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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月)

2017年12月21日

(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月)

題:(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月5日、東洋自由党に日本労働協会が設立される。
  東洋自由党は、この日に、大井憲太郎を中心とする自
 由民権運動の左派が組織した。
  これに先立って大井は、大阪事件の関係者ら急進勢力
 とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成した。
  そして、自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党して、小久保喜七、新井章
 吾らの大阪事件に連座した人々と新党を結成した。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので・・、
  対外強硬策を軸とした反政府活動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行した。
  そして、さらに、政綱実現のための機関として普通選
 挙期成同盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおいて、
 労働者や貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4議会と第5議会において、4人の代議士を出したが、
 その過激な政策のため、議会主義と相いれず、1年あまり
 の活動ののち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らは、その後、国民協会、熊本国権党などの国家
 主義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月8日、第27回アメリカ大統領選挙が行われた。
  第24代アメリカ大統領グロバー・クリーブランド(任
 期:1893年3月4日~1897年3月4日)が選出され、返り咲
 いた。
  この大統領の1期目は、旱魃(かんばつ、長い間雨が降
 らないで、田畑などが乾いてしまうこと)に苦しむテキ
 サスに、穀物種子を支給するための特別支出金を「認め
 なかった」。
  そして、インディアンの方々から不法に借り受けてい
 た牧草地の契約を「無効にした」。
  インディアンの方々の生活を苦しめ大統領だった。
  この頃、鉄道網の行き過ぎた拡大の問題があった。
  1893年から深刻な恐慌が始まった。
  ストライキが頻発した。
  この大統領は、ストライキを鎮圧するため、連邦正規
 軍を派遣して、抑圧した。
  また、ストライキ指導者を投獄するように要求した。
  労働者の不満の中に、やむなくストライキは収まった。
  この頃、アメリカは西部の開拓も終わり、次の目標で
 ある「海外の領土」に食指を伸ばす論議が活発だった。
  (他国の領土を侵略して行こうという侵略主義が花盛
 りのアメリカだった)
  この大統領は、キューバの砂糖算出を注目した。
  また、この地は、戦略的に重要な場所だとした。
  ハワイなども注目されていた。
  (アメリカの太平洋・大西洋の領土漁りの時代が始ま
 った)
  イギリスとギアナとベネズエラとの取り合いの紛争も
 始まっていた(1895年~1896年)
  この大統領は、1908年に死去し、国葬が行われた。
1892年11月29日、第4回帝國議會が開かれた(~1893年2月
 28日)(通常会)
1892年11月、(氷川清話)勝海舟が、日光に保晃会(ほこ
 うかい)の碑を建てた。
  保晃会は、二社一寺(二荒山神社、東照宮、輪王寺)
 の社寺長職を中心として、社寺修繕に協賛した会で・・、
 1879年(明治12年)に設立された。
  日光の社寺は、江戸時代には、幕府によって、定期的
 な修理が、日光の町に常駐した職人集団によって行われ
 ていた。
  それは、その時代時代の最高の技術水準でもって行わ
 れていたが・・
  明治となって・・幕府からの援助が絶たれ、また、
 1871年に政府によって発せられた神仏分離令が影響して、
 荒廃した。
  そこで、この会は、この二社一寺の修理修繕を行なう
 善行に乗り出した。
  初代会長には松平容保が就かれた。
  碑は、勝海舟が、石碑を石巻から特別な東北本線の汽
 車で運び、字も文も勝海舟が書いた。
  碑の大きさは、高さ約6m、幅3m、石の厚さ30cm、
  しかし、1897年(明治30年)に、日本政府は、「古社
 寺保存法」を制定し、文化財の保護に乗り出した。
  日光には、「日光社寺修繕事務所」が設置され、政府
 及び二荒山神社、東照宮、輪王寺によって組織された。
  そして、社寺の修理を担当した。
  専任の技師を置き、その指導・監督のもとに、破損の
 著しい建物から順次、根本的な修理が行われた。
  そして、1929年には「国宝保存法」が制定され、
  さらに、1950年には「文化財保護法」が制定され、
  「日光の社寺」の建造物は、それぞれ「国宝」ならび
 に「重要文化財」に指定された。
  1998年には、世界遺産に推薦された区域が「史跡」に
 指定された。
  現在、建造物の修理工事は、専門技術者のいる(財)
 日光社寺文化財保存会(旧日光社寺修繕事務所)が各所
 有者から工事を受託して行なっている。
  修理方法は、破損の程度によって、根本的な修理(解
 体修理・半解体修理)と維持的な修理(屋根葺替・部分
 修理・塗装修理)とに分けらる。
  修理の際、専門技術者が詳細な調査・設計・管理にあ
 たり、修理完了後は修理の記録を取りまとめた修理工事
 報告書を作成している(長く技術が保存される)
  建造物彩色技術は、「文化財保護法」で定められてい
 る「選定保存技術」として(財)日光社寺文化財保存会
 が技術保持団体として認定されている。
  また、修理技術者の実務研修も実施されていて技術の
 向上を図っている。
  1999年に、世界遺産に「日光の社寺」という登録名で
 登録された。
  登録範囲:日光東照宮
       日光二荒山神社(別宮・本宮を含む)
       日光山輪王寺(大猷院霊廟も含む)
  登録対象物:国宝9棟、重要文化財94棟、合計:103棟
       および「日光山の景観」
  登録理由:人間の創造的才能を表現する傑作
       人類の歴史上重要な時代を例証する建築様
      式、建築物群、技術の集積または景観の優れ
      た例。
       顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存
      する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的
      作品と直接にまたは明白に関連するもの。
      (以上の登録基準をクリアした)
1892年12月1日 正岡子規(25歳)が、新聞「日本」に入社
 した。
  1880年(13歳)旧制松山中学(現・松山東高)に入学
   した。
  1883年(16歳)同校を中退して上京。
   受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。
  1884年(17歳)旧藩主家(松山藩)の給費生となり、
   東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学
   した・・そして、常盤会寄宿舎に入った。
  1890年(23歳)帝国大学哲学科に進学した。
   しかし、文学に興味を持つ。
  1891年(24歳)国文科に転科した。
   この頃から「子規」と号して句作を行った。
  松山中、共立学校で同級だった秋山真之(あきやまさ
 ねゆき、海軍軍人、日露戦争時に東郷司令長官の下で作
 戦担当参謀)と、松山在住時からの友人であり、
  また、共通の友人として勝田主計(しょうだかずえ、
 大蔵官僚、政治家、大蔵大臣、文部大臣)がいる。
  東大予備門では、夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと
 同窓だった。
  大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で・・
  1892年(25歳)新聞『日本』の記者となり、家族を呼
   び寄せ、そこを文芸活動の拠点とした。
  1893年(26歳)「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくは
   いわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。
  1894年(27歳)夏、日清戦争が勃発する。
  1895年4月(28歳)近衛師団つきの従軍記者として遼東
   半島に渡った。
   上陸した2日後に、下関条約が調印されたため、
  1895年5月(28歳)第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(
   鴎外)等に挨拶をして、帰国の途についた。
    その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。
  1895年7月(28歳)須磨保養院で療養したのち、松山に
    帰郷。
  喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」
 と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトト
 ギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。
  1897年(30歳)俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)
   を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句
   の世界に大きく貢献した。
   漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
  1900年8月(33歳)大量の喀血
  1902年9月(35歳)死去。満34歳。
   東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
       痰一斗糸瓜の水も間にあはず
       をとゝひのへちまの水も取らざりき
.
  (今日の言葉)
.
  題:ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
    武力のない状況の中で、領土を奪われ続けた日本があった。
.
1552年1月29日、日本に来たザビエルは、宣教師の派遣先に
 「どうか、もっと優れた人を日本に派遣してください」
 と手紙を書いている。
  そして、「どうか適当でない人物は、派遣しないでほ
 しい」とクレームを言っている。
  キリスト教宣教師のレベルが低かったことを愚痴ると
 ともに、キリスト教宣教師を超越する、日本のレベルの
 高さがあり、このザビエルの言葉となった。
  ザビエルは、1549年に日本に来ているから、日本に来
 て3年間を経て、つくづく、このことを感じたのだろう。
  また、ザビエルは、日本人を、「これは、今までに発
 見された中で最も優れた国民です」と言っている。
  また、「日本人に勝る国民は見当たらないのだろうと
 思います」とも言っている。
.
1564年、家康が、この年に、『徳川』に改姓した。
  キリスト教のシャロームは、平和を意味するというが?
 このキリスト教の言うヘブライ語のシャロームには、「
 戦って異教徒が居なくなった地の平和」の意味していた。
  キリスト教は、戦争を否定する宗教ではなく・・、
  キリスト教の基本的考え方に、「(キリスト教の)神
 の義によれば、人を誅しても良い」がある。
  キリスト教は、一事が万事、この考え方であるから、
 民族が飢えに窮した時、「(キリスト教の)神の義があ
 るから」と、隣国の富を奪いに行った(この様な戦いの
 多くの記述が聖書にはある)
  その行為を許すキリスト教という宗教だった。
  朱子学では、主君を説く・・、
  その主君に、二種類の主君があると説く・・、
  その一つが「王者」であり、もう一つが「覇者」であ
 ると・・、
  そして、絶対的な忠誠を尽くすべき相手は、覇者では
 なく「王者だ」と説く。
  それは、「覇者」は、力で相手を倒して天下を取った
 者の事だが・・、
  「王者」は、「徳」で天下を治める人を意味する。
  家康は、この事を知っていた・・それで、元々の姓で
 あった「松平」を「徳川」に改めた。
  また、家康の改姓の意見として以下の説明もある・・
  改姓には2つの理由あり・・、
  1つが、1564年(永禄7年)、家康は、三河の国を事実
 上、支配下に置いた事で、朝廷に三河の領主である事を
 認めてもらい、それに相応しい官位を求めた。
  しかし、松平家は土豪であり、官位は名門しか貰う事
 が出来なかった。
  そのため、松平姓のままでは官位を得る事は難しく、
 近衛前久に間に入ってもらって、神祇官の吉田兼右に、
 家康の希望に沿う姓を探してもらった。
  その結果、「徳川」という姓が、家康の希望に適うも
 のとなり・・
  改姓の勅許を得て、同時に、従五位下・三河守に叙任
 された。
  三河守は、かつて、三河を領有していた今川義元と同
 じ官職であり、これによって、名実共に三河の領主であ
 ることが示された。
  2つ目が、徳川に改姓する事で、松平姓との家格の違
 いを表した。
  家康が、徳川に改姓した当時の松平氏は、14~16家に
 分かれていた。
  そして、一門衆的な同盟関係で結ばれていた。
  家康が、徳川に改姓する事で、他の松平一族との家格
 の違いを示した。
  そして、松平一族との関係をそれまでの同盟関係から
 徳川と松平との主従関係へと変えようとした。
  元康から家康への改名については・・、
  家康は、8歳から12年間を今川家の人質として駿府で過
 ごした。
  元康の「元」は、今川義元から一字拝領したもので、
 それは、松平家が今川家の支配下にある事を示していた。
  1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間で織田信長に討
 たれた時、家康は、義元の子・氏真に「義元の弔い合戦
 をするように」と進言したが、氏真は動かなかった。
  氏真が、いっこうに動かないので、家康は家臣からの
 進言もあって、今川家と断交した。
  そして、織田信長と和睦し、同盟を結ぶ道を選んだ。
  そのため、家康の元康から家康への改名は、今川家と
 の決別を意味していた。
  尚、家康は「源義家」を尊敬していたので、「家」の
 字はその「義家」から採ったものという。
.
1590年6月23日、八王子城の戦い
  小田原城の落城の10日前、八王子城で激しい戦いがあ
 った。
  八王子市は、東京都内で最多の人口56万人を要するが、
  豊臣秀吉が、日本を制覇する直前、この八王子の地は、
 戦国大名の北条氏が治めていた。
  山梨方面からの敵に備えるため、北条氏照は、1582年
 頃、この地・八王子の深沢山(標高460m、因みに、この
 近くに有名な高尾山・標高600メートルがある)の中に城
 を築いた。
  安土城を模したと言われている。
  しかし、城の命運は短かった。
  1590年6月、築城されてから8年後、豊臣秀吉の家臣だ
 った前田利家や上杉景勝らの軍勢が、当時、超一級の軍
 勢が押し寄せた。
  これから始まる小田原城攻めの前哨戦として、攻めて
 の軍勢ははやっていた。
  八王子城は、わずか半日で落城した。
  小田原城の落城の10日前のこの戦いを知る人は少ない
 が、そして、戦いは半日と短いが、その戦いは激烈を極
 めた。
  豊臣側の犠牲も大きかった。
  事実上、この戦いで、日本の戦国時代の幕が降ろされ
 たと言える。
  後に、日本を手中に収めた徳川家康は、この地を重要
 視し、天領とし、軍事・交通の要衝とした。
  宿場町「八王子宿」として栄え、また、八王子は、「
 桑都(そうと、八王子の異称。養蚕業や絹織物の生産が
 盛んであったことから)」として栄えた。
  また、八王子織物として発展した。
  ピークは、1965年に迎え、発展は続いていた。
  ネクタイは、全国の6割~7割が、八王子産と言われた。
.
1808年、北方の地を探検していた間宮林蔵が、江戸幕府の
 命により、松田伝十郎に従って樺太を探索した。
  間宮林蔵は、樺太を探検し、その全貌を確認した。
  樺太が、島である事も確認した。
  この時以来、この地に日本人が居住した。
  当然、アングロサクソンなら、この地を我が領土・日
 本の領土と主張する・・その様にしていた。
  だから、この時、この地は同様に、我が日本の領土と
 なった。
  時が経て、後になって、ロシア人がこの地に来た。
  また、時が経て、ロシア人がドンドン来るようになっ
 た。
  先住して居た日本人は、江戸幕府へ、この樺太の地へ
 もっと日本人を送ってもらいたいと要請した。
  そのうち、ロシア人は主張した・・「ロシアは、樺太
 が、日本人とロシア人の『雑居の地』と認めて貰いたい」
 と言って来た。
  日本は、時の経過の中で、ロシアに、この様に言われ
 るようになってしまった。
  そして、「樺太が、ロシアの言う様に、日本人とロシ
 ア人の雑居地だと認めさせられた」。
  しかし、先住である日本人と、後から来たロシア人と
 の間で、度々、紛争が起きる様になった。
  このような時、イギリスは、日本とロシアが戦争をす
 れば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと言って
 来た。
  この時、日本は時代が変わって、明治政府になってい
 た。
  ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
  日本は、ロシアとの戦争・衝突を避けるために、1875
 年、ロシアと「樺太・千島交換条約」を結んだ。
  樺太をロシアに渡し、その代わり千島列島が日本の領
 土であるという事にしたのだった・・が・・
  領土なんて、こんな形で、簡単に奪われてしまうもの
 なのだ・・
  今、あなたが居る地も・・あなたの子供たちの時代に
 は、どこかの国のものになっているかもしれません。
  今、「国防」と「戦争」をごちゃ混ぜにして、「大切
 な国防の必要性」を否定する人が多い状態の現状がある。
.
1818年、フレデリック・ダグラスが生まれた(~1895年)
  黒人のフレデリック・ダグラスが、本当の「奴隷解放
 の父」である。
  アメリカのWASP(W:白人、AS:アングロサク
 ソン、P:キリスト教プロテスタント)たちが、嘘で作
 り上げた「リンカーンの奴隷解放の父」は偽物(にせも
 の)である。
  リンカーンは奴隷解放の父ではない、逆に、「有色人
 種への蔑視観を持った弾圧者」であった。
  特に、インディアンの方々への「虐殺命令」はその極
 みである。
.
1827年、最初の黒人新聞「フリータイムズ・ジャーナル」
 が、ニューヨークで創刊された。
.
1829年、デビッド・ウォーカーが、「アピール(訴え)」
 をボストンで公刊した。
.
1830年、全国黒人集会が、アメリカのフィラデルフィアで
 開催された(大規模な「黒人集会運動」の始まり)
.
1831年、アメリカのバージニア州で、ナット・ターナーら
 の奴隷たちの反抗行動が起きた。
  アメリカの白人たちは卑劣にも暴動と称した。
.
1831年、ウィリアム・L・ガリソンが、「リベレーター(
 解放者)」をボストンで発行した。
.
1832年、ニューイングランド奴隷制反対協会が設立された。
.
1833年、アメリカ奴隷制反対協会が設立された。
.
1840年、アメリカで奴隷制廃止を掲げる自由党が、黒人の
 方々の努力で結成された。
.
1840年、世界反奴隷制大会が、一番多く奴隷貿易をしたイ
 ギリスのロンドンで開催された。
.
1845年、アメリカが、傲慢な汚い手を使って、メキシコの
 地・テキサスを併合した。
.
1846年、メキシコ戦争(~1948年)
  アメリカが、汚い方法でメキシコの領土を奪って行く、
 戦争となった。
.
1862年、アメリカの首都・ワシントンで奴隷制度有償廃止。
  黒人の黒人奴隷制廃止主義者のダグラスらは、自由党
 に入党し、
  1844年、ジェイムズ・バーニーを大統領選挙に出馬さ
 せた。
  そして、その自由党の綱領には、すでに、「首都ワシ
 ントンの奴隷制廃止」の要求が掲げられていて、たとえ
 如何なるところでも奴隷制度は自然権に反すると表明し
 ていた(首都ワシントンでさえ、この様な状態)
  黒人の方々は、この約20年も前にすでに、この要求を
 掲げていた。
.
1863年、黒人の黒人奴隷解放運動家のフレデリック・ダグ
 ラスが、黒人奴隷の解放や黒人の立場の改善について、
 リンカーン大統領と協議した。
  しかし、南北戦争が終わってもアメリカ社会の改善は
 見られなかった。
  そして、黒人の方々は失望し、白人たちと平等になる
 という夢を捨て、アメリカのある地域で黒人の方々だけ
 で社会を作ろうという運動をして行った。
  ダグラスは『あきらめるな』と説いた。
  そして・・最近になって、ようやく、アメリカで黒人
 の方々の歴史に、日が当たって来た。
  今まで、黒人の方々の歴史は、白人アメリカ人たちに
 よって隠されて来ていた(このダグラスの活動なども・・)
  「アメリカの民主主義」とアメリカが言ったって、ア
 メリカ民主主義の「民」には、黒人の方々の『民』が抜
 け落ちているという軽蔑すべき状況にあった。
  不当なアメリカの地で、不滅の偉業を成し遂げている
 黒人の黒人奴隷解放運動家も、忘却の彼方へ消し去られ
 ようとしていた。
  アメリカは、黒人の方々を、白人と平等の立場に置く
 ことを頑(かたく)なに拒絶した。
  「不利な条件の下で黒人の方々が、どれほど偉大な事
 を成し遂げようとも、アメリカは、卑劣にもそれを抹殺
 した」。
  20世紀のダクラスと言うべきW・E・Bデュボイスは、
 「白人世界で黒人であることは、単に、個人としての侮
 辱や機会喪失だけを意味するものではない」と・・「偉
 大な功績までも抹殺される」と嘆いた。
  そして、ダグラスを発掘し研究したフィリップ・S・
 フォーナーは、「偉大なフレデリック・ダグラスの名前
 は、リンカーンの名前と並び置かれるべきだ」と言った。
  この事は世界記憶遺産に登録すべきだ。
.
1865年3月、アメリカの解放民局(難民、解放民および放棄
 地対策局)の『期限延長と権限拡大』を、黒人の方々は
 勝ち取った。
  黒人の方々の必死の闘いの勝利だった。
  しかし、この後、アメリカには、『奴隷解放の反動』
 の嵐が吹き荒れて、解放民局は活動を停止した。
  アメリカは、奴隷解放を行なう解放民局を停止させた。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条(奴隷制
 度の廃止)」が制定され・・『卑劣な奴隷制度を決めて
 いたアメリカ合衆国憲法』が、やっと、修正された。
  しかし、まだ、黒人奴隷の方々が、奴隷という卑劣な
 身分から解放されるという訳ではなかった。
.
1865年、アメリカで、クー・クラックス・クラン(KKK)
 が、テネシー州で結成された。
  卑劣な事に、この黒人の方々を殺戮する白人集団は、
 全米に急速に拡大されて行った。
  何と、400万人が所属したという記録がある。
.
1866年、公民権法が成立。
.
1868年、憲法修正第14条(黒人の公民権付与)成立。
.
1869年、版籍奉還
  新政府の中心となっていた薩摩藩、長州藩、土佐藩、
 肥前藩の4藩は、藩主が願い出て、その藩の領土(版)と
 人民(籍)を天皇陛下に返還した。
  他の藩も相次いでこの行動を模範にして整然と従った。
  完全な無血革命であった。
.
1871年、日清修交条規
  第1条:日清両国は友好を深め、互いに領土を尊重し合
     う。
  第2条:もし他国からの不当な干渉があれば、両国は相
     互に援助し合う(一部要約)
.
1876年、小笠原諸島を日本の領土とした。
  各国の承認を得た。
  英国船が、英国旗を、すでに、立てる事をしていたが、
 アメリカが反対して日本の領土と確定した。
  日本は、すでに、江戸時代に幕府がこの地を調査し日
 本の領土としている(日本は、碑を建てている)
  日本人が居ないという状態で、無人島で、国旗を掲げ
 たら、「自分の領土だ」と主張できるとしたら・・その
 国の領土になるのだとしたら、世界中が紛争だらけにな
 る。
  アボリジニの方々が、既に、先住し生活をしているの
 に、英国に奪われたという例もある。
  はたして、この逆が成立するのか・・
  アボリジニの方々が、英国へ行って、アボリジニの旗
 を立てたら、イギリスはアボリジニの方々の国になるの
 か・・
.
1890年、カール・ベンツが、この年に、四輪自動車ビクト
 リアを完成させ、時速32キロメートルで走った。
.
1936年10月、スペインのトレドを奪いとったフランコ将軍
 らの反乱軍は、マドリードのスペインの首都を目の前に
 しながら、それから2年6ヶ月、マドリードに入ることが
 出来なかった。
  世界中から、スペイン人民戦線政府の危急を聞いて駆
 け付けた義勇兵による国際旅団が、このマドリード防衛
 のために戦い、フランコ軍の占領を防いだ。
.
1945年7月28日、B-25爆撃機がニューヨークのエンパイアス
 テートビルディングに衝突した、14名の死者。
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカが広島に原爆を落と
 し、また、長崎に原爆を落したのは・・、それも非常に
 多くの人々が、その一発の原爆で死ぬと分かっているの
 に・・、
  自国の、アメリカの実験場で確かめているのに・・、
  その悲惨さを「まざまざと見て知っている」のに・・、
 広島に落とし、また、二日後に、その卑劣な兵器・原爆
 を長崎に落とす・・この様な最悪な卑劣な事をしたアメ
 リカ・・、
  日本は、すでに、滅茶苦茶にすべてが破壊されて・・、
  反撃が出来ない状態であったのに・・、
  その様な日本に・・アメリカは原爆を落した。
  その必要性は・・「完全になかった」・・
  なのに・・原爆を落としたアメリカだった。
  総べて、100%アメリカの勝利で、すべてが支配下にあ
 る状態の中で、「原爆など落す必要の無い日本」・・
  日本の敗戦は決定的だった・・その様な所に・・、
  アメリカという国は・・原爆と言う最悪の卑劣な兵器
 を使った。
  石油という国の活動の大本(おおもと)を断って・・、
  日本の国の活動の血液の石油を断ったアメリカ、
  日本をその様な状態にしたアメリカ、
  その様なことまでしたアメリカが、終戦の直前の日本
 は、その「石油さえまったくない状態」の日本、
  さらに、すべての工場などの生産手段がすべて破壊さ
 れている日本、
  この日本が、アメリカに立ち向かえる状況は『皆無』
 という状況の中に・・
  原爆を落す必然性はまったく無いのに・・落した、
  アメリカが言う「落す理由の屁理屈な論理」は、「ア
 メリカの兵士を救った」という理由で・・「まったく成
 立する理由ではなかった・・論理ではなかった」。
  石油がどうなっていたかだけでも考えれば、その確実
 なその先(落す必要ない)が明確に見え・・、
  そして、アメリカの論理が屁理屈である事も明確に見
 える。
  アメリカは、次の展開する社会を見ていた・・まった
 くの自分だけの利益で・・論理性が無いのにやった・・、
  まったくの新しい兵器を手に入れた状況の中のアメリ
 カが居た。
  脅威の破壊力のある新兵器・原爆、その威力を『実際
 に』使ってみたかった。
  そのアメリカの『卑劣な心の犠牲』となった広島・長
 崎の方々だった。
  心から怒りが湧く・・「実施してみたい・・その誘惑
 に負けたアメリカ」があった。
  真珠湾のアメリカの卑劣な嘘も「歴史が、明確にアメ
 リカの嘘を立証している」・・そんなことは言えないよ
 と・・、
  本当にアメリカは嘘を言い続けて歴史を歩んで来た。
  インディアンの方々のこと、黒人の方々のこと、隣国
 の領土を奪ったメキシコのこと、ハワイ諸島など太平洋
 の島々を奪ったこと、フィリピンの大統領が怒った様に、
 フィリピンでやったこと、中国・蒋介石と隠れてやった
 卑劣なことごとなど・・キリスト教国・アメリカの歴史
 はこの事々が連なっている。
.
1947年6月8日、日本教職員組合が設立された。
  日教組と略称されるこの組織は・・左派と呼ばれるグ
 ループに牛耳られた。
  その活動の結果、『左派系諸国と親密』となっている。
  日教組の委員長が北朝鮮へ何度も挨拶に行くという活
 動などをしている。
  そして、日教組の「平和学習」は、洗脳学習となって
 いる。
  未熟な子供たちが繰られている。
  戦争の恐怖ばかりで脅す教育法を採っている。
  冷静に考えるという教育方法ではない。
  平和とどう守るべきかの肝心な教育はされていない。
  どうしたら戦争は起きないのだろうという肝心な教育
 もなされていない。
  日教組の平和学習のパターンは・・
 ☆戦争は悪い⇒戦争はしたくない⇒憲法に戦争しないと
  書いてあるから⇒憲法は改正しない・・、
 ☆戦争は怖い⇒戦争に関係ない人も死ぬ⇒戦争は怖い事
  ばかりだ・・、
 ☆戦争に賛成する人は家族が死んでもいいと思っている
  人⇒家族が死んででも戦争に勝ちたいと思っている人・・、
 ☆憲法が戦争しない様にしている⇒憲法がなくなれば戦
  争が起きる⇒戦争が起きれば家族が死ぬ⇒私は生きて
  いたい・・、
 ☆戦争はしたくない⇒戦争で死ぬのは残酷⇒憲法を守り
  たい・・。
  戦争の恐怖を植え付けて、憲法改正は悪だと「政治的
 イデオロギー」を子供たちに洗脳している。
  常に、このパターンの結論に子供たちを導く「マイン
 ド・コントロール」になっている。
  日教組の平和学習は、「いかに平和を守るか?」や、
 「いかにして戦争を抑止するか?」の肝心な教えなけれ
 ばならない点、学ばねばならない点が、完全に欠落して
 いる、欠けている。
  まだ、精神的に未熟な子供を「いいように繰る」。
  これこそ思想教育となっている。
  日教組はそのことに口をつぐんでいる。
.
1953年3月11日、アメリカの卑劣な人種差別行為の「ジム・
 クロウ」に対抗する黒人の方たちが、バスの座り方を自
 由にした・・当然の主張だった。
  卑劣な「ジム・クロウ」が横行するアメリカ。
  公園・公衆トイレ・駅の待合室・水飲み場などの公共
 施設などにおいて、どこでも『黒人の方々は差別された』。
  また、民間施設でも、レストランの室内のトイレは、
 白人専用」で、レストランの脇の外に、ペンキで殴り書
 きで乱雑に『ブラック』と書かれた粗雑なトイレが、黒
 人の方々のトイレだった。
  それでも、レストランに入れるのは良い方で、映画館・
 ホテル・キリスト教会・喫茶店などで、黒人の方々の利
 用は排除された。
  バスの座席は、前が白人専用で、黒人の方々は、バス
 の後部へ追いやられた。
  黒人席が満席になっても、白人席に空席があって、座
 ることができても、そこに、黒人の方々は座ることは出
 来ず、後部に立ったままに居るしかなかった。
  この様な時、1953年、黒人の方々の抵抗の抗議を発す
 る行動が起きた。
  ルイジアナ州の州都バトンルージュで、黒人指導者が、
 当然の主張「誰でも空いている席には座ることが出来る」
 を市条例で制定をすることを強く求めた。
  しかし、こんなことも市は決める事は出来なかった。
  市は、「黒人は後部座席から席を占め、白人は前部座
 席から席を占める」と決めた。
  これは、卑劣な差別の追認だった。
  市は、これで要望に応えたとした屁理屈を言った。
  黒人の方々は、この条例が、施行された1953年3月11日、
 バスの前から座り始めた。
  バスの運転手には、黒人の方は居なくて、全員が白人
 だったが、このバスの運転手がこの黒人の方々の行動に
 抗議した。
  白人のバス運転手のストライキにまで発展した。
  州司法長官の採択が必要な事態まで大きくなり、市条
 例は、州法違反とされた。
  まったく卑劣な事態が起きるアメリカだった。
.
1955年12月1日、人種差別行為を懲りなく続ける「人種差別
 国=アメリカ」のアラバマ州の州都モントゴメリーで、
 また、卑劣な事件が起きた。
  仕事に就かれた黒人女性のローザ・パークス女史は、
 バスに乗って帰宅の途についた。
  長い立ったままの仕事で、体はくたくたに疲れていた。
  バスの前部の白人専用席のすぐ後ろの席に座った。
  ある停留所で白人たちが乗って来た。
  バスの白人の運転手は、ローザと共に居た3人の黒人乗
 客に席を譲る様に命じた。
  他の3人の黒人の乗客は、すぐ運転手の命令に応じたが、
 ローザ・パークス女史は、静かに、そして、はっきりと
 「ノー」と拒絶した。
  彼女は、警察に逮捕された。
  これが、始まりだった。
  これには、『人間の尊厳と自由を否定するアメリカ』
 の軽蔑すべき様相が示されていた。
  当時のモントゴメリーの人口は、白人75000人、黒人の
 方々45000人だった。
  バスの利用者の3分の2は黒人の方々だった。
  黒人の方々は結束して「バス乗車拒否運動」を始めた。
  この運動を指導したのが、弱冠26歳のマーティン・ル
 ーサー・キング師だった。
  キング師は、インドのヒンズー教の指導者のガンジー
 師を敬愛していて・・、
  キング師は、このガンジー師と同様の「非暴力的抵抗
 行動」を展開した。
  1955年12月5日から、「バス乗車拒否運動」は開始され
 た。
  卑劣な事に、アメリカの権力を持つ政治家や、経済的
 権力を持つ白人銀行家や、白人の実業家、白人判事とい
 う社会の権力を持つ者たちが、アメリカ社会の高い社会
 的、経済的な階層からも弾圧が加えられた。
  アメリカの中軸に居る人でさえ、黒人の方々へ人種差
 別した。
  また、暴力行為を行うKKKの白人集団も加わった。
  卑劣な事に、立場を利用して、社会的地位のある者た
 ちは、警察権力を動かした。
  この抵抗運動の黒人の指導者たち・100人以上を逮捕さ
 せた。
  そして、留置所に拘留させた・・そして、告訴までさ
 せた。
  卑劣な白人たちのアメリカ社会だった。
  白人たちの暴力集団・KKKは、黒人の方々へ暴力を
 働き続けた。
  この輩たちは、逮捕されることはなかった。
  白人キリスト教会の差別に耐えられずに作った黒人の
 方々の教会が爆破された。
  指導者の黒人のキング師にも危害が加えられた。
  キング師の家には爆弾が投げ込まれた。
  しかし、黒人の方々の結束は固かった。
  弾圧や暴力にインドのガンジー師の無抵抗主義で耐え
 た。
  バスの乗車拒否運動のために、自家用車の相乗り組織
 もできた。
  遠い道を歩いて通う黒人の方々も多かった。
  白人たちは、この様な卑劣な行為を1年間も続けた。
  1956年11月13日、連邦最高裁判所は、「バスの人種隔
 離は違憲」との判決をやっと下した・・当たり前の判決
 だった。
  それによる命令が、モントゴメリー市へ、1956年12月
 20日に下された。
  正義の通らない、卑劣な社会のアメリカの、まだ、最
 近の事件だった。
  アメリカ社会は、まだ、未熟な遅れた社会にある。
  それは、遅れた宗教=キリスト教の教義「有色人種蔑
 視観」に影響されている。
  この事件は、黒人の方々の輝かしい結束が証明された
 事件だった。
  黒人の方々の『栄光の史実』がまた一つ増えた事件だ
 った。
.
1957年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワー、第34代ア
 メリカ大統領の二期目の任期が始まった(~1961年1月20
 日)
  この再選される前、前年の秋の大統領選に、再選され
 ることを狙っていたアイゼンハワー大統領は、黒人の方々
 を虐げるアメリカについての発言を避けていた・・ダン
 マリを決め込んでいた。
  この様に、アメリカは、まったく卑劣な状況にあった。
  黒人のルーシーという女学生が、勉学に就くことに対
 し、差別をしていた。
  アメリカ中が・・国全体がこの事で揺れていた。
  しかし、アメリカ大統領のアイゼンハワーは、大統領
 選に再選されたいために、何も言わない作戦を取った・・
 大統領の地位にあるのに、国が大揺れに揺れているのに、
 何も必要な措置を取らないという態度を決め込んだ。
  「国民感情に関わる問題では、法の実施にあせりは禁
 物で性急に事を運べはかえって禍を招く」と言い訳を言
 った。
  そして、さらに、人種差別主義者の行動を弁護する発
 言さえした。
  アイゼンハワーは再選された。
  この様な、同じ問題が、また、アメリカのアーカンソ
 ー州のリトルロックで起きた。
  1957年8月29日に、知事がやはり、再選されたいために
 人種差別をした。
  9人の優秀な黒人の学生を、入学させようと決定してい
 たリトルロック・セントラル高校。
  入学決定の裁判所の命令が、既に、判決されていたに
 もかかわらず、新学期が迫ったこの時、三選を目指して
 いた州知事(オーベル・E・フォーバス)は、選挙戦を
 有利にしようと、新学期が始まる前日の9月2日に、「も
 しも、明日、(黒人との)人種共学が強制的に実施され
 るなら、私はこの地域の平和と秩序を維持する事は出来
 ない」と声明した。
  そして、突然、250人の武装した州兵を、リトルロック
 高校へ出動させた。
  そして、学校を包囲する強硬手段をとった。
  卑劣な事に、表向きは「平和と秩序を維持する」であ
 ったが、実際に与えられた任務は、「黒人生徒の登校を
 武力によって阻止する」ということだった。
  この州兵以外にも、この事に刺激された大勢の白人群
 衆も集まった。
  彼らは、罵声と暴力的威嚇をした。
  黒人学生は、やむなく登校をあきらめた。
  だが、連絡の取れなかった一人の黒人の女学生が、一
 人で登校して来た。
  この女学生(エリザベス・エックスフォードさん)は、
 たちまち、これ等の白人暴徒たちに取り囲まれ、「黒ん
 坊(ニガー)を殺せ」などの叫びと怒号を浴びせられ、
 やはり、登校は出来なかった。
  こんなことが延々と続くアメリカ・・黒人の方々は虐
 げられている・・卑劣なアメリカ・・これ以下は、軽蔑
 を込めて略す・・、
  リンカーンの話は「まったくの絵空事」のアメリカ・・
.
1971年、色川大吉氏は、東京経済大学の名誉教授だが、著
 書「ユーラシア大陸思索行」で言う・・、
  異質なもの、人々、文化、環境を見て歩き(1971年)、
 そのユーラシア大陸における都市構造の様々な方と、文
 明の諸類型を発見し、それによって、日本の社会の人間
 関係のあり方の特質や文化的位置を、一層、際立たせる
 事に役立つと考えた・・と・・、
  つまり、異質さの中に、自分たちとの、その異質さに
 自分たちをより分かり、また、分かることによって自分
 たちをより際立たせることに役立つと、
  自分たちの発展のためには、異質さこそ必要だと。
  多様さの中に、異質もあって、自らの発展も実現でき
 る・・と。
  キリスト教は、異質をこの様には、まったく見ない、
 見れなかった。
  また、その様に『見るな』と、マインド・コントロー
 ルし、洗脳した。
  異質を異端と捉(とら)え、異質排除・異端排除のキ
 リスト教の教義によって「異端は、殺された」・・異端
 審問・・
  「異教徒は殺せ」のキリスト教教義・考え方だった。
.
1990年9月、日本の地価が、ピークに達した。
  数字上、東京都の地価が、米国全土の地価と同等にな
 った。
.
1995年、移民で壊れて行くイギリス。
  経済での復活の可能性が無くなったイギリス。
  また、グローバル化の風潮が、国柄(くにがら、その
 国の特質・持ち味)を破壊し、薄めさせ、国の影がかす
 れて行く。
  イギリスが熔けて無くなって行く。
  企業経営者・作家の河添恵子氏のYouTubeを御覧くださ
 い。
  https://www.youtube.com/watch?v=-Bg24EOmQzk
  この20年、ヨーロッパ全体も壊れて来ている・・と・・、
.
2005年2月、日本とアメリカの外務大臣と防衛大臣が、中国
 への関与政策などを話し合った。
  (日米間の緊密化の努力、東アジアへの対応などに、
 日本の能動的な地域政策の構築が、今後、より必要)
  日米両国の外務、防衛大臣で構成される「日米安全保
 障協議委員会(2+2、ツー、プラス、ツー)」は・・、
 2005年2月に、両国の共通目標を確認した。
  国際テロの根絶、民主化の推進、開発支援、地域協力、
 中国への関与政策のすべてが、共通戦略目標に中に入っ
 ている。
  従って、地域と国際社会の平和、安定、繁栄のために
 共通戦略目標の実現のための日米間の協力を緊密化する
 努力とともに、米国の東アジアへの関心に対応するため
 にも、日本も能動的な地域政策の構築が求められている
 ・・と・・、
.
2007年9月10日、アメリカの雑誌・タイム(TIME)が
 名誉棄損をした・・名誉棄損裁判で負けた。
  インドネシアの最高裁判所は、ジャカルタ地方裁判所
 と控訴院の判断を覆し、インドネシアのスハルト元大統
 領に対する『タイム・アジア』の名誉毀損を認定した。
  損害賠償1兆ルピアの支払いを命じた。
  訴えの対象となったのは、スハルト大統領が270億米ド
 ル以上(320億ドル)の金を海外に移したとする記事。
.
2016年1月1日、ヒットラーの「我が闘争」が、この日から、
 再出版された。
  著作権が切れたためで、今までは規制されて来た(イ
 ンターネットでは読めたが・・)
  戦後この様な時間が流れたのに、相変わらずの「情報
 管理社会」の今がある。
.
2016年2月29日、アメリカの人種差別
  (読売新聞、2016・2・29)の記事に・・、
  アメリカ合衆国が白人偏重だとある・・、
  キリスト教の考え方に影響されたアメリカ合衆国が、
 白人偏重だと批判されている。
  その1例となっているのが・・『アカデミー賞』。
  騒動の発端は、2016年1月のアカデミー賞候補者の発表。
  男優、女優の計20人が、2年連続で「全員白人」と判明
 した。
  「旧態依然の白人至上主義だ」と批判に火が付いた。
  こんな人種差別は、「ノーベル賞」でも行われている。
  白人キリスト教社会がしている人種差別は、今・現代
 でも延々と行われている。
.
2017年12月8日、蒋介石の弾圧、究明推進
  この日の読売新聞に標記の記事がある・・
  そしてまた、「台湾で法案可決」「銅像など撤去か」
 の表題もある・・
  日中戦争の時、アメリカが隠れて支援した蒋介石、そ
 して、日中戦争にアメリカは参戦して、蒋介石と一緒に
 なって日本と戦った・・真珠湾のはるか前にアメリカは
 日本と戦っていた・・アメリカは『それはボランティア
 だ』と言ったが、大統領の命令書が見つかって、アメリ
 カのウソがばれた・・
  この標記の件の記事を抜粋して書くと・・
  「台湾で国民党の独裁政権を率いた蒋介石、蒋経国父
 子時代の政治弾圧の真相究明などを推進する法案が5日に
 可決された。
  独裁下で弾圧された民主化活動家を中心に結成された
 与党・民進党による『歴史清算』の一環。
  台湾メディアは蒋介石の銅像が一掃される可能性を伝
 えている。
  台湾では日本による統治が1945年8月15日に終わった。
  その後、国民党支配が始まり、同党が中国大陸で共産
 党との内戦に敗れ、台湾に移った後は権威主義的な統治
 が強化された。
  1947年2月には、煙草(たばこ)を売っていた台湾出身
 女性を役人が殴打したことをきっかけに住民の国民党へ
 の不満が爆発。
  全土に広がった抗議行動を国民党が武力弾圧した「2・
 28事件」が起きた。
  国民党が敷いた戒厳令が全土で解除された1992年11月
 までの間には、共産主義者や国民党独裁に反対する台湾
 独立派を弾圧する「白色テロ」も行われ、被害は20万人
 に上るとも言われる。
  中国から来た外省人と戦前から台湾に住む本省人との
 分断は、今も傷痕を残す。
  今回可決した法律は、こうした人権侵害などをただす
 事が目的で、行政院(政府に相当)に設置される専門委
 員会が真相究明と被害者の名誉回復を進める。
  蔡英文総裁は6日、「目的は和解であり闘争ではない。
  (この過程を経て)違う台湾に生まれ変わる日が来る
 事を望む」と述べた。
  法律には「公の施設や場所にある権威主義統治社会の
 象徴」を撤去、改名するという条文がある。
  蒋介石をたたえ、巨大な銅像を展示する中正記念堂が
 「最初の対象」(聯合報・れんごうほう、台湾の日刊紙)
 になるとの報道もある。
  名称に蒋の別名「中正」を付けた約200の道路、約30の
 学校、蒋介石の肖像画をデザインした貨幣や紙幣が対象
 になる可能性も指摘され、行政院が否定する一幕もあっ
 た。
  (参考)白色テロ:為政者や権力者、反革命側(君主
     国家の為政者あるいは保守派)によって政治的
     敵対勢力に対して行われる暴力的な直接行動の
     こと。
  (参考)行政院(ぎょうせいいん):中華民国におけ
     る「国家の最高行政機関」(中華民国憲法53条)。
      内閣と各省庁を併せたものに相当する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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