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2015年04月30日

(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)

題:(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1582年6月2日、本能寺の変
  信長の家臣・明智光秀が謀反を起こし、丹波亀山城(
 京都府亀岡市)から引き替えした。
  そして、京都の本能寺に居た信長を襲撃し、信長は自
 刃した。(1534年~1582年)48歳。
  信長から光秀へ与えられていた命は、「備中高松城の
 羽柴秀吉を救援せよ」との命だった。
  信長の後継者と目されていた信忠は、信長と共に、備
 中高松城で戦う羽柴秀吉への援軍に向かうべく行動をし
 ていた。
  秀忠は、京都の妙覚寺に居て、明智の謀叛を知るや、
 本能寺へ信長救援に向かったが、信長自害の知らせを受
 けるや、光秀を討つべく態勢を整えるため、側近など手
 勢と共に二条新御所へ行く。
  信忠は、二条新御所へ着くと誠仁親王を脱出させ、臨
 戦態勢に入った。
  しかし、わずかな手勢であったため、善戦したが、そ
 の戦いもむなしく、明智軍に攻め寄せられ、自害に至っ
 た。介錯は鎌田新介だった。享年26歳。
  信忠には、京都から脱出できる可能性があった。しか
 し、信忠の心情から光秀軍と刃をまみえたのだろう。
  脱出していれば、また、日本の違う歴史が流れたと言
 える。
  信長は、生前から、家督を譲っていた嫡男・信忠で、
 これはと思っていた息子だったのだろう。
  信忠も、忠実に父の教えを受けていた様だが、時には
 抗弁もしていたという。
  流れは、秀吉に来る。
  秀吉は、主の仇である光秀を討つ。
  これをする事がポイントと認識していた。
  この事で、織田勢力の実質的な相続者になって行く。
  多く居た信長の相続者たちの息子たちから、流れが秀
 吉に流れて行く。
  そして、その事を天下に認知させるには、信長の葬儀
 を自ら主宰する事だった。
  秀吉には、信長からもらった信長の子の養子が居た。
  その信長の葬儀の会場として、大徳寺が選ばれた。
  さらに秀吉は、信長の菩提を弔うために、塔頭の総見
 院(信長の法名)をたて、追討大茶会も催した。
1582年6月2日、この時、本能寺の変の時の安土城
  本能寺の変の時には、蒲生賢秀が留守居役として在城
 していた。
  しかし、信長の横死の知らせを受け、
  蒲生賢秀・氏郷父子は、本拠地・日野城(滋賀県蒲生
 郡にある蒲生氏が築いた城)に、信長の妻子などを安土
 城から移動させ、退去した。
  安土城は、山崎の戦の後、明智秀満率いる明智軍が来
 て、退却後に、天守とその周辺建物(主に本丸)を焼失
 している。消失の日は6月15日という。
  消失の原因については
  1、明智秀満軍の敗走の際に放火したという説(「秀
 吉事記」「太閤記」)、しかし、この説を否定する有力
 な説もある。
  2、秀満の残党狩りで、伊勢から入った織田信雄軍が
 城下に火を放っているが、この火による延焼説。(ルイ
 ス・フロイスの記述、フロイスは、信雄を暗愚呼ばわり
 している、信雄の放火だと言っている)
  3、略奪などによる野盗説
  4、落雷説
  本能寺の変以降も、二の丸などが残っていたので、し
 ばらくは織田氏の居城として機能している。
  信長の嫡孫・秀信が、清州会議の後に入城している(
 主に、二の丸を中心に機能していた)。
  しかし、秀吉の養子・豊臣秀次(秀吉の姉の長男)の
 八幡山城築城のため、1585年をもって廃城とされた。
1582年6月2日、徳川家康:本能寺の変のとき、
  信長の後継者とみなされていた一人:徳川家康は、本
 能寺の変の時、堺で近習数名と情報収集中で、帰国の途
 次(とじ、途中)の飯盛山(大阪府東部)でこの報に接
 した。
 近習だけの少数でいたために、光秀討伐のチャンスを
 失し、一歩、出遅れた形となった。
  家康は、秀吉が勝家を討った時(1583年)は、祝の品
 を送っているが、
  秀吉が、信長の三男・信孝を自殺に追い込んだ辺りか
 ら警戒の念を強め、
  信孝の自殺に加担した信雄も、次第に秀吉のやり方に
 疑問を持つようになり、
  ついに、信雄と家康とが連合し、秀吉に敵対する事に
 なった。
  ここに実力と大義名分の戦い、小牧・長久手の戦い(
 1584年)が起きた。
  家康には、盟友・信長の遺児を助けるという大義名分
 があった。
1582年6月3日、安土城立ち退き
  信長の死の翌日(1583年6月3日)午後2時より、安土城
 立ち退きが始まった。
  信長の夫人たちは、金銀財宝を持ち出し、天守に火を
 かけて行くように賢秀に命じた。
  しかし彼は、信長が心を尽くして建てた後、また集め
 た財宝を、自分の勝手には出来ないと、そのままにして
 立ち退いた。
  しかし光秀の接近に、あわただしく安土を捨てて逃げ
 たため、女中衆は履物もなく、裸足の者も多く、足は血
 に染まって哀れだったという。
1582年6月3日、密書
  京都本能寺に織田信長を討った明智光秀の飛脚が、夜
 の闇にまぎれ、毛利の陣営と間違えて、備中・高松城攻
 めの秀吉の陣営に迷い込んだのは、1582年6月3日であっ
 た。
  飛脚は、毛利への密書を持っていた。秀吉は愕然とす
 る。
  この秀吉に、「天下を取る絶好の機会が来たとは思い
 なさらぬか」と黒田官兵衛は言った。
  この時から、秀吉に天下取りの野望が広がった。
  そして、この時、多くの土の俵で長堤を3.1キロメー
 トルに渡って築き、梅雨時の足守川(あしもりかわ)を
 堰き止め、高松城を水攻めにしていた秀吉は、急ぎ、和
 議を成立させた。
  翌日(6月4日)には将兵の救出を条件に、城主・清水
 宗治を自刃させる。
  そして、京都を掌握した光秀を討つべく、中国からの
 大返しを敢行した。
1582年6月4日、本能寺の変の報を入手した秀吉は、近日中
 に、高松城の守将の自刃によって開城される予定だった
 という高松城の状況の中、毛利軍と和議を結んだ。
  そして、この日・6月4日に、蜂須賀正勝・他1名を立会
 人にして高松城の守将の自刃の検分を行い、翌5日から6
 日にかけて撤兵するとした。
1582年6月5日、秀吉の中国大返し開始。
  「川角太閤記」によれば、4日夕方から、まず、宇喜多
 秀家の兵を発ち退かせ、
  翌日、この日の5日未明2時頃から、秀吉自ら、退陣の
 軍を起こした。
  途中、岡山は素通りし、
1582年6月8日、この日・8日、午前10時、姫路城に着陣した
 と記されている。
  4日もかかっていることになる。
  99.6キロメートル。2日の距離である。
  これは、6月7日の様である。
  先に立った宇喜多直家の子・八郎(幼名、秀家)が出
 迎えた。
  父・直家は既に亡く、子の八郎(11歳)が、子供なが
 ら軍勢を率いて、この秀吉の戦いの先陣を務めていた。
  秀吉は、宇喜多直家に1万の軍勢の協力を得て、備中
 (岡山県西部)高松城(讃岐・高松城ではない)攻めに
 成功していた。
1582年6月8日、秀吉接近の報を受けている明智光秀は、キ
 リシタンで有名な娘・ガラシャの夫・細川忠興と、その
 父・細川藤孝に味方になってくれと依頼するが、「信長
 の喪に服す」と剃髪して味方になることを断わられてい
 る。光秀は何度も頼んでいる。
1582年6月9日、秀吉は、姫路城に留守居役を置いただけで、
 全軍を率いて姫路城を進発した。
  この日に明石を経て、兵庫港(神戸市兵庫区)近くに
 野営した。
  また、別働隊を組織し、明智方になる可能性がある洲
 本城を攻撃している。
  洲本城は、その日の9日に落城している。
  また、秀吉は、この日に、砦(岩屋砦)を」構築して
 いる。
  この砦構築は、秀吉の10日の書状によれば、明智光秀
 が久我(京都市伏見区、合戦場の三島から北東20キロく
 らいの所)付近に着陣したと知ったため、光秀が河内へ
 の移動を防ぐため、また、明智軍急襲への防備。
  また、この日の光秀の着陣前に、光秀が上洛し入京し
 た際、公家や町衆が群がって出迎えたという。
  光秀は、朝廷などへ銀子を献上している。
  また、地子銭(地代)免除の特典を発し、新たな天下
 人として振る舞っている。
  しかし、この頃の光秀の書状を見ると、味方してくれ
 れば丹波でも若狭でも差し上げる、そして、50日・100日
 の間に近国を平定し、その後は政務を譲って引退すると
 書いている。
  もう精神的に、秀吉に敗けている。
  それに対し、秀吉の書状は、協力の謝意を表している
 記述で、戦う前から勝敗は決していた。
1582年6月10日、秀吉軍、朝、明石を出発。
  夜、兵庫に着く。
  秀吉及び明智は、色々な風評を流し合って、情報戦も
 している。
  例えば、「大阪滞在中の神戸信孝が、光秀軍に包囲さ
 れて自刃した」とか。
  秀吉の行軍も慎重になっている。
  光秀の伏兵警戒もあり、また、同盟者も募ったのだろ
 う。
  また、最初の猛スピードの中国大返しも、光秀を討つ
 という事より、毛利の追撃を封じたともいえる。
  この日、光秀は、筒井順慶に加勢を求めたが、加勢す
 るものと思われていた順慶の態度がはっきりしないので、
 宇治川を越え、洞ヶ峠(大阪府牧方市)まで出かけ圧力
 を掛けた。
  しかし、効なく、光秀はあきらめ撤収し、洞ヶ峠を降
 り、下鳥羽に陣を敷いた。
1582年6月11日、羽柴軍が兵庫を出立し、夕刻、尼崎に達し
 た。大阪は隣という地である。
  秀吉は、栖賢寺に参り、髻(もとどり)を斬ったとい
 う。決意を新たにしたのであろう。
  秀吉の軍勢がまとまって来て2万を超えた。
1582年6月12日、羽柴軍は、この日に、尼崎から北東30キロ
 の富田(大阪市高槻市)に着陣し、軍議を開いた。
  軍議の結果、山側の軍と川側の軍、そして、その中央
 の軍の三軍に分かれて進撃する事に決した。(富田は13
 日の説あり)。
  この日、池田恒興・高山右近などの諸将が、秀吉陣営
 にはせ参じた。
  高山右近は、光秀から加勢の要請を受けていた。
  秀吉軍は、4万(太閤記)、2万(兼見卿記)とある。
  秀吉軍の活気に対し、光秀軍は陣に動きが無く、心理
 的にも守勢に立った状況の中にいた。
  この場所は、合戦場となる山崎まであと10キロくらい
 の所にある。
  鉄砲の撃ち合いの前哨戦は始まっていた。
1582年6月13日、秀吉は、決戦の地・山崎へと向かった。
  光秀も陣をやっと動かした。下鳥羽から御妨塚(京都
 府大山崎町)へ。戦線を広げる目論見だった。
  秀吉が山崎に着陣したのは、13日昼頃だった。
  梅雨時で雨が降りしきっていた。
  勝敗を決する場として重要な地・天王山は、秀吉陣に
 はせ参じた中川清秀らによって占拠されていた。
1582年6月13日午後4時、山崎の合戦の戦端が開かれた。
  秀吉に加わった中川清秀・高山右近は、この近くに居
 城を構える将で、地の利に明るく、兵力差もあり、秀吉
 軍の有利の展開の内に戦いは推移した。
  有利の展開の中、秀吉が全軍総攻撃を発令した。
  秀吉軍の大軍が殺到して行った。
  兵力・士気共に勝る秀吉軍は、光秀軍を圧倒し、光秀
 軍は、たちまち総崩れした。
  キリシタン宣教師フロイスは、中国から連れて来た秀
 吉軍は疲れ切っていたという。
  それ以上に光秀の兵の士気が落ちていて、主人を討っ
 たという大義名分のなさの重石もあったのだろう。
  光秀は山崎本陣を解き、勝竜寺城に籠る。
  しかし、勝竜寺城は、秀吉軍の数万の軍勢の前には脆
 かった。
  光秀は、近臣を従えて勝竜寺城を脱出。逃亡状態とな
 る。
  光秀が来ると京都市中は混乱を極めた。
  光秀軍は、丹波へ向かう敗走軍と近江へ向かう軍とに
 分かれる。
  この力の分散が、さらに、光秀の再起不可能の分岐点
 だった。
  光秀は、近江で再起を図りたかったのか、居城・坂本
 城を目指して逃亡した。
  そして、1582年6月14日になったか?
1582年6月14日、日にちが変わった深夜頃?光秀は、小栗栖
 (京都市伏見区)で土地の住民に襲われ死亡した。
  光秀を解釈したのは溝尾茂朝であったという。
1582年6月15日、明智光秀の将・明智秀光は、山崎の戦では
 光秀の後詰めに安土城から出陣するが、
  琵琶湖打出浜(大津駅の近く)で堀秀政と戦い、大敗
 を帰す。
  この時の戦で、羽柴秀吉の将の堀秀政が、明智光秀の
 将・明智秀満(あけちひでみつ、光秀の重臣、光秀の娘
 を妻に迎えている)を坂本城(琵琶湖に面する平城)に
 攻めた。
  この光秀の娘は、信長に叛した荒木村重の嫡男へ嫁い
 でいたが、村重が謀叛を起こしたため離縁されていた。
  坂本城の包囲が完了し、攻撃した。
  激烈な戦闘であった。
  戦闘の帰趨が定まって、落城が明らかになった時、
  明智秀満は、いかんともしがたく、秀満の持つ非常に
 価値ある刀が、城と共に焼けるのがおしく、国行の刀と
 吉光の脇差を布団に包み、そして、目録も添えて、寄せ
 手に呼び掛けた・・、
  「城は炎上、まもなく我が身は果てるとも、ここに生
 涯大切にしたる名刀・・この道具は私ならぬ事、天下の
 道具なれば、是にて滅し候事は、弥平次(秀満は明智光
 秀の娘婿となる前、三宅弥平次といった)傍若無人と思
 召すべく候間、相渡申候」と述べた。
  そして、しばらく攻撃を止めれば、敵方へ刀を送り届
 け、悔いなく命をまっとうする旨を伝えた。
  堀は、これに同意した。
  そして、何と、攻撃を中止したのである。
  そして、その間に、刀は、布団にくるまれて炎上する
 城から降ろされた。
  その後、戦闘は再開となり、翌日に城は焼け落ちた。
  明智秀満は自刃して果てた。
 訂正:83C2/3で「小早川秀秋」であるべきところを、
 「宇喜多秀家」と書いてしまいました。
  訂正いたします。
  関ケ原で様子見をしていたのは「小早川秀秋」です。
  誤記したところは削除させて戴きました。
  宇喜多秀家の関ケ原での働きは、西軍の副大将として
 西軍の主力となっています。
  この関ヶ原の兵力としては、家康の本隊の次の兵力で
 1万7000、西軍最大の兵力です。
  小早川秀秋の裏切りで、西軍は総崩れになりますが、
 この宇喜多軍も壊滅的状況となります。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009  


Posted by 北国の暖かい方たちとともに at 03:10Comments(0)真を求めて 皆様とともに幸せになりたい