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2017年02月22日

(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)

題:(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月3日、嘉仁親王、立太子式典が挙行された。
  嘉仁親王(よしひとしんのう、大正天皇陛下)が、立
 太子礼を行われた。
  東宮立太子(氷川清話)
  因みに、即位礼は、1915年(大正4年)11月10日、於:
 京都御所だった。
1889年11月4日、横浜共同電灯会社が設立された(7月説あ
 り)
  1889年7月に、横浜共同電灯会社(後に横浜電気と改称)
 が県の許可を得て設立され、初代社長に高島嘉右衛門が
 就任した。
  「関内及び外国人居留地」を営業区域として許可を得
 たが、英国人商会の競合があり居留地の売電が進まず、
 関外の営業権を持つ会社も吸収合併するが、苦戦が続く。
  1890年、横浜共同電灯会社が、発電所の建設や電線の
 架設など開業の準備を整え、
  1890年9月に、試験送電を始めた。
   試験送電は、事務所内の電灯を点灯してのデモンス
   トレーションが行われた。
   当初の出力は100キロワットの直流式、灯数は700灯
   ほどであり需要は少なかった。
  1890年10月から営業を開始した。
   初めて電灯を点火した。
  1896年に、居留地内の英国人経営の電灯会社経営権を
 買収した。
  競合が解消し、収益性が確保できるようになった。
  この時、英国人商社の電灯線は、地中埋設線による電
 力提供を行っていた(電柱の無い方式)。
  1903年12月30日、横浜共同電灯会社が、高島町に発電
 所を竣工させた。
  発電所は、エジソン直流三線式発電方式を採用した石
 炭火力発電所。
  1921年に、東京電力の前身である東京電灯と合併した。
  因みに、当初、競合する電気事業出願者があったが、
 再三に渡る官庁に対しての許可の督促や競合者との折衝
 を経て営業許可を受けるに至っていた。
1889年11月7日、代理公使・近藤直鋤が、朝鮮政府に対して
 咸鏡道防穀令施行は、通商章程違反と抗議し、損害賠償
 を請求した(1891年12月説あり)
1889年11月15日、門司、四日市の両港が開港した。
  北九州の工業力と結びついて、大陸貿易の基地となり、
 最盛期には、1ヶ月に200隻近い外航客船が入港した。
  国内航路を含めて年間600万人近い乗降客となった。
  明治の初期、外国貿易は、開港と朝鮮貿易のための特別
 貿易港に限られていた。
  石炭などの特定の産品を輸出するためには「特別輸出
 港」という制度が導入され、
  北九州の筑豊は石炭の主産地であり、取れた石炭は「
 川ひらた」「五平太」などと呼ばれる川舟を使用して、
 遠賀川及びその支流を利用して水運輸送され、若松港か
 ら積み出されていた。
  しかし、若松港は水深が浅く、大型船の入港には不向
 きであった。
  北部九州の港が、特別輸出校に指定されれば、石炭輸
 出が可能となり、地域経済の発展も期待できる。
  小倉港はじめとしたその他の北部九州の港も、外国貿
 易を行なうには問題があり、大型船が入港できる港湾の
 整備が求められていた。
  門司港は、水深が深くできた。
  また、本州と九州の結節点に位置し、石炭輸出だけで
 なく物流の面でも利便性が高かった。
  鉄道で、九州各地に輸送できるという地の利があった。
  四日市港は、今の四日市市中納屋(なかなや)町で回船
 問屋を営んでいた稲葉三右衛門 は、改修の必要性を感じ、
 三重県に働きかけましたがみとめられず、自分の財産を
 なげうって四日市港を改修する工事を始めた。
  この努力によって、1884年には、現在の四日市港の基
 礎ができていた。
  そして、この年に、外国貿易が出来る港としての開港
 場(かいこうじょう、特別輸出港)となった。
  そして、日本国籍の船舶として外国貿易が初めて行わ
 れた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実は・・帝国主義の国だった・・アメリカ・・
.
1890年代、バッファロー(アメリカ・バイソン)が、アメ
 リカの大地から姿を消す状態になった。
  絶滅寸前となった。
  千頭を割った(約750頭というデーターがある)。
  白人のキリスト教徒が現れる前のアメリカバイソンの
 生息数は、何と約6000万頭も居たという。
  99.9987パーセントのアメリカバイソンは、殺してしま
 ったというアメリカ人だった。
  0.0012パーセントしか生き残っていなかった。
  日本に鯨のことでとやかく言う資格はない。
  更にひどい事に、この様にした行為の原因は、このバ
 イソンは、アメリカインディアンの方々、この先住民の
 方々の大切な食料だった。
  アメリカインディアンの方々の絶滅作戦の一環でこの
 バイソンを射殺しまくったのだった。
  非人道的な極悪行為である。
  そして、そのバイソンを食べる訳でもなく、そのまま
 放置した、腐るがままにしたというから、動物愛護の話
 もあったものでもない。
  1870年代中期の写真というのがあるが、バイソンの頭
 骨を積み上げた山の写真がある。
  その山の頂上でアメリカ人が立っているが、この関係
 者が集めただけでもこのような山のようにバイソンが殺
 されたことを示している。
  20メートルの高さがあろうかという巨大なバイソンの
 頭蓋骨の山である。
  本当に可哀想という心が起きる写真である。
  今現在、そのアメリカ・インディアンの方々が絶滅に
 瀕(ひん)している。
  非人道的な話この上ない卑劣な話である。
  衣食住のすべてを、バイソンに支えられていたアメリ
 カインディアンの方々だった。
  長い長い歴史の中で、このように暮らしを育んで来た
 アメリカ・インディアンの方々のすべてを奪い取って、
 自分だけ良ければ良いというキリスト教の教えに洗脳さ
 れて、この様な最悪行為をしたのだった。
  アメリカ政府がその行為を率先して奨励してやったと
 いうのだから卑劣である。
  博愛のかけらもないキリスト教徒のアメリカ人の仕業
 (しわざ)だった。
.
1890年12月29日、ウーンデッド・ニーの虐殺、
  アメリカのサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミ
 ネコンジュー他のスー族インディアンの種族に対して、
 アメリカ軍の第7騎兵隊が行った民族殺戮、及び、民族
 虐殺。
  この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニーの戦い」と
 呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には名誉勲章まで授与さ
 れている。
  しかし、インディアン側では、これを「ビッグ・フッ
 ト一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争
 の象徴にもなっている。
  そして、日本では盛んに国づくりが行われている頃、
 アメリカでは卑劣なインディアンの方々に対する非人道
 的行為が、盛んに行なわれていた。
  アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々と、
 アメリカに新しくやって来た占領者のイギリスなどから
 の白人たちが、盛んに戦いそして虐殺行為が行われてい
 た。
  そして、この年に、忌わしい白人による大虐殺が、イ
 ンディアンの方々に対して行われた。
  そして、駆逐されたアメリカ・インディアンの方々は、
 可哀想に、この後、広大な領土を奪われて、狭い保留地
 に閉じ込められる。
  インディアンの方々が持っていた固有の文化もことご
 とく破壊された。
  アメリカのキリスト教の白人たちは、自分たちのもの
 が良いのだと、自分たちのものを押し付けた。
  この様な名分のもとに破壊を行なった。
  ことごとく理屈抜きの「キリスト教の神の義の下の行
 為で正しいのだ」とされた。
  卑劣な解釈においての卑劣な行為だった。
  尊い命をはじめ、すべてが、インディアンの方々は奪
 われた。
  アメリカ・インディアンの方々は、この強制に対して
 も戦った。
  自分たちの持つ文化を守る抵抗行動をして行った。
  基本的人権が奪うという遅れた行為の中にキリスト教
 に洗脳されたアメリカの白人たちは居た。
  『民族の自決権』なども完全に奪われた状態の中に置
 かれたアメリカ・インディアンの方々だった。
  アメリカはこの様な行為に対して謝罪していない。
  インディアンの方々が虐殺されて、南ダコタの雪の中
 に横たわっている記録写真がある。
  悲惨な事ではないか。
  子供たちも大勢(おおぜい)いる。
  100万人以上いたというアメリカ・インディアンの方々
 は、そのあらかたが殺されてしまった。
  4分の3の方々は確実に殺戮された状態だった。
  このウーンデッド・ニーの戦いの抵抗が最後の抵抗と
 なった。
  アメリカの最新兵器を持った軍団のやりたい放題の殺
 戮だった。
  名誉も何もない、卑劣な行為のみが残った。
  この後、白人たちが勝手に決めた居留地にインディア
 ンの方々は閉じ込められた。
  そして、更に卑劣な事は、この後、「ドーズ法」を作
 って、残り少なくなったインディアンの方々の土地をさ
 らに奪った。
  負の世界遺産として登録せよ!
  負の記念碑を建立せよ!
.
1942年9月、アメリカの航空母艦「ワスプ」が沈没した。
  「ワスプ」と言えばWASPである。
  これは、白人・アングロサクソン・プロテスタントで
 ある。
  アメリカは、自国を「民主主義の国だ」と自画自賛す
 る。
  そして、民主主義を根付かせると言って・・腕力で、
 戦争で・・「その言葉を掲げ」て、卑劣な事をする。
  どこが・・民主主義国だ・・と、糾弾したい。
  帝国主義国そのものではないか・・と、言いたい。
  アメリカの民主主義と言ったって、黒人の方々が入っ
 ていない民主主義・・、
  そんなアメリカなのだ・・、
  ズーット・・悪い事ばかりして来た・・国。
  良いことをした年代はあったのか・・?
  『すべての人間は平等に創られている』・・と、アメ
 リカの独立宣言書に書かれているが・・まったくの『嘘
 である』。
  アメリカは、ネイティブ・アメリカン(アメリカン・
 インディアン)の先住民の方々を殺しまくっているし・・、
  結局、WASPである。
  WASPの価値観で動いている国だ。
  かつての移民たちである。
  そのWASPが、今・現在、大多数の座から降りよう
 としている。
  これまで・・嫌というほど・・マイノリティの方々を
 虐(しいた)げて来たが・・自分たちがマイノリティへ
 の道を進んでいる。
  WASPたちは焦(あせ)っている。
  WASPは、「ホワイト・アングロサクソン・プロテ
 スタント」の英語( White Anglo-Saxon Protestant)の
 頭文字をとった略語。
  白人・アングロサクソン人種・キリスト教プロテスタ
 ントの宗教者たちである。
  殺戮と戦争の限りを尽くして、アメリカを奪った。
  マイノリティーの方々は殺されて、消えて行った。
  因みに、ワスプ(USS Wasp, CV-7) というアメリカ
 海軍の航空母艦は・・、
  航空母艦の名前にするぐらいのWASPなのだが・・、
  この名のアメリカ海軍におけるワスプの名を受け継い
 だ艦は8隻ある・・こんなに重きを置いている・・、
  この8隻目の艦は・・1942年9月、日本の潜水艦『伊-19』
 の魚雷攻撃を受け、大火災の後に沈没した。
.
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
  投下時間は午前8時15分だった。
  広島市の人口の35万人の半分近くの16万6000人の方々
 が亡くなった。
  避難所へたどり着いた方々も、また、担ぎ込まれた方々
 の70%~80%が亡くなった。
  被爆した方(小学生の女性、Kさん)は、その時の思
 い出を語る・・、
  櫛で、私の頭の毛を梳(と)いてくれたお姉さんたち
 の手、
  そのすべての方の手や唇はくっついていました。
  20歳代の女性の方たちでした。
  原爆が落ちなかったら、エノラ・ゲイが落とさなかっ
 たら・・、
  このお姉さんたちの敵(かたき)を取りたいと思いま
 した。
  その後に、そのエノラゲイの副操縦士に会う機会があ
 りました・・、
  アメリカのテレビ局で・・会った時は、「飛行機に乗
 ってた奴だ」・・と、思いました。
  私の父は、被爆したその様な女学生を見た時は、「あ
 ー、すまない」と思ったと・・言いました。
  父は・・キリスト教国・アメリカが落とした・・、
  アメリカは、謝らなければいけない・・と、父は言い
 ました。
  ニューヨークの病院が、無料でその女性の方たちを治
 療すると申し出ました。
  しかし、お姉さんたちは、軍用機に乗りたくないと思
 いました。
  アメリカのテレビに出る事になり、1956年5月11日、ア
 メリカのテレビ局のホールに入った。
  Kさんは、その時、5年生(11歳)だった。
  副操縦士のロバート・ルイスが居た。
  私は・・そのおじさんをにらんだ。
  午前2時45分:テニアン島を出発したと言った。
  広島・長崎・小倉が目標だったと言った。
  そして、投下後、確認のため、投下した広島を機上か
 ら見た・・その時・・、
  その時、「神様、私たちは何ていうことをしたんだ」
 と思いました・・と・・言った。
  広島は・・消え・・て・・い・・た・・、
  涙があふれた。
  それを見てショックを受けた・・副操縦士は言った・・
  その状況を語っていた「鬼だと見ていた副操縦士」か
 ら涙が出ました。
  私は正しい人と思っていた・・が、しかし・・心は変
 わった。
  少し経って・・旧ABCC(原爆傷害調査委員会)の
 『屈辱的な調査』を受けた。
  それは、原爆投下後の状況(原爆の効果)を調べたア
 メリカの研究所だった。
  多感の女の子を裸にしてまでして、色々、調べた研究
 所だった。
  屈辱を受けたその場に、研究所の場所に、当分、来れ
 ないという・・場所に・・なっていた。
  それほど・・Kさんの心を・・傷つけていた。
  忌まわしい場所(研究所の講堂)となっていた。
  アメリカの研究所は・・そこまでした。
  極悪行為の後の・・アメリカの指示した・・調査だっ
 た。
  その屈辱は、その後、忘れられない事となった。
  広島に住みたくないとまで思った。
  被爆の重荷を背負いたくなかった。
  しかし、被爆者と分かり、婚約が破棄となった。
  婚約者の・・婚約相手の叔父さんが医者で、その被爆
 の悪さを知っていて、婚約相手に伝えられた。
  原爆投下をした者・・テレビ局で会ったルイスに会い
 たかった。
  ルイスに会った時、ルイスは精神病院に入っていた。
  彼は、アメリカのテレビに出たのを、アメリカは、彼
 を非難した、彼は非難を受けた。
  Kさんは、日本に帰って、彼の死亡記事を見た。
  爆弾投下から、彼は心に重みとなって心を病んでいた。
  Kさんは、結婚した。
  虎の門病院で妊娠して居るのが分かり、「大丈夫です」
 と言われた。
  しかし、流産した。
  養子を引き取ることにした。
  今、2人の娘がいます。
.
2017年1月30日、この日の新聞広告に・・、
  (読売新聞、2017年1月30日)の広告に・・、マックス・
 フォン・シュラー氏という元アメリカ海兵他の兵士だっ
 た人が以下の事を言っている・・、
  ・マニラの戦いでは、10万人ものフィリピン人が死亡
   したが・・、
  アメリカ人は、強暴な日本兵がレイプや殺人を犯した
 からだと言います。
  実際はアメリカ軍の砲爆撃によるものでした。
  ・アメリカのフェミニストは、慰安婦は性奴隷と断面
 します。
  アメリカの歴史学者が、この考え方と違う事を書けば、
 職を失います。
  彼が止めるまで大学に圧力を掛けます。
  ・アメリカ人は、プロパガンダが巧みです。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)について「日本人は、
 腐敗した指導者たちに騙されていた」とアメリカ人は言
 います。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだ事実を絶対にア
 メリカ人は認めません。
  ・真実を語ることは、それは『ヘイトスピーチ』では
 ありません。
  本「アメリカが隠しておきたい日本の歴史」
  出版社:ハート出版
  広告コピー:海兵隊出身の著者が、アメリカの嘘を告
 発する。
.
2017年2月12日、中国を出ていく人たち
  この日の読売新聞を参考に記すと・・、
  トランプ米大統領の移民政策が、世界の衝撃となって
 いる様に、今、中国でも「中国を出ていく移民」が話題
 となっているという。
  身近な人が、いきなり海外に移住するという現象が中
 国の人々を騒がせているという。
  1例・・、最近、中産階級層の北京の中年男性へ、スマ
 ートフォンに友人からメッセージが届いたが・・、
  それを読んで仰天したという。
  「今、アメリカだ」と・・移民して行った・・と。
  やはり、昨年にも、突然、アメリカから連絡があって、
 幼稚園のPTA仲間だった。
  資金を作って、移民をする人が身の回りで起こってい
 るという。
  週刊誌の人気時事漫画も、移民熱を取り上げている。
  北京の著名な移民コンサルティング業者の総裁は・・、
  「確かに、移民はどんどん増えています」と笑顔で言
 う。
  大金持ちの投資移民が増えただけでなく、若者も海外
 へ出て行くという。
  近年、欧州諸国などで、中国人移民へのハードルをグ
 ンと下がり、家1軒を買うほどの元手で、永住権を手に
 出来る国が増えたことも・・急増の要因だという。
  北京や上海の不動産を売れば、問題なく手が届く。
  移民の主な動機は、子女の教育、大気汚染など劣悪な
 環境からの脱出、移民先の手厚い社会保障への期待など
 ・・。
  元々、中国は、華僑・華人を世界に出してきた国。
  中国経済が非常に良かった2012年でさえ、約14万人が、
 人気のアメリカ・カナダ・オーストラリアの永住権を取
 得したという。
  今、中国は、資産家層が増えて、経済減速が長引いて
 いる、そこで、移民をするという人が増えているという
 状況。
  中国が気がかりとしているのは、知識人の移民が増え
 ていること。
  その人たちは、中国の国家の理性や、寛容さが、喪失
 していくことの暗さに、行動の原因があると。
  自由、民主、人権などの「西側的な価値観」を壊す習
 近平政権の思想矯正運動がある。
  1月、毛沢東をインターネットで批判し、揶揄(やゆ)
 した大学教授が、地方幹部らの毛沢東支持者に攻撃され
 た末に、相次いで解任された。
  数知れない知識人が迫害された文化大革命(1969年~
 1976年)を連想させる事件が起きた。
  中国共産党の利益の前には、知識人などは簡単につぶ
 されるという国だった。
  ある知識人は、スマホに「あなたは来ないのか」とい
 う海外からのメッセージを見て、自分の資産額を考える
 という中国となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive