題:(増補版)45B:気になった事柄を集めた年表(1281年~1299年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1283年5月3日、幕府(北条時宗)が、北条兼時(かねとき、
時宗の異母弟)を播磨国に派遣し防備を固める。
1283年、この年、元では三度目の日本侵略計画を立案する
が、地方官から人民疲弊を理由に計画の停止が要請された。
1283年頃、吉田兼好(よしだけんこう、兼好法師、官人、
歌人)が生まれた(1283年頃~1353年頃)、徒然草を
書いた。
1284年4月4日、第9代執権・北条貞時(1284・4・4~
1301・8・22)、前執権の北条時宗は若いがよくやった。
この日に、北条時宗は没している、32歳だった。
墓所:神奈川県鎌倉円覚寺。
元寇の心労が重なったのだと感じる。心臓病と言われ
ている。
特に、2か月以上の弘安の役の戦いの大作戦が要した時
は、時宗の名義で作戦指示が出されている。また、時宗
の作戦を受けた御内人が戦場へ派遣されて部隊の指揮に
あたっている。
何度も、元朝からの国書などの威圧に屈せず、また、
一貫して返牒案を採用せず、ひたすら防備を固めた。
また、防備陣の配備など、一致して西国御家人に戦争
の備えをさせた。
また、三度目の襲来に備えての防備にも色々と国防強
化に配慮した。今、日本の国難を救った英雄とも評され
ている。
1284年7月、元の使いが、対馬に来る。
1284年7月18日、一条実経が没した。
1284年10月3日、幕府が北条時国を常陸に誅す。
1285年、鎌倉の円覚寺が建てられた。建築:円覚寺舎利殿
(神奈川、唐様)
1285年、霜月の乱(霜月騒動、しもつき)。
安達泰盛(やすもり、1231年~1285年、幕政上、重要
な地位を占めた。娘は北条時宗に嫁し貞時を産む。外様代
表)と平頼綱(内管領)が権勢上で対立し、この年、一族
とともに滅ぼされる(秋田城介の乱ともいう)→平頼綱の
勝利→のち長崎氏へ主導権移動(平禅門の変)。
北条氏と有力御家人との間の最後の戦い。
蒙古襲来以来の内外の諸問題の多い中で、幕政運営を
巡っての対立が激化した。
1289年8月23日、一遍が没する(1239年~1289年)
1289年10月9日、第8代将軍・久明親王(1289・10・9~
1308・8・4)
1290年4月25日、院旨をもって異国降伏の祈祷を命じた。
1291年9月、元が、6000人の軍で、瑠求(りゅうきゅう)
に侵攻する計画をたて、翌年の1292年3月に、元が、瑠
求に武力侵攻した。
クビライの後を継いだテムルは、即位後の1297年9月
に、再度、瑠求へ侵攻し、島民の130人を拉致した。
この「瑠求」が琉球か台湾かについては諸説がある。
1292年、高麗使が来朝する。これに返書を出さない。
1293年、鎮西探題が設置された。
第9代執権・北条貞時の頃、北条兼時・名越時家が派遣
されたのが創始で、それまで設置されていた鎮西談議所
は廃止された。
1294年2月18日、フビライ(モンゴル帝国の第5代皇帝)
が没した(1215年~1294年)、大都宮城の紫壇殿で病
没した。
1294年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫テ
ムルが、モンゴル高原南部の上都(じょうと)で即位した。
1295年11月、イギリスのエドワード1世(イングランド王)
が、スコットランド遠征の戦費捻出のため招集した議会
(模範議会、もはんぎかい)。
キリスト教の高位聖職者や貴族、各教区からのキリスト
教司祭、各州の騎士などから議員を集めて議した。
1297年、御家人の窮乏:原因:
(1)生活の向上と大番役・鎌倉番役の負担。
(2)分割相続(惣領制)による領地細分化。
(3)貨幣経済の進展→出費の増大→所領の質入れ・
売却→恩賞の打切りに対する不信・不満。
(4)元寇の影響:戦費負担、幕府の恩賞対策の失敗
(と言っても、戦いに勝利したって、与えるようなもの、
新たに得たものはなかった)。
永仁の徳政令:御家人の土地売買・質入れの禁止。
売却後20年以内の土地の無償返還、御家人関係の金銭貸
借訴訟の不受理(1298年廃止)。
徳政令の結果:窮乏の激化→御家人の離反。
御家人:鎌倉時代には、幕府直属の家臣を言った。
御家人の中、源氏の祖先以来のものを塁代(るいだい)
御家人、
頼朝の時に御家人になったものを新加(しんか)御家
人とも言う。
御家人の義務は、御家人役(大番役、鎌倉番役、兵役
など)の奉公である。
鎌倉末期には守護に従属するものが多くなり、鎌倉幕
府体制は崩壊に向かった。
幕府の衰退:有力守護の出現:分割相続→有力御家人と
北条氏の対立、得宗家(北条氏の嫡統の家督)の専権。
霜月の乱:1285年、安達泰盛(外様代表)と平頼綱
(内管領)の対立→平頼綱の勝利、のち長崎氏へ主導権
移動(平禅門の変)。
徳政令を出し、越訴・質権・売買地・利銭出挙のこと
を定めた。鎌倉幕府への不満が高まった。
徳政令:本来は国全体に仁政を施す事であるが、1297
年に永仁の徳政令は、御家人の所領の喪失を防ぐために設
定したものであった。
御家人は、非御家人・凡した(ぼんげ)に売り渡した
所領は、20か年を過ぎても取り戻すことができた。
1299年、元の最後の正使。
クビライの後を継いだ第2代皇帝・テムルは、補陀禅寺
の僧の一寧を正使として国書を託して日本へ派遣した。
これが、元が日本へ派遣した最後の使節団となった。
鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の命によって、使節団
は伊豆の修禅寺に留め置かれた。
後に、僧の一寧は高僧であったため、日本側は厚遇を
持って迎えた。
鎌倉の住持を務めたり、後宇多上皇の招きで京都の南
禅寺で務めるなどしている。
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