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2017年11月17日

(増補版)565E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年10月)

題:(増補版)565E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年10月8日、ラフマニノフ前奏曲嬰ハ短調が、モスクワ
 にて初演された。
  モスクワ電気博覧会の祝賀会において、作曲者(セル
 ゲイ・ラフマニノフ)自身によって、初演された。
  この初演の後、演奏会全体の中からこの曲のみが取り
 上げられ、「熱狂を捲き起こった」との記事が掲載され
 た。
  https://www.youtube.com/watch?v=p9zSyYd04EU
  セルゲイ・ラフマニノフ(1873年~1943年)ロシアの
 作曲家、ピアニスト、指揮者。
  裕福な貴族の家系の出身だが、セルゲイの生まれた頃
 は、一家は、すでに、かなり没落していたようだった。
  セルゲイは、多感な才能を感じさせる子供だった。
  4歳の頃、すでにその才能を気づかされた。
  姉たちの家庭教師が、セルゲイの音楽の才能に気付い
 た。
  そこで、ペテルブルグからピアノ教師が呼び寄せられ
 た。
  しかし、9歳の時、ついに、一家は破産し、所領は売ら
 れた。
  ペテルブルクへ移住し、まもなく両親は離婚した。
  音楽の素養のあった人物・父は、セルゲイの下を去っ
 た。
  奨学金の助けを受け、セルゲイの音楽の才能を目覚め
 させるペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学した。
  しかし、話は順調にはいかなかった・・
  学校を抜け出しスケートをするという状況で、12歳の
 時には、全学科の試験で落第するという状態だった。
  悩んだ母は、親戚のピアニストに相談し、モスクワ音
 楽院に転入する事にした。
  モスクワに寄宿した家=ズベーレフ家のスベーレフは、
 厳格な指導をする事で有名なピアノ教師だった。
  ピアノ演奏の基礎を叩き込まれた。
  また、このズベーレフ邸には、著名な音楽家が訪れる
 という家で、セルゲイは、あの有名なチャイコフスキー
 に才能を認められた、そして、目を掛けられた。
  モスクワ音楽院では、多くの著名な先生から様々な音
 楽的知識を学ぶというセルゲイだった。
  セルゲイが、この様な師のスベーレフ邸を去るのは、
 セルゲイが、作曲への衝動が押さえきれなかったからで、
 この点でセルゲイは、師・スベーレフの作曲の禁止の指
 導と対立した。
  彼は、父方の叔母の嫁ぎ先の家に身を寄せた。
  1891年には、18歳で、モスクワ音楽院ピアノ科を首席
 で卒業した・・そして、卒業生に与えられるという大金
 メダルを得ての卒業だった。
  セルゲイ・ラフマニノフは、この年・1891年、ピアノ
 協奏曲第1番を完成させた。
  1892年には、このモスクワ音楽院の作曲家を卒業し、
 卒業制作として歌劇「アレコ」を書き上げ、金メダルを
 授けられた。
  そして、1892年10月8日、前奏曲嬰ハ短調を初演した。
  聴衆は熱狂した。
  翌年・1893年11月6日、チャイコフスキーが亡くなる。
  セルゲイ・ラフマニノフは追悼のために「悲しみの三
 重奏曲第2番」を作曲した。
  この後の彼・・すべてが順調だったという訳ではなか
 った。
1892年10月12日、アメリカで忠誠の誓いの暗誦が初めて行
 われた。
  (アメリカ) 忠誠の誓いは、アメリカ合衆国への「忠誠
 心の宣誓」である。
  忠誠の誓いは、しばしば合衆国の公式行事で暗誦され、
  アメリカ合衆国議会の会期もまた、忠誠の誓いの暗誦で
 開始される。
  また、アメリカの多くの公立学校では、星条旗を掲げ
 て「忠誠の誓い」というのをしている。
  日本の公立学校でも、同様の事をするべきであるが・・、
 まったくなされる様子はない・・それどころか・・
  日本のNHKに代表されるマスメディアは、『日本貶
 め行為』を盛んに行っている。
  また、キリスト教が、宗教とは別であろうに、日本の
 貶め運動を盛んにしている。
  キリスト教は、日本の国旗である「日の丸掲揚反対」
 し、
  そして、日本の国歌である「君が代の斉唱の反対」を
 している。
1892年10月14日、両毛鉄道会社の旅客運賃改正認可されて、
 賃率1マイル(=1.61㎞)について下等100マイル未満1銭
 2厘、 100マイル以上220マイル未満1銭、 220マイル以上
 8厘、中等は下等の5割増し、上等は下等の2倍半となった
 (11月1日から実施された)
1892年10月19日、日本鉄道会社線の上野駅~大宮駅間の複
 線工事が完成し、翌日の10月20日から使用開始した。
  (荒川橋梁の複線工事完成は、1896年4月1日)
1892年10月19日 東京九段の靖国神社(当時:東京招魂社)
 の大村益次郎の銅像が竣工した。
  (除幕式は翌年・1893年2月5日に執行された)
  因みに、靖国神社は、旧称を東京招魂社といい、戊辰
 戦争以降に日本国内外の事変・戦争で戦没した軍人・軍
 属を祭神とする神社。
  また、大村益次郎は、江戸時代の1824年に、長州藩の
 医師の長男として誕生し、オランダ医学を学ぶ傍ら西洋
 兵学を修め、後に、長州藩の兵制の近代化に貢献した。
  西洋式装備の常備軍「奇兵隊」の整備・育成を始めと
 する成果は、幕府軍を撃破した第二次長州征伐における
 戦いで遺憾なく発揮された。
  戊辰戦争渦中の上野戦争では、彰義隊を一日で鎮圧す
 るなどの活躍をした。
  兵制化を指導するなど、後の日本陸軍創設の中心人物
 でもあった。
1892年10月22日 最初の特別大演習が栃木県で開かれ、明治
 天皇陛下が統監(とうかん、統轄し監督すること)され
 た。
  明治天皇陛下が御行幸し、市内向明館が御在所となる。
  天皇陛下の天覧の下、宇都宮平出原で第1回陸軍特別大
 演習が行われ、陸軍東京第1師団、同仙台第2師団、およ
 び、近衛師団が参加した。
  総勢3万人による大日本帝国初の大軍事演習となった。
  これ以降、御行幸(御幸)地の平出原は「御幸が原」
 と呼ばれるようになった。
  1892年10月26日、観兵式
1892年10月28日、筑豊興業鉄道会社線が開設され、直方駅
 ~小竹駅間(6.2km)が開業した。
  直方駅は、1891年8月30日に筑豊興業鉄道によって開設
 され・・、
  1899年から、筑豊地区の石炭輸送の拠点駅とするため
 に拡張工事が行われ・・、
  筑豊炭田の各地からやって来る石炭車がここで行き先
 別に編成しなおされて送り出されるようになった。
  13本の仕分け線が設けられ、2つの出発信号機が設置さ
 れ、若松・西八幡・上戸畑へと送り出されていた。
  ヤードに、照明灯が設けられ、昼夜を分かたず列車を
 送り出す作業が行われていた。
  1910年3月には、新駅舎が建設された。
  しかし、第二次世界大戦後は、エネルギー革命によっ
 て石炭の出荷が減少、筑豊地区では1958年から石炭輸送
 が減少に転じた。
  これによって直方駅作業も縮小され、1984年2月1日、
 貨物取り扱いが廃止された。
1892年10月29日、伊沢修二の呼びかけで、国立教育期成同
 盟会が発足した。
  1892年12月に、第一回請願書(東京府伊沢修二以下
 10162名)で帝国議会に提出し・・また・・、
  1893年2月に、第二回請願書を提出している。
  伊沢修二(1851年~1917年)は教育運動家で、高遠藩
 (長野県伊那地方)の下級武士の長男に生まれ、
  1870年(19歳)藩の貢進生(こうしんせい、各藩から
   推薦を受け大学南校に入学下生徒のこと)として大
   学南校に入学した。
  (参考)大学南校:神田一ツ橋(錦町)の旧開成所跡
     に設置された。
      洋学教育を担当し、1870年7月の「本校」閉鎖
     後に制定された「大学南校規則」によれば、外
     国人教師による外国語の課程である「正則」、
     日本人教師による日本語の課程である「変則」
     から構成され、外国語学・西洋地歴・数学など
     を科目とする「普通科」修了ののち法理文の各
     「専門科」に進学することになっていた。
      また、同年以降、各藩からの貢進生募集(259
     藩より300余名)や海外への官費留学生派遣(日
     本最初の欧米留学生は南校からの派遣である)
     などの施策も行った。
  1872年(21歳)文部省出仕。
   第一番中学幹事、愛知師範学校校長を歴任。
  1875年~1878年(24歳~27歳)師範学科取り調べのた
   め高嶺秀夫、神津専三郎とともにアメリカに派遣さ
   れ、ブリッジウォーター師範学校で教育学を学ぶ。
    帰国後、東京師範学校に勤め、
  1879年(28歳)校長。
   かたわら、体操伝習所主幹、音楽取調掛長などに任
   命され、洋式体操、および、小学唱歌の創始と普及
   に貢献した。
  1886年(35歳)文部省編輯局(へんしゅうきょく)局
   長となり、教科書の編集出版行政に従事。
  1888年(37歳)東京音楽学校初代校長。
  1890年(39歳)国家教育社を創立して社長となり、国
   家教育主義運動を起こす。
   そして、1890年5月、全国教育者大集会の席上、「同
   志ノ人士ヲ糾合シ以テ一社ヲ設クル」よう提案した。
   そして、賛同した教員・教育関係者たちを中心に結
   成された・・そして・・、
   1890年10月、教育勅語発布をうけて、教育勅語の普
   及を活動の中心に据えるとともに、「国立教育運動」
   を主導した国立教育期成同盟会を設立した。
  1891年(40歳)官を辞し、国家教育社に拠り、学制改
   革運動(→学制)、義務教育費国庫負担運動(→義
   務教育)などに挺身。
  1895年(44歳)台湾総督府随員として台湾へ、学務部
   の創設に努力し、
  1896年~1897年(45歳~46歳)学務部長。
   帰国して貴族院議員となる。
  1899年~1900年(48歳~49歳)東京高等師範学校校長。
  1903年(52歳)楽石社を創立し、吃音矯正、視話法の
   普及に尽力した。
  著書:『教授真法』(1875年)、『学校管理法』(1882
 年)、『教育学』(1883年)、『視話法』(1901年)な
 ど。
  1958年には『伊沢修二選集』が刊行された。
1892年10月、豊田佐吉(25歳)が、東京浅草で機屋(はた
 や、反物を作る家、はたを織る家)を開業した。
  豊田佐吉(とよださきち、1867年~1930年)はトヨタ
 自動車へつながる人である。
  日本で最初の木製の豊田式自動織機の発明者、実業家。
  1867年2月14日、静岡遠江(とおとうみ)吉津村に、父:
   豊田喜一郎:機大工(はただいく)の長男に生まれ
   た・・貧農でもあった。
   新学制によって初等教育を受けた最初の世代だった。
   名古屋に出て織物工場の職工となる。
   若い頃から織機改良に関心を持ち、発明家を目指し、
   小型の織機の製作にも打ちこんだ。
  1890年(23歳)木製人力織機を開発した。
   次々に改良織機を生み出した。
  1897年(30歳)豊田式木製動力織機を発明した。
  1898年(31歳)60台の織機で綿布の生産を開始した。
   やがて三井物産の援助を得て事業を本格化した。
  1899年(32歳)自動織機の特許を受ける。
  1905年(38歳)日露戦争終結。
    この後、まもなく発明した軽便で輸入品より遥か
   に廉価な力織機は、地方中小織物業の力織機化を急
   速に推進するうえで重要な役割を果たした。
    佐吉は、小幅の半木製の織機から広幅の鉄製織機
   に至るまで各種の織機を次々に発明し、発表した。
    ものつくりへのこだわりは、佐吉をバックアップ
   した三井物産との意見対立を招くこともあった。
    また、この年、名古屋織布会社を創立し、三井物
   産と中京・関西の資本家が出資して、佐吉と共に織
   機の大量生産と販売を試みた・・成功しなかった。
  1906年(39歳)豊田式織機株式会社を創立した・・成
   功しなかった。
  1910年(43歳)経営陣と対立して独立。
  1924年(57歳)杼換(ちょかん)式自動織機を完成した。
  1926年(59歳)豊田式自動織機が完成し、これを量産
   するために、同年、トヨタ自動車の前身である豊田
   自動織機製作所(現:豊田自動織機)を設立した。
   「世界の織機王」の名声を得た。
  1929年(62歳)マジックルームと称されたこのプラン
   トの特許使用権は、イギリスのプラット社に自動織
   機の特許権を譲渡されたが、その譲渡代金は、自動
   車開発資金に充用され、豊田自動車成立の礎石のひ
   とつとなった。
  1930年10月30日、逝去した。64歳。
   事業家として腕をふるうかたわら、内外150件に及ぶ
   特許を確立した。
   独創的なアイデアとして注目された環状織機は、い
   くつかの特許を得たが、完全に仕上げられないまま
   世を去った。
   勲三等、藍綬褒章を受章。
.
  (今日の言葉)
.
  題:こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、
    忘れることのできない夜の会合は終わった・・アジア解放の一つの顕彰
.
1607年、イギリスが、北アメリカ領土(現:アメリカ)の
 最初の恒久的植民地を建設した(現:バージニア州、ジ
 ェームズタウン)
  1619年、20人のアフリカ黒人の方々を、オランダ船に
   よって、ジェームズタウンへ拉致して来た(イギリ
   ス人たちは、卑劣にも「輸入した」と称した)
    卑劣にも、アメリカに植民して、早々に、黒人の
   方々を人家畜の様に使役して、国づくりを始めた。
    アメリカを創ったのは、「アフリカ黒人の方々だ」
   と言ってよい。
    しかも、1620年のピルグリム・ファザーズが来る
   前である。
    この様な黒人の方々を顕彰する記念堂を建設する
   べきである。
  1620年、ピルグリム・ファザーズと自画自賛する輩た
   ちが来た。
    その者たちの41人が、船上で「メイフラワー誓約」
   に署名する。
    しかし、先住民のインディアンの方々を完全に無
   視していた。
  1641年、マサチューセッツで、「奴隷制度は正しいの
   だ」と法律に決めた。
    国づくりの早々に、奴隷制を合法化するという非
   人道的行為が行われた。
    以後、これが悪例として真似され、他の植民地で
   もこれに倣った。
    アメリカは、最初から奴隷を合法とし、奴隷とさ
   れた黒人の方々によって建設がなされて行った。
  1663年、バージニアで、最初の大規模な奴隷にされた
   黒人の方々の『大規模な反抗行動』が起きた・・当
   然の行動だった。
    アメリカ白人たちは、この異議申し立ての行動を
   『黒人暴動』と破廉恥な言い方をして、黒人の方々
   を弾圧し、蔑視した。
  1672年、イギリスが、王立のアフリカ会社を設立させ
   て、大規模な『奴隷貿易(人身売買行為)』を始め
   た。
    イギリスは、国の政策として、国策として、イギ
   リスという国が先頭に立って、卑劣な行為「黒人の
   方々を拉致して来て、その黒人の方々を物の様に売
   る」という犯罪行為を始めた。
.
1881年10月5日、アトランタ博覧会が開かれた。
  この博覧会には、33の州とアメリカ合衆国外の6つの国
 から1,013点の展示品が集まった。
  しかし、デトロイトの新聞が、自虐的に・・、
  「アトランタの博覧会には、テネシー州のリンチも、
 アメリカの特産物として出品されるべきであった」と書
 いた。
  (リンチ・私刑で、黒人の方々が、黒人蔑視思想であ
 まりにも多く、アメリカのあちこちで殺されていた)
  アメリカでは、卑劣な行為(黒人の方々への殺戮行為)
 が、リンチ(私刑〉として横行していた。
  この様に低劣なアメリカ社会に対し、黒人の知的な開
 放家デュボイスは、リンチ事件に対して・・、
  「我々は、そうしたことに、いつまでも耐えて行くつ
 もりはない。
  仮に、死ななければならぬものなら、(キリスト教の)
 神よ、乾草の様にではなく、人間らしく身を滅ぼさしめ
 よ」と言った。
  キリスト教は、その教義「異教徒は殺せ」と、「有色
 人種への蔑視」によって多くの異教徒と有色人種を殺戮
 して来た。
  そして、黒人のデュボイスは、「せめて人間らしく殺
 してくれ」と叫んだ。
.
1905年9月4日、日本は日露戦争に勝利し、アメリカ東部の
 ポーツマスで、『ポーツマス講和条約』をロシアとの間
 で調印した。
  そして、日本は、1905年10月10日、この講和条約を批
 准し、ロシアは、1905年10月14日に批准した。
  この講和内容で、「日本は、ロシアから南満州鉄道の
 営業権を譲り受けた」。
  (ロシアは、東清鉄道の内、旅順~長春間の南満洲支
 線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡した)
  しかし、まだ、この後も、この満州地域の北には、常
 に、ロシア(ソ連)の脅威が、この後も存続し続けた。
  また、中国は、国民政府軍と共産党軍がぶつかり合い、
 この満州に向かって、南から国民政府軍が、力をおよぼ
 して来ていた・・満州はその様な空白地域だった。
  (南からも、北からも圧迫が続くという状況)
  そして、アメリカにとって・・、革命をした共産主義・
 ソ連は、それまでの帝政ロシアより「ずっと危険な対抗
 勢力」の存在となった。
  共産主義・ソ連は、アメリカなどの『帝国主義を否定』
 した。
  共産主義・ソ連は、帝国ロシア時代のアメリカなどの
 米欧列強との『不平等条約』を認めず・・、
  また、アメリカなどの米欧列強が、特権を享受してい
 るシステムの『基盤そのものを否定』し、直撃した。
  そして、中国の蒋介石・国民政府が、アメリカなどの
 米欧列強にとって都合がよく・・、
  そして、中国・国民政府の蒋介石が、南京に軍事政権
 を樹立すると、これを中央政府として承認した。
  これは、中国のおけるソ連勢力を弱める目的もあった。
  そして、これでも、アメリカなどの米欧列強は、中国
 国内に高まって来ている民族主義による、外国人排斥運
 動の高まりを恐れていた。
  また、これまで、アメリカなどの米欧列強が、帝国主
 義の直接手段で、中国から奪って来た以上の「力と革命
 的スローガン」で、ソ連が、中国の権益の獲得行動をす
 るのではないかと恐れた。
  この様な状況の中で、満州事変が起きた。
  また、この頃、アメリカなどの米欧列強が、中国での
 権益を守り、権益を拡大しようとする行動において、ア
 メリカなどの米欧列強同士の対立が生じていて、潜在的
 な大きな問題となっていた。
  争っているのは、ただ単に、日本と中国という構図で
 はなかった。
  ロシア革命によって、より攻撃的なソ連が生まれ、そ
 のソ連が加わったという複雑な様相の中国だった。
  満州事変を、アメリカなどの米欧列強が承認した「中
 国・南京政府」が、国際連盟に提訴したことにより、こ
 の事のみが、特に、国際舞台の上に上がり、とやかく論
 議されることとなった。
  この満州鉄道だって、アメリカなどの米欧列強も、利
 権(鉄道租借権)を中国から得ていた。
  日本も、同じ様に条約によって、正式に、また、法的
 に得た合法的財産となっていた。
  アメリカなどの米欧列強が、その自国の財産を守るた
 めに、中国に軍隊を駐留させているが・・これと同じよ
 うに、日本も軍隊を駐留させていて、そして、それは、
 何らおかしなところがある訳ではなかった。
  (日本は、条約によって正当に駐留させている訳であ
 って・・侵略なんかではない)。
  アメリカなどの米欧列強は、上海、天津など、あちこ
 ちに軍隊を駐留させ、軍艦を中国の河川に往来せさてい
 るという状況だった。
  満州事変も、日本の財産を守るための警察行動だった。
.
1910年~1930年、第一次大戦の頃より、アメリカ南部の黒
 人の方々は、ブラック・ベルトと呼ばれたその地帯から、
 アメリカ北部の都市へ移住した。
  ジェームス・アレンは、その数を、100万人以上にのぼ
 ると推定している。
  しかし、この黒人の方々も、北部において差別された。
  都市生活に慣れていない彼らに待っていたものは、「
 南部も、北部も変わらないアメリカの人種差別」だった。
  キリスト教に洗脳された差別だった。
  賃金は安く、住居も「ゲットーと蔑(さげす)み呼ば
 れた隔離された貧民街の一区域」に押し込められた。
  住む自由も与えられなかった。
  「日本を貶めるだけのNHK」は、決してこの様な事
 を放送しない。
  1919年の夏を頂点として、この頃に頻繁(ひんぱん)
 に起きていた黒人の方々の抵抗行動は、こうした社会的
 背景があった。
  1919年7月のシカゴで起きた人種反抗は最大であった。
  黒人の方々の「栄光の抵抗行動」の歴史的事実となっ
 ている。
  逆に、白人アメリカ人にとっては、非人道的行為・差
 別をしたという「歴史的汚点」となっている。
  この時、白人アメリカ人は、黒人アメリカ人を差別し
 て「黒人の方々が、泳いではいけないという海」を勝手
 に決めた。
  17歳の黒人青年は、イカダに乗って遊ぶうちに、知ら
 ない間に、うっかりこの地域に入ってしまった。
  これが始まりだった。
  黒人青年は、何ら悪くは無かった。
  この様な区域を作った白人アメリカ人に「すべての悪
 さ」があった。
  しかし、黒人青年は、白人アメリカ人たちに殺されて
 しまった。
  黒人の方々の抗議の嵐は3日間も続いた。
  人種戦争の様相と化した。
  そして、23人の黒人の方々が殺され(白人の死者数は
 15人)、傷つけられた黒人の方々は1342人(白人178人)・・
  また、数百軒の黒人の方々の家屋が焼き払われた(焼
 かれた白人の家屋は・・ほとんどなし)。
  因みに、この年、日本は、国際条約の場で、「人種差
 別撤廃」を提案している。
  1919年1月14日に、パリに到着した日本全権団は、人種
 差別の撤廃提案を成立させるために、各国と交渉を開始
 した。
  しかし、米欧各国の思惑から成立しなかった。
  そして、このアメリカで差別を受けていた黒人の方々
 は、この講和会議の日本の人種差別撤廃案に期待をして
 いた。
  日本の説明で・・うまく運んでいたが、アメリカのウ
 ィルソン大統領が『議長裁定』により法案を成立させな
 かった。
  この事に対し、アメリカ黒人の方々は、自国政府の行
 動に対して、多くの都市で人種暴動が勃発させ、その卑
 劣さを訴えた。
  悲しいかな・・この行動においても、多くの黒人の方々
 の多くの命が失われた(この様な事を放送しないNHK
 ・・日本を貶める放送はよくするNHK)
.
1927年3月24日、南京事件
  こう名付けられる事件を、アメリカは起こした。
  アメリカは、中国・南京で、アメリカ戦艦を使い、南
 京砲撃の武力行使をしている。
  日本領事館などを含む外国領事館と居留民に対する砲
 撃だった。
  日本の政策は、この事件によって大きく変わった。
  その意味で、重大なアメリカの武力行使だった。
  しかし、アメリカは、自国民を守る「警察行動だ」と
 言った。
  (しかし、これと同じ様な事変である、満州事変は、
 警察行動ではないと、アメリカは主張した)
  (参考)事変は、「異常な出来事」のこと、そして、
     「非常の出来事」のこと)
  満州事変は、当初、アメリカは何も言っていなかった
 が・・後になって、このトラブルのことを過大に扱った。
  アメリカは、後になって、「ことさら大きくしたい」
 アメリカに変わった。
  この頃、中国は盗賊だと言い訳を言うが、中国・正規
 軍がトラブルを、色々と起こしているという時世だった。
  また、この事件の3日前の1927年3月21日には、中国の
 国民政府軍(蒋介石軍)は、上海を占領している。
  そして、この日の前日の1927年3月23日には、南京を攻
 略しようと「南京城を包囲」している。
  完全に、中国・国民政府軍とアメリカは、共同戦線を
 張って、中国において日本を攻めて来ていた。
  宣戦布告なしの、アメリカの中国における「日本との
 戦端が開かれた事実」の一つである。
.
1927年、中国革命軍が、イギリスの租借地を攻撃して取り
 返した。
  中国は、漢口と九口を、1861年に、イギリスの租借地
 にされ・・、
  1898年には、その租借地領域を拡張されているが・・
  1927年のこの時、中国革命軍は、この租借地を攻撃し、
 イギリス軍を駆逐し、この地を取り戻した。
  アメリカは、満州事変を、「日本が侵略した」と言い
 つのるが、中国にしてみれば、アメリカなどの米欧列強
 の方が、広い地域を奪っていて、ひどいと感じていた。
  この戦闘は、この中国の不満が爆発した戦いだった。
  因みに、アメリカは、上海、天津、温州に租借地を持
 っている。
.
1928年、中国・清朝が滅亡した後、中国各地には、私兵を
 抱(かか)えた軍閥が群雄割拠した。
  孫文の後を継いだ国民党の蒋介石は、各地の軍閥と戦
 い国内統一を目指した・・『戦国時代の様相』だった。
  そして、1928年、蒋介石は、北京を抑えて新政府を樹
 立した。
  今・現代、まだ、その様な戦国時代から、中国は100年
 も経っていない・・
  その様な国・・文化は熟成していない・・
.
1929年10月24日、アメリカに始まった世界恐慌は、世界を
 経済的混乱に陥(おとしい)れ、苦しめた。
  1922年に、イタリアに「ファシズムの政府」が生まれ、
 独裁政治を始めた。
  これが、ムッソリーニのファシスト党だった。
  そして、1935年に、このファシズムのイタリアは、エ
 チオピアへ侵攻した。
  そして、このファシズムが、1929年の世界恐慌後、経
 済混乱に苦しみ、経済的に困窮する国々に広がった。
  アメリカ発の恐慌は、この様な世界を現出した。
.
1929年、大きくなるナチス党
  ドイツは、第一次世界大戦後、巨額な賠償金を背負わ
 されて苦しんだ。
  物価は高騰した。
  庶民は生活に苦しみ、不安の中に暮らしていた。
  ここに生まれたのが「ヒトラーの率いたナチス党」だ
 った。
  ヒトラーは、「民族の栄光の復活」を掲げた。
  国民も賛同して行った。
  1929年に始まった世界恐慌は、ナチス党を大きくした。
  恐慌によるドイツ経済の悪化と・・、
  ベルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が
 合意されると、ドイツ国民の反発を呼び、ナチス党は支
 持を集めて行った。
  (ヤング案は、1929年9月1日に遡及して適用された・・、
  ドイツの支払いは遅滞した。
  また、世界恐慌の経済混乱の影響があっても・・、
  当事者各国の協調によって、このヤング案は堅持され
 た)
  1932年7月、選挙でナチス党(ナチ党)は、全584議席
 中230議席を獲得し、ついに第一党となった。
  そして、翌年の1933年1月30日には、ヒトラーのナチス
 党は、政権を握り、ヒトラー内閣が発足した・・そして、
 独裁体制を作った。
  ここから酷い世界史が始まった。
  切っ掛けは、アメリカから始まった世界恐慌と第一次
 世界大戦のドイツに対する苛酷な責任追及だった。
.
1930年、世界恐慌、日本に波及、不況状態となる(前年の
 1929年に起きたという説がある)、
  日本の農村は、アメリカ向けの生糸の輸出額が激減し
 たことによって・・、
  農村の暮らしは、極限の貧しさに一気に転落して行っ
 た。
  この昭和恐慌・・娘を身売りさせるという悲しい話も
 聞いた・・まだ、日本は発展途上の国だった・・
  ほぼ1932年頃まで続く・・、
  この年・1930年、ロンドン軍縮会議で、日本は、不利
 な協定を受け入れざるを得ない状況となった。
  軍部から不満の声が出た。
  また、政府が、野党から厳しく攻撃された。
  この様な世情不安の時、浜口雄幸首相は、暴漢に襲わ
 れ重傷を負い、そして、1831年8月26日、死に至った。
  経済も波乱状態の上に、政治も波乱の時代だった。
.
1931年9月18日、アメリカやヨーロッパの列強諸国は、初め、
 満州地域への関心は「まったく無かった」・・
  ほとんどと言ってよいほど「関心の欠片(かけら)」
 も無かった。
  だから、当初は、アメリカは、日本の行動を、当然、
 侵略だなんて言っていない。
  その様な歴史的記録は一切ない。
  アメリカは、後になって、都合で「侵略だ」と言い出
 した。
  当初は、アメリカは、ただ単に、日中双方に、事変の
 戦闘を停止するように求めただけに過ぎなかった。
  また、同様に、国際連盟も、同じ様に、戦闘の停止を
 求めたに過ぎなかった。
  そして、国際連盟は、それ以上を問題としないで「休
 会に入ってしまった」ほどだった。
  そんな調子だった・・が・・後から、火がついたよう
 に日本を攻めて来た・・
.
1931年9月18日、そして、アメリカは、この時の満州事変が、
 後になって、自国に有利に使えそうだと、ことさら過大
 に取り扱われてしまう様になった。
  アメリカはじめ米欧列強の植民地で起きたことは、国
 内の事件として処理されていたが・・ことさら、日本の
 事は過大に取り扱われた。
  特に、この満州事変がそうであった。
  中国が国連に提訴したが、アメリカなどの入れ知恵の
 感がする。
  例えば、イギリスは、植民地のインドで、インドの方々
 を、さも猛獣狩りをするようにして、インドの方々を、
 毎日のように、殺戮していたが・・、
  また、道の木々に、インドの方々を吊るして殺し、そ
 のままの「吊るしたまま」にして・・インドの方々は、
 同胞の方々のその様な状態を、毎日、見せつけられると
 いう状況だった・・が・・、
  また、アメリカは、フィリピンで、60万人ものフィリ
 ピンの方々を殺戮するという様なことをしていたが、
  これらが、国連で討議されるようなことはなかった。
  国内問題とされ、「警察行動によってだ」とされた。
  しかし、満州事変は、ひたすら拡大的に取り扱われた。
  アメリカなどの米欧列強の思惑通りの推移だった。
.
1933年5月31日、塘沽協定(とうこきょうてい)が、この時、
 河北省塘沽において日本と中国との間に締結された(停
 戦協定)。
  これによって、柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的
 衝突は停止された。
  この中国との停戦協定が結ばれ・・1934年3月1日には、
 溥儀(ふぎ)が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行
 した。
  国務総理大臣(国務院総理から改称)に、鄭孝胥(後
 に張景恵)が就任した。
  満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのも
 と、満州には、日本の重工業が発展したりして、経済成
 長をした。
 中国人が、著しくその様になった満州へ流入して来た。
  (参考)五族協和:ごぞくきょうわ、満州国の目指し
     た理念で、「和(日)、韓、満、蒙、漢(支)」
     の五族が協調して暮らせる国を目指した。
  (参考)王道楽土:おうどうらくど、満州国の建国理
     念で、アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武
     による統治(覇道)ではなく、東洋の徳による
     統治(王道)で造るという意味。
  この地域は、荒野も多かった・・種々の民族が住む地
 でもあった。
  ロシアが不凍港が欲しくて模索し、ウスリー河、アム
 ール川流域を手に入れたりした様に、確定的な地ではな
 く・・、
  また、近年まで、中国とロシアが国境で揉めたがごと
 くの状況であった。
  また、必ずしも、中国の領土という事でもなく・・、
  しかし、ここに先住する多くの民族の独立の権利は、
 喪失させられてしまった。
  今・現在、満州国があった地には、ほとんど満州人は、
 居なくなってしまった状態だという。
  チベット人の方々が、チベットに居られなくなってい
 る様に・・
  因みに、万里の長城のはるか北方のこの地は、中国は
 「化外の地としていた」。
.
1935年、アメリカ外高官のマクマリーの中国情勢について
 の見解・・、
  「人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法
 的義務を軽蔑し、目的実現のために向こう見ずに暴力に
 うったえ、挑発的なやり方をした。
  そして、力に訴えようとして力で反撃されそうな見込
 みがあるとおどおどするが、敵対者が何か弱みのきざし
 を見せると、たちまち威張り散らす・・
  中国に好意を持つ外交官たちは、中国が外国に対する
 敵対と裏切りを続けるなら、遅かれ早かれ、一二の国が
 我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返しをしてくれるだ
 ろうと説き聞かせていた」。
  また。。、
  幣原喜重郎(元外務大臣)の中国の外交に対する見解・・、
  「日本は、不平等条約の辛酸をなめ、その撤廃を図(
 はか)るにあたっては、列国を攻めるよりもまず己(お
 のれ)を攻めた。
  打倒帝国主義などと叫ばずして、まず静かに国内政治
 の革新に全力を上げた。
  帝国主義時代において、我々の先輩の労苦は容易なら
 ざるものがあったが、国内の近代化が達成されると、列
 国は快く対等条約に同意した。
  日本は、外国人が治外法権を享有(きょうゆう、当初
 から、初めから持つこと)した時代でも、列国の帝国主
 義を呪うことなく国を進歩させた。・・
  我々は、必ずしも日本の先例の通りにしろという訳で
 はないが、シナ(中国)が早く平等の地位を占めること
 を望むがゆえに、同国官民の自重を求めざるを得ない」。
  中国に、ロシア革命の影響を受けて外国人排撃の暴力
 が横行していた頃に対する言葉・・、
.
1936年12月12日、西安事件
  西安(シーアン)は、中国・陝西省(せんせいしょう)
 の中心都市で、古都・長安である。
  中国・共産党は、抗日で国共両党が協力することを呼
 びかけた。
  しかし、蒋介石は、まず国内の共産党勢力を倒し、そ
 の後に、日本軍と戦うという方針を変えなかった。
  国民党軍の戦いの方針は次第に変わって行く・・、
  中国国内には、ロシア革命に刺激されて、外国勢力の
 排斥の風潮があったが・・、
  アメリカに武器・弾薬を供給されている国民党軍は、
 当然、外国勢力の米欧は敵ではなく、外国勢力で日本だ
 けを敵として認識させられて行く。
  共産党軍は、圧倒的な兵力を持つ国民党軍に追い詰め
 られた。
  満州地方の軍閥で、日本軍に駆逐された張学良は、蒋
 介石に、共産党及び共産党軍を討伐する事を命令されて
 いたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していた。
  張学良は、1936年12月12日、蒋介石を西安で監禁した
 (西安事件)。
  そして、共産党との内戦の停止を迫った。
  そして、強引に同意させてしまった。
  この様に拘禁された蒋介石が西安に来た理由は・・、
  共産軍が、国民政府軍の共産党の討伐戦により21万人
 から7万人まで大幅に勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省
 に追い詰められていた。
  このため、蒋介石は、共産軍を殲滅する最後の軍議を
 西安で開いて、20個師団と100機を超える航空機を投入し
 て2週間から1月間以内に、8年間にわたる対共産党軍戦を
 終わらせようとしていた。
  蒋介石の言葉(将軍たちへの訓示)・・
  「剿匪(共産党軍を殲滅する意味)の完全成功まで、
 いまや最後の5分間の段階に来ている。
  各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動して
 ほしい」・・と、繰り返し命令した。
.
1937年12月、中国の国民政府軍の蒋介石が、南京が陥落し
 たので、さらに、中国奥地の重慶へ首都を移した。
  そして、対日戦を続けた。
.
1947年7月21日、オランダが、インドネシアに侵攻した。
  オランダは、戦後、インドネシアを再び植民地としよ
 うと不当な戦争をした・・それは侵略戦争と言えた。
  オランダはインドネシアを侵略した。
  日本によって、インドネシアを追い出されていたオラ
 ンダは、そのままで過去300年以上の甘い汁を吸い続けた
 利権をあきらめるような国では無かった。
  (参考)オランダは、日本へ、1941年12月10日に、宣
     戦布告した・・そのため、日本は、インドネシ
     アのジャワ島へ上陸部隊を送った。
      オランダ軍は、1942年3月10日に、日本軍に
     全面降伏した。
      日本は、オランダ軍に監禁されていたスカル
     ノ(後のインドネシア大統領)やハッタなどの
     指導者を解放し、協力体制を取った。
  卑劣にも、オランダの副総督ファンモークは、スカル
 ノの独立宣言を無視した。
  そして、インドネシアの港町スラバヤに、イギリス軍
 とともに上陸した。
  欧米列強は、いつも、卑怯である・・弱小国に、いつ
 も、この様に連合を組んで侵略する。
  (街のやくざが群れる様に・・日本も、まだ近代化し
 ない幕末に、これでやられ、大金をむしり取られた)
  オランダのファンモークは、「インドネシア人は、日
 本軍が降伏した現在、オランダ軍が上陸すれば、インド
 ネシアは、直ちに、元通り従順な植民地になるに違いな
 い」と考えた。
  しかし、「インドネシアは、日本軍によって羊が虎と
 なっていた」とオランダは驚愕した。
  (日本は、すでに、自衛ができるようにと、インドネ
 シア軍を教えていた(郷土防衛義勇軍・ペタの育成)・・
 それは、オランダの差別的な弾圧政策と雲泥の差があっ
 た)
  イギリス軍は、連合軍の管轄として、日本兵の武装解
 除、本国輸送などの役割を果たすために来たという名目
 もあったのだが(言い逃れ)・・このインドネシア独立
 戦争に関わり、大きな犠牲を出した。
  それ故、1946年11月になって、軍隊を撤退させた。
  しかし、オランダは諦めなかった。
  1947年7月21日に、戦車、飛行機、機関銃で武装した部
 隊約10万人を投入した。
  (この後、オランダは、1948年12月19日にも、二度目
 の大規模侵攻をする)
  そして、大規模な攻撃に出た。
  インドネシア共和国軍は独立に燃えていた。
  しかし、兵員こそ200万人もいたが、武器は、大東亜
 解放の旧日本軍から秘密裏に渡された小銃4万丁ほどに
 過ぎず、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。
  オランダ軍は、瞬く間にジャワの大部分と、スマトラ
 油田地帯を含む産業地帯を占領した。
  オランダの「明らかな侵略戦争」は、世界中の非難を
 浴びた。
  国連安保理は、「オランダの敵対行動の即時停止」と
 「平和的手段での解決」の決議案を採択した。
  しかし、オランダは、この決議案を受け入れて、停戦
 に応じるかと見せかけたが、占領地域からの軍隊撤退を
 拒否した。
  外交交渉は暗礁に乗り上げ、局地的戦闘が続くという
 状態だった・・
  国連決議なんて何の役にも立たない状況だった。
  1948年12月20日、オランダは、再度、空挺部隊による
 第二次攻撃を開始し始めた。
  オランダとのインドネシア独立戦争では、日本軍人の
 数千人が、戦後も、インドネシアに残って、インドネシ
 ア軍を助け、共に戦った。
  その日本人英雄の中には、インドネシア国立英雄墓地
 に祀られている人々もいる。
  国際世論は、特に、インドを始めとするアジア諸国は、
 オランダによる都市の無差別爆撃に激しい非難を浴びせ
 た。
  (アメリカが、日本にも散々やった、無実の市民が居
 る都市の無差別殺戮爆撃である)。
  国連安保理も、1949年1月28日、オランダに対して、イ
 ンドネシアから撤兵するよう勧告する決議案を採択した。
  アメリカ議会の中では、これ以上、軍事行動を続ける
 ならば、マーシャル・プラン(アメリカによる欧州経済
 復興援助)を打ち切るべきだという声が出た。
  これが、最終的にオランダを諦めさせた。
  結局、国連による非難決議だけでは、オランダの侵略
 に対する有効な阻止手段とは・・悲しいかな・・ならな
 かった。
  3年半の独立戦争で、インドネシアが払った犠牲は、
 死者:80万人、負傷者:1000万人を超えた。
  しかし、オランダは謝罪するどころか、戦費を賄(ま
 かな)うためにオランダが発行した軍票60億ドルのイン
 ドネシア政府による弁済、オランダ人官吏への恩給支給、
 オランダ人所有の不動産の権利承認などを要求した(臆
 面もない不当な要求)
  (参考)臆面もなく:おくめんもなく、遠慮すること
     なく、図々しく・・
  インドネシア政府は独立確保のために、オランダの要
 求のすべてを呑んだ。
  ここまでしてから、やっと、再度の侵略の心配がなく
 なった1963年に、インドネシアは、「オランダの要求を
 否認する」という声明を出した。
  その時の外相であったルスラン・アブドルガニー氏は、
 次のように語った・・、
  「インドネシアは、ようやく力がついてから、全世界
 の見ているところで、オランダとの約束を全部破り捨て
 ました。
  つまり、植民地主義と戦うには力がなければ勝てない
 のです。
  オランダと戦う力、つまり軍事能力を戦時中、日本が
 与えてくれたおかげで我々は独立することができました」
 と語った。
  エピソード・・、
  1945年8月16日の終戦の翌日、前田精海軍少将は、スカ
 ルノとハッタを自らの公邸に受け入れ、インドネシア独
 立宣言の打ち合わせを行った。
  この会議は、8月16日23時から始まり、翌・8月17日の
 午前2時過ぎまで続いた。
  会議には50人ほどが出席していた。
  その間にも、多数の青年グループ達が会議の結果を待
 っていた。
  日本人は、前田の他に日蘭商業新聞記者・吉住留五郎、
 第一六軍軍政監部司政官・三好俊吉郎、海軍嘱託・西嶋
 茂忠が同席した。
  後に、インドネシア共和国初代外務大臣となるスバル
 ジョは自著の中で、1945年8月17日未明に行われた独立
 準備委員会による独立宣言に関する会合について・・
  「こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、忘
 れることのできない夜の会合は終わった」と述懐してい
 る。
  1976年(昭和51年)、前田は、インドネシアの建国功
 労章を授与された。
  アジア解放の大東亜戦争の一つの顕彰であった。
  (参考)顕彰:けんしょう、功績などを一般に知らせ、
     表彰すること。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive