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2017年08月09日

(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)

題:(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年12月15日、ジェームズ・ネイスミス(カナダ、体育
 教育者)が、バスケットボールを考案した。
  この年、ルーサー・ギューリック体育学部長は、授業
 で学生たちに屋内競技の考案を課題として与えた。
  これは、冬季のニューイングランドで、学生たちが体
 を動かせるようにと意図したものだった。
  学生らが提出した様々な案は、ラグビーやサッカーの
 ように身体接触を含み、屋内には不向きのものが多かっ
 た。
  一方で、ギューリックは、ネイスミスが考案した競技
 に興味を持っていて、2週間の期間を与えて、さらに詳細
 を詰めるように指示をした。
  ネイスミスが考え出した競技は、ボールを持ったまま
 走ってはならない、身体接触・衝突をしてはならない、
 競技者の頭上に水平のゴールを置く、競技者はいつでも
 ボールを奪い、得点することができる・・という基本的
 なルールを持った。
  高い位置に水平のゴールを置くことで、得点するには
 力よりも正確さが必要となり、怪我の機会が少なくでき
 ると考えていた。
  この新しい競技は、ラグビー、サッカー、ラクロスが
 ヒントになっていて、
  また、ネイスミスが、少年時代に近所の子供たちとし
 た遊びの要素も入っていた。
  この遊びは、物を置いて、それに石をぶつけるという
 ものだった。
  1891年12月21日、授業で、この競技を初めて行う時、
 たまたま手に入れた桃の籠を、体育館内のバルコニーの
 下に据え付けてゴールとし、サッカーボールを使って1
 チーム9人で行われた。
  競技は、学生の案で「バスケットボール」と名づけら
 れた。
1891年12月17日、鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を衆議
 院で審議した(特別委員会に付託)
  1891年11月に提出された内務大臣・品川弥二郎の「鉄
 道政略ニ関スル件」について、
  閣議は、これを修正して、12月14日、第2回帝国議会に
 鉄道公債法案・私設鉄道買収法案として提出した。
  1887年頃~1907年頃は、幹線鉄道の建設を盛んにした。
  地域社会は、みずから資本を調達して、私設鉄道を建
 設する意図をもつ例も少なくなかった・・が・・
  しかし、計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少
 なかった。
  この理由は、地域社会における資本蓄積が、まだ、十
 分でないためだった。
  軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除いて、その他の鉄道建
 設投資は、巨額な資本投下を必要とし、鉄道建設を行な
 うには、無理があった。
  しかし、その必要性は十分理解されていたため、多く
 の地域社会は、幹線鉄道のルート決定に際し、みずから
 の地域に有利なルートを採択させたいと努力した。
  翌年・1892年に、鉄道敷設法が公布され・・、
  わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ、かつ、
 帝国議会を通じて、地域社会の意志が鉄道建設に反映し
 て行った。
  この動きは活発化して行った。
  1891年11月に提出された「鉄道政略ニ関スル議」は、
 長文の文書で要点は2つあった・・、
  第1:将来の日本の幹線鉄道路線の決定
  政府は、そのための長期計画を立案し、着実に建設を
 行なうための法律、および、資金を得るための公債発行
 の法律が必要。
  第2:幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を、政府が買収
 すること。
  政府は、井上勝(いのうえまさる)の建議に基づいて、
 鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を、1891年12月、衆議
 院に提案した。
  しかし、「政府の私設鉄道の買収案」は否決され、「
 幹線鉄道路線計画案」は、議決に至らないうちに、衆議
 院は解散されてしまった。
  そして、翌年の1892年5月に、改選された帝国議会で、
 政府は、上記の2法案を、再び、提案した。
  衆議院議員の中からも、「鉄道拡張法案」、あるいは、
 「鉄道敷設法案」の名称で、各地の鉄道建設を促進する
 法案が独自に提案されたりした。
  政府の提案は、これらと折衷され、1892年6月21日、
 「鉄道敷設法」(明治25年法律第4号)として公布され、
 日本の大発展の礎となった。
  政府のしっかりした意思と計画(ビジョン)が示され
 た。
1891年12月18日、田中正造代議士が、足尾銅山の鉱毒問題
