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北国の暖かい方たちとともに › 真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感) › (増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)

2016年12月11日

(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)

題:(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年9月12日、地方制度編纂委員会が、府県制、郡制の法
 案を提出した(9月17日説あり)
  1884年(明治17年)、区町村会法の改正などにより数町
 村を単位とする連合戸長役場制が導入された。
  村々の連合による行政単位の広域化が図られた。
  しかし、連合村は、過剰な行政負担に相当する財政基
 盤を有しなかった。
  このため、明治政府内部において、新たな地方制度が
 模索された。
  1888年(明治21年)、この市制・町村制の公布に至るこ
 ととなった。
  この法案は、内務卿・山田顕義の命を受けた内務省大
 書記官・村田保が、
  1884年(明治17年)5月、町村法草案を作成したことに
 始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月、内務省内に町村法
 調査委員会が設置された。
  1885年(明治18年)6月、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、1886年(明治19年)7月に提出され、
  御雇外国人・アルベルト・モッセの意見書を契機とし
 て、町村合併による改革が図られることになった。
  1887年(明治20年)2月、地方制度編纂委員会(内閣に設
 置)が、地方制度編纂綱領を策定し、
  翌・1888年3月、地方長官会議の席上において、政府は、
 府県知事に対して「町村合併標準」を提示した。
  この「町村合併標準」では、原則300戸をもって一町村
 とすることや、なるべく、連合戸長役場管轄区域内の町
 村を合併して一町村とすることなどが示された。
  同年・1888年9月17日、市制・町村制法案が、地方制度
 編纂委員会より内閣に提出され、
  最終的には、1888年(明治21年)4月25日、市制・町村
 制が公布された翌年・1889年4月1日、施行されることが
決定した。
 公布された後の同年・1889年6月に、内務大臣訓令第352
 号により、
  300~500戸を標準として合併すること、
  合併に際しては、連合戸長役場の管轄区域をそのまま
 合併して差し支えのないものはそのまま合併することが、
 府県知事に指示されている。
 市制・町村制により、市町村は、地方自治体としての地
 位を確立したが、内務省や府県知事などの監督権が強く、
 自治権は限定されたものだった。
1888年9月12日、駐清公使・塩田三郎が、日清条約改正難航
 のため、一時中止と将来の交渉再開を清国に通告した。
  1886年3月31日に、井上馨外相が 、日清修好条規改正
 を清国政府へ提議するよう、公使・塩田三郎に指示して
 いた。
  日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は・・、
 1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と清
 の間で初めて結ばれた対等条約で・・
  内容には・・、
  ・両国は、互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1
   条)
  ・外交使節の交換、および、双方に領事を駐在させる
   (第4条、第8条)
   ・・など、といった内容であった。
  1886年8月、北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」な
 ど)の長崎来航時の長崎事件、清との交戦の可能性のあ
 った清国海軍兵士による乱暴。
  海軍力で優位にある大国の清が侵攻するかもしれない
 という想定も考えられた。
  清の「定遠」や「鎮遠」は、当時の世界最大級の砲を
 4門そなえ、装甲も厚い東洋一の堅艦で、日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった。
  それに威圧されたのだった・・海軍力増強へ向かう。
  日本の海軍力は、軍艦総トン数、1876年:14300トン
 1893年:50861トンに増加している。
  軍事費(一般会計の歳出決算額に占める軍事費)1876
 年・17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)、1893年:27.0%
 (陸軍17.4%、海軍9.6%)
1888年9月13日、伊藤博文が、西郷従道ら釜山、元山、ウラ
 ジオストクの視察のため出発した。
1888年9月15日、尋常師範学校教員に執務中に制服着用を命
 じた。
  1886年(明治19年)8月、文部大臣・森有禮の西欧的な
 教育政策から、
  東京女子師範学校の生徒が、洋服を制服として着用し
 たことから、
  各師範学校に、この影響が及んで行った。
  同年・1886年、秋田師範学校女子部が、制服を洋服化
 し、
  1888年(明治21年)には、福島の師範学校でも、洋服
 の制服を制定した。
  師範学校の女子教師についてみると・・、
  1888年(明治21年)10月1日の「官報」第1578 号に、
 「埼玉県尋常師範学校、〈中略〉女教員ハ洋服又ハ裳袴
 ヲ着シ」とあり、
  教師には洋服以外に裳袴を認めた例であり、学生より
 は服装規定がゆるやかだった。
1888年9月17日、枢密院が、議員法の審議を開始した。
1888年9月25日、宮内省に臨時全国宝物取調局を設置した。
  宮内省のこの局によって、全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年に、宮内省の所管と
 した。
  日本における博物館の創設は、1867年(慶応3年)に
 フランスのパリで開催された万国博覧会を契機として、
  1871年( 明治4年)に、文部省内に博物局が設けられ、
 湯島聖堂を博物館としたことで、その第一歩が踏み出さ
 れた。
  奈良においては、1874年(明治7年)に、官民合同によ
 る奈良博覧会社が設立され、
  東大寺大仏殿廻廊を会場として、正倉院宝物をはじめ
 貴重な寺宝類が陳列された。
  この博覧会は、1890年(明治23年)まで続けられ、明
 治維新後の廃仏毀釈によって 荒廃・散逸の恐れのあった
 多くの文化財は、この博覧会によって人々に貴重な遺産
 として認識されるようになった。
  ことに奈良は、廃仏毀釈の影響を受けることが著しか
 ったが、
  こうした文化財の保存に対する関心の高まりのなかで、
 政府は、1888年(明治21年)に、宮内省の臨時全国宝物
 取調局を設けて全国の文化財調査を実施し、
  また、博物館についても、1886年(明治19年)に、宮
 内省の所管とし、
  ついで、1889年(明治22年)、帝国博物館(東京)、
 帝国京都博物館とともに帝国奈良博物館の設置を決定し
 た。
  1895年(明治28年)4月、帝国奈良博物館の開館が実現
 した。
  その後、1900年(明治33年)、宮内省は、官制改正に
 伴い 帝国博物館を帝室博物館に改名し、帝国奈良博物館
 も奈良帝室博物館となった。
 (奈良国立博物館ホームページを参考にした)
1888年9月26日、守田勘弥が、新設予定の歌舞伎座創立に対
 抗して、新富、市村、中村、千歳の4座同盟を結成して、
 興業の調整をしようと提案した。
  この後、新富座は、歌舞伎座と歩調を合わせながら明
 治の歌舞伎黄金時代を築いて行った。
  しかし、新富座は、1910年(明治43年)松竹が買収し
 て、松竹の経営下に移った。
  新富座は、日本の近代劇場化の端緒となったが・・、
 1923年の関東大震災で被災すると、そのまま再建されず
 劇場は廃座となった。
  現在、京橋税務署が建っている。
1888年10月1日、伊藤博文、西郷従道ら帰国した。
1888年10月1日、日本初の火災保険会社の東京火災保険会
 社(現=安田火災)が営業を開始した。
  日本で保険制度が始まったのは、江戸時代の末期と考
 えられている。
  江戸幕府は、1858年(安政5年)、アメリカ、オラン
 ダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで修好通商条
 約を締結し、外国貿易の門戸を開いたが・・、
  これに伴って、外国の保険会社がわが国に進出した。
  この商館を代理店として、主に、海上保険の営業が開
 始された。
  損害保険等の保険制度は、外国で考えられた制度であ
 るが、
  この保険の考え方を紹介したのが福沢諭吉だった。
  1866年(慶応2年)に発刊した『西洋事情』の中で「
 火災請負ひ(火災保険)」、「海上請負ひ(海上損害保
 険)」のことについて解説した。
  また、翌年の1867年(慶応3年)に刊行した『西洋旅案
 内』の中では、
  保険の仕組みを「災難請合の事(イシュアランス)」
 という表現で、次のように述べている。
  「災難請合とは、商人の組合ありて、平生無事の時に
 人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば、組合よ
 り大金出して其損亡を救う仕法なり。
  其趣旨は、一人の災難を大勢に分ち、僅の金を棄て大
 難を遁るる訳にて・・」・・と、
  生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上
 請合(損害保険)の三種の災難請合について説いている。
 (注・イシュアランスは、insuranceの誤読と思われる)
  その後、1869年(明治2年)山東一郎編の『新塾月志』
 の2月号には、「インシュランス」を支那語に訳すと、
 「保険、又は、担保」という文字を当てるという記述が
 ある。
  訳語には、ウケアイというふりがながついていて、他
 にも請負、受合、担保という文字も使われている。
  「保険」という文字が使われるようになったのは、1977
 年・明治10年代に入ってからだった。
  火災保険は、イギリスで、1710年に、「サンフワヤオ
 ヒス」という保険会社が、創設されたのに始まると言わ
 れている。
  日本では、この年・1888年(明治21年)10月1日、東
 京火災保険会社(現・安田火災)が業務を開始したのが
 はじまり。
  日本で火災保険が誕生するまでには、いくつかの経緯
 を経た。
  明治初期に、日本は、外国の新しい制度や技術を導入
 するため、御雇い外国人を招聘し、それぞれの基礎を築
 いた。
  火災保険制度もドイツ人のパウル・マイエット博士に
 よって生まれた。
  マイエットは、1878年(明治11年)4月、「日本家屋保
 険論」という講演を行っている。
  その中で、「火災保険は国民生活の安定、財産の保護、
 産業の発達に多大の効果があり、
  日本には、水火災の被害が、毎年、膨大な額に達する
 にもかかわらず、保険制度が存在しないことは遺憾であ
 り、国営火災保険を早急に実施すべきである」と提言し
 た。
  これは、マイエットの母国・ドイツの「公営強制火災
 保険制度」の影響を強く受けたものだった。
  当時、参議兼大蔵卿であった大隈重信は、この提言に
 共鳴し、
  1879年(明治12年)4月、マイエットを大蔵省顧問に迎
 え、
  同年・1879年5月7日、大蔵省内に火災保険取調掛を新
 設して、各種の家屋の価格や現存する家屋数等の調査を
 開始した。
  1881年7月、調査結果に基づいて作成された「家屋保険
 法案」が太政大臣に提出されたが、
  この法案に対し、当時、イギリス自由主義の旗頭であ
 った田口卯吉は、「火災保険の趣旨には賛成するが、国
 が強制するのは自由の精神に背くもの」と反対意見を述
 べた。
  また、内務卿・松方正義も、「明治10(1877)年の西
 南の役によって、政府の財政は疲弊しており、人民にも
 地方税、備荒儲蓄法等の新たな税負担が相次いでいる時
 に、家屋保険を強制することは受け入れがたい」と反対
 した。
  1882年(明治15年)このことから、参事院は、太政大
 臣に対して、財政難と市民の負担増を理由に「火災保険
 は民営とし、これを保護することが良策である」と上申
 した。
  これを受けて太政大臣は、「家屋保険法案」の廃案を
 決定し、国営保険制度は頓挫した。
  そして、数年が経て後、関連した官立保険局設立計画
 書を参考として、
  有限責任東京火災保険会社(安田火災の前身)が、わ
 が国初の民営火災保険の創設を計画し、この年、1888年
 (明治21年)10月1日、火災保険業務を開始した。
  1891年(明治24年)引き続き、明治火災、
  1892年(明治25年)日本火災が創業した。
  現在、火災保険料は、建物の所在地や建築状態、用途、
 環境などによって、料率の算定が行われているが、スプ
 リンクラーや消火栓設備などの消防用設備を備えること
 によって、保険料が割り引かれている。
  (東京消防庁、ホームページを参考にした)
1888年10月1日、小田原馬車鉄道(後の箱根登山鉄道)の国府
 津~小田原間が開通した。
  東海道本線の開通に先立って、1888年(明治21年)の
 この時、、国府津より小田原を経て、箱根湯本へと、馬
 車鉄道が開業した。
  そして、『鉄道唱歌』に・・、
  「國府津降りれば馬車ありて酒匂小田原遠からじ」と
 歌われた。
  交通の動脈を外れた小田原宿が衰退した。
  110軒もあった旅籠が次々と廃業した。
  小田原は、必死に鉄道誘致を行なった。
  そして、1920年(大正9年)國府津~熱海間に熱海線が
 開業した。
  これによって、東京~横浜~小田原へ列車が通った。
  そして、箱根観光や湯治の拠点として、小田原は回復
 した。
  鉄道開業は、町を挙げて祝った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKの屁理屈論理の放送(広島・長崎に原爆を落とされたのは、
    日本が、中国の重慶の爆撃をしたからだ・・と放送した。
    まったく、根拠のない、嘘の、日本人を洗脳する卑劣な放送だった。
    そして、アメリカは、真珠湾攻撃前に、中国で、隠密裏に、日本を
   奇襲攻撃をしていた。
    アメリカよ!・・謝罪せよ!!
.
1938年12月4日~1943年8月23日、重慶爆撃
  1937年に起きた第二次上海事変の結果、日本軍は、中
 華民国の首都・南京を攻略し占領した。
  これに対して、中国・国民政府は、首都機能を南京か
 ら漢口に移転した。
  しかし、漢口も陥落したため、さらに、内陸である四
 川の重慶への首都の移転をした。
  アメリカは、この年・1937年から、この中国の国民政
 府・蒋介石へ、大量の武器などの軍事物資を「援蒋ルー
 ト」を通じて送り続けた。
  後に、正規のアメリカ軍人(例えば、クレア・リー・
 シェンノートら)を参加させ、
  また、退役軍人だと称したり、義勇軍だと称したりし
 てアメリカ軍をも、秘密裏に対日戦に参戦させた。
  れっきとした大統領のルーズベルトの命令であった。
  日本の真珠湾攻撃以前に、アメリカは、この様な事を
 していた。
  日米の戦端は、日本の真珠湾攻撃以前に開かれていた。
  日本が、「真珠湾攻撃の奇襲をした」何て言われる筋
 合いはない。
  逆に、『アメリカが、隠密裏に、中国で、日本を奇襲
 攻撃をしていた』のだ。
  アメリカよ!・・謝罪せよ!!
  日中戦争が収束しないで、拡大の一方だったのは、日
 本を叩きたいアメリカの思惑だった、方針だった。
  この様な経緯の中で、真珠湾攻撃へ至ることは、アメ
 リカが承知し、れっきとした方針だった。
  この様な、これからの経緯をたどる中で、日本は、こ
 の時、中国の重慶を爆撃した。
  (因みに、第二次上海事変も、「起こされた事変」だ
 った。
  この頃の日本の方針は、穏便に収めたいという方針だ
 った)
  この様な中、中国軍も、ここ重慶へ撤退し、逃げた。
  それ故、日本は重慶を爆撃した。
  しかし、NHKは、日本の公共放送NHKは・・、
  この爆撃が、広島・長崎の原爆投下をした原因になっ
 たのだという論理をNHKは言い出した。
  まったくの言い掛かりである。
  卑劣な、そして、真実を知らない言い掛かりである。
  朝日新聞が、慰安婦問題で、嘘記事・捏造記事を書き
 謝罪をしたが、
  NHKも、この論理・言い掛かりも、この様なもの。
  また、毎日新聞も、朝日新聞と同じ様なことをしよう
 としているから注意を要する。
  ひたすら日本だけの悪い所を言い続け、公平な言い方
 をしていない。
  NHKも同じ事をした。
  その言い方の卑劣な所は、「広島や、長崎に原爆が落
 ちたのは『自業自得だ』的な言い方」のところである。
  NHKは、たちが悪い。
  それは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたからだ」
 の言い方である。
  東京大空襲の無差別爆撃も、大阪の無差別爆撃も、日
 本の各地の都市の無差別爆撃も、皆、この中国のこの爆
 撃行為が原因だのような言い方である。
  そして、アメリカが原爆を投下したのは、だから、正
 しいのだの言い方である。
  正しい訳がない。
  さも、低劣な論理の『町のあんちゃん』が、「お前が、
 先に手を出した」、「俺につっかけたから、刺したんだ」
 という言い掛かりがごとくである。
  こんな言い方が、世の中に通るなら、世の中が、まっ
 たく恐ろしい世の中になってしまう。
  世の中に、常識が通らないこの様な放送を、公共放送
 であるNHKが、全国放送をするから・・恐ろしい。
  NHKは、時々、この様な国民をだまし、そして、洗
 脳する嘘放送をするから恐ろしい、始末が悪い。
  こんな簡単な論理が解らないで、マスメディアを繰り、
 そして、利用できるという立場にNHKは居る。
  常識が、まったく無いと言える。
  NHKは、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送媒体を、我が物の様に使って、まったく自制
 心なく、この様なプロパガンダ(嘘宣伝)放送をしてい
 る。
  スペインは、日本より早く空爆をしている。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教国・スペイ
 ンには、この様な偏見放送はしない。
  スペインが、空爆で、嫌と言うほど爆弾を投下したの
 が、1936年~1939年のスペイン戦争時・・、
  日本の重慶爆撃が、1938年12月4日~1943年8月23日で、
 8年も後の事である。
  完全に、スペインの方が早い。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で、
 既に、行なわれていた。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している。
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手榴
 弾手を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したと言えないくらいだった。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙った。
  NHKよ! 重慶爆撃以前に、こんなに空爆の事例が
 あるのに・・、
  何故?? 重慶爆撃だけが、「原爆投下につながった
 のか?」「広島・長崎の原爆投下につながったのか??」
 ・・説明せよ!!
  説明できなければ、謝罪せよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)468E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年9月~1888年10月)
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