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2018年01月09日

(増補版)572E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)

題:(増補版)572E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月24日、「民法・商法施行延期法」が公布された(
 11月24日説あり)
  御雇い外国人のフランス人・ボアソナードは、フラン
 ス民法を中心として、オランダ民法、イタリア民法など
 を参考にして、10年の歳月をかけて日本民法を起草した。
  種々の国内の手続を経て、1890年4月と10月に分けて民
 法が公布された(「旧民法」という)
  しかし、批判が始まり、施行を延期して内容を修正す
 べきだという延期派と、予定通り施行すべきだという断
 行派との間に激しい論戦が起きた(民法典論争)
  今までの日本の良き美俗(びぞく、うるわしい風俗や
 習慣)を破壊するなどという意見が出た。
  1892年、民法商法施行延期法律案が帝国議会に上程さ
 れ、1892年5月に貴族院で、1892年6月に衆議院でそれぞ
 れ可決され・・、
  そして、この日、民法及商法施行延期法律が公布され
 た。
1892年12月、大阪角座で、大谷馬十(おおたにばじゅう)
 らが、初めて男女混合劇を上演した。
1892年12月、正岡子規が日本新聞社に入社した。
  東京帝国大学国文学科を中退して、入社した日本新聞
 社に、福本日南、三宅雪嶺、千葉亀雄、佐藤紅緑、長谷
 川如是閑らがいた。月給15円。
  そして、、「日本」紙上を中心に文学活動を行い、『
 獺祭書屋俳話』を連載、俳句、短歌の革新運動を進め写
 生論を提唱した。
1892年12月12日、伊東祐亨(いとうすけゆき)が、横須賀
 鎮守府司令長官となる。
  伊東祐亨(1843年6月9日~1914年1月16日)武士(薩摩
 藩士)、海軍軍人(元帥海軍大将)、華族(伯爵)。
  初代連合艦隊司令長官。
  海軍兵学校長の海軍中将子爵・伊東祐麿は兄。
  飫肥(おび)藩主伊東氏に連なる名門の出身。
  開成所でイギリスの学問を学んだ。
  勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗
 光らと共に航海術を学ぶ。
  戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
  1882年、海軍大佐に任官、「龍驤」、「扶桑」、「比
   叡」の艦長を歴任。
  1892年12月12日、海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官
   兼海軍将官会議議員を拝命。
  1893年、常備艦隊長官を拝命。
  1894年の日清戦争に際し、7月18日に連合艦隊司令長官
   を拝命・・その約2ヶ月後・・
  1894年9月17日12時50分から始まった黄海海戦。
   日本の連合艦隊と、清国の北洋水師(中国北洋艦隊)
   との間の海戦では、戦前の予想を覆(くつがえ)し
   て、清国側の大型主力艦を撃破した。
   (日本側の旗艦「松島」の4217tに対し、清国側の旗
   艦「定遠」は7220tと、倍近い差があった)
   黄海の制海権を確保し、この戦いの転回点となった。
1892年12月8日、乃木希典(のぎまれすけ)が、近衛歩兵第
 1旅団長となった。
  乃木希典(1849年12月25日~1912年9月13日)武士(長
 府藩士)、軍人(陸軍大将)、教育者、伯爵。
  「乃木坂」に名を残している人。
  長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、
 80石)と壽子(ひさこ)との三男として、江戸の長府藩
 上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生
 まれた。
  兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲し
 い、という願いが込められて幼名は無人(なきと)。
  10歳まで生活した江戸の長府藩上屋敷は、かつて、赤
 穂浪士の武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの
 間預けられた場所であった。
  無人も赤穂浪士に親しみながら成長した。
  幼少時は虚弱体質で、臆病だった。
  友だちに泣かされることも多い子供だった。
  父の教育は、極めて厳しかった。
  「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。
 寒いなら、暖かくなるようにしてやる」と述べ、無人を
 井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。
  16歳の源三(無人を改め)は、学者となることを志し
 て父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県
 下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒
 歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。
  玉木家は、乃木家の親戚筋であった。
  文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔した
 ことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述
 べ、源三の弟子入りを拒絶した。
  しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之
 進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。
  1864年10月(15歳)から、萩藩の藩校・明倫館の文学
   寮に通学。
   一方で、1864年12月から一刀流剣術も学び始める。
   この年、友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊
   を組織。
  1865年(16歳)第二次長州征討が開始されると、
  1865年(16歳)5月、萩から長府へ呼び戻される。
   長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率い
   て小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)
   に加わる。
  1866年(17歳)長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に
   入学(復学)。
   この後、越後方面に進軍していた報国隊に加わりた
   いため(藩が出陣を許さなかった)何としても出陣
   したいと脱藩。
   しかし、脱藩して馬関(現・山口県下関市)まで来
   たところで捕まり、明倫館に戻される。
  1868年(19歳)2月、報国隊の漢学助教となる。
  1868年(19歳)11月、藩命により伏見御親兵兵営に入
   営してフランス式訓練法を学ぶ。
  1869年(20歳)8月、京都河東御親兵練武掛となる。
  1870年(21歳)2月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練
   兵教官として、馬廻格100石を給された。
  1870年(21歳)2月、一刀流修業も「目録伝授」となる。
  1872年(23歳)1月3日、黒田清隆の推挙を受け大日本
   帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属す
   (大抜擢)
  1875年(26歳)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に
   任じられ、小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に
   赴任した。不平士族の反乱の恐れ。
  1876年(27歳)、福岡県秋月(現・同県朝倉市秋月)
   で旧秋月藩士の宮崎車之助らによる「秋月の乱」が
   起きる・・乃木は、他の反乱士族との合流を図るた
   め東進する反乱軍の動向を察知し、秋月の北に所在
   する豊津(現・同県京都郡みやこ町豊津)において
   これを挟撃して、反乱軍を潰走させた。
    秋月の乱の直後、山口県萩(現・同県萩市)で萩
   の乱が起こった。
    この乱の最中、弟の正誼は反乱軍に与して戦死し、
   学問の師である文之進は自らの門弟の多くが反乱軍
   に参加したことに対する責任をとるため自刃した。
  1877年(28歳)2月5日、西郷隆盛が私学校における幹
   部会議で挙兵を決断した。この情報を政府はいち早
   く政府側は察知した。
  1877年(28歳)2月14日、鎮台司令長官・谷干城の命を
   受けて小倉から熊本に到着し作戦会議に参加した。
    乃木は、小倉の歩兵第十四連隊を率いるために16
   日に熊本を出発し、17日夜に福岡に着、そこで薩軍
   の鹿児島出発の報を受けた。
    乃木は、この西南の役で各地で激戦・死闘を展開
   する・・田原坂の戦い・・など、重傷を負って野戦
   病院に入院するも、病院から脱走して戦地に赴こう
   とした。
   (この時の後遺症で左足がやや不自由となる)
    乃木は、薩摩軍に包囲される窮地もある。
    連隊旗も失うということもあり、「待罪書」を送
   り、厳しい処分を求めたりもした。
  1878年(29歳)1月25日、東京の歩兵第一連隊長(抜擢)
  1878年(29歳)2月14日、旧薩摩藩藩医の娘・お七(結
   婚後・静子〉と結婚。
  1883年(34歳)2月5日、東京鎮台参謀長に任じられる。
  1887年(38歳)1月、政府の命令で、陸軍少将・川上操
   六とともにドイツ帝国へ留学(1888年6月10日まで)
   ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉
   デュフェーについて、『野外要務令』に基づく講義
   を受ける。
    次いで、ベルリン近郊の近衛軍に属し、ドイツ陸
   軍の全貌について学ぶ。
    また、軍医として留学中の森林太郎(森鴎外)と
   も親交を深め、その交友関係は以後、長く続く。
    帰国後、乃木は軍服を常に着用し、生活はとこと
   ん質素にした・・芸妓の出る宴会は絶対出席せず。
    これを、作家・松田十刻氏は、「復命書」で軍紀
   の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく
   振舞わねばならないと考えての結果と分析している。
    乃木は、第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩
   兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古
   屋)となった・・しかし・・、
  1892年(43歳)病気を理由に2度目の休職に入る。
   休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地(
   現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農
   業に勤しんだ(上司との意見の相違か?)
    その姿を「農人乃木」と呼ばれた。
  1892年(43歳)12月8日、10か月の休職を経て復職し、
   東京の歩兵第1旅団長となった。
1892年12月、この月に刊行した『鉄道線路各種建造物明細
 録』(第1・第2編)によると、この時期の官設鉄道におけ
 る踏切道設置箇所は番舎の設備ある箇所313、番舎の設備
 のない箇所4828計5141箇所。
1892年12月、筑豊興業鉄道が、若松に工場を開設した。
  若松製作所設立(後の国鉄若松工場)
  この鉄道は・・、
  1891年、筑豊若松~ 直方間が開通し・・、
   日本経済の近代化に大きな役割を果たした筑豊の石
   炭輸送の産業鉄道として活躍した。
  1897年10月、九州鉄道と合併した。
   石炭輸送が拡大するにつれ、九州鉄道と競合するこ
   とになり、両社株保有株主からの要望が強くなり、
   この年の10月に、九州鉄道と合併し、国及び地域の
   近代化・発展に貢献した。
  明治時代に入った日本は、鉱山解放、鉱区の出願が自
 由とした。
  1887年以降、大手資本が参入して、生産規模が拡大し
 て従来の川ひらたによる水運が限界となり、陸運鉄道の
 敷設、積出港としての若松港、洞海湾の開発が緊急課題
 となった。
  そこで、この筑豊興業鉄道が、北九州地区で九州鉄道
 に次いで二番目に敷設された私設鉄道となった。
  1891年8月、若松~ 直方間開通時の機関車は4両、石炭
 貨車(6t)は95両であったが、送炭量の増大にあわせて、
  1896年、機関車30両、石炭貨車は1022両まで飛躍的に
 増加した。
  一方客車は、19両から22両と殆ど増えておらず、典型
 的な石炭輸送の産業鉄道であった。
  機関車は、米国から輸入、石炭貨車は当初英国から購
 入し、逐次、国産車も新設された。
  これらの修理に、1892年、若松駅構内に若松工場を創
 設した
.
  (今日の言葉)
.
  題:大東亜共栄圏:ベトナムに残留した日本兵の内、約600人が・・、
    日本の敗戦後も残留し、ベトミンに合流して独立戦に参加した。
.
1745年、伊能忠敬が生まれた(1745年~1818年)
  伊能忠敬がつくった伊能中図(ちゅうず)は非常に正
 確な地図で、この地図の存在を知った西洋列強は、日本
 の技術の高さに驚いた。
  この地図は、今、東京国立博物館の所蔵されている。
  また、同様に田中久重(ひさしげ、1799年~1881年)
 の「からくり人形(弓曳童子、トヨタコレクション蔵)
 は、複雑な驚くべき動きをする。
  現代の科学技術から見ても非常に高度である。
  田中は、電気機器メーカー東芝の創始者。
  この歴史ある会社・東芝が、今、元アメリカの会社の
 債務を被(かぶ)り、会社が無くなるほどの窮地にある。
  アメリカの策にはまった感がある。
.
1860年代、日本の浮世絵が、この頃からヨーロッパへ数多
 く渡った。
  新鮮なその画風が、ヨーロッパの芸術家たちへ大きな
 衝撃と影響を与えた。
  浮世絵は、ロンドン万国博覧会(1862年)やパリ万国
 博覧会(1867年)を機に、広くヨーロッパへ紹介された。
  浮世絵は、浮世(世の中)の名の通り、江戸の町人た
 ちの浮世を題材に、日本人の日常生活を、芸術的に美し
 く表現されていた。
  日本の繊細な絵師たちは、木版画の特徴を良く生かし
 た。
  一方、19世紀後半のヨーロッパは、キリスト教の抑圧
 で宗教画や神話画のみが描かれるという時代だった。
  その抑圧から脱却したいと、もがいている時だった。
  新しい絵画を求める機運が高まっていた。
  フランスでは「モネ」「ドガ」「ルノアール」「セザ
 ンヌ」など、印象派と呼ばれる画家たちが、新しい芸術
 運動を展開していた。
  その様な時に、浮世絵は海を渡って行った。
  万国博覧会で浮世絵に接したヨーロッパの人々、キリ
 スト教世界に圧迫されていた芸術家をはじめとした人々
 は、その日本の明るい、町人などの人々が生活をエンジ
 ョイする姿に感動した。
  その奔放な構図や大胆な色彩にも衝撃を受けた。
  そこには、人々が幸せな生活をしている姿が描かれて
 いた。
  梅を愛(め)でる安藤広重の「名所江戸百景」の「亀
 戸梅屋敷」に感銘を受けた「ゴッホ」は、「花咲く梅の
 木」を描き、まるまる真似た、「模写だ」と言える行動
 をするぐらいの衝撃と影響を与えた。
  日本の画家たちの明るい先見性ある絵画に魅せられた
 西洋絵画界の人々が「そこに居た」。
  非常に多くの西洋画家たちが、節操なく真似た、そし
 て、模範とした。
  葛飾北斎の北斎漫画は、彼らの教科書的存在だった。
  「ジャポニズム」という一つの流れを示す言葉も生ま
 れた。
  陰鬱なキリスト教文化から脱却したい人々へ、新しい
 時代にふさわしい人間や自然の自由な見方を教えた。
  日常の中に美があるという「素晴らしい偉大な見方」
 を示した。
  美は天に求めなくとも、キリスト教のその様な固定観
 念から脱却して・・、
  その日常・実生活を大切に大事にする「その日常の周
 りにこそある」という事を示した。
  完全なる虚構のキリスト教の「天のみある」という固
 定観念を否定した。
  今を生きるあなたの周りにこそ「幸せや喜びがある」
 という事を教えた。
  伊勢参りを楽しむ人々、美しい富士山を愛でる人々、
 川遊びを楽しむ人々、夜の屋台のソバ屋を取り囲む人々、
 一生懸命に桶を作る職人、川を渡る人々、旅にあって茶
 屋で茶を楽しむ旅人・・その例はつきない・・人々が、
 生を楽しむ江戸時代の平和な姿が数限りなくそこに描か
 れていた。
.
1880年代、純潔十字軍が社会浄化運動を行ない、アメリカ
 純潔連合、アメリカ自警協会、アメリカ社会衛生協会な
 どの組織がつくられ、アメリカ女性の娼婦を「白人奴隷
 (性奴隷)」と表現し卑しめた。
  そして、卑劣な行為なのが、公娼制度を「白い奴隷制
 度」とセンセーショナルに扱って、女性方を貶(おとし)
 めた。
  また、第二次世界大戦の時、パリへアメリカ軍が入っ
 た時、アメリカなどの連合軍によって制圧されたパリで
 は、ドイツ人と親密であった女性たち(性の関係者)を、
 頭を刈って、服を引き裂いて、市中を引き回した。
  この人権無視の行為、女性方へ、これ以上ないという
 卑劣な貶め行為をした。
  この完全に人権を無視した「このアメリカ軍の行為」
 は裁かれねばならない。
  また、無実の日本の従軍慰安婦問題を、韓国は、これ
 だけをひたすら取り上げて問題にするが・・
  韓国は、在韓米軍慰安婦問題を、まったくうやむやに
 している・・握りつぶしている。
  また、韓国は、日本女性を強姦し犯した行為、辱(は
 ずかし)めた行為についても目をつぶっている。
  また韓国は、ベトナム戦争の時、元寇の時などなど、
 自国の都合の悪い話には目をつぶっている。
  しかし、ひたすら日本を貶める行為だけは行なうとい
 う卑劣なやり方を世界で続けている。
.
1946年2月26日、アメリカ主体の占領軍のダグラス・マッ
 カーサー最高司令官の言葉・・
  「降伏後も、日本本土の封鎖は継続され、拡大強化さ
 れている」
.
1948年、アメリカが、卑劣にも、言論封鎖した本「アメリ
 カの鏡・日本」が出版された。
  ヘレン・ミアーズは、1920年代から日米両国が開戦す
 る直前まで東洋史・地政学を研究し、二度にわたって中
 国本土と日本を訪れ調査した人。
  第二次世界大戦の間は、ミシガン大学、ノースウェス
 タン大学などで、日本社会について講義をしていた。
  そして、連合国軍占領下の日本で、GHQの諮問機関
 「労働政策11人委員会」のメンバーとして、戦後の労働
 基本法の策定に大きな役割を果たした。
  その様なアメリカ人のヘレン・ミアーズは・・アメリ
 カへ帰国後の1948年、「アメリカの鏡・日本」を書いた。
  その中で、ヘレン・ミアーズは、戦争原因について、
 以下のように書いた(概要を記す)
  「戦争原因を種々分析し考究すると、アメリカは、思
 想や人種的に見ていて、経済的な要因をアメリカは、完
 全に認めていない。
  (アメリカは、独りよがり的に正義の行為をしたと、
 理念的側面のみを言いたいのだろうが)、
  事実が・・実際に行われたアメリカの政策や、アメリ
 カ政府の公式な説明などを分析すると、『日本政府の理
 解や解釈が正しい』と裏付けられる。
  アメリカは、アメリカ企業や、イギリス企業のために、
 『日本の貿易競争力を抹殺しよう』としていた。
  この目的を達するためのアメリカの政策や、イギリス
 の政策を・・実施しようとして引き起こしたものだ。
  この戦争は、日本というアジア民族が、アジアの中に
 台頭するのを好ましくないとして阻止したものだ。
  この様な経済的要因に戦争原因が、明らかにあること
 に対して、アメリカは認めたくないとしているが、実際
 は、日本の解釈が正しいと裏付けられている。
  アメリカのイデオロギーによるところに戦争原因があ
 るという主張は、完全に否定される。
  (記述)日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ
    人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと
    信じこまされた。
     しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、
    同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な
    国家であったといえる。
     開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国
    際社会において欧米先進国の行動に倣(なら)い、
    「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されて
    きたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌す
    るのは当然の成り行きだった。
     以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、
    我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡と
    いえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行
    動を裁けるほど、アメリカをはじめ連合国は潔白
    でも公正でもない。
     また、日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構
    想は、アメリカのモンロー主義と同様、そのよう
    な構想・主義は、「西洋の原則」として広く認め
    られている。
.
1961年9月22日、アメリカで、黒人の方々が、また、差別さ
 れた。
  黒人の方々は、白人アメリカ人のその差別行為に対し
 て服従していた今までとは違い、その卑劣な差別を無く
 そうとの行動を始めた。
  1961年の出来事は悲惨だった。
  あらゆる差別がなされていたが、バスの差別への抵抗
 行動についてその概略を記すと・・、
  抵抗行動をする黒人たちの「乗客たち」が、そろって
 団結し、『白人用の待合室』に入ろうとした時、警備に
 あたっていた警官たちが、その黒人たちを逮捕した。
  理由は、治安妨害と警官の命令に対する不服従だった。
  今まで、この様な場合、白人アメリカ人たちが殴り掛
 かっていたのだが、今回は、その様な暴漢たちの行動を
 起こさせないためだったからと後から説明された。
  ミシシッピ州選出の上院議員とケネディ司法長官との
 間で、事前に打合せられていたことだった。
  白人優越主義が充満し染まったアメリカだった。
  このミシシッピ州のバーネット知事は、「黒人は、わ
 れわれ白人とは違う。
  キリスト教の神が、黒人を罰するために、彼らを白人
 とは違う姿にお創りになったのだ」と、公言するような
 社会だった・・知事だった。
  逮捕された「乗客たち」は、全員が有罪とされた。
  罰金刑が言い渡されたが、罰金を払わないで監獄に入
 ることを望んだ、それが、あくまで抵抗する行為の態度
 だと判断された。
  「自由のための乗車運動のこの運動家たち」は、監獄
 に連行された。
  この様な事件が、アメリカのあちこちで起きるという
 卑劣なアメリカの状態だった。
  監獄は、これ等で捕まった黒人の方々の群れで充ち溢
 れた。
  この年・1961年9月22日、州際交通委員会は、「州境を
 越えて運行する車両は、『人種、肌の色、信条、出身国
 の違い』によって座席を区別してはならない」と、当然
 の決定をした。
  また、「これらの車両は、『人種差別をしているター
 ミナルを使う事は出来ない』とした。
.
1973年、オイルショック
  1970年代、株価の下落幅は緩やかながらも、世界恐慌
 が本格化した1930年代のそれよりも底が深かった。
  1973年10月6日に、第四次中東戦争が勃発した。
  これを受け10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)
 加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格
 を1バレル3.01ドルから5.12ドルへと1.7倍に引き上げる
 ことを発表した。
  翌日・1973年10月17日に、アラブ石油輸出国機構(O
 APEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決
 定した。
  また、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は、
 1973年10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退する
 までイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)
 への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。
  さらに、1973年12月23日には、石油輸出国機構(OP
 EC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月
 より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると
 決定した。
  日本の消費者物価指数は、1974年は23%上昇し、「狂乱
 物価」という言葉まで生まれた。
  OPEC諸国の国際収支黒字は、1973年には、10億ド
 ルであったが、1974年には、約700億ドルと急増した。
  一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は、1970
 年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった。
  100年近く続いた石油価格の安値が、1970年代に破ら
 れた。
  このような時、インドネシアをはじめとするASEA
 N諸国は、日本を頼りにするばかりでなく、日本をでき
 る限り助けようとしてくれた。
  アイゼンハワー政権のダレス国務長官が、日本が講和
 独立後に、朝鮮戦争特需に代わる新たな経済市場が必要
 と考えた時に目をつけたのが東南アジア市場だったが、
 東南アジア諸国の指導者たちも、この方針を支持し、日
 本企業の東南アジア進出を支援した。
  1973年の、OPEC(アラブ石油輸出機構)が中東戦
 争を有利に運ぶために、石油供給を削減して、石油ショ
 ックが起こったこの時に・・、
  日本政府は、内密にOPECのリーダーであるサウジ
 アラビアのフェイサル国王に、日本向け石油の供給増加
 を依頼したのだが・・、
  その際に、同じイスラム教徒として、国王との仲介を
 してくれたのが、アラムシャ副首相やモハメッド・ナチ
 ール首相らインドネシアの指導者だった。
  彼らは、次の様に語って、日本への支援を求めた。
  (大東亜戦争によって)キリスト教徒(オランダ)に
 支配されていた我々イスラムの民を救い、その独立を支
 援してくれたのが日本であり、日本は、イスラムの味方
 だ。
  2005年、小泉首相の靖国参拝に関して、中国政府が、
 ヒステリックな批判を繰り返していた時にも・・、
  ちょうど、訪日していたインドネシアのバンバン・ユ
 ドヨノ大統領は、「国のために戦った兵士のお参りをす
 るのは当然のことだと思う」と参拝を支持した。
.
1989年、日米構造協議(にちべいこうぞうきょうぎ)
  日米構造協議は、アメリカと日本の間で、日米貿易不
 均衡の是正を目的として・・、
  1989年~1990年の間、計5次開催された2国間協議、
  ・・と、公式に説明されているが・・
  これは美しく「公式に説明されている言い方」で、日
 本の人々は、これにプロパガンダ(嘘宣伝)され、洗脳
 されている。
  そして、さらに、1993年に、「日米包括経済協議」と
 名前を変えて、1994年からはじまる、「年次改革要望書」
 「日米経済調和対話」と、日本はさらに要求をされ続け
 ている。
  表面上は対等とされているが、これが曲者(くせもの)
 である。
  アメリカは、毎年、「日本は不公正だ」と言って、日
 本に「要求事項を突き付けて来ている」・・それだけ。
  これが、日本国民の皆が働いて、そして、稼いだお金
 が、アメリカへ流れ出れているシステム。
  「日米の衝突、ドキュメント構造協議」という本には、
 「これは、第二のアメリカによる、日本への占領政策だ」
 と書かれている。
  アメリカは、今、現代でも、日本から利益を吸い上げ
 ている。
  日本を属国のようにしている・・日本の国の施政権に
 まで口をはさんで来ている。
  完全に内政干渉状態となっている。
  しかし、それを言ったってアメリカは、そんなことに
 お構いなしでやって来ている。
  同時に、『日本の大切な国柄』まで壊そうとしている。
  日本は、それに、「反発できない仕組み」に置かされ
 ている。
  アメリカのやり方は、「国会議員などの議員」「官僚、
 監督官庁など」「企業、業界団体など」・・など・・と
 多岐に渡って「広範囲に攻めて来る」。
  いつもの「アメリカのやり方」で・・自国へ利益が
 転がり込むように・・利益が得られるなら「礼儀も、節
 操も、道義も、正義も、何も関係ないの状態」で・・や
 って来る。
  長い間、黒人の方々が、「奴隷という『人間としての
 人権・自然権』まで剥奪されて、アメリカの建国を成
 し遂げた・・影の真実の功労者であるように・・、
  今、日本が、日本の国柄を壊されながら「アメリカに
 利益を吸い取られている」。
  (参考)自然権:法的規定以前に人間が本性上もって
     いる権利。
      伝統的「自然法」を社会形成の積極的な構成
     原理に援用した際に生れた近代的な観念。
  日本は、常に貢がされている。
  まったく対等な立場にない状態で「日米構造協議で、
 日本の、アメリカへの貢システムが行われている」。
  中曽根首相は、感極まって、「日本人の一人一人が、
 アメリカ商品をもっと買え!」と叫ぶような、数々の歴
 史が、延々と数限りなく連なっている・・
  この様な日米構造協議で、一方的に要求が突き付けら
 れている。
  (建前は双方で公平となっているが、しかし、違う・・
  一方的に要求を突き付けられている)
  日本は、常に貢がされるという、まったくの対等な立
 場にない状態で、日本の、アメリカへの貢システムが行
 われている。
  キリスト教国=アメリカは、「(キリスト教の)神の
 義があれば」という理屈で、何をやっても良いという頭
 にある、正義なんだという頭でやって来る。
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1993年11月1日、欧州連合(EU)が発足した。
  1951年、パリ条約が調印され、欧州連合(EU)の統
   合の始動である欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が
   設立された(1952年説あり)
   これによって国際的な部門統合の動きが始まった。
   ECSCは、超国家主義と国際法の原理に基づいて
   設立し、ヨーロッパの経済に寄与しようとした。
    また、加盟国間での統合によって、仏独間で繰り
   返された悲惨で無益な資源の取り合いなどの争いを
   避けようとした。
    後になって、ヨーロッパ合衆国の樹立の考えが出
   て、欧州防衛共同体と欧州政治共同体という2つの新
   たな共同体の設立が案出された。
  1957年3月25日、ローマ条約が調印され、欧州連合の2
   つの基本条約(欧州経済共同体設立条約と欧州原子
   力共同体設立条約)が調印された。
   1958年1月1日、ローマ条約が発効したが、この後、
    大幅に修正された。
  1958年~1969年、フランスのシャルル・ド・ゴール大
   統領の影響が大きい時代で、欧州が統合される形で
   はなく、国家が連合されるという形が良いのだとい
   う意見が強まった時代。
  1970年、欧州政治協力(EPC)が発足した。
  1979年、欧州通貨制度(EMS)が設立された。
   欧州統合への進展はあるが、2度の石油危機などによ
   って各欧州国家は内向きにあった時代。
  1985年、域内市場白書が採択された。
  1986年、単一欧州議定書が調印された。
   これによって非関税障壁の撤廃などにより巨大な市
   場が誕生した。
  1993年11月1日、マーストリヒト条約発効によって、
   EUが誕生した。
  2005年5月29日、フランスが欧州憲法条約を否決した。
  2016年6月23日、イギリスがEUを離脱した。
    欧州連合離脱国民投票で離脱派が多数となって、
   イギリスは、離脱が決定した。
    欧州統合の拡大が果たして良いのか?の質が問わ
   れる時代となった。
  このイギリスがEUを離脱したのは、英連邦はどうな
 るかの問題もあった。
  イギリスが中心となっているこの連合が、EUという
 ヨーロッパ連合に入るのか?という事に対して・・
  「英連邦諸国もヨーロッパ連合に入る」かの方向?
  結局、イギリスのEU離脱はその問題に答えを出した
 行動だった。
  EUという統合は、良い面だけが見られている。
  しかし、そのEU周辺国は、逆の面からみると、「あ
 るグループから仲間はずれにされている」という面があ
 る。
  教室で「いじめグループがつるんでいる」という状況
 が作られている。
  EU内という「仲良しグループが上手くやっているだ
 け」で、EU周辺国が経済的に困ることに対して「お構
 いなし」という問題である。
  今(2017年)時点、EUは壊滅への道を歩いている。
  名前だけが美しい「グローバル化」への動きの衰退が
 始まっている。
  権力で、名前だけ美しくしたアメリカ主導のグローバ
 リズムの虚構が明確になって来ている。
  何故か? キリスト教という宗教がこの一翼を都合よ
 く利用している。
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2015年、中国の偉大なる金融規模
  かつては、日本のメガバンクが並んだ銀行の資産ラン
 キングに、今、その状況は、まったく変わって・・中国
 の銀行が並んでいる。
  世界の銀行総資産ランキング(USドル、billion十億)
  1、中国工商銀行(中国)3616
  2、中国建設銀行(中国)2939
  3、中国農業銀行(中国)2817
  4、HSBホールディングス(イギリス)2670
  5、中国銀行(中国)2629
  6、BNPパリバ(フランス)2400
  7、JPモルガン・チェース(アメリカ)2350
  8、三菱UFJフィナンシャルG(日本)2323
  9、バンク・オブ・アメリカ(アメリカ)2140
  10、クレディ・アグリコル(フランス)1911
  以上の様に・・何と!中国が世界を制している状況な
 のだ。
  上記を国別にすると
  1、中国12001(46.0%)
  2、アメリカ4761(18.3%)
  3、フランス4311(16.5%)
  4、イギリス2670(10.2%)
  5、日本2323(8.9%)
  計  26066
  以上の様に、世界の約半分を持つ中国と、「圧倒的な
 中国の時代」となっている。
  この金融力で、金の力で中国はあらゆることをやって
 いる。
  上記は、約1/10兆円と見ることが出来る。
  中国は、日本の国家予算の約12年分の規模に相当する。
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2017年10月、中国は変わった・・中国は経済成長をしてい
 る・・そして、政治的に中国はより強国になるという目
 標に向かって、今までと違った方針を採り始めた・・
  その方針変更の一つが、中国へ行った企業が、中国の
 共産主義体制に組み込まれるという行動が、され始めた。
  中国のGDP成長率は、2008年から2010年にかけて、
 6.4%から12.2%へ、倍近くに跳ね上がった。
  因みに、2017年7月期~9月期は、6.8%である。
  中国経済は、以前ほどではないとしても拡大を続けて
 いる。
  また、中国の都市部の公共工事や企業の設備投資を示
 す固定資産投資は、前年の7.5%増、
  不動産開発投資は・・・8.1%増、
  個人消費は・・・・・ 10.4%増、
  輸出は・・・・・・・・7.5%増となっている。
  習近平国家主席は、「2010年の2倍にする」という目標
 を立てたが、ほぼ達成のメドをつけたとした。
  そして、2035年から今世紀半ばには、「総合的な国力
 で世界トップレベルの国家になる」という。
  そして、これからは「質の高い成長を目指す」と強調
 した。
  今、中国で、党の企業への関与が強まっている。
  中央規律検査委員会という中国の国家組織は、企業と
 いう民間企業の中に、党組織(共産党組織)を設置させ
 ている。
  そして、共産党員が監督を行なっている(国家の監視
 下に置かれた企業という形になった)
  外資企業でさえ・・70%がこの党組織を設置している。
  共産党の企業に対する関与も強まっている。
  「企業の統治が、党に乗っ取られる可能性が増してい
 る」。
  もう完全に中国は、投資対象国ではなくなった。
  資本が奪われるだけ、
  また、特許などの知的財産や、技術ノウハウなどが奪
 われるだけ、
  そして、国家レベルですべてが奪われるだけ・・、
  共産党の一党独裁の政治形態が、如実に企業経営(私
 企業の経営)に関与して来て・・、
  その民間企業も、共産主義の社会形態を構成する一部
 だと処理されていく・・共産党組織社会の中へ組み込ま
 れて行く・・、
  国民を利さない企業は悪だ・・、
  企業だけが利するのは悪だ・・、
  『企業努力で利益を得た』との論理は成立しないのだ。
  企業利益は、中国の国家と中国国民へ、総べて還元せ
 よ・・になって来た。
  中国の共産主義体制に組み込まれて行く外資企業・・、
  (この外資系企業というのが、日本や世界から中国へ
 行った企業のこと)
  中国で儲けさせて戴くは、昔の甘い夢となった。
  「中国での営業展開で企業を大きく伸ばすは、過去の
 話となった」。
  共産主義の北朝鮮を、陰で支援し、「核とミサイルを
 持たせた・・中国」。
  この北朝鮮とともに、かつての様な共産圏グループを
 陰で形成している・・中国。
  その中国に、かつて共産圏の国だった東ドイツで育っ
 たメルケル氏(アンゲラ・メルケル首相)が裏で連なっ
 ている。
  今、このドイツが、中国との結びつきを強め、中国経
 済と大きく関(かか)わっている。
  (参考)メルケル氏:アンゲラ・ドロテア・メルケル、
     第8代ドイツ連邦共和国首相、
      家系は、共産圏のポーランド系でポーランド
     人の祖父がドイツに徴兵されて来て定住。
      メルケルは、ハンブルグ生まれだが、生まれ
     てすぐに共産圏の東ドイツへ移住。
      そして、東ドイツで弟1人と妹2人が生まれ
     ている。
  中国は、このドイツまで超高速鉄道で結ぶのだと、一
 帯一路を謳(うた)い上げている。
  やる事のスケールは大きい。
  資源のない日本が、かつて・・、
  その大切な資源を、輸入ができないという・・締め付
 けられるという・・「卑劣な攻撃」を受けた・・
  ABCD包囲網が作られて、ニッチモサッチモ行かな
 い状況にされた・・、
  米びつには食べるコメが無い、工場を動かすにも石油
 が無いという状況にされた・・が・・、
  今、中国は、南シナ海を封鎖して、かつてのABCD
 包囲網と同じことをしようとしている。
  資源がまったく無い日本・・、
  また、食糧自給率が他の国では考えられないくらい低
 いという日本・・、
  (自分の国で作っている食糧だけでは、日本国民は飢
 え死にする・・飢餓になる)
  今は、パクパク食べているが・・、
  日本は海で囲まれた特殊事情の国・・という事は、陸
 路で何とかあちこちから運び込むという事が出来ない国。
  これが最大弱点なのだ・・日本という国は・・、
  これを脱するには、日本が中国の従属国となって、南
 シナ海を、日本へ石油や食料を運ぶ船を通らせてもらう
 他はなくなって来るという状況が・・起きる。
  かつて、アメリカがやったことを・・、
  (アメリカは策動してパナマを手に入れた)
  何でもアメリカがやったことを真似る中国が、アメリ
 カがやったABCD包囲網と同じことを、今、南シナ海
 でやろうとしている。
  (参考)ABCD包囲網:第二次世界大戦が起きる直
     前、アメリカ(A)が、イギリス(B)、中国
     (C)、オランダ(D)に呼び掛けて、
      日本へ石油や食糧・鉄などあらゆる資源・原
     料などの物資が入らない様に、経済包囲網を張
     った。
      「首を絞める事と同じ」卑劣な事をやった・・
     これが戦争の原因となった。
      結局、軍事力が弱い国は、何でもやられてし
     まうのだ・・卑劣な事でも何でも・・
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2017年12月23日、ベトナムの独立戦争を助け、そして、戦
 った日本兵の父は・・
  この様な記事が、この日の読売新聞に記された。
  「ベトナム北部に住むベトナム人姉妹が、第二次世界
 大戦(大東亜戦争)後も、進駐先の同国・ベトナムに留
 まり、再び、植民地にしようとするフランスとの独立戦
 争に、ベトナムに加わって、ベトナムの独立を助けた父
 親の元日本兵を探している。
  父親は、1954年に、目的を達して日本に帰国して以降、
 消息が不明となった。
  来年は、日越外交関係樹立45周年にあたり、姉妹は「
 交流が一層活発になるこの機会に、父の消息にも関心を
 寄せてほしい」と願っている。
  姉妹は、タンイエン県在住のグエン・ティ・ミーさん
 (69歳)とグエン・ティ・ビンさん(64歳)。
  姉妹が、1975年に、53歳で亡くなった母親から聞いた
 ところでは、グエン・バン・マオというベトナム名を使
 っていた父親は、第一次インドシナ戦争終結の1954年、
 ベトナム政府の方針で日本に帰国した。
  父親に関する文書類は、写真1枚を除いて、すべて破棄
 され、日本名も不明となった。
  マオさんは、第二次世界大戦後、自らの意思と使命感
 でベトナムに残り、ホー・チ・ミンらの率いるベトナム
 独立同盟軍(ベトミン)に参加した。
  そして、同県のベトミンの軍事学校で教官を務めた。
  同校の近くの商店主だった母親が、26歳の時に、二人
 は結婚して、家庭を持った。
  マオさんは、帰国する際、妻に、「私は、日本で革命
 運動をしなければならない。あなたは、ここに居て下さ
 い」と言ったという。
  ミーさんは、「よく肩車をしてくれる優しい父だった。
 妹を抱いた母と私が、父を乗せて去っていく車に泣きな
 がら追いすがろうとしたことを覚えている」と話す。
  父の去った後、母親も病気がちになり、治療費の捻出
 のために自宅を売らねばならなかった。
  姉妹は、木を切って薪にして売り、生活をしのいだ。
  「父親との再会はあきらめていた」が、今年(2017年)
 天皇陛下と皇后陛下の両陛下が、ベトナムを御訪問なさ
 り、その際、元残留日本兵の家族と両陛下との面会が実
 現したとニュースで知り、「父の消息だけでも知りたい
 との思いが募ってきた」と話す。
  ハノイ在住で、元残留日本兵の調査を続けている小松
 みゆきさん(70歳)は、「軍事学校の教官だったという
 事は、旧日本軍でもそれなりに地位にある人だったはず」
 と指摘し、
  「1954年に、第1陣として帰国した約70人の中にいる可
 能性が高い」としている。
  ベトナムに残留した日本兵の内、約600人が、日本の敗
 戦後も残留し、ベトミンに合流して独立戦に参加したな
 どとされる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive