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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

2017年02月16日

(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

題:(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月2日、第1回汎米会議
  アメリカの強引な外交(属国扱い)
  おとなしく言う事を聞く属国という前提の会議・・、
  この日、その第1回汎米会議がワシントンで開かれた。
  アメリカが提唱して開かれた。
  南北アメリカ大陸の諸国で構成する汎アメリカ主義の
 会議だった。
  兄貴分のイギリスの排除の第一歩が・・始まった。
  当然、アメリカの主導的立場が明確になって行った。
  アメリカにとっては、自国の工業化が進展したことに
 伴って、原料・食糧の供給地として、中南米地域を重視
 しなければならない状況となった(自分の都合から)。
  この南米大陸は、イギリスが、強い経済的関係を有し
 ていた。
  その為、アメリカは、残された地・カリブ海域の経済
 関係を強くする事から始めた・・
  カリブ海域との関係を持ちたいとした。
  アメリカは、「自国の裏庭的関係国」と位置づけるカ
 リブ海政策を展開した。
  セオドア=ローズヴェルト大統領(日本との第二次世
 界大戦を始めたフランクリン・ルーズベルトの叔父)に
 よって進められた(やることは一緒だった)。
  アメリカは暴力を用いた(この叔父にしても、この様
 な手段を用いた)。
  アメリカ=スペイン戦争によるキューバの保護国化、
  そして、テキサス・カリフォルニア・ニュージニアな
 どをメキシコから奪った方法と同じ方法で、パナマ運河
 獲得などを実現して行った。
  (パナマ国の分離・独立、そして、アメリカの利権獲
 得)
  みんな、自分・アメリカに都合の良い『奪い取り』だ
 った。
  アメリカは、棍棒外交の強引な手法を用いた。
  (参考)棍棒外交:(こんぼうがいこう、こん棒を持
    つごとく、強引な砲艦外交をちらつかせて行う)
  しかし、これも、当然、次第に通用しなくなった。
  アメリカは、よく民主主義を根付かせるためだという
 が・・、偽善の正義を掲げるが・・??
  『こん棒で殴りながら民主主義を説く』という自分勝
 手なやり方・論理で、嘘っぽい論理でやるアメリカだっ
 た。
  この逆を、もし、アメリカがやられるという事を、ア
 メリカは考えたことがあるのか?
  アメリカより強い相手国が、『自分勝手な擬似正義を
 を掲げて』、アメリカへ暴力を行使して来たら・・アメ
 リカは、それを、受け入れられるのか・・?
  一方的に・・正義なんだからと、言われる状態を・・
 受け入れられるのか?
  また、アメリカは、このやり方を『一種の侵略行為』
 であると自覚していないところに・・悲劇があった。
1889年10月4日、大阪天満紡績会社の職工が集合したが、警
 察の出動により説諭され、解散した。
1889年10月4日、日本法律学校が設立された。
  日本法律学校(にほんほうりつがっこう)は、日本の
 法律を研究し、国運の増進をはかる目的として設置され
 た私立法律学校。
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援して、日本法律学校(現:日本大学)は設立
 された。
  山田顕義(やまだあきよし)は、長門国出身。
  吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後
 の門下生となる。
  25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。
  その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才で
 ごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との
 名言がある。
  岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポ
 レオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを
 確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。
  約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格とな
 る明治法典を編纂した。
1889年10月7日、海軍旗章条例(旭日旗が軍艦旗となる)
  海軍旗章条例により、それまで日章旗であったものが
 旭日旗に統一された。
  この時、この条例で、軍艦の標識として、艦艇の後部
 に掲げられる「軍艦旗」とされた『十六条旭日旗』は、
  「聯隊軍旗」と呼ばれ、
  1874年に、日比谷操練場で、日本陸軍近衛第一・第二
 各聯隊に、天皇陛下から授けられた旗だった。
1889年10月8日、逓信大臣・後藤象二郎が、条約改正問題を
 以て国家の不利とし、反対の旨を奏上した。
1889年10月11日、枢密院議長・伊藤博文が、大隈外相の条
 約改正案に反対して辞表を提出し、閣内では、後藤逓相
 (ていしょう)らが強く反対した。
  1889年10月15日の御前会議でも決着がつかず、
  1889年10月24日、黒田清隆首相は、大隈を除く閣僚と
   ともに辞表を提出するに至った。
  1889年10月25日の翌日、首相の辞表は受理されたが、
   他閣僚の辞表は却下された。
    そして、内大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)
   が、兼任首相となり、
    条約調印延期などの後始末にあたり、
  1889年12月24日、この日に成立した山県有朋(やまがた
   ありとも)内閣に引き継いだ。
1889年10月12日、第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  築町の俵物役所跡にルネサンス様式で洋風煉瓦造2階
 建のモダンな第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  沿革・・、
  1870年(明治3年)1月、協力社が設立された。
  1872年(明治5年)1月2日、合資会社「永見松田商社」
   を開業。
  1872年11月9日、「立誠会社」と改称。
  1875年(明治8年)9月15日、立誠会社を株式組織に。
  1877年(明治10年)5月16日、国立銀行願書を提出。
  1877年9月2日、国立銀行条例に基づき、「第十八国立
   銀行」として設立。
   資本金:16万円。初代頭取:永見伝三郎、支配人:
   松田源五郎、役職員:頭取以下21名。
  1877年12月20日、開業。
  1878年(明治11年)1月4日、開業式。
  1885年(明治18年)7月、政府紙幣5万円の下付を受け、
   洋銀買い付けを開始。
  1885年9月、洋銀鑑定人を採用。
  1886年(明治19年)3月1日、貯蓄預金業務の取り扱い
   を開始。
  1889年(明治22年)5月8日、東濱町(東浜町)の大火
   で本店が類焼。
  1889年10月12日、築町の俵物役所跡地に本店の新社屋
   が完成。
  1889年12月1日、本店を東浜町から移転。
  1897年(明治30年)7月1日、普通銀行に転換、「株式
   会社十八銀行」に改称し、営業を継続。(資本金100
   万円)
  1907年(明治40年)1月、株式の大暴落に端を発し、市
   場は混乱、金融界もその大打撃を受け、各所で取り
   付け騒ぎが起こる。
1889年10月13日、富山県魚津で米騒動が起きた。
  この年は、凶作で、
  1890年に入ると米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で貧民が救助を要求して騒動を
   起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけ、鳥取市、新潟県下、下関市、
   高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
   最大のものは、佐渡相川の暴動(6月28日~7月5日)
   で、鉱夫ら約2000人が蜂起(ほうき)し、軍隊が出動
   した。
   その後、福井、愛媛、宮城などの各県下にも騒動が
   起こった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカの・・常套手段・・
.
1820年代、アメリカの『メキシコ領土の奪い取り』
  アメリカのメキシコ領の奪い取りは、1820年代に始ま
 った。
  この頃、アメリカの公使として赴任したジョエル・ポ
 インセットは、卑劣な事に・・盛んに任地で、メキシコ
 政府に反駁する『反政府勢力を育てた』。
  まったく卑劣である・・後に自分のものにするために
 『政府転覆勢力を育てるのである』。
  この様なやり方は・・アメリカの常套手段だった。
  そして、メキシコの領土の方針が2つになったら、アメ
 リカが出て来る。
  アメリカは、その国が割れた状態にして、介入する。
  そして、植民地にする。
  この様なやり方をする。
  この状況を知ったメキシコ政府は、当然、怒って彼を
 追放した。
  しかし、アメリカは、懲りずにメキシコ領である『テ
 キサスの独立を企んだ』。
  そして、「独立を叫ぶアメリカからの開拓民」が、メ
 キシコ政府軍と戦い始める。
  そして、テキサス共和国として独立させる。
  そして、その9年後の・1845年に、奴隷制度を認める南
 部の一州・テキサスとして「アメリカに併合してしまう」。
  テキサス独立戦争(1835年から1836年)・・これは美
 しい表現の仕方・・策士・アメリカが、メキシコの領土
 を自分のものにして行く過程の暴力行為(戦い)である・・、
  アラモの砦の戦いは、アメリカからの開拓民の部隊が、
 サンアントニオ(テキサス州南部の都市)のキリスト教
 会に立てこもり、約3000のメキシコ政府軍(サンガ・ア
 ナ軍)と戦って全滅した戦い。
  アメリカは、この戦いを、当然、賛美した・・隣国の
 領土を奪うという下心の戦いを・・アメリカ国民の方々
 へのごまかしに・・「この悲劇の戦い」を使って行く・・、
  1836年2月23日から、アラモの砦となった教会に立て籠
 もった。
  指揮官はウィリアム・トラビス。
  また、伝説的英雄のデビー・クロケットらの部隊は、
 この年・1836年3月6日までに、非戦闘員を除く187人全員
 が戦死し・・陥落した。
  『アラモを忘れるな』は、以後、合言葉となった。
  1848年、アメリカは「尊厳を傷つけられた」という
 『名目』でメキシコに攻め入った。
  そして、カリフォルニアやアリゾナなどのメキシコの
 領土を奪った。
  メキシコは、国土の半分以上を奪われた。
  国土の52パーセントもの地域を賠償金だと「賠償金代
 わり」に、アメリカに奪われた。
.
1944年12月、報告書「米コミンテルン概略」が作成された。
  アメリカ大統領ルーズベルトの闇の情報屋と成り下が
 っていたFBIのフーバー長官は・・、
  「ホワイトハウス高官にソ連のスパイがいる」という
 情報を掴(つか)み、合法、または、非合法を問わず捜
 査を続けた。
  そして、ソ連が、アメリカに大掛かりなスパイ網を構
 築している事実を掴んだ。
  そして、この日、報告書「米コミンテルン概略」を作
 成した。
  アメリカ政府内部にも『ソ連情報網』があった。
  戦争中なので同盟国(ソ連)との関係悪化を懸念し、
 その配慮から、大袈裟にされずに済まされた。
  そして、そのソ連情報網の行なっている事は、「単な
 る情報収集」だけでなく、「アメリカの政策に如何に影
 響を与える」かを重視していた。
.
1945年、マッカーサーは日本語を無くそうとした。
  占領政策で、何でもできるという増上慢の上の行動だ
 った。
  グローバル化で英語だと来た。
  すでに、フィリピンで『実験済み』だが?
  フィリピンでも、大分、苦労し、もめめたが?
  フィリピンの方々は・・母国語を「もぎ取られる苦痛」
 を味わった。
  思考そのものが、酷(ひど)い状況になった。
  不慣れな、不器用な言葉の使用を強いられ、がんじが
 らめに縛(しば)りつけられている感じとなった。
  言うことが、一度で伝わらない世界、それも、中々、
 十分に理解してもらえない「もどかしさの中」に住む・・
 という悲しさがあった。
  高度な意見交換なんてできない。
  毎日、毎日、お天気の話のレベル。
  日本人は、漢字文化を、中国から導入して・・、
 平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)も自ら発明し、
 2000年の歳月をかけて磨いて来た現在の日本という世界
 に例を見ない言語。
  語彙は豊富だし、表音文字・表意文字と、豊富な語彙
 の中で深化した思索が行われ・・出来た。
  英語で代替できる訳がない。
  今、持っている良品質な質を劣化できるわけはない。
  1例として、あまたある一字一字に意味のある漢字の
 代替英語が有るのならば、示して戴きたい。
  漢字なら一字で済むものを、どんだけ長い英語の言葉
 で説明しなければならないかを思い知るだろう。
  「5・7・5・7・7」の短歌が、日本には有るが、英語
 には、この31文字で「一つの意味の単語」があるという
 から劣悪さであるから驚く。
  31文字をアルファベット文字で順列組み合わせをしな
 ければ、意味が表現できないという単語の存在の悲しさ
 の中にある・・という・・劣悪さなのである・・
  表音文字(表意文字ではない悲しさ)の数列・順列の
 英語はここまで行かないと、一つの単語が出来ないとい
 う悲しい事例の話なのである。
  表音文字と表意文字がある優れた日本語、それも、表
 意文字も数種類あるという世界一の素晴らしさだ。
  日本語で言えば・・平仮名の羅列の表音文字だけの英
 語が優れている訳がない。
  厚い英語の本を読んでいるからっと言って・・すごい
 話ではない・・平仮名の厚い絵本を読んでいる様なもの・・、
  こんな優れた日本語を、占領政策をしたアメリカのマ
 ッカーサーは、日本語を無くして英語化しようとしたと
 いうから・・愚かしい事をしてばかりいる状況だった。
  愚民化政策だった。
.
1946年2月11日、秘密にされていた『ヤルタ協定』の全文が、
 やっと発表された。
  臆面もなくこの様な卑劣な事をする・・民を愚弄(ぐ
 ろう、人をばかにすること)している。
.
1946年4月9日、GHQは、日本の総選挙の投票・開票は、
 アメリカ軍が監視すると発表した。
.
1946年4月、日本の工業力を根こそぎ破壊する案、『敗戦国・
 日本への懲罰案』が提出された。
  ポーリーの「日本の懲罰事項などを記した報告書」が、
 正式に、トルーマン大統領に出された。
  敗戦国の経済問題を担当する『経済安全保障政策局』
 の局長だった経済学者のジョン・K・ガルブレイスは、
 エドウィン・ポーリーが懲罰的になっている状態・・、
  ある部下の言いなりに、懲罰的になっているのに我慢
 がならなかった。
  事前に見せられた草案は、日本の工業力を根こそぎに
 するものだった。
  ガルブレイスは、爆弾で破壊され、荒廃した日本の都
 市を見るにつけ、
  その上、そんな懲罰を加えることは耐えがたいと義憤
 に駆られていた。
  このポーリーという人物は、大手石油業者で、民主党
 への資金集めの功績と、トルーマンの個人的つながりを
 誇っていた男で、
  ルーズベルトの死の15日後、後継大統領となったトル
 ーマンが、連合軍委員会のアメリカ代表に、前任者のル
 ービンを排して、新たにポーリーをアメリカ代表に任命
 していた。
  ガルブレイスは、ポーリーを説得しようと思い、ある
 夜、ポーリを訪ね、説得した。
  「日本人だって何か着なければならないだろうから、
 繊維工業は除外しましょう」と言った。
  次に石油、そして、肥料工場というように進めた。
  「実に、骨の折れるものだった」と、ガルブレイスは
 言う。
  1946年4月、ポーリーの報告書は、正式にトルーマン大
 統領に提出された。
  ガルブレイスによって内容が弱められたが、まだまだ、
 厳しい内容であることに変わりはなかった。
  日本の占領政策を実質的に仕切るマッカーサーは、結
 局、その実施を渋った。
  時が移り、そのうち、その報告書は忘れ去られた。
  ポーリー報告書が実施されないまま、1948年3月、スト
 ライク使節団が新たな報告書を出した。
  そして、さらに、陸軍時間のウィリアム・ドレイバー
 が、別の報告書をまとめた。
  賠償額は、そのたびに減り、最終的にポーリー案の10
 分の1になった。
.
1946年5月、フ-バー元アメリカ大統領は、この時、来日し、
 日本の人々への食糧の配給が、ちゃんと行なわれている
 かどうかを検証した。
  そして、マッカーサーと、三日間にわたって断続的に
 会った。
  そして、「この戦争は誰がしたのだ」「あの狂気の男
 (ルーズベルト)だ」と二人は同じ見解だった。
.
1946年12月16日、GHQが、日本の国家予算の編成・実行・
 修正は許可が必要だと指令した。
.
1948年7月、アメリカ軍・GHQは、日本に圧力をかけて
 「紀元節」を廃止させた。
.
1950年代、アメリカで、『黒人差別立法』が改められるこ
 となく、黒人の方々を、相変わらず苦しめていた。
  南北戦争(北軍の代表のリンカーンだという、黒人の
 方々の解放者だとプロパガンダ(嘘宣伝)されている大
 統領と、アメリカ南部の南軍の戦い)が終わっても・・、
  なお、アメリカでは、北部でも南部でも、黒人の方々
 に対する蔑視は続いていた。
  19世紀末から20世紀初頭は、特に、卑劣なアメリカ社
 会で、人種分離政策が『合法的』に進められていた。
  この様な差別は、今・現代の21世紀社会でも、アメリ
 カで続いている。
  本当に、唾棄すべきアメリカ社会である。
  交通機関やレストラン、学校等の公共機関で、白人と
 黒人を分離するものや、
  (例えば1例、バスの前の席は白人専用の特等席で、
 黒人の方々は座ってはいけないとされた・・など)
  このほか、この様な差別行為が影響し、就学率が低く
 なってしまう黒人の方々が・・また、蔑視され、
  また、投票権を、事実上、制限されたり・・
  (卑劣な事に、アメリカ白人たちによる、黒人の方々
 の投票率が低くなるような法律が、色々と作られた)
  (黒人の方々への差別を「あらゆるいやらしい法律」
 を立法して行ない、次々と、悪法をつくったりした)
  何と、住宅を制限することも合法とされていた。
  全米黒人地位向上協会は、これらの差別に立ち向かっ
 た・・が・・、
  アメリカの北部を含む諸地域における黒人差別立法は、
 1950年代になっても改めることが出来なかった。
  その様な状況を変えようと、また、酷い状況に我慢で
 きなくなった黒人の方たちは・・、
  1950年代に入ると、差別を無くし、人間としての尊厳
 を取り戻すための闘いである『公民権運動』を展開して
 行った。
  しかし、キリスト教に洗脳された根強い人種差別の意
 識があるため、
  中々、黒人の方々をはじめ、有色人種に対する差別観
 を、アメリカ社会からぬぐう事は出来なかった。
.
1952年、移民国籍法が制定された。
  それでも、相変わらず、日本人は、自由にアメリカに
 移民は出来なかった。
  アメリカでの移民国籍法(すべての人種に帰化権を申
 請する資格を認めた法律)が制定されるまで、アメリカ
 は、日本人を含むアジア人や有色人種に対して冷たかっ
 た・・が・・、
  しかし、この法律が出来ても、移民数の割り当て規定
 が有り、移民と帰化は制限されたままであった。
  1965年の大改正(ハート=セラー法)は、出身国割り当
 て制限を撤廃し、西半球出身者と東半球出身者という大
 まかな枠で移民の数を決めることとし、
  特別な技能を持った人材を積極的に受け入れる姿勢に
 転じた。
  1986年の改正は、偽装結婚による永住権取得を困難に
 するもの。
  2001年9月11日の同時多発テロ以降は、移民を厳しく
 制限しようとする議論が巻き起こり、
  『テロリズムを摘発し阻止するため適切な手段を提供
 することによりアメリカを団結させ強化する法』(愛国
 者法)による修正が加えられた。
.
1955年12月、人種差別の国:アメリカ・アラバマ州モント
 ゴメリーで、仕事帰りに、バスの白人席に座っていた黒
 人女性のローザ・パークスさんが、混雑したバスで、白
 人に席を譲らなかったために・・『逮捕』された。
  バス運転手の命令により、しぶしぶ白人に席を譲った
 同乗の黒人の人達に対して、差別待遇に抗議心を持って
 いたパークスさんは動かなかった。
  アメリカでは、この様な些細なことで黒人の方々は逮
 捕されていた。
  この事件をきっかけに、黒人のマーティン・ルーサー・
 キング氏を中心に、黒人の方々の「バス・ボイコット運
 動」が起きた。
  初めは、パークスさんの裁判の日のみの予定だったが、
 ビラの配布や新聞記事によって、それが成功を収めると、
  キング氏は、運動の継続を決めた。
  黒人の方々は、徒歩や車に同乗して通勤した。
  町中のバスは空っぽになった。
  バス会社の収益はがた減りとなり、差別政策に反対す
 る世論も後押しして、
  ついに、1956年11月、「バスの人種差別は違憲」とす
 る最高裁判決が下された。
  遅れたアメリカ社会を象徴した判決だった。
  約1年に及ぶ運動は、黒人の方々へ、当然の勝利をもた
 らした。
  この運動から、キング氏による公民権運動が始まった。
  キング氏は、インドのガンジー師を尊敬していた。
.
1961年、この年のアメリカの風景、
  アメリカは、町に、サーカスがやって来て、仮設のテ
 ントを張って興行をする。
  そんなに、いつもあるという訳ではないので町中の人
 たちが見に行く。
  こういう時は、アメリカ人は家族中で行く。
  特に、子供連れで行く。
  こんな、サーカスの仮設テント、ここでも、黒人の方
 たちは、片隅の区切られた席に追い込まれていた。
.
1961年、アメリカは、この年になっても、黒人の方々に差
 別をしていた。
  アメリカは、黒人の方々を何百年もの昔に、奴隷とい
 う非人道的行為によって、アフリカから連れて来て以来、
 黒人の方々への差別を、人種差別を・・し続けている。
  この1961年のアメリカのテネシー州の町・ブラウンズ
 ヴィルの記録があるが、黒人の方々へ選挙権を与えてい
 ない。
  この町の人口は、5000人とも言われ、また、1万1700人
 とも言われている。
  その理由は、黒人の方々へ選挙権も与えず、人口把握
 もされてないから・・、卑劣な状態・・、
  セグリーゲショニスト(黒人差別派)の言葉・・
  「○○さんが、ニグロと一緒に、わざわざ、同じテー
 ブルで食事をさせるのは馬鹿げたことだ」、
  「二グロの方じゃ白人と一緒に、ご飯を食べたって、
 シャチこばって、目を白黒さえせるばかりで、おいしい
 とも何とも思いませんよ」・・と・・、
.
1961年、アメリカのテネシー州のブラウンズヴィルへ行く
 機会があり、バスで行くと、停留所の食堂の裏側に暗い
 穴倉の様な入り口があり、
  そこに「カラード」と黄色い殴り書きのペンキの文字
 が、
  そこは、黒人差別されたトイレだった。
  当然、白人用は食堂内にある。
  そして、テント・シティーの事を口に出したら、案内
 をしてくれている人が、「テント・シティーなんて、そ
 んなことを、君はいったい誰から聞いた」と息巻いて言
 った。
  「知り合いが・・」と答えると、
  「あれは黒ん坊が勝手にやっている事だから、俺たち
 は知らんさ」と言った。
  テント・シティーは、選挙の時に、選挙人登録に行っ
 た黒人たちが、町から追放され、
  やむなく、自分たちでテントを張って暮らして居る村
 だった。
  そして、さらに、「彼等には、それだけの能力がない
 からさ」と、選挙権を渡せない理由を言った。
  そして、「我々は、できるだけ彼等に教育を与えて、
 他の都会へ行ってもらいたいだけさ」と、黒人の分散政
 策をとっている事を言った。
  そして、言った、「ところが、彼等は働かん、1日働く
 と2日休む。
  それじゃ、どこへ行っても駄目さ」・・と。
  そして、この案内人の知る黒人の家に行って驚いた。
  10畳ほどの板の間に椅子が二脚、それきり。
  日本の場合、貧乏な生活でも、わけの分からぬ「ぼろ
 ぼろのもの」が部屋中に満ちている。
  しかし、ここは、それを通り越して、一体どうやれば
 取り散らかすことが出来るかと考え込んでしまうほど、
 部屋の中には、物が、何一つないのだ。
  逆に、貧しい清潔さと言える・・と思った。
.
1972年6月17日、ウォーターゲート事件の発端が起きた。
  この事件で、アメリカ大統領のリチャード・ニクソン
 が辞任するという事件だった。
  しかし、この話にルーズベルトが出て来た。
  ウォーターゲート事件とは、1972年6月にワシントンD.C.
 の民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカ
 の政治スキャンダル。
  1974年8月にリチャード・ニクソン大統領が辞任するま
 での盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、
 事件報道、上院特別調査委員会、録音テープ、特別検察
 官解任、大統領弾劾、大統領辞任のすべての経過を総称
 して「ウォーターゲート事件」という。
  お粗末なアメリカというハレンチな事件だった。
  事件は、1972年の大統領選挙戦のさなかに、当時のニ
 クソン共和党政権の野党だった民主党本部があるウォー
 ターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、何者かが盗聴
 器を仕掛けようと侵入し警備員に発見されて警察に逮捕
 されたことから始まった。
  やがて、犯人グループが、ニクソン大統領再選委員会
 (CREEPまたはCRP)の関係者であることが分かり、当初、
 ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事
 件と政権とは無関係」との立場を取ったが、ワシントン・
 ポストなどの取材から次第に政権内部がこの盗聴に深く
 関与していることが露見した。
  さらに、事件発覚時に捜査妨害ともみ消しにホワイト
 ハウスが直接関わり、しかも、大統領執務室での会話を
 録音したテープが存在することが上院調査特別委員会で
 わかった。
  このテープ提出の拒絶や、事件を調査するために設け
 られた特別検察官を解任する(そのため司法長官と次官
 が抗議辞任)など、明らかな司法妨害が政権よりなされ
 た。
  こうした不正なニクソン政権の動きに世論が猛反発し、
 やがて、議会の大統領弾劾の動きに抗しきれなくなって
 アメリカ合衆国史上初めて、大統領が任期中に、辞任に
 追い込まれ、2年2ヶ月に及んだ政治の混乱が終息した。
  ニクソン大統領から指示され、盗聴行為を行なってい
 たのがFBI(連邦捜査局)だった。
  しかし、FBIを調査したアメリカ上院情報特別委員
 会は、徹底的に、FBIを調査した。
  過去にさかのぼって調査すると、「ルーズベルトのボロ」
 が出て来た。
  ルーズベルトは、自分の部下が、信じられなくて、何
 と側近のホプキンズを盗聴するように命じていた。
  しかも、このルーズベルトの盗聴は、徹底的になされ
 ているという、完全に部下を信じてないという盗聴数だ
 った。
  「人間には原罪がある」とするキリスト教を深く信仰
 するキリスト教徒のルーズベルトが、
  「人が信じられないとするキリスト教の大統領」が、
 やりそうな、悪意ある盗聴行為だった。
  側近として、身近で一緒に仕事をする人を信じられず、
 疑(うたぐ)り深く接するルーズベルトだった。
  例えば、ルーズベルトの盗聴指示の徹底ぶりは、1941
 年1月、この側近のホプキンズが、イギリスへ行くという
 「海外の行為」にまで盗聴させた。
  この時は、ホプキンズが、ルーズベルトが、第二次世
 界大戦へ参戦する予定だと、イギリス首相のチャーチル
 へ、ルーズベルト大統領代理で、赴いたときにも行われ
 ていた。
  ロンドンのクラリッジホテルでの会議や夕食会、そし
 て、イギリス代表団のグループが、ホテル内のカフェで
 ルーズベルト大統領の事を話題にしていたことも、その
 様な何気ない会話の一部始終までもが、FBI捜査官に
 よって盗聴されていた。
  ルーズベルト大統領は、「FBIたちが十分監視して
 いることを知り、満足した」と言った、意思表示した。
..
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