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2017年10月15日

(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)

題:(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月22日、与党中央交渉部を母胎として、中立議員ら
 が国民協会を結成した。
  国民協会は、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭と
 する山県有朋系の官僚出身の保守主義者を中心として結
 成された国家主義的政党で、藩閥政府を擁護した。
  中国の軍拡を見て、軍備強化の必要性を主張し、また、
 製鉄所の建設など実業の振興の必要を主張した。
  条約改正問題で、第2次伊藤博文内閣と対立して与党的
 地位を失った。
  日清戦争後に、藩閥政府が、自由党や進歩党などの「
 民党」との提携に至ると、藩閥勢力の中でも最も保守的
 な山県有朋との関係を強めたが・・、
  党勢は、創立当初は70名を擁した議員が、選挙ごとに
 減少し・・衰退の一途をたどり・・、
  1898年8月には、21名となり・・、
  1899年に、品川の枢密院入りで支柱を失い・・、
  1899年7月4日に解党した。
  翌日、帝国党となって再出発した。
1892年6月26日 弁護士総会を、初めて東京で開催した。
  現在の弁護士制度ができる前は、「代言人」と呼ばれ
 ていた。
  1880年5月13日に、代言人規則が全面改正され、代言人
 組合の結成が義務付けられた。
  それを受け、1880年6月27日、横浜代言人組合が設立さ
 れ・・
  1880年6月29日に、東京に・・
  1880年9月30日に、大阪に設立された。そして・・
  1892年に、弁護士法が成立し、代言人は弁護士へ、代
 言人組合は弁護士会へと、法律によって改名した。
  この頃の弁護士は、司法省(検事正)の監督のもとに
 おかれ、その独占業務も、法廷活動に限られていた。
  弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、試験制
 度も異なっていた。
1892年6月27日、震災予防調査会が設立された(7月15日説
 あり)
  震災予防調査会は、1892年6月27日~1925年11月14日に
 設置されていた文部省所轄の地震や震災に関する研究機
 関で・・、
  1891年の濃尾地震の被害の大きさに衝撃を受けた関谷
 清景らが・・、
  地震の予防は出来なくても、被害を最小限に食い止め
 る方法を研究することは可能である・・として、
  帝国議会に対して、そのための研究機関の設置を建議
 した。
  明治政府もこれを受けて、この年に、震災予防調査会
 で、「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議
 する」ことを目的とし、文部省所轄の研究所として設置
 された。
  (参考)関谷清景(せきや きよかげ、1854年12月11日
    (1855年1月28日)~1896年1月8日)は、日本の地
     震学者。世界初の地震学教授。
1892年6月、東京~大阪間に4重電信機が導入された。
  最初期の電信は、1本の線で1通信しか送信できなかっ
 た。
  取扱量を増やそうとすると、電信線を増設するしかな
 かった。
  1890年代のニューヨーク市の電信柱は、電線だらけと
 なった。
  そこで、通信スピードを上げて短時間で多くの情報を
 送れるようにと、効率化をしようとしたが、結局は、電
 信技手の手送りの時代で、決定的改善策とはならなかっ
 た。
  ここに、「多重通信技術」が生まれた。
  1本の線で2倍、4倍と同時使用できる技術で、コストの
 低減に劇的な効果があった。
  1853年に、オーストリアのギントルが、二重通信法を
 発明した・・そして・・、
  1868年~1872年に、スターンズが、二重通信の実用性
 を上げる発明がなされ、
  1874年に至り、エジソンが、四重通信法を発明した。
  スターンズの方法は、送信と受信が同時に出来るとい
 うもので、この双方向通信で能率を倍加させた。
  エジソンは、振幅パルス変調を取り入れ、1回線を4倍
 にした。
  (参考)パルス振幅変調(パルスしんぷくへんちょう)
     は、情報信号の振幅をパルス信号の系列で符号
     化(エンコード)する、パルス変調の一つ。
1892年6月、スイスで、ブリエンツ・ロートホルン鉄道が開
 通した。
  ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、スイスのブリエン
 ツからブリエンツ・ロートホルンの山頂へ登る登山鉄道。
  この登山鉄道は、ラック式鉄道(歯軌条鉄道)で、2本
 のレールの中央に、歯型のレール(歯軌条、ラックレー
 ル)を敷設して、車両の床下に設置された歯車(ピニオ
 ン)とかみ合わせて、急勾配を登り下りする。
  この歯車で、推進力と制動力の補助とする。
  因みに、このラック式鉄道に対して、車輪とレールの
 間の摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う通
 常の鉄道を『粘着式鉄道』と呼ぶ。
1892年7月1日、九州鉄道会社線の門司・博多・小倉・福岡
 の4駅と、筑豊興業鉄道会社線の直方・若松両駅との相互
 間で連絡乗車券の発売を開始した。
1892年7月3日、大磯海水浴場開き行われた。
  大磯町は、神奈川県の南部に位置する町で、相模湾や
 高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接し、
  また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化
 が大切に受け継がれ、
  自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展し
 てきた。
  1885年(明治18年)、初代・陸軍軍医総監を務めた松
 本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「
 海水浴」を推奨し・・、
  照ヶ崎海岸に海水浴場が開設された。
  これが、我が国の海水浴場の発祥と言われている。
  また、1887年(明治20年)に、大磯駅が開業した。
  当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、とい
 う計画だったが、松本順が当時の初代内閣総理大臣・伊
 藤博文に相談し、大磯駅が誕生した。
  この大磯駅開業によって、海水浴客は増え続け、政財
 界の重鎮たちの別荘が数多く建築された。
  また、保養地としての大磯の名が全国に広まった。
  (参考)海水浴発祥の地は他にもある。
      神奈川県だけでも、著名な海水浴場が、本牧、
     富岡、七里ケ浜、片瀬が挙げられるが・・、
      片瀬では、明治初期に、早くも、外国人が海
     水浴を行なっていたことが知られている。
1892年7月4日、山陽鉄道会社社長・松本重太郎が、下等運
 賃を、神戸駅~三原駅間で、最高1円とした遠距離逓減の
 運賃改正(中等は下等の2倍、上等は同3倍)について申請
 した。(7月8日に認可された)
1892年7月6日、鉄道庁に、線路取調委員を置き、委員規則、
 および、処務順序を定めた。
  線路取調委員は、全国の鉄道線路調査や、鉄道敷設法
 に掲げる線路突削、および、比較線の線路調査に従事し
 た。
1892年7月6日、アメリカのホームステッド・ストライキ(
 暴動・・銃撃戦・・死傷者発生)
  長い不況が続くアメリカ・・、
  カーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼工場におい
 て、組合を弾圧したことより、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起きた。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社
 の社長に就任すると、労働組合の破壊を決意して、賃金
 の引下げを計画した。
  そして、労働運動に対し、フリックは、工場にフェン
 スを巡らしロックアウトの強硬策を実施した。
  労働者側は工場の周りをガードし、地元警察も排除す
 るという状態。
  フリックは、さらに強硬手段に出て、ピンカートン探
 偵社という名の300人の私設警察=会社防衛隊を雇い、工
 場に配置し・・、
  また、スト破りの新しい労働者を雇って操業を再開し
 た。
  また、探偵社は、深夜に、工場の脇の川からボートで
 工場内に入ろうとした。
  労働者はそれを発見・・ここで、ボートの内外で、銃
 撃戦が始まった・・14時間にわたって行われ・・
  労働者側は、最後に燃え盛る列車をボートに向け突っ
 込ませた。
  また、ダイナマイトをボートに向け放り込み、ボート
 を爆破した・・ここで、探偵社側は降伏した。
  探偵社側3名、労働者側9名が死亡し、70人以上の死傷
 者となった。
  会社は、州知事に民兵の出動を要請し、ペンシルバニ
 ア州知事は、8000人の州兵(民兵)を出動させ・・
  軍の出動によって、労働者側は鎮圧され、労働組合は
 壊滅した。
  この後、フリックは、関連会社の労働組合を周到に解
 体へと追い込んている。
1892年7月7日、鉄道庁分課規程を改正した。
1892年7月13日 海軍造兵廠で、5000名スト。
  1889年、呉鎮守府設置。
   同じくして「造船部」設置、小野浜造船所を管轄す
   る。
  1897年、「仮設呉兵器製造所」は「呉海軍造兵廠」に
   改称、呉で初の軍艦「宮古」進水。
1892年7月20日、山陽鉄道会社線の尾道駅~三原駅(現:糸
 崎駅)間(9.1km)が開通した。
1892年7月21日、鉄道庁が、内務省から逓信省に管轄替えと
 なり逓信省鉄道庁となる。
1892年7月21日、鉄道庁長官に井上勝が就任した。
1892年7月21日、近藤勇の正妻・つね(56歳) が死去した。
  1837年(天保8年)、清水徳川家の家臣・松井八十五郎
 の長女として生まれた。
  1860年(万延元年)3月29日、天然理心流次期4代目で
 ある近藤勇と見合い結婚する。
  近藤は武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市)の
 百姓・宮川久次郎の三男で、
  1848年(嘉永元年)に、江戸牛込の天然理心流道場で
 ある試衛場(試衛館)の近藤周助に入門した。
  翌年・1849年(嘉永2年)10月19日に、周助の養子とな
 った。
  1862年(文久2年)に、長女・たまを出産した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
   安易な方針転換をした中国もそこに居た・・、
.
707年、平城京への遷都の審議が始まった・・
  唐の都・長安をモデルにした平城京は、東西4キロ、南
 北約5キロのほか、東側に「外京」があって・・総面積は
 約2500ヘクタールだった。
  約10万人が暮らし・・、
  シルクロードの終着点として・・人や物が行き交う、
 国際色豊かな大都市として・・栄えた。
  だが、784年に・・、長岡京(京都府)へ遷都した後は、
 田畑や草木に埋もれた・・
  幕末に、調査されるまで・・人々から忘れ去れていた。
  この平城京への藤原京からの遷都は、文武天皇在世中
 の707年(慶雲4年)に審議が始まった・・
  708年(和銅元年)には、元明天皇により遷都の詔が出
 された。
  しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都され
 た時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程
 度だった。
.
1775年5月26日、ジョージ・ワシントンを司令官とする大陸
 軍(独立を目指すアメリカ軍)が正式に発足し、統一し
 た指揮系統が作られた。
.
1820年、アメリカは、22州であったが、まだ、その半分は
 奴隷州であった。
  この後、アメリカは、何ら根拠のない「西漸説」で西
 部を奪っていくが、逆に奴隷州が増えていく状況となる。
.
1854年、卑劣な奴隷制推進法の「カンザス=ネブラスカ法」
 ができた。
  アメリカは、黒人の方々が、長い間、奴隷にされて来
 た卑劣な遅れた国だが、奴隷解放された後もキリスト教
 に洗脳された「有色人種蔑視観」は消え去ってはいなか
 った。
  今・現在も、アメリカでは、黒人の方々が差別され蔑
 視されているが、その様な差別社会であるが・・、
  ミズーリ協定の付帯条件で、今後、西部に新しく出来
 る州は、北緯36度30分の北側を奴隷禁止にして、その南
 は奴隷制を認めるとした。
  アメリカは、この時にも、今までの様に、まだまだ、
 西の地を奪うのだと卑劣にも今後の予定していた。
  それ故に、アメリカは、この様な法律条文(規則)を
 作った。
  しかし、綿花という利益率の良い美味しい作物・・、
  そして、利益率が、どんどん良くなる作物・・、
  その作物を利用した利益収奪システムには、「黒人の
 方々を奴隷にしておく」という事が『確実に必要』だっ
 た。
  しかしこれは、何も、南部だけが儲かるだけではなく、
 アメリカ北部の木綿工業も儲けていた・・そして、より
 儲けたかった。
  つまり、ミズーリ協定が、目の上のたん瘤状態だった・・
 ミズーリ協定の地理的制限を「止めたくなった」・・「
 止めたくなって来たアメリカだった」・・より儲け続け
 たいのである・・そこで、骨抜きの法律ができた・・そ
 れが・・
  1854年、カンザス=ネブラスカ法が出来た・・そして、
 その結果として、カンザス戦争(闘争)に至る・・
  (参考)カンザス戦争(闘争):南北戦争の前、自由
      州と奴隷州に接するカンザスで、南北両派の
      移民によって土地争いや、新政府の樹立や、
      奴隷問題をめぐって展開された争いで、この
      1854年の「カンザス=ネブラスカ法」以後、
      両派の争いはより激しくなって行った・・
       南北戦争が、奴隷解放か否かが原因と言う
      のは、アメリカ北部政権のプロパガンダ・・
      そして、南部を悪く言うという北部政権の嘘
      宣伝・・
  「新たに連邦に加入する諸州にて、奴隷制度になるか、
 否かは・・採否が決められる」という法律だった。
  つまり、確実に奴隷州を止めなければならないという
 ミズーリ協定の条件部分が「目障りとなった」のであっ
 た。
  黒人の方々を奴隷のままにしておくか否かは、「住民
 が決めるという民主主義」だから良いのだという屁理屈
 であった。
  ミズーリ協定を・・アメリカの連邦最高裁判所が、「
 判決で否定する」と・・、
  アメリカ大統領と伴にアメリカのすべてが「喜んだと
 いうアメリカ」においての法律であった。
  まったくバカげた『結論が分かっている』法律をアメ
 リカは作った。
  「住民の意思を大切にしているから良い法律なのだ」
 という、アメリカらしい「こすからい」、この当時、結
 果が決まっている・・自分勝手な理屈の法律だった。
  黒人の方々は、人権は認められていないし、選挙権も
 剥奪されている中で、「どこに民主主義があるのだ」と
 いう卑劣さもある・・また、差別社会のアメリカの中で
 の法律だった。
  そして、この卑劣な法律の推進者が、アメリカ北部の
 人間だった・・美味しい思いをしたいという北部人だっ
 た。
  アメリカ中で、一緒くたになって、南部も北部も、こ
 の様な事をやっていた。
  これで、事実上、ミズーリ協定が「葬り去られた」。
  『アメリカ北部に奴隷州が生まれる法律』だった。
  アメリカの国権の最高裁判所が、「ミズーリ協定は憲
 法違反だ」と判決したことを受けて、この様な事を、ア
 メリカは仕組んでやった。
  美味しい奴隷制を「なかなか手放さない」、美味しい
 奴隷制は「続けます」というアメリカだった。
.
1861年3月4日、アメリカのリンカーン大統領は、就任演説
 で、奴隷財産の『擁護論』を展開した。
  奴隷解放どころか・・奴隷制を認めるという擁護論理
 であった・・「奴隷という財産を守れ」という擁護論の
 演説をした。
  これを、アメリカは、「奴隷州に配慮した」と弁護し、
 「政治的配慮である」と言い訳をした。
  また、リンカーンは、「奴隷解放ではなく、連邦の統
 一という最高目的があった」などと・・色々な言い訳を
 した。
  それなら、そうだと、リンカーンの口から説明すれば
 よいものを・・?
  この様な、半分、屁理屈の様なリンカーンへの言い訳
 を聞けば聞くほど、リンカーンの心の中には、その様な
 「奴隷解放の意思は無いのだ」ということが明らかにな
 って来る。
  黒人の方々への配慮・思いやりなどまったくなかった。
  南北戦争のことを・・「南部の奴隷制度に耐えかねて
 南北戦争を起こした」と美しくアメリカはプロパガンダ
 し、また、リンカーンを弁護する。
  この当時のリンカーンへの風当たりは厳しかった。
  奴隷制度廃止論者のダグラスとリンカーンの論争・・、
  リンカーンの心の中には、キリスト教に影響された「
 有色人種蔑視観」があった。
  リンカーンは、子供の時に、目の前でアメリカ・イン
 ディアンにおじいさんが殺された。
  その事で、弁護士時代には、インディアンの土地の取
 り上げや、法的闘争に奔走していた。
  また、大統領になれば、死者が莫大に出るという厳寒
 期の長距離のインディアン居留地の移動を命じたり・・
  (インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が
 大勢出た)
  また、移動しないインディアンに対して、酷い討伐を
 命じた・・殺戮・全滅を是認する「討伐を指示」を出し
 たりするリンカーンだった。
  1862年8月22日、奴隷制反対論者である「ニューヨーク・
 トリビューン」の主幹が、リンカーンへ『公開質問状』
 を出すくらいだった。
  この様な事態から、リンカーンは、「奴隷解放」の布
 告を出さざるを得ない、出す事を余儀なくされて行った。
  その様な心境にさせられて行った。
  アメリカ北部政権が祭り上げ、プロパガンダで、「奴
 隷解放の父」などと言っているが・・その称号は、返上
 すべき大統領だった。
  リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の
 「参加はまっぴら」という大統領だった。
  そうであるならば・・南北戦争において、白人・アメ
 リカ人の北部軍がしっかりしていたかと言えば、まった
 く腐敗していた。
  北部軍の軍首脳部の腐敗の影響によって、戦争準備が
 できていない状況で・・その準備不足で、南部軍にやら
 れっぱなしだった。
  北部軍は、相次いで、戦いに敗れ・・、
  開戦早々だというのに、「南部軍の旗をワシントンの
 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という言葉が、
 南部軍から出るくらいだった。
.
1861年7月、南北戦争で、アメリカ北部軍が、ブルランで敗
 れ、早くも首都・ワシントンが陥落の危機にさらされた。
  リンカーンをトップとする北部軍の首脳部は、腐敗し
 ていて、戦争準備がなっていなかった。
  本当にアメリカを良くしようという意義が頭にあって
 開戦したのか?・・疑問が生じる状況だった。
.
1862年7月、アメリカのリンカーン大統領は、この時になっ
 て、やっと、南北戦争に、黒人の方々の参戦を認めた。
  それまで、リンカーンは、黒人の方々の軍隊編入をた
 めらっていた。
  リンカーンには、有色人種蔑視観があった。
  しかし、リンカーンのその様な思いとは別に、南北戦
 争は、リンカーン北部軍は、『完全な劣勢』に置かれて
 いた。
  黒人の方々は、リンカーン政府にいくら言っても埒(
 らち)が明かない状況に至って、北部軍の各将軍・・バ
 トラー将軍、シャーマン将軍、フレモンド将軍、ハンタ
 ー将軍などの下へ、直接、多くの黒人奴隷の方々は馳(
 は)せ参じた・・
  そして、戦争遂行のあらゆる部署に挺身した。
  その様な事態になって、やっと、リンカーン政権は、
 遅ればせながら、後追いで・・1862年7月、黒人の方々の
 軍隊編入を認めた。
  本当に、軽蔑すべきリンカーン大統領だった。
  そして、この後、あらゆる反動もあって、この黒人の
 方々の、目ざましい戦いが起きる・・そして、素晴らし
 い功績を残した。
  その1例が、サウスカロライナ州のワグナー要塞の攻撃
 だった。
  第54マサチューセッツ黒人連隊の果敢な働きは凄(す
 さ)まじかった。
  この連隊には、黒人奴隷解放運動家の大御所「フレデ
 リック・ダグラス」の二人の息子も加わっていた。
  黒人の方々は、それまで、白人・アメリカ人の虐(し
 いた)げを受けていた反動もあって、果敢に戦闘をした・・
  その為もあって、可哀想に、黒人の方々が戦死する率
 は、白人兵士より35パーセントも多く、黒人の方々は亡
 くなっっていた。
  戦死者数は4万人にも及んだ。
  この戦争には、18万6000人もの黒人兵士が、正式に北
 部軍の陸軍兵士として参戦していた。
  13万4000人が、奴隷州からの参戦だった。
  アメリカ海軍は、卑劣にも黒人の方々を拒否した。
  炊事係など3万人が参加しただけだった。
  給料面でも差別された。
  白人兵士の半分にもなるか、ならないかという差別状
 態だった。
  1863年7月のゲティスバーグの戦いと、ビックスバーグ
 の戦いが、北部軍勝利の転機となった。
  そして、シャーマン将軍のアトランタからサバナに向
 かうジョージア進撃の成功によって、北部軍の勝利は、
 最終的な、確定的なものとなった。
  1865年4月2日、南部連合の首都・リッチモンドが、北
 部軍の手に落ち・・
  その1週間後の1865年4月9日、南部軍のリー将軍は、ア
 ポマトックスにおいて、北部軍のグラント将軍に降伏し
 た。
  黒人の方々の功績は絶大だった。
  アメリカ北部軍は、黒人の方々の戦いによって救われ
 たのだった。
.
1863年1月1日、アメリカで、やっと、奴隷解放令が公布さ
 れた。
  しかし、リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと
 している「この時点」になっても、黒人の方々を、アフ
 リカのどこかに植民させる(棄民する)ことが良いと考
 えていた。
  また、「奴隷のすべてを解放する様な事はしない」と
 考えていた。
  この様に、奴隷解放の足を引っ張るリンカーンの考え
 は、黒人の方々から「猛反発」を受けた。
  これに先立つ3か月前の1862年9月22日、奴隷解放令に
 先立つ「奴隷解放予備宣言」を公布するところまでこぎ
 つけていた。
  しかし、このリンカーンの「奴隷解放予備宣言」は、
 おかしな宣言だった。
  南北戦争が盛んに行われている現状において、リンカ
 ーンが考えていたのは、「反乱している州の奴隷を解放
 する」というものだった。
  つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放
 されない」という宣言だった。
  リンカーンは、「奴隷解放の父」とアメリカ北部の現
 政権がプロパガンダしているが・・「リンカーンは、そ
 の様な人間ではない」。
  リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の「即
 時、無条件、全面解放をしない」という大統領だった。
  即時、全面開放をためらう大統領だった。
  しかし、この様な状況の中で、黒人の方々は、残され
 た「わずかな解放の望み」をひたすら待ち望んだ。
  本当にアメリカは人権抑圧国家だ。
  黒人の方々への同情とともに、人権をもてあそぶ人権
 抑圧者・リンカーンへ怒りが湧く。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条」が制定
 され・・『卑劣な奴隷制度を決めていたアメリカ合衆国
 憲法』が、やっと、修正された。
  アメリカは、1861年1月1日になって、「奴隷解放令」
 が、やっと、出たが・・しかし・・、
  奴隷解放令が出たからと言って、即時に、黒人奴隷の
 方々が、奴隷という卑劣な身分から解放されるという訳
 ではなかった。
  この後、黒人の方々は、血みどろの戦争を2年間もの
 間、耐え抜いて、戦い・・、
  黒人の方々は、自由の獲得闘争をして行って・・、
  やっと、1865年に至って、卑劣なアメリカ合衆国憲法
 の憲法修正第13条が提出され・・修正案を制定させるこ
 とができた。
  卑劣なアメリカは、黒人の方々に、この様な困難な時
 間を必要としなければ、この様な悪辣な経緯を経なけれ
 ば・・黒人の方々を「自由の身にして差し上げる」状況
 にはしなかった。
  そして、やっと、黒人の方々は、自由を得ることが出
 来た(・・いや・・この揺れ戻しが・・あります・・ま
 た、昔の奴隷制に戻る様な・・本当にしつこい、奴隷解
 放の歴史だったのです・・遅れたアメリカだったのです)
  リンカーンが、渋っていた黒人の方々の南北戦争の参
 戦を、リンカーンが、あまりにも卑劣に拒絶するので、
 黒人の方々は、独自に部隊を作って参戦してしまった。
  この様な行為をしなければ、黒人の方々は参戦できな
 かった。
  黒人の方々の戦いは素晴らしかった。
  目ざましい役割を黒人の方々は果たした。
  この働きは、アメリカ北部軍の勝利を、最終的なもの
 に導く原動力となった。
  際立って重要なものが、黒人の方々のこの貢献だった。
  アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた
 らされた」と言える状況だった。
  今・現在のアメリカ北部政権は、『黒人の方々によっ
 てもたらされた』と言える。
  リンカーン記念堂に、この黒人の方々の戦功・働きを
 顕彰する記念碑を建立すべき・・、
  そして、毎年、記念行事を開催し、この貢献をした黒
 人の方々の戦士に「感謝の誠を捧げなければならない」。
  この様な黒人の方々の戦功があって、やっと、黒人の
 方々は、自由を獲得することができた。
  アメリカは、卑劣にも、ここまでしなければ、黒人の
 方々を自由の身にして差し上げられなかった。
  黒人の方々は、逃亡して参戦した。
  この様な逃亡奴隷の黒人の方々は、50万人も居た。
  絶大なる人々である。
  リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒人
 奴隷の方々が自由になりました」なんていう話では『無
 いのです』。
  黒人の方々は、この南北戦争を、「奴隷解放の戦い」
 と捉(とら)えていた・・自分たちが自由になれる戦い
 と捉えていた。
  リンカーン政権は、あちこちで参戦したいという黒人
 の方々を拒絶していた。
  参戦の準備を黒人の方々は行っていた・・その為の軍
 事訓練や軍事組織を作った。
  しかし、『この様な事まで禁止するリンカーン政権』
 だった。
  黒人の方々は言った・・、
  「私たちは、すでに用意ができています。
  白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財
 産と名誉をかけて、自由のために良き市民として、私た
 ちの政府を守る覚悟ができています。
  私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいのです。
  そして、私たちは、軍籍に身を置くことができるよう
 に、皆さんの法律を改めて戴くようにお願いしたいので
 す。
  私たち黒人の胸の中に燃え上がっている愛国的感情を
 思う存分に発揮できますように」・・この訴えも、リン
 カーンに届かず、無視されていた。
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1902年2月4日、リンドバーグが生まれた(~1974年8月26日)
  チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリ
 カ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、
 議会名誉黄金勲章の受賞者である。
  1927年には、「スピリット・オブ・セントルイス」と
 名づけた単葉単発単座のプロペラ機で・・、
  ニューヨーク~パリ間を飛び・・、
  大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。
  1931年には、北太平洋横断飛行にも成功している。
  1953年に、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The
 Spirit of St. Louis"(『翼よ、あれがパリの灯だ』)
 を出版し、
  これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。
  同書は、1957年に、ビリー・ワイルダー監督の手で映
 画化されて有名になった(『翼よ! あれが巴里の灯だ』)
  また、リンドバークは・・、
  「日本軍と、アメリカ軍(連合軍)との戦死者・捕虜」
 について言及した。
  特に、アメリカ軍の残虐行為について糾弾した。
  リンドバーグは、日米開戦後、軍の技術顧問となり、
 南太平洋に赴任し、そのアメリカ軍の残虐行為を目撃し
 た。
  そして、日記に、次ぎの事柄を書き記した。
  以下、その一部の抜粋・・、
☆各地の太平洋戦線で、日本人捕虜の数が『欧州戦線に比
 して異常に少ない』のは・・、
  捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、
  アメリカ兵が捕虜を取りたがらないから、
  手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し
 した。
  その為、日本兵の捕虜が少なかった・・、
☆あるところでは、2000人ほど捕虜にしたが、本部に引き
 たてられたのは、たった100人か、200人だった(それは、
 日本人の捕虜のほとんどを殺戮したからだった)
  残りの連中には、ちょっとした出来事があった。
  それを知った戦友は投降したがらないだろう。
☆捕虜を取らないことを自慢する部隊がいた(降参した日
 本兵を、捕虜にする前に殺したから)
☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。
  捕虜1名につき、シドニーへの2週間の休暇を出すと
 お触れが出た途端に、持て余すほどの捕虜が手に入った。
  懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなった。
  つかまらなかったと嘯(うそぶ)くだけだった。
☆一旦、捕虜にしても、英語が分かる者は、尋問のために
 連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。
  即ち、殺された。
☆捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、
  ジャップは、途中でハラキリをやっちまったと報告し
 た。
☆ある日本軍の野戦病院を、ある部隊が通過したら生存者
 は一人もいなかった。
☆2年以上、実戦に参加した経験がない兵が、帰国前に、
 せめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、
 偵察任務に誘われたが、撃つべき日本兵を見つけられず、
 捕虜一人だけ得た。
  捕虜は、殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で、軍曹
 がナイフで首を切り裂く(殺す)手本を示した。
☆ 『爆弾で、出来た穴の中に、皆、四肢バラバラの状態
 の日本兵の死体を投げ込み、その後で、トラック1台分
 の残飯や廃物を投げ込んだ』
☆捕虜にしたがらない理由は、殺す楽しみもさる事ながら、
  お土産を取るのが目的。
  金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰り、それで、
 ペン・ホルダーとか、ペーパーナイフを造る。
  耳や鼻を切り取り、面白半分に見せびらかすか、乾燥
 させて持ちかえる。
  中には、頭蓋骨まで持ちかえる者もいた。
☆日本兵を動物以下に取扱い、それが、大目に見られてい
 る。
  我々は、文明のために戦っているのだと主張している
 が、
  太平洋戦線を見れば見るほど、(アメリカ人が)文明
 人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。
  事実、この点に関する成績が、日本人のそれより遥か
 に高いという確信は持てない(日本人の方がよっぽど立
 派だ)・・、
  リンドバーグは、ドイツ降伏後、ナチスによる集団虐
  殺現場を見学した時の日記で・・、
  「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ・・と書
 いた。
  爆撃後の穴に、日本兵の遺体が腐りかけ、その上から
 残飯が投げ捨てられ、
  待機室やテントに、まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、
 飾り付けられているのを見た時だ。
  ドイツは、ユダヤ人の扱いで、人間性を汚したと主張
 する我々アメリカ人に、日本人の扱い方で同じようなこ
 とをしでかしている・・とリンドバーグは言った。
  リンドバーグは、オーストラリア軍が、輸送機から日
 本兵の捕虜を、飛行中に投げ捨てられている・・と書い
 てもいる(目撃した)。
  本:『War Journal of Charles Lindbergh』
  リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア
 メリカで、大バッシングを受けた。
  彼の名誉が回復するのは、30年後だった・・亡くなる
 直前だった。
  彼は、正義を求めて、真実を書いただけだった。
  これ等の事は、世界記憶遺産に登録し・・
  アメリカとオーストラリアの各地に銅像を立てよ!
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2008年9月15日、リーマン・ショック
  これは、アメリカが起こした卑劣な世界的経済騒動だ
 った。
  2008年9月15日、アメリカ合衆国の投資銀行であるリー
 マン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻した・・
  連邦破産法第11条の適用を、連邦裁判所に申請した。
  このことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発
 生した。
  金が借りることが出来ない年収の低い人々にまで住宅
 を買わせ、バブル状態の経済の中で、その住宅が値上が
 りして行くことで担保させようと目論んだ・・
  こんな、裏付けのないタイトロープを渡る様な儲けの
 システムは、いつかは破綻するのは必定であったが、
  これを、アメリカ大統領(ブッシュ・子)が音頭を取
 って、国全体がやるような状況を作って、それで、やっ
 た・・
  案の定、いくら国が大きいと言っても行きつくところ
 の終着点に来た。
  しかし、ここでも、また、卑劣な事をアメリカはした。
  この様な卑劣な債権を「細切れにして」、表面的には
 見えない様にして、状態の悪い債券がある様には見えな
 い様にして(健全債権ばかりの様にして)、良質な債権
 に混ぜて世界中に売りさばいた。
  また、卑劣なのは、アメリカは、「格付け会社」なる
 ものを作った・・そして、その会社にその債券の格付け
 を「良く評価させた」。
  良い債券だというお墨付けを付けた。
  つまり、自分(アメリカ)の都合の悪い借金の肩代わ
 りを世界中にさせるという行為だった。
  この様な悪のシステムが「ばれれば(隠していたこと
 や、嘘などが明るみに出て露見する)」、一気に値崩れ
 するのは当たり前だった・・
  これが、リーマン・ショックだった。
  厖大(ぼうだい、非常に多量)な金、あるように見え
 ていた金が消えてなくなった・・蒸発した。
  あまりにも巨額で、不透明で、損失が拡大していく中
 で・・この対応で、世界中が、シッチャカメッチャカに
 なった。
  あちこちの企業が、金融機関が大損失を出した。
  この様な事が分かっていて、だから、ショックが起き
 ると分かっていた者・・その者だけが、「売り抜けて」
 大もうけした・・
  それは誰か?・・その様な悪も居た・・、
  さらに、この大ショックで、大暴落したその底で買っ
 た奴も大儲けした・・
  当然、事実が判明した時は、そのショックで、株価は、
 世界中で大暴落した。
  経済は冷え込んだ、消費も落ち込んだ、金融不安が蔓
 延した・・
  アメリカ・ドルは急落してドル安が進んだ・・
  アメリカ市場の依存度の高い企業は、大きなダメージ
 を受けた・・
  景気後退が広がって行った・・
  この後遺症は、長く世界を悩ました。
  中国の人民元は、対米ドルとの関係で、米ドル急落で、
 資金が急激に中国に流入し、過剰になるくらいだった。
  中国株価は急騰した・・生産はフル回転となった・・
 総需要が高まり・・世界の工場としての存在の中国は、
 大回転した。
  それまで、失業問題が深刻だった中国は、嘘のような
 状況となった。
  経営が立ち行かない企業が続出していたが、180度、変
 わってしまった。
  サブプライムローンをあまり保有していない中国は、
 影響が、損失が、ほとんど発生しなかった。
  アメリカやEUの景気落ち込みの反動で、中国の経済
 は大伸長した。
  中国政府も、補助金などの支援策を実施し、景気対策
 を行なった。
  中国は、舞い上がった。
  重大産業振興策、医療制度改革などを加速した。
  中国の資金は、やがて、不動産取引へも流れ込んで行
 った。
  中国は流れに乗った・・
  北京の不動産価格も上昇して行った・・急騰と言えた・・
  この様な状況から発した中国経済・・
  中国は、「世界一になるのも近い」と思えるようにな
 った。
  中国が経済力で世界一になるのに「25年かかる」と言
 われていたが、「あと10年しかかからない」と、中国は
 思い込んだ。
  この思い込みが中国の舵を、大きく回転し、向きを変
 えた。
  中国の錯覚は、「経済力と国力の関係を見誤った」。
  小国などに、「金を渡せば、相手は黙る」と中国は思
 った。
  急に、自由になる金を一杯持った中国の悲しさだった。
  金の力で、相手を従わせると安易に考えて、行なった。
  アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
 安易な方針転換をした中国もそこに居た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive