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2016年06月28日

(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)

題:(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年2月8日、北海道開拓使、廃止(三県一局時代)
  開拓使を廃止して、函館県・札幌県・根室県の3県を
 設置した。
  北海道には、この3県のほか、
  北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて
 いた。
  3県と事業管理局は、1886年1月26日の北海道庁の設置
 に伴って廃止された。
  1871年10月3日(明治4年8月19日)、当時の北海道開拓
 使は、北海道の開拓の目途として、翌年・1872年から10
 年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、
 いわゆる開拓使十年計画を決定していた。
  そして、開拓使十年計画の満期を迎えた1882年、当初
 の計画通り、北海道開拓使を廃止した。
  そして、その当時置かれていた北海道開拓使の札幌の
 本庁、および、函館・根室の2支庁のそれぞれの管轄区域
 に応じて、道外と同様に、県という行政区域を新たに3つ
 設定することになった。
  開拓事業については、これらの3県と農商務省管轄の北
 海道事業管理局とで、地方レベル・国レベルを各々分担
 する形で引き継がれることになった。
  北海道開拓使の廃止直前に、「開拓使官有物払下げ事
 件」が起きて混乱が生じたものの、
  1882年2月8日のこの日に、予定通り北海道開拓使に代
 わって札幌県・函館県・根室県の3県が成立した。
  これによって、北海道全体としては、初めて近代行政
 機関・近代行政区画を持つことになった。
1882年2月12日、東洋議政會(とうようぎせいかい)が結成
 された。
  矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅ら、東洋議政会を興す。
  東洋議政会は、慶應義塾(現・慶應義塾大学)の出身
 者によって結成された明治時代前期の政治結社で、「三
 田派(みたは)」とも呼ばれた。
  慶應義塾内では、早くから演説を導入していて、三田
 演説会などの政談演説会が、頻繁に開催されていた。
  主に、急進的な「政談演説討論会」(馬場辰猪・西村
 玄道・犬養毅・波多野承五郎・大石正巳・奥宮健之・竹
 内正志ら)と、
  穏健的傾向の「政談演説会」(小幡篤次郎・鎌田栄吉・
 藤田茂吉ら)の2派に分かれていた。
  そして、馬場辰猪は、田口卯吉・末広鉄腸と共に、よ
 り急進的な「国友会」を結成していた。
  そして、この日・1882年2月12日に、明治十四年の政変
 で下野した「嚶鳴社」・「鷗渡会」の同人と協議して、
 立憲改進党の結成に参加した。
  2院制・立憲君主制を標榜して、英国流の漸進的な改革
 を目指した。
1882年2月15日、劇場取締規則
  警視総監と東京府知事が、劇場を10座に制限するな
 どの劇場取締規則を定めた。
  1877年に、「寄席取締規則」が出されているが、どち
 らも寄席・劇場に対する客席数や営業時間などを規制し
 た。
  そして、劇場取締規則においては、下劣なものを避け
 る様にとの指導がなされた(高尚なものに)。
  鑑札制度・興行届出制・臨官席設置・定員・興行時間
 が定められた。
1882年2月25日、植物学会の創立(2月15日説あり))
  これまで、動物研究者と一緒だった東京大学生物学会
 (1878年、創立)に、東京植物学会が創立された(植物
 専攻研究の始め)
  機関誌「植物学雑誌」も、この年に創刊された。
  尚、東京大学生物学会は、植物学者が、この時に脱会
 した後、東京生物学会と名を改めた。そして、1885年に、
 東京動物学会と名を改めた。
1882年2月25日、九段遊就館ができた。
  靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌する(しょう
 する、ほめる)ため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列す
 る所とし、1878年(明治11年)に、陸軍卿・山県有朋そ
 の他の主唱によって、西南戦争の際に献納された華族の
 恤兵金(じゅっぺい、兵士の慰問)の一部で建築に着手
 した。
  1882年、幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの
 品を展示する目的で開館した。
1882年2月25日、参議・伊藤博文らが、憲法、及び、制度研
 究のため西欧諸国へ差遣を命じられた。
  さかのぼること1881年6月~7月にかけて、法律と政治
 を司る法政官僚の井上毅が、
  ドイツ人の法律顧問・ロエスレルに意見を聞いて、憲
 法に関する綱領をまとめ、岩倉具視に示していた。
 (1)欽定(きんてい、君主による制定)憲法とすること。
 (2)プロイセン=ドイツ流の漸進主義とする。
  急激な改革はしないで、徐々に進む形にする。
 (3)陸海軍の統率、宣戦と講和、外国との条約などは天皇
 陛下の大権とする。
 (4)元老院と、国民の選挙で選ばれる民撰議院を設ける=
 二院制とする。
  この頃、大隈重信は、イギリス流の二大政党政治を主
 張していたが、
  伊藤博文や、岩倉具視は、君主制イギリス流は急進的
 過ぎ、また、革命思想が強いと考えていた。
1882年2月、福島事件(自由民権運動の民権激化事件)
  福島県令が、三方道路建設を計画し、無償で工事に従
 事することなどを決定して、農民の反対運動が起こった。
  この年の2月に、県令に着任した三島通庸は、着任すぐ
 に、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道
 (会津三方道路)の工事をするために、
  会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわ
 たり、月一日人夫として働くか、一日につき男15銭、女
 10銭の人夫賃を出すかと布告した。
  さらに、工事に従事しない者の財産は、競売に出すな
 どとした。
  この布告に、県会議長・河野広中らと福島県会は反発
 した。
  各地で、三島非難の演説会が開かれた。
  春から8月までに、36回余りの演説会が開かれ、うち
 19回が解散させられた。
  警察の弾圧が激化した。
  その様な中、福島県会が開会し、県側から、前年度2.5
 倍の地方税増税が提案された。
  これにも県会は抵抗し、否決に追い込んだ。
  しかし、三島県令は、内務卿・山田顕義から「原案執
 行」の特別許可を得て、県会の議決を事実上無効にした。
  さらに、三島は、自由党に対抗するため旧会津士族か
 らなる帝政党とつくった。
  そして、民権家を襲わせ、流血事件が続発した。
1882年2月、桑原紡績所が開業した。
  1870 年代末から1880年代にかけて、明治政府による紡
 績機械の輸入と、民間への払い下げを通して、
  綿糸紡績業が始動し始めた。
  当時導入された紡績機の紡錘数は2000であり、この紡
 錘機1基をもって一工場とする小規模な操業であった。
  (注)紡錘(ぼうすい):糸をつむぐとき、その糸を
    巻きつける心棒。
  桑原紡績所は、大阪府に所在し、政府の保護の立て替
 え払いを受け、2000の錘で操業した。
1882年3月1日、 「日本銀行創立ノ儀」
  松方大蔵卿「日本銀行創立ノ議」を建議する。
  松方正義大蔵卿、中央銀行設立・外国為替取引などを
 太政官に提出。
  明治維新以降、わが国は、富国強兵策によって、列強
 に伍することを目ざし、積極的な殖産興業政策を展開し
 ていた。
  しかし、財政的基盤のまだ固まっていない政府は、そ
 の資金の調達を不換紙幣の発行に依存せざるを得なかっ
 た。
  そうした中、明治10年、不平士族が立ち上がり、政府
 は、これに対処する事態となった。
  特に、1877年2月、西南戦争が勃発し、大量の不換政府
 紙幣、不換国立銀行紙幣が発行された。
  このことから、激しいインフレーションが発生してし
 まった。
  そこで、1881年、大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し
 た松方正義は、不換紙幣の整理をはかるため、正貨兌換
 の銀行券を発行する中央銀行を創立した。
  それによって、通貨価値の安定を図るとともに、中央
 銀行を中核とした銀行制度を整備し、
  近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議
 した。
  こうして、明治15年(1882年) 6月、日本銀行条例が
 制定され、
  同年・1882年10月10日、日本銀行が業務を開始するに
 至る。
1882年3月1日、 「時事新報(日刊新聞)」 が公刊した。
  日刊新聞の創刊ラッシュの時代だった。
  福沢諭吉が、「時事新報」を創刊し、官民調和を唱え
 た(主宰・福沢諭吉)
  慶應義塾大学、及び、その出身者が全面協力して運営
 され、
  創刊に当たって・・、
  「我日本国の独立を重んじて、畢生(ひっせい、一生
 を終わるまでの期間、終生)の目的、唯国権の一点に在
 る」・・と宣言した。
  創刊時より、国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮
 に関する論説や、中国に関わる様々な形の東洋政略を論
 じたものが極めて多かった。
  この国権論は、慶応同窓に引き継がれ、条約改正問題
 や、朝鮮問題に際し影響を与えた。
  創刊よりの「国権皇張」「不偏不党」を掲げて発行部
 数は伸びた。
  ロイター通信社とも独占契約を、1896年に締結した。
  福沢諭吉の経営する「時事新報」の編集部は、三田の
 慶応義塾内にあった。
1882年3月1日「速達列車」
  「速達列車(そくたつれっしゃ)」とは、主要な駅だ
 けに停車し、目的地に早く到着する列車のことをいい、
 優等列車とも言った。
  新橋~横浜間の鉄道が、ダイヤ改正で1日で14往復にな
 った。
  このうち、4往復は、途中の品川と神奈川だけに停車す
 る速達列車で、所要時間は45分に短縮された。
  急行列車の始まり。  
  鉄道の創成期は、すべての列車が各駅停車だった。
  路線が長くなるに従い、長距離の利用乗客に対し、速
 達サービスの停車駅を限定する列車が出現した。
  そして、1882年3月、新橋~横浜間で、品川と神奈川に
 のみ停車する列車を「急行」と称した。
1882年3月1日、軽便鉄道の工部省鉱山局・釜石鉄道が、旅
 客運輸を開始した。
  工部省釜石鉄道の経緯:
  1880年2月17日、工部省釜石鉄道として、釜石桟橋~大
 橋間18kmの本線と、小佐野~小川山(わらびの)間4.9km
 の支線、さらに、工場への支線を含めた総延長26.3kmの
 鉱山専用鉄道として試運転を開始した。
  1880年9月7日に、製鉄所と鉄道の仮開業式が執り行わ
 れた。
  これは、新橋駅~横浜駅間鉄道と、京都駅~神戸駅間
 鉄道に続く、日本で3番目に開業した鉄道だった。
  軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであっ
 たが、レールは16kg平底と丈夫なものを使用した。
  機関車は、英国シャープ・スチュアート社から輸入し
 たサドルタンク式の3両を使用した。
  1882年3月1日に、製鉄所の燃料用の炭焼竃の大半が、
 失火により焼失して、製鉄所が休止した。
  そして、それに伴い、遊休施設となった釜石鉄道は、
 一般へ開放され、旅客運輸を開始した。
  1882年12月、官営製鉄所の操業停止と、鉱山閉山によ
 り、鉄道が全廃された。
  燃料となる木炭が不足したことと、代替燃料となるコ
 ークス使用の目処が立たなかったことが原因だという。
  機関車2両と軌条は、大阪の阪堺鉄道(現、南海電気鉄
 道)へ売却された。
  近代化へ苦悩する明治政府だった。一朝一夕で、今が
 あるのではない。
1882年3月10日、日本最初の鉄道連絡船。
  琵琶湖の湖上連絡船・大津~長浜間航路が開業した。
  1882年(明治15年)、琵琶湖上で、長距離航路を運営
 する多数の会社が合同し、設立された。
  その後、いくつかの会社を吸収し、琵琶湖最大の船舶
 会社となった。
  同年・1882年に、金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)から長
 浜駅までの鉄道が開通したのを受けて、
  日本初の鉄道連絡船が、大津駅(現在の浜大津駅)ま
 での区間に就航した。
  この航路は、翌年・1883年(明治16年)に、長浜駅か
 らの鉄道が東海道本線に接続されてから、
  1889年(明治22年)に、湖東線(関ヶ原駅~米原駅~
 馬場駅(現在の膳所駅))が開業するまでの間、東海道
 の交通を担っていた。
1882年3月13日、立憲帝政党(りっけんていせいとう)が結
 成された。
  この日の1882年3月13日に、自由党、立憲改進党などに
 対抗し、
  東京日日新聞社長の福地源一郎、明治日報の丸山作楽、
 東洋新報の水野寅次郎によって結成された。
  4月4日には、大阪で、機関紙である大東日報を創刊し
 た(社長:羽田恭輔・主筆:原敬)
  立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙・
 シビリアンコントロール・司法の独立・言論の自由など
 を党議綱領に掲げた。
  自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、
  国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶
 らなどの体制擁護を意図した。
1882年3月14日、伊藤博文が、西園寺公望らと欧州へ憲政視
 察(憲法調査・取調べ)で出航した(帰国は1883年8月3
 日)
  伊藤博文が、「憲法取調の大命」を受け、横浜を出帆。
  5月にベルリンに到着し、
  ドイツの憲法学者・ダナイスト、モッセラについて講
 義を受けた。
  しかし、伊藤は、「文字言語の不通」のうえ、きわめ
 て系統立ったモッセの憲法講義に、すっかり厭(あ)き、
  そして、疲れ、自信を失い、その困難をしきりと日本
 政府の参議・山形有朋や井上馨らに訴えていた。
  しかし、8月8日、オーストリアに入り、ロレンツ・フ
 ォン・スタイン邸を訪れてから、にわかに元気になった。
  岩倉具視にあてた手紙に「スタイン博士の講話は、私
 の感銘を興起せしめました」とある。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、
  皇室の基礎を固定し、大権を失墜させないための大眼
 目を十分に相立てました。・・
  いま、わが国の現情は、自由過激論者が英・米・仏流
 の思想を誤信し、
  ほとんど国家を傾けんばかりの勢いでございますが、
 これ挽回する論理と手段とを、私がつかみましたことは、
 報国の赤心を貫徹する時機において、その効果をあらわ
 す大切な要具になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」
  (1882・8・11、岩倉宛伊藤博文書簡)(原文のまま)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive