 て、それより早くハワイに到着していた)。
  この先行した日本の潜水艦が、アメリカ軍艦に発見さ
 れ、日本の真珠湾攻撃の前に、すでに日米の交戦は行な
 われていた。
  日本の5隻の潜水艦のすべてが撃沈された。
  アメリカは「日本が奇襲をしたという汚名を着せたい
 ため、この日米の交戦を秘密にした」。
  しかし、知られると「あれはクジラだったと嘘を言っ
 た」。
  卑劣である。
  5隻と戦い、クジラの様に血を吹き出さず、潜水艦の
 油や空気が吹き出しただろうに、見間違えることなどま
 ったくないことを、クジラだと嘘を言った。
  アメリカには不誠実にこの様な嘘をつくことが多くあ
 る。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃は航空機によって大きな戦果を
 あげた。
  日本の戦闘機は、一本の魚雷を腹に抱えた状態だった。
  戦艦攻撃用の魚雷・・その一本が重く、だからその一
 本の魚雷しか持つことはできなかった。
  大事な一本の敵戦艦への攻撃手段の魚雷は、重要な大
 切な攻撃手段だった。
  だから、日本の各戦闘機は狙いを定めて、その一本の
 魚雷を敵戦艦へ向けて投下した。
  有効な攻撃手段として訓練を重ねて来た日本の戦闘機
 の兵士たちは優秀だった。
  ピンポイントにアメリカ軍艦へその一本の魚雷を投下
 して行った。
  命中率は高く、重い魚雷は、そうしてまず最初に投下
 して軽くなりたかった・・日本の戦闘機はその行動をま
 ず最初に当然のごとく行った。
  その様に、どの日本の戦闘機も洗脳されたが如く敵戦
 艦へこの攻撃行動をした。
  ここにこれ以後の戦い方の象徴的事柄が示されていた。
  日本の戦闘機による軍艦への攻撃が大成功し、艦対艦
 の戦いによって決する勝敗ではなくなった。
  航空機による艦への攻撃が有効であると、世界は目を
 見張った・・
  艦対艦で勝敗が決する場合は、大きな巨砲を持った戦
 艦が有利だったが、この戦い方は過去の戦い方となった。
  アメリカは、すでに、それを日本の行動から教えられ
 悟り、ハワイの真珠湾からアメリカ航空母艦を隠し、そ
 して、その艦載機も隠した。
  虎の子の「日本への反撃のための手段」を隠した。
  日本の真珠湾攻撃があることを知っていたアメリカは
 その様な対応をすでにしていた。
  日本はすでに記したように軍艦を攻めた。
  しかし、肝心のアメリカの航空母艦を攻撃することは
 できなかった。
  そして、日本は、可能だった第二波攻撃をすることな
 しに攻撃を止めた。
  「武士の情(ぶしのなさけ)」だった。
  日本は欧米のアメリカやヨーロッパの様なとことんま
 で相手を打ちのめす様な卑劣な行為は行わない。
  全滅させる様な・・女性や子供、赤ん坊まで殺すアメ
 リカやヨーロッパの様な戦い方はしない。
  欧米の歴史には全滅行為をした上に、敵の畑に塩を撒
 (ま)くことまでした。
  二度と畑に作物ができない様にとの非情な行為である。
  逃げたりして生き残った者まで殺そうという魂胆(こ
 んたん)である・・
  日本はこの様な卑劣な行為は蔑(さげす)まれた。
  アメリカは次なる敵となるソ連への威嚇のために「行
 (おこな)う必要がまったく無かった原爆の投下までした」。
  それも手持ちの原爆のすべてを使って必要性がまった
 く無かった行為をした・・広島と長崎への原爆投下を行
 (おこな)った。
  ハワイの日本の真珠湾攻撃では、日本はアメリカの国
 民の方々への攻撃はまったく行わなかった・・アメリカ
 の民間の方々の一人も殺(あや)めてはいない。
  当然である。
  国際法でも非戦闘員への方々への攻撃はしてはならな
 いとされている。
  しかし、アメリカは、卑劣にも、日本の非戦闘員の市
 民の人たちへの殺戮を目的として軍事行動をした・・そ
 れも、その卑劣な攻撃を、とことんまで繰り返して行っ
 た。
  卑劣な行為を繰り返しまでして非戦闘員を殺戮した。
  全滅を狙う「じゅうたん爆撃」を行った。
  このアメリカと日本の差・・これは宗教の違いから来
 る。
  キリスト教で有色人種への蔑視観を洗脳されたアメリ
 カは、日本の非戦闘員への殺戮行為の罪悪感はまったく
 生じなかった。
  真実の愛・慈悲心を説く仏教とはまったく違っていた。
  キリスト教より半世紀も早く立宗された仏教は、真実
 の愛・慈悲心を説いた。
  円覚経という経典には「輪廻は愛を根本と為す」と説
 き・・
  また、本生譚には、飢えた獣の前に我が身を投げだす
 という愛が語られている・・など・・
  愛染明王は、愛を「いつくしむ」「おしむ」「めでる」
 と読み、関係している・・仏教は愛を深く説いている・・
  インドとギリシャとの交流があったその時代、その途
 中のキリスト教発生の地へもこの仏教は流布されていた。
  紀元前268年に王となったアショカ王は、仏教伝道師ま
 で派遣していた。
  また、インドにはギリシャ商人の仏教に帰依した姿が
 記録され、佛へ供養し奉納したものも残されている。
  (参考)武士の情け:(ぶしのなさけ)」とは、本来、
     「武士が武士に対して与える恩恵」を指す言葉・・
      武士が、弱い立場に立った他の武士に対して
     施す思いやり・・
      「武士が弱者に対して与える恩恵」・・
      「強者が弱者を憐れんで思いやる気持ち」・・
      武士は本来高潔な優しさをも持っている・・
      侍(さむらい)に慈悲心があってこそ正義の
     行動が行なえる・・
.
1944年8月~10月、国連憲章の原案となる「一般的国際機構
 設立に関する提案」が作成された。
  アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国
 の政府代表がワシントンD.C.郊外のダンバートン・オー
 クスで会議を開き(ダンバートン・オークス会議)、国
 連憲章の原案となる「一般的国際機構設立に関する提案」
 を作成した。
  また、アメリカの国務長官を長年月たずさわったコー
 デル・ハルは、自著「ハル回顧録」で、「国際連合憲章
 は人間が作ったもので、完全無欠ではない」と言い・・
 その不都合なところは「改めて行け」ということを記述
 している。
  そして、今、「敵国条項」は、削除すべき時期となっ
 ている。
.
2017年10月、中国の習金平国家主席が、建国100年となる2049
 年をめどに、「社会主義現代化強国を築く」と言い・・
 「総合的な国力と国際的な影響力で世界トップレベルの
 国家になる」と宣言した。
  そのためにも、2035年までに「中国軍を世界一流の軍
 隊にする」とも宣言した。
  そして、この様な世界一の現代化した軍ができたら、
 理由は問わず、いつ中国が威嚇をもって台湾奪取を狙っ
 ても達成される状況が生まれる。
  今、香港の情勢や、台湾経済が順調であるということ
 から事態は安定しているが、この先はまったく不透明。
  そして、台湾が、中国の手に落ちれば、次は尖閣諸島
 や沖縄となる。
  中国の圧力は、今以上となる。
  今の現状でさえ、仮に、米中が東南アジアで対立した
 ら中国が圧倒する。
  南シナ海を、無謀にも中国は軍事拠点化したが、この
 地域では、中国の軍事拠点が圧倒している。
  その少ないアメリカの軍事拠点は、すべて中国のミサ
 イルの射程内となっている。
  中国の巡航ミサイルも高性能化し、また、高度で複雑
 な動きもする。
  アメリカ軍が本格展開する前に、在日米軍基地は、中
 国の一斉攻撃で無力化される。
  また、中国に取られた台湾が、中国の軍事拠点と化し
 たら、アメリカは完全に手出しできなくなる。
  中国は、南シナ海の西沙諸島は軍用機まで配属済みで、
 南沙諸島は管制塔や防空設備が出来上がり、軍用機の配
 備待ちという「ほぼ完了」という状態。
  こんなことのし放題となっている。
  世界は見過ごしている。
  中国のミサイルも高性能化し、アメリカは「こんな危
 険なアジア、危険過ぎて居られないと、アメリカ軍は撤
 退する」・・中国はそれを狙っている。
  この方法は、かつてアメリカが、ソ連を駆逐した方法。
  アメリカは圧倒的な軍事強化に邁進した・・ソ連はそ
 れで崩壊した・・
  中国は、何から何までもアメリカの真似をする。
  この様な中国の流れに、アメリカが対抗できるかは、
 まったく不透明。
  益々、日本を含む東アジアの危機は深まって行く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/