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2014年10月29日
気になった事柄を集めた年表 [Ⅱ]:(2014・10・28 改訂)
題:気になった事柄を集めた年表 [Ⅱ]:(2014・10・28 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1550年7月に、ザビエルが京都へ行った。アンジローは、
鹿児島に残り伝道をしたが、うまくいかず反感を買い、
鹿児島に居られなくなり中国へ逃れた。このアンジロー
は、人を殺して海外に逃れ、ザビエルが京都へ行った後、
鹿児島に残ったが、いさかいからか、鹿児島に居られな
くなり、中国に逃れ、その中国でトラブルからか中国で
もトラブルから殺害されるという、荒れた経歴から、こ
のアンジローという男の性格や素性のよからぬ姿が見え
て来る。→1年
1551年1月、ザビエルは、京都に入れたが、天皇の謁見(
えっけん)も許可されず、また、ザビエルが希望した仏
教の中心地の延暦寺の訪問もなされなかった。ザビエル
は、延暦寺の学問所を訪問したかった。
この様に、ザビエルの京都訪問は散々だった。ザビエ
ルはあきらめて京都を去った。ザビエルは、いったん、
平戸に帰り、その後、山口の大内義隆に、2度目の謁見
をし、布教の許可を得た。1度目は、義隆を怒らせ、布
教の許可は得られなかった。因みに、ザビエルは日本語
ができず、説教をする人のそばに、ただ立っているだけ
だったという。、また、ザビエルは、最初の山口の大名
の大内義隆と謁見したが、大内義隆を怒らせてしまい、
追い払われていた。→0年
1551年8月末、ザビエルは、ポルトガル船が豊後に入港し
たと聞いた。また、豊後の領主の大友宗麟からこのポル
トガル船入港についての助力を請う書状が来たので・・
1551年9月15日、ザビエルが、山口をたち豊後へ向かった。
このポルトガル船の船長は、ザビエルと知己だった。こ
の様子を見ていた大内義孝は、ザビエルを歓待し、布教
の許可も与えた。この直後の・・→0年
1551年9月28日に、山口で反乱がおこり、ザビエルが数日
前に布教の許可を貰った大内義隆と嫡子の義尊がともに
自刃(じじん)して果てた。心労と失望に苦しむザビエ
ルだった。ポルトガル船の運んで来た本国からの書信の
内容も、不穏さを増した。→0年
1551年11月15日、ザビエルが日本を去った。→1年
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東の
上川(さんちゃん)島、享年46歳。→25年
1577年、南蛮寺が京都に建った。→5年
1582年、天正遣欧使節が長崎から出発した、1584年にポ
ルトガルのリスボンに到着した。→3年
1585年3月23日、天正遣欧少年使節たちが、教皇グレゴリ
ウス13世に引見し、九州の大名の大友宗麟・有馬晴信・
大村純忠の書簡を渡した。この少年の使節たちは、旅の
途中で、日本人の女性たちが、南蛮貿易で売られている
姿をあちこちで目撃した。キリスト教に偏するNHKや放
送大学は、この件はまったく放送しない。→2年
1587年6月19日、豊臣秀吉は九州征伐中であったが、宣教
師のガスパル・コエリョに伴天連(バテレン)追放令を
突き付けた。キリスト教の禁教である。
1587年7月4日、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布した。
黒田官兵衛は、高山右近の影響を受けて、天正11年
(1583年)頃に洗礼を受けたキリシタン大名であった
が、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令すると、いち早く、
キリスト教を捨てた(キリスト教の棄教)。→5年
1592年、キリシタン大名の高山右近が、長崎で没した。
1597年2月5日、豊臣秀吉に迫害されたとキリスト教が言
う「長崎の西坂で殉教の26人」が十字架刑となる。
これは殉教ではない。
禁教令で、ほとんどの宣教師が帰国し、若しくは、長
崎に戻ったが、6人の宣教師は、法を犯して活動していた。
それだから罰せられたのだ。日本人の信徒は、その宣教
師にそそのかされて、やはり法違反行為をしていた。そ
の事により罰せられた。この6人の宣教師は、フランシ
スコ会の宣教師。日本は、ヨーロッパの様に無実の人を
残酷に殺すような事はしていない。これを、キリスト教
は、しきりに「殉教だ」「殉教だ」と嘘宣伝(プロパガ
ンダ)する。法違反者たちなのだ。ちゃんと法に従って
いた宣教師たちの安全は保たれている。ここが大切な所。
ヨーロッパの悪行為とは全く日本の場合は違うのだ。自
分たちに利があるからと、キリスト教は嘘を言うのは止
めなさい。嘘付きキリスト教を返上して下さい。長崎の
聖人像は嘘でできたものです。→3年
1600年代(17世紀)、この頃のヨーロッパでは、黒人や
インディオの方々が、猿や狒々(ヒヒ)と並んで陳列さ
れたり、裸の野蛮人として舞台の上を歩きまわらされた。
1600年、イギリスが、東インド会社を設立した、→3年
1603年、オランダが、東インド会社を設立した、→11年
1614年1月28日、家康が、キリスト教禁教令を発布する。
1614年11月7日~8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結
したキリスト教宣教師と主だった日本人信徒を乗せた船
が出港した。法に従えば、日本はヨーロッパの様に酷(
むご)いことはしなかった。しかし、法を無視して、日
本に残り潜行した宣教師が40人ぐらい居た。責任は、キ
リスト教側にある。→23年
1637年12月11日~1638年4月12日、島原・天草一揆が起
こる。これは百姓一揆。これにキリスト教が乗っかった
だけ。ほとんどが仏教徒。キリスト教はこの戦いの殉教
を声高に言うが、幕府軍も同じような死者数となってい
る。これを、おくびにも言わないで、キリスト教は『殉
教だ』『殉教だ』と嘘宣伝する。キリスト教に偏するN
HKも同様な間違ったプロパガンダ(嘘宣伝)をする。
天草四郎は実在したとの証拠がない、キリスト教宣教師
が言いふらした話。NHKもキリスト教徒が大勢死んだ
と、殉教だと、あたかもキリスト教の代弁者の様に言う。
NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし続
けている。
1638年4月12日にキリスト教徒側の原城が陥落した。
1685年、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた。バッ
ハは、ルターが勉学に勤(いそ)しんだアイゼナハで生
まれた。ルターの精神を引き継いだバッハは、その音楽
には、ルターが糾弾したキリスト教カトリックの堕落へ
の糾弾の響きがある。~1750年没、65歳。
1689年、英国議会は、信教の自由を認めた最初の「寛容法
」を採択した。それは、自分とは異なる宗教的、政治的
な見解の容認を意味した。キリスト教の教義の「異教徒
は殺せ」の完全な否定であった。相手の意見が相反する
ものでも、尊重するのは当然なのだ。キリスト教は、こ
の様な当然が無い宗教。遅れた宗教となっている。
1786年、ゲーテは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ
教会を見るためにアッシジに来たという。→68年
1789年、アメリカの初代大統領ワシントン(在任期間1789
年~1797年)は、インディアンの方々を猛獣と言い、狼
と同じだが形が違うと言った。→57年
1789年、英国の詩人ウィリアム・ワーズワースは、フラン
ス革命の報を聞くとフランスへ渡った。忌(い)まわし
い絶対王制が一掃されたと思った。反対者を投獄し、公
正な裁判も無い、議会の投票制度も無い王制が一掃され
たのだ。これは素晴らしい出来事と思った。ワーズワー
スは、それが見たかったのだった。しかし、実際の事態
は、暴徒が王の様に振る舞い、和平と和解の姿は無く、
低劣な復讐の世界だった。見せしめの裁判、そして、旧
官僚や貴族、そして王族の公開処刑が行なわれていた。
各地でギロチンが使われ、死刑執行人が、恐怖政治さな
がらに、犠牲者の首を高々と掲(かか)げ、民主主義の
欠片(かけら)も無い狂気と憎悪、政敵の無差別処刑だ
った。期待を裏切られ、恐怖におののいたワーズワース
は、フランスから逃げ出した。(以上、ポール・ケネデ
ィ氏・英歴史家、読売新聞)。これと似たこと、第二次
世界大戦後、アメリカは、日本の政治指導者を、裁くべ
き法律が無いのに、裁判らしい事を行い、日本の政治家
を死刑にした。分類上は私刑(リンチ)となる。→21年
1810年、ロシアが、ベーリング海峡からアラスカに支配権
を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政
策を進めていた。→5年
1815年、ナポレオンが失脚した。ウィーン体制始まる(大
国の勢力均衡によるヨーロッパの安定をはかる)→8年
1823年、モンロー宣言、アメリカ外交のこの後の基本方針
となった。アメリカのヨーロッパからの干渉の拒絶。意
識下に南北アメリカ大陸の支配下にしたいがあった。ア
メリカの出発点。帝国主義的下心。→23年
1846年、アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・
ネバダ・アリゾナ・ユタ・ニューメキシコ・コロラドを
狡猾な手段で手に入れた。→8年
1853年~1856年、クリミア戦争、イギリスとフランスが
トルコを援助してロシアに宣戦していた。→0年
1853年、アメリカの海軍提督のペリーが浦賀にやって来た。
日本へ開国要求。当時、世界の大国は英露の2大国であ
り、この2大国は、かつてのスペインポルトガルのアメ
リカ大陸分割の様に、ユーラシア大陸の分割をして安定
していたが、その接点回避は長く続かない緊張の中にあ
った、日本がその接点の1つになろうとしていた、その
隙(すき)をついて、アメリカが日本に接近した。→1年
1854年、中国人の証人禁止処置。アメリカで、白人が関係
する裁判において、中国人は証人になれないという侮辱
的な法律が決まった。すでに、アメリカ・インディアン
の方々にこの措置はなされていた。日本ではこの様な人
種差別の法律が通ったことは微塵もない。アメリカは遅
れた国だった。人種偏見はキリスト教から来ている。
1856年~1860年、中国でアロー戦争が起きた。4年間。
第二次アヘン戦争ともいう。外国から言い様にされてい
た中国(清)が、中国人が、外国人の排斥をし始めた。
アヘン戦争の不平等な条約に原因の1つがある。貿易独
占、徴税まで行う行為、軍艦を常時停泊して圧力をかけ
るなどなど、そして何より、アヘン貿易をし続けた非人
道的な悪がある。こんな事をするのがキリスト教徒の精
神なのか?イギリスは中国(清)を屈服させ、そして、
九竜半島を奪った。→1年
1857年、インドでセポイの大反乱が起きる。セポイはイ
ギリスの東インド会社のインド人の傭兵のこと。イギリ
スはこれを押さえつけた。→1年
1858年、日米修好通商条約。この後、アメリカが対日接
近を控えるようになるのは、英露強国に遠慮したのでは
なく、アメリカの最大の内乱・南北戦争があったから、
余裕が無かった。これが無かったら、まだ未熟な日本は、
中国の様に大国の餌食の場になった。日本の叡智はこれ
を見ていて、明治維新と共に富国強兵をまず第一とした。
1861年、ロシア軍艦対馬占領事件、ロシアの南下政策の行
動の中で起きた。日露戦争へ繋がる事件。→0年
1861年、アメリカの南北戦争。~1865年にアメリカの南
北戦争は終結した。→2年
1867年、アメリカが、ロシアからアラスカを購入した。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェイ
諸島を新領土の植民地として手に入れた。→6年
1871年~1872年(明治4年~5年)、この頃、何でも、か
んでも、「西洋に学べ、西洋に遅れを取るな」の風潮が
世を風靡した。この叫びが日本全土を駆け巡り、野火の
様に広がって行った。西洋の何も分からない時代、ただ
ただ、西洋は進んでいる、西洋から学べとなっていた。
こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト教
を良きものと盲信した。→2年
1873年、キリシタン禁制高札撤去。キリスト教は、この日
までキリスト教徒が迫害が続いたというが、これは「真
っ赤な嘘」。研究者は「17世紀には幕府はすでに黙認し
ている」と言っている。ほんの一時期の取り締まりだっ
た。刑場の柵の一部を開けて逃げることもできる様にし
てもいた「日本の穏健・温厚さ」があった。キリスト教
が言う「259年も迫害が続いた」と言うのは、よくも言
うものだの大嘘。嘘付きキリスト教。→0年
1873年(明治6年)、岩倉具視の遣欧使節団がベネチアに
到着した。→6年
1879年、アメリカのカリフォルニアの州憲法で、中国人の
参政権を拒否した。精神異常者と同様な処置とした。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。この後、
日本人が移民をしだすが、この中国人の後に、日本人が
移民をしたということが不運だった。日本人に対しても、
インディアンや中国人に対するのと同様に、『非白人』
に関する劣った種の人間との意識が根強くあった。キリ
スト教に感化された意識だった。この意識が、アメリカ
の指導者階級にまで及んでいた。ジョン・ダワーの言葉:
「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによっ
て生命は安価だというのだった」。→3年
1885年、内村鑑三は、クリスチャンの女性と巡り合い結婚
をする。しかし、わずか7か月で離婚した。鑑三はアメリ
カへ渡る。しかし、キリスト教国という期待のこの渡米
にも裏切られた。その反キリスト教的、また、反人道的
なアメリカをまざまざと見たからだった。鑑三は言う、
「これが宣教師によりキリスト教の他の宗教に勝(まさ)
る証拠なりとして教えられし文明なりや」と。宣教師が
言った「キリスト教は他の宗教より勝っている」という
のは嘘だったと思う鑑三だった。鑑三は、新渡戸稲造か
ら「高慢」とか、「利己的」とかと批判されていた。ま
た、ちなみに、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻
も23歳という若さで亡くなっている。→0年
1885年、ロシアが朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受
けようとした、朝鮮の李朝はロシアににじり寄った、日
英中はこの案を潰した。この反動でイギリスは朝鮮の巨
文島を占領した。ロシアは怒った。そして、ロシアも朝
鮮を占領すると言った。中国の仲介によってロシアの占
領がないことを条件にイギリスも占領を止めた。中国は
朝鮮への勢力圏拡大を意識していた。各国の欲の勢力圏
争いが展開した。アフリカ分割の大国の欲が展開するこ
とにもなる。日本はこの頃から、朝鮮半島から中国に手
を引かせ、朝鮮の独立のための清国との戦争を意識し出
した。この様な時、朝鮮に農民の反乱が起き、李朝は鎮
圧できなかったため、清国に出兵を要請した。日本は、
条約に基づいて、中国の出兵を認めずに朝鮮へ出兵した。
ここに日清戦争がはじまった。~1894年。→5年
1890年代、アメリカの作家のスチーブンスンは、大陸横断
鉄道建設の労務者としてアメリカに連れて来られた中国
の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「見下げ
た人種」とされて扱(あつか)われていると報告した。
また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息が
詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報告
している。→7年
1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリカ西
海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と診
断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。~
1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、こ
の父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土の
植民地として手に入れた。→1年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版さ
れた。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本で
の出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源を
仏教と神道と儒教に見い出される・・と。そしてまた、
書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末~20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・
香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の勉
強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。
1900年、ロシアが中国(清)で発生した義和団の乱の混乱
収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは満州を植民
地化することを既定事実化しようとした。日英米の抗議
によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を守らず、
逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響力をロシ
アは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山採掘権や
森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取得し影響
力を増した。日本はこれらを買い戻して回復させた。そ
して、日本は、外交的に衝突を避けようとしたが、ロシ
アは軍事力で日本への圧力を増していった。中国への外
国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が出兵した。
日本も出兵した。ロシアとドイツは日本の3~4倍の賠
償金を要求し、取った。ロシアは兵を撤兵させず、朝鮮
国境に砲台建設をしたり、シベリア鉄道の軍の輸送を開
始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期間
1901年~1909年)は、アメリカインディアンの事実上
の絶滅を支持すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
キリスト教は、大日本帝国の国家体制への癒着(ゆちゃ
く)を強めて行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
アメリカは反抗作戦を実施した。
1905年9月5日、日露戦争が終結した。この日に、ポーツ
マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
と思うのは考えすぎであろうか。
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの支
配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
史によくある人種間の対立のイメージとなった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
によって、日本の朝鮮半島と南満州の勢力範囲が合意さ
れ、また、ロシアの外モンゴルと北満州の勢力範囲が合
意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
た。→3年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦にキリスト教
国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、再臨待望者や
再臨狂を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
の土地所有権を剥奪した。→4年
1917年、ロシア革命が起きる。→7年
1924年、アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
大変、偏向した演説をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締結
され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
任期間1933年~1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本がアジアの平和に責任を負おうという考えを、
外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏が言う。
当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという事をして
いた。日本は世界の5つの大きな大国の一つになってい
た。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。→4年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
た。地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
世界大戦がはじまる。→2年
1941年8月9日~8月14日、アメリカのルーズベルト大統
領とイギリスのチャーチル首相が、海に浮かぶ戦艦上で
会談した。アメリカの参戦への要請と、対日戦争の協議
が議題だった。ルーズベルトは、アメリカ国民の世論が
戦争反対であったため、国民へはイギリスと何も約束は
していないと言った。しかし、1942年1月27日に、チャ
ーチルは、イギリス下院の演説で会談内容を暴露した。
ルーズベルトの嘘が、アメリカ国民の知るところとなっ
た。日本の近衛文麿首相が、開戦の危機打開に努力して
いたが、会談がうまく行くはずもなかった。ヨーロッパ
戦線でイギリスはドイツに負けそうになっていたので、
ルーズベルトは参戦したいと考えていた。→0年
1941年12月8日、日本がアメリカのハワイ真珠湾を攻撃し
て大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われてい
るが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行していた
潜水艦へ、機雷攻撃をし、すでに戦端は開かれおり、ま
た、このアメリカ軍艦は、この交戦事実をアメリカ司令
部へ送信し知らせている。日本の攻撃は、この様な事実
により奇襲ではなく、すでにアメリカの知るところの中
にあった。アメリカは国民世論の操作目的から、日本の
奇襲をデッチアゲたかった。→4年
1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
1945年8月30日、アメリカの最高司令官のマッカーサーが、
神奈川県厚木の日本海軍飛行場に来た。マッカーサーは、
靖国神社を焼き払えと言った、また、すべての神社も焼
き払えと言った。そして、アメリカ占領軍は、日本へ慰
安所を作れと命令した。→0年
1945年9月27日、昭和天皇とアメリカの最高司令官のマッ
カーサーの会談が行なわれた。昭和天皇が、敗戦国の国
家元首として、マッカーサーの滞在するアメリカ大使館
へ出向き会談が行なわれた。当時、戦勝国は、天皇を「
戦犯リスト」の筆頭にしていた。しかし、マッカーサー
は、天皇をもし処刑した場合の方向に進む時の不安定な
占領統治になることなどなどの危惧もしていた。マッカ
ーサーは、会談で「天皇が、敗戦国の君主がそうするよ
うに戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではな
いか」と思っていた。しかし、昭和天皇は、命乞いをす
るどころか、「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚
悟しており、私の命のすべて司令部に委ねる。どうか国
民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた
と語っている。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべき
ではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度
に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」である
と敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだっ
たが、会談が終わった時には昭和天皇を車まで見送り、
慌てて戻ったといわれる。後にも「あんな誠実な人間は
見たことがない」と発言している。→3年
1948年、イスラエルが建国される。新イスラエル国家誕生
まで流浪の民となっていた。→3年
1951年7月、大東亜戦争(第二次世界大戦)の終戦を知ら
ぬまま、南海の孤島「アナタハン島」(サイパン島の北、
北マリアナ諸島)に取り残されていた日本兵の20人が発
見され帰国した。この日本兵の一部の人の妻が、日本兵
の夫が戦死したものと思い、夫の兄弟などと再婚してい
たなどの悲劇も起きた。この一人の妻は、読売新聞の人
生案内に相談した。相談を受けた方は羽田空港まで帰還
兵を出迎え、帰還した夫に「過去を一切水に流して奥さ
んを大切にしてあげて下さい」と励ました。当時の混乱
した世相について、識者は「日本人女性を連れた米兵へ
の反感」などを述べている。多くの日本女性が、無責任
な米兵の行為に泣いていた。米兵との間に生まれ、孤児
となった子供たちを育てる施設なども出来た。それまで
と違って日本の男女のモラルは大きく破壊されていた。
→2年
1953年、GHQ(日本占領軍)最高司令官のマッカーサー
が、日本をキリスト教化したいと、国際基督教大学を、
この年に開学する。キリスト教長老派。→23年
1976年、教皇パウルス6世は、サン・ピエトロ大聖堂の墓
で、ペトロの墓を発見したと発表した。→10年
1986年4月15日、リビア爆撃が行なわれる。→2年
1988年、第二次世界大戦の頃、日本人を『JAP』と呼び、
帰化不能外国人としたり、土地所有が出来なくしたり、
「裏から忍び寄るJAPの広告」があったりの人種偏見が
あったことをアメリカは認めた。→1年
1989年、日本で、赤崎勇氏と天野浩氏が、青色LEDを開
発した。LED照明が実現した。照明の大革命。→14年
2003年、あり得る核放棄。アフリカの地・リビアの革命
指導者カダフィ。2011年に発生したリビア内戦によっ
て、その独裁政権は崩壊し、反カダフィ派の部隊によっ
てカダフィは殺害されたが、そのカダフィが、1986年
4月15日に、アメリカ軍およびイギリス軍によって攻撃
された。その背景だと言われている事は、テログループ
支援、複数の空港爆破事件の背後にいる事、西ベルリン
の爆破事件などと言われている。この時、レーザー誘導
爆弾が使われ、ピンポイント攻撃がなされた。カダフィ
は不在だったが、カダフィの子供が亡くなったと主張し
た(カダフィの死後、生存が確認された)。カダフィは、
2003年に核放棄宣言をし、査察団の受け入れもしてい
る。→11年
2014年10月24日、この日の読売新聞によると、キリスト
教の神父が減少したという理由で、キリスト教イエズス
会系(カトリック)の上智大学などを運営する「上智学
院」は、運営する学校を合併するための協議に入ったと
発表した。
今・2014年
..
(詳しくは、以下のブログへ)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1550年7月に、ザビエルが京都へ行った。アンジローは、
鹿児島に残り伝道をしたが、うまくいかず反感を買い、
鹿児島に居られなくなり中国へ逃れた。このアンジロー
は、人を殺して海外に逃れ、ザビエルが京都へ行った後、
鹿児島に残ったが、いさかいからか、鹿児島に居られな
くなり、中国に逃れ、その中国でトラブルからか中国で
もトラブルから殺害されるという、荒れた経歴から、こ
のアンジローという男の性格や素性のよからぬ姿が見え
て来る。→1年
1551年1月、ザビエルは、京都に入れたが、天皇の謁見(
えっけん)も許可されず、また、ザビエルが希望した仏
教の中心地の延暦寺の訪問もなされなかった。ザビエル
は、延暦寺の学問所を訪問したかった。
この様に、ザビエルの京都訪問は散々だった。ザビエ
ルはあきらめて京都を去った。ザビエルは、いったん、
平戸に帰り、その後、山口の大内義隆に、2度目の謁見
をし、布教の許可を得た。1度目は、義隆を怒らせ、布
教の許可は得られなかった。因みに、ザビエルは日本語
ができず、説教をする人のそばに、ただ立っているだけ
だったという。、また、ザビエルは、最初の山口の大名
の大内義隆と謁見したが、大内義隆を怒らせてしまい、
追い払われていた。→0年
1551年8月末、ザビエルは、ポルトガル船が豊後に入港し
たと聞いた。また、豊後の領主の大友宗麟からこのポル
トガル船入港についての助力を請う書状が来たので・・
1551年9月15日、ザビエルが、山口をたち豊後へ向かった。
このポルトガル船の船長は、ザビエルと知己だった。こ
の様子を見ていた大内義孝は、ザビエルを歓待し、布教
の許可も与えた。この直後の・・→0年
1551年9月28日に、山口で反乱がおこり、ザビエルが数日
前に布教の許可を貰った大内義隆と嫡子の義尊がともに
自刃(じじん)して果てた。心労と失望に苦しむザビエ
ルだった。ポルトガル船の運んで来た本国からの書信の
内容も、不穏さを増した。→0年
1551年11月15日、ザビエルが日本を去った。→1年
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東の
上川(さんちゃん)島、享年46歳。→25年
1577年、南蛮寺が京都に建った。→5年
1582年、天正遣欧使節が長崎から出発した、1584年にポ
ルトガルのリスボンに到着した。→3年
1585年3月23日、天正遣欧少年使節たちが、教皇グレゴリ
ウス13世に引見し、九州の大名の大友宗麟・有馬晴信・
大村純忠の書簡を渡した。この少年の使節たちは、旅の
途中で、日本人の女性たちが、南蛮貿易で売られている
姿をあちこちで目撃した。キリスト教に偏するNHKや放
送大学は、この件はまったく放送しない。→2年
1587年6月19日、豊臣秀吉は九州征伐中であったが、宣教
師のガスパル・コエリョに伴天連(バテレン)追放令を
突き付けた。キリスト教の禁教である。
1587年7月4日、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布した。
黒田官兵衛は、高山右近の影響を受けて、天正11年
(1583年)頃に洗礼を受けたキリシタン大名であった
が、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令すると、いち早く、
キリスト教を捨てた(キリスト教の棄教)。→5年
1592年、キリシタン大名の高山右近が、長崎で没した。
1597年2月5日、豊臣秀吉に迫害されたとキリスト教が言
う「長崎の西坂で殉教の26人」が十字架刑となる。
これは殉教ではない。
禁教令で、ほとんどの宣教師が帰国し、若しくは、長
崎に戻ったが、6人の宣教師は、法を犯して活動していた。
それだから罰せられたのだ。日本人の信徒は、その宣教
師にそそのかされて、やはり法違反行為をしていた。そ
の事により罰せられた。この6人の宣教師は、フランシ
スコ会の宣教師。日本は、ヨーロッパの様に無実の人を
残酷に殺すような事はしていない。これを、キリスト教
は、しきりに「殉教だ」「殉教だ」と嘘宣伝(プロパガ
ンダ)する。法違反者たちなのだ。ちゃんと法に従って
いた宣教師たちの安全は保たれている。ここが大切な所。
ヨーロッパの悪行為とは全く日本の場合は違うのだ。自
分たちに利があるからと、キリスト教は嘘を言うのは止
めなさい。嘘付きキリスト教を返上して下さい。長崎の
聖人像は嘘でできたものです。→3年
1600年代(17世紀)、この頃のヨーロッパでは、黒人や
インディオの方々が、猿や狒々(ヒヒ)と並んで陳列さ
れたり、裸の野蛮人として舞台の上を歩きまわらされた。
1600年、イギリスが、東インド会社を設立した、→3年
1603年、オランダが、東インド会社を設立した、→11年
1614年1月28日、家康が、キリスト教禁教令を発布する。
1614年11月7日~8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結
したキリスト教宣教師と主だった日本人信徒を乗せた船
が出港した。法に従えば、日本はヨーロッパの様に酷(
むご)いことはしなかった。しかし、法を無視して、日
本に残り潜行した宣教師が40人ぐらい居た。責任は、キ
リスト教側にある。→23年
1637年12月11日~1638年4月12日、島原・天草一揆が起
こる。これは百姓一揆。これにキリスト教が乗っかった
だけ。ほとんどが仏教徒。キリスト教はこの戦いの殉教
を声高に言うが、幕府軍も同じような死者数となってい
る。これを、おくびにも言わないで、キリスト教は『殉
教だ』『殉教だ』と嘘宣伝する。キリスト教に偏するN
HKも同様な間違ったプロパガンダ(嘘宣伝)をする。
天草四郎は実在したとの証拠がない、キリスト教宣教師
が言いふらした話。NHKもキリスト教徒が大勢死んだ
と、殉教だと、あたかもキリスト教の代弁者の様に言う。
NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし続
けている。
1638年4月12日にキリスト教徒側の原城が陥落した。
1685年、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた。バッ
ハは、ルターが勉学に勤(いそ)しんだアイゼナハで生
まれた。ルターの精神を引き継いだバッハは、その音楽
には、ルターが糾弾したキリスト教カトリックの堕落へ
の糾弾の響きがある。~1750年没、65歳。
1689年、英国議会は、信教の自由を認めた最初の「寛容法
」を採択した。それは、自分とは異なる宗教的、政治的
な見解の容認を意味した。キリスト教の教義の「異教徒
は殺せ」の完全な否定であった。相手の意見が相反する
ものでも、尊重するのは当然なのだ。キリスト教は、こ
の様な当然が無い宗教。遅れた宗教となっている。
1786年、ゲーテは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ
教会を見るためにアッシジに来たという。→68年
1789年、アメリカの初代大統領ワシントン(在任期間1789
年~1797年)は、インディアンの方々を猛獣と言い、狼
と同じだが形が違うと言った。→57年
1789年、英国の詩人ウィリアム・ワーズワースは、フラン
ス革命の報を聞くとフランスへ渡った。忌(い)まわし
い絶対王制が一掃されたと思った。反対者を投獄し、公
正な裁判も無い、議会の投票制度も無い王制が一掃され
たのだ。これは素晴らしい出来事と思った。ワーズワー
スは、それが見たかったのだった。しかし、実際の事態
は、暴徒が王の様に振る舞い、和平と和解の姿は無く、
低劣な復讐の世界だった。見せしめの裁判、そして、旧
官僚や貴族、そして王族の公開処刑が行なわれていた。
各地でギロチンが使われ、死刑執行人が、恐怖政治さな
がらに、犠牲者の首を高々と掲(かか)げ、民主主義の
欠片(かけら)も無い狂気と憎悪、政敵の無差別処刑だ
った。期待を裏切られ、恐怖におののいたワーズワース
は、フランスから逃げ出した。(以上、ポール・ケネデ
ィ氏・英歴史家、読売新聞)。これと似たこと、第二次
世界大戦後、アメリカは、日本の政治指導者を、裁くべ
き法律が無いのに、裁判らしい事を行い、日本の政治家
を死刑にした。分類上は私刑(リンチ)となる。→21年
1810年、ロシアが、ベーリング海峡からアラスカに支配権
を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政
策を進めていた。→5年
1815年、ナポレオンが失脚した。ウィーン体制始まる(大
国の勢力均衡によるヨーロッパの安定をはかる)→8年
1823年、モンロー宣言、アメリカ外交のこの後の基本方針
となった。アメリカのヨーロッパからの干渉の拒絶。意
識下に南北アメリカ大陸の支配下にしたいがあった。ア
メリカの出発点。帝国主義的下心。→23年
1846年、アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・
ネバダ・アリゾナ・ユタ・ニューメキシコ・コロラドを
狡猾な手段で手に入れた。→8年
1853年~1856年、クリミア戦争、イギリスとフランスが
トルコを援助してロシアに宣戦していた。→0年
1853年、アメリカの海軍提督のペリーが浦賀にやって来た。
日本へ開国要求。当時、世界の大国は英露の2大国であ
り、この2大国は、かつてのスペインポルトガルのアメ
リカ大陸分割の様に、ユーラシア大陸の分割をして安定
していたが、その接点回避は長く続かない緊張の中にあ
った、日本がその接点の1つになろうとしていた、その
隙(すき)をついて、アメリカが日本に接近した。→1年
1854年、中国人の証人禁止処置。アメリカで、白人が関係
する裁判において、中国人は証人になれないという侮辱
的な法律が決まった。すでに、アメリカ・インディアン
の方々にこの措置はなされていた。日本ではこの様な人
種差別の法律が通ったことは微塵もない。アメリカは遅
れた国だった。人種偏見はキリスト教から来ている。
1856年~1860年、中国でアロー戦争が起きた。4年間。
第二次アヘン戦争ともいう。外国から言い様にされてい
た中国(清)が、中国人が、外国人の排斥をし始めた。
アヘン戦争の不平等な条約に原因の1つがある。貿易独
占、徴税まで行う行為、軍艦を常時停泊して圧力をかけ
るなどなど、そして何より、アヘン貿易をし続けた非人
道的な悪がある。こんな事をするのがキリスト教徒の精
神なのか?イギリスは中国(清)を屈服させ、そして、
九竜半島を奪った。→1年
1857年、インドでセポイの大反乱が起きる。セポイはイ
ギリスの東インド会社のインド人の傭兵のこと。イギリ
スはこれを押さえつけた。→1年
1858年、日米修好通商条約。この後、アメリカが対日接
近を控えるようになるのは、英露強国に遠慮したのでは
なく、アメリカの最大の内乱・南北戦争があったから、
余裕が無かった。これが無かったら、まだ未熟な日本は、
中国の様に大国の餌食の場になった。日本の叡智はこれ
を見ていて、明治維新と共に富国強兵をまず第一とした。
1861年、ロシア軍艦対馬占領事件、ロシアの南下政策の行
動の中で起きた。日露戦争へ繋がる事件。→0年
1861年、アメリカの南北戦争。~1865年にアメリカの南
北戦争は終結した。→2年
1867年、アメリカが、ロシアからアラスカを購入した。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェイ
諸島を新領土の植民地として手に入れた。→6年
1871年~1872年(明治4年~5年)、この頃、何でも、か
んでも、「西洋に学べ、西洋に遅れを取るな」の風潮が
世を風靡した。この叫びが日本全土を駆け巡り、野火の
様に広がって行った。西洋の何も分からない時代、ただ
ただ、西洋は進んでいる、西洋から学べとなっていた。
こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト教
を良きものと盲信した。→2年
1873年、キリシタン禁制高札撤去。キリスト教は、この日
までキリスト教徒が迫害が続いたというが、これは「真
っ赤な嘘」。研究者は「17世紀には幕府はすでに黙認し
ている」と言っている。ほんの一時期の取り締まりだっ
た。刑場の柵の一部を開けて逃げることもできる様にし
てもいた「日本の穏健・温厚さ」があった。キリスト教
が言う「259年も迫害が続いた」と言うのは、よくも言
うものだの大嘘。嘘付きキリスト教。→0年
1873年(明治6年)、岩倉具視の遣欧使節団がベネチアに
到着した。→6年
1879年、アメリカのカリフォルニアの州憲法で、中国人の
参政権を拒否した。精神異常者と同様な処置とした。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。この後、
日本人が移民をしだすが、この中国人の後に、日本人が
移民をしたということが不運だった。日本人に対しても、
インディアンや中国人に対するのと同様に、『非白人』
に関する劣った種の人間との意識が根強くあった。キリ
スト教に感化された意識だった。この意識が、アメリカ
の指導者階級にまで及んでいた。ジョン・ダワーの言葉:
「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによっ
て生命は安価だというのだった」。→3年
1885年、内村鑑三は、クリスチャンの女性と巡り合い結婚
をする。しかし、わずか7か月で離婚した。鑑三はアメリ
カへ渡る。しかし、キリスト教国という期待のこの渡米
にも裏切られた。その反キリスト教的、また、反人道的
なアメリカをまざまざと見たからだった。鑑三は言う、
「これが宣教師によりキリスト教の他の宗教に勝(まさ)
る証拠なりとして教えられし文明なりや」と。宣教師が
言った「キリスト教は他の宗教より勝っている」という
のは嘘だったと思う鑑三だった。鑑三は、新渡戸稲造か
ら「高慢」とか、「利己的」とかと批判されていた。ま
た、ちなみに、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻
も23歳という若さで亡くなっている。→0年
1885年、ロシアが朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受
けようとした、朝鮮の李朝はロシアににじり寄った、日
英中はこの案を潰した。この反動でイギリスは朝鮮の巨
文島を占領した。ロシアは怒った。そして、ロシアも朝
鮮を占領すると言った。中国の仲介によってロシアの占
領がないことを条件にイギリスも占領を止めた。中国は
朝鮮への勢力圏拡大を意識していた。各国の欲の勢力圏
争いが展開した。アフリカ分割の大国の欲が展開するこ
とにもなる。日本はこの頃から、朝鮮半島から中国に手
を引かせ、朝鮮の独立のための清国との戦争を意識し出
した。この様な時、朝鮮に農民の反乱が起き、李朝は鎮
圧できなかったため、清国に出兵を要請した。日本は、
条約に基づいて、中国の出兵を認めずに朝鮮へ出兵した。
ここに日清戦争がはじまった。~1894年。→5年
1890年代、アメリカの作家のスチーブンスンは、大陸横断
鉄道建設の労務者としてアメリカに連れて来られた中国
の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「見下げ
た人種」とされて扱(あつか)われていると報告した。
また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息が
詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報告
している。→7年
1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリカ西
海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と診
断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。~
1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、こ
の父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土の
植民地として手に入れた。→1年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版さ
れた。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本で
の出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源を
仏教と神道と儒教に見い出される・・と。そしてまた、
書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末~20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・
香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の勉
強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。
1900年、ロシアが中国(清)で発生した義和団の乱の混乱
収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは満州を植民
地化することを既定事実化しようとした。日英米の抗議
によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を守らず、
逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響力をロシ
アは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山採掘権や
森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取得し影響
力を増した。日本はこれらを買い戻して回復させた。そ
して、日本は、外交的に衝突を避けようとしたが、ロシ
アは軍事力で日本への圧力を増していった。中国への外
国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が出兵した。
日本も出兵した。ロシアとドイツは日本の3~4倍の賠
償金を要求し、取った。ロシアは兵を撤兵させず、朝鮮
国境に砲台建設をしたり、シベリア鉄道の軍の輸送を開
始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期間
1901年~1909年)は、アメリカインディアンの事実上
の絶滅を支持すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
キリスト教は、大日本帝国の国家体制への癒着(ゆちゃ
く)を強めて行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
アメリカは反抗作戦を実施した。
1905年9月5日、日露戦争が終結した。この日に、ポーツ
マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
と思うのは考えすぎであろうか。
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの支
配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
史によくある人種間の対立のイメージとなった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
によって、日本の朝鮮半島と南満州の勢力範囲が合意さ
れ、また、ロシアの外モンゴルと北満州の勢力範囲が合
意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
た。→3年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦にキリスト教
国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、再臨待望者や
再臨狂を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
の土地所有権を剥奪した。→4年
1917年、ロシア革命が起きる。→7年
1924年、アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
大変、偏向した演説をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締結
され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
任期間1933年~1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本がアジアの平和に責任を負おうという考えを、
外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏が言う。
当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという事をして
いた。日本は世界の5つの大きな大国の一つになってい
た。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。→4年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
た。地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
世界大戦がはじまる。→2年
1941年8月9日~8月14日、アメリカのルーズベルト大統
領とイギリスのチャーチル首相が、海に浮かぶ戦艦上で
会談した。アメリカの参戦への要請と、対日戦争の協議
が議題だった。ルーズベルトは、アメリカ国民の世論が
戦争反対であったため、国民へはイギリスと何も約束は
していないと言った。しかし、1942年1月27日に、チャ
ーチルは、イギリス下院の演説で会談内容を暴露した。
ルーズベルトの嘘が、アメリカ国民の知るところとなっ
た。日本の近衛文麿首相が、開戦の危機打開に努力して
いたが、会談がうまく行くはずもなかった。ヨーロッパ
戦線でイギリスはドイツに負けそうになっていたので、
ルーズベルトは参戦したいと考えていた。→0年
1941年12月8日、日本がアメリカのハワイ真珠湾を攻撃し
て大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われてい
るが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行していた
潜水艦へ、機雷攻撃をし、すでに戦端は開かれおり、ま
た、このアメリカ軍艦は、この交戦事実をアメリカ司令
部へ送信し知らせている。日本の攻撃は、この様な事実
により奇襲ではなく、すでにアメリカの知るところの中
にあった。アメリカは国民世論の操作目的から、日本の
奇襲をデッチアゲたかった。→4年
1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
1945年8月30日、アメリカの最高司令官のマッカーサーが、
神奈川県厚木の日本海軍飛行場に来た。マッカーサーは、
靖国神社を焼き払えと言った、また、すべての神社も焼
き払えと言った。そして、アメリカ占領軍は、日本へ慰
安所を作れと命令した。→0年
1945年9月27日、昭和天皇とアメリカの最高司令官のマッ
カーサーの会談が行なわれた。昭和天皇が、敗戦国の国
家元首として、マッカーサーの滞在するアメリカ大使館
へ出向き会談が行なわれた。当時、戦勝国は、天皇を「
戦犯リスト」の筆頭にしていた。しかし、マッカーサー
は、天皇をもし処刑した場合の方向に進む時の不安定な
占領統治になることなどなどの危惧もしていた。マッカ
ーサーは、会談で「天皇が、敗戦国の君主がそうするよ
うに戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではな
いか」と思っていた。しかし、昭和天皇は、命乞いをす
るどころか、「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚
悟しており、私の命のすべて司令部に委ねる。どうか国
民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた
と語っている。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべき
ではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度
に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」である
と敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだっ
たが、会談が終わった時には昭和天皇を車まで見送り、
慌てて戻ったといわれる。後にも「あんな誠実な人間は
見たことがない」と発言している。→3年
1948年、イスラエルが建国される。新イスラエル国家誕生
まで流浪の民となっていた。→3年
1951年7月、大東亜戦争(第二次世界大戦)の終戦を知ら
ぬまま、南海の孤島「アナタハン島」(サイパン島の北、
北マリアナ諸島)に取り残されていた日本兵の20人が発
見され帰国した。この日本兵の一部の人の妻が、日本兵
の夫が戦死したものと思い、夫の兄弟などと再婚してい
たなどの悲劇も起きた。この一人の妻は、読売新聞の人
生案内に相談した。相談を受けた方は羽田空港まで帰還
兵を出迎え、帰還した夫に「過去を一切水に流して奥さ
んを大切にしてあげて下さい」と励ました。当時の混乱
した世相について、識者は「日本人女性を連れた米兵へ
の反感」などを述べている。多くの日本女性が、無責任
な米兵の行為に泣いていた。米兵との間に生まれ、孤児
となった子供たちを育てる施設なども出来た。それまで
と違って日本の男女のモラルは大きく破壊されていた。
→2年
1953年、GHQ(日本占領軍)最高司令官のマッカーサー
が、日本をキリスト教化したいと、国際基督教大学を、
この年に開学する。キリスト教長老派。→23年
1976年、教皇パウルス6世は、サン・ピエトロ大聖堂の墓
で、ペトロの墓を発見したと発表した。→10年
1986年4月15日、リビア爆撃が行なわれる。→2年
1988年、第二次世界大戦の頃、日本人を『JAP』と呼び、
帰化不能外国人としたり、土地所有が出来なくしたり、
「裏から忍び寄るJAPの広告」があったりの人種偏見が
あったことをアメリカは認めた。→1年
1989年、日本で、赤崎勇氏と天野浩氏が、青色LEDを開
発した。LED照明が実現した。照明の大革命。→14年
2003年、あり得る核放棄。アフリカの地・リビアの革命
指導者カダフィ。2011年に発生したリビア内戦によっ
て、その独裁政権は崩壊し、反カダフィ派の部隊によっ
てカダフィは殺害されたが、そのカダフィが、1986年
4月15日に、アメリカ軍およびイギリス軍によって攻撃
された。その背景だと言われている事は、テログループ
支援、複数の空港爆破事件の背後にいる事、西ベルリン
の爆破事件などと言われている。この時、レーザー誘導
爆弾が使われ、ピンポイント攻撃がなされた。カダフィ
は不在だったが、カダフィの子供が亡くなったと主張し
た(カダフィの死後、生存が確認された)。カダフィは、
2003年に核放棄宣言をし、査察団の受け入れもしてい
る。→11年
2014年10月24日、この日の読売新聞によると、キリスト
教の神父が減少したという理由で、キリスト教イエズス
会系(カトリック)の上智大学などを運営する「上智学
院」は、運営する学校を合併するための協議に入ったと
発表した。
今・2014年
..
(詳しくは、以下のブログへ)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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Posted by 北国の暖かい方たちとともに at 00:52│Comments(0)
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