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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)

2017年02月08日

(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)

題:*(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年7月30日、第一回条約改正内閣会議
  この年・1889年1月の大隈重信の条約改正案が、外国人
 判事の任用や欧米流の法典編纂の約束を骨子とするとい
 う点では、井上案を基本的に踏襲したものであった。
  1889年4月19日に、『ロンドン・タイムズ』が、この条
 約改正案を公表し、論評を掲載した。
  1889年5月31日、日本の新聞各紙が、この「ロンドン・
 タイムズ」の記事を翻訳して、掲載した。
  その結果、反対運動が、ニュースが日本国内に伝わる
 や、世論から、激しい批判が湧き上がった。
  反対論の中には、日本の司法権が脅かされるとの批判
 があった。
  また、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝
 国憲法に違反するとの指摘もあった(外人法官任用問題)。
  これは、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同
 第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあた
 るというものだった。
  これについては、すでに、この年・1889年3月末に、陸
 奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに
 気づいていなかった。
  国内では、民権派・国権派の大半が結集し、非条約改
 正委員会が組織された。
  そして、条約改正反対運動(非条約運動)が展開され
 た。
  憲法制定と条約改正は、同時並行で進められていたも
 のの・・相互に没交渉であったことに原因があった。
  大隈は、外国人法官任用問題に対して、法制局長官の
 井上毅に帝国憲法との整合性を検討させた。
  井上毅は、公権力の行使に関わるところで外国人任用
 した場合、
  当該外国人は、自動的に日本に帰化して日本国臣民と
 なる旨の法案(帰化法)を起こした。
  しかし、これは、逆に、イギリスとの交渉の進展をこ
 じらせた。
  井上毅は、郷里・熊本の先輩であり、明治天皇陛下の
 侍講でもある元田永孚に相談した。
  このことから、政府部内で、黒田首相・大隈外相らの
 条約改正断行派と・・、
  後藤象二郎逓信大臣・松方正義大蔵大臣・西郷従道海
 軍大臣・大山巌陸軍大臣らの・・大隈案に批判的な閣僚、
 元田ら条約改正反対の宮中グループ、
  また、黒田の手法に反発しながらも、大隈の外相就任
 に深く関わり条約改正は潰せないと考える伊藤博文枢密
 院議長など、各論議が展開することとなった。
  これまで、伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導され
 てきた「内閣・枢密院包摂体制」は、機能不全に陥った。
  内閣の首班たる黒田は、大隈に条約改正をあたらせ、
 その条約改正推進の立場は揺るがなかったが・・、
  大隈もまた、現実的に、すでに、居留地や治外法権と
 いう、本来は、憲法に規定されていない事態が継続して
 いる以上、外交事情が憲法に優先するものと判断して、
  黒田からの強い支持がある以上、条約改正は、憲法が
 どのようなものであろうとも、最優先すべき課題であっ
 た。
  こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣
 の権限をもって、急ピッチで進められて行った。
  ところが、内閣と枢密院は、相互依存関係にあって、
 枢密院の会議は、専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構
 成員としていた。
  そこで、枢密顧問官の一部や宮中顧問官は、枢密院会
 議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求め
 た。
  枢密院会議が開催されれば、条約改正反対論が多数意
 見となることが確実と考えられていた。
  改正交渉の阻止の可能性があった。
  枢密院議長である伊藤の立場としては、召集の要求に
 応じることはできなかった。
  ここには、大隈の条約改正を承認し続けて、憲法違反
 の行為を認めてしまったという状況があった。
  枢密院で弾劾される恐れもあった。
  条約改正交渉が進められている段階での枢密院の介入
 は、憲法規定に抵触もした。
  伊藤の意図を離れた所で、話が行き詰っていた。
  条約改正問題によって生じた政治の機能不全を解きほ
 ぐそうとして調停にのりだされた明治天皇陛下、
  在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや
 天皇親政派の人びとが、条約改正反対を唱えた。
  その様な状況のなか、1889年8月2日、黒田首相は、閣
 議を開いて、帰化法制定を条件として、条約改正路線を
 採ることで内閣の意見をまとめた。
1889年7月31日、土地収用法が公布された。
  (1889年7月31日法律第19号)
  事業認定:
  1、起業者:工事計画書・図面を地方長官に提出し事
   業認定申請。
  2、地方長官:提出書類を審査、内務大臣に具申。
  3、内務大臣:閣議に提出。
  4、内閣:事業認定。認定後、官報で起業者・起業地・
   工事種類を公告。
   一、国防其他兵事ニ要スル土地
   二、政府、府県郡市町村及公共組合ノ直接ノ公用ニ
    供スル土地
   三、官立公立ノ学校病院其他学芸及慈善ノ用ニ供ス
    ル土地
   四、鉄道電信航路標識及測候所ノ建設用地
   五、河川溝渠ノ掘鑿道路橋梁埠頭水道及下水ノ築造
    用地
   六、防火及水害予防竝検疫所火葬場其他公衆ノ衛生
    ニ要スル土地 (後略)
1889年7月、我国初の有料道路日見峠一等県道の道銭徴収を
 終了した。
  長崎街道の日見峠は、「西の箱根」と呼ばれた街道き
 っての難所だった。
  長崎河川国道事務所のホームページには・・、
  江戸時代、長崎から小倉間を結んだ長崎街道。
  その中で街道一急峻な坂道として知られた峠。
  江戸参府に赴くオランダ使節、幕末の志士たち‥往く
 も還るも、旅人の心に「長崎」を焼きつける道でした。
  現在も往時の姿をとどめており、平成8年に建設省の歴
 史国道として選定されています・・と説明されている。
1889年7月、特別輸出港規則が制定された。
  門司港などの特別輸出港は、輸出振興の見地から、開
 港の不足を補うため設けられた。
  当時、輸出無税品であった、米、麦、麦粉、石炭、硫
 黄などは、日本屈指の物産で、海外への輸出は年々増加
 していた。
  輸出を増進するため、その運搬に特別の便宜を図る必
 要があった。
  1889年(明治22年)7月、法律第20号「特別輸出港規
 則」が制定され、
  不開港のうち、これらの物品の産出地に近い適当な港
 を選んで、これを特別輸出港とし、
  この5品目に限って、
  日本船、又は、日本人雇入れの外国船によって、直接、
 海外に輸出できるようにした。
  1888年(明治21年)に、九州鉄道会社が発足した。
  路線は、門司~遠賀川、遠賀川~博多、博多~久留米、
 高瀬~熊本の4区間と決まった。
  筑豊の石炭産業は、幕末期頃から発展して来た。
  乱掘、乱売を防ぐために、石炭同業者間で、1885年(
 明治18年)11月、「筑豊五郡坑業組合取締所」を組織し
 た。
  政府も、海軍予備炭田の封鎖と、経営拡大のため、選
 定鉱区を設定した。
  そのため、小規模の炭坑が整理されることとなった。
  中央の財閥の進出が進んでいった。
  地場では、安川敬一郎が、筑豊等にあった炭坑を合わ
 せて炭坑会社「明治鉱業」を設立した。
  門司港の貿易品目は、特別貿易港指定からしばらくは
 石炭輸出のみであった
  門司港は、1889年(明治22年)特別輸出港に指定後、
 急速に、石炭輸出シェアを拡大し、
  1896年(明治29年)には、石炭輸出日本一となった。
  (門司税関のホームページを参考にした)
1889年8月3日、大隈重信が、イギリスの最恵国条項による
 内地居住権要求を拒否した。
1889年8月8日、ロシアとの新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
1889年8月11日、甲武鉄道の、立川駅~八王子駅間が開通
 した。
1889年8月12日、藤岡市助が、白熱舎で白熱電灯を製作した。
  この日、後に、東芝へと発展する電灯会社「白熱舎」
 で、日本初の白熱電球が完成した。
  当時の世界の最先端技術であったこの白熱電球の国産
 化は、一国の産業発展の根幹をなす自給自足の精神を具
 現化して、
  独立した近代国家への道へと通じる大きな一歩となっ
 た。
  因みに、日本で初めて電灯が輝いたのは、1878年(明治
 11年)3月25日(電気記念日)で、
  東京虎ノ門の工部大学校(現:東京大学工学部)で開催
 された電信中央局開業祝賀晩餐会であった。
  藤岡市助、中野初子らが、グローブ電池で、フランス
 製デュボスク式アーク灯を点灯して人々を驚かせた。
  一方、白熱電球の日本初点灯は、1884年(明治17年)の
 上野~高崎間鉄道開通式で、
  この頃から白熱電球の暮らしや社会における利便性・
 事業性の認識が高まっていった。
  1887年(明治20年)、東京電燈(現:東京電力)が設立され、
 産業に使用できる電力体系が整備されるが、
  白熱電球は、アメリカ・ドイツ製などの高価な外国製
 品に依存するしかなかった。
  藤岡市助は、1884年(明治17年)、アメリカ・フィラデ
 ルフィア万国電気博覧会に、国の使節として派遣された
 際、エジソンと面会した。
  電気器具の国産化を指導され、白熱電球の国産化を決
 心したものの、いくつかの技術的な課題があった。
  それは、ガラス管球を作ること、管球の中から空気を
 排出すること、フィラメントを作ることなど・・さまざ
 まで、
  1889年(明治22年)、京橋の東京電燈の社宅で、試作・
 研究を開始した。
  翌年・1890年4月に、電球製造の独立経営を目指し、同
 郷の三吉正一と共に、電球製造会社「白熱舎」を京橋槍
 屋町に設立した。
  最初は、木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソン
 が日本の竹を使用したと聞き、竹フィラメントの炭素電
 球12個を日本で初めて製造した
  (東芝未来科学館ホームページより)
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカには・・この様なスパイ話が・・嫌になるほどある・・
   そして・・今・現代も・・中国やソ連に繰られている・・
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が調印された。
  そして・・その1週間後・・
.
1939年9月1日、ドイツが、ポーランドへ侵攻した。
  第二次世界大戦が始まった。
.
1939年9月2日、アメリカに、スパイ網があると暴露された。
  ヨーロッパに大戦がはじまった翌日だった・・、
  ウィタカー・チェンバースという男は・・、
  アメリカのジャーナリストであるが、コロンビア大学
 を卒業し、1925年に、アメリカ共産党に入党した。
  アメリカ共産党機関誌の編集長を歴任し、
  1934年に、党指導部より『地下活動を命じられた』。
  そして、種々の活動を経て・・その後に・・、
  1939年9月2日、国務次官エイドルフ・バーリーに、
  『アメリカに存在するスパイ網』について告白した。
  このチェンバースの離反で、『ソ連スパイ網』は、一
 時、活動を停止した・・が・・しかし・・、
  その告発に・・FBIは動かなかった。
  1944年、アメリカに亡命したロシア人スパイが変死し
 た。
  このことに脅威を抱いたチェンバースは、再び、FB
 Iにスパイ網を告発した。
  チェンバースの告発は、具体的だった。
  しかも、「パンプキン・ペーパー(カボチャ資料)と
 呼ばれる証拠物件を隠し持っていた。
  このことから、政府の大物が隠れおおせなくなった。
  疑惑を否定していた国務省高官アルジャー・ヒスは、
 偽証罪で有罪となった。
.
1941年7月、アメリカが、日本へ経済制裁をした。
  これは・・、
  ルーズベルトに、「日本との戦争に入りたいという欲
 望があったからだ」・・と・・フーバー元大統領は言っ
 た。
  また、この見方に、マッカーサーも同意した。
  そして、さらに・・、
  「この時、1941年7月のアメリカによる、日本への経済
 制裁は、単に、挑発で行なっただけではなく、
  日本に、戦争をやらざるを得ないというレベルの最悪
 のものだった」・・とフーバーは言った・・そして、な
 お、さらに・・、
  「日本は、例え、自殺行為であると分かっていても、
 日本に戦争を余儀なくさせるものだった。
  何故なら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あら
 ゆる戦争の悲惨さを日本に強制するものであり、
  誇りのある国ならとても忍耐できるものではないから
 だ」・・と、フーバーは言った。
  この発言にも、マッカーサーは同意した。
  これは、戦後、1946年5月、フーバーが来日し、GHQ
 の連合国軍最高司令官だったマッカーサーに会った時に
 交わされた言葉だった。
.
1941年半ばのこの頃、日本が進めて来ていた調査報告が
 なされた・・、その経緯(いきさつ)・・、
  ☆《戦争開戦前に・・現状を詳細に分析した報告書が
 日本に存在した・・しかし、その現状認識を封印し・・
 戦争は・・始められた・・》
.
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  1939年9月、関東軍参謀部で、満州国の建設主任から急
 きょ帰国した陸軍中佐の秋丸次朗は、
  「戦争経済研究班」を取り仕切って、その報告書を作
 成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され知られた。
  秋丸は、英米との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に一橋大学学長にな
 る中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖されている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  英米との力の差は・・、
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の『1941年半ば』・・、
  12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸軍首脳
 らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を「1」とすると、英米は合わせて「20」。
  日本は、2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降
 は・・経済力は下降線をたどり・・、
  逆に、英米は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが、秋丸機関の・・結論だった。
  列席したのは、杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し・・そして続けた・・
  「その結論は国策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関は、ほどなく解散し、現状認識を封印した戦
 争が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が秋丸の死後、遺品の中から発見された。
  詳細を極めた報告書であった。
(参考:日本経済新聞、2011・1・3)
.
1941年10月18日、東条内閣が成立した。
  東郷茂徳(とうごうしげのり)が、東条内閣の外相に
 なり、日米交渉において、第二次世界大戦の開戦の回避
 に死力を尽くした・・が・・、結局、開戦の責任者とな
 った。
  1945年に、再び、鈴木内閣の外相となり、終戦工作に
 挺身した。
  東京裁判に於いて、A級戦犯に問われたが、信念をも
 って戦争前後の行動の『正当性を主張した』。
  禁錮20年の判決を受け、服役した・・その服役中に・・
 逝去した。
  開戦時と終戦時に外相となった運命の方だった。
.
1941年11月26日、ハル・ノートの手交
  この日、「ハル・ノート」が手交された。
  この「ハル・ノート」は・・、
  ハリー・デクスター・ホワイトというアメリカの経済
 学者が・・、
  日本に対する最後通牒の役割を果たした「ハル・ノー
 ト」の原案となった対日交渉案を作成した。
  この男は・・この「ハル・ノート」など・・、
 アメリカの政策に大きな影響を及ぼした・・しかし・・?
  戦後になって・・1948年8月16日、アメリカ下院非米活
 動委員会公聴会で・・追及された「ソ連スパイ疑惑」を
 否定した直後・・急死した。
.
1941年12月8日(現地時間7日)ハワイ・真珠湾攻撃
.
1941年12月8日、アメリカ・イギリスが、対日宣戦布告
.
  この日、日米の戦端が開かれたが・・
  フーバー・第31代アメリカ大統領は、次のことを言っ
 ている・・、
  「日米戦争は、ルーズベルト・アメリカ大統領が仕掛
 けたもので、日本が原因ではない」・・と・・、
  また・・、
  日本への強い経済制裁を唱えた対日強硬論者のスタン
 レー・ホーンベックは・・、
  この日本の真珠湾攻撃直前にあっても・・、
  「日本には、アメリカを攻撃する能力はない」・・と
 いう主張を繰り返した。
  また、彼は、極東問題の専門家として・・、
  ルーズベルト大統領に助言したほか、
  コーデル・ハル国務長官に対しても、大きな影響力を
 与えた。・・そして・・悲惨な戦争が続き・・
.
1945年4月1日、アメリカが、沖縄に上陸した・・そして・・
 その約10日後に・・
.
1945年4月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領が死ん
 だ。
  この死と共に、アール・ブラウダー(アメリカ共産党
 書記長)は、アメリカ共産党指導部から外された。
  そして、翌年・1946年、党を追放された。
  この男は、ソ連コミンテルンやKGBに情報を流す『
 アメリカ政府内のスパイ網の充実』に強い指導力を発揮
 していた。
.
1945年11月7日、エリザベス・ベントレーが、FBIに出頭
 した。
  そして、アメリカのスパイ網について白状する。
  彼は、1930年に、コロンビア大学を卒業すると、
  1935年に、アメリカ共産党に入党した。
  そして、1938年に、ソ連スパイ網の非公然のワシント
 ン駐在員のヤコブ・ゴロスに紹介された・・そして、
  特殊な関係となった。
  1943年、FBIの捜査が迫っているとの強迫観念に襲
 われ、FBIに出頭した。
  スパイ網での具体的な活動歴と、リストを提出した。
  1948年に、下院非米活動委員会公聴会でハリー・デク
 スター・ホワイトや、ソロモン・アドラーらをスパイだ
 ったと証言した。
.
1945年12月、アメリカのFBI(連邦捜査局)が、大統領
 (ハリー・S・トルーマン)へ「政府内に二つのスパイ
 網がある」と警告した。
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれた
 (~1948年11月12日)
  しかし、日本の敗戦が確定的になった頃、すでに連合
 国は、卑劣にも、すでに、『日本の誰を死刑にするか』
 を打ち合わせていた・・決めていた。
  各国が、好き勝手なことを言っていた。
  そして、裁判をする前から「死刑が確定している」被
 告たちを、
  2年半以上も、
  死を恐れさせる立場に曝(さら)すという非人道的
 状況に置き・・そして、その中で裁判が行われた。
  しかし、この肝心な東京裁判では・・、
  日本を罪に落とす事に苦労した・・
  後追いで・・無い法律を・・わざわざ作った・・、
  日本は「侵略戦争をした」と追及された・・が・・、
  アメリカなどの連合国は、『侵略戦争と立証する事は
 出来なかった』。
  ドイツの場合は、戦争の始まる前から侵略の意図を持
 って、
  開戦の3年も前の1936年に、ヒトラーを中心にナチス指
 導者による明確な『共同謀議の記録』もあった。
  そして、そこには、最初にチェコスロバキアを侵略し、
 次がポーランド、そして、フランス、最後にソ連を植民
 地にするという『侵略計画があった』。
  しかし、日本には、勿論、その様なものもなく・・、
  また、共同謀議もなく・・同然、その記録もなかった。
  アメリカなどの連合国側は・・、
  ドイツの様な「一貫した侵略の意図」があり、また、
 「侵略の計画がある」と、無理にしたが、それらを・・
 『立証する事は出来なかった』。
  そんなもの・・侵略の意図は無いのであるから・・当
 然であった。
  しかし・・卑劣にも・・アメリカは・・プロパガンダ
 (嘘宣伝)した。
  日本は、させられた戦争に、事前の計画があるわけは
 なかった。
  連合国側は、初めから、罪に落としたかった・・、
  裁くべき法が無ければ、作るという卑劣な事までして、
 日本を罪に落としたかった・・
  そして、戦後・・、
  マッカーサーは、戦後の占領政策の中で、必死に日本
 人へ、「あの日本の戦争は、侵略戦争だった」というこ
 とを洗脳した・・、
  日本人に対してマインド・コントロール(嘘宣伝)し
 て、洗脳した。
  東京裁判において、「侵略戦争だ」と追及された日本
 の被告たちも・・、
  「そのような上等なものは、まったくありません」と、
 きっぱり否定をしていた。
  また、日本の凄い所・偉い所は、日本には、法律を犯
 した殺戮は一つもなかった。
  アメリカには、国際法違反の「一般市民殺戮」を、あ
 ちこちでやっているが・・、
  開戦についても、日本は、アメリカのルーズベルトの
 策にはまって行った。
  侵略の意図はなく、そして、「戦争は、常に、収めた
 い」という中に日本はあった。
  日本は、最初から、アメリカとの戦争は勝つことは出
 来ないという分析結果を持っていた。
  故に、だから・・、
  日本から好き好んで戦争を仕掛けることがある訳はな
 かった。
  その様にぜざるを得ない悲惨な窮地に、アメリカのル
 ーズベルトは、日本を追い込んで行った。
  日本は、「させられた戦争」をせざるを得なかった。
  そこに計画性があるわけはなかった・・、
  アメリカのルーズベルトには、あまり知られていない
 が・・、
  1941年(昭和16年)夏に、日本に戦争を起こさせよう
 と、徴発(ちょうはつ)した事件があった。
  未遂事件があった。
  逆に、アメリカのこの様な「戦争したい」が、東京裁
 判で、裁かれるべきだった。
  アメリカ巡洋艦を・・日本の領海内に侵入させた。
  (これだけで、アメリカの戦争を起こさせようとする
 戦争挑発行為だった)、
  そして・・さらに・・、
  日本の軍艦とわざと衝突させようとしていた。
  その様なことまでする「戦争したいのルーズベルト」
 だった。
  そして、インドのパール判事が、「こんな最後通牒の
 様な文書を出されたら、モナコでさえ武器を持って立つ」
 という糾弾を・・アメリカに対して発言した。
  そして、パール判事が、「日本政府が戦争したのは当
 然」と言うほどの「強圧的なアメリカだった」。
  事態は、ルーズベルトの思惑通りに運ばされていた。
  交通事故ではないが、一方が、完全に100パーセント悪
 いということはないのである。
  しかし、アメリカは、うまく立ち回った。
  アメリカは、完全に日本に一方的に責任をとらせ、自
 分は、卑劣にも・・責任から逃げた。
.
1949年、ロークリン・カリーが、ソ連スパイと確認された。
  カリーは、アメリカの経済学者で官僚だが、
  1925年、経済学研究を通じてハリー・デクスター・ホ
 ワイトと知り合う・・そして、親しい関係を保った。
  1934年にモーゲンソー財務長官に招かれて、財務省の
 高級官僚となった・・内心・・ほくそ笑んでいただろう。
  1941年、ルーズベルト政権の中枢に入り、中国支援の
 責任者となった(援蒋ルート)
  1941年~1943年、大統領特使として2回、中国訪問し、
 中国国民政府の蒋介石主席らと懇談した。
  戦後、KGB電文解読資料で、『ソ連スパイの一人』
 として確認された。
  1949年、アメリカ議会下院非米活動委員会の公聴会証
 人席に立ち、疑惑を否定したが、逆に、疑惑が深まった。
  その様な状況の中、南米・コロンビアへ向かい、
  1954年、アメリカ市民権を失った。
  ルーズベルト政権は、共産圏のソ連や中国に繰られて
 いた・・(今・現代でも)・・、
  また、ルーズベルトは、ソ連・スターリンへ甘い話を
 提供した。
  その中で、日本の固有の領土・北方四島、千島列島を
 奪われた。
.
1950年2月、アメリカのジョセフ・マッカーシーが、「国務
 省に205人の共産主義スパイがいる」と告発した・・
  当然、アメリカ国内のみならず・・世界中から注目を
 浴びた。
  朝鮮戦争直後のアメリカでは、共産主義勢力の横暴に
 怒る声が満ち満ちた。
.
1950年、アルジャー・ヒスという、ルーズベルト政権にも
 加わっていた男が、偽証罪で有罪とされた。
  この男は、ハーバード大学法律大学院を出た優秀な政
 治家で、
  ルーズベルト政権では、農業問題専門家としていた。
  ヤルタ会談に出るなど重責を担っていた。
  しかし、1948年、元ソ連スパイのウィタカー・チェン
 バーズの告発で・・スパイ疑惑が深まった(スパイだと
 暴露された)。
  アメリカ下院非米活動委員会の公聴会などで証言を求
 められた。
  しかし、1950年、立証され、偽証罪で有罪となった。
 4年間、服役した。
  後に、無罪を主張したが・・、KGB電文解読資料に
 よると、ヒスは、明らかにソ連赤軍第四部(情報部のス
 パイ網に属し・・、
  ヤルタ会議出席後、モスクワで、ソ連外交官・ビシン
 スキーからソ連への貢献を理由に勲章を授与されていた。
.
1952年、フランク・コーというアメリカの高級官僚もソ連
 のスパイだった。
  フランク・コーは、シカゴ大学を卒業して財務省に入
 省した。
  そして、1946年、国際通貨基金(IMF)の事務局長
 となった。
  そして、上司で財務次官だったハリー・デクスター・
 ホワイトとともにスパイ疑惑で追及された。
  1952年、財務省を辞職し、スパイ疑惑を否定した後に、
  1958年に、中国へ移住し、社会科学院の客員研究員と
 なった。
  1995年に、ソ連KGB電文を解読した史料が公開され、
 第二次大戦中に、ソ連側へ情報を流していたことが確認
 された。
  アメリカには・・こんな話が・・嫌になるほど・・う
 じゃうじゃある・・今・現代も・・中国やソ連に繰られ
 ている・・
  (トランプ大統領は、中国ロビイストなどを排除する
 としている)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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