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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)581E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年6月)

2018年03月05日

(増補版)581E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年6月)

題:(増補版)581E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1893年5月、本多静六(のち東京帝国大学教授、林学博士)
 が、防雪林について、日本鉄道会社理事委員の渋沢栄一
 に進言し・・、
  野辺地付近の1.7ヘクタールに、スギ2万1196本と、カ
 ラマツ1005本を植林した。
  これが、わが国の防雪林の最初。
  本多静六(ほんだせいろく、1866年~1952年)林学者。
  1866年7月2日、武蔵(むさし)埼玉郡の生まれ(8月11
   日説あり)
   父の急死で生家の柳原家が没落し、少年時代は苦学
   した・・のち本多家の養子となる。
  1890年(24歳)帝国大学農科大学林学科を卒業。
  1890年(24歳)ドイツ留学(ミュンヘン大学)、国家
   経済学博士の学位を得て帰国。
  1892年(26歳)母校の帝国大学の助教授となる。
  1899年(33歳)「日本森林植物帯論」で日本初の林学
   博士となる。
  1900年(34歳)東京帝大教授となる。
  日比谷公園、明治神宮など各地の公園や庭園を設計し
 た。
  1927年(60歳)退官、37年間、教壇に立った。
   この間、国立公園・国定公園の創設、防雪林、水源
   林など造林学の実践に貢献した。
   また、帝国森林会、日本庭園協会を創立した。
   一方、山林、山地を自ら買って育成した。
  1930年(63歳)自らの森林の5000ヘクタールの美林を
   育英事業のために、郷里の埼玉県に寄付した。
   東大名誉教授となってからは、道徳の訓話の講演を
   行なったり、色々と人々を助けた。
  1952年1月29日(85歳)死去。
  日本最初の林学博士。
  国立公園設立に尽力した。
  著書:「本多造林学」「造林学前論、全5巻」「造林学
 本論、全5巻」「造林学後論、全3巻」。
  論文:「日本の植物帯殊ニ森林帯ニ就テ」「我国地力
 ノ衰弱ト赤松」「新人正観と新生活」
1893年6月6日、寺島宗則(62歳) 死去。
  寺島宗則(てらじまむねのり、1832年~1893年)薩摩
 (さつま)鹿児島藩士。外交官、政治家。伯爵。
  1832年5月23日、薩摩国出水郷脇本(鹿児島県阿久根市)
   の郷士・長野祐照の次男に生まれる。
   幼くして、伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子(よう
   しし、家督相続人となる養子)となる。
  1842年(10歳)蘭語学習を始める。
  1847年(15歳)江戸に遊学し、川本幸民らに蘭学を学
   ぶ。伊東玄朴の象先堂塾頭を経て・・、
  1856年(24歳)幕府の蕃書調所教授手伝となるが・・、
  1857年(25歳)薩摩(鹿児島)藩主・島津斉彬の要請で、
   鹿児島へ帰藩・・製鉄、造船、ガス、写真、電信な
   どの藩近代化事業に携わる。
   西洋文明技術の実際を会得する。
   藩医であったが・・幕府の蕃書調所教授手伝の復職
   となる。
  1861年(29歳)12月、幕府の第1回幕府遺欧使節に傭医
   師兼翻訳方の資格で福沢諭吉らと随員として随行し、
   ロンドンに2年間、滞在した。
  1865年(33歳)3月、薩摩藩遣英使節の一員として出水
   泉蔵の変名で留学生を率いて渡英する。
   帰国後、幕府に仕え開成所教授となる。
   2度にわたる西欧体験から雄藩連合政権を主体とする
   統一国家構想を説く。
   明治維新後、新政府に出仕。
   参与外国事務掛、神奈川府判事、神奈川県知事、外
   国官判事などを経て・・、
  1869年(37歳)外国官判事、外務大輔となる。
   創業期の外務省の整備充実に尽力、電信事業や造幣
   事業にも大きな功績を残した。
   その後、駐英大弁務使(駐英公使)を経て・・、
  1873年(41歳)10月、朝鮮問題で下野した副島種臣に
   代り、外務卿に就任、参議を兼務。
   樺太=千島交換条約の締結、江華島事件の処理など
   にあたった。
   懸案の条約改正交渉では、法権ならびに税権双方の
   同時回復は困難とみて、法権回復を棚上げし、関税
   自主権回復に全力を注ぐ。
  1878年(46歳)アメリカの治外法権を確認する一方、
   日本の関税自主権回復を承認させ、成功した。
   そして、日米約定 (吉田=エバーツ協定) を締結す
   る。
   イギリス人アヘン密輸入事件や検疫規則拒絶事件で、
   法権回復放棄に対する批判が強まった。
  1879年(47歳)引責辞職。
   結局、イギリス・ドイツの反対で日米約定は実施に
   いたらず無効となった。
   だが、相互対等の論理に裏打ちされた外交姿勢は、
   欧米に対する自主外交、アジアに対する条理外交と
   して評価された。
  1884年(52歳)伯爵。
   文部卿、法制局長、駐米公使、元老院議長などの要
   職も歴任し、
   そして、晩年は、宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院
   副議長などもつとめている。
   人となり深沈寡黙、経済にも一見識をもつ優れた政
   論家として日本に貢献した。
1893年6月7日、インドのマハトマ・ガンディー(24歳)が、
 最初の市民的不服従を行う。
  インドの反英闘争を開始した。
  1947年に、インドの独立は実現できたが、この時から、
 54年も要した・・イギリスの弾圧が厳しかった。
  この独立も、ガンディーが念願した統一国家ではなく、
 イギリスのくちばしが入って、バキスタンが分離独立す
 るという状況だった。
  この翌年・1948年(79歳)ガンディーは暗殺される。
  ガンディーは、1888年、18歳の時に、弁護士になるこ
 とを目指しイギリスに留学した。
  カーストのメンバーから反対されたが決行した。
  ロンドン大学などで猛勉強し、弁護士資格をとる。
  一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。
  しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうま
 く行かず、南アフリカで成功したインド人商人の依頼で
  1893年(24歳)アフリカへ渡った。 
  当時、南アフリカには、ブール人の建てたナタール、
 トランスヴァール、オレンジ自由国の三国があり、金や
 ダイヤモンドが発見されて、インド人移民が、その労働
 力として、大勢、来ていて・・、
  クーリー(苦力)といわれて苛酷な年季労働に従事し、
 差別されていた。
  ガンディー自身も、ダーバンからプレトリアに向かう
 列車で、乗車拒否されるという差別に会ったくらいだっ
 た。
  さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士
 として差別との戦いが始まった。
  それが、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動
 の始まりだった。
1893年6月12日、清水次郎長(本名:山本長五郎)が 死去した。
  (1820年~1893年、74歳) 幕末から明治の侠客。
  1820年1月1日、駿州(すんしゅう)清水港の海運業者の
   子・・清水の船持船頭・雲不見(くもみず)三右衛
   門の3男に生れた駿河の人。
   元旦生まれは不祥との伝説から、生後まもなく母方
   の叔父で、米問屋「甲田屋」の山本次郎八の養子と
   なる。
   (のち、次郎長と略称する・・これは、次郎八方(か
   た)の長五郎で、相続人の意)
  1835年、幼くして悪党の評があり、悪さと無学の15歳
   時、隣国で甲斐国民大奮起という一揆が起こったの
   を尻目に、家の金を持ちだし、浜松に米の買い占め
   に走ったのが幕末風雲録に次郎長登場の始まり・・、
   養家が没落したので、博奕(ばくち)に手を出し、賭
   場(とば)に出入りするような博徒となったといわれ
   るが・・、
  1839年(19歳)旅の僧に人相を見られ「命数25歳を出
   ず」と言われて、「じゃあ太く短く生きる」とヤク
   ザになった。
  1843年の23歳のとき、賭場のもつれから博徒に重傷を
   負わせて他国に逃げ、無宿渡世(むしゅくとせい)に
   入る。
   これを、次郎長本人は、喧嘩で相手を殺したと思い
   込み清水を出奔した。
   三河の寺津治助にわらじを脱ぎ・・、
   喧嘩に明け暮れてあだ名はゴロ長と言われる・・
  1845年(25歳)甲斐の紬文吉と、駿河の和田島太右衛
   門の喧嘩を仲裁して売り出す・・、
   やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち・・、
  1848年、28歳で、江尻大熊の妹おてふを娶(めと)る。
  1850年(30歳)保下田久六を助勢し、一の宮久左衛門
   と争った(この年、国定忠治刑死)。
  1885年頃、30歳代半ばは、次郎長の危機の時代・・、
  1858年(38歳)甲斐の祐典仙之助と不和、讃岐の金比
   羅に詣でたのち・・
  1859年(39歳)久六を殺害。
   決戦前の金比羅詣では、実父の金比羅信仰を継いだ
   もの。
  1860年(40歳)久六斬り祈願成就に、森の石松を金比
   羅に代参させ・・、
   その帰路に、石松が都田一家に殺される・・と、そ
   の仇を討って三河を勢力圏に収めた。
   この頃、宿敵・黒駒勝蔵が現れる。
  1864年(44歳)山岳地帯から富士川、天竜川を筏に乗
   って下ってくる黒駒の機動力に対抗して、
   縄張り外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八衆」
   を、この年に創出した。
   この年(1864年)の黒駒方の雲風亀吉と2度にわたる
   三河の抗争、平井村の役(1864年)と呼ばれ、博徒抗
   争史上かつてない抗争だった。
  1866年(46歳)東海道を名古屋までおさえた清水一家
   が、伊勢路制圧に着手したのが、この年・1866年の
   荒神山の争いだった。
   神戸長吉と穴太徳の縄張争いで・・長吉方につき、
   大政(山本政五郎)の戦闘団と甲斐信濃制圧に転戦す
   る大瀬半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させ、
   吉良仁吉を大将に荒神山に向かわせた。
   仁吉は戦死した。
   その報復に、次郎長は、千石船2隻に手勢480人、銃
   40丁、槍170幹、米90俵をのせた隊をもって伊勢に
   上陸し、穴太徳と、その後ろ盾・丹波屋伝兵衛を屈
   服させた。
   その武器調達は、国定一家3代目・田中敬次郎によっ
   た。
  以上の抗争の中で、山梨甲州の侠客・黒駒の勝蔵らと
 張合って伊勢の荒神山で対決して勝ち・・、
  また、伊勢桑名の安濃徳(あのうとく)ら博徒ともたび
 たび抗争し・・、
  東海道一円をその支配下に収めた。
  王政復古の維新後、東征軍は進撃を有利にするために
 次郎長を懐柔し、
  1868年(48歳)東海道総督府判事、伏谷如水(ふせやじ
   ょすい)から旧悪を許され帯刀の特権を得た。
   苗字帯刀を許され、探索方に用いられてから・・、
   幕末の偉人・山岡鉄舟らとまじわり・・また・・、
   囚人を使役して、富士山麓(さんろく)の開墾などの
 社会事業も行い、
  汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり・・、
  また、清水港の整備などにつくしたりと、精力的に社
 会活動を多く手掛けた。
  任侠の鑑のように伝えられ、神田伯山(かんだはくざん)、
 広沢虎造(ひろさわとらぞう)らにより、浪曲や講談に取
 上げられている。
  これは、次郎長の養子・天田五郎(あまだごろう)(愚
 庵(ぐあん))が、『東海遊侠伝』(1884年)を刊行して
 から・・、
  1893年(明治26年)6月12日、没。74歳。
   葬式には1000人前後の子分が参列したという。
  墓所は、梅蔭寺(清水市)、法号・硯量軒雄山義海居士。
.
  (今日の言葉)
.
  題:以前のような、鉄鉱石の運搬発注のない船会社も、閑古鳥(かんこどり)が鳴いている。
    あの時、造った船の処分にも困っている。
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
  この地球の寒冷化の時、この寒冷化によって南方に下
 りた偏西風が、サハラ砂漠北部や、アラビア半島北部、
 イラン高原に雨を降らせ、緑の草原にした。
.
紀元前1万年(1万2000年前)~紀元前8000年(1万年前)
  この頃、地中海の東側(シリア、パレスチナなど)の
 沿岸部で、もしくは、北部あたりで農耕が始まったと考
 えられている。
  この農耕の始まりと同じ頃、シリア、パレスチナ、イ
 ラク北部のあたりで、羊を飼育する牧畜が始まり・・、
  当時、農耕生活のかたわらで羊を飼ったようだ。
.
紀元前8000年、この頃まで、エジプトや、サハラは豊かな
 草原であった。
  自然の恵みに、様々な神々を祭り、感謝をしていた。
  山々、木々、草原、川など、あらゆるところに神々が
 宿り、居て、食べ物や恵みが得られると感謝していた。
.
紀元前8000年~紀元前6000年、エジプトやサハラが乾燥化
 して、砂漠化して行く。
  人々は住むことは出来なくなった。
.
紀元前8000年頃、この頃から、気温は急速に上昇し、サハ
 ラは乾燥し、砂漠化した。
  しかし、紀元前6000年頃から、気温は、さらに上昇し
 始めた。
  サハラ砂漠と、アラビア半島全域と、イラン高原が、
 緑の地となった。
  そして、高温期が終わり、約5000年前(紀元前3000年)
 ころに、気温が下がって行くと、再び、サハラ砂漠、ア
 フリカ北岸、アラビア半島、イラン高原などが、乾燥地
 となって行った。
.
紀元前6000年頃、この頃から紀元前3000年頃までの約3000
 年間、エジプトは、緑の豊かな地であった。
  雨も多かった。
  エジプト文明の形成も、この気候に関係している。
.
紀元前6000年頃、エジプトや、サハラに緑の草原が広がっ
 た。
  人々は、すでに原始的農耕を身に付けていて、狩猟や
 漁業、果実・野菜の採集と共に、農業を行なっていた。
  次第に、農業で繁栄をもたらしてくれている神に感謝
 する様になる。
.
紀元前6000年~紀元前5000年、ユーラシア大陸、アフリカ
 大陸の各地に農業技術が伝えられた。
  サハラ周辺、デンマーク、東アジアのシルクロード周
 辺、インド、中国などの各地へ・・、
.
紀元前4000年、日本で原始的農耕が始まる。
  福井県若狭町の鳥浜(とりはま)遺跡などから、日本
 の縄文時代前期に、原始的な農耕が行なわれていたこと
 が明らかになった。
.
紀元前4000年、アメリカ大陸の農耕
  アメリカ大陸の先住民のインディアンの方たちが、カ
 ボチャの栽培を始める。
.
紀元前3000年、砂漠化が進んだ。
  農耕は、河の周辺で行われた。
  有力な君主が現れた地域は、大規模な農耕も行われ、
 多神教から一神教が芽生えて行く。
.
紀元前3000年頃~紀元前30年、古代エジプト
  古代エジプトは、紀元前3000年頃に始まった第1王朝か
 ら・・、
  紀元前30年に、プトレマイオス朝が共和制ローマによ
 って滅ぼされるまでの時代をいう。
  この古代のエジプトでは、多くの神々が祀られていた。
  太陽神ラー、テーベの町の守り神アメン、あの世の神
 オシリス、天空の神ホルス、大地の女神イシス、ミイラ
 造りの神アヌビス、ナイル川の神アヌケトなど数百の
 神々。
.
1368年、中国に明(明朝)が建国される。
  この明朝の領土は、万里の長城の以北・・つまり、満
 州はその領土に含まれていない。
  ここは、満州族の地だった。
  そして、この明は、現政権の中国と同じ漢民族だった。
  現政権の中国が、どの様な理屈なのか?この地を領土
 としているが・・?
  また、理屈にならない理屈を言って、南シナ海を我が
 物の様にしているが・・?、
  当然に、国際司法裁判所は、中国のこの言い分は通ら
 ないと判決して、「中国の敗訴」として、中国の言い分
 は排斥された・・が・・、
  中国は敗訴したにもかかわらず、依然と南シナ海を我
 が物としている。
  しかし、仮に、中国のこの言い方、論理の立て方が通
 るのであるのならば、「南シナ海は、日本のものだ」「
 日本の領土だ」。
  中国の明朝の時代、中国の明政府は、南シナ海に出没
 していた日本の倭寇(わこう)を取り締まってくれと、
 当時の日本の政府の室町幕府へ頼んで来た。
  この様な史実がある以上、日本の船が南シナ海をすで
 に往来し、行動していたのである。
  中国の現政権の言い方をすれば、南シナ海の環礁や諸
 島は、『日本の領土である』。
  今後、この地を埋め立てて、日本の諸施設を造るが、
 異議を言わない様に、中国へ前もって言っておきたい。
  当時の日本政府の室町幕府は、この時、中国政府の明
 朝の要望通り、倭寇に指示し、取り締まり・・、
  そして、日本は、前向きに、中国の明朝政府と解決を
 している。
  日本と中国・明朝政府は、「勘合貿易を始めよう」と
 いう取り決めをして、平和裏に解決している。
  (参考)倭寇:(わこう)は、一般的に、13世紀から
     16世紀にかけて、中国大陸の沿岸部や朝鮮半島、
     一部内陸、及び、東アジア諸地域において活動
     した私貿易、密貿易を行う貿易商人。
  (参考)勘合貿易:(かんごうぼうえき): 室町時代、
     幕府と中国の明との間で勘合符を用いて行われ
     た貿易。
      3代将軍・足利義満が、1401年、明との国交を
     回復すると、1404年、日本と明との間に勘合符
     制を設け、勘合符による貿易を始めた。
      140年間、続いた。
.
1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  事実である。
  日本を貶(おとし)めているばかりの韓国は、以下の
 記述を、心して読みなさい・・、
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル~仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル~仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  往復で5日~6日の所要時間は、2時間~3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル~釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル~新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は莫大なものであった。
  もしも、1896年~1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧~清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年~1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基~潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮~吉州)142キロ、
  満浦線(順天~満浦)286キロ、
  東海線(安辺~浦項・釜山~浦項)549キロ、
  慶全線(晋州~全州・院村~漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州~兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江~勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌~鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里~博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山~唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里~群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里~全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里~漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山~会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂~川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城~清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧~鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青~新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山~遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興~鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦~新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸~慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧~潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基~訓戒狭)
  その後、新倉~高腹間の平元線146.8キロ、吉州~恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天~満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮~蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年~1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。
.
2015年、急速に悪化の道をたどるギリシャ。
  こうなると、EUに入る前のギリシャの方が幸せだっ
 たと思えた、言えた。
  EUに入ったら、一時は、ウキウキと良くなったよう
 に見えたが、今の時点は、最悪の状態になって、プライ
 ドまで無くなされたという状態となった。
  それまでは、豊かな人も、豊かでない人も、皆が、そ
 れなりに陽気に生きていた国だった。
  今は、「外国に支配されている」という国になってし
 まっている。
  ギリシャ国民は、その様に感じ、屈辱感の中に居た。
  ギリシャ人は、EUを憎んだ。
  特に、ドイツを憎んだ。
  この様な時に、ギリシャにチプラス氏が現れた。
.
2015年1月26日、EUを構成しているギリシャ・・このギリ
 シャ議会総選挙に於いて、チプラスの率いる党が第一党
 となった。
  そして、この男は、この日に、40歳でギリシャの首相
 の座に就任した。
  過去150年間で、最年少のギリシャ首相だった。
  因みに、このチプラスは、約5年前の2009年10月4日の
 ギリシャ議会総選挙で、チプラス(35歳)は初当選し、
 党首に就任していた。
  そして、急激に、国民の支持を得て、首相となった。
  この状況は、第一次世界大戦の後に、ドイツのヒトラ
 ーが、第一次世界大戦で戦勝した諸国に、過激な賠償金
 を押し付けられて、喘(あえ)いでいた時と同様だった。
  この時のギリシャの国民の方々も・・喘いでいた。
  ギリシャ国民の方々は、このチプラスに・・酔った。
  アレクシス・チプラス:トルコのマルマラ地方にある
 クルクラーレリ県のババエスキからギリシャとトルコの
 住民交換で、ギリシャへ移ったギリシャ人の移民三世と
 してアテネ郊外で生まれた・・
  この男は言った・・、
  「ギリシャ人の給与を、以前の給与に戻す」
  「解雇された公務員は、再雇用する」
  「民営化されたものを、元の公営にする」
  「EUやIMFから借りている債務は・・返済しない」
  「貧乏人が、これ以上、苦しむようなことはさせない」
  「国の復興は、金持ちの金でやる」。
  絶望していたギリシャ国民は・・沸いた。
  チプラスが引っ張って来て就任させた大学教授の新し
 い財務大臣も言った・・、
  「新興財閥(オリガルヒ)の絶滅」
  「国民が貧しくても、幸せに暮らせる国をつくる」
  EUの議長が、ギリシャに、すっ飛んで来た。
  討議は・・平行線をたどった。
  険悪な状況となった。
  EUから押し付けられた「緊縮財政」を「占領下」と
 表現し、反発した。
  ギリシャの自国を、さも占領軍から解放するという雰
 囲気だった。
  EUの組織は、「呆然(ぼうぜん)」と見つめていた。
  チプラスが、選挙に勝って政権を取ったのは、明らか
 にドイツの敗北だった。
  ドイツは、ドイツなりに、自国民・ドイツ国民を説得
 して、ギリシャ救済資金を捻出して、救済努力をしてい
 たが・・ギリシャから恨(うら)まれ、こんな結果とな
 ってしまった。
  あたかも、日本が、朝鮮・韓国へ大資金を投入し、与
 えて、鉄道を引き、道路を造り、学校を造り、人口が3
 倍になるような健全・健康な社会づくりをしたのに、数々
 の貢献をしていたのに、感謝もされず、御礼も言われず
 に、ただただ、しつこく貶(おとし)める事ばかりされ
 ている様な状況だった。
  EUは困った。
  ギリシャ経済が壊れると、金融市場が壊れること・・、
  これが、世界に拡散する心配・・、
  計り知れない悪影響が生じること・・、
  ユーロという国際通貨も破綻する恐れもある。
  今、EU内で、言われていること・・
  「ユーロを守る必要があるのか?」
  『EU存立』の基本への疑問である・・???
.
2018年2月21日、「かくれキリシタン」の実像
  標記の題で、(読売新聞、2018年2月21日)が、最新の
 研究成果に基づいた記事を書いていた。
  キリスト教がイメージで作った話は、『すべて嘘』だ
 という事が分かる。
  日本は鎖国をして、キリスト教を弾圧した・・それか
 ら逃れたのが「かくれキリシタン」というのが、キリス
 ト教の作り話だが・・これが「完全に違っている」とな
 った。
  キリスト教は、この筋で、世界遺産に認定されようと
 運動をしているが、その根拠は崩れた。
  研究の結果、現在のキリスト教のほうこそが変わった
 という「逆の結果になった」。
  変容したのはキリスト教のほうで・・変わったのはキ
 リスト教だった。
  つまり、弾圧で変わったというキリスト教の言い分は
 まったくの嘘で間違いで、事実はこの逆。
  「かくれキリシタン」の方々は、隠れてもいなくて、
 当時の布教された時の「まま」を保持している方々とい
 う事が分かった。
  当時、宣教師が来た時のままの「聖水を使って病気を
 治す儀式をする」とか、「オラショを唱える」とかで、
 研究の結果、「弾圧で宗教を変えたのではない」と分か
 った。
  また、弾圧で宗教を変えたとか、習合したとかではな
 く、「かくれキリシタン」が寺の檀家(だんか)になり、
 また、神社の氏子となった。
  弾圧で宗教を変えたのではなく、「並存」して来ただ
 けなのだ。
  だから、「かくれキリシタン」の家に、御前様と神棚、
 仏壇、弘法大師をまつる壇がずらりと並んでいる。
  逆に、この地域の藩は、厳しい禁教は行なわなかった
 という事も分かった。
  そして、貧しい「かくれキリシタン」などというイメ
 ージが、キリスト教によって作られているが・・、
  この地域は、江戸時代は、捕鯨もしたり、農業もした
 りで、豊かな地域で、しっかりした経済基盤が形成され
 ている地域だったということも分かった。
  2018年の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
 の世界遺産登録の申請は取り下げるべきだ。
  キリスト教の特有の「作られた古来からの変質した『
 推測』で申請している」に過ぎない。
  日本は、ヨーロッパの様な酷い弾圧はしていないのだ。
  キリスト教は、日本もヨーロッパのような酷い弾圧を
 したと「悪宣伝する」が・・、
  江戸幕府は、当人ではなくても、家族や友人が「キリ
 シタンを止めた」と言えば許したという優しい取締りだ
 った。
  刑の執行をする場合も、刑場の矢来(やらい、竹を組
 んだ囲い)の一部を開けておいて、逃げられるようにし
 ていたくらいだった。
  逆に、キリスト教側が、「殉教することが救われる道
 だ」と殉教する事を勧めるという卑劣な行為をしていて、
 子供連れで、奉行所に名乗り出る親子が居たくらいだっ
 た。
.
2018年、日本人は、優秀であるから、江戸時代もよく勉強
 した。
  日本人は、皆、優秀であるから、庶民に至るまで、よ
 く勉強した。
  上層の階層が優秀というパターンは、他国には見られ
 るが・・、
  日本の様に、庶民に至るまで、教育熱心で優秀という
 国はない。
  日本のどこの地方にも、教育機関が、この江戸時代の
 時から、あちこちにあった。
  そして、外国から、書籍を、どんどん、よく輸入して、
 よく勉強した。
  外国語もよく勉強して、その外国の書籍の内容をよく
 理解した。
  江戸時代には、すでに、これから日本は、「どうすれ
 ばよいか」の方向付けは・・出来ていた。
  明治時代になって、すぐ、国の改善の方策が、次々と
 採用され、実行されて行った。
  見事と言うほかはない見事さ・素晴らしさだった。
  日本の国民も、武士から庶民に至るまで、良く理解し、
 よく従い、国づくりをした。
  富国強兵。
  そして、国の基幹物資である『鉄』を手にする方策が、
 その一つとして、重点項目として推し進められた。
  八幡製鉄所などの建設が、国策として推し進められた。
  日本は、この明治の時代より、この鉄を造る技術を磨
 き、世界のトップの道を歩んで来た。
  経験を重ね、歴史を重ねて、秘蔵の技術も色々持って
 いた。
  日本の貿易面で、日本を支えて来た。
  しかし、この長い年月を経て得た、この日本の最優秀
 な技術を欲しがった国があった。
  中国だった。
  日本は、大切な技術を渡たさざるを得なかった。
  日本は、大切な技術を渡してしまった。
  国防力のない日本は、脅されたと言う人がいる。
  何しろ、明治時代以来、日本の開国以来、培(つちか)
 って来た日本の製鉄技術の「大切な所の技術」を、中国
 へ渡してしまった。
  日本は、それでも10年間は大丈夫と思っていた。
  準備期間や、習熟期間などが必要で、まだ、10年間は
 平気と思っていた(新幹線技術も奪われたが・・)。
  しかし、最新の技術を得た中国は、それから、オース
 トラリアの鉄鉱石を、大量に買い付けた。
  オーストラリアは、大量に買ってもらえるので大喜び
 だった。
  中国は、会社規模でやるのではなく、国の規模でそれ
 をやるので、その規模は考えられないくらいの、とてつ
 もない規模で実施して行った。
  そのとてつもない大量に買い付けた鉄鉱石を、中国へ
 運ぶので、鉄鉱石運搬船のフル操業となった。
  それでも足りないので、船会社は、新しい船を造ろう
 と発注した。
  船会社は好景気に沸いた。
  発注した船が、すぐできる訳ではなかった。
  中国は、日本から得た新技術の製鉄所を、あちこちに
 建てた。
  中国のやることは、想像を超える、今までの規模を越
 えた。
  土地も広いし・・。
  そして、どんどんオーストラリアから買い付けた鉄鉱
 石で、鉄をどんどん造り続けた。
  鉄のシェアは、たちまち、中国がトップになった。
  日本が10年などと言っていた日本の地位は、たちまち
 中国に奪われた。
  鉄は、中国からどんどん世界へ供給された。
  中国は、どんどん世界へ鉄を売った。
  鉄は、値崩れもした。
  日本のお家芸の一つだった製鉄は、傾き始めた。
  日本の製鉄会社は、経営が悪化して、統合したりして、
 のたうち始めた。
  それでも、中国は、どんどん鉄を造り続けた。
  当然、鉄は、だぶつき始めた。
  それでも中国は、鉄を造り続けた。
  国の計画生産だった。
  在庫がたまる状況になった。
  それでも中国は、鉄を造り続けた。
  国のシステムが、その様にせざるを得ない共産主義の
 システムだった。
  過剰在庫の山の状態となった。
  完全に鉄は、中国にイニシアチブを取られた。
  かつての日本の立場は影も形もなかった。
  日本のお家芸の製鉄も、静かに沈み行く太陽の如くの
 産業となった。
  日本がイニシアチブをとっている時代は、需要と供給
 を見ながら、ヨーロッパの製鉄所や、韓国の製鉄所など
 とバランスの取れた「世界への鉄の供給」となっていた
 が、中国が、一気に参入して、大ナタを振(ふ)るう様
 な生産をして、バランスある供給なんて言う状況ではな
 く、「中国の鉄の在庫の山を、世界が見る」という状態
 となった。
  技術の改善を、常にしながら、生産と消費をつなげて
 来た日本の作り出した姿は、今は、過去のものとなった。
  ことは、国防力のない日本が、強引に中国に最新の製
 鉄技術を盗られた所から始まった。
  以前のような、鉄鉱石の運搬発注のない船会社も、閑
 古鳥(かんこどり)が鳴いている。
  あの時、造った船の処分に困っている。
  当然、会社の業績は低空飛行状態となった。
  墜落しかねない状態となった。
  中国という共産主義国は、この様な事をする国なのだ。
  人が有り余るほどいる国。
  金は、国の方針一つで、人民元を、輪転機を回して刷
 れば、いくらでも刷れる。
  ありがたく、それで、鉄鉱石を売ってくれる。
  日本を、ある事ない事を言って脅(おど)し、また、
 実際にはない話のデッチアゲの南京事件のことで虐(い
 じ)めれば、おいしい技術も渡してくれる。
  こんなことが展開している。
  今(2018年)は、「南京事件は言わないことにした」
 と言っている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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