北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい › (増補版)128D1/3:気になった事柄を集めた年表(1673年~1677年)
2015年06月10日
(増補版)128D1/3:気になった事柄を集めた年表(1673年~1677年)
題:(増補版)128D1/3:気になった事柄を集めた年表(1673年~1677年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1674年、交通政策:江戸伝馬町と五街道の宿駅の救済のた
め、幕府は、約14万貫を貸与した。
1674年、交通:人馬賃銭を改定した。
1674年、経済:両替比率
寛永通宝4貫=金1両の比価を守る事を命じた。
1674年、江戸市中の非人を改めた。
1674年、この年から延宝4年にかけて、淀川と大和川の下流
部に大水害が起きた。
1674年、西山宗因(にしやまそういん、連歌師・俳人)が、
「蚊柱百句(かばしらのひゃっく)」を刊行し、
貞門(ていもん、松永貞徳を師とする俳諧の一派)が
論難書「しぶうちわ」を出し、これを論難した。
宗因の門下に井原西鶴が居る。
1674年、出版:関孝和が、「発微算法(はつびさんぽう、
代数の書)」を刊行した。
孝和は、算木を使う方法を止めて、紙に文字係数の連
立多元高次方程式を書き表す方法を工夫し、それを使っ
て、遺題の解答法を示したのが本書。
未知数を消去して、一元高次方程式に導き、解答を得
る方法を示した。
孝和は、和算の歴史の中に居る先達の遺題の解答集を
作って来ていた。
この本によって、孝和は世に知られるようになった。
孝和が、これによって和算を高等数学へと高めて行っ
た(高等数学への第一歩)。
1674年11月4日、狩野探幽(かのうたんゆう、絵師)が没し
た(1602年~1674年)。(10月説あり)
狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として京都に生ま
れた。
雪舟に学んだ。
1612年に、駿府で徳川家康に謁見し、幕府の御用絵師
になる(1617年)。
江戸城・二条城・名古屋城などの公儀の絵画制作に携
わったほか、
大徳寺・妙心寺などの寺院の障壁画も制作した。
探幽の作品に、重要文化財は多数あるが、国宝は見当
たらない。
1675年、阿部忠秋(あべただあき、老中)が没した(1602
年~1675年)。
知恵伊豆と言われたこの人の逸話の一つに・・、
「石を投げて鴨を飛び立たせてみよ」と家光の言葉に、
小姓たちは、そばに石が無かったので、魚屋の蛤をもっ
て石の代わりにした。
その話を聞いた忠秋は、「代金は支払ったのか」と聞
いた。
支払ってない事を知った忠秋は、「魚屋は、上様のお
役に立てたことで満足であろうが、また、名誉を感じた
だろうが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。
町人に損失を与えては御政道の名折れである」と諭し、
代金を魚屋の所へ持って行かせたという。
1675年3月、関東に令して鉄砲の私蔵を禁止した。
1675年、開発:小笠原諸島
幕府が、小笠原諸島の開発を計画した。
そして、長崎の人・嶋谷市左衛門に命じて、本島を巡
航させた。
因みに、小笠原諸島は、1876年(明治9年)に、国際的
に日本領土と認められている。
1675年、前年に引き続き、諸国が飢饉となる。
1675年、福祉:飢民に救米
大和・摂津・河内の飢民に救米を給付した。
1675年、令:永年季(譜代)を許す。
飢饉につき、奉公人の永年季・譜代を許した。
1675年、芸術:俳諧
この頃、西山宗因の談林派俳諧が盛ん。
1675年、レーマー(デンマーク)が、光の速度。(1676年
説あり)
1676年、諸国堤防決潰地の巡察使
幕府が、諸国の堤防決損地を巡視した。
1677年、大岡忠相(おおおかただすけ)が生まれた(1677
年~1751年)(1752年に没した説がある)
役職:江戸幕府書院番→目付→山田奉行→普請奉行→
江戸南町奉行→寺社奉行兼奏者番
奏者番(そうしゃばん)は、大名や旗本が年始・五節
句などに将軍に謁見するとき、その姓名の言上、進物の
披露、将軍からの下賜品の伝達などをつかさどった役。
1677年2月、金貨鋳造する。
1677年、郡上騒動(ぐじょうそうどう)
美濃郡士藩と農民が、年貢増徴反対の一揆を起こした。
美濃国(岐阜県)郡上藩に起きた、家中対立に絡む、
農民騒動。
藩主は幼少で、家中が2派に分かれた。
藩財政立て直しをするための年貢増徴派の政策に、農
民が、江戸の藩主に直訴した。
訴えを入れようとする国家老らの反増徴派との対立が
深刻化した。
1679年正月に、増徴派による国家老暗殺計画を知った
数百人の農民が集結。
この対立は、1683年まで続き、処罰者を61名出し、喧
嘩両成敗で終わった。
1677年、大久保忠朝(おおくぼただとも)が、老中となる
(1632年~1712年)。
1677年、井原西鶴が、大阪生玉本覚寺で、一昼夜に俳句を
1600句を作った。
1677年、出版:菱川師宣(ひしかわもろのぶ、最初の浮世
絵師)(1618年~1694年)
菱川師宣画の絵本「江戸雀(えどすずめ)」が刊行さ
れた。
地方から江戸へ出て来た人のための実用的な「江戸見
物の案内書」、詳細な道順まで記してある。
当時の風俗を知る上で貴重な資料となる、また、江戸
の最も古い地史としても重要。
1677年、幕府領の総検地
畿内・近国の幕領の総検地を始めた。
1677年、ロシア・トルコ戦争が起きた(露土戦争、ろとせ
んそう)。
16世紀後半から19世紀にかけて、ロシアとオスマン・
トルコ帝国との間で、11回、戦われた。
最初は、1552年~1556年に、戦われ。
2回目が、1677年~1681年に戦われた、、ロシアの南下
策は、一時、止まっていたが、 17世紀後半になると、戦
争が、また、始まった。
この時、ロシアは、ポーランドと組んで戦い、ウクラ
イナ地方からトルコ勢力を一掃した。
11回目の最後の戦争は、1877年~1878年に戦われ、こ
の戦いで敗れたトルコは、1878年に、サン・ステファノ
条約を締結して講和した。
しかし、この条約に、イギリス、オーストリアが反対
した。火種は残り、イギリス、フランスの帝国主義的な
利益獲得の欲にかき回されて行く、そして、第一次世界
大戦の一因となって行く。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1674年、交通政策:江戸伝馬町と五街道の宿駅の救済のた
め、幕府は、約14万貫を貸与した。
1674年、交通:人馬賃銭を改定した。
1674年、経済:両替比率
寛永通宝4貫=金1両の比価を守る事を命じた。
1674年、江戸市中の非人を改めた。
1674年、この年から延宝4年にかけて、淀川と大和川の下流
部に大水害が起きた。
1674年、西山宗因(にしやまそういん、連歌師・俳人)が、
「蚊柱百句(かばしらのひゃっく)」を刊行し、
貞門(ていもん、松永貞徳を師とする俳諧の一派)が
論難書「しぶうちわ」を出し、これを論難した。
宗因の門下に井原西鶴が居る。
1674年、出版:関孝和が、「発微算法(はつびさんぽう、
代数の書)」を刊行した。
孝和は、算木を使う方法を止めて、紙に文字係数の連
立多元高次方程式を書き表す方法を工夫し、それを使っ
て、遺題の解答法を示したのが本書。
未知数を消去して、一元高次方程式に導き、解答を得
る方法を示した。
孝和は、和算の歴史の中に居る先達の遺題の解答集を
作って来ていた。
この本によって、孝和は世に知られるようになった。
孝和が、これによって和算を高等数学へと高めて行っ
た(高等数学への第一歩)。
1674年11月4日、狩野探幽(かのうたんゆう、絵師)が没し
た(1602年~1674年)。(10月説あり)
狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として京都に生ま
れた。
雪舟に学んだ。
1612年に、駿府で徳川家康に謁見し、幕府の御用絵師
になる(1617年)。
江戸城・二条城・名古屋城などの公儀の絵画制作に携
わったほか、
大徳寺・妙心寺などの寺院の障壁画も制作した。
探幽の作品に、重要文化財は多数あるが、国宝は見当
たらない。
1675年、阿部忠秋(あべただあき、老中)が没した(1602
年~1675年)。
知恵伊豆と言われたこの人の逸話の一つに・・、
「石を投げて鴨を飛び立たせてみよ」と家光の言葉に、
小姓たちは、そばに石が無かったので、魚屋の蛤をもっ
て石の代わりにした。
その話を聞いた忠秋は、「代金は支払ったのか」と聞
いた。
支払ってない事を知った忠秋は、「魚屋は、上様のお
役に立てたことで満足であろうが、また、名誉を感じた
だろうが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。
町人に損失を与えては御政道の名折れである」と諭し、
代金を魚屋の所へ持って行かせたという。
1675年3月、関東に令して鉄砲の私蔵を禁止した。
1675年、開発:小笠原諸島
幕府が、小笠原諸島の開発を計画した。
そして、長崎の人・嶋谷市左衛門に命じて、本島を巡
航させた。
因みに、小笠原諸島は、1876年(明治9年)に、国際的
に日本領土と認められている。
1675年、前年に引き続き、諸国が飢饉となる。
1675年、福祉:飢民に救米
大和・摂津・河内の飢民に救米を給付した。
1675年、令:永年季(譜代)を許す。
飢饉につき、奉公人の永年季・譜代を許した。
1675年、芸術:俳諧
この頃、西山宗因の談林派俳諧が盛ん。
1675年、レーマー(デンマーク)が、光の速度。(1676年
説あり)
1676年、諸国堤防決潰地の巡察使
幕府が、諸国の堤防決損地を巡視した。
1677年、大岡忠相(おおおかただすけ)が生まれた(1677
年~1751年)(1752年に没した説がある)
役職:江戸幕府書院番→目付→山田奉行→普請奉行→
江戸南町奉行→寺社奉行兼奏者番
奏者番(そうしゃばん)は、大名や旗本が年始・五節
句などに将軍に謁見するとき、その姓名の言上、進物の
披露、将軍からの下賜品の伝達などをつかさどった役。
1677年2月、金貨鋳造する。
1677年、郡上騒動(ぐじょうそうどう)
美濃郡士藩と農民が、年貢増徴反対の一揆を起こした。
美濃国(岐阜県)郡上藩に起きた、家中対立に絡む、
農民騒動。
藩主は幼少で、家中が2派に分かれた。
藩財政立て直しをするための年貢増徴派の政策に、農
民が、江戸の藩主に直訴した。
訴えを入れようとする国家老らの反増徴派との対立が
深刻化した。
1679年正月に、増徴派による国家老暗殺計画を知った
数百人の農民が集結。
この対立は、1683年まで続き、処罰者を61名出し、喧
嘩両成敗で終わった。
1677年、大久保忠朝(おおくぼただとも)が、老中となる
(1632年~1712年)。
1677年、井原西鶴が、大阪生玉本覚寺で、一昼夜に俳句を
1600句を作った。
1677年、出版:菱川師宣(ひしかわもろのぶ、最初の浮世
絵師)(1618年~1694年)
菱川師宣画の絵本「江戸雀(えどすずめ)」が刊行さ
れた。
地方から江戸へ出て来た人のための実用的な「江戸見
物の案内書」、詳細な道順まで記してある。
当時の風俗を知る上で貴重な資料となる、また、江戸
の最も古い地史としても重要。
1677年、幕府領の総検地
畿内・近国の幕領の総検地を始めた。
1677年、ロシア・トルコ戦争が起きた(露土戦争、ろとせ
んそう)。
16世紀後半から19世紀にかけて、ロシアとオスマン・
トルコ帝国との間で、11回、戦われた。
最初は、1552年~1556年に、戦われ。
2回目が、1677年~1681年に戦われた、、ロシアの南下
策は、一時、止まっていたが、 17世紀後半になると、戦
争が、また、始まった。
この時、ロシアは、ポーランドと組んで戦い、ウクラ
イナ地方からトルコ勢力を一掃した。
11回目の最後の戦争は、1877年~1878年に戦われ、こ
の戦いで敗れたトルコは、1878年に、サン・ステファノ
条約を締結して講和した。
しかし、この条約に、イギリス、オーストリアが反対
した。火種は残り、イギリス、フランスの帝国主義的な
利益獲得の欲にかき回されて行く、そして、第一次世界
大戦の一因となって行く。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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(増補版)320E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年4月~1874年5月)
(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年4月)
(増補版)318E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年3月)
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(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)
(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月~1873年12月)
(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年4月)
(増補版)318E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月~1874年3月)
(増補版)317E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年1月~1874年3月)
(増補版)316E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年12月~1874年1月)
(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月~1873年12月)
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