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2018年05月01日

(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)

題:(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年12月16日、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」
 が初演された。(カーネギー・ホール)
  https://www.youtube.com/watch?v=9n8R3x68yuI
  https://www.youtube.com/watch?v=tsi5eJp4EVY
  この曲は、ドヴォルザークのアメリカ滞在中(1892年
 ~1895年)に作曲された。
  アメリカの黒人の方々の音楽が、彼の故郷のボヘミア
 (現在のチェコの西部・中部地方)の音楽に似ているこ
 とに刺激を受けて、「新世界から」故郷ボヘミアへ向け
 て作られた。
  1893年12月15日、楽譜が出版され・・、
  1893年12月16日、ニューヨークのカーネギー・ホール
   にて、アントン・ザイドル指揮、ニューヨーク・フ
   ィルハーモニック協会管弦楽団によって初演された。
   初演は、大成功だったという。
  因みに、日本初演は、1920年12月29日、東京の帝国劇
 場において、山田耕筰指揮、日本楽劇協会によって行わ
 れた。
  また、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、シュー
 ベルトの交響曲第7(8)番『未完成』とともに「3大交響曲」
 と言われている。
1893年12月19日、衆議院で安部井磐根らの提出した現行条
 約励行建議案が上程された。
  条約改正を遂行する政府は、衆議院の10日間停会を決
 定した。
  第5回帝国議会は、1893年11月28日~1893年12月30日ま
 で開かれたが、星亨・衆議院議長の不信任決議案の可決
 などで荒れた・・星亨は居座った。
  この帝国議会は、与党化した自由党と、野党硬六派の
 対決の議会だった。
  (参考)硬六派は以下の6党だった。
     立憲改進党(自由党との民党連合がうまくいか
      なかったため対外硬派に転向した)
     東洋自由党(かつての自由党左派・大井憲太郎) 
     国民協会(西郷従道・品川弥二郎が下野して1892
      年6月に結成された)
     大日本協会(元「内地雑居講究会」安部井磐根)
     同盟倶楽部(元吏党)
     政務調査会 
  この条約励行建議案提出は、進行中の条約改正の阻害
 になるため、議会が停会となり、解散された。
  また、大日本協会に解散が命じられた。
  大日本協会は、明治政府の外交を柔弱と非難して、「
 条約励行・自主外交・対清強硬」を掲げた。
  また、対等条約締結以外の一切の条約改正の拒否し、
  また、内地雑居反対論などを掲げた。
  しかし、大日本協会内の一部過激派が、外国人襲撃事
 件を起こした。
  そのために、日英通商航海条約締結を目前とした政府
 の態度は硬化し、条約励行建議案に対抗するために衆議
 院解散が行われた。
  そして、1893年12月29日、突如集会及政社法の対象と
 なる政治団体の指定を受け、その日のうちに、大日本協
 会は度重なる外国人襲撃事件を理由として、解散を命じ
 られた。
  政府与党は抑制的で、また、野党は好戦的だった。
1893年12月20日 筑豊興業鉄道の中間駅~筑前植木駅間が複
 線で開通した。
  筑前植木駅は、福岡県直方市大字植木にある九州旅客
 鉄道(JR九州)筑豊本線(福北ゆたか線)の駅。
  1893年12月20日、底井野信号場~植木間を複線化。
   植木信号所を駅に変更。
  1893年12月20日、信号所から信号場に格上げ、植木駅
   として開業した。
1893年12月23日、フンパーディンク歌劇ヘンゼルとグレー
 テルが初演された(ヴァイマル)
  (参考)エンゲルベルト・フンパーディンク :1854年
     9月1日~1921年9月27日、ドイツの作曲家。
      ジークブルク生まれ。ケルン音楽院などで学
     ぶ。1890年旅行中にワーグナーに巡り会い、助
     手を務めるようになる。
      その後、作曲教師や音楽批評家として活躍。
      代表作品は、ワーグナーの楽劇の手法を組み
     入れたオペラ「ヘンゼルとグレーテル」(1893年)
     オペラ「不本意な結婚」(1905年)など
  (参考)ヘンゼルとグレーテル:グリム兄弟の『子供
     と家庭の童話』に収められた昔話。
      森に捨てられた兄妹が菓子でできた家に行き、
     魔法使いの老婆に捕えられる。
      ヘンゼルは閉じ込められて太らされ、グレー
     テルは下女代りに使われるが、老婆を殺して宝
     石を奪い、かもの助けをかりて家に帰りつく。
  (参考)ヴァイマル:ドイツ・テューリンゲン州の都
     市。面積は84,27 km2、人口は約64,000人。
      1999年に、欧州文化首都に選ばれた。
1893年12月25日、関根常五郎が、墨汁の特許を取得した。
1893年12月26日、毛沢東が誕生した。
  中国共産党中央委員会主席・中華人民共和国初代国家
 主席(~1976年)
  1893年、下層中農の子に生れる・・、
  1911年(18歳)辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参
   加する。
  1913年(20歳)湖南省立第一師範学校に入学し、在学
   中に進歩的青年団体「新民学会」を組織した。社会
   的政治的活動に踏出した。
    五・四運動のなかで、湖南の学生連合会機関誌『
   湘江評論』の編集と執筆にあたる・・、
  1920年(27歳)夏頃からマルクス主義者となって、社
   会主義青年団の地方組織をつくる。
  1921年(28歳)7月、上海における中国共産党創立大会
   に湖南代表として出席する。
  1923年(30歳)6月、三全大会で中央委員に選ばれる。
  1924年(31歳)国共合作が成立すると国民党中央委員
   候補に選出された。
  1926年(33歳)国民党二全大会で再選、さらに、広州
   の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努
   める。
  1927年(34歳)国共分裂後、秋収暴動を組織、指導し
   たが、失敗。井崗山にたてこもる。
  1928年(35歳)4月、朱徳の部隊と合流し、中国工農紅
   軍を組織し、その政治委員となった。
   以後、農村の土地革命、紅軍強化、ソビエト政権樹
   立などのために戦う。
  1931年(38歳)11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和
   国臨時政府が樹立され、主席に選出された。
  1934年(41歳)再選。
   その後、5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦う。
  1934年(41歳)10月、根拠地の移動を余儀なくされ、
   長征を開始、途中の貴州省遵義・・
  1935年(42歳)1月、中国共産党中央政治局拡大会議が
   開かれた際、党中央の指導権を握った。
   1931年以来、日本軍事が強まるなかで、内戦停止と
   一致抗日を呼びかけた。
  1936年(43歳)西安事件を契機に日中戦争勃発する。
   (参考)西安事件:1936年12月12日、共産軍討伐の
      ため、陝西省の西安に駐屯中であった張学良
      麾下の東北軍と楊虎城の十七路軍が、南京か
      ら西安へ督戦(とくせん、部下を激励・監視
      して戦わせること)に来た蒋介石を監禁し、
      国共内戦の停止と挙国一致による抗日を要求
      した事件。
       一時、国民党が西安攻撃の構えをみせ緊張
      状態となったが、斡旋にあたった共産党の周
      恩来の要求を蒋介石がいれたため、1936年12
      月25日に釈放された。
       1936年12月26日のこの翌日、蒋介石は共産
      党と連合して抗日にあたる旨の声明を発表し
      たため、第2次国共合作が進み、抗日民族統一
      戦線の結成がなされた。
       張学良は事件解決直後、蒋介石が南京に戻
      るときに軟禁され、1949年台湾に連行された。
       中国側からの戦争行為によって日中戦争の
      勃発状態となる。
  1937年(44歳)9月、国共合作が成立し、この間、1937
   年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主
   義と経験主義の誤りを批判した。中国独自の革命理
   論を展開した。
  1938年(45歳)『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理
   論的根拠を明らかにし、人民戦争論を打出した。
  1940年(47歳)『新民主主義論』で新民主主義革命の
   理論を深めた。
  1942年(49歳)整風運動を指導した。
  1945年(52歳)『連合政府論』のなかで民主連合政府
   の必要性を説いた。
  1945年(52歳)4月、七全大会で党中央委員会主席に選
   出された。
  1945年(52歳)8月、日本の敗北後、民主連合政府を樹
   立するため蒋介石と交渉を行なった・・国府はアメ
   リカと連携。
  1946年(53歳)夏から解放区に全面的な攻撃を開始し、
   約3年にわたる内戦。
  1949年(56歳)10月1日、中華人民共和国の成立と同時
   に中央人民政府主席に選ばれ、中国の最高指導者と
   なる。
  1954年(61歳)9月、第1回全国人民代表大会で憲法が
   制定され、共和国国家主席に選出される。
  1959年(66歳)辞任し、劉少奇に代わる。
   1945年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の
   政策を指導した。
  1965年(72歳)文化大革命でその先頭に立った(~
   1969年・76歳)まで。
  1972年(79歳)R.ニクソン大統領、田中角栄首相らと
   会見し、国交正常化に努める。
  1976年(83歳)天安門事件で、鄧小平の解任と華国鋒
   の総理就任を提案する。
  1976年9月 83歳で死去。
1893年12月28日 鉄道局出納官吏任命規程が制定された(逓
 信省達第6号)
1893年12月28日 逓信省出納官吏身元保証金取扱規程を制定
 した(公達第542号)
1893年12月29日、衆議院で、再度、現行条約励行案が提出
 された。
  政府方針は条約改正で、陸奥宗光外相が条約励行案反
 対を演説した後、政府は衆議院の14日間停会を命じた。
  また、現行条約励行案を提出した大日本協会の解散を
 併せて命令した。
1893年12月30日、衆議院が解散された。
  星亨議長の弾劾案を衆議院で可決し、伊藤首相は第五
 議会を解散した。
  2回目の衆議院解散だった。
1893年12月31日、参宮鉄道の津駅駅~宮川駅間が開通した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:エリートが、霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
   やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
   占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
   事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
   ことを知らねばならない・・と・・
.
紀元前2350年、アッカド帝国の成立
  アッカド帝国は、チグリス・ユーフラテスの流域(上流
 域から下流域)に成立した帝国である。
  しかし、キリスト教は、モーゼの「エジプト脱出」の
 話を成立させたいため、メソポタミアのウルからヘブラ
 イ人が、エジプトへ向かったとしたい・・
  しかし、このキリスト教の話は、このアッカド帝国の
 領有する地域から考えても無理筋な話となっている。
  キリスト教の成立の最初の方々である「ウルのヘブラ
 イ人」は、このアッカド帝国の領内の上流域へ、チグリ
 ス・ユーフラテス川の上流域へ向かった。
  (エジプトへは向かっていない)
  アッカド帝国時代(紀元前2350年~紀元前2113年)・・、
  この「アッカド」とは、サルゴンが作ったバビロニア
 の北にある中心都市「アガデ」の別称である。
  そこの住民は、シュメール語と異なるセム語派のアッ
 カド語を話すため、シュメール人からアッカド人と呼ば
 れた。
  アッカド王のサルゴンは、当時では特殊であった常備
 軍を有することで、シュメールに対する軍事的優位性を
 確保すると、統一されたばかりのシュメールに攻め入っ
 てルガルザゲシを破り、シュメール地方とアッカド地方
 からなるメソポタミアの統一を果たした。
     ・
     ・
紀元前484年頃、ブッダが最後の旅に出る。
  ブッダは、最晩年の1年間、最後の旅と言われる旅に出
 られました(入滅は紀元前483年頃)
  多くの弟子と共に、ラージャグリハ(霊鷲山)から降
 り・・そして、旅へ・・
  霊鷲山(りょうじゅせん)は、インドのビハール州の
 ほぼ中央に位置する山。
  仏陀(釈迦佛)が、無量寿経や法華経を説いたとされ
 る山・・、
  誰にもやがて訪れる死・・、
  ハーハーと息を弾ませながら霊鷲山の階段を登る・・、
  人生の旅路の最後で、人は、老いや死と、どの様に向
 き合えば良いのでしょうか・・、
  およそ2500年前、その問いに一つの答えを出した人が
 居ました。
  その人の名は、ゴーダマ・シッタールダ(パーリ語形、
 釈迦。仏教の開祖)
  人々からは目覚めた人・仏陀(ブッダ)と呼ばれまし
 た。
  最後の階段を昇る・・
  ナマステ。ナマステー。
  (遠くから、お経を上げる声が聞こえる)
  (参考)ナマステ: サンスクリット語、インドやネ
     パールで交わされる挨拶の言葉。
  生きること、老いること、病(やまい)、そして死。
  人生は苦しみに満ちている。
  仏陀は、その苦しみと、「共に生きること」を説き続
 けました。
  (キリスト教は「人は生まれながらに原罪があるとし、
 神に救って貰うとした」・・とは違う)
  「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナン
 ガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」・・
  「何という静かな場所なんだろう」。
  仏陀が、最晩年に至るまで教えを説いたこの霊鷲山を
 初めて訪れました。
  ちょうど、齢80を迎える頃に、この霊鷲山に滞在し
 ていた仏陀は、そこから山を降りて、そして、大変困難
 な旅、ガンジスを超えて、北へ北上するという、6ヶ月・
 数百キロにおよぶ旅に出発される・・、
  そして、その最初の出発点がこの霊鷲山・・、
  一体、仏陀が80歳になって何を感じ、そして、大変
 困難な旅に出発する、その最初の動機は何であったんだ
 ろうかというふうに勝手に想像します・・、
  人間というものは、ある時期に達すると、自分の人生
 というものを振り返ってみながら、そして、その自分の
 人生の締めくくりという様なことを 否でも応でも感じ
 ない訳にはいかない訳です・・、
  仏陀が死を迎える・・
  死への旅である、そして、最後の旅である その仏陀
 の死の旅の足跡を、自分の人生に重ねてみる・・、
  不思議な感じとなる・・
  霊鷲山にある仏像・・手を合わせる・・
  悟りを開いて45年・・、
  常に布教・伝道の旅にあった仏陀・・、
  80歳で、ここ霊鷲山を旅立ちます。
  それが最後の旅になりました。
  苦難に満ちた旅の中で、仏陀その人は、いかに老いを
 受け入れ、病(やまい)に耐え、そして、どの様に死を
 迎えたのか・・
  およそ2500年前、釈迦族の王子として生まれながら、
 出家し、苦行のはてに悟りをひらいた仏陀・・、
  その教えは、時を越え、多くの人々の中に広まって行
 きました・・
  人は、何故、苦しむのか、苦しみと如何に向きあうの
 か・・、
  仏教2500年の歩みは、その「問いかけ」の歴史でもあ
 りました。
  21世紀を迎えた今も、人々は変わらず多くの苦しみ
 を抱いています。
  その中にあって仏教は何をなし得るのでしょうか・・
  ブッダ最後の旅 インド
  さまざまな伝説に彩られ、なぞに満ちた仏陀の生涯。
  しかし、その晩年については克明な記録が、いくつか
 の経典として残されています・・、
  大般涅槃経や、ダイパリミッパーナ経。
  そこには、仏陀の死と、最後の旅の様子が記されてお
 り・・、
  霊鷲山から旅立つ前、仏陀は弟子達を集め、悟りに至
 る道について次のように説かれました。
.
  戒律と共に修行して
  完成された精神統一は 
  大いなる果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  精神統一と共に修養された智慧は、
  偉大な果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  智慧とともに修養された心は、
  もろもろの汚れ、すなわち、
  欲望の汚れ、
  生存の汚れ、
  無明の汚れから
  『 まったく解脱 』 する。 
.
紀元前473年~紀元前463年、第1回仏典結集。
  仏典結集(ぶってんけつじゅう)は、仏教経典の編集
 で・・、
  伝説によると、釈尊の入滅後、弟子たちが王舎城に集
 って釈尊の教えを唱集した(口伝の教法・ダルマを集成・
 整理して、後世に伝えた)
  釈尊に常侍した阿難が経典を暗唱、他の者が唱和し、
 優波離 (うぱり) が律を暗唱、他の者が唱和した。
  こうして釈尊の教えの記憶を確かめ、その正しい伝承
 に努めた。
  これが第1次結集。
  (有能な弟子500人が、マガダ国の首都ラージャグリハ・
 王舎城に集まって行なった)
  この時、釈尊の侍者アーナンダ(阿難)が中心となっ
 て教法が結集され、ウパーリ(優婆離)が中心となって
 戒律(ビナヤ)が結集された。
  100年後に第2次結集を行い、アショーカ王の援助で第
 3次を、カニシカ王の援助で4次結集を行なったという。
  三蔵(経・律・論)の成立をみた。
.
317年、日本へ伝わった大乗仏教は、インドのマウリア朝
 (紀元前317年頃~紀元前180年頃)で繁栄した。
  その後、アフガニスタンのクシャーナ朝(1世紀頃~3
 世紀頃)を経て・・
  中央アジア(西域に紀元前1世紀~紀元1世紀)、
  敦煌を経由し、長安(紀元前1世紀~紀元1世紀)を経
 て中国に伝わった。
  そして、百済(384年)、日本(538年)に伝わった。
  因みに、仏教は、中国に入った後、儒教や道教の持つ
 「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」を取り入れた。
.
6世紀、この頃、インドから達磨(だるま)が、中国へ来て
 禅を起こした。
  その後、6世紀半ば、朝鮮半島を経由して日本に入った。
  高句麗(372年)、新羅(528年)
.
6世紀後半、チベット仏教(ラマ教)ができた。
  4世紀~5世紀のインドでは、バラモン教の呪術、天文
 学、医学、薬学などを取り入れた密教が作られた。
  さらに6世紀後半に、チベットの吐蕃(とばん)王朝が、
 密教を中心としたインドの仏教を学び、それをチベット
 の独自性を融合させてチベット仏教(ラマ教)ができた。
     ・
     ・
1947年、日本人の平均寿命・・男:50.06歳、女:53.96歳
  参考に・・
  2016年、男:80.98歳、女:87.14歳、
  未来の2060年、男:84.19歳、女:90.93歳、
.
1950年、チベットが、中国に乗っ取られている。そして、
 多くのチベットの方々が中国に殺されている。
  以下は、1950年~1976年の間の中国の侵略で死んだチ
 ベットの方々の犠牲者数である。
  戦闘・抵抗活動中での死亡・・432,705人
  処刑死・・・・・・・・・・・156,758人
  拷問死 ・・・・・・・・・・・92,731人
  強制収容所・刑務所での死亡:173,221人
  餓死・・・・・・・・・・・・342,970人
  自殺:・・・・・・・・・・・・9,002人
  計:・・・・・・・・・・・1,207,387人
.
2003年4月20日、朝日新聞が、また、ひどい記事を書いた・・
  それを、百田尚樹氏が、ツイッターに、「昔、朝日新
 聞は、『北朝鮮からのミサイルが日本に落ちても、一発
 だけなら誤射かもしれない』と書いた。
  信じられないかもしれないが、これは本当だ」・・と、
 ツイートした。
  2003年4月20日に、朝日新聞が、東京版朝刊第2面に書
 いたこの記事は・・
  2017年4月24日、朝日新聞の政治部次長は、「確かに、
 書いていました」と認めた。
  そして、朝日新聞は、「一般論で書いた」と言い訳に
 ならない言い訳をした。
  それに対し、世論は・・、
  「核ミサイルを撃ち込まれて、焼け野原になって、皆
 が蒸発して居なくなって、一般論でしたという論理が通
 じる訳はないだろー」・・と、軽蔑(けいべつ)を交え
 て反論した。
.
2009年1月20日、アメリカのオバマ大統領の就任式が行われ
 た。
  アメリカのオバマ大統領が就任したこの年は、アメリ
 カが起こした卑劣な経済犯罪の「リーマンショックの直
 後」だった。
  2009年のアメリカ経済の成長率は、マイナス2.78%と
 いう最悪の状況だった。
  オバマ大統領は、当然、経済を軌道に乗せ、アメリカ
 経済の活力を取り戻したいと考えていた。
  マスコミも、オバマ大統領の1年目は、アメリカ経済が
 全面的な恐慌に近づくくらいのグレートリセッション(
 大不況)を経験したと報じた・・
  1929年~1930年の大恐慌の初期より「大きく落ち込む
 ほどだ」と報じた。
  オバマ大統領は、金融業界と自動車業界の救済を主眼
 点としていた。
  アメリカのデトロイトの自動車企業は、オバマ大統領
 に「30兆円の金を出せ」と言った。
  また、「金融機関には150兆円の金を『緊急だ』と言っ
 て出してるではないか」と言った。
  ゼネラル・モーターズ(GM)や、クライスラーや、
 フォードの三社は、オバマ大統領から注文を付けられた。
  言われたことは・・
  「国際競争力を回復する研究をせよ、努力をしなさい」
 と言われ・・
  そして、その為の研究課題などが言われたが、ピント
 はずれのトンチンカンな返事をした。
  それは、後ろ向きの案ばかりだった。
  「社長の給料を削ります」
  「労働者を減らします(首切り提案)」
  「工場閉鎖をして、経費節減をいたします」・・など
 だった。
  アメリカ国民の方々は、「努力もしないで、競争に負
 けた会社に、国民の金を使うな」と言った。
  日本の鎌田実氏の「頑張るな」が伝染した訳ではない
 だろうが・・? 努力する姿勢はまったく無く、後ろ向
 きの案や姿勢ばかりで・・金だけをせびった。
  鎌田氏もキリスト教徒で、キリスト教の活動方針に沿
 った「頑張るな発言」をよくしていたが・・
  努力もしないで「金ばかりをせびる姿」に、アメリカ
 国民の方々は怒った。
  第二次世界大戦の時は・・、ルーズベルト大統領が、
 第二次世界大戦を起こして、アメリカが恐慌で、「経済
 がどん詰まり状態だったのを打開して、経済を上向けた
 いという策として、この様な卑劣な戦争を起こすという
 手を打ったが・・
  この時は、ゼネラル・モーターズ(GM)などは、タ
 ンクや大砲を、どんどん作って潤(うるお)い、息を吹
 き返したが・・
  この時のオバマ大統領は、ルースベルトの様な卑劣な
 手を使う様な汚い大統領では無かった・・
  そして、そんなに甘くは無かった・・
  当然である。
  アメリカ国民の方々へ「極秘」にして、戦争を起こし
 たルーズベルトとは違っていた。
  オバマ大統領は、当然、この様な卑劣な、非人道的な
 事はしなかった。
  アメリカ共和党も、ゼネラル・モーターズ(GM)な
 どが、自由競争に負けたのは「怠けた自動車企業の自業
 自得だ」と言った。
  「怠(なま)けた君たち自身が、責任を取れ」と言っ
 た。
  「政府は甘やかすな、政府の救済には反対だ」と言っ
 た。
  議事妨害をしてでも反対する・・阻止すると言った。
  正義の共和党だった。
  オバマ大統領も正義の人だった。
  ここで思い出されるのが、キリスト教に偏するNHK
 で・・、
  NHKは、国民の祝日という日のたびに、「特別番組
 を組んで」、長時間番組として「頑張るな」のキャンペ
 ーン放送を常に続けた。
  キリスト教徒の鎌田実氏は、常に、NHKに呼ばれる
 という最大の恩恵を受けていた。
  キリスト教の「頑張るな運動」に同調するNHKだっ
 た。
.
2015年9月4日、EUの難民騒ぎは・・最悪の状態だった。
  当然、難民の方々に「幸せになる権利があった」。
  そして、ドイツには、第二次世界大戦の非人道的行為
 の反省から生まれたドイツ基本法があって・・
  「難民の方々を救済する事が決められていた」。
  豊かなドイツ・・EUで、唯一の経済的に豊かな国。
  その豊かさを求める難民と称する人々。
  存在する格差を縮めたいと、豊かさを求めてドイツへ
 向かう人々。
  ドイツは、自国の基本法を遵守する事は出来なかった・・
 守り切ることが出来なかった。
  国が壊れて行く状況だからだった。
  この様な事態に、さすが、基本法といえども守れない
 ドイツがそこにあった。
  そのしわ寄せが・・「難民通過国のハンガリー」に行
 った。
  ドイツが、事実上、放棄したドイツ基本法のしわ寄せ
 で、ハンガリーに「難民が溜まり出した」。
  ハンガリーも限界を超えた。
  早く言えば・・、「難民救済のお金をやるから来ても
 良いよ」と言った『救済する基本法を持つドイツ』へ向
 かった難民の方々を、ドイツが拒否したようなものだっ
 た。
  唯一の豊かなドイツが、難民の受け入れが、我が国の
 最大の方針ですという「宣言を取り下げた形」となった。
  豊かではないハンガリーは、そのとばっちりを受けた
 形となった。
  しかし、可哀想に、ドイツほど豊かではない、難民を
 受け入れる余裕のないハンガリーに、非難は集中した。
  国が保てないから国境に柵を作れば、「非人道的だ」
 と責められ・・
  難民を受け入れて、その受け入れ施設が、超満杯状態
 になれば、それで待遇が悪くなれば、その待遇が刑務所
 のようだと、非人道的だと責められた。
  やむなく・・「ドイツ行の列車」を、難民が乗った列
 車をドイツへ行く列車を、発車させれば・・何故、発車
 させたのだと責められ、「ハンガリーの首相は独裁者だ」
 と言われた。
  ハンガリーのオルバン首相は怒っていた。
  「この問題は、ドイツの問題だ」と核心を突いた非難
 をドイツに対して行なった。
  結局、グローバリズムを守り切る気概が無いのに、問
 題を他国のハンガリーへ押し付けるところに齟齬(そご、
 意見や事柄が、くいちがって、合わないこと)があった。
  難民の方々は、この両国の間(ハザマ)で、業を煮や
 して(ごうをにやして)、徒歩で、オーストリア国境へ
 向かい始めた・・ドイツへの歩みを始めた。
  ハンガリーから続くその道を歩く列が、何キロも続い
 た。
  その状況が、上空から撮影されて、テレビで放送され
 た。
  「EUの起こした罪」の姿が放映された。
  2015年9月4日に、EUに起きた悲劇だった。
  主犯は、ドイツだった。
  財産もすべてなげうって、病気の方も居られるだろう、
 乳飲み子(ちのみご)を抱えた女性の方々も居られるだ
 ろう・・大人とともに歩く幼子も居ただろう・・
  しかし、EUの誰もがも、救いの手を差し伸べない放
 置された歩く姿がそこにあった。
  キリスト教会の前も通って歩いてドイツへ向かったの
 だろう。
  キリスト教国のEUに起きた事だった。
.
2015年9月4日、キリスト教国のEU国内を歩き出した難民
 の方々。
  難民の方々は、EU諸国が、あまりに冷たいので、強
 硬手段を取った。
  難民の方々は、歩いて豊かなドイツへと向かった。
  EU内の唯一の経済強国のドイツへと向かい出した。
  自分も幸せになりたいと・・。
  ご老人も、乳飲み子を抱える女性も、やっと歩くこと
 が出来る幼児も・・その列は延々と続いた。
  本当は、この列が、ドイツにとっての選別の篩(ふる
 い)の役をした・・
  山を越え、谷も越え歩き・・キリスト教会の前も通り、
 その教会の救済の一人も出ない状況の中を歩き続けた。
  この様な時、哀(あわ)れな3歳児の死体の写真が報
 道された。
  波打ち際に横たわり、波に揺れる幼児の死んだ姿だっ
 た。
  第一に保護すべき幼児が、この様な姿になっていた・・
  そして、その子を保護する親もその海を越えられず、
 この子と同じ運命となったのだろうと想像された。
  この報道が、EUの冷たさを反省させ、驚愕させた・・
 自分の冷たさに改めて気づいたEUだった・・
  以下が、その時の報道・・
  題:幼児溺死写真の反響広がる・・難民受け入れ義務
   で仏独が合意・・
  [3日 ロイター]地中海を渡って欧州を目指す難民
 や移民が急増している問題で、フランスのオランド大統
 領は3日、欧州連合(EU)全域で「難民受け入れを割
 り当てる恒久的で義務的なメカニズム」について、ドイ
 ツのメルケル首相と合意したと語った。
  メルケル首相は、ドイツが近隣諸国より多くの難民を
 受け入れる用意があるとし、「公正で、それぞれの国に
 可能なことを考慮した割り当てやルール」に沿って各国
 が役割を果たす必要があると強調した。
  一方、トルコの観光地ボドルム近郊の砂浜で横たわる
 溺死した幼児の写真が、ソーシャルメディア上で広がり
 大きな波紋も呼んでいることについて、フランスのバル
 ス首相は、「欧州全域で緊急な対応が必要だ」とツイッ
 ターに投稿。
  欧州各国の政治家にも反響が広がった。
  死亡したのは、シリア難民のアイラン・クルディちゃ
 ん(3歳)で、家族らとともにボートでギリシャに向か
 っていたところ転覆し、一緒に乗っていた5歳の兄と母
 親も死亡したという。 ・・以上・・
  この報道を見たEU内に、「この悲劇を見過ごす事は
 罪だ」「トボトボ歩いている難民を救え」という声が高
 まった。
  2015年9月5日、ドイツは発表した、「『例外措置』と
 して、ハンガリーにいる難民を受け入れる」・・と・・
  ダブリン協定を、あっさりと「無視した」。
  しかし・・ドイツは、その後・・この辺について「奥
 歯にものが挟まったように言った」・・、
  「ダブリン協定は、治安維持のために、一時停止した
 だけだ」・・と・・
  とぼとぼ歩く難民の方々へ、バスが差し向けられたが・・
 何とも、先行きが曇るドイツだった・・
  難民の方々も、この行為を疑って、バスに乗ることを
 拒否した・・ハンガリーへ連れ帰される罠(わな)だと
 思った・・ドイツやEUのやることに信頼性を失ってい
 た難民の方々が、そこに居た・・
  ドイツ行の列車も次々と発車していた・・、
  2015年9月5日に、ミュンヘン中央駅に着いた難民は、
 8000人・・、
  そして、その翌日・2015年9月6日は、13,000人だった・・
  「ドイツの人道主義の勝利だ」と報道するドイツ・メ
 ディアもあった。
  しかし、ここまで来れた難民の方々は、体の強い方々
 だけの「一部の人たち」だった。
  また、実は、裏話があって・・お金のある人は、この
 難民を運ぶことを「にわか商売」にした「人の移動手段」
 を使ったという・・だから、また、お金のある人がここ
 まで来れた。
  その様なにわか商売の人が色々と居たという・・
  金さえあれば何でもできたという・・この様な「にわ
 か商売人」を利用できた人たちがたどり着けた・・
  髭剃り屋も居たし・・スマホの充電屋も居た・・物売
 り屋も出ていて、金さえあれば困ることのない状況だっ
 た・・と・・
  また、色々な斡旋業者も出て、難民が困っていること
 を処理してくれたという・・
  つまり、この難民の方々は・・やっとたどり着いたと
 いうボロボロの状態ではなく・・報道陣のカメラにVサ
 インをして笑顔を見せるという人たちだった・・
  多分、本当に困っている難民の方々は、列の後方に居
 て・・どこかで力尽きて、とどまっているのだろう・・
  その方たちは、報道されることは無かった。
  そして、おかしなことに?? この到着した難民の方々
 へ、メルセデス・ベンツ社が言った・・「まさに、この
 様な人々を、この様な人材を、わが社は求めている」と・・
 代表取締りの言葉だった。
  つまり、この到着した人たちは、経済力のある、英語
 も通じる・・
  そして、裕福だった人々が多く、それなりの教育を受
 けている人々だった・・
  ドイツの産業界は、そのことを知っていた・・
  そして、安価で、良質な、やる気のある労働力が手に
 入り込んで来たと・・捉(とら)えていた。
  安い良質な労働力が得られたと喜んでいる産業界だっ
 た・・
  ドイツでは、この後、この難民問題に、ハッピーエン
 ドで終わらない事態が続く・・
.
2018年、現代は、従来、絶対に公開されないとされて来た
 諜報に係(かかわ)る秘密文書が、続々と公開され、こ
 れまで真実とされて来た『歴史』が次々と修正されてい
 る・・この様な時代である。
  また、「マオ」という本には、毛沢東は、二十世紀最
 大の殺人者、大悪党であったという事が、豊富過ぎるほ
 どの事実をもって示されている。
  「敵の中に、秘密の同盟者を持て」という言葉がある。
  これが、軍隊なら何個師団にも相当すると言われてい
 る。
  今・現在、日本の官僚、特に、外務省や宮内庁に居る
 のではと思わせる事が起きる。
  この様な危険性は、識者も言う・・、
  「エリートが霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
 やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
 占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
 事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
 ことを知らねばならない」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive