題:(増補版)163D1/3:気になった事柄を集めた年表(1733年~1735年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1733年、北米植民地に関する糖蜜法(とうみつほう)が、
イギリス議会で成立した。
糖蜜や砂糖に関し、フランス領の西インドの商品に、
イギリス領の植民地の西インドの商品が敗れた。
この為、イギリスは、フランス領の商品に高率の関税
をかけた。
糖蜜法は、イギリス議会が北アメリカ植民地に対して
外国領産糖蜜・砂糖の輸入に課した高率な関税法。
奴隷主プランターの言いなりに禁止的な高い関税の法
律を作った。
1733年、ポーランド継承戦争(けいしょうせんそう)が起
きた(~1735年)
元はポーランド王位の継承をめぐる内戦だが、
それに呼応したフランスとスペインの連合と、そして、
それに対する、オーストリアとロシア諸国との戦争。
お互いが推す王を巡っての争いだが、卑劣な事に、こ
の問題によって、ヨーロッパ中が戦争になった。
ヨーロッパの国々が、恨み・つらみなどの一物を抱え
る(いちもつをかかえる、表面上は平静を装っているが、
実は隠れたところに不満などが溜まっている)状態の
国々だった。
王位と領土を巡って争っていた。
1733年、大清会典(だいしんかいてん):基本法典の一つ
中国、清代に編纂された行政上の大綱の総合法典。
1733年、ジョン・ケイ、飛杼を発明、高速織機の発明。
ジョン・ケイは、イギリスの機械工で、自動織機発明
への重要な一歩となる飛杼(とびひ)を発明した。
素晴らしい発明だったので、この高能率のこの装置の
普及につれて、失業を恐れた職工が暴動を起こした。
この様な素晴らしい発明をしたケイは、特許を申請し
たが、
資本家が、特許使用料を払わなったこともあり、フラ
ンスに渡り、不遇のうちに死んだ。
1734年4月、紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)
が没する(1669年?~1734年)
一代で巨万の富を築いた。
そして、一代で使い果たした豪商。
紀州のミカンを江戸に運び、そして、江戸から塩鮭を
上方へもたらすという商売で巨利を得た。
後に、材木商として、江戸に進出し、
江戸・京橋本八丁堀に居を構え、
一町(約109メートル)四方の屋敷に材木問屋を開き、
また、材木置き場を、深川木場に置いて、木材の買占
めでも巨富を築いたという。
江戸は火事が多く、その都度、繁盛を極めた。
老中の柳沢吉保に取り入り、幕府の御用達商人となっ
て全盛を極め、紀文大尽と呼ばれた。
吉原で大尽遊びを競った。
柳沢吉保が失脚すると廃業となり、失望・落胆の生活
を深川で送ったという。
柳沢吉保らと結託し、御用達商人として利権を得て、
巨利を得たという。
また、御用達商人として、長崎貿易にも関係し、亜鉛
を原価で仕入れ、
亜鉛はリスクが多かったが、材木と共に利益の大きな
商品だったという。
取り巻きに、俳人の榎本其角らの一流の文化人がつい
ていたという。
しかし、不明な点が多い。
1734年8月、室鳩巣(むろみゅうそう、儒学者)が没する
(1658年~1734年、77歳)
新井白石の失脚後も、将軍・徳川吉宗の信任が厚く、
1722年に侍講(じこう)となった。
しばしば諮問を受けて、幕政にも関与していた。
没するまで、西丸(にしのまる)奥儒者の地位に居た。
1734年、農業:諸国産物の調査
幕府が、「庶物類纂(しょぶつるいさん)」の増訂を
企て、諸国産物を調べた。
庶物類纂は、本草学者で加賀金沢藩の儒医であった稲
生若水、および、その弟子であった丹羽正伯らが編纂し
た博物書。
古今の漢籍などから、植物・動物・鉱物・薬物などの
記事を調査し、
その3590種の記事を、それぞれの種類・分類を精査し、
分類検討を加え、また、再編集を加え、登載した書。
1734年より、未完成的であったものを、編纂開始し、
4年後の1738年に、未完部分であった638巻を完成させ、
後援していた加賀藩に提出し、
加賀藩は、それを幕府に提出した。
1734年、農業:甘藷の栽培、
この頃、甘藷を小石川薬園、江戸城吹上苑に試植、諸
国に栽培を奨励した。
1735年10月、経済:最低価格を公定
米価の下落を防止し、更に、米価引き上げのため、最
低価格を公定した。
1735年、アイヌ交易:松前藩、
この頃、アイヌ交易を内地商人に委託する。
「場所請負(ばしょうけおいせい)」制を採用した。
場所請負制は、松前藩特有の、蝦夷地特有の流通制度
であるが、
この藩は、米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与
える俸禄は、石高に基づく地方知行ではなく、
給地に相当するものとして、漁場、および、アイヌと
の交易地域である商場を設け、
そこでの交易権を知行として家臣に分与した。
1735年、出版:蕃薯考(ばんしょこう)
青木昆陽の「蕃薯考」が出版された。
農書である。救荒作物として有用な甘藷(かんしょ)
の性質、栽培法などが記してある。
1735年、発明:コークス高炉法が発明され、実用化された。
木炭による高炉製鉄の方法は、15世紀頃に、ドイツの
ライン川流域で生まれ、イギリスなど西ヨーロッパ全域
に広がっていた。
しかし、木炭が枯渇し始めていた(山がはげ山になる)
コークスが、1709年に、イギリスで熱源としての試み
に使用して成功した。
1735年に至って、ダービー二世(イギリス)が、燃料
のコークスを用いる高炉で、鍛鉄用銑鉄生産をした。
硫黄の少ない銑鉄が製造可能となり、銑鉄の生産量が
急速に増大した。
1735年、ハドレー(イギリス)が貿易風の原因を論じた。
この年に書いた「一般貿易風の原因について」は、大
気大循環論のはしりというべき論文だった。
大循環の原因を、「赤道地方と極地方の気温差」「地
球自転の影響」の2点であるとしている。
現代でも通用する論理である。
1735年、清朝六代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)が即位
した(生没:1711年~1799年)
(在位:1735年~1796年)廟号:高宗、
清帝国の版図とともに、政治・文化・芸術が最高潮に
達した。
幼少時から帝王学を授けられ、生まれながらの皇帝と
して存在した。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009