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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)

2018年10月05日

(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)

題:(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月29日、ハワイ共和国で第1回選挙(差別選挙だっ
 た)
  ハワイ王国は、立派に存在したハワイの先住民の政府
 だったが、1893年に、サンフォード・ドールなどのアメ
 リカ移民による革命で、アメリカ合衆国の傀儡国家とし
 て名目上共和制のハワイ共和国となった。
  これは、最初からアメリカの侵略の意思の下に行われ
 たストーリーの中でのことだった。
  日本は、ハワイ王の日本の皇室との姻戚関係を結びた
 いなどの希望などを聞いていた。
  この様なハワイ王の行動は、アメリカの無謀な乗っ取
 りからの救済を求めている意思からの行動であった。
  日本は、正義の観点から、ハワイへ日本軍艦などを派
 遣し、抗議の行動をしている。
  この時から遡ること7年前の1887年、武力でもってハワ
 イは乗っ取られ銃剣憲法を押し付けられていた。
  選挙権の行使による決定が正義だという民主的行為を
 表面上は見せるハワイの乗っ取り行動がなされた。
  当時、多くいた移民の日本人などのアジア系の人々に
 は、一切、選挙権は与えられず・・また、肝心のハワイ
 の事実上の持ち主である先住ハワイ人の方々にも、収入
 や資産などで制限がなされて選挙権は与えられていなか
 った・・こんな事で「どこが民主的なのだ」というイン
 チキだった。
  この様な押し付け憲法で、ハワイの王室と大多数のハ
 ワイ人の方々は政治力を失って、アメリカ系の乗っ取り
 移民の事実上のハワイとなった。
  結局、これを真似をして、今・現代、中国がチベット
 やウイグルや内モンゴルへ、漢民族を流入させて、この
 3国の乗っ取りを謀っている。
.
1894年10月、東学党が、再度、蜂起した。
  朝鮮政府の厳しい政治に不満を持った全羅北道の全琫
 準の指導する農民と東学の信者の蜂起が、1894年1月に起
 きた・・
  朝鮮政府の重税政策、朝鮮支配勢力の両班たちの賄賂
 と不正収奪の横行で民衆は苦しんでいた。
  この時の朝鮮政府の暴政に対する朝鮮国内に広く伝え
 られた朝鮮民衆の言葉・・
  金樽美酒千人血:金の樽に入った美酒は、千人の血か
          らできており
  玉椀佳魚萬姓膏:玉椀にある美味い魚は、人民の油で
          できている
  燭涙落時民涙落:ろうそくから蝋が滴るとき、人々の
          涙も滴り
  歌舞高處怨聲高:歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々
          の怨嗟の声も高くとどろく
  この時の蜂起には、朝鮮政府軍は、農民軍を抑えるこ
 とが出来た。
  しかし、朝鮮政府の改革は全くなされなかった。
  民衆の不満は継続し、高まった・・
  朝鮮には、すでに宗主国としての清国が存在し、そし
 てこの頃、1860年代から、ヨーロッパ諸国の列強やアメ
 リカが朝鮮に存在し、そして、後から加わった日本・・
 朝鮮は次の時代への模索の中に不安定な状態にあった。
  そして、1894年4月、また、全琫準が中心となって、朝
 鮮政府の政治に対する不満の反封建に対して蜂起し、ま
 た、朝鮮を抑える外国勢力に不満を持って蜂起した・・
 そして、全州城の占拠を目指した。
  この時は、二度に渡って農民軍は朝鮮政府軍に勝利し
 た。
  1894年5月、農民軍は、目的の全州城を占領した。
  驚いた朝鮮は、清国に軍の派遣を要請した・・日本も、
 条約上、朝鮮へ軍を派遣した。
  そして、和解が成立した(全州和解)・・
  朝鮮政府は政治の改革を行ない、農民軍は、全州城か
 ら退去し、解散する。
  そして、朝鮮の地において、この東学党の乱(甲午農
 民戦争)の処理を巡って、日本と清国の対立が激化した。
  また、日本の提案(日本と清国は一緒になって朝鮮の
 改革を手助けして行こう)にも清国は反発した・・そし
 て、1894年8月1日、日清両国が宣戦を布告し、日清戦争
 となった・・
  この様な状況から、1894年10月に至り、朝鮮に居る外
 国人の排斥と、朝鮮政府の打倒を目指して東学党が、再
 度、蜂起した。
  全琫準は、1894年7月頃より、蜂起の準備をしていた。
  東学党は蜂起に反対で、平和的解決を望んでいた。
  この全琫準の蜂起は失敗し、1895年に捕らえられる。
  井上馨日本公使は、全琫準の人格に共感し、朝鮮政府
 に処刑しないように要請していた・・
  しかし、朝鮮政府は、井上が日本に帰国している間に、
 全琫準を処刑してしまった。
  そして、新たに発見された史料から、この1894年10月
 と1894年11月の蜂起は、日本に助けを求めていた大院君
 が、日本放逐の蜂起の呼び掛けを秘かにして、また、忠
 清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた
 ものから起きたと判明した。
  そして、この事を知った日本へ、大院君はこれを認め
 謝罪している。
  中国は、そして、この手先は、この第二次蜂起を日本
 を貶める材料としているが、真実は以上である・・この
 時、日本は農民を虐殺したと南京事件の様な嘘を言い出
 している。
.
1894年10月、秀英舎の印刷工場(鉄骨造)が完成する。
  日本で初めての鉄骨造の建物。
  フランスのリヨンは、石炭の採掘によって地盤が沈下
 する「不等沈下が起きる地域」となってしまっていた。
  この為、鉄骨造の建物となって行った。
  1890年に、フランスを旅した細谷安太郎はこの状況を
 見た。
  秀英舎と関係のあった細谷は、フランスの経験を話し
 鉄骨構造の工場増築が決まる・・鋼材はフランスから購
 入した。
  建築地:東京府京橋区西紺屋町(東京銀座の数寄屋橋
     近く)
  設計:若山鉉吉(横須賀造船所構内学舎で造船学を学
     び、後にフランスに留学した海軍の造船技師
  建築規模:地上3階、地下1階、
  基準階:52.5坪(170.1㎡)
  建物高さ:36尺(10.9m)
  屋根:スレート葺き
  1階:印刷機械8台、2階:植字場、3階:文選場
  中央に螺旋階段があり、屋上に登れる。
  この年に竣工した建物:東京府庁舎、三菱煉瓦街1号
    館、横浜大桟橋、奈良帝室博物館
  秀英舎は、先進国である英国より秀でる会社になると
 いう願いで勝海舟によって名付けられ、今の大日本印刷。
.
1894年10月、京城~釜山間、および、京城~仁川間の鉄道
 建設が決定した。
  甲午改革において、日本は、李氏朝鮮に対して京城か
 ら開港場までの鉄道敷設を提案した。
  1894年8月20日、日本と朝鮮は、「日韓暫定合同条款」
 を締結した。
  そして、その条款に基いて、日本は、鷺梁津(漢江西
 岸)~済物浦間の鉄道を、1899年に開通させた。
  日本の朝鮮改革の鉄道敷設は、これに始まった。
  これは、後に、京仁線となった。
  1905年、京釜線が全通し、
  1906年、京義線が全通した。
  朝鮮は、軍隊の輸送のために勝手に作った様に言って、
 まったくありたがっていない(中国とその手先の工作も
 あって)
  しかし、それまでは、あぜ道のような道であった朝鮮
 の道を行く人々は、すべての荷運びは人の背の人力だっ
 た。
  何日もかかった移動で、少量だったが、この鉄道の開
 通は、そのすべてを大変化させた・・すべて朝鮮の人た
 ちを格段に潤わせた。
  これを契機に、朝鮮の経済は大きく発展して行く。
  国造りには、何よりも街道と鉄道の整備が大切なのだ。
  これを、日本が朝鮮にした。
  何しろ日本の基本姿勢は、他の欧米列強諸国と違って、
 この鉄道にしろ、学校にしろ、病院にしろ、日本の内地
 と格差なく、逆に、朝鮮の大学の方が立派なくらいの大
 学を造る様に・・日本は朝鮮の国造りをした・・改革を
 した。
.
1894年10月、日本初の長距離急行列車の運転開始
  山陽鉄道の神戸駅~広島駅間の直通列車1本を、途中、
 主要駅にだけしか停車しない急行列車に格上げした。
  日本で初めての急行列車となった。  
  日本の人の移動の改善がなされていく。
.
1894年10月、「金鵄勲章受合い」「日本兵」など流行語に
 なる。
  金鵄勲章(きんしくんしょう)は、武功抜群の陸海軍
 の軍人・軍属に与えられた勲章で、功一級から功七級ま
 であった。
  1890年に制定された。
.
1894年11月1日、ニコライ2世がロシア皇帝となる。
  ロシア皇帝アレクサンドル3世逝去し、ニコライ2世が
 即位した。
  ニコライ2世は、1868年~1918年、享年50歳、
  帝政ロシア最後の皇帝(在位:1894年〜1917年)で・・、
  1891年、皇太子として日本を訪れ、大津事件にあった。
  父・アレクサンドル3世の専制護持の教育を受けて、外
 交政策を継承し、フランスとの同盟を強化する。
  極東への進出を図って、日露戦争を起こし敗北した。
  1905年、革命で「十月宣言」を発布するが、革命が終
 息するとストルイピンを用いて革命運動を弾圧した。
  第一次大戦中に退位を余儀なくされ、ボリシェビキが
 政権を掌握すると、1918年、シベリアに幽閉され、後に
 射殺された。

.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が素晴らしかったのは・・この会議で、世界
   で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
.
4世紀、キリスト教聖職者が女性蔑視から殺害行為をする。
  キリスト教修道士が、女性蔑視のキリスト教教義に洗
 脳されて、その蔑視観から女性を殺害した。
  酷(ひど)い殺し方だった。
  キリスト教の聖書に記述される「テモテへの第一の手
 紙(2・11・13)」には・・、
  「婦人が教えたり(してはいけい)、男の上に立った
 りするのを私(キリスト教の神)は許さない」・・と記
 されているが・・、
  この1例の様に、キリスト教の聖書には、女性を蔑(さ
 げす)む記述に満ちている・・、
  4世紀のこの時、このキリスト教修道士は、牡蠣(かき)
 の貝殻で、男に教える行為をした、教えを授けたという
 女性を・・「キリスト教の神の命令に背いた邪悪の女だ」
 として、この女性をめった切りにした。
     ・
     ・
1684年2月21日、この日から貞享(じょうきょう)年間とな
 るが(~1688年9月30日)・・
  この貞享年間以降は、完全にキリスト教に入信する者
 はほとんど居なかった・・だから、衰退するだけのキリ
 スト教という状態だった・・
  キリスト教は、日本が弾圧したとか、だから、「隠れ
 キリシタンだ」なんて言うが、これは、まったくのオー
 バーな言い方・・自分たちを有利に言いたい嘘話・・
  日本は、まったく温厚で、まったく取締りもしていな
 い・・
  また、キリシタンと言っても、仏教や神社の信徒や氏
 子となってしまって「隠れキリシタンだ」なんて言える
 様な代物(しろもの)ではない・・
  たとえ居たとしても、各地の大名など、見て見ぬふり
 をするという状況・・気にする状況ではなかった・・
  日本は、まったくの温厚な優しい民族で、ヨーロッパ
 の様に「あちこちで焼かれる焚刑の魔女で、曇り空の様
 だった」などと言われていることとほど遠い状況だった。
  ヨーロッパの様に「全滅した村がある」などとの状況
 とはまったく違う・・
  その様な日本の状況を、キリスト教は、ヨーロッパと
 同様な状況の様にオーバーに言って日本を貶(おとし)
 める・・今回、世界遺産となったが・・まったくの作り
 話しとなっている・・
  キリスト教の言う「何番崩れ」などというたまにある
 話でも、せいぜい十手(じって)を持った岡っ引き(目
 明かし)が捕まえる5・6人程度・・ヨーロッパの村の全
 滅と同列なように印象付ける言い方は間違い・・
  キリスト教は、この点で、必死に耐え抜いたとオーバ
 ーな言い方をしている・・
  そもそもキリスト教が禁教にされたのも、キリスト教
 が悪いことをするからだった・・
  「日本を植民地化する」という「陰の役目」を持った
 キリスト教宣教師たち・・
  そのことを知った豊臣秀吉が、部下に確認させ、それ
 を確認したから禁教にしたのであって・・
  また、キリスト教は、日本の若い女性を海外へ売って
 いた・・この様な事も、秀吉は知ったのだった・・
  (何も知らない信長は宣教を許していたが・・)
  江戸時代が厳しいというが・・幕府は「大体、目的を
 達した」とみていて、厳しい事はしていない。
  歴史の教科書で、宗門改帳(しゅうもんあらためちょ
 う)があったと勉強するが、熱心に行われてはいない。
  「潜伏キリシタンだ」とキリスト教が言ったって、キ
 リスト教が作った勝手なイメージ・・実態からかけ離れ
 ている・・仏教・神道と習合して、それなりに信仰生活
 をしていた・・潜伏などというイメージはまったく無い。
  天草四郎も、かつて、天草に居たキリスト教宣教師が
 話した架空の少年の話で・・実際は存在していない。
  また、この島原の乱でキリシタンが抵抗したという話
 もデッチアゲ・・宗教的な戦いとはまったく違う・・
  これは百姓一揆である・・
  少数のキリスト教徒は居たとしても、宗教の抵抗とは
 まったく違う・・
  キリスト教宣教師は、国外追放にされて、ほとんどの
 宣教師は日本国外へ出たが、一部が、不法に日本に潜伏
 した。
  しかし、潜伏したと言ったって、日本の風土の良さか
 ら「その宣教師のすべてが棄教している」。
  遠藤周作が「沈黙」でそれを書いた。
  しかし、それでは、あまりにも惨(みじ)めなので、
 映画の「沈黙」では、史実とまったく違う・・また、原
 作の遠藤周作とはまったく違う映画にしている・・作り
 話にしている。
  「沈黙」と名付けられない・・「沈黙」ではない・・
  日本の穏(おだ)やかな優(やさ)しさが「すべてを
 飲み込んで行った」のだ・・
  今・現代でもキリスト教は1%・・
  この様な嘘をつく宗教で、また、人を殺してばかりい
 た宗教で、一旦は信じたとしても、魅力を感じる点はま
 ったく無い・・
.
1867年、赤松小三郎が暗殺された。
  「建白七策」を建言した人(1831年5月15日~1867年9
 月30日、37歳)
  幕末の信州上田藩士で、洋学者、兵法家。
  信州上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれる。
  藩校の明倫堂に学ぶ。
  1848年(17歳)江戸に出て、幕臣の数学者・内田弥太
   郎に学ぶ。
  1852年(21歳)西洋兵学者・下曽根金三郎に師事する。
   江戸で、数学、天文、測量、暦学、蘭学、砲術を学
   ぶ。
  1855年(24歳)再び江戸に遊学し、勝海舟の塾で兵学
   を修得する。
    次いで、勝海舟の従者として長崎へ赴き、海軍伝
   習所で、航海術などを学ぶ・・オランダ人より語学、
   航海、測量、騎兵学などを学ぶ・・この頃、英国兵
   書の翻訳を志す。
  1858年(27歳)オランダの兵書「矢ごろのかね 小銃
   彀率(こくりつ)」を翻訳して出版した。
  1859年(28歳)4月、長崎海軍伝習所の閉鎖によって江
   戸にもどる。
    咸臨丸への乗船を希望したが選ばれなかった。
  1862年(31歳)上田で調練調方御用掛となる。
  1863年(32歳)上田で砲術道具製作御掛となる。
  1864年(33歳)9月、第一次長州征伐で、公務として江
   戸に出る。
  1864年(33歳)11月、横浜に駐屯するイギリス騎兵士
   官・アプリン大尉から英語や騎兵術の英国兵法など
   を習う。
  1865年(34歳)4月、第二次長州征伐で大阪に布陣する。
   陣中で英国陸軍の兵書の翻訳を進める。
  1866年(35歳)3月、翻訳した「英国歩兵練法」を出版
   する・・広く洋式兵法家としてその名が知られる様
   になる。
  1866年(35歳)8月、「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申
   上候口上書」を幕府に提出する。
  1866年(35歳)9月、藩主の松平忠礼に、藩内の身分制
   度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出する。
  1866(35歳)10月、薩摩藩から英国兵学の教官として
   スカウトされる。
    その後、京都へ出て私塾を開く。
    薩摩藩邸・会津藩邸で、英国式歩兵術など洋式兵
   学を教えた。
    諸藩より学ぶ門下生の数、800余名。
    その中には、東郷平八郎元帥、上村彦之丞大将な
   ど日清、日露戦争で活躍した諸将が含まれている。
  1867年(36歳)薩摩藩・島津久光侯の委嘱により、「
   英国歩兵練法」を改訂し、新しい翻訳で出版する。
  1867年(36歳)5月、前政事総裁職(前福井藩主)松平
   春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」を
   提出する。
    島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白
   書(建白七策)を建言した。
  この「建白七策」は、我が国の近代化に向けての国家
 のグランドデザインを描いたもので、政治史の中で燦然
 (さんぜん)と輝いている。
  公武合体論を主張し、天幕一和(天皇家と幕府の合体)、
 諸藩一和のもと、上局と下局の二局の議政局により、内
 憂外患のこの時期を、平和的に乗り切る方策を模索した。
  そして、西郷隆盛や徳川慶喜への働きかけるなどした。
  最後まで東奔西走していたが・・
  明治維新直前の1867年9月30日、藩命に接し、上田への
 帰藩途上の京都において、桐野利秋などの薩摩藩士によ
 り暗殺された。享年37歳。
  薩摩藩は、才能のある赤松小三郎が、幕府側に利用さ
 れるのを惜しんだためと言われている。
  上田市(上田城跡公園内)に赤松小三郎記念館がある。
  訳書に「英国歩兵練法」「新銃射放論」。
.
1931年11月7日、この日の朝日新聞の戦争を煽る記事
  「砲火の下に嫩江激戦を観る。新聞記者の一番乗り。
 決死・前線へ進む。不意打ちに我軍の苦戦。
  忽(たちま)ち鮮血の河!」。
  (参考)嫩江:のんこう、黒竜江省黒河市に位置する。
  朝日新聞は、特派員などの記事で勇ましく報道し、戦
 争を煽り立て続けた。
  「暴戻なる支那兵。日本の権益侵害」と書き・・
  「敢然として自衛のために起ち上がった」と煽った。
  (参考)暴戻:ぼうれい、荒々しく、道理に反する行
     ないをすること。
  朝日新聞の記者・荒垣秀雄が有名になった。
  そして、朝日新聞は、非常に多くの号外を出し、煽り
 立てた。
  1931年9月から1932年1月まで、131回もの号外を出した。
  満州事変も煽った、朝日新聞の販売部数は飛躍的に増
 大した。
  販売成績も同時に飛躍的に増大する中に、戦争を煽る
 朝日新聞があった。
.
1945年9月11日、東条英機が拳銃自殺を図った。
  銃声が聞こえた直後、救急車などと共に、世田谷区用
 賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心
 とした連合国軍のMP(軍警察)たちが一斉に踏み込み
 救急処置を行った。
  銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れて
 いて、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処
 置が施され・・、
  マッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野
 戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術
 と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得た。
  新聞では、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太
 刀(じんたち、太刀の拵)送る」などの病状が報道され
 た。
  また、入院中、ロバート・アイケルバーガー中将はじ
 め多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れた。
  その様なアメリカ側と対照的に日本人は、家族以外、
 訪問者は少なく、その様な状況に東條英機は大きく落胆
 したという。
.
1948年11月12日、東京裁判が、25人に有罪の判決を下した。
  そのうち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條
 英機、広田弘毅、武藤章、松井石根の各氏が死刑となっ
 た。
  ポツダム会談で、既に、誰を死刑にするかは話し合わ
 れていた・・東京裁判はその茶番劇だった・・
.
1948年12月23日、東条英機らの7人に死刑が執行された。
  無実の罪だった。
  この判決を下した東京裁判自体が「卑劣な行為」だっ
 た。
  「アメリカなどの連合国が卑劣だ」という理由は、そ
 もそも、この裁判が成立しない状態にある・・それ故、
 アメリカは、「日本を裁く罪状が無い」ため、日本の罪
 状づくりという卑劣な行為をした。
  裁くための新しい法律を事後法で作った・・卑怯な行
 為である。
  そして、ドイツのヒトラーが行なったユダヤ人の方々
 を虐殺したと同じ様な南京虐殺があったとデッチ上げた。
  ある訳がない南京事件をデッチアゲテ・・2万人を虐殺
 したとした(今では、中国が30万人だと言う始末になっ
 ている)
  まったくの濡れ衣(ぬれぎぬ、無実の罪。根も葉もな
 い嘘)である。
  日本は、ドイツのユダヤ人虐殺の様なジェノサイドは
 絶対に行っていない。
  東京裁判のすべてが、アメリカなどの連合国の作り上
 げた筋書きで進められた。
  ドイツは、開戦の何年も前から、ヒトラーなどのナチ
 ス幹部たちが、「共同謀議をして」、悪計を謀(はか)
 って、そして、戦争を始めたのであって、それが裁かれ
 るのは当然なのだが・・日本はその様な行為は一切して
 いない・・
  逆に、アメリカによる引っ掛け行為によって戦争が開
 始されている・・このアメリカの行為こそ裁かれるべき
 なのだ・・。
  これ等の理由の様に、東京裁判の日本への起訴状は空
 理空論なのである・・成立しないのである・・
  「勝てば官軍」で、アメリカは何でも言いつのった。
  また、卑劣な事後法を作って、日本を罪に落とした。
  それが、真実の実態なのである・・
  A級戦犯などの多くの人々を、あたかも裁いた様にし
 て殺したが、罪は成立してないのである。
  唯一の東京裁判の国際法の専門家だったパール判事が
 「全員無罪とした」のが正しいのである。
  死刑にすることが出来ない人たちを、死刑にしたのが
 東京裁判だったのである。
  日本という国に、および、その国の通常の公務に従事
 していただけに過ぎない人たちを、この様な通常の無実
 の人たちを裁き得ないことが明白なのに・・被告とした
 のである。
  東京裁判は茶番と言われる所以(ゆえん)である。
  また、この様な論理を通したいのならば・・ベトナム
 戦争の戦勝国・ベトナム国の国の裁きを、敗戦国のアメ
 リカは受けなければならない。
  アメリカのあらゆる新しい兵器を、日本の原爆の様に
 テスト使用して、ベトナムの方々を、大勢、虐殺した。
  この卑劣な行為は、「人道に対する罪」である。
  または、東京裁判の再審請求を成立させて、公正な裁
 判を、再度、行ない、「全員無罪としなさい」・・
  そして、国連憲章の敵国条項を削除しなさい。
  もう、陳腐な戦後体制の論理は終わっている時代なの
 である。
.
1965年6月22日、日韓基本条約が締結された。
  この条約の正式名称は、「日本国と大韓民国との間の
 基本関係に関する条約」という。
  日韓国交樹立、日本の韓国に対する約11億ドルの経済
 協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それら
 に基づく関係正常化などが取り決められた。
  これで、両国間のすべての懸案が解決した。
  しかし、この隣国の韓国・朝鮮は、江戸時代も、そう
 であった様に、遠い昔から「国際的な考え方も無視する
 様な国だった」。
  国際法では、いったん合意されたものは、蒸し返して
 問題にできないとされているが・・韓国政府は、この様
 な合意はおかしいと、後になって、繰り返し繰り返し蒸
 し返して、すでに合意していることをしつこく言った。
  約束という行為が、まったく無視される状態だった。
  この国とは何の約束もできる様な状態ではないと言え
 る。
  例えば一例を言えば、「個人への補償が終わってない」
 と韓国は言い出した。
  この件は、日韓間の交渉段階で、「日本が、個別に個
 人と話し合って補償します」と言った。
  すると、韓国政府は、「韓国政府へ一括して支払って
 もらいたい」と要望した。
  そして、日本は、韓国政府の要望を入れて、大変大き
 なお金を韓国政府へ支払った。
  しかし、前記したように、後になって、韓国政府は、
 個人への支払いが終わってないと蒸し返し発言を始めた。
  この国は、この様な事ばかりしている・・ところが・・
  2005年1月17日、韓国において、韓国側の議事録が公開
 されると・・、日本と韓国間の個人賠償請求について当
 該諸条約の本文に・・
  「完全かつ最終的に解決した」と、「1945年8月15日以
 前に生じたいかなる請求権も主張もすることができない
 ものとする。」の文言が明記されている事が韓国国内に
 広く知られるようになった。
  韓国内では大騒ぎになった・・
  日本の言う通りだった・・
.
2018年、孔子学院と言って中国の工作員が入っているとい
 う事で有名な組織がある大学
  中国共産党のプロパガンダ組織だという・・
  その為、アメリカの孔子学院の閉鎖が相次いでいると
 いう・・
  大統領令も出て中止という事になった・・
  中国語を無料で教えるという名目・・
  ヨーロッパもこの事に気付いた・・
  ドイツのメルケル首相が、「中国の儒教でも教えると
 思ったら、まったく違って、中国共産党の宣伝機関だっ
 た」と言ったという・・
  以下は、今、日本の孔子学院を開いている大学・・
  ・桜美林大学孔子学院(神奈川県)、、
  ・北陸大学孔子学院(石川県)、
  ・札幌大学孔子学院(北海道)、
  ・立命館アジア太平洋大学孔子学院(大分県)、
  ・関西外国語大学孔子学院(大阪府)
  ・大阪産業大学孔子学院(大阪府)
  ・立命館孔子学院(京都府)、
  ・兵庫医科大学中医薬孔子学院(兵庫県)
  ・岡山商科大学孔子学院(岡山県)、
  ・福山大学孔子学院(広島県)、
  ・愛知大学孔子学院(愛知県)、
  ・武蔵野大学孔子学院(東京都)
  ・早稲田大学孔子学院(東京都)
  ・工学院大学孔子学院(東京都)
.
2018年9月11日、『ニュース女子』 #174(大東亜会議・文
 部科学省・温暖化)
  https://www.youtube.com/watch?v=jdxKF6EJSZ4
  以下は、放送された内容・・
・1943年11月5日、大東亜会議(~1943年11月6日)
  アジア初の国際会議が開かれた。
  会議の目的:植民地支配からアジアを解放する。
  参加国:日本、タイ、フィリピン、インド(自由イン
 ド仮政府)、中華民国(南京国民政府)、ビルマ、満州
 国
  大東亜共同宣言が採択された・・アジアの欧米諸国に
 よる植民地支配からの解放を目指す。
  大東亜を建設して世界平和の確立に寄与する。
  1、共存共栄
  2、自主独立と互助敦睦(友好の推進)
  3、伝統の尊重
  4、経済発展
  5、人種差別撤廃と資源解放
・しかし、東京裁判で、この大東亜共栄圏の考え方が否定
 された。
  連合国基準・・連合国の戦勝国の定義に反するとして
 否定された。
  この東京裁判で、その様な戦勝国の定義から敗戦国側
 の28人がA級戦犯とされてしまった。
  罪名:平和に対する罪、
  東条英機らの7人が死刑(絞首刑)とされた。
  国際法にも存在しない基準によって殺すと判断された。
  日本を裁くためだけに作られた基準だった。
  この様なやり方なら、誰でもが、後から罪に落されて
 しまうというやり方だった。
・日本の今の女子の考え方
  1、戦没者は日本の英雄です・・核兵器のない世の中
    にします!・・戦没者の方々、どうぞ安らかに(
    靖国に眠る英霊の皆様への一言)・・
  2、日本のため、家族のために、ありがとう・・戦争、
    紛争が無くなっていなくて、ごめんなさい・・
    皆様は平和を目指していた・・
  3、本当に、お疲れさまでした・・あの時の戦いの存
    在があってこそ、今のアメリカとの友好関係があ
    る・・
  4、あなた方が戦って下さったことは、決して無駄で
    はありませんでした・・アジアに旅行した時に、
    そのアジアの方々から聞く声で、「あの時、日本
    が来てくれて有り難かった」という声だった・・
    日本のすべてが悪いと否定することではない・・
    日本の戦いは決して無駄ではなかった・・
・欧米列強諸国に支配されていた地域を、大東亜共栄圏で
 皆が豊かに栄える状態に変える構想・・
  その領域:アメリカ領フィリピン、イギリス領ビルマ、
 イギリス領マレー、インド、オランダ領東インド、イギ
 リス領ボルネオ、アメリカ領フィリピン、フランス領イ
 ンドシナ、中華民国、満州国、オーストラリア、ニュー
 ジーランド
・1886年(明治19年)、帝国大学令に基づいて「帝国大学」
 と改称され、帝国大学が整備された・・
  この時、大鳥圭介が言った・・
  「アジアに6億人が居て、ヨーロッパには3億人、この
 様に人口の多いアジアが、何故、ヨーロッパの植民地に
 ならなければならないのか?
  その為に、智慧の不足をアジア人は補って持とう」・・
 基本的な、底流にある考え方「アジア人は知恵と共に強
 くなろう」・・(その考えのもとで、日本は、日本の資
 金を投入して、朝鮮や台湾で大学など学校を作った)
  この様な考えもあって、大東亜会議は開催された・・
・1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  第一次世界大戦後の世界秩序を決める会議だった。
  日本は、主要五大国として参加した・・
  そして、日本が素晴らしかったのは・・この会議で、
 世界で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
  会議の現場では多くの賛同を集めた・・決議される勢
 いだった・・
  しかし、この流れを恐れた国があった・・賛成国が多
 く、決議される流れの中にあったが・・アメリカとイギ
 リスが反対した・・
  この反対で、特に、アメリカの議長決裁という少数者
 側に居たアメリカの議長権限で否決された。
  「民族が平等なのは当たり前なのだ」という民族の平
 等という人道的な当然の日本の訴えを退けてしまったア
 メリカだった・・
  そして、この考え方の流れは、大東亜会議へとつなが
 って行く・・強い国が弱い国を攻めて蹂躙してはいけな
 いという、これも、当然の訴えだった・・
  「力による支配を否定する」は当たり前の訴えだった・・
  この当たり前を・・採択されるような包容力のある列
 強ではなかった・・
  採択するような国であれば、当然、核を持つような行
 動も無かったのだが・・
  ヨーロッパに存在する「人種差別観」と「強いものが
 弱いものを蹂躙してよいという差別観」から発していた・・
 この二つが根源的な問題だった・・
・1929年、世界恐慌となった・・この経済が行き詰ったこ
 の時・・ブロック経済圏を作った・・
  ドル経済圏・・
  アメリカなどのドル経済圏が、他の経済社会に需要が
 流れて行かない様な行動をとった・・
  自分たちだけの社会の中で、経済が回る様な行動をし
 た・・(自分たちさえよければ良い・・だった)・・)
  その経済圏の外にいた日本は、自主独立の道を進む道
 を止む無くとった・・そして、日本だけではなく、アジ
 アの共栄圏の道を作ろうという行動をとった・・そして、
 共に経済成長して行こうとした(大東亜共栄圏)・・
・この当時、日本とタイという二国のみが独立の状態だっ
 た・・この二国の例外を除けば、すべてのアジアの国々
 は、「植民地という自由を束縛された経済社会」の中に
 あえいでいた・・
  蹂躙されていた国は以下・・1979年頃のアジア諸国・・
  フィリピン(アメリカ領)、
  ビルマ(ミャンマー、英国領)、インド(英国領)、
  シンガポール(英国領)、バングラデシュ(英国領)
  スリランカ(英国領)、マレーシア(英国領)、
  パキスタン(英国領)、
  ラオス(フランス領)、ベトナム(フランス領)、
  カンボジア(フランス領)、
  インドネシア(オランダ領)、
・戦後のアメリカの介入した教育などで、日本は侵略国だ
 というイメージが押し付けられ、洗脳され、作られて行
 った・・
 (戦後、アメリカの占領政策下で、NHKは盛んに洗脳
 放送をした)
・苛烈(かれつ、むごいほど厳しく激しいさま)を極めた
 欧米列強の植民地支配は、隠されがちだった・・
  生活穀物で・・植民地の人々は、自分たちの生活に必
 要な穀物さえ栽培できないように強制された・・
  そして、欧米列強が儲かる都合のよい商品作物の栽培
 に変えさせられた・・そして、利益の収奪がされた・・
  オーストラリアはイギリスから囚人を入れたが、
 アボリジニのアジア人を30万人殺した・・この様な話ば
 かり
  マレーシアもこれで、ほとんどの国がこの様に列強諸
 国に収奪された・・
  中国も、イギリスにアヘンの麻薬を強引に流入された
 (麻薬貿易)・・強引に麻薬が売付けられ・・中国の富
 が召し上げられた・・
  インドネシアも、オランダに酷いことをされている・・
・この様な虐(しいた)げられていたアジアの国々を回っ
 た時、それらの国々の国民感情は、日本に対する恨みは
 まったく無い状態だった・・
  日本軍が行った時、「解放軍だ」と思った・・と・・
 喜んで日本軍を迎えた・・特に、インドネシアは、350年
 間、オランダの植民地下で虐げ続けられて来ていた・・
  生活習慣まで変えさせられた(足をすって、にじり寄
 る様なしぐさを押し付けられたりした)・・
  御主人様には、その様にするのだとされた・・オラン
 ダは文明を教えてやったという視点だった・・
  この底流には、「白人以外は人間ではない」という人
 間観があった・・
  日本人は、日露戦争後は名誉白人とされた(日本が要
 求した訳ではない)・・
  アメリカの黒人差別は目を覆うばかりだった・・ホテ
 ル・レストランなど、黒人が入れない所があちこちに作
 られていた・・白人はそれが当たり前だとした・・
  大東亜会議は、その様な虐げられていた有色人種だけ
 で開催された・・白人には、差別のキリスト教中心の価
 値観があった・・が、しかし・・大東亜会議は平等な宗
 教観の中で開催された・・
・戦後、アメリカの占領政策の中では、これ等の『大東亜
 構想』をNGワードとされた・・No Good Word・使って
 はいけない言葉とされた・・
  大東亜共同宣言のすべては、国連憲章と同じで当たり
 前の事なのに・・この時、白人は、今現在、植民地とし
 て支配下に置いているのに・・「自主独立とは何だ」と
 白人国は反発した・・
・日本が、ずーっと持っていたこの考え方の会議を、アジ
 アの虐げられた人々を集めて戦争前にしていればという
 事があり、残念だった・・もう少し早く、白人たちへ行
 動していたかった・・
  戦勝国は、この点をずけずけと言った・・しかし、大
 東亜構想の理念では当たり前な事なので、その点では言
 う事は出来なかった・・
・日本が、明治維新を行なった原点には、「日本が欧米列
 強の植民地にされないように・・」という事でった・・
  だから、朝鮮へも、開国して近代化するようにと言っ
 た・・西郷隆盛の主張にも、その理念があった・・
  アジアの国々と結束したいという理念はズーットあっ
 た日本だった・・
  大東亜会議は、すべての虐げられたアジアの国々を呼
 ぼうとしたが、イギリスの蹂躙下にあったインドや、ア
 メリカの蹂躙下にあったフィリピンも呼べない状況にあ
 るように、呼べない国々があった・・
・日露戦争までのアジアの国々の人々は、「白人に勝てな
 い」というそれまでの独立戦争のことごとくで、痛い目
 に会っていて、反抗心が抑え付けられていた・・
  日本の日露戦争の勝利で、アジアの方々へ希望を与え
 た・・
  今・現在、日本の女子が、アジアに旅行した時、同世
 代のアジアの青年たちも、上の世代の方たちから、「日
 本によって解放されたのだ」と聞かされたという話をな
 された・・
  今の若い世代でも、その様な会話がなされている・・
 病院や学校や道路などを作ってくれたとも言い・・「日
 本人に感謝してます」との言葉も出る・・と・・
・白人の欧米列強の植民地政策は、滅茶苦茶に収奪だけの
 行為だったが、日本は違った・・日本は教育をしたり、
 道路を造ったり、鉄道を引いたり、ダムを造ったり・・
 と・・
・ガタルカナル島やソロモン諸島の国で、パプアニューギ
 ニアのラバウルで聞くと、日本が、あの時、もし勝って
 いたらもっと私たちは違う良い国になっているという話
 も出ている・・
・アメリカは、原爆を落とし、最大の虐殺をしたという負
 い目があった・・それを消すのに必死だった・・
  日本を悪くする象徴として、東京裁判の7人のA級戦犯、
 16人の終身禁錮刑、2人の禁錮刑などを作った・・
・東京裁判の最大の愚かさは、国際法の専門家が一人しか
 いなかった・・その人が、インドのパール判事だった・・
  このパール判事が「全員無罪とした」・・
・この戦争を煽ったのは朝日新聞・・朝日新聞は戦争を煽
 りまくった・・
・戦争を止めるには軍人でなければだめだとして登場した
 のが東条英機首相だった・・戦争にならざるを得なくな
 った時に東条英機首相は官邸で泣いていたという・・
・2013年、「大東亜会議70周年の会」が開かれた・・600人
 くらいの人たちが集まった・・
・インドネシアで、戦後、日本に帰還しないで、日本の2000
 人の将兵が残り、インドネシアの独立戦争に加わって熾
 烈(しれつ、燃え上がる様な盛んで激しい様子)な独立
 戦争を行なった・・1000人の日本将兵が戦死した。
  インドネシアの国立名誉墓地に、一杯、この日本将兵
 が葬られている・・この様なことは、ベトナムでもなさ
 れ、約750人の日本将兵が戦死している(フランスが、再
 度、植民地にしようと、ベトナムを取りに来たとき、日
 本の将兵が共に戦った)・・
  ウイグルのリーダーのラビア・カーデル氏は、他の国
 で、日本の将兵が戦ってくれた様に、ウイグルにも来て
 もらいたかったと言った・・と・・
  この地は、中国の領土ではないと言った・・日本の将
 兵が戦った地は皆独立していることを見ても残念だと、
 何回も言った・・
.
2018年9月27日、中国に敗けたキリスト教のバチカン
  「中国様」と言わんばかりのバチカンのローマ法王(
 教皇)の状態。
  過去の暗黒のキリスト教の歴史にも、「叙任権」の争
 いで多くの血が陰湿にも流されたが・・その様なことが
 現在も起きている。
  中国がキリスト教の司教を独自に決めた・・すると、
 その司教をバチカンは破門にした。
  こんな「おしくらまんじゅう」をしていた。
  この日の読売新聞によると、バチカンは中国に敗けて、
 司教任命権を渡すような状態になった・・しかし、この
 様な法王の言動に批判があいついだため、ローマ法王の
 発言が微妙になった。
  ローマ法王フランシスコは、ローマ法王庁(バチカン)
 が中国との間で暫定合意した中国カトリック教会の司教
 任命について、「最終的に任命を行なうのは法王だ」と
 述べた。
  法王が22日、中国が独自に選びバチカンが破門にして
 いた司教7人の妥当性を認めたことに批判が出ていること
 を踏まえ、中国側には妥協はしていないと強調する狙い
 があるとみられる。・・(中略)・・
  今後は、中国側が選んだ司教候補を、法王が実際に任
 命するかどうかが焦点となっている。
  中国側が司教候補を提示することは、法王が絶対的な
 権限を持つ司教任命権を実質的に中国側に渡すことにな
 り、中国政府の圧力にキリスト教カトリック教会が屈し
 たとの見方もある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive



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