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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

2016年12月12日

(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)

題:(増補版)469E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年10月7日、新皇居(明治宮殿)が完成した。
  1868年(明治元年)から1869年(明治2年)に行われた
 東京奠都によって、旧江戸城西の丸御殿が皇居となった
 が、1873年に失火により西の丸御殿は焼失した。
  直ちに、新宮殿造営が政府により上奏されたものの、
 西南戦争の戦費等の財政負担も大きく、国内整備が先決
 との明治天皇陛下の御意向により、新宮殿造営は見送ら
 れた。
  このため、旧紀州藩江戸藩邸であった青山御所が仮皇
 居となった。
  しかし、青山御所では、儀式典礼に支障をきたすよう
 になったため、ようやく宮殿造営が勅許された。
  新しい宮殿(明治宮殿)は、旧江戸城西の丸に建設さ
 れることとなり、1888年(明治21年)10月7日に落成した。
  この明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(
 現皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大
 戦末期まで、皇室の中心的施設であった。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  北洋艦隊(ほくようかんたい)は、清国の海軍の主力
 艦隊で、李鴻章によって新式海軍が編制された。
  威海衛に基地を置き、
  『定遠』『鎮遠』など甲鉄砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装
 甲砲艦1隻を中心とした。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問し、海軍
 の戦備が劣っていた日本は衝撃を受けた。
  日清戦争において、大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(
 黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊
 滅した。
1888年10月9日、登記印紙規則が公布された。
  登記印紙は、この時・1888年に、発行されたのが最初
 であったが、
  1898年に、収入印紙に統合され、廃止された。
  しかし、登記に関する手数料の歳入が、登記特別会計
 として、1985年に独立したことに伴い、復活した。
  ただし、登記特別会計が、2010年度をもって廃止され、
 一般会計に組み込まれたため、
  2011年4月1日以降は、再び、収入印紙に統合され、新
 規の発行は中止された。
  既に発行された登記印紙は当面有効で、収入印紙と組
 み合わせての使用も可能である。
  登記法:戸長役場の公証は無料であったが、管理が不
 十分な場合があったため、明治政府は、全国的機関であ
 る裁判所が、不動産の公示を担当するのが適切であると
 して、
  1886年(明治19年)に「登記法」(明治19年8月13日法
 律1号)を制定した。
  「登記法」は、ドイツの登記制度を参考にして、物的
 編成主義を採用した。
  即ち、地券台帳に基づき、あらかじめ各筆ごとに用紙
 を準備し、所有権の移転や、担保権の設定がある都度、
 登記簿に記載することとした。
  また、登記をすることによって、直接利益を受ける者
 (登記権利者)と、登記をすることによって不利益を受
 ける者(登記義務者)とが共同してすることを要するも
 のとする共同申請主義を規定した。
  印紙税は、商取引等の背後に担税力(たんぜいりょく、
 課税対象となる個人や法人などが、実際に税負担を受け
 持つことができる能力の事を言う)があると想定し、
  これに関連して作成される文書に印紙を貼らせて課税
 するものであり、流通税(取引税)の一種。
  1873年(明治6年)「受取諸証文印紙貼用心得方規則」
 (明治6年太政官布告56号)により導入された。
  当初の内容は、証書類を金銭その他諸受取の第1類と、
 田地屋敷建屋売渡証文、借用金証文等の第2類に分け、
  後者は、10円以上に対しその金額に応じた段階的な税
 率(概ね1%)を賦課した。
  その後、数次にわたる改正を経て、
  1899年(明治32年)に「印紙税法」(明治32年法律54
 号)が制定され、現行の「印紙税法」(昭和42年5月31日
 法律23号)により全部改正されるまで施行された。
  登録免許税は、登記のための手数料的性格のものでは
 なく、不動産の権利の移転等の背後に担税力があると推
 定して課税する流通税(取引税)の一種。
  1871(明治2)年の地券交付以来、1889(明治22)年に
 廃止されるまで、地券の新規交付、売買による交付、書
 換ごとに地券証印税を課していた。
  1886年、「登記法」(明治19年法律1号)が制定され、
 登記に際して登記税が課せられるようになった。
  その後、日清戦争後の国費膨張に対処するため、同法
 は1896年(明治29年)に「登録税法」(明治29年法律27
 号)に改められ、
  「民法」が、1898年(明治31年)に施行されたのを受
 けて、翌年・1899年に「不動産登記法」(明治32年2月24
 日法律24号)が制定された。
  (明海大学・周藤利一教授の論文などを参考にした)
1888年10月9日、紫溟新報を改題し、九州日日新聞が創刊
 された。
  1882年に、紫溟新報が創刊され、
  1888年に、紫溟新報が、九州日日新聞と改題し、
  1942年(昭和17年)4月1日、第二次世界大戦による政
 府と軍部の「一県一紙令」により、熊本の2大紙「九州
 日日新聞」と「九州新聞」(政友会系)の2紙が合併して
 「熊本日日新聞」が朝夕刊セットで創刊された。
  1954年(昭和29年)8月1日、「猫てんかんで死滅、ネ
 ズミの激増で悲鳴」の見出しで水俣病を初めて報道した。
1888年10月10日、国会議事堂(仮議事堂)の起工式。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下の勅諭に
 よる国会開設の決定以来、議事堂の建築が建議されて来
 た。
  1885年(明治18年)に、内閣制度が発足すると議事堂
 建設の取り組みが始まった。
  1886年に、議事堂本建築の計画は、内閣に臨時建築局
 が設置され、ドイツ帝国から建築家を招聘し、
  官庁集中計画と議事堂の設計が成された(議事堂、お
 よび、中央官衙(かんが)建築に関する準備調査に着手)
  当初、ドイツのエンデ・ベックマン事務所により、本格
 的なネオ・バロック様式で計画されたが、
  1887年に、建築予定敷地を、現在位置(当時の麹町(こ
 うじまち)区永田町1丁目)とすることが閣議により決定
 されたが、
  官庁集中計画には多額の経費が必要であり、帝国議会
 の開設も切迫していたため、この計画による議事堂建築
 は中止された。
  具体的計画の立案は、この財政事情などの理由から大
 幅遅延となった。
  井上馨の失脚(1887年9月)も影響し、実現に至らなか
 った。
  しかし、1890年を期して「國會」(議会)を開く事が
 表明されていて、この第1帝国議会に間に合わせるため、
  1888年10月に、起工された。
  こうして、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が関
 一丁目、現在の経済産業省敷地)に仮議事堂が建設され
 た。
  ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー、および、
 臨時建築局技師・吉井茂則の設計による第一次仮議事堂
 は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24
 日に竣工した。
  1891年(明治24年)年1月20日、竣工の翌年の会期中の
 未明に、漏電により出火し、仮議事堂は全焼した。
  このため、貴族院仮議場として山下町の帝国ホテル食
 堂(当初は華族会館内・旧鹿鳴館)を、
  衆議院仮議場として、虎ノ門(とらのもん)の東京女学
 館(旧工部大学校)を使用し、急場をしのいだ。
  その後、吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェ
 の設計による第二次仮議事堂が、昼夜兼行の作業で再建
 され、
  同年・1891年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は
 11月21日召集)。
  しかしまた、1925年(大正14年)に、二度目の火災に
 遭う、そして、木造の仮議事堂を再建した。
  1894年8月、日清(にっしん)戦争が勃発に際し、広島
 市内に臨時の仮議事堂が突貫工事で建築され、
  同年・1894年10月14日に竣工し、
  翌年・1895年10月15日に召集された第7回(臨時)帝国
 議会が開かれた(東京以外の開会の唯一の事例)
  1897年、本建築化が浮上したが、財政事情などで頓挫
 した。
  1899年、議院建築調査会の設置をはじめ、敷地の調査、
 地盤調査、材料調査等も実施された。
  官民各界における、建築様式、設計方法などの議論も
 活発に行われながらも、
  数次にわたる計画の休止、延伸を繰り返した。
  1906年~1907年、日露戦争後には、仮議事堂の改修、
 および、本格的な議事堂の建設が浮上し、決まったが、
 財政事情と大正政変により、実施は延期された。
  1917年(大正6年)現議事堂への動きが始まった。
  当時の大蔵省に設置された議院建築調査会の発足と、
 それによる18年度からの予算計上により、ようやく設計
 着手の運びとなった。
  設計者については、朝野の多くの議論ののち、「建築
 意匠設計はこれを国内一般の懸賞競技に付する」ことが
 決定された。
  また、第一次、第二次仮議事堂の設計や、当初の本建
 築計画の際は、当時の日本の技術水準、不平等条約改正
 の政略面などから、外国人建築家の協力を受けていたが、
  技術力の充実、国威と国産の充実を図ることなどによ
 り、応募者は日本人のみとし、また、
  材料も、やむをえぬもの以外は国産品に限ることとし
 た。
  このような経過を経て・・、
  1918年(大正7年)9月になって、新議事堂の意匠が一
 般公募されることになった。
  翌年・1919年(大正8年)2月、設計競技による応募作
 品118通中、一次選考・二次選考の二段階方式の競技設計
 を通過した4図案が決定した。
  そして、その中から、宮内省技手の渡辺福三案(実際
 には、宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた。
  当選案の様式が、新旧各層の反発を呼び、
  とくに、下田菊太郎は議会に働きかけて〈帝冠併合式〉
 (欧風の壁体に和風屋根を載せる)の採用を請願し賛意を
 得た。
  結局、その設計案は参考とするにとどめ、
  大蔵省営繕(えいぜん)管財局(当初、臨時議院建築局。
 技師長・矢橋賢吉)の手により実施設計がまとめられ、
 デザインは大幅に変更された。
  1920年1月30日、着工、
  原敬内閣総理大臣などが参列して、現在地である永田
 町の高台において、地鎮祭を挙行、
  新議事堂の建設が始まった。
  1923年(大正12年)に、関東大震災に見舞われたが、
 建設中の新議事堂、および、第二次仮議事堂は無事だっ
 た。
  しかし、1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は、
 改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こし、焼
 失した。
  このため、政府は、第三次仮議事堂設置を決め、新議
 事堂の建設は、さらに遅延することになった。
  同年・1925年12月の開会の通常帝国議会に間に合うよ
 うに、仮議事堂が、9月29日に建設着手し、
  昼夜兼行の突貫工事で、わずか3か月で建設され、
  同年・1925年12月22日に完成した。
  1936年(昭和11年)、新議事堂の完成が近づいた2月26
 日には、二・二六事件が発生、
  陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。
  2月29日早朝に、武力による鎮圧が決定されると、東京
 湾御台場沖に、海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射
 撃の照準を合わせ、反乱軍を威嚇した。
  こうした苦難を経て、新議事堂が、広田弘毅内閣総理
 大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など
 約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、
  着工から実に17年を経た、1936年のことだった。
  1936年(昭和11年)11月7日、帝国議会議事堂として竣
 工し、完成した。
  敷地面積:10万3000平方メートル、建物平面積:1万3358
 平方メートル。
  第二次世界大戦を経て、1955年代・昭和30年代に入り、
 周辺の国有地が衆議院、および、参議院への移管される
 とともに、パレスハイツ(現最高裁判所庁舎)・ジェフ
 ァーソンハイツ(現衆参議長公邸)・リンカーンセンタ
 ー(現国土交通省庁舎)等の米軍接収地も返還が決まっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:冷戦に勝利したアメリカは、その後、本当に勝利したアメリカの道を歩んでいるのか?
.
1991年12月、ソ連が崩壊した。
  この時、ソビエト連邦共産党の解散を受けた各連邦構
 成共和国の主権国家としての独立と、
  ならびに、同年・1991年12月25日のソビエト連邦(ソ
 連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビ
 エト連邦が解体した。
  冷戦が終結した。
  冷戦に勝利したアメリカ。
  アメリカと競り合ったソ連は敗北した。
  しかし、アメリカは、冷戦に勝利しても軍事費を削減
 しなかった。
  他の国々が軍事費を削減している中でも、アメリカだ
 けは軍事費を削減しなかった。
  逆に、新しい兵器の開発をどんどん続けていた。
  ミサイルも、戦闘機も、駆逐艦も、宇宙兵器も、新し
 い世代の兵器を開発していた。
  アメリカの思惑は、『他の国に絶対にアメリカにチャ
 レンジできない国際環境を作ろう』・・という思惑だっ
 た。
  アメリカは、「アメリカだけが、アメリカという一極
 だけが、覇権を握る」だった、
  そして、「アメリカだけが、一極で・・覇権を握って
 いたい」だった。
  しかし、歴史はそう甘いもんじゃなかった・・「そう
 は問屋が卸(おろ)さなかった」。
  他のグループは、その様なアメリカへ・・金をかけて
 開発している兵器が使いずらい方法によって、「アメリ
 カへのチェレンジ」をして来た。
  アメリカの開発した最新兵器も無力化した。
  アメリカへのチャレンジは、「ゲリラ」や「テロ」で
 チャレンジされた。
  そして、また、その様なアメリカの国力は・・、アメ
 リカは、逆に、愚かなことに・・「そのアメリカの高額
 な・・そして、金を食う最新兵器開発費用」によって、
 アメリカ経済は疲弊した。
  この様な歴史は、「繰り返されていた」のである。
  アメリカの「軍事的な支配権を拡(ひろ)げたい」が、
 逆に、「国力消耗」を来たしていた。
  ハプスブルク王朝が、そうだった・・また、オスマン・
 トルコ帝国が、そうだった・・ナポレオンが、そうだっ
 た・・そして、19世紀のイギリスが、そうだった・・
  そして、20世紀後半のソ連が、前記の様にそうだった・・、
  そして、21世紀の今・現在、進行中の中国共産党政権・・
  1980年代後半から、アメリカは、世界一の借金国とな
 った。
  アメリカの紙幣・ドルが、世界の基軸通貨を良い事に、
  アメリカは、ドル紙幣の「紙っぴら」を刷り続けてい
 る。輪転機を廻し続けている。
  こんな事が、いつまでも・・続く訳がない。
  アメリカの真似ばかりをしている中国共産党政権もま
 た、このアメリカと同じことをし続けている。
  アメリカのレーガン大統領の時は、平均貯蓄率は12パ
 ーセントだった、
  しかし、ブッシュ(息子)大統領の時は、マイナス2パ
 ーセントと、マイナス域に入ってしまった。
  金がないのである。
  日本は、貢(みつ)がされているのである。
  日本企業が、ペテンの様な言い掛かりで、金をむしり
 取られているのである。
  アメリカの実質経済規模は世界経済の2割なのに、アメ
 リカの軍事費は、世界全体の軍事支出の5割~6割なので
 ある。
  異常なのである。
  アメリカの次期大統領のトランプ氏は、日本へもっと
 金を出せと言い、「軍事費を負担せよ」と言っている。
  日本が最高に協力しているのにである。
  日本の防衛予算(軍事費)は、今の倍にしないとだめ
 だと言われている。
  国の安全保障は大切だから、しっかり予算化して行か
 なければならない危険な状況にある今なのである。
  甘いことは言っていられない今なのである。
  理想論はその後にしなければならない今なのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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