 に関する質問書を、衆議院に提出し、政府に対策をせま
 った。
  これは、銅山の開発により、排煙、鉱毒ガス、鉱毒水
 などの有害物質が、周辺環境に著しく影響をもたらすと
 いう日本で初めての公害事件だった。
  田中正造が中心となって、国へ問題提起するものの、
 加害者の決定がなされなかった。
  足尾地区では、江戸時代から銅は採掘されていたが、
 江戸時代前期をピークとして、産出量は低下し、幕末に
 は、ほとんど廃山の状態となっていた。
  明治になり、民間払い下げで、1877年(明治10年)に、
 古河市兵衛の経営となった。
  採鉱事業の近代化を進め、1885年までに、大鉱脈が発
 見され、足尾銅山は日本最大(東アジア一)の鉱山とな
 った。
  そして、銅は、日本の主要輸出品の一つとなった。
  (足尾銅山は、日本の産出量の1/4を占めた)
  それとともに、鉱毒ガスや、それによる酸性雨により
 足尾銅山近辺の山は禿山となり、
  山林の無くなった山地は崩れやすく、崩落・崩壊し、
 山崩れとなった。
  鉱毒を含んだ土砂は、渡良瀬川を流れ、下流で堆積し
 た。
  また、流出する土砂は、天井川となって洪水を起こし、
  流出する鉱毒は、鮎などの川魚を大量死させた。
  周囲一帯には、鉱毒ガスに満ちた。
  農産物は枯死し、廃村となる村も出た。
  対策工事は行われて、一定の効果はあるものの、
  技術のまだ未発達の当時は、その原因の根本である鉱
 毒ガスの無害化は出来ず、根本解決には至らなかった。
  1973年(昭和48年)に至り、足尾の銅は掘り尽され、
 閉山となり、公害は減少した。
  (精錬所は、1980年代まで操業し、鉱毒は流出した)
  鉱毒への闘い:
  鉱毒被害地の農民は、明治30年の1897年、大挙して東
 京へ陳情した(当時は「押出し」と言った)
  世論が高まると、政府は、同年・1897年3月、足尾銅山
 鉱毒調査委員会を設置した。
  そして、数度の「鉱毒予防令」を出した。
  特に、政府の行なった大規模なものは、1897年5月の第
 3回の予防令で・・、
  古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙
 突への脱硫装置の設置を命令した。
  これらは、どれもが、数十日の期限付きで、一つでも
 遅れた場合には『閉山する』という厳しいものだった。
  古河側は、当時、珍しかった電灯などを活用して、24
 時間体制で工事を行ない、すべての工事が期限内に完成
 することができた・・が・・
  すべての鉱毒(二酸化硫黄=亜硫酸ガス、銅イオンな
 どの金属イオン、鉛、カドミウム・・)の除去には至ら
 なかった。
1891年12月21日、鉄道買収法案審査特別委員会が開かれ、
 自由党の石田貫之助が、国有反対の意見を述べた。
  また、この日、九州鉄道会社は、下等旅客運賃の値上
 げを申請して(認可された)
1891年12月21日、日本鉄道会社が、23日までの3日間、東京
 帝国ホテルにて、『東京~青森間全通式』を挙行した。
1891年12月21日、ジェームズ・ネイスミスが考案したバス
 ケットボールの試合が、初めて行われた。
1891年12月22日、東京商業会議所が、私設鉄道買収に関す
 る請願書を提出した。
1891年12月22日、海軍大臣の樺山資紀が、海軍省経費削減
 反対の蛮勇演説を行なった。
  衆議院にて、薩長藩閥政府の正当性と功績を力説・
 高揚し、また、民党批判を行ない、反感を買い、議場は
 混乱した。
  1891年11月、第1次松方内閣が、翌年(1892年)の予算
 案を帝国議会へ提出したが・・、
  これは、海軍艦艇建造費275万円・製鋼所設立費225万
 円を含む、前年度比約650万円増となっていた。
  この予算案に対し、民党は、前の第1次山縣内閣時から
 の主張である「民力休養・政費節減」を継続した。
  そして、海軍内の綱紀粛正がなされなければ、予算は
 認められないなどとした。
  そして、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万
 を削減した予算改定案が提出された。
  海軍要求を無視するこの改定案に、樺山海相が反論し
 た。
  民党側議員は猛反発し、議場は大混乱した。
  この後、民党は、政府への反発を強め、衆議院で改定
 案を原案とする予算案が可決された。
  このため、松方正義首相は、12月25日に、初めて衆議
 院解散を行なった。
1891年12月22日、東京・京橋の広告社が、探偵業務の広告
 を出した(5月21日説あり)
  1891年5月21日付けの当時の『朝日新聞』に、帝國探明
 會という企業が・・、
  「詐欺師や盗人の所在を調べる。他人の行動調査を実
 施する」との広告を出した(国立国会図書館の蔵書にて
 確認)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は、世界を繰る、海外を広報戦略するために、
   膨大な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
.
1773年12月16日、ボストン・ティーパーティ事件(ボスト
 ン茶会事件)
  アメリカのマサチューセッツ植民地のボストンで・・、
  イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の
 急進派人々が、
  港に停泊中の貨物輸送船に侵入し、イギリス東インド
 会社の船荷である紅茶箱を海に投棄し、抵抗した。
.
1774年3月、ボストン港閉鎖を含む「耐えがたい諸法」と呼
 ばれる『弾圧法』をイギリスは出した。
  イギリスは、ボストン茶会事件の報復で・・
  ボストン港を封鎖し、
  さらに、強圧的諸条例を制定し、
  植民地のアメリカ側を屈服させようとした。
  「ボストン茶会事件の報復として、イギリスは・・、
 1774年3月、茶会事件の損害1万5000ポンドを弁償するま
 で、ボストン港を閉鎖する」とした。
  ボストン市民は、これを拒否し、
  マサチューセッツ住民やほかの植民地住民もこれに同
 調し・・大陸会議を結成して抵抗した。
.
1785年5月20日、アメリカで「交有地条例」ができた。
  アメリカが独立した当時・・、
  アメリカの領土は、アパラチア山脈の東側、大西洋岸
 一帯の約40万平方マイルに過ぎなかった。
  しかし、これが、1783年のパリ条約で、北はカナダ、
 南はフロリダ、西はミシシッピ川に至る・・88万9000平
 方マイル以上の、二倍となった。
  そして、自分たちに都合の良い「土地法」を制定した。
  1785年の『交有地条例』と、1787年の『北西部領地条
 例』。
  この交有地条例は、1785年5月20日にできた法律で、ア
 メリカ合衆国の連合会議で採択され、連合規約で規定さ
 れた。
  1781年に発足した連合会議は、合衆国の住民に直接課
 税して歳入を上げる権限を持たなかった・・
  そのため、この条例の目的は、アメリカ独立戦争でイ
 ギリスから得たと決めた(勝手な決定)、
   まだ、地図も出来ていない西方の広大な領土を売却
 して、現金を得ることにあった。
  また、北西部領地条例は、1787年に、アメリカの大陸
 会議によって制定された西部の政府組織法で・・、
  この年(1787年)、フィラデルフィアの合衆国憲法制
 定会議で起草された連邦憲法とあわせて、アメリカの基
 本法となった。
  独立戦争の結果、アメリカ領土となったオハイオ川以
 北の(いわゆる旧北西部地方)を、いくつかの地域に分
 け、
  まず、大陸会議の任命した総督による統治、
  次に、自由成人男子人口が 5000人に達したとき議会を
 設けて准邦 (州) となり、
  さらに、自由住民が6万人に達し、共和制に基づく憲法
 を制定することにより、独立 13邦 (州) と対等な邦 (州)
 として連邦への加入が認められる、という連邦への段階
 的加入を規定した。
  なお、3年後、南西部領地条例が制定され、「北西部領
 地条例が全西方領土に適用される」ことになった。
  勝手な法律を勝手に決めて、領土は自分のものとした。
.
1787年9月17日、アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に
 作成され、1788年に発行され・・
  現在、機能している世界最古の成文憲法だと言って、
 自慢げに説明されているが・・、
  奴隷については、『容認していた』。
  (人権無視の遅れているアメリカ)。
  1865年に、やっと、修正された・・、
  「修正13条(1865年)第1節:奴隷、または、その意に
 反する苦役は、当事者が適法に有罪判決を受けた犯罪に
 対する処罰の場合を除いては、合衆国、または、その権
 限の及ぶいかなる場所においても存在してはならない」
 となったが・・しかし・・まだ・・
  奴隷の存在は認められ・・、
  そして、逃亡した奴隷が自由になれるどころか、元の
 所に戻さねばならないとした・・、
  (奴隷状態に戻さねばならないとして)・・、
  (奴隷状態のままにしなければならない)とした。
  卑劣である・・奴隷制度を容認している。
  キリスト教聖書が、奴隷制度を容認しているが、
  アメリカ憲法も、奴隷制に対して違和感が無く、容認
 した。
  アメリカの北部政権は、リンカーンを記念堂に祀り(
 祭り上げ)、さも、リンカーンが、奴隷解放宣言をした
 から、黒人奴隷が解放されたというロジックで、『嘘の
 プロパガンダ』をしている。
  そしてまた、悪いのは、アメリカ南部のプランターの
 経営者たちだと、罪を擦り付けているが・・これは真っ
 赤な嘘。
  北部・資産家たちも、安価な労働力を得たいと、黒人
 の方々の奴隷労働力を利用していた。
  アメリカは、国全体で黒人の方々を虐(しいた)げて
 いた。
  今・現在でも、北部も南部も黒人の方々を差別し、虐
 げている。
  「北部は、黒人の方々を差別していない」なんて言え
 る状態ではない。
  アメリカは、皆、一緒くたに黒人の方々を虐げ、そし
 て、差別している。
.
1791年~1810年、アメリカにおいて、白人による、黒人の
 方々への差別行為に対しての「抵抗行動」が、この頃、
 ピークに達した。
  アメリカで、地歩を固めて来た黒人の方々は・・、
 特に、自由黒人の方々は・・、
  黒人のための独立の教会を作ったり、黒人のための学
 校を建てたりした。
  キリスト教会は、卑劣にも、白人の為のキリスト教会
 の立場で、黒人の方々を排除していた。
  黒人の方々は、このキリスト教会や、映画館、レスト
 ラン、学校、ホテル、喫茶店など、あらゆるところで差
 別され・・、
  ホテルなど入ることを拒否され、拒(こば)まれてい
 た。
  海水浴場でさえ差別され、「白人専用海水浴場」とい
 う低劣な差別の状況だった。
  これらの改善を求め、黒人の方々は行動した。
  そして、差別行為に抵抗し、白人の力に対抗した力に
 よる対立にも発展した。
  しかし、この力による抵抗行動を、アメリカの白人た
 ちは、「黒人暴動」と表現した。
  そして、歴史書に「黒人暴動起きる」と差別的に記し
 た。
  この白人たちが記す「黒人暴動だ」とされる黒人の方々
 の抵抗行動のピークは、1791年~1810年だった。
  1800年8月の「ゲイブリエル・ブロッサーの蜂起」は、
 大規模な抵抗行動だった。
  この蜂起は、1000人とも、10000人とも言われ・・、
  武装した黒人の方々も居て、また、奴隷の身分の黒人
 の方々も居た。
  しかし、アメリカ軍によって鎮圧されてしまった。
  この黒人の方々の勇気ある栄光の行動が影響を与えた。
  アメリカの隣国のハイチにおいて、1803年に、奴隷の
 方々の抵抗行動が起き、その抵抗行動が成功し、黒人の
 方々による共和国が誕生した。
  そして、このハイチの成功は、この後、ラテン・アメ
 リカの方々へも勇気を与え・・、
  ラテン・アメリカ諸国を席巻する植民地解放闘争へと
 発展した。
  奴隷の方々の解放への戦いは、国際的な広がりの時代
 をもって行った。
  アメリカの黒人の方々の解放要求は、この様な国際的
 にも奴隷解放行動へ『良い影響を与えた』。
.
1865年4月15日、リンカーンが暗殺された。
  リンカーンには、殺される理由があった。
  アメリカは、その理由をはっきり言わない。
  リンカーンの名声を形成している「奴隷解放」は、リ
 ンカーンは行なっていない。
  アメリカは、本音を、真実を隠している。
  真実は、黒人の方々が、自らを解放をして行った。
  そこには、黒人の方々を導びく黒人のリーダーが居た。
  アメリカ白人社会は、卑劣な事に、黒人の方々のこの
 栄光の行動=この事をひたすら隠した。
  しかし、隠しきれずに、黒人の方々のこの部分の歴史
 が、少しづつ、白日の下になって来ている。
  黒人の方々は、白人キリスト教徒に、劣悪な状態の元
 に置かれた・・そして、自らの歴史を残すことが、でき
 にくくされた。
  しかし、その歴史が掘り起こされて来ている。
  黒人の方々は、解放されたいと努力して来た。
  それは、黒人の方々が皆が望む事だった。
  みんなが努力して来た。
  それが、長い虐げの後に、解放へと動き出してきた。
  黒人の方々を解放させようとする黒人のリーダーの方々
 もいた。
  可哀想にも、殺された黒人のリーダーの方々も居た。
  その様な歴史は、アメリカ白人社会はすべて闇の中へ
 と隠した。
  歴史が変遷し、黒人の方々が解放される、解放されね
 ばならない段階へと来た・・その時、たまたま、リンカ
 ーンが黒人解放の宣言をした。
  しかし、このところだけにスポットライトを当てて、
 脚光を浴びせさせた。
  そこだけを明るくしたので、さもリンカーンが黒人解
 放をしたように見えた・・その様にしたのだから当然な
 のだが・・、
  黒人の方々は、地道に、自らの解放をする努力を積み
 重ねて来ていた。
  その最後に、リンカーンが、「すごろく」の「あがり
 者」のごとく、そこに居て、奴隷解放をしたように見え
 た・・見させた・・
.
1938年秋、中国の上海に、ドイツ・オーストリア系ユダヤ
 人が流入した・・、
  ナチスが、オーストリアを合併した1938年秋、イタリ
 ア商船コンテ・ビオレ号から上海に逃れて来たユダヤ人
 の方々だった・・最初の方々だった。
  この上海に避難して来たユダヤ人の難民の方々を保護
 したのが日本軍であって、ファシスト中国=国民党では
 ない。
  ましてや、中国共産党では、まったくない。
  日本は、ユダヤの方々を「亡国の民」として大切に保
 護した・・日露戦争の恩人でもあった。
  (日本人は、受けた恩を忘れない)
  故に、上海の日本租界にあるユダヤ人避難民の方々の
 歴史的記憶遺産は、日本軍が、人道的な貢献をしていた
 記念すべき遺構で、世界的な大切な遺産である。
  この様な理由から、中国の上海にあるというだけであ
 って、中国共産党とは、まったく無関係・・、
  デッチアゲタ南京事件の記念館を作るより、史実のこ
 のユダヤ人難民ゆかりの歴史的記憶遺産を、日本軍の人
 道的貢献を讃えて、後世に残すべきである。
  世界遺産として讃えるべき人物は、、まず、人道的に
 接した日本軍兵士の方々、そして、その様に指導された
 昭和天皇陛下・・、
.
1947年7月11日、ユダヤ人を乗せたエクソダス号が出航した。
  しかし、ユダヤ人の難民の方々・4530人を乗せたこの
 満載の秘密移民船『エクソダス1947号」は、イギリス軍
 によって拿捕(だほ、とらえること)された。
  そして、強制的にフランスのマルセイユに返され・・、
  そして、マルセイユで下船を拒否したユダヤ人の難民
 の方々は、ドイツのハンブルグへ輸送され、
  ドイツのイギリス隔離地区の収容所に入れられてしま
 った。
  しかし、この模様が、逐一、ラジオで全世界に伝えら
 れ、ユダヤ人の方々へ、熱い同情が集まった。
  イギリスは、当然、世界中から、また、西欧諸国の大
 非難を浴びた。
  イギリス国内からでさえも、この難民船強制送還行為
 に多くの反対意見が起きた。
  この後の、国連パレスチナ分割決議への心情的な推進
 力となった。
  このイギリスの破廉恥な行為・エクソダス号事件は、
 映画「栄光への脱出」のモチーフとなった。
  この経緯は・・、
  ベン・グリオンは、パレスチナに到着すればそれでよ
 し、
  失敗してもキプロスの収容所に行けるという両面作戦
 で、大型船を使った数千人単位の移民を計画した。
  (参考)ダヴィド・ベン=グリオン(1886年10月16日
     ~1973年12月1日)は、イスラエルの政治家。
      首相(初代・第3代)を務めた。
       ポーランドのプロニスクで生まれ、
       パレスチナ移住後は、ユダヤ系住民のイギ
      リス軍への参加を呼びかけた。
       また、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ
      系難民が、パレスチナへ押し寄せる様になる
      と、これを阻止しようとするイギリス当局と
      折衝した(難民の受け入れをする様にと行動)
       1947年に、国際連合が、パレスチナ分割を
      決議すると、メナヘム・ベギンらが率いるイ
      ルグンなど過激強硬派のテロや反発を抑えな
      がら、独立への準備を進めた。
       1948年5月14日、イスラエルは独立宣言した。
  このベン・グリオンの計画に基づいて、5000人収容可
 能な老朽客船・ウォーフィールド号が用意され、マルセ
 イユに入港した。
  ここでウォーフィールド号は、「エクソダス号」と名
 を改めて、
  4515人の難民(ほとんどが、ナチの強制収容所の生き残
 りの方々であるドイツ系ユダヤ人)を乗せると、
  1947年7月11日、フランスの出港禁止命令(卑劣にもイ
 ギリスが圧力をかけていた)を無視して、パレスチナへ向
 かって出港した。
  しかし、港を出たとたんに座礁した上に、出港翌日に
 は、巡洋艦1隻、駆逐艦6隻からなるイギリスの艦隊(第
 二次世界大戦後では最大の艦隊行動)に捕捉された。
  そして、一週間後、パレスチナ沖22マイルの公海上で、
 イギリス駆逐艦が、エクソダス号に体当たり攻撃をかけ、
 臨検を強行(国際法の違法行為)した。
  イギリス兵は銃撃までした。
  これに対し、難民の方たちは、空き缶や腐った野菜を
 投げつけて応戦した。
  三時間の戦闘で、アメリカ人の船長を含め、三人の犠
 牲者を出したが、難民の方々の抵抗は、臨検隊を海に叩
 き込んだ。
  しかし、体当たり攻撃で、浸水していたエクソダス号
 は、やむなく降伏した。
  難民の方たちは、三隻の船に分けられた後、パレスチ
 ナを離れた。
  三隻は、キプロスの収容所には寄らず、まっすぐマル
 セイユへ向かった。
  フランス政府は難民受け入れを表明した。
  しかし、病気の数人を除き、難民の方たちは、「船を
 下りる場所はパレスチナのみである」と、下船を拒否し
 た。
  マルセイユで、24日間、頑張った。
  しかし、あきらめた三隻は、難民を乗せたまま出港し
 た。
  しかし、イギリスは、ハンブルグに誘導した。
  ここで、難民達は強制的に下船させられた。
  そして、リューベックの収容所に入れられた。
  ナチの手から逃れてきたユダヤ人の方々を、再び、ド
 イツの収容所に入れた。
  ここで、ユダヤの方々へ理解を示していなかったアメ
 リカやヨーロッパ諸国は、イギリスを非難し、ユダヤ人
 の方々へ理解を示すようになった。
  しかし、この後も、イギリスは、ユダヤ人の方々へ、
 厳しい対応を続けた。
.
1952年1月18日、この日、突如、韓国の李承晩大統領が、何
 ら根拠のない、海洋主権宣言なるものを行なった。
  そして、漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)を
 主張しはじめた。
  この結果、日本の領土の竹島が、韓国の支配下にある
 とされ、一方的に宣言された。
  1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本
 条約の締結までに・・、
  韓国軍は、ラインを越境したという理由で、日本漁船
 を328隻も拿捕した。
  そして、日本人44人を死傷させた(死亡者数は不明)
  また、3,929人を拉致し、抑留した。
  韓国側からの、日本の海上保安庁巡視船への無謀な銃
 撃等の行為は、15件にもおよんでおり、16隻が攻撃され
 た。
.
1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が、急に、主張し始
 めた「李承晩ライン」・・このライン内に出漁したとし
 て、この日、日本漁船を徹底拿捕をはじめた。
  これ以後、日本漁船の拿捕や、卑劣な銃撃行為が相次
 ぐ様になり
  日本の漁業従事者に、死傷者が、多数、出る事態とな
 った。
  同年・1953年2月4日には、第一大邦丸事件が発生した。
 済州島付近で、同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡
 した。
  また、日本人漁師の瀬戸重次郎氏が殺害されたりした。
  同年・1953年4月20日には、韓国の独島義勇守備隊(
 日本領の竹島を、韓国は独島と名付けた)が、竹島に、
 初めて駐屯した。
  1953年6月24日、日本の水産高校の船舶が、違法占拠す
 る韓国の独島義勇軍守備隊に拿捕された。
  1953年6月27日、日本の海上保安庁と島根県が、日本の
 領土の竹島の調査を行った。
  そして、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建
 てた。
  そして、竹島に、勝手に住み着いていた韓国の漁民6名
 を退去させた。
  すると、1953年7月12日に、竹島に上陸して違法占拠し
 ていた韓国の獨島守備隊が、日本の海上保安庁巡視船「
 へくら」に、90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込むと
 いう蛮行がなされた。
  以後、領土欲しさの韓国は、事実を捻じ曲げて、鬱陵
 島の警察官約40名を、日本領・竹島に常駐させた。
  そして、日本の艦船の排除をはじめ、日本の艦船の接
 近に対し武力行使している。
  また、竹島の西島に、韓国人夫婦を定住させた。
  そして、韓国軍は、毎年、竹島(独島?)防衛訓練を
 行って、事実作りをしている。
  当然、日本政府は、この韓国による竹島の実効支配に
 抗議をしている。
  しかし、韓国側は、「竹島(独島?)は、韓国固有の
 領土である」と言い出し、「内政干渉だ」と言い出した。
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1953年2月4日、第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじ
 けん)
  この日、公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁
 区の海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(
 57トン)』、及び、『第二大邦丸(57トン)』が、
  韓国の漁船『第一昌運号』、及び、『第二昌運号』(
 各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃された。
  そして、拿捕された。
  この際、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎氏(34歳)
 が被弾し、殺害された。
  この時、日本には、対応する軍事力が無く、
  その為、不利な状況で、屈辱的な交渉をするしかなか
 った 。
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2013年3月8日、中国は、海外を広報戦略するために、膨大
 な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
  世界中に、膨大な金で、中国の刷り込み、洗脳、プロ
 パガンダをしている。
  櫻井よしこ氏は、2013年3月8日の産経新聞で、次の様
 に記した・・、
  「中国の対外広報予算は、年間1兆円。
  日本外務省は、200億円にも満たない(中国の100分の
 2以下)」。
  中国は、この膨大な予算を使って、アメリカやヨーロ
 ッパの大学やシンクタンクに金を配る。
  その結果、中国研究者が増える。
  中国への親しみと中国の歴史観の受容と理解が深まる。
  日本研究者の数が先細りし、日本の価値観や考え方へ
 の理解者が減り続けているのと対照的となっている。
  中国は、全世界に孔子学院を創設中。
  また、2012年鋳、中国版CNN「CCTVアメリカ」を開
 いた。
  本拠地をワシントンに、スタジオはニューヨークに置
 いて、中国人は極力表に出ず、キャスターは、アメリカ
 人にして、だが伝える情報は中国の視点に基づくもの。
 (後略)
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2015年12月、日米開戦から七十数年、一冊の回想録が刊行
 された。
  ジョージ・ナッシュ氏が編集した・・フーバー大統領
 の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』
  ここには、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な
 記録が含まれていた。
  1000頁近くにも及ぶこの大著を、いち早く読破し、そ
 の重要性を指摘されている中央大学客員教授の稲村公望
 氏。
  まず、アメリカ大統領のルーズベルトが、日本を戦争
 に引きずり込んだ事が、明確に裏付けられていると・・、
  フーバー大統領死去から、47年の歳月を経て刊行され
 た同書は、
  フランクリン・ルーズベルト大統領を厳しく批判して
 いて、同書の刊行は、いわゆる「東京裁判史観」の間違
 い、そして、清算のきっかけになるほど重大な意味を持
 つと・・、
  フーバーは、回想録の中で書く・・、
  「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、1946年5月4
 日の夕方に三時間、5日の夕方に一時間、そして、6日の
 朝に一時間、二人だけでで話をした。
  私が、日本との戦争のすべてが、戦争に入りたいとい
 うルーズベルト(狂人と称している)の欲望であったと
 述べたところ、
  マッカーサー司令官も同意し、
  また、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかり
 ではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為にな
 ったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込
 んだ。
  ルーズベルトのやった制裁は、殺戮と破壊以外のすべ
 ての戦争行為を実行するものであり、
  いかなる国と雖(いえど)も、品格を重んじる国であ
 れば、我慢できることではなかったと述べた」・・と・・、
  これまでも、チャールス・A・ビアード博士らが、第
 二次世界大戦の責任は、ルーズベルトにあると主張して
 来ていた。
  また、ルーズベルトは、はっきり戦争になるとも言わ
 れ、忠告されていた・・、
  対日石油禁輸において、ルーズベルト大統領から意見
 を求められたスターク海軍作戦部長は、
  「禁輸は、日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する
 攻撃を誘発します。
  そして、直ちに、アメリカを戦争に巻き込む結果にな
 るだろう」と述べられていた。
  しかし、ビアードらの主張は、「修正主義者だ」とし
 て、無視された。
  これ等の事により、ルーズベルトの責任は、明確に示
 され・・、
  そして、フーバーは、明確に書いた・・、
  「ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、
 つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその
 一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったこ
 とである」と・・、
  そして、また、書いた・・、
  「その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的
 には戦争であった(アメリカの宣戦布告であった)。
  ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも、再三にわ
 たって、そんな挑発をすれば、遅かれ早かれ(日本が)
 戦争を始めざるを得ないことになる・・と警告を受けて
 いた」
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2017年7月25日、産経ニュース<速報>加戸守行前愛媛県
 知事がスバリ指摘 「前川喜平氏は想像を全部事実のよ
 うに発言している。精神構造を疑う」
  「メディアは報道しない自由、印象操作は有力な手段」
  参院予算委員会で(7月)25日、加戸守行前愛媛県知事
 が、自身の発言を報道しないメディアや「行政がゆがめ
 られた」と主張する前川喜平前文部科学次官に矛先を向
 けた。
  文部官僚として官房長まで務めた加戸氏は、前川氏の
 先輩に当たる。
  自民党の青山繁晴氏は、学校法人「加計学園」(岡山
 市)の獣医学部新設計画を審議した10日の閉会中審査
 について、朝日新聞や毎日新聞などが「ゆがめられた行
 政が正された」などの加戸氏の発言をほとんど報じなか
 った経緯を踏まえ「加戸さんがいなかったがごとく扱わ
 れた。
  メディアや社会の様子をどう考えるか」と加戸氏にた
 だした。
  加戸氏は「メディア批判をして勝った官僚、政治家は
 誰一人いない。せんないことだ」としたうえで「報道し
 ない自由があるのも有力な手段、印象操作も有力な手段。
  マスコミ自体が謙虚に受け止めていただくしかない」
 と皮肉った。
  さらに加戸氏は「あえて申し上げなければならない」
 と、問わず語りでテレビ取材を受けた際の出来事を披露
 した。
  加戸氏の説明によると、取材は、事前に前川氏を取材
 した映像を見せながら加戸氏に見解を問う形式で行われ
 た。
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2017年、アメリカのキッシンジャーは言う、「戦争に敗け
 た国の取る道は二つある・・と・・
  一つの道は・・目先の利益と安全保障を、安易に、ま
 た、楽に得たいと、占領軍に服従するコラボレーショニ
 スト(利敵協力者)となること」と・・、
  (戦争に敗けて、バンドワゴン方針をとった日本は・・
 これだ・・と・・間接的に示唆する)
  (参考)バンドワゴン:Band wagon、行列の先頭の楽
     隊車のことで、「バンドワゴンに乗る」は、時
     流に乗る・多勢に与する・勝ち馬に乗るの意味。
  (参考)collaborationism:利敵協力(りてききょう
     りょく、英: collaborationism)とは、占領下
     にある地域において行われる、被占領者による
     占領者への協力行為のこと。
  因みに、、キッシンジャーが言うもう一つの道は、「
 ゲリラになってでも、戦い続ける道」・・
  前記の道は、せっせと服従し、恭順の意を示していな
 ければならない・・日本もその様に・・なった。
  しかし、この道は、国家の最も大切なレジティマシー
 (正統性)を失う。
  (参考)レジティマシー(legitimacy)
     1.(法律的な)正当性。
      法的な根拠を持っていること。
     2.(政治的な)正統性。
      統一的な根拠を持っていること。
  敵国だった占領軍が押し付けてきた憲法や法律、行政
 制度、教育制度、歴史解釈などを・・敗北した国は、「
 道徳的に劣等な国」なのだから、またそして、戦勝国は、
 「道徳的に優越した正義の国なのだから」・・という尺
 度を、解釈を、使わせられ・・(結局、最後は、その様
 に思い込まされてしまった日本人・・NHKも、せっせ
 とこの道の洗脳に手を貸した)、
  そして、この様な屈辱的な状況に置かれた国民は、「
 占領軍の言いなりになっているだけの似非(えせ)国家」
 と思うようになる・・
  この様な事を、思いもつかない国民も・・多く居るが・・、
  外見は、「立派な独立国」「経済大国」に見えても・・?
  国民は、属国に過ぎないと・・まともな国民は思い・・
  そして、モラール(士気・気概・競争心)を失い、士
 気を失い、国への忠誠心をも失って行く・・
  そして、キリスト教は国歌斉唱に反対し、国旗掲揚に
 も反対する・・、
  そして、利己的な自分さえ良ければ良いになって行く。
  国防意識も失う。
  敗戦後の日本のコラボレーショニスト・レジーム(隷
 属体制)意識は、この様な経緯で作られて行った・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive