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2017年01月21日

(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)

題:(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月11日、甲武鉄道(中央線)、新宿駅~立川駅間が
 開通した。
  この甲武鉄道開通時の錦絵がある。
  それには、甲武鉄道沿線の名所旧跡が紹介されている。
  それには、小金井桜、玉川、高尾山の説明文がある。
  その錦絵には、中央の下に新宿停車場が描かれ、そし
 て、立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
 る。 
  左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり、
  御嶽山の方から流れているのが玉川(多摩川)(中央
 左側)で、羽村からは、玉川上水が東京市街地に向かっ
 て流れている。
  玉川には、立川と日野との間に甲州街道の橋が架けら
 れてる。
  西南戦争の戦費調達等のため、国は膨大な財政支出が
 迫られ、国家財政は窮地に立っていた。
  そこで、民間に任せたほうが望ましい分野は民営化し
 ようという方針の国。
  その様な中で、国は、1881年(明治14年)「私設鉄道」
 を認める方向に転換した。
  約10年間続けた「官設官営鉄道」に終止符を打った。
  そして、甲武鉄道の敷設・・さまざまな反対運動があ
 った。
  甲州街道で栄えていた府中や調布は、商人、宿屋、人
 力車夫などが、客がとられるといって反対した。
  農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害すると、
  火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になると、
  家畜に悪影響が生じるといったいろいろな反対理由が
 叫ばれた。
  また、中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に
 貫いて行くという計画に対して、
  地主や村民等が・・「鉄道は村を衰微せしむ」という
 理由をぶち上げた・・頑強な反対運動を展開した。
  こうした反対運動のために・・、
  甲武鉄道は、やむなく・・計画を大きく変更した。
  そして、えい!やー!・・っと、抵抗の少なかった武
 蔵野の原っぱを・・原野を、現在の東中野あたりから立
 川までを、定規で一直線に引っ張った・・そして、敷設
 した。
  1889年(明治22年)4月11日のこの日、後に中央線とな
 る甲武鉄道が・・、
  内藤新宿駅と立川駅間の27.2kmで開通した。
  内藤新宿より中野・境(武蔵境)・国分寺の3駅を経て、
 立川まで運行された。
  新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時
 間の8時14分に到着した。
  新宿から1時間。
  新宿駅発7時14分~中野駅7時25分~境駅7時48分、国分
 寺駅8時1分、途中の各駅に1分間停車し、終点の立川駅に
 8時14分に到着。
  列車のスピード:平均時速30kmだった。
  北海道の原野の様な中野駅構内に停車している明治39
 年の蒸気機関車が写る写真がある(複線)。
  車両は、イギリスから直輸入したナスミス・ウィルソ
 ン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・
 タンク蒸気機関車(国鉄400形蒸気機関車)
  客車は、「マッチ箱」と呼ばれた箱型客車。
  運行は、午前・午後2本ずつ、1日4往復。
 (内藤新宿駅発、7時9分、10時0分、14時30分、17時30分)、
 (立川発、8時40分、11時40分、16時10分、18時55分)
  運賃は、上等・中等・下等と3段階に分け、運賃の基準
 は、下等は1マイル(約1609m)1銭で、中等は下等の2
 倍、上等は下等の3倍。
  1889年(明治22年)は、もり・かけそばが1銭なので、
 かなり高額。
  立川~八王子間はわずか9.7kmしかないが、鉄道架橋
 が計画した工期以上にかかり遅れた。
  1889年(明治22年)7月に多摩川本橋(約418m)、浅
 川橋(139.5m)が完成。
  この架橋の完成で、立川~八王子間は、新宿~立川の
 開業から4ヶ月遅れの1889年(明治22年)8月11日に開業
 する。 
1889年4月16日、メートル法条約に加盟する(1885年説あり)。
  メートル法条約は、メートル法による度量衡標準の国
 際的統一、および、その完成を目指して、1875年5月20日、
 パリで締結された。
  14ヵ条の本文と 22ヵ条の付則と6ヵ条の過渡規定から
 成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度
 量衡委員会、国際度量衡総会その他を規定している。
  日本は、1885年(明治18年)に加盟手続を終わってい
 たが、公布されたのは翌年・1886年4月16日であった。
  メートル条約が締結されると、フランス政府は、各国
 に対して加盟の呼びかけを行い、日本にも、駐独公使を
 通じて勧誘してきたが、政府の意見は一致せず、
  1884年(明治17年)重ねての勧誘の際、新たにメート
 ル原器とキログラム原器をつくって加盟国に配布する旨
 の通知に接して加盟が定まった。
  日本のメートル法化(にっぽんのメートルほうか)と
 は、1885年のメートル条約加盟と、1891年の度量衡法公
 布により始まった。
  1884年、新たに原器を製作するとの報に接し、これを
 機にメートル条約への加盟が決断された。
  1885年10月9日に加盟手続を終わり、
  翌1886年4月16日にメートル条約(明治19年4月20日勅
 令)として公布された。
  日本の原器は、抽選によりメートル原器はNo.22、キロ
 グラム原器はNo.6とされ、
  1889年に在パリ公使館の大山綱介・書記官が受け取り、
  翌1890年4月に日本に到着した。
1889年4月16日、静岡駅~浜松駅間の鉄道が竣工して開通し、
 開業した。
  ここに初めて東海道全線(官設鉄道)が開通した(7月
 説あり)
  日本は、この様に、国家建設のため地道に努力を積み
 重ねて来た。東海道線も全線開通した。
1889年4月19日、ロンドン・タイムスに大隈重信(外相)条
 約改正案が掲載され、論評が載る。
  以後、反対世論高まり、猛烈な批判を招いた。
  井上馨が努力していた条約改正を引き継いだ大隈外相
 は、各国と交渉を続けていたが、ロンドン・タイムスに
 報道されてしまう。
  井上馨は、妥協した改正案で・・、
  「領事裁判権の撤廃、輸入関税の一部引き上げの代わ
 りに外国人裁判官を任用し、内地雑居を認める」とした。
  大隈重信の改正案は・・、「外国人判事任用を大審院
 に限る」とした。
  そして、比較的理解を示していたアメリカ・ドイツ・
 ロシアと秘密裏に個別に交渉していた、調印する・・が、
 発効せず(メキシコとは対等条約を締結済み・1888年11
 月30日に締結)、
  しかし、イギリスの新聞:ロンドン・タイムスが・・
 大隅改正草案を掲載した。
  そして、既に締結したメキシコとの条約が内地雑居を
 認めるのなら・・イギリスは最恵国待遇なので、同じ様
 に認めるのだねと論評した。
  大隅は、これを、最恵国有条件主義を唱えて拒否した。
  日本国内でも違憲論が起き、話はこじれていく・・、
  大隅がテロに遭い負傷し・・条約改正交渉中止となる。
1889年4月21日、民法財産編を公布した(1890年説あり)
  1890年(明治23年)3月:民法(財産編、財産取得編、
 債権担保編、証拠編)公布
  1890年(明治23年)に、公布された民法典の施行をめ
 ぐって論争が展開された。
  日本における民法典編纂は、ボアソナードの指導のも
 と、フランス民法典を範として進められ、
  1890年公布し、1893年に施行されることになっていた。
  しかし、1889年、イギリス法学系の法学士会が・・、
  「法典編纂ニ関スル意見書」を発表、
  民法典と商法典との不統一などを指摘して慎重論を展
 開すると、法典の実施可否をめぐって激しい論争が繰り
 広げられた。
  特に、延期派の穂積八束が、「民法出テテ忠孝亡フ」
 を著して、日本固有の家族制度を美俗と捉える立場から
 民法実施に反対した。
  これは大きな影響力をもった。
  これに対し、断行派の梅謙次郎や岸本辰雄らは、フラ
 ンス法的市民法原理にもとづいた民法実施の必要性を強
 調した。
  結果的には、1892年の第三議会で、民法・商法を延期
 する法律案が可決されて延期が決定した。
  論争は、固有法と継受法の衝突、イギリス法・フラン
 ス法・ドイツ法の学派的抗争、自然法学と歴史法学の対
 立のほか、立法技術や条約改正をめぐる問題、実業界と
 政界の思惑など複雑な要因が絡み合って展開されたが、
  その後、法典調査会で審議・修正された新民法は、ド
 イツ民法を模範に、戸主権を重視した家中心のものとな
 った」(日本思想史辞典)
  民法典論争は、1890年(明治23年)に公布された民法
 (旧民法)の施行時期をめぐり、延期派と断行派の間で
 行われた論争のことで、不平等条約を撤去する条約改正
 を実現するため、近代的な基本法典の制定を迫られてい
 た明治政府は、フランス人の法学者ボアソナード、G. E
 に民法草案の起草を依頼し、旧民法が公布された。
  しかし、公布の前から、延期派は、その個人主義的な
 性格が日本社会の淳風美俗の根本にある伝統的な家族道
 徳を損なうものとして法典の編纂に反対した。
  その際に発表され世間の注目を集めたのが、延期派の
 中心人物、穂積八束の論文「民法出デテ忠孝亡ブ」(『
 法学新報』第5号)だった。
  激しい論争の末、1892年に、帝国議会で延期が決定さ
 れ、結局旧民法は実施されず、論争は延期派の勝利に終
 わった」。
  (参考-1)
  1887年(明治20年)10月、諸法典編纂の事業を完成す
   るために、法律取調委員会を設置。山田顕義司法大
   臣を委員長とする。
  1887年(明治20年)11月、井上馨失脚に伴い、民法編
   纂、司法局に戻る。
  1888年(明治21年)民法典第一草案成立
  1889年(明治22年)民法典論争(~1892年)
  (参考ー2)
  改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編
 の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草
 させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、
 人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産
 契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は
 特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるというこ
 とから、熊野敏三、磯部四郎などの日本人委員に起草さ
 せた。
  1888年(明治21年)に、ボアソナード担当部分の草案
 が成立し、
  1889年(明治22年)に、元老院の議決を経て
  1890年(明治23年)4月、『民法財産編・財産取得編・
 債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)と
 して公布、
  1890年10月、残部についても、この時に『民法財産取
 得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公
 布され、
  1893年(明治26年)1月1日、双方とも、この時から、
 実施すべきものと定められた。
  この法律28号、第98号が旧民法。
1889年4月25日、宮武外骨(みやけがいこつ)の不敬事件に
 禁錮3年、罰金100円の判決。
  外骨は、控訴した。
1889年4月26日、大阪府警本部が、大阪壮士倶楽部の解散と
 壮士募集広告の取り消しを命令する。
  壮士とは、自由民権運動の活動家の事を言うが・・、
  明治二十二年のこの時、「大阪朝日新聞」などの大阪
 の新聞に奇妙な広告が載る。
  勇悍猛烈の壮士二十名募集す内十七名は散宿せしめ学
 費を給し三名は同居を諾し学費を給す。
  北区天満橋筋一丁目大阪壮士倶楽部取締、菅野道親
  これは何だ?と・・新聞は取り上げた・・そして、記
 した。
  「世に巡査の募集とか生徒の募集とか将(は)た雇人
 の募集とか申すこと屡々あれど壮士の募集とはまた希有
 なるべし」・・と。(明治二十二年四月二十二日)
  そして、これが、「治安に妨害あり」と認められ・・、
  そして、募集差止並に壮士倶楽部解散を命ぜられたる」
 となった。
  しかし、今度は・・
  「温厚篤実の壮士二十名募集す」という広告に切り替
 えられて、再び、募集記事が出た。
  しかしこれも・・、
  「如何なる冠詞を附するも壮士募集は総て治安を妨害
 する趣(おもむき)、内務大臣の訓令なりとて、警察本
 部より差止めら」れた・・
  そこで・・
  「募集を取り消す」という広告まで出された。
1889年4月26日、日本画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
 死去。
  弟子の中に鹿鳴館設計者のコンドルが居た。
  3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師の国芳に入
 門した。
  1831年(天保2年)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋
 記右衛門の次男として誕生した。
  数え年2歳で家族ともども江戸に移り住んだ。
  絵が格別に好きな幼少時代、他の遊びや菓子を食べる
 のも忘れて絵を眺めたという。
  わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門した。
  1839年5月(8歳)梅雨による出水で、神田川に浮かん
 だ生首を写生して、周囲を驚かせたという。
  珍しいもの何でも写生をしたという・・。
  1840年(9歳)国芳の侠気(きょうき、おとこぎ)と品
 行を心配した父は、国芳の元から駿河台の狩野派絵師・
 前村洞和愛徳の門に替えた。
  前村洞和愛徳は、周三郎(暁斎の幼名)の画才を見込
 んで「画鬼」と呼び、可愛がった。
  異例の若さといわれる19歳の1847年(嘉永2年)「洞郁
 陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かって、狩野派
 の修業を終えた。
  幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、
 日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師だった。
  この群を抜いた筆力・写生力で海外でも高く評価され
 ている天才絵師が、この日に没した、享年58歳だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカも・・日本と同じように・・戦争に突入させられて行く・・
    (変な大統領を・・選んだからだ・・)
.
1933年1月30日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代ア
 メリカ大統領になる約1ヶ月前のこの日、ドイツのナチス
 のヒトラーが、首相の座に就いていた。
  ルーズベルトが、何故か? また、愚かにも、演説が
 ヒトラーに似ている事の疑問が・・解けた。
  ヒトラーの首相就任後の約5週間後に、大統領になった
 アメリカ大統領ルーズベルトは、ヒトラーに強く影響さ
 れていた。
  ヒトラーと同じ様な調子で「アジ演説」をアメリカ国
 民の方々へした。
  ヒトラーと同じような調子で、感情的に、アメリカ国
 民の方々を煽(あお)る演説をして、「戦争をする特権
 をくれ」と言っていた。
  そして、ヒトラーが、国家統制経済で産業を効率的に
 して行きたいとしたが、
  ルーズベルトも、同じ考えで、国家復興庁(NRI)
 で産業効率を良くしたいとした。
  ルーズベルトは、ヒトラーと高い類似性がある大統領
 だった。
.
  題:アメリカは・・人格的な欠陥の大きい大統領によって・・戦争に突入して行った・・
.
1940年5月16日、ルーズベルトは、この頃、明らかに戦争を
 する、戦争したいと想定していて、軍備増強をアメリカ
 上下院の合同議会で訴えた。
  議会は、ルーズベルトの戦争思考に反発し、戦争回避
 運動を展開し、反発した。
  また、アメリカ国民の方々も、ルーズベルトの危険な
 戦争思考に反発した。
  多くの様々な団体が、強く反発した。
  また、個人も、例えば「リンドバーグ」らも反発した。
  この頃、陰湿な事だが、ルーズベルトは、陰の世界(
 裏社会)で働く輩を持っていた。
  ルーズベルトの意を受けた大統領首席報道官のスティ
 ーブ・アーリーは、その陰の暗躍者へ連絡を取った・・、
  「大統領のお願いですが、大統領がした軍備増強の演
 説以来、軍備増強に反対する電報が、数多く舞い込んで
 いる。
  その差出人が誰かを掴(つか)んでもらいたい」と。
  このルーズベルトに便利に使われていたのがジェイ・
 エドガー・フーバーだった。
  この男は、アメリカ連邦捜査局(FBI)の前身の司
 法省捜査局長だった。
  ルーズベルトは、この男を『闇の情報屋』という使い
 道を掴んでいた。
  この男とルーズベルトとのつながりは、1933年に、ル
 ーズベルトが政権の座に就(つ)くと、フーバーの方か
 らルーズベルトへ近づき、「地位の継続」を求めた。
  1934年には、ルーズベルトは、アメリカのナチズムの
 信奉者を調べる指示を出している。
  フーバーの過酷なのは、プライバシーの闇の部分に大
 きく踏み込むところだった。
  ルーズベルトは、そこに価値を見出した。
  ルーズベルトは、調査対象をさらに広げた・・、
  政敵も調査させた。
  ルーズベルトを厳しく批判した前大統領(第31代アメ
 リカ大統領ハーバート・フーバー)も調べさせた。
  ルーズベルトは、その様な分厚い調査資料を貰い、喜
 んだ。
  そして、思わず、「こんな価値ある報告書を本当にあ
 りがとう」と言った。
  また、異例な行為である、感謝状まで送ったこともあ
 った。
  ルーズベルトは、卑劣にも、大恐慌や戦争を言い訳に
 して、「違法な捜査を奨励」した。
  危機の時代だからいいのだと・・、まったく自分勝手
 な理由を付けて・・違法行為をさせていた。
  ファシストと共産党も、ルーズベルトは命令を出して、
 監視させた。
  1939年6月26日には、大統領令を出し、スパイ、破壊活
 動防止の権限をFBIと陸海空の情報部へ与えた。
  アメリカは、監視国家となった。
  ルーズベルト大統領夫人エレノアの禁断の密会情事も、
 こんなアメリカの監視社会から分かった。
  FBIは、ルーズベルト大統領の直属の様な汚い情報
 を貢(みつぐ)組織に成り下がっていた。
  「盗聴器を仕掛けること」を命じるハレンチなルーズ
 ベルト大統領だった。
  その記録が残っている。
.
  そして・・、
.
1940年夏、ランドルフ(A・フィリップ・ランドルフ、黒
 人指導者)が、フランクリン・ルーズベルトと会談し、
 「黒人の地位向上」を訴えた。
  この時点で、アメリカ海軍の総人員は、13万9000人だ
 ったが、黒人のアメリカ海軍軍人は皆無、0人だった。
  完全な人種差別状態だった。
  雑役夫と料理係に4000人の黒人の方々が居た。
  日米開戦後、人員不足で、アメリカは、やむを得ず黒
 人の方々を採用したが、
  それでも差別は止まらなかった。
  黒人の方々は、「艦船で、白人の軍人と一緒に戦うこ
 とが禁止されていた」。
  卑劣極まりないアメリカと、日本は戦っていた。
  大半の黒人の方々は、雑役か、港湾での爆弾運びの仕
 事だった・・悲劇が起きた・・
  1944年7月17日、サンフランシスコの軍港で爆弾が爆発
 した。
  大音響が轟いた。
  黒人雑役兵が、爆弾を運んでいた。
  近くの兵舎も吹き飛んだ。
  320人が即死し、390人が重軽傷を負った。
  アメリカの規則で、従事していたのは黒人の方々だけ
 だった。
  故に、犠牲者の大半は、黒人の方々だった。
  黒人の方々は、黒人の方々だけが、危険な仕事に従事
 させられて来たことに反発した。
  当然だった。
  また、この事故後のアメリカの国の対応でさえも、人
 種差別行為をしていた。
  事故後、白人将校達には、この事故を理由に「1ヶ月の
 休暇」が与えられたが、
  黒人の方々・雑役兵に対しては、何の配慮もされず、
 休暇は与えられなかった。
  黒人の方々・雑役兵は、「爆弾運びを拒否した」。
  そして、復帰命令に反発して、現場復帰をしなかった
 50人には、「反逆罪」が課せられた。
  そして、「15年の強制労働」という卑劣な厳罰が下さ
 れた。
  この時から50年を経た後に・・、
  クリントン・アメリカ大統領(第42代大統領)は、こ
 の人種差別の酷(ひど)いアメリカの状況を反省し、
  50年月以上をさかのぼって、この時に厳罰を下された
 一人の黒人兵に、嘆願を受け入れ、
  50年以上さかのぼって恩赦を与えた。
  今・現在の時点でも、アメリカは、人種差別をし、人
 種差別の恩赦を与えるという行為をしなければならない
 『遅れた国の実態』となっている。
  日本の事を内政干渉するべきアメリカという国の状態
 ではない。
  このランドルフ氏は、ワシントン行進を計画(軍需産業
 及び、政府内の雇用における人種差別を禁ずるという大
 統領行政命令8802号を引き出すという功績を残した。
  黒人指導者として頭角を現していたランドルフは、事
 態打開のために、この「ワシントン行進」を提唱し、こ
 の運動が戦時態勢下に実行されることを危惧したルーズ
 べルト大統領から、軍需関連産業における雇用差別を禁
 止する大統領行政命令第8802号を勝ちとるとともに、
  この行政命令の実施状況を監督する機関、公正雇用委
 員会を設立させた。
  A・フィリップ・ランドルフ(1889年~1979年)は、
 労働運動指導者、公民権運動家で、
  フロリダ州クレセント・シティに生まれた。
  ニューヨーク市立大学に学び、仲間と共同で職業紹介
 所を創設した。
  1917年(28歳)には、アフリカ系アメリカ人労働問題
 月刊誌「メッセンジャー」を発刊した。
  1925年(36歳)アフリカ系アメリカ人労働組合の最初
 の成功例、寝台車ポーター友愛会を設立した。
  1940年(51歳)アメリカ大統領と会談して、国人の地
 位向上を訴えた。
  1941年(52歳)大統領行政命令8802号を出させた。
  1944年(55歳)7月、サンフランシスコの軍港で爆弾が
 爆発し、黒人の方々が、大勢、亡くなった。
  1948年(59歳)トルーマン大統領に働きかけて軍隊内
 の人種差別を廃止させた。
  1960年(71歳)黒人アメリカ労働会議を結成した。
  1963年(74歳)公民権を求めるワシントン大行進を指
 揮した。
.
  そして・・、
.
1941年12月9日(アメリカ東部時間12月8日)、日本の真珠
 湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルトは、アメリ
 カ議会へ急いだ。
  日本への宣戦布告を議会に承認してもらうためだった
 (日本の、アメリカへの宣戦布告は、すでに、なされて
 いる)。
  ルーズベルトは、普段は、スピーチライターに演説文
 を書いてもらっているが、この時は、自分で書くとした。
  当初の演説草稿は、「昨日、12月7日は、世界史に残る
 日となるでしょう」で書き始められていたが、
  「世界史」の部分が、「汚辱」に書き換えられた。
  日本の攻撃行為や、攻撃個所などが生々しく書き加え
 られて行った。
  卑劣な演説文となって行った。
  日本を、「だまし討ち攻撃」をしたという印象を持た
 せようとした。
  そして、「汚辱の日を忘れるな」という呼びかけがな
 された。
  このルーズベルトの「汚辱の日」から、アメリカ国民
 の方々は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘
 れるな〉」が生まれ、そして、誓った。
  しかし、こんな話、すべてが、ルーズベルトが仕組んだ
 ことだった。
  この様にして、議会演説書をルーズベルトは作った。
  ルーズベルトは、「劇的な効果を狙いたい」という狙
 いがあったことを、後に、手紙で友人へ書き送っている。
  そして、「大衆心理、あるいは、個人の心理状態を配
 慮した」と言った。
  そこまで考え、「煽(あお)る」ルーズベルトだった。
  ルーズベルトが、演壇に立った時、会場は熱狂に近い
 状態になっていた(ヒトラーの熱狂と同じだった)。
  ルーズベルトが、すぐに、演説を始められないほどだ
 った。
  アメリカ国民の方々は、この熱狂にあおられた。
  火付け役が、ルーズベルトだった。
  ルーズベルトは、「改革十字軍」という言葉を使った。
  「改革十字軍を助けてほしい」と言った。
  「武器をとれ」と言った。
  ヒトラーの『アジ演説』と何ら変わらない状況だった。
  アメリカは、戦争に引きずり込まれて行った。
  (日本が引きずり込まれ・・そして・・アメリカが引
 きずり込まれて行った)
.
  そして・・、
.
1946年、フーバー元大統領が訪日し、マッカーサーと会談
  フーバー元大統領が批判・・「ルーズベルトは狂気の男」
  (産経新聞、2011年12月7日、22:41)
  【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31
  代米大統領(1874年~1964年)が、日本軍が1941年12月
 8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフラ
 ンクリン・ルーズベルト(第32代1882年~1945年)につい
 て、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い
 込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分
 かった。
  米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だ
 ったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM 
 BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
  真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦
 する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。
  ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうと
 した・・などとする「陰謀説」が日米の研究者の間で浮か
 んでは消えてきたが、
  米大統領経験者が、「陰謀説」に言及していたことが判
 明したのは初めて。
  ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領の
 トルーマンの指示で戦後の日本などを視察。
  1946年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)の
 マッカーサー元帥と会談した。
  その際、フーバーは、マッカーサーに対し、日本との戦
 争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』
 の願望だった」と指摘。
  在米日本資産の凍結など1941年7月の経済制裁は「対独
 戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込も
 うとしたものだ」と語ったという。
  マッカーサーも、「ルーズベルトは、1941年夏に、日本
 側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争
 回避の努力をすべきだった」と批判していた。
  著書では、フーバーが、「米国から日本への食糧供給が
 なければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろ
 う」と、マッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたこ
 とも詳細につづられており、
  フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなって
 いる。
  ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされて
 いるルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけに
 なってほしい」と話している。
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