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2017年12月12日

(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)

題:(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月23日、ピエール・ド・クーベルタンがオリンピ
 ックを提唱した。
  クーベルタンは男爵で、1863年生まれのフランスの教
 育者。
  古代オリンピックを復興させ、「近代オリンピックの
 創立者」と言われている。
  歴史書のオリンピアの祭典の記述に感銘を受け、古代
 オリンピックの復興を演説し、近代オリンピックを提唱
 した。
  そして、賛同者によって国際オリンピック委員会が設
 立されて・・、
  1894年6月23日、パリで、スポーツ競技者連合の会議が
 開催された時、その席上で、古代オリンピックにならっ
 た近代オリンピックの開催と、その為の国際オリンピッ
 ク委員会(IOC)の設立が決定された・・そして・・
  1896年のアテネ・オリンピックの開催につながった。
  この時、オリンピック讃歌が演奏された。
  この讃歌は、この第1回の大会のために、ギリシャの詩
 人パラマが詩を書き、同じく、ギリシャのオペラ作曲家
 スピロス・サマラスが作曲した。
  この後、この曲は忘れられていたが・・
  1958年、東京で、IOC総会が開催される間際、日本
 のIOC委員である東竜太郎へ、ギリシャのIOC委員
 から「第1回アテネ大会のオリンピック讃歌の譜面が見つ
 かった」と連絡が来た。
  その古い楽譜を、日本人が編曲し、また、訳詩して、
 62年ぶりに復活させた・・そして、集まったIOC委
 員の前で演奏した。
  集まった委員たちは感動し、以後、この曲を正式なオ
 リンピック讃歌とすると決定がなされた。
  因みに、東京オリンピックの開催は、1964年。
  五輪のマークも、クーベルタンが考案し、1920年のア
 ントワープ大会以降、開会式で使われている。
  彼は、第2代の国際オリンピック委員会の会長となって
 いる。
  しかし、「オリンピックは、勝つことではなく参加す
 ることにこそ意義がある」は、彼の言葉ではない・・他
 人の言葉を引用しただけ・・、
  また、クーベルタンは、社会進化論の信奉者で、「優
 れた人種は、劣等人種に社会的恩典を与えなくてもよい」
 と考えていた。
  1936年のナチス・ドイツのヒットラーの主催するベル
 リン大会を、クーベルタンは非常に喜んだ。
1892年11月24日、民法・商法の施行延期法を公布した。
  1890年に公布された旧民法は、1893年1月から実施され
 ることになっていた。
  しかし、1889年の東京大学法学士会の「民法は天賦人
 権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意見
 の発表から論争が起こった。
  穂積八束(ほづみやつか、東京帝国大学法科大学長、
 衆議院議員、法典調査会査定委員)などは、国情にそぐ
 わないなどの意見を述べた。
  穂積の言葉である「法出デテ忠孝亡ブ」は非常に有名
 となった。
  因みに、氏は、日本法律学校(現在の日本大学)の設
 立に参画している。
  また、この翌年の1890年に公布された民法典、および、
 商法典の実施可否を巡って、延期派と断行派に国論を二
 分するはげしい論争が起こった(民法典論争)
  1880年以来、本格的な編纂が開始された民法は・・、
  1890年4月に、フランス人ボアソナードの起草になる財
 産法の部分が、同年・1890年10月に、日本人委員の起草
 になる身分法の部分が、いずれも元老院・枢密院の審議、
 修正を経て公布され、1893年1月1日から施行されること
 になっていた。
1892年11月25日、第四通常議会が召集された。
  第4回帝国議会の開催、1892年11月29日開会~1893年2
 月28日閉会 (通常会)
1892年11月27日 伊藤博文が、交通事故に遭遇した。
  伊藤博文の人力車が馬車と衝突し、伊藤首相は、しば
 らく意識不明の重体となった。
  井上馨内務相が、この日に臨時首相代理となり、1993
 年2月27日までの約2ヶ月間を務めた。
  この頃の道路は、今・現代の様では、当然、無く・・、
 非舗装で、雨が降れば水が溜まるところもあった。
  この頃は、自動車が表れる直前の頃で、人力車や馬車
 が一般的な乗り物だった。
  現代の自動車の様に、多くの台数が道を往来していた
 訳ではないが、けっこう事故は多かった・・、
  因みに、自動車は、1907年頃から利用され始める。
  また、自動車の出初めには、自動車を避ける方法を人々
 が慣れていなくて・・上手ではなく事故が多くなった。
  危険を感じ・・くもの巣を散らす様に逃げ惑ったとい
 う・・そのため、かえって車に轢(ひ)かれたという。
  運転手側、歩行者側、共に、双葉マークだった。
  多いのが馬車との接触事故、車におどろく馬の暴走に
 伴う事故が頻発した。
1892年11月28日、讃岐鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
  讃岐鉄道は、香川県にあった会社線で、高松から琴平
 まで・・金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立
 された。
  この会社は、1890年に、女子の出札社員の募集をした
 が、成功しなかった。
1892年11月30日、千島艦事件(11月25日説あり)
  愛媛・松山沖で、日本の軍艦の水雷砲艦「千島」が、
 イギリス船と衝突し、沈没した。
  乗組員70人余が溺死した。
  沈没補償を巡って、日英両国間で係争事件となった。
  フランスで建造され、フランスから神戸へ回航中の日
 本の軍艦・水雷砲艦「千島」が、イギリス商船・ラヴェ
 ンナ号と、愛媛県堀江沖で衝突し、千島が沈没し、74名
 の乗務員が溺死した。
  日本政府は、ラベンナ号に不当航行の過失があったと
 して、翌年・1893年5月に、その所属会社P&O(ピーア
 ンドオー)汽船会社を相手取って、85万円の損害賠償を
 請求して、横浜のイギリス領事法廷に出訴した。
  これに対し、会社側は、逆に、10万円の損害賠償を求
 めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求が不当だとされて、反訴が却
 下された。
  会社側は、その判決を受け、上海(シャンハイ)の領事
 法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は第一審判決を破棄して、会社側
 を支持した。
  そのため、日本の世論は、その不当性と日本政府の処
 置を非難し、湧きたった。
  野党の反政府諸派が、議会内外でこれを利用して、第
 二次伊藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対する運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年7月、枢密院は、上海領事法廷の判決を破棄して、
 横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、ふたたび横浜領事庁で争われることになった。
  1895年9月、和解となって、和解が成立した。
  会社側は、訴訟費用のほか、英貨1万ポンド(邦貨9万
 余円)を支払う事となり、事件は落着した。
1892年11月30日 伝染病研究所が設立された。
  (北里柴三郎・福澤諭吉・森村市左衛門らによる大日
 本私立衛生会伝染病研究所・・)
  北里柴三郎博士によって、最初の伝染病研究所が東京
 の芝公園内に建設され、設置された。
  福沢諭吉師が、北里博士に協力し、無償で別邸を貸与
 した。
  土地は福沢の所有で、研究資材は森村市左衛門の寄付
 によった。
  (参考)森村市左衛門:武具商・陶磁器業などを営ん
     だ森村財閥の当主。
      遠江国森村(現:静岡県菊川市)出身で、旗
     本屋敷などに出入りする武具商。
      日米修好通商条約で横浜が開港されると、横
     浜で外国人から洋服・靴・鉄砲・懐中時計など
     を仕入れ、土佐藩・中津藩などに販売を始めた。
      この頃、中津藩の福沢諭吉と知り合った。
  ここは、後に、大日本私立衛生会の所属となり、研究
 所を国へ寄付し、内務省の管轄となった。
  1914年(大正3年)12月、 私立伝染病研究所(現・東
 京大学医科学研究所)が内務省から文部省に移管され、
 東京大学に合併される時、
  初代所長・北里柴三郎は、移管に反対して所長を辞任
 した。
  この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉
 に辞表を提出し、総辞職となった(伝研騒動といわれる)
  本来の目標の遂行に懸念を抱いた北里柴三郎は・・、
  1914年11月5日に、新たに私費を投じて、私立・北里研
 究所を設立・創立して、信念を貫いた。
  1918年、北里研究所が社団法人として認可された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かったら・・
    それを防ぐことは不可能という現在の日本がある。
.
1223年、運慶(うんけい)が没した。
  運慶の生年は不祥である。
  運慶は、仏師であり、南都(現:奈良県)を拠点とし
 た奈良仏師の流れを引いている。
  宇治の平等院(京都府)の阿弥陀如来坐像(国宝)は
 定朝(じょうちょう)が造立した。
  運慶は、この流れを汲む。
  定朝以後、仏師は三つの派に分かれた。
  それが、「院派」「円派」「慶派」で、運慶は慶派で、
 運慶の父・康慶には、この「運慶」の他に「快慶」「定
 慶」らがいる。
.
1598年、キリシタン大名が武器の供給を受ける。
  キリスト教は、日本で弾圧を受けたと一方的に言うが、
 これは嘘、いつものキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  キリスト教から、武器や弾薬の供給を受けた九州の弱
 小の不利な状態の大名は、そのキリスト教宣教師からの
 武器・弾薬の供給をあてにした・・そして、キリシタン
 大名となった・・背に腹は代えられずで、信仰上でキリ
 シタン大名になったのではなかった・・それ故、息子や
 孫の代ではキリシタン大名ではなくなっている。
  この大名たちは、武器・弾薬供給者のキリスト教宣教
 師たちに頭が上がらなくて・・キリスト教宣教師たちの
 やりたいことを好きにやらさせた。
  キリスト教宣教師たちは、信徒を煽(あお)って、信
 徒と共に、仏教寺院や神社などを破壊し打毀(うちこわ)
 した・・弾圧した。
  この様な最中(さなか)、長崎県曙町(あけぼのまち)
 にある、悟眞寺は開かれた・・抵抗・弾圧の中に開いた。
  この長崎県のキリスト教勢力の強い状態の中、浄土宗
 を布教しようと、厳しい弾圧を受けながら、僧・玄故(
 げんこ)上人は弾圧に立ち向かった。
  日本は、キリスト教を弾圧したと言うのはキリスト教
 の嘘宣伝であって・・
  また、例えば、長崎出島のオランダ商館が、キリスト
 教式の埋葬の仕方で、埋葬を行いたいと江戸幕府に願い
 出れば・・、
  1654年に、幕府は、その許可を出し・・そして・・
 出島近くの墓地で、希望のとおりに埋葬が行なわれた。
.
1871年12月23日、岩倉使節団が出発した(~1873年9月13日)
  この岩倉使節団が、欧米に2年間近く派遣された時、
 伊藤博文は、大使の岩倉具視に次ぐ副使となった。
  到着して、英語が話せる伊藤は、使節団を代表して演
 説した。
  その中で、伊藤は、数百年続いた我が国の古い制度は、
 「1個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、撤廃され
 た」(廃藩置県の事を言っている)と述べた。
  そして、日本の国旗にある赤い丸は、「今まさに洋上
 に上ろうとする太陽を象徴し、我が日本が欧米文化のた
 だ中に向けて躍進するしるしであります」と述べた。
  これを聞いた聴衆は、万雷の拍手をした。
  この演説は「日の丸演説」と言われて有名。
.
1874年、殖産興業に関する「大久保利通の建白書」・・
  「そもそも国の強弱は、人民の貧富によるものであり、
 人民の貧富は物産の多少とかかわりがある。
  そして、物産の多少は、人民が工業に励むかどうかに
 根差すが、そのおおもとは、何処の国でも政府の指導奨
 励によるのである」。
  国の中心に居た大久保利通は、外国の機械を購入し、
 また、外国の知識人を招聘した。
  惜しまず資金をこの面に投入した。
  そして、速やかな技術の日本への定着を狙って、製糸
 や紡績などの官営工場を建設した。
  そして、その要点を掴(つか)んで来ると、その工場
 を民間に払い下げ、進んだ外国技術の広範な国内定着を
 して行った。
  江戸時代に、すでに、日本にあった近代的工業生産の
 意識が、この時、大きく花開いて行った。
  それを支えたのが、日本の高い教育水準にあった人た
 ちだった。
  日本に、すでにあった土台の上に、導入した西洋技術
 がより成熟して行った。
.
1877年(明治10年)5月、幕末の志士・桂小五郎(木戸孝允、
 鞍馬天狗のモデルとも言われている)が死去した。
  そして、この年、東京大学が、最初の総合大学として
 設立された。
  そしてまた、民間でも慶應義塾、同志社、東京専門学
 校(早稲田大学の前身)が設立され、日本に西洋の学問
 が定着して行った。
  それにつれて、医学や物理学、そして、化学などのあ
 らゆる分野で、日本人による本格的研究が始まり、そし
 て、世界的な業績を残す人々が出始めた。
  世界的な発明や発見が、相次いで生まれて行った。
  その主な方々だけでも・・、
 ・北里柴三郎(破傷風血清療法の発見)、
 ・志賀潔(赤痢菌の発見)、
 ・野口英世(黄熱病の研究)、
 ・鈴木梅太郎(ビタミンB1の発見)、
 ・高峰譲吉(ジアスターゼの創薬)、
 ・木村栄(緯度変化の研究)、
 ・大森房吉(地震計の発明)、
 ・長岡半太郎(原子模型の研究)らの方々だった。
  また、文化・芸術に関する方面でも日本人の優秀さが
 示されて行った。
  文学者としては・・、
 ・写実主義の坪内逍遥(小説神髄)、二葉亭四迷(浮雲)、
 ・ロマン主義の島崎藤村(若菜集)(詩集)、与謝野晶
  子(みだれ髪)(歌集)・・そして・・、
 ・ロマン主義から自然主義への動きの中に国木田独歩(
  武蔵野)、田山花袋(布団)、石川啄木(一握の砂)
  (歌集)、森鴎外(舞姫)(高瀬舟)、夏目漱石(吾
  輩は猫である)(こころ)・・など・・、
  新しい日本の文学の出発点には、坪内逍遥が居た。
  そして、日清戦争の前後に、人間の自由な感情を重視
 するロマン主義が起き、島崎藤村らが活躍した。
  日露戦争の頃には、人生や社会の現実をありのままに
 描く自然主義文学が盛んになって、田山花袋らが注目さ
 れた。
  森鴎外は、ヨーロッパ文学を紹介し、晩年には歴史小
 説を書いた。
  また、明治時代の芸術面では、西洋の近代芸術が、堰
 (せき)を切ったように押し寄せて来る中で、日本の伝
 統文化とは何かを深く考えた時代だった。
  文明開化の頃、日本の古い仏像や美術は価値のないも
 のとする欧米崇拝の風潮となった。
  これによって多くの仏像や寺が壊され、捨てられた・・
 また、貴重な芸術作品が海外へ流出した。
  これを救ったのが東京大学の外国人教師であったフェ
 ノロサだった、また、岡倉天心だった。
  伝統芸術を保存する事と復興する事に努めた。
  日本の芸術作品の価値が再評価された。
  狩野芳崖らは新しい日本画のあり方を模索した。
  洋画では、高橋由一や浅井忠らが写実的な油絵を描い
 た。
  また、彫刻では高村光雲らが活躍した。
  音楽では滝廉太郎らが活躍した。
.
1884年12月4日、朝鮮で甲申事(こうしんじへん)変が起
 きた。
  金玉均(きんぎょくきん、1851年~1894年)が、朝鮮
 で政変(クーデター)=甲申事変を起こした。
  しかし、中国・清国軍が介入して3日で失敗した。
  この頃、朝鮮は、清国の冊封国として、属国化してい
 た。
  しかし、その清国との関係は、崩壊の危機にあり、国
 を守るにはこれに依拠するより、この従属関係を打破し
 て、独立近代国家の形成を図らなければならないとして
 いた(金玉均らの急進改革派の独立党の考え)
  この朝鮮の急進改革派は、日本との連携を強化したい
 とした。
  しかし、事変は失敗し、金玉均は日本に逃れた。
  金玉均は、後になって、中国に渡り、上海で暗殺され
 た。
  金玉均らの急進改革派は、明治維新後の日本のように
 自主独立の国を目指し、また、明治政府の進める殖産興
 業政策の様に新しい朝鮮を生み出し、近代化したいとし
 ていた。
  ここには、この8年前の1876年の日清修好条規によって、
 朝鮮を開国に踏み切り、独立国家として見る内容・姿に
 目が開かせられていた。
  また、清国の様な見方「朝鮮を冊封国として利益を収
 奪する対象の属国」としては、日本は、まったく見なく
 て、朝鮮を「開国した独立の国家としたい」としていた。
  その日本の考え方に、金玉均らは、朝鮮の開化を目指
 した。
  そして、1870年代の後半より、日本に接近していた。
  金玉均は、近代技術の導入と軍事力強化のために洋務
 開花論を唱えた朴珪寿の影響を強く受けた。
  また、1879年、開化派の李東仁を、金玉均らは、日本
 に密入国させた。
  そして、福沢諭吉や後藤象二郎などの日本の先人らと
 接触させ、交流も深めていた・・
  金玉均らの開化論は、一朝一夕で出来た開花論ではな
 かった。
.
1891年6月、川上音二郎一座が、東京で初めて、壮士芝居を
 開演した。
  満都の人気を集めて大当たりした。
  1891年2月、自由党の壮士であった川上音二郎は、角藤
 の芝居に刺激されて、書生芝居の一座を起こした。
  そして、「板垣君遭難実記」等をもって、大阪堺の卯
 の日座で旗揚げをした。
  川上は、企画性にすぐれ、また、事業家でもあった。
  また、妻の川上貞奴のひきで後継者にめぐまれ、やが
 て宿願の東上ができることとなった。
  1891年6月、「板垣君遭難実記」と「監獄写真鏡」を東
 京・鳥越の中村座で上演し、大評判となった。
  この川上の成功は、「壮士芝居」の元祖・角藤定憲の
 あとをついで「壮士芝居」発展の道を開き、さらには「
 新派」発生への糸口になった。
.
1894年7月25日、日清戦争が始まった(~1895年11月30日)
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなって来た。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  自国の兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  だから、国際法で守られるはずの戦場の日本の病院が
 襲撃された。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  不公正な卑劣な放送姿勢のNHKとなっている。
  日本の貶める番組ばかり製作して放送するNHK。
.
1894年9月17日、黄海海戦(清との海戦))
  清国は、目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)には、
 清国と日本は、所有する軍艦は共に3隻であったが、清国
 は大型艦で、日本の艦艇は貧弱だった。
  しかし、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力となった(2017年の中国と日本との差の様に)。
  日本も中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)から、
 艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清に追い着
 くことは、しばらく出来なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くようになった。
  この様な中で、1894年9月17日に、黄海海戦を、日清
 両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦したりした。
  また、平城近くでも戦っている。
  日本軍は、九州や沖縄から出撃して行った。
  この黄海海戦は、日本海軍・連合艦隊と清国海軍・北
 洋艦隊の間で戦われた海戦で・・、
  『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われた世界史上初の大
 規模な海戦』だった。
  この海戦の結果、日本は勝利をおさめた。
  清国海軍は、大幅に戦力を低下させ、黄海と渤海の制
 海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所は、黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煤煙を確認し
 た。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取って急接近した。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻で、第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・速射砲で猛烈な砲
 火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く、30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災が発生した。
  この様な戦いが延々と続いた。
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射した。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊が集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
 他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追撃
 態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始し、命中度が高く、艦首から沈没した。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退する。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を開始した。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗、大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁し、放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進したが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、威海衛の戦いをする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈、4隻は鹵獲(ろ
 かく、戦いで得る・ぶんどる)して日本海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は降伏。
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に始まるが・・、
  日露戦争の開戦前・・、ロシア帝国は、満州から兵力
 を引かず・・、
  逆に、シベリア鉄道によって兵力を増強し続けた。
  日本とロシアの兵力差は、完全にロシア有利だった。
  ロシア:日本の兵力差は・・、
  歩兵・・1740:156大隊、
  騎兵・・1085:54個中隊、
  火砲・・12000:636門、
  総兵力・・207万人:20万人、
  戦艦・・11:6、
  装甲巡洋艦・・12:6、
  巡洋艦・・10:12、
  総トン数・・45:26万トン。
  ロシアは、圧倒的な大国だった。
  そして、満州は、ロシア兵だらけだった。
  また、ウラジオストクと大連が、ロシアの軍港で、完
 全に日本はロシアの脅威に囲まれていた。
  そして、ロシアは、1900年に起きた義和団事件を口実
 に、満州へ2万の兵を送り込んで来た。
  そして、そのまま居座った。
  そして、朝鮮半島の国境を越えようとしていた。
  この時、外交官の小村寿太郎の意見が、『日英同盟を
 結ぶべき』の意見だった。
  この意見が政府を動かし、政府の方針となった。
  1902年、日英同盟は締結された。
  因みに、義和団は、郷村(ごうそん)の自衛組織を基
 盤とした「中国の伝統宗教の流れをくむ組織」で、外国
 人を排斥し、殺害行為をし・・、
  そして、北京の各国公使館を包囲した。
  その為、日本やイギリス、アメリカ、ロシアなどの8ケ
 国が連合軍を送り、鎮圧した。
  日英同盟において、イギリスは、東アジアに勢力を拡
 大するロシアを押さえたいとしていた。
  ロシア勢力拡大への懸念から日英同盟を結びたいとし
 ていた。
  ロシアは、日本の10倍の国家予算を持つ、また、軍事
 力も10倍以上だった。
  そして、満州の兵力を増強し続け、朝鮮国境をついに
 越えた。
  そして、朝鮮北部に軍事基地を建設し始めた。
  この勢いは止まる気配はなく、放置すればロシアの強
 大な勢力圏が構築され、領域は不安定な状況となること
 がはっきりしていた。
  日本は、手遅れになることを恐れた。
  ロシアの強硬な進出が原因だった。
  朝鮮は、ロシアの支配下に入りつつあった。
  イギリスやアメリカは、朝鮮半島が、ロシアの支配下
 になることを望まなかった。
.
1904年2月8日、日露戦争
  日露戦争は、日本の生き残りをかけた、安全保障上の
 戦いだった。
  当時、世界最大の陸軍大国だったロシア。
  日露戦争は、何処の国も日本が敗けるだろう、日本が
 勝利することは無いだろうと見ていた。
  巨人に挑(いど)む小さな日本の漫画をフランスの新
 聞が掲載しているが、世界中の見方は、まさに、この漫
 画のごとくだった。
  しかし、世界中の予測に反し、日本の勝利で終わった。
  これは、植民地にされていた人々へ希望を与えた。
  将来の民族の独立の夢を描かせた。
  ヨーロッパで、この結果を、特に、喜んだ国は、長年、
 ロシア帝国に抑圧されていたフィンランド、ポーランド、
 トルコの人々だった。
  この国々の人々は、日本の勝利を熱烈に歓迎した。
  しかし、有色人種への蔑視観がある白人キリスト教国、
 特に、アメリカに、将来、白人社会を脅かす有色人種と、
 日本は見做され、「警戒すべき黄色人種」という黄禍論
 が巻き起こった・・これが、世界大戦へつながっていく。
 ☆中国革命の父・孫文の言葉・・、
  「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対
 する大いなる希望を抱くに至ったのです」。
 ☆インドの独立運動家で、後の首相ネルーの言葉・・、
  「もし、日本が、最も巨大なヨーロッパの国に対して
 よく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインド
 が成し得ないと言えるだろう?」。
 ☆イランの詩人・シーラーズイーの言葉・・、
  「立憲制によってこそ日本は偉大になった。
  その結果、かくも強き敵に打ち勝つことが出来るのだ」。
 ☆エジプト民族運動の指導者ムスタファー・カミールの
 言葉・・、
  「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせ
 てやった唯一の東洋人である」。
.
1905年9月5日、日露戦争が終わる。
  日露戦争で、隠れた逸話となっている話が・・、
  「陸軍大将の乃木希典は、日露戦争の後、敗れたロシ
 アの将軍の助命に奔走した。
  助命のための様々な努力をした」。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)において、アメリカは、
  日本の将兵を罪に落とす法律を後から作ってまでして、
 日本の将軍を殺したが・・、
  まったくの正反対の不正義な行為をしたアメリカだっ
 た。
  この卑怯な卑劣な、後から法律まで作って罪に落して
 殺す不正義な行為は、長く歴史に書き留められることに
 なる。
.
1928年2月、初めての普通選挙。
  有権者の数が、人口の約20%で、それまでの4倍近くに
 増えた。
  この選挙の結果、政友会が第一党になった。
  1925年に普通選挙法が成立し、納税額にかかわらず25
 歳以上の男子全員が選挙権を得た。
.
1937年12月17日、南京に入城し、式典を行った。
  日本の中世において、日本の武士は、正々堂々とお互
 いが名乗りを上げて戦った。
  自分が、敵に対して戦う者であると『明示』し(どこ
 の誰だかを言った)、そして、戦った。
  また、武具をはっきり付け、身を固めているので戦う
 者いだと「敵にもはっきり分かった」。
  これは、戦わない者に類が及ばない様にという、戦う
 者の「配慮でもあった」。
  戦わない者が死ぬ様なことが無いようにという「心配
 り」だった。
  それが武士であり、武士道であり、日本人の優しさだ
 った。
  しかし、近代になると、この戦わない者を逆に狙うと
 いう「ならず者的な輩」が出て来た。
  「軍需工場を狙います」とアメリカ国内で了解を得て
 いた原子爆弾を、広島・長崎の町の真ん中に、一般市民、
 女性や子どもたち、赤ん坊も居る人たちが生活する真上
 に、アメリカは原爆を落した。
  中国兵も、いつの時代も、「敵の裏をかく・卑怯な事
 を常にする」という歴史にあるが・・、
  中国兵は、軍服を脱いで、逆に、一般庶民の中に隠れ
 た。
  一番「やってはいけないこと」をやった。
  軍服を脱いで、一般庶民の姿をして、一般庶民の中に
 隠れて、日本兵を狙い撃ちにした。
  一般市民に類が及ぶと分かっていても、中国兵は、こ
 のやってはいけない、一番否定されている「軍人の卑劣
 行為」を南京で行った。
  一般市民に類がおよぶと分かっていても、中国兵は、
 この卑怯な事をした。
  やむなく、一般市民に混じる中国兵と戦う羽目に陥(
 おちい)った。
  蒋介石の司令部は、自分たちの兵士を置いて、先に逃
 げるという、これも一番やってはいけない最悪な卑劣な
 事をして逃げた。
  アメリカが、この司令部を一般の兵士より先に連れ出
 すというハレンチな事をやって、日中戦争に参戦した。
.
1996年12月、日本版NSCへの一歩・・
  日本に、いざという事が起きた時・・国民の命を守る
 ために・・
  緊急事態が起きた時、迅速な対応が図れるため、内閣
 総理大臣の判断によって、自衛隊の部隊が迅速対処でき
 るようになった。
  安保会議、及び、閣議で決定された「我が国の領海、
 及び、内水で潜没航行する外国潜水艦への対処について」
 により、自衛隊の部隊が、わが国の領海、及び、内水で
 潜没航行する潜水艦に対して浮上・掲旗要求、退去要求
 を行うにあたり、あらかじめ閣議において、その基本方
 針と手順を決定しておいた。
  これにより個々の事案発生時に、改めて個別の閣議決
 定を経ることなく、内閣総理大臣の判断により、自衛隊
 の部隊が迅速に対処し得るようになった。
  「日本版NSC」を機能させるために、こうした手法
 を検討する余地があるかもしれない・・と、政府は説明
 している。
  朝日新聞など、日本を何かと正視していないメディア
 のアンケート調査は、「まゆつば」である。
  アンケート調査なのだから正しいのだというが、これ
 が、「データで嘘を言う方法」という本もある如く、嘘
 が作られている。
  メディアは言う、「国民に調査をすると、第一位に経
 済対策をしてくれ」と答えている。
  「北朝鮮などの脅威に対する対策への要望は、その後
 だ」となっている・・と。
  これは、「今日そして明日、まず、女房・子供が、飯
 を食わせられるようにしてくれ」という国民の声であっ
 て、差し迫っている飢餓を回避したいという要望なので
 ある。
  そして、結局、広島・長崎の方々の様に、「火だるま」
 になることから、愛する人々を救いたいという要望の先
 に来ている結果なのである。
  アンケートの取り方に「仕掛けがある」のである。
  一つを選べとなっている。
  現政権への最重要課題となっている。
  ならば、「まず、飢えないようにしてくれ」が第一位
 の声になる・・
  メディアは、この様な仕方で嘘をついている。
  「実験計画法」という学問があるが、実験結果におい
 ても、非常に微妙な差によって結果が大きく違って来る
 ことは常識なのである。
  実験をした人の違いによっても、同じ実験をしている
 のに結果が違ってしまうとか・・、
  実験した日時の違いによっても結果が違ってしまうと
 か・・
  実験なんかは、同じことをすれば、同じ結果になるか
 と言えば、「そう簡単にはならない」のである。
  ましてや、色々な想念が頭を巡っている人間に対する
 アンケートにおいて、その設問の仕方などで大きく変わ
 って来るのは当たり前なのである。
  アンケートを受けた時、アンケートを取るメディアが
 自分たちの考えている理想としている結果に導こうとし
 ている質問側のアンケートの取り方に遭遇した事がある・・、
  この様なことで、国の大切な問題である国防に関する
 ことが・・、
  戦後・70年以上すぎているのに、疎かにされて来て・・
  そして、このアンケートの様な日本の今がある。
  200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かった
 ら・・それを防ぐことは不可能という現在の日本がある
 のにである。
  それでも、国防論を後回しにするのか・・
  今日・明日の食べる事が大切なのか・・

1996年(平成8年)、皇后宮(きさいのみや)陛下御歌
  海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なき
  あまたの御霊(みたま)国護(まも)るらむ
  (歌意)
  この日本の國の海も山河も平野も總べて國の爲に生命
 を捧げた數多の英霊の御魂によって護られてゐます。
  皇后陛下のお言葉
  慰霊の旅では、戦争の被害の最も大きかった四地域を
 訪れましたが、この訪問に重ね、戦争で亡くなった全て
 の人々の鎮魂を祈りました。
  戦争により、非命に倒れた人々、遺族として長い悲し
 みをよぎなくされた人々、更に戦争という状況の中で、
 運命をたがえた多くの人々の上を思い、平和への思いを
 新たにいたしました。
.
2005年12月9日、「男女共同参画基本計画改定にあたっての
 要望書」
  自由民主党が、過激な性教育・ジェンダーフリー教育
 がなされている状況を調査するための「実態調査プロジ
 ェクトチーム」を結成した。
  そして、内閣府に於いて検討されている首記の件につ
 いて、過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プ
 ロヘクトチームは、2005年3月に発足以来、10ヶ月間にわ
 たり、実態調査したりして、教育の正常化を目指すため
 論議を重ねて来た。
  そのための全国的な実態調査も行い、寄せられた3500
 もの実例を調査・分析した。
  その結果、「ジェンダーフリー」という名のもと、過
 激な性教育が行われ、また、「家族の否定教育」が行な
 われていることが分かった。
  同時に、教育現場でこの様な暴挙が堂々と行われてい
 る根拠が、男女共同参画基本計画を恣意的(しいてき、
 論理的な必然性なく、思うまま)に解釈し、組合組織の
 活動方針としていることなども現場での調査で確認され
 た。
  文献にも、以下のような記述がある・・、
  日教組は、「ジェンダー・フリー」を推進した。
  ジェンダー・フリーには、ひな祭りなどの伝統文化を
 否定する。
  「球技を男女一緒させる」という話もある。
  その場合、女性を保護する意味もあって「(一緒に)
 球技をさせると、男子と女子の差がある」と質問しただ
 けで、「それは男女差なのか?」という言葉が返って来
 る。
  偏頗(へんぱ、片寄って不公平なこと)な性差イデオ
 ロギーで押し切る日教組である。
  女性の良さの話をしようと「女らしさ」と、男という
 「男らしさ」を話に出したら、それを頭から否定する。
  これでは、逆に、日教組は、「女性を虐げている」こ
 とになる。
  日教組は、「中性」が良いという。
  「男性」と「女性」を否定している。
  世に存在している「男性も駄目」「女性も駄目」と主
 張している。
  こんな立場で、教育ができる訳がない。
  こんな変な考え方から発展して、「専業主婦」という
 言葉すら使うなという。
  そして、この教育を子供たちにする。
  日教組は、「性に捉われないのが良い」と悦に入って
 (えつにいる、満足して喜ぶ)いる。
  女性の良さを美化し、逆に、男性の良さは美化できな
 い日教組の組織。
  古い封建的観念を否定的に持っている、また、まった
 くの封建的観念に浸っているという日教組。
  こんな組織で明日ある教育ができる訳が無い。
  また、日教組は言う、「男らしさ、女らしさを否定し
 ない、しかし、それにとらわれないものを大切にする」
 と。
  しかし、これは、詭弁(きべん、道理に合わない、言
 いくるめの議論、ごまかしの議論)なのだ。
  女らしさ、男らしさを否定しないと言いながら、「女
 らしさ」という事を否定している。
  「とらわれない」ために、女らしさを言い、男らしさ
 も言うのが正解なのが分からない。
  その様な封建的観念の論者となっている。
  広く封建的観念から脱却できない日教組となっている。
  また、文献に、下記の様な記述もある・・、
  日教組に感化された教師たちが、性教育という錦御旗
 を立てて・・教室で何をしでかしていたのかは、子供た
 ちにした、その詳細は分からないが・・その教師の話が、
 何であったかを、家に帰って来た子供の行動で分かる。
  その母親が仰天したのは、何も知らなかった子が、妹
 の上にまたがって腰を振っているのを見て、母親は、卒
 倒しかけたという。
  教師が、こんなことまで実演した。
  日教組に感化された教師が、教室でやったことは、い
 たずらに興味を持たせ、焚き付け行為をしたということ
 だった。
.
2011年3月11日、東日本大震災(M9.0)、日本海溝で起き
 た巨大地震と津波・・
  宮城県東南東沖などの一帯を震源地とする未曾有の大
 震災。
  1000年に1度と言われた規模。
  死者は、2万名を越える残念な災害が起きた。
  震災直後、混乱の中、決してパニックになることなく、
  当然のごとく暴動や掠奪も起きず、整然とした行動が
 とられ、ボランティアの方たちと、その後の行動をした。
  世界中は、震災報道もしたが、日本人のその後のこの
 様子も、称賛の中で報道した。
  日本の民度の高さを称賛した。
  公共心や道徳心に驚嘆した。
  その根を支える性善説の宗教心に驚嘆した。
  長く日本人の心にあったものは失われていなかった。
  少子高齢化とか、長いデフレなどで、社会は縮小して
 いると言われ、マイナス・マインドが洗脳され、マイン
 ド・コントロールされているが、何ら日本人の特質は、
 失われていず、
  逆に、その特質は磨きがかかり、高い資質になってい
 ると言える。
  何しろ前向きに性善説的に物事をとらえ、日本の長い
 歴史で蓄積した潜在能力を引き出して行くことが、肝心
 なのである。
.
2017年11月27日、日英が地位協定の協議へ
  (読売新聞、2017年11月27日)に表記の表題の記事が
 載った。
  これは、日本とイギリスの両政府が、自衛隊とイギリ
 ス軍が、互いの国で円滑に活動できるようにするため、
 法的な立場を明確にする「協定を締結しよう」との方針
 を決めた。
  今後、協議を重ねて行くが、協定の名は「訪問部隊地
 位協定(VFA)」。
  昨年・2016年、イギリス空軍が来日し、初の2国間訓練
 が実現した。
  来年・2018年には、イギリス海軍の最新空母を日本近
 海に展開して、海上自衛隊と訓練を行うほかに・・、
  陸上自衛隊とイギリス陸軍との共同訓練も実施する方
 向で検討中。
  防衛省幹部は、「日英間の信頼関係をアピールし、ア
 ジア太平洋の抑止力につなげる狙いもある」と。
  日英は、12月の2プラス2で、新型空対空ミサイルの試
 作についても合意する。
  試作品は、2023年度頃の完成を目指す方針。
  イギリスなど6カ国が共同開発した中距離空対空ミサイ
 ル「ミーティア」に、日本製の高性能センサーを組み合
 わせて命中精度を向上させるという内容。
  装備品の共同開発が実現すれば、同盟国のアメリカ以
 外では初めてとなる。
  日英の安保協力は、すでに、安倍内閣の下で推進され
 て来ていて・・、
  2013年7月に、装備品の共同開発を進める協定を結んで
 いる。
  そして、2014年度から、ミサイル技術の共同研究も始
 めている。
  また、今年・2017年1月には、自衛隊とイギリス軍が、
 弾薬などを融通し合える物品役務相互提供協定(ACS
 A)を締結している。
  また、今年・2017年8月~9月には、メイ英首相が来日
 して国家安全保障会議(NSC)に出席し、「日英の安
 保協力をさらなる高みに引き上げる」ことを確認してい
 る。
  (参考)訪問部隊地位協定:共同訓練や災害救援など
     で一時的に国内で活動する外国軍の法的地位を
     定める協定。
      長期駐留を前提にした日米地位協定と異なり、
     事件・事故の裁判権などは含まないケースもあ
     る。
      日本では2014年に協議入りしたオーストラリ
     アとのVFAが近く合意に達する見通し。
.
2017年、今、ドイツは、アメリカとの関係が、安全保障上、
 国の命運を握るという死活的だった時代は、今・現代、
 去っている。
  ドイツは、グローバル化が正しいのだとの風潮に煽(
 あお)られ、その流れの中で移民も受け入れて来た。
  15年間続けた移民も、100万人を越えた。
  移民は、「ドイツに同化するより」ドイツの文化を破
 壊し、過去のものとした。
  ある地域からは、すっかりドイツ文化が消えた。
  その移民は、難民として人道的面もあったが、あまり
 の流入数、その多さ・・その異質の文化や習慣も、その
 数と共に一緒に入って来て、過去からの「いつものドイ
 ツの日常」は消え去った。
  今、また、その「移民の家族」を呼び寄せる問題が起
 きている。
  移民・難民は、ドイツの生活レベルの高さから、その
 ほとんどがドイツに定住している。
  そして、その地域と周辺ドイツとの格差問題も生まれ
 ている。
  (新しくドイツ人となった元移民・難民の人々と、ド
 イツに居た人々との格差問題)
  グローバル化が正しいとしたアメリカは、主に、経済
 的理由から、アメリカのエスタブリッシュのグローバル
 企業の論理から「その正しさが唱(とな)えられた」が、
  建国からの移民の流入で、「人種のるつぼ」とアメリ
 カは化したが、その人種間の異質文化を乗り越えること
 が出来ずに、人種差別行為に明け暮れている。
  異質な人々を、中世のヨーロッパで、特に、ユダヤの
 方々がその対象とされ、「ゲットー」という特定地域を
 決められて押し込められた・・
  この如く、今・現代において、アメリカで、黒人の方々
 をゲットーに押し込めている(ニューヨークの黒人街な
 ど)
  結局、グローバル主義の行き先に、いつの時代になっ
 ても乗り越えられない人種問題が横たわっている。
  人間の本質を尊重する、その個性を尊重する、その違
 いを尊重する・・が正しいが・・それを乗り越えること
 が出来ないのが実態となっている。
  「グローバルだ」と無理に混ぜ、軋轢(あつれき)を
 乗り越えろと命じるが、結局、非人道的行為を引き起こ
 す事態・始末になっている。
.
2017年12月1日、ロシアが、千島に対艦ミサイル
  標記の表題で(読売新聞、2017年12月1日)が報じる・・、
  また、その表題は、「配備計画、北方領射程、米に対
 抗か」とある。
  ・・以下に、それを参考に記すと・・
  ロシア紙イズベスチヤ(29日付)は、ロシア軍が千島
 列島マトゥア島(日本名:松輪島)とパラムシル島(日
 本名:幌筵島・ほろむしるとう)に基地を建設し、地対
 艦ミサイルを配備する計画を進めていると報じた。
  アジア太平洋地域で活発に展開するアメリカ軍に対抗
 する狙いとみられる。
  ロシア軍は来年(2018年)、マトゥア島とパラムシル
 島で、最新型地対艦ミサイル「バル」(最大射程120キロ)
 と「バスチオン」(同600キロ)の配備に取り掛かると
 いう。
  専門家が派遣され、基地建設のための調査やミサイル
 の配備場所の選定に入っているという。
  ロシア軍は昨年(2016年)11月に国後島に「バル」を、
 択捉島に「バスチオン」を配備し、両島に計3500人の兵
 力を駐留させている。マトゥア島に地対艦ミサイルが配
 備されれば、カムチャッカ半島から北方領土の択捉島ま
 で射程に入るといい、同紙は「オホーツク海を押さえ、
 沿海地方とサハリン州を敵の攻撃から守ることができる」
 としている。
  マトゥア島とパラムシル島は第二次世界大戦中、日本
 軍が対米防衛の拠点として重視し、滑走路や港湾を整備
 し兵力を配置していた。
  軍事専門家のアレクサンドル・モズガボイ氏は同紙に
 「(当時の)日本人は両島の戦略的な重要性を理解して
 いた。
  現在の国際情勢を考慮すれば、ロシアの軍事力の配備
 は理に適っている」と指摘した。・・以上・・
  アメリカのルーズベルト大統領が、第二次世界大戦(
 大東亜戦争)の時、ソ連のスターリンをそそのかして、
 日本を攻める武器・弾薬までも、ソ連にまで運んで、日
 本と戦えと言った・・
  そしてまた、日本の領土を取っても、アメリカは何も
 言わないという「うまい話」でそそのかして、日本を攻
 めさせ(国際法違反で成立しない戦いまでして)日本か
 ら奪った地に、今度は、日本やアメリカを攻撃するミサ
 イルが配備された・・と、報じたニュースだった。
  こんなことを、アメリカのルーズベルト大統領がして
 いなければ、この地に、日米安保のミサイルが配備でき
 ていたであろう。
  この様な事から、北方領土・千島列島・南樺太は、日
 本に返還がなされる可能性は完全に薄い(ロシアの国際
 法違反のままの状態となる)
  また、トランプ大統領の行動が、この様な形で、事態
 が展開して来て・・、一(いち)・・北朝鮮だけではな
 く、ロシアが敏感に反応し・・ますます、高性能な武器
 に囲まれた地となった。。
  事態はますます、日本が孤立する状態となった。
  丸腰状態の日本が居る状態となっている・・防衛に責
 任を持て!
  (戦争は嫌だ・・戦争反対だと叫んでいるだけで・・
 女性や子供たちを・・家族たちが守れるなら・・戦争が
 起きないのなら・・苦労はいらない)
  その世論を繰っている・・恐怖心を起こさせているだ
 けのNHKの罪は重い!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive