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2018年02月06日

(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月)

題:(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年3月4日、グロバー・クリーブランドが第24代米大統
 領に就任した(第2期)
  恐慌と共に大統領になったような民主党の大統領であ
 ったが、恐慌から抜け出すことが出来なかった。
  労働者のストライキが頻発した。
  シカゴのプルマン寝台車会社のストライキは大規模と
 なり、アメリカ鉄道組合も同調し、ストライキは24州
 におよぶ大ストライキへと発展した・・
  グリーブランドは、連邦正規軍を出動させ、指導者を
 投獄の要求をし、ストライキはやっと収まった・・
  しかし、全米労働者の憤懣は最高潮に達した・・
  そして、内政の数々は失敗し、民主党は壊滅した。
  この二期目の彼の政治を、評論家は・・、
  「想像力がほとんど無く、国の経済的災害に圧倒され
 た大統領だ」と批判した。
  彼の一期目の政治は、先住民のインディアンから借り
 受けていた牧草地の契約を無効にした・・そして、放牧
 業者、および、インディアンの方々の双方の生活を苦し
 める様な政治をした。
  ただ、外交政策で良いことをした。
  実業界の利益追求から仕組まれたハワイ併合問題を認
 めなかった・・アメリカのペテン政策に正直に反対した。
1893年3月9日、朝鮮政府が、防穀令による日本側の損害を
 4万円余りと報告した。
  因みに、1891年12月、朝鮮政府に対して14万7000円の
 損害賠償の請求を行なっていた。
  1897年4月、11万円の賠償と公使召喚で妥結した。
1893年3月10日、象牙海岸地域がフランスの植民地となる。
  貿易商品が象牙であったことに由来して命名されたコ
 ートジボワールとガーナの沿岸部のこの地を、
  ヨーロッパ列強諸国はアフリカ大陸分割に乗り出し・・
 フランスはサハラ砂漠の北側(アルジェリア、モロッコ、
 チュニジア)だけでなく、サハラの南側(ニジェール、
 セネガル、マリ、トーゴ、コートジボアールなど)の広
 大なアフリカ地域を植民地にして行った。
  1843年に、フランスが、この象牙海岸の沿岸のアシニ
 などの諸首長と保護領条約を締結を経て・・
  1893年、フランスが植民地とし、フランス領植民地コ
 ートジボワールが誕生して65年間の植民地が始まる。
  公用語をフランス語にする。
  因みに、コートジボワールは、フランス語で「象牙海
 岸」という意味であるが、1985年に、国際機関がフラン
 ス語の国名を意訳しない様に求める決議を行なったので、
 『国名』を言う時は「コートジボワール」と言わねばな
 らない。
  そして、1960年になって、やっと、コーヒー・ココア
 農民組合を基盤にした、独立運動を主導したウフェボア
 ニが中心になり、フランスから独立を勝ち取ることがで
 きた。
1893年3月16日、鉄道庁長官に、松本荘一郎が就任した(井
 上勝依願免官)
  松本荘一郎は、播磨国(兵庫県)生まれ、大垣藩(岐
 阜県)藩士の推薦を受け同藩に出仕した。
  大学南校に入り、1870年、アメリカ留学して土木工学
 を学ぶ。
  1876年、帰国し、東京府御用係となり、そして、開拓
 使御用係、工部権大技長、
  鉄道庁に入り、鉄道庁長官となり、全国の鉄道敷設に
 貢献する。
  1898年に、帝国鉄道協会を設立している。
1893年3月17日、川越大火が発生し、1,302戸が消失した。
  20時15分頃、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で発
 生、旧城下の養寿院門前から火災発生の一報で半鐘が鳴
 り、町の消防22組が総出で消火作業に当たったが、
  北からの強風・連日の晴天続きによる空気の乾燥・消
 火用井戸水の使い果たしなどから火勢は土蔵の間を縫い
 短時間で南町・本町・多賀町・江戸町・上松江町・連雀
 町・鍛治町・相生町・志義町・久保町・鉄砲町・北久保
 町・南久保町・東明寺相生町・高澤町・猪鼻町に拡がり
 計17町を焼失。翌18日8時に鎮火した。
  当時の町域の3分の1に相当する1,302戸を焼失した。
  当地は、埼玉県で最も栄華を誇った商人の街だが、火
 の回りが速く、家財道具を持ち出せず全財産を失った者
 も出た。
  死者・負傷者は出なかった。
  罹災者1,014人は、光西寺や栄林寺などの寺院や川越学
 校などに設けられた11ヵ所の救助所に収容された。
  地元商人たちも、次々、金品を寄贈し、また、当地に
 縁の深い渋沢栄一らの義援金・現金・米・醤油などの生
 活物資に至るまでの救援もあり、
  商人たちは、耐火性に優れた蔵造りを、東京から職人
 を招いて再建に当った。
  大火後、2年から3年で、200棟を上回る蔵造りが建設さ
 れるという早さだった・・団結・協力・助け合いの強さ
 だった。
1893年3月20日、郡司成忠海軍大尉らの63人が、千島探検に
 出発した。
  郡司成忠(ぐんじしげただ)海軍大尉は幸田露伴の兄
 で・・、
  1875年、千島樺太交換条約の締結後、ロシアに対する
 脅威から北方の警備・防衛、千島開拓の必要を感じ、志
 を抱いた。
  海軍大尉まで進んだが、自らの志の実現のために、1893
 年に予備役となった・・そして、報効義会を組織し・・、
  1893年3月20日、35人が、ボートに分乗して東京を出発。
  19人は青森県鮫沖で死亡するが・・、
  16人が占守 (シュムシュ) 島に上陸、探検し、
  越年中に10人が死亡。
   その間、拓殖方法などを研究調査・・そして・・
  1896年、60人余りの同志を募り、家族とともに占守島
 に移住した。
  そして、部下と開発にあたって、農業、漁業の開発・
 開拓に成功した。
  日露戦争の開戦後に、カムチャッカへの進撃を行なっ
 た。
  しかし、失敗し、捕らえられ捕虜となる・・が、脱出
 を行なった。
  そして、海事・国防思想の普及や、北辺の警備・防衛
 思想の重要性を説いた。
  因みに、占守島は千島列島北東端の島で、日本の領土
 である。
  少なくとも、サンフランシスコ条約締結以来、領有権
 の帰属は未確定で、ロシアの実効支配下の島と言える。
  この占守島は、第二次世界大戦の終結後の1945年8月18
 日に、ソ連が不法にも、この占守島に卑劣にも攻撃を仕
 掛けて来た。
  そして、占守島の戦いが起き、8月21日まで続いた。
  終戦後であったが、優秀な日本軍は応戦し撃滅した。
  しかし、終戦後であったため、日本軍は武器を置いた。
  この根拠ない戦闘を仕掛けられた優秀な日本兵たちは、
 決して戦いに敗けてはいなかったが、法的根拠のない状
 態で(拉致状態で)シベリアへ連れて行かれた。
1893年3月26日、北海道炭砿鉄道の手宮~桟橋間が開通した。
  北海道炭砿鉄道は、単なる鉄道会社ではなかった。
  創立時は、室蘭~空知太間、および、夕張・空知の両
 炭鉱支線の鉄道を敷設し、
  あわせて、幌内・幾春別鉄道の払下げを受けて、鉄道
 業を営む鉄道会社でありながら、
  同時に、幌内炭鉱の払い下げを受け、幾春別・空知・
 夕張などの諸炭山から石炭を採掘し、石炭の輸送・販売
 を行なう石炭業を兼営した。
  その後、回漕業、骸炭(がいたん、コークスのこと)
 製造業、山林業などを兼営する。
  そして、1906年以降は、製鉄業、電灯業、煉瓦業、製
 材業を兼営し、
  1907年には、日英共同事業として日本製鋼所を設立す
 る。
  しかし、日露戦争後に経営危機に陥り・・
  1913年に、三井財閥の傘下に吸収された。
1893年3月29日、目黒火薬製造所・白金火薬庫が、海軍省か
 ら陸軍省(東京陸軍砲兵工廠)へ移管された。
  そして、軍用火薬や、坑山用火薬の製造及び貯蔵を行
 う。
  1893年度は、12万kgでしかなかった火薬製造量は、順
 次、設備の拡充に努めた結果、1897年度には、55万kgに
 達した。
  1923年、関東大震災で被災したため、群馬の岩鼻(高崎
 市)に施設を移転した。
  ここは、1878年、海軍の火薬製造所として建設が進め
 られ、1885年に完成していた。
1893年3月29日、三重県松坂市が大火となる。
  町の約半数に当たる1500戸余りが焼失した。
  午後7時頃、魚町二丁目あたりから出火、折からの烈風
 にあおられ、中町の松阪警察署に移り、伊勢(参宮)街
 道沿いの家並など、町の中心部のことごとくに延焼し、
 中町から愛宕町一帯が焼失した。
  翌3月30日の午後3時頃まで燃え続けた。
  罹災戸数:1318戸、罹災人員:4152人
  県庁から白米を送るなど、県内外から多くの義捐金や
 救助米が寄せられた。
  また、火災後の片付けのほか、罹災者への焚き出し、
 宿舎の提供、町内医師の無料診療・施薬、教員たちの「
 火災緊要書類調製」などが自主的に行われ、救助と復旧
 が図られた。
1893年3月、山縣有朋(やまがたありとも)が枢密院議長と
 なる(1838年~1922年)
  軍人・政治家、陸軍大将・元帥。
  1838年6月14日、長州萩藩(山口県)の蔵元付仲間とい
 う軽輩の家に生まれた。
  家庭的には恵まれず、母は5歳のときに病死し、妻:友
 子との間に3男4女をもうけたが、山県の死後も生きたの
 は次女のみであった。
  吉田松陰の松下村塾門下生として尊攘思想を学ぶ、
  1859年(21歳)藩命で、伊藤博文ら5名と京都に派遣さ
   れ、以来、尊王攘夷運動に参加した。
   この時の伊藤博文との関係が、この後に重きをなす。
  1863年(25歳)奇兵隊軍監に抜擢され、壇ノ浦支営司
   令となる。
  1864年(26歳)英米仏蘭の4国連合艦隊と交戦して負傷
   (4国艦隊下関砲撃事件)
  1868年1月(30歳)戊辰戦争に参加する。
   大村益次郎の姿を見て、この後、継いで行く・・、
  1869年(31歳)西郷従道と共に渡欧する。
   ヨーロッパ諸国の軍制を視察、この後、陸軍創設・
   徴兵令施行・軍人勅諭の発布など軍制の整備に努め
   て行く。
  1870年8月(32歳)帰国直後、兵部少輔となる。
   数日後、兵部大輔の前原一誠が辞任、そのため、実
   質上、明治維新政府軍部の最高首脳となった。
  1871年8月29日(33歳)廃藩置県の実施となる、また、
   山県の兵部大輔就任が重なった。
    直ちに、国軍の創設に着手する。
    薩摩・長州・土佐の3藩の1万の兵で、親兵を組織
   するとともに、
    東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(仙台)の4鎮台を設
   置した。
    ヨーロッパでは数百年を要した兵権統一の大事業
   を一気に実行した。
  1872年(34歳)兵部省が廃止となり、代わって陸軍・
   海軍両省が設置され、陸軍大輔に任じられる。
  1873年(35歳)陸軍卿となる。
  1877年(39歳)2月、西南戦争、征討参軍となる。
  1878年(40歳)初代参謀本部長。
   参謀本部、監軍本部を設置し、統帥権の独立(参謀本
   部を陸軍省から独立させ)を進め、
    軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と、
   軍令(統帥)の区別を明らかにした。
  1878年(40歳)「軍人訓誡」
  1882年(44歳)「軍人勅諭」を発布。
  1885年(47歳)初代内相。地方制度を整備する。
    第1次伊藤博文内閣で、はじめて軍務外の内務大臣
   に就任した。
    黒田清隆内閣でも引き続き内相を務める。
  1887年(49歳)官僚制度の出発点となる文官試験制度
   を施行した。
    国のエリートが国の組織に加わりやすくした。
  1888年(50歳)市町村制を公布(翌年施行)した。
    内務卿になるまで、陸軍卿(初代)、近衛都督、西
   南戦争(1877年)における征討軍参謀、参謀本部長な
   ど陸軍の枢要ポストを歴任した。
  1889年(51歳)12月~1891年5月、組閣(第1次山県内
   閣)
  1890年(52歳)この年まで内相を兼ね、全国を包括す
   る警察制度の実現にも努めた(1900年3月治安警察法
   公布)。
  1890年(52歳)陸軍大将
  1891年(53歳)元勲礼遇
  1892年(54歳)第2次伊藤内閣の司法大臣
   伊藤博文と共に明治政府の指導的立場となる。
   内務卿・枢密院議長・総理大臣等を歴任して行く。
  1893年(55歳)枢密院議長
  1894年(56歳)~1895年、日清戦争、第1軍司令官
  1898年(60歳)~1900年9月、組閣、再び首相に・・、
   以後、元帥に、そして、元老格として陸軍、政界、
   官界、警察に、そして、内政、外交のお目付け役と
   なる。
  1898年(60歳)元帥
  1900年(62歳)5月、軍部大臣現役武官制を設ける。
  1904年(66歳)~1905年、日露戦争、参謀総長兼兵站
   総監
    両戦争後に戦史編纂。
  1909年(71歳)朝鮮での伊藤博文暗殺。
    軍および政界を支えた。
    大正期(1911年)になると制肘力は衰え・・、
  1921年(83歳)宮中某重大事件で、山県が主張する婚
   約解消論が敗れると、小田原の古稀庵に閉じこもり、
   第一線を退く・・、
  1922年2月1日(85歳)死去。
.
  (今日の言葉)
.
  題:近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
   限界に達している。
    グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義や
   資本主義が、レールを踏み外している。
    日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う問題が
   必ず、何らかの形で噴出する。
.
紀元前5万年、ベーリング海峡を渡って、東ユーラシア大
 陸の人々がアメリカ大陸へ渡った。
  また、約3万年前~1万3000年前のウルム氷期の最寒期
 とされる頃に、ベーリング海峡地域は陸地化していて、
 いわゆるベーリンジアとなっていた。
  ユーラシア大陸のモンゴロイドは、このベーリング地
 峡を渡ってアメリカ大陸に進出した。
  (参考)ベーリンジア(ベーリング陸橋):現在のベ
     ーリング海峡付近に、上部洪積世の氷期に陸化
     していた陸地のこと。
      人類の新大陸への渡来の経路、および、時期
     と深くかかわりあう、その古環境とともに注目
     されていて、ベーリンジアいわれる。
      氷河形成による海水面低下により出現したも
     ので、陸橋が存在していたのは約5万年前から約
     3万5000年前までの期間と、約2万5000年前から
     約1万年前までの期間だという。
  日本には、「血は争えない」という言葉がある。
  ベーリング海峡が、まだ地続きだった頃、だから、大
 昔の大昔、日本などの東ユーラシア大陸の人々が、その
 地続きのベーリング海峡を歩いて渡って、アメリカ大陸
 へ行った。
  そして、とうとう、風の吹きすさぶパタゴニアまで、
 南アメリカ大陸の南の最南端まで行き着いた。
  だから、アメリカ大陸、北米・中米・南米、そして、
 その離島まで、その東ユーラシアの人たちで満ちた。
  北アメリカ大陸を見ても、北はアラスカなどのエスキ
 モーの方々、そして、アメリカ合衆国のアメリカ・イン
 ディアンの方々、その隣のメキシコ・インディオの方々。
  しかし、「カナダが未定となっている・・空白となっ
 ている」・・??
  何故なのだ??
  そこにも、人が居たわけだ・・東ユーラシアからの人
 が・・。
  そして・・それが・・分かった。
  最近、カナダへ旅した方の写真に、今は居ないカナダ・
 インディアンの方々の集落の写真があった。
  このカナダ・インディアンの方々の記念館もあった。
  「このカナダ・インディアンの方々は、今、存在して
 いるのですか?」との質問をした・・、
  かつてからの、以前からの疑問だったことを質問させ
 て戴いた。
  その方は、「黙って」居られた。
  その方の「その答え方」から答えは分かった。
  その方の答え方は、「そうだろう」と予想は出来てい
 た。
  やはり、「血は争えなかった」。
  隣国の富を、(キリスト教の)神の義があるからと、
 隣国の人々を殺戮してまでして「奪う事を是認する宗教」
 に洗脳されて、アメリカ合衆国と同じことをやっていた。
  カナダは、特に、「バッファロー狩り」で、食糧を奪
 う方法で、カナダ・インディアンの方々を絶滅させてい
 た。
  特に、アメリカ合衆国より寒冷の地・カナダでは、こ
 の攻撃方法は、たまらなかっただろう。
  このカナダの、特に、悲惨な事は、生き残りの方々が
 居ないことだ。
  また、完全に、その事実が覆い隠されている事だ。
  この悲惨な行為をしたという事を懺悔して、すべての
 事実を、すべての史実を、世界へ公表して、懺悔し尽く
 すべきだ!
  また、国の半分を返還して、完全絶滅させた「カナダ・
 インディアンの方々」を祈念すべきだ。
  (参考)血は争えない:この「血」は、『血統』(先
     祖から代々受け継がれてきた血のつながり、血
     すじ)を意味する。
      そこから、血=親、先祖を意味し、
      「子は、親と同じ道を歩むものが多い」とい
     うことを表している。
.
紀元前800年、ギリシャに、「民主主義が発祥した」と言う
 が・・、
  今・現代、民主主義が発祥した当時の民族とは、まっ
 たく違った民族となっている。
  その様なギリシャが、今、その様なことを言えるのだ
 ろうか?
  「かつて、民主主義を発祥させたギリシャに住んだ『
 かつてのギリシャ民族』とは違う・・今・現代のギリシ
 ャ人」とは言える。
  だから、それを言うなら、但し書きを付けて言わねば
 ならない。
  日本だって、今の様な移民政策をしていたら、この素
 晴らしい遺伝子を持つ日本民族とは違う日本民族となる
 であろう。
  素晴らしい素質と業績を持つ今の日本人は、消えて無
 くなってしまっているだろう。
  ギリシャは、紀元前800年に、民主主義を発祥させたが、
  紀元前2世紀に、ローマ帝国に組み込まれ、国柄ががら
 りと変わった・・風土もがらりと変わった。
  また、15世紀には、オスマン帝国に駆逐された。
  1829年に、ギリシャは、2600年間以上もの空白の期間
 を経て、やっと、ギリシャという国としての再興がなさ
 れた。
  ・・が、しかし、かつての、アテネはないと言って良
 い状態となっていた。
  荒れ果てて、人口もほとんど居なくなっていた。
  ほんのわずかな数・・4千人程度を数える程度だった。
  そして、この時、ギリシャ人ではなく、ドイツ王子が
 ギリシャ王となった。
  この様な歴史のギリシャには、スラブ民族が流入した。
  そして、アラブ民族が流入した。
  そして、さらに、ラテン民族が流入した。
  色々な民族が流入して、移民と言えば移民かもしれな
 いが、まったく栄光のギリシャは、何処に引き継がれた
 のか?と問えば、探しても見つからない様な状態となっ
 ていた。
  陸続きであって、民族の単一性が保たれたなんて、完
 全に言えない状態となっている。
  ギリシャの地域に居る古代とまったく違った「ギリシ
 ャ人と名のる人々」となった。
  日本もこの様になるのだろうか?
  アメリカだって、すでに、「ピルグリム・ファーザー
 ズの人々」とは、まったく違った人々が、国民となって
 しまっている。
  (参考)ピルグリム・ファーザーズ:アメリカに渡っ
     たイギリスのピューリタン(清教徒)たち。
.
16世紀~18世紀、フランスは、アンシャン=レジームの社
 会・政治体制だった。
  国民は、三つの身分に大別されていた。
  第一身分がキリスト教聖職者で、この層が最上位で虐
 げていた。
  そして、第二身分が貴族、第三身分に市民や農民が居
 た。
  キリスト教聖職者は免税特権を持っていた。
  この状態を風刺した絵が残っているが、「市民の上に
 石を乗せて押しつぶし、その石の上にキリスト教聖職者
 と貴族が乗っている」。
  社会のうまい汁を吸うキリスト教聖職者と貴族を糾弾
 している。
  市民や農民は、手足をばたつかせて喘(あえ)ぐ社会
 だった。
  アンシャン=レジーム・・旧体制。
  この圧迫がフランス革命の素地(そじ、もととなるも
 の)・・
.
17世紀後半~18世紀初頭、元禄文化
  日本の社会も安定し、農村における商品作物の発展と、
 それを基盤として都市町人の豊かなる台頭による産業の
 発展があり、経済活動が活発化していた。
  その様な社会の中で、文芸、学問、芸術が著しく発展
 した。
  庶民の生活・心情・思想などが、出版物や劇場を通じ
 て表現されていた。
  小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左
 衛門、絵画の尾形光琳や菱川師宣、工芸の尾形乾山、儒
 学の貝原益軒や新井白石、古学の山鹿素行や荻生徂徠、
 国学の賀茂真淵などは、日本の歴史上、凛然と輝く存在
 となっている。
  日本の施政者は、国民が豊かに安心して暮らせれば、
 国全体が栄えるという事を知っていた。
  また、天皇陛下の御役目は、国民が平和に暮らせるよ
 うにと祈る事だった。
  日本人は、古来より「殿様も農民も、一つの船に乗り
 込む」という人たちだった。
  日本には、古来より自然発生的な民主主義があり、何
 もヨーロッパに教えられたというものではなかった。
  この様な日本、この様な徳川の治世、古い昔からの日
 本の状態を、ヨーロッパからみれば「まったく信じられ
 ない」と感嘆の声を上げるに違いない。
  日本は平和で豊かな国だった。
  ヨーロッパのフランス革命のような、虐(しいた)げ
 られる農民の方々が、特権階級の貴族やキリスト教会に
 対して、武力によって革命を起こしたのとは、まったく
 違っている社会だった。
  ヨーロッパは、上の者が下の者を徹底的に蔑(さげす)
 み、下の者が上の者を徹底的に恨(うら)み憎(にく)
 む構造だった。
  革命では、長年(ながねん)鬱積(うっせき)したそ
 の憎しみからギロチンの嵐となった。
  日本は、何千年も持っていた「同じ船に乗っている」
 という感覚の社会だった。
.
17世紀末、ロシアが、カムチャッカ半島まで来た。
  ロシアは、生活することが難しいこの地・極寒の地で、
 生活する食糧などの生活必需品を求め、1792年に、ロシ
 アの最初の使節であるラックスマンが、日本へ派遣され、
 江戸幕府に通商を求めた。
  江戸幕府は、これを拒絶した。
  すると、ロシアは、日本人が居住して日本領となって
 いる樺太(サハリン)や、択捉島(エトロフ島)の日本
 の拠点を襲撃した。
  幕府は、松前藩に、北海道東部(東蝦夷)も管轄地(
 直轄地)として与え、ロシアに備えさせる国防任務をさ
 せた。
.
1786年、最上徳内が、日本の領土である国後島・択捉島を
 探検した。
  また、その北の得撫島(うるっぷとう)も探検し、日
 本の領土と主張し得る足跡を残した(~1799年)
  日本固有の領土の北方4島と得撫島が、この時、確定
 された。
.
1789年7月14日、フランス革命
  この日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機として、フラ
 ンス全土に騒乱が発生した。
  このフランス革命で60万人もの方々が命を落とした。
  圧迫される民衆が、止むに止まれず起こしたフランス
 革命のバスティーユ襲撃。
  (参考)止むに止まれぬ:やめようとしても、やめら
     れない。そうするよりほかない。
  フランス革命が起きる前の社会情勢は『卑劣な最悪社
 会』だった。
  特に、権力を得たキリスト教聖職者が民衆を圧迫して
 いた。
  市民革命のフランス革命は、起きるべくして起きたの
 だった。
  農産物の不作もあって物価は高騰し、庶民の不満は頂
 点に達していた。
  1789年10月5日、パリの数千の女性方が武器を持って雨
 の中を、パリ市役所前の広場に集まった。
  そして、ヴェルサイユ宮殿に乱入し、国王と議会に、
 食糧を要求した。
  一部は暴徒と化し、ルイ16世は、この圧力により人権
 宣言を承認して、女性たちに連れられてパリのテュイル
 リー宮殿に家族と共に移り住んだ。
  ルイ16世一家は、これ以降、パリ市民に監視下で暮ら
 した。
  この様な市民の爆発が起きる原因、その圧迫の原因者
 は、貴族とキリスト教聖職者にあった。
  特に、キリスト教聖職者は悪辣だった。
  革命勃発以後、キリスト教聖職者などの特権階級の多
 くが、国外逃亡をしなければならないくらいだった。
  特に、1792年5月~1794年10月まで、キリスト教は徹底
 的に攻撃された(キリスト教は弾圧と称しているが?)。
  また、革命勃発以来、キリスト教聖職者の追放と、キ
 リスト教会への憤懣が爆発し、破壊と略奪が続いた。
  この様な状態を引き起こしたキリスト教は、それまで、
 権力と金を欲しがって行動していた。
  信徒を増やしたり、信徒が欲しいなんて全く関係ない
 という状態だった。
  権力のあるものにすり寄り、自らも権力を得て行った。
  そして、世俗の王を越える地位さえ得た。
  「キリスト教の教会前の門にヒザまづいて許しを乞う
 王さえいた・・カノッサの屈辱(1077年1月)』
  キリスト教聖職者は、民衆の搾取に関して、貴族に決
 して劣らず悪辣だった。
  生活も王侯貴族並みの贅沢三昧な生活をしていた。
  また、愛人も王侯貴族なみの数の愛人を囲っていた。
  キリスト教に偏するNHKは、決してこの様な放送は
 しない・・日本を貶める放送ばかりをするNHKとなっ
 ている。
  キリスト教は、納税の義務からも逃れていた。
  しかし、逆に、民衆からは、苛酷に税金を奪い獲った。
  18世紀後半、フランス革命の前の頃、キリスト教聖職
 者は、莫大な教会税を民衆に課していた。
  民衆は8割が農民だった。
  この農民が、貴族とキリスト教会を支えていた。
  民衆は、重い年貢の他に、地代、塩税、人頭税、賦役
 労働、水車使用料・竈(かまど)使用料などを支払わさ
 れた。
  裁判権も奪われ(キリスト教裁判所)好き勝手、やり
 たい放題に虐げていた。
、 フランス革命は、起きるべくして起きた。
  民衆は爆発した・・だから、フランス革命は残虐な復
 讐劇を演じた・・公開のギロチン刑の嵐が現出した。
  その後も、反乱が起き、恐怖政治が起き、大量殺戮が
 起き、キリスト教と貴族の圧迫の反動は「まったく卑劣
 な状況」となった。
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18世紀後半、イギリスで綿糸をつくる紡績機や、綿糸で布
 を織る綿織物の分野で、早く大量に製品を製造できる機
 械が次々と発明された。
  また、石炭を燃料とする蒸気機関も改良され、紡績機
 や織機などの動力として用いられるようになった。
  人々は大きな工場に集められ、集団で働くようになっ
 た。
  生産量は飛躍的に増大した。
  人々も、かつての毛織物に代わって、インド産の木綿
 を原料にした綿織物の衣服を着た。
  かつては田園だった所に、黒い煙を吐き出す工場が立
 ち並ぶという都市が出現した。
  鉄道も発達し、工業を中心とする社会に変化して行っ
 た。
  19世紀半ばには、約50年遅れて、この生産システムが、
 フランス、ドイツ、アメリカに広がった。
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1808年、間宮林蔵が、樺太全土をほとんど探検し、間宮海
 峡を渡って、大陸のアムール川流域まで探検した(~1809
 年)
  アングロ・サクソン風に言えば、樺太全土は日本の領
 土である。
  また、アムール川流域も日本の領土である。
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19世紀末、李氏朝鮮(りしちょうせん)は1392年から1910
 年にかけて朝鮮半島に存在し、朝鮮王朝、朝鮮封建王朝
 と呼ばれた。
  1392年、高麗の武将・李成桂太祖(女真族と言われる)
 が恭譲王を廃して、自らが高麗王に即位した事で成立し
 た。
  朝鮮という国号は李成桂が、明の皇帝から下賜された。
  そして、1401年、明から冊封を受けた。
  17世紀以降、中国王朝が清に変わっても、引き続き冊
 封されていた。
  李氏朝鮮は貧しく、特に、末期の朝鮮半島は、大変貧
 しく、どうしようもない国だった。
  宗主国の清国と、ロシアと日本の間を右往左往した。
  そして、結局、日本に併合を求めて来た。
  改革開明派は、特に強く日本に期待し、求めた。
  日本は、国際条約に基づき、保護国として併合を行な
 った。
  国際社会は、至極当然のようにして何も言わなかった。
  アメリカやイギリスの様に武力によって併合したので
 はない。
  また、日本は、アメリカやイギリスの様な収奪はしな
 かった。
  資本を投下して、インフラの整備をして行った。
  また、あらゆる面の改善を行なった・・その結果、衛
 生環境も見違えるほど向上し、朝鮮半島の人口は『3倍
 になった』。
  また、捨てられ、忘れ去られていたハングル文字を復
 活させた・・また、普及させた・・
  今、ハングルが、韓国で便利に使われているのは、こ
 の時の日本の改善のお蔭。
  学校教育も充実させた・・学校をどんどん作った。
  朝鮮半島は、中国の宗主国の習慣におもねってハング
 ル文字を忌避し、漢字を使っていたが、日本がハングル
 を使いやすく合理的だと復活させた。
  清の冊封体制へのごま摺り体質を変えた。
  アメリカは、可哀想に、フィリピンを強引に異国の言
 葉・英語化したが・・、
  日本は、納得の上で、韓国・朝鮮に存在したもので、
 この様に改善した、今、韓国は、そのハングルが無けれ
 ばやっていけない社会となった。
  これは福沢諭吉の卓見だった・・
  諭吉のハングルと漢字の「漢字かな混じり」は優れた
 提案だった。
  この効果があり、朝鮮半島の教育は、急速に普及した。
  識字率は飛躍的に高くなった。
  近代化への路も急速に進んだ。
  この様な事を知っている東南アジアの国々は、韓国と
 違って、日本に本当に『期待した』。
  正しい行為は理解されている。
  この様な日本の『自立した独立国家としての形』を待
 望している。
  正しい日本の行為は、今、日本の財産となっている。
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2016年、放送大学は嘘を教える。
  この様な講座なら聞かない方が良い。
  例えば1例、アメリカ合衆国のバッファローは乱獲され
 て絶滅寸前まで行ったと教えたが、これは嘘。
  正しくない。
  正しくは、先住民の方たちの絶滅を計画して、この目
 的のために、インディアンの方たちが食糧としていたバ
 ッファローを狩り続けた。
  その目的だけの為に、ひたすらバッファロー(アメリ
 カ野牛)を殺した。
  アメリカ・インディアンの方たちが、自分たちの生き
 る糧だから、大切に狩りをして来た大切なバッファロー
 を、無意味に、ただアメリカ・インディアンの方たちを
 絶滅させたいと、アメリカはバッファロー狩りをした。
  その写真が残っている。
  バッファローが無意味に大量に殺され、アメリカ西部
 の野原に山と無残に積まれている・・という写真がある。
  そして、そのバッファローの山の上に、アメリカ人(
 白人)が誇らしげに立っている。
  しかし、放送大学はこの事にまったく触れない。
  真実を放送しない。
  わざわざ日本国民の電波を使って「嘘講義をしている」。
  誤認混同を起こす嘘講義をやっている。
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2018年、もはやEUという国は、いや、EUという地域は、
 国境線の内に閉じこもる地域と化した・・国々と化した。
  EUは、理想を掲げたが、どこかで道を誤った。
  今は、広がったEUの国境線の内に閉じこもる「理念
 とはまるで違った国・加盟国らの姿になった」。
  グローバリズムは終わった。
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2018年、日本に来て、日本の国籍をとっても、日本に来る
 前の国の国柄を持っていて、前に居たた国の国柄を壊し
 たくないと、前の国の国柄を愛し、失いたくないとして
 いる、日本の国籍を取った日本人たち。
  日本の国柄を壊す、日本に来たこの人たち。
  韓国や中国から来た人に、この様な状態になっている
 人が多く居る。
  特に、最近、不気味なのは、日本人の様な顔をして、
 積極的に日本を壊す行動・実力行使をしていること。
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2018年1月22日、「グローバル化にきしむ米国」と、この日
 の読売新聞は掲載している・・、
  「破綻するアメリカ」の著者・会田弘継氏(大学教授)
 が発言している。
  今、アメリカの中間層は、絶望感と疎外感を抱いてい
 るという。
  一部の富裕層のみの所得の伸びとなっている経済で、
 中間層は、置いてきぼりというより、貧困層に次々と脱
 落している・・と・・、
  そして、この層は、グローバリズムの要請である多文
 化主義などが「押し付けられている」と反発を感じてい
 る・・と・・、
  そして、グローバル化が、先進国の中間層以下を根源
 的に苦しめる構造になっている・・と・・、
  そして、これが、もはや一国では解きがたい難問とな
 っている・・と・・、
  近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
 限界に達している・・と・・、
  国家や民主主義を動かしてきた近代の制度が崩れ、バ
 ラバラとなる遠心力が働いていて、違いばかりが強調さ
 れている・・と・・、
  深い構造的な変化が起きて、巨大な精神的破綻が起き
 つつある・・と・・、
  グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義
 や資本主義が、レールを踏み外している・・と・・、
  日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う
 問題が必ず、何らかの形で噴出する・・と・・、
  所得の分布割合などを見れば、日本もすでに、20世紀
 前半(後退した)水準に近づきつつあり、庶民の怒りが
 暴動(日比谷焼き打ち事件の様な)に転化しうる可能性
 は十分にある・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
  


Posted by 北国の暖かい方たちとともに at 05:10Comments(0)