さぽろぐ

日記・一般  |札幌市豊平区

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2016年03月31日

(増補版)322E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)

題:(増補版)322E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年5月(明治7年4月)農民の側に立って闘う人
  田中正造が、岩手県令・島惟精(しまいせい)より無
 罪赦免を言渡される。
  5月9日、叔父に伴われ5年ぶりに小中村に帰郷(3月9日、
 母さき(55歳)没)、正造の帰郷を待っていた母は、2ヶ
 月前に亡くなっていた。
  隣村・赤見村造酒家・蛭子屋の番頭となる。
  獄中でスマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」熟読す。
  田中正造は、栃木県の名主の家に生まれ、足尾鉱毒事
 件に対し、身を挺して闘った偉人。
  足尾鉱毒問題について、政府と古河財閥に対抗し、被
 害農民の側に立って闘った。
  天皇陛下に直訴までして闘い抜いた。
  因みに、古河財閥系の現在の企業群は、みずほ銀行、
 富士通、富士電機、横浜ゴム、日本軽金属、損害保険ジ
 ャパン日本興亜、古川電気工業、古河機械金属、ADEKA、
 朝日生命保険、東亜ペイント(トウペ)、ファナック、
 古河電池、など、
1874年5月17日(4月2日)この日の閣議で・・、
  木戸は、「台湾一条への連印・・あい辞せり」と閣議
 決定書面への参議としての押印を断った。
  木戸は、1874年6月2日(4月18日)、「内外緩急の序ま
 すます乱れ」との理由で参議の辞表を提出して、下野し
 た。
  また、5日、伊藤は岩倉に手紙を送り、「木戸不承知・・
 私においても・・おのれを曲げ、心中はなはだ不安」と、
 政府の台湾方針への危惧の念を伝えた。
  日本は、1873年に、特命全権大使として副島外務卿が、
 清国に行き、随員の柳原前光を用いて本件を清国に正し
 たが、
  清政府は、漂流した日本人の54人を殺害した本事件に
 ついて・・、
  「台湾人は、化外の民で清政府の責任範囲でない事件
 だ」とした、
  これは、清政府が、実効支配してない管轄地域外での
 事件なのでと責任回避した。
1874年6月15日(5月2日)台湾出兵
  木戸孝允の台湾出兵への反対行動で、政府も一旦は出
 兵中止を決定したが・・、
  西郷従道は、独断での出兵を強行し、長崎に待機して
 いた征討軍約3,000名を出動させた。
  征討軍は、二個大隊であり、うち鎮台兵は一個大隊で
 残りは「植民兵」として、薩摩など九州各地の士族で占
 領地永住を前提に募集・編成されたものであった。
  1874年6月15日(5月2日)に、西郷の命を受けた谷干城・
 赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小
 さな軍艦3隻で長崎を出航した。
  政府は、やむなくこれを追認した。
  但し、国立公文書館にある資料には・・、
  1874年5月19日(4月4日)三条実美により台湾蕃地事務
 局が設置された。
  以後の任命は、当時、太政大臣であった三条実美から
 の奉勅(ほうちょく、勅命を奉じること)となった。
  1874年5月20日(4月5日)台湾蕃地事務都督に西郷従道
 が任命された。
  1874年5月21日(4月6日)谷干城と赤松則良に台湾蕃地
 事務局参軍と、西郷従道を輔翼(ほよく、助けること)
 し成功を奏する事を任命。
  1874年5月22日(4月7日)海軍省から、孟春艦、雲揚艦、
 歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から、熊本鎮台所轄
 歩兵一大隊、砲兵一小隊の出兵命令が命じられる・・と
 いう経緯となっている。
  台湾生蕃を伐つ(氷川清話)
  西郷従道(陸軍大輔)を、陸軍中将に昇格させ、台湾
 蛮地事務都督(遠征軍総司令官)に、
  陸軍少将・谷千城と海軍少将赤松則良を参軍に、
  陸軍中佐・佐久間左馬太・陸軍少佐・福島九成を参謀
 に任命。
  リゼンドル推薦のアメリカ軍人のカッセルやワッソン
 が参画した。
  イギリス汽船やアメリカ汽船も用船として参画した。
  リゼンドルを、外務省准2等出仕から台湾蕃地事務局准
 2等出仕(副長官)に配置した。
  柳原前光(やなぎわらさきみつ、華族、外務大丞)に
 与えられた「内勅」:
  一、出兵は「討蕃」のためであって清国と戦争する意
   図がないことを清側に理解させよ。
  二、「蕃地」と清国領台湾との境界が複雑であるため
   に派生する問題を処理せよ。
  三、琉球藩が日本に服属していることを清側に理解さ
   せよ。
  また、西郷都督に与えられた勅命は、
  「我国人を暴殺せし罪を問うこと」、「被害が再発し
 ないように防制の方法を立てる」などだった。
  これらは、米国人のリゼンドルが献策した通りだった。
  そして、また、「今後の日本政府との間に有益の事業
 を興起せしむるを以て目的となすべし」となっている。
  収拾への交渉・・、
  1874年9月(明治7年8月)全権弁理大臣として、大久保
 利通が、北京に赴いて清国政府と交渉した。
  大久保は、米国人リゼンドルとフランス人法学者ボア
 ソナードを顧問として、台湾問題を交渉し、主たる交渉
 相手は、総理衙門大臣の恭親王だった。
  会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論
 もあって、1874年12月9日(10月31日)「日清両国互換条
 款」が調印された。
  合意内容は、清が、日本軍の出兵を保民の義挙と認め、
 日本は、生蕃に対し法を設ける事を求め、
  1874年12月20日までに、征討軍を撤退させることに合
 意した。
  また、日清両国間互換条款互換憑単によると、清国は、
 遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払
 い、40万両を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い
 出費した。
  また、清国は、日本の行動を承認した。
  琉球民が日本国民という、琉球の日本帰属が国際的に
 確認された確認事例の一つ。
1874年5月20日(4月5日)司法省・佐賀裁判所が開設された。
  佐賀城内。
  裁判長司法権大判事・河野敏鎌(こうのとがま、子爵)。
  この日、参議文部卿兼内務卿・木戸孝允と太政大臣・
 三条実美に、江藤減刑の書簡が来た。
  河野敏鎌が、「将来にわたって不逞のやからが出没横
 行するおそれがある」として府県裁判所の新設を上申し、
  佐賀出張中の大久保利通からも、「いそぎ当県へ裁判
 所を置いて、官員を派遣されたし」と催促。
  この佐賀裁判所は、府県裁判所であって臨時裁判所で
 はない。
  司法省職制章程には、「府県裁判所は、『流刑』以下
 を処断して、『死罪および疑獄』は司法省の裁可を受け
 る」とあり、
  佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所で死刑判決
 を受けても、司法卿・大木喬任の裁可を受け、
  さらに、内務卿・木戸孝允(文部卿兼務)へ取り計ら
 うべきであり、ただちに執行されることはない。
  また、1874年5月5日(3月20日)には、大久保利通が得
 た1874年3月27日(2月10日)に、三条実美からの委任状
 「死刑といえども、臨機に処分のこと」(第1項但書)は
 取り消されている。
1874年5月22日(4月7日)江藤新平を護送した軍艦「猶竜」
 が、佐賀に入った。
  そして、江藤らの9人を収監した。
1874年5月23日(4月8日)江藤は、この日に、急設された佐
 賀裁判所で、司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初
 から死刑ありきの裁判によって裁かれた。
  旧暦4月7日に送還され、旧暦4月8日~9日に簡単な二度
 の審問だった。
  1874年5月28日(4月13日)に、河野により除族(じょ
 ぞく華族・士族の者がその身分を除かれて平民とされる
 こと、)の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に、
 嘉瀬(かせ)刑場において処刑された(1874年4月13日に
 処刑されたの説あり)。
  判決を受けたとき、「裁判長、私は」と言って反論し
 ようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとし
 た刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が
 動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
  その後、江藤の首は、嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟
 首された。
  辞世は・・、
  「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 
              迷う心はただ君がため」
  1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法発布に伴う大
 赦令公布により賊名が解かれた。
  1916年5月12日(大正5年4月11日)贈正4位。
  墓碑銘は、書家としても知られた副島種臣が書いた。
  佐賀市に銅像もある。
  (1834年~1874年、享年40歳)
  民撰議院設立建白書の一人となっていたが、
  その直後、佐賀の不平士族に推されて、乱を起こすに
 至った(佐賀の乱)。
  氷川清話には・・
  「明治7年に佐賀の乱が起こり、政府は、台湾出兵によ
 って征韓論のバランスをとる。他方、土佐には板垣らの
 愛国公党が創立される」。
1874年5月23日(4月8日)設置されたばかり佐賀裁判所の
 裁判長・河野敏鎌(権大判事)と直班検事・岸良兼養(
 大判事)が、江藤梟首の「擬律伺」を大久保に上申した。
  佐賀裁判所審理開始。~9日。
  擬律:ぎりつ、裁判所が判決において法規を具体的な
 事件に適用すること。
  伺:うかがい、目上の人などに指示を仰ぐこと。
  河野敏鎌(元土佐藩士)は、明治5年5月から、司法卿・
 江藤新平の推挙でヨーロッパへ派遣されていた。
  その後、司法大丞(四等官)に昇進し、明治7年1月15
 日付で司法権大判事となった。
  大検事(四等官)岸良兼養も、河野と共にヨーロッパ
 へ派遣されていた。
  共に、江藤のかつての部下だった。
  8日の大久保日記:「河野大検事(ママ)ヨり擬律伺コレ
 アリ評決」とあり、
  結審前に、判決案(擬律)が固まっていたことを示す。
  13日の判決文
  「其ノ方儀、朝憲ヲ憚(ハバカラ)ズ、名ヲ征韓ニ托シ、
 党与ヲ募り、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウス
 ル科ニテ、除族ノ上、梟首申シ付ル」。
  佐賀裁判所は、府県裁判所のため、その権限は、司法
 職務定制第58条により・・、
  「流刑以下ノ刑ヲ裁断スル事ヲ得ベシ、死罪及ビ疑獄
 ハ本省ニ伺イ出テ、其ノ処分ヲ受ケ」と定められていて、
 単独で死刑判決はできなかったが、それをあえて強行し
 た。
  判決:梟首・2、斬首・11、懲役10年・6、懲役7年・17、
 懲役5年・18、懲役3年・62、懲役2年・47、懲役100日・1、
 禁錮100日・2、禁錮70日・3、禁錮40日・2、免罪・11,237。  
  福沢諭吉の江藤裁判に対する批判。
  「佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之れを疑わ
 ず、加うるに、此の犯罪の巨魁を補えて更に公然裁判も
 なく、其の場所に於て、刑に処したるは、之れを刑と云
 うべからす。
  其の実は、戦場にて討ち取りたるものの如し。
  鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云うべし」(
 「丁丑公論」)。
1874年5月24日(4月9日)ボアソナアドが、司法省法学校で
 講義を始めた。
  既にブスケの講義を聴講していた者を中心に15名。
  後に「フランス法派」の中核を形成。
  明治9年入学の第2期生には、原敬、松室致、末弘巌石。
  明治17年の第4期生(最後)には、若槻礼次郎ら。
  また、ボワソナアドは、法学校の講義の他に司法省の
 官吏を対象とするフランス実定法の解説も開始。
  これは、日本民法編纂への準備として行われたもの。  
  ボワソナアドの「開講の辞」:
  「私は(政府に対して)なかんずく、日本政府の立法
 改革事業は、その司法官および行政官の一新と不可分で
 あることを指摘しました。
  ・・したがって、新たな諸法律を準備しているあいだ
 にも、貴重な時間を一刻も無駄に失うことのないように、
 (新たに作られる)法律の条文を理解する学力を備えた
 若い司法官の育成所を作らなければならない、と進言し
 ました」と述べる。
  彼は、自らの講義を「自然法の講義」と名づけた。
  ボアソナアド:フランスの法学者、教育者。
 日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務
 顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任。
  勲一等旭日大綬章受章。
  明治初期に来日したお雇い外国人の一人で・・、
  幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表さ
 れる不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大
 きな貢献を果たし、「日本近代法の父」と呼ばれている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive