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2018年12月03日

(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年2月)

題:(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月1日、第一次講和会議
  経過は・・
  1894年11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を
   開始する。
  1894年12月4日、伊藤博文内閣は、「威海衛を衝(つ)
   き台湾を略すべき方略」を大本営に提出する。
  1895年1月31日、清国使節の張蔭桓と邵友濂が講和のた
   めに広島に到着した。
  1895年2月1日、陸奥宗光は、この日の会談において、
   清国使節の両者の持っている書簡は『全権委任状で
   はない』、さらに、『地位についても不十分な状態』
   で、これでは講和会議を開催する事は出来ず、また、
   講和を結ぶことができないとした。
    伊藤博文は、清国使節団の随員・伍廷芳に、李鴻
   章か恭親王を全権大使として求めた。
  結局、日清講和会議が広島で始まるが、清国側の信任
 状不備が理由で、会議は進まなかった。
,
1895年2月2日、日清戦争における威海衛制圧。
  威海衛の戦いは、1895年1月12日から始まっていたが、
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着し、
  1895年1月26日、さっそく、第2師団を左縦隊(内陸側)
   にし、また、第6師団を右縦隊(海岸線)に並進する
   作戦を開始した。。
  1895年1月30日、第6師団は、百尺崖・摩天嶺での激戦
   を行ない・・威海衛湾の南岸要塞群を攻略した、移
   動する距離、約60km。
  1895年1月30日の同日、第6師団の攻撃にあわせて、第
   2師団は、南岸要塞群の西側、鳳林集の東南高地を攻
   略する。
    清国軍は、防衛線の一角を破られたこともあって、
   威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄した。
   そして、撤退を始めた。
  1895年2月2日、第2師団は、清国軍撤退で無抵抗状態に
   なった北岸要塞群などを制圧した。
    この威海衛湾の山東半島側を、日本軍が制圧した
   結果・・、
    湾の出入口にある要衝が制圧され、劉公島と日島
   の守備隊や、北洋艦隊の残存艦艇14隻は孤立するこ
   とになった。
.
1895年2月5日、この日の午前3時20分、前日の2月4日の夜か
 ら闇にまぎれて、清軍によって仕掛けられていた防材を
  かわし、威海衛湾内へ入ることが出来た日本海軍の水
 雷艇部隊は、北洋艦隊の砲撃をものともせず予定してい
 た通り、攻撃を開始した。
  その魚雷攻撃は至近距離から効果的に行ない・・北洋
 艦隊の旗艦「定遠」を大破させた。
  危険状態となった清国兵は反乱状態となる。
  北洋艦隊へ軍事顧問となっていた外国人顧問は、清国
 北洋艦隊の丁提督に降伏を求めた。
  また、「来遠」「威遠」等の3隻を撃沈させ、
  1895年2月9日の明け方にも、日本軍は、水雷艇部隊を
 威海衛湾内へ入れて、2回目の襲撃を行った・・
  そして「靖遠」を撃沈した。
  1895年2月11日、降伏を拒否していた丁汝昌提督は、李
 鴻章に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
 セシモ、衆心ハ乱レ今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワサ
 ル旨と決別の打電を行った。
  そして、その後に、服毒自決した。
  1895年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
 官も自決した。
.
1895年2月12日、清国の北洋艦隊が降伏した。
  長崎で、その威容で日本に圧力をかけ、また、長崎市
 内で日本を馬鹿にして暴れ回った清国の北洋艦隊は、こ
 の日に、降伏した。
.
1895年2月19日、清国が、李鴻章を講和全権に任命した。
.
1895年2月22日、べースボールが野球と翻訳される。
  中馬庚(ちゅうま かのえ、1870年~1932年)野球選
 手・教育者。鹿児島の生まれ。旧姓、今藤。
  第1高等学校野球部で二塁手として活躍した中馬庚は、
 1895年発行の「第一高等学校野球部史」で、「ベースボ
 ール」を「野球」と訳した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
    かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
.
12世紀、満州民族が存在した。
  満州は・・、
  渤海(ぼっかい)・金朝・後金・清朝を建国した満洲
 民族や・・、
  夫余(ふよ)・高句麗を建国した濊貊(わいはく)族、
 鮮卑(せんぴ)・烏桓(うがん)・契丹(きったん)・
 奚(けい)などモンゴル民族・・の地である。
  現在の中国の漢民族には関係のない地である。
  尚、現在の中国は、地域名称として「満洲」を使うこ
 とを禁止している・・かわりに「中国東北部」を使うよ
 うにせよとしている・・必死に自国領との印象付けをし
 ている・・これは、歴史を無視したプロパガンダ政策で
 ある・・
  満州の地を、太古から不可分の中国人(漢民族)の固
 有の地としたいからである・・まったく歴史的事実を無
 視している。
  また、満州語は、中国・清朝では公用語であった。
  しかし、現在に至り、中国政府の同化政策によって、
 話す人が極めて少なくなっている・・話す人を消してい
 るからである・・消滅の危機となっている言語である。
  どんな同化政策が行われたのか??
  今・現在、」ウイグルを同化させようとしているが、
 虐殺と監禁である・・そして、ウイグル語を話せなくす
 る教育である・・
  そもそも、この満州の地は、もともと、中国(漢民族)
 が目もくれない「不毛の地であった」「化外の地であっ
 た」。
  太古(たいこ、おおむかし)の時代、紀元前1046年~
 紀元前256年には、今の中国の地には周(しゅう)が存
 在した・・
  その頃には、粛慎(しゅくしん、満州に住むツングー
 ス民族)が遊牧していた・・漢民族なんか「まったく関
 係ない」・・
  (参考)鮮卑:せんぴ、紀元前3世紀から6世紀にかけ
     て中国北部に存在した遊牧騎馬民族。
      五胡十六国時代、南北朝時代には南下して北
     魏などの王朝を建てた。
  (参考)烏桓:うがん、紀元前1世紀から紀元後3世紀
     にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)
     に存在していた民族。
      「三国志」などでは烏丸と表記された。
  (参考)契丹:きったん、4世紀から14世紀にかけて、
     満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧
     の民族。
      10世紀初頭に、現在の中国の北部に帝国を建
     国し、国号を遼(りょう)と号した。
      しかし、12世紀に入り次第に勢力を強める女
     真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に
     滅ぼされた。
      契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中
     央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建て
     た。
  (参考)奚:けい、4世紀から10世紀頃までモンゴル高
     原東部から中国東北部にあるラオハムレン(老
     哈河)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に
     存在していた遊牧民族。
      初めは庫莫奚(しゃまくけい)と呼ばれてい
     た。
  以上の様に、漢民族の「かの字もでない」という地で
 あって・・中国が主張する様な領土ではない。
  満州という地は、「中国とまったく関係のない地」で
 あることは明らか・・、
  万里の長城のはるか北方に位置していて、中国自身が
 「化外の地(けがいのち)だ」として・・
  「化外の地」は、中華思想では、中国の権力・法律が
 行き届いていない地方だと言った。
  さらに言うが・・今・現在の中国の漢民族が、領有権
 を主張できるような地ではない。
  だから・・その様な地であるから、中国は、万里の長
 城を築いたのであった・・ここを国境としたのであった。
  また、朝鮮・韓国では、この地に朝鮮族が居たという
 ので、小学校では、この満州を「我が領土だ」と教えて
 いる。
  日本は、この地を「五族協和」として、一番多い満州
 族の建国を助けた。
  今・現在、漢民族の中国が「我が領土だ」としている
 が、まったく、その根拠がないからだった・・
  リットン調査団も、中国の地だなんて言わなかった。
  日本の行為を認めていた・・
  領土欲を持つロシアが、南下政策をとって・・ここの
 権益を奪い、まったく関係ない中国と関係を持ったのが
 問題の発端だった。
  そして、領土欲あるロシアは、大連などの不凍港が欲
 しいと利権を漁った。
.
1789年、この年のベトナムの書によると・・、
  ベトナムのタイソン(今のビンディン)で一揆を起こ
 し、ベトナムに侵略していた中国の清に打撃を与え、駆
 逐した将軍・グェン・フェ(玩恵将軍)・・、
  また、ベトナムの南部と北部に分裂していた状態を終
 わらせて統一したグェン・フェ(玩恵将軍)・・
  この将軍は、象を調教し、有力な戦闘武器として確立
 した。
  そして、その象兵が、重要な戦闘力を持つ軍団で、象
 を有力な武器として活用した。
  中国の清軍と戦う時、百頭ほどの牡(おす)象を先陣
 に配置した。
  この様な象軍団を見慣れていない清軍の騎兵隊侵略軍は、大
 いに、驚ろき、恐れた。
  清軍の戦陣は、混乱状態に陥(おちい)った。
  象は、戦時の勝敗を決める重要な部隊であった。
  1頭の象の背中に180㎏ほどの大砲を載せたりもした・・
 また、60㎏の大砲を2丁乗せる場合もあった。
  象使い2人が、象の背中に乗って、その大砲を撃ち放
 った。
  敵の規模に応じて、象の数を数十頭の場合もあれば、
 数百頭の場合もあった。
  象の調教師は重んじられた。
.
1930年代、この頃の中国共産党は、中国農民の方々のお蔭
 で存続していた・・存亡の危機でもあった・・
  例えば、占領した中央ソビエト区(江西省と福建省の
 南部境界域)では、10万人以上の紅軍兵士と、多数のソ
 ビエト政府の人員を養うには食糧が不足した。
  その為、農民たちへ、中国共産党は、苛酷な国民政府
 時代以上の税をかけた・・中国農民方々は苦しめられた。
  この中国共産党軍の取った作戦といえば・・「敵が進
 んでくれば・・我退く」だった。
  格好良く言えば「遊撃戦術」であるが・・敵が強いと
 なると、その世話になっている農民方などの「保護すべ
 き住民」を捨て去り、置き去りにして、サッサと逃げ、
 退却し、逃げ去って行った・・まったく無責任な軍隊だ
 った。
  南京の場合も、南京の住民を置き去りにして逃げ去っ
 た(この場合、中国国民党軍)。
  プロパガンダされている事・・共産主義だから科学的
 であって、住民を大切にする共産党だ・・なんて、まっ
 たくのプロパガンダ(嘘宣伝)で・・、
  洗脳され、頭に詰め込まれた思いで・・、
  こんな中国共産党軍が、延安の中国の奥地の奥地に隠
 れていた。
  日本軍とまともに戦ったことのない中国共産党軍だっ
 た。
  格好良く「日本軍と中国国民党軍の消耗を待っていた」
 と言うが、「これも嘘」、兵が激減して戦える状態では
 なかった。
.
1933年3月4日、ルーズベルトが、アメリカ大統領になった。
  ・・が、この大統領は、非常に中国贔屓(ひいき)の
 大統領だった。
  ルーズベルトの家系は、中国貿易に従事し、儲けて来
 ていた・・その様な環境に生まれた大統領だった・・当
 然、ルーズベルトの家庭環境は『親中国』だった。
  ルーズヘルトは、母親から何度も、快速線「クリッパ
 ー号」に乗って香港を訪れたことを、幼い頃より何度も
 聞かされていた(幼いルーズベルトは、親中国の洗脳頭
 となった)。
  そして、ルーズベルトは、海軍省に居た時、日本を仮
 想敵とする『オレンジ・プラン』の立案にかかわった。
  大統領就任後の初閣議で、「対日戦争は、一つの可能
 性だ」という表現を使った・・アジアの情勢を語った。
  中国の蒋介石夫人の宋美齢は、アメリカの反日世論を
 煽(おあ)りまくった。
  また、戦争のきっかけとなったハル・ノート文案作成
 に積極的に関与したアメリカ人のハリーホワイトは・・
 ソ連のスパイだった。
  ルーズベルト大統領のアメリカは、中国と、がっちり
 結びついていた。
.
1930年代、日本の満州経営は下降線をたどった。
  アメリカは、「中国に遅れてやってきた国」だった。
  アメリカは、「中国を開放せよ」と言った。
  これは、「アメリカにとって」、中国は開放されてい
 ないと叫んでいるようなもので・・
  遅れてしまったので、アメリカには開かれてないと言
 っているようなものだった・・
  遅れて来て、中国のうまい汁が吸えないという叫びだ
 った。。
  アメリカは、必死に中国とのつながりを持とうとした。
  満州の鉄道利権を狙った。
  満州での鉄道を含む各種の権益の租借権は、もともと
 中国の清国が、ロシアに対して与えたものだった。
  そして、日露戦争で戦勝した日本は、賠償金の代わり
 に、ロシアの持つ満州の権益の租借権を得た。
  侵略で奪ったというのは、日本を貶(おとし)めるプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)で、この様な満州の鉄道利権を日
 本から奪おうとするのがアメリカで・・アメリカは、日
 本の利権を狙った。
  その様なアメリカと関係を持った中国は、様々な形で、
 日本の権益行使を妨げようとした。
  そして、変な・・馬鹿々々しい屁理屈を言った。
  例えば、鉱山の採掘権を持つ日本に、「ある鉱物の採
 取権は確かに日本に与えたが、その他の鉱物は採っては
 いけない」・・と・・
  この様な採掘ができる訳は無い。
  採掘する鉱石には、様々な鉱物が含んでいるのは常識・・
  例えば、鉄鉱石を採掘しても良いが、同時に出る「イ
 オウ」などは採ってはいけないという様な理屈であって・・、
  「ベニスの商人」で、「肉を切り取ってもいいが、血
 は一滴も流してはいけない」というようなもの。
  また、アメリカが、日本の満州鉄道の路線を敷いてい
 るのと並行して、アメリカが線路を敷くのを許可した。
  常識でも、この様な事をしてはいけないが・・
  日本は、ちゃんと中国と話し合って、条約で、この様
 な行為はしてはいけないと・・条約で契約していたので・・、
 中国がアメリカに許可した行為は、日本との条約違反行
 為だと抗議した・・「止めさせることは出来た」が・・
 この様な不法な妨害をするという状況だった。
  しかし、日本の満鉄の輸送に対抗する新しい鉄道網を
 建設し始めるという状況だった。
  1930年代には、満鉄を核とする日本の満州経営は下降
 して行く。
  後から来たアメリカは、先行して美味しい汁を、すで
 に吸っているイギリスやドイツの権益を狙うという事が
 できずに、日本の権益を狙うという姿だった。
  また、日本は、国際社会への説明が下手で、不十分だ
 った。
  中国やアメリカなどの宣伝に対し、不器用な日本だっ
 た。
  日本は、中国のプロパガンダにもやられたが・・アメ
 リカは、自国民に「日本を悪役に仕立て、その悪訳ぶり
 をいやというほど吹き込んだ(アン・フェアなアメリカ)
  これが、第二次世界大戦の素因の一つとなった。
.
1937年11月28日、南京事件を捏造(ねつぞう)する中国
  この日に、20万人の人が、南京に居ることが発表され
 ている。
  日本軍が南京を攻めて、南京に入るのが1937年12月13
 日であるから、その半月くらい前の南京の人口である。
  この人口数は、中国人の警察庁長官の王固磐が、開か
 れた記者会見で発表した人口数であった。
  また、日本軍の南京入城の5日後の1937年12月18日には、
 南京国際委員会という「南京の住民が集まっていた安全
 区を管轄する委員会」が、「南京の人口は、20万人」と
 発表している。
  (中国は、今・現在、日本軍が、南京で30万人殺した
 と言っている・・これは、嘘だとはっきりしている)
  また、日本軍が入城した1週間くらいの後の1837年12月
 21日には、南京外国人会が、「南京の20万市民」と言及
 している。
  そして、1938年1月14日には、国際委員会が南京の人口
 を25万人に増えたと公表している。
  日本軍が、食糧を配ったり、種々の住民のための行為
 をしているので、住民が戻って来たのだった。
  日本軍は、南京の方々へ、食料を配ったりして、大変、
 配慮をしている。
  上智大学教授の渡部昇一氏も、南京陥落から1ヶ月後に
 日本軍は、約25万人の住民に食糧をを配ったという記録
 があると言われている。
  また、占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵(便
 衣兵:べんいへい、一般市民を盾にして隠れる卑怯な兵)
 と本当の民間人を区別するため、ひとりひとりと面接を
 したうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発
 行している(1937年12月から1938年1月)。
  60歳以上の老人や10歳以下の子どもは兵士ではないか
 ら、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数
 が16万人に達した。
  南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・
 スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤
 泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口
 は25万~27万人程度だろう」と書いている。
  この様に南京入城後、南京の人口が増えたりしていて、
 良好な、そして、安定した状況だとすぐわかる・・
  この様な状況の中で、中国の言う「南京虐殺が起きる
 訳がない」。
  中国は、それも30万人だと、勝手、気ままに大きく増
 やした嘘の人数を世界に言いふらしている。
  南京事件があったという発端は・・「作られた嘘だ」
 とはっきりしている・・
  イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」の
 中国特派員の記者ティンパーリーは、「最悪の嘘つき記
 者」だった。
  ティンパーリーは、中立的立場の欧米人ジャーナリス
 トを装っていた。
  この男の実態は、蒋介石の国民党に雇われた『工作記
 事を書く記者』だった。
  南京事件をでっち上げた。
  最初に書いたのもこの記者だった。
  国民党は、ティンパーリーへ書くための情報(嘘の捏
 造情報)を与えた。
  この様な記事が世界へ流れて行き、南京事件は捏造さ
 れた。
  ティンパーリーでさえ、国民党へ行く前は、この様な
 虐殺記事は書いていない。
  そして、ティンパーリーは、国民党から与えられた情
 報で二冊の南京事件の本を書いた。
  そして、その中でも書いた向井、野田両少尉の百人斬
 りの記事(東京日日新聞の記事)を、東京の英字紙であ
 るジャパン・アドバタイザーが転載し、世界へ広まった。
  日本が酷いことをしているという印象を与えた。
  向井・野田の二人は、この記事を証拠とされ戦犯とし
 て死刑となった。
  しかし、これは、ジャパン・アドバタイザーでも「一
 対一の刀の斬り合い」と書いている・・百人斬りではな
 い・・この様に、これは、普通の戦闘行為だった・・ね
 つ造された・・
  ティンパーリーが、「殺人競走」というタイトルを付
 けた・・嘘記事を書いた。
  この事から「普通の戦闘行為」とは受け取られ無い、
 酷(むご)い行為が行われているという事になって行っ
 た・・
  あたかも戦闘以外で、民間人を殺戮して行ったという
 様に受け取られる・・嘘記事が事実の様になってしまっ
 た。
.
1945年8月8日、日本とソ連との間には日ソ中立条約が締結
 されていた(1941年4月)・・しかし、ソ連はその条約を
 一方的に破った。
  そして、1945年8月8日に満州や南樺太(現:サハリン
 南部)などに攻めて来た。
  この時、6歳11ヶ月のなかにし礼氏は満州にいた。
  その時のことを、読売新聞(2018年11月5日)に記して
 いる・・以下はその文・・
  その日はやって来ました。
  1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が満州に進撃。
  2日後、牡丹江に編隊を組んだ無数の飛行機が来襲しま
 した。
  耳をつんざく大音響とともに、わが家の向かいの陸軍
 の兵舎から火花と黒煙が上がりました。
  家の前で遊んでいた私は慌てて家の中に逃げ、母の胸
 に飛び込んだのです。
  夜になると、北の空が真っ赤になっていました。
  ソ連の戦車部隊が迫っていたのです。
  運悪くこの時、父は新京(現:長春)に出張中。
  しかし、「逃げる」と決断した母は、つてを頼り、軍
 人やその家族を退避させる軍用列車に乗せてもらう手は
 ずを整えました。
  母はしんを抜いた帯に札束を詰め込み、何重にも私の
 体に巻き付けました。
  6歳の子供が大金を持っているとは誰も思わないという
 計算からでした。
  避難列車を待つ日本人でごった返す牡丹江駅前通りを
 抜け、人目を避け離れた場所に止まる列車に母と姉、使
 用人たちと共に乗り込みました。
  「これは遠足みたいなもので、またここに帰って来る
 んだ」。
  まだ、そう思っていました。
  翌朝、列車は突然止まり、誰かが「敵機来襲」と叫び
 ました。
  皆われ先に外へ飛び出し、身体の小さな私はとっさに
 座席の下にもぐりました。
  ソ連機は列車に向けて機銃掃射を繰り返しました。
  それが終わり、我に返ると、目の前には頭を射抜かれ
 血を流している軍服姿の男が倒れていました。
  あと数十センチ銃弾がすれていたら、私が死んでいた
 のです。
  おびただしい死体は、生き残った者によって外に放り
 出されました。
  それにすがって泣きわめく家族・・。
  死体が原野に落ちると、現地人が集まり、服や金歯な
 どをはぎ取る。
  天国だった満州はわずか1日で地獄に変わったのです。
  しばらく進むと、ソ連機の再度の襲撃で列車は動かな
 くなり、代わりに用意された無蓋の貨車に乗り換えまし
 た。
  おそらく先行した軍用列車も同じ目に遭ったのでしょ
 う。
  線路脇には行けども行けども丸裸の死体がころがって
 いました。
  中国人の運転士はたびたび列車を止め、先に進むのに
 金品を要求しました。
  目的地のハルピンに到着したのは、15日昼ごろでした。
  しかし、私たちはなかなか列車から降ろしてもらえま
 せん。
  突如、銃声が激しく鳴り響き、馬にまたがった満州兵
 たちがホームに押し寄せ、何かを叫びました。
  それを聞いた日本の軍人が立ち上がり、「皆さん、日
 本が戦争に敗けました」と言ったのです。
  「私は中国語が少しわかりますが、今から満州軍が日
 本人を支配すると言っています」。
  貨車の中にはすすり泣きの声が広がりました。
  母も姉も泣いていました。
.
1945年8月28日 中華民国で、中国国民党の蒋介石らと、中
 国共産党の毛沢東とが会談した。
  重慶で会談が始まって・・
  1945年10月10日、双十協定が成立したが・・
  会談は事実上決裂し、国民党と共産党は内戦に突入し
 た・・
  この両者には、とうてい理解しえない国の将来に対す
 る基本的考え方の違いがあった。
  各地で小競り合いの戦いが起こり・・
  1946年7月には、本格的な内戦へと突入した。
.
1958年8月、ご都合主義の中国。
  中国は、自分に都合が良いことを一部の人間が決める
 という国である。
  憲法があったって、自分の憲法だけれども無視した。
  憲法だろうが、法律だろうが、そんなものあったって
 「糞、くらえ」となっていた。
  1958年8月、毛沢東が、北載河で、各省の共産党書記を
 集めて演説を行った・・それには・・
  「法律に依拠して多くの人を治める事は出来ない」と・・
  中国憲法軽視の発言をはっきりとする・・
  「憲法は、私が参加して制定したものだ。しかし、私
 は記憶していない」と・・(心には、はっきり、知るも
 のかの心がある)
  それでは、何によって統治するのか?・・というと・・
  毛沢東は言う・・
  「我々の毎回の決議が総べて法律なのだ」と・・また・・
  「会議も法律だ」と・・だからと言う・・
  「我々の各種の憲章に基づく制度は、大部分、90%は
 関係当局が作ったものだ・・我々は、基本的にはこれら
 に依拠しない」と・・
  「依拠するのは決議と会議の結果だ」・・そして言う・・
  「我々は、我々のものに依拠する」と。
  まったく呆(あき)れる・・その日に思ったことが憲
 法だの発言となっている・・
  「我々が決めた憲法や法律に依拠する」とすべきだ。
  この様に、中国は、一握りの者たちの胸三寸で決める
 国である。
  格好良く「人治主義だ」なんて言うが、中国は、その
 日の風向きによって右にも左にも行く一握りの王様の国
 なのである。
  「全国人民代表大会(略称:全人代)」なんて、格好
 良く、大勢集まっているが・・顔見せで、既に、決定さ
 れたことを「シャンシャン総会」の様に党員の手帳を決
 議の時に上げるだけの会議・・
  (参考)全人代は、共産党を中心とする大会主席団、
     全人代常務委員会、国務院などが提出した議案
     や予算を審議する。
      議案や予算の「否決に至った例はない」と説
     明されている。
  反対をしようものなら、今後がどうなるか?・・非常
 に怖いことになる。
  結局、一部の者たちに都合のよい統治となる。  
  憲法無視を公言する国=中国。
  1944年に、中国は、臨時憲法と言える「共同綱領」を
 決めるが・・有名無実・・
  ここには、「表現の自由」があり・・「デモ行進の自
 由」があるが、こんなことは、中国で事実無根・・
  やられているのは・・官製のごますり行為ばかり・・
  「言論の自由」があっても・・「表現の自由の保障」
 があっても・・絵に描いた餅となっている・・
  そんなことを自由にやったら、当局による逮捕が待っ
 ている。
  近代国家ではない・・人民は虐(しいた)げられてい
 る・・
.
1958年、第二次五ヵ年計画開始の頃から、毛沢東は、「大
 躍進」と称する工業・農業の大規模な集団化による大増
 産政策を進めた。 
  1958年、人民公社が設立された。
  数億の中国の農民たちは、土地を放棄させられた。
  人民公社に集団化させられ 、農民たちの生産意欲は低
 下した。 
  農民たちには無理なノルマが課された。
  (参考)ノルマ:基準、特に、各個人・工場等に割り
     当てられた、労働の基準量。
  ノルマを達成でき なかった現場指導者たちは水増しし
 た嘘の報告をした。
  その報告を受け取った毛沢東は、実態を把握しないま
 ま、更なる増産を命令した。
  中国は、その様な悪循環に陥(おちい)って行った。 
  毛沢東は 、数年間で経済的にアメリカやイギリスを追
 い越すのだと、夢見て実施させていた。
  しかし、結果は、数字だけの達成で・・事実は、推計
 で2000万人から5000万人の餓死者が出るという大惨事の
 大失敗に終わった。 
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1959年4月27日、毛沢東の大躍進政策が失敗に終わり、この
 日に、責任をとった形で毛沢東は退き、代わり中国の第
 2代国家主席に劉少奇(りゅう・しょうき、~1968年10月
 31日)がなった。
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1961年、毛沢東が、訪中した日本の議員団へ御礼を言った。
  その御礼は、「日本の資本家や日本軍は、良いことを
 してくれました。もし感謝するのなら、私は、むしろ、
 日本の軍閥に感謝したいです」と言った。
  これは、毛沢東の中国共産党軍が、中国国民党軍に大
 敗北し、30万人近い勢力だったのが、その10分の1の3万
 人くらいになり、消滅寸前であった時・・、
  そして、中国奥地へと逃げ、またさらに、奥地へと逃
 げていた時、日本と戦ったことも無い毛沢東の軍は、コ
 ミンテルンの指令で息を吹き返した。
  抗日運動も高まる。
  コミンテルンは、「日本軍と戦う国民党軍と共同して
 民族統一戦線を作れ」と、中国共産党へ命令する。
  この命令に従った中国共産党は、劣勢でもあった。
  中国国民党軍と、その劣勢の内戦を中止でき、階級闘
 争も止め、これによって中国国民の支持も集めることも
 できた。
  そして、中国国政に参加する道も見い出せた。
  第二次国共合作は、毛沢東の起死回生となった。
  後押しした形になった日本軍だった。
  「日本軍に助けてもらった」状況から、毛沢東の感謝
 の言葉となった。
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1966年~1976年、中国の文化大革命。
  多くの知識人が迫害され、また、中国国民の方々が大
 虐殺された。
  この時、湖南省の零陵地区内の十県で1万人が、直接、
 殺害された。
  この様な事が中国のあちこちで起きていた。
  1980年代、初期の文化大革命は終了するが、この様な
 虐殺が非常に多く行われていたことが分かった。
  共産党の内部調査によると、地方の人々の2000万人以
 上の人々が、殺害されていた。
  中国には、2200の県があるが、中国の行なった文化大
 革命は、国民を多数を殺害していた。
  葉剣英副主席は、「文化大革命では2000万人が死に、
 1億人が酷(ひど)い目にあった」と言った。
  アメリカの著名な中国専門の研究所で、中国人留学生
 たちは、皆、バリバリの共産党員で、日本批判ばかりを
 展開していた。
  南京事件について、その嘘の反論主張ができない日本
 人留学生たちだった。
  そのアメリカ人の教授は、中国人留学生たちへ言った・・
 「そうは言うが、君たちの国・中国では、大躍進や文化
 大革命で1000万人単位で人が死んだ。
  何故、君たちは、それについて何も話さないのだ。
  南京で死んだという30万人の事を、本当だ、嘘だと言
 うつもりはないが、1000万人に比べたら非常に少ないで
 はないか」と。
  バリバリの共産党員の中国留学生たちは、一同、黙っ
 てしまった。
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1976年1月8日、周恩来が没した。
  周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転した。
  清明節の1976年4月4日から5日未明にかけて、江青らの
 四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われ
 ていた周恩来追悼デモを弾圧した・・すなわち第一次天
 安門事件。
  この事件において、周恩来追悼デモは反革命動乱とさ
 れ、鄧小平は、このデモの首謀者とされて、再び失脚し
 た。
  鄧小平は、すべての職務を剥奪された。
  しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世
 友に庇護された。
  1976年9月に、毛沢東が死去すると・・後継者の華国鋒
   を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後・・、
  1977年に、鄧小平は、三度目の復活を果たした。
  1978年、日中平和友好条約を結び・・、
  1978年10月、日本を訪れた鄧小平は、新幹線への乗車
   で日本の経済と技術力に圧倒された。
  1978年11月、シンガポールの外資誘致の実態を見学。
   これらの海外視察から帰国した鄧小平は、第11期3中
   全会(1978年12月)において、それまでの階級闘争
   路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」と
   いう政策を打ち出した。
  その代表的な経済政策のひとつが、「改革・開放」政
 策の一環である経済特区の設置で、一部地域に限り外資
 の導入を許可・促進することで経済成長を目指すという
 この政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。
  しかし、政治面では共産主義による中国共産党の指導
 と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経
 済政策を取った。
  生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ
 黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言った。
  1984年3月、訪中した当時の中曽根康弘首相は、鄧小平
   ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や、中
   日友好病院、日中青年交流センター設置などで一致
   し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ、沿海部の
   経済特区指定も重なり、これ以降、日本の対中直接
   投資は本格化した。
    このお蔭で今の中国がある。
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1981年、中国の胡耀邦総書記は、大躍進政策によって「中
 国の全国で2200万人が、非正常な死亡をした」と言った。
  中国は、この頃、農民に今までにない重税を課した。
  清朝もやらない、また、国民党時代でもやらなかった
 重税を農民に課した。
  農民から収奪して工業化を進めようという思惑だった
 が、共産主義という民主性を欠いた政治システムだった
 為、悲惨な死者が現出した。
  本「マオ」では、この死亡者数を「劉少奇は、3800万
 人近い人数を確認している」と記している。
  卑劣にも、この時、農村から奪った食料は、都市部へ
 供給されていた。
  農村の方々の生産意欲は激減した。
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1990年代から、中国は、各地方の独立採算制を実施した。
  中国の地方の下部組織に、「行政の人事」「事務」「
 財政の権限」などを委(ゆだ)ねた。
  その結果、「行政部門が肥大化」し、その費用を「農
 民たちへの恣意的な課税(自分勝手な課税)」をして対
 処した。
  農民たちへ尻拭い(しりぬぐい)をかぶせた。
  また、この地方の役人たちは、「自分の身内をどんど
 ん地方政治組織の官職に就けた」。
  これは、中央の「国家の命令を無視」して行われた。
  また、この給料をまかなうため、「人頭税という法律
 に無い税金を勝手に作り、その費用まで農民から巻き上
 げた」。
  この様な暴挙に耐えかねた莫大な人数の農民が暴動を
 起こした。
  また、村を捨てて都市へ逃げ、流出した。
  この様な町へ逃げた農民の方々が、「安い労働者とな
 った」。
  この安価な労働者を求めて、アメリカや日本などの先
 進諸国の投資が、活発に行われた。
  この先進国の活発な投資は、中国の製造業の繁栄をも
 たらし、支え続けた。
  あまりにも多い地方からの安価な労働力の供給は、何
 時までも続く「低賃金の厳しい労働環境で雇用できる」
 という雇用者側に都合のよい状況を作った。
  労働者は、不満を言うものなら、すぐに新たな労働者
 が雇用された。
  権力を握る役人天国が現出した。
  自分の身内にまで、その立場の優位さを享受させられ
 たし、また、資本家から賄賂が流れて来て結託した。
  しかし、中国には「これらを正す法が無く」、整備さ
 れてなかった。
  一部の権力者へ、富が、どんどん集中した。
  まったく封建時代そのままの中国だった。
  この様な中国の地方の腐敗・・資本主義などと呼べる
 代物ではまったくなかった。
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2018年11月19日、中国が必死にGPSの衛星を打ち上げて
 いる。
  この日の発表では、四川省の衛星発射センターから、
 独自開発の衛星測位システム「北斗」を構築する18、19
 基目の衛星を搭載したロケット「長征3号乙」を打ち上げ
 た。
  北斗は、アメリカのGPS(全地球測位システム)に
 対抗する中国独自のシステムとして構築が進められて来
 た。
  何故? 中国独自のシステムが必要なのか?
  仮の話・・中国の大陸間弾道弾の正確な飛行にはGP
 Sとのデーターのやり取りが必要・・その時、その部分
 をアメリカのシステムに頼っていたらどうなるか?
  中国は、独自のシステムが必要と判断したのだろう。
  例えば、中国の大陸間弾道弾が、自国に落下でもする
 ようなことを予測したのか?
  何発も発射した大陸間弾道弾の一発でも、自国へ落下
 となったら大変だと考えたのか?
  肝心な飛行にかかわる所である。
  いざとなったら何が起きるか分からない。
  その総てが、中国へ落下という事も起きるかもしれな
 い。
  大陸間弾道弾を持たなくても、この技術分野の技術を
 持っていれば、問題回避ができるとも言える。
  急速に進む現代の技術・・予測不能な部分である。
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2018年11月19日、日本の江崎グリコが、液体ミルクの製品
 化に成功した。
  2019年の春に、国内販売が開始される見通し。
  これは、乳幼児液体ミルクが、災害時の救援物資とも
 なる。
  日本栄養士会の作る組織は、災害時の救援物資として
 備蓄する取り組みを進めるとし、2018年11月19日に発表
 した。
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2018年11月19日、日本は、ブルキナファソに対し、食糧支
 援を決めた。
  資金返還を求めない無償の資金協力・食糧援助である。
  安倍首相は、この日、ブルキナファソのロシュ・カボ
 レ大統領と首相官邸で会談をして、決定した。
  大雨や干ばつなどの天変地異で、食料不足が深刻化し
 ている状況の救済を決定した。
  また、共同声明で、今後、インフラ(社会資本)整備
 の支援も日本は行っていくとしたと発表した。
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2018年、中国の失敗。
  結果を見れば「中国の社会主義革命は失敗と言える」。
  「経済的不平等が存在」し、また、「人権抑圧が存在
 する」。
  社会主義で経済的平等と人間性の回復を目指したが、
 目指す過程で、その逆の「経済的不平等」と「人間抑圧」
 が、皮肉にも発生した。
  目的こそ崇高であったが、その遂行で「2000万人の死
 者が出た文化大革命」が出現した。
  あまりにも悲惨な経過を経なければ、実現されないと
 され、多くの犠牲者を出した。
  もう、この大参事で失敗だとして中止すべきであった・・
 が、しかし、社会主義化は続けられ、現在でもその「極
 端な格差社会は無残」としか言いようは無い。
  そこには、まず、中国共産党の支配を正当化するため
 の「卑劣な嘘」の存在と、その嘘を隠す嘘の行動が、さ
 らに、結果を悲惨なものにした。
  「建国神話」からその嘘は、すでに始まっていた。
  「中国共産党が日本軍を打ち破った」と言う嘘、そし
 て、「中国国民を守った」という嘘。
  「中国共産党が土地改革をした」という嘘。
  「中国農民を解放した」という嘘。
  ことごとくが嘘となっている。
  中国共産党ではなく、「中国国民党だった」。
  そして、「生産構造は、実は、まったく変わっていな
 い」。
  「中国の社会制度は、今も昔も封建的な地主制度的支
 配関係を基盤としている」。
  「社会主義革命が起きたと思い込まされて来ただけ」。
  「中国研究者でさえ『封建残余だ』と言っている」。
  「『残余』などではなく『根幹だ』とさえ言われてい
 る」。
  「社会主義の衣を着た封建王朝だとさえ自嘲的に言わ
 れている」。
  「中国の人口の0.01%のほんのわずかな中国共産党員
 が支配し、選挙もない」。
  「そのわずかな者たちが、極めて大きな特権を独占し
 ている」。
  「その奴らが蓄財している」。
  1950年に、「中華人民共和国土地改革法を公布したで
 はないか?と反論するかもしれないが、これは、内容通
 りに受け取ったら大間違い。
  確かに「地主階級の法権的搾取の土地所有制を廃止し、
 農民的土地所有制を実施」するとされているが、これで、
 「農民が地主から解放された」と評価するのは大きな誤
 り。
  ここに、「共同農業経営」という美名の元に出現した
 のが「中国・共産党国家」という「超巨大地主」だった。
  「農民へ土地を渡すというのも嘘」。
  実際は、「中国共産党官僚が、徹底的に管理し、利益
 を吸い上げた」。
  実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
  かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
  「共同経営だと言ったって、農民の人たちが収穫の中
 から自分の分の分け前を取り分けられないようにされた」。
  日本では、「その様な実体が分からないから喝采して
 いた」。
  「実態は、体よく、効率よく、搾取されるシステムの
 土地改革だった」。
  しかも、「農民は、住居移転や移動の自由を禁止され、
 奪われた」。
  「ただ働き、搾取される奴隷だった」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive