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2019年01月14日

(増補版)628E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年8月~1895年10月)

題:(増補版)628E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年8月~1895年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年8月25日、臨時台湾鉄道隊が設置された。
  台湾の鉄道輸送に携わった。
  それまでは、1891年10月に台北駅~基隆駅間の28.6キ
 ロメートルの鉄道しかなかった。
  それも、1日に1往復であった。
  そして、1893年10月、新竹駅まで延長され、総延長は
 約100キロメートルとなった。
  この後に、日本が台湾の鉄道を整備して行く。
  1899年には、総督府鉄道部官制が公布されて、本数も
 4往復へ増発された・・そして、鉄道敷設も本格化して行
 く。
  1908年4月、幹線となる元隆駅~高雄駅間404.2キロメ
 ートルの台湾縦貫鉄道が全通させた。
  この間、その他にも、台東線や、阿里山森林鉄路など
 を敷設し、台湾の近代化を進める大きな役割を持つ鉄道
 も敷設した。
  この後も、着々と台湾鉄道を整備し、充実して行った。
.
1895年8月、鳥居龍蔵が、東京人類学会の依頼で、満洲地方
 (遼東半島一帯)を約5ヶ月間滞在し、考古学的に調査
 した。
  鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)1870年4月4日~1953年
 1月14日、考古学者、人類学者。
  徳島市に生まれ、
  正規の学生ではかなったが、東京大学の坪井正五郎に
 師事し、人類学その他を学んだ・・
  東京帝国大学人類学教室の標本整理係となる。
  その後、東京大学助教授、国学院大学教授、上智大学
 教授などを歴任した。
  日本だけではなく、海外の諸民族を精力的に調査をし
 た・・周辺諸民族の実態調査の先駆者。
  その実態調査の地域は広範で、台湾、北千島、樺太、
 蒙古、満州、東シベリア、朝鮮、中国南西部など・・
  考古学的調査だけでなく民俗学的方面にも広く観察は
 及んだ・・民具の収集も行ない、物質文化研究の開拓者
 となった。
  因みに、中国語では、先住民は「今は存在しない」と
 いう意味がある・・存在するのなら「原住民」を用いる。
.
1895年8月、神田小川町にローラースケート場(車滑り場)、
 現れる。
  1877年頃、日本にローラースケートが紹介され・・
  1895年頃から普及し始めた。
.
1895年9月5日、奈良鉄道の七條(京都)駅~伏見駅間が開
 通した。
  奈良鉄道(ならてつどう)は、現在の奈良線全線、桜
 井線の過半などを建設、運営していた日本の私鉄で・・、
  伏見駅は、奈良鉄道の開業当社の南の終着駅として開
 設された。
.
1895年9月7日、三菱合資会社銀行部が設立された。
  第百十九国立銀行の業務を継承して設立された。
  そして、1919年に分離して独立の(株)三菱銀行が設立
 される。
  1880年、郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から分
 離独立した 三菱為換店 が始まり。
  この三菱為換店は、一度閉鎖されるが、間もなく第百
 十九国立銀行の経営を承継する。
.
1895年9月18日、住友銀行が設立された。
  この年に、住友吉左衛門によって個人経営の銀行とし
 て創業された。
  1875年、金融事業は並合業(自己資金による物品抵当
   の金融事業)として再開された。
   並合業は、年々業容を拡大していった。
  1890年、銀行条令が発布されたのを機に・・、
  1895年5月、広島県尾道市で行われた住友家の重役会議
   で本格的な銀行業への進出が決定した。
  1895年11月1日、住友本店銀行部として、住友吉左衛門
   の個人経営による資本金100万円の住友銀行(本店は
   大阪市中之島)が開業した。
.
1895年10月1日、野中至・千代子夫妻、気象予報の研究のた
 め、富士山頂で観測を開始する。
  野中到(のなかいたる)は、「天気予報が当たらない
 のは、高層気象観測所がないからだ」・・と考えた。
  天気は高い空から変わってくる。
  富士山の山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、
 気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。
  しかし、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建
 てることは国としては決定できない。
  誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をし、実証しな
 いかぎり、実現は不可能だと、常日頃、言っていた。
  1895年2月16日、富士山冬季初登頂を果たし、富士山頂
   での越冬が可能であることを確信した。
  1895年8月30日、富士山頂に私財を投じて日本最初の富
   士気象観測所を建設。
    測候用の小屋は、約6坪で、これを、剣ヶ峰 (富士
   山)に新設、中央気象台の技師らも合流した。
    剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多
   いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と
   語っている。
  1895年9月末、食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、
   閉山後の10月に再び登頂した・・薪炭や食料、観測
   機器を設置して・・、
  1895年10月1日、妻:千代子と共に気象観測を開始した。
   観測は2時間毎に行った。
  1895年10月12日、過酷な条件のもと夫妻は体調を崩す。
  1895年12月22日、越年観測を、病気で断念し下山・・、
  1896年1月12日、東京へ帰る・・、
  この当時、富士山より高いところにある観測所は南米
 のエル・ミスチー山とフランスのモンブラン山だったが、
 いずれも夏期しか観測していなかった。
  富士山での冬期観測は世界記録だった。
  この夫妻の記録の37年後の1932年、国際協同極地観測
 のため・・中央気象台は、富士山頂に測候所を設置した。
   そして、通年の観測を開始した。
  1932年8月、野中到は、65歳の高齢をもって、娘と息子
   を伴い山頂を極めた。
   かつて、共に死線をさまよった妻の千代子はすでに
   他界し、写真を抱いての登頂だった。
  そして・・
  1955年2月28日、野中到が没する(88歳)
  その10年後・・
  1965年、富士山山頂にレーダーが設置された。
   気象衛星が稼働し、南海上の台風観測に威力を発揮
   し始めた・・、
.
1895年10月6日、瀬木博尚が、広告業の博報堂を神田区鍋町
 (現:日本橋近く)に、創業者一人という体制で創業し
 た。
  博報堂の創立して広告業を始め、『太陽』などの雑誌
 広告で成功した。
  博報堂(はくほうどう)は、電通に次ぐ日本第2の広
 告会社。
  創業時から教育雑誌の広告取次店・雑誌広告取次所と
 してスタートし、電通より早く、日本の近代広告業の創
 成期から活動した。
.
1895年10月8日、乙未事変(いつみじへん)
  朝鮮王朝の状況は乱れていた・・
  日清戦争の結果の下関条約で、清の宋主権が否定され
 たが・・そして、朝鮮は、正式に独立を確定できたが、
 朝鮮李朝内での権力闘争は激しかった・・、
  今度はロシアがからんで来ていた・・
  ロシアは、フランス・ドイツを味方につけ、武力をち
 らつかせて、三国干渉を日本に認めさせた。
  この三国干渉により、日本の威信が落ちたことによっ
 て・・朝鮮王朝内の閔妃派はロシアに接近した、そして・・
  ロシアの工作と結んで、日本を排撃しようとした。
  ロシア軍の武力を利用し、閔妃派はクーデターを成功
 させた。
  このため、日本に好意的だった朝鮮李朝・大院君派と
 の軋轢が高じて行き・・また、クーデターということに
 なっていく・・
  ロシアと日本は、この様に乱れた朝鮮の・・閔妃派と
 大院君派との内紛に巻き込まれていた・・
  この事変は、事変と言われる様に異常な状況であった。
  朝鮮訓錬隊(日本の指導下で設立された朝鮮の軍隊)
 がからんだ・・また、朝鮮警務使(王城を守る警察)が
 からんだ・・そして、開化派(李氏朝鮮の政治グループ)
 がからみ・・そこに大院君派などが居た。
  そして、真霊君(ちるりょんぐん、実在した巫女)と
 いう占い的な者の言葉に心酔するということも影響した。
  この様な中に、日本官憲も動ごいてしまった。
  この様な勢力が、ソウルの朝鮮漢城・景福宮に乱入し、
 親露派(反日派)の中心と目された高宗の妃の閔妃を殺
 害するという事変が起きた。
  李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃は、
 大院君の貯めた国庫を浪費するなど不届きな行為もあっ
 て、また、閔妃の国政壟断(ろうだん、利益・権利を一
 人じめにする)に不満を持つ朝鮮人たちも多く居た。
  閔妃は、その様な人・禹範善(うぼむそん、朝鮮人武
 官)に暗殺されたのだった。
  また、この後の閔妃の死後にも、朝鮮王朝内は平穏に
 ならなかった・・親族や相手派を暗殺し合うなど対立し
 ていた興宣大院君(こうせんだいいんくん、李氏朝鮮の
 王族、高宗の実父)によって、大院君は弾劾され、平民
 に降格された。
  この時までにも、朝鮮は混乱に混乱を重ねていた・・
  1894年3月28日、閔氏政権によって、開化派の中心人物
 の金玉均(きんぎょくきん、日本に遊学し、福沢諭吉の
 指導を受け、そして、朝鮮を、日本の明治維新の様に発
 展させ、改革したいとしていた親日派)が、閔妃の刺客
 である洪鐘宇の回転式拳銃で暗殺されていた。
  また、1894年5月31日には、閔氏政権に不満をもつ農民
 が蜂起し、甲午農民戦争が勃発したりもした。
  農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政
 権は中国・清に軍の出動を要請し、事態は一層混乱して
 行く・・
  三国干渉の時は、日本が後退すると、その甲午改革に
 よって政権を追われていた閔妃とその一族は、ロシア公
 使のカール・イバノビッチ・ヴェーバーと、ロシア軍の
 力を借りて、クーデターを引き起こした・・そして、
  1895年7月6日、政権を奪った。
  このことが大原因で、朝鮮李朝内の対立を決定的な
 ものにしていた。
  これ等の素地の下にこの事変は起きていた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:それを阻止したのが日本だった・・日本は大きな戦争をした・・
    その戦いの後、アジア諸国は独立して行った。
    今、その諸国=ASEAN(東南アジア諸国連合)は、
   次の世界の繁栄の中心になろうとしている。
.
1591年閏3月21日、日本とベトナムの通交文書の最古と見な
 される文書が存在する・・今、九州国立博物館に所蔵さ
 れている。
  記載内容は・・、
  日本国王(豊臣秀吉とされる)が、牡象を好むとある。
  それを、日本の使者から聞いた阮氏が、一頭の牡象を
 日本へ送ろうとした・・しかし・・
  日本からの使者の船が小さく、象が乗せられなかった。
  やむなく、象牙などの別の贈り物を贈った・・と。
  日本とベトナムとは、この頃から友好関係にあった。
.
1602年と1728年、ベトナムから、ベトナム象が日本に運ば
 れた。
    ・
    ・
1881年、能楽社の設立
  能楽保護のため、「能楽社」が華族の方々を中心に組
 織された。
  一時衰退していた能・狂言の復興に尽くした。
  能界は、幕府や藩からの保護を受けて成り立っていた。
  それが、明治維新になって、存続の危機に立たされる
 こととなった。
  この時期に、多くの役者が廃業・転業を余儀なくされ、
 また、残念なことであるが多くの流儀が消滅した。
  しかし、維新直後の混乱が落ち着くと、宮中や旧大名
 に代表される華族の方々が、能・狂言の保護に向け動き
 出された。
  1878年には、能を好んだ英照皇太后のため、青山御所
 に能舞台が建てられた。
  ことに、岩倉具視は、欧米外遊の際、各国が芸術保護
 を厚く行っていることを実見した。
  1878年頃から、華族の方々による能・狂言の後援団体
 の設立に向けての動きが活発化していた。
  そして、計画が進んでいた組織は、発起人に加わって
 いた前田斉泰と世話人の重野安繹の発案によって「能楽
 社」として設立されることとなった。
  能楽社の名について・・
  「前田斉泰ノ意見ニテ、猿楽ノ名称字面穏当ナラサル
 ヲ以テ、能楽ト改称シ、因リテ能楽社ト名付ケ・・云々」
 とある。
  これが、現在の「能楽」という言葉の起こりとなった。
  (参考)前田斉泰:まえだなりやす、幕末の加賀(金
     沢)藩主。
  1881年4月16日、能舞台の落成を受けて「能楽社」が正
 式に設立された。
  発起人は、九条道孝、前田斉泰、池田茂政、藤堂高潔、
 坊城俊政、前田利鬯・・だった・・
  そして、この日、英照皇太后の行啓を仰いで、舞台開
 きが催された。
  宝生九郎が、「翁」「高砂」(ワキ・宝生新朔)を、
  観世清孝が、「田村」、
  梅若実が、「桜川」、
  金剛唯一が、「鞍馬天狗」、そして・・
  櫻間伴馬が、半能「加茂」を舞った。
  また、1881年4月17日には、華族の方々を対象に、
  そして、1881年4月18日には、一般への公開能が開かれ
 700人あまりの観客が集まった。
  当初のこの頃、この舞台は単に「能舞台」と称されて
 いたが・・、
  1881年6月、宝生九郎が出した新聞広告に「芝公園内
 楓山能楽堂」という語がある。
  1882年には、能楽社関係者の中でも「能楽堂」の称が
 用いられている。
  1882年頃からは、「芝能楽堂」ともなり・・
  後に、この呼称が一般的となった。
  ちなみに・・前田斉泰のエピソードに・・、
  1854年、アメリカからもたらされた「アッフル(りん
 ご)」が、加賀藩下屋敷(巣鴨近隣の板橋宿)にて栽培
 された。
  そして、この翌年・1855年、実をつけたために食用と
 され、近習ら藩士にも配られた。
  このことが、当時の加賀藩士の記録に残っていて・・、
  藩主の斉泰から、「小さな餅に塗って食べるように」
 と言われたという・・
  近習らはそのようにしていることから、ジャムにして
 食したものと言われている。
     ・
     ・
1945年8月10日、この日の午後8時、日本政府が、ポツダム
 宣言受諾を『連合軍に通知した』との短波放送を行った。
  1945年8月12日、午前0時頃、サンフランシスコ放送は、
 連合国の回答を放送した。
  この時に、日本の降伏の意思が確定していた。
  (完全にソ連の行為は違反行為・・日本領土侵略は成
 立しない)
  この情報は世界各地で受信していた。
  例えば、ラジオで情報を得たホーチミンは、日本の降
 伏を革命のチャンスとみた。
  ホーチミンは、フランス軍が、再度、進駐して来るよ
 り前に自国領のベトナムに実権を確立しようと計画を始
 めた。
.
1945年、戦後の日本の女性の方々は、これからの日本の復
 興の必要性を肌で感じた。
  女性の方々の鋭い直感で感じたのだった・・
  日本のこの今の危機を救うという・・
  そして、この後、多くの子供たちが生まれ・・育てら
 れた。
  爆発的な状況で増えた子供たちは『団塊の世代』と呼
 ばれた。
  そして、この子供たちが、輝かしい日本の戦後の復興
 に加わって行った。
  日本は、『奇跡的と言われる復興の姿』を世界に見せ
 て行った。
  今、ASEANが輝かしい発展を遂げているが、戦後
 日本の輝かしい復興の姿が、また、発展の姿が、このA
 SEANの方々へ復興・発展への勇気を差し上げている。
  それは、日本の女性の方々が作ったと言ってもよい日
 本の復興の姿だった。
  マレーシアのマハティール氏の「ルックイースト」と
 いう言葉があるが(1981年12月15日)・・これは、日本
 を見習えという意味であり・・
  ルックイースト政策ともなり、マレーシアの発展の理
 念ともなっている。
.
1946年4月4日、卑劣な事に・・200人~300人の武器を持っ
 たアメリカ兵が、強姦目的で大森の中村病院に乱入した。
  そして、約100人の妊婦や看護婦らを強姦した。
  生まれたばかりの子供も殺害された。
.
1946年4月、ベトナムで独立を目指すベトミンが、残留して
 いた日本兵に戦い方の指導を受けるための軍士官学校を
 設立した。
  それは、ベトナム中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校
 だった・・
  教官は、元日本軍の士官や下士官であった。
  残留した日本兵は、「新ベトナム人」と呼ばれた。
  日本軍インドシナ駐屯軍参謀・井川省少佐は、ベトナ
 ム名のレ・チ・ゴと名乗った。
  そして、ベトミンに、武器や壕の掘り方、戦闘指揮の
 方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを教えた。
  また、井川参謀の部下の青年将校の中原光信は、ベト
 ナム名のヴェト・ミン・ゴックを名乗り、第二大隊教官
 としてベトミンに協力して独立戦争を戦った。
  この他にも、石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、
 猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)
 らがいた。
  この様に日本敗戦後、ベトミンに協力してベトナム独
 立戦争でフランス軍と戦ったインドシナ残留日本兵は
 766人にのぼる。
  また、武器の多くが日本軍からのもので、38式小銃な
 どが多かった。
  ベトナムを、再度、植民地にしようと考えたフランス
 のえげつなさがこの様な事態を引き起こしていた。
.
1946年5月3日~1948年11月12日、極東国際軍事裁判(東京
 裁判)が行なわれたが、この時、横田喜三郎・東京大学
 教授は、この裁判の翻訳責任者を務めた。
  しかし、卑劣なこの男・学者の人生が、この時から始
 まる・・
  横田喜三郎は国際法の教授であるが、この立場から、
 東京裁判の明らかなる違法性を指摘する立場にあるのに
 東京裁判を擁護した。
  横田喜三郎は、マルクス主義の読書会(ベルリン社会
 科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者とし
 て知られていた(左派系学者)
  1930年、東京大学の国際法の教授となり・・
  1945年、日本が戦争に負けると豹変した。
  1947年~1949年、3冊の本を書くが、GHQにすり寄り、
 進行中の東京裁判を擁護した。
  「事後法で裁いてはならない」という大原則でさえ擁
 護した(この学者の法理は弁解の出来ない「しっちゃか
 めっちゃか」状態だった・・自分さえ良くなればよいと
 いう行動をした)
  この近代法の根幹の原則に対して、「そんなものは大
 して考慮する必要はない(取り立てて言うほどでは無い)
 とまで、この男は言った。
  『裁判は正当なのだ』と力説した。
  法律家が、絶対に言ってはいけないということまで言
 うという状況だった。
  (参考)法理:ほうり、法律の(哲学的な)原理
  また、この様な類いの輩が多いという東京大学だった。
  今・現在でも、日本を売る輩が多く居る大学である。
  近隣諸国と問題となるネタを与えるという行動をする
 輩さえ居る(朝日新聞だけではない)
  1960年、この横田喜三郎は、最高裁判所長官となり、
 文化功労者として表彰された・・
  また、文化勲章も貰い、勲一等旭日大綬章まで貰った。
  左翼から豹変し、GHQが日本を牛耳っている時には、
 GHQにすり寄り、その時の都合に合わせて言うという
 男だった。
  そして、日本政府にすり寄って栄達する時は・・、
  過去に書いた本が邪魔になるので、東京中の本屋へ弟
 子を走らせ、自分の本を隠す目的で買占めをさせるとい
 う男だった。
  この話は、この頃、誰でもが知る有名な話となった。
  笑い話的な事は、この時、この為に、この本の価格が
 値上がったという。
  国は、表彰などをして報いたが、この男は、最後に書
 いた回想録で先祖返り(せんぞがえり)をして、日本を
 裏切った。
  ちゃらちゃらと豹変する男のする様な事だった。
  中国のハニートラップに引っ掛かって、日本を裏切る
 政治家が居るが、日本の中枢の学者もよく日本を裏切り、
 日本を売る・・。
.
1961年5月、アメリカのベトナム戦争介入
  アメリカが、正規軍の特殊作戦部隊600人をベトナムに
 派遣し、軍事物資とともに本格的介入を、この時、始め
 た。
  南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で、クラス
 ター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始し
 た。
  ケネディ政権は、就任直後に、東南アジアにおけるド
 ミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会
 を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢について
 の提言を求めた。
  特別委員会と統合参謀本部は、ともに、ソ連や中華人
 民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナム
 による軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南
 ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。
  ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキュ
 ーバ危機、ベルリン危機など世界各地で緊張の度を増し
 ていたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激す
 るとして行わなかったものの・・、
  「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行につ
 いての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務
 次官と、W・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を
 却下した。
  「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」
 との名目で、1961年5月に、アメリカ軍の正規軍から構成
 された「軍事顧問団」という名目の、実際は、ゲリラに
 対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事
 物資の支援を増強することを決定した。
  そして、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で、
 クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃が
 開始された。
  日本は、第二次世界大戦の後、「平和に対する罪があ
 る」とされて裁かれ、多くの日本の軍人が殺されたが・・
  しかし、アメリカの、このベトナム戦争の侵略戦争を
 遂行したことは、「平和に対する罪がある」。
  この裁きが、まだ行われていない。
  また、同様に、アメリカは、「グレナダ侵攻」でも同
 様な罪がある。
  また、「パナマ侵攻」でも、「リビア空襲」でも、ア
 メリカには、「平和に対する罪がある」。
  そして、中国も、数々の侵略戦争を遂行していて、中
 国にも多くの「平和に対する罪」がある。
  中国には、「朝鮮戦争」「チベット侵攻」「中印紛争」
 「中ソ国境紛争」「中越紛争」などなど・・、
  また、アメリカは、ジェノサイド(大虐殺)を、ベト
 ナム戦争で行っていて、「人道に対する罪」がある。
  また、中国も、ジェノサイド(大虐殺)を、度々、行
 なっている。
  「人道に対する罪」を免(まぬが)れられない、「毛
 沢東による大躍進・文化大革命」「天安門事件」「チベ
 ット人弾圧」など・・
  本「共産主義国書」(ステファス・クルトワ・ニコラ・
 ヴェルト著)には、国別の残虐行為・蛮行を仔細に分析
 されている。
  それによると、中国が断然多数の非道な殺戮を行なっ
 ている。
  その数は、何と! 6500万人となっている。
  虐殺国家=中国となっている。
  こんなに虐殺を行なっている国は、他にはない。
  この事柄だけでも「共産主義国家=中国の存在理由は
 無い」・・
  中国の存在は否定されなければならない。
.
1998年、中国の江沢民総書記が、日本を訪問する直前、中
 国共産党が「21世紀の中日関係の展望」をまとめた。
  それに、「日本人をコントロールするために、日本へ
 歴史問題を突き付ける。そして、日本人を後退させる」
 と書かれている。
  そして、この中に、「日本国内に孔子学院を設立する」
 という事も書かれている。
  孔子学院は、中国語の教育機関とされている、その様
 な触れ込みであるが・・、
  アメリカやドイツなどでも問題となっているように、
 完全に中国のプロパガンダ機関・・中国の洗脳機関で、
 コントロールの為の機関となっている。
  20年を経て、この様な中国の目論見・本音が露呈して
 いる。
  中国から金を貰っているのか? キリスト教系大学の
 桜美林大学や、また、早稲田大学などに設立されている。
.
2018年12月26日、NHKの小会社整理
  この日の読売新聞に、NHKの2子会社が経営統合す
 ると報道された。
  NHKには、NHKの豊満で放漫な金に群がって、N
 HK職員の天下り先でもある子会社が数限りなくある。
  それにしても、この統合をNHKは2020年の春にする
 とした。
  いつもの・・そして、総べてのやることがNHKは、
 この様な状況だ・・遅い・・まったく遅い・・民間会社
 だったら半年でやってしまうことを・・ちんたらやる。
  NHKは、やることの総べてに、厳しさがない。
  再来年(さらいねん)の2020年の統合だという甘いと
 ころがNHKのだらしなさを象徴している。
  NHKは、長い期間、「頑張るな!」という番組をキ
 ャンペーンとしてやって来たが、その様なNHK体質が
 この小会社統合にも現れている。
  「再来年と言われて・・いつまでチンタラやるのだ!」
 と喝(かつ)を入れたい・・
  NHKは、この統合を半年で民間の様に終わらせ、ど
 んどん業務を整理統合し、合理化して行け!
  そして、NHKは受信料を半分する目標を掲げよ!
.
2019年1月8日、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)が中国
 を電撃訪問・・
  この2日前の2019年1月7日には、アメリカが軍艦を南シ
 ナ海に入れ、「航行の自由作戦」を実施している。
  この南シナ海は、今では、中国は世界へ嘘をついて、
 完全な軍事基地・要塞と化している・・
  『軍事基地化はしない』などと言っていた中国である
 が、この海の多くの島々は、今は、各種の軍事の諸設備
 および兵器・戦闘機・ミサイル・レーダーなどが置かれ
 た要塞となっている。
  もう、アメリカは、この地を叩くことはできないであ
 ろう・・
  確実な中国の軍事拠点として確立されてしまっている・・
  北朝鮮の金正恩にしても、ほぼ対等に何度も会ってく
 れる中国のこの状況などから、核保有国になったからだ
 との表にあらわせない気持ちもあって、今後の核放棄は
 『まずあり得ない状況になってしまった』・・
  この段階でやれることと言ったら、アメリカの核の日
 本国内の核展開・・
  日本をやるのなら、中国も北朝鮮も一瞬にして蒸発す
 るぞという対抗措置しかない・・
  これによって、日本への手出しもできにくくなると同
 時に、アメリカへの手出しもできにくくなる・・
  そして、国連には、「国連という虎の威を借る狐」が
 居る。
  アメリカのジョン・ロバート・ボルトン(国家安全保
 障問題担当大統領補佐官、元米国国連大使)が、「国連
 の上の10階を取ってしまえ」と言ったという・・
  これは、国連が何もしてない組織であり、取ってしま
 ってもよい様な何も役に立たない機関なのだという意味
 だという・・
  その様な国連の状況で、国連は捉らえられ方をしてい
 る組織となっている。
  国連という場に万国が会し、意見を出し合い、討論を
 する。
  まったく理想的な、合理的な機関の様に見える国連。
  しかし、それは、全体会合がなされる本会議の情景で
 あって、
  そして、この場面が報道機関・メディアによく報道さ
 れ、流れるから、国連はこの様な事をする「理想的な機
 関だ」なんて見え、思えるが・・、
  この全体会合がなされる本会議以外の国連の場は、少
 数の者が意思を決定するという、「少数意見が横暴に決
 定される、独裁的に決定がなされる場」となっている。
  まったく一握りの少数の者の独断の場となっている。
  この様な決定が、国連の場の決定という事で「さも公
 正の様にに行われた」と世界に誤解を与えている。
  そして、まちがった認識・・誤認を与える結果となっ
 ている。
  その少数の者達の弾圧が、国連という虎の威を借りて
 行なわれる。
  この不合理な事を知る不埒なキリスト教は、この国連
 機関の少数の者たちへ働きかけ・・そして、洗脳などを
 行ない・・キリスト教の意見を世界の意見の様にしてい
 る。
  「アイヌが日本の先住民だ」と、科学的にまったく間
 違ったことを国連決議をしている。
  クジラが食べられなくなったのも、やはり、このキリ
 スト教の働きかけ・運動の仕業(しわざ)。
  遠い昔から食べて来た日本の食べ物を奪った・・食文
 化を消し去られた。
  キリスト教の教義による「クジラは食べてはいけない
 という事を日本は押し付けられた」。
  ならば、キリスト教よ!「七面鳥を食べることを止め
 よ」「牛を食べることを止めなさい!」・・できますか?
  キリスト教は、仲間を集めて多数を形成し、クジラを
 食べる少数のマイノリティ意見を握りつぶした。
  キリスト教という宗教的取り決め・決定であるため、
 何ら説明しても聞く耳を持たなかった。
  議論の場があっても、その議論の場での正常な意見の
 交換は出来なかった。
  宗教裁判所状態であった。
  「最初から結論ありき」だった。
  何度、説明しても、その意見を受け入れるそぶりも無
 かった。
  何度、説明しても受け入れられない「ガリレオの地動
 説」の如く、宗教タブーに触れた話だった。
  この件もガリレオの地動説の如く、ローマ法王が何百
 年かの後に「悔い改めのミサ」をやり、ガリレオに謝っ
 たが如くになるだろう。
  聞く耳を持たない宗教裁判の如きの場から日本は脱退
 した。
  これから中世ヨーロッパで、キリスト教が卑劣な弾圧
 をやり続けたが、日本もこの様な卑劣な弾圧を受け続け
 ることになるのだろう。
  そして、北朝鮮の金正恩が電撃訪中した時・・
  北朝鮮の金正恩がアメリカの真似をして、アメリカに
 届くかどうかはわからないが、そのミサイルの発射装置
 をもって中国へ出かけた。
  そのミサイルの方向は、日本・アメリカは勿論、その
 北京へも向いているのだろう。
  北京がそそのかして技術援助をした結果が今なのであ
 るが・・そのミサイルが北京へ向くということもあり得
 る状況にある。
  北朝鮮は、自国が生き残りのために作ったミサイル。
  自分以外に対しては、北朝鮮の生き残り目的の・・生
 き残るためにはそのミサイルの数には差があるだろうが・・
 北朝鮮のリスク回避のため、皆無状態にしている訳はな
 い・・当然、中国にも向けている・・
  当然、韓国にも向いている。
  ゴマを磨っているから韓国には向いてないと、韓国は
 思いたいのだろうが?
  この男は、近距離のミサイルも持っているが、これは
 韓国用だ。
  危ないと思えば伯父さんだって除外する者・・そして、
 兄だって・・誰だってやる様な男なのだ・・
  こんな事を書きたくないが、これが現実・・
  この愚かな領域を人類は乗り越えられるか?
  一旦、最低状態を経験しなければ、人類は立ち直れな
 いのだろうか・・
.
2019年1月9日、この日の読売新聞で、イギリス人の政治学
 者のエリック・カウフマン氏が言う・・、
  全紙を使った堂々たる寄稿であった・・が・・
  カウフマン氏は書く・・
  「白人としてのアイデンティティーを抑圧し、過去の
 歴史への罪悪感を煽ることは、白人を追い込み、ポピュ
 リズム的な不満を掻き立て、テロに発展する恐れすらあ
 る」・・と・・
  確かに、歴史の過去に、白人たちのやって来た事は極
 悪で・・卑劣だった。
  それを、ひたすら指摘し、煽らないでくれという書き
 出しだった。
  そう・・イギリス人は、特に、世界のあちこちで極悪
 な事をした。
  オーストラリアへ行けば、先住民のアボリジニの方々
 を、動物の如くに、狩りをする様に、殺戮した。
  タスマニア島のアボリジニの方々は、可哀想に全滅し
 てしまった。
  インドでも、様々な極悪行為をしたが・・
  その一つを書けば・・インドの方々を並木道の木々へ
 吊るして、殺した・・高い木の上に、インドの方々は吊
 るされたままに居た・・
  何日もそのままにして晒(さら)されて・・インドの
 方々を威圧した・・
  インドの方々は、それを、道を通るときに見ざるを得
 ない状態にされ、抑圧された・・恐怖された・・
  この様なイギリス人のやった例は、書き切れないほど
 ある。
  スペイン人も、キリスト教の最高権威者のローマ法王
 (教皇)から、問い合わせた返事に、「現地人のインデ
 ィオの方々を『人と見なすな』という返事」で・・
 これを切っ掛けに1000万人以上という殺戮が始まった。
  60年に渡って、南北アメリカ大陸の先住民の方々を殺
 戮し続けた。
  キリスト教の「有色人種蔑視」の教え・教義にこの根
 本原因があった。
  ローマ法王(教皇)は、この非を数百年後に認め、
 「悔い改めの謝罪のミサを行った」。
  しかし、キリスト教が、また、白人が、悔い改めの謝
 罪のミサをすべきところは、まだまだある。
  白人が、多数の人種という位置にいたから起きた横暴
 でもあった。
  その位置から・・白人が多数の人種の位置から降りる
 今・・白人に虐げられて来た少数民族の悲哀さを身をも
 って感じる事が出来るだろう今・現在、標記の様な事を
 言い出す。
  キリスト教の一神教は、その宗教性から多様性を否定
 した。
  我がキリスト教の神のみが「唯一の神だ」と、他を認
 めず、他を異端とし、異教徒とした。
  その異教徒を・・キリスト教の教義は「異教徒を殺せ」
 と指示し、教義とした。
  そして、異教徒を虫けらのように進んだ武器でもって
 劣った有色人種を殺戮した。
  その様にして来た白人が、その論理を取って返して、
 「白人文化の罪悪感を煽るな」と言う。
  今まで散々自分たちがやって来た事々を棚の上にあげ
 て、免罪符が欲しいと言うが如くに論理展開する。
  今になって、やっと、悲痛な人々の声を、やっと発す
 ることができる・・今まで虐げられてきた人々なのだ・・
 その様な段階になって来たところの今なのだ。
  この段階は、この悲痛な虐げを受けた人々の声がやっ
 と白人たちへ届く時代となって来たところなのだ。
  また、カウフマン氏は、「西側社会は総じて、多文化、
 多様性の受け入れを重視しますが、東アジアでは、国際
 主義的なリベラリズムを遠ざける傾向が強い」と言う。
  そして、この見方を根幹の基本として、この後の論理
 展開をするが・・、
  この根幹の基本的考え方の捉え方は大間違いだ。
  キリスト教の教義に洗脳された白人・ヨーロッパ人は、
 一例をあげれば、キリスト教カトリックが、キリスト教
 プロテスタントを異端だとして、受け入れられないとし
 て・・、
  また、この反対に、キリスト教プロテスタントもキリ
 スト教カトリックを、異端だとして受け入れられないと
 した。
  お互いの考え方の違いを、キリスト教の教義の如く異
 端として見て、愚かにも30年間もの長い間、卑劣な30年
 戦争を戦い、殺し合った。
  ヨーロッパの白人の人口の3分の1が死んだという卑劣
 な歴史である。
  カウフマン氏が美しく言う「西側社会は総じて、多文
 化、多様性を受け入れを重視する」・・と・・これは大
 間違いだ・・話が逆だ。
  日本を例にして言えば・・日本には、アメリカが建国
 されるズーット以前・・また、イギリスが、まだ国とし
 て成り立っていないという以前の遠い昔に、平等院が日
 本にある如く、差別なく、すべてを平等に受け入れる社
 会は、すでになされていた。
  また、世界一古い長編小説の著者が、日本女性である
 如く、男女の差別も無く、教養ある女性方たちが活躍し
 ていた。
  カウフマン氏よ! 貴方には、有色人種の東アジアの
 人々を蔑視するキリスト教の洗脳があるのではないです
 か?
  東アジアをもっと冷静に見直しをして下さい。
  キリスト教には、「他民族へ、娘を嫁になるな」など
 の律があるなど、この様な差別的な閉鎖的な社会規律が
 一杯ある。
  この宗教の考え方の下に貴方たちは居る・・
  この様な点を見ないで、無視して論理展開をしないで
 下さい。
  東アジアは、「自民族同士の結婚が多いから悪い」と
 いう言い方も偏頗ではありませんか?
  この考え方も偏見に満ちています。
  結婚は、各人の自由意思の下に自由に行われるだけで、
 自民族同士が多いから悪いとか・・とやかく批判し・・
 どうのこうのと言うべきものではない・・
  カウフマンさん、貴方には、「白人がやっていること
 が最高なんだ」という「白人優越の意識」が垣間見えま
 す。
  白人は、これから、未体験のマイノリティの人々とな
 って行く。
  大多数の時にした黒人奴隷の歴史のごとき歴史が待っ
 てない様にと祈ります。
  白人の方々こそ、自分たちが何をやって来たかをよく
 見定めて・・
  自分たちの行く先に、その虐(しいた)げたマイノリ
 ティの人々と同じ様な姿が無きようにと・・
  問題なく歴史を紡いで行けるようにと、沈思し、行動
 を思い描きなさい。
  「白人の罪悪感を煽らないこと」と、自分をさておい
 て・・他の人々の対応だけを求めることの愚かさに気付
 きなさい。
  お互いがやるべき事であって、一方にだけ求めるなど、
 片手落ちであってはいけません。
  (追伸)上記の浅はかな論理展開したエリック・カウ
     フマンの略歴:48歳、ロンドン大学バークベッ
     ク・カレッジ教授。
      香港に生まれ、幼少期の8年間、東京で育つ。
      カナダで大学卒業後、ロンドン・スクール・
     オブ・エコノミクスで博士号。
      専門は、民族、宗教、ナショナリズムなど。
      近著「ホワイトシフトーーポピュリズム、移
     民、白人多数社会の将来」を2018年10月に刊行、
     イギリス内外の言論界で高い注目を集めた。
.
2019年、専守防衛なんて絵に描いた餅。
  中国が、核弾頭ミサイルを300発から600発持っている
 というが・・、
  これが、日本に飛んで来たら、日本は「ひとたまりも
 ない」。
  そのすべてを撃ち落とす事は出来ない・・
  撃ち落とせると思っているのだったら・・悲惨な事実
 から目を背(そむ)けたい・・だから、撃ち落とせると
 思っているのだ・・ということになる・・
  中国の核弾頭ミサイルは、日本のほとんどの都市に照
 準を合わせている・・中国はその様に言っている。
  第二次世界大戦の時は、アメリカが、何万発という爆
 弾を・・日本中の都市に落したが・・そして、壊滅した
 が・・、
  今・現代、その核弾頭ミサイルは、一発でも落された
 ら、それで終わりだ。
  投下された都市の「すべてが、蒸発してしまう」。
  専守防衛は「おとぎ話」なのだ。
  防衛が不可能なのに「専守防衛する」と言う・・
  この論理は成立しない。
  生半可な防衛力を放棄して、「殺すんなら殺せ」と言
 った庶民の心になるか?である・・
  生半可な防衛力があるから攻めて来るとも言える・・
  だから・・はっきりと・・無責任な行為は止めて・・
  専守防衛を止めて「専守攻撃」に変えなければ「専守
 防衛」は出来ない。
  もし、あなたの国が、日本を攻撃するのでしたら、「
 日本は、あらゆる日本の攻撃手段を使って、あなたの国
 を攻撃します」という『専守攻撃宣言』をしなければな
 らない。
  これでなければ、専守防衛なんてできない。
  迎撃ミサイルは、単なる、「精神安定剤」。
  日本中に、そして、広い広い日本の領海中に、中国・
 北朝鮮・ロシアを殲滅できる核弾頭ミサイルを展開しな
 ければならない。
  「恐ろしくて日本なんて攻撃できない」という気持ち
 を起こさせなければならない。
  この「専守攻撃」の核弾頭ミサイルの展開は、アメリ
 カと協議し、早期に実現しなければならないという今・
 現在となっている。
  この様な現状にある今・現在を、冷静に見れば、日本
 国憲法の前文の記述が、あまりにもかけ離れた夢の世界
 の中に浮いていることが分かる。
  日本国憲法の前文は、現実の実情にそぐわない状態に
 なっている。
  日本は立派な国であるから、日本以外の国々の公正と
 信義に信頼してと、それを信じて、まったく理想的な憲
 法を掲げてやって来たが・・??・・今までは・・
  今・現在、その現状は、その様な状況ではまったくな
 いという状態になってしまっている。
  近隣の諸国は、陰で日本の憲法をうすら笑っているだ
 ろう・・都合が良いと思っているだろう。
  日本国民の方々は、お人好しだから、日本国憲法が現
 状とはまったくかけ離れて・・現状にそぐわないと思っ
 ていても・・我慢し、耐えている。
  しかし、これからの子供たちの為には・・
  「もうこのような我慢をさせる事は酷である」。
  子供を産みたくなる様な憲法にしなくてはならない・・
  今・現在の現状に沿う憲法を「未来へ残さなければな
 らない」。
  それが出来て日本の戦後は終わる。
  それにしても、ベトナムの方々もよく戦った。
  不合理なものへ対して、その戦いが必要な時には、強
 い相手であっても「毅然と戦わねばならない」として戦
 った。
  今、平和憲法なんて・・自画自賛の状況となっている。
  その憲法が、現状に於いて「何の役にも立たない」と
 いう状況が、戦後の経過の中で生まれ・・そして、証明
 された。
.
2019年、中国は、日本の中国研究者が、中国について批判
 的な研究結果を公表すると、とたんに、睨(にら)み・・
  そして、研究行為について不利な扱いをする。
  中国への入国は拒否される。
  研究のための中国入国の拒否だからたまらない。
  また、入国が出来たとしても、史料の閲覧の拒否を受
 ける。
  研究の材料を得られなくなるという事は致命的だ。
  中国は、この様な卑劣な事をする。
  だから、中国へゴマをする研究者ばかりになる。
  こんなことは誰でも知っている事で、だから、若い研
 究者は、中国の反応を怖がる。
  中国からのプレッシャーの中で研究している。
  だからなのか、中国べったりという方針にしたのか・・
 その様な中国べったりの研究者が居る。
  大学もその様な「いざこざ」が起きないことを願って
 いる。
  この様な大学の姿勢からのプレッシャーも研究者へ与
 えられている。
  また、大学へ来る研究者についても、中国とトラブル
 を起こしそうな研究者に対し、「わが大学にだけは来な
 いで欲しい」という態度をとる。
  研究者だけでなく、ジャーナリストへもこの様な戦略
 が中国にとられ、この戦略にはまってしまう。
  また、招聘(しょうへい)する人などについても、中
 国に不利な人の招聘の場合、中国は嫌がらせをする。
  何もかもが中国に寄り添う行動になるというプレッシ
 ャーの中での研究などの行動となる。
  この様に、きめの細かい情報を本国へ伝える工作員が
 存在しているということが分かる。
  その存在はものすごく厚い・・
.
2019年、中国の地の覇者は、以前からズーット漢民族であ
 ったのではない。
  色々な民族が、入れ代わり立ち代わり中国の歴史をつ
 ないで来たのだった。
  漢民族の現政権は、「中国、5000年の歴史」と言って
 いるが、中国の文明の発祥からの歴史の事を言っている
 のであって、現政権の漢民族の歴史が、さも、5000年間、
 続いたように言うのは大間違いで・・錯覚させている。
  中国の漢民族の現政権の歴史は『数十年』である。
  「つい、この間」という歴史である。
  漢民族の現政権の歴史は、新参者の新興なのである。
  現政権の漢民族中国政権は、この様な錯覚を「この他
 にも、色々、行なって」いて、世界を錯覚させ、その様
 に思わせている・・
  色々な事で、事実の誤認を起こさせているから注意を
 要する。
  「中国人民解放軍」と言わせられているが、その実態
 は『中国人民侵略軍』である。
  この中国共産党軍は、中国に接する近隣諸国の侵略ば
 かりをしている。
  解放とは程遠い事ばかりをしている。
  近隣諸民族の殺戮と弾圧である。
  チベット、ウイグル、内モンゴルなどは、とうとう、
 中国の国の様にされてしまっている。
  この他にも、ベトナムなどは、何度も、共産中国軍(
 中国人民侵略軍)の侵略を受けたか知れないという悲惨
 な歴史となっている。
  そして、今、ネパールやブータンが怪しい・・
  また、「中国東北部」と呼ばされている地域は・・『
 満州族の地域』であった・・
  そして、今は、その民族が、満州族が、まったくこの
 地域に居ないという事である・・
  殺されたのか? 追放されたのか? 不明であるが?? 
  だが本来は、まったく中国とは関係のない地域で・・、
 「中国東北部」ではなく、『満州族部』とでも呼ぶべき
 地域だった・・強いていうのなら「中国東北侵略部」。
  万里の長城のはるか北にあるこの地を、なんで中国と
 呼ぶのか?・・である・・その様な地ではない。
  万里の長城のはるか北のこの地を、中国と呼ぶのは『
 不適切である』。
  中国は、この万里の長城の北の「外の地」を、まった
 く関係ないという意味の『化外の地』として・・中国の
 力の及ばない他民族の地としていた・・
  だから、その中国と関係のない民族が、中国の地に入
 って来ない様にと「万里の長城を築いた」のだった。
  中国は、この様な地を『中国東北部』と呼はさせて、
 世界を錯覚に陥(おちい)らせようとしている。
  満州族の地の痕跡を消そうとしている。
  「中国東北侵略部」なのである。
  「チベット」も「ウイグル」も「内モンゴル」も、皆、
 同じ『中国侵略部』である。
  チベット民族は、隣国のインドに、チベット亡命政府
 を樹立している。
  1959年から、ダラムサラに、中国の侵略・軍事制圧か
 ら逃れた人々が建設を始めた。
  1953年3月、インド政府は、チベット本国を追われたダ
 ライラマ14世に対し、この地を提供し・・
  1960年、チベット亡命政府は発足した。
  そして、各種の官庁も築かれた。
  この様に、国際法無視の行動をする中国は、グローバ
 ル化が進むと「都合が良いと考えている」。
  自らは漢民族の世界にしようとしているが・・それ以
 外の民族性を薄めたいと、グローバル化が都合よいと考
 えている。
  中国は、南シナ海も、近隣諸国の領地を奪い軍事基地
 化した・・
  これはアメリカの真似をしている・・
  それを阻止したのが日本だった・・日本は大きな戦争
 をした・・その戦いの後、アジア諸国は独立して行った。
  今、その諸国=ASEAN(東南アジア諸国連合)は、
 次の世界の繁栄の中心になろうとしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive