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2020年10月20日

(増補版)699E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1898年6月~1898年7月)

題:(増補版)699E2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1898年6月~1898年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なものにする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆様の、そして、
  人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切なこと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・だからこそ、
  正しいことを言って正しい関係を作らなければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはならない・・正しい
  ことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解することにつとめなけ
  ればならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならない・・民の選択
  を受けない指導者たち・・民主化が達成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
 ☆声を上げ続けることで社会は変えられる。
 ☆NHKは国を守る大事さを放送しない放送局。
 ☆1264年、モンゴルの元に襲われてアイヌが日本に逃げて来た・・『北
  の元寇』と言われる元に追われたアイヌの日本への逃亡移住・・当然、
  日本の先住民ではない・・
  しかし、アイヌを先住民と書く法律が日本にある・・
.
1898年7月1日、イギリス、威海衛の租借権獲得
  イギリスが威海衛を中国・清から租借した。
  威海衛は、山東半島の先端にある良港で、清海軍の北洋艦隊の拠点で
 あった・・が・・
  1895年1月、日清戦争の時、日本海軍は、この威海衛の北洋艦隊を総攻
 撃し、壊滅させた・・
  この時、清の提督・丁汝昌は自決し降伏した。
  1994年9月の黄海海戦で敗北した北洋艦隊は、この威海衛に逃げ込んで
 いた。
  ヨーロッパ列強は、日本に敗れた中国が張り子の虎だと知って、これ
 まで好き勝手に中国を分割して来て、この時・1898年、イギリスは、威
 海衛を25年間の租借地として清に認めさせた・・そして、イギリス東
 洋艦隊の基地とし、山東半島を勢力圏に置いた。
  また、イギリスは、九龍半島(香港)も清から租借している(この日
 の7月1日発効)
  因みに、イギリスが因縁を付け、また、言い掛かりをつけて起きたア
 ロー号拿捕事件(1856年10月)の際、イギリスは、清国政府から九龍半
 島を年500銀で租借した・・しかし・・
  北京条約(1860年10月24日)で割譲として、それ以降、設定した租借
 地には租借料の支払いを無しとした。
  1898年には、中国からドイツが膠州湾を租借し、イギリスが香港対岸
 の九龍半島も租借し、そして、翌・1899年には、フランスが広州湾を租
 借した・・以上、その総ては99年間に及ぶ租借だった。
  また、1898年には、ロシアも旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)を租
 借している。
.
1898年7月1日、すり犯取締の警察官に対して、勘合証引換に無賃乗車証交
 付の制を制定した。
  (参考)勘合:かんごう、照らし合わせて真偽を確かめること。
.
1898年7月3日、米西戦争: サンティアゴ・デ・クーバ海戦でアメリカ海軍
 がスペイン艦隊を撃破し、キューバ近海の制海権を獲得した。
  ヨーロッパ列強が、中国を蝕(むしば)んでいるこの時、アメリカは、
 必死に太平洋の各諸島を手に入れ確保し、また、それと共にフィリピンや
 キューバなどのスペイン植民地を手に入れ奪おうとしていた。
  サンチャゴ・デ・キューバ海戦は、米西戦争中の1898年7月3日に起き
 た海戦で、スペイン本国から植民地キューバへ回航されたスペイン艦隊
 が、サンチャゴ・デ・クーバ港でアメリカ艦隊の封鎖を受けた・・
  スペイン艦隊は、この封鎖からの脱出を図ったが、アメリカ艦隊に捕
 捉され・・壊滅させられた。
  この海戦の結果、キューバ方面におけるスペインは、主な海軍力を喪
 失し、制海権はアメリカ艦隊が握った。
  そして、この海戦後、サンチャゴ・デ・キューバ(キューバ南東部の
 都市)やプエルトリコはアメリカに占領され、戦局はアメリカ優位のま
 ま休戦・講和へ傾いた。
  交戦戦力:アメリカ:戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻
       スペイン:装甲巡洋艦4隻、駆逐艦2隻、
  損害:アメリカ:死傷者1名、負傷者10名
     スペイン:死傷者474名、負傷者1800名、全艦喪失だった。
.
1898年7月6日、北海道庁所管鉄道と北海道炭砿鉄道会社鉄道との間におけ
 る車両使用料、および、車両等貸借料に関する規程制定(北海道庁訓令
 第266号)
.
1898年7月7日、ハワイの主権がアメリカに奪われた。
  アメリカのマッキンリー大統領が、連邦議会においてハワイ併合決議
 案に署名し、ハワイの主権がアメリカ合衆国へ渡ったとした。
  相手が合意するというのならともかく、自分が得るものを「自分がサ
 インする」というおかしな儀式であり、行為だった。
  例えば、ある店のものを、その店に所有権があるものを、自分がサイ
 ンしてそのものを得るというような行為となっている・・店の人はまっ
 たく介在していないし、納得していない。
  実際の主権の所有者のハワイ王国、および、ハワイ王国の人々が存在
 していたが、まったく上記のお店の例の如くの事態だった。
  アメリカは、この様なまったくおかしな筋の通らぬ儀式をして「正義
 の行為だ」と主張することがよくある・・人々の目をごまかす不埒な行
 為となっている・・日本が厳重な抗議をしたのは当然だった・・
  また、何故か?・・アメリカはスペインへ金を払っている・・後ろめ
 たいから金を出したのか?・・まったく、汚いごまかし行為である。
.
1898年7月7日、内務省、外国人の養子、入夫を許可制で認めた。
  国際結婚が珍しかった明治の時代、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
 と小泉セツは結婚した。
  国際結婚が数少ない時代の入夫婚姻であった。
  1873年(明治6年)から1897年(明治30年)までの24年間に、日本政府
 から許可された国際結婚は265件だった。
  夫が外国人で、妻が日本人である組み合わせは180件あり、うち入夫が
 11件、婿養子が4件、婚嫁が165件だった。
  1899年に、日本で国籍法が制定され、帰化の法制度も確立した。
  小泉八雲は、この時以前の入夫婚姻(女性が戸主)だった。
  セツがハーンのもとに婚嫁することになれば、「日本人タルノ分限」
 を失い、日本で不動産を所有することができなくなる。
  しかし、ハーンが小泉家の入夫または婿養子になれば、ハーンが「日
 本人タルノ分限」を得て、セツは「日本人タルノ分限」を失うことはな
 く、また、子どもたちにも「日本人タルノ分限」を与えることができた。
  ハーンとセツの結婚の時期については諸説あるが、法的な手続きをと
 ってはいなかった。
  松江での最後の年である1891年(明治24年)8月付のページ・ベーカー
 宛の書簡で、「日本の慣習に則って結婚した」と書いている。
  そして、「もちろん、私のかわいい妻の写真をお送りします」と、公
 開されている手紙の中で、はじめてセツのことを「妻」と呼んでいる。
  1891年(明治24年)11月、ハーンとセツが、松江から熊本に転居した際、
 セツの養父母と養祖父も一緒に転居していて、松江に残ったセツの実母
 へ、ハーンは、毎月、仕送りをしている。
  この時点、ハーンは、セツとその家族を扶養する覚悟ができていた。
  ハーンの種々の友人との手紙から分かることは、ハーンは、自分がセ
 ツよりも18歳年上であることを考慮して、もし、自分が死んだら、セ
 ツと子どもにとって、英国籍であることは無益であることをあげ、彼ら
 は日本臣民としての権利を失ったことを後悔するだろうと案じている。
  友人への書簡から明らかなのは、ハーンが日本に帰化しようとした最
 大の理由は、生涯日本で暮らす妻子が「日本人タルノ分限」を失うこと
 は不都合であることと、自分の死後にセツと子どもに遺産を相続させた
 いという思いからだった。
  ハーンは、同時に、日本臣民になることによる減給を心配している。
  そのため、1893年(明治26年)11月付の書簡で、「多分、私は数年
 待ってから日本臣民となった方がよいのでしょう」と述べ、実際に、ハ
 ーンとセツの入籍の手続きが完了するのは1896年(明治29年)であるが、
 1891年(明治24年)には既に、「日本の家に婿となって入ること」、日
 本に帰化する意志があった。
  ハーンは、セツが確実に遺産を相続できるように遺言状も書いている。
.
1898年7月9日、貨物の等級改正を行なうとともに、往復車貸切特約内規を
 定めた(鉄運乙第222号)
.
1898年7月9日、北海道住民に対する北海道庁所管の旅客運賃について無賃
 とした(内務省告示第165号、7月16日砂川・旭川間開業時から実施)
.
1898年7月10日、ファショダ事件
  (イギリスとフランスのアフリカ争奪戦)
  この日にフランス軍(武装探検隊だと称している)が、スーダンのフ
 ァショダに到着する・・イギリスは9月18日だった・・
  イギリスとフランスは、アフリカを侵略して植民地化することを競っ
 ていた。
  この領土の奪い合いの帝国主義侵略行動で起きた事件だった・・
  フランスは、サヘル地域からさらに東部への進出を図って、マルシャ
 ン大尉率いる200名の武装探検隊を送っていた。
  一行は、ブラザビル(コンゴ)から蒸気船でウバンギ川を遡上し、ジ
 ャングルと砂漠地帯を横断し、1898年7月10日、ナイル河畔のファショダ
 村に到着した。
  一方、キッチナー率いるイギリス軍の船隊は、ナイル川を南下して
 1898年9月18日にファショダに到着した。
  ファショダで遭遇したイギリス軍とフランス軍は、あわや衝突かと思
 われた・・
  正面衝突は直前で回避され・・アフリカ分割へとなって行く・・
  これまでの経緯は・・
  イギリスは、エジプトのカイロからケープ植民地のケープタウンを結
 ぶ鉄道の建設を目指した。
  ナイル川上流のスーダンに進出し、マフディー教徒の抵抗に手をやい
 たが、キッチナー将軍が、1898年、首都ハルツームを占領した。
  一方、フランスは、サハラからアフリカと右岸のジブチをめざしして
 東進、マルシャン大佐の率いる部隊がコンゴ川流域からスーダンに入り、
 ファショダにフランス国旗を掲げた。
  イギリスの首相兼外相のソールズベリは、直ちにキッチナー将軍を派
 遣、ファショダのフランス軍を包囲した・・
  撤退か戦争かを迫る・・
  フランスは、当時、ドレフュス事件で国内の統一が取れていない状況
 で、抗戦をあきらめた・・
  ファショダをイギリス軍に明け渡した。
  この事件を最後に、英仏は対立を終わらせて、協調してアフリカを奪
 う事が成立した。 
.
1898年7月12日、神戸港で生糸貿易が始まった。
  この30年前の1868年、神戸は開港された。
  神戸港の強みは、大型船が停泊しやすいという水深の深い海を持つ利
 点があった。
  関西での貿易の中心的役割を担う事になって行く。
  因みに、1917年、神戸港は、貿易額で横浜港を抜いて、日本一の貿易
 港となっている。
  神戸は、中世からすでに港町として繁栄し、2万人ほどの人口を擁する
 都市だった。
  この頃、人口10万人を擁する都市として江戸・大坂・京都・金沢・名
 古屋などがあった。
  この神戸が、大正期(1912年~1926年)には人口で3位の都市になった。
  初めの頃、日本人商人が開港場(居留地)に出向いて外商に生糸・茶な
 どの日本の商品を売り込み、また、外商から綿糸・綿布・毛織物などの
 舶来品を買い取るという「居留地貿易」がなされていた。
  日本人商人の外国貿易と言っても、1877年には2.5%程度で、そのほと
 んどは外商(外国人商社)によって外国貿易はなされ、牛耳られていた。
  外商による契約の一方的破談や買いたたきなどの横暴も目立った。
  日本人としての屈辱的な状況から、明治の早い段階から貿易上の主導
 権を日本側へ取り戻したいとする「商権回復運動」が起きていた。
  この様なことから、日本人の経営による貿易商社がいくつか設けられ
 た。
  海外へも支店が設置され、日本人スタッフが派遣された。
  外貨を獲得したいとする明治政府の思惑もあり、後援がなされた。
  1873年、大倉喜八郎によって大倉組商会ができた・・
  そして、これを皮切りに三井物産(1876年)などができた。
  神戸港は、輸入比率が高いという特徴があった。
  それは、綿花の圧倒的比重が高かった。
  大阪財界の重鎮・松本重太郎の紡績会社が、1882年に出来、操業を開
 始し、好業績をあげていたのも関係していた。
  それとともに、綿糸紡績業に参入する動きが西日本を中心に活発とな
 った。
  日本の産業革命となって行く。
  国産の原綿から清国産の綿花へ、さらにインド産綿花、アメリカ産、
 エジプト産などと、使用が拡大されて行った。
  1917年、神戸港の貿易額が日本一となった。
  関西には規模の大きい紡績工場が立ち並んでいた。
  紡績会社は、綿糸を生産するのみならず、綿布生産も兼業し、アジア
 圏に輸出された。
  神戸港はその輸出拠点となった。
  日本の外貨獲得商品であった生糸について、その輸出はもっぱら横浜
 港がほとんどを独占していた。
  神戸の政財界も生糸輸出でのシェアを高めようと努めた。
  しかし、その主要な生糸生産地が長野県や北関東など東日本が多かっ
 た。
  そのため横浜の牙城を崩すことはきわめて困難だった。
  神戸が、本格的に生糸・絹物輸出に食い込んでいくのは、1923年の関
 東大震災で京浜地方が大きな被害を受けた頃からだった。
  この年に、横浜6に対し、いきなり神戸は4を担うという大飛躍をし
 た。
  そして、何と、その翌年の1924年には、横浜からの絹物輸出額が1038
 万円まで低落したのに対し・・神戸は、1億1370万円の取り扱いを行ない、
 その地位を一挙に逆転させた。
  1930年での神戸港の輸出品の首位は「生糸」となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:「化外の地」と言った地の満州族の方々は、今は居ない・・
    そして・・
    善人の日本人を偽りのプロパガンダで貶(おとし)める・・真実を伝えず、
   ただただキリスト教を美化し、殺された犯罪者を美しく仕立てて見せる。
.
12世紀の初め、完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)という満州族の英傑が出現する。
  女真族(後に満洲国を建国することになる)は、完顔阿骨打(ワンヤン
 アクダ、金の太祖)という英傑が出現すると集結し、力を発揮する集団と
 なった。
  そして、遼(りょう)や宋(そう)を滅亡させるほどの力を持った。
  そして、1115年に、金王朝が樹立された。
  金王朝は元好問(げんこうもん)という大詩人が現れるくらい高い文化
 を持っていた。
  しかし、この金王朝がモンゴル族に滅ぼされ、また、このモンゴル族
 が漢民族の明王朝に滅ぼされ、明の漢民族は、この女真族の分散策の政
 策が国是の様にとられ、一生懸命に女真族の力を削ぐことがなされた。
  一貫してなされたこの漢民族の政策によって、今、日本が建国を助け
 てあげた女真族(満州族)の満州国の地では満州族の痕跡も感じられな
 くなっている。
  (参考)完顔部:かんがんぶ、普通「ワンヤン」と読む。
      中国の遼の国の時代に、満州 (中国東北地方) に居住した女
     真族の一部族。
      完顔部は、砂金を産し、交通の要衝にあたる地の利を得て富
     を獲得し、11世紀以来、次第に女真族を統一した。
      部の長のワンヤンアクダ (完顔阿骨打)が出ると、1115年、
     独立して金朝を建てて遼にそむいた。
,
1115年、満州族(女真族)が、金(きん)王朝を建てた。
  満洲の地を、漢民族の中国共産党政権は、わざわざ「中国東北部」と
 呼ばせているが、この地が中国共産党政権の漢民族の地ではないことから、
 わざわざ、漢民族の中国共産党政権は「中国東北部」と呼ばせている。
  この地は、万里の長城の北に位置している・・これは、この北の地域
 がまったく中国外の「関係のない『化外の地』だ」としているというこ
 とを意思表示している・・「自分の領土外の地だ」ということを意味し、
 そして、意識している・・
  満洲のこの地が、まったく関係のない地だと、「毛外の地」だと、こ
 の歴史遺産の万里の長城は、はっきりと証拠づけをし示している・・今
 では、大きな顔をして中国の漢民族の地だとしているが?・・強いてこ
 の地を、満洲のこの地を、呼ぶのならば中国東北部などと呼ばずに、「
 中国東北侵略部」と呼ぶべきである。
  この地に満洲族が多く居たので、日本は、満洲国の建国を援助してあ
 げた・・1932年3月1日が建国の日だった・・
  しかし、今・現在、漢民族の中国共産党政権は、この満洲の地を侵略
 しただけではなく、この満洲族の方々を、この地から居なくしてしまっ
 た。
  満洲国だと主張されては困るからか?、どこかの他の場所に強制的に
 移住させたのか? または、殺してしまったのか? この地の満洲族の
 方々は居なくなってしまった・・居なくされてしまった・・
  歴史を遡(さかのぼ)れば、この地は朝鮮の高句麗や渤海国の版図(はん
 と)となった時期もあった・・漢民族の痕跡などまったくなく「漢民族の
 『かの字』もなかった」。
  中国共産党政権は、うまく立ち回って昔から漢民族の領土の様な顔を
 しているが、まったくその根拠はない。
  また、主権を主張する権利がある訳ではない中国の明王朝は、この地
 をモンゴル族に盗られない様にするために女真族(じょしんぞく、満洲
 族)の力を期待した。
  モンゴル族が再び南下するのを防ぐため、牽制役を女真族に期待して
 いた。
  女真族(満州族)は、1115年に金(きん)王朝を建てた。
  一方、明は、女真族の力を弱めるため女真族の分散策をとった。
  だから、女真族から言えば、女真族の興隆のためには、その統一が不
 可欠だった。
  その全女真族の統一を成し遂げたのが英傑・ヌルハチだった。
  ヌルハチの姓は、愛新覚羅(アイシン・ギョロ)・・後々、清王朝の実
 際上の始祖となる。
  (参考)金(きん、1115年~1234年)は、金朝(きんちょう)とも言
     い、中国の北半を支配した女真族の王朝である。
      国姓(中国の時の帝王の姓)は完顔氏。
      遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南部の南宋と対峙
     したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。
      都は、初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省ハルピン市)、
     のち燕京(中都大興府、現在の北京)。
  (参考)金建国前の女真(ジョシン)は、現在の中国東北地区(満州)
     黒竜江省の松花江の支流・按出虎水(アルチュフ川)流域にい
     て、遼に対して服属していた。
      しかし、遼の支配者たちは奢侈(しゃし、身分を越えたぜい
     たく)が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。
      これに対し、女真族の完顔部から出た阿骨打が反乱を起こし、
     1115年に按出虎水(アルチュフ川)の河畔で即位し、「金」(
     女真語でアルチュフ)を国号とした。
      この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によ
     って栄えたことによるとされる。
      最初の首都となった会寧(かいねい、上京会寧府)は按出虎
     水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。
  (参考)金は、1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、
     遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約
     束した。
      しかし、宋は攻略にてこずったために金が燕京(現在の北京)
     を落とし、宋に割譲した。
      阿骨打は、1123年に、死去するが、弟の呉乞買(うきつばい、
     太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた遼
     の最後の皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴル
     を支配した。
  (参考)完顔:かんがん(女真音:ワンヤン)は、中国の金の国姓・・
     元は女真族完顔部の首長の家系で、漢風の姓は王氏。
      始祖は函普(かんぷ)であり、1115年、この後裔であった完
     顔阿骨打が、弟の呉乞買ら一族とともに独立して、服属先であ
     る遼の重圧に反旗を翻し、金朝を建国した。
  (参考)阿骨打:アクダ、金の初代皇帝(在位:1115年1月28日(1月
     1日)~1123年9月19日(8月28日)女真族完顔部(ワンヤン部)
     の族長だった。
  (参考)ヌルハチ:(努爾哈赤)金の創始者・・清の初代皇帝・・君
     主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でク
     ンドゥレン・ハーン、廟号は太祖、諡号は高皇帝・・明の文献
     で童奴児哈赤あるいは佟奴児哈赤・・朝鮮の文献で老乙可赤あ
     るいは奴児哈赤、清の文献で弩爾哈斉あるいは弩爾哈奇。
      女真族の愛新覚羅氏出身でヘトゥアラに生まれた。
.
1220年頃、北海道に、「アイヌが来る前の1220年頃」からの鎌倉時代に、
 京都などの強盗・海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤氏が、
 北海道へ島流しにしていた。
.
13世紀半ば、モンゴルの樺太侵攻(~14世紀初頭)
  モンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ(骨嵬)への攻
 撃がなされた。
  日本への元寇に対し「北の元寇」「北からの蒙古襲来」「もうひとつ
 の蒙古襲来」という。
  13世紀半ば~14世紀初頭、アイヌは、ユーラシア大陸のアムール川流
 域に居たが・・中国の「元(モンゴル)」に追われ・・その北方の地か
 ら、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて、日本に逃れて来た。
  この様に、アイヌは、北方(アムール川流域、そして、樺太)に住ん
 でいた。
  日本の先住民は、日本人の祖先は、紀元前に、すでに、南方から島づた
 いに日本に来たり、また、朝鮮半島を経由して来たり、小笠原諸島などの
 太平洋を渡って来たり、紀元前という遠い昔に、あらゆる方向から日本に
 来ていた。
  アフリカから発した「人類移動の大きなうねり」の移動の様に、アイ
 ヌ以前のこの日本の先住民たちは日本に至り、そして、長い長い期間、
 北海道から沖縄までの日本中を歩きまわり、移動し、そして交雑して、
 日本人が形成されて行った・・
  長い期間をかけて交雑して、日本のあちこちで形成されたこの人たちが
 日本人の先住民であって・・近年、日本に逃げて来たアイヌとは明らかに
 違い、アイヌは日本の先住民ではない。
  人類の起源のホモ・サピエンス(新人)が、アフリカに登場したのが
 紀元前20万年である。
  ホモ・サピエンスが、全地球的な拡散を始めたのが紀元前5万年前(紀
 元前5~6万年説や、紀元前6~7万年説や紀元前10万年説もある)
  そして、岩手県遠野市の金取遺跡の人類の足跡は、紀元前8~9万年・・
 この頃の人類の足跡は、すでに、日本の各所で数千ヶ所ある・・当然、
 アイヌではない。
  そして、現代人の祖先であるホモ・サピエンスが東アジアにまで到着
 したのが紀元前5~6万年である。
  そして、紀元前4万年に、日本に、旧石器時代の遺跡が急に増えること
 から、研究者の多くが、現代の日本人につながる人々(日本の先住民の
 人々)が、少なくともこの頃に、日本で暮らしていたとしている(当然、
 アイヌではない)
  日本列島へ、あらゆる方向から日本人の祖先となる人々が来たのが紀
 元前6万~紀元前4万年で・・(アイヌは紀元後13世紀~14世紀)・・
  ホモ・サピエンスの前にアフリカを出たデニソワ人も、紀元前12万年
 に日本に居た(島根県の砂原遺跡)・・
  日本の法律に圧力をかけて「先住民」と書かせたアイヌの人々は、汚
 点を作っている。
  アイヌの人々は、日本の先住民ではないのに「先住民だ」との嘘の主
 張をして先住民と書かせた。
  日本政府に圧力をかけ、日本の法律の中に「先住民だ」と記載させた。
  しかし、そうはなっても事実は事実、事実は変わらない・・アイヌは、
 鎌倉時代の末期に蒙古(モンゴル)に追われて日本に来た人たち・・日
 本の先住民ではない。
  日本の先住民は、上記した様に無土器時代からの縄文の人たちである
 ことは変わらない・・アイヌの人たちは、虚偽・嘘を言っている。
  北海道にも縄文人の遺跡が、多数、存在している。
.
1264年、アムール川下流域から樺太にかけての地域に住んでいた「吉里迷
 (ぎれみ)族」が、元朝のフビライに、「アイヌが攻めて来る」と報告
 した。
  フビライは、この事によって元寇より早い時期に、この地域へ襲来し
 た(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住した。
.
1264年、アイヌが北海道に来た。
  この年に、アムール川下流域から樺太にかけて、この地域に住んでい
 た「吉里迷(ぎれみ)族」が、元のフビライに「アイヌが攻めて来る」
 と報告した。
  因みに、この前年の1263年に、この集団は、モンゴル(蒙古・元)に
 遠征されていて服従していた。
  そして、この服従しているこの集団が、1264年、「骨㟴(くい)」や
 「亦里于(いりう)」が、「毎年の様に侵入して来る」という訴えをフ
 ビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指す。
  フビライは、この事によって日本への襲来の元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した・・「北の元寇」「北からの蒙古襲来」と言われる。
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ逃げて来て移住した。
  元の樺太侵攻(1264年~1286年)
  この様に、アイヌは日本での歴史が短期間であることから、北海道へ
 来たアイヌの人々は、同化の少ない移動前の独特の文化を、保持して来
 ていた。
  今では、同化が進み、まったく日本人と同じで、見分けも出来ない、
 差異の無い同じ状態となっている。
  アイヌ民族の主張をするときにアイヌの民族衣装を着るから、その衣
 装によって分かるようなものとなっている・・着なかったら、まったく
 日本人と同じ。
  また、日本との交易で得た日本の刀や食器類をアイヌの文化品だと虚
 偽の嘘のアイヌ文化を展示しピーアール・宣伝している。
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13世紀、この時期のアイヌの北海道の居住地域は、オホーツク沿岸や道東
 に限られていた・・
  この後、北海道全域へ広がって行く。
  そして、北海道にアイヌが来る前の1220年頃からの鎌倉時代には、京
 都などの強盗・海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤氏が、
 北海道へ島流しにしていた。
  13世紀の北海道のアイヌは、オホーツク海岸や道東に多く住んでいて、
 流刑者は道南地方に追放された・・この後に、道南は、アイヌと和人の
 雑居地状態なった。
  1320年頃から、この安藤氏は、アイヌの人たちとの交易を行なってい
 る。
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1368年、中国に明(明朝)が建国された。
  今・現在の中国共産党政権の漢民族は、1368年、「明」という漢民族
 の国を建国し中国を治めていた。
  しかし、この漢民族の「明」は、「清」という国の女真族(満洲族)に
 滅ぼされ、中国全土を奪われた。
  そこで、今・現在の中国共産党政権の実権を握った漢民族は、この女
 真族(満洲族)を漢民族化するのに躍起となった。
  かつて、満洲族が多かった地(中国共産党政権が「中国東北部」と呼
 ばせている地)で、ここは中国が関係がないと言っていた「化外の地」
 と言っていた地で、日本は、満州族(女真族)の満洲国を建国すること
 を手助けしてあげた。
  しかし、今、漢民族の中国共産党政権は、その地を手に入れ、その地
 から満洲族を去らせ、どこかへ行かせてしまった・・または、殺されて
 しまったのかも知れない・・また、満洲族は必死に漢民族化された。
  卑劣な事に、今・現在、満州語は死語になっている・・大東亜戦争(第
 二次世界大戦)の70年前には普通に話され、読まれていた満洲語が死語と
 なっている。
  完全に漢民族の中国共産党政権によって満洲は消されてしまった。
  満洲国が無くなっただけではなく、満洲族の人(女真族人)まで消され
 てしまった・・漢民族の中国共産党政権は、この様なことまでする。
  今、チベット国やウイグル国や内モンゴル国が漢民族の中国共産党政
 権によって消され様としている。
  この中国共産党政権の漢民族が、日本の北海道でもこの様なことをし
 ようとしている・・その内、このアイヌは歴史で漢民族がよくやったこ
 の州の指揮使に任命され、その任を受ける様なことがなされるかもしれ
 ない。
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1368年、明王朝が建国された。
  明(みん、1368年~1644年)は、中国の歴代王朝の一つで、明朝ある
 いは大明とも号した。
  朱元璋が元を北へ逐って建国し、李自成軍による滅亡の後には、清が
 李自成政権(順)と明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。
  (参考)モンゴル帝国から分裂した後、大ハーン位を継承しモンゴル
     平原と中国大陸を支配した元朝は、14世紀に入ると複数の皇后
     が生んだ男子に漢人が文官として後ろ盾となり、帝位の相続争
     いが起こり統治能力が低下した。
      さらに、疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱
     を起こすと反乱は瞬く間に広がった。
      紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武
     帝)は、南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を
     建国した。
  漢民族の明王朝は、歴史の教訓を持っていて、その歴史の教訓に従っ
 て、女真系(満洲系)の諸部族を分散させた。
  この様に、今・現在の中華人民共和国も漢民族であるが、漢民族は昔
 から民族も分散させたり、強権でもって卑劣な民族浄化などをして来た。
  ちなみに、女真各部を統一して、満洲族が形成された。
  「海西女真」は現在のハルピンや長春に住んでいた。
  また、「野人女真」は黒龍江流域に住んでいた。
  記録から農耕を熱心にしていた。
  狩猟は得意とするところだった。
  交易品は毛皮や人参や真珠だった。
  農具は明や朝鮮との交易で得ていた。
  後に朝鮮北部の鉄匠を拉致して製鉄の法を習い、自ら生産できる様に
 なった・・馬の牧畜も盛んだった。
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1368年、明のはじめ、朱元璋 (後の洪武帝 ) が南京で帝位について、国号
 を明と定めた。
  この国は1644年まで続き、1644年、過酷な徴税で各地に起こった農民
 暴動は大規模な反乱となって行き、李自成の北京侵入によって崇禎帝 (
 毅宗) が自殺に追い込まれて明は滅んだ (李自成の乱 ) 。
  この中国の明の時代、この政権の実権を握っていたのは漢民族だった。
  そして、この後、この明は女真族の清に中国の実権を奪われてしまう。
  その様な時代が来るとも知らない明が、化外の地とした北京の北方に
 築かれた万里の長城を越えたさらなる北方に居た女真族は・・
  大きく三つの部族に別れていた。
  それは「建州(けんしゅう)女真」「海西(かいせい)女真」「野人(やじ
 ん)女真」だった。
  万里の長城で明に接するところに居たのが「建州女真」で、遼東の山
 地におもに住んでいた。
  この女真族の首長は、明から建州衛の指揮使にも任命され明の影響も
 受けていた。
  その様なことがあり、この建州女真族は、明の華風の影響を受けてい
 た。
  明の華からすれば「頗(すこぶ)る華風有り」として漢民族の価値観か
 ら見て、一番、建州女真族が文明度が高いと勝手に思われていた。
  この対極に居たのが野人女真族とされ、未開の意味の野人と名付けら
 れた族だった。
  これらの女真族各族を統一して満洲族を形成して、中華帝国である清
 王朝(しんおうちょう)を樹立したのがヌルハチだった。
  海西女真は、北方の現在のハルピンや長春(ちょうしゅん)に住み、野
 人女真は、黒龍江流域の東部を居住地域としていた。
  女真族は、森林や山地の多い土地に住んでいて、そして、狩猟や人参
 採集といった仕事を持ち、平原での遊牧といった仕事ではなかった。
  この頃、明の冊封支配下にあった李氏朝鮮の使者が、この女真族の地
 を通って北京へ赴(おもむ)く時に記(しる)した文には、「女真族は、農
 耕にもかなり熱心だった」ということが記されている。
  郊外の平地はすべて墾(たがや)かされ、墾かされてないところがない
 くらいだった。
  また、山地も耕(たがや)し上(のぼ)り、あちこちの多くが開墾されて
 いると記されている。
  農耕もかなり熱心だったのと同時に、山地から得られる毛皮や採集さ
 れる人参や、河から得られる真珠が重要な交易品目だった。
  農耕の農具も明や朝鮮から得ていた。
  後に、朝鮮北部の鉄匠(てつしょう)を連れて来て製鉄の技術を習って
 自らも生産もした。
  女真族の牧畜は馬で、豊かな上級女真族の家では千数百と群れをなす
 と記されている。
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1368年~1644年、中国の明朝の時代
  中国の漢民族の明王朝(みんおうちょう)が、万里の長城の南側に異
 民族の流入を避けて政権を作り、存在していた頃、万里の長城の北側に
 は女真族(満洲族)が居た。
  その女真族で・・万里の長城に近いところの女真族は「建州女真(け
 んしゅうじょしん)」と言った。
  そして、今は、厳しい国の境だとされている鴨緑江(おうりょくこう)
 が国境となっているが、その建州女真族の人たちは、鴨緑江の流れに関
 係なく朝鮮に接していた。
  この建州女真族の人々は、遼東半島に多く住み領有していた。
  そして、その女真族の建州女真族の人々の北には、今の長春の辺りに
 海西(かいせい)女真族の人々が居た。
  そして、その海西女真族の東側には野人(やじん)女真族の人々が居
 て日本海に接していた。
  この様に漢民族の明は、万里の長城の北を「化外の地」としてまったく
 漢民族ではない地としていた。
  しかし、今、漢民族の中国共産党政権は、この女真族の地を奪い「中
 国東北部」と呼ばせている。
  昔からの中国の地の様な顔をしている。
  そして、この女真族のヌルハチは建国した国の名を「清」とする。
  また、ヌルハチは、明と対等、もしくは対等に近い地位を得たいと思
 っていた。
  この国が、後に、この漢民族の明を駆逐してしまう。
  中国の全土を支配下に置いてしまう。
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15世紀、ヤン・フスは、キリスト教の宗教改革をルターやカルバンより1
 世紀も早く始めた。
  チェコで15世紀に宗教改革を指導した。
  しかし、結局、卑劣な行為ばかりをするキリスト教によって異端者と
 いうレッテルを貼られて火炙り(ひあぶり)の刑にされて殺されてしまっ
 た。
  ちなみに、フランスを救った女性として有名なジャンヌ・ダルクもキ
 リスト教に異端者とされ、やはり火炙りの刑に処せられている。
  この話で卑劣なのはキリスト教の聖職者がジャンヌ・ダルクに卑劣な
 引っ掛け尋問をして罪に落として殺してしまったところがある。
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1521年、ヨーロッパ人のマゼランが率いる艦隊がフィリピンのホモンホン
 島に到達した。
  (参考)ホモンホン島:フィリピンのレイテ湾の東にある島。
  そして、この後、マゼラン艦隊はマクタン島(フィリピン中部のセブ
 州にある島)を攻めた。
  そして、1529年、スペインはサラゴサ条約でフィリピンを領有した。
  武力でもって奪いとったルソン(フィリピン)の地から日本をもまた
 奪い盗ろうとしていたキリスト教(聖職者たちはその使命を伏して持っ
 ていた)。
  その先鋒となったキリスト教宣教師たち。
  この様な、この者たちの「真の狙い」「奥に隠した狙い」を知った豊
 臣秀吉は、当然、この者たちを国外退去とした・・そして、1587年、キ
 リスト教を禁教とし「キリスト教禁教令を出した」。
  国外退去となったキリスト教宣教師たちは、平穏に、日本を去った・・
  秀吉は、ヨーロッパの様なひどいことはしなかった・・秀吉は紳士だ
 った・・
  そして、その多くは無傷に中国のマカオへと去った。
  豊臣秀吉は、穏便に、その大罪を許した・・その様に事を処そうとし、
 処した・・
  「国家転覆」と「国家の奪取」という大罪であるが、死刑を免じた・・
 そして、国外への退去とした。
  しかし、不遜にも(ふそん、思い上がった態度)にも、日本に居残ろ
 うという謀反のキリスト教宣教師たちが居た。
  この行為が、これらが、事の悪展開の根本であった・・
  キリスト教は、今まで、散々、日本の神社仏閣を壊し、その信徒を弾
 圧し、苦しめ行為をして来た・・
  そのこの者たちの事々の事実をも知っている豊臣秀吉は、「何故その
 様なことをするのだ」と諌(いさ)めてもしていた・・
  このことをも許した豊臣秀吉の行為に感謝の欠片(かけら)も持たず、
 示してもいなかったキリスト教宣教師たち・・
  無法となったキリスト教の宣教行為の宣教を、何も知らない日本人の
 信徒たちに行い作り、罪作りな事をし続けて行く・・
  当然、この違法行為も処罰される・・そのキリスト教宣教師と共に日
 本人信徒はその罰で死刑となる。
  しかし、キリスト教は、これらの違法行為の「罪を隠して美化する」・・
  当然の事の成り行きでの、犯罪者としての刑の執行であるのであるが、
 事の終わりだけを取り上げて美化するというキリスト教・・
  「殺された」「殺された」と言いたてる・・
  その様なことをしたのだという事実は隠す・・
  そして、その挙げ句に、キリスト教は、この日本人たちだけを、殺さ
 れた人たちだと長崎に像にして美化し、そして、飾ざる・・その様な捻
 じ曲げ行為を行う・・
  その行為によって、善人の日本人を偽りのプロパガンダで貶(おとし)
 める・・真実を伝えず、ただただキリスト教を美化し、殺された犯罪者
 を美しく仕立てて見せる。
  キリスト教に偏するNHKは、この様な事実をまったく放送しない・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://stff2010.blog29.fc2.com/
または
  https://32983602.at.webry.info/
または
  https://hanachan28.exblog.jp/