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2017年03月11日

(増補版)506E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1890年1月)

題:(増補版)506E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1890年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年(明治23年)、出来事:
・内閣総理大臣:山県有朋(明治22年12月24日~明治24年
 5月6日)
・第一回衆議院議員総選挙が行われる(7月)
  初めて衆議院選挙が行われ、第一回帝国議会が開かれ
 た。
  アジアで最初の、議会を持つ本格的な立憲国家として
 出発した。
  選挙権のある人(25歳以上の男子で、納税額15円以上。
 人口の1.1%の45万人)
  被選挙権のある人(30歳以上の男子で、納税額15円以
 上)
  300議席中、立憲自由党130、立憲改進党41、大成会79、
 無所属45、その他5となる。
・府県制・郡制公定、地方行政制度 執行される(5月)
・第一会議、自由党再興(氷川清話)
  板垣退助が、愛国公党・大同倶楽部を合流して立憲自
 由党を結成(9月)(翌年、自由党に改称)
・第一回帝国議会が開かれる、(上院:貴族院・下院:衆議
 院) 召集(11月)民党側は民力休養を主張、藩閥政府と
 正面衝突する。翌・1891年3月7日閉会。
・松平慶永(よしなが)が没した(1828年~1890年)
  号は、春嶽(しゅんがく)。
  第16代越前福井藩主。
  幕末四賢侯の一人と謳われ、幕末の日本を導いた。
・大日本労働者同盟会の結成(氷川清話)
.
1890年、データー:
・日本の人口:約3,990万人。
・紡績工場の数:30。
.
1890年、経済・金融・貿易:
・年末より「明治23年恐慌」が始まる。
.
1890年、産業:
・白熱舎(白熱電球製造会社。後に「東京電気」となり、
  芝浦製作所と合併して東京芝浦電気になった。
  東芝の源流の1つ。
・品川電燈(4月)、横浜共同電燈(10月)、深川電燈(12
 月)それぞれが開業した。
.
1890年、交通・通信:
・東海道線全通
  この年、日本の官営鉄道が983キロとなった。
  また、私営鉄道も1,365キロと官営を上回った。
・第3回内国勧業博覧会の際、東京電燈会社は、上野公園桜
 岡より両大師前まで電気鉄道を敷設し運転をなす。
・日光線、水戸線鉄道開通
・東京~横浜間に電話が開通。
・電信交換規則発布し、実施。
.
1890年、衣:
・外務省の給仕、悉く(ことごとく)官給の制服となる。
・選挙の開始などにより鞄の需要激増する。
.
1890年、食:
・大坂に外国米多く輸入される。
・米価が騰貴して、兵舎の残飯を売り捌(うりさば)いた
 ものが大繁盛。
・馬肉の流行から、牛肉に馬肉を混ぜて売るものが現れ、
 警視庁は市中の肉屋を検査した。
・兵庫県揖保郡神岡村のそうめん製造年産15万円に達した。
・コレラの流行で氷水が売れず。
・第3回内国勧業博覧会の会場に喫茶店を設けて成功、一般
 市内にも見かけるようになった。
・村井商会、紙巻煙草サンライスを製造(国産紙巻煙草の
 はじめ)
・日本禁酒会が創立された。
.
1890年、住・社会資本:
・江戸川・利根川連絡運河落成
・銀座2丁目にスレート商会開店。
・水道条例発布。
・神奈川県秦野町で土管の小規模上水道が竣工した。

1890年、報道:
・国民新聞(2月1日)[日本新聞社]
  発刊者は陸羯南(くがかつなん)
  執筆者に内藤湖南、長谷川如是閑、正岡子規がいた。
・議会出入り記者団を結成。記者クラブの始まり。
・新聞用達会社が設立される。通信社と広告代理店を兼ね
 たもの。
.
1890年、論・文学・本:
・舞姫(森鴎外)を発表。 エリスという女性を登場させ、
 話題性をねらった。
・小泉八雲が日本に来た。
・勝海舟「外交余勢」を著す、「流芳遺墨」並びに「追賛
 一話」成り出版、又、「府城沿革」(30冊)編纂成る(
 氷川清話)
.
1890年、歌・流行・世相:
・やっつけろ節、法界節、愉快節などが流行。
・富山県で、附近に綿糸工場ができ綿作を中止。
.
1890年、生活:
・蚊取り線香:金鳥香(上山英一郎が、棒状蚊取り線香を
 発売した)金鳥の渦巻(1902年)
・石鹸:花王石鹸(洋物店の長瀬富郎が、初の国産石鹸の製
 造に成功して、「顔を洗うこともできる高級石鹸」として、
 顔をもじって花王という商品名をつけて売り出した)
・電柱への広告。産業振興にもなり、許可を受ければ、や
 ってもよい(時事)
.
1890年、医・衛生・伝染病:
・北里柴三郎が、ドイツのコッホのもとでジフテリア・破
 傷風血清療法を発見(12月)
  病気の予防や治療に大きな功績をあげる。
・コレラ流行 :コレラで35,227人が死亡した。
.
1890年、科学・教育:
・教育勅語発布:『教育ニ関スル勅語』発布(10月)
 道徳・教育の理念など 、井上毅(こわし)と、元田永孚
 (もとだえいふ)が起草。
・小学校制度が変更。
 尋常小学校4年、高等小学校4年の計8年。
・仁科芳雄が生まれた(1890年~1951年)日本の物理学者。
  岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。
  日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関
 係、加速器関係の研究で業績をあげた。
  日本の現代物理学の父。
・東京職工学校を東京工業学校と改称。
.
1890年、法律:
・民事訴訟法、商法公布(4月)
・刑事訴訟法公布(10月)
・旧民法が制定された。フランス民法(いわゆるナポレオ
 ン民法典)を範にした。民法施行(1898年)
・旧商法が制定された。ドイツの商法を基(破産法などは
 フランスによる)にし、「商ノ通則」「海商」「破産」
 の3部で構成されていた。商法制定(1899年)
・網走刑務所開設:釧路集治監網走分監網走囚徒外役所(
 のち=網走監獄、現=網走刑務所)開設。 囚人1200人、
 看守173人。
.
1890年、災害・防災:
・足尾鉱毒事件。翌1891年、田中正造は足尾銅山周辺の惨
 状を天皇陛下に直訴した。
.
1890年、外国:
・外国勢力(英仏露独など)による中国分割が進んだ。
  1890年頃~1910年頃、19世紀末~20世紀初頭)満州(
 ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・香港
 (イギリス)、雲南省(フランス)・・
・アメリカの人種差別:
  1890年代、アメリカ人作家のスチーブンスンは、大陸
 横断鉄道建設の労務者として、アメリカに連れて来られ
 た中国の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「
 見下げた人種」とされて、扱(あつか)われていると報
 告した。
  また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息
 が詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報
 告した。
・アメリカのインディアンの方々の虐殺:
  1890年、カスター将軍が被(こうむ)った不名誉な敗
 北以降、アメリカ合衆国内は、インディアンの方々に対
 して、激しい報復の怨念が巻き上がった・・、
  この年の12月、第7騎兵隊の兵士たちは、銃を撃ち、ス
 ー族に対し復讐戦をした。
  インディアンの方々の死体は、野に放りっぱなしにし
 て、暴風雨で凍った。
  族長のビッグ・フットの死体も、他の死体とごちゃ混
 ぜにされ、堀った穴に、みんな一緒に、投げ込まれた。
  ゴミを捨てるように・・
  白人アメリカ人たちは、共同墓地だと称した(ウンデ
 ット・ニーの虐殺(先住民への虐殺の歴史)
・アメリカ、工業生産額イギリスを抜き世界一に。
・世界初のメーデーが各国で行う。
・ドイツのビスマルクが辞職。
・マッキンリー関税(高関税による保護貿易)。
・シャーマン法(独占禁止法)
.
.
1890年1月1日、東京朝日新聞が、元日に付録を付けて発行
 した。
  1884年5月11日、星亨が自由党の機関紙として『自由燈』
   を創刊した。
  1888年7月10日、大阪の朝日新聞社が買収し、『東京朝
   日新聞』と改題の上、新創刊した。
  1897年2月1日、前日の八王子の大火に関する報道で、
   業界で初めて、記事伝送に伝書鳩を使用した。
1890年1月18日、富山市に米騒動が起きた。
  富山市で、米価高騰に反発する市民300人が、救済を求
 めて市役所に押しかけた。
  これが、米騒動の始まりだった。
  富山市の貧しい方々が、市役所や資産家に対して救助
 を要請する行動を起こした・・しかし・・、
  この行動が、富山県東部に拡がっていくにしたがい、
 4月から9月にかけて、鳥取、新潟、福島、山口、京都、
 石川、福井、滋賀、愛媛、宮城、奈良の各府県19地点に
 騒動となって行った。
  特に、新潟県佐渡郡相川町(現:佐渡市)の場合は激
 烈で、
  6月28日~7月5日にかけて、鉱夫を中心に(佐渡金山が
 ある)2000名余が蜂起した。
  軍隊1個中隊が出動して、鎮圧しなければならないとい
 う状況だった。
  発端は、大商人の米価つり上げや、米屋の売り惜しみ
 に抗議行動を起こしただけで、一揆とか、打毀しとかの
 騒乱を企てた訳ではなかった。
  その行動の一つが、北海道へ回送する米を積んだ輸送
 船・伊吹丸が、魚津町に寄港した時・・、
  米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の
 積み出しを行なっていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前
 に集まった。
  そし、積み出し・移出の阻止を求めた。
  これが、近隣各地に伝えられ、メディアで報じられ、
 町々でも不穏な空気が広がって行って、騒動的になって
 行った。
  日本では少ない・・この類の事例となった。
  (氷川清話)富山・新潟・鳥取・石川・福島各地での
    米騒動。
  (氷川清話)条約改正につき世論湧く、各地に米騒動
    起る
1890年1月21日、中江兆民、大井憲太郎ら、自由党を結成し
 た(自由党を再興)
  1889年 5月10日、大同協和会(だいどうきょうわかい)
 が・・、
  自由党の前身として、日本最初の自由党が解散した後、
 大同団結運動の一つの形として、この時に、結成された
 ・・しかし・・、
  翌年・1890年1月21日に解散した。
  この時を遡る事・・6年前の1884年に、自由党が解散し
 てからしばらく後の、1886年に、民権派政治家の力を結
 集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。
  1889年に至り・・この運動に沿った組織結成の機運は
 高まっていたが・・、
  この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬
 養毅ら政社派と、
  ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派
 の対立が表面化した。
  このような時、1889年3月22日、大同団結運動の主導者
 であった後藤象二郎は、突如、黒田内閣の逓信大臣とし
 て入閣し、運動から消えた。
  この後藤の離脱の表明を機に、両派は1889年4月になっ
 て決別した。
  そして、1889年5月には、政社派の団体として大同倶楽
 部が、非政社派の団体として大同協和会を発足させた。
  新井省吾・小久保喜七・石坂昌孝らとともに、自由党
 再興を目指した。
  運動を繰り広げるが、各グループ間の対立は解消され
 なかった。
  しかし、翌年・1890年に至り、第1回衆議院議員総選挙
 にそなえて、
  大井憲太郎が、中江兆民、斎藤珪次らとともに・・、
  この時・1890年(明治23年)1月、大同協和会を中心に自
 由党が結成された。
1890年1月23日、新島襄が没した。
  同志社英学校を興した人と知られる新島襄・・、
  アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が
 自由に教えられている国に行くこと」を夢見て決意した。
  そして、憧れのアメリカへと・・、
  備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って行った・・、
  ・・が・・行先のアメリカで、目にしたものは、考え
 抱いていたものとは違った。
  黒人の方々への人種差別の酷さがあった・・それを目
 撃した。
  この明治の時代・日本の西洋観は未熟だった・・未熟
 な憧れだった。
  ただただ、「西洋は何でもよい」という思い込みと、
  「日本はだめだ」という、この時代の
 『無批判な・・幼い・・無垢な世界観・時代観』であっ
 た。
  そしてまた、キリスト教の「すべてを知る事が出来る」
 という時代でもなかった。
  その様な・・すべての情報が与えられる時代というこ
 とではなかった。
  そこに、『思い込み』と『誤解』があった。
  新島襄の後を追ってアメリカに渡った内村鑑三は・・、
 はっきりと・・思い描いていたアメリカ像と、実際の違
 いを・・、その幻滅した現実を吐露した。
  はっきり表現した・・強い人種差別に辟易したと・・、
  スリや窃盗が頻繁に横行しているではないかと・・、
  社会は乱れているではないかと・・、
  「金銭(かね)は、アメリカではすべてのすべてであ
 り(金がモノ言う社会・アメリカ)、
  それはそこでは全能のドルとして礼拝されている」。
  (イエス・キリストが礼拝されているのではないでは
 ないか・・)
  「人種的偏見は、そこでは(アメリカでは)きわめて
 強く、黄色の皮膚とアーモンド形の眼は嘲笑の的(まと)、
 犬の吠える目標として通っているほどである」・・と言
 った。
  黄色い皮膚の日本人も人種差別の対象とされた。
  そして、新島襄も、目の前のアメリカを否定し、ピュ
 ーリタンを夢見た。
  新島襄のアメリカ像は、もろくも崩れていた。
  同志社英学校はつくったけれども・・??
1890年1月25日、婦人記者のネリー・ブライが、72日間をか
 けて単独世界一周を完遂した。
  1888年に、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」
 をモデルとして、実際に、リポーターを世界一周させる
 という企画が決定し、
  ネリーが、そのリポーターに決定した。
  1889年11月14日に、彼女はニューヨークを出発し、
 24,899マイルの旅に出た。
  この時、ネリーの世界一周企画に刺激を受けた他の雑
 誌社が、やはり女性記者のエリザベス・ビスランドを、
  ネリーとほぼ同時に、世界一周旅行(ネリーの東回り
 に対し、ビスランドは西回り)に派遣し、
  ネリーとビスランドは、競争する立場となったものの、
 ビスランドは76日を要したため、ネリーを上回ることは
 できなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教の神は・・居ない・・
.
1928年9月26日、マザーテレサさんは、18歳のこのとき、
  インドの話を聞いて、インドを中心に旅行をしたいと
 思った、
  また、旅行だけではなく現地密着の海外活動をしたい
 と思い立った。
  若い女性らしい思い立ちだった・・、
  今、キリスト教の広告塔にされているマザーテレサさ
 んは、あらゆる美化がなされているが・・
  初め・・この時・・
  マザーテレサさんのこの行動は、この様な広告塔の大
 きな話になるという訳では、まったく、当然、なかった。
  18歳のマザーテレサさんは・・、
  インドで・・、
  ヒンズー教徒の方々が・・行っている・・、
  『弱者救済の運動とその行動』の中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・、
  弱者救済活動を行なった。
  その行為が、そのことが・・、素晴らしい業績となっ
 ていますが・・、
(注):
  世間には・・
  キリスト教のプロパガンダ・嘘宣伝だけが・・
  あまりにも声高に・・叫ばれているため・・、
  真実が・・隠されています。
  初めて、上記の文を・・読まれた方は・・
 驚かれたと思いますが・・、
  「真実は・・上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・、
  脚光を浴びた頃、その事を知り・・、マザーテレサさ
 んに着目し・・、キリスト教の・・「広告塔」にしまし
 た。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に・・なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを・・、
 国葬にして・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」・・と、表明されたこと
 でした。
  マザーテレサさんは・・、キリスト教の神の存在に悩
 んでいました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに・・長い期間、悩みを打ち明
 け続け・・、
  そして、相談をし続けていました。
  その事実は・・隠されていました・・が、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」・・続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』・「真実」が公表されました、キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・
  今、アメリカに・・、
  「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは・・、
  キリスト教の『神の不存在を主張』し・・、
  成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分や
 って行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違う・・と、
 主張する・・方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
  その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、
  そう考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が・・人類にとってよくないこと・・よくないもの』・
 ・と、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・、
 この様な、行動が取られたのだと言えます。
.
  (参考)神の死の神学:
  ニーチェの言葉である・・「神は死んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・、
  現代社会において神は・・、人間に・・、
  『リアルな存在ではない』・・・
 ・・という意味で、
  「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、
  アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニアンは・・、
  『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァハニアンは・・その中で・・、
  無神論を・・『アメリカの大衆の生き方である』・・
 と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
  エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・、
 異なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で・・、
  人間の主体性が、そして、自律性が・・とりもどされ、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・、
       (wikipedia・その他を参考にして記す)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive