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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)

2017年10月10日

(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)

題:(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月4日、琵琶湖疎水を利用した日本初の水力発電所
 である京都蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が開業し
 た。
  1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1
 疏水に関連し・・、
  翌年・1891年(明治24年)6月に、第一期蹴上発電所が
 運転を開始した。
  営業用としては日本最初の水力発電所で・・、
  総工費は、30万円にて竣工した。
  2016年、米国電気電子学会 (IEEE) より『IEEEマ
 イルストーン』に認定された。
  (参考)IEEEマイルストーン:アイトリプルイー
    マイルストーン)は、IEEEIが、電気・電子技
    術やその関連分野における歴史的偉業に対して認
    定する賞。
     これに認定されるためには、25年以上に渡って
    世の中で高く評価を受けてきたという実績が必要。
1892年6月6日、衆議院が、「鉄道敷設法」案を委員会修正
 案どおり可決し、貴族院に回付した。
1892年6月7日、貴族院が、「鉄道敷設法」案の第1読会を開
 き、同法案を審議した。
  後日、貴族院は、衆議院の修正案どおり「鉄道敷設法」
 案を可決した。
1892年6月7日、野球の代打が初めて行われる(前年に制定)
  因みに、通算代打起用回数のセ・リーグ記録は、宮川
 孝雄の778回、パ・リーグは、高井保弘の559回。
  通算代打打率(起用数300以上)セ・リーグ記録、若松
 勉.349、パ・リーグ記録、五十嵐信一.292、
1892年6月13日、天皇陛下が、予算に対する協賛権は、貴族
 院・衆議院に差はないとの裁定を下された。
  協賛権(きょうさんけん)は、旧憲法下で、帝国議会
 に与えられていた協賛(きょうさん、旧憲法で、議会が
 法律案・予算案を成立させるための意思表示をすること)
 の権限で、法律・予算の制定者であられる天皇陛下に対
 して協力するための権限とされた。
1892年6月13日、停車場内人力車備置規則を制定し(鉄二第
 290号)構内人力車営業を駅長の管理下に統一した。
1892年6月14日、両院協議会が、予算修正につき妥協、両院
 で可決した。
1892年6月16日、小包郵便法を公布した(6月17日説あり)
  経緯・・
  1871年、郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制
     度が施行。最初の郵便切手が発行された。
  1873年、日米郵便交換条約調印。
  1875年、外国郵便の取扱開始、郵便貯金・郵便為替の
     取扱施行。
  1876年、上海と釜山浦に在外郵便局を開設。
  1877年、万国郵便連合(UPU)に加盟。ただし在日局の
     撤退はイギリスが1879年、フランスが1880年。
  1885年、逓信省創設。国際郵便を正式にあつかいはじ
     める。
  1892年、小包郵便の取扱開始。
1892年6月17日、東京の日本赤十字社病院が新築落成した。
  皇后陛下が行啓されて、開院式を行った。
  日本赤十字社の創立者(初代社長)は、佐野常民(さ
 のつねたみ)
  日本赤十字社は、1877年に設立された博愛社が前身。
  1886年、日本政府がジュネーブ条約に加入したことを
 受けて・・、
  翌年・1887年に、名称を日本赤十字社と改称した。
  博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の時、佐野常
 民と、大給恒(おぎゅうゆずる)の両元老院議官によっ
 て設立された。
  救護を目的とする団体で、西南戦争では、明治政府軍
 と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数
 の死傷者を出た。
  この時、この悲惨な状況に対し佐野と大給の二人は、
 救護団体による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を
 痛感した。
  ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと
 思い立った。
  1877年、佐野と大給を発起人として、政府に救護団体・
 博愛社の設立を願い出た。
  しかし、この願いは認められなかった。
  その理由は・・、
  『このような考えは素晴らしいことではあるが・・、
  (1)現地には救護に必要な医師等は派遣しており、医
    療は足りている。
  (2)今、新しい組織を作って戦地に送れば、混乱をき
    たす。
  (3)欧州で国家間の戦争の際に組織(赤十字)を作っ
    て救護することは知っているが、このたびの内戦
    にまで適用されるものなのかどうかは分からない。
  (4)このような組織の創設は、平和な時に十分時間を
    かけて検討すべき。「明治政府からの回答書」
  しかしながら、戦場ではおびただしい数の負傷兵が手
 当てもされず、放置されていたことは事実で、博愛社の
 設立を急いだ佐野は、征討総督・有栖川宮熾仁親王(あ
 りすがわのみや・たるひとしんのう)に直接、博愛社設
 立の趣意書を差し出すことに意を決し、
  1877年5月、熊本の司令部に願い出た。
  有栖川宮熾仁親王は、英断をもってこの博愛社の活動
 を許可された。
  救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地
 に急行し、官薩両軍の傷病者の救護にあたった。
  (日本赤十字社のホームページを参考にした)
1892年6月18日、ハワイ王国に、マカダミアナッツが持ち込
 まれ、商業栽培が開始された。
  原産地はオーストラリアのクイーンズランド州で、先
 住民のアボリジニの方々の間では、ブッシュ・タッカー
 として、好んで食されていた。
  1921年に、ハワイ大学で商業生産を目指した品種改良
 の研究が始まった。
  20年間の研究の努力の結果、商品化に成功した。
  1950年代頃までに、日系アメリカ人のマモル・タキタ
 ニが、マカダミアナッツとチョコレートの相性が良いこ
 とに注目して、
  ナッツをチョコレートで包んだものを製品化すると、
 爆発的な人気を呼んだ。
  これが、マカダミアナッツ製品で最も消費量が多いハ
 ワイアンホースト社製のチョコレートとなった。
1892年6月21日、鉄道敷設法が公布された(法律第4号)
  これは、鉄道建設の基本法で、予定線33路線のうち、
 第1期線は、中央・山陽・北陸など9線・・、
  そして、工事着手順や募集公債金額などを決定するた
 め鉄道会議の設置を規定した。
  また、第1期建設予定線の建設に充当するために、1892
 年(明治25年)から12年間に、6000万円を限って公債を
 募集することとした。
  この法は・・全16条から成る。
  予定の線路を調査し敷設することを明らかにし・・
  第2条で、中央線以下14線33本の予定線を、
  第7条で、そのうち第l矧工事として実測l建設すべきも
 のを列挙した。
  その費用は、公債をもって充て(第4条)、 12年間に第
 1期工事を完成すべきものとした(第8条)。
  また、鉄道会議を設置して工事着手の順序、建設資金
 募集の公債発行額を諮問することを定めた(第15条)。
  買収については、既成私設鉄道のうち第2条に掲げた予
 定線路のため、買収の必袈があると認められるものは、
 政府がその会社と協議して価絡を定め、議会の協賛を求
 むべきものとした(第11条)。
  その他、予定線のうち、私設鉄道から敷設の許可を願
 い出たときは、談会の協賛を経て、許可することがある
 とした(第14条)・・重要な例外規定。
  この敷設法の公布によって、わが国の鉄道は、創設期
 をおわり、確固たる方針のもとに秩序ある発展の第一歩
 を踏み出した。
1892年6月21日、鉄道会議規則が公布された(勅令第51号)
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、1892年6月21日~1949
 年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定められた「鉄道会議
 規則」(明治25年勅令第51号)に基づいて、鉄道担当官
 庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省→運輸省)に
 設置された諮問会議。
  鉄道敷設法で定められた「鉄道建設の順序」や「鉄道
 公債の発行」などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成された。
1892年6月21日、シベリアを単騎横断した福島安正中佐が、
 ウラジオ~釜山を経て、1年を費やしての長崎への帰着だ
 った。
  駐ドイツ公使館付武官を辞任して、シベリアに向かっ
 ていた。
  長崎市民は、世界的英雄を迎てえ、諏訪公園丸馬場に
 て盛大な歓迎会を開催した。
  福島安正中佐は、1892年6月29日に、新橋駅に降り立っ
 た。
  陸軍軍人・男爵。長野県生(1852年~1919年)
  信濃松本藩士福島安広の長男。
  司法省に入り、1874年、陸軍省に移る。
  語学力に優れ、1882年、朝鮮に派遣され、朝鮮の調査、
 そして、1883年に北京公使館付武官となり、満州、およ
 び、モンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察し、
  1887年には、駐独武官となってバルカン半島を視察し
 た。
  この帰国に際して、ロシアのシベリア鉄道建設の状況
 視察のため、1年4か月かけて、シベリア横断となった。
  日清戦争の際は、第一軍参謀、
  1895年3月から約2年間、ヨーロッパ、アジアを探検旅
 行、帰国後は参謀本部第三、次いで第二部長、
  日露戦争時は満州軍参謀、
  日露戦争後、1906年に参謀次長、中将に進み、
  1912年には関東都督となり満州経営に当たる。
  1914年、大将に進む。
  のち退官した。
  1919年(大正8年)逝去、68歳。
  勲三等旭日勲章が授与された・・男爵。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1857年、アメリカ合衆国のすべてが、そして大統領が、卑劣な『奴隷制容認判決』を喜んだ。
    そして、それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガンダして変えようとしている。
    そして、1859年10月、初めの反乱=黒人のジョン・ブラウンの蜂起が起きた・・、
.
紀元前3世紀~2世紀、サルナートは、紀元前3世紀~紀元前
 2世紀、アショカ王の時代と、紀元後5世紀~紀元後6世紀
 のグプタ朝時代に栄えた『仏教教学の聖地』である。
  この地で、釈迦は4ヶ月ほど暮らし、玄奘も中国から
 はるばる訪ねて来て経典を学んだ。
  (参考)サールナートは、インドのウッタル・プラデ
     ーシュ州にある地名。
      ヴァーラーナシー(ベナレス)の北方約10km
     に位置する。仏教の四大聖地のひとつ。
      漢訳仏典では旧訳で「仙人堕処」、新訳では
     「仙人住処」と訳出される。
      釈迦が悟りを開いた後、鹿が多く住む林(旧
     訳「施鹿林」、新訳「鹿野苑」)の中で、初め
     て教えを説いた初転法輪の地とされる。
.
196年、董遇(とうぐう)が、郡から孝廉に推挙され、黄門
 侍郎にまで昇進した。
  中国の後漢(25年~220年)の学者の董遇が、「読書百
 篇義自ずから見る」という言葉を残した。
  意味:「どんなに難しい書物であっても、繰り返し読
 むうちに意味が自然と分かる様になるものだ」・・、
  董遇は、字(あざな、成年後、実名のほかにつける別
 名)を季直(きちょく)といい、弘農郡(こうのうぐん、
 河南省に設置された郡) の人。
  生没年は不明。
  関中(かんちゅう、中国の西安を中心とした一帯)が
 乱れると、兄とともに将軍・段珪(だんけい、?~ 189年、
 後漢時代末期の宦官)に身を寄せた。
  生活は苦しかったが、農事や行商の間にも経書(けい
 しょ、儒学の経典。四書・五経など)を手放さなかった。
  196年、郡から孝廉に推挙され、黄門侍郎にまで昇進し
 た。
  董遇は、献帝(けんてい、後漢最後の皇帝)の寵愛と
 信頼を得た。
  218年、吉本らの曹操暗殺計画(毒殺計画)が発覚し、
 董遇は参画していなかったが、なお、取り調べを受け、
 閑職に遷(うつ)された。
  政権奪取とかの話ではなく、恨みつらみのレベル・・。
.
1662年、台湾。
  台湾は、台湾原住民の方々だけが住む地であった。
  しかし、現在は、台湾原住民は2.3%である。
  17世紀の大航海時代、オランダ及びスペインが植民し
 た。
  台湾は、ポルトガル語で「フォルモサ=麗(うるわ)
 しの島」と呼ばれた。
  1662年になって、明(みん)寄りの支持者である鄭成
 功(ていせいこう、日本名:福松、母が日本人で、半分、
 日本人の血が流れている)がオランダを追放した。
  これ以降、漢民族が流入した(日本人が流入しても良
 い場面であった)
  台湾原住民とも混血した。
  しかし、現在、DNAの調査によれば、8割が南方アジ
 ア系である。
  鄭成功は、日本の平戸で生まれた、
  父は鄭芝龍で、母は、日本人の田川マツ。
  父・鄭芝龍(福建省生まれ)は、朱印船貿易の関係で
 日本に来た。
  そして、平戸藩主の松浦隆信の寵を受け、平戸に住ん
 だ・・そして、結婚し、鄭成功が生まれた。
  鄭一族は貿易商で、海賊や商売敵との抗争のために武
 力を持っていた。
  そして、明治の時代、この台湾のことを、現在の中国
 政権の前の「中国の清国政権」は、「化外の地」と日本
 政府へ言った。
  (参考)化外:けがい、統治のおよばない地。
  つまり、台湾は、「中国とは、まったく関係のない地
 です」と日本政府へ言った。
  しかし、現在の中国政権は、「台湾は、中国の一部で
 ある」と言い出した。
  だから、中国のこの勝手な解釈のもとに行動を起こし
 ても良いのだと言外(げんがい、直接は言葉にださない
 ところ)に言っている。
  何をやっても、「国内問題」だと・・。
  勝手な言い掛かりから、強引な行為に及ぶことは・・
 この解釈の違いから生じて行う行為は・・卑劣な戦争が
 惹起(じゃっき、事件・問題などを引き起こすこと)さ
 れる恐れがある。
.
1820年1月26日、ミズーリ協定
  アメリカのミズーリ州を、奴隷州として州昇格を認め
 る法案を条件付きで成立させた。
  その条件は、イリノイ州選出のジェシー・B・トーマス
 議員から、今後、北緯36度30分線の北にあるミズーリ準
 州から奴隷制を排除するという動議を採択した。
  この条件は、後に、憲法違反との判決が出て、まった
 く無くなる。
.
1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーの奴隷解放活
 動・・
  激烈な社会的影響を与えた一冊のパンフレットを、こ
 の年に書いた。
  アメリカ大統領のリンカーンが、「奴隷解放」を行な
 ったというのは、白人・アメリカ人のデッチ上げで・・、
  黒人の方々が、地道に解放へ向かって努力して行った。
  虐げられる黒人の方々は、色々な方法で・・
  そして、活動する黒人の方々は、命を賭して・・
  必死に、「自らの自由を得たい」という活動を行ない・・
  そして、奴隷解放を『成した偉業』なのである。
  白人・アメリカ人は、自らの卑劣な行為=「同じ人間
 を人家畜化し、所有して、使役し、それも、「虐げ行為
 を伴って行なった」という行為を隠そうと、
  白人・アメリカ人のリンカーンが、「奴隷解放をした」
 という話をデッチ上げた・・そして、隠した。
  リンカーンが、「どんな奴隷解放の積極的活動をして
 来たというのか?」
  「奴隷解放宣言」は、その状況になって、やむ無く行
 っただけで、リンカーンは、大統領の就任演説において
 さえ、「奴隷解放」のことを一言も触れなかった。
  『奴隷解放の栄誉』を、白人・アメリカ人は、黒人の
 方々から奪うという「恥の上塗り的行為」を行なってい
 る。
  1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーは、一冊
 のパンフレットを書いた。
  そのパンフレットには、極めて刺激的な事が書かれて
 いた・・、
  「・・反対に、もしも我々(黒人)が、彼ら(白人、
 特に、奴隷所有者)を奴隷にして、残忍な奴隷制度の中
 に縛り付ける様な事をしたとしたら、
  彼ら(白人)は、一体、どんな気がするだろうか?・・
  私は、君たちにたずねたい。
  君たちの母親や妻や幼い子供の生命を奪う暴君の奴隷
 となるくらいなら、君たちは、むしろ殺されることを望
 むのではないか?・・
  信じ給(たま)え、君たちを殺そうとするような、そ
 んな人間を君たちが殺すのは、喉が渇(かわ)いた時に、
 一杯の水を飲むのと同じくらい当然のことではないか」
 ・・と、
  これは、『ウォーカーの訴え』として知られ・・、
  白人・奴隷所有者らに大きな衝撃を与えた。
  黒人の方々も、ただただ、白人・アメリカ人に虐げら
 れるだけでなく、自らの自由を獲得したいとの当然の声
 を上げ始めた。
  また、1831年1月1日には、ウィリアム・ロイド、ガリ
 ソンが、「解放者(リベレーター)」を、ボストンで週
 刊で発刊し始めた。
  ジョージア州政府が、ガリソンの逮捕に5,000ドルの賞
 金を掛ける様なこともあった。
  1833年には、奴隷制反対協会が設立された。
  この組織は、1840年までに、2000の地方支部に拡大し、
 会員総数は20万人を数えた。
  定期刊行物やパンフレットの発行などの広報活動、議
 会への大衆動員をしての請願運動などを行なった。
  因みに、この請願を受ける議会側に、あのでっち上げ
 られたリンカーンも居た。
  この様な奴隷解放活動家は、常に、命の危険にさらさ
 れていた。
  金を持った奴隷制維持権力は、激しい攻撃や弾圧、そ
 して、「卑劣なテロ行為」を加えた。
  その一つが、1837年11月、イリノイ州のオルトンで、
 奴隷制廃止主義者のイライジャー・ラビジョイが殺され
 た。
  この殺害犯人たちは捕らえられたが、罰せられるどこ
 ろか、官憲(かんけん、政府の権力・権限、もしくは、
 官吏の権力・権限)の手で釈放された。
  この様な黒人の方々の自らの解放の努力の例は、まだ
 まだ、沢山ある。
  白人・アメリカ人が、「奴隷解放を成した」、または、
 「奴隷解放を与えた」というのは、「真っ赤な作り話の
 嘘」。
  白人・アメリカ人は、卑劣な非人道的行為者側に居た。
  黒人の方々を、奴隷としての地位に置いて・・、自ら
 の利益を追求する側に居た。
  黒人の方々の「名誉の自由獲得行為」の名誉まで奪う
 行為をしている。
  この事実は、世界記憶遺産に登録すべき項目だ
.
1831年8月21日、ターナーの暴動
  黒人の方々を、奴隷として使う白人・アメリカ人たち
 は、この黒人の方々の反抗を「暴動だ」と表現した。
  それ故に、この年のこの黒人の方々の反抗行動も暴動
 と表現された。
  教科書にも、歴史書にも、「黒人暴動」と記された。
  反抗をした黒人指導者のナット・ターナーは、自分の
 名も付けられず、この「ターナー」という名も持ち主の
 名前だった。
  この人権無視社会=アメリカのバージニア州サザンプ
 トンでこの反抗行動は実行された。
  黒人の方々は、これまで、ただ虐げられていたが、こ
 の時、ただ虐げられていたのではなく、白人アメリカ人
 の不正に、はっきりと抵抗の意思を示した。
  アメリカ国中に大きな影響力を与える「大きな規模の
 反抗」だった。
  結局、白人・アメリカ人の社会は、連邦軍を出動させ、
 強力な武力で鎮圧した。
  100人以上の黒人の方々が殺され、16人の奴隷黒人と、
 3人の自由黒人と、指導者のターナーが処刑された。
  この出来事は、黒人奴隷の方々に、激しい解放への意
 欲をかき立てた。
  これまで、黒人の方々は・・、
  1800年に、ゲイブリエル・プロッサーの反抗(暴動)、
  1822年のデンマーク・ビージーの反抗(暴動)などで
 抵抗して来ていた。
.
1840年、アメリカの奴隷制廃止運動家のジェームズ・バー
 ニーは、自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  リンカーンが、「奴隷解放の父」というアメリカ北部
 政権のプロパガンダ(嘘宣伝)ほど、世界中を惑わし、
 欺(あざむ)く嘘はない。
  黒人の方々が、どれほど自由を得ようと命を張って努
 力されたかである。
  黒人の方々が、奴隷という非人道的地位から脱出する
 過程を、調べれば調べるほど、その血塗られた努力の話
 が満ちている。
  「リンカーンが解放を与えた」的な話ではない。
  このアメリカ北部政権の酷(ひど)い虚言(きょげん、
 他人をあざむく言葉)が、明らかになって行く。
  黒人の方々が、抑圧され、抑え込まれて居る状況から
 目覚め、自由を得たいとあらゆる活動をし始める中にお
 いて、時には、白人・アメリカ人が「暴動だ」と蔑(さ
 げす)んで言うような抵抗・実力行使も行なった。
  この黒人の方々の「自由獲得行動」は、だんだんと、
 アメリカ国内に賛同する人、同調をする人々が増えて行
 った。
  最初は、なかなか理解者は増えなかったが・・、当然
 のごとく勇気を得た黒人の方々も立ち上がって行き、増
 えて行ったが・・労働者、婦人、農民、進歩的知識人な
 どだった。
  そして、その理解者たちの結集が図られて行った。
  1840年、奴隷制廃止運動家のジェームズ・バーニーは、
 自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  そして、この年の大統領選挙に立候補した。
  1843年には、奴隷解放運動家の大御所のダグラスが加
 わった。
  また、多くの黒人奴隷制廃止主義社も自由党に入党し
 た。
  1844年にも、自由党は、バーニーを大統領選挙に立候
 補させた。
  この時、バーニーが主張したことは・・、
  「アメリカの首都・ワシントンの奴隷制を廃止しよう」
 だった。
  また、「奴隷制が、準州へ拡大して行かない様にしよ
 う」だった。
  そして、奴隷制の卑劣さを訴えた・・「奴隷制度は自
 然権に反する」・・と。
  (参考)自然権:しぜんけん、人間が、自然状態(政
     府ができる以前の状態、法律が制定される以前
     の状態)の段階より保持している生命・自由・
     財産・健康に関する不可譲の権利。
      人権は、自然権の代表的なものとされている。
  また、アメリカが、メキシコから「テキサスを奪おう
 としている事」に反対した。
  また、「メキシコとの戦争」にも反対した。
  そして、1846年8月8日には、アメリカが、卑劣な行為
 を行なってメキシコから奪ったテキサスなどの地域に、
 「奴隷制度が広がることに反対し『奴隷制度禁止地域に
 せよ』と主張した(ウィルモット建議が提出された)」。
  このウィルモット建議は、その他の既存政党に大きな
 影響を与えた。
  ホイッグ党は、この影響を受け、その容認を巡って決
 着がつかず分裂した。
  民主党も、党内の統一が図れずに二派になって対立し
 た。
  1848年には、自由党員が、これ等の既存政党の分裂・
 分派した人々の受け皿となり、自由土地党を結成した。
  スローガンは、「自由な土地、自由な言論、自由な労
 働、自由な人間(奴隷という虐げのない社会)」だった。
  この奴隷解放の活動の経緯の中に、「奴隷解放の父だ
 と言われるリンカーン」の「リ」の字も出て来ない。
  そして、アメリカ北部政権は、1850年、「逃亡奴隷取
 締法」という奴隷を虐げる卑劣な法律を制定した。
  そして、南北戦争に至って行く。
.
1856年、ブルックスによるサムナー殴打事件など・・
  ブルックスは、反奴隷制運動の政治家で・・、サムナ
 ーが3時間に及ぶ人格攻撃の、また、卑劣な言葉(売春婦
 などに関係した演説・・具体的に書けない低劣な演説)
 品位のない演説をした・・
  怒りが収まらないブルックスは、この演説の2日後、金
 製の頭が付いた杖で、サムナーの頭を狙って殴ったとい
 う事件。
  1776年7月4日にアメリカが独立して、憲法を作ったが・・、
  その憲法という国の基本においても・・アメリカは、
 非人道的行為である奴隷制度を廃棄できなかった・・
 奴隷条項のある憲法だった。
  そして、その後も、アメリカは、黒人の方々を非人道
 的に虐げるという体たらくな行為を続けた・・
  綿花栽培が盛んになると・・、
  アメリカ南部だけでなく、アメリカ北部も、この綿花
 を扱った木綿工業が急速に発達した。
  そして、安価な労働力としての黒人奴隷の必要性から、
 アメリカ北部の資本家も、その労働力の要求も拡大した。
  そして、アメリカ西部も同様な動きが見られた。
  アメリカ北部とも紐帯(ちゅうたい、二つのものを結
 びつけて、つながりを持たせる)を深めた。
  マルクスは言う・・、
  「奴隷所有者の権力が、アメリカ北部の民主党と手を
 握って、ますます連邦を悪用して来たという事は、いわ
 ば今世紀(19世紀)初め以来のアメリカ合衆国の歴史の
 一般公式である。
  次々にとられた妥協的措置は、連邦をますます奴隷所
 有者の奴隷に転化する、相次ぐ侵蝕作用の度合いを示す
 ものであった}。
  1850年代のアメリカは・・、
  イギリスにとっての最大市場としての後進国的な特性
 と、先進工業国の地位への上昇転化の趨勢とが、相拮抗
 しはじめた状況にあった。
  そして、マルクスは、奴隷の方々の「暴動と言われる
 抵抗・反乱」に注目し、「生産体系全体を破滅させ得る」
 と理解し、見ていた。
  そして、それはただ単に、奴隷制度の制度的な矛盾だ
 けでなく、奴隷制度の方が商品経済機構の中で、工業の
 発展に対応しきれなくなり、自滅するだろうと見ていた。
  他の国の商品の生産性などで『敗れる』と見ていた。
  だから故に、アメリカの奴隷制による生産・商品化は
 行き詰まり、奴隷制は打破され、「奴隷は解放されるで
 あろう」と見ていた。
  つまり、アメリカは、「美しくリンカーンが奴隷を解
 放したと言いたい」のだろうが・・時代の流れの中で、
 奴隷は解放せざるを得ない段階に行き着いていたのだっ
 た。
  黒人の方々をアフリカに棄民したリンカーンは、「奴
 隷を解放するという言葉を宣言しただけ」だった。
.
1857年、アメリカ合衆国の『最高裁判所』が、「奴隷制度」
 について判決を下した(最高裁の最終判決・・アメリカ
 の国としての意思=最終判決)
  ある一人の黒人奴隷の方が、堂々と、アメリカ合衆国
 を相手に、最後まで戦った、法廷闘争をした・・
 『トレッド・スコット判決』が下りた(ドレッド・スコ
 ット対サンフォード事件)
  黒人奴隷の方が敗訴になったが・・、以下が、その判
 決である・・、
  (1)黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の財産であ
   って、合衆国の市民ではない。
    劣等人種である彼らは、白人と同等の権利を持つ
   ことはできない。
    だから、黒人であるスコットには、連邦裁判所に
   提訴する権利は与えられていない。
  (2)スコットは、ミズーリ州の市民ではない。
    したがって、この事件は、異なる州の市民の間の
    訴訟ではないから、連邦裁判所には、この事件に
    ついての管轄権がない。
     スコットがたとえ、一時的に自由州であるイリ
    ノイ州に住んでも、再び、ミズーリ州に帰って来
    た以上、彼は、ミズーリ州の法律に服さねばなら
    ず、イリノイ州の法律によって、自由を要求する
    事は出来ない。
     そのミズーリ州の法律によれば、「彼は、奴隷
    以外のなにものでもない」。
  (3)スコットが、北緯36度30分以北の自由地域に住ん
    だという事実は、決して彼を自由身分にするもの
    ではない。
     ・・というのは、連邦議会は、合衆国の準州に
    奴隷制度を禁止する権限を持っていないからであ
    る。
     したがって、1820年の「ミズーリ協定は憲法違
    反」であり、奴隷財産は、この国のどこででも(
    所有者の財産として)保護されなければならない。
  これは、「アメリカ北部政権の意思」を表わしていた。
  また、卑劣にも、ジェームス・ブカナン大統領は言っ
 た・・、
  「この判決に対し、私は、すべての善良な市民ととも
 に、その内容のいかんに関わらず喜んで従う」と。
  アメリカ合衆国のすべてが、そして、大統領が、卑劣
 な「奴隷制容認判決を喜ぶ」と言った。
  それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガ
 ンダして変えようとする。
.
1859年10月、ジョン・ブラウンの蜂起
  ジョン・ブラウンは、この壮挙が、「奴隷の方々の立
 ち上がる『蜂起の烽火(のろし)』となればと思った。
  結局、圧倒的多数の白人・アメリカ人の軍隊に殲滅さ
 せられてしまった。
  ジョン・ブラウンの二人の息子は戦死した。
  今、戦死と記したが、まさに、白人・アメリカ人の黒
 人奴隷の方々に対する非人道的行為に対する戦争だった。
  暴動と白人・アメリカ人は蔑視して言うが・・違う。
  自由を求めて、黒人の方々は『正義の戦争』を行なっ
 た。
  何人の黒人の方々が、自由を求めて命を落としたこと
 か・・
  白人・アメリカ人のリンカーンの与えた「奴隷解放」
 なんて・・「奴隷解放ではなかった」。
  むしろ、白人・アメリカ人たちが言う「リンカーンの
 奴隷解放」は、「白人・アメリカ人の敗北宣言」だった。
  どれほど、黒人の方々が、自由を欲して活動して来た
 か・・そして、その数々の事実が隠されて来たか・・、
  黒人の方々の歴史が、掘り起こされて来ている。
.
1860年、この年、アメリカは、約400万人もの黒人の方々を
 奴隷にしていた。
  アメリカが、隣国のメキシコを騙(だま)してまでし
 て欲しかった「メキシコ領・テキサス」などは、綿花で
 利益を得たい・・儲けたいからだった。
  この頃、それまでの長繊維の綿花に変わって、新品種
 の短繊維の陸地綿が導入された・・、
  その綿花が効率的に処理できる綿繰機(コットン・ジ
 ン)は、1793年に、イーライ・ホイットニーによって発
 明されていて、能率が150倍となり、
  さらに、水力を利用すればその効率は、1000倍にもな
 った。
  また、栽培技術も容易になる品種のため、生産量も飛
 躍的に増大した。
  当然、その儲けは、莫大に伸びた。
  それと共に、アメリカ西部の地を奪う何ら根拠のない
 「西漸説」、自分たちだけに都合の良い「西漸運動」が
 進められて行った。
  この欲にかられたアメリカは、「騙(だま)し」を、
 隣国のメキシコや、先住の民・アメリカインディアンの
 方々へ行って、その方々の土地を奪って行った。
  そして、綿花畑にして行った・・、
  それまでは、かつての綿花は、狭小な「サウスカロラ
 イナ」や「ジョージア」の海岸沿いの狭小の地で、わず
 かに行なわれていた。
  それが、「テネシー」「アラバマ」「ミシシッピー」
 「アーカンソー」「ルイジアナ」「テキサス」などと、
 広大な地域に広がった。
  その陰で虐げられ、騙され、泣く多くの人々が居た。
  肥沃な黒土に覆われたその黒土地帯は、広々と広がる
 地は・・綿花栽培に適し、奪われて行った。
  そして、そこに、奴隷にされた黒人の方々が連れて来
 られた。
  黒人の方々が、住民の過半数を占めるほどになる「黒
 人奴隷地帯」が生まれた。
  白人・アメリカ人のWASP(W:白人、AS:アン
 グロ・サクソン、P:プロテスタント・キリスト教徒)
 が働かなくても、黒人の方々に働かせて、美味しい汁を
 吸う地だった。
  綿花生産は増大し、黒人奴隷数も増大して行った。
  1860年には、黒人の奴隷にされた方々は、395万人にな
 った。
  アメリカは、南部も北部も、黒人の方々の低廉な労働
 力を奴隷として得たいとして、虐げて得ていた。
  (今、アメリカの政治を牛耳る「北部系の論理」は、
 奴隷制は南部だとしている・・が、
  悪いことは南部だと押し付け、北部は違うと言ってい
 る・・が、しかし、これは真っ赤なウソ・・
  アメリカの総べてが、黒人の方々を虐げて、低廉な労
 働力を求めて、奴隷としていた)
  今・現代においても、アメリカ南部で「嘆(なげ)か
 れている言葉」は・・、
  「黒人たちを教育しても、皆、北部の資本家に吸い取
 られてしまう」・・である。
  北部資本家が、安い黒人の方々の労働力を奪っている
 という嘆きの声である。
.
1860年、アメリカのこの年の綿花生産量は、383万べールで、
 1790年の0.3万べールの1300倍になった。
  その多くが、イギリスへ輸出された。
  アメリカの総輸出額の半分以上だった。
  (参考)ベール:綿花や干し草、羊毛などに用いられ、
    素材を圧縮しビニールや布などで巻いたり、テー
    プなどで帯をかけたりする梱包。似た単位に「袋」
    「樽」「ロール」「束」「ドラム」などがある。
.
1951年4月19日、ワシントンD.C.のアメリカ上下院の合同会
 議におけるマッカーサー離任演説は・・、
  「・・戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、
 最も大きな改革を体験して来ました。
  見事な意志と、熱心な学習意欲・・、
  そして、驚くべき理解力によって、
  日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人
 の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打
 ち立てました。
  そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、
 社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作ら
 れました。
  今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして、社会
 的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。
  世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。
  最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながら
 も、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩める
 ことなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度
 は、日本が、アジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼす
 ことが期待できることを立証しています。
  私は、占領軍の4個師団を、すべて朝鮮半島の戦場に
 送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響
 について、何のためらいもありませんでした。
  結果はまさに、私が確信していた通りでした。
  日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りま
 せん。
  また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献するこ
 とがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません」
  「・・(中略)・・私は、今、52年にわたる軍務を終
 えようとしています。
  今世紀に入る前に、私が陸軍に入隊したとき、それは、
 私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。
  私が、ウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士にな
 る宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢
 はずっと前に消え失せてしまいました。
  しかし、当時、兵営で最も人気が高かったバラードの
 一節を今でも覚えています。
  それは、誇り高く、こう歌い上げています。
  『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
  そして、このバラードの老兵のように、私もいま、私
 の軍歴を閉じ、消え去ります。
  神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老
 兵として。さようなら」。
.
1997年2月19日、鄧小平(とうしょうへい)が死んだ。
  鄧小平は、中国(中華人民共和国)の政治家だが、毛
 沢東の死後、中国の最高指導者となった。
  この鄧小平の死んだこの年から遡(さかのぼ)ること
 48年前の1949年に、中華人民共和国が成立した。
  そして、その29年のちの1978年に、毛沢東が死んで、
 ようやく、その29年間も続いた恐怖政治が終わった。
  毛沢東の政権下では、何回も、自国民が1000万人単位
 で虐殺されるような政治だった。
  その後を継いだ鄧小平は、経済を開放した。
  しかし、1989年に、天安門で虐殺事件を引き起こした。
  鄧小平が改革開放を始めた頃は、鄧小平が望んだこと
 は・・、
  「貧しい中国では、豊かになれる者から豊かになり、
 近代化をして、そして、日本の経済規模を越えて行きた
 い・・、
  そしてまた、アメリカをも越えて行きたい」だった。
  また、この時に、世界へ、中国が思わせたことは、中
 国の制度の違いによる恐れとか、警戒感とかは抱かせず、
 中国の台頭は、『完全に平和的なもの』であり、
  また、既存の権力構造を変化させるものでなく、国際
 ルールに従って行くだった。
  GATT(関税、及び、貿易に関する一般協定)にも
 参加して、遵守姿勢を示した。
  国際法にも、遵守姿勢を示した。
  知的財産権や私的財産権、著作権などの「ルールに従
 います」だった。
  いつまで、この「借りてきた猫」状態が続くか?
  この初期段階の中国の様子に、世界は騙された。
  中国にとっては、この段階は、大成功だった。
  しかし、中国は、『国内の一党独裁体制』は維持しな
 がら、それ以外の国際的な事は「受け入れる」としただ
 けだった。
  中国は、経済的に発展することが出来た。
  その発展と共に、「中国軍の規模や編成が発展・拡大」
 した。
  普通、この様な場合、アメリカやロシアや日本は、注
 意を払い、警戒感を抱き、「戦略の論理」が働く訳なの
 だが・・、
  中国の国際的行動方針・平和的な方針に、警戒的な反
 応を示す事はまったくなかった。
  しかし、これは、中国の取った初期の段階だけに通用
 したことだった。
  中国の次の方針には、その様には行かない状態に至っ
 た。
  つまり、規模が大きくなり、経済的に豊かになり、軍
 備を拡張するようになると、他国はその凄い状況・状態
 に刺激された。
  それまで、アメリカの対中政策は、1972年以降、「毛
 沢東が率いる中国を、あらゆる面で助けて、国力をアッ
 プさせ、ソ連に対抗させる」というものであった。
  しかし、2000年代後半になると、アメリカは、中国が
 あまりにも豊かに成り過ぎる事・拡大する事を恐れ始め
 た。
  中国のGDPは爆発的に伸び、国防費は莫大になった。
  しかし、2000年頃までは、「平和的台頭」で、中国は、
 国際的な規範や制度、そして、法律などを良く守り、
  WTOやIMF(国際通貨基金)にも加盟したために、
  どこの国にも脅威を感じさせず、与えなかった。
  しかし・・今は・・違う・・、
.
2000年以降、中国は、この頃までは、平和的な方針をとっ
 ていた。
  この為、日本やアメリカをはじめとする国々から、支
 援や投資を受けることが出来た。
  中国経済は拡大した。
  中国の方針は成功していた。
  中国のリーダーたちも、世界の状況をよく知ろうとし、
 また、その結果から、理知的な方針を取っていた。
  中国のリーダーたちは・・中国の国内の激しい内部闘
 争を生き抜いて来た人物ばかりだった。
  一旦、権力の座から落ちれば、自分だけではなく、家
 族や親族までもが命を失うという中国を生き抜いた人物
 たちだった。
  この頃は、「世界に調和して発展する」という方針を
 とった中国が存在していた。
  しかし、この方針が崩れる・・それが、2000年1月に起
 きた「リーマン・ショック」という、戦後最大の国際金
 融危機の後からだった。
  世界の経済構造が変化し始めた。
  中国も影響を受け、変わって行った。
.
2017年9月15日、午前6時57分、北朝鮮は、平壌近郊の順安
 (すあん)から中距離弾道ミサイル「火星12型」を発
 射した。
  ミサイルは、3700キロを飛翔した。
  アメリカの軍事拠点であるグアムを攻撃可能範囲に収
 めた。
  金正恩(キム・ジョンウン)委員長は以下のことを述
 べた(朝鮮中央通信)、
  ▽今回の訓練で火星12型の「戦力化が実現した」。
  ▽今後は「各種の核弾頭を実戦配備」する。
  ▽「最終目標は、アメリカと実際の力の均衡を確立す
   る事」だ。
  ▽国家核戦力の完成という「終着点にほとんど到達し
   た」ので「全国家的な力を集中」して結束を見る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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